日下部民芸館7-飛騨の神棚はその下を通るのが一般的なのか。地域にあった神棚という姿勢のない一条工務店の東京の営業。
[第741回]高山シリーズ6回の(8) 日下部民芸館7
日下部民芸館(日下部家住宅)(岐阜県高山市大新町)の7回目です。




日下部家住宅の神棚です。↓

入口を入って、「ろじ」「なかのどうじ」という土間の北側に、南から「おいえ」「なかのおいえ」「台所」と続く畳敷の部屋の真ん中、「なかのおいえ」という部屋の北側、「とおり」を経て「くちの間」から「仏間」「つぎの間」「本座敷」の方に至る、「なかのおいえ」の「とおり」の手前側の上に配置されています。
下の畳と比較してみるとわかりますが、幅は1間半あり、決して小さくはないのですが、家が大きいので神棚が大きいという印象はそれほど受けません。 私は、大阪で生まれて東京圏でしばらく生活し、(株)一条工務店で福島県いわき市の営業所に勤務したことがある者ですが、都市圏の神棚に比べて、一般に福島県の神棚というのは大きい。大きいとともに、都市圏の住人に比べて、福島県の人間というのは神棚を重視する人が多い。日下部家は、《天領時代幕府(代官所)の御用商人として栄えた商家で、屋号を「谷屋」といい、嘉永5年には、役所の御用金を用立てする掛屋(かけや)をつとめ、後には両替屋を営んだ。》(日下部民芸館でもらったリーフレットによる)という比較的裕福な家であったようですから、神棚もそれなりの大きさのものが設けられていいのでしょうけれども、神棚の作り方というのはそれぞれの地域によって違うようで、福島県では、特別のものすごい名家とか金持ちとかでなくても、1間以上はとるもので、1間半というのは特に大きいわけでもなく、「普通」の範囲だった。そして、福島県では、神棚というのは和室の天袋の位置に設け、天袋の部分を神棚とするか、長押の上の位置に棚を設置するか、天袋の奥行の3分の2程度とその前の長押の上に1尺程度の奥行きが短めの棚を設けて、天袋の中と手前の棚とを神棚とするか。仏壇の上はいいという地域と良くないという地域があって、仏壇の右上の位置に神棚を設けるべきだという地域と、仏壇の真上から右上にかけて設けるべきだ、という地域があったと思います。福島県ではそういう神棚の設け方をすることが多かった。部屋から他の部屋へ移動する経路の上に神棚を設けるということは福島県ではあまりやらなかった。それに対して、高山など飛騨地方ではそうではなく、↑のように、隣の部屋と移動する経路の上に神棚がある、ということはあるようです。
飛騨の里に移築されている旧田中家住宅(17世紀末から18世紀初め、元禄年間のもの。 現在の高山市中切町で建てられ、高山市冬頭町に移築されていたものを飛騨の里に移築)では、↓



「おえ」という囲炉裏のある土座の部屋、現地での間取り図には、「おえ」のことを「(居間)」「LIVING ROOM」と書かれているのですが、はたして、「居間」とか「LIVING ROOM」と解釈するのが適切なのかどうか、よくわかりませんが、その「おえ」の北側の壁に神棚が配置されていますが、↑ そう大きくありません。
飛騨の里に移築されている旧若山家住宅(現在の行政区画では、高山市荘川町の北部 にあった合掌造りの家で、御母衣ダム建設で水没することから飛騨の里に移築された)の神棚は、↓


↑ 旧若山家住宅でも、「おえ」(「座敷」 LIVING ROOM )という板敷きの部屋から、「すえのでい」(「座敷」 ROOM )への本鴨居の上の位置に神棚が設けられています。 福島県の家では神棚は和室に、仏壇の右上あたりか仏壇の上から右上にかけてかの天袋もしくは天袋の前に棚を設けるかして作ることが多かったのですが、飛騨地方では、神棚というのは、囲炉裏があるような部屋から座敷の部屋へ至る鴨居の上などに配置するものなのでしょうか。
又、福島県の家では・・この場合、新築する方の家ではなく建て替える際に解体した方の家でも、仏壇と神棚は近い場所にたいていあったのですが、日下部民芸館(日下部家住宅)においても、旧田中家住宅でも旧若山家住宅でも、仏壇と神棚は離れた場所にあります。 私が小学校の前半まで過ごした大阪市の家でも、仏壇は茶の間にあって神棚は台所の流しの背後にありました。離れた場所にある地域では「仏さん」と「神さん」は別の存在であるのに対して、仏壇と神棚が近い場所にある地域というのは「仏さん」と「神さん」が近い存在にあるのかな・・などと思ったりしたのですが、どうでしょうか。
部屋の名称ですが、日下部民芸館(日下部家住宅)で「おいえ」「なかのおいえ」と言っている部屋名と、旧田中家住宅・旧若山家住宅で「おえ」と言っている部屋名というのは、もしかして、同じ意味合いなのでしょうか。
1980年代後半、小堀住研(株)に在籍した時、お客様から家相と気学の専門家に相談したいので一緒に来てほしいと言われて同行したことがあり、その際、その家相と気学の専門家という方が「神棚というのは、眼の高さよりも少し上くらいに設けるのが本来で、上の方にあげている神棚というのは、邪魔だから上にあげているのであり、上の方にあげるというのが神棚の高さとして正しいというわけではないのです」と言われ、そうなのかなあ・・と思ったのですが、そういう考え方もあるかもしれませんが、もともと、「神さん」というのは、そこの家の家族が無事に生活している時には上の方にいてもらってよくて、いざという時に神棚の方に向いて祈願するというもので良いのではないのか、もともと、「神さん」というのはそういう存在ではないか、という考え方もあるのではないか、とも思うようになったのです。これはどちらが正しい、どちらが間違いというものでもないと思いますが、それぞれに一理あるのではないか。
神棚・仏壇・床の間といったものは、都市部の人間より地方の人間の方が重視する傾向があるのではないかと思います。
(株)一条工務店がよくわからないのは、「何でも、ムクがいいに決まってるんだ」と名古屋南営業所の所長だった近藤ローオさんとかそういう「一条オリジナル」の人が叫ぶ会社でありながら、なぜか、(株)一条工務店の浜松の積算部に神棚の見積もりを出してくれと頼むと、「桧の集成材でいいですか」と言うのでした。なんで、「何でも、ムクがいいに決まってるんだ」と「一条オリジナル」が叫ぶ会社なのに、「集成材でいいですか」と浜松の積算部は言うのか・・・? よくわからんのでしたが、最初、それを聞いた時には、「桧のムク板の神棚」というのは相当高いんだろうなあ~あ・・・と思い、それで、「桧の集成材の神棚」の見積もりを積算部に出してもらって、契約客のお宅につけたことがありました。しかし、その後、福島県において、「ムク材で」と希望される契約客があり、「ムクの桧で」ということで見積もりを依頼したところ、「集成材の桧の神棚」と「ムク材の桧の神棚」の値段というのは、ムク材の方が高いことは高かったのですが、「たいして変わらなかった」のです。「たいして変わらない」のであれば、神棚とかそういうものは、いわば、「縁起物」ですから、ムク材にした方がいいのではないか。都市圏ではそれでも集成材でいいという人もあるかもしれませんが、福島県のような場所においては、神棚のような「縁起物」は、よっぽど値段が大きく違えばなんですが、それほど大きく変わらないのであれば、ムク材で取り付けるようにした方がいいはずで、それ以降、私は福島県で建てる人には、「集成材のものとムク材のものがありますが、私は、神棚などの場合は、それほど大きく値段が変わらないのなら、ムク材にした方がいいのではないかと思うのですが」と話すようにして、そうすると、福島県人は、誰もが「そうですね」と言ってムク材での施工にされたのでした。よくわからんのは、「遠州人」というのは、「何でもムクがいいに決まってるんだあ。こんな常識もわからんのかあ~あ!」と絶叫するという人種なのですが、そのわりに、神棚の見積もりを出してくださいと依頼すると、浜松の積算部は「集成材でいいですか」と、言い方として、ムク材はできる限りやめてほしいみたいな言い方で言うのでしたが、なんか、「遠州人」というのはようわからん人種でした。
1991年に(株)一条工務店が「ビーイング」に出していた求人広告を見て私は応募して、1992年4月に入社したのですが、「ビーイング」の求人広告には、「研修制度が充実していますから、売れなくて困るということは絶対にありません」と書いてあったはずなのです。「売れて売れて困っています。あなたがいれば、もっと売れます」とかも買いてあったはずです。・・・嘘つき一条の求人広告というのは、実態を知った者としては、「よく言うわ♪」て感じがします。「バカ言ってんじゃないわ♪」て感じです。
浜松・掛川では、その頃、東京都で坪55万円で売らされていたものを坪48万円、名古屋では坪49万5千円でダンピング販売しており、かつ、静岡県西部・愛知県では他の地域と違ってテレビ広告をドカンと一発♪ やりまくっていましたので、そういう場所においては、「売れて売れて困っています」とまでいかないかもしれないが、売りやすかった、売れやすかったでしょう。しかし、東京展示場においては、来場客誰もから、「一条工務店なんて、聞いたことない」と言われ、「まあ、浜松で建てるのならお宅みたいな会社でもいいのかもしれないけれども、うちは浜松で建てるのじゃないから」と言われまくったのでした。「売れて売れて困っています」とは、よく言ってくれたものです。東京展示場(江東区潮見)は「三世代がゆったりのびのび住める家」というキャッチフレーズが書かれていたのですが、その内容というと、「お母さんとお嫁さんが一緒に調理のできる広めのシステムキッチン」とか「親戚中が集まった時でも対応できる二間続きの和室」とか、「親戚中が集まったり多くの人が来て座席が不足した時に補助席になる大型のベイウインドウ」とか、「今どき、そんな家に住む人なんて、ないでしょお~お。浜松ならともかく~う。うち、浜松で建てるんじゃないからあ。やっぱり、お宅は浜松ねえ」とか言われまくりました。
そして、東京展示場は、最大で13人も営業がいたのですが、(株)一条工務店で建築を考えてくれる客層はどう考えても多くない営業所に13人も営業を配属して、片方で、どう考えても東京展示場よりは条件はいいと思われる神奈川県の藤沢展示場は営業は4人だけであり、少ないπ(パイ)を多くの人数で分けないといけない展示場と、その場所よりは多いπ(パイ)を少ない人数で分ければいい展示場では、後者の方が条件は良く、前者はきついというのは最初からわかっていることです。だから、藤沢展示場では「高木のおっさん」(1992年当時、40代。創価学会員。)でも、あんなのでも、まあまあ売れていたのです。あんなのでも。それを私が入社した年の東京展示場は「遠州人」からされていたのでした。浜松の展示場にしても、13人もいなかったのです。掛川の展示場も。掛川展示場は、私が入社した1992年頃、(株)一条工務店の展示場では最も営業成績が良い展示場と言われていたのでしたが、それは営業1人あたりのことであり、そんなに売れるのならば、営業の数を倍にするか、もしくは、掛川市に展示場をもう1つか2つ作って、既存の掛川展示場に在籍している営業の数と同じだけの営業を新しく作る展示場にも配属するようにすれば良かったはずなのです。そうすれば、掛川市での契約棟数はそれまでより増えたでしょうけれども、営業1人あたりの契約棟数はおそらく減ったでしょう。これを経済学では「収穫逓減の法則」と申します。「遠州人」というのは、「浜松仕様の一条の家」がなかなかその地域の人に受けない東京展示場にはい~っぱい営業を配属して、「浜松仕様の一条の家」が喜ばれる浜松・掛川には営業の数を少なめにするという「きたない手口」を取ることで、浜松・掛川などでは営業1人あたりの契約棟数を増やす、という作戦に出ていたのでした。汚い連中です。びびんちょかんちょです。まさに、「遠州人」というのは根性ババです。「遠州人」は根性がババでできています。彼らはそういいうやり口をしないと売れない連中なのです。
そして、「研修制度が充実していますから」というのはどうかというと、浜松の本社で、入社2か月目と3か月目に2泊3日の研修があることはありました。しかし、講師役にはどういう人が来たかというと、静岡県でしか仕事したことがない人で営業所長などにならせてもらっている人。そういう静岡県のことしかわかっていない人が、静岡県・愛知県では通じても、他の都府県では通じない「一条オリジナル」を得意になって教えたのでした。その通りやったら売れませんからね。東京展示場に浜松出身という男性が来られたことがあり、「もうすぐ、定年なので、定年になったら浜松に帰って浜松で建てたいと思ってるんだ」と言われたのですが、そういう人の(株)一条工務店に対する評価というのは、純粋東京人とは全然違ったのです。「遠州人」というのは、「自分が売った」みたいに言いたがる人種でしたが、それは嘘です。会社の評価と遠州地方の人に合う商品があって「売れた」のです。もちろん、「買いに来た人」でも追い返すような「自動販売機以下のやつ」という営業もいますから、「買いに来た人」に契約してもらった、としても、それでも、営業として努力はしたのでしょうけれども、それにしても、「一条工務店」という名前さえ出せば、それだけで、本名か対抗馬くらいに考えてくれる人がいっぱい来る地域と、「一条工務店なんて、そんなのまったく聞いたことない。聞いたことある人なんていないでしょ。」と言われまくる地域で仕事をするのとでは、条件は全然違ったのです。なおかつ、不利な条件で悪戦苦闘していた者、かつて、電気器具のシャープが、シャープの製品がなかなか売れない地域に、「シャープアトム隊」と言って、なかなか買ってもらえないという地域に突撃して、なんとか買ってもらおうという企てをするチームを編成してやっていたという話がありましたが、1992年頃の(株)一条工務店の東京展示場の営業というのは、いわば、その「アトム隊」みたいなことをさせられていたのでしたが、その「アトム隊」みたいなことをさせられていた者に、それを、浜松・掛川・名古屋といった「一条オリジナル」の地域の人間は、自分たちの地域には安い坪単価を設定し、自分たちの地域だけテレビ広告をドカンとやり、テレビ番組のスポンサーもやりして、そして、名古屋南営業所の所長だった近藤ローオ(男。当時、50くらい)は、ダンピングとテレビ広告で売っていた名古屋南営業所にいて、そして、「そんなもん、住友林業との競合なんて、ごちそうさんてもんだ。住友林業はプレカットやってますか。やってませんでしょ。住友林業はムクですか。違いますでしょ、で、これだけで簡単に売れる。」などと勝手なことを言いまくっていたのでした。1992年、近藤ローオさんは「住友林業はプレカットやってませんでしょ」などと言うのでしたが、住友林業(株)は1992年、機械プレカットをおこなって建てていたのです。しかも、千葉県では、(株)ひらいhttp://www.hirai-gnet.co.jp/ という会社、(株)一条工務店と共同出資会社として(株)一条工務店千葉 という会社を作って(株)一条工務店千葉が「一条工務店」というブランド名で建てていた、その親会社の材木屋の(株)ひらい が「住友林業の家」の構造材の機械プレカットをおこなっていたのです。千葉県の住友林業の営業は、それをもって、「一条工務店は住友林業の下請けですよ」とか言うておったのです。それを、住友林業(株)は機械プレカットをおこなって建てていたにもかかわらず、「住友林業はプレカットやってませんでしょ、と言えば、それだけで売れる」とかいうような、そんな場所で近藤ローオは営業させてもらってきたのです。住友林業(株)は機械プレカットをおこなって建てていたにもかかわらず、「『住友林業はプレカットやってませんでしょ』と言えばそれだけで契約とれる」などというそんなやり方でも売れる場所でやらせてもらっていた男だったのです。(株)一条工務店には、そういう「売らせてもらった人」というのがけっこういて、そういう人間がえらそうな口をききまくっていたのです。 (株)一条工務店の浜松の研修に講師として来る人間というのは、その類の人間だらけであり、そんな人の話なんて、静岡県・愛知県では通じても、東京では通じません。寝言でしかない。「東京でも大阪でも、敷地面積20坪の家でも延床面積30坪の家でも、二間続きの和室は絶対に必要なんだ。延べ床面積20坪の家でも八寸角の大黒柱はいいに決まってるんだ。こんな常識もわからんのかあ~あ!」というのが「研修」ですからね。そんな「研修」に講師役で来て、「ほとんどビョーキ」みたいなことを叫びまくってストレス発散して帰ったおっさんというのは、それで給料もらえているんですからね。そんな「研修」が役に立つわけがないのです。そんなものを、(株)一条工務店は「研修制度が充実していますから」とか勝手なことを求人雑誌に印刷していたのです。「バカ言ってんじゃないわ♪」
そして、1992年、東京展示場は最大で13人もいたのですが、主任だった「リーダー」の宮崎さん(男。当時、30代前半)だけが多少は経験があって、他は新卒入社3年目の堀本(男。当時、20代後半)、2年目の沖田(男。当時、20代前半)がいて、それ以外は全員が新卒入社1年目か中途入社1年目の人間で、「リーダー」の宮崎さんはけっこう親切に教えてくれたのですが、宮崎さん自身がそれほどものすごい実績があったわけでもなく、新人ばっかり大量にくっつけられて、大変だなあと思って見ていたのですが、片方で、浜松や掛川では、課長とか係長とかいう役職をもらいそれに対しての手当をもらいながら、なんら、課長なり係長なりの仕事なんてしていないという人がわんさといたのです。これはどう考えてもおかしい。課長とか係長とかの役職手当をもらうなら、その役職手当に該当する仕事をしなければならないはずである。仕事してないのに役職手当だけもらっている人間が浜松や掛川にはいっぱいいて、東京展示場では、「リーダー」の宮崎さんは主任でしかないのに、新人を大量にくっつけられて、「めんどう見きれんわ」とか口にしたこともあった。新人をいっぱいくっつけられて苦闘していた人が「主任」で、そのような世話は何らしていない人間が課長や係長やの役職を名のり、役職手当を不当に取得していた、というのはこれはおかしい。 宮崎さんのように新人をいっぱいくっつけられてそのめんどうをみさされていた人間が主任の役職しかもらえず、片方で、浜松や掛川で個人としての営業活動の他は何もしていないのに、課長だ係長だという役職を名のらせてもらい、役職手当をもらっていた男がいた、というのはこれはどう考えてもおかしい!
新人をあまりにもいっぱいくっつけられていた宮崎さんは私が尋ねると親切に答えてくれる人でしたが、新人ばっかり大量にいる展示場においては、経験者に教えてもらうということはそれほど期待できなかったのです。むしろ、教える人間がいないからと、同業他社で少しだけ経験があった私に、新卒入社の橋本に、法務局で登記簿謄本を取るやり方を教えてあげてくれと言われて、一緒に法務局に行って教えた、ということもあったくらいだった。今は登記簿謄本の交付と登記簿の閲覧ではなく登記事項証明書と登記事項要約書になったが、法務局で登記簿謄本の取得する方法なんて特別に難しいことでもなく、分からなければ法務局の職員に尋ねればいいことで、私は土地・建物の登記簿謄本の取得のしかたは小堀住研(株)にいた時、営業課長に教えてもらったが、商業登記簿については誰に教えてもらったわけでもなく自分で取得のしかたを覚えた。だから、教えられなくてもできそう・・という感じもするのだが、ところが、そう思って新卒入社の人間に1人で行かすと危ない。埼玉県の営業所にいた人から聞いた話だが、新卒入社1年目の人間に、「法務局に行って、登記簿取ってこい」と言って行かせたところ、言った人間としては「登記簿取ってこい」というのは「登記簿謄本を取得してこい」というつもりであったのだが、ところが、言われた新卒新人はどうしたかというと、法務局に行って、登記簿の閲覧というのを申請して、そして、出してもらった登記簿を取ってきた。「登記簿をとってこい」と言われたので、言葉の通り、登記簿の原本をファイルごと「盗ってきた」・・( 一一) ・・・わ、わ、わ、いったい、何すんねん、何を~お!!! 「すぐ返してこい! 今すぐ行って返してこ~い!」と言って返しにいかせた・・らしい・・が、(株)一条工務店の新卒入社1年目の人間に、うかつに「法務局に行って、登記簿とってこい」なんて言うと、登記簿謄本(現在なら登記事項証明書)を取得してくるのではなく、登記簿の原本を盗ってくるヤツがいるらしく、おそろしい!
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! だから、橋本は新卒入社1年目に私に法務局に一緒に行ってもらって、「登記簿の原本を盗る方法」ではなく、「登記簿謄本の取得のしかた」を教えてもらった、という点については、その時、私は主任でも係長でも課長でも所長でもなく、それらの役職手当なんてもらってないにもかかわらず、懇切丁寧親切に教えてあげたのだから、その点については私に感謝してもらって悪くないはずなのだが、橋本は、東京展示場で、来場客が帰る際、私なら用意してあるサンダルを履いて外まで見送るところを、橋本は框の上に突っ立って、両手を後ろで組んで、あごを突き出して水飲み鳥みたいにして、「どうもっ」と言うという挨拶のしかたをしていたので、

ドリンキングバード 水飲み鳥 平和鳥
それで、私は自分も(株)一条工務店においては入社1年目で、他社で少しは経験があったとしてもその会社では新人である以上は、その会社である程度以上、実績を残すまでは人に「教える」といったことはやりたくないと考えていたが、それでも、見て気づいていながら黙っているというのは不親切であり、気づいたのなら口に出して言ってあげる方が親切というものであろうと思い、「橋本さん、ぼくらも小堀住研〔⇒エスバイエル(株)〕で入社直後の新卒社員研修で教えられたのだけれども(おそらく、一条工務店でも同じように新卒社員研修で教えているのではないかと思うのだけれども)、お客さんが帰る時に挨拶するのにおじぎをする時には、両手を後ろで組んで頭を下げるのではなく、両手は体の横に置いておじぎをするというようにした方がいいと思いますよ」と言ってあげたのだったが、私としては親切で言ってあげたつもりでしたが、ところが、日体大卒の橋本は、そのあたりが「体育会系の礼儀作法」なのか「さわやかスポーツマンシップ」なのか、「〇〇さん、そんなこと言うならエスバイエルに行けばいいでしょう。一条には一条のやり方というものがあるんですからねえ」などと言うので、こいつ、勝手にしろ! と思い、こんなやつにはもう教えんわ! とも思ったものだった。その両手を後ろで組んであごを突き出して水飲み鳥みたいに前傾して「どおもっ」と言うというのがそれが「一条のやり方」「一条流 木造の挨拶のしかた」だったようです。私は、両手を後ろで組んで、あごを突き出して水飲み鳥みたいに体を動かして、「どおもっ」などと言うようなそんな挨拶は、それは小堀住研(株)⇒エスバイエル(株)においてであれ(株)一条工務店においてであれ、営業の挨拶としておかしい、と思うし、当然、(株)一条工務店でも新卒社員研修でそういう挨拶のしかたはいけませんと教えていたのではないかと思い込んでいたので言ったのだが、橋本の言うことによれば、両手を後ろで組んであごを突き出して水飲み鳥みたいに前傾して「どおもっ」と言うというのが、それが「一条の挨拶のしかた」「木造の挨拶のしかた」だったらしい。それならそうすればいいわ、と思い、そして、「登記簿謄本の取り方」も教えてやる必要はなかったなと思ったのだった。むしろ、「登記簿のとりかた」も「一条のやり方」「木造の登記簿のとり方」というものがあるわけだから、橋本もまた、「法務局に行って、登記簿の閲覧を申請した上で、登記簿の原本を盗ってくる」という「一条流 木造の登記簿のとり方」というのを実行すればよかったのである。それが「一条のやり方」なのだろうから。教えるんじゃなかった、課長の役職手当も係長の役職手当も主任の役職手当ももらってないのに。親切で教えてあげたつもりだったが、そういう口をきかれるのなら、体育会系になんか教えるのではなかった。失敗した。つくづく失敗だった。「『失敗』と書いて『成長』と読む」と野村克也も言うておったから、今後は体育会系と(株)一条工務店の新卒入社社員には「登記簿謄本の取得のしかた」なんて役職手当ももらってないのに教えるべきではない、と学んで「成長」しなければならない。 (株)一条工務店の新卒入社社員は「一条流 木造の登記簿の盗り方」をやるなら好きにさせておけばいいのだ。それが(株)一条工務店という会社の方針なのだから。両手を後ろで組んで水飲み鳥みたいに前傾して「どおもっ」と言うというのが「一条流 木造の挨拶のしかた」というものなのだから。「一条流 木造の登記簿のとり方」というのは、それは犯罪だと思うのだが、それでもそれが「一条のやり方」だというのなら好きにすればいい。俺の知ったことか!!!
そんな状態だったが、ところが、1990年代の後半になって、(株)一条工務店は、「応援者」「被応援者」とどちらでもない営業社員に分けて、「応援者」が「被応援者」を応援するということにし、さらその後、すべての営業社員を「応援者」と「被応援者」の2つに分けて、「被応援者」は「応援者」に一度は立ち会わさないと契約できないという制度にしてしまった。そして、最初は、浜松の本社の人間が、過去の営業成績から自動的に「応援者」と「被応援者」を選別し、そして、私は「応援者」になったのだったが、ところが、そのすぐ後、過去の成績と関係なく、「応援者」と「被応援者」を決めるということにしてしまい、いわき市に4か所あった営業所の中で最も条件が悪いといわき地区の営業誰もが言っていた営業所にいた私は、最初、過去の営業成績から自動的に選別された時には「応援者」になったにもかかわらず、その後、営業所のメンバーはまったく同じでありながら、前年契約棟数も私の半分以下、過去3年間の契約棟数も私の半分以下の人を「応援者」にされて、その人と比べれば倍以上の契約を取得していた私は「被応援者」にされてしまった。営業成績と関係なく、「応援者」と「被応援者」に営業社員を2分するとされ、「被応援者」にされてしまった者は「応援者」に一度は見込客と会ってもらわないと契約できないということにされてしまったため、やりにくくてしかたがなかった。私が入社して1年目、経験のある人に「応援者」として助けてもらいたい時には、そんな人はおらず、2年目には、私だって入社2年目にさしかかったばかりなのに、「入社1年目の者には気をつけて気をつけてやってやらないといけないんだ」とか営業本部長の天野隆夫から言われ、入社1年目の秋山だったか秋本だったか、当時20代後半のニコチン中毒の男が、「私から、(株)一条工務店は窓のガラスが良くないと言われたから一条の家は売れないと言っている。おまえのおかげで秋山くんが営業できなくなったじゃないか。よく気をつけろ!」などと言って怒鳴りつけられたのだが、私は秋山だったか秋本だったかに、窓ガラスについてなんて一言として話したことはない! 私だって入社して2年目に入ったばかりでしかなかったのに、自分が売れないのをひとのせいにするようなアホを増長させて私のせいにするんじゃない。そんなおかしな営業本部長があるか!!! 何か、私が(株)一条工務店の窓ガラスについて誰かに話したことがあったかというと、東京展示場(江東区潮見)で、秋山だか秋元だかが入社するより何か月か前、設計事務所をやっているというおっさんでしばしば東京展示場に来る人がいて、その人が(株)一条工務店の東京展示場の窓ガラスを「窓ガラス、薄いねえ。何ミリなの?」と言うので、「3ミリのガラスを入れていますが」と言うと、「3ミリじゃ薄いよ、いくらなんでも」と言うので、はて、窓ガラスというのは、普通、何ミリのものを入れているのだろうか・・と思い、東京展示場の「リーダー」だった宮崎さんに、「窓ガラスというのは、普通、何ミリのものを使っているものなんでしょうねえ」と尋ねてみたのだが、「一級建築士の宮崎さん」は答えてくれなかったのだ。普段、親切に教えてくれる人なのに、なんで答えてくれないのだろう・・とその時は思ったのだが、たぶん、知らなかったのだと思う。私は、その設計事務所やってるというおっさんが、(株)一条工務店の窓ガラスを薄いと言うので、実際には他社と比較してどうなのだろう・・と思い、誰か知ってるかなと何人かに話してみたのだが、誰もわかっている人間はいなかった。わかっていたのは、小堀住研(株)⇒エスバイエル(株)は掃き出し窓には強化ガラスを使用していたのに対して(株)一条工務店は普通ガラスの3ミリだったこと、積水ツーユーホームと三井ホームだったかはペアガラスを標準仕様で使っていてそれを売りにしていて、積水ツーユーホームの展示場に行ったという見込客には、「あのペアガラスというのがいいと思った」と言う人がけっこうあった。(株)一条工務店は窓ガラスは普通ガラスの3ミリだったが、雨戸は防音断熱雨戸というアルミの中にウレタンが入っているかなりしっかりしたいい雨戸を入れており、窓ガラスだけで見るのではなく、「窓ガラス+雨戸」で見ると、その頃の(株)一条工務店は防音断熱雨戸を標準仕様で入れている、という点は評価されて悪くないはずだったが、どうも、来場客・見込客はそう受け取ってくれない人が多く、ペアガラスを売りにする会社が複数あったことから、多数決でいいかどうか決まる性質のものでもないはずなのだが、どうも、何社もでわあわあ言うと「そうかいなあ」と思う人があるようで、ペアガラスを売りにする会社をいいと言う人というのが少なくなかった。松戸展示場においては、たしか、入社2年目の後藤(男。当時、20代後半)が接客した来場客が、積水ツーユーホームだったように思うのだが、展示場にペアガラスを入れていた所を見て、「あれがいいと思った」と言っていた、と松戸展示場の事務所で話したことがあり、「ああ、積水ツーユーホームは、ペアガラスを売りにしているから、それにどう対処するかというのが問題だねえ」と思ったことを口にしたことがあったと思う・・・が、あくまで、それは後藤に言ったのであって秋山には何ひとつ言っていないはずである。秋山には何一つ言っていないのに、それを私のおかげで売れないなどと、世話になり、私に迷惑かけてきた男が何を言うかというところであり、営業本部長の天野隆夫は、自分がまともに努力しないで、そういう口をきいてひとのせいにしようとするようなアホの機嫌とって、私のせいにするようなことを言うというのは迷惑千万であったが、その時点で私だって入社2年目にさしかかったばかりでしかなかったのに、営業本部長の天野隆夫から「新人にはそれだけ、気を配ってやらなければいかんのだ。そのくらい考えろ!」などと言われたのだが、そんなこと言うのなら、私が入社1年目の新人であった時に、もうちょっと気を配ってくれれば良かっただろうが、私が入社1年目にそこまで気を配ってなんかもらってないのに、何をぬかすか。又、そんなことを言うのなら、その時点でもまだ入社2年目に入ったばかりでしかない者に、もっと気を配ってくれればよさそうなものだが、ちっとも気を配ってくれてないではないか、と思ったのだが、「なにしろ、あれは頭が薄いですから」と某社員から言われていた営業本部長の天野隆夫はそういう態度だった。
私が入社1年目から2年目にかけて、経験のある営業社員が「応援者」となって指導してくれたら助かるのにという時にはそんな人はいなくて、・・というより、逆に2年目に入ったばかりでしかない者に、「1年目の者の気を配れ」などと言われたのだったが、それが、入社して5年目くらいだったか、「応援者」なんてそんなもの要らんわ、そんな足手まといをつけられたのでは迷惑だわ・・という状態になった時に、営業成績で判断して選別した時には私は「応援者」になったのに、その後、営業成績を無視して気まぐれで決めると変更になると、前年契約棟数も私の半分以下、過去3年間の契約棟数も私の半分以下、過去5年間で見ても私より条件のいい営業所か同じ営業所にいて私より少ないか私と同じ棟数しか取ったことがない人を「応援者」にして、私はその人と契約棟数と比較すれば倍以上契約とっていたのに、それにもかかわらず、「被応援者」にされてしまい、営業成績のあがっていない人を私の見込客と会わさないと契約できない、という何ともやりにくい制度にしてしまったのだった。その時、「応援者」になった「木南さん」(仮名)(男。当時、40代)は、「私は本当はもっと多く契約とれるんだけど、わざと取らないの」などと言っていたが、「わざと取らない」ようにしてくれなんて私は頼んだことは一度もない。取ればいいじゃないか。そして、その頃、読んだ本が山田久志『プロ野球 勝負強さの育て方』(PHP文庫)だったが、山田久志がそこに書いていたのは、大リーグで実績を残しプロ野球の選手としては高齢になって近鉄バファローズに来たオグリビーという選手は、常に全力疾走・全力プレーで、選手としては高齢の選手がそこまで常に全力疾走・全力プレーで大丈夫かというくらいだったが、オグリビーとしては「全力疾走・全力プレーこそ一流の証し」という認識だったようだ、というのだった。内野ゴロを打って、だめだと思うと一塁まで全力疾走せずに途中で引き返してくるというようなことをする選手が若手にもいるが、そんなプレーがかっこいいのではない、常に全力疾走・全力プレーこそ一流の証しである! とオグリビーはまさにそれを実践していた、というのだった。「私は本当はもっと売れるんだけど、わざと取らないようにしてんの」などと言うようなそんな人なんて、私が経営者ならば、そんな人を「応援者」にはしない・・・が、そういう人を営業成績と関係なく「応援者」にしたがるのが、それが(株)一条工務店の経営者だった。「木南さん」(仮名)は「私は本当はもっと売れるんだけど」などと思っていたかもしれないが、実際には売っていなかったのであり、実際には売れていない人というのは、実際には、見込客・契約客に対して、なんか変なことを言ったり、なんか変な対応をしたりするものであり、「木南さん」(仮名)にもそんなところが現実にあった。「木南さん」(仮名)は認めたくないだろうけれども、実際にあったのだ。そういう人を私の半分も契約取ってないのに「応援者」(別名「足手まとい」)としてつけられたのだった。
さらに、その「木南さん」(仮名)が新潟県の営業所に転勤して いわき市の営業所にいなくなった後、今度こそ、いわき地区の営業のメンバーから考えれば、私が「応援者」にならせてもらっていいはずだと思うと、今度は、いわき市の私がいた展示場より条件のいい展示場にいて私より契約棟数が少なかったS藤K二さん(男。当時、40代)を私がいた展示場に配属替えして来させて「応援者」にならせ、私にはどうしても「応援者」にならせたくないようだった。S藤K二さんはいわき地区の従業員の間で「S藤さんはアルツハイマーだからしかたがない」などと言われていたのだが、実際にアルツハイマーという医学上の病気であったのかないのかよくわからないが、自分で自立して仕事をできていない人であり、いわき地区の従業員の中で、私が一番めんどうをみてきてあげた人である。私がめんどうを見てきてあげた人に、なんで、めんどう見てきてあげた人間の方が「被応援者」にならされて、めんどうみてきてもらった人が「応援者」になるのか。いわき地区の営業社員にもずるい人が時々いた。私がいわき地区に転勤した時、私が配属された展示場の「リーダー」になっていたK井さんは、私がS藤さんのおかげでえらい目に合わされると、「佐藤さんはアルツハイマーだからしかたがない」などと言ってS藤K二さんをかばうのだったが、ところが、自分がS藤さんのおかげで迷惑すると、「このくそじじい!」と言って怒るのだった。なんだよ、私には「佐藤さんはアルツハイマーだからしかたがない」と言って我慢してやれと言って自分には言わないのかよ・・・てところだったが、K井さんとしても、片方で「この人はアルツハイマーなのか何なのかわからないが、そんなにしっかりしている人じゃないから、みんなで我慢してあげないとしかたがない」と思いつつ、他方で実際に被害に合うと「このくそじじいめ!」という気持になる、という両方とも本音だったのではないかと思う。S藤さんの世話をいわき地区の従業員で一番してあげていたのは間違いなく私だったが、私以外だとH田さん(男。当時、20代後半)が見てあげていたように思うが、H田さんの場合は理由があって、かつて、S藤さんが、H田さんと誰だっけに「俺の家に行こう」と誘って国道45号沿いのS藤さんの実家に連れていった所、S藤さんのお母さんが、息子が会社の人を連れてきたということで、息子といっても40過ぎた息子だけれども、それでも、息子が会社の人を家に連れてきたのだから何か出してあげようと思い、国道のはす向かいあたりにあったという万屋みたいな店に飲み物でも出そうと買いに行ったところ、国道を走ってきたクルマにはねられて、気の毒なことにお母さんは亡くなってしまった・・ということがあったらしく、それ以来、H田さんは、S藤さんが仕事で困っていることがあると助けてあげるようだった。かつ、H田さんは私にも、「佐藤さんはアルツハイマーだからしかたがない(と思って我慢してあげて)」と言うのだったが、しかし、我慢にも限界というものがあるし、S藤さんのお母さんがクルマにはねられた時、S藤さんの実家にH田さんは行ったかもしれないが、私はその時、まだ、いわきに来ていなかったのであり、H田さんと同じ意味で私がS藤さんに負い目を感じる理由はないはずだったのだ。又、S藤さんは「恩を仇で返す」ことがあり、それもこちらが致命傷になるような「仇で返す」ことをする。H田さんの場合は「佐藤さんはアルツハイマーだからしかたがない」と言って、我慢してあげてほしいと言うだけでなく、自分もその「アルツハイマーのくそじじい」の世話をしてあげていたので、その発言もわからないことはなかったのだが、自分は何ら被害に合わず何ら面倒を見ることもなくひとに「佐藤さんはアルツハイマーだからしかたがない」と私に我慢してやれと要求だけする卑怯者がいた。そういう卑怯者は許せない。それで、私はその「気持ちは悪くねえんだ」と言えば自分は何やっても通ると思っている、自分は何やっても「佐藤さんはアルツハイマーだからしかたがない」と言ってもらえるということに味をしめている「くそじじい」の世話なんてしてやりたくなかったのだが、実際、「このくそじじい、いいかげんにしろよ」と思いつつ、それでも、世話してきてあげてきた、というよりも、やりたくもないのに結果としてさせられてきたのだった・・・が、(株)一条工務店は、その世話してきてあげた者を「被応援者」にして、世話してもらってきた人を世話してあげてきた者に「応援者」=「足手まとい」としてくっつけたのだった。なぜ、私はそこまでされなければならないのか。
いわき市の営業所にいたS藤賢二さんのことを「S藤さんはアルツハイマーだからしかたがない」などと言い、「いいことにしてあげないといけない」と言う従業員がいたのですが、そういうことを言う人というのは、たいてい、いわき市の営業所にいてもS藤さんとは別の営業所(展示場)にいた人です。一緒にいて常に被害にあってきた者としては、「そんなこと言うのなら、あんたがめんどう見てあげなさいよ」と言いたいところでした。「S藤さんはアルツハイマーだからしかたがない」などと言う人というのは、自分がめんどう見ないから、自分が被害を受けていないから、だから、そんなことを言うのでした。もしも、S藤さんが本当に「アルツハイマー」であるのなら、医師の診断書を会社に提出して、きっちりと「アルツハイマー」の患者だということでの扱いにしてもらうべきです。会社は、身体障碍者・精神障碍者を何人かは採用して使わないといけないという規定がたしかあったはずです。もしも、業務の内容などから身体障碍者・精神障碍者をどうしても雇用できないという会社は雇用しないかわりにいくらかカネを払うということになっていたはずです。S藤さんはその対象にしてもらうべきです。それをしないで、「アルツハイマーだからしかたがない」などと言って、それでいつも迷惑かけて面倒みてもらっている相手に対して、めんどう見てもらって「気持ちは悪くないんだ」などと言って当たり前みたいな態度をとり、「気持ちは悪くないんですね。頭が悪いんですね」と言うと怒るのだが、怒るのなら違うのか? 怒るということは、やっぱり、「気持ちは悪くない」わけではないということであろうが。自分がひとに迷惑かけておいて、「すいません」も「申し訳ありません」も「ごめん」も言わず、自分が「気持ちは悪くねえんだ」と言って居直るということは「頭が悪いんだ」と自分で言っているということであろうが! ということになるのですが、それでも、しかたがないと思って我慢してあげて、めんどう見てきてあげたのに、そのめんどう見てきたあげた相手に「応援者」になられて、こっちがその「アルツハイマーだからしかたがない」人の「被応援者」にならされてしまう、というのは、これはいくらなんでも人を馬鹿にしていると言わざるをえない。私は、会社の誰にだったか記憶がはっきりしなくなってしまったのだが、S藤賢二さんのことを言ったことがあるのです。「この人は、誰か、できればS藤さんよりも年齢が上で、S藤さんよりも入社が先で、役職が上の人と同じ営業所に配属して、常にこの人がやっていることを見ているようにしないと、いずれ、何か問題を起こしますよ。」と、そうなってからでは会社にとっても損失であり、本人にとっても、「気持ちは悪くねえんだ」という主張はあつかましいが、会社という所はいったん採用した人は、あまり賢くない人であっても、少々困った人でも、使っていくべきであり、簡単に辞めさせてよいものではないはずですから、そう言ったのです。(株)一条工務店はそういうことをきっちりと言ってくれる人間に感謝すべきですが、アホ経営者は、むしろ、きっちりと言ってくれる人間というのがおもしろくないようです。まさに「ベンチがアホやから」状態です。「私の場合は、佐藤さんは、私を、自分よりも年下で、自分より後から入社した人間だということでなめてしまっていて、何でもやってもらうことばかり考えていて、私が言ってもなかなかききませんから、だから、そうではなく、できれば、佐藤さんよりも年上で、佐藤さんよりも入社が先で、佐藤さんより上の役職をもらっている人が同じ営業所にいて、常に何をやっているか見ておくようにしないと、危ないですよ」と言ったことがあるのです。ところが、「ベンチがアホ」の会社は、私がせっかくきっちりと言ってあげてもきかない。めんどう見てあげていた私がいわき市から転勤していなくなるとすぐ、S藤賢二さんは、いわき市の市街化調整区域の住宅を建てることはできない場所に建築しようとして、建築指導課から(株)一条工務店は取り締まりを受けて、危うく、(株)一条工務店はいわき市で建てられなくなるところだった・・・らしい。なるほどなあ、と思いました。私がせっかくきっちりと言ってあげているのに、私の言うことをきかない会社はそうなるのです。(株)一条工務店というのはそういう会社でした。おそらく、今もその体質は大きくは変わっていないでしょう。そう簡単に体質が変わる会社ではないはずです。
私は、いわき地区の所長だった草野次男さんに言ったことがあるのだ。「なんで、私は『応援者』にしてもらえないのですか」と。「営業成績で『応援者』と『被応援者』に分けた時には私が『応援者』に指定されたのに、なんで、私は『応援者』からはずされて、私の半分も契約取っていない人とか、私がそれまでめんどうをみてきてあげた人とかを『応援者』にされなければならないのですか」と。
又、いわき地区には展示場が4つあったのだが、各展示場の人数の変化にともない特定の人だけ移動する移動と別に、新しい展示場ができたという時もあり、大規模にシャッフルするように、所属の展示場を変わる移動が2回あったが、いわき市に4つある展示場のうち、誰もが「ここが一番条件が悪い」、「向こうとここでは来場客が全然違いますよ。数が違うだけでなく、ここの展示場に来る人というのはけっこう契約までいろいろ難しいですけれども、向こうの展示場に来る人なんてここに比べれば本当に楽ですよ。」等等と誰もが言う、一番厳しい展示場に私ひとりだけが最初から最後までおらされたのだった。それで、私はいわき地区の所長だった草野さんに言ったことがある。「所長。これまでに何度か、いわき地区で営業社員が入れ替わる移動がありましたが、どうして、私ひとりだけが、ずう~うっとここなんですか。」と。すると、所長の草野さんは「売れる営業が、条件のいい所に行くんでえ~え」と言うので、私は「なるほど。たしかに、草野所長は多く売っておられますから、売れる営業が条件のいい展示場に行くというのはわかりました。しかし、私だって、所長には及びませんけれども、今、いわき地区にいる営業の中では、最低でも真ん中よりも上ですよね。前年契約棟数で見ても、通算契約棟数で見ても、過去3年間の平均契約棟数で見ても、どれで見ても、真ん中より上ですよね。そうである以上、私ひとりだけが、ずうう~っと、この一番条件が悪いと誰もが言う展示場におらされ続けるというのはおかしいのと違いますか。」と。すると、草野所長は「この展示場は、来場客数も少ないし、和風の展示場で、和風の展示場に来る人というのは、木にうるさかったり、家相にこだわったりする人が多くて、新人ではきびしいから、ここの展示場には経験と実力のある人にいてもらわないといけないんだ」と言うのでした・・・が、ぼけっと聞いてるとなんだかほめられたみたいに思うかもしれませんが、そうはいかのきんたま。私は言ったのです。「それなら、所長、ここに来てくださいよ。所長が一番、経験があって実力があるじゃないですか。私、所長が実力がないなんて言うつもりは毛頭ないですよ。私、所長は間違いなく実力のある人だと思ってますよ。所長が一番、営業としての経験があって実力があるじゃないですか。わたくしごときなんか、所長に比べればずっと下じゃないですか。所長、ここに来てくださいよ。私、所長がおられる所に行きますよ。入れ替わりましょうよ。」とそう言ったのです。そういうことになりますでしょ。ぼけっと聞いてるとほめられたみたいなこと言われて、一番条件の悪い所に押し込められているのを受け入れさせられてたまりますかいな。そうはいかのきん〇まだったか、ち〇ち〇だったか、どっちだったか・・・、どっちでもいいが、そんなくさい手にひっかかってたまるかいな。すると、所長はこう言ったのです。「成績のあがってるもんが条件のいい展示場に行くんでえ~え」と。また、最初の話に戻ったのです。それで、私もまた言いました。「それなら、私だっていわき地区の営業の中で最低の成績じゃないはずですから、ここにいる必要はありませんね。どこに移らせてもらえますか」と言いましたが、そうするとまた、「ここの展示場は和風の展示場で、総合住宅展示場の中でも奥の方にあって来場客数も少ないし、和風の人というのは木にうるさかったり、家相にこだわったりする人が多くて、新人では厳しい展示場だから、経験と実力のある人にいてもらわないといけないんだ」と言うので、またもや、「ですから、それなら、所長、ここに来てくださいよ。所長が一番、経験と実力があるじゃないですか。所長が実力がないなんて、私、そんなこと言うつもりはまったくないですよ。私、所長が実力があるというのはよく知っていますし、所長の営業成績がすばらしいということもよく知っていますよ。所長が一番、実績と実力がある営業じゃないですか。所長がここに来るべきですね。ここに来てくださいよ。私、所長が今、おられる展示場に移りますよ。きょうからでも行きます。いいですか」と言うと、またもや、「営業成績のいいもんが条件のいい営業所に行くんでえ~え」と言う。・・・はてしなく、その繰り返し・・・。 なんなの、これ。(株)一条工務店に入社してきた人でも、中途採用で入った人で、同業他社か同業でなくても営業の仕事の経験がある程度以上ある人で、比較的良心的な人は言うのです。「一条工務店の場合、展示場による条件の差が甚だしい」と。 私は、入社以来、この会社に、毎日毎日、毎年毎年、滅私奉公を続けてきたのに、なんで、そこまで、されなければならないのか。いったい、これは何なのか。最初、「木南さん」(仮名)と私が一緒にいわき地区に転勤した時、いわき地区の従業員には、私が営業本部長のイヌではないかと勘繰った人がいたらしいが、そのうち、「営業本部長のイヌ」というよりも「営業本部長の眼」「営業本部長の耳」は私ではなく「木南さん」(仮名)の方だったらしいと、いわき地区の人はわかったようだったが、「王の目」「王の耳」でもなければ、「イヌ」でもないとしても、「お目通り」、陪臣でありながら将軍と直接会うことを許されている者のことを「お目通り」と言うごとく、「木南さん」(仮名)とともに「お目通り」であった・・・といっても、営業本部長の天野隆夫が東京営業所の所長を兼任していたので、それで、「直接会う」ということはできた、ということであって、会うことはできたとしても、会ったからと言って何かこっちの主張を通してくれるわけでも何でもないのであり、あんまり意味はないのだが、それでも、「お目通り」なら、ちょっとくらい、0.1%でも優遇してくれても悪くないのではないのか・・と思わんこともなかったのだが、むしろ、逆ではないか。冷や飯ばっかり食わされて、まさに「わしぁ、日陰の月見草」てもんで、条件の悪い場所ばっかり配属されているではないか。この「ひまわり」めえ~え・・・てやつに、「ID野球 弱者の戦術」で「ひまわり」に負けんように奮闘努力して営業成績を残しても、それでも、一貫して一番条件の悪い所にばっかり配属するというのは、それはいったい何なんだ・・・。
※ 《 くたばれ讀賣大合唱!みんなで東京音頭♪♪ 2019/5/6 ヤクルト対阪神》https://www.youtube.com/watch?v=-Xxv0Uq5VRQ
私が入社した1992年にはその制度はありませんでしたが、そのうち、「特進転勤」として、通算契約棟数・通算引き渡し棟数が一定以上の営業社員が会社都合で転勤した場合には、「副店長」に昇進した上で、転勤した時点で2棟契約したという扱いにする、ということになりました。福島県いわき市に転勤して5年間、ずうう~っと私ひとりだけが誰もが認める一番条件の悪い展示場に押し込められて、そして、私の半分も契約取っていなかった「木南さん」(仮名)を「応援者」にされて私の半分も契約とっていない人が「応援者」なのにその人の倍以上契約取っているのに「被応援者」にされて、その人が他の地域に転勤したと思ったら今度はそれまで私がめんどうを見てきてあげた人を「応援者」にされてその人のめんどうを見てきてあげた私が「被応援者」にされてしまった、ということで、いくらなんでも、なんで私はそこまでされなければならないんだ、と思っていたところ、営業本部長の天野隆夫から、会社都合での転勤で他の地域に行ってもらいたいと言われ、それで、「特進転勤」で他の所に行ってくれという話なんだなと思い、それならば、間違いなく真ん中より上の営業成績を残してきたのに一番条件の悪い展示場に押し込められて、私の半分も契約とっていない人や私がめんどう見てきてあげた人を「応援者」にされてするくらいなら、「特進転勤」をして「副店長」になって移動すれば、間違いなく「応援者」に自分がなって、「応援者」と名付けられた「足手まとい」をつけられるということはなくなると思い、了承して栃木県の佐野市の展示場に赴任しました。但し、天野隆夫に「特進転勤ですね」と言うと、天野は「今は、特進転勤というのはあまりやらないんだ。前はやっていたけれども」などと言うので、そんなこと言っても会社の書類に「特進転勤」というのは制度として記載されているはずで、「今はあんまりやってない」というのも変な話でしたが、それでも、営業本部長から頼まれたことであり、展示場のアタマとして行ってくれという話でしたから、それなら行こうということで佐野展示場に転勤しました。ところが!
ところが、佐野展示場に行くと、私と一緒に、茨城県の展示場から私より年齢は若いが入社は古く通算契約棟数も多い武田さん(男。当時、30代前半)が転勤し、武田さんが展示場の「リーダー」になったのでした。話が違うのです。しかし、会社の「ルール」からいくと、竹田さんの方が在籍年数が長いこと、通算契約棟数が多いことから、どちらかが「リーダー」ということなら竹田さんの方が「リーダー」になることになったでしょう。しかし、その他に営業社員は3人いたのですが、栃木県地域の営業所長だった五十嵐はどうしたか。 私と武田さんの他に3人いた営業の中で、お客さんの評判が一番悪い、かつ、前年契約棟数ゼロ棟で在籍年数は私の半分、通算契約棟数も私の半分ほど、私は会社が取得を推奨していた住宅・建築関連資格であるインテリアコーディネーター・宅地建物取引主任者⇒宅地建物取引士など取得してきましたが何ひとつ取得できていない、私は会社都合での転勤をしてきたのに対してそのような協力は何もしていない上岡くん(男。当時、40代前半)を「応援者」にして、展示場のアタマ、「リーダー」で当然「応援者」として転勤するという話で転勤した私を私の半分しか在籍していない、私の半分ほどしか契約取っていない、私と違って住宅関連の資格など何一つ取得していない、私のように会社都合の転勤などまったくしていない、お客さんの評判は他の営業より悪い、勤務態度も良くない、何より前年契約棟数はゼロ棟という男を「応援者」にされてしまったのです。五十嵐は「上岡くんの方が爆発力がある」などと言うのでしたが、たしかに、上岡くんは気に入らないことがあると暴れますし、佐野展示場の事務所の壁にも膝の位置に穴があいており、おそらく、膝蹴りを壁にくらわせた者がいたと思われ、そういうことをしそうな人というと、佐野展示場には上岡くんしかいないのであり、何かあると腹立てて壁に膝蹴りくらわせるというのはほめられたものではないというだけでなく、まがりなりにも住宅屋ならば、蹴る前に、「はて、この壁の下地は石膏ボードだろうか、合板だろうか・・」といったことを考えてそれから蹴るか蹴らないか決めて行動するべきであり、石膏ボードなら簡単に穴が開いてしまう、合板ならたいしてどうということはないだろう、もしも、クロスの下がコンクリートだったりすると膝蹴りをすることで膝の骨を骨折する危険がある・・・といったことを瞬時に判断する、というのがそれが建築屋というものであり、それを「な~んも考えとれへん」で膝蹴りをお見舞いして石膏ボードの下地の壁に穴を開けた、というもう「聞いてるだけであほくそなってくるやろ」という行為をやった男であり、そして、前年契約棟数ゼロ棟の男は(株)一条工務店の展示場でも事務所が広い展示場と狭い展示場があるのだが佐野展示場の事務所は広くない方であるにもかかわらず、前年契約棟数ゼロなどおかまいなしに事務所にゴルフバッグを置いていたのであり、そういうことをする人というのも、佐野展示場にいた従業員では上岡くんひとりだけであり、さらには、週休の水曜日に嫁には「休日出勤」だと言って家を出てスナックのホステスと旅行に行ったりということを前年契約棟数ゼロでありながらする男であり、そういう普通に考えれば「応援者」には選定しない人間を、前年契約棟数ゼロ棟であるにもかかわらず、「爆発力がある」ということで「応援者」に指定したのだった。しかし、上岡君が何か気に入らないことがあると暴れるという「爆発力がある」人間であっても、私は展示場のアタマで「応援者」として赴任するということで、営業本部長の天野隆夫から頼まれて佐野展示場に赴任したのであり、その私を「応援者」にならさずに前年契約棟数ゼロ棟の「爆発力男」を「応援者」にならせるというのは、その五十嵐さんの行為はそれは会社員として「越権行為」で「業務命令違反」のはずだ。
五十嵐さんは、自分自身が栃木県で営業の仕事をしてきた人であり、それだけに、「アタマが浜松」の「遠州人」とは異なり、栃木県には栃木県の事情がある、それぞれの地域によってお客さんの求めるものに違いはある、ということを体で理解している人であり、「浜松でいいものは日本全国どこでもいいに決まってるんだ」などと名古屋南営業所の所長の近藤ローオさんみたいなことは言わない人であり、又、自分自身が努力して営業の仕事をしてきた人であるから、栃木工場の従業員用駐車場に車を停める時には、所長だからということで従業員用駐車場の中では一番いい場所に停めていたが、片方で佐野展示場に来たような時には、何も言わなくても、自然と展示場の玄関の前は避けてそうでない場所にクルマを停めるということをする人で、そのあたりは体がそれを覚えている人だった・・・が、どうも、自分と経歴が似た人を高く評価したいという性質があって、2000年頃に佐野展示場に入社した須藤雅美(女。当時、20代後半。後に結婚して、小林雅美。その後されに離婚したかどうかは知らん)が面接に来た時も、「あれはいいわあ。あれは本当にいいわあ~あ」と言うので、そこまでいいのか? ・・と思ったのだが、S藤雅美が最初に出勤した時に見ると、須藤のクルマには羽根がついていた。羽根つきのクルマに乗ってきた女を「あれはいいわあ~あ」とかおっさんは言っていたのだった。S藤M美が入社してすぐの頃、須藤が「セクハラというなら、私がいたネッツトヨタなんてすごいですよお。朝、来て、『おはよう』と言うと同時に、おっぱいもみもみい~い・・て、毎日、そうですから。同意の上だからいいんですけどお。私もつかみにいってましたしい」などと言うので、私は「それは、その人は『同意の上』だから良かったとしても、そういうことが職場でおこなわれていると、そういうのが嫌な人までも似た扱いを受けることになってしまうし、周囲でそういったことがされるというのが嫌な人だっているかもしれないのだから、だから、もしも、職場外に勤務時間外に行ってやるのなら『同意の上だからいい』ということもあるかもしれないけれども、職場内・勤務時間内の場合には、『同意の上だからいい』ということにはならないですよ」と言って教えてあげたのでした・・が、この人、わかってるのかな、わかってないのではないかな、という感じで、私が採用担当者なら、この人は不採用の人なのだけれどもなあ、五十嵐さんはいったいどこをそこまで「あれはいいわあ~あ」などと思ったのかな・・と思ったのでした・・が、須藤はクルマ屋にいて、クルマ屋の女性社員というのは、自分でも営業をやるそうで、クルマ屋の営業の経験があるという点が五十嵐さんが気に入った点だったようでしたが、五十嵐さんが見るのはそのあたりだけなのです。私なら、クルマ屋というのは、一般に「ガラが悪い」、実際、須藤が言っていた話によると、クルマ屋のディーラーにいると、「夫以外の男とやりたい」という「家庭の主婦」がいっぱい来るそうで、そういう女性がクルマ屋の男性営業に「試乗させてくださ~い」と言って、トヨタのクルマに試乗して一緒にホテルに行って、ホテルでは男の方が試乗して、それでトヨタのクルマに乗って帰ってきて、「ばいば~い」と言って帰る・・とかそういうことがしばしばあるそうで、『旧約聖書』の『創世記』でのヨセフのような男とは正反対の人間ばかりの職場らしい。そういうガラの悪い職場にいた女性を入れることで、職場の環境が影響を受けることを考えると、そして、須藤が乗っていたクルマを見ると羽根がついていたし、そういう人を営業の経験があるからと採用していいものかどうか。私が採用担当者なら不採用にしましたが、五十嵐さんはそうう人が好きでした。「あれはほんとにいいわあ~あ」などと言ってました。「朝、来て『おはよう』と言うと同時におっぱいもみもみい~い・・て、会社である以上、それが普通ですよ、それが普通。それが会社ですよ、それが会社」などと須藤は、その後、主張しだすようになります。須藤雅美と同じく、元クルマ屋の高木義夫(「高木のおっさん」)(男。当時、50代。創価学会員)が「そうだよ。俺なんか、カローラの店にいた時、毎日、会社に来ると同時に会社中の女の子の尻なでてたよ。それが会社だよなあ。俺は会社の女の尻をなでまわさないと、会社に来たという気持になれねえんだ。俺は」などと言い、それに合わせて、須藤は「そうそう。それが会社よお~お。それが会社の常識ですよ、常識。」などと主張しだした。ああ、やっぱり、この人はそういう人だったんだなと思いました。五十嵐さんはそういう人を会社に入れるということについて、まったく何も考えなかったんだな、と思いました。元クルマ屋の人を入れるということは、その人にもよるとは思いますが、「腐ったリンゴ」を入れるということになる可能性が考えられたのです。私は、最初に須藤を見た時に、そうならないかと危惧したのですが、そうなりました。五十嵐さんはその程度のこともわからんのだなあと思いました。その程度の人が営業所長になっているのです、(株)一条工務店という会社では。五十嵐さんが「朝、来て『おはよう』と言うと同時におっぱいもみもみい~い。それが会社の常識ですよ、それが会社の常識」とか主張する須藤雅美を高く評価したのは、単に、前職がクルマ屋だった、というだけです。五十嵐さんが上岡くんを「爆発力がある」とか言って評価したのも、上岡くんが、「前職:クルマ屋、最終学歴:底辺の高校卒、住宅・建築関連の資格:なし。」という点で五十嵐さんと共通していた、というそれだけです。そのくらいしか、見れない人なんですよ、そのくらいしか。(株)一条工務店の初代社長の大澄賢二郎が「一条工務店は大企業になった。人みたいなもん、求人広告さえ出せばいくらでも採用できる。求人広告はいくらでもカネをかけてどんどん出せ。求人広告はいくらでもカネかけてどんどん出して、従業員は片っ端からやめさせろお」と叫んでいたというのですが(会社というものは、職場内で刃物を振り回して人に大怪我をさせたとか多額の横領をしたとか新聞の一面に出るような重大犯罪をおこなったとかそういう行為があったわけでもない人を業績が悪くて従業員の数を減らさないといけない事情があるわけでもなく片方で求人募集を出しているのに「片っ端から辞めさせろお」などと言って辞めさせてよいものではないはずなのですが)、「人みたいなもん、いくらでも採用できる」というわりには、入社してくる人を見ると、そんなに優秀な人が次から次へと入社してきているように思えなかったのです。それをベテランの某さんに話したところ、「違うの。採用できるかできないかの問題じゃないの。バカが採用担当やってるから、だから、採用すべき人を不採用にして、不採用にすべき人を採用してんの。」と言うので、「そうかもしれませんねえ」と言ったことがあったのだが、たしかに、「バカが採用やってる」というのは事実かもしれない。(まあ、そんな会社は他にもあるんですけどもね。)新卒入社で入って辞めて行った某さんが五十嵐さんについて最後に言ったのが「アッタマ悪いなあ~あ、と思いますよ。ほんと」と。実際、「前職:クルマ屋」だとそれだけで、「あれはいいわあ~あ」とか言うあたり、その程度の判断しかできんのか・・・と思いましたが、できんようでした。私は、クルマ屋出身の人には、クルマ屋で営業の厳しさを身に着けた人というのもいるように思っています。しかし、それは、そういう人もいる、ということで、そうでない人もいたのです。現実に、五十嵐さんが「あれはいいわあ~あ」と言った須藤が、日曜日に見ていて言ったのが、「〇〇さんとI田さんは、入口で氏名・住所を記入した人でも記入しなかった人でも関係なく真面目に接客しているけれども、Gさんと上岡さんは、氏名と住所を書かなかった人だと、とたんにはっきりといいかげんな接客をする。私がいたネッツトヨタであんな態度を取ったらえらい怒られましたよ」と。上岡くんは、元クルマ屋でも、氏名・住所を書かなかった人には「とたんにいいかげんな接客をする」営業だったのです。五十嵐さんは元クルマ屋だとそれだけでいいと思ってしまうようですが、あんた、何、見てんの?!? て気持ちになります。何も見てないのじゃないの??? そして、元クルマ屋の人というのは、クルマ屋で営業の厳しさを身に着けたという人もいますが、クルマというのはできた製品で、それにオプションで何をつけるかつけないかであり、住宅の場合は地べたに新しく作っていくわけであり、住宅の方ができるものの可能性ははるかに大きい・広いのですが、クルマを売る時のくせがついているのか、元クルマ屋の人というのは営業の厳しさを学んだ人はいても、住宅・建築について学習しようという姿勢があまりない人が多いという印象を受けています。そのあたりについても、五十嵐さんはわかっているのかどうか・・というと、わかってなかったのではないか。それで、五十嵐さんは「前職:クルマ屋、最終学歴:底辺の高校卒、住宅・建築関連の資格:なし」という上岡くんが好きだったようです。前年契約棟数ゼロ棟でも。いわき市の営業所で、私の半分も契約取っていなかった「木南さん」(仮名)を「応援者」にされた時には、倍でだめなら3倍取れば文句はないのか? とか考えたこともあったのですが、ゼロ棟を「応援者」にされてしまったのでは、これは、どんなに涙ぐましい努力をして何棟契約を取っても、ゼロには勝てませんから、勝負になりません。結局、(株)一条工務店が実施した、すべての営業社員を「応援者」と「被応援者」に分けるという「制度」は、実力がない人を「応援者」に指定して、それで「応援者」だからということで何棟か「下駄をはかす」ということをしてあげるというそういう制度だったのです。なんとも、はた迷惑な制度でした。しかし、私の場合は、営業本部長の天野隆夫から、展示場のアタマで「応援者」として赴任するという条件で「居住地の変わる転勤」の話をされてそれを受け入れて転勤したのですから、それで転勤した私に「応援者」にならさないというのは、それは会社員として「越権行為」と判断せざるをえないはずです。「爆発力がある」とか言って、壁に穴あけるやつ、虫の居所が悪いといきなりつかみかかってきたり、蹴りかかってきたりする元スポーツ入学。私なんかは、「文武両道」とはいえ「文治派」ですから、スポーツ入学にいきなり殴りかかられたり蹴りかかられたりつかみかかられたりというのは、(株)一条工務店の初代社長の大澄賢二郎はそういう人のことを「梁山泊の精神」と言って高く評価するらしいし、五十嵐さんも「爆発力がある」と評価するらしいけれども、それは暴行罪・傷害罪の構成要件に該当し違法・有責な行為であり、(株)一条工務店の態度は「保護義務違反」というものであり、「梁山泊の精神」とか言ってそんなものを称賛してもらっては困るのです。
それで、福島県いわき市から栃木県佐野市まで、片道200㎞はありません。直線距離でも200㎞以内ですし、実際にクルマで走ったキロ数でも200㎞ありません。(株)一条工務店では、転勤した場合、片道200㎞以内の場合は、契約客の仕事はその後も継続して担当するが、200㎞を超えた場合には、誰か他の営業に引き継ぎを依頼する、ということになっていました。これは文章ではっきりと記載されて規定されていました。しかし、実際には、200㎞を超えなくても担当者が引継ぎを依頼したいと思って依頼することもあり、ぎりぎりくらいなら超えていてもそのまま担当してやることもあったようです。私は、いわき市および浜通り地区の双葉郡で建てるで、契約してもらい、引き渡しまで終わっていないお宅が何軒かあったのです。片道200㎞以内ですから、会社の規定からいけば自分でその後もやっていいのです。但し、そういってその後もやっておれば、いつまで経っても前いた場所から離れられないことにもなってしまいますが、片方で、移動した所での営業活動が軌道に乗るまでは、前いた所での契約客の仕事をしておれば、紹介ももらえることがありますし、そういうお客様の仕事をある程度、こなしながら新しく行った先での仕事を軌道に乗せて行くということもできるのです。1992年、私が(株)一条工務店に入社した年には、東京に住んでいて浜松で建てるという方を私が接客して進めていたところ、全然何の関係もない茨城県の土浦営業所の所長だった田中義一が、その見込客の勤務先が東京展示場があったウッディランド東京を運営している林野庁・東京営林局で、東京営林局に勤めていた人をひとり、田中義一が東京営業所に過去にいた時に契約して建ててもらったことがあるからということで、林野庁・東京営林局に勤めている人はすべて土浦営業所の担当にさせてもらいますと主張し、建築地は浜松であり、居住地も建築地も土浦とは何の関係もないものを、土地アリ・2年以内に建てる計画あり・予算大丈夫そう、一条工務店の評価高い、という人だったことから自分が担当にすると無茶苦茶な主張をした、ということがありましたが、もちろん、土浦から浜松までは200㎞を超えています。私は、自分を担当として契約していただいた方には、できるだけ、最後の引き渡しまで担当させてもらいたいと思っていましたが、営業本部長の天野隆夫が、「200キロ以内でもいいから、誰か営業に引き継いでもらえ」と言うので、営業本部長がそう言うのならと、いわき地区の営業に引き継ぎを依頼しました。
ところが。私が担当の契約客でいわき市で建てていただいた方を、構造現場見学に案内した時、一緒に見に行きたいと言って来られた方があり、この人はどういう人なんだろうなあと思っていたのですが、お施主様の親戚の人だったようでした。その方が、私が担当で契約いただいた方の家が完成するまで見た後、「うちも一条工務店で建てようと思う」と言われ、お施主様に「どこに言えばいいの」ときかれたそうです。もし、私がそのまま、いわきにいたならば、私に連絡をいただき、「紹介客」として紹介いただいた入居者と紹介された方の両方に、わずかばかりのサービスをさせていただき、私が営業担当者として契約いただくことができたでしょう。しかし、引継ぎを他の営業に依頼しておきながら、私が担当で契約するわけにもいきませんから、残念ながら、もしも、私に連絡をもらったならば、引き継いだK井さんに、「何何さんの親戚の方で構造現場見学に一緒に身に行かれた方なんだけれども、一条工務店で建てたいと言われているので、訪問して話を進めてください」と言い、契約いただいたあかつきには、担当のK井さんから超豪華な昼飯でも晩飯でもごちそうしていただく・・というあたりになるでしょうか。K井さんに連絡された場合も同じでしょう。しかし、その入居者の方は、「うちの一条工務店で建てたいと思うのだけれども、どこに言えばいい?」ときかれて、私に連絡するように言うべきなのか、それとも、引き継いだK井さんに言うべきなのか、どちらか選ぶことができなかったようで、「カタログに載ってる所に電話してみたら」と言ったそうです。それで、「本社」に電話したそうです。そうすると、「本社」は名目上、東京都江東区木場の東京メトロ東西線「木場」駅のそばのビルになっていて、実際には浜松に本社の機能はあったはずですが、ともかくも、「本社」に電話したそうですから、「本社」に電話があったからには、「本社」の人間は、その方の居住地・建築地に最も近い営業所に連絡して、お客様に早急に連絡するよう伝えるか、もしくは、その方が入居者の親戚の人で入居者から電話してみるように言われてかけたということならば、その入居者の営業担当者は誰だったか調べて連絡するか、いずれかするものでしょう。ところが、(株)一条工務店の「本社」の人間は、「一条工務店で家を建てたいのですがどうすればいいでしょうか」と電話で言ってきた人がいた時、東京の営業にはるばる福島県いわき市まで行かせたというのです。そして、「一条工務店で建てたい」と言われた人、私が入居者を案内する時に一緒に案内した人、私が契約してもらった入居者宅を着工から竣工まで見て、それで「うちも一条工務店で建てたいと思う」と考えられるようになった人に、東京の営業に行かせた、もしくは、「本社」といってもたいして大きなビルではなく、何人もいるわけではないので、東京地区の営業が電話に出たのかもしれません。それが「一条工務店で建てたいのですが」などと言ってかけてきた人だと思うと、もとの入居者の担当だった私が転勤で行った栃木県佐野市よりも遠い場所にいる男が、はるばる、いわき市まで行って契約したそうです。それは、どう考えても、おかしいでしょう。私には、いわきの契約客はほかの営業にまかせろと営業本部長が指示しておきながら、私が転勤して行った先よりも遠い場所にいる営業が、私が担当の契約客の親戚の家の契約に、「一条工務店で建てたいんですけども」と言うお客さんだと思うと、おかまいなしに出かけて行って契約するというのは。 引き継いだK井さんが契約するのならわかりますよ。豪華なる晩飯でも昼飯でもおごってもらうと、そのくらいでしょうか。それで、いい家を作ってあげてくださいね、と言うしかないでしょう。しかし、全然関係のない人間が、しかも、元の営業担当の私が転勤して行った先よりも遠い場所にいる営業が契約するというのは、それはおかしいでしょう。
そして、どうなったと思いますか? ・・・いわきの家を知らない東京の営業は、いわき市で建てる人に、幅3尺の板の「神棚もどき」、東京の家だとそういう神棚もあるでしょうけれども、いわき市だと、1間か1間半が普通のいわき市の人の家に、いわき市の住人からすれば、「そんなおかしな神棚あるけえ~え!」というような神棚を造ったそうです。私か引き継いだK井さんか、どちらかが担当しておれば、「いわき市の神棚」ができたはずなのに、巾着切りみたいに「一条工務店で建てたいのですが、どうすればいいでしょうか」と電話してきた人の家に遠方から押しかけて行った男は、いわき市の住人からすれば、神棚と思えないような神棚を造ったそうです。(株)一条工務店の営業本部長の天野隆夫という男は、そういうことをさせるのが大好きみたいですね。
もうひとつ、疑問に思ったのは、たとえ、東京の営業が、「一条工務店で建てたいのですが、どうすればいいでしょうか」と私が入居者を構造現場見学に案内した時に一緒に来られた方が電話されてきた時に、これは契約してもらえる人だと思うと、巾着切りみたいに押しかけていって契約した、としても、営業担当者はいわき市の神棚とかの事情を知らなかったとしても、設計担当はわかるのではないのか、営業担当との契約ではなく会社との契約なのだから、営業が「いわきの神棚」を知らない人間であっても、いわき市にいる設計ならば、設計がわかるのではないのか・・・と思ったのですが、もしかして、いわき市の設計に描かせると、なんで、いわき市の入居者の親戚で、入居者が構造現場見学に連れてもらった時に一緒に見に行った人を、全然関係のない東京の営業が契約したんだ・・といわき市の従業員が思うだろうと考えて、いわき市の設計を使わないで東京の設計に図面を書かせた・・・ということは、この会社なら十分にありうることです。もし、引き継いでくれたK井さんが担当として契約するということならば、それでも残念な気持ちはありますが、しかたがない・・と思って、超豪華な晩飯もしくは超豪華な昼飯でもK井さんにおごってもらうとして、それで、よろしくお願いします・・とするしかないか、というところでしょうけれども、全然何の関係もない人間が、遠方から押しかけてきて契約して、自分が契約したみたいに数字にする、というやり口というのは、それはおかしいし、又、営業本部長はそういうことをさせているというのは、これは毎度のことながら、その対応は無茶苦茶です・・・が、それよりも、私を担当として契約してくれた入居者の方の親戚の人に、いわき市の住人にとっては神棚というのは家でも相当に重要な部分であり、それをいいかげんにやられた、というのは、なんとも悔しいことです。私は、床の間で、床柱と長押がぶつかる部分で、どちらを前にするかなんて、最初は気にしてなかったのですが、いわき市に来て最初の頃に契約していただいた方が、(株)一条工務店の展示場の床の間を見て、「これはおかしいよ」と言われ、それで、他の営業にきいたり、工務課(工事担当)にきいたりして、又、住宅雑誌に掲載されている床の間の写真を、何冊も何か所も見て調べて、それで、床柱を下から上まで見せるというのが「いわき流」および、東北地方の多くの地域のやり方であると知り、それからそういう対応をするように学んだのでしたが、営業によっては、「うちはこのやり方ですから」とか、それこそ、営業本部長の天野隆夫がやれと言ったような、契約する前は「そうします」と施主の希望通りにやるようなことを言って、いったん契約すると、「うちはこのやり方しかできませんから」と「浜松流」で無理矢理建ててしまう・・ということをやるヤカラがいるようなのです。そういう人は、私のように「お施主様から教えてもらい学ぶ」ということをしませんから、その地域の人のやり方でやる・・ということもしません。そんな人間が東京から私の大事な入居者の親戚の人の所に押しかけて行ったのか、と思うと、なんとも悔しい限りです。「本社」というのは、そういった入電があった場合、適切な営業所に話をするのが「本社」の役割であり、不適切な営業担当者にはるばる福島県いわき市まで行かせるというのは、それは「本社」のやることではありませんね。
その東京からいわきまで押しかけて行ったやつは、私みたいに「民家」「古民家」に見学に行って、神棚はどうなっているか、床の間はどうなっているか・・なんて、学習しようという気持なんてないでしょう。(株)一条工務店の経営者、特に営業本部長の天野隆夫はそういう人間が好きなのです。
(2020.2.18.)
私のブログを、マイクロソフトエッジで見ると、文章がとぎれてしまうようです。その理由はよくわかりませんが、マイクロソフトエッジで見てうまく見れない方は、インターネットエクスプローラーかグーグルで見てください。 (2020.2.19.)
吉島家住宅1 杉玉があるのが吉島家。じっくり見ると日下部家住宅より「女性的」かもしれない・・かな。卯建と似てるが異なる火垣。男が雪かきすると部屋中に入って座ってコーヒー飲む「おばさん帝国主義」。
https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202002article_7.html
☆ 高山シリーズ
☆高山シリーズ第6回 2020年
1.雪山が車窓から見える東京から高山へのバス。長良川が見える高山から大阪へのバス。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202001article_5.html
2.日下部民芸館1 吉島家住宅に比べて「男性的」とは? 「せがい造」とは? https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202001article_9.html
3.日下部民芸館2 床の間と付書院。付書院は床の間のすぐ横からか手前からか。付書院部分の広縁はどうなるか。縦格子は良くても横桟は不衛生・・て飲食店経営者はわからんのか? https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202002article_1.html
4.日下部民芸館3 7か所それぞれ特色のある日下部民芸館の床の間。廊下が垂直に交差する部分の床板の施工 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202002article_2.html
5.日下部民芸館4 欄間・釘隠し・仏間、魅力的な窓からの雪景色。「いなか」と「いなかくさい」は同じでない。会社の新人類・会社のビョーキ人間。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202002article_3.html
6.日下部民芸館5 榑葺屋根と金属材屋根。「金属屋根+雪止め+樋」の家。頑丈なアーケード。高山駅の平な屋根。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202002article_4.html
7.日下部民芸館6 雪景色の庭と雪のない庭。和風も考えられるシャンデリア。棟木の丸太梁。思いのほかごつい土蔵の扉。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202002article_5.html
8.日下部民芸館7 飛騨地方の神棚は、その下を通るのが一般的なのか。及、施主の希望を無視して神棚もどきをつけた(株)一条工務店の東京の営業。〔今回〕
9.吉島家住宅1 杉玉があるのが吉島家。じっくり見ると日下部家住宅より「女性的」かもしれない・・かな。卯建と似てるが異なる火垣。男が雪かきすると部屋中に入って座ってコーヒー飲む「おばさん帝国主義」。
https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202002article_7.html
10.吉島家住宅2 「女性的」は架構でけでない。床の間。長押が床脇の内部まで周っている床脇。みやびな色の釣り床。 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202002article_8.html
11.吉島家住宅3 「茶室風」「数寄屋風」「京風」な感じが全体に感じられる吉島家住宅。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202002article_9.html
12.高山別院の方の光曜山照蓮寺。 農家の家の部材を利用して建築した庫裏。高山風を考慮した耐震補強。落雪注意と水道管の断熱材は寒冷地を思わせる。三流以下企業の経営者は普通ならわかるだめな原因を理解しない。他。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202002article_10.html
13.高山別院でない方の光「耀」山照蓮寺。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202002article_11.html
14.護国神社+『まれに見るバカ女との闘い』、雪かきする女性に敬意を表したい。 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202002article_12.html
15.筏橋、中橋、「高山の夜」碑、山岡鉄舟立像、高山陣屋 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202002article_13.html
16.高山駅から飛騨の里までの前半。西小学校、苔川。「木の国 飛騨」「古い町並み 高山」を売りにしつつ「新しい木質建材」も利用。 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202002article_14.html
17.高山駅から飛騨の里までの後半。飛騨民俗村から文学の小径を通り、飛騨の里へ。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202002article_15.html
18.飛騨の里1-凍った五阿弥池と鳥。六地蔵、馬頭観音。不明な動物。「子供」を名分に定時に帰りオットと妊活やって3人目産んだ女とそのオットに殺された水子を供養する。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202003article_1.html
19.飛騨の里2-旧田中家住宅。土間の「おえ」、板貼りの「でい」。「捕手の力」を無視する営業本部長。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202003article_2.html
20.飛騨の里3-旧若山家住宅(1)迫力ある巨大な合掌造。「えん」はベランダ? ではないが・・。「まやどうじ」「こうまや」「どうじ」「えん」。命名にセンスのない経営者の会社。 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202003article_3.html
21.飛騨の里4-旧若山家住宅(2)「おえ」「すえのでい」「なかのでい」。仏間と神棚。「やったことない」ことはできるか? https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202003article_4.html
22.飛騨の里5ー旧若山家住宅(3) だいどこ・うすなか・みんじゃ・ちょうだ。「水屋」には3通りの意味があった。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202003article_6.html
23.飛騨の里6ー旧若山家住宅(4) 荘川村様式の合掌造の特徴とは。「せがい造」とは。上座・下座ができてしまう「和風」の家。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202003article_7.html
24.飛騨の里7ー旧田口家住宅 縁側の内側に雨戸、長方形の囲炉裏、続き間にできる柔軟性のある間取り。奥に仏間のある部屋の右手に床の間。「両親が離婚した」などと自慢する高校教諭ははた迷惑。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202003article_8.html
25.飛騨の里8ー旧吉真家住宅 入母屋の妻面を大きく取る萱葺の家。車田。雪をかぶった山脈がきれい。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202003article_9.html
26.高山の町並にて(1)—「和風のドーマー」は違和感なく存在する。高山警察署は新社屋にて営業中。重要伝統的建造物群保存地区の周囲に「市街地景観保存区域」を設定する高山市の姿勢を評価する。用途地域の趣旨を踏みにじる千葉県習志野市の態度は不適切。千葉工大名誉教授山本明氏の権威主義を笑う。 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202003article_10.html
27.高山の町並にて(2)—高山の雪景色・無人の駅前交番・さるぼぼ・冬ならでは、吊るされた柿。入居者が引越する日に中を見せろと言う非常識な営業を指導しない所長。「指名手配犯」と似ている男というのは通報すべきか否か・・ https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202003article_11.html
28.高山の宿泊施設。 最新のホテルは、もう一回り低い高さにできないか。浜松に本社のチェーンは利用に抵抗を感じる。フィレオフィッシュはミラノにもパリにも高山にもある。研修に一人だけ遅刻してきて平気な浜松営業。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202003article_12.html
29.高山の食堂数か所。飛騨牛重は後で「食べた」感が出てくる。降雪時、平湯付近の道路は雪が積もる。保護義務違反の会社に尽くしたバカの話。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202003article_13.html
☆ 高山シリーズ第1回 2013年
上 [第202回]飛騨天満宮、松本家住宅他https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201309article_7.html
中 [第203回]「天神」考察。居酒屋はいいかげんhttps://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201309article_8.html
下 [第204回]高山市の白山神社。高山市役所https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201309article_9.html
☆ 高山シリーズ第2回 2014年
(1)国府町村山天神参拝(1)上枝駅から宮川沿い https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201409article_2.html
(2)同(2) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201409article_3.html
(3)同(3)浸透桝で雨水処理 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201409article_4.html
(4)あじめ峡、あじか、廣瀬神社、国府小学校https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201409article_5.html
(5)国府大仏、阿多由太神社https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201409article_6.html
(6)飛騨国府駅周辺。「耳付片流れ屋根」https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201409article_7.html
(7)松本家住宅上・ヒラノグラーノhttps://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201409article_8.html
(8)松本家住宅下・宮地家住宅上https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201409article_9.html
(9)宮地家住宅下・平田記念館 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201409article_10.html
(10)飛騨民族考古館1 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201409article_11.html
(11)同2 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201409article_12.html
(12)同3 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201409article_13.html
(13)同4 喫茶ばれん、質屋の入口から逃げる裁判官 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201409article_14.html
(14)飛騨高山まちの博物館 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201409article_15.html
(15)東西反転プランでは玄関だけ移動するのかhttps://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201409article_16.html
〔(16)~(20)の前提、権威主義的パーソナリティーの「デザイナー」が「建築家」の名前で敬意を表した慶應日吉(新)図書館について https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201409article_17.html 〕
(16)高山の町家で曲がった松をわざわざ柱に使用するか? 1 JR日光駅はライトの設計でなければ価値はないか? https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201409article_18.html
(17)同2 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201409article_19.html
(18)同3 マーケティング的発想のない店 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201409article_20.html
(19)同4 店のコンセプトが理解できない建設部長 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201409article_21.html
(20)同5 「酒が飲めない人にも飲める酒」を勧められない「日本酒ソムリエ」 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201409article_22.html
(21)飛騨総社 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201409article_23.html
☆高山シリーズ第3回 2015年
1.藤井美術民芸館 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201510article_1.html
2.高山陣屋[1]床の間、釘隠し・・ https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201510article_2.html
3.高山陣屋[2]白洲、土縁庇・・ https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201510article_3.html
4.高山市政記念館 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201510article_4.html
〔番外 宮川にかかる欄干に加圧注入木材使用の橋と 防腐防蟻剤について。 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201510article_5.html 〕
5.桜山八幡宮 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201510article_6.html
6.桜山八幡宮 摂社 天満神社 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201510article_7.html
7.山桜神社、古い町並美術館、手長足長 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201510article_8.html
8.宮川交番、高山警察署、高山市役所 他 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201510article_9.html
9.飛騨国分寺、「和風ドーマー」、二重サッシ他 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201510article_10.html
10.新宿‐高山のバスの予約をインターネットで「後部」を希望すると。「労災」のおかげで歩行困難にされた話 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201510article_11.html
☆高山シリーズ第4回 2016年
1.日の出天満神社 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_13.html
2.大八賀神社 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_14.html
3.東山遊歩道(1)高山別院照蓮寺から東山白山神社へ https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_15.html
4. 〃 (2)東山白山神社・大雄寺 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_16.html
5. 〃 (3)雲龍寺・久昌寺・栄鏡院 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_17.html
6. 〃 (4)洞雲院・素玄寺 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_18.html
7. 〃 (5)東山神明神社 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_19.html
8. 〃 (6)天照寺・法華寺 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_20.html
9. 〃 (7)善応寺1.本堂 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_21.html
10.〃 (8)善応寺2.地蔵堂 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_22.html
11.〃 (9)宗猷寺 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_23.html
12.〃(10)町年寄川上家別邸跡 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_24.html
13.煥章館と煥章館2階から見た東山 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_25.html
14.十六銀行 高山支店、早朝は無人の安川交番 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_26.html
15.新装「高山駅」 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_27.html
16.片流れ屋根のモデルハウス https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201611article_4.html
☆高山シリーズ第5回 2017年
1.内田康夫『風の盆 幻想』と巡る高山(1)喫茶店「ロスト」を探す https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201710article_5.html
2. 同 (2)高山ラーメン https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201710article_6.html
3. 同 (3)「K病院」https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201710article_7.html
4. 同 (4)高山市役所 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201710article_8.html
5.旧 野首(のくび)家住宅 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201710article_9.html
6.旧 新宮村 郷倉 ほか https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201710article_10.html
7.山岳資料館(旧 高山測候所)、飛騨民俗村とは https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201711article_1.html
8.飛騨合掌苑 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201711article_2.html
9.「飛騨民俗村 文学散歩道」https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201711article_3.html
10.飛騨高山美術館 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201711article_4.html
11.名古屋から高山へ「ワイドビュー飛騨」https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201711article_5.html
12.高山駅から飛騨民俗村へ[上]https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201711article_6.html
13. 同 [下]https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201711article_7.html
14.新上野橋から三福寺橋、山小屋て、なぜ洋風なの? https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201711article_8.html
15.「旧 吉城郡細江村の民家」(熱田神宮内) http://shinkahousinght.at.webry.info/201711/article_9.ht

歩きたい歴史の町並 重要伝統的建造物群保存地区 全86カ所 (楽学ブックス―文学歴史 13) - 米山 淳一, 森田 敏隆

民家に学ぶ家づくり (平凡社新書) - 吉田 桂二

サンデー毎日 2020年 3/1号 【表紙:木村拓哉】
日下部民芸館(日下部家住宅)(岐阜県高山市大新町)の7回目です。



日下部家住宅の神棚です。↓

入口を入って、「ろじ」「なかのどうじ」という土間の北側に、南から「おいえ」「なかのおいえ」「台所」と続く畳敷の部屋の真ん中、「なかのおいえ」という部屋の北側、「とおり」を経て「くちの間」から「仏間」「つぎの間」「本座敷」の方に至る、「なかのおいえ」の「とおり」の手前側の上に配置されています。
下の畳と比較してみるとわかりますが、幅は1間半あり、決して小さくはないのですが、家が大きいので神棚が大きいという印象はそれほど受けません。 私は、大阪で生まれて東京圏でしばらく生活し、(株)一条工務店で福島県いわき市の営業所に勤務したことがある者ですが、都市圏の神棚に比べて、一般に福島県の神棚というのは大きい。大きいとともに、都市圏の住人に比べて、福島県の人間というのは神棚を重視する人が多い。日下部家は、《天領時代幕府(代官所)の御用商人として栄えた商家で、屋号を「谷屋」といい、嘉永5年には、役所の御用金を用立てする掛屋(かけや)をつとめ、後には両替屋を営んだ。》(日下部民芸館でもらったリーフレットによる)という比較的裕福な家であったようですから、神棚もそれなりの大きさのものが設けられていいのでしょうけれども、神棚の作り方というのはそれぞれの地域によって違うようで、福島県では、特別のものすごい名家とか金持ちとかでなくても、1間以上はとるもので、1間半というのは特に大きいわけでもなく、「普通」の範囲だった。そして、福島県では、神棚というのは和室の天袋の位置に設け、天袋の部分を神棚とするか、長押の上の位置に棚を設置するか、天袋の奥行の3分の2程度とその前の長押の上に1尺程度の奥行きが短めの棚を設けて、天袋の中と手前の棚とを神棚とするか。仏壇の上はいいという地域と良くないという地域があって、仏壇の右上の位置に神棚を設けるべきだという地域と、仏壇の真上から右上にかけて設けるべきだ、という地域があったと思います。福島県ではそういう神棚の設け方をすることが多かった。部屋から他の部屋へ移動する経路の上に神棚を設けるということは福島県ではあまりやらなかった。それに対して、高山など飛騨地方ではそうではなく、↑のように、隣の部屋と移動する経路の上に神棚がある、ということはあるようです。
飛騨の里に移築されている旧田中家住宅(17世紀末から18世紀初め、元禄年間のもの。 現在の高山市中切町で建てられ、高山市冬頭町に移築されていたものを飛騨の里に移築)では、↓



「おえ」という囲炉裏のある土座の部屋、現地での間取り図には、「おえ」のことを「(居間)」「LIVING ROOM」と書かれているのですが、はたして、「居間」とか「LIVING ROOM」と解釈するのが適切なのかどうか、よくわかりませんが、その「おえ」の北側の壁に神棚が配置されていますが、↑ そう大きくありません。
飛騨の里に移築されている旧若山家住宅(現在の行政区画では、高山市荘川町の北部 にあった合掌造りの家で、御母衣ダム建設で水没することから飛騨の里に移築された)の神棚は、↓


↑ 旧若山家住宅でも、「おえ」(「座敷」 LIVING ROOM )という板敷きの部屋から、「すえのでい」(「座敷」 ROOM )への本鴨居の上の位置に神棚が設けられています。 福島県の家では神棚は和室に、仏壇の右上あたりか仏壇の上から右上にかけてかの天袋もしくは天袋の前に棚を設けるかして作ることが多かったのですが、飛騨地方では、神棚というのは、囲炉裏があるような部屋から座敷の部屋へ至る鴨居の上などに配置するものなのでしょうか。
又、福島県の家では・・この場合、新築する方の家ではなく建て替える際に解体した方の家でも、仏壇と神棚は近い場所にたいていあったのですが、日下部民芸館(日下部家住宅)においても、旧田中家住宅でも旧若山家住宅でも、仏壇と神棚は離れた場所にあります。 私が小学校の前半まで過ごした大阪市の家でも、仏壇は茶の間にあって神棚は台所の流しの背後にありました。離れた場所にある地域では「仏さん」と「神さん」は別の存在であるのに対して、仏壇と神棚が近い場所にある地域というのは「仏さん」と「神さん」が近い存在にあるのかな・・などと思ったりしたのですが、どうでしょうか。
部屋の名称ですが、日下部民芸館(日下部家住宅)で「おいえ」「なかのおいえ」と言っている部屋名と、旧田中家住宅・旧若山家住宅で「おえ」と言っている部屋名というのは、もしかして、同じ意味合いなのでしょうか。
1980年代後半、小堀住研(株)に在籍した時、お客様から家相と気学の専門家に相談したいので一緒に来てほしいと言われて同行したことがあり、その際、その家相と気学の専門家という方が「神棚というのは、眼の高さよりも少し上くらいに設けるのが本来で、上の方にあげている神棚というのは、邪魔だから上にあげているのであり、上の方にあげるというのが神棚の高さとして正しいというわけではないのです」と言われ、そうなのかなあ・・と思ったのですが、そういう考え方もあるかもしれませんが、もともと、「神さん」というのは、そこの家の家族が無事に生活している時には上の方にいてもらってよくて、いざという時に神棚の方に向いて祈願するというもので良いのではないのか、もともと、「神さん」というのはそういう存在ではないか、という考え方もあるのではないか、とも思うようになったのです。これはどちらが正しい、どちらが間違いというものでもないと思いますが、それぞれに一理あるのではないか。
神棚・仏壇・床の間といったものは、都市部の人間より地方の人間の方が重視する傾向があるのではないかと思います。
(株)一条工務店がよくわからないのは、「何でも、ムクがいいに決まってるんだ」と名古屋南営業所の所長だった近藤ローオさんとかそういう「一条オリジナル」の人が叫ぶ会社でありながら、なぜか、(株)一条工務店の浜松の積算部に神棚の見積もりを出してくれと頼むと、「桧の集成材でいいですか」と言うのでした。なんで、「何でも、ムクがいいに決まってるんだ」と「一条オリジナル」が叫ぶ会社なのに、「集成材でいいですか」と浜松の積算部は言うのか・・・? よくわからんのでしたが、最初、それを聞いた時には、「桧のムク板の神棚」というのは相当高いんだろうなあ~あ・・・と思い、それで、「桧の集成材の神棚」の見積もりを積算部に出してもらって、契約客のお宅につけたことがありました。しかし、その後、福島県において、「ムク材で」と希望される契約客があり、「ムクの桧で」ということで見積もりを依頼したところ、「集成材の桧の神棚」と「ムク材の桧の神棚」の値段というのは、ムク材の方が高いことは高かったのですが、「たいして変わらなかった」のです。「たいして変わらない」のであれば、神棚とかそういうものは、いわば、「縁起物」ですから、ムク材にした方がいいのではないか。都市圏ではそれでも集成材でいいという人もあるかもしれませんが、福島県のような場所においては、神棚のような「縁起物」は、よっぽど値段が大きく違えばなんですが、それほど大きく変わらないのであれば、ムク材で取り付けるようにした方がいいはずで、それ以降、私は福島県で建てる人には、「集成材のものとムク材のものがありますが、私は、神棚などの場合は、それほど大きく値段が変わらないのなら、ムク材にした方がいいのではないかと思うのですが」と話すようにして、そうすると、福島県人は、誰もが「そうですね」と言ってムク材での施工にされたのでした。よくわからんのは、「遠州人」というのは、「何でもムクがいいに決まってるんだあ。こんな常識もわからんのかあ~あ!」と絶叫するという人種なのですが、そのわりに、神棚の見積もりを出してくださいと依頼すると、浜松の積算部は「集成材でいいですか」と、言い方として、ムク材はできる限りやめてほしいみたいな言い方で言うのでしたが、なんか、「遠州人」というのはようわからん人種でした。
1991年に(株)一条工務店が「ビーイング」に出していた求人広告を見て私は応募して、1992年4月に入社したのですが、「ビーイング」の求人広告には、「研修制度が充実していますから、売れなくて困るということは絶対にありません」と書いてあったはずなのです。「売れて売れて困っています。あなたがいれば、もっと売れます」とかも買いてあったはずです。・・・嘘つき一条の求人広告というのは、実態を知った者としては、「よく言うわ♪」て感じがします。「バカ言ってんじゃないわ♪」て感じです。
浜松・掛川では、その頃、東京都で坪55万円で売らされていたものを坪48万円、名古屋では坪49万5千円でダンピング販売しており、かつ、静岡県西部・愛知県では他の地域と違ってテレビ広告をドカンと一発♪ やりまくっていましたので、そういう場所においては、「売れて売れて困っています」とまでいかないかもしれないが、売りやすかった、売れやすかったでしょう。しかし、東京展示場においては、来場客誰もから、「一条工務店なんて、聞いたことない」と言われ、「まあ、浜松で建てるのならお宅みたいな会社でもいいのかもしれないけれども、うちは浜松で建てるのじゃないから」と言われまくったのでした。「売れて売れて困っています」とは、よく言ってくれたものです。東京展示場(江東区潮見)は「三世代がゆったりのびのび住める家」というキャッチフレーズが書かれていたのですが、その内容というと、「お母さんとお嫁さんが一緒に調理のできる広めのシステムキッチン」とか「親戚中が集まった時でも対応できる二間続きの和室」とか、「親戚中が集まったり多くの人が来て座席が不足した時に補助席になる大型のベイウインドウ」とか、「今どき、そんな家に住む人なんて、ないでしょお~お。浜松ならともかく~う。うち、浜松で建てるんじゃないからあ。やっぱり、お宅は浜松ねえ」とか言われまくりました。
そして、東京展示場は、最大で13人も営業がいたのですが、(株)一条工務店で建築を考えてくれる客層はどう考えても多くない営業所に13人も営業を配属して、片方で、どう考えても東京展示場よりは条件はいいと思われる神奈川県の藤沢展示場は営業は4人だけであり、少ないπ(パイ)を多くの人数で分けないといけない展示場と、その場所よりは多いπ(パイ)を少ない人数で分ければいい展示場では、後者の方が条件は良く、前者はきついというのは最初からわかっていることです。だから、藤沢展示場では「高木のおっさん」(1992年当時、40代。創価学会員。)でも、あんなのでも、まあまあ売れていたのです。あんなのでも。それを私が入社した年の東京展示場は「遠州人」からされていたのでした。浜松の展示場にしても、13人もいなかったのです。掛川の展示場も。掛川展示場は、私が入社した1992年頃、(株)一条工務店の展示場では最も営業成績が良い展示場と言われていたのでしたが、それは営業1人あたりのことであり、そんなに売れるのならば、営業の数を倍にするか、もしくは、掛川市に展示場をもう1つか2つ作って、既存の掛川展示場に在籍している営業の数と同じだけの営業を新しく作る展示場にも配属するようにすれば良かったはずなのです。そうすれば、掛川市での契約棟数はそれまでより増えたでしょうけれども、営業1人あたりの契約棟数はおそらく減ったでしょう。これを経済学では「収穫逓減の法則」と申します。「遠州人」というのは、「浜松仕様の一条の家」がなかなかその地域の人に受けない東京展示場にはい~っぱい営業を配属して、「浜松仕様の一条の家」が喜ばれる浜松・掛川には営業の数を少なめにするという「きたない手口」を取ることで、浜松・掛川などでは営業1人あたりの契約棟数を増やす、という作戦に出ていたのでした。汚い連中です。びびんちょかんちょです。まさに、「遠州人」というのは根性ババです。「遠州人」は根性がババでできています。彼らはそういいうやり口をしないと売れない連中なのです。
そして、「研修制度が充実していますから」というのはどうかというと、浜松の本社で、入社2か月目と3か月目に2泊3日の研修があることはありました。しかし、講師役にはどういう人が来たかというと、静岡県でしか仕事したことがない人で営業所長などにならせてもらっている人。そういう静岡県のことしかわかっていない人が、静岡県・愛知県では通じても、他の都府県では通じない「一条オリジナル」を得意になって教えたのでした。その通りやったら売れませんからね。東京展示場に浜松出身という男性が来られたことがあり、「もうすぐ、定年なので、定年になったら浜松に帰って浜松で建てたいと思ってるんだ」と言われたのですが、そういう人の(株)一条工務店に対する評価というのは、純粋東京人とは全然違ったのです。「遠州人」というのは、「自分が売った」みたいに言いたがる人種でしたが、それは嘘です。会社の評価と遠州地方の人に合う商品があって「売れた」のです。もちろん、「買いに来た人」でも追い返すような「自動販売機以下のやつ」という営業もいますから、「買いに来た人」に契約してもらった、としても、それでも、営業として努力はしたのでしょうけれども、それにしても、「一条工務店」という名前さえ出せば、それだけで、本名か対抗馬くらいに考えてくれる人がいっぱい来る地域と、「一条工務店なんて、そんなのまったく聞いたことない。聞いたことある人なんていないでしょ。」と言われまくる地域で仕事をするのとでは、条件は全然違ったのです。なおかつ、不利な条件で悪戦苦闘していた者、かつて、電気器具のシャープが、シャープの製品がなかなか売れない地域に、「シャープアトム隊」と言って、なかなか買ってもらえないという地域に突撃して、なんとか買ってもらおうという企てをするチームを編成してやっていたという話がありましたが、1992年頃の(株)一条工務店の東京展示場の営業というのは、いわば、その「アトム隊」みたいなことをさせられていたのでしたが、その「アトム隊」みたいなことをさせられていた者に、それを、浜松・掛川・名古屋といった「一条オリジナル」の地域の人間は、自分たちの地域には安い坪単価を設定し、自分たちの地域だけテレビ広告をドカンとやり、テレビ番組のスポンサーもやりして、そして、名古屋南営業所の所長だった近藤ローオ(男。当時、50くらい)は、ダンピングとテレビ広告で売っていた名古屋南営業所にいて、そして、「そんなもん、住友林業との競合なんて、ごちそうさんてもんだ。住友林業はプレカットやってますか。やってませんでしょ。住友林業はムクですか。違いますでしょ、で、これだけで簡単に売れる。」などと勝手なことを言いまくっていたのでした。1992年、近藤ローオさんは「住友林業はプレカットやってませんでしょ」などと言うのでしたが、住友林業(株)は1992年、機械プレカットをおこなって建てていたのです。しかも、千葉県では、(株)ひらいhttp://www.hirai-gnet.co.jp/ という会社、(株)一条工務店と共同出資会社として(株)一条工務店千葉 という会社を作って(株)一条工務店千葉が「一条工務店」というブランド名で建てていた、その親会社の材木屋の(株)ひらい が「住友林業の家」の構造材の機械プレカットをおこなっていたのです。千葉県の住友林業の営業は、それをもって、「一条工務店は住友林業の下請けですよ」とか言うておったのです。それを、住友林業(株)は機械プレカットをおこなって建てていたにもかかわらず、「住友林業はプレカットやってませんでしょ、と言えば、それだけで売れる」とかいうような、そんな場所で近藤ローオは営業させてもらってきたのです。住友林業(株)は機械プレカットをおこなって建てていたにもかかわらず、「『住友林業はプレカットやってませんでしょ』と言えばそれだけで契約とれる」などというそんなやり方でも売れる場所でやらせてもらっていた男だったのです。(株)一条工務店には、そういう「売らせてもらった人」というのがけっこういて、そういう人間がえらそうな口をききまくっていたのです。 (株)一条工務店の浜松の研修に講師として来る人間というのは、その類の人間だらけであり、そんな人の話なんて、静岡県・愛知県では通じても、東京では通じません。寝言でしかない。「東京でも大阪でも、敷地面積20坪の家でも延床面積30坪の家でも、二間続きの和室は絶対に必要なんだ。延べ床面積20坪の家でも八寸角の大黒柱はいいに決まってるんだ。こんな常識もわからんのかあ~あ!」というのが「研修」ですからね。そんな「研修」に講師役で来て、「ほとんどビョーキ」みたいなことを叫びまくってストレス発散して帰ったおっさんというのは、それで給料もらえているんですからね。そんな「研修」が役に立つわけがないのです。そんなものを、(株)一条工務店は「研修制度が充実していますから」とか勝手なことを求人雑誌に印刷していたのです。「バカ言ってんじゃないわ♪」
そして、1992年、東京展示場は最大で13人もいたのですが、主任だった「リーダー」の宮崎さん(男。当時、30代前半)だけが多少は経験があって、他は新卒入社3年目の堀本(男。当時、20代後半)、2年目の沖田(男。当時、20代前半)がいて、それ以外は全員が新卒入社1年目か中途入社1年目の人間で、「リーダー」の宮崎さんはけっこう親切に教えてくれたのですが、宮崎さん自身がそれほどものすごい実績があったわけでもなく、新人ばっかり大量にくっつけられて、大変だなあと思って見ていたのですが、片方で、浜松や掛川では、課長とか係長とかいう役職をもらいそれに対しての手当をもらいながら、なんら、課長なり係長なりの仕事なんてしていないという人がわんさといたのです。これはどう考えてもおかしい。課長とか係長とかの役職手当をもらうなら、その役職手当に該当する仕事をしなければならないはずである。仕事してないのに役職手当だけもらっている人間が浜松や掛川にはいっぱいいて、東京展示場では、「リーダー」の宮崎さんは主任でしかないのに、新人を大量にくっつけられて、「めんどう見きれんわ」とか口にしたこともあった。新人をいっぱいくっつけられて苦闘していた人が「主任」で、そのような世話は何らしていない人間が課長や係長やの役職を名のり、役職手当を不当に取得していた、というのはこれはおかしい。 宮崎さんのように新人をいっぱいくっつけられてそのめんどうをみさされていた人間が主任の役職しかもらえず、片方で、浜松や掛川で個人としての営業活動の他は何もしていないのに、課長だ係長だという役職を名のらせてもらい、役職手当をもらっていた男がいた、というのはこれはどう考えてもおかしい!
新人をあまりにもいっぱいくっつけられていた宮崎さんは私が尋ねると親切に答えてくれる人でしたが、新人ばっかり大量にいる展示場においては、経験者に教えてもらうということはそれほど期待できなかったのです。むしろ、教える人間がいないからと、同業他社で少しだけ経験があった私に、新卒入社の橋本に、法務局で登記簿謄本を取るやり方を教えてあげてくれと言われて、一緒に法務局に行って教えた、ということもあったくらいだった。今は登記簿謄本の交付と登記簿の閲覧ではなく登記事項証明書と登記事項要約書になったが、法務局で登記簿謄本の取得する方法なんて特別に難しいことでもなく、分からなければ法務局の職員に尋ねればいいことで、私は土地・建物の登記簿謄本の取得のしかたは小堀住研(株)にいた時、営業課長に教えてもらったが、商業登記簿については誰に教えてもらったわけでもなく自分で取得のしかたを覚えた。だから、教えられなくてもできそう・・という感じもするのだが、ところが、そう思って新卒入社の人間に1人で行かすと危ない。埼玉県の営業所にいた人から聞いた話だが、新卒入社1年目の人間に、「法務局に行って、登記簿取ってこい」と言って行かせたところ、言った人間としては「登記簿取ってこい」というのは「登記簿謄本を取得してこい」というつもりであったのだが、ところが、言われた新卒新人はどうしたかというと、法務局に行って、登記簿の閲覧というのを申請して、そして、出してもらった登記簿を取ってきた。「登記簿をとってこい」と言われたので、言葉の通り、登記簿の原本をファイルごと「盗ってきた」・・( 一一) ・・・わ、わ、わ、いったい、何すんねん、何を~お!!! 「すぐ返してこい! 今すぐ行って返してこ~い!」と言って返しにいかせた・・らしい・・が、(株)一条工務店の新卒入社1年目の人間に、うかつに「法務局に行って、登記簿とってこい」なんて言うと、登記簿謄本(現在なら登記事項証明書)を取得してくるのではなく、登記簿の原本を盗ってくるヤツがいるらしく、おそろしい!



ドリンキングバード 水飲み鳥 平和鳥
それで、私は自分も(株)一条工務店においては入社1年目で、他社で少しは経験があったとしてもその会社では新人である以上は、その会社である程度以上、実績を残すまでは人に「教える」といったことはやりたくないと考えていたが、それでも、見て気づいていながら黙っているというのは不親切であり、気づいたのなら口に出して言ってあげる方が親切というものであろうと思い、「橋本さん、ぼくらも小堀住研〔⇒エスバイエル(株)〕で入社直後の新卒社員研修で教えられたのだけれども(おそらく、一条工務店でも同じように新卒社員研修で教えているのではないかと思うのだけれども)、お客さんが帰る時に挨拶するのにおじぎをする時には、両手を後ろで組んで頭を下げるのではなく、両手は体の横に置いておじぎをするというようにした方がいいと思いますよ」と言ってあげたのだったが、私としては親切で言ってあげたつもりでしたが、ところが、日体大卒の橋本は、そのあたりが「体育会系の礼儀作法」なのか「さわやかスポーツマンシップ」なのか、「〇〇さん、そんなこと言うならエスバイエルに行けばいいでしょう。一条には一条のやり方というものがあるんですからねえ」などと言うので、こいつ、勝手にしろ! と思い、こんなやつにはもう教えんわ! とも思ったものだった。その両手を後ろで組んであごを突き出して水飲み鳥みたいに前傾して「どおもっ」と言うというのがそれが「一条のやり方」「一条流 木造の挨拶のしかた」だったようです。私は、両手を後ろで組んで、あごを突き出して水飲み鳥みたいに体を動かして、「どおもっ」などと言うようなそんな挨拶は、それは小堀住研(株)⇒エスバイエル(株)においてであれ(株)一条工務店においてであれ、営業の挨拶としておかしい、と思うし、当然、(株)一条工務店でも新卒社員研修でそういう挨拶のしかたはいけませんと教えていたのではないかと思い込んでいたので言ったのだが、橋本の言うことによれば、両手を後ろで組んであごを突き出して水飲み鳥みたいに前傾して「どおもっ」と言うというのが、それが「一条の挨拶のしかた」「木造の挨拶のしかた」だったらしい。それならそうすればいいわ、と思い、そして、「登記簿謄本の取り方」も教えてやる必要はなかったなと思ったのだった。むしろ、「登記簿のとりかた」も「一条のやり方」「木造の登記簿のとり方」というものがあるわけだから、橋本もまた、「法務局に行って、登記簿の閲覧を申請した上で、登記簿の原本を盗ってくる」という「一条流 木造の登記簿のとり方」というのを実行すればよかったのである。それが「一条のやり方」なのだろうから。教えるんじゃなかった、課長の役職手当も係長の役職手当も主任の役職手当ももらってないのに。親切で教えてあげたつもりだったが、そういう口をきかれるのなら、体育会系になんか教えるのではなかった。失敗した。つくづく失敗だった。「『失敗』と書いて『成長』と読む」と野村克也も言うておったから、今後は体育会系と(株)一条工務店の新卒入社社員には「登記簿謄本の取得のしかた」なんて役職手当ももらってないのに教えるべきではない、と学んで「成長」しなければならない。 (株)一条工務店の新卒入社社員は「一条流 木造の登記簿の盗り方」をやるなら好きにさせておけばいいのだ。それが(株)一条工務店という会社の方針なのだから。両手を後ろで組んで水飲み鳥みたいに前傾して「どおもっ」と言うというのが「一条流 木造の挨拶のしかた」というものなのだから。「一条流 木造の登記簿のとり方」というのは、それは犯罪だと思うのだが、それでもそれが「一条のやり方」だというのなら好きにすればいい。俺の知ったことか!!!
そんな状態だったが、ところが、1990年代の後半になって、(株)一条工務店は、「応援者」「被応援者」とどちらでもない営業社員に分けて、「応援者」が「被応援者」を応援するということにし、さらその後、すべての営業社員を「応援者」と「被応援者」の2つに分けて、「被応援者」は「応援者」に一度は立ち会わさないと契約できないという制度にしてしまった。そして、最初は、浜松の本社の人間が、過去の営業成績から自動的に「応援者」と「被応援者」を選別し、そして、私は「応援者」になったのだったが、ところが、そのすぐ後、過去の成績と関係なく、「応援者」と「被応援者」を決めるということにしてしまい、いわき市に4か所あった営業所の中で最も条件が悪いといわき地区の営業誰もが言っていた営業所にいた私は、最初、過去の営業成績から自動的に選別された時には「応援者」になったにもかかわらず、その後、営業所のメンバーはまったく同じでありながら、前年契約棟数も私の半分以下、過去3年間の契約棟数も私の半分以下の人を「応援者」にされて、その人と比べれば倍以上の契約を取得していた私は「被応援者」にされてしまった。営業成績と関係なく、「応援者」と「被応援者」に営業社員を2分するとされ、「被応援者」にされてしまった者は「応援者」に一度は見込客と会ってもらわないと契約できないということにされてしまったため、やりにくくてしかたがなかった。私が入社して1年目、経験のある人に「応援者」として助けてもらいたい時には、そんな人はおらず、2年目には、私だって入社2年目にさしかかったばかりなのに、「入社1年目の者には気をつけて気をつけてやってやらないといけないんだ」とか営業本部長の天野隆夫から言われ、入社1年目の秋山だったか秋本だったか、当時20代後半のニコチン中毒の男が、「私から、(株)一条工務店は窓のガラスが良くないと言われたから一条の家は売れないと言っている。おまえのおかげで秋山くんが営業できなくなったじゃないか。よく気をつけろ!」などと言って怒鳴りつけられたのだが、私は秋山だったか秋本だったかに、窓ガラスについてなんて一言として話したことはない! 私だって入社して2年目に入ったばかりでしかなかったのに、自分が売れないのをひとのせいにするようなアホを増長させて私のせいにするんじゃない。そんなおかしな営業本部長があるか!!! 何か、私が(株)一条工務店の窓ガラスについて誰かに話したことがあったかというと、東京展示場(江東区潮見)で、秋山だか秋元だかが入社するより何か月か前、設計事務所をやっているというおっさんでしばしば東京展示場に来る人がいて、その人が(株)一条工務店の東京展示場の窓ガラスを「窓ガラス、薄いねえ。何ミリなの?」と言うので、「3ミリのガラスを入れていますが」と言うと、「3ミリじゃ薄いよ、いくらなんでも」と言うので、はて、窓ガラスというのは、普通、何ミリのものを入れているのだろうか・・と思い、東京展示場の「リーダー」だった宮崎さんに、「窓ガラスというのは、普通、何ミリのものを使っているものなんでしょうねえ」と尋ねてみたのだが、「一級建築士の宮崎さん」は答えてくれなかったのだ。普段、親切に教えてくれる人なのに、なんで答えてくれないのだろう・・とその時は思ったのだが、たぶん、知らなかったのだと思う。私は、その設計事務所やってるというおっさんが、(株)一条工務店の窓ガラスを薄いと言うので、実際には他社と比較してどうなのだろう・・と思い、誰か知ってるかなと何人かに話してみたのだが、誰もわかっている人間はいなかった。わかっていたのは、小堀住研(株)⇒エスバイエル(株)は掃き出し窓には強化ガラスを使用していたのに対して(株)一条工務店は普通ガラスの3ミリだったこと、積水ツーユーホームと三井ホームだったかはペアガラスを標準仕様で使っていてそれを売りにしていて、積水ツーユーホームの展示場に行ったという見込客には、「あのペアガラスというのがいいと思った」と言う人がけっこうあった。(株)一条工務店は窓ガラスは普通ガラスの3ミリだったが、雨戸は防音断熱雨戸というアルミの中にウレタンが入っているかなりしっかりしたいい雨戸を入れており、窓ガラスだけで見るのではなく、「窓ガラス+雨戸」で見ると、その頃の(株)一条工務店は防音断熱雨戸を標準仕様で入れている、という点は評価されて悪くないはずだったが、どうも、来場客・見込客はそう受け取ってくれない人が多く、ペアガラスを売りにする会社が複数あったことから、多数決でいいかどうか決まる性質のものでもないはずなのだが、どうも、何社もでわあわあ言うと「そうかいなあ」と思う人があるようで、ペアガラスを売りにする会社をいいと言う人というのが少なくなかった。松戸展示場においては、たしか、入社2年目の後藤(男。当時、20代後半)が接客した来場客が、積水ツーユーホームだったように思うのだが、展示場にペアガラスを入れていた所を見て、「あれがいいと思った」と言っていた、と松戸展示場の事務所で話したことがあり、「ああ、積水ツーユーホームは、ペアガラスを売りにしているから、それにどう対処するかというのが問題だねえ」と思ったことを口にしたことがあったと思う・・・が、あくまで、それは後藤に言ったのであって秋山には何ひとつ言っていないはずである。秋山には何一つ言っていないのに、それを私のおかげで売れないなどと、世話になり、私に迷惑かけてきた男が何を言うかというところであり、営業本部長の天野隆夫は、自分がまともに努力しないで、そういう口をきいてひとのせいにしようとするようなアホの機嫌とって、私のせいにするようなことを言うというのは迷惑千万であったが、その時点で私だって入社2年目にさしかかったばかりでしかなかったのに、営業本部長の天野隆夫から「新人にはそれだけ、気を配ってやらなければいかんのだ。そのくらい考えろ!」などと言われたのだが、そんなこと言うのなら、私が入社1年目の新人であった時に、もうちょっと気を配ってくれれば良かっただろうが、私が入社1年目にそこまで気を配ってなんかもらってないのに、何をぬかすか。又、そんなことを言うのなら、その時点でもまだ入社2年目に入ったばかりでしかない者に、もっと気を配ってくれればよさそうなものだが、ちっとも気を配ってくれてないではないか、と思ったのだが、「なにしろ、あれは頭が薄いですから」と某社員から言われていた営業本部長の天野隆夫はそういう態度だった。
私が入社1年目から2年目にかけて、経験のある営業社員が「応援者」となって指導してくれたら助かるのにという時にはそんな人はいなくて、・・というより、逆に2年目に入ったばかりでしかない者に、「1年目の者の気を配れ」などと言われたのだったが、それが、入社して5年目くらいだったか、「応援者」なんてそんなもの要らんわ、そんな足手まといをつけられたのでは迷惑だわ・・という状態になった時に、営業成績で判断して選別した時には私は「応援者」になったのに、その後、営業成績を無視して気まぐれで決めると変更になると、前年契約棟数も私の半分以下、過去3年間の契約棟数も私の半分以下、過去5年間で見ても私より条件のいい営業所か同じ営業所にいて私より少ないか私と同じ棟数しか取ったことがない人を「応援者」にして、私はその人と契約棟数と比較すれば倍以上契約とっていたのに、それにもかかわらず、「被応援者」にされてしまい、営業成績のあがっていない人を私の見込客と会わさないと契約できない、という何ともやりにくい制度にしてしまったのだった。その時、「応援者」になった「木南さん」(仮名)(男。当時、40代)は、「私は本当はもっと多く契約とれるんだけど、わざと取らないの」などと言っていたが、「わざと取らない」ようにしてくれなんて私は頼んだことは一度もない。取ればいいじゃないか。そして、その頃、読んだ本が山田久志『プロ野球 勝負強さの育て方』(PHP文庫)だったが、山田久志がそこに書いていたのは、大リーグで実績を残しプロ野球の選手としては高齢になって近鉄バファローズに来たオグリビーという選手は、常に全力疾走・全力プレーで、選手としては高齢の選手がそこまで常に全力疾走・全力プレーで大丈夫かというくらいだったが、オグリビーとしては「全力疾走・全力プレーこそ一流の証し」という認識だったようだ、というのだった。内野ゴロを打って、だめだと思うと一塁まで全力疾走せずに途中で引き返してくるというようなことをする選手が若手にもいるが、そんなプレーがかっこいいのではない、常に全力疾走・全力プレーこそ一流の証しである! とオグリビーはまさにそれを実践していた、というのだった。「私は本当はもっと売れるんだけど、わざと取らないようにしてんの」などと言うようなそんな人なんて、私が経営者ならば、そんな人を「応援者」にはしない・・・が、そういう人を営業成績と関係なく「応援者」にしたがるのが、それが(株)一条工務店の経営者だった。「木南さん」(仮名)は「私は本当はもっと売れるんだけど」などと思っていたかもしれないが、実際には売っていなかったのであり、実際には売れていない人というのは、実際には、見込客・契約客に対して、なんか変なことを言ったり、なんか変な対応をしたりするものであり、「木南さん」(仮名)にもそんなところが現実にあった。「木南さん」(仮名)は認めたくないだろうけれども、実際にあったのだ。そういう人を私の半分も契約取ってないのに「応援者」(別名「足手まとい」)としてつけられたのだった。
さらに、その「木南さん」(仮名)が新潟県の営業所に転勤して いわき市の営業所にいなくなった後、今度こそ、いわき地区の営業のメンバーから考えれば、私が「応援者」にならせてもらっていいはずだと思うと、今度は、いわき市の私がいた展示場より条件のいい展示場にいて私より契約棟数が少なかったS藤K二さん(男。当時、40代)を私がいた展示場に配属替えして来させて「応援者」にならせ、私にはどうしても「応援者」にならせたくないようだった。S藤K二さんはいわき地区の従業員の間で「S藤さんはアルツハイマーだからしかたがない」などと言われていたのだが、実際にアルツハイマーという医学上の病気であったのかないのかよくわからないが、自分で自立して仕事をできていない人であり、いわき地区の従業員の中で、私が一番めんどうをみてきてあげた人である。私がめんどうを見てきてあげた人に、なんで、めんどう見てきてあげた人間の方が「被応援者」にならされて、めんどうみてきてもらった人が「応援者」になるのか。いわき地区の営業社員にもずるい人が時々いた。私がいわき地区に転勤した時、私が配属された展示場の「リーダー」になっていたK井さんは、私がS藤さんのおかげでえらい目に合わされると、「佐藤さんはアルツハイマーだからしかたがない」などと言ってS藤K二さんをかばうのだったが、ところが、自分がS藤さんのおかげで迷惑すると、「このくそじじい!」と言って怒るのだった。なんだよ、私には「佐藤さんはアルツハイマーだからしかたがない」と言って我慢してやれと言って自分には言わないのかよ・・・てところだったが、K井さんとしても、片方で「この人はアルツハイマーなのか何なのかわからないが、そんなにしっかりしている人じゃないから、みんなで我慢してあげないとしかたがない」と思いつつ、他方で実際に被害に合うと「このくそじじいめ!」という気持になる、という両方とも本音だったのではないかと思う。S藤さんの世話をいわき地区の従業員で一番してあげていたのは間違いなく私だったが、私以外だとH田さん(男。当時、20代後半)が見てあげていたように思うが、H田さんの場合は理由があって、かつて、S藤さんが、H田さんと誰だっけに「俺の家に行こう」と誘って国道45号沿いのS藤さんの実家に連れていった所、S藤さんのお母さんが、息子が会社の人を連れてきたということで、息子といっても40過ぎた息子だけれども、それでも、息子が会社の人を家に連れてきたのだから何か出してあげようと思い、国道のはす向かいあたりにあったという万屋みたいな店に飲み物でも出そうと買いに行ったところ、国道を走ってきたクルマにはねられて、気の毒なことにお母さんは亡くなってしまった・・ということがあったらしく、それ以来、H田さんは、S藤さんが仕事で困っていることがあると助けてあげるようだった。かつ、H田さんは私にも、「佐藤さんはアルツハイマーだからしかたがない(と思って我慢してあげて)」と言うのだったが、しかし、我慢にも限界というものがあるし、S藤さんのお母さんがクルマにはねられた時、S藤さんの実家にH田さんは行ったかもしれないが、私はその時、まだ、いわきに来ていなかったのであり、H田さんと同じ意味で私がS藤さんに負い目を感じる理由はないはずだったのだ。又、S藤さんは「恩を仇で返す」ことがあり、それもこちらが致命傷になるような「仇で返す」ことをする。H田さんの場合は「佐藤さんはアルツハイマーだからしかたがない」と言って、我慢してあげてほしいと言うだけでなく、自分もその「アルツハイマーのくそじじい」の世話をしてあげていたので、その発言もわからないことはなかったのだが、自分は何ら被害に合わず何ら面倒を見ることもなくひとに「佐藤さんはアルツハイマーだからしかたがない」と私に我慢してやれと要求だけする卑怯者がいた。そういう卑怯者は許せない。それで、私はその「気持ちは悪くねえんだ」と言えば自分は何やっても通ると思っている、自分は何やっても「佐藤さんはアルツハイマーだからしかたがない」と言ってもらえるということに味をしめている「くそじじい」の世話なんてしてやりたくなかったのだが、実際、「このくそじじい、いいかげんにしろよ」と思いつつ、それでも、世話してきてあげてきた、というよりも、やりたくもないのに結果としてさせられてきたのだった・・・が、(株)一条工務店は、その世話してきてあげた者を「被応援者」にして、世話してもらってきた人を世話してあげてきた者に「応援者」=「足手まとい」としてくっつけたのだった。なぜ、私はそこまでされなければならないのか。
いわき市の営業所にいたS藤賢二さんのことを「S藤さんはアルツハイマーだからしかたがない」などと言い、「いいことにしてあげないといけない」と言う従業員がいたのですが、そういうことを言う人というのは、たいてい、いわき市の営業所にいてもS藤さんとは別の営業所(展示場)にいた人です。一緒にいて常に被害にあってきた者としては、「そんなこと言うのなら、あんたがめんどう見てあげなさいよ」と言いたいところでした。「S藤さんはアルツハイマーだからしかたがない」などと言う人というのは、自分がめんどう見ないから、自分が被害を受けていないから、だから、そんなことを言うのでした。もしも、S藤さんが本当に「アルツハイマー」であるのなら、医師の診断書を会社に提出して、きっちりと「アルツハイマー」の患者だということでの扱いにしてもらうべきです。会社は、身体障碍者・精神障碍者を何人かは採用して使わないといけないという規定がたしかあったはずです。もしも、業務の内容などから身体障碍者・精神障碍者をどうしても雇用できないという会社は雇用しないかわりにいくらかカネを払うということになっていたはずです。S藤さんはその対象にしてもらうべきです。それをしないで、「アルツハイマーだからしかたがない」などと言って、それでいつも迷惑かけて面倒みてもらっている相手に対して、めんどう見てもらって「気持ちは悪くないんだ」などと言って当たり前みたいな態度をとり、「気持ちは悪くないんですね。頭が悪いんですね」と言うと怒るのだが、怒るのなら違うのか? 怒るということは、やっぱり、「気持ちは悪くない」わけではないということであろうが。自分がひとに迷惑かけておいて、「すいません」も「申し訳ありません」も「ごめん」も言わず、自分が「気持ちは悪くねえんだ」と言って居直るということは「頭が悪いんだ」と自分で言っているということであろうが! ということになるのですが、それでも、しかたがないと思って我慢してあげて、めんどう見てきてあげたのに、そのめんどう見てきたあげた相手に「応援者」になられて、こっちがその「アルツハイマーだからしかたがない」人の「被応援者」にならされてしまう、というのは、これはいくらなんでも人を馬鹿にしていると言わざるをえない。私は、会社の誰にだったか記憶がはっきりしなくなってしまったのだが、S藤賢二さんのことを言ったことがあるのです。「この人は、誰か、できればS藤さんよりも年齢が上で、S藤さんよりも入社が先で、役職が上の人と同じ営業所に配属して、常にこの人がやっていることを見ているようにしないと、いずれ、何か問題を起こしますよ。」と、そうなってからでは会社にとっても損失であり、本人にとっても、「気持ちは悪くねえんだ」という主張はあつかましいが、会社という所はいったん採用した人は、あまり賢くない人であっても、少々困った人でも、使っていくべきであり、簡単に辞めさせてよいものではないはずですから、そう言ったのです。(株)一条工務店はそういうことをきっちりと言ってくれる人間に感謝すべきですが、アホ経営者は、むしろ、きっちりと言ってくれる人間というのがおもしろくないようです。まさに「ベンチがアホやから」状態です。「私の場合は、佐藤さんは、私を、自分よりも年下で、自分より後から入社した人間だということでなめてしまっていて、何でもやってもらうことばかり考えていて、私が言ってもなかなかききませんから、だから、そうではなく、できれば、佐藤さんよりも年上で、佐藤さんよりも入社が先で、佐藤さんより上の役職をもらっている人が同じ営業所にいて、常に何をやっているか見ておくようにしないと、危ないですよ」と言ったことがあるのです。ところが、「ベンチがアホ」の会社は、私がせっかくきっちりと言ってあげてもきかない。めんどう見てあげていた私がいわき市から転勤していなくなるとすぐ、S藤賢二さんは、いわき市の市街化調整区域の住宅を建てることはできない場所に建築しようとして、建築指導課から(株)一条工務店は取り締まりを受けて、危うく、(株)一条工務店はいわき市で建てられなくなるところだった・・・らしい。なるほどなあ、と思いました。私がせっかくきっちりと言ってあげているのに、私の言うことをきかない会社はそうなるのです。(株)一条工務店というのはそういう会社でした。おそらく、今もその体質は大きくは変わっていないでしょう。そう簡単に体質が変わる会社ではないはずです。
私は、いわき地区の所長だった草野次男さんに言ったことがあるのだ。「なんで、私は『応援者』にしてもらえないのですか」と。「営業成績で『応援者』と『被応援者』に分けた時には私が『応援者』に指定されたのに、なんで、私は『応援者』からはずされて、私の半分も契約取っていない人とか、私がそれまでめんどうをみてきてあげた人とかを『応援者』にされなければならないのですか」と。
又、いわき地区には展示場が4つあったのだが、各展示場の人数の変化にともない特定の人だけ移動する移動と別に、新しい展示場ができたという時もあり、大規模にシャッフルするように、所属の展示場を変わる移動が2回あったが、いわき市に4つある展示場のうち、誰もが「ここが一番条件が悪い」、「向こうとここでは来場客が全然違いますよ。数が違うだけでなく、ここの展示場に来る人というのはけっこう契約までいろいろ難しいですけれども、向こうの展示場に来る人なんてここに比べれば本当に楽ですよ。」等等と誰もが言う、一番厳しい展示場に私ひとりだけが最初から最後までおらされたのだった。それで、私はいわき地区の所長だった草野さんに言ったことがある。「所長。これまでに何度か、いわき地区で営業社員が入れ替わる移動がありましたが、どうして、私ひとりだけが、ずう~うっとここなんですか。」と。すると、所長の草野さんは「売れる営業が、条件のいい所に行くんでえ~え」と言うので、私は「なるほど。たしかに、草野所長は多く売っておられますから、売れる営業が条件のいい展示場に行くというのはわかりました。しかし、私だって、所長には及びませんけれども、今、いわき地区にいる営業の中では、最低でも真ん中よりも上ですよね。前年契約棟数で見ても、通算契約棟数で見ても、過去3年間の平均契約棟数で見ても、どれで見ても、真ん中より上ですよね。そうである以上、私ひとりだけが、ずうう~っと、この一番条件が悪いと誰もが言う展示場におらされ続けるというのはおかしいのと違いますか。」と。すると、草野所長は「この展示場は、来場客数も少ないし、和風の展示場で、和風の展示場に来る人というのは、木にうるさかったり、家相にこだわったりする人が多くて、新人ではきびしいから、ここの展示場には経験と実力のある人にいてもらわないといけないんだ」と言うのでした・・・が、ぼけっと聞いてるとなんだかほめられたみたいに思うかもしれませんが、そうはいかのきんたま。私は言ったのです。「それなら、所長、ここに来てくださいよ。所長が一番、経験があって実力があるじゃないですか。私、所長が実力がないなんて言うつもりは毛頭ないですよ。私、所長は間違いなく実力のある人だと思ってますよ。所長が一番、営業としての経験があって実力があるじゃないですか。わたくしごときなんか、所長に比べればずっと下じゃないですか。所長、ここに来てくださいよ。私、所長がおられる所に行きますよ。入れ替わりましょうよ。」とそう言ったのです。そういうことになりますでしょ。ぼけっと聞いてるとほめられたみたいなこと言われて、一番条件の悪い所に押し込められているのを受け入れさせられてたまりますかいな。そうはいかのきん〇まだったか、ち〇ち〇だったか、どっちだったか・・・、どっちでもいいが、そんなくさい手にひっかかってたまるかいな。すると、所長はこう言ったのです。「成績のあがってるもんが条件のいい展示場に行くんでえ~え」と。また、最初の話に戻ったのです。それで、私もまた言いました。「それなら、私だっていわき地区の営業の中で最低の成績じゃないはずですから、ここにいる必要はありませんね。どこに移らせてもらえますか」と言いましたが、そうするとまた、「ここの展示場は和風の展示場で、総合住宅展示場の中でも奥の方にあって来場客数も少ないし、和風の人というのは木にうるさかったり、家相にこだわったりする人が多くて、新人では厳しい展示場だから、経験と実力のある人にいてもらわないといけないんだ」と言うので、またもや、「ですから、それなら、所長、ここに来てくださいよ。所長が一番、経験と実力があるじゃないですか。所長が実力がないなんて、私、そんなこと言うつもりはまったくないですよ。私、所長が実力があるというのはよく知っていますし、所長の営業成績がすばらしいということもよく知っていますよ。所長が一番、実績と実力がある営業じゃないですか。所長がここに来るべきですね。ここに来てくださいよ。私、所長が今、おられる展示場に移りますよ。きょうからでも行きます。いいですか」と言うと、またもや、「営業成績のいいもんが条件のいい営業所に行くんでえ~え」と言う。・・・はてしなく、その繰り返し・・・。 なんなの、これ。(株)一条工務店に入社してきた人でも、中途採用で入った人で、同業他社か同業でなくても営業の仕事の経験がある程度以上ある人で、比較的良心的な人は言うのです。「一条工務店の場合、展示場による条件の差が甚だしい」と。 私は、入社以来、この会社に、毎日毎日、毎年毎年、滅私奉公を続けてきたのに、なんで、そこまで、されなければならないのか。いったい、これは何なのか。最初、「木南さん」(仮名)と私が一緒にいわき地区に転勤した時、いわき地区の従業員には、私が営業本部長のイヌではないかと勘繰った人がいたらしいが、そのうち、「営業本部長のイヌ」というよりも「営業本部長の眼」「営業本部長の耳」は私ではなく「木南さん」(仮名)の方だったらしいと、いわき地区の人はわかったようだったが、「王の目」「王の耳」でもなければ、「イヌ」でもないとしても、「お目通り」、陪臣でありながら将軍と直接会うことを許されている者のことを「お目通り」と言うごとく、「木南さん」(仮名)とともに「お目通り」であった・・・といっても、営業本部長の天野隆夫が東京営業所の所長を兼任していたので、それで、「直接会う」ということはできた、ということであって、会うことはできたとしても、会ったからと言って何かこっちの主張を通してくれるわけでも何でもないのであり、あんまり意味はないのだが、それでも、「お目通り」なら、ちょっとくらい、0.1%でも優遇してくれても悪くないのではないのか・・と思わんこともなかったのだが、むしろ、逆ではないか。冷や飯ばっかり食わされて、まさに「わしぁ、日陰の月見草」てもんで、条件の悪い場所ばっかり配属されているではないか。この「ひまわり」めえ~え・・・てやつに、「ID野球 弱者の戦術」で「ひまわり」に負けんように奮闘努力して営業成績を残しても、それでも、一貫して一番条件の悪い所にばっかり配属するというのは、それはいったい何なんだ・・・。
※ 《 くたばれ讀賣大合唱!みんなで東京音頭♪♪ 2019/5/6 ヤクルト対阪神》https://www.youtube.com/watch?v=-Xxv0Uq5VRQ
私が入社した1992年にはその制度はありませんでしたが、そのうち、「特進転勤」として、通算契約棟数・通算引き渡し棟数が一定以上の営業社員が会社都合で転勤した場合には、「副店長」に昇進した上で、転勤した時点で2棟契約したという扱いにする、ということになりました。福島県いわき市に転勤して5年間、ずうう~っと私ひとりだけが誰もが認める一番条件の悪い展示場に押し込められて、そして、私の半分も契約取っていなかった「木南さん」(仮名)を「応援者」にされて私の半分も契約とっていない人が「応援者」なのにその人の倍以上契約取っているのに「被応援者」にされて、その人が他の地域に転勤したと思ったら今度はそれまで私がめんどうを見てきてあげた人を「応援者」にされてその人のめんどうを見てきてあげた私が「被応援者」にされてしまった、ということで、いくらなんでも、なんで私はそこまでされなければならないんだ、と思っていたところ、営業本部長の天野隆夫から、会社都合での転勤で他の地域に行ってもらいたいと言われ、それで、「特進転勤」で他の所に行ってくれという話なんだなと思い、それならば、間違いなく真ん中より上の営業成績を残してきたのに一番条件の悪い展示場に押し込められて、私の半分も契約とっていない人や私がめんどう見てきてあげた人を「応援者」にされてするくらいなら、「特進転勤」をして「副店長」になって移動すれば、間違いなく「応援者」に自分がなって、「応援者」と名付けられた「足手まとい」をつけられるということはなくなると思い、了承して栃木県の佐野市の展示場に赴任しました。但し、天野隆夫に「特進転勤ですね」と言うと、天野は「今は、特進転勤というのはあまりやらないんだ。前はやっていたけれども」などと言うので、そんなこと言っても会社の書類に「特進転勤」というのは制度として記載されているはずで、「今はあんまりやってない」というのも変な話でしたが、それでも、営業本部長から頼まれたことであり、展示場のアタマとして行ってくれという話でしたから、それなら行こうということで佐野展示場に転勤しました。ところが!
ところが、佐野展示場に行くと、私と一緒に、茨城県の展示場から私より年齢は若いが入社は古く通算契約棟数も多い武田さん(男。当時、30代前半)が転勤し、武田さんが展示場の「リーダー」になったのでした。話が違うのです。しかし、会社の「ルール」からいくと、竹田さんの方が在籍年数が長いこと、通算契約棟数が多いことから、どちらかが「リーダー」ということなら竹田さんの方が「リーダー」になることになったでしょう。しかし、その他に営業社員は3人いたのですが、栃木県地域の営業所長だった五十嵐はどうしたか。 私と武田さんの他に3人いた営業の中で、お客さんの評判が一番悪い、かつ、前年契約棟数ゼロ棟で在籍年数は私の半分、通算契約棟数も私の半分ほど、私は会社が取得を推奨していた住宅・建築関連資格であるインテリアコーディネーター・宅地建物取引主任者⇒宅地建物取引士など取得してきましたが何ひとつ取得できていない、私は会社都合での転勤をしてきたのに対してそのような協力は何もしていない上岡くん(男。当時、40代前半)を「応援者」にして、展示場のアタマ、「リーダー」で当然「応援者」として転勤するという話で転勤した私を私の半分しか在籍していない、私の半分ほどしか契約取っていない、私と違って住宅関連の資格など何一つ取得していない、私のように会社都合の転勤などまったくしていない、お客さんの評判は他の営業より悪い、勤務態度も良くない、何より前年契約棟数はゼロ棟という男を「応援者」にされてしまったのです。五十嵐は「上岡くんの方が爆発力がある」などと言うのでしたが、たしかに、上岡くんは気に入らないことがあると暴れますし、佐野展示場の事務所の壁にも膝の位置に穴があいており、おそらく、膝蹴りを壁にくらわせた者がいたと思われ、そういうことをしそうな人というと、佐野展示場には上岡くんしかいないのであり、何かあると腹立てて壁に膝蹴りくらわせるというのはほめられたものではないというだけでなく、まがりなりにも住宅屋ならば、蹴る前に、「はて、この壁の下地は石膏ボードだろうか、合板だろうか・・」といったことを考えてそれから蹴るか蹴らないか決めて行動するべきであり、石膏ボードなら簡単に穴が開いてしまう、合板ならたいしてどうということはないだろう、もしも、クロスの下がコンクリートだったりすると膝蹴りをすることで膝の骨を骨折する危険がある・・・といったことを瞬時に判断する、というのがそれが建築屋というものであり、それを「な~んも考えとれへん」で膝蹴りをお見舞いして石膏ボードの下地の壁に穴を開けた、というもう「聞いてるだけであほくそなってくるやろ」という行為をやった男であり、そして、前年契約棟数ゼロ棟の男は(株)一条工務店の展示場でも事務所が広い展示場と狭い展示場があるのだが佐野展示場の事務所は広くない方であるにもかかわらず、前年契約棟数ゼロなどおかまいなしに事務所にゴルフバッグを置いていたのであり、そういうことをする人というのも、佐野展示場にいた従業員では上岡くんひとりだけであり、さらには、週休の水曜日に嫁には「休日出勤」だと言って家を出てスナックのホステスと旅行に行ったりということを前年契約棟数ゼロでありながらする男であり、そういう普通に考えれば「応援者」には選定しない人間を、前年契約棟数ゼロ棟であるにもかかわらず、「爆発力がある」ということで「応援者」に指定したのだった。しかし、上岡君が何か気に入らないことがあると暴れるという「爆発力がある」人間であっても、私は展示場のアタマで「応援者」として赴任するということで、営業本部長の天野隆夫から頼まれて佐野展示場に赴任したのであり、その私を「応援者」にならさずに前年契約棟数ゼロ棟の「爆発力男」を「応援者」にならせるというのは、その五十嵐さんの行為はそれは会社員として「越権行為」で「業務命令違反」のはずだ。
五十嵐さんは、自分自身が栃木県で営業の仕事をしてきた人であり、それだけに、「アタマが浜松」の「遠州人」とは異なり、栃木県には栃木県の事情がある、それぞれの地域によってお客さんの求めるものに違いはある、ということを体で理解している人であり、「浜松でいいものは日本全国どこでもいいに決まってるんだ」などと名古屋南営業所の所長の近藤ローオさんみたいなことは言わない人であり、又、自分自身が努力して営業の仕事をしてきた人であるから、栃木工場の従業員用駐車場に車を停める時には、所長だからということで従業員用駐車場の中では一番いい場所に停めていたが、片方で佐野展示場に来たような時には、何も言わなくても、自然と展示場の玄関の前は避けてそうでない場所にクルマを停めるということをする人で、そのあたりは体がそれを覚えている人だった・・・が、どうも、自分と経歴が似た人を高く評価したいという性質があって、2000年頃に佐野展示場に入社した須藤雅美(女。当時、20代後半。後に結婚して、小林雅美。その後されに離婚したかどうかは知らん)が面接に来た時も、「あれはいいわあ。あれは本当にいいわあ~あ」と言うので、そこまでいいのか? ・・と思ったのだが、S藤雅美が最初に出勤した時に見ると、須藤のクルマには羽根がついていた。羽根つきのクルマに乗ってきた女を「あれはいいわあ~あ」とかおっさんは言っていたのだった。S藤M美が入社してすぐの頃、須藤が「セクハラというなら、私がいたネッツトヨタなんてすごいですよお。朝、来て、『おはよう』と言うと同時に、おっぱいもみもみい~い・・て、毎日、そうですから。同意の上だからいいんですけどお。私もつかみにいってましたしい」などと言うので、私は「それは、その人は『同意の上』だから良かったとしても、そういうことが職場でおこなわれていると、そういうのが嫌な人までも似た扱いを受けることになってしまうし、周囲でそういったことがされるというのが嫌な人だっているかもしれないのだから、だから、もしも、職場外に勤務時間外に行ってやるのなら『同意の上だからいい』ということもあるかもしれないけれども、職場内・勤務時間内の場合には、『同意の上だからいい』ということにはならないですよ」と言って教えてあげたのでした・・が、この人、わかってるのかな、わかってないのではないかな、という感じで、私が採用担当者なら、この人は不採用の人なのだけれどもなあ、五十嵐さんはいったいどこをそこまで「あれはいいわあ~あ」などと思ったのかな・・と思ったのでした・・が、須藤はクルマ屋にいて、クルマ屋の女性社員というのは、自分でも営業をやるそうで、クルマ屋の営業の経験があるという点が五十嵐さんが気に入った点だったようでしたが、五十嵐さんが見るのはそのあたりだけなのです。私なら、クルマ屋というのは、一般に「ガラが悪い」、実際、須藤が言っていた話によると、クルマ屋のディーラーにいると、「夫以外の男とやりたい」という「家庭の主婦」がいっぱい来るそうで、そういう女性がクルマ屋の男性営業に「試乗させてくださ~い」と言って、トヨタのクルマに試乗して一緒にホテルに行って、ホテルでは男の方が試乗して、それでトヨタのクルマに乗って帰ってきて、「ばいば~い」と言って帰る・・とかそういうことがしばしばあるそうで、『旧約聖書』の『創世記』でのヨセフのような男とは正反対の人間ばかりの職場らしい。そういうガラの悪い職場にいた女性を入れることで、職場の環境が影響を受けることを考えると、そして、須藤が乗っていたクルマを見ると羽根がついていたし、そういう人を営業の経験があるからと採用していいものかどうか。私が採用担当者なら不採用にしましたが、五十嵐さんはそうう人が好きでした。「あれはほんとにいいわあ~あ」などと言ってました。「朝、来て『おはよう』と言うと同時におっぱいもみもみい~い・・て、会社である以上、それが普通ですよ、それが普通。それが会社ですよ、それが会社」などと須藤は、その後、主張しだすようになります。須藤雅美と同じく、元クルマ屋の高木義夫(「高木のおっさん」)(男。当時、50代。創価学会員)が「そうだよ。俺なんか、カローラの店にいた時、毎日、会社に来ると同時に会社中の女の子の尻なでてたよ。それが会社だよなあ。俺は会社の女の尻をなでまわさないと、会社に来たという気持になれねえんだ。俺は」などと言い、それに合わせて、須藤は「そうそう。それが会社よお~お。それが会社の常識ですよ、常識。」などと主張しだした。ああ、やっぱり、この人はそういう人だったんだなと思いました。五十嵐さんはそういう人を会社に入れるということについて、まったく何も考えなかったんだな、と思いました。元クルマ屋の人を入れるということは、その人にもよるとは思いますが、「腐ったリンゴ」を入れるということになる可能性が考えられたのです。私は、最初に須藤を見た時に、そうならないかと危惧したのですが、そうなりました。五十嵐さんはその程度のこともわからんのだなあと思いました。その程度の人が営業所長になっているのです、(株)一条工務店という会社では。五十嵐さんが「朝、来て『おはよう』と言うと同時におっぱいもみもみい~い。それが会社の常識ですよ、それが会社の常識」とか主張する須藤雅美を高く評価したのは、単に、前職がクルマ屋だった、というだけです。五十嵐さんが上岡くんを「爆発力がある」とか言って評価したのも、上岡くんが、「前職:クルマ屋、最終学歴:底辺の高校卒、住宅・建築関連の資格:なし。」という点で五十嵐さんと共通していた、というそれだけです。そのくらいしか、見れない人なんですよ、そのくらいしか。(株)一条工務店の初代社長の大澄賢二郎が「一条工務店は大企業になった。人みたいなもん、求人広告さえ出せばいくらでも採用できる。求人広告はいくらでもカネをかけてどんどん出せ。求人広告はいくらでもカネかけてどんどん出して、従業員は片っ端からやめさせろお」と叫んでいたというのですが(会社というものは、職場内で刃物を振り回して人に大怪我をさせたとか多額の横領をしたとか新聞の一面に出るような重大犯罪をおこなったとかそういう行為があったわけでもない人を業績が悪くて従業員の数を減らさないといけない事情があるわけでもなく片方で求人募集を出しているのに「片っ端から辞めさせろお」などと言って辞めさせてよいものではないはずなのですが)、「人みたいなもん、いくらでも採用できる」というわりには、入社してくる人を見ると、そんなに優秀な人が次から次へと入社してきているように思えなかったのです。それをベテランの某さんに話したところ、「違うの。採用できるかできないかの問題じゃないの。バカが採用担当やってるから、だから、採用すべき人を不採用にして、不採用にすべき人を採用してんの。」と言うので、「そうかもしれませんねえ」と言ったことがあったのだが、たしかに、「バカが採用やってる」というのは事実かもしれない。(まあ、そんな会社は他にもあるんですけどもね。)新卒入社で入って辞めて行った某さんが五十嵐さんについて最後に言ったのが「アッタマ悪いなあ~あ、と思いますよ。ほんと」と。実際、「前職:クルマ屋」だとそれだけで、「あれはいいわあ~あ」とか言うあたり、その程度の判断しかできんのか・・・と思いましたが、できんようでした。私は、クルマ屋出身の人には、クルマ屋で営業の厳しさを身に着けた人というのもいるように思っています。しかし、それは、そういう人もいる、ということで、そうでない人もいたのです。現実に、五十嵐さんが「あれはいいわあ~あ」と言った須藤が、日曜日に見ていて言ったのが、「〇〇さんとI田さんは、入口で氏名・住所を記入した人でも記入しなかった人でも関係なく真面目に接客しているけれども、Gさんと上岡さんは、氏名と住所を書かなかった人だと、とたんにはっきりといいかげんな接客をする。私がいたネッツトヨタであんな態度を取ったらえらい怒られましたよ」と。上岡くんは、元クルマ屋でも、氏名・住所を書かなかった人には「とたんにいいかげんな接客をする」営業だったのです。五十嵐さんは元クルマ屋だとそれだけでいいと思ってしまうようですが、あんた、何、見てんの?!? て気持ちになります。何も見てないのじゃないの??? そして、元クルマ屋の人というのは、クルマ屋で営業の厳しさを身に着けたという人もいますが、クルマというのはできた製品で、それにオプションで何をつけるかつけないかであり、住宅の場合は地べたに新しく作っていくわけであり、住宅の方ができるものの可能性ははるかに大きい・広いのですが、クルマを売る時のくせがついているのか、元クルマ屋の人というのは営業の厳しさを学んだ人はいても、住宅・建築について学習しようという姿勢があまりない人が多いという印象を受けています。そのあたりについても、五十嵐さんはわかっているのかどうか・・というと、わかってなかったのではないか。それで、五十嵐さんは「前職:クルマ屋、最終学歴:底辺の高校卒、住宅・建築関連の資格:なし」という上岡くんが好きだったようです。前年契約棟数ゼロ棟でも。いわき市の営業所で、私の半分も契約取っていなかった「木南さん」(仮名)を「応援者」にされた時には、倍でだめなら3倍取れば文句はないのか? とか考えたこともあったのですが、ゼロ棟を「応援者」にされてしまったのでは、これは、どんなに涙ぐましい努力をして何棟契約を取っても、ゼロには勝てませんから、勝負になりません。結局、(株)一条工務店が実施した、すべての営業社員を「応援者」と「被応援者」に分けるという「制度」は、実力がない人を「応援者」に指定して、それで「応援者」だからということで何棟か「下駄をはかす」ということをしてあげるというそういう制度だったのです。なんとも、はた迷惑な制度でした。しかし、私の場合は、営業本部長の天野隆夫から、展示場のアタマで「応援者」として赴任するという条件で「居住地の変わる転勤」の話をされてそれを受け入れて転勤したのですから、それで転勤した私に「応援者」にならさないというのは、それは会社員として「越権行為」と判断せざるをえないはずです。「爆発力がある」とか言って、壁に穴あけるやつ、虫の居所が悪いといきなりつかみかかってきたり、蹴りかかってきたりする元スポーツ入学。私なんかは、「文武両道」とはいえ「文治派」ですから、スポーツ入学にいきなり殴りかかられたり蹴りかかられたりつかみかかられたりというのは、(株)一条工務店の初代社長の大澄賢二郎はそういう人のことを「梁山泊の精神」と言って高く評価するらしいし、五十嵐さんも「爆発力がある」と評価するらしいけれども、それは暴行罪・傷害罪の構成要件に該当し違法・有責な行為であり、(株)一条工務店の態度は「保護義務違反」というものであり、「梁山泊の精神」とか言ってそんなものを称賛してもらっては困るのです。
それで、福島県いわき市から栃木県佐野市まで、片道200㎞はありません。直線距離でも200㎞以内ですし、実際にクルマで走ったキロ数でも200㎞ありません。(株)一条工務店では、転勤した場合、片道200㎞以内の場合は、契約客の仕事はその後も継続して担当するが、200㎞を超えた場合には、誰か他の営業に引き継ぎを依頼する、ということになっていました。これは文章ではっきりと記載されて規定されていました。しかし、実際には、200㎞を超えなくても担当者が引継ぎを依頼したいと思って依頼することもあり、ぎりぎりくらいなら超えていてもそのまま担当してやることもあったようです。私は、いわき市および浜通り地区の双葉郡で建てるで、契約してもらい、引き渡しまで終わっていないお宅が何軒かあったのです。片道200㎞以内ですから、会社の規定からいけば自分でその後もやっていいのです。但し、そういってその後もやっておれば、いつまで経っても前いた場所から離れられないことにもなってしまいますが、片方で、移動した所での営業活動が軌道に乗るまでは、前いた所での契約客の仕事をしておれば、紹介ももらえることがありますし、そういうお客様の仕事をある程度、こなしながら新しく行った先での仕事を軌道に乗せて行くということもできるのです。1992年、私が(株)一条工務店に入社した年には、東京に住んでいて浜松で建てるという方を私が接客して進めていたところ、全然何の関係もない茨城県の土浦営業所の所長だった田中義一が、その見込客の勤務先が東京展示場があったウッディランド東京を運営している林野庁・東京営林局で、東京営林局に勤めていた人をひとり、田中義一が東京営業所に過去にいた時に契約して建ててもらったことがあるからということで、林野庁・東京営林局に勤めている人はすべて土浦営業所の担当にさせてもらいますと主張し、建築地は浜松であり、居住地も建築地も土浦とは何の関係もないものを、土地アリ・2年以内に建てる計画あり・予算大丈夫そう、一条工務店の評価高い、という人だったことから自分が担当にすると無茶苦茶な主張をした、ということがありましたが、もちろん、土浦から浜松までは200㎞を超えています。私は、自分を担当として契約していただいた方には、できるだけ、最後の引き渡しまで担当させてもらいたいと思っていましたが、営業本部長の天野隆夫が、「200キロ以内でもいいから、誰か営業に引き継いでもらえ」と言うので、営業本部長がそう言うのならと、いわき地区の営業に引き継ぎを依頼しました。
ところが。私が担当の契約客でいわき市で建てていただいた方を、構造現場見学に案内した時、一緒に見に行きたいと言って来られた方があり、この人はどういう人なんだろうなあと思っていたのですが、お施主様の親戚の人だったようでした。その方が、私が担当で契約いただいた方の家が完成するまで見た後、「うちも一条工務店で建てようと思う」と言われ、お施主様に「どこに言えばいいの」ときかれたそうです。もし、私がそのまま、いわきにいたならば、私に連絡をいただき、「紹介客」として紹介いただいた入居者と紹介された方の両方に、わずかばかりのサービスをさせていただき、私が営業担当者として契約いただくことができたでしょう。しかし、引継ぎを他の営業に依頼しておきながら、私が担当で契約するわけにもいきませんから、残念ながら、もしも、私に連絡をもらったならば、引き継いだK井さんに、「何何さんの親戚の方で構造現場見学に一緒に身に行かれた方なんだけれども、一条工務店で建てたいと言われているので、訪問して話を進めてください」と言い、契約いただいたあかつきには、担当のK井さんから超豪華な昼飯でも晩飯でもごちそうしていただく・・というあたりになるでしょうか。K井さんに連絡された場合も同じでしょう。しかし、その入居者の方は、「うちの一条工務店で建てたいと思うのだけれども、どこに言えばいい?」ときかれて、私に連絡するように言うべきなのか、それとも、引き継いだK井さんに言うべきなのか、どちらか選ぶことができなかったようで、「カタログに載ってる所に電話してみたら」と言ったそうです。それで、「本社」に電話したそうです。そうすると、「本社」は名目上、東京都江東区木場の東京メトロ東西線「木場」駅のそばのビルになっていて、実際には浜松に本社の機能はあったはずですが、ともかくも、「本社」に電話したそうですから、「本社」に電話があったからには、「本社」の人間は、その方の居住地・建築地に最も近い営業所に連絡して、お客様に早急に連絡するよう伝えるか、もしくは、その方が入居者の親戚の人で入居者から電話してみるように言われてかけたということならば、その入居者の営業担当者は誰だったか調べて連絡するか、いずれかするものでしょう。ところが、(株)一条工務店の「本社」の人間は、「一条工務店で家を建てたいのですがどうすればいいでしょうか」と電話で言ってきた人がいた時、東京の営業にはるばる福島県いわき市まで行かせたというのです。そして、「一条工務店で建てたい」と言われた人、私が入居者を案内する時に一緒に案内した人、私が契約してもらった入居者宅を着工から竣工まで見て、それで「うちも一条工務店で建てたいと思う」と考えられるようになった人に、東京の営業に行かせた、もしくは、「本社」といってもたいして大きなビルではなく、何人もいるわけではないので、東京地区の営業が電話に出たのかもしれません。それが「一条工務店で建てたいのですが」などと言ってかけてきた人だと思うと、もとの入居者の担当だった私が転勤で行った栃木県佐野市よりも遠い場所にいる男が、はるばる、いわき市まで行って契約したそうです。それは、どう考えても、おかしいでしょう。私には、いわきの契約客はほかの営業にまかせろと営業本部長が指示しておきながら、私が転勤して行った先よりも遠い場所にいる営業が、私が担当の契約客の親戚の家の契約に、「一条工務店で建てたいんですけども」と言うお客さんだと思うと、おかまいなしに出かけて行って契約するというのは。 引き継いだK井さんが契約するのならわかりますよ。豪華なる晩飯でも昼飯でもおごってもらうと、そのくらいでしょうか。それで、いい家を作ってあげてくださいね、と言うしかないでしょう。しかし、全然関係のない人間が、しかも、元の営業担当の私が転勤して行った先よりも遠い場所にいる営業が契約するというのは、それはおかしいでしょう。
そして、どうなったと思いますか? ・・・いわきの家を知らない東京の営業は、いわき市で建てる人に、幅3尺の板の「神棚もどき」、東京の家だとそういう神棚もあるでしょうけれども、いわき市だと、1間か1間半が普通のいわき市の人の家に、いわき市の住人からすれば、「そんなおかしな神棚あるけえ~え!」というような神棚を造ったそうです。私か引き継いだK井さんか、どちらかが担当しておれば、「いわき市の神棚」ができたはずなのに、巾着切りみたいに「一条工務店で建てたいのですが、どうすればいいでしょうか」と電話してきた人の家に遠方から押しかけて行った男は、いわき市の住人からすれば、神棚と思えないような神棚を造ったそうです。(株)一条工務店の営業本部長の天野隆夫という男は、そういうことをさせるのが大好きみたいですね。
もうひとつ、疑問に思ったのは、たとえ、東京の営業が、「一条工務店で建てたいのですが、どうすればいいでしょうか」と私が入居者を構造現場見学に案内した時に一緒に来られた方が電話されてきた時に、これは契約してもらえる人だと思うと、巾着切りみたいに押しかけていって契約した、としても、営業担当者はいわき市の神棚とかの事情を知らなかったとしても、設計担当はわかるのではないのか、営業担当との契約ではなく会社との契約なのだから、営業が「いわきの神棚」を知らない人間であっても、いわき市にいる設計ならば、設計がわかるのではないのか・・・と思ったのですが、もしかして、いわき市の設計に描かせると、なんで、いわき市の入居者の親戚で、入居者が構造現場見学に連れてもらった時に一緒に見に行った人を、全然関係のない東京の営業が契約したんだ・・といわき市の従業員が思うだろうと考えて、いわき市の設計を使わないで東京の設計に図面を書かせた・・・ということは、この会社なら十分にありうることです。もし、引き継いでくれたK井さんが担当として契約するということならば、それでも残念な気持ちはありますが、しかたがない・・と思って、超豪華な晩飯もしくは超豪華な昼飯でもK井さんにおごってもらうとして、それで、よろしくお願いします・・とするしかないか、というところでしょうけれども、全然何の関係もない人間が、遠方から押しかけてきて契約して、自分が契約したみたいに数字にする、というやり口というのは、それはおかしいし、又、営業本部長はそういうことをさせているというのは、これは毎度のことながら、その対応は無茶苦茶です・・・が、それよりも、私を担当として契約してくれた入居者の方の親戚の人に、いわき市の住人にとっては神棚というのは家でも相当に重要な部分であり、それをいいかげんにやられた、というのは、なんとも悔しいことです。私は、床の間で、床柱と長押がぶつかる部分で、どちらを前にするかなんて、最初は気にしてなかったのですが、いわき市に来て最初の頃に契約していただいた方が、(株)一条工務店の展示場の床の間を見て、「これはおかしいよ」と言われ、それで、他の営業にきいたり、工務課(工事担当)にきいたりして、又、住宅雑誌に掲載されている床の間の写真を、何冊も何か所も見て調べて、それで、床柱を下から上まで見せるというのが「いわき流」および、東北地方の多くの地域のやり方であると知り、それからそういう対応をするように学んだのでしたが、営業によっては、「うちはこのやり方ですから」とか、それこそ、営業本部長の天野隆夫がやれと言ったような、契約する前は「そうします」と施主の希望通りにやるようなことを言って、いったん契約すると、「うちはこのやり方しかできませんから」と「浜松流」で無理矢理建ててしまう・・ということをやるヤカラがいるようなのです。そういう人は、私のように「お施主様から教えてもらい学ぶ」ということをしませんから、その地域の人のやり方でやる・・ということもしません。そんな人間が東京から私の大事な入居者の親戚の人の所に押しかけて行ったのか、と思うと、なんとも悔しい限りです。「本社」というのは、そういった入電があった場合、適切な営業所に話をするのが「本社」の役割であり、不適切な営業担当者にはるばる福島県いわき市まで行かせるというのは、それは「本社」のやることではありませんね。
その東京からいわきまで押しかけて行ったやつは、私みたいに「民家」「古民家」に見学に行って、神棚はどうなっているか、床の間はどうなっているか・・なんて、学習しようという気持なんてないでしょう。(株)一条工務店の経営者、特に営業本部長の天野隆夫はそういう人間が好きなのです。
(2020.2.18.)
私のブログを、マイクロソフトエッジで見ると、文章がとぎれてしまうようです。その理由はよくわかりませんが、マイクロソフトエッジで見てうまく見れない方は、インターネットエクスプローラーかグーグルで見てください。 (2020.2.19.)
吉島家住宅1 杉玉があるのが吉島家。じっくり見ると日下部家住宅より「女性的」かもしれない・・かな。卯建と似てるが異なる火垣。男が雪かきすると部屋中に入って座ってコーヒー飲む「おばさん帝国主義」。
https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202002article_7.html
☆ 高山シリーズ
☆高山シリーズ第6回 2020年
1.雪山が車窓から見える東京から高山へのバス。長良川が見える高山から大阪へのバス。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202001article_5.html
2.日下部民芸館1 吉島家住宅に比べて「男性的」とは? 「せがい造」とは? https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202001article_9.html
3.日下部民芸館2 床の間と付書院。付書院は床の間のすぐ横からか手前からか。付書院部分の広縁はどうなるか。縦格子は良くても横桟は不衛生・・て飲食店経営者はわからんのか? https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202002article_1.html
4.日下部民芸館3 7か所それぞれ特色のある日下部民芸館の床の間。廊下が垂直に交差する部分の床板の施工 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202002article_2.html
5.日下部民芸館4 欄間・釘隠し・仏間、魅力的な窓からの雪景色。「いなか」と「いなかくさい」は同じでない。会社の新人類・会社のビョーキ人間。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202002article_3.html
6.日下部民芸館5 榑葺屋根と金属材屋根。「金属屋根+雪止め+樋」の家。頑丈なアーケード。高山駅の平な屋根。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202002article_4.html
7.日下部民芸館6 雪景色の庭と雪のない庭。和風も考えられるシャンデリア。棟木の丸太梁。思いのほかごつい土蔵の扉。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202002article_5.html
8.日下部民芸館7 飛騨地方の神棚は、その下を通るのが一般的なのか。及、施主の希望を無視して神棚もどきをつけた(株)一条工務店の東京の営業。〔今回〕
9.吉島家住宅1 杉玉があるのが吉島家。じっくり見ると日下部家住宅より「女性的」かもしれない・・かな。卯建と似てるが異なる火垣。男が雪かきすると部屋中に入って座ってコーヒー飲む「おばさん帝国主義」。
https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202002article_7.html
10.吉島家住宅2 「女性的」は架構でけでない。床の間。長押が床脇の内部まで周っている床脇。みやびな色の釣り床。 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202002article_8.html
11.吉島家住宅3 「茶室風」「数寄屋風」「京風」な感じが全体に感じられる吉島家住宅。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202002article_9.html
12.高山別院の方の光曜山照蓮寺。 農家の家の部材を利用して建築した庫裏。高山風を考慮した耐震補強。落雪注意と水道管の断熱材は寒冷地を思わせる。三流以下企業の経営者は普通ならわかるだめな原因を理解しない。他。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202002article_10.html
13.高山別院でない方の光「耀」山照蓮寺。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202002article_11.html
14.護国神社+『まれに見るバカ女との闘い』、雪かきする女性に敬意を表したい。 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202002article_12.html
15.筏橋、中橋、「高山の夜」碑、山岡鉄舟立像、高山陣屋 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202002article_13.html
16.高山駅から飛騨の里までの前半。西小学校、苔川。「木の国 飛騨」「古い町並み 高山」を売りにしつつ「新しい木質建材」も利用。 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202002article_14.html
17.高山駅から飛騨の里までの後半。飛騨民俗村から文学の小径を通り、飛騨の里へ。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202002article_15.html
18.飛騨の里1-凍った五阿弥池と鳥。六地蔵、馬頭観音。不明な動物。「子供」を名分に定時に帰りオットと妊活やって3人目産んだ女とそのオットに殺された水子を供養する。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202003article_1.html
19.飛騨の里2-旧田中家住宅。土間の「おえ」、板貼りの「でい」。「捕手の力」を無視する営業本部長。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202003article_2.html
20.飛騨の里3-旧若山家住宅(1)迫力ある巨大な合掌造。「えん」はベランダ? ではないが・・。「まやどうじ」「こうまや」「どうじ」「えん」。命名にセンスのない経営者の会社。 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202003article_3.html
21.飛騨の里4-旧若山家住宅(2)「おえ」「すえのでい」「なかのでい」。仏間と神棚。「やったことない」ことはできるか? https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202003article_4.html
22.飛騨の里5ー旧若山家住宅(3) だいどこ・うすなか・みんじゃ・ちょうだ。「水屋」には3通りの意味があった。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202003article_6.html
23.飛騨の里6ー旧若山家住宅(4) 荘川村様式の合掌造の特徴とは。「せがい造」とは。上座・下座ができてしまう「和風」の家。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202003article_7.html
24.飛騨の里7ー旧田口家住宅 縁側の内側に雨戸、長方形の囲炉裏、続き間にできる柔軟性のある間取り。奥に仏間のある部屋の右手に床の間。「両親が離婚した」などと自慢する高校教諭ははた迷惑。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202003article_8.html
25.飛騨の里8ー旧吉真家住宅 入母屋の妻面を大きく取る萱葺の家。車田。雪をかぶった山脈がきれい。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202003article_9.html
26.高山の町並にて(1)—「和風のドーマー」は違和感なく存在する。高山警察署は新社屋にて営業中。重要伝統的建造物群保存地区の周囲に「市街地景観保存区域」を設定する高山市の姿勢を評価する。用途地域の趣旨を踏みにじる千葉県習志野市の態度は不適切。千葉工大名誉教授山本明氏の権威主義を笑う。 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202003article_10.html
27.高山の町並にて(2)—高山の雪景色・無人の駅前交番・さるぼぼ・冬ならでは、吊るされた柿。入居者が引越する日に中を見せろと言う非常識な営業を指導しない所長。「指名手配犯」と似ている男というのは通報すべきか否か・・ https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202003article_11.html
28.高山の宿泊施設。 最新のホテルは、もう一回り低い高さにできないか。浜松に本社のチェーンは利用に抵抗を感じる。フィレオフィッシュはミラノにもパリにも高山にもある。研修に一人だけ遅刻してきて平気な浜松営業。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202003article_12.html
29.高山の食堂数か所。飛騨牛重は後で「食べた」感が出てくる。降雪時、平湯付近の道路は雪が積もる。保護義務違反の会社に尽くしたバカの話。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202003article_13.html
☆ 高山シリーズ第1回 2013年
上 [第202回]飛騨天満宮、松本家住宅他https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201309article_7.html
中 [第203回]「天神」考察。居酒屋はいいかげんhttps://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201309article_8.html
下 [第204回]高山市の白山神社。高山市役所https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201309article_9.html
☆ 高山シリーズ第2回 2014年
(1)国府町村山天神参拝(1)上枝駅から宮川沿い https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201409article_2.html
(2)同(2) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201409article_3.html
(3)同(3)浸透桝で雨水処理 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201409article_4.html
(4)あじめ峡、あじか、廣瀬神社、国府小学校https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201409article_5.html
(5)国府大仏、阿多由太神社https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201409article_6.html
(6)飛騨国府駅周辺。「耳付片流れ屋根」https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201409article_7.html
(7)松本家住宅上・ヒラノグラーノhttps://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201409article_8.html
(8)松本家住宅下・宮地家住宅上https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201409article_9.html
(9)宮地家住宅下・平田記念館 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201409article_10.html
(10)飛騨民族考古館1 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201409article_11.html
(11)同2 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201409article_12.html
(12)同3 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201409article_13.html
(13)同4 喫茶ばれん、質屋の入口から逃げる裁判官 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201409article_14.html
(14)飛騨高山まちの博物館 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201409article_15.html
(15)東西反転プランでは玄関だけ移動するのかhttps://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201409article_16.html
〔(16)~(20)の前提、権威主義的パーソナリティーの「デザイナー」が「建築家」の名前で敬意を表した慶應日吉(新)図書館について https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201409article_17.html 〕
(16)高山の町家で曲がった松をわざわざ柱に使用するか? 1 JR日光駅はライトの設計でなければ価値はないか? https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201409article_18.html
(17)同2 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201409article_19.html
(18)同3 マーケティング的発想のない店 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201409article_20.html
(19)同4 店のコンセプトが理解できない建設部長 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201409article_21.html
(20)同5 「酒が飲めない人にも飲める酒」を勧められない「日本酒ソムリエ」 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201409article_22.html
(21)飛騨総社 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201409article_23.html
☆高山シリーズ第3回 2015年
1.藤井美術民芸館 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201510article_1.html
2.高山陣屋[1]床の間、釘隠し・・ https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201510article_2.html
3.高山陣屋[2]白洲、土縁庇・・ https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201510article_3.html
4.高山市政記念館 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201510article_4.html
〔番外 宮川にかかる欄干に加圧注入木材使用の橋と 防腐防蟻剤について。 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201510article_5.html 〕
5.桜山八幡宮 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201510article_6.html
6.桜山八幡宮 摂社 天満神社 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201510article_7.html
7.山桜神社、古い町並美術館、手長足長 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201510article_8.html
8.宮川交番、高山警察署、高山市役所 他 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201510article_9.html
9.飛騨国分寺、「和風ドーマー」、二重サッシ他 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201510article_10.html
10.新宿‐高山のバスの予約をインターネットで「後部」を希望すると。「労災」のおかげで歩行困難にされた話 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201510article_11.html
☆高山シリーズ第4回 2016年
1.日の出天満神社 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_13.html
2.大八賀神社 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_14.html
3.東山遊歩道(1)高山別院照蓮寺から東山白山神社へ https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_15.html
4. 〃 (2)東山白山神社・大雄寺 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_16.html
5. 〃 (3)雲龍寺・久昌寺・栄鏡院 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_17.html
6. 〃 (4)洞雲院・素玄寺 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_18.html
7. 〃 (5)東山神明神社 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_19.html
8. 〃 (6)天照寺・法華寺 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_20.html
9. 〃 (7)善応寺1.本堂 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_21.html
10.〃 (8)善応寺2.地蔵堂 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_22.html
11.〃 (9)宗猷寺 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_23.html
12.〃(10)町年寄川上家別邸跡 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_24.html
13.煥章館と煥章館2階から見た東山 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_25.html
14.十六銀行 高山支店、早朝は無人の安川交番 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_26.html
15.新装「高山駅」 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_27.html
16.片流れ屋根のモデルハウス https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201611article_4.html
☆高山シリーズ第5回 2017年
1.内田康夫『風の盆 幻想』と巡る高山(1)喫茶店「ロスト」を探す https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201710article_5.html
2. 同 (2)高山ラーメン https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201710article_6.html
3. 同 (3)「K病院」https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201710article_7.html
4. 同 (4)高山市役所 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201710article_8.html
5.旧 野首(のくび)家住宅 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201710article_9.html
6.旧 新宮村 郷倉 ほか https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201710article_10.html
7.山岳資料館(旧 高山測候所)、飛騨民俗村とは https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201711article_1.html
8.飛騨合掌苑 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201711article_2.html
9.「飛騨民俗村 文学散歩道」https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201711article_3.html
10.飛騨高山美術館 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201711article_4.html
11.名古屋から高山へ「ワイドビュー飛騨」https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201711article_5.html
12.高山駅から飛騨民俗村へ[上]https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201711article_6.html
13. 同 [下]https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201711article_7.html
14.新上野橋から三福寺橋、山小屋て、なぜ洋風なの? https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201711article_8.html
15.「旧 吉城郡細江村の民家」(熱田神宮内) http://shinkahousinght.at.webry.info/201711/article_9.ht

歩きたい歴史の町並 重要伝統的建造物群保存地区 全86カ所 (楽学ブックス―文学歴史 13) - 米山 淳一, 森田 敏隆

民家に学ぶ家づくり (平凡社新書) - 吉田 桂二

サンデー毎日 2020年 3/1号 【表紙:木村拓哉】
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