御幸公園。植樹された梅林。役立たず教師・予備校。医者屋族は特権民族なのか? 遠州弁とタガログ語のバイリンガルの人。子猫を助けられなかった思い出。「武蔵小杉」のマンション山ー天満天神社(東古市場)参拝【3/3】
[第766回]冤罪を晴らす神さま・菅原道真・怨念を晴らすお百度まいり・第51念ー3
川崎市幸区東古市場の天満天神社の少し東に御幸(みゆき)公園があります。御幸公園の道路を隔てた南側に、東芝小向工場、北側は多摩川の河川敷があって、河川敷の北側に多摩川が流れています。東側は国道1号(第二京浜)。この道を北向きに走るバスに乗ると、都営浅草線「西馬込」駅から五反田の方へ行きます。


↑ 南半分に、野球場があり、子供用の遊具が置かれています。野球場は私がこの付近に住んでいた35年ほど前からありました。野球好きのおじさんたちが、言っちゃなんだが、あんまりうまくないプレーを見せてくれました。そりぁ、プロじゃなくて趣味でやっているのですから、プロ野球の中継なんか見ているのとは大きく違うのは当たり前ですが、でも、ある程度以上の年齢になっても、何かスポーツをやろうという気持になる人間とそうでない人間なら、何かスポーツをやろうという人間の方が私はいいと思います。但し、野球とか集団でやるスポーツの場合は、趣味でやる場合には、空いた時間にやるというのではなく、他の人との関係で、決まった日の決まった時間を空けないといけない、という点で難しいところがあるかと思います。
遊具の方は、私がこの付近に住んでいた35年ほど前からありましたが、その頃、あった遊具と今ある遊具は変わっているように思います。
向こうに見える背の高いビルは、川崎総合科学高校の建物ではないかと思われます。私がこの付近に住んでいた35年ほど前から、この位置に高校はありましたが、「川崎総合科学高校」という名前ではなかったと思ったのですが、《ウィキペディアー川崎市立川崎総合科学高等学校》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%9D%E5%B4%8E%E5%B8%82%E7%AB%8B%E5%B7%9D%E5%B4%8E%E7%B7%8F%E5%90%88%E7%A7%91%E5%AD%A6%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1 を見ると、《 1963年(昭和38年)に創立された川崎市立工業高等学校が1993年(平成5年)、校名を川崎市立川崎総合科学高等学校に改称し学科を現在の情報工学科、総合電気科、電子機械科、建設工学科、デザイン科、科学科とする。校舎のシンボルである1号館は1992年に竣工(当時は高層棟校舎)、地下1階、地上15階建て、高さはおよそ70mで、全国にある単独校舎の高校で最も高い。法的には超高層ビルとなる。》と出ており、「川崎市立工業高校」が1993年に「川崎私立 川崎総合科学高校」に名称変更したらしく、高層ビルの建物は1992年に竣工したもので、《全国にある単独校舎の高校で最も高い》ものらしい。大学の建物ならまだしも、高校の建物でこういう高層ビルというのはどうなのだろうなあ・・と思うのですが、どうでしょうか・・・。
「御幸公園」の「御幸(みゆき)」というのは、どこから来た名前なのかというと、今は昔、明治天皇がここに来られたことがあって、この地域についてご説明申し上げたところ、「あっそ」とおっしゃった・・ということはなかったようですが、ともかく、来られたことから「御幸」と名付けられた、と説明書きがでていました。
天皇がその地に行ったということを何というか・・というのを、高校生の時、「古文」で、一生懸命、覚えたはずでしたが、「行幸(ぎょうこう)」と「行啓(ぎょうけい)」と「御幸(ごこう)」と何だっけ・・と何種類かあったはずですが、なんか、それから何年かならまだしも、何十年か経つと、せっかく覚えたものもかなり忘れてしまいました。
佐伯胖『「学び」の構造』と 遠山啓『競争原理を越えて』(太郎次郎社) と、それから、森毅『数学受験術指南』だったか『元気が出る教育の話』だったかで(いずれも中公新書)、この3人が、別々に同じことを言っていたのですが、「『覚えた』ものは忘れるが、『わかった』ものは忘れない」と。 なるほど~と思いました。数学の公式とか、「覚える」のではなく、なぜ、そうなるかということを考えて、こうこうこういうことでこの公式が出てきたのだと「理解する」ようにすれば、そう簡単には「忘れない」というのです。それは一理あったと思うのですが、それを、大いにもっともなことだと思って実行したものの、弊害としては、それは数学とか物理とかを学ぶ時にはその考え方はいいのですが、英語なんて学習する際にも、その思考形式が身についてしまうと、かえって支障がでてくる。英語なんてのは、「なぜ、そうなるかを考えてその理屈を理解することによって覚える」なんて思考形式でやるものではない。 「人間は忘れる動物である。忘れればまた覚えればよいのである」という旺文社社長 赤尾好夫さんのお言葉は語学学習法における永遠に不滅の名言で、この考えで「ともかく覚える」、数学・物理型の「なぜ、そうなるかを理解することで、結果として覚える」方式ではなく英語型の「ともかく覚える」方式でやるものですが、ところが、難しいのは、人間というのは、この科目はこう、こっちの科目はこうと思考を切り替えるというのが簡単ではなく、どうも、片方の思考方法が他方にも影響してしまうところがあったように思います。
・・そして、「『覚えた』ものは忘れるが、『わかった』ものは忘れない」というのは一理はあるとは思うのですが、本当に「忘れない」か?・・・というと、高校および大学受験から何十年かたった今、あれだけ、一生懸命、勉強したはずの「数列」とか・・・、忘れた! あんなに必死にやったのになあ~あ・・・。 やっぱり、「覚えた」のではなく「わかった」ものでも「忘れる」ことはあるようです。
語学でも、雁屋哲が、「フランス語のできそこないが英語(イギリス語)だ」とフランス人は言うという話をどこかで書いていたが、実際、イギリス語および「アメリカ合衆国語型イギリス語」という言語が他のヨーロッパ系言語より優れているというわけでもなく、語学の学習にしても、イタリア語ですと、男性名詞と女性名詞というのがあって、「夜」sera (セーラ)って男だろうか女だろうか? なんて考えて「イタリア語日本語辞典」を引くと、「夜」は女だった・・・、なるほど、言われてみると、「夜」って女だよなあ~あ・・とか感心したり・・とか、辞書を見ているだけでも面白かったりしますが、英語にはそういうものがない。東郷正延『ロシア語のすすめ』(講談社現代新書)に、「ドイツ語は男と話すのによい、フランス語は女に語るのによい、スペイン語は神に語りかけるのによい。しかし、ロシア語はそのすべてに良い」というロシア人のお国自慢の話が出ていたが、たしかに、ロシア語というのはすべての言葉が韻を踏んでいて、普通の言葉が詩のような言葉であり、学ぶのが面白い・・のに対し、英語にはそういうものがない。イタリアに行って、周囲でイタリア人が話しているのを聞いて、イタリア語というのは普通に話していても歌を歌っているような言葉だなあ、と思った。モーツァルトはオペラ『フィガロの結婚』をイタリア語の歌詞で作った。『フィガロの結婚』の「もう飛ぶまいぞ、この蝶々」のアリアで、「ポココ、タンテ。ポココ、タンテ。ポ~ココ、タンテ・・」という文句が歌われるが、「タンテ」の後に男性名詞がくる形の「タント」は大阪弁の「たんと」(たくさん)ではなくイタリア語で意味も大阪弁と同じ、冷蔵庫で「タント」という名前の商品のテレビ広告があったがあれと同じ、「たんと」は大阪弁もイタリア語も共通の意味♪〔⇒《YouTube- フィガロの結婚 - もう飛ぶまいぞこの蝶々 - ジョゼ・ヴァン・ダム》https://www.youtube.com/watch?v=rTdcfc7ugrg 〕『フィガロの結婚』の原作者ボーマルシェはフランス人でモーツァルトはドイツ語圏のオーストリア人であったはずだが、なぜ、フランス語でなくドイツ語でもなくイタリア語で作ったのか。何で読んだか忘れてしまったが、かつて、「ドイツ語は大変卑近な言葉であって音楽には向かない言語で、ドイツでは宮廷ではドイツ人もフランス語を話し、そして、音楽家はイタリア語を使っていた」ことがあったらしく、音楽に向いている言語はイタリア語だ、という考え方があったらしい。(『魔笛』や『ドン=ジョバンニ』はドイツ語だったと思うけれども。)たしかに、イタリアに行ってイタリア人が話している言葉をきくと、普段の話し言葉からして歌を歌っているような言葉だし、それは素敵でもあるけれども、逆に、この人たち、こんな歌を歌っているような言葉で、困ることないのだろうかなんて思ったこともある。ドイツ語というのは、哲学とか物理学とかやる際には良さそうな印象がある。「ドイツ語は男と話すのによく、フランス語は女に語るのによい」というのも、言われてみると、そんな感じがしないでもない。「ロシア語はそのすべてによい」というのはあくまでもロシア人のお国自慢だとしても、そんなところがないこともない。その言葉の歌にしても、イタリア語の歌・フランス語の歌・ドイツ語の歌・ロシア語の歌には魅力的な歌が多い、(特にロシアの歌には「ええなあ、うらやましいなあ。わしぁ貧乏やからなあ」という「日陰の月見草」みたいな歌が多いので「日陰の月見草」には趣向が合う(^^)/ )のに対して、「英語の歌」というと、黒人霊歌は好きなのだが、黒人霊歌の英語というのは、かつて、奴隷制度があった時代の黒人の言葉で俗語・なまりがあって、日本の中学校から大学に至る学校教育で扱う英語とはかなり違うところがある。だから、こういうことを考えるのが好きな人間、というよりも、こういうことを考えるのが普通であって、こういうことを考えずにどうやって勉強するんだという思考の人間というのは、たとえ、語学でもイタリア語とかロシア語とかフランス語とかの方が語学そのものの学習も面白く、英語てのはやっていてもあんまり面白くないのだ・・・が、しかし、大学入試がそれほど先でもない時期にあるとかいう時にそんなこと言ってられないので、「しょーことなしにやる」が、こういうことを考える頭のない人間というのも世の中にはいるわけで、どっちがいいか悪いかわからないが、こういったことを考えない人間の方が、案外、英語の成績は伸びやすいかも? なんて思ったこともあるのだが、そうも言ってられないので、「雨にも負けず、風にも負けず」やるしかない。人間には「考える型人間」と「覚える型」人間というのがあって、「考える型人間」は「覚える型人間」に比べて英語は得意ではない・・が、そんなこと言ってられないので、「しょーことなしに」やるが、「しょーことなしに」やっていたのではどうも成績が伸びない。これは感覚的な問題なのだが、野球のスイッチヒッターというのは、もともとは右打者だった人が左打ちを「作った」というもののようだが、いわば、そんな感じ。「考える型人間」が英語なんかを学習するには「覚える型学習法」をいわばスイッチヒッターみたいに「作った」のだ。これは最初からの「覚える型人間」には理解できないことかもしれないが、私の場合は「作った」のだ。スイッチヒッターみたいに。
それからもうひとつ、ゴミには「燃えるゴミ」と「燃えないゴミ」があるように人間にも「燃える人間」と「燃えない人間」があって、「燃えない人間」の方が英語のような科目は得意じゃないかと思うのだ。「燃えない」ものだから、毎日、ちびちびやることに苦痛を感じない。それに対して、(これは、高校生の時に読んだ、学習法についての本で誰か言っていたことでもあるのだが)日本史・世界史とか社会科なんかは「毎日ちびちびと」よりも「週に1回か2回、ある程度長時間をとってまとめてやる」方が効率的ではないかと思うのだが、「燃える人間」は「ある程度まとめてやる方が効率的の科目」の方が得意になる傾向がある。もっとも、「俺は燃える男なんだ」とか『あしたのジョー』みたいなこと言って、「燃えない科目」はやらないなんてわけにもいかない、英語が入試にない大学なんてほとんどないわけで、やらないわけにはいかないので、「スイッチヒッター型思考」で「作る」なりしてやるしかないので、私もそうしたのだが、たとえ、そうしたとしても、それでも、「考える型」か「覚える型」か、「燃える人間型」か「燃えない人間型」かというのは、どうしても、残るような気がする。
こういうことを言うと、「なにを、今さら」と言う人が出てくるかもしれないし、逆に、「俺はそんなことない。俺はすべての科目を苦労せずにできた」とか言う人も出てくるかもしれない。「なにを今更」と思う人は最初からわかっている人だったのかもしれない。こういうことは、すでにわかっている人にとってはたいしたことない問題かもしれないが、わかっていない人にとっては、けっこう役立つということだと思っている。
「俺はそんなことない。俺はすべての科目について苦労せずにできた」とかいう人には、3種類、もしくは4種類あると思う。
(1) 「考える型」か「覚える型」か、「燃える型」か「燃えない型」かといっても、これは「デジタル」ではなく「アナログ」であって、「考える型」「燃える型」が相当強い人、「覚える型」「燃えない型」が相当強い人もおれば、中間の人、どちらかだけれどもそれほど傾向が強くない人というのもいると思うのだ。中間くらいの人か、どちらかの傾向がそれほど強くない人の場合は、気づかないことがあると思うし、もともとが「中間型」なのだから、スイッチヒッターみたいに「作る」必要もない。
(2) 2番目はたいして難関の試験に通ろうとしたことがない人、某一条工務店https://www.ichijo.co.jp/ とかいう会社にいた時、同僚のおじさんで、「うちの息子はたいして勉強しないくせして、そのわりにけっこう成績はいいんですよ」なんて言うおっさんがいたのだが、その息子さんのことはそれほどよく知らないのであまり断定的なことは言えないが、その人でも、「勉強しないわりにはけっこういい成績」でいいと思わないで、もっと最高の高さの点数を取ろうとしたならば、こういう問題は出てくると思う。壁を乗り越えよう、もしくは、壁をぶち破ろうとした時にこういったことに気づく。そのおじさんの息子さんがどうかはわからないが、「まったく無能ではないけれども、壁を乗り越えようとはしないというタイプの人」には、こういうことに気づかない人・こういうことを考えない人がいる。私だって中学校まではこういうことを考えないでもそれなりの点数は取れた。進学校に行って、ある程度以上難関の大学の入試に通る点数を取ろうということを考えると、「あれ?」と思うこともあり、こういことに気づくようになる。
(3) そして、3番目、本当に何にも考えずに難関の大学入試や資格試験の入試で相当の高得点が取れる人、「天才型」とでもいうような人、「何にも考えない人間」でそれでいて高得点が取れるという、いわば「長嶋みたいなやつ」というのが本当にいるのならば、それが3番目だが、なにしろ、「わしぁ、日陰の月見草」だから「長嶋みたいなやつ」がどうであっても、そんな人のことなんか、知らん!
(4) それから、4番目もあった。4番目は「学歴詐称の人」。私が大学生だった時、東大病院、東大医学部付属病院というのが正式名称らしいが、この名称だと、東大医学部卒の医者が診察していると多くの人間は思うのではないかと思うが、実は違うらしいのだ。そうではなく、関東地方の医学部と病院には、東大医学部帝国主義と慶應医学部帝国主義の2つの帝国主義医学部、及び、千葉県限定で千葉大医学部帝国主義があって、それ以外に、植民地医学部と植民地病院があるそうで、私立金権裏口医学部というのは、たいてい、東大医学部帝国主義と慶應医学部帝国主義のどちらかの配下にあるらしく、東大病院というのは東大医学部帝国主義の配下の植民地医学部卒の医者もまた勤務しているらしいのだ。(関東では、東大医学部帝国主義と慶應医学部帝国主義の2系列+千葉県限定で千葉大医学部帝国主義 の3系列のところが、関西では、京大医学部帝国主義と阪大医学部帝国主義の2系列らしい。)だから、どの病院にかかるといいかわからない「善良な市民」は、東大病院なら東大医学部卒の医者が見ているのだろうからと思って、「金権ドバカ医大付属病院」なんて病院より東大病院の方がいいだろうなんて思ってかかる人がいるようなのだが、違うようだ。「東大医学部卒の医者がいいとは限らない」といったことを言う人もいるが、それは実際にそうだろうけれども、一般市民はどういう病院がいいのかなかなか情報がないので、
《1》少なくとも「私立金権裏口医学部卒の医者」よりも国立大学か慶應大医学部くらい卒の医者の方がいいのではないかと考える人がおり、《2》又、私などは、工学部で石とか鉄とかを扱う分野と違って医者は人間を扱う仕事なので、今もそうかどうかはわからないが私が高校を卒業した1970年代後半から1980年代の入試ならば、慶応大医学部・自治医大・慈恵医大・大阪医大その他多くの私立医大のような入試科目が「数学と英語と物理と化学」の大学よりも、「数学と英語と物理と化学」とともに国語や社会科も入試の科目にある京大・阪大や東大のような国立大学の方がいいのではないか、と考えた時があった。(今は、「国語や社会科も入試科目にある大学」卒でも、あかんやつはあかん・・と思っているのだが。)
しかし、そう考えて東大病院を受診すると、実際には、私立大学卒で国語や社会科の試験のない大学・・というよりも、カネとコネで入る大学卒のやつが東大病院で医者屋やっていたのだった。東大医学部卒の医者が診察しているわけでもないのに「東大病院」と名乗っているという名称は、これは公正取引法かなんかそういう法律に違反してないか疑問に思うし、虚偽名称であるのは間違いないはずで、「事実と違う、紛らわしいなどなど」に該当するので、「ジャロに言うたろか!」と思うような名称なのだ。〔⇒《YouTube-JARO 白雪姫篇》https://www.youtube.com/watch?v=OyGtVTySYEo 〕 1981年、その東大病院に勤務して医者屋をやっていたF山(男。当時、30歳)が「このぼくは、東京大学理科三類に何にも考えなくてもゆうゆうと余裕もって現役で通ったんだぞお。それに対して、おまえは2年も浪人しても東大に通らなくて落ちて、慶應にしか行けなかった最低のカスだろうが。最低の落ちこぼれだろうが。自分は最低のカスだ、自分は最低の落ちこぼれだと認めなさい! わからないのか。このぼくは能力的に優秀で人格が優れていて何よりも謙虚な人間なんだ。何より謙虚なこのぼくぅ~!♪! ぼくときみとは能力も違えば人格も違うんだ! こんな常識もわからないのか。おまえはこの程度の常識も理解できないような落ちこぼれなのか! この程度のことも理解できない最低の最低の人間だということなんだな!」と何度も何度も言われたものだったが、最初は、本人が自分で「ぼくは東京大学理科三類に現役で通った」と言っていたので本人がそう言うからにはそうなのだろうと思っていたが、話を聞いているうちに、なんか変だなと思うようになったのだったが、後から聞いた話によると、彼は勤務先は東大病院で職種は医者屋をやっていて、「T京大学医学部卒」だったが「東京大学医学部卒」ではなく「帝京大学医学部卒」だった。私立金権裏口医学部に裏口入学で入って卒業した男だったのだ。なるほど、私立金権裏口医学部卒の人間が言いそうな文句だった。これが4番目のタイプ。私立金権医学部裏口入学の人には、努力して苦労して実力である程度以上の大学に通ろうとする人間・通った人間に敵意を持っていて、「私立金権医学部裏口入学」が「庶民」だ「庶民的」だと主張する者がいるのだが、なんで、「患者」を薬漬け・検査漬け・毒盛りして作ったカネで裏口入学する人間が「庶民」なのかマカ不思議なのだが、彼らはそう考えている。そういう連中には関わらん方がいいと思う。
4番目のタイプは、最初から嘘だから、「タイプ」の中に入れる必要はないかもしれないので、入れなければ、3種類、入れれば4種類ということになる。たとえ、「本当の天才」、別名「長嶋みたいなやつ」というのがいても、そんなものは私には関係ない。なにしろ、「わしぁ、日陰の月見草」であり、「ID野球」「弱者の戦術」で「長嶋みたいなやつ」をコテンパンにやっつけてやるのことがなにより快感♪ である。⇒《 ヤクルトラッキー7 東京音頭(くたばれ読売) @20180425 松山》https://www.youtube.com/watch?v=33Cmy6mTsBg
それで、久しぶりに、「古文」のお勉強です。
《 行幸(ぎょうこう、みゆき)とは、天皇が外出することである。目的地が複数ある場合は特に巡幸(じゅんこう)と言う。
また、御幸(ごこう、ぎょこう、みゆき)と言う場合もあるが、これは上皇・法皇・女院に対しても使う。 》
( 《ウィキペディアー行幸》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A1%8C%E5%B9%B8
《 みゆき【行幸】 天皇のおでまし。》
( 大野晋・佐竹昭広・前田金五郎編『岩波 古語辞典』1974.12.25.岩波書店 )
《 行啓(ギョウケイ) 《古くは「ぎょうげい」とも》太皇太后・皇太后・皇后・皇太子・皇太子妃・皇太孫が外出すること》
( 《行啓》https://kotobank.jp/word/%E8%A1%8C%E5%95%93-478035 「デジタル大辞泉の解説」 )
《 行啓 皇后、皇太后、皇太子などの出行をいう。天皇の出行を行幸(ぎょうこう)というのに対する。》
( 《コトバンク 行啓》https://kotobank.jp/word/%E8%A1%8C%E5%95%93-478035 「日本大百科全書(ニッポニカ)の解説」 )
35年少々前、御幸公園に来て、明治天皇がここに「御幸」なさったことから「御幸公園」と名付けられた、書かれていたのを見て、あれ、天皇がそこに行くというのは「御幸」じゃなくて「行幸」じゃなかったっけ? なんて思ったのでしたが、↑ の言葉の定義づけによると、
「行幸(ぎょうこう、みゆき)」は天皇が行くことで、
「行啓(ぎょうけい)」は皇后・皇太后・皇太子などが行くことだけれども、
「御幸(ごこう、ぎょこう、みゆき)」は、上皇・法王・女院が行くことを言う場合もあるが、天皇が行くことにもこの言葉を使うらしい。
「行幸(ぎょうこう)」と「行啓(ぎょうけい)」と「御幸(ごこう、ぎょこう、みゆき)」の違いというのは、1970年代後半、北野高校https://www.osaka-c.ed.jp/kitano/ の1年の時だったか3年の時だったか、「古文」の教諭のU村(男。当時、50前後くらい?)が授業で話した際に、(いったんは)覚えたのでしたが、私は国立大学に共通一次試験が導入されるかされないかの境目くらいに高校を卒業した者ですが、共通一次試験実施前の国立大学の入学試験にも私立大学の試験にも、共通一次試験実施後の共通一次試験にも、国立大学の二次試験にも、私立大学で「国語」が入試にある大学学部の試験にも、この知識があるかないかで得点できるかできないか変わるような問題は1問として出題されませんでした。
「高校の勉強は大学入試のためだけにあるのではない」というのはそれはそうだと思いますし、高校を大学入試の手段としか考えない思想がいいと思わないし、又、そういう思想でやるのが大学入試に有利というわけでもないと思うのですが、けれども、今から考えてみると、あの高校の教諭というのは、大学入試に出ないものばっかり大量に勉強させて、もっと入試に出題されるものに絞って学習しておけば、京大なり東大なりに合格できた可能性のある人間を、それより評価が下の大学、それこそ、関関同立とかに行かせて、それで、「大学はどこでも一緒や。良かったじゃないか」とか言うような人が多かったように思います。「良かった」か? 良くないと思うぞ。片方で、「私立6年制受験校」と言われる私立高校卒の人と話すと、東大にすんなりと現役で通った人にしても、浪人して東大受験を回避して一橋あたりを受けてそれも落ちて慶應に入った・・とかいった「落ちこぼれ」にしても、入試ではそれなりの点数を取ったのであろうわりには頭の中味がない・・みたいな人が現実にいるように思いましたが、どっちがいいのかといっても両方の面があると思いますが、「入試で出題される内容に絞って学習すれば、京大なり東大なりに合格できたかもしれない」生徒に、入試に出ないようなものばっかり大量に勉強させて、関関同立とかに行かせて、「良かったじゃないか」とかぬかすヤツというのは、・・結論として、そういう人というのは、それは親方日の丸の公立高校だから勤めてられるのであって、現実問題として「企業経営」としておこなわれている私立高校なら成り立たない、存在しえない人間でしょう。北野高校が一時期、進学成績が低迷したのも、そのあたりに一因があるように思います。
1970年代後半、私が北野高校https://www.osaka-c.ed.jp/kitano/ の生徒であった時というのは、少し前に、学区が小さくなり、それまで、阪急宝塚線沿線(豊能地区)と京都線沿線(三島地区)と大阪市の淀川地区の3区域から行けたものが、1学年あたりの人数は同じで三島地区からは行けなくなって学区が小さくなったことで、それまでなら合格できていない人も合格して入学するようになったことで、全体として、入学時の学力がに低下した、ということがあり、北野高校の先生たちは、「できの悪い学年やなあ」とかしょっちゅう口にしていましたし、又、「学区が変わる前と比べれば、進学成績が悪くなるのは当たり前ですよ」とも口にしていたのでしたが、まず、それがいけないのではないか、と思うようになりました。「できの悪い学年やなあ」というのは、高校の英語や数学の先生は1年から3年まで同じ生徒を担当して、また、1年から担当するので、3年前の生徒と比べて全体として「できが悪い」と思うことがあったかもしれませんが、たとえ、そうであっても、そういう文句は口にするべきではなかったはずです。それこそ、「一流選手をかき集めてきて優勝を狙う巨人みたいなやつ」みたいな文句を毎日にように言われるというのは、そんな「監督」というより、教諭は優秀な教諭ではないのではないか。そもそも、たとえ、3年前と比べると入学時の学力が低い生徒が入学してきたとしても、それでも、大阪府の高校の中では最難関の高校だったのです。もともと、進学校でも何でもなかった、むしろ、言っちゃなんだが「不良高校」みたいに言われていた私立高校や新設の私立高校で、最近、京大や阪大、あるいは東大に何人も、あるいは「何人か」の合格者を出すようになった高校がいくつかあるはずですが、そういう高校では、学区が小さくなったことで3年前に比べると全体として入学してくる生徒の学力がいくらか低くなったとしても、3年前より全体として学力が低くなったその北野高校の生徒よりもまだ学力の低い生徒しか入学してこないのです。そういう生徒をな~んとか工夫して京大にでも阪大にでも、あるいは東大にでも入れてこましたろうじゃないか・・と努力して成果をあげた人がいたわけです。「できの悪いやつらやなあ」と3年前の試験でも通った可能性が高い者にまで言いまくるのを日課みたいにしていた教諭というのは、いわば、「商魂こめて大金で」有力選手を集めて優勝を狙う「巨人みたいなやつ」、「長嶋みたいなやつ」でしかない。
※ 《YouTube-【阪神タイガース 大合唱】開幕戦の"商魂こめて"は凄まじい》https://www.youtube.com/watch?v=jqA-_IY2Gu8
《YouTube-38度線の目の前で商魂込めて歌ってきた 2019/10/10 CS Final 第2戦 巨人対阪神 ラッキーセブン》 https://www.youtube.com/watch?v=77veMUsGSKA
2月11日に他界した野村克也のじいさんは、阪神の監督での後半以降は自己弁護ばっかりやって「ヤクルトの監督の時はいい監督だと思ったんだけれどもなあ~あ」と南海時代からのファンとしては悲しい気持ちになったが(江本がそれぞれの職種には「旬」があって、阪神の監督の時の野村には「旬を過ぎた監督」としての悲哀・苦しみがはっきりと出ていた、と述べていたが私もそう思った)、特に、1995年、前年4位だったヤクルトから、主力選手の広沢・ハウエルを巨人に奪われて、その主力選手を奪われた側のヤクルトが奪った側の巨人をコテンパンにやっつけて優勝♪ 1997年は前年4番を打っていたオマリーがいなくなって4番不在で開幕したヤクルトが、清原がFAで西武から入った巨人をまたもやコテンパンにやっつけて優勝♪ それでこそ、名監督! テレビの野球中継には、おそらく「なんや、こんなやつ」とか清原が思っていたであろう投手に三振して首を傾げてベンチに戻る清原の姿が何度も映った。
※ 《YouTube-松山で流れるくたばれ読売(東京音頭)ヤクルトラッキー7 20190416》https://www.youtube.com/watch?v=8qAPp3RbB7s
《YouTube-2019/8/6 ヤクルト対阪神 試合前 くたばれ讀賣 1-9 六甲おろし》https://www.youtube.com/watch?v=mcE-sGR944U
たとえ、3年前と比べて入学時の学力が低い生徒が多くなったとはいえ、それでも、大阪府の高校の中では最難関の高校だったのに、それを「ま~ったく程度の低い学年やなあ、ほんまにい」とそればっかり言っているような教諭なんて・・、高校生の時には、頑張らなければ・・とか思ったけれども、そういう口ばっかりきくような教師なんて、あんまり高く評価できる教師ではないなあ・・と思うようになった。「巨人のようなあり余る戦力」が整えば勝てるが、「ちょっとでも戦力が劣るようになれば、愚痴ばっかり言いまくる」ような「監督」みたいな教師なんて、要するに、たいした教師じゃなかった! と自ら宣言しているようなものだったのではないか・・・と思う。もし、当人がこのブログを見ることがあっても、たぶん、認めないと思うが、別に認めていらん。当人が認めなくても、世間は感知している。
慶應の教授で「大阪の人間というのは、大阪は商人の街なんだから、もっと私学を大事にすればいいのに、大阪の人間は国公立の方がいいみたいに思ってからに。まったく、大阪の人間というのは何を考えてるのか」と言う人がいたが、その人は東京で生まれ育った人なので「大阪の人間」の思考を理解できていなかったのだ。「大阪の人間」は「大阪は商人の街だから」ということで「国立よりも私学を大事にするべきだ」というのは東京の人間もしくは慶應の内部進学の人間の発想であり、「大阪の人間」はそうではなく、「商人の街だから」こそ、「一生懸命勉強した者が、なんで、カネのかかる私立の学校に行かされなあかんねん。勉強せえへんかったもんがカネのかかる私立の学校に行くのはしかたがない。勉強したもんがカネのかからん国公立の学校に行かせてもろうて当然やろうが」という考え方であったはずだ。
しかし、公立進学校が親方日の丸で「公立」に胡坐をかいた運営をしているならば、胡坐をかいたような教師が生徒のせいにばっかりしているならば、「商人の街」は「コストと利益を比較考量して」という思考をして、もしも、コストが少々高くても、それを上回る利益があるような私立の学校ならば、私立高校に行くということも選択肢としてあることになる。 「できの悪い学年やなあ。できの悪いやつらやなあ」と3年前に比べると全般に学力が低くなったとしてもそれでも大阪府では最難関の高校なのに、そんなことばっかり言いまくる教師の学校でも、親が京大なり東大に行った親の息子・娘なら親が指導することができるが、そういう親の息子でない者は教師を頼りにするのだが、その教師が「巨人みたいや」「長嶋と一緒や」というのでは、それなら、むしろ、京大や東大卒の親の息子ではないが中学校卒業まで一生懸命努力して勉強してきた者は私立進学校に行った方がいいくらいだ、ということになる。むしろ、親方日の丸で成り立っている「落ち目の伝統公立校」の方が「巨人みたい」な存在になってしまう。だから、北野高校は、一時期、人気が悪くなり、進学成績が低下したのだと思う。最近、大阪府では学区をなくし、「進学重点校」というものを指定するなどして、2020年の北野高校は京大合格者数1位、何十年ぶりか〔たぶん、私が卒業する前年以来ではないかな〕で3桁合格者数を回復したようだが、このあたりの状況を理解しないならば、また、凋落する可能性も十分にあると思う。
・・・で、まあ、「行幸(ぎょうこう)」と「行啓(ぎょうけい)」と「御幸(ごこう、ぎょこう、みゆき)」との違いは、入試には共通一次試験前の国立大学の入試にも私立大学の入試にも、共通一次試験以後の共通一次試験にも国立大学の二次試験にも私立大学で「国語」が入試にある学部の試験にも、それを理解しているか否かで得点できるかどうか変わるような問題は1問として出題されなかったけれども、まあ、忘れてもいいけれども、いったん、理解しても、別にかまわんかもしれない・・とは思う・・が、無理に覚えなくても、忘れたらまた調べればいいことだ。
それから、YMCA予備校の「北野高校卒、京都大学文学部卒、天王寺高校元教諭」だという山之内という「古文」の講師が、平安時代の日記文学の覚え方として、「トカイムサジサ」と覚える、都会にはムササビやのうて、ムサジサいうやつがおって・・と覚える、と言い、
ト・・土佐日記
カ・・蜻蛉日記
イ・・和泉式部日記
ム・・紫式部日記
サ・・更級日記
ジ・・成尋阿闍梨の母の集
サ・・讃岐典侍日記
と覚えたのだが・・・、これもまた、国立大学の共通一次試験でも国立大学の二次試験でも私立大学の入学試験でも、これを知っているから解ける、知らなかったら解けないなんて問題は、1問として出なかった。まあ、これ、覚えるのにそれほど労力がかかるわけでもないから、まあ、いいかもしれんけれども。
さらに自称「北野高校卒、京都大学文学部卒、元天王寺高校教諭」という山之内のおっさんは「今年は徒然草が出る!」と断言して、それでまた、私も徒然草についての無茶苦茶詳しい解説書を読んだものだったが、その年も翌年も、共通一次試験にも国立大学の二次試験にも私立大学で入試に国語のある大学学部の試験でも、『徒然草』からの出題は1問としてなかった! まず、そこまで、「断言」するというのが間違っていると思う。彼は相当詳しい『徒然草』の解説書、大学入試向けではなく研究者向けみたいな本を読むように勧め、私は彼の言うことをきいてしまったのだが、分厚い本を使えば入試で高得点が取れるというものでもない。厚い本を1回読むのと中くらいの本を3回読むのと薄い本を5回読むのとでは、薄い本を5回読んだ方が高得点を取れる場合もある。彼にはそういう思考が欠落していたのではないか。私などが高校を卒業した頃と違って彼が大学に進学した頃は、京大でも文学部は入りやすかった時期で、たいして苦労も工夫もなく大学に入学したのではないのか。あそこまで分厚い本を読んで『徒然草』にばかり時間を費やしたのでは他の勉強ができなくなる。そのあたり、山之内のおっさんは受験についての感覚が「ずれていた」。あそこまで分厚い研究書なんて浪人中に読んでいたのでは、本当に試験に出る部分の学習がおろそかになる。「ID野球 弱者が勝者になるために」のひとつ、「戦力の集中」に逆行するものであった。試験に通ろうと思ったならば、たとえ、研究としては価値があるものでも入学試験に出ないようなものにあまりにも力を入れていてはだめです。そのあたりもわからんのかと思ったが、その人が大学に入学する頃の力はなくなってしまった人は、そのあたりが「ずれとる」状態だった。そういう人を「かわす」能力が10代の時の私は不足していたかもしれない。
YMCA予備校に行っていた時から感じていたが、彼は北野高校から京都大学に進学した時、天王寺高校の教諭になった時はそういう学校に進学して古文の教師になってやっていこうという人だったかもしれないが、YMCA予備校の講師として勤務しているその時点においては、「堕落している」とまで言うと言い過ぎかもしれないが、その人が大学に進学した頃や大学を卒業して高校教諭になった頃の状況よりも全般に能力が低下しているという印象を受けたが、実際、そうだと思う。それが彼の予想がことごとくはずれる結果につながっている。
今から考えてみると、なんだか、入試に出ないものばっかり、相当勉強したものだ。ご~くろうさ~ん! て感じがする。
北野高校は大阪府立だから、裏口入学とかそういうものはない。1980年前後、父の「親友」で医者屋のM川という男(当時、50過ぎ。当時、大阪府豊中市在住)が、ドバカ息子を私立金権関西医大http://www.kmu.ac.jp/ に裏口入学させたというのを自慢にしていたのだが(そもそも、裏口入学というのは、たとえ、やるにしても「こそっと」「恥ずかしそうに」やるものであって、自慢するものとは違うように私などは思っていたのだったが、M川は自慢するのだった。それが「医者屋族」にとっての「常識」で、裏口入学なんて自慢するものと違うだろうが・・という私の認識は「常識がない」とか「思考の硬さが気にかかります」とか「診断」されるようだった)、「わしは息子に言うたりますねん。おまえが大学に行けたのはおまえが努力したからとは違うねんぞ。わしがえらいから裏口入学できてんぞ。おまえは何の努力もしとらんねんぞ。心得違いを起こすなよ、とそない言うたりますねん」と父に何度も言っていた。M川のドバカ息子が私立金権関西医大に裏口入学できたのは、それはM川がえらいからではなく、M川に薬漬け・検査漬け・毒盛りされたかわいそうな「患者」のおかげであって、薬漬け大魔王のおかげではない。「心得違いをおこすなよ」と言われる必要があるのはドバカ息子よりもM川の方であろう。そのM川の発言を聞いて、父は「そうや。わしもそない言うたろ」と思ったようで、私に何度も言うのだった。「おまえは北野高校に行ったと思っておるかもしれんけれども、おまえが努力したから北野高校に行けたのとは違うねんぞ。おまえは浪商やねんぞ、浪商。わかっとんのんか浪商チャンコロ! おまえはチャンコロで浪商やねんぞ。たとえ、北野高校に行ってもおまえは浪商やねんぞ浪商このチャンコロっ! わしがえらいからおまえは北野高校に行かせてもらえたのであって、おまえが努力したから北野高校に行けたのとは違うねんぞ、心得違いを起こすでないぞこの浪商チャンコロ浪商めがチャンコロっ!」と私の眼を指で突き刺すようにして毎日毎日何度も何度も言うのだったが、M川のドバカ息子は中学校も高校も大学も私立の学校に裏口入学だったようだが、私は小学校も中学校も公立で北野高校は大阪府立であって裏口なんてそんなものはないし、私は裏口で入れてもらったのではない、正規に入学試験に合格して入学したのである。私立の高校よりずっと安い公立高校に正規の入試に合格して入学したのであって、M川のドバカ息子みたいに「患者」を薬漬けして貯めたカネで入れてもらったのとはまったく違うのだった。
しかし、北野高校は府立なので私立の学校と違ってコネとかそういうものはないだろうと高校生の時の私は思い込んでいたのだったが、それは違うようだ。入る時はそういうものは通じないが、入ってからは関係あったのではないか。「国語」系の教諭は、どうも、1年の時に同じクラスだった大阪教育大付属中学校池田校舎卒の安◇(女)の機嫌をとるような発言が相次いだのだが、あいつ、そんなにいいかなあと思っていたが、1年の時の「現代国語」の教諭だった旧姓作野礼子(女。北野高校⇒神戸大文学部卒。当時、20代)も、宮沢賢治の詩の感想文みたいなものを書かせて、「優秀作品」として2名のものを印刷して配った際に、その片方に安東のものを選んだのだったが、その時も、「そんなにいいかなあ」と思ったが、今、考えてみると、むしろ、あの時の安東の文章は、「高校生としては幼い」「高校生としては読みが浅すぎる」もので、むしろ、「並よりも間違いなく下」のものだったと思う。あれを「優秀作」と選ぶ国語教諭もまた、国語科教諭として高く評価できない。生徒よりも旧姓作野礼子自身が宮沢賢治と宮沢賢治の詩について理解できていなかった。そう断定できる。旧姓作野礼子は、「両親が離婚したから」ということもあるとともに、どうも、男性を敵視するところがある女性で、「優秀作」には女生徒のものを選ぶことが多い女だったが、もうひとりのNさんのものを選んだのはそれだけだったと思うが、安東のものを選んだ理由としては、安東の親は北野高校の「国語」系の教諭とコネクションがあったのではないのか、と思う。 植村(男。当時、50くらい?)もまた、「古文」の教諭として、「質問はないかあ」と言い、誰も質問しないと、「質問はないということは、すべてことごとくわかっておるということやな。それなら、こちらから質問してやろう。それで答えられなかったら、げんこつや。」とか言い、それならと思って質問すると、「はあん。こんなこともわかりませんのおん! はああん!」と言うというそういう男だった。だから、質問すると「はああん!」と言われるし、質問しないと「何でもわかっておるということやな」とか言うという人間で、逆に植村の方から質問されると、当然、答えられない生徒が出てきたのだが、それが女生徒なら「げんこつやとは申しましたけれども、お嬢ちゃんの頭を殴るわけにもいきませんからなあ。よっしゃ、殴れるやつ、あてたろ」とか言って男子生徒に質問したりしたのだったが、ところが、安東が「質問」すると、「はあん、そんなこともわかりませんのおん! はああん!」と他の人間が質問した時なら言う男が、「はい~い。安東しゃん、大変いいご質問でしゅねえ、安東さん」とか言いよったのだ。あれえ? そんなに「いい質問」かなあ~あ? と思ったのだが、私みたいな「普通の市立中学校卒」の者と違って、安東は「大阪教育大付属中学校卒」でもあり、なんか、コネクションがあったかな・・・と今は思っている。今から考えると、北野高校というのは行きたいと思って行った学校であり、だから、合格した時はうれしかったのだが、なんかそんな教師が多かったなあ・・、と思う。生徒によって、そんな具合で対応を変える教諭というのは、「つまんねえ野郎だなあ」と思う。
植村は、生徒の方から質問すると「はあん、そんなこともわかりませんのおん! はああん!」と言い、質問しないと「質問はないかときいておるのに、質問はないということは、どんなことでも答えられる、どんなことでも理解できているということやな」と言うということは、その学習範囲については「どんなことでも答えられる」「どんなことでも理解できている」というくらいに学習しろという意味かな・・と高校1年の時に植村がそう言った時には思ったのだったが、その学習法は「入試に通る」という視点で見ると効率は悪い! そんなもの、「どんなことでも理解できている」なんて、そこまでやらなくても試験に通ることはできるし、「どんなことでも理解できている」なんて学習法を取るよりも、「試験に出るものを理解できている」ようにやった方が「入試に通る」という視点では効率はいいはずで、植村の言うことなんて気にしない方が「入試に通る」という視点ではいいと思う。そもそも、特定の生徒にだけ、「安東さん、それはそれは大変いいご質問でしゅねえ」とか声の質まで変えて言うようなしょーもないおっさんなんて、くっだらねえ、「つまんねえ野郎だなあ!」、そんなやつの言うことなんてきくのではなく、そんなやつをどう「あしらう」かを考えた方がよかっただろう。
川崎市の幸区は、なぜ、「さいわい」区というのか。東芝小向工場は今もあるが、鹿島田駅の前にはかつては東芝タンガロイの工場があったし、他にも工場がいくつもあった地域である。もしかして、「地方」から中学校を卒業してすぐに集団就職でここに来て工場で働くようになった人が、ここでいいことがあったらいいのになあと願って、それで「幸(さいわい)」区と名付けた・・・とかそういうことか? とか考えたこともあったのだが、そうではなく、明治天皇がここに「御幸」されて、「あっそ」とは言われなかったけれども、そういうことがあったことから「御幸公園」とこの公園が名付けられて、そこから区の名称が「幸区」になった、と説明書きに書かれていた。もしかすると、由来は2つ以上あるかもしれない。千葉県習志野市から船橋市にかけて、「習志野(ならしの)」という地名があるが、これも、陸軍だかの行進を見て、立派な姿のおっさんがいて、その誰それに「ならへ」と明治天皇がおっしゃったことから「ならしの」だとかいう話があるらしいが、実際はそれよりも、「なだらかな野」で「なだらかな野」⇒「ならし野」⇒「習志野」ではないか。 「幸区」の由来もそういうものがあるかもしれない。今は多摩川は比較的まっすぐに流れていて堤防も整備されているが、かつての多摩川は蛇行していて水害もあったというから、かつて、多摩川が氾濫して水害にあって家族に死者が出たような人たちが、いいことがあればと思って「さいわい(幸)」区と名付けた、ということもありうるような気がする。「国家」が一方的に名付けるならば、天皇がここに来たからとか、天皇がこうおっしゃったからとかいうことで名付けることもあるかもしれないが、そういう「上からの地名」はなかなか根付かない。「E電」にしても、ふと気づくと消えてなくなってましたでしょ。「高輪ゲッターロボ」もそのうち名称が変わると思いますよ。たぶん。 多摩川の氾濫で被害にあった人が「いいことがありますように」と願って「幸い」と名付けたとか、「地方」から中学校を卒業と同時に集団就職で来た人がここで「いいことがありますように」と名付けたとか、そうでないにしても、何か、庶民もしくは一般市民の意識に沿ったところから来た名称があって、それに「明治天皇さんが来られました」というものが合体した、ということならあるかもしれないように思うのだが。
それで、御幸公園は北側に梅林がある。「ばいりん」と言っても、(株)一条工務店https://www.ichijo.co.jp/ の営業本部長の「遠州弁とタガログ語のバイリンガル」、梅毒の「梅」と淋病の「淋」と軽薄の「軽」で「梅淋軽(バイリンガル)」の「バイリン」ではない。従業員が、何とか契約してもらおうとして、結果として契約になったかならなかったかは別として、夜遅くまでかけずりまわっているまさにその時に、フィリピン人女性ネイティブスピーカーからマンツーマンでドリンク付きでタガログ語講座を受けとった男がタガログ語を話せるようになって「遠州弁とタガログ語のバイリンガル」になった、という「バイリン」とは違う! 梅の林である。
語学の学習でも、リーディング・ライティングの部分は自分で机に向かって学習するしかないが、ヒアリング・スピーキングの部分については、何と言ってもネイティブスピーカーと接する機会を多く持つということが第一だと実感した。(株)一条工務店の営業本部長がタガログ語を話すというのは、まさにそれだ! ・・・が、英語が話せる・フランス語が話せる・イタリア語が話せる・・というのはそれはいいことではあっても、ひとつの能力があるということで、別に人格が優れているとかいないとかいう問題ではないはずだが、日本では、英語の能力がある・フランス語の能力がある・イタリア語の能力がある・・というのは、人間としての評価までいくらか上がるようなところがある・・のに対して、「タガログ語が話せる」というのは、特に日本語については遠州弁しか話せない人が「タガログ語が話せる」というのは・・・、なんだかなあ~あ・・・・・。 (株)一条工務店の工場部門の(株)日本産業がフィリピンに工場を作った際に、見込客に見てもらうために作成したビデオで「なぜ、フィリピンに作ったかというと、それはフィリピンは英語の話せる人が多いからです」などと女性ナレーターが話していたのだが、フィリピン人は英語の話せる人が多いらしいのだけれども、「たとえ、フィリピン人に英語の話せる人が多かったとしても、一条工務店の経営者が英語を話せるわけじゃないのだから、フィリピン人で英語の話せる人が多かったとしても、一緒と違うのかな」と思ったことを口にしたところ、「一条工務店の経営者が話せるのは英語じゃなくてタガログ語ですよ、タガログ語」と某従業員が言ったのでしたが・・・、そんなところみたい・・・というのか、「まったく、一条工務店の経営者は、フィリピーナのけつ追いかけていって、とうとう、フィリピンに工場まで作りやがった」・・と従業員の間では言われていた。
御幸公園の野球場の北側、国道1号に近い側に梅林がある。

↑ が、明治天皇が「御幸」されたという石碑である。35年少々前、私がこの付近に住んでいた頃からこの石碑はあった。

↑ 側面に書かれているが、この石碑の文字は、「侍従長 海軍大将 鈴木貫太郎」によるものだそうだ。
鈴木貫太郎というのは、この文字を書いた時は「侍従長 海軍大将」だったかもしれないが、
《 鈴木貫太郎 1867~1948 海軍大将。 2・26事件のとき襲われて負傷。小磯内閣の後をうけ組閣。》
《 鈴木内閣 1945.4.~8 終戦を目的として成立。同8月主戦派を押さえてポツダム宣言受諾を決定。終戦とともに総辞職。》
( 全国歴史教育研究所協議会編『新版 日本史用語集』1975.2.28.新版 山川出版社 )
で、「終戦」というのか敗戦というのか、ポツダム宣言受諾の時の内閣総理大臣である。
ちなみに・・・。 鈴木梅太郎は、
《 鈴木梅太郎 1872~1943 化学者。スイス・ドイツに留学し蛋白質研究。東大教授。1911年オリザニン創製。以後理研で栄養化学研究。》で、蛋白質の研究者であって、梅の研究者ではない。
『新版 日本史用語集』(山川出版社)の鈴木貫太郎と同じページに、重光葵(しげみつ まもる)の名前が出ているが、
《 重光 葵(しげみつ まもる) 1877~1957 外交官。東条・小磯・東久邇・鳩山内閣の外相。戦犯服役後、改進党総裁。保守合同後自民党入党。日ソ交渉に活躍。 》
と出ているのだが、
《 重光は敗戦直後に組閣された東久邇宮稔彦王内閣で外務大臣に再任され、日本政府の全権として降伏文書に署名するという大役を引き受ける。1945年(昭和20年)9月2日、東京湾上に停泊した米国の戦艦・ミズーリ甲板上で行われた連合国への降伏文書調印式において、大本営代表の参謀総長梅津美治郎と共に日本全権として署名を行った。》(《ウィキペディアー重光葵》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8D%E5%85%89%E8%91%B5 )というのが何より有名だろう。
何だったか忘れてしまったが週刊誌に載っていた話だが、ロッテの社長の名字は「重光」というそうで、もともとは韓国人で金さんだったらしいが、重光という苗字の人の養子になって「重光」を名のるようになったらしい。なぜ、「重光」という苗字になりたかったかというと、日本で商売するには、韓国名よりも日本名を名のった方が商売はしやすく、かつ、「重光」というと重光葵 元外相を多くの人間は思い浮かべる名字で、吉田・岸・池田・佐藤・小泉なんてどこにでもあるような苗字と違って、「重光」というと「重光葵元外相の縁戚か?」と多くの人間が思う苗字であり、文字そのものからして「重い」名字であり、名門のように思われる名字になりたかったという話で、又、「ロッテ」という会社名は、ゲーテの『若きウェルテルの悩み』に登場する女性シャルロッテからとった名前で、これも日本で商売する上で、日本人に受け入れられやすい名前として考えたということだった。
2010年~2011年、千葉市中央区鵜の森町 の工務店 新華ハウジング有限会社は、社長の長谷川新二は、長谷川の名前から「新」をとって嫁さんの名前から「華」をとって「新華ハウジング」という会社名にしたようだったが、中国人を相手に商売する会社ならば、「新華・・・」というこの会社名は最高、何も言わなくても、「新華社と何か関係あるのと違うか」と客の側で勝手に思ってくれる名前だけれども、日本人を相手に商売する零細の工務店の名前としては、中国人でもないのに中国人みたいな会社名を名のるというのはプラスにならない。ロッテの社長と逆のことをやっている。さらに、2011年4月から不動産業の会社としてビルダーズジャパン(株)を作ったが、零細なかけだしの不動産会社としては「ビルダーズジャパン」というのは名前が大きすぎるし、何よりも、「ビルダー」では建築会社の名前。「新華ハウジング」の方が「◇◇ハウジング」という名前の不動産屋はあり、建築部門の名前と不動産部門の名前が逆。会社名を決める時には、顧客に何をやっている会社なのかわかりやすい名称をつけるべきで、又、日本で日本人を相手に商売するのに、「中国人みたいな名前」をわざわざつけるというのはプラスにはならないだろう、ということくらい、普通はわかると思うのだが、長谷川はわからなかったようだ。
「アホな社長」というのはけっこういるようで、小堀住研(株)は1990年にエスバイエル(株)と名称変更したが、これも、アホ! 初代社長の小堀林衛の名字から「小堀」、「住研」は「住宅を建てるのではなく研究する」ということで、「研究する」会社は「建設する」会社より上というアピールで考えた造語だった。最初はそれでよかったが、1990年頃から、不動産屋で「▽▽住研」と名乗る不動産屋が続出してきたことから、「☆☆住研」と名乗っていたのでは「不動産屋か?」「建売の会社か?」とよく知らない人で思う人も出るようになったようなので、「住研」の方は変更しても良かったかもしれない。しかし、前の方の「小堀」はこれは、戸建住宅建築業の会社で「あか抜けた和風住宅」などを得意とする会社で、初代社長の小堀林衛は滋賀県の出身というのは嘘ではないわけで、二代目の中島昭午は高卒だけれども卒業した高校は長浜北高校だということは、黙っていても、客の側で「小堀遠州と関係あるのか?」と勝手に思ってくれる名前だったはずだ。だから、嘘は言っちゃいかんだろうけれども、客の側で「小堀遠州と関係あるのかな」と勝手に思ってくれる名前というのは、その名字は残しておくべきだったのだ。ところが、「初代社長のメカケの子」だか「メカケの娘の婿」か、2説あったようだが、2代目の中島昭午は会社名から「小堀」を取り除きたかったようで、「エスバイエル」というよく意味のわからん会社名に変えてしまった。「エスバイエル(S×L)」は「スペースとライフをかけあわせる」ということでだと言うのだが、「ツーバイフォー(2×4)構法」を思い浮かべる名称であり、ツーバイフォー工法で建てている会社が名のるのであればそう悪くない名前かもしれないが、ツーバイフォー工法で建てているわけでもない、在来木造から始まって、木質パネル構法で主として建てるようになった会社は、そういう「ツーバイフォー工法の会社か」と思われるような名前でない名前にした方がいいはずだ。 おそらく、《「名前つけ屋」に依頼したところ、その「名前つけ屋」のおっさんが、小堀住研(株)がどういう構法で建てている会社なのかよくわからずにつけた名前》ではないか。 会社の名前をつける際も、そのあたりを考えてつけないといけないし、「名前つけ屋」に依頼すれば自分で名前を考えるよりも商売をする上においていい名前をつけてくれるとは限らない・・・て、そのくらいのことわからんのかなあ~あ・・と思うのだが、わからん男が社長になっている会社というのは、けっこうあるのかもしれない・・・。従業員は連日、労基法違反の長時間労働で滅私奉公を続けていても、社長がアホやとどうなるかというと・・・→つぶれた。ロッテの創業者の爪の垢でも飲ませてやりたい・・・。




↑ 下平間天満天神社の「社務所兼町内会集会所」の前の梅、東古市場の天満天神社の鳥居脇の梅に比べると、こちらの方が花が多い。 梅にも種類があって、咲く時期にいくらか差があるのではないか。御幸公園の梅林の方が本数が多く、種類も多いので、それで、訪問した3月3日は梅の開花時期としては遅めだったが、咲いている梅もあったということか。しかし、それでも、↑ の写真を見ると、咲いている梅の花もあるものの、すでに開花が終わったものもあるのが拡大した写真ではわかる。 桜と比べて梅は派手さがないが、近くで見ると上品な花だと思うのだが、咲き終わった後のものがある枝に近づいてみると、まだ咲いている花があっても咲き終わったものが見えてしまうので、もう少々早い時期の方が梅の花を見るには良かったかもしれない。
35年ほど前、この付近に住んでいた頃から、↑ の明治天皇さんがここにいらっしゃいましたよお~おという石碑は建っていたが、梅の木はそんなになかったような気がした。その頃は、梅の木にそれほど関心がなかったということもあったかもしれないが、今の方が多いように思う。
↓ を見ると、

↑ 「この植樹は、東急ゴルフパーク多摩川及び川崎リバーサイドゴルフ場の皆様からの協力金により行ったものです。
平成28年3月
実施及び維持管理 川崎市幸区役所道路公園センター
助成 (公財)河川財団・・・
(公社)ゴルフ・・・ 」
と書かれている。 平成28年というと、西暦では2016年。4年前である。
御幸公園のすぐ北側に多摩川の堤防があり、その堤防の内側に多摩川の河川敷があって、そこに「やってるのかやってないのかよくわからないゴルフ場」があったのだが、それが「東急ゴルフパークたまがわ」https://www.tokyu-sports.com/golf/tamagawa.html だったのか? 「川崎リバーサイドゴルフ場」も、この御幸公園のすぐ北の多摩川の河川敷を利用した9ホールのショートコースのゴルフ場らしいが、そうなると、多摩川の河川敷のゴルフ場というのは、「東急ゴルフパークたまがわ」なのか「川崎リバーサイドゴルフ場」なのか?
※ 東急ゴルフパークたまがわ
※ 川崎リバーサイドゴルフ場 http://hama-golf.com/kawasaki/
多摩川河川健康公園 川崎リバーサイドパーク(ゴルフ場)http://www.kasen-kikou.or.jp/tamagawa/golf.html

↑ 東急ゴルフパークたまがわ

↑ 川崎リバーサイドゴルフ場。
地図を見て検討してわかった。御幸公園のすぐ北側の多摩川の河川敷にある「やってるのかやってないのかよくわからないゴルフ場」「クラブハウスてどこにあるのか見ても見つからないゴルフ場」は、「川崎リバーサイドゴルフ場」で9ホールのショートコースのもので、「東急ゴルフパークたまがわ」はそれとは別で、多摩川の右岸の河川敷にあるが、川崎リバーサイドゴルフ場よりもずっと上流側、東急東横線と東急田園都市線の中間あたりにあるようだ。
「川崎リバーサイドゴルフ場」は、「多摩川河川健康公園 川崎リバーサイドパーク(ゴルフ場)」http://www.kasen-kikou.or.jp/tamagawa/golf.html を見ると、有料だけれども、一般のゴルフ場と比べると、安い! 「一般社団法人 河川健康公園機構」HPhttp://www.kasen-kikou.or.jp/index.html が運営しているらしいが、「河川健康公園機構」というのは役所なのか? 「役所ではないが役所みたいなもの」なのか? 東急の方は売名行為というのか宣伝広告の一環なのか、行政から頼まれての「おつきあい」なのか・・という感じだが、河川健康公園機構が何で、御幸公園の梅林に協力金を出すのか、どうもよくわからん・・が、その「どうもよくわからん」存在のようだ。

↑ が、「川崎リバーサイドゴルフ場」のようだ。
さらに、

↑ 「 御幸公園 植樹祭
川崎市長 福田紀彦 」
と書かれているのだが、福田紀彦ていつの川崎市長なんだ? と思ってインターネットで検索すると・・・、
《ウィキペディアー福田紀彦》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E7%94%B0%E7%B4%80%E5%BD%A6 によると、
1972年、大阪万博があった1970年の2年後、野村克也が南海ホークスの選手兼任監督でパリーグ優勝した1973年の前年の生まれで、川崎市の市立小学校・中学校を卒業して、その後、父親の転勤でアメリカ合衆国ジョージア州に住んだ人で、2003年に神奈川県会議員に民主党から当選し、2013年に自民・民主・公明の推薦での無所属で川崎市長に当選し、現在まで川崎市長を務めているという人で、現在、47歳。選挙区は川崎市宮前区の人らしい。
川崎市長の在任期間は、2013年~現在まで・・・というと、要するに、今の市長ということだ。
ということは、この「御幸公園 植樹祭」がおこなわれたのも、2013年以降ということになる。
「東急ゴルフパークたまがわ」と「川崎リバーサイドゴルフ場」が「協力金」を出して植林したのが2016年。2013年から今現在までの川崎市長の名前が入っている「植樹祭」の碑が立っているということは、植樹祭が行われたのは2013年以降。 だから、その際に植えられた梅は、私がこの付近に住んでいた35年ほど前にはなかったわけだ。
しかし、そうなると、明治天皇さんがここにいらっしゃって、「あっそ」とは言われなかったけれども、「うめえ~え」と言われたかどうかはわからんが感嘆されたというのは、それはどういうことか?
もうひとつ、川崎市教育委員会 の名前で出ている説明書きがある。↓
↑ 《 この梅林は、江戸時代の初め 寛文の頃(17世紀中頃)に植え始められたもので、その果実は梅干しとして200余年の間、江戸の市民の食膳にのぼっておりました。 しかし、30ヘクタールもあった「しろかが梅」の林も、明治初年の多摩川のはんらんで、3分の2以上を失い、加えてその頃には老樹となっていたため、果実の収穫も激減してしまいました。
明治13年(1880年)2月、成島柳北がここを探勝し、「小向観梅の記」という一文をおこし、『一村尽く梅で夜はいわゆる天地一白、燈を点せずして車を挽くを得べし』と紹介してから、一躍梅の名所としてその名を天下にとどろかせるにいたりました。
明治17年(1884年)3月19日には、明治天皇が観梅のため行幸になり、のち明治23年(1890年)小向村他数ヶ村の合併に際しては、この光栄を記念して、村名を御幸村と名づけました。
資料提供
川崎市教育委員会 》
と出ている。
「明治初年」に多摩川の氾濫で3分の2以上を失い、さらにその頃は老樹となっていたが、それでも、
その後の1880年、「千島の岩魚ごっそり(1875)、千島樺太交換条約」の千島樺太交換条約の1875年の5年後、成島柳北が称賛し、
1884年に明治天皇が観梅のためにここにいらっしゃって、「うめえ~え」と言われたかどうかはわからんが喜ばれたということですから、1884年、「一躍、清(1894)を攻撃する」の日清戦争の10年前、「ロシアへ行くを知ってか(1904)、兵隊さん」の日露戦争の20年前の時点では、梅林は天皇へーかが観梅に来ようというくらいにあったわけです。
ところが、1980年代、私がこの付近に住んでいた頃は、明治天皇の碑はあったけれども、梅の林があったことには気づかなかった。毎月、必ず来ていたのではないので、ぴったり梅の花が咲くころには来なかった可能性も絶対にないわけではないが、近所に住んでいたし、御幸公園の横のバス停から西馬込までバスに乗って、西馬込から都営浅草線に乗り換えて都内に行ったことも何度もあったのに、ここに梅の木がいっぱい植わっていることに気づかなかった。
そして、2016年頃に、梅の木が植樹されて、今現在の川崎市長の名前で「植樹祭」の碑が建っている。・・ということは、明治天皇がいらっしゃった頃は観梅するに値する梅林があったが、その後、2016年に植樹するまでの間、たいした梅林はないという時期があったということか・・・。
思い出すのは、1980年代、私がこの付近に住んでいた時は、幸区は工場が多い地域ではあるけれども、川崎区の臨海部などとは違って住宅も建っている地域であり、川崎市でも宮前区とか麻生区とかの方が自然環境はいいかもしれないけれども、住むのに特に自然環境が悪い場所という感じではなかった。しかし、その頃、何度か食事をした食べ物屋が今、どうなっているかと前を通ったものの、6軒のうち6軒とも閉店して今はなかったが、そのうちの1軒で食事をしていた時、店のおやじが「今はそういうことはなくなったけれども、川崎喘息の頃は、昼、洗濯物を干すと真っ黒になったもんだ」と話していたのが聞こえたことがあった。私が住むよりも前、公害病の「川崎喘息」の地域だったらしい。「昼間、外に洗濯ものを干すと真っ黒になった」という場所では、梅の木も健康に育たなかったのかもしれない。
その梅の木を復活させようとして、2016年に「植樹祭」をして、梅の木を植えた・・・ということだったのか?
梅にはいくつかの種類があって、《果物ナビ 梅》https://www.kudamononavi.com/zukan/ume.htm によると、「白加賀(しらかが)」というのは、《関東地方に多く流通している青梅で、サイズは25~30g程度。果皮は淡黄緑色で、肉厚で緻密です。旬は6月中旬からで、用途としては梅干しや梅酒、梅シロップなどに向いています。江戸時代から栽培されていたようですが来歴は不明です。》というものらしい。
成島柳北て何した人だっけ? 《ウィキペディアー成島柳北》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%90%E5%B3%B6%E6%9F%B3%E5%8C%97 によると、《成島 柳北 (なるしま りゅうほく、1837年3月22日(天保8年2月16日) - 1884年(明治17年)11月30日)は、江戸時代末期(幕末)の江戸幕府・将軍侍講、奥儒者、文学者、明治時代のジャーナリスト。・・》だそうだ。

↑ 明治天皇の碑の横、「川崎市水準点」。 「ここの高さは標高3.7mです」という。 もし、津波などが本当に来て、海抜10mの高さまで水につかったとすると、10m-3.7m=6.3m ということになるので、1階あたり3mと考えるならば、2階建てのアパートなら水中に没することになる・・・か。 この付近に住んでいる時は、あまりそういうことは考えなかったし、そうだとしても、だからどうすればいいのか、ということにもなった。金持ちは等々力とかそういう安全な所に住むのだろうけれども、「わしぁ貧乏やからな」というのか、生協食堂の140円のカレーライスを食べても、「おまえ、140円のカレーライスなんてそんな贅沢なもん、食ってええのか。おまえなんかが。贅沢すんな、チャンコロ! 140円のカレーライスなんておまえがそんな贅沢なもの、食うたらいかんだろうが、このチャンコロっ!」と毎日言われてきた者としては、月1万2千円のアパートでも「贅沢」だったので、海抜の高い場所に住もうなんて考えても無理な話だった。
父の「親友」の医者屋のM川のドバカ息子は「患者」を薬漬け・検査漬け・毒盛りしたカネで私立金権裏口関西医大http://www.kmu.ac.jp/ に裏口入学したようだったが、入学後は、父親のM川とともにゴルフショップに行ってゴルフバッグをこれまた薬漬けで父親が稼いだカネで買ってゴルフやっていたということだった。M川は私に「きみなんか、高校には行くべきではない人間だろうが。高校は義務教育ではないのやから、きみは高校に行ったのは余計で、甘ったれとるからきみは北野高校なんかに行ったのじゃ。ましてや、きみなんか、大学に行くべきではないんや」と言い、父は「そうやそうや。えええ~えこと言いはる。まさにその通りや。お~ま~え~えはあ~あ、大学なんか行くべきではないし、おまえは高校行ったのは余計であって行くべきではなかったんや。おまえが北野高校に行ったというのはそれは甘ったれとるから北野高校に行ったんじゃ。だいたい、おまえは浪商の人間であって浪商は高校には行くべきではないのにからに北野高校に行きおったんじゃ。この浪商めが浪商! 浪商は高校行くなちゅうじゃ浪商!」と言っていたが、そして、私に「裏口入学した人の爪の垢を飲ませてもらいなさい」と言ったのだった。慶應大学に在学した時、父は「あんたは明日からうちの会社の工場にアルバイトに行くことに、決めてきたっ!」と言って「決めてきた」。医者屋のM川のドバカ息子は金権関西医大に「患者」を薬漬けにしたカネで行って、そして、M川は「うちの息子なんて、義務教育でもないのに、それを裏口入学で大学に行ったんやから、そやから、大学では一生懸命勉強せんといかんし、勉強させてやらんといかんのや」と言って、アルバイトなどせずに、父親が薬漬けで稼いだカネでゴルフバッグ買って大学生がゴルフしていたのだったが、父は私には「大学は勉強する所とは違うんじゃ、大学は。甘ったれておってはならんぞ、チャンコロ浪商! おまえ、ゴルフ場のキャディーやれ、キャディー。アルバイトでキャディーやれ、チャンコロっ!」と言うのだった。なんで、「ゴルフ場のキャディー」が出てきたかというと、母方のイトコでラグビーのスポーツ入学で専修大に行って専修大ラグビー部に入ったやつがいて、そいつが体育会ラグビー部の紹介でゴルフ場のキャディーのアルバイトをやったという話を聞いたようで、そこから、「おまえもキャディーやらんか、チャンコロ。甘ったれとってはいかんぞ、甘ったれとっては。大学は勉強する所とは違うねんぞ、勉強する所とは。心得違いを起こすでないぞチャンコロ! キャディーやらんかチャンコロ、キャディーやらんかチャンコロこのロスケいたこプエルトリコめが、生まれなければよかったのに生まれおってからにチャンコロ浪商!!!」と言うのだった。医者屋のM川のドバカ息子は医者屋の息子だから、「患者」を薬漬け・検査漬け・毒盛りして稼いだカネで私立金権関西医大に行かせてもらい、そして、「裏口で大学に行かせてもろうたんやから、だから、大学ではアルバイトなんてせんと一生懸命勉強せんといかんのや。なにしろ、医者の勉強は大変やからな。医学部の人間はアルバイトなんてやるような暇なんてないんやからな」と言って、「患者」を薬漬けにして稼いだカネで大学生がゴルフをやって遊び、私は「おまえは義務教育でない以上は高校に行ったのは余計なんじゃ、このチャンコロロスケめがこのチャンコロいたこプエルトリコめが。大学は勉強する所とは違うんじゃチャンコロ! ゴルフ場のキャディーやれキャディーを!!!」と言われることになったのだった。医者屋の息子は小学校から高校までちっとも勉強しなくても医者屋の息子であるから「患者」を薬漬けにして稼いだカネで「大学」に行かせてもらって、大学生の時にはまたもや「患者」を薬漬けにして稼いだカネでゴルフバッグを買ってゴルフやって遊ぶという「当然の権利」があり、それに対して私の場合は「うちは貧乏や」ということで、小学校の1年から同級生が遊んでいる時も只管勉強してきても、「お~ま~え~はあ~あ、高校行ったのは余計なんじゃ。義務教育でない以上はおまえは高校には行くべきではない民族なんじゃ、このチャンコロっ! ましてやおまえは大学なんか行ってはいかんのじゃ、このチャンコロめがチャンコロ浪商! 浪商は高校行くなちゅうんじゃ浪商。浪商のくせしてからに北野高校に行きおってからにこいつめチャンコロ! 大学は勉強する所とは違うんじゃ大学はあ。ゴルフ場のキャディーやれ言うとるんじゃ、甘ったれるなチャンコロ浪商!!!」と言われることになった。「民族の違いを忘れるな」「階級の違いを忘れるな」と父親から毎日毎日言われてきたが、医者屋民族の息子は小学校から高校までちっとも勉強しなくても裏口入学で「大学」に行かせてもらい、大学生の時にはアルバイトなんてしなくて「患者」を薬漬けしたカネでゴルフバッグ買ってゴルフをやるのが役割で、私は小学校から高校まで同級生が遊んでいる時も只管勉強してきても、「おまえは高校行ったのは余計なんじゃ。ましてや、おまえは大学行くなちゅうんじゃ」と言われ、大学生の時には「キャディーやれ、おまえ」と言われる、という、それが「民族の違い」というものだったようだった。それが「医者屋民族」にとっての「常識」だったようだ。M川は「なにしろ、医者ちゅうもんはえらいからなあ。医者ちゅうもんは教養豊かで人生経験があって人格者でえらいえらい人間で、誰もが何でも何でも言うことをきかんといかん存在なんじゃあ」と何度も言っていて、父は「そうや。その通りやっ! 医者ちゅうもんはおまえなんかとは人格が違うねんぞ。医者ちゅうもんは特別に特別に特別にえらい人間で、誰もが何でも何でも何でも何でも絶対服従せんといかんねんぞ。わかっとんのんかチャンコロ、わかっとんのんかチャンコロっ! わかっとんのんか、このロスケ!!!」と言い続けたのだった・・・が、「なんで、裏口入学がそんなにエライんですかあ?」と言ったことがあったのだが、「わからんか? わからんのか、そのくらいが!!! 裏口入学ちゅうことは思考が柔軟やから裏口入学ちゅうことなんじゃ。わからんのかチャンコロ! わからんのかそのくらいがチャンコロ!」と父は言うのだった。思考が柔軟であるのかないのかわからんが、今もって、何で裏口入学がエライのか、さっぱりわかりまへん!!!
父は「医者ちゅうもんはえらいねんぞ。おまえとは違うねんぞ、おまえとは。医者ちゅうもんは教養豊かで人格者で人生経験豊富で、医者には何でも何でも何でも、どんなことでもどんなことでも絶対服従せんといかんねんぞ、わかっとんのんかチャンコロっ!」と私に言い続けたが、片方で「うちは医学部なんか行かすような金持ちとは違います。4年で卒業できる学部にしなさい。甘ったれとってはいかんぞ甘ったれとっては」と言うのだった。要するに、医者屋民族というのは、小学校から高校までちっとも勉強しなくても裏口入学で私立医科大学に行かせてもらい、大学生の時はアルバイトなんてしないで「患者」を薬漬けしたカネでゴルフバッグを買ってゴルフやって遊ぶ権利があり、それに対して「チャンコロの民族」らしい私は小学校から高校まで努力して勉強したものを全部まとめてドブ中にどぼんと捨てて、「あるばいとおアルバイトオあるばいとお」とアルバイトばっかりさせられる義務があり、特に、医者屋民族の息子の大学生がゴルフやって遊ぶ時には、そのキャディーをやる義務がある、ということだったようだ。「民族の違いを忘れるな」と父は私の眼を指で突くようにして指さして、毎日毎日何度も何度も叫び続けたのだったが、「民族の恨みを忘れるな(不忘民族恨)」と思ったものだった。 今でも、「医者屋民族」というのは好きではない。私とは「民族が違う」のであり「階級が違う」連中であるわけで、「民族の恨みを忘れるな(不忘民族恨)」「階級の苦しみを忘れるな(不忘階級苦)」と常に思っている。
↑ の多摩川河川敷の「川崎リバーサイドゴルフ場」はゴルフ場ではあっても、利用料金の安いゴルフ場で、うちの父親のような「特別に特別にえらいえらい人」でなくても利用できるゴルフ場だったようだが、ゴルフは私は中学校1年の時から嫌いだった。中学校1年の時に卓球部に入ったところ、父親から辞めさせられた。ところが、それでいて、父は日曜日に近所のゴルフの打ちっぱなしに行くのに連れが欲しかったようで、中学校1年の時に、あくまでも打ちっぱなし場なので会員権といっても会員割引があるだけで5万円の会員権だったが、自分がそれに入るだけでなく、「あんたも会員に入ろうか。ゴルフやると社会で役に立つ。勉強ばっかりではなく運動もやらんといかん」などと言うので、「要りません。けっこうです!」と言ったのだが、「なんでやねん。ゴルフやるとええがな。勉強ばっかりでなくスポーツもやらんといかん!」と言うのだったが、そんなゲートボールみたいなもん、なんでやらされなきゃならんのだ! と思って嫌だった。私が勉強とともにスポーツもやりたいと思って卓球部に入ったのに、「何を甘ったれとるんじゃ」と言って辞めさせておきながら、片方で「スポーツもやらんといかんがな。あんたも入れたろ。ゴルフは社会で役に立つ」とか言うというのは、それはおかしいではないか。私は同年代の人間と一緒にスポーツをやりたかった。中学生から見ると年寄の年代の人間と一緒に「ゲートボールみたいなもの」なんてやりたくなかった。そして、「ゴルフは社会で役に立つ」とか言って、そして、「すべてをすべてを会社のために。すべてをすべてをわしのために。とってちってたあ~あ♪」という主張をされて、人生をことごとく「会社」と「わし」に奪われるというのは嫌だった。だから、ゴルフと「会社」は中学校1年から嫌いだったのだ。だから、仕事につくのなら、ともかく、「会社」でない所がいいと思っていた。学校の勉強はよくできたから、大学卒業後大学院に進んで大学の先生になって「大学」に勤めるか、教員資格を取得して高校か中学校の先生になって高校・中学校という「学校」に勤めるか、司法試験に合格して弁護士になって「法律事務所」に勤めるか裁判官になって「裁判所」に勤めるか、学芸員の資格をとって「美術館」・「博物館」に勤めるか、ともかく、「会社」でない所がいいとずっと思ってきたのだった。しかし、「大学」に入ると、日本で一番嫌いな大学の首をもがれても行かされたくないと小学生の時から思っていた学部に暴力と強制と脅迫で行かされると、父はこう言ったのだった。「『会社ちゅうところ』に勤めるのを嫌がる人間というのは、モラトリアム人間病という病気にかかっている人間です。慶應大学の小此木啓吾先生というエライえらいエライえらい先生がそうおっしゃってる。病気は治療せんといか~ん! とってちってたあ~あ!!!」と。その理屈で考えるならば、小此木啓吾こそ、慶應大学医学部助教授として「大学」と「病院」に勤めていた男であり、「会社ちゅうところに勤めるのを嫌がるモラトリアム人間病」の重症患者ということになるはずである。小此木啓吾こそ病気であり、小此木啓吾こそ「治療」と称して薬漬け療法など受ける義務があるはずであろう。小此木啓吾こそ逮捕監禁療法で「病院」に監禁してやる必要があったはずであった。なんで、小此木啓吾は「病院」に逮捕監禁されないのか? 内部進学小此木啓吾独善主義はなんで、「病院」に逮捕監禁されないのか? おかしいのではないかな? モラトリアム人間病重症患者小此木啓吾はなぜ「病院」に逮捕監禁されないのか? 「幼稚舎から慶應」「揺り籠から墓場まで慶應」症候群・内部進学だからか??? そういう「人生経験」を経てきたので、ともかく、「ゴルフ」は嫌いなのだ、私は。今でも。
「作家で精神科医」の なだ いなだ は『パパのおくりもの』(文春文庫)で「精神分析教の信者はあまり身勝手な解釈をやめた方がいいと思う」と書いていたが、私もそう思う。
多摩川の河川敷に、日が暮れたかというくらいの時間に行って、そこで、ランニングと野球のバットの素振りを計30分ほど、体力づくりのつもりで毎日やっていた時期があった。その際だが、河川敷に「川崎リバーサイドゴルフ場」という名前は知らなかったが、ゴルフ場があるらしいのは知っていたものの、どこからゴルフ場でどこからがゴルフ場でないのか、わからず、そのあたりを歩き走っていた。
ある時、河川敷に木の杭が建っていて、アパートに帰ろうとして近くを通りかかったところ、「にゃあ」という猫の声がするので見ると、その杭の上に子猫が乗っていた。猫というのは犬と違って高い所からでも飛び降りることができるだろうと思って通り過ぎようとすると、「にゃあ」「にゃあ」と心細そうに泣く。なんで、こいつ、自分で降りないのだろうと思ったが、猫はどんなに高い所からでも飛び降りることができるわけではなく(普通に考えて、マンションの5階くらいの窓から下に飛び降りたら無事ではないだろう)、子猫だから杭の上から地面に降りることはできなかったらしい。しかし、それなら、どうやって乗ったんだ? 誰かがいたずらで杭の上に載せてそのまま行ってしまったのか? 心細そうに泣くので、かわいそうに思って下に降ろしてやろうとすると、今度は怖がって泣く。なんだよ、ひとが親切で降ろしてやろうとすると嫌がって泣くのなら、降ろしてやることないよと思って行こうとすると、またもや、「にゃあ」「にゃあ」と助けてくれと訴える。しかたがないから、少々怖がってもおかまいなしに抱き上げて下に降ろしてやった。・・しかし、もともと、私が飼っていた猫でもないから、下に降ろしてやればそれで終わりのはずだった・・のだが、ところが、下に降ろすとついてくるのだ。ついてくるなよ・・と思ってもついてくるのだ。困ったなあ、元いた場所にいないと飼主からはぐれてしまうではないか。むしろ、下に降ろさなければ、飼主が迎えに来たのかもしれない。困ったなあ・・と思ったのだが、とうとう、アパートの入口までついてきてしまった。かわいそうだけれども、「ペット不可」の部屋に住んでいたし、たとえ、「ペット可」の部屋に住んでいても、猫を飼ってめんどう見る余裕はない。だから、かわいそうだけれども、「向こう行け」というそぶりをしたが、それでもついてくるのだった。ついて来られても、どうもできないので、何度も追い払うようにしたところ、とうとう、あきらめたようについてこなくなったが、かわいそうだった。あの猫はどうなったのだろうか。野良猫になったのか。どこかの誰かが拾って飼ってくれたか。生きていくことができずに死んでしまったか。もしかすると、誰かが、育てることのできない子猫を河川敷に捨てにきたが、単に河川敷に置いて帰ろうとしたのでは後をついてくるので、それで、ついてこれないように、河川敷に立っていた木の杭の上に載せたのであそこにいたのか・・・。 内田康夫『金沢殺人事件』では、東京都北区の平塚神社で猫を拾って帰り、「ペット不可」のアパートでこっそり飼っていると、その猫が妊娠していて子猫まで産んでしまって困ったという女子大生が登場したが、話の展開のうち、その女子大生は殺されてしまうことになり、「浅見光彦シリーズ」では「ヒロイン」になるのではないかと思われた女性なのに殺されたということで、編集者は内田康夫に「ええ~え。殺しちゃったのお?」と言ったらしかったが、猫についてこられて困った、という経験をした者としては、その女性の気持ちもわかる・・が、家主の立場になって考えると、やっぱり、「ペット不可」の家で勝手に買われては、やっぱり、困る。

↑ 多摩川大橋。

↑ 東芝小向工場の西のあたり、かつて、この付近に住んでいた時、公共料金の引き落としを横浜銀行の口座からおこなっていたことで、横浜銀行の普通預金の口座を持っていたのだったが、何千円しか残金のない口座をそのままにしておくよりも、きっちりと解約した方がいいと思って、2003年、横浜銀行鹿島田支店に行き、その帰り、かつて住んでいた付近がどうなっているか来てみたのだったが、私が住んでいた1980年代にはなかった「サイゼリヤ」ができていたのだが、それから17年経った今ではその「サイゼリヤ」は閉店したようだ。

↑ 多摩川の対岸に、昔からこの背の高いのはあったように思うのだが、何かなあ?
1980年代に住んでいた時、電話の受話器をとると、ラジオの音声が聞こえ、電話局に言って聞こえないように処理してもらったことがあったが、多摩川の対岸あたりにラジオ局の発信している所があったらしい。それとも違うように思うのだが、何だろうな・・・。
鹿島田から平間、そして、古市場・東古市場といったあたりもずいぶんと変わったものだなあ・・・と思った。銭湯にしても、「越の湯」はまだあったようだが、私が住んでいたアパートから一番近い場所にあった銭湯はもうなかった。 内風呂のある家が増えたのではないかと思うが、それとともに、3階建ての家が増えた。2階建てだった家の1階に車庫を作ってその上の2~3階に住居を設けたような家が増えたようだ。 かつて、食べたことのある食べ物屋6軒の前まで行ってみたが、6軒ともなくなっていた。 個人でやっている店は息子が継がなければ閉店することになるのかもしれないし、息子に無理に継げと言うわけにもいかないだろうけれども、かつてそこで食べたことのある者としては、少々寂しい。 鹿島田駅から新川崎駅までの間の高層ビルなんてのもかつてはなかった。 ずいぶん、変わったもんだなあ・・と思ったが・・・・

↑ 「 トイレでの寝泊まり禁止
幸区役所 道路公園センター
電話544-5500 」
おっ、変わらんもん、あったあ~あ♪ なんか、なつかしい(^^♪
2015年、川崎市の多摩川河川敷だったかで中学生の男の子が同年代の男子生徒に殺されたという事件があったと思いますが、え? もしかして、私がランニングやったりバットの素振りやったりしていたあたりなのか? なんてびっくりしましたが、そうではなく、あの事件の現場はこれよりももっと下流の方、幸区ではなく川崎区の河川敷のようでした。
※ 《ウィキペディアー川崎市中一男子生徒殺害事件》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%9D%E5%B4%8E%E5%B8%82%E4%B8%AD1%E7%94%B7%E5%AD%90%E7%94%9F%E5%BE%92%E6%AE%BA%E5%AE%B3%E4%BA%8B%E4%BB%B6

↑ [第94回]《落し物は届けるな、犯罪捜査に協力するな! ~ 警察の恐怖(1)―川崎市の警察と いわき市の警察》https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201204article_7.html 《1》 と、
[第764回]《天満天神社(川崎市幸区東古市場)【1/3】下平間・古市場交差点を経て天満天神社。気分の悪い古市場交番も健在。「両親が離婚した」者は常に不利ではない、ということも理解できないバカ女。》https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202003article_15.html
で述べた、幸警察署 古市場交番に届けてあげた財布が落ちていたのは、たしか、この公園付近だったように思ったが、どっちにしても、警察に届けたのは失敗だった。内田康夫の小説「浅見光彦シリーズ」では、警察官が「第一発見者を疑えというのは捜査の鉄則ですからね」と何度も口にするが、浅見光彦というのは「兄上が警察庁刑事局長」という「水戸黄門の印篭」みたいなものを持っているので、それで、自分から警察にすり寄って行くけれども、「水戸黄門の印篭」なんて持ってない者は関わらん方がええ。「君子危うきに近寄らず」。できるだけ、相手にしないのが一番でんなあ。
たしか、1984年の1月か2月この公園の付近に落ちていた財布を古市場交番に届けたところ、まるで、犯人みたいに扱われて、こんちくしょう、元あった場所に戻してきてやろうか・・と思ったものだったが、その何年か後、ここから遠くない場所で、私自身が財布を落としてしまった。しばらくして、拾ったと言って電話してきてくれた人があり、ケーキを買って持参して取りに行ったのだったが、「中身は抜き取られてました」と言われ、財布とお金以外のものが返ってきた。何を入れていたかはっきりとはもう覚えていないが、学生証も入っていて、運転免許証も入れていたかもしれない。だから、それだけでも返ってきて助かったが、その頃の私にとっては大金だったものを失った。その際、拾ったという人が電話してきてくれた時、幸警察署に電話をして、お礼はどのくらいするものなのでしょうか、と尋ねたのだが、「そういう問題には警察は関知してはならないことになっております」と言われてしまった。 そうかなあ。警察に届けた場合に、落とし主が取りに来た時に届けた人に渡す金額というのが、決まっていたと思ったのだが。又、拾って連絡くれた人を疑うのは良くないかとも思ったが、可能性としては、その人が現金だけ取って、残りを返した可能性もあるし、その人が盗ったのでなくても、その人は、私が行ったことがない場所、多摩川の河川敷でも私が行ったことのない下流の方の河川敷に捨てられていたものを拾ったという話であり、私が落とした財布を拾った人が現金だけ抜き取って残りを河川敷に捨てたものを、電話で連絡くれた人が拾って連絡してくれた、ということならば、私が落とした財布を拾って現金を抜き取って残りを河川敷に捨てた人は、占有離脱物横領罪に該当するはずであり、「関知してはならない」どころか、それは警察が担当する仕事のはずだ。1984年の古市場交番の対応とともに、その後、1986年か1987年頃だったと思うのだが、幸警察署の対応は誠実なものではなかったように思う。

↑ 「下平間」交差点の南のあたりのマンション。 まだ明るいのに屋外に解放された廊下の照明がいっぱい点灯している。 原子力発電所の「推進派」の人たちは、原発を必要とする理由として、電力が不足だと言うのだが、それならば、とりあえず、こういうまだ明るいのに点灯しているマンションの廊下の照明は点灯させないようにしてはどうか。 マンション管理人がいるはずなのだから、マンション管理人は日が暮れてから廊下の照明を点灯させるようにすればいいことではないだろうか。

↑ JR横須賀線「新川崎」駅の横から見たJR横須賀線「武蔵小杉」駅前の高層マンション群。
尾島俊雄『異議あり! 臨海副都心』(1992.3.19.岩波ブックレット)には、《 新宿の特定街区は、早稲田の方角から見ると一つの山である。見る角度によっては、まったく隙間がない完全な超高層の屏風岩になっている。・・・》と出ているが、JR横須賀線「武蔵小杉」駅の前の高層マンション群もまた、「一つの山」になっている・・・。
(2020.3.28.)
下平間天満天神社 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202003article_14.html
東古市場の天満天神社【1/3】下平間交差点・古市場交差点を経て天満天神社まで。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202003article_15.html
〃 【2/3】 東古市場の天満天神社。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202003article_16.html
〃 【3/3】 御幸公園 ほか。〔今回〕
★ 冤罪を晴らす神さま・菅原道真・怨念を晴らすお百度参り
千葉県
葛飾天満宮(市川市) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201301article_4.html
白幡天神社(市川市)
1.https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201511article_1.html
2.https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201511article_2.html
3.https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201511article_3.html
市川市北方町4丁目の天神社 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201608article_2.html
意富比神社 末社天神社(船橋市) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201302article_10.html
船橋市東船橋の「天神社」 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201311article_1.html
下飯山満神明神社 摂社天神社(船橋市) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201503article_4.html
白井市河原子の天満宮 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201303article_5.html
子守神社 摂社天神社(千葉市花見川区)https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201605article_3.html
千葉神社 摂社千葉天神 と 鵜の森町の「神札」(千葉市中央区)
(上)https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201305article_2.html
(下)https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201305article_3.html
北總天満宮(千葉市中央区)https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201308article_1.html
新町天満宮(千葉市中央区)
【上】 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201703article_6.html
【下】 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201703article_7.html
東京都
亀戸天神社(江東区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201301article_7.html
亀戸天神社 2回目 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201505article_1.html
湯島天神社(文京区)
上 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201602article_10.html
中 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201602article_11.html
下 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201602article_12.html
北野神社(文京区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201303article_2.html
平河天満宮(千代田区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201210article_3.html
西向天神社(新宿区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201502article_1.html
根津美術館 庭園内 渡唐天神祠(「飛梅祠」)(港区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201603article_3.html
若林天満宮・若林北野神社(世田谷区)https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201312article_5.html
平塚神社 摂社菅原神社〔平塚天神社〕(北区)https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201807article_10.html
谷保天満宮(国立市)
1.谷保駅から鳥居。「やほ」と「やぼ」。「面白い地名」とは? https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201903article_1.html
2.鳥居から坂を下り、拝殿・本殿と鶏。会社にいる『水滸伝』登場人物 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201903article_2.html
3.五社、三郎殿、厳島神社(市登録有形建造物)、左右に2体ずついる狛犬、座牛 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201903article_3.html
4.神楽殿・筆塚。ひとに「親孝行せえよお」と言ってストレス解消する教育勅語主義者https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201903article_4.html
5.梅林、稲荷社、第六天神社。建築は構造・機能・デザイン・経済性をともに満たしてこそ https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201903article_5.html
神奈川県
三渓園天満宮(横浜市中区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201303article_8.html
永谷天満宮(横浜市港南区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201309article_1.html
荏柄天神社(鎌倉市) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201401article_7.html
北野神社(鎌倉市山崎)https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201504article_2.html
下平間天満天神社(川崎市幸区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202003article_14.html
幸区東古市場の天満天神社(川崎市幸区)と御幸公園
1.下平間交差点・古市場交差点を経て天満天神社。気分の悪い古市場交番も健在。「両親が離婚した」者は常に不利ではない、ということも理解できないバカ女。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202003article_15.html
2.二度の移転で現在地に来た天満天神社と入口脇の梅。出入の厳重そうな東芝小向工場と管理不十分な(株)一条工務店・(株)日本産業の「いいかげんそう」工場 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202003article_16.html
3.御幸公園。植樹された梅林。医者屋族は特権民族なのか? 子猫を助けられなかった思い出。〔今回〕
静岡県
深奥山 方広寺 七尊堂(浜松市北区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201707article_13.html
愛知県
熱田神宮内 菅原社(外天神)と内天神社(名古屋市熱田区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201711article_10.html
岐阜県
飛騨天満宮(高山市)
上 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201309article_7.html
中 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201309article_8.html
下 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201309article_9.html
村山天神(高山市国府町)
1上枝駅から宮川沿い https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201409article_2.html
2村山天神 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201409article_3.html
3村山天神 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201409article_4.html
4あじめ峡、他 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201409article_5.html
桜山八幡宮 摂社天満神社(高山市) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201510article_7.html
日の出天満宮(高山市) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_13.html
石川県
金沢神社(金沢市) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_1.html
椿原天満宮(金沢市) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_2.html
田井菅原神社(金沢市) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_3.html
京都府
北野天満宮(京都市上京区)
1 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201302article_2.html
2 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201302article_3.html
3 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201302article_4.html
4 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201302article_5.html
5 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201302article_6.html
高台寺天満宮(京都市東山区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201511article_7.html
曼殊院天満宮(京都市上京区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201608article_4.html
長岡天満宮(長岡京市)
1.八条ヶ池 他 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201703article_10.html
2.拝殿・祝詞舎・本殿・手水舎他 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201703article_11.html
3.春日社八幡宮社・紅梅殿・白梅殿・社務所(連歌所)他 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201703article_12.html
4.梅園、長岡稲荷、錦景園他 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201704article_1.html
大阪府
大阪天満宮(大阪市北区)
1.https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201403article_1.html
2.https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201403article_2.html
3.https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201403article_4.html
露の天神社(お初天神)(大阪市北区)
上 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201403article_5.html
下 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201403article_6.html
綱敷天神社(大阪市北区)
1.綱敷天神とは。「北野」の由来。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201604article_6.html
2.社殿と桜。堅魚木と千木。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201604article_7.html
3.「戦災の狛犬」、筆塚。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201604article_8.html
4.白龍社、歯神社。綱敷天神社の周囲https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201604article_9.html
綱敷天神社 御旅社(大阪市北区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201405article_11.html
池田市天神1丁目・2丁目 http://shnkahousinght.at.webry.info/201405/article_10.html
西江寺 摂社天満大自在天神(箕面市) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201611article_5.html
箕面市粟生間谷の天満宮
上 箕面市粟生間谷の天満宮 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201709article_14.html
下 粟生間谷の天満宮の周辺 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201709article_15.html
上新田天神社(豊中市)
1 千里中央駅から。電柱看板の是非。卑怯者不動産屋店長https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201701article_15.html
2 鳥居から参道階段を経て拝殿へ。「他力」とは https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201701article_16.html
3 拝殿・本殿・牛・屋根・稲荷社他 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201701article_17.html
4 神社の社殿を背後から見下ろす下品な高層マンション https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201701article_18.html
上宮天満宮(高槻市)
1.JR「高槻」駅から上宮天満宮へ。大きな一の鳥居をくぐり石段へ。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201811article_2.html
2.絵馬堂・神輿庫・御霊屋・割拝殿。セキュリティーの難しさ https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201811article_3.html
3.竹製の本殿。菅原道真と為理と孝標。山崎の戦い後に建てられた旧本殿 〔今回〕
4.本殿裏末社。神社の「経営」「経営者」とは。捨て猫はどう対処すべきか https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201811article_5.html
5.摂社野身神社、車塚古墳、鉄骨で支えた石の鳥居。反則相撲の野彌宿祢 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201811article_6.html
6.天満宮を見下ろす 地域の「気の流れ」を乱す 家相が悪い 高層マンションhttps://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201811article_7.html
7.「不純異性交遊」の男の大学は「同じ大学なのに」と考えるべきか?https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201811article_8.html
8.東大はスーパー京大ではない、厚い本を使えばいいというものではない。高槻駅前 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201811article_9.html
9.和訳でない問題で日本語訳を書くな、親が組みしやすいと親に吹き込む予備校 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201811article_10.html
10.北山本山寺の石碑、景観重点地区、女性客の多い店でも入るのが商学士の使命 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201811article_11.html

数学受験術指南 (中公文庫) - 森 毅

パパのおくりもの (文春文庫 113-1) - なだ いなだ

おっちょこちょ医 (集英社文庫) - なだ いなだ

経済学・哲学草稿 (光文社古典新訳文庫) - マルクス, 長谷川宏
《 < ・・・心理学と称しながら、それにとってはこの書物が、したがって歴史の感性的に最もありありとした最も近づきえられるまさしくその部分が閉ざされているような心理学は、現実的な、内容ゆたかな、実在的な科学にはなりえない。> 》
( カール=マルクス『経済学・哲学手稿』藤野渉訳。 大月書店 国民文庫。 )
川崎市幸区東古市場の天満天神社の少し東に御幸(みゆき)公園があります。御幸公園の道路を隔てた南側に、東芝小向工場、北側は多摩川の河川敷があって、河川敷の北側に多摩川が流れています。東側は国道1号(第二京浜)。この道を北向きに走るバスに乗ると、都営浅草線「西馬込」駅から五反田の方へ行きます。

↑ 南半分に、野球場があり、子供用の遊具が置かれています。野球場は私がこの付近に住んでいた35年ほど前からありました。野球好きのおじさんたちが、言っちゃなんだが、あんまりうまくないプレーを見せてくれました。そりぁ、プロじゃなくて趣味でやっているのですから、プロ野球の中継なんか見ているのとは大きく違うのは当たり前ですが、でも、ある程度以上の年齢になっても、何かスポーツをやろうという気持になる人間とそうでない人間なら、何かスポーツをやろうという人間の方が私はいいと思います。但し、野球とか集団でやるスポーツの場合は、趣味でやる場合には、空いた時間にやるというのではなく、他の人との関係で、決まった日の決まった時間を空けないといけない、という点で難しいところがあるかと思います。
遊具の方は、私がこの付近に住んでいた35年ほど前からありましたが、その頃、あった遊具と今ある遊具は変わっているように思います。
向こうに見える背の高いビルは、川崎総合科学高校の建物ではないかと思われます。私がこの付近に住んでいた35年ほど前から、この位置に高校はありましたが、「川崎総合科学高校」という名前ではなかったと思ったのですが、《ウィキペディアー川崎市立川崎総合科学高等学校》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%9D%E5%B4%8E%E5%B8%82%E7%AB%8B%E5%B7%9D%E5%B4%8E%E7%B7%8F%E5%90%88%E7%A7%91%E5%AD%A6%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1 を見ると、《 1963年(昭和38年)に創立された川崎市立工業高等学校が1993年(平成5年)、校名を川崎市立川崎総合科学高等学校に改称し学科を現在の情報工学科、総合電気科、電子機械科、建設工学科、デザイン科、科学科とする。校舎のシンボルである1号館は1992年に竣工(当時は高層棟校舎)、地下1階、地上15階建て、高さはおよそ70mで、全国にある単独校舎の高校で最も高い。法的には超高層ビルとなる。》と出ており、「川崎市立工業高校」が1993年に「川崎私立 川崎総合科学高校」に名称変更したらしく、高層ビルの建物は1992年に竣工したもので、《全国にある単独校舎の高校で最も高い》ものらしい。大学の建物ならまだしも、高校の建物でこういう高層ビルというのはどうなのだろうなあ・・と思うのですが、どうでしょうか・・・。
「御幸公園」の「御幸(みゆき)」というのは、どこから来た名前なのかというと、今は昔、明治天皇がここに来られたことがあって、この地域についてご説明申し上げたところ、「あっそ」とおっしゃった・・ということはなかったようですが、ともかく、来られたことから「御幸」と名付けられた、と説明書きがでていました。
天皇がその地に行ったということを何というか・・というのを、高校生の時、「古文」で、一生懸命、覚えたはずでしたが、「行幸(ぎょうこう)」と「行啓(ぎょうけい)」と「御幸(ごこう)」と何だっけ・・と何種類かあったはずですが、なんか、それから何年かならまだしも、何十年か経つと、せっかく覚えたものもかなり忘れてしまいました。
佐伯胖『「学び」の構造』と 遠山啓『競争原理を越えて』(太郎次郎社) と、それから、森毅『数学受験術指南』だったか『元気が出る教育の話』だったかで(いずれも中公新書)、この3人が、別々に同じことを言っていたのですが、「『覚えた』ものは忘れるが、『わかった』ものは忘れない」と。 なるほど~と思いました。数学の公式とか、「覚える」のではなく、なぜ、そうなるかということを考えて、こうこうこういうことでこの公式が出てきたのだと「理解する」ようにすれば、そう簡単には「忘れない」というのです。それは一理あったと思うのですが、それを、大いにもっともなことだと思って実行したものの、弊害としては、それは数学とか物理とかを学ぶ時にはその考え方はいいのですが、英語なんて学習する際にも、その思考形式が身についてしまうと、かえって支障がでてくる。英語なんてのは、「なぜ、そうなるかを考えてその理屈を理解することによって覚える」なんて思考形式でやるものではない。 「人間は忘れる動物である。忘れればまた覚えればよいのである」という旺文社社長 赤尾好夫さんのお言葉は語学学習法における永遠に不滅の名言で、この考えで「ともかく覚える」、数学・物理型の「なぜ、そうなるかを理解することで、結果として覚える」方式ではなく英語型の「ともかく覚える」方式でやるものですが、ところが、難しいのは、人間というのは、この科目はこう、こっちの科目はこうと思考を切り替えるというのが簡単ではなく、どうも、片方の思考方法が他方にも影響してしまうところがあったように思います。
・・そして、「『覚えた』ものは忘れるが、『わかった』ものは忘れない」というのは一理はあるとは思うのですが、本当に「忘れない」か?・・・というと、高校および大学受験から何十年かたった今、あれだけ、一生懸命、勉強したはずの「数列」とか・・・、忘れた! あんなに必死にやったのになあ~あ・・・。 やっぱり、「覚えた」のではなく「わかった」ものでも「忘れる」ことはあるようです。
語学でも、雁屋哲が、「フランス語のできそこないが英語(イギリス語)だ」とフランス人は言うという話をどこかで書いていたが、実際、イギリス語および「アメリカ合衆国語型イギリス語」という言語が他のヨーロッパ系言語より優れているというわけでもなく、語学の学習にしても、イタリア語ですと、男性名詞と女性名詞というのがあって、「夜」sera (セーラ)って男だろうか女だろうか? なんて考えて「イタリア語日本語辞典」を引くと、「夜」は女だった・・・、なるほど、言われてみると、「夜」って女だよなあ~あ・・とか感心したり・・とか、辞書を見ているだけでも面白かったりしますが、英語にはそういうものがない。東郷正延『ロシア語のすすめ』(講談社現代新書)に、「ドイツ語は男と話すのによい、フランス語は女に語るのによい、スペイン語は神に語りかけるのによい。しかし、ロシア語はそのすべてに良い」というロシア人のお国自慢の話が出ていたが、たしかに、ロシア語というのはすべての言葉が韻を踏んでいて、普通の言葉が詩のような言葉であり、学ぶのが面白い・・のに対し、英語にはそういうものがない。イタリアに行って、周囲でイタリア人が話しているのを聞いて、イタリア語というのは普通に話していても歌を歌っているような言葉だなあ、と思った。モーツァルトはオペラ『フィガロの結婚』をイタリア語の歌詞で作った。『フィガロの結婚』の「もう飛ぶまいぞ、この蝶々」のアリアで、「ポココ、タンテ。ポココ、タンテ。ポ~ココ、タンテ・・」という文句が歌われるが、「タンテ」の後に男性名詞がくる形の「タント」は大阪弁の「たんと」(たくさん)ではなくイタリア語で意味も大阪弁と同じ、冷蔵庫で「タント」という名前の商品のテレビ広告があったがあれと同じ、「たんと」は大阪弁もイタリア語も共通の意味♪〔⇒《YouTube- フィガロの結婚 - もう飛ぶまいぞこの蝶々 - ジョゼ・ヴァン・ダム》https://www.youtube.com/watch?v=rTdcfc7ugrg 〕『フィガロの結婚』の原作者ボーマルシェはフランス人でモーツァルトはドイツ語圏のオーストリア人であったはずだが、なぜ、フランス語でなくドイツ語でもなくイタリア語で作ったのか。何で読んだか忘れてしまったが、かつて、「ドイツ語は大変卑近な言葉であって音楽には向かない言語で、ドイツでは宮廷ではドイツ人もフランス語を話し、そして、音楽家はイタリア語を使っていた」ことがあったらしく、音楽に向いている言語はイタリア語だ、という考え方があったらしい。(『魔笛』や『ドン=ジョバンニ』はドイツ語だったと思うけれども。)たしかに、イタリアに行ってイタリア人が話している言葉をきくと、普段の話し言葉からして歌を歌っているような言葉だし、それは素敵でもあるけれども、逆に、この人たち、こんな歌を歌っているような言葉で、困ることないのだろうかなんて思ったこともある。ドイツ語というのは、哲学とか物理学とかやる際には良さそうな印象がある。「ドイツ語は男と話すのによく、フランス語は女に語るのによい」というのも、言われてみると、そんな感じがしないでもない。「ロシア語はそのすべてによい」というのはあくまでもロシア人のお国自慢だとしても、そんなところがないこともない。その言葉の歌にしても、イタリア語の歌・フランス語の歌・ドイツ語の歌・ロシア語の歌には魅力的な歌が多い、(特にロシアの歌には「ええなあ、うらやましいなあ。わしぁ貧乏やからなあ」という「日陰の月見草」みたいな歌が多いので「日陰の月見草」には趣向が合う(^^)/ )のに対して、「英語の歌」というと、黒人霊歌は好きなのだが、黒人霊歌の英語というのは、かつて、奴隷制度があった時代の黒人の言葉で俗語・なまりがあって、日本の中学校から大学に至る学校教育で扱う英語とはかなり違うところがある。だから、こういうことを考えるのが好きな人間、というよりも、こういうことを考えるのが普通であって、こういうことを考えずにどうやって勉強するんだという思考の人間というのは、たとえ、語学でもイタリア語とかロシア語とかフランス語とかの方が語学そのものの学習も面白く、英語てのはやっていてもあんまり面白くないのだ・・・が、しかし、大学入試がそれほど先でもない時期にあるとかいう時にそんなこと言ってられないので、「しょーことなしにやる」が、こういうことを考える頭のない人間というのも世の中にはいるわけで、どっちがいいか悪いかわからないが、こういったことを考えない人間の方が、案外、英語の成績は伸びやすいかも? なんて思ったこともあるのだが、そうも言ってられないので、「雨にも負けず、風にも負けず」やるしかない。人間には「考える型人間」と「覚える型」人間というのがあって、「考える型人間」は「覚える型人間」に比べて英語は得意ではない・・が、そんなこと言ってられないので、「しょーことなしに」やるが、「しょーことなしに」やっていたのではどうも成績が伸びない。これは感覚的な問題なのだが、野球のスイッチヒッターというのは、もともとは右打者だった人が左打ちを「作った」というもののようだが、いわば、そんな感じ。「考える型人間」が英語なんかを学習するには「覚える型学習法」をいわばスイッチヒッターみたいに「作った」のだ。これは最初からの「覚える型人間」には理解できないことかもしれないが、私の場合は「作った」のだ。スイッチヒッターみたいに。
それからもうひとつ、ゴミには「燃えるゴミ」と「燃えないゴミ」があるように人間にも「燃える人間」と「燃えない人間」があって、「燃えない人間」の方が英語のような科目は得意じゃないかと思うのだ。「燃えない」ものだから、毎日、ちびちびやることに苦痛を感じない。それに対して、(これは、高校生の時に読んだ、学習法についての本で誰か言っていたことでもあるのだが)日本史・世界史とか社会科なんかは「毎日ちびちびと」よりも「週に1回か2回、ある程度長時間をとってまとめてやる」方が効率的ではないかと思うのだが、「燃える人間」は「ある程度まとめてやる方が効率的の科目」の方が得意になる傾向がある。もっとも、「俺は燃える男なんだ」とか『あしたのジョー』みたいなこと言って、「燃えない科目」はやらないなんてわけにもいかない、英語が入試にない大学なんてほとんどないわけで、やらないわけにはいかないので、「スイッチヒッター型思考」で「作る」なりしてやるしかないので、私もそうしたのだが、たとえ、そうしたとしても、それでも、「考える型」か「覚える型」か、「燃える人間型」か「燃えない人間型」かというのは、どうしても、残るような気がする。
こういうことを言うと、「なにを、今さら」と言う人が出てくるかもしれないし、逆に、「俺はそんなことない。俺はすべての科目を苦労せずにできた」とか言う人も出てくるかもしれない。「なにを今更」と思う人は最初からわかっている人だったのかもしれない。こういうことは、すでにわかっている人にとってはたいしたことない問題かもしれないが、わかっていない人にとっては、けっこう役立つということだと思っている。
「俺はそんなことない。俺はすべての科目について苦労せずにできた」とかいう人には、3種類、もしくは4種類あると思う。
(1) 「考える型」か「覚える型」か、「燃える型」か「燃えない型」かといっても、これは「デジタル」ではなく「アナログ」であって、「考える型」「燃える型」が相当強い人、「覚える型」「燃えない型」が相当強い人もおれば、中間の人、どちらかだけれどもそれほど傾向が強くない人というのもいると思うのだ。中間くらいの人か、どちらかの傾向がそれほど強くない人の場合は、気づかないことがあると思うし、もともとが「中間型」なのだから、スイッチヒッターみたいに「作る」必要もない。
(2) 2番目はたいして難関の試験に通ろうとしたことがない人、某一条工務店https://www.ichijo.co.jp/ とかいう会社にいた時、同僚のおじさんで、「うちの息子はたいして勉強しないくせして、そのわりにけっこう成績はいいんですよ」なんて言うおっさんがいたのだが、その息子さんのことはそれほどよく知らないのであまり断定的なことは言えないが、その人でも、「勉強しないわりにはけっこういい成績」でいいと思わないで、もっと最高の高さの点数を取ろうとしたならば、こういう問題は出てくると思う。壁を乗り越えよう、もしくは、壁をぶち破ろうとした時にこういったことに気づく。そのおじさんの息子さんがどうかはわからないが、「まったく無能ではないけれども、壁を乗り越えようとはしないというタイプの人」には、こういうことに気づかない人・こういうことを考えない人がいる。私だって中学校まではこういうことを考えないでもそれなりの点数は取れた。進学校に行って、ある程度以上難関の大学の入試に通る点数を取ろうということを考えると、「あれ?」と思うこともあり、こういことに気づくようになる。
(3) そして、3番目、本当に何にも考えずに難関の大学入試や資格試験の入試で相当の高得点が取れる人、「天才型」とでもいうような人、「何にも考えない人間」でそれでいて高得点が取れるという、いわば「長嶋みたいなやつ」というのが本当にいるのならば、それが3番目だが、なにしろ、「わしぁ、日陰の月見草」だから「長嶋みたいなやつ」がどうであっても、そんな人のことなんか、知らん!
(4) それから、4番目もあった。4番目は「学歴詐称の人」。私が大学生だった時、東大病院、東大医学部付属病院というのが正式名称らしいが、この名称だと、東大医学部卒の医者が診察していると多くの人間は思うのではないかと思うが、実は違うらしいのだ。そうではなく、関東地方の医学部と病院には、東大医学部帝国主義と慶應医学部帝国主義の2つの帝国主義医学部、及び、千葉県限定で千葉大医学部帝国主義があって、それ以外に、植民地医学部と植民地病院があるそうで、私立金権裏口医学部というのは、たいてい、東大医学部帝国主義と慶應医学部帝国主義のどちらかの配下にあるらしく、東大病院というのは東大医学部帝国主義の配下の植民地医学部卒の医者もまた勤務しているらしいのだ。(関東では、東大医学部帝国主義と慶應医学部帝国主義の2系列+千葉県限定で千葉大医学部帝国主義 の3系列のところが、関西では、京大医学部帝国主義と阪大医学部帝国主義の2系列らしい。)だから、どの病院にかかるといいかわからない「善良な市民」は、東大病院なら東大医学部卒の医者が見ているのだろうからと思って、「金権ドバカ医大付属病院」なんて病院より東大病院の方がいいだろうなんて思ってかかる人がいるようなのだが、違うようだ。「東大医学部卒の医者がいいとは限らない」といったことを言う人もいるが、それは実際にそうだろうけれども、一般市民はどういう病院がいいのかなかなか情報がないので、
《1》少なくとも「私立金権裏口医学部卒の医者」よりも国立大学か慶應大医学部くらい卒の医者の方がいいのではないかと考える人がおり、《2》又、私などは、工学部で石とか鉄とかを扱う分野と違って医者は人間を扱う仕事なので、今もそうかどうかはわからないが私が高校を卒業した1970年代後半から1980年代の入試ならば、慶応大医学部・自治医大・慈恵医大・大阪医大その他多くの私立医大のような入試科目が「数学と英語と物理と化学」の大学よりも、「数学と英語と物理と化学」とともに国語や社会科も入試の科目にある京大・阪大や東大のような国立大学の方がいいのではないか、と考えた時があった。(今は、「国語や社会科も入試科目にある大学」卒でも、あかんやつはあかん・・と思っているのだが。)
しかし、そう考えて東大病院を受診すると、実際には、私立大学卒で国語や社会科の試験のない大学・・というよりも、カネとコネで入る大学卒のやつが東大病院で医者屋やっていたのだった。東大医学部卒の医者が診察しているわけでもないのに「東大病院」と名乗っているという名称は、これは公正取引法かなんかそういう法律に違反してないか疑問に思うし、虚偽名称であるのは間違いないはずで、「事実と違う、紛らわしいなどなど」に該当するので、「ジャロに言うたろか!」と思うような名称なのだ。〔⇒《YouTube-JARO 白雪姫篇》https://www.youtube.com/watch?v=OyGtVTySYEo 〕 1981年、その東大病院に勤務して医者屋をやっていたF山(男。当時、30歳)が「このぼくは、東京大学理科三類に何にも考えなくてもゆうゆうと余裕もって現役で通ったんだぞお。それに対して、おまえは2年も浪人しても東大に通らなくて落ちて、慶應にしか行けなかった最低のカスだろうが。最低の落ちこぼれだろうが。自分は最低のカスだ、自分は最低の落ちこぼれだと認めなさい! わからないのか。このぼくは能力的に優秀で人格が優れていて何よりも謙虚な人間なんだ。何より謙虚なこのぼくぅ~!♪! ぼくときみとは能力も違えば人格も違うんだ! こんな常識もわからないのか。おまえはこの程度の常識も理解できないような落ちこぼれなのか! この程度のことも理解できない最低の最低の人間だということなんだな!」と何度も何度も言われたものだったが、最初は、本人が自分で「ぼくは東京大学理科三類に現役で通った」と言っていたので本人がそう言うからにはそうなのだろうと思っていたが、話を聞いているうちに、なんか変だなと思うようになったのだったが、後から聞いた話によると、彼は勤務先は東大病院で職種は医者屋をやっていて、「T京大学医学部卒」だったが「東京大学医学部卒」ではなく「帝京大学医学部卒」だった。私立金権裏口医学部に裏口入学で入って卒業した男だったのだ。なるほど、私立金権裏口医学部卒の人間が言いそうな文句だった。これが4番目のタイプ。私立金権医学部裏口入学の人には、努力して苦労して実力である程度以上の大学に通ろうとする人間・通った人間に敵意を持っていて、「私立金権医学部裏口入学」が「庶民」だ「庶民的」だと主張する者がいるのだが、なんで、「患者」を薬漬け・検査漬け・毒盛りして作ったカネで裏口入学する人間が「庶民」なのかマカ不思議なのだが、彼らはそう考えている。そういう連中には関わらん方がいいと思う。
4番目のタイプは、最初から嘘だから、「タイプ」の中に入れる必要はないかもしれないので、入れなければ、3種類、入れれば4種類ということになる。たとえ、「本当の天才」、別名「長嶋みたいなやつ」というのがいても、そんなものは私には関係ない。なにしろ、「わしぁ、日陰の月見草」であり、「ID野球」「弱者の戦術」で「長嶋みたいなやつ」をコテンパンにやっつけてやるのことがなにより快感♪ である。⇒《 ヤクルトラッキー7 東京音頭(くたばれ読売) @20180425 松山》https://www.youtube.com/watch?v=33Cmy6mTsBg
それで、久しぶりに、「古文」のお勉強です。
《 行幸(ぎょうこう、みゆき)とは、天皇が外出することである。目的地が複数ある場合は特に巡幸(じゅんこう)と言う。
また、御幸(ごこう、ぎょこう、みゆき)と言う場合もあるが、これは上皇・法皇・女院に対しても使う。 》
( 《ウィキペディアー行幸》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A1%8C%E5%B9%B8
《 みゆき【行幸】 天皇のおでまし。》
( 大野晋・佐竹昭広・前田金五郎編『岩波 古語辞典』1974.12.25.岩波書店 )
《 行啓(ギョウケイ) 《古くは「ぎょうげい」とも》太皇太后・皇太后・皇后・皇太子・皇太子妃・皇太孫が外出すること》
( 《行啓》https://kotobank.jp/word/%E8%A1%8C%E5%95%93-478035 「デジタル大辞泉の解説」 )
《 行啓 皇后、皇太后、皇太子などの出行をいう。天皇の出行を行幸(ぎょうこう)というのに対する。》
( 《コトバンク 行啓》https://kotobank.jp/word/%E8%A1%8C%E5%95%93-478035 「日本大百科全書(ニッポニカ)の解説」 )
35年少々前、御幸公園に来て、明治天皇がここに「御幸」なさったことから「御幸公園」と名付けられた、書かれていたのを見て、あれ、天皇がそこに行くというのは「御幸」じゃなくて「行幸」じゃなかったっけ? なんて思ったのでしたが、↑ の言葉の定義づけによると、
「行幸(ぎょうこう、みゆき)」は天皇が行くことで、
「行啓(ぎょうけい)」は皇后・皇太后・皇太子などが行くことだけれども、
「御幸(ごこう、ぎょこう、みゆき)」は、上皇・法王・女院が行くことを言う場合もあるが、天皇が行くことにもこの言葉を使うらしい。
「行幸(ぎょうこう)」と「行啓(ぎょうけい)」と「御幸(ごこう、ぎょこう、みゆき)」の違いというのは、1970年代後半、北野高校https://www.osaka-c.ed.jp/kitano/ の1年の時だったか3年の時だったか、「古文」の教諭のU村(男。当時、50前後くらい?)が授業で話した際に、(いったんは)覚えたのでしたが、私は国立大学に共通一次試験が導入されるかされないかの境目くらいに高校を卒業した者ですが、共通一次試験実施前の国立大学の入学試験にも私立大学の試験にも、共通一次試験実施後の共通一次試験にも、国立大学の二次試験にも、私立大学で「国語」が入試にある大学学部の試験にも、この知識があるかないかで得点できるかできないか変わるような問題は1問として出題されませんでした。
「高校の勉強は大学入試のためだけにあるのではない」というのはそれはそうだと思いますし、高校を大学入試の手段としか考えない思想がいいと思わないし、又、そういう思想でやるのが大学入試に有利というわけでもないと思うのですが、けれども、今から考えてみると、あの高校の教諭というのは、大学入試に出ないものばっかり大量に勉強させて、もっと入試に出題されるものに絞って学習しておけば、京大なり東大なりに合格できた可能性のある人間を、それより評価が下の大学、それこそ、関関同立とかに行かせて、それで、「大学はどこでも一緒や。良かったじゃないか」とか言うような人が多かったように思います。「良かった」か? 良くないと思うぞ。片方で、「私立6年制受験校」と言われる私立高校卒の人と話すと、東大にすんなりと現役で通った人にしても、浪人して東大受験を回避して一橋あたりを受けてそれも落ちて慶應に入った・・とかいった「落ちこぼれ」にしても、入試ではそれなりの点数を取ったのであろうわりには頭の中味がない・・みたいな人が現実にいるように思いましたが、どっちがいいのかといっても両方の面があると思いますが、「入試で出題される内容に絞って学習すれば、京大なり東大なりに合格できたかもしれない」生徒に、入試に出ないようなものばっかり大量に勉強させて、関関同立とかに行かせて、「良かったじゃないか」とかぬかすヤツというのは、・・結論として、そういう人というのは、それは親方日の丸の公立高校だから勤めてられるのであって、現実問題として「企業経営」としておこなわれている私立高校なら成り立たない、存在しえない人間でしょう。北野高校が一時期、進学成績が低迷したのも、そのあたりに一因があるように思います。
1970年代後半、私が北野高校https://www.osaka-c.ed.jp/kitano/ の生徒であった時というのは、少し前に、学区が小さくなり、それまで、阪急宝塚線沿線(豊能地区)と京都線沿線(三島地区)と大阪市の淀川地区の3区域から行けたものが、1学年あたりの人数は同じで三島地区からは行けなくなって学区が小さくなったことで、それまでなら合格できていない人も合格して入学するようになったことで、全体として、入学時の学力がに低下した、ということがあり、北野高校の先生たちは、「できの悪い学年やなあ」とかしょっちゅう口にしていましたし、又、「学区が変わる前と比べれば、進学成績が悪くなるのは当たり前ですよ」とも口にしていたのでしたが、まず、それがいけないのではないか、と思うようになりました。「できの悪い学年やなあ」というのは、高校の英語や数学の先生は1年から3年まで同じ生徒を担当して、また、1年から担当するので、3年前の生徒と比べて全体として「できが悪い」と思うことがあったかもしれませんが、たとえ、そうであっても、そういう文句は口にするべきではなかったはずです。それこそ、「一流選手をかき集めてきて優勝を狙う巨人みたいなやつ」みたいな文句を毎日にように言われるというのは、そんな「監督」というより、教諭は優秀な教諭ではないのではないか。そもそも、たとえ、3年前と比べると入学時の学力が低い生徒が入学してきたとしても、それでも、大阪府の高校の中では最難関の高校だったのです。もともと、進学校でも何でもなかった、むしろ、言っちゃなんだが「不良高校」みたいに言われていた私立高校や新設の私立高校で、最近、京大や阪大、あるいは東大に何人も、あるいは「何人か」の合格者を出すようになった高校がいくつかあるはずですが、そういう高校では、学区が小さくなったことで3年前に比べると全体として入学してくる生徒の学力がいくらか低くなったとしても、3年前より全体として学力が低くなったその北野高校の生徒よりもまだ学力の低い生徒しか入学してこないのです。そういう生徒をな~んとか工夫して京大にでも阪大にでも、あるいは東大にでも入れてこましたろうじゃないか・・と努力して成果をあげた人がいたわけです。「できの悪いやつらやなあ」と3年前の試験でも通った可能性が高い者にまで言いまくるのを日課みたいにしていた教諭というのは、いわば、「商魂こめて大金で」有力選手を集めて優勝を狙う「巨人みたいなやつ」、「長嶋みたいなやつ」でしかない。
※ 《YouTube-【阪神タイガース 大合唱】開幕戦の"商魂こめて"は凄まじい》https://www.youtube.com/watch?v=jqA-_IY2Gu8
《YouTube-38度線の目の前で商魂込めて歌ってきた 2019/10/10 CS Final 第2戦 巨人対阪神 ラッキーセブン》 https://www.youtube.com/watch?v=77veMUsGSKA
2月11日に他界した野村克也のじいさんは、阪神の監督での後半以降は自己弁護ばっかりやって「ヤクルトの監督の時はいい監督だと思ったんだけれどもなあ~あ」と南海時代からのファンとしては悲しい気持ちになったが(江本がそれぞれの職種には「旬」があって、阪神の監督の時の野村には「旬を過ぎた監督」としての悲哀・苦しみがはっきりと出ていた、と述べていたが私もそう思った)、特に、1995年、前年4位だったヤクルトから、主力選手の広沢・ハウエルを巨人に奪われて、その主力選手を奪われた側のヤクルトが奪った側の巨人をコテンパンにやっつけて優勝♪ 1997年は前年4番を打っていたオマリーがいなくなって4番不在で開幕したヤクルトが、清原がFAで西武から入った巨人をまたもやコテンパンにやっつけて優勝♪ それでこそ、名監督! テレビの野球中継には、おそらく「なんや、こんなやつ」とか清原が思っていたであろう投手に三振して首を傾げてベンチに戻る清原の姿が何度も映った。
※ 《YouTube-松山で流れるくたばれ読売(東京音頭)ヤクルトラッキー7 20190416》https://www.youtube.com/watch?v=8qAPp3RbB7s
《YouTube-2019/8/6 ヤクルト対阪神 試合前 くたばれ讀賣 1-9 六甲おろし》https://www.youtube.com/watch?v=mcE-sGR944U
たとえ、3年前と比べて入学時の学力が低い生徒が多くなったとはいえ、それでも、大阪府の高校の中では最難関の高校だったのに、それを「ま~ったく程度の低い学年やなあ、ほんまにい」とそればっかり言っているような教諭なんて・・、高校生の時には、頑張らなければ・・とか思ったけれども、そういう口ばっかりきくような教師なんて、あんまり高く評価できる教師ではないなあ・・と思うようになった。「巨人のようなあり余る戦力」が整えば勝てるが、「ちょっとでも戦力が劣るようになれば、愚痴ばっかり言いまくる」ような「監督」みたいな教師なんて、要するに、たいした教師じゃなかった! と自ら宣言しているようなものだったのではないか・・・と思う。もし、当人がこのブログを見ることがあっても、たぶん、認めないと思うが、別に認めていらん。当人が認めなくても、世間は感知している。
慶應の教授で「大阪の人間というのは、大阪は商人の街なんだから、もっと私学を大事にすればいいのに、大阪の人間は国公立の方がいいみたいに思ってからに。まったく、大阪の人間というのは何を考えてるのか」と言う人がいたが、その人は東京で生まれ育った人なので「大阪の人間」の思考を理解できていなかったのだ。「大阪の人間」は「大阪は商人の街だから」ということで「国立よりも私学を大事にするべきだ」というのは東京の人間もしくは慶應の内部進学の人間の発想であり、「大阪の人間」はそうではなく、「商人の街だから」こそ、「一生懸命勉強した者が、なんで、カネのかかる私立の学校に行かされなあかんねん。勉強せえへんかったもんがカネのかかる私立の学校に行くのはしかたがない。勉強したもんがカネのかからん国公立の学校に行かせてもろうて当然やろうが」という考え方であったはずだ。
しかし、公立進学校が親方日の丸で「公立」に胡坐をかいた運営をしているならば、胡坐をかいたような教師が生徒のせいにばっかりしているならば、「商人の街」は「コストと利益を比較考量して」という思考をして、もしも、コストが少々高くても、それを上回る利益があるような私立の学校ならば、私立高校に行くということも選択肢としてあることになる。 「できの悪い学年やなあ。できの悪いやつらやなあ」と3年前に比べると全般に学力が低くなったとしてもそれでも大阪府では最難関の高校なのに、そんなことばっかり言いまくる教師の学校でも、親が京大なり東大に行った親の息子・娘なら親が指導することができるが、そういう親の息子でない者は教師を頼りにするのだが、その教師が「巨人みたいや」「長嶋と一緒や」というのでは、それなら、むしろ、京大や東大卒の親の息子ではないが中学校卒業まで一生懸命努力して勉強してきた者は私立進学校に行った方がいいくらいだ、ということになる。むしろ、親方日の丸で成り立っている「落ち目の伝統公立校」の方が「巨人みたい」な存在になってしまう。だから、北野高校は、一時期、人気が悪くなり、進学成績が低下したのだと思う。最近、大阪府では学区をなくし、「進学重点校」というものを指定するなどして、2020年の北野高校は京大合格者数1位、何十年ぶりか〔たぶん、私が卒業する前年以来ではないかな〕で3桁合格者数を回復したようだが、このあたりの状況を理解しないならば、また、凋落する可能性も十分にあると思う。
・・・で、まあ、「行幸(ぎょうこう)」と「行啓(ぎょうけい)」と「御幸(ごこう、ぎょこう、みゆき)」との違いは、入試には共通一次試験前の国立大学の入試にも私立大学の入試にも、共通一次試験以後の共通一次試験にも国立大学の二次試験にも私立大学で「国語」が入試にある学部の試験にも、それを理解しているか否かで得点できるかどうか変わるような問題は1問として出題されなかったけれども、まあ、忘れてもいいけれども、いったん、理解しても、別にかまわんかもしれない・・とは思う・・が、無理に覚えなくても、忘れたらまた調べればいいことだ。
それから、YMCA予備校の「北野高校卒、京都大学文学部卒、天王寺高校元教諭」だという山之内という「古文」の講師が、平安時代の日記文学の覚え方として、「トカイムサジサ」と覚える、都会にはムササビやのうて、ムサジサいうやつがおって・・と覚える、と言い、
ト・・土佐日記
カ・・蜻蛉日記
イ・・和泉式部日記
ム・・紫式部日記
サ・・更級日記
ジ・・成尋阿闍梨の母の集
サ・・讃岐典侍日記
と覚えたのだが・・・、これもまた、国立大学の共通一次試験でも国立大学の二次試験でも私立大学の入学試験でも、これを知っているから解ける、知らなかったら解けないなんて問題は、1問として出なかった。まあ、これ、覚えるのにそれほど労力がかかるわけでもないから、まあ、いいかもしれんけれども。
さらに自称「北野高校卒、京都大学文学部卒、元天王寺高校教諭」という山之内のおっさんは「今年は徒然草が出る!」と断言して、それでまた、私も徒然草についての無茶苦茶詳しい解説書を読んだものだったが、その年も翌年も、共通一次試験にも国立大学の二次試験にも私立大学で入試に国語のある大学学部の試験でも、『徒然草』からの出題は1問としてなかった! まず、そこまで、「断言」するというのが間違っていると思う。彼は相当詳しい『徒然草』の解説書、大学入試向けではなく研究者向けみたいな本を読むように勧め、私は彼の言うことをきいてしまったのだが、分厚い本を使えば入試で高得点が取れるというものでもない。厚い本を1回読むのと中くらいの本を3回読むのと薄い本を5回読むのとでは、薄い本を5回読んだ方が高得点を取れる場合もある。彼にはそういう思考が欠落していたのではないか。私などが高校を卒業した頃と違って彼が大学に進学した頃は、京大でも文学部は入りやすかった時期で、たいして苦労も工夫もなく大学に入学したのではないのか。あそこまで分厚い本を読んで『徒然草』にばかり時間を費やしたのでは他の勉強ができなくなる。そのあたり、山之内のおっさんは受験についての感覚が「ずれていた」。あそこまで分厚い研究書なんて浪人中に読んでいたのでは、本当に試験に出る部分の学習がおろそかになる。「ID野球 弱者が勝者になるために」のひとつ、「戦力の集中」に逆行するものであった。試験に通ろうと思ったならば、たとえ、研究としては価値があるものでも入学試験に出ないようなものにあまりにも力を入れていてはだめです。そのあたりもわからんのかと思ったが、その人が大学に入学する頃の力はなくなってしまった人は、そのあたりが「ずれとる」状態だった。そういう人を「かわす」能力が10代の時の私は不足していたかもしれない。
YMCA予備校に行っていた時から感じていたが、彼は北野高校から京都大学に進学した時、天王寺高校の教諭になった時はそういう学校に進学して古文の教師になってやっていこうという人だったかもしれないが、YMCA予備校の講師として勤務しているその時点においては、「堕落している」とまで言うと言い過ぎかもしれないが、その人が大学に進学した頃や大学を卒業して高校教諭になった頃の状況よりも全般に能力が低下しているという印象を受けたが、実際、そうだと思う。それが彼の予想がことごとくはずれる結果につながっている。
今から考えてみると、なんだか、入試に出ないものばっかり、相当勉強したものだ。ご~くろうさ~ん! て感じがする。
北野高校は大阪府立だから、裏口入学とかそういうものはない。1980年前後、父の「親友」で医者屋のM川という男(当時、50過ぎ。当時、大阪府豊中市在住)が、ドバカ息子を私立金権関西医大http://www.kmu.ac.jp/ に裏口入学させたというのを自慢にしていたのだが(そもそも、裏口入学というのは、たとえ、やるにしても「こそっと」「恥ずかしそうに」やるものであって、自慢するものとは違うように私などは思っていたのだったが、M川は自慢するのだった。それが「医者屋族」にとっての「常識」で、裏口入学なんて自慢するものと違うだろうが・・という私の認識は「常識がない」とか「思考の硬さが気にかかります」とか「診断」されるようだった)、「わしは息子に言うたりますねん。おまえが大学に行けたのはおまえが努力したからとは違うねんぞ。わしがえらいから裏口入学できてんぞ。おまえは何の努力もしとらんねんぞ。心得違いを起こすなよ、とそない言うたりますねん」と父に何度も言っていた。M川のドバカ息子が私立金権関西医大に裏口入学できたのは、それはM川がえらいからではなく、M川に薬漬け・検査漬け・毒盛りされたかわいそうな「患者」のおかげであって、薬漬け大魔王のおかげではない。「心得違いをおこすなよ」と言われる必要があるのはドバカ息子よりもM川の方であろう。そのM川の発言を聞いて、父は「そうや。わしもそない言うたろ」と思ったようで、私に何度も言うのだった。「おまえは北野高校に行ったと思っておるかもしれんけれども、おまえが努力したから北野高校に行けたのとは違うねんぞ。おまえは浪商やねんぞ、浪商。わかっとんのんか浪商チャンコロ! おまえはチャンコロで浪商やねんぞ。たとえ、北野高校に行ってもおまえは浪商やねんぞ浪商このチャンコロっ! わしがえらいからおまえは北野高校に行かせてもらえたのであって、おまえが努力したから北野高校に行けたのとは違うねんぞ、心得違いを起こすでないぞこの浪商チャンコロ浪商めがチャンコロっ!」と私の眼を指で突き刺すようにして毎日毎日何度も何度も言うのだったが、M川のドバカ息子は中学校も高校も大学も私立の学校に裏口入学だったようだが、私は小学校も中学校も公立で北野高校は大阪府立であって裏口なんてそんなものはないし、私は裏口で入れてもらったのではない、正規に入学試験に合格して入学したのである。私立の高校よりずっと安い公立高校に正規の入試に合格して入学したのであって、M川のドバカ息子みたいに「患者」を薬漬けして貯めたカネで入れてもらったのとはまったく違うのだった。
しかし、北野高校は府立なので私立の学校と違ってコネとかそういうものはないだろうと高校生の時の私は思い込んでいたのだったが、それは違うようだ。入る時はそういうものは通じないが、入ってからは関係あったのではないか。「国語」系の教諭は、どうも、1年の時に同じクラスだった大阪教育大付属中学校池田校舎卒の安◇(女)の機嫌をとるような発言が相次いだのだが、あいつ、そんなにいいかなあと思っていたが、1年の時の「現代国語」の教諭だった旧姓作野礼子(女。北野高校⇒神戸大文学部卒。当時、20代)も、宮沢賢治の詩の感想文みたいなものを書かせて、「優秀作品」として2名のものを印刷して配った際に、その片方に安東のものを選んだのだったが、その時も、「そんなにいいかなあ」と思ったが、今、考えてみると、むしろ、あの時の安東の文章は、「高校生としては幼い」「高校生としては読みが浅すぎる」もので、むしろ、「並よりも間違いなく下」のものだったと思う。あれを「優秀作」と選ぶ国語教諭もまた、国語科教諭として高く評価できない。生徒よりも旧姓作野礼子自身が宮沢賢治と宮沢賢治の詩について理解できていなかった。そう断定できる。旧姓作野礼子は、「両親が離婚したから」ということもあるとともに、どうも、男性を敵視するところがある女性で、「優秀作」には女生徒のものを選ぶことが多い女だったが、もうひとりのNさんのものを選んだのはそれだけだったと思うが、安東のものを選んだ理由としては、安東の親は北野高校の「国語」系の教諭とコネクションがあったのではないのか、と思う。 植村(男。当時、50くらい?)もまた、「古文」の教諭として、「質問はないかあ」と言い、誰も質問しないと、「質問はないということは、すべてことごとくわかっておるということやな。それなら、こちらから質問してやろう。それで答えられなかったら、げんこつや。」とか言い、それならと思って質問すると、「はあん。こんなこともわかりませんのおん! はああん!」と言うというそういう男だった。だから、質問すると「はああん!」と言われるし、質問しないと「何でもわかっておるということやな」とか言うという人間で、逆に植村の方から質問されると、当然、答えられない生徒が出てきたのだが、それが女生徒なら「げんこつやとは申しましたけれども、お嬢ちゃんの頭を殴るわけにもいきませんからなあ。よっしゃ、殴れるやつ、あてたろ」とか言って男子生徒に質問したりしたのだったが、ところが、安東が「質問」すると、「はあん、そんなこともわかりませんのおん! はああん!」と他の人間が質問した時なら言う男が、「はい~い。安東しゃん、大変いいご質問でしゅねえ、安東さん」とか言いよったのだ。あれえ? そんなに「いい質問」かなあ~あ? と思ったのだが、私みたいな「普通の市立中学校卒」の者と違って、安東は「大阪教育大付属中学校卒」でもあり、なんか、コネクションがあったかな・・・と今は思っている。今から考えると、北野高校というのは行きたいと思って行った学校であり、だから、合格した時はうれしかったのだが、なんかそんな教師が多かったなあ・・、と思う。生徒によって、そんな具合で対応を変える教諭というのは、「つまんねえ野郎だなあ」と思う。
植村は、生徒の方から質問すると「はあん、そんなこともわかりませんのおん! はああん!」と言い、質問しないと「質問はないかときいておるのに、質問はないということは、どんなことでも答えられる、どんなことでも理解できているということやな」と言うということは、その学習範囲については「どんなことでも答えられる」「どんなことでも理解できている」というくらいに学習しろという意味かな・・と高校1年の時に植村がそう言った時には思ったのだったが、その学習法は「入試に通る」という視点で見ると効率は悪い! そんなもの、「どんなことでも理解できている」なんて、そこまでやらなくても試験に通ることはできるし、「どんなことでも理解できている」なんて学習法を取るよりも、「試験に出るものを理解できている」ようにやった方が「入試に通る」という視点では効率はいいはずで、植村の言うことなんて気にしない方が「入試に通る」という視点ではいいと思う。そもそも、特定の生徒にだけ、「安東さん、それはそれは大変いいご質問でしゅねえ」とか声の質まで変えて言うようなしょーもないおっさんなんて、くっだらねえ、「つまんねえ野郎だなあ!」、そんなやつの言うことなんてきくのではなく、そんなやつをどう「あしらう」かを考えた方がよかっただろう。
川崎市の幸区は、なぜ、「さいわい」区というのか。東芝小向工場は今もあるが、鹿島田駅の前にはかつては東芝タンガロイの工場があったし、他にも工場がいくつもあった地域である。もしかして、「地方」から中学校を卒業してすぐに集団就職でここに来て工場で働くようになった人が、ここでいいことがあったらいいのになあと願って、それで「幸(さいわい)」区と名付けた・・・とかそういうことか? とか考えたこともあったのだが、そうではなく、明治天皇がここに「御幸」されて、「あっそ」とは言われなかったけれども、そういうことがあったことから「御幸公園」とこの公園が名付けられて、そこから区の名称が「幸区」になった、と説明書きに書かれていた。もしかすると、由来は2つ以上あるかもしれない。千葉県習志野市から船橋市にかけて、「習志野(ならしの)」という地名があるが、これも、陸軍だかの行進を見て、立派な姿のおっさんがいて、その誰それに「ならへ」と明治天皇がおっしゃったことから「ならしの」だとかいう話があるらしいが、実際はそれよりも、「なだらかな野」で「なだらかな野」⇒「ならし野」⇒「習志野」ではないか。 「幸区」の由来もそういうものがあるかもしれない。今は多摩川は比較的まっすぐに流れていて堤防も整備されているが、かつての多摩川は蛇行していて水害もあったというから、かつて、多摩川が氾濫して水害にあって家族に死者が出たような人たちが、いいことがあればと思って「さいわい(幸)」区と名付けた、ということもありうるような気がする。「国家」が一方的に名付けるならば、天皇がここに来たからとか、天皇がこうおっしゃったからとかいうことで名付けることもあるかもしれないが、そういう「上からの地名」はなかなか根付かない。「E電」にしても、ふと気づくと消えてなくなってましたでしょ。「高輪ゲッターロボ」もそのうち名称が変わると思いますよ。たぶん。 多摩川の氾濫で被害にあった人が「いいことがありますように」と願って「幸い」と名付けたとか、「地方」から中学校を卒業と同時に集団就職で来た人がここで「いいことがありますように」と名付けたとか、そうでないにしても、何か、庶民もしくは一般市民の意識に沿ったところから来た名称があって、それに「明治天皇さんが来られました」というものが合体した、ということならあるかもしれないように思うのだが。
それで、御幸公園は北側に梅林がある。「ばいりん」と言っても、(株)一条工務店https://www.ichijo.co.jp/ の営業本部長の「遠州弁とタガログ語のバイリンガル」、梅毒の「梅」と淋病の「淋」と軽薄の「軽」で「梅淋軽(バイリンガル)」の「バイリン」ではない。従業員が、何とか契約してもらおうとして、結果として契約になったかならなかったかは別として、夜遅くまでかけずりまわっているまさにその時に、フィリピン人女性ネイティブスピーカーからマンツーマンでドリンク付きでタガログ語講座を受けとった男がタガログ語を話せるようになって「遠州弁とタガログ語のバイリンガル」になった、という「バイリン」とは違う! 梅の林である。
語学の学習でも、リーディング・ライティングの部分は自分で机に向かって学習するしかないが、ヒアリング・スピーキングの部分については、何と言ってもネイティブスピーカーと接する機会を多く持つということが第一だと実感した。(株)一条工務店の営業本部長がタガログ語を話すというのは、まさにそれだ! ・・・が、英語が話せる・フランス語が話せる・イタリア語が話せる・・というのはそれはいいことではあっても、ひとつの能力があるということで、別に人格が優れているとかいないとかいう問題ではないはずだが、日本では、英語の能力がある・フランス語の能力がある・イタリア語の能力がある・・というのは、人間としての評価までいくらか上がるようなところがある・・のに対して、「タガログ語が話せる」というのは、特に日本語については遠州弁しか話せない人が「タガログ語が話せる」というのは・・・、なんだかなあ~あ・・・・・。 (株)一条工務店の工場部門の(株)日本産業がフィリピンに工場を作った際に、見込客に見てもらうために作成したビデオで「なぜ、フィリピンに作ったかというと、それはフィリピンは英語の話せる人が多いからです」などと女性ナレーターが話していたのだが、フィリピン人は英語の話せる人が多いらしいのだけれども、「たとえ、フィリピン人に英語の話せる人が多かったとしても、一条工務店の経営者が英語を話せるわけじゃないのだから、フィリピン人で英語の話せる人が多かったとしても、一緒と違うのかな」と思ったことを口にしたところ、「一条工務店の経営者が話せるのは英語じゃなくてタガログ語ですよ、タガログ語」と某従業員が言ったのでしたが・・・、そんなところみたい・・・というのか、「まったく、一条工務店の経営者は、フィリピーナのけつ追いかけていって、とうとう、フィリピンに工場まで作りやがった」・・と従業員の間では言われていた。
御幸公園の野球場の北側、国道1号に近い側に梅林がある。

↑ が、明治天皇が「御幸」されたという石碑である。35年少々前、私がこの付近に住んでいた頃からこの石碑はあった。

↑ 側面に書かれているが、この石碑の文字は、「侍従長 海軍大将 鈴木貫太郎」によるものだそうだ。
鈴木貫太郎というのは、この文字を書いた時は「侍従長 海軍大将」だったかもしれないが、
《 鈴木貫太郎 1867~1948 海軍大将。 2・26事件のとき襲われて負傷。小磯内閣の後をうけ組閣。》
《 鈴木内閣 1945.4.~8 終戦を目的として成立。同8月主戦派を押さえてポツダム宣言受諾を決定。終戦とともに総辞職。》
( 全国歴史教育研究所協議会編『新版 日本史用語集』1975.2.28.新版 山川出版社 )
で、「終戦」というのか敗戦というのか、ポツダム宣言受諾の時の内閣総理大臣である。
ちなみに・・・。 鈴木梅太郎は、
《 鈴木梅太郎 1872~1943 化学者。スイス・ドイツに留学し蛋白質研究。東大教授。1911年オリザニン創製。以後理研で栄養化学研究。》で、蛋白質の研究者であって、梅の研究者ではない。
『新版 日本史用語集』(山川出版社)の鈴木貫太郎と同じページに、重光葵(しげみつ まもる)の名前が出ているが、
《 重光 葵(しげみつ まもる) 1877~1957 外交官。東条・小磯・東久邇・鳩山内閣の外相。戦犯服役後、改進党総裁。保守合同後自民党入党。日ソ交渉に活躍。 》
と出ているのだが、
《 重光は敗戦直後に組閣された東久邇宮稔彦王内閣で外務大臣に再任され、日本政府の全権として降伏文書に署名するという大役を引き受ける。1945年(昭和20年)9月2日、東京湾上に停泊した米国の戦艦・ミズーリ甲板上で行われた連合国への降伏文書調印式において、大本営代表の参謀総長梅津美治郎と共に日本全権として署名を行った。》(《ウィキペディアー重光葵》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8D%E5%85%89%E8%91%B5 )というのが何より有名だろう。
何だったか忘れてしまったが週刊誌に載っていた話だが、ロッテの社長の名字は「重光」というそうで、もともとは韓国人で金さんだったらしいが、重光という苗字の人の養子になって「重光」を名のるようになったらしい。なぜ、「重光」という苗字になりたかったかというと、日本で商売するには、韓国名よりも日本名を名のった方が商売はしやすく、かつ、「重光」というと重光葵 元外相を多くの人間は思い浮かべる名字で、吉田・岸・池田・佐藤・小泉なんてどこにでもあるような苗字と違って、「重光」というと「重光葵元外相の縁戚か?」と多くの人間が思う苗字であり、文字そのものからして「重い」名字であり、名門のように思われる名字になりたかったという話で、又、「ロッテ」という会社名は、ゲーテの『若きウェルテルの悩み』に登場する女性シャルロッテからとった名前で、これも日本で商売する上で、日本人に受け入れられやすい名前として考えたということだった。
2010年~2011年、千葉市中央区鵜の森町 の工務店 新華ハウジング有限会社は、社長の長谷川新二は、長谷川の名前から「新」をとって嫁さんの名前から「華」をとって「新華ハウジング」という会社名にしたようだったが、中国人を相手に商売する会社ならば、「新華・・・」というこの会社名は最高、何も言わなくても、「新華社と何か関係あるのと違うか」と客の側で勝手に思ってくれる名前だけれども、日本人を相手に商売する零細の工務店の名前としては、中国人でもないのに中国人みたいな会社名を名のるというのはプラスにならない。ロッテの社長と逆のことをやっている。さらに、2011年4月から不動産業の会社としてビルダーズジャパン(株)を作ったが、零細なかけだしの不動産会社としては「ビルダーズジャパン」というのは名前が大きすぎるし、何よりも、「ビルダー」では建築会社の名前。「新華ハウジング」の方が「◇◇ハウジング」という名前の不動産屋はあり、建築部門の名前と不動産部門の名前が逆。会社名を決める時には、顧客に何をやっている会社なのかわかりやすい名称をつけるべきで、又、日本で日本人を相手に商売するのに、「中国人みたいな名前」をわざわざつけるというのはプラスにはならないだろう、ということくらい、普通はわかると思うのだが、長谷川はわからなかったようだ。
「アホな社長」というのはけっこういるようで、小堀住研(株)は1990年にエスバイエル(株)と名称変更したが、これも、アホ! 初代社長の小堀林衛の名字から「小堀」、「住研」は「住宅を建てるのではなく研究する」ということで、「研究する」会社は「建設する」会社より上というアピールで考えた造語だった。最初はそれでよかったが、1990年頃から、不動産屋で「▽▽住研」と名乗る不動産屋が続出してきたことから、「☆☆住研」と名乗っていたのでは「不動産屋か?」「建売の会社か?」とよく知らない人で思う人も出るようになったようなので、「住研」の方は変更しても良かったかもしれない。しかし、前の方の「小堀」はこれは、戸建住宅建築業の会社で「あか抜けた和風住宅」などを得意とする会社で、初代社長の小堀林衛は滋賀県の出身というのは嘘ではないわけで、二代目の中島昭午は高卒だけれども卒業した高校は長浜北高校だということは、黙っていても、客の側で「小堀遠州と関係あるのか?」と勝手に思ってくれる名前だったはずだ。だから、嘘は言っちゃいかんだろうけれども、客の側で「小堀遠州と関係あるのかな」と勝手に思ってくれる名前というのは、その名字は残しておくべきだったのだ。ところが、「初代社長のメカケの子」だか「メカケの娘の婿」か、2説あったようだが、2代目の中島昭午は会社名から「小堀」を取り除きたかったようで、「エスバイエル」というよく意味のわからん会社名に変えてしまった。「エスバイエル(S×L)」は「スペースとライフをかけあわせる」ということでだと言うのだが、「ツーバイフォー(2×4)構法」を思い浮かべる名称であり、ツーバイフォー工法で建てている会社が名のるのであればそう悪くない名前かもしれないが、ツーバイフォー工法で建てているわけでもない、在来木造から始まって、木質パネル構法で主として建てるようになった会社は、そういう「ツーバイフォー工法の会社か」と思われるような名前でない名前にした方がいいはずだ。 おそらく、《「名前つけ屋」に依頼したところ、その「名前つけ屋」のおっさんが、小堀住研(株)がどういう構法で建てている会社なのかよくわからずにつけた名前》ではないか。 会社の名前をつける際も、そのあたりを考えてつけないといけないし、「名前つけ屋」に依頼すれば自分で名前を考えるよりも商売をする上においていい名前をつけてくれるとは限らない・・・て、そのくらいのことわからんのかなあ~あ・・と思うのだが、わからん男が社長になっている会社というのは、けっこうあるのかもしれない・・・。従業員は連日、労基法違反の長時間労働で滅私奉公を続けていても、社長がアホやとどうなるかというと・・・→つぶれた。ロッテの創業者の爪の垢でも飲ませてやりたい・・・。




↑ 下平間天満天神社の「社務所兼町内会集会所」の前の梅、東古市場の天満天神社の鳥居脇の梅に比べると、こちらの方が花が多い。 梅にも種類があって、咲く時期にいくらか差があるのではないか。御幸公園の梅林の方が本数が多く、種類も多いので、それで、訪問した3月3日は梅の開花時期としては遅めだったが、咲いている梅もあったということか。しかし、それでも、↑ の写真を見ると、咲いている梅の花もあるものの、すでに開花が終わったものもあるのが拡大した写真ではわかる。 桜と比べて梅は派手さがないが、近くで見ると上品な花だと思うのだが、咲き終わった後のものがある枝に近づいてみると、まだ咲いている花があっても咲き終わったものが見えてしまうので、もう少々早い時期の方が梅の花を見るには良かったかもしれない。
35年ほど前、この付近に住んでいた頃から、↑ の明治天皇さんがここにいらっしゃいましたよお~おという石碑は建っていたが、梅の木はそんなになかったような気がした。その頃は、梅の木にそれほど関心がなかったということもあったかもしれないが、今の方が多いように思う。
↓ を見ると、

↑ 「この植樹は、東急ゴルフパーク多摩川及び川崎リバーサイドゴルフ場の皆様からの協力金により行ったものです。
平成28年3月
実施及び維持管理 川崎市幸区役所道路公園センター
助成 (公財)河川財団・・・
(公社)ゴルフ・・・ 」
と書かれている。 平成28年というと、西暦では2016年。4年前である。
御幸公園のすぐ北側に多摩川の堤防があり、その堤防の内側に多摩川の河川敷があって、そこに「やってるのかやってないのかよくわからないゴルフ場」があったのだが、それが「東急ゴルフパークたまがわ」https://www.tokyu-sports.com/golf/tamagawa.html だったのか? 「川崎リバーサイドゴルフ場」も、この御幸公園のすぐ北の多摩川の河川敷を利用した9ホールのショートコースのゴルフ場らしいが、そうなると、多摩川の河川敷のゴルフ場というのは、「東急ゴルフパークたまがわ」なのか「川崎リバーサイドゴルフ場」なのか?
※ 東急ゴルフパークたまがわ
※ 川崎リバーサイドゴルフ場 http://hama-golf.com/kawasaki/
多摩川河川健康公園 川崎リバーサイドパーク(ゴルフ場)http://www.kasen-kikou.or.jp/tamagawa/golf.html
↑ 東急ゴルフパークたまがわ
↑ 川崎リバーサイドゴルフ場。
地図を見て検討してわかった。御幸公園のすぐ北側の多摩川の河川敷にある「やってるのかやってないのかよくわからないゴルフ場」「クラブハウスてどこにあるのか見ても見つからないゴルフ場」は、「川崎リバーサイドゴルフ場」で9ホールのショートコースのもので、「東急ゴルフパークたまがわ」はそれとは別で、多摩川の右岸の河川敷にあるが、川崎リバーサイドゴルフ場よりもずっと上流側、東急東横線と東急田園都市線の中間あたりにあるようだ。
「川崎リバーサイドゴルフ場」は、「多摩川河川健康公園 川崎リバーサイドパーク(ゴルフ場)」http://www.kasen-kikou.or.jp/tamagawa/golf.html を見ると、有料だけれども、一般のゴルフ場と比べると、安い! 「一般社団法人 河川健康公園機構」HPhttp://www.kasen-kikou.or.jp/index.html が運営しているらしいが、「河川健康公園機構」というのは役所なのか? 「役所ではないが役所みたいなもの」なのか? 東急の方は売名行為というのか宣伝広告の一環なのか、行政から頼まれての「おつきあい」なのか・・という感じだが、河川健康公園機構が何で、御幸公園の梅林に協力金を出すのか、どうもよくわからん・・が、その「どうもよくわからん」存在のようだ。

↑ が、「川崎リバーサイドゴルフ場」のようだ。
さらに、

↑ 「 御幸公園 植樹祭
川崎市長 福田紀彦 」
と書かれているのだが、福田紀彦ていつの川崎市長なんだ? と思ってインターネットで検索すると・・・、
《ウィキペディアー福田紀彦》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E7%94%B0%E7%B4%80%E5%BD%A6 によると、
1972年、大阪万博があった1970年の2年後、野村克也が南海ホークスの選手兼任監督でパリーグ優勝した1973年の前年の生まれで、川崎市の市立小学校・中学校を卒業して、その後、父親の転勤でアメリカ合衆国ジョージア州に住んだ人で、2003年に神奈川県会議員に民主党から当選し、2013年に自民・民主・公明の推薦での無所属で川崎市長に当選し、現在まで川崎市長を務めているという人で、現在、47歳。選挙区は川崎市宮前区の人らしい。
川崎市長の在任期間は、2013年~現在まで・・・というと、要するに、今の市長ということだ。
ということは、この「御幸公園 植樹祭」がおこなわれたのも、2013年以降ということになる。
「東急ゴルフパークたまがわ」と「川崎リバーサイドゴルフ場」が「協力金」を出して植林したのが2016年。2013年から今現在までの川崎市長の名前が入っている「植樹祭」の碑が立っているということは、植樹祭が行われたのは2013年以降。 だから、その際に植えられた梅は、私がこの付近に住んでいた35年ほど前にはなかったわけだ。
しかし、そうなると、明治天皇さんがここにいらっしゃって、「あっそ」とは言われなかったけれども、「うめえ~え」と言われたかどうかはわからんが感嘆されたというのは、それはどういうことか?
もうひとつ、川崎市教育委員会 の名前で出ている説明書きがある。↓

↑ 《 この梅林は、江戸時代の初め 寛文の頃(17世紀中頃)に植え始められたもので、その果実は梅干しとして200余年の間、江戸の市民の食膳にのぼっておりました。 しかし、30ヘクタールもあった「しろかが梅」の林も、明治初年の多摩川のはんらんで、3分の2以上を失い、加えてその頃には老樹となっていたため、果実の収穫も激減してしまいました。
明治13年(1880年)2月、成島柳北がここを探勝し、「小向観梅の記」という一文をおこし、『一村尽く梅で夜はいわゆる天地一白、燈を点せずして車を挽くを得べし』と紹介してから、一躍梅の名所としてその名を天下にとどろかせるにいたりました。
明治17年(1884年)3月19日には、明治天皇が観梅のため行幸になり、のち明治23年(1890年)小向村他数ヶ村の合併に際しては、この光栄を記念して、村名を御幸村と名づけました。
資料提供
川崎市教育委員会 》
と出ている。
「明治初年」に多摩川の氾濫で3分の2以上を失い、さらにその頃は老樹となっていたが、それでも、
その後の1880年、「千島の岩魚ごっそり(1875)、千島樺太交換条約」の千島樺太交換条約の1875年の5年後、成島柳北が称賛し、
1884年に明治天皇が観梅のためにここにいらっしゃって、「うめえ~え」と言われたかどうかはわからんが喜ばれたということですから、1884年、「一躍、清(1894)を攻撃する」の日清戦争の10年前、「ロシアへ行くを知ってか(1904)、兵隊さん」の日露戦争の20年前の時点では、梅林は天皇へーかが観梅に来ようというくらいにあったわけです。
ところが、1980年代、私がこの付近に住んでいた頃は、明治天皇の碑はあったけれども、梅の林があったことには気づかなかった。毎月、必ず来ていたのではないので、ぴったり梅の花が咲くころには来なかった可能性も絶対にないわけではないが、近所に住んでいたし、御幸公園の横のバス停から西馬込までバスに乗って、西馬込から都営浅草線に乗り換えて都内に行ったことも何度もあったのに、ここに梅の木がいっぱい植わっていることに気づかなかった。
そして、2016年頃に、梅の木が植樹されて、今現在の川崎市長の名前で「植樹祭」の碑が建っている。・・ということは、明治天皇がいらっしゃった頃は観梅するに値する梅林があったが、その後、2016年に植樹するまでの間、たいした梅林はないという時期があったということか・・・。
思い出すのは、1980年代、私がこの付近に住んでいた時は、幸区は工場が多い地域ではあるけれども、川崎区の臨海部などとは違って住宅も建っている地域であり、川崎市でも宮前区とか麻生区とかの方が自然環境はいいかもしれないけれども、住むのに特に自然環境が悪い場所という感じではなかった。しかし、その頃、何度か食事をした食べ物屋が今、どうなっているかと前を通ったものの、6軒のうち6軒とも閉店して今はなかったが、そのうちの1軒で食事をしていた時、店のおやじが「今はそういうことはなくなったけれども、川崎喘息の頃は、昼、洗濯物を干すと真っ黒になったもんだ」と話していたのが聞こえたことがあった。私が住むよりも前、公害病の「川崎喘息」の地域だったらしい。「昼間、外に洗濯ものを干すと真っ黒になった」という場所では、梅の木も健康に育たなかったのかもしれない。
その梅の木を復活させようとして、2016年に「植樹祭」をして、梅の木を植えた・・・ということだったのか?
梅にはいくつかの種類があって、《果物ナビ 梅》https://www.kudamononavi.com/zukan/ume.htm によると、「白加賀(しらかが)」というのは、《関東地方に多く流通している青梅で、サイズは25~30g程度。果皮は淡黄緑色で、肉厚で緻密です。旬は6月中旬からで、用途としては梅干しや梅酒、梅シロップなどに向いています。江戸時代から栽培されていたようですが来歴は不明です。》というものらしい。
成島柳北て何した人だっけ? 《ウィキペディアー成島柳北》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%90%E5%B3%B6%E6%9F%B3%E5%8C%97 によると、《成島 柳北 (なるしま りゅうほく、1837年3月22日(天保8年2月16日) - 1884年(明治17年)11月30日)は、江戸時代末期(幕末)の江戸幕府・将軍侍講、奥儒者、文学者、明治時代のジャーナリスト。・・》だそうだ。

↑ 明治天皇の碑の横、「川崎市水準点」。 「ここの高さは標高3.7mです」という。 もし、津波などが本当に来て、海抜10mの高さまで水につかったとすると、10m-3.7m=6.3m ということになるので、1階あたり3mと考えるならば、2階建てのアパートなら水中に没することになる・・・か。 この付近に住んでいる時は、あまりそういうことは考えなかったし、そうだとしても、だからどうすればいいのか、ということにもなった。金持ちは等々力とかそういう安全な所に住むのだろうけれども、「わしぁ貧乏やからな」というのか、生協食堂の140円のカレーライスを食べても、「おまえ、140円のカレーライスなんてそんな贅沢なもん、食ってええのか。おまえなんかが。贅沢すんな、チャンコロ! 140円のカレーライスなんておまえがそんな贅沢なもの、食うたらいかんだろうが、このチャンコロっ!」と毎日言われてきた者としては、月1万2千円のアパートでも「贅沢」だったので、海抜の高い場所に住もうなんて考えても無理な話だった。
父の「親友」の医者屋のM川のドバカ息子は「患者」を薬漬け・検査漬け・毒盛りしたカネで私立金権裏口関西医大http://www.kmu.ac.jp/ に裏口入学したようだったが、入学後は、父親のM川とともにゴルフショップに行ってゴルフバッグをこれまた薬漬けで父親が稼いだカネで買ってゴルフやっていたということだった。M川は私に「きみなんか、高校には行くべきではない人間だろうが。高校は義務教育ではないのやから、きみは高校に行ったのは余計で、甘ったれとるからきみは北野高校なんかに行ったのじゃ。ましてや、きみなんか、大学に行くべきではないんや」と言い、父は「そうやそうや。えええ~えこと言いはる。まさにその通りや。お~ま~え~えはあ~あ、大学なんか行くべきではないし、おまえは高校行ったのは余計であって行くべきではなかったんや。おまえが北野高校に行ったというのはそれは甘ったれとるから北野高校に行ったんじゃ。だいたい、おまえは浪商の人間であって浪商は高校には行くべきではないのにからに北野高校に行きおったんじゃ。この浪商めが浪商! 浪商は高校行くなちゅうじゃ浪商!」と言っていたが、そして、私に「裏口入学した人の爪の垢を飲ませてもらいなさい」と言ったのだった。慶應大学に在学した時、父は「あんたは明日からうちの会社の工場にアルバイトに行くことに、決めてきたっ!」と言って「決めてきた」。医者屋のM川のドバカ息子は金権関西医大に「患者」を薬漬けにしたカネで行って、そして、M川は「うちの息子なんて、義務教育でもないのに、それを裏口入学で大学に行ったんやから、そやから、大学では一生懸命勉強せんといかんし、勉強させてやらんといかんのや」と言って、アルバイトなどせずに、父親が薬漬けで稼いだカネでゴルフバッグ買って大学生がゴルフしていたのだったが、父は私には「大学は勉強する所とは違うんじゃ、大学は。甘ったれておってはならんぞ、チャンコロ浪商! おまえ、ゴルフ場のキャディーやれ、キャディー。アルバイトでキャディーやれ、チャンコロっ!」と言うのだった。なんで、「ゴルフ場のキャディー」が出てきたかというと、母方のイトコでラグビーのスポーツ入学で専修大に行って専修大ラグビー部に入ったやつがいて、そいつが体育会ラグビー部の紹介でゴルフ場のキャディーのアルバイトをやったという話を聞いたようで、そこから、「おまえもキャディーやらんか、チャンコロ。甘ったれとってはいかんぞ、甘ったれとっては。大学は勉強する所とは違うねんぞ、勉強する所とは。心得違いを起こすでないぞチャンコロ! キャディーやらんかチャンコロ、キャディーやらんかチャンコロこのロスケいたこプエルトリコめが、生まれなければよかったのに生まれおってからにチャンコロ浪商!!!」と言うのだった。医者屋のM川のドバカ息子は医者屋の息子だから、「患者」を薬漬け・検査漬け・毒盛りして稼いだカネで私立金権関西医大に行かせてもらい、そして、「裏口で大学に行かせてもろうたんやから、だから、大学ではアルバイトなんてせんと一生懸命勉強せんといかんのや。なにしろ、医者の勉強は大変やからな。医学部の人間はアルバイトなんてやるような暇なんてないんやからな」と言って、「患者」を薬漬けにして稼いだカネで大学生がゴルフをやって遊び、私は「おまえは義務教育でない以上は高校に行ったのは余計なんじゃ、このチャンコロロスケめがこのチャンコロいたこプエルトリコめが。大学は勉強する所とは違うんじゃチャンコロ! ゴルフ場のキャディーやれキャディーを!!!」と言われることになったのだった。医者屋の息子は小学校から高校までちっとも勉強しなくても医者屋の息子であるから「患者」を薬漬けにして稼いだカネで「大学」に行かせてもらって、大学生の時にはまたもや「患者」を薬漬けにして稼いだカネでゴルフバッグを買ってゴルフやって遊ぶという「当然の権利」があり、それに対して私の場合は「うちは貧乏や」ということで、小学校の1年から同級生が遊んでいる時も只管勉強してきても、「お~ま~え~はあ~あ、高校行ったのは余計なんじゃ。義務教育でない以上はおまえは高校には行くべきではない民族なんじゃ、このチャンコロっ! ましてやおまえは大学なんか行ってはいかんのじゃ、このチャンコロめがチャンコロ浪商! 浪商は高校行くなちゅうんじゃ浪商。浪商のくせしてからに北野高校に行きおってからにこいつめチャンコロ! 大学は勉強する所とは違うんじゃ大学はあ。ゴルフ場のキャディーやれ言うとるんじゃ、甘ったれるなチャンコロ浪商!!!」と言われることになった。「民族の違いを忘れるな」「階級の違いを忘れるな」と父親から毎日毎日言われてきたが、医者屋民族の息子は小学校から高校までちっとも勉強しなくても裏口入学で「大学」に行かせてもらい、大学生の時にはアルバイトなんてしなくて「患者」を薬漬けしたカネでゴルフバッグ買ってゴルフをやるのが役割で、私は小学校から高校まで同級生が遊んでいる時も只管勉強してきても、「おまえは高校行ったのは余計なんじゃ。ましてや、おまえは大学行くなちゅうんじゃ」と言われ、大学生の時には「キャディーやれ、おまえ」と言われる、という、それが「民族の違い」というものだったようだった。それが「医者屋民族」にとっての「常識」だったようだ。M川は「なにしろ、医者ちゅうもんはえらいからなあ。医者ちゅうもんは教養豊かで人生経験があって人格者でえらいえらい人間で、誰もが何でも何でも言うことをきかんといかん存在なんじゃあ」と何度も言っていて、父は「そうや。その通りやっ! 医者ちゅうもんはおまえなんかとは人格が違うねんぞ。医者ちゅうもんは特別に特別に特別にえらい人間で、誰もが何でも何でも何でも何でも絶対服従せんといかんねんぞ。わかっとんのんかチャンコロ、わかっとんのんかチャンコロっ! わかっとんのんか、このロスケ!!!」と言い続けたのだった・・・が、「なんで、裏口入学がそんなにエライんですかあ?」と言ったことがあったのだが、「わからんか? わからんのか、そのくらいが!!! 裏口入学ちゅうことは思考が柔軟やから裏口入学ちゅうことなんじゃ。わからんのかチャンコロ! わからんのかそのくらいがチャンコロ!」と父は言うのだった。思考が柔軟であるのかないのかわからんが、今もって、何で裏口入学がエライのか、さっぱりわかりまへん!!!
父は「医者ちゅうもんはえらいねんぞ。おまえとは違うねんぞ、おまえとは。医者ちゅうもんは教養豊かで人格者で人生経験豊富で、医者には何でも何でも何でも、どんなことでもどんなことでも絶対服従せんといかんねんぞ、わかっとんのんかチャンコロっ!」と私に言い続けたが、片方で「うちは医学部なんか行かすような金持ちとは違います。4年で卒業できる学部にしなさい。甘ったれとってはいかんぞ甘ったれとっては」と言うのだった。要するに、医者屋民族というのは、小学校から高校までちっとも勉強しなくても裏口入学で私立医科大学に行かせてもらい、大学生の時はアルバイトなんてしないで「患者」を薬漬けしたカネでゴルフバッグを買ってゴルフやって遊ぶ権利があり、それに対して「チャンコロの民族」らしい私は小学校から高校まで努力して勉強したものを全部まとめてドブ中にどぼんと捨てて、「あるばいとおアルバイトオあるばいとお」とアルバイトばっかりさせられる義務があり、特に、医者屋民族の息子の大学生がゴルフやって遊ぶ時には、そのキャディーをやる義務がある、ということだったようだ。「民族の違いを忘れるな」と父は私の眼を指で突くようにして指さして、毎日毎日何度も何度も叫び続けたのだったが、「民族の恨みを忘れるな(不忘民族恨)」と思ったものだった。 今でも、「医者屋民族」というのは好きではない。私とは「民族が違う」のであり「階級が違う」連中であるわけで、「民族の恨みを忘れるな(不忘民族恨)」「階級の苦しみを忘れるな(不忘階級苦)」と常に思っている。
↑ の多摩川河川敷の「川崎リバーサイドゴルフ場」はゴルフ場ではあっても、利用料金の安いゴルフ場で、うちの父親のような「特別に特別にえらいえらい人」でなくても利用できるゴルフ場だったようだが、ゴルフは私は中学校1年の時から嫌いだった。中学校1年の時に卓球部に入ったところ、父親から辞めさせられた。ところが、それでいて、父は日曜日に近所のゴルフの打ちっぱなしに行くのに連れが欲しかったようで、中学校1年の時に、あくまでも打ちっぱなし場なので会員権といっても会員割引があるだけで5万円の会員権だったが、自分がそれに入るだけでなく、「あんたも会員に入ろうか。ゴルフやると社会で役に立つ。勉強ばっかりではなく運動もやらんといかん」などと言うので、「要りません。けっこうです!」と言ったのだが、「なんでやねん。ゴルフやるとええがな。勉強ばっかりでなくスポーツもやらんといかん!」と言うのだったが、そんなゲートボールみたいなもん、なんでやらされなきゃならんのだ! と思って嫌だった。私が勉強とともにスポーツもやりたいと思って卓球部に入ったのに、「何を甘ったれとるんじゃ」と言って辞めさせておきながら、片方で「スポーツもやらんといかんがな。あんたも入れたろ。ゴルフは社会で役に立つ」とか言うというのは、それはおかしいではないか。私は同年代の人間と一緒にスポーツをやりたかった。中学生から見ると年寄の年代の人間と一緒に「ゲートボールみたいなもの」なんてやりたくなかった。そして、「ゴルフは社会で役に立つ」とか言って、そして、「すべてをすべてを会社のために。すべてをすべてをわしのために。とってちってたあ~あ♪」という主張をされて、人生をことごとく「会社」と「わし」に奪われるというのは嫌だった。だから、ゴルフと「会社」は中学校1年から嫌いだったのだ。だから、仕事につくのなら、ともかく、「会社」でない所がいいと思っていた。学校の勉強はよくできたから、大学卒業後大学院に進んで大学の先生になって「大学」に勤めるか、教員資格を取得して高校か中学校の先生になって高校・中学校という「学校」に勤めるか、司法試験に合格して弁護士になって「法律事務所」に勤めるか裁判官になって「裁判所」に勤めるか、学芸員の資格をとって「美術館」・「博物館」に勤めるか、ともかく、「会社」でない所がいいとずっと思ってきたのだった。しかし、「大学」に入ると、日本で一番嫌いな大学の首をもがれても行かされたくないと小学生の時から思っていた学部に暴力と強制と脅迫で行かされると、父はこう言ったのだった。「『会社ちゅうところ』に勤めるのを嫌がる人間というのは、モラトリアム人間病という病気にかかっている人間です。慶應大学の小此木啓吾先生というエライえらいエライえらい先生がそうおっしゃってる。病気は治療せんといか~ん! とってちってたあ~あ!!!」と。その理屈で考えるならば、小此木啓吾こそ、慶應大学医学部助教授として「大学」と「病院」に勤めていた男であり、「会社ちゅうところに勤めるのを嫌がるモラトリアム人間病」の重症患者ということになるはずである。小此木啓吾こそ病気であり、小此木啓吾こそ「治療」と称して薬漬け療法など受ける義務があるはずであろう。小此木啓吾こそ逮捕監禁療法で「病院」に監禁してやる必要があったはずであった。なんで、小此木啓吾は「病院」に逮捕監禁されないのか? 内部進学小此木啓吾独善主義はなんで、「病院」に逮捕監禁されないのか? おかしいのではないかな? モラトリアム人間病重症患者小此木啓吾はなぜ「病院」に逮捕監禁されないのか? 「幼稚舎から慶應」「揺り籠から墓場まで慶應」症候群・内部進学だからか??? そういう「人生経験」を経てきたので、ともかく、「ゴルフ」は嫌いなのだ、私は。今でも。
「作家で精神科医」の なだ いなだ は『パパのおくりもの』(文春文庫)で「精神分析教の信者はあまり身勝手な解釈をやめた方がいいと思う」と書いていたが、私もそう思う。
多摩川の河川敷に、日が暮れたかというくらいの時間に行って、そこで、ランニングと野球のバットの素振りを計30分ほど、体力づくりのつもりで毎日やっていた時期があった。その際だが、河川敷に「川崎リバーサイドゴルフ場」という名前は知らなかったが、ゴルフ場があるらしいのは知っていたものの、どこからゴルフ場でどこからがゴルフ場でないのか、わからず、そのあたりを歩き走っていた。
ある時、河川敷に木の杭が建っていて、アパートに帰ろうとして近くを通りかかったところ、「にゃあ」という猫の声がするので見ると、その杭の上に子猫が乗っていた。猫というのは犬と違って高い所からでも飛び降りることができるだろうと思って通り過ぎようとすると、「にゃあ」「にゃあ」と心細そうに泣く。なんで、こいつ、自分で降りないのだろうと思ったが、猫はどんなに高い所からでも飛び降りることができるわけではなく(普通に考えて、マンションの5階くらいの窓から下に飛び降りたら無事ではないだろう)、子猫だから杭の上から地面に降りることはできなかったらしい。しかし、それなら、どうやって乗ったんだ? 誰かがいたずらで杭の上に載せてそのまま行ってしまったのか? 心細そうに泣くので、かわいそうに思って下に降ろしてやろうとすると、今度は怖がって泣く。なんだよ、ひとが親切で降ろしてやろうとすると嫌がって泣くのなら、降ろしてやることないよと思って行こうとすると、またもや、「にゃあ」「にゃあ」と助けてくれと訴える。しかたがないから、少々怖がってもおかまいなしに抱き上げて下に降ろしてやった。・・しかし、もともと、私が飼っていた猫でもないから、下に降ろしてやればそれで終わりのはずだった・・のだが、ところが、下に降ろすとついてくるのだ。ついてくるなよ・・と思ってもついてくるのだ。困ったなあ、元いた場所にいないと飼主からはぐれてしまうではないか。むしろ、下に降ろさなければ、飼主が迎えに来たのかもしれない。困ったなあ・・と思ったのだが、とうとう、アパートの入口までついてきてしまった。かわいそうだけれども、「ペット不可」の部屋に住んでいたし、たとえ、「ペット可」の部屋に住んでいても、猫を飼ってめんどう見る余裕はない。だから、かわいそうだけれども、「向こう行け」というそぶりをしたが、それでもついてくるのだった。ついて来られても、どうもできないので、何度も追い払うようにしたところ、とうとう、あきらめたようについてこなくなったが、かわいそうだった。あの猫はどうなったのだろうか。野良猫になったのか。どこかの誰かが拾って飼ってくれたか。生きていくことができずに死んでしまったか。もしかすると、誰かが、育てることのできない子猫を河川敷に捨てにきたが、単に河川敷に置いて帰ろうとしたのでは後をついてくるので、それで、ついてこれないように、河川敷に立っていた木の杭の上に載せたのであそこにいたのか・・・。 内田康夫『金沢殺人事件』では、東京都北区の平塚神社で猫を拾って帰り、「ペット不可」のアパートでこっそり飼っていると、その猫が妊娠していて子猫まで産んでしまって困ったという女子大生が登場したが、話の展開のうち、その女子大生は殺されてしまうことになり、「浅見光彦シリーズ」では「ヒロイン」になるのではないかと思われた女性なのに殺されたということで、編集者は内田康夫に「ええ~え。殺しちゃったのお?」と言ったらしかったが、猫についてこられて困った、という経験をした者としては、その女性の気持ちもわかる・・が、家主の立場になって考えると、やっぱり、「ペット不可」の家で勝手に買われては、やっぱり、困る。

↑ 多摩川大橋。

↑ 東芝小向工場の西のあたり、かつて、この付近に住んでいた時、公共料金の引き落としを横浜銀行の口座からおこなっていたことで、横浜銀行の普通預金の口座を持っていたのだったが、何千円しか残金のない口座をそのままにしておくよりも、きっちりと解約した方がいいと思って、2003年、横浜銀行鹿島田支店に行き、その帰り、かつて住んでいた付近がどうなっているか来てみたのだったが、私が住んでいた1980年代にはなかった「サイゼリヤ」ができていたのだが、それから17年経った今ではその「サイゼリヤ」は閉店したようだ。

↑ 多摩川の対岸に、昔からこの背の高いのはあったように思うのだが、何かなあ?
1980年代に住んでいた時、電話の受話器をとると、ラジオの音声が聞こえ、電話局に言って聞こえないように処理してもらったことがあったが、多摩川の対岸あたりにラジオ局の発信している所があったらしい。それとも違うように思うのだが、何だろうな・・・。
鹿島田から平間、そして、古市場・東古市場といったあたりもずいぶんと変わったものだなあ・・・と思った。銭湯にしても、「越の湯」はまだあったようだが、私が住んでいたアパートから一番近い場所にあった銭湯はもうなかった。 内風呂のある家が増えたのではないかと思うが、それとともに、3階建ての家が増えた。2階建てだった家の1階に車庫を作ってその上の2~3階に住居を設けたような家が増えたようだ。 かつて、食べたことのある食べ物屋6軒の前まで行ってみたが、6軒ともなくなっていた。 個人でやっている店は息子が継がなければ閉店することになるのかもしれないし、息子に無理に継げと言うわけにもいかないだろうけれども、かつてそこで食べたことのある者としては、少々寂しい。 鹿島田駅から新川崎駅までの間の高層ビルなんてのもかつてはなかった。 ずいぶん、変わったもんだなあ・・と思ったが・・・・

↑ 「 トイレでの寝泊まり禁止
幸区役所 道路公園センター
電話544-5500 」
おっ、変わらんもん、あったあ~あ♪ なんか、なつかしい(^^♪
2015年、川崎市の多摩川河川敷だったかで中学生の男の子が同年代の男子生徒に殺されたという事件があったと思いますが、え? もしかして、私がランニングやったりバットの素振りやったりしていたあたりなのか? なんてびっくりしましたが、そうではなく、あの事件の現場はこれよりももっと下流の方、幸区ではなく川崎区の河川敷のようでした。
※ 《ウィキペディアー川崎市中一男子生徒殺害事件》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%9D%E5%B4%8E%E5%B8%82%E4%B8%AD1%E7%94%B7%E5%AD%90%E7%94%9F%E5%BE%92%E6%AE%BA%E5%AE%B3%E4%BA%8B%E4%BB%B6

↑ [第94回]《落し物は届けるな、犯罪捜査に協力するな! ~ 警察の恐怖(1)―川崎市の警察と いわき市の警察》https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201204article_7.html 《1》 と、
[第764回]《天満天神社(川崎市幸区東古市場)【1/3】下平間・古市場交差点を経て天満天神社。気分の悪い古市場交番も健在。「両親が離婚した」者は常に不利ではない、ということも理解できないバカ女。》https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202003article_15.html
で述べた、幸警察署 古市場交番に届けてあげた財布が落ちていたのは、たしか、この公園付近だったように思ったが、どっちにしても、警察に届けたのは失敗だった。内田康夫の小説「浅見光彦シリーズ」では、警察官が「第一発見者を疑えというのは捜査の鉄則ですからね」と何度も口にするが、浅見光彦というのは「兄上が警察庁刑事局長」という「水戸黄門の印篭」みたいなものを持っているので、それで、自分から警察にすり寄って行くけれども、「水戸黄門の印篭」なんて持ってない者は関わらん方がええ。「君子危うきに近寄らず」。できるだけ、相手にしないのが一番でんなあ。
たしか、1984年の1月か2月この公園の付近に落ちていた財布を古市場交番に届けたところ、まるで、犯人みたいに扱われて、こんちくしょう、元あった場所に戻してきてやろうか・・と思ったものだったが、その何年か後、ここから遠くない場所で、私自身が財布を落としてしまった。しばらくして、拾ったと言って電話してきてくれた人があり、ケーキを買って持参して取りに行ったのだったが、「中身は抜き取られてました」と言われ、財布とお金以外のものが返ってきた。何を入れていたかはっきりとはもう覚えていないが、学生証も入っていて、運転免許証も入れていたかもしれない。だから、それだけでも返ってきて助かったが、その頃の私にとっては大金だったものを失った。その際、拾ったという人が電話してきてくれた時、幸警察署に電話をして、お礼はどのくらいするものなのでしょうか、と尋ねたのだが、「そういう問題には警察は関知してはならないことになっております」と言われてしまった。 そうかなあ。警察に届けた場合に、落とし主が取りに来た時に届けた人に渡す金額というのが、決まっていたと思ったのだが。又、拾って連絡くれた人を疑うのは良くないかとも思ったが、可能性としては、その人が現金だけ取って、残りを返した可能性もあるし、その人が盗ったのでなくても、その人は、私が行ったことがない場所、多摩川の河川敷でも私が行ったことのない下流の方の河川敷に捨てられていたものを拾ったという話であり、私が落とした財布を拾った人が現金だけ抜き取って残りを河川敷に捨てたものを、電話で連絡くれた人が拾って連絡してくれた、ということならば、私が落とした財布を拾って現金を抜き取って残りを河川敷に捨てた人は、占有離脱物横領罪に該当するはずであり、「関知してはならない」どころか、それは警察が担当する仕事のはずだ。1984年の古市場交番の対応とともに、その後、1986年か1987年頃だったと思うのだが、幸警察署の対応は誠実なものではなかったように思う。

↑ 「下平間」交差点の南のあたりのマンション。 まだ明るいのに屋外に解放された廊下の照明がいっぱい点灯している。 原子力発電所の「推進派」の人たちは、原発を必要とする理由として、電力が不足だと言うのだが、それならば、とりあえず、こういうまだ明るいのに点灯しているマンションの廊下の照明は点灯させないようにしてはどうか。 マンション管理人がいるはずなのだから、マンション管理人は日が暮れてから廊下の照明を点灯させるようにすればいいことではないだろうか。

↑ JR横須賀線「新川崎」駅の横から見たJR横須賀線「武蔵小杉」駅前の高層マンション群。
尾島俊雄『異議あり! 臨海副都心』(1992.3.19.岩波ブックレット)には、《 新宿の特定街区は、早稲田の方角から見ると一つの山である。見る角度によっては、まったく隙間がない完全な超高層の屏風岩になっている。・・・》と出ているが、JR横須賀線「武蔵小杉」駅の前の高層マンション群もまた、「一つの山」になっている・・・。
(2020.3.28.)
下平間天満天神社 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202003article_14.html
東古市場の天満天神社【1/3】下平間交差点・古市場交差点を経て天満天神社まで。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202003article_15.html
〃 【2/3】 東古市場の天満天神社。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202003article_16.html
〃 【3/3】 御幸公園 ほか。〔今回〕
★ 冤罪を晴らす神さま・菅原道真・怨念を晴らすお百度参り
千葉県
葛飾天満宮(市川市) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201301article_4.html
白幡天神社(市川市)
1.https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201511article_1.html
2.https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201511article_2.html
3.https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201511article_3.html
市川市北方町4丁目の天神社 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201608article_2.html
意富比神社 末社天神社(船橋市) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201302article_10.html
船橋市東船橋の「天神社」 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201311article_1.html
下飯山満神明神社 摂社天神社(船橋市) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201503article_4.html
白井市河原子の天満宮 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201303article_5.html
子守神社 摂社天神社(千葉市花見川区)https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201605article_3.html
千葉神社 摂社千葉天神 と 鵜の森町の「神札」(千葉市中央区)
(上)https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201305article_2.html
(下)https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201305article_3.html
北總天満宮(千葉市中央区)https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201308article_1.html
新町天満宮(千葉市中央区)
【上】 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201703article_6.html
【下】 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201703article_7.html
東京都
亀戸天神社(江東区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201301article_7.html
亀戸天神社 2回目 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201505article_1.html
湯島天神社(文京区)
上 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201602article_10.html
中 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201602article_11.html
下 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201602article_12.html
北野神社(文京区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201303article_2.html
平河天満宮(千代田区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201210article_3.html
西向天神社(新宿区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201502article_1.html
根津美術館 庭園内 渡唐天神祠(「飛梅祠」)(港区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201603article_3.html
若林天満宮・若林北野神社(世田谷区)https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201312article_5.html
平塚神社 摂社菅原神社〔平塚天神社〕(北区)https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201807article_10.html
谷保天満宮(国立市)
1.谷保駅から鳥居。「やほ」と「やぼ」。「面白い地名」とは? https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201903article_1.html
2.鳥居から坂を下り、拝殿・本殿と鶏。会社にいる『水滸伝』登場人物 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201903article_2.html
3.五社、三郎殿、厳島神社(市登録有形建造物)、左右に2体ずついる狛犬、座牛 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201903article_3.html
4.神楽殿・筆塚。ひとに「親孝行せえよお」と言ってストレス解消する教育勅語主義者https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201903article_4.html
5.梅林、稲荷社、第六天神社。建築は構造・機能・デザイン・経済性をともに満たしてこそ https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201903article_5.html
神奈川県
三渓園天満宮(横浜市中区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201303article_8.html
永谷天満宮(横浜市港南区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201309article_1.html
荏柄天神社(鎌倉市) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201401article_7.html
北野神社(鎌倉市山崎)https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201504article_2.html
下平間天満天神社(川崎市幸区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202003article_14.html
幸区東古市場の天満天神社(川崎市幸区)と御幸公園
1.下平間交差点・古市場交差点を経て天満天神社。気分の悪い古市場交番も健在。「両親が離婚した」者は常に不利ではない、ということも理解できないバカ女。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202003article_15.html
2.二度の移転で現在地に来た天満天神社と入口脇の梅。出入の厳重そうな東芝小向工場と管理不十分な(株)一条工務店・(株)日本産業の「いいかげんそう」工場 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202003article_16.html
3.御幸公園。植樹された梅林。医者屋族は特権民族なのか? 子猫を助けられなかった思い出。〔今回〕
静岡県
深奥山 方広寺 七尊堂(浜松市北区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201707article_13.html
愛知県
熱田神宮内 菅原社(外天神)と内天神社(名古屋市熱田区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201711article_10.html
岐阜県
飛騨天満宮(高山市)
上 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201309article_7.html
中 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201309article_8.html
下 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201309article_9.html
村山天神(高山市国府町)
1上枝駅から宮川沿い https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201409article_2.html
2村山天神 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201409article_3.html
3村山天神 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201409article_4.html
4あじめ峡、他 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201409article_5.html
桜山八幡宮 摂社天満神社(高山市) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201510article_7.html
日の出天満宮(高山市) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_13.html
石川県
金沢神社(金沢市) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_1.html
椿原天満宮(金沢市) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_2.html
田井菅原神社(金沢市) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_3.html
京都府
北野天満宮(京都市上京区)
1 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201302article_2.html
2 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201302article_3.html
3 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201302article_4.html
4 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201302article_5.html
5 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201302article_6.html
高台寺天満宮(京都市東山区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201511article_7.html
曼殊院天満宮(京都市上京区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201608article_4.html
長岡天満宮(長岡京市)
1.八条ヶ池 他 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201703article_10.html
2.拝殿・祝詞舎・本殿・手水舎他 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201703article_11.html
3.春日社八幡宮社・紅梅殿・白梅殿・社務所(連歌所)他 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201703article_12.html
4.梅園、長岡稲荷、錦景園他 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201704article_1.html
大阪府
大阪天満宮(大阪市北区)
1.https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201403article_1.html
2.https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201403article_2.html
3.https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201403article_4.html
露の天神社(お初天神)(大阪市北区)
上 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201403article_5.html
下 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201403article_6.html
綱敷天神社(大阪市北区)
1.綱敷天神とは。「北野」の由来。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201604article_6.html
2.社殿と桜。堅魚木と千木。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201604article_7.html
3.「戦災の狛犬」、筆塚。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201604article_8.html
4.白龍社、歯神社。綱敷天神社の周囲https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201604article_9.html
綱敷天神社 御旅社(大阪市北区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201405article_11.html
池田市天神1丁目・2丁目 http://shnkahousinght.at.webry.info/201405/article_10.html
西江寺 摂社天満大自在天神(箕面市) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201611article_5.html
箕面市粟生間谷の天満宮
上 箕面市粟生間谷の天満宮 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201709article_14.html
下 粟生間谷の天満宮の周辺 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201709article_15.html
上新田天神社(豊中市)
1 千里中央駅から。電柱看板の是非。卑怯者不動産屋店長https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201701article_15.html
2 鳥居から参道階段を経て拝殿へ。「他力」とは https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201701article_16.html
3 拝殿・本殿・牛・屋根・稲荷社他 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201701article_17.html
4 神社の社殿を背後から見下ろす下品な高層マンション https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201701article_18.html
上宮天満宮(高槻市)
1.JR「高槻」駅から上宮天満宮へ。大きな一の鳥居をくぐり石段へ。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201811article_2.html
2.絵馬堂・神輿庫・御霊屋・割拝殿。セキュリティーの難しさ https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201811article_3.html
3.竹製の本殿。菅原道真と為理と孝標。山崎の戦い後に建てられた旧本殿 〔今回〕
4.本殿裏末社。神社の「経営」「経営者」とは。捨て猫はどう対処すべきか https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201811article_5.html
5.摂社野身神社、車塚古墳、鉄骨で支えた石の鳥居。反則相撲の野彌宿祢 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201811article_6.html
6.天満宮を見下ろす 地域の「気の流れ」を乱す 家相が悪い 高層マンションhttps://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201811article_7.html
7.「不純異性交遊」の男の大学は「同じ大学なのに」と考えるべきか?https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201811article_8.html
8.東大はスーパー京大ではない、厚い本を使えばいいというものではない。高槻駅前 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201811article_9.html
9.和訳でない問題で日本語訳を書くな、親が組みしやすいと親に吹き込む予備校 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201811article_10.html
10.北山本山寺の石碑、景観重点地区、女性客の多い店でも入るのが商学士の使命 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201811article_11.html

数学受験術指南 (中公文庫) - 森 毅

パパのおくりもの (文春文庫 113-1) - なだ いなだ

おっちょこちょ医 (集英社文庫) - なだ いなだ

経済学・哲学草稿 (光文社古典新訳文庫) - マルクス, 長谷川宏
《 < ・・・心理学と称しながら、それにとってはこの書物が、したがって歴史の感性的に最もありありとした最も近づきえられるまさしくその部分が閉ざされているような心理学は、現実的な、内容ゆたかな、実在的な科学にはなりえない。> 》
( カール=マルクス『経済学・哲学手稿』藤野渉訳。 大月書店 国民文庫。 )
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