日下部民芸館(高山市)とともに考える床の間と付書院。付書院は床の間のすぐ横からか手前からか。付書院部分の広縁はどうなるか。床脇の上に長押はまわすべきか、まわさないものか。縦格子は良くても横桟は衛生的でない、て飲食店経営者はわからんかな・・ー日下部民芸館2

[第736回]高山シリーズ6回 日下部民芸館2
  床の間 とはどうなっているのか・・・、「別にどうでもいいよ。うち、狭いから床の間なんて要らないよ」なんて言う人もあるかもしれないが、そんなこと思って家を建てて住んでみると、床の間が欲しくなったり・・なんてこともあるのではないか。床の間と神棚・仏壇は何より大事・・という方もあるだろうが、床の間というのはどうあるべきものか・・と真剣に考えたことはなく、昔からある様式でいいんじゃないの・・くらいの感覚の人もいるのではないか。その「昔からある様式」て何なんだ・・というと、その地域によって違うし、仏壇は宗派によっても違うだろうし、なかなか難しい。
  今回は、日下部民芸館(旧日下部家住宅)見学の2回目として、床の間と付書院と床脇を中心に考えていきたい。なにしろ、この家は、床の間があっちやらこっちやらにいっぱいある家であり、しかも、それぞれが異なるので、床の間 研究にはなかなか良い。かつ、高山陣屋の和室では、付書院の作り方が、この日下部民芸館とでは少々異なり、そのあたりも、比較しながら考えたい。

  まず、「床の間」について、おさらいします。 講談社編『新感覚の和風住宅』(1985.2.1.講談社)は、1980年代終わりから1990年代初めにかけて、私が住宅建築業の会社に入ってすぐの頃に読んで学習した本ですが、これに所収の小林盛太「和風住宅の構成とディテール 和風のよさを見直そう」では、「床の間の基本的な種類と特徴」として、
《 正式な床の間は、床脇棚・書院が付属したもので、これを本床(ほんどこ)といいます。 変形の床の間は、茶室建築から起こったもので、蹴込み床・踏み込み床・塗り回し床・袋床・釣り床・織部(おりべ)床・置き床などがあります。》
と書かれ、それぞれについて、
本床(框床)  もっとも本格的な床の間です。角材を床柱に使用し、床框(とこがまち)を取り付け、一段高くした床表面に畳を敷き、框は蠟色(蝋色)(ろいろ)(黒色)の漆塗りにします。 畳の代わりに薄べりを敷いたり、板を張ったものもあります。落とし掛けは長押より一段高く、柱と同材を用いるのが本式です。
蹴込み床  畳を敷かない一枚板の床の間で、床框がなく、床板と畳寄せとの間に蹴込み板のあるもの。
踏み込み床  床板と畳を平らにした床の間で、板にするのが普通ですが、畳を敷くこともあります。
塗り回し床(洞床 ほらどこ)  床の間の内側を壁で塗り回したもので、下がり壁も落とし掛けを用いずに塗り回すことがあります。
袋床  床の間の横に袖壁を出して、奥を入込みの袋状にしたもの。前面の壁には下地窓を設けるのが普通です。
釣り床(壁床)  部屋の隅の天井から釣り束を下げ、これに落とし掛けのある下がり壁を取り付けたもの。床は部屋の畳敷きそのままです。
織部床  特に床の間を設けないで、掛け軸を掛けるために天井回り縁の下に板を横に取り付け、軸釣り金物を打ったものです。
置き床(付け床)  床の間のない部屋の隅に、可動式の床の間を置いて、その雰囲気を出したものです。 》
と説明書きがあり、蹴込み床・踏み込み床・塗り回し床・袋床・釣り床・織部床の絵が描かれています。置き床(付け床)の絵はありませんが、「和風感覚の新しい居間」として写真と説明書きが書かれている稿の「床の間」の部分に、畳の上に一枚の板を置いた置き床の例の写真が出ています。
  藤井正一・小原二郎編集『インテリアコーディネーター ハンドブック 技術編』(1994.1.10.インテリア産業協会)では、「第2章 インテリアの歴史」「3.中世」で、
《 (6) 床(とこ)
  書院造の空間の正面にあるのがで、俗にいう床の間である。
  床には、鎌倉時代に中国宋から渡来した禅僧侶が仏画を鑑賞する際、その前に三具足(花瓶・香炉・燭台)を並べた卓から発生したと考えられる押板床(おしいたどこ)と、同じく禅宗堂内に多用された坐臥具から発展したとみられる畳床(たたみどこ)(俗にいう本床の2つの系統がある。
  まず押板床は、厚いケヤキの一枚板を、畳から8寸ほど上げて正面壁に押し込むように造り付けるのでその名があり、下に小壁がつく。奥行は2尺程度であるが、間口は1間より広いことを原則とし、3間に及ぶ例もある。数寄屋造が普及した江戸時代以降は、一般には用いられなくなった。
  これに比べ畳床は、床框を座敷の畳上に造作して高くし、その壁に接する奥に畳を敷いて、框のある坐臥具としての床子(しょうじ、そうじ)が壁に造りつけられた様子を残し、ときに上段としても機能する。奥行は深く半間程度で、間口は、押板床ほど広くはなく1間程度である。数寄屋造の成立に伴い江戸時代の座敷で普及し、今日「床の間」と通称する場合は、この仕様をいう。
 (7) 棚
  床の脇の座敷飾としては重要である。寝殿造の厨子棚が建築化されたものと一応は考えられるが、筆返しなどのデザインからして、直接は中国の宋時代に発達した禅宗文物を飾る調度品としての棚が輸入され、唐物飾りの場として座敷正面に取り込まれたものと推定される
  その造り付けの棚には多くの形態があるが、最も古い形は違棚と呼ばれる、2枚の棚板をくいちがいに取り付けた例であろう。ここには中国大陸の(宋)伝来の書籍や茶道具などが飾られ、やがて西楼棚(せいろうだな)など、次第に複雑なデザインの棚が工夫されたようである。
  その違棚の初期の形態としては吉水神社義経の間や、東求堂同仁斎などをあげることができる。
 (8) 書院
  床、棚に連続して庭側に書院が造作された。この書院は もともと中国僧侶の書斎の仕様で、出文机(だしふづくえ)と呼ばれる。縁に張り出してつくられた机に端を発する
  『法然上人絵伝』には、僧がすわって書きものをしているような様子が描かれ、書院本来の用途がよくわかる。この書院も次第に実用の役を離れ、棚同様、客に唐物珍品を見せるため、それを飾る装置として建築化されてしまった。当初単に「書院」と称したが、江戸時代には「書院」といえば棚、床、書院がある座敷の空間全体をいうようになり、あえて「付書院」と区別して今日に至る。
 (9) 帳台構(ちょうだいがまえ)(納戸構)
  大規模な武家殿舎には、上段の脇に必ずといってよいほど帳台構(ちょうだいがまえ)が取り付けられた。 「武者隠し」などとも別称し、上段に座した貴人をいったん危急の折りに警護する武士が控えていたところといわれるが、帳台構の扉は框が4~5寸ほどもある重厚なもので、とてもそうした非常時には間に合わない。これは、寝殿造における寝室=塗篭(納戸)の厳重な戸(猿落としというカギがつく)の形式が装飾化されたものと考えるほうがよく、『慕帰絵』にその様態が描かれている。「納戸構」の別称があるのは、その前身を物語るものであろう。
  このように書院造には室内にさまざまな装置が形成されたが、これらに唐物を飾るという作法が接客の基本として重要な位置を占めるようになった。その実例が一連の「御飾記」と称される史料である。室町時代における将軍家の座敷飾は『室町殿行幸御飾記』や『君台観左右帳記(くんだいかんそうちょうき)』でうかがい知ることができる。前者は後花園天皇が6代将軍足利義教邸に行幸されたときの記録で、室内には押板、違棚、書院が設けられ、それらに座敷飾がなされた様子が記されている。たとえば、書院にはオウムをあしらった硯を中心に、大小の象牙軸の筆を添えた蛟竜(こうりゅう)の筆架(ひっか)、墨床(ぼくしょう)、刀子(とうす)、水入(みずいれ)、翰盤(かんばん)、硯屏(けんぺい)を並べ、七宝製方盤の上に夏珪筆(かけい)の巻軸が置かれ、蛟竜文の印篭、七宝製の花瓶などの珍品が置かれていた書院上部には龍頭のついた小型の晩鐘を吊るし、北の柱には鏡、南の柱には火打袋を掛け、押板の手前隅には堆朱(ついしゅ)の卓が据えられていた。また床の左側には違棚を設け、蓮華文彫りの盆上に油滴天目の茶碗を蛟竜文の天目台にのせ、壺や七宝製の花瓶、剔紅(てっこう)の角形食篭を飾る・・・・といったぐあいであった。さらに『君台観左右帳記(くんだいかんそうちょうき)』は能阿弥が記したとされ、これを相阿弥が伝写して座敷飾の典拠として広く流布している。
  かくて書院造は住装置が発達して、建物と一体化することにより座敷飾の様式化が進んだものと考えられる。それは今日私たちがイメージする、和風の意匠の、直接の原点なのである。》
とあり、「押板床」の例として、園城寺光浄院客殿内観、「帳台構」の例として、二条城二の丸御殿の写真が掲載されている。
※ 《ウィキペディア―堆朱(ついしゅ)》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%86%E6%9C%B1
《 堆朱(ついしゅ)は、彫漆(ちょうしつ)の一種である。彫漆(ちょうしつ)とは、素地の表面に漆を塗り重ねて層を作り、文様をレリーフ状に表す技法を指すが、日本では表面が朱であるものを「堆朱(ついしゅ)」黒であるものを「堆黒(ついこく)」黄であるものを「堆黄(ついおう)」と呼ぶ。中国では、黒漆の層に文様を彫り表したものを「剔黒」朱漆の層のものを「剔紅(てっこう)」といい、中国漆器を代表する技法とされる。通常の漆は硬くて彫刻が困難だが、発展経緯とその継承から技法も様々となる。・・》
※ 《weblio辞書 庄子》https://www.weblio.jp/content/%E5%BA%8A%E5%AD%90
《 しょう じ しやう- 【床子】
長方形の板の四隅に脚をつけた腰掛け。そうじ。 「安福殿の釣殿に-たてて/増鏡 秋のみ山」
そう じ さう- 【床▽子】
〔「しやうじ」の直音表記〕
「しょうじ(床子)」に同じ。 「 -どもを、みなうち倒し、そこなひたり/枕草子 161」》
※ 《コトバンク―西楼棚・城楼棚(せいろうだな)》https://kotobank.jp/word/%E8%A5%BF%E6%A5%BC%E6%A3%9A%E3%83%BB%E5%9F%8E%E6%A5%BC%E6%A3%9A-2054759
《  違棚のうち、棚板の中央を一段高くしたもの。正式の座敷飾りとして多く用いられる。・・ 》

  『新感覚の和風住宅』には
《 部屋の床の間の位置によって「本勝手(ほんかって)」と「逆勝手(ぎゃくかって)」の名称があります。本勝手は、向かって左に床の間と付け書院、右に床脇棚を設けています。逆勝手は、本勝手と正反対の配置で右に床の間と書院が付きます。
  また、床の間に入る光線の方向により、床の間に向かって左の書院窓から採光するものを「本床」右から採光するものを「逆床」といいます。》とある。
「本床」という言葉は、
1.《 角材を床柱に使用し、床框(とこがまち)を取り付け、一段高くした床表面に畳を敷き、框は蠟色(蝋色)(ろいろ)(黒色)の漆塗りにし》た《最も本格的な床の間》のことを言う場合、
2.《 床脇棚・書院が付属したもの 》を言う場合と、
3.板ではなく畳床を言う場合、それに
4.《床の間の左の書院窓から採光するもの》を言う場合
と4通りの意味があるようです。私は、最初、「本勝手」=「本床」、「逆勝手」=「逆床」かと思っていたのですが、又、住宅建築業の会社に勤めている人で、「逆床」という言葉を左側に床の間があるものを「逆床」と言っている人がけっこうあったのですが、『新感覚の和風住宅』での小林盛太「和風の良さを見直そう」によると、「逆勝手」と「逆床」は別の意味で、右側に床の間があるのは「逆勝手」、「逆床」は右側から採光するもののことを言うようです。
  床の間が左側で床脇の棚が右側にあるのが「本勝手」で、「床の間」が右側で床脇の棚が左側は「逆勝手」だということで、別に縁起が悪いということではないのですが、今は、一般に、できれば「本勝手」にしますが、『室町殿行幸御飾記』では《床の左側には違棚を設け、蓮華文彫りの盆上に油滴天目の茶碗を蛟竜文の天目台にのせ、壺や七宝製の花瓶、剔紅(てっこう)の角形食篭を飾る・・・・といったぐあいであった》ということですから、床の間の左側に違棚という配置を本来的ではないとは特に考えていなかった、ということでしょうか。

  さらに、「4.近世」では、
《 (1) 棚
  書院造では形式を重んじ、違棚(ちがいだな)・西楼棚(せいろうだな)といった棚がつくられることを原則とした。48種の棚を書いたものがあるが、遺構を見る限りでは、書院造様式のなかで用いられているのはそのうちの数種で、ほとんどが違棚と西楼棚である。
  ところが数寄屋造様式の建物では、非常に多様な棚意匠がみいだされる。たとえば桂離宮における「桂棚」や修学院離宮における「霞棚」は、醍醐寺三宝院奥宸殿の例を加えて「天下の三名棚」と称され、西本願寺黒書院の球なども華麗な例として有名である。
  棚の意匠について記した雛形本(棚雛形)は、明治時代末までに先述の48種の棚意匠を記したもの、そのほかに「外五十二棚と名付けられた52種の棚を記したものがあり、都合100種の変化が考えられた。それ以外に、床や書院などとの融合を図った意匠を記したものも発刊されている。
(2) 床・(付)書院
  数寄屋造では書院造と異なり、床・書院が単独に造作されることは時代とともに少なくなった。床の中に書院が入り込んだ形式も考案され、もはや出文机(だしふづくえ)から発生した書院の機能を離れて、単なる床回り意匠の一種と化している。また、棚側の壁下方をあけて ちんくぐり としたり、目線どおりの床柱を切断して床と棚との融合を図った例も多い。
  前述の桂棚や霞棚もその好例であるが、このほか江沼神社長柳亭や金刀比羅宮表書院の例もある。民家では、ほとんどがこうした融合例である。・・・・》
とある。
  『インテリアコーディネーターハンドブック 技術編』では「ちんくぐり」と書かれているものを、『新感覚の和風住宅』の小林盛太「和風住宅の構成とディテール 和風のよさを見直そう」では《 なお、床の間と床脇棚との境の壁に、採光のため開けられる孔を、狆潜り(ちんくぐり)または犬潜りといいます。》と出ています。まあ、実際には、犬は通らせないでしょう。

  冝保愛子『冝保愛子の幸せを招く家相開運法』(1992.4.1.日東書院)では、
《 床の間は先祖の仏様が訪れる場所です。・・・
  床の間は位の高い場所で、一家の総元締めの先祖が、お正月やその他のめだたいことなどがあるときにやって来ては座る場所です。お花を飾ったり、掛け軸をかけたり、いつも本来の床の間らしくしてあればよいのですが、ときには、本棚を置いたり、物を置く場所に使っているのを見かけます。床の間はいいかげんな使い方をしてはならない場所です。・・・》
と出ていますが、御先祖さんがやってくる場所というのは床の間ではなく仏壇と違うんかいなあ・・という気がしないことはありませんが、床の間というものを、「上段の間」が変化したものと考えると、そこにご先祖さんが座ったとしても考えられないこともないのかもしれません。

  講談社編『新感覚の和風住宅』(1985.講談社)は1980年代後半から1990年代前半にかけて、私が戸建住宅建築業の会社に入社してそれほど経たない時に学習用に読んだ本で、『インテリアコーディネーター ハンドブック 技術編』(1994.インテリア産業協会)は、(株)一条工務店で営業本部長がインテリアコーディネーターの資格を取ってくれと言うので、上役がこの資格を取ってくれと言うからには、慶應大学商学部卒の者としての経済学的認識・マーケティング的発想とインテリアコーディネーター資格を持った者としての知識・技術と実際の戸建住宅建築業の営業としての経験とを合わせ、それらを活かした仕事についてもらいたいということのはずであり、そうである以上は、何としても合格しなければならないと思い、片方で住宅建築業の営業という過酷な仕事をこなし決して条件がいい方ではない営業所においてある程度以上の営業成績を残しながら、まさに「ID野球 弱者の戦術」とでもいった工夫と努力によって合格・登録したのだが、その際に利用したテキストのひとつである。苦労して工夫してインテリアコーディネーター試験にも合格したが、私にインテリアコーディネーターの資格を取ってくれと言って取らせておいて、結局、(株)一条工務店の経営者は私をそれだけの努力をした者にふさわしい使い方をすることはなかった。「人の使い方を知らない会社」と言われる(株)一条工務店において、まあ、あんな会社でよく頑張ったものだ、と思う。あんなろくでもない会社でよく頑張ったなとほめてやりたい・・か、それとも、あんなしょーもない会社の為に滅私奉公・破私奉公してからに「アホやな」と言うべきか、両方かもしれんな・・・。

  日下部民芸館には2011年に1回、訪問した後、この2020年1月に2回目の訪問の後、2020年2月10日に訪問、2月11日に隣の旧吉島家住宅を見学するつもりで前まで行ったものの、火曜日が休みだが火曜日が祝日の場合には水曜日が休みと書かれているのだが、なぜか、日下部民芸館も旧吉島家住宅も2020年2月11日は休館だったのだが、その2月11日の午前3時頃だというが、その「ID野球 弱者の戦術」の野村克也のじいさんが他界してしまったようだ。「弱者が勝者となるために」「戦力の集中」「功なき者を生かす」「『失敗』と書いて『成長』と読む」と、まさに、職場において、この「ひまわり」めえ~え! という気持にならされてきた「月見草」としては、「ID野球」で「巨人みたいなやつ」をコテンパンにやっつけてやる! という気持になった者の心をつかんだじいさんだったが、84歳だというが他界してしまったようだ。南海時代からのファンとして、自分の一部分が他界したような気がする。
《YouTube-2018年7月1日阪神ファンによる東京音頭!》https://www.youtube.com/watch?v=moEWTBI0KiE

   それで。まず、日下部民芸館(旧日下部家住宅)について、
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今回の稿については、床の間・付書院・床脇としての棚 などを中心として述べるということで、日下部民芸館としては「順路」として、まず2階から見てくれ・・と言っているけれども、夏休みの時期などは混んでいるから「順路」の通りに見てもらいたいのかもしれないが、そうではなく、今回のように特に混んでいない時期ならば、どこから見ても特に文句は言われないし、「順路」通りに一通りまわったならばさっさと帰ってくれと言われるわけでもなく、もう一度、あそこを見たいと思えば再度そこに行ってじっくりとなめるように見ることもできる。なにしろ、当方は建築探偵団であるから、一周まわってワンと言って帰るわけにもいかない。
  実際にどういう順番で見学したかは別として、この家は、東道路で東側から入り、東西に「ろじ」という土間が通っていて、東側の主屋と西側の土蔵との間に庭がある。東側の主屋の北よりと道路との間にも庭があり、主屋の東より(道路より)に2階があるのだが、主屋の北よりの「本座敷」と言われる部屋が最も主要な座敷であろうと思われ、主屋から土蔵(現在は、展示場として民芸品が展示されている)との間に、日下部民芸館の開館時の写真が飾ってあるが、日下部家の人たちなどが写っている写真もまた、この「本座敷」で床の間を背景にして撮影されているので、やはり、「本座敷」とその床の間がこの家では一番の座敷なのであろう。
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そこを最後の最後に残すのではなく、まず、そこから考えよう。↓ 現在は、「日下部民芸館」としては2階からが「順路」とされているとしても、もし、このお宅、日下部家に客として訪問したとすれば、最初に2階に行くということはないであろうし、「本座敷」の床の間から論じるのが筋だと思う。
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↑ 「本座敷」10帖の和室、北側の西半分が床の間、東半分が床脇として棚になっており、床の間の西側に付書院が設けられている。8帖の部屋で床の間と床脇としての棚が半分半分であれば、1間と1間、1帖分と1帖分だが、10帖の部屋の長辺の側に床の間と床脇があるので、1.25間ずつである。 床の間は、本座敷の床の間だけあって、本床(框床)です。天井は竿縁天井ですが、床刺しにならないよう、竿縁の「竿」は床の間と並行して配置されています。
  『インテリアコーディネーターハンドブック 技術編』によると、『室町殿行幸御飾記』に《書院上部には龍頭のついた小型の晩鐘を吊るし、北の柱には鏡、南の柱には火打袋を掛け、押板の手前隅には堆朱(ついしゅ)の卓が据えられていた》と書かれているということですが、日下部民芸館(旧日下部家住宅)に訪問した時は気づかなかったのですが、今、撮影してきた本座敷の床の間と付書院の写真を見ると、付書院の部分に鐘のようなものが吊るされているのが見えます。

  1994年、(株)一条工務店https://www.ichijo.co.jp/ の福島県いわき市の営業所に在籍した時、(株)一条工務店の展示場では、床脇の上にも長押(なげし)をまわし、その長押が床柱の上まで来ていたのだが、いわき市の契約客から、それはおかしい、と言われた。床柱と長押がぶつかるところでは、長押は床柱の前まで持ってくるべきなのか、長押は床柱の手前で止めるべきなのか。いわき市だけではなく、東北地方の大部分と茨城県の中ほどから北においては、床柱と長押がぶつかる部分では、床柱を下から上まで通して見せるようにして、長押は床柱の手前で止める施工にするのが普通のようだ。坂本功『木造建築を見直す』( 岩波新書)によると、「長押(なげし)」というのは今は装飾材・化粧材だけれども、もともとのルーツはそうではなく構造材で、木の柱を立てただけでは地震や台風など横方向の力を受けた時に簡単に倒れてしまうことになるが、そうならないように、柱に穴を開けて木材を通して固定したものが「貫(ぬき)」であり、柱の外から貼り付けて固定したものが「長押(なげし)」であったらしい。その長押のルーツから考えると、長押は柱の手前で止めるのではなく柱の上に貼り付けるのが正しいことになるが、床柱の場合には、東北地方の多くの地域と茨城県の中ほどから北の地域では床柱の手前で長押は止めるもののようだ。『新感覚の和風住宅』(講談社)に掲載の和室・床の間の写真を見ると、床の間の右に棚があって棚の上まで長押がまわっている場合は、たいてい、長押は床柱の上まできている。ニューハウス出版編『やすらぎの「新和風」特選』(1993.9.30.ニューハウス出版)に掲載の和室・床の間の写真を見ると、床の間の脇に棚があって棚の上まで長押がまわっている和室においては、長押は床柱の上まできている家の方が多いが、よく見ると、床柱の手前で長押をとめている施工をしているものもある。私は住宅雑誌など相当のものを見て調べたのだが、どちらの施工が多いかというと、床柱の上まで長押がくる施工のものの方が多いのだが、床柱の手前で長押を止める施工の家もあった。
  福島県浜通り地区だけでなく、東北地方および茨城県の中部以北では床の間の横に床脇として棚を設けた場合、床柱と長押がぶつかった所では、床柱を下から上まで見せるようにして、長押は床柱の手前で止める施工が一般的らしいのですが、私はいわき市で契約していただいた方から、(株)一条工務店の展示場の床の間を「これは、おかしいよ」と言われ、それで、床柱と長押は、長押を床柱の前にもってくるものか、長押は床柱の手前で止めるものか、ということを考え、他の営業にも尋ねて福島県浜通り地区では床柱の方を下から上まで見せるもので、(株)一条工務店は「浜松流」で「浜松でいいものは日本全国どこでもいいに決まってるんだ。こんな常識がわからんのかあ」と主張する人たちの会社なので、いわき市の営業は、契約客に確認して、床柱の手前で長押を止めるように工務課とプレカット工場に言っておかないといけない、ということを認識したのでしたが、ところが、そんなこと知らないうちに、プランが決まり、お施主様としては、いわき市では床柱は下から上まで見せるのが当然で常識であり、床柱の前に長押が来るなんて「そんなおかしな床の間、あるけえ!」「ふざけてんのか!」とお施主様から怒られる営業もいたようでした。[第768回]《「じゅらく壁」・「京壁」とは何か? 「珪藻じゅらく」て何? きっちりと対応する従業員を嫌う営業本部長》https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201902article_8.html の後半で述べたように、床柱と長押がぶつかる所で、長押を床柱の前に持ってくるべきなのか、長押は床柱の手前で止めるべきなのか、知らないうちに進んでしまい、プレカット工場では「浜松流」のやり方、即ち、長押が床柱の前まできて、長押と床柱を組み合わせるために、床柱を一部分削った機械プレカットを床柱におこなって工事現場に届け、床柱は傷がつかないように四面に板が巻いてあって、上棟の後、しばらく経ってからその板ははずすのだが、板をはずした時には、すでにプレカットで床柱に長押が組み合わされる部分に穴が開いている状態だった・・という営業担当者がありました。浜松で建てるのならば、「黙って座れば浜松流」で悪くないけれども、いわき市で建てるのであれば「黙って座ればいわき流」だといわき市の住人は思っているわけであり、「浜松のやり方が日本全国どこでも絶対的にいいに決まってるんだあ。こんな常識もわからんのかあ!」!という「浜松流」で「遠州好み」(「小堀遠州が好んだ」という意味ではなく「遠州人の好みに沿った」という意味)で作られてしまう、というのは、それは非遠州地方のお施主さんとしては理解できないことですが、「遠州人」にとっては「浜松でいいものは日本全国どこでもいいに決まってるんだ」という思想・信念をそれは間違っていますよ、などと言う人間こそ絶対に許せない存在であり、「そこのけ、そこのけ、浜松通る」みたいな意識の人に「話せばわかる」などと思って話してわからせようとしても無理!!! でしたが、それでもやっぱり、浜松においては「黙って座れば、浜松流」になるというのは悪くないが、いわきにおいては「黙って座れば、浜松流」ではなく「黙って座れば、いわき流」であるべきだと今も思います。こう言うと「遠州人」は怒るでしょうけれども、たとえ、怒られても、いわきにおいては「黙って座れば、いわき流」であるべきだと思います。又、総務部長の天野雅弘は「管理したり指導したりするのは所長の仕事とは違います」と言うのだったが、しかし、「管理したり指導したりする」のは嫌だという人ならば所長にならなければいいのであり、所長というのは自分自身が営業をする能力もある程度はあった方が良いとしても、管理したり指導したりする能力のある人が所長になるべきであり、床柱と長押がぶつかる部分において、「浜松流」では長押が床柱の前までくるけれども、いわき市および福島県浜通り地区や茨城県北半分においては、長押は床柱の手前で止めて床柱を下から上まで見せるというのが基本で、これをお客様にきっちりと確認して、床柱を下から上まで見せるようにした方がいい、茨城県北部から福島県にかけてのやり方で施工したい場合には、工務課(工事担当者)とプレカット工場にきっちりと言っておかないといけない、ということを社歴の浅い人にきっちりと指導するべきであり、「所長」という名称であるか他の名称であるか、どちらであるにせよ、そのあたりを「指導する」役職の人間を各地域に配置しておくべきであり、それが会社のためであったはずです・・・が、こういうことを言うと「遠州人」は怒るのですから、どうしようもありません。

  ↑ の日下部家の本座敷の床の間と床脇ではどうなっているかというと、床柱は下から上まで通っており、長押が床柱の上まできているということはない・・・が、よく見ると、床脇の棚の上にあるのは「落とし掛け」であって長押ではない。長押は床脇の棚の上に来ておらず、床脇の床の間とは逆側の柱、付書院の床の間とは逆側の柱の部分までで長押は止まっており、床脇の上には長押はなく、付書院の上にも長押はない。そして、床脇の床の間と逆側の柱と長押とでは長押は床脇の床の間と逆側の柱の上まで来ており、釘隠しも見える。付書院の床の間と逆側の柱の上までも長押は来ており、やはり、釘隠しが見える。
  床脇の上には長押はまわすべきものなのか、床脇の上は落とし掛けだけで長押はまわさないものなのか。これも、住宅雑誌を何冊も見て調べたのだが、最近の住宅雑誌では床脇の上まで長押をまわしているものの方が多いように思えたが、寺社や有名古民家(「古」は「時代遅れの」という意味ではなく「古典的価値がある」という意味で「古」民家である)など歴史的建造物・有名建築物の床の間と床脇を見ると、床脇の上は落とし掛けだけで長押はまわっていない場合が多いように思えた。日下部民芸館の本座敷でも床脇の上には落とし掛けはあっても長押はない。
  床の間の右側に床脇として棚を設けるのか、それとも、床脇は省略して押入れとするのかによっても変わってくる。床の間の右手が床脇としての棚である場合には、棚の上は落とし掛けだけで長押はまわしていない建物が歴史的建造物の建物においては多く、住宅雑誌に掲載されている最近の住宅においても、床の間の右が床脇としての棚である場合には、棚の上は落とし掛けだけで長押はまわっていない施工のものもあるが、床脇は省略して床の間の隣が押入になっている場合には押入れの上には長押はまわっている。 かつ、床柱の上まで長押がきている写真が多かった。
  それから、床柱だが、今里隆『これだけは知っておきたい 建築用木材の知識』(1985.5.6.鹿島出版会)には、
《 床の間回り材
  床の間は座敷飾りの一つであり、格式を示すものであった。その形式によって本床、踏込み床、びわ床、洞床、織部床、置床など多形で茶の湯を通じて様々な変形が造り出されてきた。近年そのデザインや用材も多種多様であり、個性や好みの多く露現する部位でもある。
  床柱:床柱は一般に角柱が格調高いものとされ、間内柱(その部屋の一般柱)と同材とする場合は一般柱より太めの良材を選び、異種材は違和感のない色調や木肌のものを選ぶのが品位があり無難であるとの見方が一般である。
  しかし、装飾的な見地や強調から各種丸太柱、唐木類の角柱や造形柱、変木、竹柱など幅広く選材されるようになった。
  落とし掛け:内法材と同材で成を増し寸したものがよく用いられるが、床柱同様に様々な材が選ばれるようになった。
  一般に見付け柾目、下面板目として用いられる。
  床かまち:床の形式やデザインにより多様であるが一般には、塗かまち(ウルシ、カシウ)、堅木材の生地かまち、磨丸太の面皮・大鼓仕立かまちなどがある。床かまちを用いず地板扱いとすることもある。地板にはデザインにもよるが、ヤニ松、天唐、欅、楠、桑、ケンポナシ、米松まどの生地仕上げ(透明・着色ラッカー仕上げ)およびカシュウの塗物などがある。》
と出ているのだが、ところが、↑の日下部民芸館(旧日下部家住宅)の本座敷の床の間をよく見ると、床柱はその部屋の一般柱と同材であるだけでなく、太さもまた一般柱と同じ太さ、床柱だからといって特別の柱は使用していないのです。
  今まで、私が見学してきた有名建築・歴史的建築物において、床柱をその建物の一般柱と同材を使用していた建物としては、[第226回]《住宅建築業界 職歴詐称を見破る方法(1)序論「床柱ってどんな木を使うのですか?」+予備校の学歴詐称男》https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201401article_8.html でも述べましたが、栃木県宇都宮市今泉1丁目、JR「宇都宮」駅のすぐ前の旧篠原家住宅では、柱は欅で、1階で商売をしていた家で、座敷は2階にあり、2階の床の間の床柱を大黒柱と共通で、大黒柱だけあって、一般柱と同材の欅だが一般柱よりも太いものになっていた。 一般柱と同材であって、なおかつ、一般柱と同じ寸法のものはあるかというと、岐阜県高山市の高山陣屋の和室の床柱は、一般柱と同材・同寸法のものが使われていた・・というのか、床柱として特別の柱を使用していなかった。 そして、この日下部民芸館(旧日下部家住宅)の本座敷の床の間の床柱も一般柱と同材で同寸法のものが使用されている。 《 日下部家は、両替商などを営み、幕末には御用商人として発展した、高山有数の財産家である。・・・》と入口の掲示にも出ており、お金がないから一般柱と同材・同寸法にしたというわけではないはずで、これは、一般柱と同材・同寸法で床の間を作ろうとして作ったものと思われます。陣屋でも一般柱と同材・同寸法のものを床柱として使用している・・・というのか、床柱として特別の柱は使用していないというのかですから、飛騨 高山地方においては、床柱として特別の木を使わずに一般柱と同材・同寸法の柱を使用するというのは、特に珍しいことではなかったのかもしれません。
※ 宇都宮市HP 旧篠原家住宅https://www.city.utsunomiya.tochigi.jp/movie/shunen/1013172.html
《ウィキペディアー旧篠原家住宅》
※ 高山陣屋について、
[第352回]《高山陣屋(群代官所)[1]床の間。「真向き兎」の釘隠し。朝市。~高山シリーズ第3回(2)》https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201510article_2.html
  「びわ床」とは何ぞや・・というと、《リクシル びわ床》https://www.lixil.co.jp/reform/yougo/kouhou/shitsunai/47.htm には、《床の間の形式の一つ。床框より一段上がった段板のある床の間。ここにびわ(琵琶)を置くのでこの名がつきました。》とある。
  1990年前後、小堀住研(株)の松戸展示場の床の間はカシュー塗りでできていたのだが、「カシュー」て何なんだ・・・、「カシューは剥げるからなあ」なんて来場客で言うおっさんがいたのだが、それを小堀住研(株)の課長に言うと、「マジックで塗っとけば大丈夫だよ」なんて言い、「え? そんなことしていいんですか」と言うと、「いいんだよ。さっさと塗っとけ」と言うので黒マジックで塗ると、あ~ら、不思議、「黒マジックで塗ってもカシュー塗り」・・・て、ええんかいやあ・・て気もしたが、黒マジックとたいして変わらんのがカシュー塗り・・・なんて、そんな理解でいいのか?(^^)/?(^^)/?   カシューて何なんだ・・というと、《ウィキペディアーカシュー》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%BC によると、《カシューとは、主原料の名称「カシュー・ナット (cashew nut)」にちなんで名づけられ、1950年にカシュー株式会社が発明した合成樹脂塗料のこと。漆の代用として使用される。》と出ている。小堀住研(株)の松戸展示場の床の間はいいと思ったが、黒マジックとたいして変わらん・・・と思うとなんだか・・・という気もするが、実は、住宅の意匠なんてけっこうそんなもの・・だったり・・・(^^)/ ホームセンターやスーパーに行くと、台所用洗剤・浴室用洗剤・トイレ用洗剤と別に売っていますが、実は成分はほとんど一緒だという話があり、台所用とトイレ用を同じ容器に入っているものから使うわけにもいかないから分けているだけ・・みたいなところがあるみたいですが、やはり、ホームセンターに行くと、「補修材」なんてものが売っていて、クレヨンみたいな形をしていて、建築屋が引き渡し前に、少々、傷つけちゃった・・てところをそれで補修して、「黙ってよなあ~あ」て引き渡す? ・・・のに使ったり、入居後、入居者自身が傷つけてしまったという時に、補修して傷をわからなくするためのものが売っていますが、案外、あれも、「カシュー塗りの剥げたところを補修する黒マジック」と成分はあんまり変わらないかもしれない・・ような気がしないでもありません。
  「カシュー・ナット」とは何ぞや・・というと、《ウィキペディアーカシューナッツ》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%8A%E3%83%83%E3%83%84 によると、《中南米原産のウルシ科の常緑高木。・・》だそうで、
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↑ のように、けっこう食べてる「カシューナッツ」の木から採れるもののことだったようだ。 ちなみに、床柱に使われるカリンというのは、最初、カリンのど飴のカリンかと思っていたのだが、カリンという名称の木はマメ科のカリンとバラ科のカリンがあって、床柱に使われるカリンはカリンのど飴のカリンとは別の方のカリンのようだ。

  現在でも、『新感覚の和風住宅』(1985.2.1.講談社)では、住友林業住宅事業部設計の建物で、《 もともと書見の場であった書院。その原形を現代風に再現している珍しい例で、小さな書院にしている。》という床の間の左側に、「付書院」ではなく、畳の上に座って、実際にそこで本を読んだり、何かを書いたりする場として、小さめの机を置いたスペースが設けられた写真が掲載されており、(株)一条工務店の住宅展示場でも、「付書院」ではなく、作り付けの机を設けて、畳の上に座ってそこで本を読んだり何かを書いたりできるスペースを設けた展示場がありました。但し、それはひとつの方法ですが、実際には、その実際にそこで本を読んだりするというのは便利かどうかというと、どうでしょうか・・・。

  それで・・・、床の左側に付書院が設けられた場合ですが、(株)一条工務店の住宅展示場では、たいてい、付書院の外側は屋外で、外から見ると、窓のない出窓のようになっていたのです。しかし、向かって左側に床の間、右側に床脇としての棚が設けられた場合、床の間の左に付書院があって、なおかつ、その和室の床の間に向かって左側(床の間が北にある場合なら西側)に広縁、廊下があったとすると、その場合はどうなるのか・・・? それは、こうなるのです。↓
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↑ 高山の公開されている民家、日下部民芸館(旧日下部家住宅)・旧吉島家住宅・旧松本家住宅・旧宮地家住宅・平田記念館・飛騨民族考古館、それに飛騨の里の民家、白川郷の民家など、見学させてもらい、あちらこちらの寺なども見学させてもらい、広縁もしくは廊下に付書院の部分が出っ張っているのは何か所もで見ました。ところで、「付書院」というのは、もともとは、そこで書物を読んだり書きものをしたりする場であったわけですから、床の間のすぐ横ですと、床の間に座るわけにもいきませんから、書院にしても付書院にしても、床の間の手前の位置に設けるべきなのか、それとも、見てくれを考えて、床の間の位置からその手前にかけて設けるべきなのか・・・。どちらだと思いますか。
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↑ 左図のように、床の間のすぐ横には付書院はなく、床の間の手前の部分に付書院を設けるべきものなのか、それとも、右図のように床の間のすぐ横からその手前にかけて付書院を設けるべきものなのか?
  この日下部民芸館(旧日下部邸)の本座敷の床の間の付書院 ↑ では、右図のように、床の間のすぐ横まで付書院は設けられています。
  床の間のすぐ横まで付書院を設けるのではなく、左図のように床の間の手前の部分にのみ付書院を設けた和室というのはあるのか・・というと、あるのです。どこにあるかというと、高山市の高山陣屋の御書院(御座の間)にあります。↓
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( ↑ このあたりを見たいと思って見学に訪ねている者もいるのですから、書院の前を物置にしないでほしいですね・・・。)
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↑ のように、高山陣屋の御書院・御座の間の床の間と付書院では、付書院は床の間のすぐ横からではなく、床の間の手前の位置に設けられています。

  高山陣屋の床の間は、御書院・御座の間の床の間も他の部屋の床の間も、床柱はその部屋の一般柱と同材・同寸法のものが使われており、長押が柱の手前まできています。床柱に一般柱とは異なる樹種のもの、たとえば、桧・杉などを一般柱に使用していて、床柱に紫檀・黒檀・花梨(かりん)・槐(えんじゅ)・鉄刀木(たがやさん)などを使用した場合、もしくは、一般柱が桧・杉・欅といったもので、床柱も同材でも明らかに一般柱よりも太いものを使用した場合であれば、床脇の上に長押をまわした時、長押を床柱の手前で止める施工をしても違和感・不自然感はないと思いますが、床柱が一般柱と同材で同寸法であった場合には、長押を床脇の上にまでまわした時、そこだけ、柱の手前で長押を止めたのでは不自然な感じがする、違和感を受けるのではないか。
  高山陣屋については、2015年の訪問の際に、
[第352回]高山陣屋(郡代官所)[1]床の間。釘隠し。朝市。 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201510article_2.html
[第353回]高山陣屋[2]式台。白洲。土縁庇。榑葺き。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201510article_3.html
で公開しています。
  2015年に高山陣屋を訪問した後、京都の高台寺に行くと、高台寺の方丈だったと思うのですが、床の間の左の付書院が、やはり、廊下に突き出した部分があったのですが、↑ の図では、右側の図、高山陣屋の御書院・御座の間の付書院とは異なり、日下部民芸館(旧日下部邸)の本座敷の付書院と同じく、床の間のすぐ横の部分も含めて付書院がついていたのを見ました。
※ 高台寺について
高台寺HP 拝観の方へ 境内案内 https://www.kodaiji.com/admission.html
☆ 紅葉の高台寺・圓徳院と高台寺天満宮参拝
[第366回]表門、遺芳庵、小堀遠州作という偃月池と庭 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201511article_4.html
[第367回]方丈前庭、開山堂+雇用均等室の不見識 〔今回〕https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201511article_5.html
[第368回]紅葉の臥龍池・霊屋、利休設計という傘亭・時雨亭 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201511article_6.html
[第369回]怒りの綱敷天神より勧請した高台寺天満宮 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201511article_7.html
[第370回]圓徳院、八坂の塔、「京都的」な下河原通 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201511article_8.html

  高山陣屋の御書院・御座の間の付書院の側の広縁・廊下から見た壁は、紫というのか、おしゃれで独創的な色合いです。「世界の磯崎新」設計の「つくばセンタービル」というビル内の商店街は閑古鳥がないてシャッター閉めの店が多く客がちっとも入らない駅前ビルでは、階段を上がった2階のホールの天井が紫で、なかなかおしゃれ~だけれども、その色合いはその色合いが合う店舗が占有スペースで使うのならいいが、共有スペースの階段ホールで使われたのでは、そこから出入りする店舗としてはその色合いに合わせにくいであろう・・と、そのくらい考えたらどないやねん・・と思うが、考えられないところが「世界的建築家」であり、「商学部的発想」で建築せずに「理工学部的発想」か「芸術学部的発想」で設計する「世界的建築家」のつくる建物の特徴!!! あの「紫の天井」は、商業施設ではなく単に自分だけが使う家の天井でやるのなら、「なかなか、おしゃれ~え♪」て感じだったが、「自分だけが使う家の天井」なのか、そこは共有スペースでそこからテナントの店舗に入る場所なのか、そのあたりも考えてやれよなあ、そのくらい、考えるのがプロと違うんかい・・・てところだが、「商学部的発想のプロ」であれば考えて当然でも、「芸術学部的発想」か「理工学部的発想」のプロ、もしくは、「世界的建築家」的発想のプロ の場合は、そんなこと、考えてたまるもんか! と信念もっとる。 ・・・が、紫の天井の階段ホールは、それで、客が入るか、そこから出入りするスペースに出店する店は営業やりやすいか? というと大いに疑問であるが、単におしゃれかどうかという点ではおしゃれであった。 そして、この高山陣屋の御書院・御座の間の広縁側・廊下側の壁の色合いを見て、金沢市の成巽閣の色使いを思い出した。成巽閣も、江戸時代からの建物であっても、かなり、斬新な色使いをしていた。好みの問題もあるかもしれないが、私は高山陣屋の↑の壁の色使いは魅力を感じる。
※ 成巽閣については、
「哲建ルンバ」[第265回]《成巽閣(せいそんかく)(金沢市)見学。特に「群青の間」「群青書見の間」「越中の間」はすごい!》https://tetsukenrumba.at.webry.info/201610/article_1.html
※ つくばセンタービル の 階段ホールの紫の天井については、
[哲建ルンバ][第21回]《『がきデカ』に学ぶリフォームの勧め~つくばセンタービル 再登場 〔引越掲載〕》https://tetsukenrumba.at.webry.info/201101/article_23.html で写真を掲載しましたが、掲載の写真では、今一つ、紫色がはっきりとわかりません。

   ところで、床の間の左に付書院を設けた場合、床の間の左が屋外であれば、外に「窓のない出窓」のように付書院の部分が出っ張り、床の間の左側が広縁(ひろえん)もしくは廊下であった場合で廊下が4尺5寸(1364mm)の幅がある広縁・廊下ならば、付書院の部分の幅が狭くなるものの通れないことはありませんが、もし、広縁・廊下の幅が3尺(909mm)であった場合に床の間の左に付書院を設けると、付書院の部分の広縁・廊下は通れなくなってしまうのではないか・・・。 広縁・廊下が3尺の場合にはどうするのか?
日下部民芸館(旧日下部家住宅)には3尺幅の広縁・廊下が横にある床の間というのもあるのです。
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↑ 東よりの「かずき」「シモデミセ」の北側にも広縁にして廊下があるのですが、本座敷の西側の広縁・廊下とは違って幅は3尺です。
  採光をとる窓側の広縁・廊下の幅が3尺である「かずき」という部屋の床の間では、広縁・廊下側に付書院はなく、3尺の幅そのままを確保して通れるようにしています。
  「かずき」という部屋の床の間も本床ですが、本座敷の床の間とは異なり床柱は一般柱と異なり、丸柱になっています。
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↑ 東よりの「かずき」のさらに東側、「シモデミセ」という部屋の床の間です。 この部屋は、天井は竿縁天井ですが、「竿」は木ではなく竹になっており、床の間の落とし掛けも竹が使われています。付書院・床脇の棚はありません。本座敷が名前の通り、一番、格が上の部屋ということなのでしょう。
  「シモデミセ」の床の間も床柱は丸柱で、床の間は奥行きが浅く、床の間の内側を塗り回した「塗り回し床(洞床 ほらどこ)」になっています。
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↑ 1階、一番東側、道路に近い「デミセ」「シモデミセ」という名の部屋の天井。竿縁天井だが「竿」は木ではなく竹が使われている。竹を竿縁の「竿」に使用しても、床刺しにならないよう、「竿」は床の間と並行になるように設けられている。

  日下部民芸館(旧日下部家住宅)でもらったリーフレットに描かれた1階平面図・配置図を見ると、東側の道路から入口を入ってすぐ右手(北側)、「おいえ」という板張りの部屋から道路側に入った畳敷の部屋は「第一展示場」と記載され、西よりの土蔵(文庫蔵)を「第二展示場」と表示されている。これは、「日下部民芸館」という名称がつけられているように、《 11代目当主 日下部礼一が、思想家・柳宗悦の提唱する「民藝運動」の思想に共感し、雑誌「暮らしの手帳」の創刊者として知られるグラフィックデザイナーであるジャーナリスト、編集者の花森安治氏の勧めもあり、自邸を一部改装して昭和41年(1966年)に開館しました。「民藝運動」とは民衆の伝統的生活の中に息づく手仕事によるすぐれた工芸品、民衆の暮らしの中から生まれた美の世界、その価値を紹介しようとするものです。・・・ 》(土蔵の前に出ている説明書き)として公開されたもので、その展示がされている部屋が道路に近い畳敷の2室の「第一展示場」と土蔵の「第二展示場」、それに「ろじ」の南側の「小展示場」だということのようです。
  吉澤政己『日本列島民家の旅(6)中部1 東海・中央高地の住まい』(1996.4.30.INAX出版)に掲載の平面図を見ると、東側の道路に近い「第一展示場」は「ミセ」「シモデミセ」という名の2室、「ろじ」の南側の「小展示場」は「モロ」という名前が書かれています。日下部民芸館のリーフレットでは「ろじ」となっているものが吉澤政己『日本列島民家の旅(6)中部1 東海・中央高地の住まい』では「ナカドウジ」「土間」となっている主屋と土蔵の間の屋根がある外に開けた部分は「ドウジ」となっています。 「ドウジ」は土(ど)の地面で、「ナカドウジ」は屋内だけれども地面は土間(どま)だという意味でしょうか。

  「ミセ」「シモデミセ」(「第一展示場」)は、東側は道路で、今は窓には縦の格子が入っていますが、部屋の名前が「ミセ」「シモデミセ」というように、元々は、道路に面した畳を敷いた部屋で、道路を通行する人を相手にして商売した部屋ではないでしょうか。
  これは、旧宮地家住宅に見学に行った時、係員の方に教えてもらったものですが、旧宮地家住宅にしても、同様の部屋があって、道路に面した部屋は、今は縦の格子が入っているけれども、元々、このあたりは商工業者の街であり、道路に面した部屋に格子などつけず、道路を通行する人を相手に商売をした部屋のはずで、夜はどうするのかというと、「遣戸」を落として戸締りをしたようで、縦の格子が道路側の部屋に入っているのは、旧宮地家住宅にしても、今は展示専用にして公開しているからで、展示用とせずに今も居住している人の家でも、今はそこで商売をしておらず、サラリーマンとして勤めている人だってあるので、そういう人の家では道路側の部屋に縦の格子を入れた部屋があるだろうけれども、そこで商売していた家では、道路に面した部屋には格子なんて入れない、という話でした。
※ 宮地家住宅 については、
[第285回]松本家住宅・宮地家住宅https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201409article_9.html
[第286回]宮地家住宅・平田記念館https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201409article_10.html

  日下部民芸館(旧日下部家住宅)では、「ミセ」「シモデミセ」という部屋の外側は今はどうなっているかというと、↓
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入口を入って左側の部屋は、今は係員の方がおられる部屋になっていますが、日下部民芸館でもらったリーフレットでは「勘定場」、吉澤政己『日本列島民家の旅(6)中部1 東海・中央高地の住まい』(1996)でも「カンジョウバ」と書かれています。勘定した部屋だったということなのでしょうか・・。その外側は今はどうなっているかというと、↓
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↑ 今は、「ミセ」「シモデミセ」の外側は縦の格子が入っているのに対し、「カンジョウバ」の外側は枡目の格子になっています。いずれも、「日下部民芸館」として公開するにおいて設けられたもので、この場所で日下部家が商売されていた時にはなかったものなのかもしれません。

  高山の建物で間違いなく最近作られたと思われる建物で、縦格子が入っている建物、枡格子が入っている建物があります。
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↑ は、十六銀行 高山支店 https://www.juroku.co.jp/iten_takayama.html 
十六銀行高山支店は、私が最初に高山に行った2011年では、今の建物ではなく「昭和の建物」だったように思います。「昭和の・・」なんて言っても、「昭和」というのは64年まであったわけで、「戦前の昭和」と「戦後の昭和」ではずいぶんと違いますし、「戦後の昭和」でも「敗戦」か「終戦」かという1945年は昭和20年であり、「戦後の昭和」だけでも44年もあったわけですが、何と言いましょうか、「戦後の昭和の前半」の建物かと思われる、なつかしさを覚える建物ではあったのですが、2016年に新しい「木の国 飛騨 の 古い町並みの高山」風 の現代的建物に変わりました。南の安川通に面した側と西側の道路に面した側に縦の格子が入っているのですが、屋外ですから、木調風の樹脂か金属か・・・と思いきや、触ってみると「本物の木」でした。建物の構造は鉄骨造なのか鉄筋コンクリート造なのかどちらかですが、外の縦格子は本物の木です。
※ 十六銀行 高山支店については、
[第470回]十六銀行 高山支店、早朝は無人の安川交番 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_26.html

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↑ は、十六銀行高山支店の西側の道路を隔てた向かい、匠館(たくみかん)(下三之町1丁目)http://www.takumikan.com/index.html の東面です。これも、木調風の樹脂か金属かと思いきや、本物の木でした。建築探偵団心得、「触ってもいいと思われるものは触るべし」で、触ってみましたから、たしかです。これも、建物自体の構造は鉄筋コンクリート造か・・と思われるものですが、外の枡格子は本物の木です。
  なんだか、高山という街は町ぐるみ、市民総出で「木の国飛騨」「古い町並み高山」やってるて感じです。どこからどこまでが本来の「木の国 飛騨」「古い町並み 高山」で、どこからが「木の国」ごっこ・「古い町並み」ごっこ なのか、なんだかよくわからなくなってきたみたいな・・・、たぶん、やってる人もわからなくなってきているのではないかと思いますが、市民みんなで必死になって餃子食って、先に「餃子の街」として売り出した宇都宮を追い抜いて「餃子消費量日本一」になってやろうなんてやった浜松よりはよっぽどいいかもしれん・・て感じがします。なにより、<「餃子日本一」になるため、市民みんなで必死になって餃子食いまくる浜松>というのは、「なんで、餃子やねん」て感じがしますが、高山は「木の国 飛騨」「古い町並み 高山」というのは、由緒があり、理由がありますから、それを売りにするためのものが少々加わったとしても、嘘っぱちじゃないし、悪くないでしょう。今は昔、1979年にNHKの朝のテレビドラマ『鮎のうた』で、大阪船場の糸問屋 糸原商店をつぶしてしまった三代目が、行商でお金を儲けて、糸原商店を復活させようとした際に、店を再興するには何の店がいいか、という話を長浜の縮緬屋 今甚の社長 今井甚一に話したところ、「糸原さんというと、『糸』という印象があります。その印象は、これは活かすべきです。長浜というと縮緬(ちりめん)という印象があり、長浜の人間が商売をするなら縮緬を扱うのはその分、有利ですし、縮緬を扱うなら長浜は有利です。それと同じで、糸原さんは、糸と全然関係がないものを扱うのではなく、糸と関係のあるものを扱った方が有利なはずです」と語る場面があった。だから、「餃子の街」にしようと浜松市民が必死になって餃子食いまくるというのは、「なんで、餃子やねん」て感じがしますが、「木の国 飛騨」「古い町並み 高山」というのは、それは高山が何かを売りにしようと考えたなら、その地にゆかりのあるものを売りにしているわけですから、売りにするものの選択としては正しいと思います。せっかく、宇都宮が「餃子の街」として売り出したのに、よそが考えた案を横取りしたらそれでいいらあ・・みたいな浜松流というのは、「なんで、餃子やねん」て思いますけどもね。〔⇒《アーカイブズ 鮎のうた》https://www2.nhk.or.jp/archives/tv60bin/detail/index.cgi?das_id=D0009010240_00000 〕
  私が小堀住研(株)に入社した1980年代後半、小堀住研(株)は「高級住宅の小堀」として評価されていたはずでした。片方で「高品質低価格のハウス55の小堀」でもありましたが、「ハウス55」はあくまでも「高品質低価格」、「その品質にしては低価格」「その価格にしては高品質」であって、「ともかく安い」というタイプではなかったはずで、せっかく、評価を得た「木質系の高級住宅の小堀」という評価は活かすべきであったはずなのですが、ところが、1989年に初代社長でその時は相談役だった小堀林衛が他界すると、翌年の1990年、初代の「メカケの子」説と「メカケの娘の婿」説があった2代目社長の中島昭午が「最低価格帯のカテゴリーキラーを目指す」とかアホなことをあっちやらこっちやらで言いまくり書きまくりした結果・・・・、つぶれた。その後、つぶれた会社をヤマダ電機が「いぬき」で買い取って、(株)ヤマダエスバイエルホームに改称し、さらに「リフォームのナカヤマ」を買収したリフォーム部門と合わせて(株)ヤマダホームズhttps://yamadahomes.jp/ にしてマイナスのイメージしかない「エスバイエル」という名称は社名から取り去ったが、2代目がアホやと・・、もしくは「ベンチがアホやから」という会社はつぶれるように日本の社会はできているようである。せっかく、「高級住宅の小堀」「小堀ならではのデザイン」として評価してくれる人がいたのに、そのプラスのイメージを2代目が自らドブに捨てたわけであり、どうしようもおまへんな。 『鮎のうた』と同じ原作者 花登筐(はなと こばこ)『銭の花』(テレビでは『細うで繁盛記』)では、大阪の宗右衛門町で高級料亭「南地楼」を築いた ゆう が、孫の加代に「加代ちゃん、店の格というものは、上げるのは大変やけれども、下げるのは簡単ですで。下がるのは簡単に下がるもんですで」と語る場面があったが〔⇒《YouTube-銭の花 細うで繁盛記 旅館山水館》https://www.youtube.com/watch?v=jlipoy1IH4U 〕、まさに、小堀住研(株)の2代目社長の中島昭午が初代が他界するとすぐに初代の名字の「小堀」を会社名から削り取って「エスバイエル(2×4)」というツーバイフォー工法(2×4工法)で建てている会社でもないのにツーバイフォーを連想させる名称の会社名に変更して、何をとち狂ったのか、「最低価格帯のカテゴリーキラーを目指す」などと、「最低価格帯の」商品を持っているわけでもないのに、あっちやらこっちやらで言いまくり書きまくりして、社長の中島昭午が必死になって会社の格を下げようとしたのだが、そうやって下がってしまった会社の格というものは、ヤマダ電機が買収後、なんとか上げようとしても、いったん、自分で捨てた会社の格というものは、そう簡単には戻らない。かつて、「高級住宅の小堀」で建てた入居者は、中島昭午に「最低価格帯のカテゴリーキラーをなんちゃら・・」とか言いまくられたおかげで、自分の家という財産の価値まで低下させられたのであり、そういうことをやった会社には、かつて、「高級住宅の小堀」「技術の小堀、設計の小堀、デザインの小堀」と評価した人も(ひとつには、その頃、評価した人は今は「家を建てる年代」でなくなり、それを知らない世代が今は「家を建てる年代」になっているということもあるが)、そう簡単には裏切られた気持ちは回復しない。あの2代目の中島昭午という男、「私は今までからこの人のことを『特別に賢い』とかいうようには思ってなかったけれども、ここまでアホとは思わんかった」と・・・、そんな感じである。
  初代社長の小堀林衛は滋賀県出身であった人が大阪に出てきて小堀住研(株)を創設したということだったはずですが、「滋賀県出身で小堀」というと、小堀遠州と関係あるのか・・と、何も言わなくても客の側で勝手に思ってくれる苗字のはずですから、嘘はついてはいけないとしても、客の側で勝手に思ってくれるというものは活かして損はないはずで、そうであるからこそ、高級志向の自由設計タイプのものには「桂離宮のようなすばらしいデザインを現代に」ということから「桂」、その改良形として「新 桂」という名称をつけていたはずでしたが、ところが、「メカケの子」だか「メカケの娘の婿」だかいう2代目の中島昭午は会社名から「小堀」を取り除きたかったらしく、「エスバイエル」という重みのない名称に変えてしまった、それこそ、「プレハブみたいな名まえ」に変えてしまったのですが、残しておけばプラスになったのではないのかと思える名前でも、「メカケの子」だか「メカケの娘の婿」だかにとっては会社の利益よりもおのれの個人的都合が優先された、ということだったのか。

  「枡格子」ではなく「千鳥格子」というものには、高山には特に由緒があるらしいのですが、それは後の稿で述べるとして、高山の街を歩いてみると、道路側に縦の格子が窓に入っている家はけっこうあります。但し、それが昔から入っていたものなのか、それとも、もともとは、道路側の部屋で商売をしていたが、その後、商売をやめてサラリーマンとして働きに行くようになったことから、道路側の部屋に縦の格子を入れるようになったのか、それはそれぞれなのでしょう。
  2005年、居酒屋のチェーン店のチムニー(株)https://www.chimney.co.jp/ の建設部に入社した時、人材開発部の友常(男。当時、50くらい?)が、チムニー(株)の店舗、「はなの舞」「花の舞」「炎」「チムニー」「ファーストグルメ」といった店を何か所か入社までに見てきてもらいたいと言うので、東京駅八重洲口の「花の舞」、平井の「ファーストグルメ」、千葉駅西口の「チムニー」、それにどこだっけ、もう1か所くらい行ってそこで飲食してきたのですが、八重洲口の「花の舞」は、昼、行くと、昼食を食べに付近のオフィスに勤めている人らしい人が相当来ていて流行っているように見えた・・・が、「勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし」で、その時、客が来ているからといって問題点がないわけではないのです。
1. まず、「花の舞」八重洲店は入口がどこかわかりにくい。それでも、客が来ていたのは、それはオフィス街なので、一度、来たことがある客がまた来ることが多く、チムニー(株)はキリンビールの子会社のどこやらの子会社、キリンビールの孫会社だけれども、もともとはジャスコが作った会社で、ジャスコとは子会社でなくなってからもつきあいがあって、そこから食材が入るということもあって、金額から考えると悪くない内容の食事が出ている・・ということから、オフィス街にある八重洲店はリピーターの客が多いので、それで、「入口がわかりにくい」というマイナス点があっても、それでも、客は来ていた。しかし、友常は「いいでしょお~お」と、まるで、客が来ているから問題はまったくないみたいな言い方をしていたが、そうではない。「勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし」であり、今、勝っていても問題点がないわけではない以上、その問題点は改善すべく対処しないといけないはずだが、それを、何ら対処しようと考えず、「いいでしょお~お」などと言っていたのです。「いい」か? そんな状態が!!!
2. さらに。不衛生であった。どこがかというと、「はなの舞」「花の舞」「炎」といった店は「和風」で「民芸風」のしつらえの店であったのですが、「デザイナー」と称する人に内装を設計させていたのです。まず、 「デザイナー」とか「建築家」とか「設計士(さま)」とか名のりだした人間というのはどういうことをするか、「デザイナー」とか名のりだした人間に設計させるとどういうものができるか・・・、そのあたりを考える必要があります・・というよりも、建築屋業界で何年か勤めてきた人間ならわかるはずなのです・・・・が、チムニー(株)の社長の和泉さんとか、人材開発部の友常とか、彼らはわからんのでしょうかねえ・・・と不思議に思った。 今となっては何十年か前、阪神タイガースが長く、Cクラスを続けていた時、ラジオの野球中継で、アナウンサーが「きょう、阪神の球団の人と話をしていましたら、『今年は、どうも、甲子園球場のお客さんの入りが悪いんですよ。いったい、どうしたんでしょうねえ』なんて言ってました」と言うと、解説者の江本孟紀が「はあ~あ、『いったい、どうしたんでしょうねえ』なんて、球団の人がそんなこと、言ってましたかあ。私はわかりますよ、私は。私は、今年はなんでお客さんの入りが悪いか、わかりますよ。そんなもん、いくらなんでも、こんなけ、ボロクソに負けまくったら、もう、いいかげん、見に行くの、嫌になりますよ、いくらなんでも、これだけ、ボロクソに負けまくったらもう~。わからんのでしょうかねえ、そのくらい。案外、球団の中にいるとわからんもんなのかもしれませんね。一度、教えてあげましょうかねえ。」と言ったのだったが、それと同様の感じ。わからんのか、その程度のことも、と私は思った。
 「花の舞」八重洲店では、室内で「民芸調」のしつらえにするため、客席の横に格子を入れていたのだが、「はなの舞」「花の舞」「炎」というのは「高山風」だそうなのだが、「花の舞」八重洲店では横に格子を入れていて、その横桟にほこりがい~っぱい積もっていたのだ。飲食店が、席の脇に機能上必要のない横桟を設けて、その横桟にほこりがい~っぱい積もっているというのは、それはいいのか? 「高山風」のつもりらしく、その「高山風」と「デザイナー」が考えたものをアレンジして、高山の住宅で時々見かける縦の格子を、それを横にしたらしいのだが、「高山風」を想定するのなら、せめて、なぜ、高山の家の格子は縦であって横ではないのか・・とかそのくらい考えたらどうか、「野球は頭でやるもんや」と同じく、飲食店の経営、飲食店の店舗の設計は「頭でやるもんや」と違うんかい。わかりませんかねえ~え。案外、社長とかそういう役職についた人というのはわからんもんなんかもしれませんね、案外! 縦桟ならよくても横桟だと、そこにほこりがたまりやすいんですよ。かつ、店員の数がいっぱいいるのならまだいいのですが、そんなにいっぱいは配置してないと思うのです。そうすると、横桟にほこりがたまって、飲食店としては清潔ではない印象を与えることになるのです。それでも、客が来る店はあるでしょうけれども、横桟にほこりがたまっているから客は来てくれているのではないのです。横桟にほこりがたまっていても、他の部分で有利な部分があるから来てくれているのです。他の部分で有利な部分があって客が来てくれるうちに問題点は解決するようにすべきはずだと私は思ったのですが、案外、社長とかそういう役職に就いた人というのはわからんもんなんかもしれませんね、案外!!!
  高山に実際に行って見ると、縦の格子が入った家はあるけれども、それも、元々入っていたわけではない、という場合もあり、枡格子もあるのですが、横桟の入った家なんて、何度行っても見ませんよ、そんな建物は。それを、「デザイナー」とか名のりだした人というのはやりたがるのです。飲食店の仕事をやっていたならば、飲食店というのは、特に衛生的でないとマイナスの印象を与えることになる業種だから、ほこりがたまりやすい横桟は避けた方がいい・・・と、そのくらいわからんもんか、と思うのですが、「デザイナー」とか名のりだすとわからんようになるようです。 僕はわかりますよ、僕は。社長とかそういう役職につくとわからんようになるもんなんでしょうかねえ・・・・て、そんな感じ。人材開発部の友常もまた、社長でないのにわからんようで、私が、「花の舞」八重洲店はけっこう客は来ていたけれども、問題点もまたあった・・と感じたにもかかわらず、「いいでしょお~お」と言ってきかなかった・・・というあたり、あんまり賢くないのかもしれんな・・という感じやった。チムニー(株)の仕事をしている「デザイナー」は横桟を機能上必要ないのに店舗の客席の脇に設置してほこりをたまらせて、それで「高山風」のつもりだったようだが、高山に横桟の入った家なんて、ないよ。私が見てまわった限りでは・・・て、そのくらい、わからんかと思うが、わからんのがチムニー(株)の「デザイナー」と社長の和泉さんと人材開発部の友常だったようだった。建設部長の大木さんもちっともわかってないようだった。

  1980年代後半から1990年代初めにかけての小堀住研(株)の「新 桂」および「小堀の木造」の建物はなかなかよくできていたと思います。どこがかというと、「桂離宮のようなすばらしいデザインを現代に」と言うだけあって、古典的なものを踏まえて現代の家に合ったものを作ろうという姿勢がある、基本を押さえた上で斬新なところを発揮しようという挑戦がある、という点です。(株)一条工務店の和室は、東京都江東区潮見にあった東京展示場では、来場客、何人もから「うわっ、田舎の家みたい」と言われ、「浜松の家てのは、こんな具合になってるんですかあ」などと、なんだか、竪穴住居を見学に来た人みたいに言われたものでしたが、東京圏や関西圏の都市圏の住人から見れば「時代遅れの田舎の家」に見えたのです。こう言うと「遠州人」は激怒するのですが、怒るのなら言った人に怒ってもらいたいもので、言われた人間に怒るのはやめてほしいのですが、「遠州人」の特徴として言った人に怒るのではなく言われた人間に怒るという特徴があります。ともかく、現実問題として、(株)一条工務店の和室というのは、これは基本的には「農家型」のもので、「農家型」の家を少しだけ、「大工様が建てる家」よりはいくらかはあか抜けた感じにしたのが(株)一条工務店の和室であり、都市圏の住民からすれば、「うわっ、田舎の家みたい」というものだったのです。それに対して、「現代的床の間」とか作る会社があるのですが、「現代的」が悪いということはないのですが、↑に述べたような床の間の基本というものを理解することなく、床の間もどきを無茶苦茶作ってるだけみたいなものも見かけます。慶應大学に在学中、ある教授が話されたもので、テレビでファッションデザイナーの人が話していたことだそうですが、おしゃれの基本は、服装の基本を押さえた上で、どこをどこまで崩すか、だと言うのです。基本をすべて完全に崩してしまうのではなく、基本を守るだけでもなく、基本を踏まえた上で、ここをこれだけ崩すといったことをやってこそ、おしゃれな服装を実現できる、という話だったのです・・・が、1980年代後半から1990年代初めにかけての小堀住研(株)の「新 桂」および「小堀の木造」はそれができていたと思うのです。せっかく、そういういいものを持っていたのに、2代目のバカ社長の中島昭午は「最低価格帯のカテゴリーキラーを目指す」などと、「最低価格帯」の商品なんて持っていないにもかかわらず、あっちやらこっちやらで言いまくり書きまくりした結果、「最低価格帯」よりも高い価格帯の商品を安い値段で売らざるをえない状況に追い込まれることになり、そういうアホなことを社長が言いまくり書きまくりしている会社は・・・→つぶれた。やっぱり、「メカケの子」だか「メカケの娘の婿」だかはあかんいうことかな・・・という感じがします・・が、1980年代後半から1990年代初めにかけての小堀住研(株)の「新 桂」および「小堀の木造」の建物はなかなかよくできていて、「小堀ファン」のような人もいたのに残念です。 「現代風床の間」と称するものでも、基本的なところを抑えずに、最初から基本を理解することなく、「崩す」のではなく最初から崩れている「現代風」をやっているのがフリーダムアーキテクツデザイン(株)https://www.freedom.co.jp/ の自称「設計士(さま)」です。フリーダムアーキテクツデザイン(株)のデザインがくだらんと思うのは、それは基本が押さえられていないからだと思います。「小堀のデザイン」は基本を押さえた上で斬新な「小堀ならでは」のものを発揮しようという気概があったのに対して、「普通、こんなおかしなことせんぞお~お」という「建売屋みたい」なことやって、「世界でただひとつの家」などというコピーをホームページに入れているのがフリーダムアーキテクツデザイン(株)です。未熟さがにじみ出ています。もし、この文章を見て、こんちくしょうと思うなら、それならそうでないものを作ってみやがれ! てことです。
  遠山啓『競争原理を超えて』(太郎次郎社)では、難易度の高い試験に合格した人というのは優秀のように見えて、実際には、どこかの誰かが決めた内容を学ぶことにたけた人間であって、他人が決めた基準を満たすべく努力する能力がある人であって、本当に優秀な人というのはそうではなく、自分自身がやりたいもの、自分自身が必要だと思うものを目指して突き進む人のはずだ、というのです。たしかに、東大卒の人には、なんだか、「一番」を追いかけまわして人生の多くの部分を費やしているのではないか、結局、あんた、何がやりたいの?!?・・みたいな人が少なくないような気もします。何番でもいいからともかく自分がやりたいこと、自分がやらないと気がすまないことをやり続けるという人とは逆の人が少なくないような印象があります。しかし、他方において、何を学ぶかについて、自分が学びたいものだけ学び、他人が決めた基準を無視するならば、結局、「勝手なことばっかりやってるだけ」になってしまう危険もあります。 雁屋哲 原作・花咲アキラ 画『美味しんぼ [料理を際立たせる!器、そしてスープ編]』(2020.2.12.小学館 My First BIG )所収の「器対決 1~5」では、北大路魯山人について、魯山人は古陶の美しさに惚れ込み、古窯の発掘までして研究を重ね、そのうち、自分でも陶器を焼き始めたが、研究を重ねた者だけあって、意識が先走り造形力に弱みがあるとも言われ、それが北大路魯山人の弱みだと言われるということを登場人物の唐山陶人と海原雄山が語る場面があるが、たしかに、自分が作るよりも研究を重ねる方にあまりにも力を注ぐと、結果として、研究し調査したことによる業績は残せても、自分自身が造形する力が弱まってしまうということはありうることかもしれない。しかし、そうはいっても、やっぱり、基本は押さえた上で、独創的なもの・斬新なものを作ろうというのと、基本を学ぶことなく、最初から崩れているというのとでは、基本を押さえた上で、どこをどうどこまで崩すか、といったことを考えて、独創的なもの・斬新なものを生み出そうとした方がいいのではないかと思う。 「こんなおかしなこと、普通はせんぞお~お」というものを「世界でただひとつの家」などと言うのが「独創的」とか「斬新」とか「フリーダム(自由)」というのではないように思う。愛知産業大学の通信課程の建築学科に編入学させてもらう前、愛知産業大学の建築学科とともに、京都造形芸術大学の何学科だったかも入学説明会に話を聞きにいったのだが、その際、京都造形芸術大学のデザイン学科だったかの女性の先生が、「有名建築物・歴史的建築物を見学に足を運ぶのは建築を学ぶ者にとって当たり前のことですから」というようなことを言われた、と思う。私もそう思います。基本を学ぶことなく、最初から崩れているようなものを「フリーダム」とか「世界でただひとつの家」とか言うのは、それは、違うように思います。

  (2020.2.14.)

  次回は、7か所それぞれ特色のある日下部民芸館の床の間。廊下が垂直に交差する部分の床板の施工 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202002article_2.html

☆ 高山シリーズ
☆高山シリーズ第6回 2020年
1.雪山が車窓から見える東京から高山へのバス。長良川が見える高山から大阪へのバス。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202001article_5.html
2.日下部民芸館1 吉島家住宅に比べて「男性的」とは? 「せがい造」とは? https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202001article_9.html
3.日下部民芸館2 床の間と付書院。付書院は床の間のすぐ横からか手前からか。付書院部分の広縁はどうなるか。縦格子は良くても横桟は不衛生・・て飲食店経営者はわからんのか? 〔今回〕
4.日下部民芸館3 7か所それぞれ特色のある日下部民芸館の床の間。廊下が垂直に交差する部分の床板の施工 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202002article_2.html
5.日下部民芸館4 欄間・釘隠し・仏間、魅力的な窓からの雪景色。「いなか」と「いなかくさい」は同じでない。会社の新人類・会社のビョーキ人間。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202002article_3.html
6.日下部民芸館5 榑葺屋根と金属材屋根。「金属屋根+雪止め+樋」の家。頑丈なアーケード。高山駅の平な屋根。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202002article_4.html
7.日下部民芸館6 雪景色の庭と雪のない庭。和風も考えられるシャンデリア。棟木の丸太梁。思いのほかごつい土蔵の扉。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202002article_5.html
8.日下部民芸館7 飛騨地方の神棚は、その下を通るのが一般的なのか。及、施主の希望を無視して神棚もどきをつけた(株)一条工務店の東京の営業。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202002article_6.html
9.吉島家住宅1 杉玉があるのが吉島家。じっくり見ると日下部家住宅より「女性的」かもしれない・・かな。卯建と似てるが異なる火垣。男が雪かきすると部屋中に入って座ってコーヒー飲む「おばさん帝国主義」。
https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202002article_7.html
10.吉島家住宅2 「女性的」は架構でけでない。床の間。長押が床脇の内部まで周っている床脇。みやびな色の釣り床。 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202002article_8.html
11.吉島家住宅3 「茶室風」「数寄屋風」「京風」な感じが全体に感じられる吉島家住宅。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202002article_9.html
12.高山別院の方の光曜山照蓮寺。 農家の家の部材を利用して建築した庫裏。高山風を考慮した耐震補強。落雪注意と水道管の断熱材は寒冷地を思わせる。三流以下企業の経営者は普通ならわかるだめな原因を理解しない。他。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202002article_10.html
13.高山別院でない方の光「耀」山照蓮寺。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202002article_11.html
14.護国神社+『まれに見るバカ女との闘い』、雪かきする女性に敬意を表したい。 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202002article_12.html
15.筏橋、中橋、「高山の夜」碑、山岡鉄舟立像、高山陣屋 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202002article_13.html
16.高山駅から飛騨の里までの前半。西小学校、苔川。「木の国 飛騨」「古い町並み 高山」を売りにしつつ「新しい木質建材」も利用。 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202002article_14.html
17.高山駅から飛騨の里までの後半。飛騨民俗村から文学の小径を通り、飛騨の里へ。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202002article_15.html
18.飛騨の里1-凍った五阿弥池と鳥。六地蔵、馬頭観音。不明な動物。「子供」を名分に定時に帰りオットと妊活やって3人目産んだ女とそのオットに殺された水子を供養する。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202003article_1.html
19.飛騨の里2-旧田中家住宅。土間の「おえ」、板貼りの「でい」。「捕手の力」を無視する営業本部長。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202003article_2.html
20.飛騨の里3-旧若山家住宅(1)迫力ある巨大な合掌造。「えん」はベランダ? ではないが・・。「まやどうじ」「こうまや」「どうじ」「えん」。命名にセンスのない経営者の会社。 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202003article_3.html
21.飛騨の里4-旧若山家住宅(2)「おえ」「すえのでい」「なかのでい」。仏間と神棚。「やったことない」ことはできるか? https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202003article_4.html
22.飛騨の里5ー旧若山家住宅(3) だいどこ・うすなか・みんじゃ・ちょうだ。「水屋」には3通りの意味があった。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202003article_6.html
23.飛騨の里6ー旧若山家住宅(4) 荘川村様式の合掌造の特徴とは。「せがい造」とは。上座・下座ができてしまう「和風」の家。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202003article_7.html 
24.飛騨の里7ー旧田口家住宅 縁側の内側に雨戸、長方形の囲炉裏、続き間にできる柔軟性のある間取り。奥に仏間のある部屋の右手に床の間。「両親が離婚した」などと自慢する高校教諭ははた迷惑。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202003article_8.html
25.飛騨の里8ー旧吉真家住宅 入母屋の妻面を大きく取る萱葺の家。車田。雪をかぶった山脈がきれい。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202003article_9.html
26.高山の町並にて(1)—「和風のドーマー」は違和感なく存在する。高山警察署は新社屋にて営業中。重要伝統的建造物群保存地区の周囲に「市街地景観保存区域」を設定する高山市の姿勢を評価する。用途地域の趣旨を踏みにじる千葉県習志野市の態度は不適切。千葉工大名誉教授山本明氏の権威主義を笑う。 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202003article_10.html
27.高山の町並にて(2)—高山の雪景色・無人の駅前交番・さるぼぼ・冬ならでは、吊るされた柿。入居者が引越する日に中を見せろと言う非常識な営業を指導しない所長。「指名手配犯」と似ている男というのは通報すべきか否か・・ https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202003article_11.html
28.高山の宿泊施設。 最新のホテルは、もう一回り低い高さにできないか。浜松に本社のチェーンは利用に抵抗を感じる。フィレオフィッシュはミラノにもパリにも高山にもある。研修に一人だけ遅刻してきて平気な浜松営業。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202003article_12.html
29.高山の食堂数か所。飛騨牛重は後で「食べた」感が出てくる。降雪時、平湯付近の道路は雪が積もる。保護義務違反の会社に尽くしたバカの話。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202003article_13.html

☆ 高山シリーズ第1回 2013年
上 [第202回]飛騨天満宮、松本家住宅他https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201309article_7.html
中 [第203回]「天神」考察。居酒屋はいいかげんhttps://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201309article_8.html
下 [第204回]高山市の白山神社。高山市役所https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201309article_9.html 

☆ 高山シリーズ第2回 2014年
(1)国府町村山天神参拝(1)上枝駅から宮川沿い https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201409article_2.html
(2)同(2) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201409article_3.html
(3)同(3)浸透桝で雨水処理 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201409article_4.html
(4)あじめ峡、あじか、廣瀬神社、国府小学校https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201409article_5.html
(5)国府大仏、阿多由太神社https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201409article_6.html
(6)飛騨国府駅周辺。「耳付片流れ屋根」https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201409article_7.html
(7)松本家住宅上・ヒラノグラーノhttps://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201409article_8.html
(8)松本家住宅下・宮地家住宅上https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201409article_9.html
(9)宮地家住宅下・平田記念館 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201409article_10.html
(10)飛騨民族考古館1 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201409article_11.html
(11)同2 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201409article_12.html
(12)同3 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201409article_13.html
(13)同4 喫茶ばれん、質屋の入口から逃げる裁判官 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201409article_14.html
(14)飛騨高山まちの博物館 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201409article_15.html
(15)東西反転プランでは玄関だけ移動するのかhttps://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201409article_16.html
〔(16)~(20)の前提、権威主義的パーソナリティーの「デザイナー」が「建築家」の名前で敬意を表した慶應日吉(新)図書館について https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201409article_17.html 〕
(16)高山の町家で曲がった松をわざわざ柱に使用するか? 1 JR日光駅はライトの設計でなければ価値はないか? https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201409article_18.html
(17)同2 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201409article_19.html
(18)同3 マーケティング的発想のない店 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201409article_20.html
(19)同4 店のコンセプトが理解できない建設部長 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201409article_21.html
(20)同5 「酒が飲めない人にも飲める酒」を勧められない「日本酒ソムリエ」 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201409article_22.html 
(21)飛騨総社 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201409article_23.html

☆高山シリーズ第3回 2015年
1.藤井美術民芸館  https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201510article_1.html
2.高山陣屋[1]床の間、釘隠し・・ https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201510article_2.html
3.高山陣屋[2]白洲、土縁庇・・ https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201510article_3.html
4.高山市政記念館 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201510article_4.html
〔番外 宮川にかかる欄干に加圧注入木材使用の橋と 防腐防蟻剤について。 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201510article_5.html 〕
5.桜山八幡宮 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201510article_6.html
6.桜山八幡宮 摂社 天満神社 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201510article_7.html
7.山桜神社、古い町並美術館、手長足長 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201510article_8.html
8.宮川交番、高山警察署、高山市役所 他 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201510article_9.html
9.飛騨国分寺、「和風ドーマー」、二重サッシ他 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201510article_10.html
10.新宿‐高山のバスの予約をインターネットで「後部」を希望すると。「労災」のおかげで歩行困難にされた話  https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201510article_11.html

☆高山シリーズ第4回 2016年
1.日の出天満神社 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_13.html
2.大八賀神社 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_14.html
3.東山遊歩道(1)高山別院照蓮寺から東山白山神社へ https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_15.html
4. 〃 (2)東山白山神社・大雄寺 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_16.html
5. 〃 (3)雲龍寺・久昌寺・栄鏡院 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_17.html
6. 〃 (4)洞雲院・素玄寺 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_18.html
7. 〃 (5)東山神明神社 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_19.html
8. 〃 (6)天照寺・法華寺 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_20.html
9. 〃 (7)善応寺1.本堂 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_21.html
10.〃 (8)善応寺2.地蔵堂 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_22.html
11.〃 (9)宗猷寺 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_23.html
12.〃(10)町年寄川上家別邸跡 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_24.html
13.煥章館と煥章館2階から見た東山 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_25.html
14.十六銀行 高山支店、早朝は無人の安川交番 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_26.html
15.新装「高山駅」 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_27.html
16.片流れ屋根のモデルハウス https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201611article_4.html

☆高山シリーズ第5回 2017年
1.内田康夫『風の盆 幻想』と巡る高山(1)喫茶店「ロスト」を探す https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201710article_5.html
2. 同 (2)高山ラーメン https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201710article_6.html
3. 同 (3)「K病院」https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201710article_7.html
4. 同 (4)高山市役所 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201710article_8.html
5.旧 野首(のくび)家住宅 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201710article_9.html
6.旧 新宮村 郷倉 ほか https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201710article_10.html
7.山岳資料館(旧 高山測候所)、飛騨民俗村とは https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201711article_1.html
8.飛騨合掌苑 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201711article_2.html
9.「飛騨民俗村 文学散歩道」https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201711article_3.html
10.飛騨高山美術館 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201711article_4.html
11.名古屋から高山へ「ワイドビュー飛騨」https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201711article_5.html
12.高山駅から飛騨民俗村へ[上]https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201711article_6.html
13. 同 [下]https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201711article_7.html
14.新上野橋から三福寺橋、山小屋て、なぜ洋風なの? https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201711article_8.html
15.「旧 吉城郡細江村の民家」(熱田神宮内) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201711article_9.html 

新感覚の和風住宅 (Home life) - 講談社
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インテリアコーディネーターハンドブック 技術編 - インテリア産業協会
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建築用木材の知識 (これだけは知っておきたい) - 今里 隆
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野村の遺言 - 克也, 野村
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