「一条の家は完璧にいい」の反証9-出過ぎた口きく設計、学んだ者に学んでいない者に服従しろと言う本部長

[第702回] 一条工務店の浜松営業とはどういう人間か【14/  】
《14》 民法など学んできた者に、学んでいない者のデタラメ・デマカセに「服従しろ」と要求する営業本部長。社会常識が欠ける(株)一条工務店の設計担当者
  私は、大学を卒業するまで、大学という所で扱っているものが会社という所において役立つものなのかどうか、又、小学校から大学までで学んできたものというのが会社という所において役立つものなのかどうか、良くわからなかった。もし理学部とか文学部とかを卒業して教諭の資格を取得した上で高校や中学校の先生になった場合、医学部に行って医師国家試験に合格して医師として勤めた場合とか、旧型司法試験に合格して裁判官とか検察官とか弁護士とかになった場合には役立つであろうと思ったが、法学部・経済学部・商学部といった学部を卒業して会社という所に勤めた時に、役立つものなのかどうかはよくわからなかった。むしろ、1970年代後半、北野高校の3年の時の担任の教諭で日本史を担当していた大谷(男。当時、40代)は、「大学はどこでも一緒や。このくらいのことは理解しておいてもらわんとなあ」などと言うので、それでは、法学部に行って司法試験に合格して裁判官や弁護士になる場合や、国家公務員1種試験に合格して国家公務員に「キャリア」として入庁する場合、公認会計士試験に合格して会計事務所に勤める場合などを別とすれば、法学部・経済学部・商学部などには小学校から高校まである程度以上真面目に努力して学んできた者は行っては損だしバカだということになるので、そういう学部に行かされるのは嫌だと思っていたのだが、結果として、小学校の時から日本で一番嫌いだった大学の首をもがれてもいかされたくないと小学校の時から思っていた学部に無理矢理行かされてしまい、しかたなしに卒業してしまったのだが、実際に、会社という所、住宅建築業の小堀住研(株)、及び、(株)一条工務店に勤めてみると、「小学校から大学までで学んでいるものは会社という所において役に立つ」、「法学部・経済学部・商学部といった所で扱っているものは会社という所において役に立つ」と思うようになった。又、慶應の教授先生で「物産(三井物産)・商事(三菱商事)とか、そういった財閥系の誰もが行きたがるような所で、東大・京大や慶應・早稲田の卒業生ばかりの会社に行くよりも、むしろ、慶應あたりの卒業生をなかなか採用できないというくらいの会社に勤めた方が、活躍する場があって実力を発揮できていいところがある」と言う方があったが、しかし、「東大・京大や慶應・早稲田あたりの卒業生ばかりの会社」に勤めて、「競争」に勝っても負けてもそれはしかたがないとして、「慶應あたりの卒業生をなかなか採用できないという会社」に勤めて、負けたのでは元も子もないのではないのか・・とも思ったのだが、父が言うには「そんなもの、慶應あたりの卒業生がうちの会社なんかにもしも勤めたとして、競争に負けるなんてことは、百パーセント、絶対にない! ありえないことや、そんなことは」と言うのだったが、もし、その「あり得ないこと」があったらどないしてくれんねん? とも思った。しかし、これも、小堀住研(株)や(株)一条工務店に勤めて、実際にそれは「あり得ないこと」だとわかった。プロ野球選手がプロの選手同士の競争なら勝つこともあれば負けることもあるが、しろうととの競争ならまず負けることはないというのと似た話、幕内の相撲取りが十両くらいの力士に負けることならあるかもしれないがしろうとと相撲とって負けることはまずないというのと似た話で「高卒のおっさん」との違いは間違いなく発揮できるが、但し、経営者がその「違いがわかる男」かどうかは別問題である。
  1980年代、慶應の日吉新図書館(「槇文彦先生が設計された」というやつ)で自習をしていた時、書棚にあったのが岡邦行『江川になれなかった男たち』(1983.三一書房)。図書館で自習すると、つい、そのへんの書棚にある本が目について、つい見たくなって手に取り、ふと気づくと、自習するつもりだった時間を過ぎていた・・なんてことになって困ったものだったのだが、その本、『江川になれなかった男たち』に出ていたのが、1969年から1970年にかけてのプロ野球「黒い霧事件」で、益田・与田・池永と主力投手が永久追放になった西鉄ライオンズで、二軍にいた東尾は「これはチャンスだ」と思ったという話。「野球は投手なしではできない。これだけ、一線級投手がいなくなったなら、俺たち二線級の出番だ」と、東尾はそう考えたそうで、そして、1970年、稲尾監督は東尾を先発投手として出してくれたが、いかんせん、二線級投手だけあって、投げては打たれ、投げては打たれして負け続けたが、ところが、経験を積むに従い、後半はいくらか勝てるようになり、ローテーション投手の仲間入りをすることができた、という。だから、1971年の敗戦数はリーグ1位、1972年も敗戦数はリーグ1位で、この1972年の25敗というのがプロ野球ワースト記録だが、「それだけ負けたおかげで勝てるようになり、ローテーション投手となることができたのだから、ワースト記録でもかまわない」と東尾は言った(一球打たれたらマウンドにへたりこんで、「ぐう~う」とうなって失踪するという星飛雄馬とは正反対だった!)という話だった・・・のだが、「慶應あたりの大学の卒業生をなかなか採用できないくらいの会社」に勤めれば、「一線級投手のいないプロ野球チーム」みたいなもので、「新人投手・若手投手が試合に出してもらえる可能性」が高いのではないか・・と思えたし、実際、小堀住研(株)も(株)一条工務店も「一線級投手」なんていなかった・・のだが、ここで問題は《「一線級投手」のいない会社》の経営者というのがどういう思考をするのかという問題である。「慶應あたりの卒業生をなかなか採用できない会社」の経営者は、そういう大学の卒業生を採用できた場合にそれを生かすことができるかどうか?
 イタリア映画『昨日・今日・明日』で、ソフィア=ローレン演じる金持ちの女の若いツバメがロールスロイスをぶつけ、その金持ちの女が通りがかりにクルマを停めた男に「ロールスロイスってだめなクルマなんでしょうか?」と言うのに対し、男が「いえ、使う者にもよります」と言う場面があったのだが、そんな感じのところがある。(株)一条工務店の中卒・高卒の経営者が「慶應あたりの卒業生」を採用できても使うことができるかどうか、生かすことができるかどうか? そういうことを考えると「物産・商事みたいな会社」でもしも採用してもらえるものなら、そっちに行っておいた方がいいのではないか、と(株)一条工務店に勤めて思うようになった。実際、(株)一条工務店では「ベンチがアホやから野球ができん!」と言いたくはないが言いたい気持ちになった。そういう会社の経営者は「一線級投手」がいなければ、「若手投手」「新人投手」に投げさせるのではなく、「若手投手」「新人投手」には絶対に投げさせてなるものか! という態度をとり、便所掃除で入社した人に投げさせる・・なんて態度をとることになる。(株)一条工務店はそういう会社だった。「物産・商事」よりもむしろ「出番」はなかった。
 1992年に(株)一条工務店に入社した後、営業本部長の天野隆夫が「〇〇くんが応募してきた時はびっくりしたなあ。うちの会社に慶應大学の出身の人が来てくれるのかと思った」と言ったことがあり、そんなに喜んでもらえるのなら、その時点で従業員数千人未満の会社で、浜松・掛川では有名企業でも全国的には無名の会社で、東京圏では「知ってる人なんてないでしょ」と言われる会社で、住宅展示場も東京都では江東区潮見に1か所、神奈川県では茅ケ崎市に1か所あるだけの会社で、未上場の会社で、創業20年未満の会社で、地方に本社のある会社で、住宅建築業の業界でもトップグループではない会社で日経新聞社から発行されていた「業界別会社シリーズ」にも掲載されていない会社だったが、そこまで喜んでもらえるのなら悪くないかもしれないと思ったものだったが、しかし、いくら自分を犠牲にして毎日毎夜毎年滅私奉公を続けても、どう考えても意図的に嫌がらせをされているとしか思えないし、意図的に実力を発揮できないようにしているとしか思えない扱いだった。私は、途中で、(株)一条工務店のオーナー経営者は、私を会社を運営する仕事につかせたくないのか・・と思い、それならそれで、知識を必要とするような業務につかせて生かすようにすればいいのではないのか・・と思ったのだ。 私は小学生の時から法律の本を読んでいた人間であり、結果として慶應の商学部を卒業したけれども、高校を卒業する時点では哲学・心理学に関心があり、もし、そういう方面を専門とする研究者になるのでなければ、司法試験を受けて裁判官か弁護士になりたいと考えていた人間で、そうであるから、商学部の卒業生としては法律科目を多く履修してきた人間であり、そのあたりも(株)一条工務店の面接などの際にも営業本部長の天野隆夫に話してきたはずであり、そういったものを活かさないというのは会社として損失のはず、中卒・高卒の人間と同じ扱いにしたのでは「なんのために慶應大卒の人間を採用したのかわからない」はずであった・・が、活かしてたまるか! というのが(株)一条工務店で、結局、(株)一条工務店のオーナー経営者一族が私をどう使ったかというと、営業本部長の天野隆夫はフィリピンパブに連れて行ってくれて、そして、何もわからないフィリピーナのホステスに「〇〇くんは慶應大学卒なんだぞお。すごいだろお」と言い、何もわかってないねーちゃんに、「だけど、ぼくの方が上役なんだぞ」という結論にもっていく・・というそういう泣きたくなるような情けない使い方しかしなかった、できなかった。まさに「ベンチがアホやから野球ができん!」という態度の使用者だった。だから、私の場合は大学を卒業する時点でひとより年齢をいっていたということがあって「物産・商事」とかそういう会社では採用してもらえる見込はなかったのだが、もし、採用してもらえる可能性がある人は「ベンチがアホやから野球ができん!」という会社に勤めるよりも、「東大・京大や慶應・早稲田の出身者だらけの会社」に勤めた方が、その方が「活躍する場」も「経験を積む場」もあっていいと思いますよ。
  ロールスロイスというのは、運転する人の腕があってこそのクルマらしい。まあ、私なんかはロールスロイスなんて乗りたいとも別に思わないが、そういうクルマらしい。(株)一条工務店の初代社長大澄賢二郎に息子が2人いて、片方が「女性を刃物で刺し殺した息子」で他方が「女性を刃物で刺し殺した息子でない方の息子」らしいのだが、もうひとつの分類として、「フェラーリテスタロッサを燃やした息子」と「フェラーリテスタロッサを燃やした息子でない方の息子」という分類があった。初代社長の大澄賢二郎は従業員に給料を払う時には「そんなもの、カネないのに払えるわけないだろうが」とか言いながら、自分で働いて生活しているわけでもないドバカ息子にフェラーリテスタロッサなんてバカ高いクルマを買い与えるカネはあったらしく(慶應大学の先生なんかでは、「最近の資本制経済の国では、カール=マルクスが描いたような『資本家が労働者を搾取して私服を肥やし』といった構図とは違った資本主義の社会になってきている」なんて言う人がありましたが、はたしてそうであるのかないのかというのは、それは「一流企業」に勤めた場合のことであって、(株)一条工務店なんて三流以下企業に勤めると、まさにカール=マルクスが描いたような「古典的資本主義」がそこにある! なぜ、世界で最初の社会主義革命が資本主義が発達した西ヨーロッパで発生せずに資本主義経済が未発達なロシアで起こったのかという理由として、西ヨーロッパの国においては、労働組合もでき、労使の団体交渉によって「資本」の側がある程度譲歩して資本制の経済を維持していくというシステムができていたのに対し、ヨーロッパにおいて大国ではあるが後進国であったロシアにおいてはそういったシステムが機能せず、根底からひっくり返すしかなかった・・といったことを言う人がいるのだが、日本の企業においても、労働者に対して多少は譲歩もして互いに共存共栄していこうという企業もあるのだろうけれども、根底からひっくり返すしかどうしようもない会社というのもある、ということのようだった)、それを買ってバカ息子に乗せたところ、エンジンが火を出して燃えたらしいのだ。その「フェラーリテスタロッサを燃やした息子」とそうでない方の息子の2人がいるということだった。その「フェラーリテスタロッサを燃やした息子」と「女性を刃物で刺し殺した息子」が同一人物なのか、それとも、「フェラーリテスタロッサを燃やした息子」と「女性を刃物で刺し殺した息子」は別で、大澄賢二郎には「フェラーリテスタロッサを燃やした息子」と「女性を刃物で刺し殺した息子」の2人の息子がいるということなのか、どちらなのか、従業員の間でも話題になったがどちらなのかは不明だった。
(A説) 《「フェラーリテスタロッサを燃やした息子」兼「女性を刃物で刺し殺した息子」》と《「フェラーリテスタロッサを燃やした息子でない息子」兼「女性を刃物で刺し殺した息子でない息子」》
(B説) 「フェラーリテスタロッサを燃やした息子」と「女性を刃物で刺し殺した息子」
いずれにしても、フェラーリテスタロッサとかロールスロイスとかいうのは、運転する技術がある者が運転すればいいクルマらしいが、そうでない者はカローラかせいぜいクラウンくらいにしておいた方が無難らしい。それと似ているのかもしれない。「中卒のおっさん」の経営者には、中卒か高卒の人間がいいのかもしれない。そういう所に行くくらいなら、もし、採用してもらえるものなら「物産・商事」などに行って競争に勝ったり負けたりした方がずっといいと思うよ。

  それで。1993年前半のこと。東京都練馬区の大泉学園のあたりで建てられる方に契約いただいたのだが、その方の建築地にちょっと特徴があった。実際にその場所に行って見ると「道路」のように見えるが法律上は「道路」ではないという場所がある。住宅を建てようとすると、敷地は4メートル以上の幅の「道路」に2メートル以上接道していないといけないということになっている。4メートルない「道路」に接道している場合には道路中心線から2メートルの位置まで後退することで、それまで敷地であったが道路に近い部分を「道路」とすることで建築することが認められている。
  「道路」ではないが「道路」みたいに見える土地が敷地の脇にある場合にどうすべきなのかという問題がある。練馬区の大泉学園のあたりで建てていただいた方の敷地はそういう土地だったのだ。

  宅地建物取引士(←宅地建物取引主任者)の資格試験には7つの分野から出題されるとされているが、そのうち、出題されることが多いのは、「権利の変動(主として民法)」「法令上の制限」「宅地建物取引業法」と「税金」の4つの分野で、このうち、「税金」は本格的に学習するには時間がかかるし、「ちょろっとやった」だけではようわからんし・・ということで、「権利の変動(民法)」「法令上の制限」「宅地建物取引業法」の3つの分野をきっちりと学習すれば、他の分野はそれほどやらなくても合格最低点以上の点数を取れると言われていて、私が1992年に合格した時もその方法で合格した。「法令上の制限」というのは、法律としては都市計画法建築基準法の2つが出題されることが多く、他に国土利用計画法とか農地法といったものも出題されることはあったが、都市計画法と建築基準法の2つの出題が多かった。3分野と言っても実際の業務においては2つ以上の分野がからみあってくることは少なくない。大学では、どの学部がこういったものを扱うかというと、法学部では民法を扱うし、商学部でも民法は扱うので「権利の変動(主として民法)」の分野は関係があるだろう。建築学科の場合、私が通信課程で行った愛知産業大学の建築学科でも「建築法規」という講座があったが、そこで扱うのは主として建築基準法で、他の大学の建築学科でもそんな感じではないかと思う。二級建築士の学科試験の問題は「計画」「施工」「構造」「法規」の4分野から出題されるが、「法規」で出題されるのは主として建築基準法である。2001年、(株)一条工務店の栃木県南部の「副所長」(「副所長」という肩書だが仕事の内容は営業所長)にならせてもらっていた木下(男。当時、40代前半)が「宅地建物取引主任者(→宅地建物取引士)にしても、インテリアコーディネーターにしても、ぼくらはどんなにしても通らないのに、あんたは何の努力もしていないのに簡単に通る。ずるい。不公平だ」などと暴言を吐いたが、それはとんでもない的外れな発言である。私は宅地建物取引士(←宅地建物取引主任者)にしてもインテリアコーディネーターにしても、「何の努力もしていないのに」「簡単に」なんて通っていない、いずれも、大変な努力と苦労と工夫によってなんとか通ったのであり、又、「ぼくらはどんなに努力しても通らない」と言うのなら、いったいどんな努力をしたんだ? ということになるが、何もしていない者が「ぼくらはどんなに努力しても」などという口はきかないでもらいたいものであり、木下の発言は失礼であるが、それよりも、まず、私は大学卒業までに民法もある程度以上学んできた者であり、大学の講義でも「法学」の講義も履修して「A」の成績をとっているし、中学校の「公民」・高校の「政治経済」も学んできた人間であり、宅地建物取引士(←宅地建物取引主任者)という試験に出題される内容は、法律に関するものが多く、「権利の変動」の分野は最も関係する法律は民法とはいえ、大学の「民法」の講座を履修してくれば宅地建物取引士(←宅地建物取引主任者)の試験の「権利の変動」の問題を正答できるかというとそういうものでもないのだけれども、法律をある程度以上学んできた者にとっては個々の法律の内容は知らなくても、「法学的な考え方」というものが身に着いておれば法律に関係する試験には対応しやすく、そのための努力をしてきた者としてきていない者が一緒なら、そちらの方こそよっぽど「不公平だ」ということになるはずだ。
  大学の学部学科で見て、どういう学部学科が宅地建物取引士(←宅地建物取引士)の試験の内容に関係が深いかというと、法学部法律学科と商学部(もしかすると経済学部も)では民法を学んできているので「権利の変動」の分野にはいくらか関係があり、建築学科では建築基準法を学んでいるはずなので「法令上の制限」の分野で関係があるだろう。「宅地建物取引業法」について大学で扱っている所はあんまりないと思うが、千葉県浦安市に明海大学というのがあって、そこに全国でただひとつ、不動産学部というのがあるようなので、もしかすると、明海大学の不動産学部では宅地建物取引業法を講義で扱っているかもしれないが、法学部・商学部など社会科学系学部で「法学的の考え方」を身に着けてきた者は宅地建物取引業法もそうでない者よりも学びやすいだろう。建築士の場合は建築学科で扱っている内容が試験に関係するものが多いので他学部卒の者よりも有利であるが、宅地建物取引士の場合は、法学部・商学部(経営学部・経済学部など)出身者と建築学科出身者はそれまでに学んだもので関係あるものがあるのでそうでない者より有利であるが、どちらかといえば、建築学科よりも社会科学系学部の方が関係は大きいと思われる。1989年、小堀住研(株)の松戸営業課長だった石井(男。当時、30代なかば)は「宅建主任(→宅地建物取引士)なんて、一級建築士の格下の資格じゃないか」と言っていたことがあったが、石井は自分が一級建築士の資格保持者だということでそういうことを言いたかったようだが、それは正しくない。建築士と宅地建物取引士は仕事の内容も異なり、出題内容も難易度の違いではなく出題分野が異なるものであり、どちらが上とか下とかいう資格ではない。石井は高校卒業の後、中央工学校に行って一級建築士の資格を取得したらしいが、「建築専門学校卒」の人にはこういったことを言う人が少なくなく、「建築専門学校」という所は「いっきゅうけんちくしい」というものを特別扱いしたがるビョーキみたいなものを受講した人に植えつけているようなところがあって、その点は好ましくない。

 住宅を建築するためには「道路」に敷地が2メートル以上接していないといけない。この場合の「道路」であるが、
1.道路法による道路(国道・県道・市道など)
2.都市計画法、土地区画整理法などによる道路
3.建築基準法の規定が適用される時に既にあった道路
4.計画道路で2年以内に事業が施工される予定のものとして特定行政庁が指定した道路
5.位置指定道路
6.法42条第2項道路として特定行政庁が指定したもの。(「2項道路」)
とされている。
 その場に行って見ると「道路」みたいに見える部分があればそれは道路なのだろうと、実は私も住宅建築業の会社に勤める前には思っていたのだが、「道路」みたいに見えるものでも↑のどれにも該当していないものというのが中にあるようなのだ。かつ、それでも、その「道路みたいに見えるが道路でない土地」を道路みたいに使ってそこに住んでいる人がいる場合があるのだ。もう、25年以上前のことなので記憶があいまいになってしまった部分もあるが、練馬区の大泉学園のあたりで建てていただいた方の敷地は、北西の角地のように見えたのだが、西側は「道路」だったようだが、北側は「道路」という扱いになっていなかったらしい。
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↑の一番左、桃色で斜線を引いた土地が建築地である。土地と解体して建替えようという既存の建物はお施主様の親の所有だったような気がします。
  もし、西側も北側も公道であったなら、4メートル以上あればそのまま建てればいいし、4メートルなければ道路中心線よりも2メートルの位置まで「セットバック」して建てるということになるでしょう。この土地の場合、たしか、西側も北側も4メートルなかったように思うのですが、西側は公道で4メートルないといってもほんのわずか不足している程度で、ほんのわずかだけ「セットバック」すればよかったという状態だったように思います。
  問題は北側なのです。これが↑の1~6のいずれにも該当していなかったのです。北側は「道路みたいに見えるけれども道路ではない」という土地だったのです。そうなると、ここの施主からすれば、北側は「道路」になっていない以上は北側は「セットバック」する必要はありませんし、西側はほんのわずかだけ「セットバック」すればいいわけですから、自分の所はそうして建てることができ、かつ、北側は「道路」ではないので「セットバック」して敷地を狭くする必要はないとともに、現実に「道路みたい」な状態であって、そこには建物は建たないとともに、「道路」でないといってもそちらから出入りすることだって現実にできるわけです。
 それなら良かった・・と思いそうですが、ところが、東側にも何軒かの家が建っています。そこの家の人達も、いつかは建替えたいと考えるでしょう。そういう際に、この施主のお宅は西側に接道していますが、その東側の何軒かは北側の「道路のように見えるが道路でない」という土地を使って通行しているものの、その現実に通行している土地は↑の1~6のどの「道路」でもないので、再建築できないことになるのです。これは、私は練馬区役所の建築指導課その他の担当部署に行って確認してきたことですから、いいかげんなことは私は言っていません。
  もし、東側の何軒かが再建築できるようにしたいと思えばどうすればいいかというと、北側の「道路のように見えるが道路ではない」という土地を「道路」にすれば再建築できることになります。「道路」にするにはどうすればいいかというと、幅を4メートル以上確保して↑の5の「位置指定道路」として申請して認可を受ければ、「道路」に接道していることになります。しかし、北側の「道路のように見えるが道路でない」土地の幅は4メートルありませんし、西側の「道路」は4メートル欠けるとはいえほんのわずかでしたが、北側は4メートル確保しようとするとかなり「セットバック」しないといけない状況だったのです。
  さて、どうしたものでしょう。もし、ほんのわずかだけ「セットバック」すれば「位置指定道路」にすることができるのであれば、あらかじめ、「ほんのわずかだけのセットバック」をできるように北側をあけて建てるという方法もあるかもしれませんが、「ほんのわずかずかだけ」ではなかった。
  又、この建築地が「北西の角地」ではなく「南西の角地」であったなら、一般に建物は北よりに建てて南側に庭を残すことが多いので、南側が庭になるようにしておいて、もしも、将来、東側の住人が建て替えたいので、「道路ではないが道路みたいに使用している土地」を「位置指定道路」にしたいので、この施主の土地をいくらか「道路」にさせてもらえませんかというお願いをしてきた時に、その部分を売却するのか貸すのかするか、断るか、その時点で考えることに話を「先送り」して、今回はとりあえず、その「道路でないが道路みたいな土地」にはふれずに建物は北よりに建てる、ということにすることもできます。しかし、難儀なことに「南西の角地」ではなく「北西の角地」だったのです。
  住宅は、フリーダムアーキテクツデザイン(株)の《わざわざ変なことして「世界でただひとつの家」とか言いたい症候群》の自称「設計士(さま)」とかは別として、普通は敷地の北よりに建てます。(株)一条工務店の「セゾン275S1」というタイプは、軒の出が75センチありますよお~というのが「売り」のひとつでしたが、その軒の先に樋をつけますから、かつ、図面に書く線は壁面の中心線であって壁には厚みがありますから、実際には、図面上、110cm離す必要があります。建物の脇に、エアコンの室外機だとかなんとかかんとか置くと、そのくらいあけたとして、保守や掃除の時になんとか通れるという程度。もし、日常的にそこを通行するのならもう少しあける必要があります。
  敷地は「東京都内で建てる人としては、そう狭いわけではない」という広さでしたが、あくまでも「東京都内で建てる人としては」ですから、無茶苦茶広いわけではありません。施主としてはお金をかけて家を建て替えようというのですから、できる限り自分達が住みいい家にしたいはずです。そうなると、やっぱり、建物は北に寄せて建てることになるでしょう。自分の所では南に寄せる理由はないのに南に寄せて建てたのでは住みいい家になりません。しかし、北に寄せて建てると、東側の隣家の人達は再建築できなくなります。さて、どうしたものでしょうか?

  けっこうややこしいな・・てところですが、逆に、そういう「けっこうややこしい」場所で建てる際に適切で良心的な対応をすれば、それによってお施主様から評価していただける可能性もあります。
  もし、東側の何軒かから、北側の「道路でないが道路のようにしている土地」を「位置指定道路」にしたいので、そのお施主様宅の土地の北よりの部分を借地として貸してもらえないか、それに対して、毎年、◇◇万円支払うことにしたいがお願いできないかという申し出があって、施主がそれを承諾したということなら、その前提で建てればいいでしょう。もしくは、東側の隣家何軒かから北側の「道路ではないが道路のような土地」を「位置指定道路」にするため、北よりの部分を売ってもらえないか、金額は・・・としたいがどうかという申し出があって、施主がそれを承諾したということなら、その前提で計画すればいいでしょう。しかし、そういう申し出が、今、東側の家から出ているわけではないのです。又、施主の立場からすれば、無茶苦茶広い土地ではありませんから、そういう部分を売るなり貸すなりして建築地を狭くしてしまうというのはうれしいことではありません。
  東側の、もしも、北側の「道路ではないが道路のような土地」を「位置指定道路」にしないと再建築不可になるという家が1軒ならまだいいのです。1軒なら、もし、施主が土地の北よりの部分を売るなり貸すなりしてもいいと考えたのなら、その1軒に、この金額で売ってもいいがどうか、この金額で貸してもいいがどうかという話もできますが、1軒ではなく3軒ほどあったように思います。そうなると、たとえ、施主が、将来、再建築不可になっては困るでしょうから、今、「位置指定道路」にしておいた方がいいから、そのために私の土地の北よりの部分を売ってもいいから、いくら出してくださいといった話をしようとしたとしても、なかなか、話はまとまりにくいと思えます。
  又、「売りたい」と言った場合と「買いたい」と言った場合なら、「買いたい」と言われて売った方が高い値段で売れるというのが一般的ですよね。もし、施主が建築の予算が厳しいから土地の一部を売って建築費に充てたいとかいう事情でもあるなら別ですが、そうでもないのに、自分は売りたい・貸したいわけでもないのに自分から言って安い値段で売ったり貸したりしたのではアホですよね。東側の何軒かを「再建築不可」にしたいわけではないけれども、土地の北よりの部分を「買いますか」「借りますか」なんて話をして、話がまとまらないとなると、建築計画自体が頓挫するおそれもあります。

  どうするべきか?・・結論を言うと、それはお施主様に決めてもらうしかありませんね。建築屋が決めることではありません。建築屋は、状況をきっちりと説明して、施主が判断できるように整えることが仕事であって、どうするか決めるのは施主です。
  ところが、1993年4月に東京営業所に「設計」として入社した堤(男。当時、20代なかば。「明治大学建築学科卒」らしい)が少々変わった男でした。大学も明治大学しか出ていないわりに態度がでかい・・くらいは我慢してやるとして、住宅建築業の会社の従業員として非常識。
  彼の困った特徴が3点ありました。
(1)私は、高校時代、建築学科に行きたがる人間というのを馬鹿にしていました。なぜ、馬鹿にしていたかというと、建築学科に行きたがる人間というのは「精神的にパッパしたヤツが多い」という点です。「建築家」とかいうなんかカッコマンになりたがる精神的に薄いヤツが行きたがるのが「建築学科」だった。まあ、そうでない人もいますけれども、そういう「パッパしたヤツ」が多いという点があった。堤にもそういう特徴があった。図面にも、部屋の名前を書くのに、日本人が書いて日本人の客に見せるのにわざわざ英語で部屋名を書いて、しかも、「和室」を「Japanese room」なんて書いて。「和室」は「tatami room」とするか、もしくは「Japanese style room」とするかであって、「Japanese room」では「日本人の部屋」とかの意味であって和室という意味にはならない、と私は中学校の「英語」の授業で先生から教えられたが、堤はそういう「和室」という意味にならないいかさま英語で部屋名を書いていたが、たいして語学の能力がないなら日本人が日本人に見てもらう図面を書くのにわざわざいかさま英語で書くのではなく日本語で書けばいいのに、そのあたりにも「精神的にパッパしている」という特徴が出ていました。
(2)もうひとつは、「マンション住まいの人間に戸建住宅の設計をさせるとマンションみたいな戸建住宅にする」という話がありますが、堤にもそういう所があった。 そして、
(3)私は「精神医学」というものをあまり信用していませんが、特に、「精神疾患」というものの範囲を広く解釈するといくらでも広くなっていき、ほとんどのものは「精神医学」の対象にされてしまうことになり、「精神疾患」「精神医学」の対象は狭く考えるべきであると思っていますが、もし、広めに解釈すると彼はその対象になるでしょう。「バカでも入れる私立大学」の建築学科を卒業して4年目だかで年齢的に若かったわりに人間的に扱いにくい偏屈な性格の人間だった。「設計」の職種につきたがる人間には、「設計」の職種の人間は他職種の人間から常に機嫌をとってもらう権利があると思っている人間がおり、堤もそういうところがあったようだが、営業の職種をやっている人間は「社内営業」として多少は我慢もせざるをえない時もあるかもしれないけれども、だからといって、そんな「権利」なんて認めた覚えはないからね。

  彼が「精神的にパッパした」ところがあったとしても、五流大学の建築学科に行ったヤツなんてのはそんなやつだらけですし、そういうのでも営業は使ってやらなきゃしかたがないので、それを問題にしようとは思いませんが、彼はこう言ったのです。「『北側をセットバックして建てるようにしないと、今後、東側の人たちが再建築できなくなってしまうのですから、自分の所は建てる際に北側を道路にしなくても建てることができたとしても、それでも、南に寄せて家は建てて北側は道路として東側の人達が建てられるようにするのが常識でしょ』と施主に言うべきだ」と。誰が言うの? 誰が? 
  もし、そうしたとすると、敷地の北よりの部分を売るのか貸すのかどちらをするわけ? 売るなら売るで、「こうこういう状況ですから、北よりの部分を売りたいと思いますが、相場から考えるとこのくらいの価格ですが、東側の住人のために売るわけですから、相場よりも高めで考えてこの金額で売却することにしたいと思いますので、〇日までに支払っていただくというようにお願いします」と東側の何軒かに堤が言いに行くの??? それとも、もしかして、そんなことを俺に言いに行けて言うつもりなの??? アホか!
  どうも、堤はそう考えていたのではなく、東側の何軒かのために、この施主が敷地の北よりの部分を無料で「道路」として提供するべきだと言いたいらしかったのだが、私が施主なら、「ふざけんな!」と言うことになりますね。普通に考えてですよ。この土地と建物を購入する時、施主の土地は西側の道路に接しているということで、東側の何軒かよりも高かったはずなのです。その時に立ち会ったわけではありませんが、普通はそうです。それなのに、なんで、安い値段で買った人のために、自分には何の利益にもならないのに、自分の土地をタダで提供してあげないといけないのですか? 「あんた、いいかげんにしなさいよ」ということになるでしょうし、「あんた、いったい、誰から雇われたの?」とも言いたくなります。(東側の何軒かは、再建築不可物件として最初から安く買っているということも可能性としてあります。)弁護士てのは時々そういう手合がいるみたいで、相手方のために働くヤツ、実質検察から派遣された「狐」がいるようですが、「あんた、その類なの?」てことになる。なんでそんなおかしな男に建築を頼まないといけないの? 「やっぱり、無名二流工務店の人間は言うことがおかしいねえ」ということになってしまい、解約されることになる危険性もあります。私が施主なら「うちにとっては何のメリットもないのに、なんで、うちの土地をよそのために提供しないといけないの? うちの土地をよそのために提供しろと言われるのなら、その土地の代金を堤さんか一条工務店が払ってくださいよ」と言いますね。そのくらいも言えない人なら家は建てられないのではないでしょうか。

  私はとんでもないことを言うやつだと思い、堤に「そんなこと言っちゃだめだよ」と言って理解させようとしたのですが、(1)「バカでも入れる私大の建築学科」に行くような「精神的にパッパしたヤツ」で、(2)「マンション住民であって、戸建住宅に住んで近隣との関係を経験した基礎体験がない人間」で、(3)「バカでも入れる私大の建築学科卒」の人間、「設計の職種の人間」には他職種の人間はへこへこ機嫌をとる義務があると思っている人間である堤は、戸建住宅の近隣関係について理解力もないし、言ってもきかないのです。もしも、堤が変なことを言って解約されたとすると、そのマイナスは誰につくかというと私につくのです。堤にマイナスがつくのではないのです。
  堤はそのあたりの素直さがない男で、言ってもきかないので、それで、私は営業本部長兼「名目上、東京営業所長」兼「名目上、松戸営業所長」であった天野隆夫に、「この土地の状況についてお施主様に話をするのは、堤さんは同席してもらわないようにして私が説明することにしてよろしいか」と、そう言ったのです。至極もっともなことであり、そういう配慮をしないと仕事ができない半端な能力の「設計」を配属しているのですから、それを補っていこうという能力と努力のある私のような営業には、営業本部長としては「申し訳ない」の一言くらい言っていいはずです。そうでしょ。違いますか?
  ところが。営業本部長の天野隆夫という男は「バカでも入れる私大の建築学科卒」の人間を増長させるのが趣味だったのです。「趣味」なのです! それが営業上プラスになるからではありません、天野隆夫という男はその「趣味」を会社経営上の事情よりもためらうことなく優先する男でした。
  営業本部長の天野隆夫は、私が上記の内容を説明して、堤は説明してあげても理解しようとしないし、堤に施主に話をさせたのでは施主は怒るだろうし、そういうとんでもない対応を会社としてするわけにはいかないので、この点については堤は同席させないようにして私が話すようにしたいと思いますがよろしいか、と話したところ、「ぼくは、お前に図面や設計の話をさせるつもりはないから。おまえは口をきくな。おまえは設計にはどんなことでも従え。おまえは設計にはどんなことでも服従しろ!」・・天野隆夫は私にそう言ったのです。「そんなこと言われても、堤さんの言うようなことをそのままお施主様に話したのではとんでもないことになりますよ。無茶苦茶ですよ」と言いましたが、「無茶苦茶でもおまえは従え。設計の言うことにはおまえはどんなことでも絶対服従しろ! 堤の言うことにはおまえはどんなことでも従え! このぼくがそう言ってるんだよ。わからないのか。設計に服従するのが嫌なら、会社やめろ!」。営業本部長の天野隆夫はそう言ったのです。
  「会社やめろ」などと言われてやめさせられては困ります。(株)一条工務店に入社した時、私は母から「私やったら、三井とか三菱とか住友とか安田とかそういう会社に勤めるわ。あんたは普通じゃないから、だから一条工務店なんてどこの馬の骨かわからんおかしな会社に勤めるんやわ。そこが私とあんたとの違いやわ。あんたはまともじゃないから、だから、一条工務店なんておかしな会社に勤めるんやわ」と言われました。しかし、私だって「三井とか三菱とか住友とか安田とかそういう会社」と「一条工務店なんてどこの馬の骨かわからん会社」となら、「三井とか三菱とか住友とか安田とか」の方が「そりぁ、ええやろなあ」と思いましたが、そんなこと言っても、雇ってもらえない会社がどんなに良くてもしかたがないじゃないですか。どんな会社であれ、雇ってくれる会社はありがたい会社であって、雇ってくれない会社がどんなにすばらしくても、そんなものは、いわば、「ひとの嫁はんがどんなに美人でもしかたがない」みたいなもの?(笑)?(笑)?・・。どんな嫁さんでもいる方がいいかというと、「なんだかんだ言っても、お嫁さんはありがたいでしょ。いなくなったら困るでしょ」なんて言うと、「そうでもないよお。欲しい? あんなの、欲しかったらあげるよ。いる? あげようか。欲しい?」とか言い出すおっさんが時々いるのですが、なんか、嫁はんの話をすると話がややこしくなってくるので、このあたりでとどめるとして、(株)一条工務店なんてそんなに優良企業とかではないけれども、ともかく、この会社で一生やっていこうということで入社したからには、辞めさせられては困りますが、同時に、人を殺したとか多額の横領をしたとかでもないのに「会社やめろ」とか簡単に言われては困ります。そもそも、営業本部長といった役職の人は「会社やめろ」とかそういう文句を本気であれ言うだけであれ、簡単に口にしてはいけないはずなのですが、天野隆夫という人は簡単に口にする人でした・・が、なんで私が辞めさせられなければならないのですか? ↑に述べてきたことをもう一度、よく見ていただきたいと思いますが、非常識な主張をしているのは堤であって私ではないはずです。非常識な主張をする者に注意するのが営業本部長の仕事のはずですが、天野隆夫はそれができない人間なのです。
  この問題は、どういう分野の問題かというと、いわば、民法の分野の問題であり、天野は「バカでも入れる私大の建築学科」卒の人間には営業は何でも従えと言うのですが、建築学科で民法なんてやってませんよ。大学で民法をやっているのは社会科学系の学部、法学部法律学科か商学部など法律学科以外の社会科学系学部であって、建築学科では建築基準法はある程度学んでも民法なんて建築学科の専門と違いますよ。私は小学生の時から法律の本を読み、小学生の頃から裁判官か弁護士になることを考えていた人間で(検察官はあんまり考えなかったが)、大学も社会科学系学部にもしも行くのなら法学部法律学科がいいと考えていた人間であり、司法試験受験も考えて、あと一歩で合格というようなレベルまで学んだわけではないが司法試験の試験科目である憲法・民法・刑法・商法・民事訴訟法などもある程度は学んできた人間であり、そして、近隣関係についての問題に関係する資格としては建築士も関係ないことはないが、この問題などは宅地建物取引士(←宅地建物取引主任者)の方が関係する資格であり、私はその宅地建物取引士を取得・登録した人間で、堤は宅地建物取引士も建築士も取得できていない人間でした。その分野について学んできた人間でその問題に関係する資格を持っている人間に、その問題に関係するものを学んできていない人間でその分野の資格も持っていない人間のデタラメ・デマカセ・思いつきに「従え!」「服従しろ!」というのは根本的におかしいのです。

  天野隆夫は私にしばしばこういう口のきき方をしましたが、私は、この人は中卒でも営業本部長でこの会社では社長の次の人なんだと思えばこそ我慢もしてきましたが、周囲の人、たとえば、松戸営業所の従業員からは、「〇〇さんは本当によく我慢しますね。あれはいくらなんでもひどすぎますよ。上役だからといって言っていいことと悪いことがありますよ。少しは言い返してもいいと思いますよ。あそこまで我慢しなくてもいいと思いますよ」と言われたりもしましたが、言った側、天野隆夫もそのうち理解して申し訳なかったと思うだろうと思って我慢もしたのですが、私が我慢するとこいつは我慢する人種だと天野隆夫の方は思うようでした。
  川島 武宜(かわしま たけよし)他『法律相談』(岩波新書)なんて本をいつ読んだかというと、高校3年から浪人中にかけて読んだのですが、試験科目の勉強せずにそんなもの読んでるから落ちたのかもしれませんが、個々の法律については法令の改正もあれば新しい判例もでてくるので、何十年かするとそのままは役立たなくなりますが、私はこういう本というのは、一般人はどう考えたか、それに対して法律家はどう答えたか、という一般人の思考と法律家の思考というものを考える上で役立つと思っています。そういうものを学んできた者として見ると、堤の思考は「バカでも入れる私大の建築学科」だけあって無茶苦茶です。無茶苦茶に従えと言う天野隆夫も無茶苦茶です。しかし、無茶苦茶なことを主張する者がいても、会社という所は、様々な能力の人間が集まって力を出しあってやっていく所ですから、だから、私の方が能力があるものはその能力を発揮し、彼の方が能力があるものは彼に能力を発揮してもらうようにすればいいのです。ところが、天野隆夫はそうではなく、その分野について学んできた者、その問題に関係する資格を持っている者に、その分野について学んでいない者、その問題に関する資格を持っていない者の主張するデタラメに「服従しろ!」と言い、言われたものが苦痛を感じるのを見るのが、何より快感♪ らしい。その分野について学んできた者・その分野に関係する資格を持つものが、その分野について学んでいない者・その分野の資格をもたない者の言う無茶苦茶を「服従しろ!」と言われて苦痛を感じる姿を見て天野隆夫はエクスタシーを感じるらしい。こんな対応の家が「すべてに渡って完璧にすばらしい」と思いますか?
 (2019.5.19.)

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