飛騨の里-旧田口家。縁側内側に雨戸、仏間ある部屋の右に床。裏口入学は「思考が柔軟」か? 「両親離婚した」らえらいか? 長方形の囲炉裏、続き間にできる柔軟性のある間取り。

[第757回]高山シリーズ6回 飛騨の里7
  飛騨の里 に移築された建物で、重要文化財に指定されているものは、旧田中家・旧若山家・旧田口家・旧吉真(よしざね)家と4戸ありますが、それぞれ、特徴は違います。
  今回、あまり何軒も駆け足でまわっても、帰ると何も頭に残っていない・・なんてことになりかねないので、旧田中家・旧若山家の2軒に重心を置いて見学するつもりで行きましたが、飛騨の里を出るバスの時刻まで少しだけ余裕があったので、重要文化財に指定されているあと2軒の旧田口家・旧吉真家のを簡単にのぞき見るように見てきました。機会があれば、また、じっくりと時間をかけて見学したいと思っています。

  旧田口家は、現在の住居表示では、下呂市金山町卯野原、かつての地名は益田(ました)郡東村卯野原 という飛騨でも最南端の美濃との境に近い場所にあった、代々、名主を務めた家で大きな集会に利用されたことから部屋数が多い建物で、1809年、江戸時代後期、旧田中家より100年ほど後、旧若山家よりも50年少々後、の建物のようです。↓
DSC08242.JPG
( ↑ 旧田口家住宅。 右手前より見て。)
  旧田中家より100年ほど後、旧若山家より50年少々後の建物だけあって、外観は現在、建てられた建物であっても違和感はない感じの建物です。
DSC08257.JPG
( ↑ 旧田口家住宅。 左手前より見て。)
DSC08258.JPG
( ↑ 旧田口家住宅。 正面から見て左側より見て。)

  ↑ 下呂市金山町卯野原 てどんな場所か、地図で見ると、下呂市とはいえ、「平成の大合併」で、高山市も周囲の町村をいっぱい合併しましたが、下呂市もまたそうで、飛騨地方は、高山市・下呂市・飛騨市・白川村の3市1村だけになってしまったわけで、金山町卯野原も、下呂市とはいえ、JR高山本線「下呂」駅付近とはずいぶんと離れています。高山本線よりずっと西の方。岩屋ダムというダムができ、東仙峡金山湖というダム湖ができたようですが、その東仙峡金山湖のあたり。「下呂市金山町」といっても、JR高山本線「金山」駅からはけっこう離れています。 岩屋ダムは何という川に作られたかというと、馬瀬川という川で北から南に流れており、JR高山本線「金山」駅の北西の付近で飛騨川に合流します。濃飛横断自動車道なんてのができたようで、下呂市金山町乙原 というあたりの金山インターチェンジで一般道に出れるようなので、自家用車なら、そのあたりを利用すると、下呂市金山町乙原から下呂市金山町卯野原へも比較的行きやすいのかな・・とも地図を見る限りでは思えます。

  1809年というと、「労働者、一番弱(1848)いぞ、団結せよ」のマルクス・エンゲルス『共産党宣言』発表の1848年より40年弱前・・・というと、そんなに昔じゃない・・て感じです。
  セーレン=キルケゴールは、1813年生まれで、1855年没。『死に至る病』を発表したのはマルクス・エンゲルスの『共産党宣言』と同じ1848年だったと思っていたら、《ウィキペディアーキルケゴール》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%83%BC%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%AD%E3%82%A7%E3%83%AB%E3%82%B1%E3%82%B4%E3%83%BC%E3%83%AB を見ると、1849年、『共産党宣言』の1848年より1年後となっています。私が大学に進学する頃、哲学科に行ってキルケゴールなどの実存哲学の研究の道に進みたいといったことを考えていたところ、1970年代後半、父の「親友」だという医者屋のM川(当時、大阪府豊中市在住)から、「哲学をやるとノイローゼになるぞ」とか、『キリスト教の修練』などの著作のあるキルケゴールについても、又、宗教哲学についても、「宗教はアヘンであるとマルクスは言うてお~る。宗教はアヘンじゃ。わかっとんのか」とか、なんとかかんとか言って妨害しようとしたものでした。父はそう言ってもらって大喜び♪ 「宗教はアヘンでR! 哲学者は全員、ノイローゼでR! とってちってたあ~あ!!!」とか言いまくっていました。それにしても、普段、「日教組は全員、刑務所に叩き込めえ! 共産党は死刑であ~る! 朝日新聞の記者は全員、刑務所に入れてしまえ」とか叫んでいたおっさんが、なにゆえ、突然、その「宗教はアヘンであ~る」という部分だけ、「教条的マルクス主義者」になるのか、わけわからんかった。しかも、「宗教はアヘンであ~る。焼き討ちじゃあ、焼~き討ちじゃあ!」とか言う「焼き討ち織田信長大好き人間」のおっさんが、キリスト教の教会で洗礼受けた「クリスチャン」だというのだから、もう、なんだか、わけわからん。キリスト教の教会で洗礼受けたというのは、それは、おっさんが大学に進学する際、祖父(父の父)が同志社に顔がきく牧師屋さんを捜してきて、同志社に推薦入学で入れてもらう話をまとめたようで、その際、推薦してもらうための条件が、洗礼を受ける事(および、「特別献金」を払うこと)だったようで、そのために、それまで教会なんて一度も行ったことがない『聖書』なんて1頁も読んだことがない人が受けた洗礼であったようですから、だから、「共産党は死刑にしろお。日教組は全員、刑務所に叩き込めえ。甘ったれとってはいかんぞ、甘ったれとっては。韓国の朴正熙さんなら、そんなもん、さっさと刑務所に叩きこんどるところや。甘ったれるなあ!!! とってちってたあ~あ~じゃあ~あ」とか平気で叫んでいる「クリスチャン」であり、それでいて、「宗教はアヘンであるとマルクスは言うてお~る。とってちってたあ~あ!」とか言う「教条的マルクス主義者」(?)にも平気でなったようだった。まったく、もうわけわからん。
  あるいは、その医者屋のM川の仲間で「実存哲学なんて、どうでもいいことをぐじゃぐじゃ言うだけだろうが」とか言う男がおり、「マルクスは、そういうものは害があると言うとる」とか言うのでしたが、そういった「ウルトラマルクス主義者」が言うカール=マルクスというのはとんでもない人間であり、それがマルクスなのかというとそうではないはずで、そういう人がカール=マルクスの著作をどれだけ読んで理解していたかというと、今から考えると、ともかく、ひとに「宗教はアヘンであ~る。とってちってたあ~あ」と言うための道具として使っていただけだったと思う。蔵原惟人『宗教・その起源と役割』(新日本新書)によると、
1.カール=マルクスが「宗教はアヘン」という表現を使ったことがあるか、というと、『ヘーゲル法哲学批判序説』という本の中で一度だけ使用している。そう何度も何度もこの表現を使ったわけではないが、一度だけ使用している。エンゲルスはこの表現を使ったことはない。レーニンもこの表現を使ったことはない。
2.「宗教はアヘン」という言葉はカール=マルクスだけが使った表現かというとそうではなく、マルクスが生きた時代のドイツでよく使われていた表現らしく、わかっているだけでも、哲学者のヘーゲル・詩人のハイネなどが使っている。
3.「宗教はアヘン」という表現を最初に使ったのは誰か、というと、誰なのかはっきりしないらしいが、マルクスではない可能性が大きいようである。
4.「宗教はアヘン」という時、「アヘン」という言葉には2通りの意味があり、毒薬という意味と「なぐさめ」という意味があり、世の中には毒薬のような宗教もあるけれども、マルクスは『ヘーゲル法哲学批判序説』の中で「アヘン」という言葉を毒薬という意味では使っていない。そうではなく、マルクスは、キリスト教やユダヤ教のような宗教を「宗教は貧しい人たちにとってのなぐさめである」という意味で使っている。「なぐさめ」ではあるが幻想である、「なぐさめ」としての幻想を必要としない、誰もが現実の世で幸福の果実をつかめる社会が築かれれば、「なぐさめ」としての幻想は必要なくなる可能性がある。しかし、「なぐさめ」を必要とする社会を築くことなく、「なぐさめ」だけを奪い去るようなことはあってはならない、といったことをマルクスは述べている。
そして、高神覚昇『般若心経講義』(角川文庫)では、カール=マルクスが「宗教はアヘン」と言って批判したのは、キリスト教などの宗教で、仏教はキリスト教とは宗教とはいえ性質が異なり、仏教のような宗教を批判したのではないのではないか、と述べている。村上重良『日本の宗教』(1981.初版。2009.改版。岩波ジュニア新書)では、
《 救済者である唯一絶対の神を信仰し、社会のおきても道徳も神の命令として絶対化するキリスト教、イスラム教、ユダヤ教などの一神教とちがって仏教は、根源的な真理である法と自己が一体となることをめざす解脱の宗教として成立しました。そのため、仏教では、どのような宗教、思想も、悟りをひらき仏になるための手がかりやきっかけになることができるとして、一神教のように他の宗教を排除せず、あらゆる宗教に寛容な態度をとることが、基本的な姿勢となりました。・・・》と出ており、たしかに、キリスト教、イスラム教、ユダヤ教などと仏教とは宗教としても性質が異なるところがあるでしょう。マルクスが『ヘーゲル法哲学批判序説』で「宗教は貧しい人たちにとってのなぐさめである」という内容を述べたのは、主としてキリスト教、ユダヤ教などについてであったと思われます。どちらにしても、カール=マルクスは「宗教はアヘンであるとマルクスは言うてお~る。焼き討ちじゃあ、焼き討ちじゃあ~あ。とってちってたあ~あ!」という意味で言ったのではないのは間違いないはずです。うちの父親というのは、そういうマルクスの名前を使ってマルクスが述べた意味とまったく違う意味を押しつけようとする男、というのを引っ張り込んでくるのが大好きな人間でした。M川はそうやってひとの大学進学を妨害しておきながら、他方において、おのれのドバカ息子には、「患者」を薬漬け・検査漬け・毒盛りしたカネで私立金権裏口関西医大http://www.kmu.ac.jp/ に裏口入学させたというのを自慢していたのですが、どう自慢するかというと、「わしなんかは、きみなんかとちごうて思考が柔軟なもんやから、だから、うちの息子は関西医大裏口入学なんじゃ。そのあたりがわしがきみより思考が柔軟なところなんじゃ。どうじゃ、わかったかあ!!!」と。そんなに「思考が柔軟」ならば、その「柔軟な思考力」で京都大学医学部でも東京大学理科三類でも現役で実力で通って行けばよさそうなものなのに、なんで、私立金権裏口関西医大なんてそんな汚らわしい所に「患者」を薬漬け・検査漬け・毒盛りして貯め込んだカネで行かなければならないのか、摩訶不思議です。裏口入学する者・息子を裏口入学させる者というのは、自分が裏口で大学に入るだけではなく、努力して実力で大学に入ろうとする者を妨害します。金権裏口関西医大というのはそういう人たちによって成り立っている、「薬漬け・検査漬け・毒盛り」⇒裏口入学⇒「薬漬け・検査漬け・毒盛り」⇒裏口入学⇒「薬漬け・検査漬け・毒盛り」⇒裏口入学⇒・・という繰り返しで成り立つ「反社会的勢力」と考えていいのではないでしょうか。だいたい、裏口入学した・させたというのは、それは自慢するもんかあ~あ? 裏口入学なんてものは、たとえ、やるにしても、恥ずかしそうに・こそっとやるもんと違うんかあ~あ? と思うのですが、こういうことを言うと、「そのあたりがきみは思考が硬いんじゃ」とか言われることになります。「思考の硬さが気にかかります」とか「診断」されて「治療」されるおそれもあります。まったく、医者屋というのは、怖いこわい怖いこわい!  「患者」を薬漬け・検査漬け・毒盛りして貯め込んだカネでドバカ息子を裏口入学させた男が、なんで、マルクス、マルクス言うのか。マルクス、マルクス言うのなら、とりあえず、どの裏口入学でドバカ息子を大学に入れるというのはやめたらどうか。どこであれ、大学に行きたいなら実力で行ったらどうか、と思うのですが、そのあたりからして摩訶不思議です。
  そもそも、行きたいと思った所に必ず行けるかどうかはさておき、なんで、努力して実力で試験に合格して大学に行こうとする人間、実力で大学に行く人間が、「患者」を薬漬け・検査漬け・毒盛りしたカネで裏口入学する人間・裏口入学させる人間から自慢されなきゃならんのだ? なんで、裏口入学する人間・裏口入学させた人間から、努力して実力で大学に行こうとしている人間が責められなければならんのだ??? どう考えても逆と違うのか??? そういうわけのわからんことを主張する人間を引っ張り込んでくるのがうちの父親というのは大好きだったのだ。
  その後、父は「M教会のS田牧師さんは、大阪経大やねんぞお。おまえみたいに慶應みたいなもん、行かせてもろとれへんねんぞ。沢田牧師さんは『家が貧乏やったから』慶應なんか行かずに大阪経大に行かはってんぞ。おまえとは違うねんぞ、チャンコロ。おまえとはちごうて大阪経大やねんぞ、大阪経大。わかっとんのんか、わかっとんのんか、わかっとんのんか、このチャンコロめがチャンコロっ!」と私の眼を指でつきさすようにして何度も何度も言うのだったが、「なんで、大阪経大みたいなもん、行ったらえらいんですかあ?」と尋ねたのだが、父は「わからんか。そんなこともわからんのんか、このチャンコロっ!」と言うのだった。「家が貧乏やから、おまえみたいに慶應なんて行かせてもらえんから、そやから大阪経大なんじゃ。わからんのか、このチャンコロ! 大阪経大に行った人の爪の垢を煎じて飲みなさい! このチャンコロっ!」と言うのだったが、「なんで、慶應がお金のかかる大学なんですか? 慶應の法学部・経済学部・商学部・文学部というのは国立大学よりは高いけれども私立大学の中では学費は安い方の大学ですし、本当に家が貧乏で慶應に行きたかったのなら、日本育英会奨学金を受給して行けば良かったのと違うのですか。日本育英会奨学金で出してもらえるのは『学費分』ですから、慶應の学費と大阪経大の学費で大阪経大の学費の方がいくらか安かったとしても一緒のはずですよ。なんで、日本育英会奨学金を受給して慶應に行かないのですか。それに、慶應の場合は他の大学とは違って、慶應義塾奨学金というのがあって、日本育英会奨学金を受給して大学に入学した人には自動的に慶應義塾奨学金から生活費を支給するという制度があるはずで、そういう制度は他の大学にはなかったと思いますが、そのあたりの制度は慶應という大学は充実している方の大学だと思うのですが、なぜ、慶應義塾奨学金のある慶應に行かないで大阪経大に行くのですか。なんでですか?」と言ったのだが、すると、母が「何を甘ったれたこと言ってますのん、あんたはあ。慶應なんか大阪から行ったら下宿代がかかるでしょうがあ。下宿代もかかれば交通費もかかるでしょうがあ。何をあんたは勝手なこと言ってますのん、あんたはあ」と言うのだった。「それなら、大阪大学に行けばよかったのと違うのですか。大阪大学か神戸大学なら下宿代も要らんでしょうし、交通費も自宅から大学までの通学の交通費だけですよね」と言ったのだが〔実際には、「東京で下宿した」場合、大学のすぐ近くで下宿すると大学に通う交通費は必要ないことになり、大阪まで年に3往復か2往復したとしても、夜行バス5000円×2×3(もしくは2)の費用と、京大に行って京都で下宿した上で、京都と大阪府の実家との間を毎週末往復するのとでは、交通費は毎週末に往復する方がカネかかるのであり、毎週末の交通費+下宿代の京大と、年に2往復か3往復の交通費+下宿代の慶應では、京大に行った方がカネかからんなどというのはウソ! 少なくとも、「交通費+下宿代」の部分は京大の方がよっぽどカネかかるはずなのだけれども〕、そうすると、母は「それは、大阪経大の方が阪大よりもいいからでしょうがあ」と言うのだった・・・が、いいか? 大阪経大の方が大阪大学よりもいいか??? なんか、ぼく、頭悪いからなんか、ようわからんのやけど、いいのか、大阪経大の方が??? で、「家が貧乏やったから、大阪経大にしか行かせてもらえんかったんや」とS田牧師先生は、日曜ごとに「牧師説教」としてお話になるようで、最後に「祈りましょう」と言い「アーメン」と全員で唱えるようでしたが、大阪経大が私立大学の中では安い方の学費の大学であったとしても、大阪経大卒では牧師屋には就職はできないわけで、S田牧師さんは大阪経大を出た後、さらにトーシンダイ(東京神学大学)にお行きになって、大阪経大と東京神学大学と私立大学を2つも卒業なさって牧師先生におなりになったわけであり、私立大学を2つも行ったら、たとえ、大阪経大の学費が私立大学の中では安い方であっても、2つ合わせれば安くないはずだと思うのだが、なんで、「家が貧乏」なのに私立大学を2つも行くのか、ぼく、頭わるいからなんか、さっぱりわからへん。
  そして、さらに、父は「うちの会社の☆☆さんの息子さんは、大東文化大学やねんぞお。おまえみたいに慶應みたいなもん、行かせてもろとれへんねんぞお。わかっとんのんか、このチャンコロ、わかっとんのんか、このチャンコロっ! 大東文化大に行った人の爪の垢を煎じて飲みなさい!! このチャンコロめが、生まれて来なければ良かったのに生まれてきおってからに、このチャンコロっ! わかっとんのんか、わかっとんのんか、わかっとんのんか、このチャンコロ!!!」と言うのだったが、それで、私が「なんで、大東文化大学なんて言ったらえらいんですかあ?」とお尋ね申し上げたのですが、そうすると、父は「わからんか。そんなこともわからんのんか、おまえは、このチャンコロっ!」と言うのだった。「はあ、どうも、よくわかりませんねえ~え。どうして、大東文化大みたいなもんにお行きになったらおえらいんですかあ?」とお尋ねしたのだったが、そうすると、父は「わからんのか、そんなことも。おまえみたいに慶應なんてカネのかかる大学には行かせてもろとれへんいうことじゃ。わからんのか、そんなことも」と言うのだった。「なんで、慶應がカネのかかる大学なんですかあ? 昔から慶應は私立大学の中では安い方の大学だったはずですが、なんで、『カネのかかる大学』なんですかあ? あんまりよく知りませんけれども、大東文化大てカネかからんのですかあ? そんな感じしませんけどねえ~え」と言ったのだが、「わからんのか、おまえはこのチャンコロめがこのチャンコロっ! 大東文化大に行った人の爪の垢を煎じて飲め言うとんのんじゃ、このチャンコロ。M川先生の息子さんの爪の垢を煎じて飲め言うとんのんじゃ、このチャンコロめがこのチャンコロ。生まれなければ良かったのに生まれおってからに、生まれなければよかったのに生まれおってからに、このチャンコロちゃんころチャンコロちゃんころチャンコロちゃんころチャンコロちゃんころ!」と言うのだったが、今もって、なんで、大東文化大みたいなもんに行った人がエライのかさっぱりわからんし、ましてや、なんで、裏口入学した人がエライのかもさっぱりわからへん・・。そのあたり、さっぱりわからんいうのは、ぼく、頭わるいのやろうかねえ・・・。なんで、「患者」を薬漬け・検査漬け・毒盛りしたカネで裏口入学した人・裏口入学させた人がエライのか、何十年間と考え続けてきたけれども、ぼく、頭わるいからなんか、さっぱりわからへん。
※ 大阪府から京大に下宿して行った場合と、「東京の大学」に下宿して行った場合とでは、「下宿代+交通費」の部分については、京大に下宿して行った方が、よっぽどカネかかることの証明については、
「哲建ルンバ」
[第295回]《自分も浪人した・自分も下宿しているという自覚がない大学生1-東京で下宿して大学に行くとカネがかかるか》https://tetsukenrumba.at.webry.info/201705/article_3.html
[第296回]《自分も浪人した・自分も下宿しているという自覚がない大学生2―浪人・2浪して大学に行くとカネがかかるか》https://tetsukenrumba.at.webry.info/201705/article_4.html
を参照。
  阪大に行ったことで、カネのかからない大学に行った自分は「親こっこっこ」なえらい人間だと主張したがるヤカラの欺瞞については、
[哲建ルンバ]
[第300回]《「東京で下宿して」大学に行くと費用がかかると思っている「自宅から歩いて行ける大学」の女》https://tetsukenrumba.at.webry.info/201706/article_4.html

  そのキルケゴールの著作『死に至る病』とマルクス・エンゲルスの『共産党宣言』が発表されたのがほぼ同時期だったのです。だから、キルケゴールを「社会変革を妨げるために実存哲学を主張した男」みたいに罵る「教条的マルクス主義者」というのか、似非マルクス主義者というのか、「勝手な時だけマルクスの名前を引っ張り出す、反共主義者」の言うことというのは、無茶苦茶であり、キルケゴールが生きた時代のデンマークにおいては社会主義とか共産主義といった考え方はなかったわけです。考えてみると、うちの父親というのは、なんとも、無茶苦茶なことを言ってひとの進路を混乱させるヤカラを次から次へと引っ張り込んでくる男でした。
  遠山啓が『教育問答 かけがえのないこの自分』(太郎次郎社)で、父親というものは息子を外敵から守ってくれる存在である、などと書いていたが、そういう父親もあるかもしれないけれども、次から次へと外敵を引っ張り込んでくる父親というのもおりました。(どこにいたかというと・・、まあ、我が家におったのですが。)1970年代後半、北野高校の2年の時の担任だった旧姓作野礼子(その後、結婚して、寺地礼子。さらにその後、離婚したかどうかは知らん)が「私は両親が離婚したから」と、「両親が離婚した」というのを自慢してしかたがなかった。そもそも、「両親が離婚した」というのはそれは何か自慢することなのかあ? 野村克也のじいさんは「父親のない母親だけの家庭の息子は精神的にしっかりしている」などと、晩年、言うておったが、野球選手でそういう人間もいるのかもしれないが、そうでない人間もいるのではないか。ぼけっと聞いてると「はあん、そうかいなあ」とか思いそうになるが、要するに、自分のことやろうが、自分のこと。野村のじいさんの場合は、お父さんが「戦病死」した、戦争で戦って死んだのではないが、戦争に行った先で病気になって亡くなったそうで、戦後、誰もが貧乏な時代ではあったけれども、お母さんだけで子供2人を育てるのは大変で、それを見て、子供の頃の克也少年はお金を稼げる仕事についてお母さんに楽をさせてあげたいという気持になったそうだが、しかし、片方で、両親ともいる家庭の息子というのは何か悪いことしたとでも言うのか??? 旧姓作野礼子はお父さんが若くして死亡したのではなく、離婚して母親の方にくっついていったらしいが、その人にはその人で事情があったのだろうけれども、だからといって、それは自慢することかあ??? 違うのではないか??? 私は旧姓S野礼子から耳鳴りがするくらいに「私は両親が離婚したから」と言われて、今でもその文句が耳から離れないのだが、しかし、私が離婚させたのかあ? 「ち~が~う~だ~ろ。このボケぇ!」とでも言いたい。私が離婚させたのであれば、「えらい申し訳おまへんなあ」とでも言うべきであろうけれども、違うだろうが! 勝手に離婚してからに、おかしなこと、自慢すんなちゅうんじゃい!!! で、我が家の親は、私が子供の頃からあまり仲は良くなかったようで、私は小学校に行く前から、母親から父親の悪口を毎日毎日聞かされてきたが、その内容についてはどういうものだったか忘れてしまった。なんだかんだいっても、あのおっさんが毎月もらってくる給料から生活費を出してもらって成人したわけであるから、その点については大いに感謝するべきかもしれない。しかし、父親がいたことからそのおっさんの給料で生活費を出してもらって成人したという点は感謝するべきであろうけれども、いいことばっかりだったかというと、そうでもないぞ。「私は両親が離婚したから」とそんなことを自慢する女というのは、それがわからんようだった。
  父は、毎日毎日、朝に昼に夕に夜に「感謝せえよお、わしに感謝せえよお。『親に感謝』じゃ、『親に感謝』じゃ。わしに感謝、わしに感謝。このうえもなくえらいえらいえらいえらい聖人で聖徳太子で英雄ヒットラー総統のこのわしに感謝せえよ、このわしにいい、んが、んが、んがあ!!! わかっとんのんか、このチャンコロ、このわしに感謝せんとバチあたんど、このわしに感謝せんと。わしに親孝行せえよお、このわしにい。んが、んが、んがあ!!! 親こっこっこ、親こっこっこ、親こっこっこ、コッコ! 親こっこっこ、親こっこっこ、親こっこっこ、クォ~ッ、クォ~ッ! わしに親孝行せんとバチあたんど、バチがあ。まんまんまんまんまんまんまんま~あん!」とか言うておった。「クリスチャン」のはずのおっさんが、「まんまんまんまんまんまん」と。一度、教会の牧師屋のおっさんに、尋ねてみたいと前々から思っていたのだがききそびれてきたことがあるのだが、その「まんまんまんまんまんまん」というのは、キリスト教ではどういう意味があるのか、どうもよくわからん。で、そんな感じで、「わしに親孝行せえよお、わしに、わしに、わ、し、にい~い! んんが、んが、んが、んがあ!!! わしに親孝行せんとバチあたんど、わしに親孝行せえよおせえよお。すべてをわしのためにささげ尽く~す、すべてをすべてをわしのために、すべてをすべてをわしのために。とってちってたあ~あ! 撃ちてしやまん、い~ちおく火の玉あ! 欲しがりません、勝つまでは。木口小平は死んでもラッパを放しませんでしたあ! とってちってた~あ。わし、今まで、あんたに親孝行せえとかわしのために何かやれなんて言うたことなんて、一度もないやろ。一度としてないやろ」と言うのであった。あんた、まさに、今、言うたやろうが!!! あんた、今、言うたばっかりやろうがあ・・と思ったのだが、「さあ~あ」と首かしげると、「はあん。わからんのんか、このチャンコロっ! わしは今まであんたに、親孝行せえとか、わしのために何かせえなんて言うたことは一度としてない聖人やのにからに。このチャンコロ、わからんのんか、このチャンコロっ! 難儀やなあ、このチャンコロはあ。ほんまもう、こりぁ、おかしいわ、これは絶対に。わしは今まで、親コッコッコ、親コッコッコせえとか、わしに何かせえなんて一言として言うたことはないのにからに、それがわからんとは。こいつ、絶対にビョーキやわ。これは薬飲まさんとあかんわ、それも相当大量に飲ましたらんとあかんわ、これは。こいつ、絶対に重症のビョーキやわ、こいつ、絶対に。わし、こいつに親コッコッコせえなんて一度として言うたことないのにからに、それがわからん言いよんねん、こいつ、このチャンコロっ! こいつめ、このチャンコロ。親こっこっこ、親こっこっこ、親こっこっこ、クォ~ッ、クォ~ッ、クォ~ッ!!!」と言いまくってきたのだったが、どう考えても、「わしに親孝行せええよお」「わしに親孝行せんとバチあたんど、バチがあ」「すべてをすべてをわしのために、すべてをすべてをわしのために」と言いまくっとったと思うのだが、言いまくった直後に「わし、あんたに親孝行せえなんて一言として言うたことないやろ。あんた、このくらいのことはわからんといかんで、このくらいのことは」などと言うのだったが、このおっさんこそ、ビョーキと違うのか、と思ったものだった・・・が、「両親が離婚した」という娘ならば、父親はいないのだから、こういうことを父親から毎日毎日ぼくらは鉄板の上で焼かれて嫌になっちゃうくらいに言い続けられるということもなかったであろうし、父親が「外敵を引っ張り込んでくる」ということもなかったであろう父親はいた方が有利な場合もあるかもしれないが、いるから苦労する時だってあるのである。もしも、「両親が離婚した」娘というのは、その程度のこともわからない、ということならば、それは人間として大きな欠陥であろうし、特に高校の教諭という職業につこうという場合には、それは大きな欠点と判断せざるをえないであろう。「世の中いろいろ、人間いろいろ」で、裏口入学した・させたというのを「そのあたりが思考が柔軟なんじゃい」などと言って自慢する医者屋のおっさんもおれば、「私は両親が離婚したから」と「両親が離婚した」というのを自慢しまくる高校教諭というのもいたのだが、世の中、変なヤツが多いものだと思う。「両親が離婚した」としても、その人にはその人で事情があったのだろうから、それによってこちらが何か迷惑こうむったのでなければ、それをとがめる必要は特にないけれども、だからといって、自慢するというのはそれは違うと思うのだが、何より自慢にしてしかたがないという女というのが世の中にはいるようだった・・・が、父親というものは、いるから難儀だという場合がある、いるから苦労するという場合だってある・・というくらいわからんかなあ、と思うのだが、「両親が離婚したから」父親のない女にはまったくわからんという場合があるようだった。教員養成課程では、そのあたりを理解させる教育をおこなってから教員免許を渡すようにした方がいいのではないかと思う。そうでないと、「両親が離婚した」のでない生徒が迷惑する。北野高校は行きたいと思って行った学校だったから合格した時はうれしかったが、卒業してしばらくして考えてみると、あんまりいい学校ではなかったように思う。もっとも、それならどこに行けば良かったのかというと、それもよくわからないのだが、「私は両親が離婚したから」とか何とかかんとか言う勝手な女に2年の担任を持たれたのは私にとっては不幸だったのは間違いないが、それなら誰が担任だったら良かったのかというとそれもよくわからないのだけれども、いい所はあったのだけれども、あの女が教員でいたというその点では最低・最悪・最凶の学校だった。『東京大学機械的合格法』で著者の柴田孝之が「能力的にも優秀で人間的にも優れている教員というのは、多くの人間が思っているよりもはるかに少ない」と書いていたが、今、私もそう思う。高校時代の私の失敗に、北野高校の教諭というものを買いかぶっていた、という点がある。不幸だった点としては、親によっては、そういったことを息子にきっちりと教える親というのがいたと思うのだが、うちの親にはそういう能力はなかった。
  私は小学校の低学年の時から、経済学部(及び、商学部・経営学部)にだけは行かされたくない、そんな所に行かされるくらいなら大学なんか行かない方がいいとずっと思ってきたし、そんな所に行かされないですむようにと思って同級生が遊んでいる時も勉強してきたのだったが、ところが、北野高校の2年の時の担任だった旧姓作野礼子は「あなたは絶対にブンケー(経済学部および商学部・経営学部のこと)よ」と頑固に言いまくって、私が一番いやだ、そこだけは絶対に嫌だと思い続けてきたところに行かそうとしたのだった。この人、なんで、生徒が嫌がる所に行かそうとするのかと思ったが、北野高校の教諭で自分も北野高校卒で神戸大文学部卒だという人が言うのなら何か論拠があるのだろうか・・などと考えたこともあったのだが、要するにあの女は、生徒と親との関係において、一貫して親の側に加担するのが高校教諭としての処世術として正しい、と確信していただけのことだった。そういう卑怯者の女だったのだ。それに気づくことができなかった私は愚かだった。あの女のおかげで人生を捻じ曲げられた。むしろ、旧姓作野礼子こそ、文学部には向いていないし、高校教諭には「適性がない」と思う。遠慮して言わなかったが、そう言ってやった方が本人のためだったかもしれない。だいたい、私でも、私の姉でも、神戸大の文学部なんて、たとえ、行きたいと思ったとしても、そんなもの、絶対に受けさせてもらえなかったし、言い出すことはできなかった。「両親が離婚した」という人というのは、まあ、ずいぶんと恵まれているものである。「両親が離婚した」という人というのは、私なんかならありえないことをさせてもらえるものである。そういう女が、「すべてをすべてを親コッコッコのために、すべてをすべてをわしのために、わしのために。すべてをすべてをわしのために捧げ尽く~す、とってちってたあ~あ! てってこっこ、テッテテ~イ、てってこっこ、テッテテ~イ♪ 撃ちてしやまん、一億火の玉ア、とってちってたあ~あ!」に終始加担してきたのだった。あの女に人生を踏みつぶされた。
  福沢諭吉について、「独立自尊」とかいいことを言っていて、進歩的な人間ではあったけれども、資本主義経済に対しての批判が不足しているなんて言う人があるらしいけれども、福沢諭吉というのはいつの時代の人かというと、江戸時代に半分、明治時代に半分、生きた人、1835年生まれで、1901年没、明治維新が1868年ですから、江戸時代に33年、明治時代に33年、生きた人であり、その時代の人間に対して、資本主義の問題点についての批判・分析が不足している・・なんて言っても、それは無理ではないかと思われますが・・。それから、『鬼平犯科帳』の長谷川平蔵 宣以(のぶため)は実在した人物で、延享2年(1745年) - 寛政7年5月19日(1795年6月26日)。それを書きだすと・・・、

1700年前後の頃 旧田中家建築、旧吉真家建築。
1745年 長谷川平蔵宣以 生まれる。
1751年 若山家建築。
1787年~1793年 寛政の改革。
1789年 フランス革命
 「火縄くすぶる(1789)、バスチーユ」
1792年 ラックスマン、根室に来航
 「異な国(1792)、ラックスマン、根室に来航」
1795年 長谷川平蔵宣以 死亡。
1809年 旧田口家住宅、建築。
1813年 セーレン=キルケゴール 生まれる。
1818年 カール=マルクス生まれる。
1820年 フリードリヒ=エンゲルス生まれる。
1830年 - 1843年 天保の改革。
1835年 福沢諭吉 生まれる。
1848年 マルクス・エンゲルス『共産党宣言』発表。「一番弱い(1848)いぞ、団結せよ」
1849年 キルケゴール『死に至る病』
1853年 ペリー来航。
1855年 セーレン=キルケゴール 死亡。
1858年 愛琿条約
 「嫌でごわす(1858)とムラビヨフ」
1868年 明治維新
1883年 カール=マルクス 死亡。
1894年 日清戦争。
 「一躍、清(1894)を攻撃す」
1895年 フリードリヒ=エンゲルス死亡。
1901年 福沢諭吉 死亡。
・・・・それで、福沢諭吉まで引っ張り出すことはなかったかもしれないけれども、旧田口家住宅の建築年の1809年というと、江戸時代後期で、寛政の改革より後、天保の改革より前で、ラックスマンが根室に来航したちょっと後、『鬼平犯科帳』が死亡したちょっと後、キルケゴールとかマルクスとかが生まれるちょっと前。そういう時期の建物だった・・・と考えると、「ああ、そんな頃かあ」・・て感じがする・・かな・・。マルクスが生まれるちょっと前、キルケゴールが生まれるちょっと前というと「そんなに昔むかしじゃないんだな」て感じ、『鬼平犯科帳』より後ということは、江戸時代でも後半なんだなあ~あ・・て感じ・・しますよね。・・しませんか???
  長谷川平蔵が生まれたちょっと後に建てられたのが旧 若山家住宅で、長谷川平蔵が死亡したちょっと後に建てられたのが旧 田口家住宅・・と言うとわかりやすいか、逆に余計にわからなくなるか・・。
※ 《ウィキペディアーセーレン・キルケゴール》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%83%BC%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%AD%E3%82%A7%E3%83%AB%E3%82%B1%E3%82%B4%E3%83%BC%E3%83%AB
《ウィキペディアー福沢諭吉》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E6%BE%A4%E8%AB%AD%E5%90%89
《ウィキペディアーカール・マルクス》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%82%AF%E3%82%B9
《ウィキペディアーフリードリヒ・エンゲルス》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%AA%E3%83%92%E3%83%BB%E3%82%A8%E3%83%B3%E3%82%B2%E3%83%AB%E3%82%B9
《ウィキペディアー長谷川宣以(はせがわ のぶため)》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E8%B0%B7%E5%B7%9D%E5%AE%A3%E4%BB%A5
  ついでに、『剣客商売』は田沼意次の時代の話ということになっているので、『剣客商売』よりも『鬼平犯科帳』の方が後なんだな・・とわかります(^^)/
  それから、『鬼平犯科帳』に登場する盗人が着ているような、盗人のユニフォームとかを盗っ人が着ていたならば、「あ、盗っ人だ!」とわかりやすくて防犯上いいのですが、セコムの人に聞いた話では「きょうびの泥棒」はそういうのは着ないそうです・・。

DSC08244.JPG
↑ 《 飛騨最南端の比較的温暖な地にあった当建造物は雨戸の外に廊下が巡り、・・》と現地の説明書きに書かれていましたが、たしかに、雨戸が廊下というのか広縁というのかの内側の位置にあります。↑
  珍しい・・・ようにも思ったのですが、しかし、住宅では珍しいと思いますが、お寺のお堂とか神社の社殿では、雨戸があるならば、屋根の下の縁側より内側にあるというのは、それほど珍しくもないことではないか、お寺や神社ではあるのではないかな・・と思ったのですが、どうでしょうか。
↑ 「新田郵便〇」なんて書いてありますから、特定郵便局を田口家はかつてやっていたのでしょうか。飛騨の里HPの「旧田口家住宅」http://www.hidanosato-tpo.jp/minka/mnkmain12.html には、《 玄関の横には郵便ポストが設置されていた。郵便を扱うのは、信頼の厚いその土地の名士とされていた。旧田口家は名主として地域の中心だったことがうかがえる。》と出ています。

DSC08245.JPG
  ↑ この部分の壁の板の貼り方がおしゃれだな・・と思ったのだ。 思いませんか?

DSC08241.JPG
DSC08243.JPG
 ↑ 東京や大阪ではこういう「つらら」はなかなか見れない。訪問時は1月の時も2月の時も、外を歩いてもそれほど寒くは感じなかったのですが、雪が降った翌日、こういったものが見れるというのは、やっぱり、高山は東京圏や関西圏に比べると寒いということなのでしょうね。

  旧田中家住宅・旧若山家住宅と入口を入って右側に「うまや」があり、左側に「おえ」「でい」といった部屋があったのですが、高山市内の旧日下部家・旧吉島家住宅においても、入口を入った「どうじ」より右側に「おえ」があり、その奥に座敷がありました。旧田口家住宅では、↓
DSC08248.JPG
↑ 入口を入ったところの「どうじ」
DSC08247.JPG
  入って右側に「おえ」「でい」といった部屋があり、左側に「まや」があります。
  「重要文化財」て、cultural assets なのか? 『新英和中辞典 第三版』(研究社)を引くと、
sset (名詞)1.資産。 2.有利なもの、利点・・・
cultural (形容詞)1.開拓上の、・・栽培上の、 2.修養上の、教養的な、文化的な、人文上の
・・まあ、重要文化財は、cultural assets 「教養的な資産」、「文化的な資産」でいいのかな・・・。
 「どうじ」を(土間・ENTRANCE)と書かれていますが、土間だったのでしょうけれども、ENTRANCE でないことはないとしても、なんかぴったりではないように思います。
  『新英和中辞典 第三版』(研究社)では、
entrance (名詞)1.入口、戸口、玄関。 
 2.はいること;入場、入港・・・
 3.はいる機械、はいる権利、入場権。
となっていますが、「入口、戸口、玄関」と「どうじ」「土間」とはちょっと違うような。現在の家ですと、「入口、戸口、玄関」よりは「たたき(三和土)」の方が近いような気もしますが、「たたき(三和土)」に該当する英語なんてあんのんかい・・て、もしかすると、ないのかもしれませんね。靴を履いた状態で部屋まで入るような文化の国では家じゅうが「たたき」みたいなものですしね・・。

  現地の説明書きに《田口家は・・代々庄屋をつとめた家です。・・・集会所として使用できるように部屋数も多く囲炉裏を三つ設けています。・・》と書かれていますが、たしかに・・↓
DSC08249.JPG
DSC08252.JPG
↑ 1階の部屋数が多く、囲炉裏も何か所にもあります。それとともに、《集会所として使用できるように》部屋の配置を、互い違いにするのではなく、続き間にして、通して広い部屋として使うこともできるように作られているように思われます。 同じ部屋数を設けるのでも、互い違いに設けることでプライバシーと部屋の独立性を確保する方法と、そうではなく、境目をそろえることで続きの部屋として使いやすくするという方法が考えられますが、旧田口家は後者の方を取った建物だったのでしょう。

  [第735回]《日下部民芸館(高山市)の架構は「男性的」か。和室は座って見学すべし、建築はじっくり時間をかけて見学すべし。》https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202001article_9.html でも写真を掲載して述べましたが、
《 ・・囲炉裏は長方形で南飛騨における民家特有の形態を伝えています。・・》と現地の説明書きにあるように、旧田口家の「囲炉裏(いろり)」は正方形ではなく長方形です。↓
DSC08256.JPG
↑ 旧田口家の囲炉裏は長方形ですが、高山市大新町の日下部家住宅(日下部民芸館)の囲炉裏は、↓
DSC07985.JPG
旧若山家住宅の囲炉裏も、↓
DSC07735.JPG
↑ 正方形になっています。

  「でい」の奥側に、4畳の広さの横に長い畳敷きの部屋が仏間として配置されていますが、[第738回]《日下部民芸館4-欄間・釘隠し・仏間、魅力的な窓からの雪景色。「いなか」と「いなかくさい」は同じでない。会社の新人類・会社のビョーキ人間》https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202002article_3.htmlhttps://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202002article_3.html でも述べましたが、日下部家住宅・旧田中家住宅・旧若山家住宅においても、そして、この旧田口家住宅においても、仏壇は部屋の左寄りとか右寄りとかではなく中央の位置に配置されています。
  旧田口家住宅でも仏壇は部屋の中央の位置に配置されています。↓
DSC08253.JPG

  「どうじ」のすぐ右手の部屋は「みせ」という名称で、(仕事場・WORK ROOM)とされていますから、ひとをあげることが多い部屋だったのでしょうか。
  その右に8帖の畳敷きの部屋が2間、左右に並んでいます(おそらく、「東西」だったのではないかと思うのですが、元の立地がわかりませんので、「左右に」と表現します)が、左の8帖の部屋の奥側に4帖の畳敷の左右に長い部屋があり、右の8帖の部屋の奥側にも4帖の畳敷きの部屋があって、そちらが仏間になっています。
  仏壇と床の間は別の部屋に配置するべきものなのか、同じ部屋に配置してもいいのか。けっこう悩む問題で、但し、「地方」で2間続きの和室がある家だと、片方に仏壇を配置して他方に床の間を配置するか、もしくは、2間続きの和室と別に茶の間がある家ですと、茶の間に仏壇を配置して、茶の間でない来客を通す部屋でもある2間続きの和室の片方に床の間を配置するか・・といったことができるのですが、都市部で延べ床面積も狭い、部屋数も多くないという家ではそういうことをやりたいと思ってもできない場合があり、そういう際に、いいとか悪いとか言われてもどうしようもないということで、ただ1つの畳敷の部屋に床の間と仏壇を配置したり、それがいかんとか言われるのなら床の間なんて要らないわ・・ということになったり、ということがあるかと思いますが、この旧田口家住宅では、部屋数はいっぱいありますが、↑ 8帖の座敷の奥に4帖の仏間があってその中央に仏壇が配置され、右側の奥側に床の間があります。 ここでの床の間は、奥行きが浅い板床で、床の間の右側は床脇棚ではなく、付書院となっているようですが、ともかくも、座敷の奥に仏間、座敷の右手の奥に床の間という配置がされています。
  ここでは、仏壇と床の間では仏壇の方が主役と考えて、床の間は、本床ではなく意図的に板床にして、床脇棚は省略して床の間の右側は付書院とした、又、部屋を暗くしないために右側からの採光ということも考えて、又、奥行きの浅い床の間であり、床脇棚を設けても奥行きの浅いものになることを考え、床の間の右側は床脇棚ではなく付書院とした、ということでしょうか。

   旧田口家住宅では、《 飛騨最南端の比較的温暖な地にあった当建造物は雨戸の外に廊下が巡り、・・》とあるように、まず、一番外側には庇の下の土間の部分があり、その内側に「廊下」というのか板貼りの部分が柱より内側、構造上は建物の内部としてありながら、雨戸はその「廊下」というのか広縁というのかの内側の部分に設置されているのですが、↓
DSC08244.JPG
その雨戸があるラインよりさらに内側に、座敷としての「でい」との間に、畳敷の1間幅の部分、8帖の和室の前に4帖の畳敷の部分が2つ並んでおり、板敷きの「えん」の内側に畳敷の「えん」があって、雨戸はその間の位置にあります。↓
DSC08247.JPG
  日下部家住宅(日下部民芸館)でも、階段を上がりきった場所を畳敷にしていましたが、旧田口家は飛騨地方では美濃に近い南の方で飛騨地方の中では暖かい方にあった家という性質もあったかもしれませんが、同時に、やはり、飛騨地方は冬場は比較的寒い地域なので、座敷の南に設ける「えん」を板敷きではなく畳敷のもので設けて、その外側に板敷きの「えん」を設けた、と考えることもできるのではないでしょうか。
  広縁(ひろえん)というと板貼りのものと決めつけている人が住宅建築業の会社にもいますが、そうではないのではないか。畳敷きの広縁というのもありうるのではないか。1月に高山を訪ねた後、大阪府豊中市の「旧羽室家住宅」 を見学させてもらったのですが、「旧羽室家住宅」でも、畳敷きの広縁が設けられており、そうだよなあ、このやり方があるよなあ・・と思ったものでした。↓
DSC07847.JPG
( ↑ 大阪府豊中市。 「旧羽室家住宅」。)
広縁というとワンパターンの「WPC加工の桧縁甲板」という単細胞思考の(株)一条工務店https://www.ichijo.co.jp/ の思考はお粗末です。「WPC加工(ウッド プラスチック コンビネーション)の桧縁甲板」が悪いということはありませんが、他にもやり方はあるはずです。もっとも、(株)一条工務店という会社は、こういったことを考える人間というのは営業本部長の天野隆夫から「そんなこと言うならエスバイエルに行けよお。おまえはあ」とか言われることになってしまう会社であり(「なんで、そんな話になる!?!」と毎度思わされる会社、なんでそんなところで「エスバイエル」が出てくるのか?!?・・という会社であり)、営業本部長の天野隆夫は「お客さんは、そんなことな~んも知らんような頭のない人間が好きなんや。お客さんというものはそういうものなんや」とか言うておりましたので、そういうタイプの「お客さん」が好きな経営者の会社だった、そんな人間が営業本部長になっている会社、ということであって、「この程度の経営者にはこの程度の営業」みたいな営業もおり、そういう人間をアホ経営者はありがたがっていたようでしたが(その逆で私はよくもここまでやってくれるというくらい一貫して冷や飯ばっかり食わされてきましたから)、しかし、本来、家造りというのはそういうものではないと私は思いますね。・・そもそも、「お客さん」というのは「頭の無い人間がええんや、頭のない人間が」とかそういう思考をする存在でしょうか? 違うように思うのですがねえ・・・。(株)一条工務店の営業本部長というのは「お客さん」を馬鹿にしていませんか?
※ 豊中市HP 「旧羽室家住宅」https://www.city.toyonaka.osaka.jp/jinken_gakushu/bunkazai/touroku_bunkazai/touroku08.html

  8帖の畳敷の部屋が左右に並んだその後ろに横に長い4帖の部屋があり、そのさらに奥側に8帖の部屋が2つ並び、それを「なんど」「なかなんど」と呼び、さらに、その正面から見て右側に4帖の部屋があって、「おくなんど」と呼んでいるようでしたが、「なんど」(納戸)と言われても・・・、どう見ても、収納部屋ではなく座敷ではないのか、という感じの部屋でしたが、現地の平面図を見ると、(寝室・BED ROOM)と書かれており、「なんど」と言っても、物置きではなかったようです。
  8帖の畳敷の部屋2つの間の4帖の畳敷の部屋ですが、飛騨の里HPの「旧田口家住宅」http://www.hidanosato-tpo.jp/minka/mnkmain12.html に《デイの中心には畳廊下があり、ふすまで仕切ることで広さを調節できる。》と書かれていますが、「畳廊下」であるとともに、引戸を開放することで片方の部屋と続きにして、8帖+4帖=12帖 として12帖の部屋として使用するという使い方もできたようです。続き間の長所として、建具を閉めれば個室として使えて建具を開ける、もしくは、建具をはずすことで続きの広い部屋として使える、という柔軟性のある使い方ができるという性質があります。但し、閉めれば個室になるといっても欄間の部分はすけすけですし、欄間を板の欄間にしたとしても、片開きドアの場合に比べて引戸というのは隙間があって、完全な個室にはなりにくい要素がありますけれども。

  建物の構造躯体から考えると内側だけれども、雨戸より外に配置されている「縁側」を(VERANDA)と現地の平面図には書かれていたのですが、たしかに、雨戸より外側にある「縁側」ですと、雨戸より内側の「えん」に比べて、「ベランダ」という感じはあります。
  バルコニーとベランダの違いとして、
バルコニーの特徴としては、
1.壁からオーバーハングしたもので突き出た部分に足がない、
2.露台であって屋根がない、
ベランダの特徴として、
1.屋根がある
2.足はあってもよい、
というものがあることを考えると、構造躯体の内側で屋根はあるが雨戸より内側の「縁側」はVERANDA と言えば言えるかもしれないが、balcony ではありませんね。

  「どうじ」より左側に、手前から「まや」(馬屋・BARN)があって、奥側に「うすにわ」(台所 作業場 WORK ROOM)」と(台所 KITCHEN)があり、そのさらに奥に「みそべや」があります。「うすにわ」には、現在は、自在鉤が展示されています。
DSC08250.JPG

  2階には今は上がれませんが、《2階は養蚕のため仕切りをせず広く使えるようになってい》るらしい。↓
DSC08255.JPG

  飛騨の里でもらったリーフレットには、《 飛騨地方の最南端で美濃との国境にあったため、雨戸の外側に廊下があり、雪の重みに弱い造りになっています。》とあり、飛騨の里HPの「旧田口家」 には《雪の少ない地域から移築したために、「56豪雪」と呼ばれた1981年の大雪で、約60cmの積雪によって梁が折れてしまったことがありました。同じ飛騨地方の中でも合掌造りの民家はもちろん、榑葺き民家でも地域によって違い、それぞれの環境に即して建てられたことが実感できます。 》とあり、言われてみると、一番外側が柱を何本か建てただけになっているというのは、雪に弱かったのかな・・とも思えますが、雨戸の外側の「廊下」(「広縁」)の部分というのは、建物の本体(「母屋」)の外側の「庇」としての構造の部分で、「庇」の部分が本体部分よりも積雪による重さに弱かったということなのか?・・ 実際には、《雪の重みに弱い造り》だといっても、あくまでも、飛騨地方の家屋としてはであって、温暖地ではそこまでの積雪はないでしょうから、問題とされることはあまりなかったかもしれませんが。 《「56豪雪」と呼ばれた1981年の大雪で、約60cmの積雪によって梁が折れてしまったことがありました》という話を聞いた上で、平面図を見て、又、正面の外観写真を見ると、
DSC08247.JPG
DSC08244.JPG
折れたのがどの場所かわかりませんが、たしかに、庇の部分での柱の間隔が広いかもしれませんね。畳敷の和室の前で中間に柱を建てたくないという事情はあったかもしれませんが、「2間以上飛ばしでの柱1本立ち」というのは、たしかに強くないかもしれない。普段は特に問題なくても「60cmの積雪」となると相当の荷重でしょうから、それがかかった時に持ちこたえられなかった、ということはありうるのかもしれません。又、積雪で梁が折れた、といったことがあったとそういう話を聞いた上で平面図を見ると、内部においても、集会所として続き間として使いたいことがある家だったという事情はあったのでしょうけれども、「柱の1本立ち」が多く、壁が少ない、という点にも気づきます。

  《 ナンドの上には「落し座敷」と呼ばれる隠し部屋がありますので、是非探してみてください。何のために隠し部屋があったのか諸説様々ですが、国境にあることから、百姓一揆の首謀者などお上から逃げている人をかくまったのではなど想像できます。》(飛騨の里HP 「旧田口家」http://www.hidanosato-tpo.jp/minka/mnkmain12.html )というのは気づかなかった。次回、訪問できれば捜してみたいと思います。

  ところで、旧田口家住宅に左手の方、旧若山家住宅の方から行くと、「旧田口家 ⇒」みたいのが書かれているので、それに従って進むと見えてくる建物があって、それが ↓
DSC08239.JPG
↑ なのですが、これが旧田口家住宅なのか? ・・と思うとそうではなく、旧田口家住宅は ↓
DSC08242.JPG
だったのですが、そうすると、これは何なのか?
  現地に説明書きはなく、飛騨の里でもらったリーフレットの「館内図」でも旧田口家の左に建物があるのは描かれているのですが、「◇◇家」といった記載はなく、飛騨の里HPの「旧田口家」http://www.hidanosato-tpo.jp/minka/mnkmain12.html にも記載はありません。旧田口家の建物などに比べると新しそうですが、何でしょう。旧田口家に付属の土蔵で旧田口家の住居建物に比べると新しいものだったものを旧田口家を移築する際に一緒に移築したが、内部は公開していない・・というものなのか? 何の説明書きも見つからなかったのですが、何でしょうね・・・。

  次回は、旧吉真(よしざね)家住宅 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202003article_9.html

※ 飛騨の里HP http://www.hidanosato-tpo.jp/top.html
飛騨の里 旧田口家 http://www.hidanosato-tpo.jp/minka/mnkmain12.html
高山市HP 旧田口家 https://www.city.takayama.lg.jp/kurashi/1000021/1000119/1000847/1000848/1000855.html
岐阜県HP 旧田口家 https://www.pref.gifu.lg.jp/kyoiku/bunka/bunkazai/17768/kenzobutsu/kyuutagutike.html

 (2020.3.11.)

☆ 高山シリーズ
☆高山シリーズ第6回 2020年
1.雪山が車窓から見える東京から高山へのバス。長良川が見える高山から大阪へのバス。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202001article_5.html
2.日下部民芸館1 吉島家住宅に比べて「男性的」とは? 「せがい造」とは? https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202001article_9.html
3.日下部民芸館2 床の間と付書院。付書院は床の間のすぐ横からか手前からか。付書院部分の広縁はどうなるか。縦格子は良くても横桟は不衛生・・て飲食店経営者はわからんのか? https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202002article_1.html
4.日下部民芸館3 7か所それぞれ特色のある日下部民芸館の床の間。廊下が垂直に交差する部分の床板の施工 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202002article_2.html
5.日下部民芸館4 欄間・釘隠し・仏間、魅力的な窓からの雪景色。「いなか」と「いなかくさい」は同じでない。会社の新人類・会社のビョーキ人間。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202002article_3.html
6.日下部民芸館5 榑葺屋根と金属材屋根。「金属屋根+雪止め+樋」の家。頑丈なアーケード。高山駅の平な屋根。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202002article_4.html
7.日下部民芸館6 雪景色の庭と雪のない庭。和風も考えられるシャンデリア。棟木の丸太梁。思いのほかごつい土蔵の扉。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202002article_5.html
8.日下部民芸館7 飛騨地方の神棚は、その下を通るのが一般的なのか。及、施主の希望を無視して神棚もどきをつけた(株)一条工務店の東京の営業。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202002article_6.html
9.吉島家住宅1 杉玉があるのが吉島家。じっくり見ると日下部家住宅より「女性的」かもしれない・・かな。卯建と似てるが異なる火垣。男が雪かきすると部屋中に入って座ってコーヒー飲む「おばさん帝国主義」。
https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202002article_7.html
10.吉島家住宅2 「女性的」は架構でけでない。床の間。長押が床脇の内部まで周っている床脇。みやびな色の釣り床。 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202002article_8.html
11.吉島家住宅3 「茶室風」「数寄屋風」「京風」な感じが全体に感じられる吉島家住宅。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202002article_9.html
12.高山別院の方の光曜山照蓮寺。 農家の家の部材を利用して建築した庫裏。高山風を考慮した耐震補強。落雪注意と水道管の断熱材は寒冷地を思わせる。三流以下企業の経営者は普通ならわかるだめな原因を理解しない。他。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202002article_10.html
13.高山別院でない方の光「耀」山照蓮寺。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202002article_11.html
14.護国神社+『まれに見るバカ女との闘い』、雪かきする女性に敬意を表したい。 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202002article_12.html
15.筏橋、中橋、「高山の夜」碑、山岡鉄舟立像、高山陣屋 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202002article_13.html
16.高山駅から飛騨の里までの前半。西小学校、苔川。「木の国 飛騨」「古い町並み 高山」を売りにしつつ「新しい木質建材」も利用。 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202002article_14.html
17.高山駅から飛騨の里までの後半。飛騨民俗村から文学の小径を通り、飛騨の里へ。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202002article_15.html
18.飛騨の里1-凍った五阿弥池と鳥。六地蔵、馬頭観音。不明な動物。「子供」を名分に定時に帰りオットと妊活やって3人目産んだ女とそのオットに殺された水子を供養する。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202003article_1.html
19.飛騨の里2-旧田中家住宅。土間の「おえ」、板貼りの「でい」。「捕手の力」を無視する営業本部長。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202003article_2.html
20.飛騨の里3-旧若山家住宅(1)迫力ある巨大な合掌造。「えん」はベランダ? ではないが・・。「まやどうじ」「こうまや」「どうじ」「えん」。命名にセンスのない経営者の会社。 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202003article_3.html
21.飛騨の里4-旧若山家住宅(2)「おえ」「すえのでい」「なかのでい」。仏間と神棚。「やったことない」ことはできるか? https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202003article_4.html
22.飛騨の里5ー旧若山家住宅(3) だいどこ・うすなか・みんじゃ・ちょうだ。「水屋」には3通りの意味があった。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202003article_6.html
23.飛騨の里6ー旧若山家住宅(4) 荘川村様式の合掌造の特徴とは。「せがい造」とは。上座・下座ができてしまう「和風」の家。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202003article_7.html 
24.飛騨の里7ー旧田口家住宅 縁側の内側に雨戸、長方形の囲炉裏、続き間にできる柔軟性のある間取り。奥に仏間のある部屋の右手に床の間。「両親が離婚した」などと自慢する高校教諭ははた迷惑。〔今回〕
25.飛騨の里8ー旧吉真家住宅 入母屋の妻面を大きく取る萱葺の家。車田。雪をかぶった山脈がきれい。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202003article_9.html
26.高山の町並にて(1)—「和風のドーマー」は違和感なく存在する。高山警察署は新社屋にて営業中。重要伝統的建造物群保存地区の周囲に「市街地景観保存区域」を設定する高山市の姿勢を評価する。用途地域の趣旨を踏みにじる千葉県習志野市の態度は不適切。千葉工大名誉教授山本明氏の権威主義を笑う。 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202003article_10.html
27.高山の町並にて(2)—高山の雪景色・無人の駅前交番・さるぼぼ・冬ならでは、吊るされた柿。入居者が引越する日に中を見せろと言う非常識な営業を指導しない所長。「指名手配犯」と似ている男というのは通報すべきか否か・・ https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202003article_11.html
28.高山の宿泊施設。 最新のホテルは、もう一回り低い高さにできないか。浜松に本社のチェーンは利用に抵抗を感じる。フィレオフィッシュはミラノにもパリにも高山にもある。研修に一人だけ遅刻してきて平気な浜松営業。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202003article_12.html
29.高山の食堂数か所。飛騨牛重は後で「食べた」感が出てくる。降雪時、平湯付近の道路は雪が積もる。保護義務違反の会社に尽くしたバカの話。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202003article_13.html

☆ 高山シリーズ第1回 2013年
上 [第202回]飛騨天満宮、松本家住宅他https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201309article_7.html
中 [第203回]「天神」考察。居酒屋はいいかげんhttps://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201309article_8.html
下 [第204回]高山市の白山神社。高山市役所https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201309article_9.html 

☆ 高山シリーズ第2回 2014年
(1)国府町村山天神参拝(1)上枝駅から宮川沿い https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201409article_2.html
(2)同(2) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201409article_3.html
(3)同(3)浸透桝で雨水処理 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201409article_4.html
(4)あじめ峡、あじか、廣瀬神社、国府小学校https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201409article_5.html
(5)国府大仏、阿多由太神社https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201409article_6.html
(6)飛騨国府駅周辺。「耳付片流れ屋根」https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201409article_7.html
(7)松本家住宅上・ヒラノグラーノhttps://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201409article_8.html
(8)松本家住宅下・宮地家住宅上https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201409article_9.html
(9)宮地家住宅下・平田記念館 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201409article_10.html
(10)飛騨民族考古館1 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201409article_11.html
(11)同2 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201409article_12.html
(12)同3 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201409article_13.html
(13)同4 喫茶ばれん、質屋の入口から逃げる裁判官 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201409article_14.html
(14)飛騨高山まちの博物館 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201409article_15.html
(15)東西反転プランでは玄関だけ移動するのかhttps://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201409article_16.html
〔(16)~(20)の前提、権威主義的パーソナリティーの「デザイナー」が「建築家」の名前で敬意を表した慶應日吉(新)図書館について https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201409article_17.html 〕
(16)高山の町家で曲がった松をわざわざ柱に使用するか? 1 JR日光駅はライトの設計でなければ価値はないか? https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201409article_18.html
(17)同2 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201409article_19.html
(18)同3 マーケティング的発想のない店 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201409article_20.html
(19)同4 店のコンセプトが理解できない建設部長 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201409article_21.html
(20)同5 「酒が飲めない人にも飲める酒」を勧められない「日本酒ソムリエ」 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201409article_22.html 
(21)飛騨総社 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201409article_23.html

☆高山シリーズ第3回 2015年
1.藤井美術民芸館  https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201510article_1.html
2.高山陣屋[1]床の間、釘隠し・・ https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201510article_2.html
3.高山陣屋[2]白洲、土縁庇・・ https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201510article_3.html
4.高山市政記念館 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201510article_4.html
〔番外 宮川にかかる欄干に加圧注入木材使用の橋と 防腐防蟻剤について。 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201510article_5.html 〕
5.桜山八幡宮 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201510article_6.html
6.桜山八幡宮 摂社 天満神社 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201510article_7.html
7.山桜神社、古い町並美術館、手長足長 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201510article_8.html
8.宮川交番、高山警察署、高山市役所 他 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201510article_9.html
9.飛騨国分寺、「和風ドーマー」、二重サッシ他 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201510article_10.html
10.新宿‐高山のバスの予約をインターネットで「後部」を希望すると。「労災」のおかげで歩行困難にされた話  https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201510article_11.html

☆高山シリーズ第4回 2016年
1.日の出天満神社 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_13.html
2.大八賀神社 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_14.html
3.東山遊歩道(1)高山別院照蓮寺から東山白山神社へ https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_15.html
4. 〃 (2)東山白山神社・大雄寺 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_16.html
5. 〃 (3)雲龍寺・久昌寺・栄鏡院 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_17.html
6. 〃 (4)洞雲院・素玄寺 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_18.html
7. 〃 (5)東山神明神社 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_19.html
8. 〃 (6)天照寺・法華寺 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_20.html
9. 〃 (7)善応寺1.本堂 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_21.html
10.〃 (8)善応寺2.地蔵堂 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_22.html
11.〃 (9)宗猷寺 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_23.html
12.〃(10)町年寄川上家別邸跡 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_24.html
13.煥章館と煥章館2階から見た東山 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_25.html
14.十六銀行 高山支店、早朝は無人の安川交番 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_26.html
15.新装「高山駅」 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_27.html
16.片流れ屋根のモデルハウス https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201611article_4.html

☆高山シリーズ第5回 2017年
1.内田康夫『風の盆 幻想』と巡る高山(1)喫茶店「ロスト」を探す https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201710article_5.html
2. 同 (2)高山ラーメン https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201710article_6.html
3. 同 (3)「K病院」https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201710article_7.html
4. 同 (4)高山市役所 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201710article_8.html
5.旧 野首(のくび)家住宅 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201710article_9.html
6.旧 新宮村 郷倉 ほか https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201710article_10.html
7.山岳資料館(旧 高山測候所)、飛騨民俗村とは https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201711article_1.html
8.飛騨合掌苑 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201711article_2.html
9.「飛騨民俗村 文学散歩道」https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201711article_3.html
10.飛騨高山美術館 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201711article_4.html
11.名古屋から高山へ「ワイドビュー飛騨」https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201711article_5.html
12.高山駅から飛騨民俗村へ[上]https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201711article_6.html
13. 同 [下]https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201711article_7.html
14.新上野橋から三福寺橋、山小屋て、なぜ洋風なの? https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201711article_8.html
15.「旧 吉城郡細江村の民家」(熱田神宮内) http://shinkahousinght.at.webry.info/201711/article_9.ht 

木造建築を見直す (岩波新書) - 坂本 功
木造建築を見直す (岩波新書) - 坂本 功
キルケゴール (Century Books―人と思想) - 工藤 綏夫
キルケゴール (Century Books―人と思想) - 工藤 綏夫
宗教―その起原と役割 (1978年) (新日本新書) - 蔵原 惟人
宗教―その起原と役割 (1978年) (新日本新書) - 蔵原 惟人

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック