谷保天満宮参拝【3/5】五社、三郎殿、厳島神社(市登録有形建造物)と梅、左右に2体ずついる狛犬、座牛

[第684回] 冤罪を晴らす神さま・菅原道真・怨念を晴らすお百度参り 49念-3
   谷保天満宮(やぼてんまんぐう)(東京都国立市谷保)では、拝殿-幣殿(石の間)-本殿が南南東から北北西にかけて並んでいますが、拝殿の手前から見ると、拝殿の手前の左右に狛犬が座しており、右側の狛犬の手前に牛が寝ています。もちろん、本物の牛ではなく石像ですが、珍しく「座牛」、地面に腹ばいになった状態の姿です。↓
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台座の説明書きには、
≪ ・・・(菅原道真)公 薨去の際、筑紫国三笠郡四堂に墓を築き葬ろうと轜車(喪の車)を引き出したが、途中牛車が動かなくなったのでその場に埋葬した等、菅公と牛に関する神秘的な伝説が数多く残っている。
 座牛はこの悲しみに動かなくなった牛を表現したものである。
         昭和48年(1973年)9月25日 ≫
とある。
   谷保天満宮の牛は、この天満宮の牛でもユニークな座牛なのだと思って帰ってきたのですが、谷保天満宮HP の「写真で見る谷保天満宮」http://www.yabotenmangu.or.jp/photo.html を見ると、この座牛よりも拝殿に近い位置、絵馬がかかっている前あたりに、もう一体、「座牛」でない牛の像が配置されているようです。見落として帰ってきてしまった・・と思ったのですが、絵馬のあたりを撮った写真の一部に写っていました。↓
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↑ クリックすると大きくなるので大きくして見てください。

   ・・・・で、鶏↓・・は移動するのでどこにいるとは決まっていない。↓
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↑ 獅子舞のために飼ったのが「野生化」したというけれども、谷保天満宮の敷地からは出て行かないということは、やっぱり、エサやってるから出て行かないのではないか。「野生化」ではなく実質「放し飼い」じゃないのだろうかな・・・。神社の外より中の方が鶏にとっては住みやすい環境だということもあるだろうけれども。

   ここで注目して見たいのが狛犬。↓
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( ↑ 狛犬。 左側。 )
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( ↑ 狛犬。 右側。 )
狛犬というのは、≪・・・像として神社や寺院の入口の両脇、あるいは本殿・本堂の正面左右などに一対で向き合う形、または守るべき寺社に背を向け、参拝者と正対する形で置かれる事が多く、またその際には無角の獅子有角の狛犬とが一対とされる。 飛鳥時代に日本に伝わった当初は獅子で、左右の姿に差異はなかったが、平安時代になってそれぞれ異なる外見を持つ獅子と狛犬の像が対で置かれるようになり、狭義には後者のみを「狛犬」と称すが、現在では両者を併せて狛犬と呼ぶのが一般化している。 ・・≫(《ウィキペディア―狛犬》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8B%9B%E7%8A%AC )という。多くの寺社では左右に1体ずついるのだが、ところが、東京都北区の内田康夫の「浅見光彦シリーズ」にしばしば登場する平塚神社の狛犬は、ちょっと変わっていて、自然石なのか自然石風なのかの台座の上に乗っていて、しかも、左側は2匹いる。それも、左側の2匹は、その2匹が向かい合って対峙している。
※ 平塚神社の狛犬⇒[第618回]《平塚神社拝殿前のユニークな狛犬。のし瓦の日に扇の紋。盗泉の水-平塚神社と浅見光彦【6/15】 》https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201807article_8.html
   そう思って、東京都府中市の大國魂神社に行くと、大國魂神社の狛犬は、こちらは左右それぞれ1体ずつですが、ここも自然石もしくは自然石風の上に乗っていました。 狛犬というのは人工的に加工した台座の上に乗っているものかと思っていたらそうでもないようです。
※ 大國魂神社の狛犬⇒[第660回]《大國魂神社【5/6】中雀門・自然石風の上の狛犬・おみくじ箱・拝殿・本殿 》https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201901article_5.html
   それで、この谷保天満宮の狛犬ですが、国の重要文化財に指定されている狛犬というのがあるらしいのですが、≪ 木造、漆箔、玉眼、像高54.3センチメートル ≫(国立市HP 「国指定文化財(3)」http://www.city.kunitachi.tokyo.jp/about/about1/about2/about4/1465447523804.html#a2 )というもので、↑の石の狛犬とは別のもののようです。おそらく、そちらは宝物殿にあるのでしょう。
※ 谷保天満宮HP 「重要文化財と社宝」http://www.yabotenmangu.or.jp/treasure.html
↑の拝殿の前の狛犬は、左右とも大小の2体ずつ。 大きい方が小さい方を押さえつけているのですが、抑えつけているといっても、特に右側などは小さい方が大きい方を慕っているような感じで、親子の2体が左右にいるようにも受け取れます。
   甲州街道側の鳥居の脇にも狛犬が左右にいるのを帰りに見たのですが、↓
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( ↑ 入口脇の狛犬。左側。 )
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( ↑ 入口脇の狛犬。右側。 )
こちらは、自然石ではなく人工的に加工された切石の台座の上に乗っていて、右側は球を片足で押さえつけており、左側は大小2体いて、大きい方が小さい方を片足で押さえつけています。
  寺の四天王像などは、足で邪鬼を押さえつけて立っている像をよく見ますが、ここの狛犬が足で押さえつけているのは邪鬼ではなく大きい方と同じような形態で大きさが小さい狛犬ですから、よこしまな者を押さえつけているということではなく、親子で親の方の狛犬が子の方の狛犬の体に片足を置いているということなのでしょうか。もっとも、平塚神社の左側の狛犬は、2体が対峙しており、親睦的な感じではなく、対決するような向き合い方でしたから、それを考えると、狛犬2体のうち、強い方が他方を押さえつけて・・という構図もありうるのかもしれませんが、この谷保天満宮の狛犬の場合は、親犬が子犬の体に前足をおいている、というような印象を受けます。 狛犬なんて、台座の上に1匹ずついるものと思い込んでいたら、そうとも決まってないようです。

   拝殿・幣殿(石の間)・本殿が南南東から北北西に並んでいるのですが、その本殿の後ろに行ってみると、本殿のさらに後ろに↓
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( ↑ グーグル地図では「合祀社」と書かれています。)
↑ 中央に5社が並ぶ長屋の神さん。 その右の石にも注連縄がまかれています。 長屋の左側にも石の祠が見えます。
  長屋の神さんは名前が明記されており、右から、稲荷・妙義・日吉・熊野・天照。

  左の石の祠と右の注連縄がまかれている石は何なのか? 
  谷保天満宮HP の 「境内案内図」http://www.yabotenmangu.or.jp/guidemap.html を見ると、本殿の背後には、右側に「五社」、左側に「三郎殿」と書かれています。 ↑の5軒並びの長屋の神さん(なんて言うと怒る人もいるか? まあ、よろしいがな。長屋は長屋で。)が「五社」でしょう。 とすると、その左の石の祠が「三郎殿」でしょうか。
   『わかりやすい天神信仰 学問の神さま』(1994.12.20. (株)鎌倉新書)には、
≪ 菅公左遷の折り、現在の府中市の辺に配流された三男の三郎道武が十歳を迎えた春、父君の訃報に接し、追慕の想いを籠めて彫造した菅公像を小祠に祀ったのが初まり。代々子孫が奉祀してきたが、天暦元年(947) 村上天皇が官社の列に加えられ、木彫の狛犬一対を下賜された。この時、神殿と梅の枝が鳴動するという霊験があったと伝える。
  天満宮が現在地に移ったのは、養和元年(1181)のこと。子孫の津戸三郎菅原為守の霊夢によるという。この時、別当安楽寺と社務六院を置いたが、明治初年の神仏分離により、現存するのは滝の院のみとなった。元禄年間には水戸黄門が参拝し、拝額一面を奉納している。江戸の湯島天神、亀戸天神とともに″関東三大天神″として、昔から名高い。 ≫
と書かれている。
   入口の「谷保天満宮社叢」の東京都教育委員会による説明書きには、
≪ ・・・その由来について、「武蔵国多摩郡谷保村天満宮略縁記(起)」は、菅原道真の第三子 三郎がここに流され、三郎殿を建立したこと、また、はじめ、本宿村の南天神島というところに創建され、津戸三郎為守が霊夢を見て現在地に移したことなどが記されています。・・・・ ≫
と出ています。
   『わかりやすい天神信仰 学問の神さま』(1994)では菅原三郎道武が配流されたのは≪現在の府中市の辺に≫ということですが、谷保天満宮HP の 「由来と歴史」 では、≪ 昌泰四年右大臣菅原道真公筑紫太宰府に左降の折、第三子道武公は武蔵国多摩郡分倍庄栗原郷(現国立市谷保)に配流せられた。 ≫となっており、少々違いますが、いずれにしても、府中市から国立市にかけてのこのあたりだったのでしょう。
   谷保天満宮でいただいた「谷保天満宮御縁起」によると、「御祭神」は「菅原道真公・菅原道武公」ということですが、本殿に「菅原道真公・菅原道武公」を祀っているということなら、背後の「三郎殿」というのは何だろう? 本殿では菅原道真を祀り、背後の三郎殿で菅原三郎道武を祀っているということなのだろうか。 本殿でも菅原道真と菅原三郎道武を祀り、背後の三郎殿でも菅原三郎道武を祀っているのか。
   「三郎殿」というのは、「菅原三郎道武が祀った祠」なのか「菅原三郎道武を祀った祠」なのか?  「三郎殿」の「三郎」とは、菅原三郎道武のことなのか、それとも津戸三郎菅原為守のことなのか? 《ウィキペディア-谷保天満宮》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B0%B7%E4%BF%9D%E5%A4%A9%E6%BA%80%E5%AE%AE には、≪ 五社合殿の隣に鎮座。菅原道武公を祀る。≫と出ている。
   しかし、《ウィキペディア-谷保天満宮》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B0%B7%E4%BF%9D%E5%A4%A9%E6%BA%80%E5%AE%AE には≪ 『天満宮略縁記』によると菅原道武は道真の子息であるとしているのだが、道真の子息に道武というものは実在しないという。 ≫とも出ている。 京都から福岡県の大宰府までの間には、「菅原道真が京都から大宰府に流される際にここに立ち寄って・・・をした」という「由緒」がある場所がずいぶんといくつもあるのだが、それらをすべて本当だとするならば、菅原道真というのは京都から大宰府に流される際、「罪人扱い」であったにもかかわらず、ずいぶんとあちらこちらに立ち寄っていろいろなことをしたということになる。それらの話には、実際にあったわけではない話、何かあったかもしれないが実際の話よりずいぶんとふくらんだ話が残ったというものなどあるのかもしれない。東国においても、菅原道真の子の誰それが・・・という話には、まるまる捏造ではないとしても、子ではないなんらかの関係のある人とかであったというような話はあるのかもしれない。

   「五社」の左の石の祠が「三郎殿」だとして、「五社」の右の注連縄がまかれている石は何なのだろう?


   本殿の北西側に、北西側の入口があり、鳥居が立っています。↓ かつては段丘の下側を甲州街道が通っていて南側から入るようになっていたということですが、この北西側の入口から社殿までは平地ですが、本殿の左後ろの位置ですから、こちらが元の入口ということではないでしょう。↓
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( ↑ 「天満宮」と書かれた石碑の左の建物が、本殿から拝殿の背面。 鳥居の向こうに見える建物は社務所の建物で、今回は訪ねずに帰ってしまいましたが、2階に宝物殿があるようです。)
↑  裏口・・・・なんて言うと、裏口入学みたいですが、社殿の後ろ側の入口ですから、二度目以降はこちらから入ってもいいでしょうけれども、一度目は一番メインの入口から入るのが原則ということで、谷保駅の側から来た、今回、入ってきた入口から入る経路でいいと思います。 かつて、甲州街道が段丘の下側を通っていた時の入口というのは、どこにあったのか。今、見てもよくわかりません。
   今は昔、1970年代後半、私が浪人中、父の「親友」の医者屋のM川という男(当時、50代前半。当時、大阪府豊中市在住。「金沢大医学部卒」と自称していたが嘘くさい。)が、ドバカ息子を金権関西医大http://www.kmu.ac.jp/ に裏口入学させたというのを「わしは思考が柔軟なもんやから、うちの息子は関西医大 裏口入学なんじゃ!」と自慢してしかたがなかったのですが、裏口入学って、自慢するもんかあ~あ? 裏口入学って、たとえやるにしても、「恥ずかしそうに」「こそっと」やるもんと違うんかあ~あ? と思いましたが、医者屋族の意識というのは、私らのような非医者屋族の意識とは違うのかもしれません。 そんなに「思考が柔軟」なら、その柔軟な思考を生かして、裏口入学なんてしなくても正規に合格できるようにすればよさそうに思うのですが、そう言うと、またもや、「そのあたりが、きみは思考が硬いんじゃ」とか言い出すでしょうから、できるだけ関わらん方が良さそうです。

   北西側の鳥居をくぐってすぐ左の位置、 拝殿-幣殿-本殿 の後ろの「五社」に向かって左、「五社」のある小山の後ろくらいの位置に、摂社なのか末社なのかの厳島神社があります。↓
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〔 ↑ 撮影は、3月8日 〕
↑ 谷保天満宮HP の「由来と歴史」http://www.yabotenmangu.or.jp/origin.html の「主なる社宝」には、
重要文化財・・・・後宇多天皇勅額「天満宮」 ・ 村上天皇奉献「狛犬一対」
都指定文化財・天然記念物・・・・社叢
国立市指定有形文化財・建造物・・・・本殿附棟札 ・ 拝殿
他が記載されているものの、厳島神社・神楽殿は書かれていませんが、国立市HP の「市登録有形・建造物」http://www.city.kunitachi.tokyo.jp/soshiki/Dept08/Div03/Sec01/gyomu/0061/0062/0067/0071/1463551215518.html には、「谷保天満宮末社厳島神社附棟札」・「谷保天満宮神楽殿 附棟札」が記載されており、その厳島神社が↑。 ≪谷保天満宮末社厳島神社本殿は、元は石神にあったものを、明治期に現在の地に移したものです。建築年代は、本殿脇にある石燈籠建立年代の宝暦9(1759)年頃と推定され、建造物の細部意匠に天満宮本殿との共通性があることから、同じ大工により作られた可能性が高いとされています。・・・≫ とあります。1759年というと「火縄くすぶる(1789)バスチーユ」の1789年のフランス革命の30年前です。
 ≪元は石神にあったものを≫と言われても、「石神」てどこやねん? ・・・てなりますが、かつて国立市にあった地名のようで、現在では国立市石神という住居表示はなくなったようですが、 ↓




↑ 旗マークは、「石神(しゃくじ)集会所」の場所です。
   ≪ ・・・また谷保天満宮本殿縁束と同様に、条溝が見られますが、特に身舎柱にも16本の条溝がつけられているのはきわめて珍しく、特色的です。≫とありますが、「条溝」て何? 「縁束」は《Weblio辞書 三省堂大辞林 縁束(えんづか)https://www.weblio.jp/content/%E7%B8%81%E6%9D%9F に≪縁側の下の縁葛(えんかずら)を支える短い柱。≫と出ています。「条溝」について、インターネットで検索してもこれというものがない。『広辞苑』(岩波書店)にも出ていない。『新字源』(角川書店)で「条」のところを見ても「条溝」は出ていない。[第683回]【2/5】で公開した本殿の写真を拡大して見ると、「縁束」というのかに、縦のスジが彫られています。「条」は「すじ」で「溝」は「みぞ」であり、ミゾとして入れたスジのことでしょうか。

 谷保天満宮の梅林の梅もきれいですが、厳島神社の前の梅もきれいです。谷保天満宮HP の境内案内図http://www.yabotenmangu.or.jp/guidemap.html を見ると、厳島神社の後ろあたりにアジサイ園があるらしいので、次回、来ることができるならアジサイの咲く季節に来るといいのかもしれません。

  次回https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201903article_4.html 、筆塚・神楽殿・梅林など・・・

  (2019.3.14.)

★ 谷保天満宮(国立市)参拝
1.谷保駅から鳥居。「やほ」と「やぼ」。「面白い地名」とは? https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201903article_1.html
2.鳥居から坂を下り、拝殿・本殿と鶏。会社にいる『水滸伝』登場人物 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201903article_2.html
3.五社、三郎殿、厳島神社(市登録有形建造物)、左右に2体ずついる狛犬、座牛〔今回〕
4.神楽殿・筆塚。ひとに「親孝行せえよお」と言ってストレス解消する教育勅語主義者 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201903article_4.html
5.梅林、稲荷社、第六天神社。建築は構造・機能・デザイン・経済性をともに満たしてこそ https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201903article_5.html

★  冤罪を晴らす神さま・菅原道真・怨念を晴らすお百度参り
東京都 
亀戸天神社(江東区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201301article_7.html
亀戸天神社 2回目 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201505article_1.html
湯島天神社(文京区)
上 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201602article_10.html
中 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201602article_11.html
下 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201602article_12.html
北野神社(文京区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201303article_2.html
平河天満宮(千代田区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201210article_3.html
西向天神社(新宿区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201502article_1.html
根津美術館 庭園内 渡唐天神祠(「飛梅祠」)(港区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201603article_3.html 
若林天満宮・若林北野神社(世田谷区)https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201312article_5.html
平塚神社 摂社菅原神社〔平塚天神社〕(北区)https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201807article_10.html
谷保天満宮(国立市) 〔今回〕

静岡県
深奥山 方広寺 七尊堂(浜松市北区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201707article_13.html

愛知県
熱田神宮内 菅原社(外天神)と内天神社(名古屋市熱田区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201711article_10.html
巨人・阪神 失敗の本質 (宝島社新書)
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≪  ・・しかし、ストライク・ボールの判定はリクエストできないそうだ。忘れられない″誤審 ″といえば「円城寺、あれがボールか秋の空」で有名な1961年の日本シリーズ第4戦だ。南海は巨人と対戦し、3-2 でリードした9回裏二死満塁、スタンカが2ストライクから投じたど真ん中の球をボールと判定された。
  私は見逃し三振で試合終了だと思い、腰を浮かせたほどだったが、それが一瞬早く、円城寺球審には死角になり、ボールに見えてしまったのかもしれない。2勝2敗のタイに追いついたはずが、スタンカが打たれてサヨナラ負けで1勝3敗。南海は第5戦を取ったものの、2勝4敗で敗れた。
  日本シリーズ前に各球団から情報を集めていると「巨人と戦う時は、敵は10人だと思え。ここぞの時はやられるから、覚悟しておけ」と言われたほど、巨人びいきの審判が多かった。ど真ん中の球をボールと判定された時に、「あ~、これか」と思ったものだ。
  まして円城寺さんはセ・リーグの審判。当時の審判はセパの担当が別々で、「必ず巨人の味方をする」と他のチームから植えつけられていた。・・・・ ≫
( 野村克也『巨人・阪神 失敗の本質』2018.11.8. 宝島社新書 ↑ )

短期決戦の勝ち方 (祥伝社新書)
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≪  しかし、巨人の悪い流れは、この年(1961年)の日本シリーズを境に大きく変わる。その転機となったのが、巨人の2勝1敗で迎えた第4戦である。
  8回を終わって巨人が2対1とリードしていたが、9回表二死から広瀬叔功の2ランホームランが飛び出し、南海が3対2と逆転した。その裏、巨人が同点のランナーを出すと、鶴岡監督は、第1戦を完封勝ちしているスタンカをリリーフに送る。スタンカは簡単にアウトを二つ取り、続く藤尾茂も一塁への凡フライ。これで勝ったと思った瞬間、一塁手の寺田陽介がまさかの落球。さらに次の三番・長嶋の三塁ゴロも小池兼司がジャッグルし、二死満塁のピンチになった。
  それでも、スタンカは冷静に四番の宮本敏雄さんを1-2と追い込み、4球目に投じたストレートがほぼ真ん中に決まった。狙い球と違ったのか、宮本さんはあっさりこれを見送ったので、私はゲームセットを確信して立ち上がった。スタンカも、すでに両手を上げて喜びを表現している。
  ところが、球審の円城寺 満さんは「ボール」の判定。
「どこがボールや。ど真ん中やないか。ちゃんと見ろ!」
  私は思わず、声を荒げていた。現役時代、私が審判に抗議したのはこのときだけである。審判に抗議しても得することは何もない。審判を敵に回すくらいなら、少々のミスジャッジには目をつぶり、貸しをつくるくらいでいい。そう考えていた。しかし、大事な日本シリーズで、この判定はない。ひどすぎる。
  スタンカはマウンドで顔を真っ赤にして吠えているし、鶴岡監督もすぐにベンチを飛び出し、猛抗議した。だが、判定が覆るはずはない。
  落胆したスタンカの次のボールは、力のない外角のストレートだった。宮本さんの打球はライト線に落ち、2者が生還。この時、キャッチャーである私のバックアップに走ったスタンカは、円城寺さんに体当たりした。そして、怒りの収まらない南海の監督、コーチ、選手は円城寺さんに再び抗議をしたが、巨人のサヨナラ勝ちは変わらない。円城寺さんは関係者に守られながら、球場をあとにした。
  この試合がシリーズの分水嶺だった。巨人は王手をかけ、最終的には4勝2敗で日本一となっている。・・・・
  私自身、あのときスタンカが投げたボールは今でもストライクだったと思っている。ボールの軌道も、ミットで捕球した感覚もはっきり記憶に残っている。自分のなかでは、永遠に終わることのないシリーズなのだ。
「円城寺 あれがボールか 秋の空」
  私が詠んだのではない。詠み人知らずの川柳だ。こんな川柳が残っているところに、この試合の不可解さがあると言えるだろう。
  1961年の日本シリーズ終了後、私はある人から聞いた言葉を思い出した。
「巨人と戦うときは、敵は10人だと思え」
  もちろん、10人目の敵とは審判のことである。
大事な試合の大事な場面では、必ず審判は巨人に味方する。それは覚悟しておいたほうがいい」
  とも言われた。・・・・・ ≫
( 野村克也『短期決戦の勝ち方』2018.10.10.祥伝社新書 ↑ )

 ・・・・なんか、プロ野球の審判て「裁判所みたい」て思いませんか?
 「 裁判所 あれが《ボール》か 秋の空 」

 ↑ 《ボール》のところを入れ替えて、
 「 裁判所 あれが敗訴か 秋の空 」 とか、その他、入れ替えると当てはまるものがあるのではないか。

   「裁判官は、大事な場面では必ず・・・・の味方する。」
  「・・・と戦うときは、敵は相手方と裁判官だと思え」 

 と考えるべきケースが少なくないのではないか。

  スタンカは不当な審判に体当たりしたといい、試合後、≪円城寺さんは関係者に守られながら、球場をあとにした。≫というが、東京地方裁判所・東京高等裁判所は、いつからか、入口で裁判所・検察庁職員・弁護士でない一般人には入口で機械による持ち物検査を実施しているが、あれなども、不当な判決を出すのを得意にしている裁判官を「関係者」が守るための装置と考えてよいのではないか。

  裁判所の中の案内図を見ると、グレーに塗られてどうなっているのか明らかにされていないゾーンがかなりあり、見ていると、法廷には裁判官は変な所からヒョイと出てきてヒョイと消えていくが、あれも、≪円城寺さんは関係者に守られながら、球場をあとにした≫というように、不当に人の権利を侵害する裁判官を守るための小道具ではないか。
  あの金属探知機は健康に良くないものではないのか? 警備員が「もう一度、通ってください」とか要求することがあり、横から元の場所に戻って通り直そうとすると、「こちらから通って」と探知機の場所を往復させようとするが、あれは何度も通ると健康に良くないことはないのか? 不必要に往復させるのは適切ではないと思うが、東京地裁・高裁の警備員は往復させたがる。あれはそういったことをすることで、一般人が裁判所を利用することに抵抗を感じるようにしむけているのか? そこまでは考え過ぎか。

  今は昔、日本ハムファイターズの監督だった上田利治が、審判に「ヘタクソ!」と言ってポカンと殴ったということがありましたが、たとえ「ヘタクソ」であったとしてもポカンと殴っちゃいかんのですが、しかし、実際問題として、「ヘタクソ!」と言ってポカンと殴られても文句なんか言えないような裁判官が相当いるのではないでしょうか・・・・。

  (2019.3.14.) 

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