谷保天満宮参拝【2/5】鳥居から坂を下り、拝殿・本殿と鶏。会社にいる『水滸伝』登場人物
[第683回] 冤罪を晴らす神さま・菅原道真・怨念を晴らすお百度参り49念-2
谷保天満宮(東京都国立市谷保)を甲州街道(都道256号)に面した鳥居から入ると下り坂になります。↓

↑ 赤い鳥居マークの位置から見た写真です。 中央の額には「天満宮」と書かれています。
この写真でも鳥居から向こう側は坂を下るようになっているのがわかります。 一般に神社とか寺は、周囲よりもいくらか高い場所に建てられることが多く、いくらか坂を登るか階段を登るかする場合が多いように思います。 大阪市の南御堂・北御堂などは、もともと、平地であったはずですが、意図的に高くして階段で登るようになっていますが、あれはあんまりいいとは思いません。兵庫県宝塚市の中山寺では、私が小学生の頃に行った時にはなかった屋外用エスカレーターがついていると本で見ましたが、「バリアフリー」と言われる今、わざわざ、高くして階段を作るというのはどうかと思いますが、寺とか神社とかは周囲より高い場所に設けることが多いのは確かだと思います。家相においても、神社や寺のすぐ下というのは家相・地相として悪くはないが、上から見下ろすものではないと言われ、ホテルニュージャパンの火災事故も日吉神社を上から見下ろすように建ったホテルだから起ったのだといったことを言う人もあったりするようです。ホテルニュージャパンの事故がそうなのかどうかは私は知りませんが、神社は見上げるのはかまわないが見下ろすものではないとは家相において言われます・・・が、なんで、この谷保天満宮は街道から坂を下りて社殿に行くように立地しているのだろう? 1月に参拝した府中市の大國魂神社は社殿が北を向いている神社でしたが、この谷保天満宮は鳥居から坂を下って社殿に至るようになっています。

( ↑ 赤の「鳥居」マークが谷保天満宮 本殿です。 )
鳥居をくぐってすぐ右の林は「谷保天満宮社叢(やぼてんまんぐうしゃそう)」として東京都指定天然記念物になっているらしい。↓
↑ 現地でのその説明書きには、
≪ ・・・・甲州街道は17世紀のある時期まで、谷保のあたりでは立川段丘の下を通っていましたので、天満宮の本殿・拝殿は街道に面し、南向きに建てられています。
甲州街道が段丘上を通るようになると、人の流れも変わり、参道は駅や甲州街道側からこの鎮守の森を抜け、本殿に向かうようになりました。
かつては谷保天満宮を取り囲んで、スギを主体とする鬱蒼とした森が広がっていました。現在はケヤキ、ムクノキ、エノキなどが優先する林となっています。また河岸段丘の豊富な湧水が流れ、神社に風格を添えています。
平成24年(2012年)3月建設 東京都教育委員会 ≫
と書かれており、現在、JR南武線「谷保」駅の方から平地を歩いてきて鳥居に至ると、そこから鳥居をくぐった後は坂を下るようになっているのは谷保天満宮が設立された時からのことではなく、最初は街道がこの坂よりも下側を通っていたことから、その街道から入るようになっていたが、後に街道が段丘の上側を通るようになったために、参道を街道からかつては鎮守の杜であった場所を坂道と階段で下って社殿の前に出るという経路に変わった、ということらしい。 ここでも「谷保天満宮」のフリガナは「やぼてんまんぐう」と「ほ」に濁点がついて「ぼ」になっています。
鳥居をくぐり、坂道を下り階段を降りると右手に拝殿が見えます。↓
↑ 谷保天満宮 拝殿。 左右の桶、賽銭箱に梅鉢の紋が見えます。
↑ 屋根の瓦にも梅鉢の紋が見えます。
↑ 拝殿、右手前から見たものです。

( ↑ 赤い鳥居マークが拝殿です。 )
谷保天満宮では、後宇多天皇勅額「天満宮」と村上天皇奉献「狛犬一対」が国指定重要文化財に指定されているそうで、↑の社叢が東京都指定天然記念物に指定され、そして、拝殿と本殿が「国立市指定文化財」の「有形・建造物」http://www.city.kunitachi.tokyo.jp/soshiki/Dept08/Div03/Sec01/gyomu/0061/0062/0067/0070/1463551208423.html に指定されているらしい。
もっとも、「狛犬一対」というのは、国立市HPの「国指定文化財(3)」http://www.city.kunitachi.tokyo.jp/about/about1/about2/about4/1465447523804.html は木造の彫刻らしく、現在、拝殿の手前の左右に座している狛犬ではなく、都道256号の側の鳥居の前の左右に座している狛犬でもないようです。国立市HPには「公開」と書かれていますので、社務所の上の宝物館で公開されているのかもしれません。 今回は、なにしろ、花粉症の季節で、眼もかゆみを通り越して痛みが出てきて鼻はくしゃみも鼻水も出てきて、もはやこれ以上は外にいたくない! という状態のため、早々に帰ってきたため、宝物館を見学することができませんでしたが、そこにあったのかもしれません。
後宇多天皇勅額「天満宮」というのも、木造の彫刻ですから、鳥居にかかっているものとは違う。社殿にかかっているものがどうだったかはわからないが、これも、おそらく、宝物館にあるのではないでしょうか。
「国指定文化財」と「国登録文化財」、「市指定文化財」と「市登録文化財」があるようで、どう違うんだ? ・・・というと、国立市の場合は、
国指定文化財は谷保天満宮の「扁額 天満宮」と狛犬一対ほか1点で計3点が国指定文化財で重要文化財の指定。 それに
一橋大学兼松講堂とか6点が国指定登録文化財。
都指定文化財は谷保天満宮社叢ほか2点。
市指定文化財は22点ありそのうち建造物は7点で、谷保天満宮拝殿と谷保天満宮本殿附棟札 ほか5点。
市登録文化財は86点で、そのうち、
市登録有形建造物は谷保天満宮末社厳島神社附棟札 ほかhttp://www.city.kunitachi.tokyo.jp/soshiki/Dept08/Div03/Sec01/gyomu/0061/0062/0067/0071/1463551215518.html 計7点。
なんだか、わかったようなわからないようなですが、国指定重要文化財⇒国指定登録文化財⇒市指定文化財⇒市登録有形文化財 と少しずつ、「格」が違うのでしょう。 国指定登録文化財と都登録有形文化財、都登録有形文化財と市指定文化財ならどっちが上なんだ? というと、なんかよくわからんのですが、国⇒都道府県⇒市町村、 指定文化財⇒指定登録文化財 という順番のようです。 谷保天満宮のものでは、
国指定重要文化財・・・・「扁額 天満宮」、狛犬一対。
↓
都指定文化財・・・・社叢
↓
市指定文化財・・・・拝殿・本殿附棟札
↓
市指定登録文化財・・・・末社厳島神社附棟札・神楽殿附棟札
・・・となるようです。 まあ、そうは言いましても、これらの「指定」というのはどこかの誰かが決めたものですから、一応、参考にするとしても、あまりにも絶対視してしまうと、あらかじめ、「名建築家」というのが決められていて、「名建築家」が設計したもの⇒「名建築」としてせっせと称賛。 「普通の人」が設計したもの⇒無視 という「パブロフの犬」反応をする「建築家」「デザイナー」「いっきゅうけんちくしい~い」みたいになってしまいますから、そういうアホの真似はやめておきましょう。
※ 《ウィキペディア―イワン・パブロフ》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%AF%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%91%E3%83%96%E3%83%AD%E3%83%95
《ウィキペディア―条件反射》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%A1%E4%BB%B6%E5%8F%8D%E5%B0%84
↑ 拝殿の前の鶏。
谷保天満宮の境内には何種類もの鶏がおり、谷保天満宮のホームページの「境内案内図」http://www.yabotenmangu.or.jp/guidemap.html のところにも鶏の写真が掲載されています。 私が小学生だった頃、大阪府箕面市の箕面市役所と箕面市市民会館の横あたりで鶏を飼っている所があり、学校から市民会館に行った時、大阪市内で育った私は、ここは鶏を飼っているんだと珍しく思って見たことがありましたが、何段もの棚になった所に白色レグホン(と思う)の鶏が何羽も並んでいたのを見て、鶏ってこうやって飼うものなのか・・・と思ったのでしたが、雁屋哲の『美味しんぼ』など読むと、本来は鶏は地面の上で放し飼いにして買うのが望ましく、棚の上に何羽も押し込んで飼うというのは理想的ではないらしい。その時、そこで見たのは白色レグホンだと思うのですが、いわゆる「普通の白い鶏」でしたが、今は市街化が進みその場所に行ってももう鶏を見ることはできません。その後、小学校4年の夏休みに広島県の宮島に行くと、尾長鶏とか、鶏は鶏でも卵を産んでもらってそれを食べるためとか、鶏肉を食べるためとかではなく「見て楽しむ」という鶏がいるのを見ました。 『鬼平犯科帳』には「五鉄」という「軍鶏(しゃも)鍋」を名物料理にする店が登場しますが、軍鶏(しゃも)なんてのは気が荒く、大人でも怖いみたいな鶏ですが、この谷保天満宮にはさすがに軍鶏はいません。(もっとも、「コミック乱ツインズ」に掲載中の「軍鶏侍」によると、軍鶏が戦う相手はあくまでも軍鶏の雄であって、それも自分と同等以上の実力のある雄と見た場合で、他の動物や雌、軍鶏の雄でも格下とは戦わないらしいが)又、尾長鶏といった「踏みそうで気をつかう」鶏もいませんが、↑のような黄色系の鶏や黒の鶏、白の鶏などいろいろいます。 なんで、天満宮に鶏がいるのだろう・・と思い、社務所で巫女さんに尋ねてみたのですが、獅子舞の時に飼うようになったものが野生化した、というものらしい。 「放し飼い」かと思ったのですが、「野生化」だというのです・・・・が、鶏というのは犬とか猫とかと違って「鶏根性」といってけっこう性格がきつく、必ずしも人間になつく動物ではないように思うのですが、見ていても鶏同士でつつきあって喧嘩したりもしているようなのですが、大人は大丈夫そうですが、子供が鶏のことをよく知らないで柴犬とか猫カフェの猫みたいに思って近寄っていくと危ないということはないのだろうか・・・なんてふと思いました。「野生化した」といっても、やっぱり、人間がエサをやってるのでしょうね。鶏だってエサくれる相手に襲いかかるということはあまりないでしょうし。そのあたり、「一流企業の従業員」みたいなもん(?)かもしれません。私らが勤めてきたような三流以下企業だとオーナー経営者とその取り巻きだけがいい思いしてますから、最初は「愛社精神」があっても、そのうち、会社に対する思い入れはあっても、オーナー経営者に対しては憎しみを持つようになっていき、さらにそのうち、「思いしれえ!」という気持ちになったり・・・とか。それは、たとえば、(株)一条工務店https://www.ichijo.co.jp/ の経営者のように、おのれを犠牲にして会社のために滅私奉公・破私奉公を繰り返してきた従業員に対して恩を仇で返すようなことをする経営者に問題があるのですけれどもね。
( ↑↓ 横山光輝『水滸伝 第2巻』2006.4.10.潮出版社。↑↓
滅私奉公・破私奉公してきた相手から恩を仇で返すような仕打ちをされた、まさに私が(株)一条工務店の経営者からされたような仕打ちを受けた『水滸伝』の↑の男は「黄信(こうしん)」。)
エサをきっちりやってる家畜・家禽とエサをまともにもらえない家畜・家禽との違いというのは大きいですよねえ・・・( ノД`)シクシク… 最初は「会社のために」滅私奉公を続けてきた者も、アホ経営者の会社では、そのうち「梁山泊」の抵抗勢力になる可能性も出てくるかもしれません。(株)一条工務店にも『水滸伝』の登場人物の「高俅(こうきゅう)みたいなやつ」というのがいましたねえ、ほんと。王倫みたいのもいたし。「梁山泊の精神」と言っていた初代社長大澄賢二郎はやっぱり梁山泊初代首領の王倫(おうりん)でしょうね。「みみっちい性格の王倫」・・・王倫の周りには高俅みたいのがいっぱいいましたよね・・・。今の社長はよそから呼んできた蘆俊義(ろしゅんぎ)で2代目社長の山本庄一は影武者 晁蓋(ちょうがい)でしょう・・。「刃物で女を刺し殺して官憲に追われ逃げる」というまさに「梁山泊の精神」を実行した初代社長 大澄賢二郎の息子で(株)一条工務店の関連会社で損害保険の会社の(株)日信の社長になっていたらしい大澄隆史はやっぱり宋江(そうこう)でしょうね・・・まさに「梁山泊」・・・( 一一)
神社には、社殿の背後にまわることができる神社と前から拝むもので背後にまわることはできない神社がありますが、谷保天満宮は右にも左にも後ろにも行くことはできます。 社殿の背後の位置に「五社」(稲荷・妙義・日吉・熊野・天照)を祀る社と「五社殿」がありますから、行くなというわけにもいかないということもあるかもしれませんが、京都の北野天満宮も大阪天満宮も社殿の後ろからも拝むように拝む場所が設営されており(当然、賽銭箱も設営されており)、後ろからも拝むようになっています。大阪府豊中市の服部天神宮は、電車で行く場合、阪急宝塚線「服部天神」駅で降りて東にすぐの位置で、「普通に行くと西から入る」ことになりますが、能勢街道というのか池田街道というのかが服部天神宮の東側を南北に通っており、もともとは「東側から入るのが普通」の神社だったからか、東面と西面の両方に参拝する場所が設営されています。 神社でも山がご神体とかいう神社の場合は、拝殿からその山の方を拝むので社殿の後ろにまわる意味がないのに対し、天神・天満・菅原・北野系神社というのは祭神は菅原道真ですから、本殿に道真の霊を祀っている神社では、本殿の内部に道真の霊がおられるという想定で、本殿の後ろが重要ということではありませんから、だから、北野天満宮にしても大阪天満宮にしても服部天神宮にしても前からとともに後ろからも拝めるようになっているということでしょうか。 大阪市の今宮戎神社では、戎さんというのは「しょっちゅう居眠りしている」「物忘れが多い」という神さんなので、念を押して頼むために、前から拝むとともに、後ろにもまわって後ろからも「えべっさん、よろしゅうお願いしまっせ」と言って頼んで帰るという話があるが、「えべっさん」は特に庶民的な「神さん」だということもあるでしょうけれども、大阪の神さんというのはそういう傾向の神さんが多いのかもしれません。
で、谷保天満宮ですが↓、拝殿・幣殿(石の間)・本殿と南南東から北北西の方向に並んでいます。
( ↑拝殿 裏面。 北西から見て。)
( 社殿 南側から見て。 〔向こう〕本殿、 〔中〕幣殿(石の間)、 〔右手前〕拝殿。 )
( 本殿。 西南西側から見て。 )
( 社殿背面。 北西側から見て。 〔手前〕本殿、 〔中〕幣殿(石の間)、 〔向こう〕拝殿。 )

↑ 本殿を西南西から見たものです。 ここの本殿を見て気づいたのですが、神社の社殿というのは、「腰から上」、「床の位置から上」「土台から上」の位置は飾り立てることがあっても、「腰から下」、「床より下」、「土台より下」については、床下換気をはかることができるように高くとって通風をはかるという構造上の配慮はしても、あまり飾らず、シンプルなことが多いように思ったのですが、この谷保天満宮の本殿では「腰から下」もけっこう飾られています。
「五社」と「三郎殿」については次回にまわしまして、今回は社殿の北東側からの写真を掲載します。↓
( ↑ 本殿 西北西側から見て。 )
↑の本殿の写真を見てください。 この社殿は何造りだと思います? 「拝殿+幣殿(石の間)+本殿」の3部構成という点から考えると、北野天満宮・大阪天満宮などと同じ「石の間造り」ということでしょうか。 日光東照宮・上野東照宮などを「権現造り」と言っていますが、仙台の大崎八幡宮は大崎八幡宮の方が日光東照宮よりも先だということから「権現造り」と言わずに「石の間造り」と言っているというのですが、先か後かということよりも、ともかく、「拝殿+幣殿(石の間)+本殿」の3部構成なら「権現造り」と言うということなら北野天満宮も大阪天満宮も谷保天満宮も「権現造り」であり「石の間造り」であるということになります。 しかし、日光東照宮に代表される「権現造り」は「拝殿+幣殿(石の間)+本殿」の3部構成であるということとともに、「きんきらきん にさりげなく♪」という点があってこそであり、「拝殿+幣殿(石の間)+本殿」の3部構成であっても「きんきらきん」に塗りまくり刻みまくりというのがないものは「権現造り」とは言わないとするのなら、日光東照宮は「権現造り」ではあっても、「石の間造り」であるが「権現造り」ではないという社殿は少なくないはずで、谷保天満宮もそのうちではないかと思います。
それとともに、↑の写真を見て考えていただきたいのですが、この本殿だけを見ると、「流れ造り」と違いますか? 「拝殿+幣殿(石の間)+流造の本殿」ということでしょうか・・・・。 「建築探偵団」にとって、神社の造りというのは観察すると面白いですよね(^^♪
( ↑ 本殿 南東側から見たもの。 )
ところで、国立市指定文化財http://www.city.kunitachi.tokyo.jp/soshiki/Dept08/Div03/Sec01/gyomu/0061/0062/0067/0070/1463551208423.html に拝殿と本殿が指定されている・・ということは、幣殿(石の間)は指定外ということなのでしょうか? 本殿の屋根が流造になっていて石の間の上まで伸びているようにも↑の写真では見えるようにも思うのですが・・・、しかし、それでも、「石の間(幣殿)」の部分はありますよね。
国立市HP の 「市指定有形・建造物」http://www.city.kunitachi.tokyo.jp/soshiki/Dept08/Div03/Sec01/gyomu/0061/0062/0067/0070/1463551208423.html によると、
本殿 附棟札 は、1971年(大阪万博開催の1970年の翌年)(浅間山荘事件の1972年の前年)指定。≪ 本殿は、三間社流造で寛延2(1749)年に上谷保村の佐伯源七により建築されました。桁行三間(5.4メートル)、梁間二間(3.6メートル)、6坪(約20平方メートル)の母屋の前に一間(1.8メートル)の庇をつけたものです。 屋根は母屋の切妻造がのびて庇に続き、長く緩やかに流れるような曲線となり、ここから流造の名が起こっています。外観は、彩色調査の結果、日光東照宮のようにきらびやかな極彩色が施されていたことがわかりました。 ≫
徳川吉宗が将軍であったのが1716年から1745年で、1749年は徳川吉宗が征夷大将軍を辞職した年の1745年の4年後。〔 《ウィキペディア-徳川吉宗》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%90%89%E5%AE%97 〕
1749年は「火縄くすぶる(1789)バスチーユ」「千難万苦(1789)のフランス革命」の1789年の40年前。
拝殿も、1971年指定。 ≪ ・・・正面の向拝は軒唐破風付入母屋造りです。嘉永4(1851)年に建築されたと考え られています。≫
1851年は、「大塩一党は皆(1837)立ち上がる」の1837年の大塩平八郎の乱の14年後。
「万国の労働者よ、〔一番弱(1848)いぞ〕団結せよ」の『共産党宣言』発表の1848年の3年後、
明治維新の1868年(明治1年)の17年前。
本殿は18世紀中ごろ、拝殿は19世紀中ごろの築造で、本殿の方が100年ほど古いらしい。本殿だけで流造の社殿としても成りたちそうにも思えたが、もしかすると、最初は本殿のみが流造の社殿として建てられて使われてきて、100年程後に拝殿が建てられて後から「拝殿-幣殿-本殿」の3部構成になった、ということだろうか・・。
※ 谷保天満宮HP http://www.yabotenmangu.or.jp/
次回、五社、三郎殿、厳島神社(市登録有形建造物)、左右に2体ずついる狛犬、座牛 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201903article_3.html
(2019.3.12.)
★ 谷保天満宮(国立市)参拝
1.谷保駅から鳥居。「やほ」と「やぼ」。「面白い地名」とは? https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201903article_1.html
2.鳥居から坂を下り、拝殿・本殿と鶏。会社にいる『水滸伝』登場人物 〔今回〕
3.五社、三郎殿、厳島神社(市登録有形建造物)、左右に2体ずついる狛犬、座牛 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201903article_3.html
4.神楽殿・筆塚。ひとに「親孝行せえよお」と言ってストレス解消する教育勅語主義者 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201903article_4.html
5.梅林、稲荷社、第六天神社。建築は構造・機能・デザイン・経済性をともに満たしてこそ https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201903article_5.html
★ 冤罪を晴らす神さま・菅原道真・怨念を晴らすお百度参り
東京都
亀戸天神社(江東区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201301article_7.html
亀戸天神社 2回目 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201505article_1.html
湯島天神社(文京区)
上 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201602article_10.html
中 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201602article_11.html
下 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201602article_12.html
北野神社(文京区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201303article_2.html
平河天満宮(千代田区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201210article_3.html
西向天神社(新宿区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201502article_1.html
根津美術館 庭園内 渡唐天神祠(「飛梅祠」)(港区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201603article_3.html
若林天満宮・若林北野神社(世田谷区)https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201312article_5.html
平塚神社 摂社菅原神社〔平塚天神社〕(北区)https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201807article_10.html
谷保天満宮(国立市) 〔今回〕
千葉県
葛飾天満宮(市川市) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201301article_4.html
白幡天神社(市川市)
1.https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201511article_1.html
2.https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201511article_2.html
3.https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201511article_3.html
市川市北方町4丁目の天神社 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201608article_2.html
意富比神社 末社天神社(船橋市) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201302article_10.html
船橋市東船橋の「天神社」 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201311article_1.html
下飯山満神明神社 摂社天神社(船橋市) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201503article_4.html
白井市河原子の天満宮 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201303article_5.html
子守神社 摂社天神社(千葉市花見川区)https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201605article_3.html
千葉神社 摂社千葉天神 と 鵜の森町の「神札」(千葉市中央区)
(上)https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201305article_2.html
(下)https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201305article_3.html
北總天満宮(千葉市中央区)https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201308article_1.html
新町天満宮(千葉市中央区)
【上】 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201703article_6.html
【下】 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201703article_7.html
神奈川県
三渓園天満宮(横浜市中区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201303article_8.html
永谷天満宮(横浜市港南区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201309article_1.html
荏柄天神社(鎌倉市) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201401article_7.html
北野神社(鎌倉市山崎)https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201504article_2.html
谷保天満宮(東京都国立市谷保)を甲州街道(都道256号)に面した鳥居から入ると下り坂になります。↓
↑ 赤い鳥居マークの位置から見た写真です。 中央の額には「天満宮」と書かれています。
この写真でも鳥居から向こう側は坂を下るようになっているのがわかります。 一般に神社とか寺は、周囲よりもいくらか高い場所に建てられることが多く、いくらか坂を登るか階段を登るかする場合が多いように思います。 大阪市の南御堂・北御堂などは、もともと、平地であったはずですが、意図的に高くして階段で登るようになっていますが、あれはあんまりいいとは思いません。兵庫県宝塚市の中山寺では、私が小学生の頃に行った時にはなかった屋外用エスカレーターがついていると本で見ましたが、「バリアフリー」と言われる今、わざわざ、高くして階段を作るというのはどうかと思いますが、寺とか神社とかは周囲より高い場所に設けることが多いのは確かだと思います。家相においても、神社や寺のすぐ下というのは家相・地相として悪くはないが、上から見下ろすものではないと言われ、ホテルニュージャパンの火災事故も日吉神社を上から見下ろすように建ったホテルだから起ったのだといったことを言う人もあったりするようです。ホテルニュージャパンの事故がそうなのかどうかは私は知りませんが、神社は見上げるのはかまわないが見下ろすものではないとは家相において言われます・・・が、なんで、この谷保天満宮は街道から坂を下りて社殿に行くように立地しているのだろう? 1月に参拝した府中市の大國魂神社は社殿が北を向いている神社でしたが、この谷保天満宮は鳥居から坂を下って社殿に至るようになっています。
( ↑ 赤の「鳥居」マークが谷保天満宮 本殿です。 )
鳥居をくぐってすぐ右の林は「谷保天満宮社叢(やぼてんまんぐうしゃそう)」として東京都指定天然記念物になっているらしい。↓
↑ 現地でのその説明書きには、
≪ ・・・・甲州街道は17世紀のある時期まで、谷保のあたりでは立川段丘の下を通っていましたので、天満宮の本殿・拝殿は街道に面し、南向きに建てられています。
甲州街道が段丘上を通るようになると、人の流れも変わり、参道は駅や甲州街道側からこの鎮守の森を抜け、本殿に向かうようになりました。
かつては谷保天満宮を取り囲んで、スギを主体とする鬱蒼とした森が広がっていました。現在はケヤキ、ムクノキ、エノキなどが優先する林となっています。また河岸段丘の豊富な湧水が流れ、神社に風格を添えています。
平成24年(2012年)3月建設 東京都教育委員会 ≫
と書かれており、現在、JR南武線「谷保」駅の方から平地を歩いてきて鳥居に至ると、そこから鳥居をくぐった後は坂を下るようになっているのは谷保天満宮が設立された時からのことではなく、最初は街道がこの坂よりも下側を通っていたことから、その街道から入るようになっていたが、後に街道が段丘の上側を通るようになったために、参道を街道からかつては鎮守の杜であった場所を坂道と階段で下って社殿の前に出るという経路に変わった、ということらしい。 ここでも「谷保天満宮」のフリガナは「やぼてんまんぐう」と「ほ」に濁点がついて「ぼ」になっています。
鳥居をくぐり、坂道を下り階段を降りると右手に拝殿が見えます。↓
↑ 谷保天満宮 拝殿。 左右の桶、賽銭箱に梅鉢の紋が見えます。
↑ 屋根の瓦にも梅鉢の紋が見えます。
↑ 拝殿、右手前から見たものです。
( ↑ 赤い鳥居マークが拝殿です。 )
谷保天満宮では、後宇多天皇勅額「天満宮」と村上天皇奉献「狛犬一対」が国指定重要文化財に指定されているそうで、↑の社叢が東京都指定天然記念物に指定され、そして、拝殿と本殿が「国立市指定文化財」の「有形・建造物」http://www.city.kunitachi.tokyo.jp/soshiki/Dept08/Div03/Sec01/gyomu/0061/0062/0067/0070/1463551208423.html に指定されているらしい。
もっとも、「狛犬一対」というのは、国立市HPの「国指定文化財(3)」http://www.city.kunitachi.tokyo.jp/about/about1/about2/about4/1465447523804.html は木造の彫刻らしく、現在、拝殿の手前の左右に座している狛犬ではなく、都道256号の側の鳥居の前の左右に座している狛犬でもないようです。国立市HPには「公開」と書かれていますので、社務所の上の宝物館で公開されているのかもしれません。 今回は、なにしろ、花粉症の季節で、眼もかゆみを通り越して痛みが出てきて鼻はくしゃみも鼻水も出てきて、もはやこれ以上は外にいたくない! という状態のため、早々に帰ってきたため、宝物館を見学することができませんでしたが、そこにあったのかもしれません。
後宇多天皇勅額「天満宮」というのも、木造の彫刻ですから、鳥居にかかっているものとは違う。社殿にかかっているものがどうだったかはわからないが、これも、おそらく、宝物館にあるのではないでしょうか。
「国指定文化財」と「国登録文化財」、「市指定文化財」と「市登録文化財」があるようで、どう違うんだ? ・・・というと、国立市の場合は、
国指定文化財は谷保天満宮の「扁額 天満宮」と狛犬一対ほか1点で計3点が国指定文化財で重要文化財の指定。 それに
一橋大学兼松講堂とか6点が国指定登録文化財。
都指定文化財は谷保天満宮社叢ほか2点。
市指定文化財は22点ありそのうち建造物は7点で、谷保天満宮拝殿と谷保天満宮本殿附棟札 ほか5点。
市登録文化財は86点で、そのうち、
市登録有形建造物は谷保天満宮末社厳島神社附棟札 ほかhttp://www.city.kunitachi.tokyo.jp/soshiki/Dept08/Div03/Sec01/gyomu/0061/0062/0067/0071/1463551215518.html 計7点。
なんだか、わかったようなわからないようなですが、国指定重要文化財⇒国指定登録文化財⇒市指定文化財⇒市登録有形文化財 と少しずつ、「格」が違うのでしょう。 国指定登録文化財と都登録有形文化財、都登録有形文化財と市指定文化財ならどっちが上なんだ? というと、なんかよくわからんのですが、国⇒都道府県⇒市町村、 指定文化財⇒指定登録文化財 という順番のようです。 谷保天満宮のものでは、
国指定重要文化財・・・・「扁額 天満宮」、狛犬一対。
↓
都指定文化財・・・・社叢
↓
市指定文化財・・・・拝殿・本殿附棟札
↓
市指定登録文化財・・・・末社厳島神社附棟札・神楽殿附棟札
・・・となるようです。 まあ、そうは言いましても、これらの「指定」というのはどこかの誰かが決めたものですから、一応、参考にするとしても、あまりにも絶対視してしまうと、あらかじめ、「名建築家」というのが決められていて、「名建築家」が設計したもの⇒「名建築」としてせっせと称賛。 「普通の人」が設計したもの⇒無視 という「パブロフの犬」反応をする「建築家」「デザイナー」「いっきゅうけんちくしい~い」みたいになってしまいますから、そういうアホの真似はやめておきましょう。
※ 《ウィキペディア―イワン・パブロフ》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%AF%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%91%E3%83%96%E3%83%AD%E3%83%95
《ウィキペディア―条件反射》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%A1%E4%BB%B6%E5%8F%8D%E5%B0%84
↑ 拝殿の前の鶏。
谷保天満宮の境内には何種類もの鶏がおり、谷保天満宮のホームページの「境内案内図」http://www.yabotenmangu.or.jp/guidemap.html のところにも鶏の写真が掲載されています。 私が小学生だった頃、大阪府箕面市の箕面市役所と箕面市市民会館の横あたりで鶏を飼っている所があり、学校から市民会館に行った時、大阪市内で育った私は、ここは鶏を飼っているんだと珍しく思って見たことがありましたが、何段もの棚になった所に白色レグホン(と思う)の鶏が何羽も並んでいたのを見て、鶏ってこうやって飼うものなのか・・・と思ったのでしたが、雁屋哲の『美味しんぼ』など読むと、本来は鶏は地面の上で放し飼いにして買うのが望ましく、棚の上に何羽も押し込んで飼うというのは理想的ではないらしい。その時、そこで見たのは白色レグホンだと思うのですが、いわゆる「普通の白い鶏」でしたが、今は市街化が進みその場所に行ってももう鶏を見ることはできません。その後、小学校4年の夏休みに広島県の宮島に行くと、尾長鶏とか、鶏は鶏でも卵を産んでもらってそれを食べるためとか、鶏肉を食べるためとかではなく「見て楽しむ」という鶏がいるのを見ました。 『鬼平犯科帳』には「五鉄」という「軍鶏(しゃも)鍋」を名物料理にする店が登場しますが、軍鶏(しゃも)なんてのは気が荒く、大人でも怖いみたいな鶏ですが、この谷保天満宮にはさすがに軍鶏はいません。(もっとも、「コミック乱ツインズ」に掲載中の「軍鶏侍」によると、軍鶏が戦う相手はあくまでも軍鶏の雄であって、それも自分と同等以上の実力のある雄と見た場合で、他の動物や雌、軍鶏の雄でも格下とは戦わないらしいが)又、尾長鶏といった「踏みそうで気をつかう」鶏もいませんが、↑のような黄色系の鶏や黒の鶏、白の鶏などいろいろいます。 なんで、天満宮に鶏がいるのだろう・・と思い、社務所で巫女さんに尋ねてみたのですが、獅子舞の時に飼うようになったものが野生化した、というものらしい。 「放し飼い」かと思ったのですが、「野生化」だというのです・・・・が、鶏というのは犬とか猫とかと違って「鶏根性」といってけっこう性格がきつく、必ずしも人間になつく動物ではないように思うのですが、見ていても鶏同士でつつきあって喧嘩したりもしているようなのですが、大人は大丈夫そうですが、子供が鶏のことをよく知らないで柴犬とか猫カフェの猫みたいに思って近寄っていくと危ないということはないのだろうか・・・なんてふと思いました。「野生化した」といっても、やっぱり、人間がエサをやってるのでしょうね。鶏だってエサくれる相手に襲いかかるということはあまりないでしょうし。そのあたり、「一流企業の従業員」みたいなもん(?)かもしれません。私らが勤めてきたような三流以下企業だとオーナー経営者とその取り巻きだけがいい思いしてますから、最初は「愛社精神」があっても、そのうち、会社に対する思い入れはあっても、オーナー経営者に対しては憎しみを持つようになっていき、さらにそのうち、「思いしれえ!」という気持ちになったり・・・とか。それは、たとえば、(株)一条工務店https://www.ichijo.co.jp/ の経営者のように、おのれを犠牲にして会社のために滅私奉公・破私奉公を繰り返してきた従業員に対して恩を仇で返すようなことをする経営者に問題があるのですけれどもね。
( ↑↓ 横山光輝『水滸伝 第2巻』2006.4.10.潮出版社。↑↓
滅私奉公・破私奉公してきた相手から恩を仇で返すような仕打ちをされた、まさに私が(株)一条工務店の経営者からされたような仕打ちを受けた『水滸伝』の↑の男は「黄信(こうしん)」。)
エサをきっちりやってる家畜・家禽とエサをまともにもらえない家畜・家禽との違いというのは大きいですよねえ・・・( ノД`)シクシク… 最初は「会社のために」滅私奉公を続けてきた者も、アホ経営者の会社では、そのうち「梁山泊」の抵抗勢力になる可能性も出てくるかもしれません。(株)一条工務店にも『水滸伝』の登場人物の「高俅(こうきゅう)みたいなやつ」というのがいましたねえ、ほんと。王倫みたいのもいたし。「梁山泊の精神」と言っていた初代社長大澄賢二郎はやっぱり梁山泊初代首領の王倫(おうりん)でしょうね。「みみっちい性格の王倫」・・・王倫の周りには高俅みたいのがいっぱいいましたよね・・・。今の社長はよそから呼んできた蘆俊義(ろしゅんぎ)で2代目社長の山本庄一は影武者 晁蓋(ちょうがい)でしょう・・。「刃物で女を刺し殺して官憲に追われ逃げる」というまさに「梁山泊の精神」を実行した初代社長 大澄賢二郎の息子で(株)一条工務店の関連会社で損害保険の会社の(株)日信の社長になっていたらしい大澄隆史はやっぱり宋江(そうこう)でしょうね・・・まさに「梁山泊」・・・( 一一)
神社には、社殿の背後にまわることができる神社と前から拝むもので背後にまわることはできない神社がありますが、谷保天満宮は右にも左にも後ろにも行くことはできます。 社殿の背後の位置に「五社」(稲荷・妙義・日吉・熊野・天照)を祀る社と「五社殿」がありますから、行くなというわけにもいかないということもあるかもしれませんが、京都の北野天満宮も大阪天満宮も社殿の後ろからも拝むように拝む場所が設営されており(当然、賽銭箱も設営されており)、後ろからも拝むようになっています。大阪府豊中市の服部天神宮は、電車で行く場合、阪急宝塚線「服部天神」駅で降りて東にすぐの位置で、「普通に行くと西から入る」ことになりますが、能勢街道というのか池田街道というのかが服部天神宮の東側を南北に通っており、もともとは「東側から入るのが普通」の神社だったからか、東面と西面の両方に参拝する場所が設営されています。 神社でも山がご神体とかいう神社の場合は、拝殿からその山の方を拝むので社殿の後ろにまわる意味がないのに対し、天神・天満・菅原・北野系神社というのは祭神は菅原道真ですから、本殿に道真の霊を祀っている神社では、本殿の内部に道真の霊がおられるという想定で、本殿の後ろが重要ということではありませんから、だから、北野天満宮にしても大阪天満宮にしても服部天神宮にしても前からとともに後ろからも拝めるようになっているということでしょうか。 大阪市の今宮戎神社では、戎さんというのは「しょっちゅう居眠りしている」「物忘れが多い」という神さんなので、念を押して頼むために、前から拝むとともに、後ろにもまわって後ろからも「えべっさん、よろしゅうお願いしまっせ」と言って頼んで帰るという話があるが、「えべっさん」は特に庶民的な「神さん」だということもあるでしょうけれども、大阪の神さんというのはそういう傾向の神さんが多いのかもしれません。
で、谷保天満宮ですが↓、拝殿・幣殿(石の間)・本殿と南南東から北北西の方向に並んでいます。
( ↑拝殿 裏面。 北西から見て。)
( 社殿 南側から見て。 〔向こう〕本殿、 〔中〕幣殿(石の間)、 〔右手前〕拝殿。 )
( 本殿。 西南西側から見て。 )
( 社殿背面。 北西側から見て。 〔手前〕本殿、 〔中〕幣殿(石の間)、 〔向こう〕拝殿。 )
↑ 本殿を西南西から見たものです。 ここの本殿を見て気づいたのですが、神社の社殿というのは、「腰から上」、「床の位置から上」「土台から上」の位置は飾り立てることがあっても、「腰から下」、「床より下」、「土台より下」については、床下換気をはかることができるように高くとって通風をはかるという構造上の配慮はしても、あまり飾らず、シンプルなことが多いように思ったのですが、この谷保天満宮の本殿では「腰から下」もけっこう飾られています。
「五社」と「三郎殿」については次回にまわしまして、今回は社殿の北東側からの写真を掲載します。↓
( ↑ 本殿 西北西側から見て。 )
↑の本殿の写真を見てください。 この社殿は何造りだと思います? 「拝殿+幣殿(石の間)+本殿」の3部構成という点から考えると、北野天満宮・大阪天満宮などと同じ「石の間造り」ということでしょうか。 日光東照宮・上野東照宮などを「権現造り」と言っていますが、仙台の大崎八幡宮は大崎八幡宮の方が日光東照宮よりも先だということから「権現造り」と言わずに「石の間造り」と言っているというのですが、先か後かということよりも、ともかく、「拝殿+幣殿(石の間)+本殿」の3部構成なら「権現造り」と言うということなら北野天満宮も大阪天満宮も谷保天満宮も「権現造り」であり「石の間造り」であるということになります。 しかし、日光東照宮に代表される「権現造り」は「拝殿+幣殿(石の間)+本殿」の3部構成であるということとともに、「きんきらきん にさりげなく♪」という点があってこそであり、「拝殿+幣殿(石の間)+本殿」の3部構成であっても「きんきらきん」に塗りまくり刻みまくりというのがないものは「権現造り」とは言わないとするのなら、日光東照宮は「権現造り」ではあっても、「石の間造り」であるが「権現造り」ではないという社殿は少なくないはずで、谷保天満宮もそのうちではないかと思います。
それとともに、↑の写真を見て考えていただきたいのですが、この本殿だけを見ると、「流れ造り」と違いますか? 「拝殿+幣殿(石の間)+流造の本殿」ということでしょうか・・・・。 「建築探偵団」にとって、神社の造りというのは観察すると面白いですよね(^^♪
( ↑ 本殿 南東側から見たもの。 )
ところで、国立市指定文化財http://www.city.kunitachi.tokyo.jp/soshiki/Dept08/Div03/Sec01/gyomu/0061/0062/0067/0070/1463551208423.html に拝殿と本殿が指定されている・・ということは、幣殿(石の間)は指定外ということなのでしょうか? 本殿の屋根が流造になっていて石の間の上まで伸びているようにも↑の写真では見えるようにも思うのですが・・・、しかし、それでも、「石の間(幣殿)」の部分はありますよね。
国立市HP の 「市指定有形・建造物」http://www.city.kunitachi.tokyo.jp/soshiki/Dept08/Div03/Sec01/gyomu/0061/0062/0067/0070/1463551208423.html によると、
本殿 附棟札 は、1971年(大阪万博開催の1970年の翌年)(浅間山荘事件の1972年の前年)指定。≪ 本殿は、三間社流造で寛延2(1749)年に上谷保村の佐伯源七により建築されました。桁行三間(5.4メートル)、梁間二間(3.6メートル)、6坪(約20平方メートル)の母屋の前に一間(1.8メートル)の庇をつけたものです。 屋根は母屋の切妻造がのびて庇に続き、長く緩やかに流れるような曲線となり、ここから流造の名が起こっています。外観は、彩色調査の結果、日光東照宮のようにきらびやかな極彩色が施されていたことがわかりました。 ≫
徳川吉宗が将軍であったのが1716年から1745年で、1749年は徳川吉宗が征夷大将軍を辞職した年の1745年の4年後。〔 《ウィキペディア-徳川吉宗》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%90%89%E5%AE%97 〕
1749年は「火縄くすぶる(1789)バスチーユ」「千難万苦(1789)のフランス革命」の1789年の40年前。
拝殿も、1971年指定。 ≪ ・・・正面の向拝は軒唐破風付入母屋造りです。嘉永4(1851)年に建築されたと考え られています。≫
1851年は、「大塩一党は皆(1837)立ち上がる」の1837年の大塩平八郎の乱の14年後。
「万国の労働者よ、〔一番弱(1848)いぞ〕団結せよ」の『共産党宣言』発表の1848年の3年後、
明治維新の1868年(明治1年)の17年前。
本殿は18世紀中ごろ、拝殿は19世紀中ごろの築造で、本殿の方が100年ほど古いらしい。本殿だけで流造の社殿としても成りたちそうにも思えたが、もしかすると、最初は本殿のみが流造の社殿として建てられて使われてきて、100年程後に拝殿が建てられて後から「拝殿-幣殿-本殿」の3部構成になった、ということだろうか・・。
※ 谷保天満宮HP http://www.yabotenmangu.or.jp/
次回、五社、三郎殿、厳島神社(市登録有形建造物)、左右に2体ずついる狛犬、座牛 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201903article_3.html
(2019.3.12.)
★ 谷保天満宮(国立市)参拝
1.谷保駅から鳥居。「やほ」と「やぼ」。「面白い地名」とは? https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201903article_1.html
2.鳥居から坂を下り、拝殿・本殿と鶏。会社にいる『水滸伝』登場人物 〔今回〕
3.五社、三郎殿、厳島神社(市登録有形建造物)、左右に2体ずついる狛犬、座牛 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201903article_3.html
4.神楽殿・筆塚。ひとに「親孝行せえよお」と言ってストレス解消する教育勅語主義者 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201903article_4.html
5.梅林、稲荷社、第六天神社。建築は構造・機能・デザイン・経済性をともに満たしてこそ https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201903article_5.html
★ 冤罪を晴らす神さま・菅原道真・怨念を晴らすお百度参り
東京都
亀戸天神社(江東区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201301article_7.html
亀戸天神社 2回目 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201505article_1.html
湯島天神社(文京区)
上 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201602article_10.html
中 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201602article_11.html
下 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201602article_12.html
北野神社(文京区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201303article_2.html
平河天満宮(千代田区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201210article_3.html
西向天神社(新宿区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201502article_1.html
根津美術館 庭園内 渡唐天神祠(「飛梅祠」)(港区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201603article_3.html
若林天満宮・若林北野神社(世田谷区)https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201312article_5.html
平塚神社 摂社菅原神社〔平塚天神社〕(北区)https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201807article_10.html
谷保天満宮(国立市) 〔今回〕
千葉県
葛飾天満宮(市川市) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201301article_4.html
白幡天神社(市川市)
1.https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201511article_1.html
2.https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201511article_2.html
3.https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201511article_3.html
市川市北方町4丁目の天神社 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201608article_2.html
意富比神社 末社天神社(船橋市) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201302article_10.html
船橋市東船橋の「天神社」 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201311article_1.html
下飯山満神明神社 摂社天神社(船橋市) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201503article_4.html
白井市河原子の天満宮 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201303article_5.html
子守神社 摂社天神社(千葉市花見川区)https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201605article_3.html
千葉神社 摂社千葉天神 と 鵜の森町の「神札」(千葉市中央区)
(上)https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201305article_2.html
(下)https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201305article_3.html
北總天満宮(千葉市中央区)https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201308article_1.html
新町天満宮(千葉市中央区)
【上】 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201703article_6.html
【下】 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201703article_7.html
神奈川県
三渓園天満宮(横浜市中区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201303article_8.html
永谷天満宮(横浜市港南区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201309article_1.html
荏柄天神社(鎌倉市) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201401article_7.html
北野神社(鎌倉市山崎)https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201504article_2.html
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