谷保天満宮【1/5】谷保駅から鳥居まで。「やほ」と「やぼ」。「面白い地名」「別に面白くない地名」とは
[第682回] 冤罪を晴らす神さま・菅原道真・怨念を晴らすお百度参り 49念-1
東京都国立(くにたち)市谷保(やほ) の 谷保(やぼ)天満宮 に参拝してきました。
東京都千代田区の平河天満宮・文京区の湯島天神と台東区の上野公園の西側の五條天神社で江戸三大天神と言ったり、平河天満宮と湯島天神と江東区亀戸の亀戸天神で江戸三大天神と言ったりするらしい。 五條天神社は社域も広くなく、もともと、寛永寺の一部だったのではないかと思われ、亀戸天神の方が社域も広く独立した神社ですが、今では東京都と千葉県は江戸川を境にしていて、江戸川区・江東区・墨田区といったあたりは東京都になっているが、かつては武蔵の国と下総の国の境は隅田川で墨田区・江東区・江戸川区といったあたりは武蔵の国ではなく江戸ではなかったことから、江戸三大天神には亀戸ではなく五條天神社を入れる説があるらしい。
「江戸三大天神」と似た名称で異なるものに「関東三大天神」というのがあって、これには、国立市谷保の谷保天満宮と湯島天神・亀戸天神が入るらしい。 東京三天神ならいずれも東京都ですが、「関東三大天神」と言っているらしい。こういった「三大◇◇」というのは、有名なものとしては「日本三景」もそうですが法律で決まっているわけでもなく、自分の所のものとあと2つ有名なものをくっつけて「三大◇◇」なんて言ってるケースもあるのですが、谷保天満宮の場合は、最寄駅はJR南武線「谷保」で駅名は「やほ」と濁らずに読むのですが、天満宮は谷保(やぼ)天満宮と「やぼ」と濁点をつけて「ぼ」と読むらしく、「野暮天(やぼてん)」の語源だという話もあるらしく、その点で知っている人は知っている神社らしい。最寄駅は東京都内から放射状に出ているJR中央線・京王帝都電鉄本線などの駅ではなく、南武線で、南武線沿線住民でない者はどこかで乗り換えないといけないので不便かとも思いましたが、行ってみると「谷保(やほ)」駅から近く、遠方からも行きやすい場所にあります。
※ 《ウィキペディア―日本三大天神》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%B8%89%E5%A4%A7%E5%A4%A9%E7%A5%9E
《ウィキペディア―谷保天満宮》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B0%B7%E4%BF%9D%E5%A4%A9%E6%BA%80%E5%AE%AE
↑ 谷保天満宮 拝殿。 (国立市指定 有形文化財・建造物)
≪ 拝殿は、入母屋造りで桁行五間、梁間三間、22坪(約73平方メートル)、正面の向拝は軒唐破風付入母屋造りです。嘉永4(1851)年に建築されたと考え られています。≫( 国立市HP 市指定 有形・建造物 http://www.city.kunitachi.tokyo.jp/soshiki/Dept08/Div03/Sec01/gyomu/0061/0062/0067/0070/1463551208423.html )
最寄駅はJR南武線「谷保(やほ)」駅ですが、谷保天満宮HP のを見ると、JR中央線「国立(くにたち)」駅、京王帝都電鉄「府中」・「聖蹟桜ヶ丘」駅からもバスが走っていて、谷保天満宮の目の前に「谷保天神」というバス停があるということでしたが、神社の参拝は自宅を出てから自宅に戻るまでが参拝であり、体の具合が悪いとかでない限り、最寄駅からそれほど遠くないなら最寄駅から歩くべきで、最寄駅から神社の入口まで徒歩10分前後である場合はその参道もまた神社の一部分であると考え、今回は往復ともJR南武線「谷保(やほ)」駅から行き来しました。クルマなら府中国立インターチェンジから遠くないらしいのですが、神社の参拝はクルマでないと行けないか相当行きにくい場所の場合はさておき、基本的には電車・バスなど公共交通機関を利用するという方針にしていますので、今回も電車を利用して行き来しました。
我が家のような千葉県のJR総武線沿線からJR南武線「谷保(やほ)」駅に行く場合は、JR南武線の「谷保」駅の北と南で交差している東京都内から放射状に出ている路線というと、北側がJR中央線で「立川」駅典乗りかえ、南側が京王帝都電鉄で「分倍河原(ぶばいがわら)」駅乗りかえという方法があります。今回は、京王線で分倍河原駅で乗り換えて行き、帰りは立川駅で乗り換えてJR中央線で帰りました。
↑ 京王帝都電鉄「分倍河原(ぶばいがわら)」駅。 今回、京王帝都電鉄と乗り入れしている都営新宿線に「本八幡」駅から乗車しました。「笹塚」駅行きで終点の「笹塚」で下車すると、降りたホームに「京王多摩センター」行き急行が来たのですが、「京王多摩センター」行きということは、どうせ、調布で乗り換えないといけないわけですから、特急を待った方がいいのだろうかと思いながら、とりあえず、「明大前」駅まで乗ることにしたのですが、正解でした。新宿から八王子・高尾山口方面行の特急は新宿の次に笹塚に止まるものかと思っていたら笹塚には急行は止まっても特急は止まらない。 だから、急行の「京王多摩センター」行きに乗って次の「明大前」で降りたのは正解。降りた場所で待っていると、すぐに「高尾山口」行き特急が来ました。 明大前の次は調布・府中・分倍河原とすぐ。 分倍河原駅では京王帝都電鉄からJR南武線に外に出ることなく乗り換えることができる乗りかえ口があって便利ですが、分倍河原駅の駅前に新田義貞の像があるという話でしたので、見てみたい気もしたのですが、今回の訪問先は谷保天満宮ですので、それは次回にまわすことにしました。
※《ウィキペディア―分倍河原の戦い(鎌倉時代)》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%86%E5%80%8D%E6%B2%B3%E5%8E%9F%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84_(%E9%8E%8C%E5%80%89%E6%99%82%E4%BB%A3)
≪ 分倍河原の戦い(ぶばいがわらのたたかい)は、鎌倉時代後期の元弘3年(1333年)5月15日・5月16日に、武蔵国多摩川河畔の分倍河原(現在の東京都府中市)において、北条泰家率いる鎌倉幕府勢と新田義貞率いる反幕府勢との間で行われた合戦である。 ≫ ≪・・・いずれにせよ、分倍河原の戦いにおける義貞の勝利はその後の戦局に大きな影響を与えた。この戦いで新田軍が幕府軍に対し決定的な勝利を収めたことにより、幕府軍は完全に守勢に転じた。この後、新田軍には次々に援軍が加わり、『太平記』によれば60万もの大軍勢になったという。 ≫ ≪ 府中市分梅町の新田川分梅公園に分倍河原古戦場碑がある。分倍河原駅の駅前ロータリーには新田義貞の像がある。新田義貞の顔は鎌倉方面である南を向いている。 ≫
※ 鎌倉幕府滅亡 1333年 「一味、散々(1333)、北条氏」
「分倍河原」というのは、産まれた時から東京圏に住んでいる人にとっては「ぶばいがわら」と読むというのは「そ~んなの、じょおしき~♪」〔⇒《YouTube-『おどるポンポコリン』は、B.B.クイーンズのデビューシングル》https://www.youtube.com/watch?v=-r4DIbDe0DM 〕かもしれませんが、関西人にとっては最初、難読地名でした。 「等々力(とどろき)」とか「九品仏(くほんぶつ)」「上野毛(かみのげ)」とか、いったん、読み方を覚えるとどうってことない地名でも、最初、なんで、「かみのげ」なの? とか思いますでしょ。 「分倍河原」も「ぶんばいがわら」なのか「ふんばいかわはら」なのかなんて読むのだろう? と思いましたが、「ぶばいがわら」が正解のようです。
小学校の4年の時、担任の先生が「おもしろい地名てあると思うけれども、どういうのがありますか?」と質問するので、「十三(じゅうそう)」と言ったところ、「そんなもん、あかん! 十三(じゅうそう)なんて、ちっとも面白くない!」と言われ、「ほかに、面白い地名を知っている人~お」と先生が言い、「大歩危小歩危(おおぼけ)」「親知らず子知らず」「立売堀(いたちぼり)」と言ったヤツがいて、「そうよ。面白い地名というとそういうのを言うものよ。十三(じゅうそう)なんてちっとも面白くないじゃないの。何、言ってんのよ、あんた」と言われたのでしたが、なんか、納得いかない気持ちでした。 母方の祖父母が阪急神戸線の沿線に住んでいてそこに行く時に阪急の電車に乗って窓から外を見ていて、数字の「十三」と書いて「じゅうそう」と読むというのは、へえ~え、数字の13が地名になってるのかあ、それを「じゅうそう」と読むのかあ・・と窓から見て車内放送を聞いて思ったのでしたが、小学校の先生が、これは「面白い地名」として「大歩危小歩危」「親知らず子知らず」「立売堀(いたちぼり)」といったものを指定し、「十三(じゅうそう)」は「面白い地名」ではない! と決めつけるというのは、なんだか納得いかない気持ちでした。・・今も、納得いきません。「十三(じゅうそう)」は阪急の乗換駅・特急停車駅であり、しょっちゅう耳にしていると「面白い」と思わなくなるのかもしれませんが、子供が「面白い」と思えば面白いのであって、大人が「面白い地名」「面白い地名ではない地名」と分類して断定するというのはおかしいと思います。 「建築家」業界の誰やらが「名建築家」と指定した人が設計した建築は「名建築」で、「普通の人」が設計したものは「名建築」ではないと決めつける自称「建築家」というのも変ですけれどもね。「ヒゲはやせば、“建築家”」というのも「ヒゲはやせばラーメン屋」と同様に変ですし・・・。 そう思いませんか?
だいたい、ラーメン屋と「建築家」て、なんで、ヒゲはやしたがるのか・・・? て思いませんか? 「茶髪・長髪・ヒゲはいかん!」と「建築家」のおっさんも野村のじいさんにでも言ってもらった方がいいかもしれません。
≪ ヤクルト監督時代の1997年に対戦した西武との日本シリーズには、嫌な思い出がある。結果だけを見れば、4勝1敗の圧勝に終わったのだが、西武選手の野球に対する姿勢に納得できなかった。
私は例によって対戦前から、敵将・東尾修を挑発する狙いもあり、こんなことを言った。
「西武の選手の茶髪、長髪は目に余る。プロ野球選手として恥ずかしくないのか。こんなチームには絶対に負けるわけにはいかない」
この発言に腹を立てたのか、私が審判の判定を確認するためにグラウンドに出ると、「デブ」「ブタ」「早く引っ込め!」と、西武のベンチからひどいヤジが飛んできた。ユーモアも何もあったものではない。・・・・
おそらく、近頃の指導者は東尾と似たり寄ったりで、「勝てばいい」「野球がうまくなりさえすればいい」としか考えられないのだろう。
私は自分が監督を務めたチームでは必ず茶髪、長髪、ヒゲは禁止した。プロ野球選手は練習で自分を磨き、卓抜したプレーでファンに感動や夢を与える職業である。プロ野球を見ている少年たちへの影響も考え、プロ野球選手は常にプロ野球選手にふさわしい姿を保つべきだ。たかが長髪と、甘く見てはいけない。ひとりの長髪が、チームの野球の質や格を壊してしまうこともある。・・・・
川上さんの時代とは正反対の、およそ巨人らしくない風体で顰蹙を買ったのが清原和博である。彼の金髪やピアス姿を思い出してほしい。チームに好影響を与えただろうか。逆である。清原が金髪にしたり、耳にピアスをしたりしていた頃の巨人はすこしも強くなく、優勝から遠ざかっていた。・・・ ≫
(野村克也『短期決戦の勝ち方』2018.10.10.祥伝社新書 ↓)
↑ JR南武線「分倍河原」駅にて。 手前が「立川」行き。 向こう側が「川崎」行き・・だと思う。
今は昔、川崎市幸区、駅で言うと、「鹿島田(かしまだ)」駅が最寄の場所に住んでいたことがあり、その頃は南武線の電車というと橙色、中央線・青梅線の快速・特別快速、大阪環状線の電車と同じ電車でしたが、今回、見ると、ステンレスの車体に横の線は橙色と黄色の2本の線が引いてあって、それが南武線の特色のようです。↑↓
↑ JR南武線「谷保(やほ)」駅にて。
JR南武線「谷保(やほ)」駅を南西側に降りて、そのまま、細い道を南西側に進んでもいいのですが、「初めて行く所は一回目は堅実な経路で」という原則により、少しだけ立川よりに歩きますと踏切があります。 踏切を横断してきて南西に進む道の向うを見ると鳥居が見えます。そこが谷保天満宮です。 駅のホームや改札口の位置からは見えませんが、ほんの少しだけ北西に歩いた踏切の位置から鳥居が見えますから、たいして遠くない距離です。

( ↑ 旗マークの位置から見た写真です。)
↑ 「門前そば 大黒屋」、天婦羅そば(かけそば に天婦羅が載っているのではなく、「もりそば+天婦羅」)1100円。 おいしかったよ。
この谷保天満宮の鳥居の前を横に走っている道が「甲州街道」で「国道256号」。 さて、鳥居のすぐ前の三叉路の信号に、
↑ 「谷保天満宮前 Yabotenmangu 」 と書かれた掲示が出ています。 そして、すぐ横には↓
↑ 「谷保駅 Yaho Sta. 」
よく見てください。 谷保天満宮は「Yabo」⇒「やぼ」で、谷保駅は「Yaho」⇒「やほ」。
天満宮は「ほ」に濁点がついて「ぼ」、駅名は「ほ」に濁点はつかず、「ほ」のまま。
な~んでだ?
JR南武線のプラットホームの駅名表示はどうなっているかというと↓
↑ 「やほ」 「Yaho」。 「ほ」に濁点はつかない。 こっちは、これまでにも南武線に乗ったことは何度もあり、車内放送での駅名案内で何度も「やほ」と聞いているので、「やほ」だろうと思っていたが、なんで、天満宮は「やぼ」で駅名は「やほ」なの?
まあ、こういうことは時々ありますよね。 京都市の「西院」は阪急京都線の駅名は「さいいん」で、京福電鉄の駅名は「さい」。 最初、見た時は、京福電鉄は経営が苦しいので、後ろの「いん」がこすれて消えたが書き直すことができないということだろうか・・・なんて思ったのですが、その後、何十年か経って乗っても、相変わらず、「さい」。 駅名表示板はきれいになって予算がないから2文字減らしたて感じでもない。 要するに、「さいいん」という説と「さい」という説の両方の説があって、阪急は「さいいん」を採用し京福電鉄は「さい」を採用したということらしい。カバならぬサイにバカされたのではない。
東京の「秋葉原」は、これは当然、「あきはばら」と思っていたら、秋葉(あきば)神社から命名された名前だというが、静岡県の今は浜松市になった防火の神さん 秋葉神社は「あきば」だが、駅名・地名になったら読みやすいように「あきはばら」だと思っていたら、最近になって「あきば」派が勢力を盛り返してきたみたいで、「あきば」と「は」に濁点をつける「派」が強くなり、「あきはばら」派に対して「あきばはら」派がほぼ五分に盛り返してきたみたい。
東海道新幹線の岐阜羽島と京都の間、彦根の東、長浜の南の「米原」は、これは「まいばら」だと思っていたし、時刻表のふりがなを見ても「まいばら」だし新幹線や東海道本線の車内での案内でも「まいばら」と言っているので当然「まいばら」だと思っていたのだが、書店でパラパラっと見た本なので書名は忘れてしまったが、「米原」はもともとは「まいはら」で「は」に濁点はつかなかったらしいが、国鉄の時代の東海道本線が駅名に「まいばら」とフリガナを打ってしまったことから「まいばら」が広まり、「まいはら」派も、別に「まいはら」でも「まいばら」でもどっちでもええんちゃう・・・みたいな感じで「まいばら」が優勢になっているらしい。
千葉県船橋市の「飯山満」は、これは「いいやま みつる」という人名ではない。 それなら何と読むのかというと、東葉高速鉄道の駅名では「はさま Hasama」〔《ウィキペディア―飯山満駅》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A3%AF%E5%B1%B1%E6%BA%80%E9%A7%85 〕 なのだが、千葉銀行の支店名は「はざま支店」とひらがなで「さ」には濁点がついて「ざ」になっている。 「はさま」説と「はざま」説があるようだ。
このように、「さい」説と「さいいん」説、「あきはばら」説と「あきばはら」説、「はさま」説と「はざま」説がある地名、もともとは「まいはら」だったが「まいばら」でもいいかあ・・・て感じになってる地名があるが、しかし、「やほ」と「やぼ」では濁点がつくかつかないかの違いのように思えて、実は、「やぼ」と濁点がつくと「野暮(やぼ)」につながりそうで、その違いは必ずしも小さいものではない。
《ウィキペディア-谷保天満宮》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B0%B7%E4%BF%9D%E5%A4%A9%E6%BA%80%E5%AE%AE には、≪南武鉄道(現:JR南武線)が谷保駅の駅名を「やほ」としたため、地名の「谷保」までも「やほ」と言うようになってしまったが、本来の読み方は「やぼ」である。 ≫とある。「まいはら」を駅名で「まいばら」にしたことから「まいばら」になったようなケースか・・。
この 「谷保」⇔「やぼ」⇔「野暮」 についてだが、『わかりやすい天神信仰 学問の神さま』(1994.12.20. (株)鎌倉新書 )に説明書きには、
≪ 俗にいう″野暮天″は「広辞苑」などによると――谷保天神像から出た語。きわめて野暮なこと。やぼすけ――などとある。 その由来は、昔、江戸の目白で谷保天満宮の御開帳をしたことがあったが、凶作の年などは氏子総代と相談して代わりの御神体を出し、大いに喜捨を集めることができた。たまたま神無月の十月だったため、有名な太田蜀山人が「神ならば出雲の国へ行くべきに目白で開帳ヤボのてんじん」の狂歌をものして皮肉ったのが、江戸ッ子の間で広まったというわけ。 しかし、本物の御神体は優雅な秀作というから、天神さんにとっては迷惑な話といえよう。 ≫
とある。
・・・そういうことでなのかどうなのか、天満宮は「やぼ天満宮」ということらしい。
さて、「大歩危小歩危」「親知らず子知らず」「立売堀(いたちぼり)」は「面白い地名」で、「十三(じゅうそう)」は「そんなのちっとも面白くない」「面白いわけないでしょう」と即座に断定した私が小学校4年だった時の先生は、「谷保(やほ)」と「谷保(やぼ)」については「面白い地名」に分類することになるか、「ちっとも面白くない」に分類するのか・・・・。 まあ、その先生がどっちに分類しようが、どっちと思うかは人それぞれの自由だと思う。私は「十三(じゅうそう)については「面白い地名」だと今も思っている。阪急電鉄の案内書きによると、淀川の渡しがいくつかあって、その十三番目の渡しがあった場所だから「十三」と書いて「じゅうそう」と言うというのだが、そうかな? とも思うのだ。 栃木県の県庁所在地の宇都宮(うつのみや)は、二荒山神社が下野の国の一の宮だったことから、「いちのみや」⇒「うちのみや」⇒「うつのみや」になってその読みに「好ましい漢字」が充てられて「宇都宮(うつのみや」になったという説が広まっていてけっこう有力なのだが、塙静夫『とちぎの地名を探る』(1996.11.2.随想舎)では、そうではなく、
≪私は以前から宇都宮は「ウツ・ノ・ミヤ」という語源から、崩崖・崩落地名説を唱えている。つまり、ウツは「落・棄・打」で、落ちる・棄てる・ばさっと落とす・切り取るの意から、崩落・崩崖を意味しよう。ノは助詞と思われるが、『日本国語大辞典』(小学館)に「古代にノ(野)と呼ばれている実際の土地の状況などを見ると、低木などの繁った山裾、高原、台地状のやや起伏に富んだ平坦地を呼んだものかと思う」とあるので、山丘などの裾部を意味するのかもしれない。ミヤは御屋で神社の意である。
これらのことによって、宇都宮の地名は「崩落を起こす山丘上の神社」に由来するものであり、その門前に開けたので神社名がそのまま地名になったと思われる。≫
と書かれており、宇都宮が一の宮から来た地名ではないと推測する理由のひとつとして、
≪ 宇都宮は式内舎二荒山神社の門前町として開けたので「一の宮」が転訛して「宇都宮」になったという説が流布している。しかし、古代に「一の宮」は六〇余国に鎮座していたから、下野国の「一の宮」のみが宇都宮に転訛したという説は不自然である。・・・≫
と塙静夫氏は指摘しているのだが、「十三(じゅうそう)」もまた、淀川の13番目の渡しがあった場所だからという説明だと、1番目から12番目までは地名にならず、13番目だけが地名になったというのは不自然にも思えるし、十三のすぐ南を流れている淀川は厳密には「新淀川」で、江戸時代半ばまでは毛馬の閘門から南に流れる大川(旧淀川)が「淀川」だったわけであり、新淀川と大川(旧淀川)が分かれてからの新淀川の方に渡しがあってそれが地名になったというのは、本当かな・・とも思うのだ。 「じゅうそう」という読みから考えて、もしかして、「重曹(じゅうそう)」を作る工場か、重曹を使って何かを作る工場でもこの近くにあった、なんてことないか、とか。もしくは、大阪市の梅田から十三(じゅうそう)にかけて、阪急電鉄の神戸線・宝塚線・京都線の鉄橋が重層にかかっているさまを見て、それが地名になり、「重層」を簡略化して「十三」にしたなんて可能性はないかとか考えた。さらに、内田康夫『十三の冥府』を読んで、そこに「十三参り」というのが出てきたのだが、「十三(じゅうさん)参り」は関西でおこなわれることが多く、もしかして、「十三(じゅうそう)」は「十三(じゅうさん)参り」から「十三(じゅうそう」という地名になったとかいうことはないだろうか・・・とか考えた。実際にどうなのかはわからないが、ともかく、こういったことを考えてみると、「十三(じゅうそう)なんてそんなの、あかん。そんなのちっとも面白くない!」と断定されるというのは、やっぱり、どうも納得いかん。 「谷保(やほ)」と「谷保(やぼ)」を「面白い地名」とその先生が判断するか、「ちっとも面白くないでしょ、そんなもの!」と判断するか、そんなことはどっちでもいいことだ。その先生が「ちっとも面白くない」と思っても、当方が「面白い」と考えたなら面白いのだ。
1970年代後半、私が浪人中のことだが、父が「親友」の医者屋のM川(男。当時、50代前半。当時、大阪府豊中市在住)が「『宗教はアヘンである』とマルクスは言うてお~る!」と吹き込み、父はそれを聞いて、「そうじゃ。その通りじゃ。『宗教はアヘンであ~る。とってちってたあ~あ! 焼き討ちじゃあ、焼き討ちじゃあ~あ! 焼~き討ちじゃあ~あ!』と毎日毎日言うようになってしまった。哲学科に行って宗教哲学の研究者になりたいという気持ちがあった私に対する妨害行為のひとつだったようだが、カール=マルクスさんはたしかに『ヘーゲル法哲学批判序説』の中で「宗教はアヘン」という表現を1回だけ使用しているが、しかし、蔵原惟人『宗教・その起源と役割』(新日本新書)が的確に指摘しているが、この「宗教はアヘン」という表現はマルクスが初めて使用した表現ではなく、マルクスが生きた時代のドイツでよく使われていた表現らしく、そして、なにより、「アヘン」という言葉には「毒薬」という意味と「なぐさめ」という意味があり、マルクスは「宗教はアヘン」という表現を決して「毒薬」という意味で使用しておらず、「宗教はアヘン」という表現でマルクスは「宗教は貧しい人たちにとってのなぐさめである」という内容を述べている。決して「毒薬」という意味で「宗教はアヘン」という表現を使っていない。 ところが、父は医者屋のM川から「『宗教はアヘンである』とマルクスは言うてお~る!」と教えられて、「そうや。その通りじゃ!」と思いこみ、「宗教はアヘンであるとマルクスは言うてお~る! 焼き討ちじゃあ! 焼き討ちじゃあ! 焼~き討ちじゃあ~あ! とってちってたあ~あ!!!」と毎日毎日言うようになった。そういうことにして、私が行きたい大学の行きたい学部に進学するのを妨害しようとしたのであった。 マルクスさんがどういう意味で言っていたとしても、もし、マルクスさんであれ何さんであれ、その人が言うことがもっともだと思ったならば、その人が主張する考え方を採用すればいいだろうけれども、そうでなければ、何さんが何をおっしゃったとしても、別段、その主張を採用しなければならない筋合いはないはずだ。 うちの父親は、普段から、「戦艦長門の一隻でもあったら、ソ連をやっつけてやるのになあ~あ」「ロスケはずるい。ずるいはロスケ」「日教組は全員、刑務所に叩きこめえ! 共産党は死刑にしろ! 朝日新聞の記者は全員、死刑であ~る!」とか叫んでいるおっさんだった。そういうおっさんが、なにゆえ、「宗教はアヘン」というその表現限定で「教条的マルクス主義者」になるのか、なんとも摩訶不思議だったのだが、そういうおっさんだった。そういうおっさんをあしらうことができず、小学校の1年から同級生が遊んでいる時も勉強し続けてきた成果をドブに捨てさせられることになったが、それにしても、マルクスさんであれ何さんであれ、「・・・と◇◇は言うてお~る」と言ってその主張・・・というよりも、マルクスさんの「宗教はアヘン」という表現については誤解をもとに「焼き討ちじゃあ。焼き討ちじゃあ~あ! とってちってたあ~あ!」と叫びまくるおっさんというのは困ったおっさんだったが、いいかげんなマルクスの理解のもとにいいかげんな話を吹き込む男というのも困った男だった。普通、親というのはそういう「外敵」から息子を守る存在ではないのかとか思ったこともあったが、我が家はそうではなく、そういう「外敵」を引っ張り込んでくるようなところがあった。
いずれにせよ、どこの何さんが何と言おうとも、自分が「面白い」と思えば「面白い」のであって、「◇◇が・・・と言うてお~る」と言われても、「ああ、そうですか」でいいことではないかと思う。「谷保(やほ)」と「谷保(やぼ)」は「面白い」方の地名だと思うし、そもそも、地名に面白くない地名なんてほとんどない。あるとすると、浦和セブン(浦和・西浦和・北浦和・東浦和・南浦和・中浦和・武蔵浦和)とか船橋5兄弟(船橋・西船橋・東船橋・南船橋・新船橋)とか「新習志野」とかいう駅名のつけかたは「面白くない」。もうちょっと何とかならんもんかと思う。「高輪ゲッターロボ」もあんまりいいとは思わん。
次回 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201903article_2.html 、谷保天満宮 境内へ・・・
(2019.3.11.)
★谷保天満宮(国立市)参拝
1.谷保駅から鳥居。「やほ」と「やぼ」〔今回〕
2.坂を下り、拝殿・本殿と鶏 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201903article_2.html
3.五社、三郎殿、厳島神社、狛犬、座牛 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201903article_3.html
4.神楽殿・筆塚https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201903article_4.html
5.梅林、稲荷社、第六天神社https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201903article_5.html
≪ ある日彼はさる客間で、既に予審がすんで、まさに判決が下されようとしている一つの犯罪事件のことを耳にした。ある困窮な男が、金を得る手段もつき果てて、一人の女とその間にできた子供とを愛するあまり、貨幣を贋造した。当時なお貨幣贋造は死刑をもって罰せられたものであった。女は男が造った贋造貨幣を始めに使って捕らえられた。彼女は拘留されたけれども、彼女の現行犯以外には何らの証拠も得られなかった。ただ彼女のみがその情人(おとこ)の罪証を挙げることができ、自白によって彼を破滅させしむることができるのであった。彼女は否認した。いかに尋問されても、彼女はかたく否認して動かなかった。そこで検事はある手段を考えついた。彼は情人(おとこ)の不実を言い立て、巧みに偽った手紙の紙片を見せて、彼女には一人の競争者があり、彼女は男から欺かれたのであるということを、ついにその不幸な女に信じさせてしまった。そのとき女は嫉妬の情に駆られて、男を訴え、すべてを白状しすべてを立証した。男の罪は定まった。彼はその共犯者の女とともに近々エークスで判決を下されることになっていた。
人々はその事実を語り合って、皆検事の巧妙さに讃嘆した。彼は嫉妬心を利用して、怒りの念によって真実を現させ、復讐心から正義を引き出したのであると言われた。司教はそれを黙って聞いていた。そして話が終わると彼は尋ねた。
「その男と女はどこで裁判されるのですか。」
「重罪裁判所においてです。」
司祭はまた言った。
「そしてその検事はどこで裁判されるのですか。」 ・・・≫
( ヴィクトル=ユーゴー『レ・ミゼラブル(惨めなる人々) (一)』豊島与志雄訳 1987.岩波文庫 ↑)
東京都国立(くにたち)市谷保(やほ) の 谷保(やぼ)天満宮 に参拝してきました。
東京都千代田区の平河天満宮・文京区の湯島天神と台東区の上野公園の西側の五條天神社で江戸三大天神と言ったり、平河天満宮と湯島天神と江東区亀戸の亀戸天神で江戸三大天神と言ったりするらしい。 五條天神社は社域も広くなく、もともと、寛永寺の一部だったのではないかと思われ、亀戸天神の方が社域も広く独立した神社ですが、今では東京都と千葉県は江戸川を境にしていて、江戸川区・江東区・墨田区といったあたりは東京都になっているが、かつては武蔵の国と下総の国の境は隅田川で墨田区・江東区・江戸川区といったあたりは武蔵の国ではなく江戸ではなかったことから、江戸三大天神には亀戸ではなく五條天神社を入れる説があるらしい。
「江戸三大天神」と似た名称で異なるものに「関東三大天神」というのがあって、これには、国立市谷保の谷保天満宮と湯島天神・亀戸天神が入るらしい。 東京三天神ならいずれも東京都ですが、「関東三大天神」と言っているらしい。こういった「三大◇◇」というのは、有名なものとしては「日本三景」もそうですが法律で決まっているわけでもなく、自分の所のものとあと2つ有名なものをくっつけて「三大◇◇」なんて言ってるケースもあるのですが、谷保天満宮の場合は、最寄駅はJR南武線「谷保」で駅名は「やほ」と濁らずに読むのですが、天満宮は谷保(やぼ)天満宮と「やぼ」と濁点をつけて「ぼ」と読むらしく、「野暮天(やぼてん)」の語源だという話もあるらしく、その点で知っている人は知っている神社らしい。最寄駅は東京都内から放射状に出ているJR中央線・京王帝都電鉄本線などの駅ではなく、南武線で、南武線沿線住民でない者はどこかで乗り換えないといけないので不便かとも思いましたが、行ってみると「谷保(やほ)」駅から近く、遠方からも行きやすい場所にあります。
※ 《ウィキペディア―日本三大天神》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%B8%89%E5%A4%A7%E5%A4%A9%E7%A5%9E
《ウィキペディア―谷保天満宮》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B0%B7%E4%BF%9D%E5%A4%A9%E6%BA%80%E5%AE%AE
↑ 谷保天満宮 拝殿。 (国立市指定 有形文化財・建造物)
≪ 拝殿は、入母屋造りで桁行五間、梁間三間、22坪(約73平方メートル)、正面の向拝は軒唐破風付入母屋造りです。嘉永4(1851)年に建築されたと考え られています。≫( 国立市HP 市指定 有形・建造物 http://www.city.kunitachi.tokyo.jp/soshiki/Dept08/Div03/Sec01/gyomu/0061/0062/0067/0070/1463551208423.html )
最寄駅はJR南武線「谷保(やほ)」駅ですが、谷保天満宮HP のを見ると、JR中央線「国立(くにたち)」駅、京王帝都電鉄「府中」・「聖蹟桜ヶ丘」駅からもバスが走っていて、谷保天満宮の目の前に「谷保天神」というバス停があるということでしたが、神社の参拝は自宅を出てから自宅に戻るまでが参拝であり、体の具合が悪いとかでない限り、最寄駅からそれほど遠くないなら最寄駅から歩くべきで、最寄駅から神社の入口まで徒歩10分前後である場合はその参道もまた神社の一部分であると考え、今回は往復ともJR南武線「谷保(やほ)」駅から行き来しました。クルマなら府中国立インターチェンジから遠くないらしいのですが、神社の参拝はクルマでないと行けないか相当行きにくい場所の場合はさておき、基本的には電車・バスなど公共交通機関を利用するという方針にしていますので、今回も電車を利用して行き来しました。
我が家のような千葉県のJR総武線沿線からJR南武線「谷保(やほ)」駅に行く場合は、JR南武線の「谷保」駅の北と南で交差している東京都内から放射状に出ている路線というと、北側がJR中央線で「立川」駅典乗りかえ、南側が京王帝都電鉄で「分倍河原(ぶばいがわら)」駅乗りかえという方法があります。今回は、京王線で分倍河原駅で乗り換えて行き、帰りは立川駅で乗り換えてJR中央線で帰りました。
↑ 京王帝都電鉄「分倍河原(ぶばいがわら)」駅。 今回、京王帝都電鉄と乗り入れしている都営新宿線に「本八幡」駅から乗車しました。「笹塚」駅行きで終点の「笹塚」で下車すると、降りたホームに「京王多摩センター」行き急行が来たのですが、「京王多摩センター」行きということは、どうせ、調布で乗り換えないといけないわけですから、特急を待った方がいいのだろうかと思いながら、とりあえず、「明大前」駅まで乗ることにしたのですが、正解でした。新宿から八王子・高尾山口方面行の特急は新宿の次に笹塚に止まるものかと思っていたら笹塚には急行は止まっても特急は止まらない。 だから、急行の「京王多摩センター」行きに乗って次の「明大前」で降りたのは正解。降りた場所で待っていると、すぐに「高尾山口」行き特急が来ました。 明大前の次は調布・府中・分倍河原とすぐ。 分倍河原駅では京王帝都電鉄からJR南武線に外に出ることなく乗り換えることができる乗りかえ口があって便利ですが、分倍河原駅の駅前に新田義貞の像があるという話でしたので、見てみたい気もしたのですが、今回の訪問先は谷保天満宮ですので、それは次回にまわすことにしました。
※《ウィキペディア―分倍河原の戦い(鎌倉時代)》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%86%E5%80%8D%E6%B2%B3%E5%8E%9F%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84_(%E9%8E%8C%E5%80%89%E6%99%82%E4%BB%A3)
≪ 分倍河原の戦い(ぶばいがわらのたたかい)は、鎌倉時代後期の元弘3年(1333年)5月15日・5月16日に、武蔵国多摩川河畔の分倍河原(現在の東京都府中市)において、北条泰家率いる鎌倉幕府勢と新田義貞率いる反幕府勢との間で行われた合戦である。 ≫ ≪・・・いずれにせよ、分倍河原の戦いにおける義貞の勝利はその後の戦局に大きな影響を与えた。この戦いで新田軍が幕府軍に対し決定的な勝利を収めたことにより、幕府軍は完全に守勢に転じた。この後、新田軍には次々に援軍が加わり、『太平記』によれば60万もの大軍勢になったという。 ≫ ≪ 府中市分梅町の新田川分梅公園に分倍河原古戦場碑がある。分倍河原駅の駅前ロータリーには新田義貞の像がある。新田義貞の顔は鎌倉方面である南を向いている。 ≫
※ 鎌倉幕府滅亡 1333年 「一味、散々(1333)、北条氏」
「分倍河原」というのは、産まれた時から東京圏に住んでいる人にとっては「ぶばいがわら」と読むというのは「そ~んなの、じょおしき~♪」〔⇒《YouTube-『おどるポンポコリン』は、B.B.クイーンズのデビューシングル》https://www.youtube.com/watch?v=-r4DIbDe0DM 〕かもしれませんが、関西人にとっては最初、難読地名でした。 「等々力(とどろき)」とか「九品仏(くほんぶつ)」「上野毛(かみのげ)」とか、いったん、読み方を覚えるとどうってことない地名でも、最初、なんで、「かみのげ」なの? とか思いますでしょ。 「分倍河原」も「ぶんばいがわら」なのか「ふんばいかわはら」なのかなんて読むのだろう? と思いましたが、「ぶばいがわら」が正解のようです。
小学校の4年の時、担任の先生が「おもしろい地名てあると思うけれども、どういうのがありますか?」と質問するので、「十三(じゅうそう)」と言ったところ、「そんなもん、あかん! 十三(じゅうそう)なんて、ちっとも面白くない!」と言われ、「ほかに、面白い地名を知っている人~お」と先生が言い、「大歩危小歩危(おおぼけ)」「親知らず子知らず」「立売堀(いたちぼり)」と言ったヤツがいて、「そうよ。面白い地名というとそういうのを言うものよ。十三(じゅうそう)なんてちっとも面白くないじゃないの。何、言ってんのよ、あんた」と言われたのでしたが、なんか、納得いかない気持ちでした。 母方の祖父母が阪急神戸線の沿線に住んでいてそこに行く時に阪急の電車に乗って窓から外を見ていて、数字の「十三」と書いて「じゅうそう」と読むというのは、へえ~え、数字の13が地名になってるのかあ、それを「じゅうそう」と読むのかあ・・と窓から見て車内放送を聞いて思ったのでしたが、小学校の先生が、これは「面白い地名」として「大歩危小歩危」「親知らず子知らず」「立売堀(いたちぼり)」といったものを指定し、「十三(じゅうそう)」は「面白い地名」ではない! と決めつけるというのは、なんだか納得いかない気持ちでした。・・今も、納得いきません。「十三(じゅうそう)」は阪急の乗換駅・特急停車駅であり、しょっちゅう耳にしていると「面白い」と思わなくなるのかもしれませんが、子供が「面白い」と思えば面白いのであって、大人が「面白い地名」「面白い地名ではない地名」と分類して断定するというのはおかしいと思います。 「建築家」業界の誰やらが「名建築家」と指定した人が設計した建築は「名建築」で、「普通の人」が設計したものは「名建築」ではないと決めつける自称「建築家」というのも変ですけれどもね。「ヒゲはやせば、“建築家”」というのも「ヒゲはやせばラーメン屋」と同様に変ですし・・・。 そう思いませんか?
だいたい、ラーメン屋と「建築家」て、なんで、ヒゲはやしたがるのか・・・? て思いませんか? 「茶髪・長髪・ヒゲはいかん!」と「建築家」のおっさんも野村のじいさんにでも言ってもらった方がいいかもしれません。
≪ ヤクルト監督時代の1997年に対戦した西武との日本シリーズには、嫌な思い出がある。結果だけを見れば、4勝1敗の圧勝に終わったのだが、西武選手の野球に対する姿勢に納得できなかった。
私は例によって対戦前から、敵将・東尾修を挑発する狙いもあり、こんなことを言った。
「西武の選手の茶髪、長髪は目に余る。プロ野球選手として恥ずかしくないのか。こんなチームには絶対に負けるわけにはいかない」
この発言に腹を立てたのか、私が審判の判定を確認するためにグラウンドに出ると、「デブ」「ブタ」「早く引っ込め!」と、西武のベンチからひどいヤジが飛んできた。ユーモアも何もあったものではない。・・・・
おそらく、近頃の指導者は東尾と似たり寄ったりで、「勝てばいい」「野球がうまくなりさえすればいい」としか考えられないのだろう。
私は自分が監督を務めたチームでは必ず茶髪、長髪、ヒゲは禁止した。プロ野球選手は練習で自分を磨き、卓抜したプレーでファンに感動や夢を与える職業である。プロ野球を見ている少年たちへの影響も考え、プロ野球選手は常にプロ野球選手にふさわしい姿を保つべきだ。たかが長髪と、甘く見てはいけない。ひとりの長髪が、チームの野球の質や格を壊してしまうこともある。・・・・
川上さんの時代とは正反対の、およそ巨人らしくない風体で顰蹙を買ったのが清原和博である。彼の金髪やピアス姿を思い出してほしい。チームに好影響を与えただろうか。逆である。清原が金髪にしたり、耳にピアスをしたりしていた頃の巨人はすこしも強くなく、優勝から遠ざかっていた。・・・ ≫
(野村克也『短期決戦の勝ち方』2018.10.10.祥伝社新書 ↓)
↑ JR南武線「分倍河原」駅にて。 手前が「立川」行き。 向こう側が「川崎」行き・・だと思う。
今は昔、川崎市幸区、駅で言うと、「鹿島田(かしまだ)」駅が最寄の場所に住んでいたことがあり、その頃は南武線の電車というと橙色、中央線・青梅線の快速・特別快速、大阪環状線の電車と同じ電車でしたが、今回、見ると、ステンレスの車体に横の線は橙色と黄色の2本の線が引いてあって、それが南武線の特色のようです。↑↓
↑ JR南武線「谷保(やほ)」駅にて。
JR南武線「谷保(やほ)」駅を南西側に降りて、そのまま、細い道を南西側に進んでもいいのですが、「初めて行く所は一回目は堅実な経路で」という原則により、少しだけ立川よりに歩きますと踏切があります。 踏切を横断してきて南西に進む道の向うを見ると鳥居が見えます。そこが谷保天満宮です。 駅のホームや改札口の位置からは見えませんが、ほんの少しだけ北西に歩いた踏切の位置から鳥居が見えますから、たいして遠くない距離です。
( ↑ 旗マークの位置から見た写真です。)
↑ 「門前そば 大黒屋」、天婦羅そば(かけそば に天婦羅が載っているのではなく、「もりそば+天婦羅」)1100円。 おいしかったよ。
この谷保天満宮の鳥居の前を横に走っている道が「甲州街道」で「国道256号」。 さて、鳥居のすぐ前の三叉路の信号に、
↑ 「谷保天満宮前 Yabotenmangu 」 と書かれた掲示が出ています。 そして、すぐ横には↓
↑ 「谷保駅 Yaho Sta. 」
よく見てください。 谷保天満宮は「Yabo」⇒「やぼ」で、谷保駅は「Yaho」⇒「やほ」。
天満宮は「ほ」に濁点がついて「ぼ」、駅名は「ほ」に濁点はつかず、「ほ」のまま。
な~んでだ?
JR南武線のプラットホームの駅名表示はどうなっているかというと↓
↑ 「やほ」 「Yaho」。 「ほ」に濁点はつかない。 こっちは、これまでにも南武線に乗ったことは何度もあり、車内放送での駅名案内で何度も「やほ」と聞いているので、「やほ」だろうと思っていたが、なんで、天満宮は「やぼ」で駅名は「やほ」なの?
まあ、こういうことは時々ありますよね。 京都市の「西院」は阪急京都線の駅名は「さいいん」で、京福電鉄の駅名は「さい」。 最初、見た時は、京福電鉄は経営が苦しいので、後ろの「いん」がこすれて消えたが書き直すことができないということだろうか・・・なんて思ったのですが、その後、何十年か経って乗っても、相変わらず、「さい」。 駅名表示板はきれいになって予算がないから2文字減らしたて感じでもない。 要するに、「さいいん」という説と「さい」という説の両方の説があって、阪急は「さいいん」を採用し京福電鉄は「さい」を採用したということらしい。カバならぬサイにバカされたのではない。
東京の「秋葉原」は、これは当然、「あきはばら」と思っていたら、秋葉(あきば)神社から命名された名前だというが、静岡県の今は浜松市になった防火の神さん 秋葉神社は「あきば」だが、駅名・地名になったら読みやすいように「あきはばら」だと思っていたら、最近になって「あきば」派が勢力を盛り返してきたみたいで、「あきば」と「は」に濁点をつける「派」が強くなり、「あきはばら」派に対して「あきばはら」派がほぼ五分に盛り返してきたみたい。
東海道新幹線の岐阜羽島と京都の間、彦根の東、長浜の南の「米原」は、これは「まいばら」だと思っていたし、時刻表のふりがなを見ても「まいばら」だし新幹線や東海道本線の車内での案内でも「まいばら」と言っているので当然「まいばら」だと思っていたのだが、書店でパラパラっと見た本なので書名は忘れてしまったが、「米原」はもともとは「まいはら」で「は」に濁点はつかなかったらしいが、国鉄の時代の東海道本線が駅名に「まいばら」とフリガナを打ってしまったことから「まいばら」が広まり、「まいはら」派も、別に「まいはら」でも「まいばら」でもどっちでもええんちゃう・・・みたいな感じで「まいばら」が優勢になっているらしい。
千葉県船橋市の「飯山満」は、これは「いいやま みつる」という人名ではない。 それなら何と読むのかというと、東葉高速鉄道の駅名では「はさま Hasama」〔《ウィキペディア―飯山満駅》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A3%AF%E5%B1%B1%E6%BA%80%E9%A7%85 〕 なのだが、千葉銀行の支店名は「はざま支店」とひらがなで「さ」には濁点がついて「ざ」になっている。 「はさま」説と「はざま」説があるようだ。
このように、「さい」説と「さいいん」説、「あきはばら」説と「あきばはら」説、「はさま」説と「はざま」説がある地名、もともとは「まいはら」だったが「まいばら」でもいいかあ・・・て感じになってる地名があるが、しかし、「やほ」と「やぼ」では濁点がつくかつかないかの違いのように思えて、実は、「やぼ」と濁点がつくと「野暮(やぼ)」につながりそうで、その違いは必ずしも小さいものではない。
《ウィキペディア-谷保天満宮》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B0%B7%E4%BF%9D%E5%A4%A9%E6%BA%80%E5%AE%AE には、≪南武鉄道(現:JR南武線)が谷保駅の駅名を「やほ」としたため、地名の「谷保」までも「やほ」と言うようになってしまったが、本来の読み方は「やぼ」である。 ≫とある。「まいはら」を駅名で「まいばら」にしたことから「まいばら」になったようなケースか・・。
この 「谷保」⇔「やぼ」⇔「野暮」 についてだが、『わかりやすい天神信仰 学問の神さま』(1994.12.20. (株)鎌倉新書 )に説明書きには、
≪ 俗にいう″野暮天″は「広辞苑」などによると――谷保天神像から出た語。きわめて野暮なこと。やぼすけ――などとある。 その由来は、昔、江戸の目白で谷保天満宮の御開帳をしたことがあったが、凶作の年などは氏子総代と相談して代わりの御神体を出し、大いに喜捨を集めることができた。たまたま神無月の十月だったため、有名な太田蜀山人が「神ならば出雲の国へ行くべきに目白で開帳ヤボのてんじん」の狂歌をものして皮肉ったのが、江戸ッ子の間で広まったというわけ。 しかし、本物の御神体は優雅な秀作というから、天神さんにとっては迷惑な話といえよう。 ≫
とある。
・・・そういうことでなのかどうなのか、天満宮は「やぼ天満宮」ということらしい。
さて、「大歩危小歩危」「親知らず子知らず」「立売堀(いたちぼり)」は「面白い地名」で、「十三(じゅうそう)」は「そんなのちっとも面白くない」「面白いわけないでしょう」と即座に断定した私が小学校4年だった時の先生は、「谷保(やほ)」と「谷保(やぼ)」については「面白い地名」に分類することになるか、「ちっとも面白くない」に分類するのか・・・・。 まあ、その先生がどっちに分類しようが、どっちと思うかは人それぞれの自由だと思う。私は「十三(じゅうそう)については「面白い地名」だと今も思っている。阪急電鉄の案内書きによると、淀川の渡しがいくつかあって、その十三番目の渡しがあった場所だから「十三」と書いて「じゅうそう」と言うというのだが、そうかな? とも思うのだ。 栃木県の県庁所在地の宇都宮(うつのみや)は、二荒山神社が下野の国の一の宮だったことから、「いちのみや」⇒「うちのみや」⇒「うつのみや」になってその読みに「好ましい漢字」が充てられて「宇都宮(うつのみや」になったという説が広まっていてけっこう有力なのだが、塙静夫『とちぎの地名を探る』(1996.11.2.随想舎)では、そうではなく、
≪私は以前から宇都宮は「ウツ・ノ・ミヤ」という語源から、崩崖・崩落地名説を唱えている。つまり、ウツは「落・棄・打」で、落ちる・棄てる・ばさっと落とす・切り取るの意から、崩落・崩崖を意味しよう。ノは助詞と思われるが、『日本国語大辞典』(小学館)に「古代にノ(野)と呼ばれている実際の土地の状況などを見ると、低木などの繁った山裾、高原、台地状のやや起伏に富んだ平坦地を呼んだものかと思う」とあるので、山丘などの裾部を意味するのかもしれない。ミヤは御屋で神社の意である。
これらのことによって、宇都宮の地名は「崩落を起こす山丘上の神社」に由来するものであり、その門前に開けたので神社名がそのまま地名になったと思われる。≫
と書かれており、宇都宮が一の宮から来た地名ではないと推測する理由のひとつとして、
≪ 宇都宮は式内舎二荒山神社の門前町として開けたので「一の宮」が転訛して「宇都宮」になったという説が流布している。しかし、古代に「一の宮」は六〇余国に鎮座していたから、下野国の「一の宮」のみが宇都宮に転訛したという説は不自然である。・・・≫
と塙静夫氏は指摘しているのだが、「十三(じゅうそう)」もまた、淀川の13番目の渡しがあった場所だからという説明だと、1番目から12番目までは地名にならず、13番目だけが地名になったというのは不自然にも思えるし、十三のすぐ南を流れている淀川は厳密には「新淀川」で、江戸時代半ばまでは毛馬の閘門から南に流れる大川(旧淀川)が「淀川」だったわけであり、新淀川と大川(旧淀川)が分かれてからの新淀川の方に渡しがあってそれが地名になったというのは、本当かな・・とも思うのだ。 「じゅうそう」という読みから考えて、もしかして、「重曹(じゅうそう)」を作る工場か、重曹を使って何かを作る工場でもこの近くにあった、なんてことないか、とか。もしくは、大阪市の梅田から十三(じゅうそう)にかけて、阪急電鉄の神戸線・宝塚線・京都線の鉄橋が重層にかかっているさまを見て、それが地名になり、「重層」を簡略化して「十三」にしたなんて可能性はないかとか考えた。さらに、内田康夫『十三の冥府』を読んで、そこに「十三参り」というのが出てきたのだが、「十三(じゅうさん)参り」は関西でおこなわれることが多く、もしかして、「十三(じゅうそう)」は「十三(じゅうさん)参り」から「十三(じゅうそう」という地名になったとかいうことはないだろうか・・・とか考えた。実際にどうなのかはわからないが、ともかく、こういったことを考えてみると、「十三(じゅうそう)なんてそんなの、あかん。そんなのちっとも面白くない!」と断定されるというのは、やっぱり、どうも納得いかん。 「谷保(やほ)」と「谷保(やぼ)」を「面白い地名」とその先生が判断するか、「ちっとも面白くないでしょ、そんなもの!」と判断するか、そんなことはどっちでもいいことだ。その先生が「ちっとも面白くない」と思っても、当方が「面白い」と考えたなら面白いのだ。
1970年代後半、私が浪人中のことだが、父が「親友」の医者屋のM川(男。当時、50代前半。当時、大阪府豊中市在住)が「『宗教はアヘンである』とマルクスは言うてお~る!」と吹き込み、父はそれを聞いて、「そうじゃ。その通りじゃ。『宗教はアヘンであ~る。とってちってたあ~あ! 焼き討ちじゃあ、焼き討ちじゃあ~あ! 焼~き討ちじゃあ~あ!』と毎日毎日言うようになってしまった。哲学科に行って宗教哲学の研究者になりたいという気持ちがあった私に対する妨害行為のひとつだったようだが、カール=マルクスさんはたしかに『ヘーゲル法哲学批判序説』の中で「宗教はアヘン」という表現を1回だけ使用しているが、しかし、蔵原惟人『宗教・その起源と役割』(新日本新書)が的確に指摘しているが、この「宗教はアヘン」という表現はマルクスが初めて使用した表現ではなく、マルクスが生きた時代のドイツでよく使われていた表現らしく、そして、なにより、「アヘン」という言葉には「毒薬」という意味と「なぐさめ」という意味があり、マルクスは「宗教はアヘン」という表現を決して「毒薬」という意味で使用しておらず、「宗教はアヘン」という表現でマルクスは「宗教は貧しい人たちにとってのなぐさめである」という内容を述べている。決して「毒薬」という意味で「宗教はアヘン」という表現を使っていない。 ところが、父は医者屋のM川から「『宗教はアヘンである』とマルクスは言うてお~る!」と教えられて、「そうや。その通りじゃ!」と思いこみ、「宗教はアヘンであるとマルクスは言うてお~る! 焼き討ちじゃあ! 焼き討ちじゃあ! 焼~き討ちじゃあ~あ! とってちってたあ~あ!!!」と毎日毎日言うようになった。そういうことにして、私が行きたい大学の行きたい学部に進学するのを妨害しようとしたのであった。 マルクスさんがどういう意味で言っていたとしても、もし、マルクスさんであれ何さんであれ、その人が言うことがもっともだと思ったならば、その人が主張する考え方を採用すればいいだろうけれども、そうでなければ、何さんが何をおっしゃったとしても、別段、その主張を採用しなければならない筋合いはないはずだ。 うちの父親は、普段から、「戦艦長門の一隻でもあったら、ソ連をやっつけてやるのになあ~あ」「ロスケはずるい。ずるいはロスケ」「日教組は全員、刑務所に叩きこめえ! 共産党は死刑にしろ! 朝日新聞の記者は全員、死刑であ~る!」とか叫んでいるおっさんだった。そういうおっさんが、なにゆえ、「宗教はアヘン」というその表現限定で「教条的マルクス主義者」になるのか、なんとも摩訶不思議だったのだが、そういうおっさんだった。そういうおっさんをあしらうことができず、小学校の1年から同級生が遊んでいる時も勉強し続けてきた成果をドブに捨てさせられることになったが、それにしても、マルクスさんであれ何さんであれ、「・・・と◇◇は言うてお~る」と言ってその主張・・・というよりも、マルクスさんの「宗教はアヘン」という表現については誤解をもとに「焼き討ちじゃあ。焼き討ちじゃあ~あ! とってちってたあ~あ!」と叫びまくるおっさんというのは困ったおっさんだったが、いいかげんなマルクスの理解のもとにいいかげんな話を吹き込む男というのも困った男だった。普通、親というのはそういう「外敵」から息子を守る存在ではないのかとか思ったこともあったが、我が家はそうではなく、そういう「外敵」を引っ張り込んでくるようなところがあった。
いずれにせよ、どこの何さんが何と言おうとも、自分が「面白い」と思えば「面白い」のであって、「◇◇が・・・と言うてお~る」と言われても、「ああ、そうですか」でいいことではないかと思う。「谷保(やほ)」と「谷保(やぼ)」は「面白い」方の地名だと思うし、そもそも、地名に面白くない地名なんてほとんどない。あるとすると、浦和セブン(浦和・西浦和・北浦和・東浦和・南浦和・中浦和・武蔵浦和)とか船橋5兄弟(船橋・西船橋・東船橋・南船橋・新船橋)とか「新習志野」とかいう駅名のつけかたは「面白くない」。もうちょっと何とかならんもんかと思う。「高輪ゲッターロボ」もあんまりいいとは思わん。
次回 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201903article_2.html 、谷保天満宮 境内へ・・・
(2019.3.11.)
★谷保天満宮(国立市)参拝
1.谷保駅から鳥居。「やほ」と「やぼ」〔今回〕
2.坂を下り、拝殿・本殿と鶏 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201903article_2.html
3.五社、三郎殿、厳島神社、狛犬、座牛 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201903article_3.html
4.神楽殿・筆塚https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201903article_4.html
5.梅林、稲荷社、第六天神社https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201903article_5.html
≪ ある日彼はさる客間で、既に予審がすんで、まさに判決が下されようとしている一つの犯罪事件のことを耳にした。ある困窮な男が、金を得る手段もつき果てて、一人の女とその間にできた子供とを愛するあまり、貨幣を贋造した。当時なお貨幣贋造は死刑をもって罰せられたものであった。女は男が造った贋造貨幣を始めに使って捕らえられた。彼女は拘留されたけれども、彼女の現行犯以外には何らの証拠も得られなかった。ただ彼女のみがその情人(おとこ)の罪証を挙げることができ、自白によって彼を破滅させしむることができるのであった。彼女は否認した。いかに尋問されても、彼女はかたく否認して動かなかった。そこで検事はある手段を考えついた。彼は情人(おとこ)の不実を言い立て、巧みに偽った手紙の紙片を見せて、彼女には一人の競争者があり、彼女は男から欺かれたのであるということを、ついにその不幸な女に信じさせてしまった。そのとき女は嫉妬の情に駆られて、男を訴え、すべてを白状しすべてを立証した。男の罪は定まった。彼はその共犯者の女とともに近々エークスで判決を下されることになっていた。
人々はその事実を語り合って、皆検事の巧妙さに讃嘆した。彼は嫉妬心を利用して、怒りの念によって真実を現させ、復讐心から正義を引き出したのであると言われた。司教はそれを黙って聞いていた。そして話が終わると彼は尋ねた。
「その男と女はどこで裁判されるのですか。」
「重罪裁判所においてです。」
司祭はまた言った。
「そしてその検事はどこで裁判されるのですか。」 ・・・≫
( ヴィクトル=ユーゴー『レ・ミゼラブル(惨めなる人々) (一)』豊島与志雄訳 1987.岩波文庫 ↑)
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