大國魂神社【6/6】「仕事人の神社」東照宮・北を向く天神社、御旅所。府中競馬場のアルバイトの想い出

[第661回] あけおめ6
   府中市宮町の大國魂神社では、拝殿に向かって左側に社務所があり、御朱印はそこでいただけます。念のため、お断りいたしますが、「いただけます」なんて言っても、タダでかすめとるわけではなく、300円納めます。
拝殿・本殿の左側(東側)に境内摂社・末社として、手前から、水神社・松尾神社・巽神社(たつみじんじゃ)の3社、右側(西側)に授与所があって、その右(西)に、住吉神社・大鷲神社があり、その奥(南)に東照宮があります。
※ 大國魂神社HP 「境内のご案内」https://www.ookunitamajinja.or.jp/meguri/

  水神社は、ホームページの「水神社」https://www.ookunitamajinja.or.jp/meguri/mizu.php を見ると、「水波能売命(ミズハノメノミコト)」という水の神さんかと思われる名前とともに、なぜか、京都の上加茂神社・下加茂神社の祭神の名前が3柱でています。

  その後ろの松尾神社は、大国神社HPの「松尾神社」https://www.ookunitamajinja.or.jp/meguri/matsuo.php には、≪寛政12年(1800)武蔵国の醸造家の懇請により京都の松尾大社より勧請された神社である。鳥居は文化4年(1807)に建立されており、≫ ≪御祭神である大山咋命(オオヤマクイノミコト)は、太古より醸造の守護神であると共に開拓の粗神として御神徳高き神で、酒、醤油、味噌、麹等の業者及び開拓関係者の信仰厚く霊験顕著で有名である。昭和31年(1956)に東京都酒造組合により現在の覆屋が奉納された。≫とあります。

  巽(たつみ)神社は、いったい何の神さんなのかというと、大國魂神社HPの「巽神社」https://www.ookunitamajinja.or.jp/meguri/tatsumi.php によると、祭神は≪市杵嶋姫命(いちきしまひめのみこと)俗に弁財天≫だそうだ。 なぜ、巽神社というのかというと、≪元は市川にあった市神社で、市場にはその守護神即ち市神社(俗に弁財天)祀った社があった。その社を当神社の御本殿から辰巳南東の方向に遷座されたので巽神社という社号がついた。≫ということらしい。 ≪花柳界の信仰が厚い。≫という。
  ≪元は市川にあった≫という「市川」とは千葉県市川市なのか、山梨県の市川大門町なのか。東京都府中市に「府中市市川」という地名はありません。それとも、そうではなく、これは「市場」を「市川」と間違えて入れた入力ミスか?  大國魂神社のすぐ北を甲州街道が東西に走っており、大國魂神社の北の大鳥居から北に伸びる馬場大門欅通りはそのまま国分寺街道となり、交通の要所であったと考えられるので、この近くに市場ができたとしても不思議はないので、その市場の神社だったか。

   右側(西側)の「住吉神社・大鷲神社(すみよしじんじゃ・おおとりじんじゃ)」は、住吉神社は大阪市住吉区の住吉大社、大鷲神社は大阪府堺市の大鳥神社より勧請した神社らしい。 「大鷲神社」は普通に読めば「おおわしじんじゃ」ではないかと思うが、大國魂神社HPの「住吉神社・大鷲神社(すみよしじんじゃ・おおとりじんじゃ)」https://www.ookunitamajinja.or.jp/meguri/sumiyoshi.php では「おおとりじんじゃ」と読み仮名が書かれている。 「おおとりじんじゃ」と読んでほしいなら、「大鳥神社」もしくは「鳳神社」とすればよいのではないか・・なんて思ったりもするが、何か事情があったのかもしれん。

   そして、「住吉神社・大鷲神社」の後ろ(南)に位置するのが、「必殺仕事人の神さま」東照宮である。↓
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※ 《YouTube-必殺仕事人 新・Ⅲ・Ⅳ・Ⅴ~何度も聞きたくなるサントラ~》 https://www.youtube.com/watch?v=P6hq0sr8fpI
  《YouTube-月が笑ってらぁ 藤田まこと》https://www.youtube.com/watch?v=DWK4qq1QQk4
 ここに、ある程度のお金を添えて、
 「わての恨み、晴らしてくれえ。仕事人~!!!」
と言って訴えれば、晴らせぬ恨みを晴らしてくれる・・・・かな・・・。 ゴルゴ13 と違って、貧乏人には比較的安い金額でも請けてくれることがあるという話があるようだが・・・・・・・。
とりあえず、賽銭、入れてきました。多めに。

  大國魂神社HPの「東照宮」https://www.ookunitamajinja.or.jp/meguri/toshogu.php によると、≪元和4年(1618)二代将軍秀忠の命によって造営された。≫ということで、徳川家康が、大國魂神社の西、JR「府中本町」駅付近に御殿を建てて鷹狩りをしたことがあり、家康の遺骸を久能山から日光に移す際に、府中で一泊したことから、ここに東照宮が建てられたらしい。 栃木県佐野市の佐野厄除け大師(春日丘山惣宗寺)にも、家康の遺骸を久能山から日光に移す際に佐野で一泊したということから東照宮がある(http://www.sanoyakuyokedaishi.or.jp/picture.htm)。 東照宮の建物は佐野の惣宗寺のものの方が大きい・・・・が、御本社は相当の人出で混雑していても、この東照宮のあたりはひっそりと静かであり、仕事人に依頼するには、こちらの方が向いているかもしれない・・・・。 ≪平成26年(2014年)に市指定有形文化財に指定された。 ≫そうな。






   「境内のご案内」https://www.ookunitamajinja.or.jp/meguri/ を見ると、大國魂神社には、境内の摂社末社と別に、境外にも、国府八幡宮・瀧神社・天神社・坪宮(つぼのみや) という境外摂社末社があるらしい。
   その天神社に行ってみました・・・が、「天神社」とは言っても、冤罪を晴らす神さま・怨念を晴らす神・菅原道真 ではなく、大國魂神社の境外摂社の天神社の「祭神」は少彦名(スクナヒコナ)だそうです。

   大國魂神社には、北側の正面のほかにも出入口が何か所かあります。東側には、随神門の北の東と、社務所の南の東に出入口があります。 その社務所の南側の東の出入口から東に出ると、「府中宮町三丁目アパート」という集合住宅があり、この東側を南下しますと、小さい公園があり、そこを左折、東に進むと、左側に小山があり、祠がいくつかあるのが見えてきます。↓
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↑ この小山の上と下とに祠が見えます。
  とりあえず、下の方の祠に行ってみました。↓
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↑ 左に鳥居があって鳥居の奥に社。 その右に覆屋があってその中に祠があります。 さらにその右にも、石碑なのか石で刻まれた神像なのか墓なのかよくわからない石が建っています。
  左の鳥居の奥の祠には何も書かれていません。 右の覆屋の中の祠には、「妙顕善神」と書かれたお札が見えました。 「みょうけん」と言っても大阪府の能勢の妙見、あるいは千葉市中央区の千葉神社で祀られている「妙見」ではなく、「妙顕」という字で、「妙顕善神」と書かれていました。 付近に案内図があったので見ましたが、この小山について「妙顕神社」と書かれていました。インターネットで検索すると、妙顕寺という寺が全国にいくつかあり、それらは日蓮宗の寺のようですが、「妙顕善神」とはどういう由緒の神さんなのでしょうか。

   小山の上に社殿が見えるので階段を登って上がってみました。小山の上の社はけっこう大きく、日吉神社のようです。↓
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( ↑ 鳥居の額には「日吉神社」と書かれています。 )
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   ・・・・で、天神社はどこにあるのんだあ???  階段を下りて見まわしても、小山の下の「妙顕善神」とその左の祠、右の石碑くらいしか見当たりません。 日吉神社の後ろあたりにあるのだろうか? 日吉神社は、日吉造りではなく、拝殿+幣殿+本殿の3部形式の社殿になっていますが、周囲に天神社は見当たりません。
   南側の道から階段を何段も登って日吉神社に上がったのですが、日吉神社から横(西側)の道に出る出入口もあります。 そこから西側の道に出て、少し道を北に登ってみましたところ・・・・

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↑ ありました。 日吉神社と背中合わせのように、北を向いて建っている建物がありました。左の白い建物は公民館のようです。 手前にかなり汚れ傷んだポスターが掲げられていますが、たしか、「全国天神社会」だったか書かれていたと思います。 これでしょう。
  左側の大きい方の建物は、これは覆屋で、その中に天神社が入っているようです。 しかし、そうなると、右の小さい祠は何なのだろうか?




↑ 「 i 」マークが、天神社。 天神社と日吉神社は背中合わせにあったようです。
   大國魂神社HPの「天神社」https://www.ookunitamajinja.or.jp/meguri/ten.php によると、
≪ 競馬場に面して小高い所にあり、そこを天神山といい欅の巨木数本がある。また別名丸山ともいい、その西北隅、日吉神社の北側に鎮座し、一間半四方の覆屋をもつ小社が北面する。 北面の末社としては本社と共に数少ない社である。天神山は競馬場が移転する以前、もっと東方に延び、現在の倍以上の岡であった。一説に国造の墳墓跡ともいわれている。≫
≪ 新編武蔵風土記稿に「除地二段、小社、祭神少名彦命」とある。この神は大國主命と義兄弟となって国土経営に当たった神として、国府に多く祀られている。≫
≪天神山の東方から南方にかけて天地(天神の転訛)または天神下などという広い範囲に亙る地名があり、もとは相当の信仰があった。ここで近藤勇の天然理心流4代目襲名の野試合が行われた。
と出ている。思わぬところで、近藤勇がでてきました。
  この小山を「天神山」と言うといい、「天地」「天神下」という地名があるというのですが、地名は本来「天神」ではなく「天地」か何かで、この社は天神社ということでもなく、あくまで、少彦名(スクナヒコナ)を祀った社で、「天地」の小山にあったことから、「天神」が結びついた・・・という可能性もありそうな感じがしないではありません。 さらに言えば、大國魂神社からして、祭神はオオクニヌシと習合しているとはいえ、もともとは、「大國魂大神」、あくまで「武蔵の国の守り神」であったということですから、ここの祠が祀っている神も、もともとはスクナヒコナではなく、地元の神で、大國魂神社の主祭神がオオクニヌシと習合したことから、この祠の神も「スクナヒコナ」と習合し、さらに、小山の付近の地名が「天地」かそういう名前であったことから、「天神社」になった・・・という可能性はありそうな感じがしないでもない。

   大國魂神社HPの「境内のご案内」https://www.ookunitamajinja.or.jp/meguri/ を見ると、この天神社は大國魂神社の摂社もしくは末社になっているのですが、背中合わせの日吉神社や小山の下の「妙顕神社」は大國魂神社の摂社末社にはなっていないようです。馬頭観世音となると、これは仏教、お寺の領域になります。「妙顕」という名前は日蓮宗のお寺によくある名前のようです。日吉神社の日吉といえば、比叡山延暦寺のふもとの日吉に日吉大社があり、延暦寺と結びつきが深い・・となると、お寺に近い馬頭観世音、日蓮宗とつながりが深い可能性が考えられる「妙顕」、天台宗の延暦寺とのつながりが考えられる日吉神社は、古くからの地元の守護神の大國魂神社とは分けて、そうではない「天神社」は境外の摂社なのか末社なのかにした・・ということなのでしょうか・・・?

   今現在の社は、日吉神社の方が建物は大きいのですが、小山の名前は、「天神山もしくは丸山」だという。 ↑の写真の左の覆屋がある方が天神社だとすると、そうなると右側の小さい方の社は何を祀る社なのだろう?





↑ 「旗」マークが、小山の南側の「妙顕善神」の祠、妙顕神社で、その右の石碑は、馬頭観世音菩薩馬霊塔のようです。 そう言えば、このすぐ南は「東京競馬場」。名称は「東京競馬場」ですが、俗に「府中競馬場」と言いますよね。だから、馬霊塔なのでしょうか。もっとも、馬頭観音というのは、観音にも様々な観音さまがいらっしゃって、馬の頭のような怖い顔の観音さまが馬頭観音ですが、だからといって、別段、馬を守護する観音というわけでもなかったはずですが、何らかの縁があるだろうということなのでしょうか。

   「天神社」の西の道を北に登り、西に行くと、大國魂神社の随神門の北の東側の出入口に行きます。↓
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西にではなく東に行くと、京王帝都電鉄競馬場線「府中競馬正門前」駅に至るようです。 「府中競馬正門前」駅から京王競馬場線に乗って「東府中」駅まで・・というのも乗ってみたい気持ちもあったのですが、今回は、「御旅所」に行ってみたいと思い、西に進みました。


  西に進み、随神門の北を西に行き、大国魂神社の西側の道を北に行き、都道 号を西に行きましたところ、 「御旅所」が見えてきました。↓
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( ↑ 「 i 」マークが、御旅所。 )
↑ けっこう、クルマの通行量は多いので、前にクルマが来ていない時に撮ろうとしてもなかなか難しい。
  大阪市北区の阪急「梅田」駅のすぐ東にある綱敷天神社の御旅社は、「御旅社」とはいえ、御旅社に決して小さくない社があり、御旅社の中に御旅社の摂社もある一人前の神社ですが〔⇒ [第263回]《綱敷天神社 御旅社(大阪市北区茶屋町) 参拝。―冤罪を晴らす神さま・怨念を晴らすお百度参り(19)》https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201405article_11.html 〕、府中市の大國魂神社の「御旅所」は、門の内側に何があるのかというと、小石が敷いてあるだけで内側には特に何もありません。
   この「御旅所」は、
≪ 大國魂大神が降臨したと伝えられる地で、くらやみ祭で、神輿渡御が行われる。近くの野口家に迎えられ接待を受けたと伝えられ、この故事から現在も野口仮屋(のぐちかりや)の儀と呼ばれる接待神事が行われる。≫
( 青木康編集、青木康・平川綾子執筆協力『日本の神社』2014.5.18.宝島社 TJ MOOK )
≪ ・・・鎌倉街道と旧甲州街道との交叉点にあたる。5月5日の夜、八基の神輿渡御があって献饌、奉幣等神秘の儀式を行う。≫(大國魂神社HP 「御旅所」https://www.ookunitamajinja.or.jp/meguri/otabisyo.php )
という場所で、 8基のもの神輿がここに来るということは、それほど広いわけでもないこの敷地にうかつに何か建物を建てたのでは、神輿が入れなくなるから、小石くらい敷いて内部に建物はない状態にしておかないといけないのでしょう。

  ↑の写真を見ると、左寄りに赤い門があり、その右にもうひとつ、何かあります。門が2つあるのでしょうか。
右側の方を見てみましょう。
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↑ これは何なのか?  青木康編集、青木康・平川綾子執筆協力『日本の神社』(2014.5.18.宝島社 TJ MOOK)には、
≪ (御旅所に)併設されている府中高札所は、法度や掟書、罪人の罪状などを公開した掲示板だった。≫
と出ています。現地での説明書きには、「府中高札場(ふちゅうこうさつば)」と出ており、「東京都指定旧跡」になっているそうです。
≪ ここの六枚くらいの高札がかけられていた≫と言われているらしい。江戸もののテレビドラマとか劇画漫画とかで、高札の前に町の人間が群れをなして見て、「なんだなんだ」とか言ってる場面がありますが、あれは、テレビドラマの作者とか漫画の作者が創作した話ではなく、実際にそういう「高札場」があったということなのですね。

   大國魂神社のすぐ東に「東京競馬場」、俗に「府中競馬場」と言われる広い競馬場があります。1980年代前半、その府中競馬場に除草剤を散布する作業に、アルバイトで行ったことがあります。 板橋区にあったW商会というその会社は、国鉄の線路・変電所、それに府中競馬場など競馬場、それに横須賀の米軍基地に除草剤を散布する仕事をしていました。米軍基地の中なんて、一度、行ってみたいような行ってみたくないような・・・でしたが、JR横須賀線「田浦」駅に薬剤を積んだトラックを置いて帰宅し、翌日は米軍基地に散布の予定だったのが、どういうわけでか予定が変わって他の所に行ったことから、私は米軍基地の散布には行きませんでしたが、国鉄の線路の上、それも踏切の部分ではない所を歩くなんて経験はやりたいと思ってもめったにできるものではないので、「いい経験」だったのかもしれませんし、競馬場なんてのもスタンドから見るのではなく馬が実際に走る所に入る経験も入りたいと思っても機会がなければ入れるものではないので「いい経験」だったのかもしれませんが、しかし、同じ大学生なのに、片方で、アルバイトといえば、家庭教師くらいしかやらない人間がいて、それもやらない人間がいて、そういうヤツというのはけっこういい生活をさせてもらっていて、他方において、なぜ私だけがこんなことをしなければならないのかと思い、人間の人生というのはどう考えても不公平だと思いました。
   卑劣な妨害を受けて、実際問題として「格下の大学」である慶應大学に入学させられてしまった最初の夏休み、父が「あんた、あしたから、うちの会社の工場にアルバイトに行くことに、“決めてきた”」と言うのでびっくりした。「決めてきた」と言うのです。「もし、アルバイトに行きたいというのなら、うちの会社の工場なら、頼めるよ」と言うのならわかります。そうではなく、「学費と生活費を出すのが苦しいので、年間◇◇万円くらい、アルバイトで稼ぐようにしてもらえないか」と言うのならそれもわかります。しかし、そうではなく、私が「年にいくらくらいアルバイトで稼いでほしいというのを先に言ってもらえないですか」と言っても、父は「わしは、あんたにいくらか出してもらいたいなどとは毛頭考えてない人間やねん。わしは聖人やねん。」と言うのです。「それなら、別にアルバイトに行く必要はないですね」と言うと、「甘ったれておってはならぬぞ、チャンコロ。甘ったれるなよ」と言うのです。「別に、甘ったれてませんけれども」と言っても、「大学は勉強する所とは違うんじゃ、チャンコロ。アルバイトせんか、アルバイト、あるばいと、アルバイト、あるばいとおお~お!」と言うのです。「うちの会社の工場にも、ぴ~ん大(桃山学院大)のやつとか、き~ん大(近畿大学)のやつとか、大阪けー大のやつとか、そんな大学のやつがアルバイトに来とる。あんたも、ぴ~んだいのやつとか、き~んだいのやつとかと一緒にせえ」と言うのでした。「しかし、学費と生活費を稼がなくてもいいのなら、やらないといけない勉強もありますし」と言っても、「アホぬかせ、このチャンコロ! 大学は勉強する所とは違うんじゃ、甘ったれるな、チャンコロ。このチャンコロめが、このチャンコロ!」と言うのでした。父の勤め先の工場なんか行くと、「〇〇くん、なんで、ここに来た~ん?」とか従業員の人から言われます。「なんで、慶應の学生がこんな所にアルバイトになんて来るのお~お?」とは行った先、行った先で言われました。父は「ボケっとしててもしゃあないぞ」と言うのですが、「『ボケっと』なんてしてませんけれども」と言っても、「そうか。そやけど、ボケっとしててもいかん。あるばいとお、アルバイトオ、あるばいとお、アルバイトオ!」と言い、「アルバイトを嫌がる人間というのは、モラトリアム人間病という病気にかかっている人間です。慶應大学の小此木啓吾先生というエライえらいエライ先生が、そうおっしゃってる」と言うのです。それなら、慶應内部進学の小此木啓吾は、おのれは慶應大学医学部の大学生であった時、そんなにアルバイトオあるばいとおアルバイトオあるばいとお・・とやっていたのかというと、やってないはずですよ。小此木啓吾こそモラトリアム人間病の「患者」でしょう、小此木啓吾こそ! 私が親ならば、旧帝大系国立大学か早慶くらいの大学に息子が行ったのなら、もし、アルバイトをしないと生活できないのならしかたがないが、しなくても生活できるなら、しょーもないアルバイトなんてするよりも、その時に学べるものを学んだ方がいいと思うし、特に入学して最初の夏休みくらいは「ゆっくり」させてやりたいようにも思います。私は結果として2浪もしてしまい、それでも行こうとした所に行くことができず、そこなら高校卒業時に行けたのではないかと思われる所に入学させられてしまいましたが、2浪したことで英語力はかなりついたはずでした。今は昔、新聞に「2浪の功」として2浪するとどういうプラスとマイナスがあるか述べていた人があり、プラスのひとつとして「英語力がつく」というものがありました。浪人して、2浪して、模擬試験で取得する点数が仮に横ばいであったとしても、英語のような記憶するものの場合は、横ばいならば、英語力はアップしたと考えていいと私は思うのです。模擬試験や本番の試験で同じ点数を取ったとしても、英語の場合については同じ点数を3年維持したならば、実質アップだと思います。ですから、最初の夏休みは、それを利用して英検1級を取得できるようにしたかったのです・・・が、父は「大学は勉強する所とは違うんじゃ。甘ったれるなよ、チャンコロ。うちの会社の工場にも、ぴ~ん大のヤツとか、き~ん大のやつとか大阪けー大のやつとかアルバイトに来とる。おまえも、ぴ~ん大のヤツとか、き~ん大のヤツとか大阪け~大のやつとかと、一緒にせえ」とそう言ったのです。 父の勤め先の工場にアルバイトに行かされた帰り、阪急宝塚線・箕面線の「石橋」駅で、同じ年齢で同じ中学校から同じ高校 北野高校に行って大阪大学法学部に現役で行ったK村と会いました。K村が「どこ、行って来た~ん?」と訊くので、特に隠すものでもないと思ったので、正直に、「父の勤め先の化粧品会社の工場でクリームとか乳液とか作る仕事のアルバイトに雇ってもらって・・・」と話したところ、K村から「へえ~え。そんなもん、やってんのお~ん」とバカにしたように言われたのを覚えています。K村が「どこ、行って来た~ん?」と私に訊いたのですから、私も「どこ、行って来たん?」とK村に訊いたところ、K村は「阪大の図書館に行って、法律の勉強してきた」ということでした。同じ中学校から同じ高校に行って同程度の評価の大学に行ったとしても、これだけ、生活が違うんだと実感しました。K村は阪大法学部に入学して5年目に司法試験に通り、弁護士になりました。K村のお母さんというのは、近所に「しょーもないこと」自慢してまわる習癖がある人で、「うちの息子は司法試験も現役で通りました」と言ってまわったようですが、それはウソです。一般の会社員ならわからないかもしれませんが、弁護士という職業の場合は、大きな図書館に行くと『弁護士名簿』というものがあり、それを見ると、何年に司法試験合格というのは記載されているのです。もしかすると、K村は阪大の法学部で4年を意図的に2回やって、その2回目の年に合格したのかもしれませんが、「司法試験に現役で通った」というのは、それは大学4年間のうちに合格したというもののことを言い、5年目に通ったというものを「現役で通った」とは言いません。それでも、何年も司法試験浪人した人があるわけですから、5年目に通ったというのは「優秀な方」なのでしょうけれども、それでも「現役で通った」とは言わないものを「司法試験も現役で通りました」と訊かれもしないのに近所にふらまわる女というのは、K村のお母さんというのも、なんか、あんまり賢くないなあ・・・て感じですが、司法試験合格者というのは新聞に氏名が掲載されることがあるようで、うちの父親はそういうのを捜すのが好きで、そして、K村が司法試験合格者に氏名が掲載された新聞を切り抜いて、私の所に送りつけてきて、そして、「K村くんの、爪の垢を煎じて飲みなさい」と書いてきました。その上で、電話をしてきて、「手紙、送ったん、読んだかあ」と言い、「K村くんの爪の垢を煎じて飲めよお~お!」と言うのでした。その後も、「K村くんのうちに行って、『どうか、お願いですから、爪の垢をわけてください』と言ってお願いしてきなさい」と何度も何度も言うのでした・・・が、私としては、本当にK村の爪の垢を煎じて飲みたかった。K村の爪の垢でも煎じて飲めば、K村みたいに私が工場で冷房なんて効かない暑い場所で、乳液の入った重い缶を運んだりしていた時に、エアコンのきいた図書館で座って法律の本を読んで勉強させてもらえるのなら、爪の垢でもち〇ぽの垢でも大喜びで飲んだわ! 実際、今からでもK村の家に行って、「すいませ~ん。爪の垢を分けていただけませんでしょうかあ。あんたの爪の垢を煎じて飲めば、あんたみたいに、週に2回の家庭教師のアルバイトをするだけで、他はしんどい仕事なんて何もせずにエアコンの効いた涼しい図書館で座って法律の本を読んで勉強させてもらえるのなら、ぜひとも爪の垢を煎じて飲ませていただきたいもんですけど、分けてもらえませんもんでしょうかねえ~え」と言うたろかいなと思いますね。実際のところ、K村のお母さんは「うちの息子は司法試験も現役で通ったんです」と言って自慢してまわっていたようですが、K村みたいなけっこうな条件で勉強させてもらって、それで落ちたら絶対アホや!!!  K村と同じ中学校に行って隣のクラスにいた時、同じような場所で同じような大きさの家に住んで同じ中学校に行き、そして、同じ高校に行ったということは、同じような条件なのだろうなどとアホなことを思っていましたが、実際はそうではなかった。K村が冷房のきいた図書館で座って法律の本を読んで勉強させてもらっていた時、私は冷房なんて効かない暑い工場で乳液作ってたのであり、冷房の効いた部屋で座って法律の本を読んでいた人間が司法試験に通って、乳液作ってた人間が通らないのは当然のことだ。なるほど、爪の垢を煎じて飲むんべきであろう。そういうヤツの爪の垢でも煎じて飲めば、ちょっとはそいつに近い生活をさせてもらえたのかもしれない。 考えてみれば、弁護士とか裁判官とかいうのはろくでもないのが多いというのは、それは、私が化粧品屋の工場で乳液作っていたり、保養所で風呂掃除していたり、ジェットコースターの一番高い所まで丸太を運んでいたり、風雨の中を新聞の配達やったりしていたまさにその時に、冷暖房の効いた図書館で座って机に向かい法律の本を読んで司法試験に通ったようなまさに「そういう人の爪の垢を煎じて」飲めば、そうすれば、ほんのわずかでもそんなヤツみたいな生活をさせてもらえるならうれしい・・というようなそういうことをやって司法試験に通ったようなヤカラが多いから、だから、ろくでもないのが多い! ということか。なるほど、なるほど、なるほど、なるほど!
   府中競馬場で除草剤の散布作業をやった帰りも、JR南武線「府中本町」駅から南武線に乗る時、「なんで、俺だけ、こんなことやらなきゃならないんだ」と思い、K村らとの人生の違いを実感しました。
   その除草剤散布の会社では、「線路に除草剤を撒いていると、時々、『薬がかかったじゃないか。どうしてくれる』とか言う人がいますが、そういう時には『この薬は、あくまでも、草に効く薬であって、人間には害はありませんから』と言ってください」と言われたのですが、草が生えないように草に効く薬が人間には何の影響もないのだろうか? と疑問に思いました。 実際には、草には相当効くけれども、人間には少しかかったくらいならば特別に問題はないということかもしれません・・・が、それは「少しかかったくらいでは」ということであって、私は、結局、1ヶ月ほどやっただけでしたが、その会社の正社員の人を見ると、30過ぎくらいの人が、すでに多くの人が白髪になっていました。ということは、やっぱり、人間にもいいことないということではないかと思います。
   夏目漱石『門』の登場人物は、その頃の私といくらか似たような気持になった経験を述べています。
≪ 小六は実際こんな用をするのを、内心では大いに軽蔑していた。ことに昨今自分が已む無く置かれた境遇からして、この際多少自己を侮辱しているかの観を抱いて雑巾を手にしていた。昔叔父の家で、これと同じ事を遣らされた時は、暇潰しの慰みとして、不愉快どころか却って面白かった記憶さえあるのに、今じゃこの位な仕事より外にする能力のないものと、強いて周囲から諦めさせられた様な気がして、縁側の寒いのが猶のこと癪に触った。
   それで嫂(あによめ)には快い返事さえ碌にしなかった。そうして頭の中で、自分の下宿にいた法科大学の学生が、一寸散歩に出る序に、資生堂へ寄って、三つ入りの石鹸(シャボン)と歯磨を買うのにさえ、五円近くの金を払う華奢を思い浮べた。するとどうしても自分一人がこんな窮境に陥るべき理由がない様に感じられた。・・・ ≫
( 夏目漱石『門』 新潮文庫 )
   日吉の日吉台学生ハイツにいた兵庫県の甲陽学院高校から1浪で東大法学部に行った加藤という男が、国家公務員1種試験に合格して外務省に行った。父が「いらいらっとしたから、仕送りおくるのをやめたってん」と言って仕送りを送ってこなかった時、私は1週間ほど水だけ飲んで何も食べずに暮らしたことがあったが、その時、日吉の街で自動販売機の下あたりに硬貨でも落ちてないかと探しまわり、50円玉が自動販売機の下の奥の方にあるのを見つけて、道に腹ばいになってそれを引っ張り出し財布に残っていた10円玉と合わせてメロンパンを買って食べたのだが、そのメロンパンのおいしかったこと。その時のこと。私が自動販売機の下から道路に腹ばいになって50円玉を引っ張り出した時、日吉の「不二家」というけっこう高いレストランから、アルバイトなんて家庭教師のアルバイトも何もしていなかった加藤が出てきた。俺は食べるものがなくて自動販売機の下をあさっているのに、アルバイトなんてまったくしない「モラトリアム人間病」の加藤がそれより安い店はあるのにわざわざ高いレストランで食事をして出てきた。父が言うように、加藤は私なんかとは「民族が違う」のであり「人種が違う」のであり「階級が違う」ということだった。加藤なんかは、おそらく「好みの音楽は?」とか訊かれると「おシャンソン」とか答えるのではないか。「行きたい国は?」とか訊かれると「おフランス」ではないか。
  父は毎日言っていた。「わしとかM川先生とかとおまえとは民族が違うねんぞ。階級が違うねんぞ。民族の違いを忘れるな。階級の違いを忘れるな」と。だから、金権関西医大に裏口入学した医者屋のM川のドバカ息子は私みたいにアルバイトオあるばいとおなんて生活なんてせず、M川が「患者」を薬漬け・検査漬け・毒盛りして得たカネを「給料」と称して受け取った分け前からゴルフバック買って「大学生」がゴルフやっていたのだ。
  父は「ドイツ人」だそうだ。私は「ロスケでイタコでチャンコロでニグロでプエルトリコで拓殖で浪商の民族」なのだそうで「民族の違いを忘れるな」「階級の違いを忘れるな」と言うのだった。そう言われると「民族の恨みを忘れるな」「階級の苦しみを忘れるな」と言いたくなる。
  加藤なんかは、おそらく、「好みの料理は?」と訊かれると「フランス料理」とか「懐石料理」とか言うのと違うか。私は違う。私が好きなのは、メロンパン! それに、オムライスを食べたかったけれどもお金がなくてチキンライスにした時のチキンライス。それに慶應の生協食堂の140円のカレーライス。年末正月に何も売ってない時に自販機で買って食べたお湯なしのカップヌードル。ほかほか弁当の「海苔弁当」。「おまえとわしとは食うもんからして違うねんぞ」と父は言っていたが、まさにそうだった。加藤なんかは「レストラン」で食事をする「民族」だったのだろう。私なら、「好きな音楽は?」と言われると、「おシャンソン」ではなく、ロシア民謡だな。〔料理は、ロシア料理ではない。ロシア料理は本格的な店だとけっこう高い。〕日本では「仕事の歌」と訳される「ドビヌーシカ」は、本来、ロシア語では「棍棒」という意味で、樫の木の棍棒はヴォルガ川の船曳人夫が船を曳く際に縄をくくって曳いたものであったが、労働争議が実力行使に至ることになった時には、それが労働者側の武器にもなったという。私が好きな音楽。それはロシア民謡の「ドビヌーシカ」。私立高校からローニンして東大に行ったやつがアルバイトなんか何もしない「モラトリアム人間病」のくせして高いレストランで食事をしていたまさにその時、食べる物がなくて自販機の下をあさって拾った50円玉でメロンパンを食った男の歌である。
   1993年、(株)一条工務店http://www.ichijo.co.jp/ で福島県いわき市の営業所に赴任した時、「設計」の職種でいわき市の営業所に勤務していた東洋大建築学科卒の春田靖という男が、会社では1人1部屋の割り当てにしていた「寮」で、2間続きになっていたのをいいことに2部屋占拠して使用していた。その為、「寮に入ってもらう」と言われていわきに行った私に泊まる所がなかった。春田は「2間続きだから」とわけのわからない言い分を主張していたが、会社は1人1部屋として無料で使用させていたのであり、又、営業と工事課は仕事でクルマを使うからということで駐車スペースも1台分割り振っていたが、春田ように「設計」の職種の者は仕事でクルマを使うことはないと考え通勤は公共交通機関でということで駐車場の割り当てはなかったにもかかわらず、実力行使で2部屋と身分不相応なばかでかいクルマに乗って2台分の駐車スペースを占拠していた。その「2間続きだから」という理由がよくわからない。私なんかは、保養所の下男の仕事をした時には、6帖の部屋に3人泊まったものだ。新聞屋の仕事をした時は、上の部屋の子供が始終飛び跳ねてその音が四六時中聴こえていたし、隣の部屋とはガラス扉1枚だけで「新婚の内縁関係」らしい隣の男女の部屋からは「そこ、嫌だっていったじゃな~い」とか言う声が聞こえていた。そういう所に住んできた。そして、父から「おまえは、そんな贅沢していいのか。おまえは、贅沢すんな。チャンコロ」と毎日言われてきた。春田靖の感覚は理解できないし、「バカでも入れる私大の建築学科」を出たばかりの20代前半の若造に、不当な占拠を許してタダで2部屋と2台分の駐車スペースを使用させる(株)一条工務店の経営者の思考もまったく理解できない!
※ 《YouTube-【ロシア語】仕事の歌 (Дубинушка ドゥビヌーシカ) (日本語字幕) 》https://www.youtube.com/watch?v=rk0C1GputJ8

  写真の撮影は2019年1月2日。

 インターネットで検索すると「大國魂神社(おおくにたまじんじゃ)」という名称の神社は福島県いわき市の甲塚古墳の近くにもあるらしい。いわき市に住んでいた時、付近に行ったこともあったが、神社があった気がしないでもない。福島県浜通り地区はいい所と思っていたが、福島第一原発事故は残念です。

  (2019.1.8.)

《 大國魂神社
国内の神々を合祀した武蔵国の総社
  大國魂神社は111年5月5日に創建されました。主祭神の大國魂大神とは、大国主命のことです。 当時、中央から各国へ派遣された役人は、国内すべての神社を順番に巡拝するのが習わしでした。それを一か所でまとめて行うため、国府(当時の県庁)に、”総社” を置き、国内の神々を合祀しました。大國魂神社もその一つです。
  創建を記念し、毎年4月30日~5月6日には「くらやみ祭」という祭りが行われています。昔は深夜に神輿巡幸をしていたので、こう呼ばれていました。現在では夕方に行われています。》
( 『 全国 凄い! ご利益神社150選』2017.6.11.〔4月18日発売〕ダイアプレス )
全国 凄い!ご利益神社150選 - ダイアプレス
全国 凄い!ご利益神社150選 - ダイアプレス
↑ 同書では、大國魂神社は「恋と縁結びに霊験あらたかな神社」に分類されて掲載されているのですが、なぜ、「恋と縁結び」なのか・・というと、祭神の大國魂大神は大国主で大国主は「恋と縁結び」の神・・というつながりかと思われます。 しかし、昼ではなく夜におこなわれる「くらやみ祭」とか、又、南が高い山地とかではなく平地にある神社であって、それでいて通常とは逆の北から南に参拝する配置になっている。北を向いた社殿とか、どうも、「くらやみ系」というのか、単に大国主を祀る神社とか、武蔵の国の総社とかだけではないようなものを感じるのですが、そのようなことはないでしょうか・・・。
《 大國魂神社は111年5月5日に創建されました》という部分については、かなり怪しい。神社の「社伝」とかお寺の「寺伝」といったものは、あくまで「そういうお話がある」ということであって、そうである場合もあればない場合もある。「なんと(710)立派な平城京」平城京遷都が710年、「ほとけ、ほっとけゴミヤ(538)さん」で仏教伝来が538年、「蒸し米(645)ふかして大化の改新」とかつて覚えたが最近は中大兄と中臣鎌足による蘇我入鹿暗殺事件を「乙巳の変」、その後の改革を「大化の改新」と分けて考えるようになったらしく、「蒸し米(645)ふかして」は大化の改新ではなく乙巳の変の方らしいが、どちらにしても、111年は平城京遷都よりも、仏教伝来よりも、乙巳の変よりもずう~っと前であって、これは信じがたい。あくまで、そういう「お話」があるということで、実際の創建はもうちょっと後、どのくらい後かはともかく、111年よりかなり後ではないかな・・・。
  (2024.3.30.)

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