加茂荘花鳥園・加茂邸(掛川市)見学【1/7】「森掛川」I.C.より加茂荘花鳥園。温室と鳥舎。

[第773回]
  静岡県掛川市原里 の 加茂荘花鳥園・加茂家住宅 に行ってきました。ここに見学に行きたいと思ったのは、
1. 藤井恵介監修・溝口正人・平山育夫・大野敏・中村聡樹・安東典子 執筆・和田久士 写真『日本の家 2 中部』(2004.5.28.講談社)に、加茂家 とその前の菖蒲園が掲載されており、表紙の写真にもなっていて、きれいなあ~あ♪ ・・・と思ったこと、特に、花菖蒲園と土蔵の調和された景観がいい、どちらか片方、もしくは両方ともいいが、別々の存在ではなく、両方が調和されて存在しているのがいい、と思ったこと。
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( ↑ 土蔵と花菖蒲園。 )
( 長屋門・厩・納屋・母屋の階下の多くの部分は1773年(安永2年)築らしいが〔田沼意次が相良藩2万石から5万7000石の大名に加増され、老中となったのが1772年。《ウィキペディアー田沼意次》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E6%B2%BC%E6%84%8F%E6%AC%A1 〕、↑ の左の土蔵は1884年(明治17年)〔1894年の日清戦争の10年前〕に建て替えられたものらしい。)
2.『日本の家2 中部』(2004.講談社)に掲載されているお宅でも、現在も居住中で内部は見学できない家や、見学は可能でも、「◇◇家」とか教育委員会とかにあらかじめ申込めば見学させてもらえる可能性がある、という家も掲載されているが、加茂家住宅は、年間通してではないけれども、誰でも直接行っても、見学料というのか入場料というのかを払えば見学させてもらえるようで、「☆☆大学教授」とか「世界的建築家」とかいう肩書を持っていない者と、誇り高き無産市民の「建築探偵団」としては、見学料を払えば誰でも見学させてもらえるという所の方が行きやすいと思ったこと。
3.(株)一条工務店https://www.ichijo.co.jp/ の建物というのは、どう考えても「浜松流」もしくは「遠州好み」で、この場合、「遠州好み」というのは「小堀遠州が好んだ」という意味ではなく「遠州人の好みに合わせた」という意味での「遠州好み」なのだが、「浜松でいいものは、東京でも大阪でも日本全国どこでもいいに決まってるんだ。20坪の延べ床面積の家でも30坪の敷地の家でも二間続きの和室は絶対に必要なんだあ! 東京でも大阪でも、20坪の家でも八寸角の大黒柱は絶対にいいに決まってるんだ! こんな常識がわからんのかあ!!!」と1993年、名古屋南営業所の所長だった近藤路夫さんが絶叫されたように、東京在住の人間何人かにこの話をしたところ、「その人、頭、おかしいのと違うのお~お?」「その人、酔っ払いか何かなのお~お?」と全員から言われたのだが、又、福島県いわき市の営業所にいた時には、いわき市民から、床柱の施工法について「こんなおかしなやり方、ねえべえ~え」と言われたもので、「そんなの、3尺の幅の板の神棚なんてそんな神棚ねえべえ~え」と言われたものだったが、ところがそれでも、近藤路夫は「浜松でいいものは東京でも大阪でも日本全国どこでもいいに決まってるんだ」という考え方、それが ””一条オリジナル”” の考え方、(株)一条工務店においては「正統」の考え方で、「それは違うのじゃないですか」なんて正直に言うと(「王様は裸ではありませんか」なんて言うと)、「そんなこと言うならエスバイエルに行けよお」と営業本部長の天野隆夫から言われる会社であり(せっかく会社のためを思って言ってあげたのに、言ってあげた相手の「王様」から言われる会社であり)、私などは、浜松で建てるのなら「浜松流」「遠州好み」でいいとしても、東京では東京にふさわしい建物、大阪には大阪に向いた建物、福島県浜通りには福島県浜通りの人の考え方に沿った作り方というものがあるはずだ、と思うのだが、そういうことを言うと、「そんなこと、言うならエスバイエルに行け、おまえはあ!」と営業本部長の天野隆夫から怒鳴りつけられるという会社であり、それではお客さんがかわいそうだ、という会社だったのだが、その「一条オリジナル」のオリジナルとでも言うべき民家、浜松・掛川付近の民家をぜひとも何軒か見学してみたいものだ、と思ったこと。
  なんと言いましょうかねえ、浜松流がいかんということではないのですが、しかし、「日本国中に浜松を押しつける」という考え方というのは、いかがなものか・・・と思うのですが、これを言うと「遠州人」は怒りますからね、ほんと。「そういうことを言うからいかんのだあ~あ! 浜松でいいものは東京でも大阪でもどこでもいいに決まってるんだあ!!!」とひきつけ起こして叫びますから。まったく、「遠州人」には困ったもんだ・・・。ほんと、そういうビョーキ持ちみたいな人を相手にするのは、往生しまっせえ~え、ほんまあ~あ!!!
(ついでに、「静岡県と言えば地震」「地震と言えば静岡県」とか言いまくって契約とってもうけた(株)一条工務店ですが、そのわりに、阪神淡路・中越・東北・熊本とか静岡県以外で大地震がいくつも発生して、静岡県ではそれほどの大地震は発生していないのですが、「地震が来るぞお」「地震が来るぞお」と狼少年みたいに叫んでもうけた(株)一条工務店https://www.ichijo.co.jp/ 。この点について何も言わんようですが、どないなっとりまんねやろねえ・・・。)
( 日本全国からあげた「利益」から、300億円を「防潮堤の費用」と称し、「お世話になった浜松に恩返しをしたい」などと(株)一条工務店https://www.ichijo.co.jp/ の初代社長で今は社長でも専務でも会長でも相談役でも何でもないはずの大澄賢二郎が言ったということで、浜松市に「寄付」し、浜松市長で慶應大ア法学部卒の鈴木康友が大喜びしたが、全国から利益をせしめてそれを浜松市に「寄付」するというあたり、なんか、いかにも、”浜松帝国主義” て感じ、「浜松という後進国の外資系企業」という感じがする・・・・。日本全国の市長・町長は言うべきなのかもしれない、「なんで、浜松市にはやって、うちにはくれへんね~ん」て。 そういうものに疑問を感じることなく大喜びでもらう浜松市長で慶應大ア法学部卒の鈴木康友は、そういう態度のことを「自我が確立されている」とか「アイデンティティーを持っている」とか「独立自尊の精神を身につけている」とか「慶應ボーイらしい思考の柔軟さ」とか「慶大生らしいスマートさ」とか言うのだろうか? 「そういう人間を企業は喜ぶ」とか「ギャルにもてもて」とか言うのだろうか?・・)
4. そして、新東名高速道路が開通し、「森掛川」インターチェンジというのができたのだが、東京から大阪まで、もしくは、大阪から東京までマイカーでぶっとばす・・のではなく安全運転で走るとすると、せっかく、クルマで走るからには、途中でどこか、1か所くらい立ち寄ってみたいという気持になるものだが、だからと言って、インターチェンジから相当遠い場所まで行ったのでは何をしに行っているのかわからないことになる。我が家から大阪府までは、新幹線だと、「のぞみ」で東京―新大阪間は今では2時間30分で走るようで、我が家から東京駅までと新大阪駅から目的地までの時間を合わせて、切符を買う時間とか新幹線の中で食べるお弁当を買う時間とかを合わせても、約5時間で目的地まで行けるものを、マイカーで走ると、新東名~伊勢湾岸道~新名神~名神 と走ったとして、途中、1か所のサービスエリアで食事をとり、2か所で休憩をとったとして、休憩・食事時間で2時間、走っている時間を7時間と考えて計9時間。倍までいかないが、約4時間多くかかる。なおかつ、高速道路代・ガソリン代を合わせると、自分で運転するので運転手の労賃をタダと考えても、決して安くない。それを考えると、新幹線の方がよっぽど便利だということになるが、新幹線もしくは夜行バスで行って、行った先でレンタカーを借りると、それが一番高い。クルマでないと行けない所、1か所に行くためにその時間だけレンタカーを借りるということならまだいいが、常にクルマがそばに欲しいという場合は、「新幹線+レンタカー」より「高速道路代+ガソリン代」の方がいいし、自分のクルマの方が気を使わないということもある。特に、コロナウイルスがなんとか言うと、マイカーで移動した方が安全かとも思うが、他県ナンバーのクルマは襲撃されるなんて記事がヤフーニュースだかに出ていたので、東京や大阪なら他県ナンバーのクルマなんて日頃からいくらでも走っているし、東名・新東名なんてのは自分以外にも他県ナンバーのクルマはいっぱい走っているけれども、他県ナンバーのクルマは珍しいなんて地域にうかつに他県ナンバーで行くと危ないかも・・・なんて思ったのだが、せっかく、東京ー大阪間をクルマで走るからには、途中、1か所くらい寄ってみたいと思い、又、途中、1か所、立ち寄ると、気持ちがそこでリセットされて、東京ー大阪間をクルマで走った・・のではなく、東京ー掛川間と掛川ー大阪間を走ったみたいな感覚になる。そこで、東名・新東名高速道路のインターチェンジからそれほど遠くない場所で、「建築探偵団」として行ってみたい所・・・というと、地図で見ると、東名高速道路「静岡」インターチェンジの近くに登呂遺跡があるようだが、今では浜松市の中村家住宅は、けっこうインターチェンジからあるみたいで、その点、加茂家住宅・加茂荘花鳥園は原掛川インターチェンジから近そうだし、そう難しい場所でもなさそう・・・ということで、一度、言ってみたいと前々から思っていたのでした。
※ 静岡市立登呂博物館 https://www.shizuoka-toromuseum.jp/guide/access/
浜名商工会議所雄踏支所 中村家住宅 http://www.hamana.net/yuto/kanko/kan-nakamura.html
浜松・浜名湖大好きネット 中村家住宅 https://hamamatsu-daisuki.net/search/area/are-west/post-396.html

  コロナウイルスの影響を考え、他県への移動は慎重に・・とか言われても、そういうことを言われていると、お墓の掃除もできないことになってしまう。ともかく、マイカーで高速道路を走って移動して、また、マイカーで高速道路を走って戻ってくるならば、影響を受けることも与えることもあまりないだろう・・・と考えて、今回はクルマで移動した。他県ナンバーのクルマが襲撃されるという話がインターネットに出ていたが、新幹線や飛行機・夜行バスなどで移動するのと、マイカーで移動するのとでは、東京都・千葉県からだと北側なら福島県のいわき市とか、西側なら浜松・掛川あたりくらいまでならそれほどでもないが、さすがに大阪まで往復すると疲れるのだが、新幹線や飛行機・夜行バスで移動するよりマイカーで移動した方が影響を受けることも影響を与えることも少ないと思うのだが、新幹線で移動する人を襲撃する人間はあまりなさそうであるのに対して、他県ナンバーのクルマを襲撃する人が出るというのは、矛盾しているようにも思う。

  そういえば、うちの父親は「あんたがわしに世話になったことはこれまでにいっぱいあるけれども、わしはあんたに世話になったことはこれまでも何一つとしてないし、今後ともわしがあんたに世話になることは、絶対にひとつとしてあるわけがないはずや」と言いまくっていたのだが、それから考えると、あのおっさんが入っている墓の掃除なんてやることない・・・ということになる。むしろ、ああいう口をききまくったおっさんの入っている墓を見ると、蹴り飛ばしてやりたい気持ちになる・・が、そうもいかないから、何度も掃除しているのだが、あのおっさんも、よくああいう口をきくものだと思う。
 ・・私、植木を刈るの、けっこううまいですよ。なぜ、うまいかというと、小学生の頃からいつも刈ってましたから。「あの家、植木屋が年に2回も入っている」と言うのは、金持ちだなあという意味の言葉だが、「年に2回」というのはどういう意味かというと、植木というのはその樹種によって刈るのが適切な時期が違うので、できれば、お寺の庭のように、年に何度も植木屋が入って手入れをするのが好ましいのだろうけれども、普通の家はそうもいかないので、それで、植木屋に入ってもらうのは年に1回にして、他は自分で刈るか、伸びるにまかせるかしている家が多かったのだが、それを「年に2回も入っている」というのは植木屋に年に2回やってもらうことができるというだけ金持ちだということを意味している。我が家は植木屋には年に1回しかやってもらわなかったけれども、それでも、常に植木はきれいだった。なぜかというと、私が刈っていたからだ。父はよその家を「あそこの家、植木、伸び放題や。みっともないなあ」とか言うことがあったが、我が家はそうなっていないというのは父がカイショがあるからだと思っていたようだが、私が刈っていたからなのだ・・が、そうは思わなかったようだった。今から考えると、刈るのじゃなかった、と思う。
  隣の家の門扉は錆びてボロボロになったのに対して我が家の門扉はいつまでもきれいなままだったが、父は自分が小堀住研(株)でいい家を建てたから、小堀はいい門扉をつけたから錆びないと思っていたようだったが、そういう問題ではなく、隣の家は息子が2人いたが2人ともペンキ塗装なんてやらなかったのに対して、我が家は息子は1人だったがその1人の私が定期的に門扉にペンキを塗っていたという違いがあったはずだが、うちの父親はそうは考えなかったようだった。「この家はすべてわしひとりのおかげでできた物であって、わし以外の人間が何か努力したものは何一つとしてないんやからなあ。わかっとんのんかチャンコロ! わかっとんのんかチャンコロ! わかっとんのかわかっとんのかわかっとんのかチャンコロ!」とうちの父親は、毎日毎日、指で私の眼を突き刺すようにして叫んでいたが、そんなこと言われるのなら、門扉のペンキ塗装なんて、やるんじゃなかった。失敗した。
  父は、朝、雨戸を開けて、会社に出勤するが、帰ってくると、雨戸はすべて閉まっていて、冬ならば、石油ストーブに灯油が入れられて点火して部屋は温まっていたが、父はそれを当たり前と思っていたようだが、誰が雨戸を閉めたのかというと私が閉めたのであり、誰が石油ストーブに灯油を入れたのかというと私が入れたのであり、誰が石油ストーブに点火したのかというと私が点火したのだったが、父は雨戸は私が閉めたのではなく自然に閉まったもので、石油ストーブに灯油は勝手に入って勝手に石油ストーブは点火されて部屋は温まっていたと思っていたようだ。
  最近では鰹節は削ったものがパックになって売っているものを買う方が普通になってきたが、1960年代、私が子供の頃はそんなものはなく、私が小学校に行く前の頃は、我が家では、鰹節を削るのは私の役で、父は私が削った鰹節を食ったはずだったが、それでも、「あんたがわしの世話になったことはいっぱいあるし、今後もあるけれども、わしがあんたに世話になったことは、これまでも何ひとつとしてないし、今後とも絶対に何一つとしてないんやからなあ」と毎年毎年毎日毎日言いまくったものだったが、たしか、あのおっさん、私が削った鰹節を食ったはずだったのだが、記憶にないらしかった。
  又、ゴマというのは殻が硬くてすって食べないと栄養素が体に吸収されることなく輩出されることになるらしいのだが、私が小学校に行く前、我が家ではゴマをするのも私の役で、父は私がすったゴマを食ったはずだったのだが、それでも、「わしはあんたに何ひとつとして世話になったことはないし、今後とも絶対にあんたに世話になることはないんやから」と言いまくったのだが、ゴマなんかするのじゃなかった! 失敗した。
  私が子供の頃、住んでいた家の一番の座敷の南側には廊下を兼用の広縁があって、そこを通って東の端のトイレに行くようになっていたが、その廊下の拭き掃除は主として私がやったのだが、父はその廊下を通ってトイレに何度も行ったはずだったが、それでも、「あんたがわしに世話になったことはいっぱいあるけれども、わしはこれまであんたに世話になったことなんてものは、何一つとしてないんやからなあ。何ひと~つ、何ひと~つ!」と言いまくったものだったが、そんなこと言うなら「う〇こ、すんな!」て気がする。これらは「例示」であって「列挙」なんてしようと思っても多すぎて「列挙」なんてやりようがない。うちの父親はそういうおっさんやった。
  1990年代初め、私が小堀住研(株)に勤めて千葉県で東京都で仕事についていた時、父が体調を崩して入院した際、母が「前に回生病院に入院した時には、〇〇が服の着替えを持って行ってくれたりしたけれども、今は東京にいてるから頼めないから」と言うと、うちの父親は「そんなもん、持ってきてもろうたことなんてあったかあ~あ。そんなもん、知らんなあ。そんなもん、知ら~ん!」と言い、母が「あったでしょうよ。〇〇が回生病院まで服の着替えを持って行ったでしょうよ」と言っても、「知ら~ん。そんなもん、持ってきてもろたなんてこと、知ら~ん!」と言ったそうで、あのおっさんらしいなあ~あ・・と思ったものだ。もうすぐ、「父の日」だが、うちの父親というのは、そういうおっさんやった。
  1970年代後半、北野高校の2年の時の担任だった旧姓S野礼子(女。当時、20代。北野高校卒⇒神戸大文学部卒)が「私は両親が離婚したから」「私は父親がいなかったから」とそれを何より自慢にしていたのだが、「父親がいなかった」娘というのは、父親に嫌な思いをさせられる経験もなかったことだろう。そもそも、「両親が離婚した」というのは、そういうのは自慢することとは違うと思うのだが、北野高校卒のわりに、自慢することかどうかも理解できない女だったようだ。「あんたがわしに世話になったことはいっぱいあるけれども、わしがあんたに世話になったことは何ひとつとしてないし、今後とも、わしはあんたに何か世話になることは、何ひとつとして絶対にないんやからなあ。わかっとんのんか、チャンコロ。わかっとんのんか、チャンコロ。わかっとんのんか、チャンコロ!」とうちの父親は何度も何度も繰り返し繰り返し言い続けたのであるから、そんなおっさんが入っている墓の掃除なんか、やるべきではないのではないか、やらない方がいいのではないか、とも思うのだが、それでも、毎年、定期的に行って掃除をしている。 「ごくろうさ~ん!」て感じがする。おそらく、それでも、「天国」とかいう所でおっさんは今も言っていることだろう。「わしは、あんたに世話になったことは、何ひとつとしてないんやからなあ。これくらいのことはわかってもらわんといかん」と。・・ということは、やっぱり、墓の掃除なんかするべきではない、ということなのかな・・・と思うが、それでも、毎年、やっている。「ごくろうさんなことですねえ、ごくろうさ~ん、ごくろうさ~ん、ごくろうさ~ん!」・・コロナウイルスがどうだこうだ言ってる最中にもクルマで千葉県から大阪府まで走って墓の掃除してきた。「ごくろうさん」。きっと、おっさんは「天国」とかいう所で「当たり前です。そんなもん、やって当たり前です。甘ったれなさんな」と叫んでいることだろう。

  加茂家住宅加茂荘花鳥園は別ではなく、同じ敷地にあります。鳥の鴨がいるから加茂花鳥園かというと、それも関係あるのかもしれないが、加茂家住宅は庄屋さんだった家の住宅でその庄屋さんの名字が加茂さんで、今も経営者らしい。 入場料は1500円。JAFの会員証を見せれば1割引きで1350円になるようです。入口で金額を聞いて、1000円超すというのは「ちょっと高いんちゃう~う」と思わないでもなかったのですが、加茂家住宅と、花菖蒲園とアジサイなどの咲く温室と、それに水鳥のいる鳥舎、それに古寺の建物を使用しての「志戸呂焼(細井陶游)・石彫地蔵(土屋誠一) 二人展」とを見学できますから、花菖蒲園・温室・鳥舎・加茂家住宅にそれぞれ500円ずつと考えても、500円×4=2000円 ですから、全体で1500円というのは、そう高くはないのかもしれません。それだけの見ごたえはあると思います。

  加茂花鳥園がJAFの会員だと1割引きというのはいいと思うのですが、今では浜松市になった浜松市北区奥山の深奥山方広寺が拝観料をJAFの会員だと割引というのは、あれはおかしいと思いませんか? だって、宗教団体だからということで税法上の優遇を受けているはずなのですよ、深奥山方広寺は。深奥山方広寺の拝観料というのは、あれはお布施と同じ扱いだからということで税法上の優遇を受けているはずなのに、それなのに、JAFの会員だと割引・・・て変でしょ。そう思いませんか? あの深奥山方広寺の生臭ボーズども、あいつらに税法上の優遇なんてしてやるのが間違っている!・・と思いませんか?
※ 深奥山方広寺 については、
1. 八百長の通算契約棟数全国1位。遠州地方の営業の我田引水。 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201707article_1.html
2. 商品を大事に思う心。住宅営業にとっての知識。 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201707article_2.html
3. 払うべきカネを払わない者。掛川の人口は4万人ではない。 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201707article_3.html
4. 営業は自分で考えるもの+協力を求めてそれで契約になるのなら。 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201707article_4.html
5. うかつに「売れる人」と言うな。営業は大貧民ゲーム。 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201707article_5.html
6. 山門。 「もうかってる」会社が人をやめさせてよいのか。 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201707article_6.html
7. 弁天堂。 利益を生み出したのは労働。使用者に媚びる俗物寺。 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201707article_7.html
8. 椎河龍王。亀背橋。「信教の自由の侵害」を認識できないのは「病」 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201707article_8.html
9. 三重塔。 堂宇を増やすのが寺の発展なのか。 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201707article_9.html
10. 鐘楼、本堂。 裏口は嫌い。従業員の労働が化けた羅漢? https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201707article_10.html
11. 上天台舎利殿、観音堂。 「親に感謝」は「教育勅語」の思想。 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201707article_11.html
12. 開山堂、勅使門、半僧坊真殿。 本人が希望しないお守りは害がある。 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201707article_12.html
13. 七尊堂(富士浅間・春日・伊勢・稲荷・八幡・梅宮・北野)と稲荷社 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201707article_13.html
14. 不良ボーズによる宗教の強制は国民に信仰心を妨げる https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201707article_14.html 
15. (株)一条工務店の従業員の給料へつった金が、深奥山方広寺門前のじいさんとその孫の小遣いに化けた https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201707article_15.html
及び、
[第732回]『ゴルゴ13』と考える「信教の自由」。「信教の自由」を侵害する深奥山方広寺は宗教失格。「信教の自由」を侵害する営業は三流の営業。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202001article_4.html

  行き方としては、新東名高速道路の「掛川」サービスエリアの西、「遠州森町」サービスエリア・「遠州森町」スマートインターチェンジの東にある「森掛川」インターチェンジで出て、どちらの方向に行くかというと左の方向、東側、「森掛川」インターチェンジは静岡県周智郡森町と掛川市の境目にあるようですが、その掛川市側に進みます。

  インターチェンジを出て前の道は県道40号で、今、走ってきた新東名高速道路の下をくぐって、南方向に道が曲がり、道なりに進みますと、右手(西側)に天龍浜名湖鉄道(旧 国鉄 二俣線)の「原田」駅が見えてきます。鉄道の駅があっても何駅かわかりにくい場合が多いのですが、天龍浜名湖鉄道の原田駅の場合は、駅舎の側面に大きく「原田駅」と書いてありますので、クルマを運転中にちらっと見てもすぐにわかります。
  加茂荘花鳥園のホームページのアクセス http://kamoltd.co.jp/access を見ると、原田駅の少し南に北東から南西に流れる川があって、川の南側に東に行く道があり、交差点の北側、川の南側に看板が立っているので、その交差点で曲がり、看板の南の道を東に進めばいいと出ているのですが、ところが、実際にクルマで走ってみると、川の北側にも「加茂花鳥園」と書かれた看板が出ているので、「あれっ」と思って川の北側の道を曲がりそうになるのですが、川の南側だったよなあ・・と思って川を渡ると、そこに「加茂荘加茂花鳥園」はこっちですよおという看板が出ているので、川の南側の交差点の方を左折、東に行きます。
  この川は、原野谷川という川で、袋井市で太田川と合流し、袋井市と磐田市の境目付近で太平洋に注ぐらしい。橋は、たしか、原谷大橋。左折して進むと、そのうち、左に原野谷川が見え、川沿いに走ると、道が二俣に別れるが右の方がやや広いのでそちらを進むと、そのうち、右手に「加茂荘 加茂花鳥園」と書かれた看板がある。そこを右折して進むと加茂荘 加茂花鳥園につくのだが、道の手前に駐車場(加茂荘の駐車場ではない)があって、一見、それが道か? とも見えるがそうではないので、その向こう側(東側)にある方の道を行く。 それほど広い道ではないので、「アクセス」の地図を見て広い道だろうと思い込んでいると通り過ぎてしまうが看板が立っているのでわかる。それほど、クルマが多い道ではないので、あせらず、よく見て進めば行ける。突き当りが加茂荘 加茂花鳥園だが、入口と駐車場は突き当りを左折した場所にある。
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( ↑ 元庄屋さん、今もなかなかやり手なのか、「受付」の表示は日本語に英語だけでなく、中国語に訓民正音での表示もある。 )
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( ↑ 加茂荘 加茂花鳥園。 )
※ 加茂荘花鳥園 http://kamoltd.co.jp/
   同 アクセス http://kamoltd.co.jp/access
 《ウィキペディア―加茂花菖蒲園》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A0%E8%8C%82%E8%8A%B1%E8%8F%96%E8%92%B2%E5%9C%92


  静岡県の地名では、浜松と静岡なら浜松の方が西にあるというくらいはたいていの人間はわかっているが、磐田・袋井・掛川・菊川・島田というと、どっちが東でどっちが西か、静岡県人はよく知っていても、非静岡県人はよくわからない人が多いのではないかと思うが、浜松の天龍川を隔てた東側が磐田市、その東が袋井市、袋井市の東が掛川市。
  掛川市の東が菊川市で菊川という川も流れている。その東が大井川をはさんで島田市。赤堀政夫さんが冤罪を着せられた島田事件があった島田市。その東が『仕掛人 藤枝梅安』ゆかりの藤枝市で、藤枝市の東側に焼津市と静岡市がある。
  浜松-磐田-袋井-掛川-菊川-島田-藤枝-焼津-静岡 という並びのようだ。

[袋井市]  天竜浜名湖鉄道は、掛川駅から西側は浜名湖の北側を通って湖西市の新所原駅まで走っているが、かつては、掛川の西の袋井駅から北に森町のあたりまで走っていた静岡鉄道秋葉線(《ウィキペディアー静岡鉄道秋葉線》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%99%E5%B2%A1%E9%89%84%E9%81%93%E7%A7%8B%E8%91%89%E7%B7%9A )という鉄道があり、途中、「山梨駅」があって、多くの人間は「山梨」というと山梨県の山梨市を思い浮かべるが、静岡県袋井市にも「山梨」という地名があるという話が、内田康夫『箱庭』に出ている。今は廃線になったが、袋井市に山梨という地名は今も存在している。

[周智郡 森町] 袋井市の北側、新東名高速道路では、浜松浜北I.C.~遠州森町PA・遠州森町スマートI.C.~森掛川I.C.~掛川PA~島田金谷I.C.~
と続くが、森町は「森の石松」の出身地ということになっているらしい。清水次郎長の子分というと、大政・小政に森の石松・・、「清水港の名物~は、お茶の香りと男だ~て~♪」という歌に歌われる「森の石松」の「森の石松」の「森の」というのは、森とか林とか山とかはどこにでもあるわけで単に語呂合わせでついた接頭語みたいなものかと思っていたらそうではないらしく、「森の石松」というのは、静岡県周智郡森町の出身だったということで「森の石松」らしい。もっとも、《ウィキペディアー森の石松》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A3%AE%E3%81%AE%E7%9F%B3%E6%9D%BE には、《現在語り継がれている石松は、清水次郎長の養子になった天田五郎の聞き書きによって出版された『東海遊侠伝』に因るところが大きく(つまりお手盛りの伝記)、そこに書かれて有名になった隻眼のイメージは、同じく清水一家の子分で隻眼の豚松と混同していた、または豚松のことを石松だと思って書かれたとも言われており、石松の人物像はおろか、その存在すら信憑性が疑われている。》とも出ており、実在した人物か空想上の人物かもはっきりとしていないらしい。
※ 《YouTube-旅姿三人男》https://www.youtube.com/watch?v=PN21jgmHmt4
  静岡県清水市に、六代目山口組の二次団体らしい暴力団の清水一家というのが実在しているらしく(《ウィキペディアー清水一家》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%85%E6%B0%B4%E4%B8%80%E5%AE%B6 )、清水市だったかが、観光上、ふさわしくないのでその名前を名のらないでほしいと要望したところ、そもそも、清水次郎長というのはもともとヤクザであり、ヤクザがヤクザの名前を名のって悪いわけはなく、ヤクザを勝手に英雄に祭り上げておいて、その名前を使うなと言う方がおかしい、と言ったとかいう話がヤフーニュースだったかに出ていたが、たしかに、清水次郎長というのは、もともと、ヤクザであって、ヤクザを英雄に祭り上げる方が問題があるのかもしれない。

  森町は「全国京都会議」に加入している「小京都」を名のる街らしいのだが、名のって悪いとは言わんが、栃木県佐野市と栃木県栃木市の2つは、片方で「京都会議」に加入して、片方で「小江戸サミット」にも加入して、どっちやねん・・というと、売りにできればどっちでもええ・・て感じ、なんや、節操の無い・・て感じで、佐野市なんてのは加入して悪いとは言わんが、「そこまでのもんかあ」て気もしないでもないしするので、「全国京都会議」に加入している・・てのは、入って悪いとは言わんが私はそれほど評価しない・・が森町の場合は、城下町並み が昔からの町並みが残っているらしい。
※ (森町)城下の町並みhttps://www.town.morimachi.shizuoka.jp/material/files/group/9/16_sansaku_map2.pdf#search='%E9%81%A0%E5%B7%9E%E6%A3%AE%E7%94%BA+%E5%9F%8E%E4%B8%8B%E7%94%BA%E4%B8%A6%E3%81%BF'

[掛川市] 掛川市というと、なんと新幹線の駅がある、すごい! ・・と言っても「こだま」しか停まらん駅なんてしゃあない・・かというとそうでもない。最初に東海道新幹線が開通した時は「ひかり」と「こだま」が交互に発車したものだったが、今では「のぞみ」に比べると「こだま」の本数はずっと少ないし、最初に東海道新幹線が開通した時には、東京と名古屋の間の駅は、新横浜・小田原・熱海・静岡・浜松・豊橋と6つだけだったのが、今では、品川・三島・新富士・掛川・三河安城と5つ増えて11になり、名古屋―新大阪間は増えていないが、東京―新大阪の間で見ても、名古屋・岐阜羽島・米原・京都の4つを合わせると、10が15に増えて、「こだま」は、なんやら、ずいぶんと停まる電車になったような気がするが、それでも、所要時間は東海道新幹線開通時の「こだま」よりも短くなっていて、昼間は、東京発新大阪行きが1本、名古屋行が1本、掛川に停まる「こだま」は1時間に2本あることになり、10分おきのように東京駅を出ている「のぞみ」と比べると少ないとしても、1時間に2本の特急が停車するというのは、「十分、使える」駅のようだ。
  掛川にはお城があるが、掛川城て誰が城主やってん、知らんぞお~・・と思うと、そう無名の人間でもなく、《掛川は江戸から東海道26番目の宿場町。また、掛川六万石の城下町だった。土佐藩主までのぼりつめた山内一豊(やまのうちかずとよ)が最初に手に入れたのが掛川城である。・・・》(『日本の家2 中部』2004.講談社)とある。
※ 《ウィキペディアー掛川城》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8E%9B%E5%B7%9D%E5%9F%8E
  浜松にも城があり、(株)一条工務店の浜松市倉松町の本社に行った際に乗ったタクシーの運転手のおじさんが「浜松には何があるか?」ときかれると、「大阪城ほど大きくはないが浜松城がある。琵琶湖ほど大きくないが浜名湖がある。鳥取砂丘ほど大きくはないが中田島砂丘がある」と答える、と教えてくれたのだが、浜松城というのも誰が城主だったか? というと、加賀の金沢は前田家、宮城県の仙台は伊達家というようにすぐに思い浮かぶ城主がないのだが、これは、浜松城の殿さんというのが「ろくな殿さんじゃねえ」からではなく、浜松の城主になった人は、何人もが、その後、それよりも大藩の城主に抜擢されて移動したので、浜松の城主はけっこう変わっており、変わったけれども、出世して移動しているので「出世城」と言われて大変めでたいお城だとされた・・・と浜松城に行った時に見た解説書きには書かれていた。
  ちなみに、福島県いわき市のJR「いわき」駅の南西の松が丘公園に人の背より高い台座の上にのっかったでっかい全身像の殿さんがいらっしゃるのだが、1990年代、(株)一条工務店のいわき市の営業所に勤務した時、いわき市の生まれのS藤賢二さん(男。当時、40代)に、「あの像は誰なのでしょう?」と尋ねてみたところ、「知らねえ! どうせ、ろくな殿さんじゃねえ。誰も知らねえような殿さんだ。いわきの殿さんなんて、ろくな殿さんじゃねえ」と言うのだったが、調べてみたところ、それは、元磐城平(たいら)藩藩主で、畏れ多くも「受験日本史頻出人名」であらせられる、幕末の筆頭老中にして、公武合体政策、和宮降下を推し進めて坂下門外の変で尊王攘夷派から襲撃され、又、桜田門外の変で井伊直弼大老が水戸浪士に襲われて命を失った際も、御三家水戸と譜代大名筆頭彦根井伊家とで江戸の街中でガチンコ対決か・・という時、水戸家に井伊直弼の首を井伊家にお返しさせた上、井伊家より「井伊大老は病でお亡くなりになりました」と発表させ、水戸徳川家より井伊家にお悔やみの使者を出させ、井伊家より丁重なお悔やみに対してお礼を述べる、ということにして矛を納めさせた・・という有名人であり、みなもと太郎『風雲児たち』にも登場する安藤信正の像であり、「だ~れも知らないような殿さんだ」などとは、まさに、畏れ多くも「受験日本史 頻出人名」様に向かって何事であるか!?! てところであった・・・が、まあ、「S藤さんの言うことだから、そんなもんだろ」というのが いわき地区の営業所の従業員の意見だった。
  掛川城の城主としては山内一豊が受験日本史には出ないし、有名なのは嫁さんの方で「嫁はんのおかげで有名人」みたいな印象はあるが、まあ有名人として名前が出るのではないか。関ケ原の戦いで「勝つ方」についたことから、土佐藩の藩主にならせてもらった、というあたりは、わしなんかよりもずっと賢かったのかもしれん。

  グーグル地図を見ると、宮城まり子が設立した「ねむの木学園」は、この加茂荘花鳥園の山を越えた東のあたりの掛川市にあるらしい。
※ 《ウィキペディアーねむの木村》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%AD%E3%82%80%E3%81%AE%E6%9C%A8%E6%9D%91

[菊川市] 掛川市の東の菊川市の下平川(かつては、小笠郡小笠町下平川)に、黒田代官屋敷資料館がある。吉澤政己『日本列島民家の旅(6) 中部1 東海・中央高地の住まい』(1996.INAX出版)・藤井恵介監修『日本の家2 中部』(2004.講談社)にも掲載されている黒田家住宅が隣接しているが今も居住されているので、長屋門周辺のみ見学できるらしい。
※ 菊川市 黒田家代官屋敷資料館 https://www.city.kikugawa.shizuoka.jp/shakaikyouiku/kurodake_2.html
菊川市 黒田家住宅https://www.city.kikugawa.shizuoka.jp/shakaikyouiku/shiteibunkazai/kurodakejuutaku.html

[牧之原市] 栃木県のかつての安蘇郡田沼町、今では佐野市と合併して佐野市の一部になったが、旧田沼町は「田沼意次ゆかりの地」と言っていたのだが、田沼意次はどこの領主だったかというと、静岡県、遠江相良藩で、何度かの加増で5万7000石の大名になったので、《遠江国相良だけでなく駿河国、下総国、相模国、三河国、和泉国、河内国の7か国14郡にわたり、東海道から畿内にまたがる分散知行となった》(《ウィキペディア―田沼意次》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E6%B2%BC%E6%84%8F%E6%AC%A1 )らしいが、下野国の安蘇郡田沼町(現在では佐野市の一部)は領地ではなかったらしい。遠江相良とは、静岡県榛原郡相良町だったが2005年に榛原町と合併して牧之原市になったらしい。田沼意次と栃木県安蘇郡田沼町(現在は佐野市の一部)とはどう関係があるのかというと、《ウィキペディアー田沼氏》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E6%B2%BC%E6%B0%8F によると、田沼氏は、下野国佐野庄の佐野市の分流で安蘇郡田沼村を領有して田沼氏を名のったが、田沼意次はその子孫ではないかとされているが、この出自についてはたしかではないという説もあるらしい。牧之原市は、掛川市の東の菊川市の東、御前崎市の北、島田市の南にあり、牧之原市相良は、駿河湾に面した海よりにあって、牧之原市庁舎相良庁舎があり、駿河湾に面して相良港があるようだ。 《ウィキペディア―相良城》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B8%E8%89%AF%E5%9F%8E によると、《(相良城の)城跡は牧之原市役所相良支所、牧之原市史料館が本丸跡に、牧之原市立相良小学校が二の丸跡、静岡県立相良高等学校が三の丸跡にある。》らしい。
  吉澤政己『日本列島民家の旅(6) 中部1 東海・中央高地の住まい』(1996.4.30.INAX出版)・藤井恵介監修『日本の家2 中部』(2004.5.28.講談社)に掲載されている「大鐘(おおがね)家住宅」はかつての静岡県榛原郡相良町片浜、相良町と榛原町が合併して牧之原市になり、牧之原市片浜 にある。同書によると、木曜と年末年始以外、見学料を払って見学できるらしい。
※ 大鐘家住宅HP http://www3.tokai.or.jp/oganeke/
牧之原市観光案内 大鐘家 http://www.makinoharashi-kankoukyoukai.com/contents/miru_shiru/park/park_13_ooganeke.html

[島田市] 菊川市の東、藤枝市の西の島田市は、大井川の流域にあるが、赤堀政男さんが冤罪を着せられた島田事件があった場所である。

[藤枝市] 藤枝市というと、なんといっても、池波正太郎『仕掛人 藤枝梅安』ゆかりの地。 インターネットで検索すると、藤枝市のJR「藤枝」駅の北東側に「藤枝からだ回復堂」http://kaifuku.co.jp/fujieda/ という整体の店があるらしいが・・・、仕掛けの方の仕事を請けてもらえるかどうかはわからない。

[静岡市] 天龍川・大井川・安倍川・富士川を「静岡県の4つの大きな川」として言われるが、天龍川は浜松市と磐田市の境界、大井川は島田市、JRの駅では金谷と島田の間を流れている。安倍川というと安倍川餅♪ の安倍川は静岡市を流れていて、富士川は今では静岡市清水区になった旧清水市と富士市の境目を流れているようだ。
  加茂荘 花鳥園のすぐ前を北東から南西へ流れている原野谷川はその4つのどれかに合流するのかというとそうではなく、天龍川と大井川の間にあって、原野谷川は袋井市で太田川と合流して駿河湾に注ぐ。


  加茂荘花鳥園は、クルマだと新東名高速道路「森掛川」インターチェンジを出て、約5分と加茂荘花鳥園の「アクセス」http://kamoltd.co.jp/access に書かれているが、実際そのくらいの所要時間で着きます。 クルマでなければ、天龍浜名湖鉄道の「原田」駅から徒歩15~20分くらいと出ているが、おそらく、そのくらいでしょう。 他に、掛川駅からタクシーに乗るという方法があるらしいが、天龍浜名湖鉄道は単線で東京圏や関西圏の通勤電車みたいな本数はないが、それでも、昼間、1時間に2本から3本程度あるようですから、掛川まで新幹線で行ったなら、できれば、タクシーではなく、天龍浜名湖鉄道に乗ってみたい・・と思う。クルマで線路の脇を通ると、この鉄道に乗ってみたい~い・・て感じがする鉄道のひとつである。
※ 天龍浜名湖鉄道 原田駅 時刻表https://www.tenhama.co.jp/wp-content/uploads/20200314timetable08harada.pdf

  加茂家住宅は、藤井恵介監修・溝口正人・平山育夫・大野敏・中村聡樹・安東典子 執筆・和田久士 写真『日本の家 2 中部』(2004.5.28.講談社)には掲載されているが、吉澤政己『日本列島民家の旅(6) 中部1 東海・中央高地の住まい』(1996.4.30.INAX出版)には掲載はない。

  入口を入ると、土産物などが売られているスペースがあって、そのまままっすぐに進むと菖蒲園。菖蒲園の左手に旧加茂家住宅があり、入口を入った所で左に行くと温室があり、温室の右寄りに鳥舎がある。
  「建築探偵団」としては、最重要として見学したかったのは旧加茂家住宅だったのだが、高速道路を足柄サービスエリアから走ってきたので、とりあえず、トイレをお借りしたいと思うと、トイレは温室の奥にあるようだったので、先に温室の方を見学させてもらうことにした。後から案内図をよく見ると、菖蒲園の側にも1か所、トイレがあるようだった。
  加茂家住宅の前に菖蒲の花が咲く庭があるということか・・・と思っていたら、花菖蒲園は「庄屋さんの家の付属の庭」程度のものではなく、相当の規模のものだ。さらに、温室には、アジサイなどの花がいくつも咲いて、実にきれい。
  とりあえず、今回は、先に温室の方の写真を掲載したい。↓
DSC08535.JPG
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  温室は付録ではなく、菖蒲園も付録ではない規模であることを考えると、加茂家住宅+菖蒲園+温室+鳥舎 としての入場料と考えると、1500円というのは高くないかもしれない。

  それで・・・、ここのトイレで気づいたのは、小屋組みが「洋小屋組み」ではなく「和小屋組み」だった、という点。
DSC08532.JPG
↑  男声用トイレとはいえ、トイレの内部は撮影しちゃまずいか? とも思ったが、小屋組み部分ならいいだろう、と思って撮らせてもらった。洋小屋組みというのは洋風の家の小屋組みの意味ではなく、外国からとり入れられた屋根の組み方で、トラスに組んで三角形の構成になっているのに対して、和小屋組みはそうなっておらず、一般に、洋小屋組みの方が強度があるとして、今では、全国的に、外観が洋風・和風を問わず、洋小屋組み、もしくは洋小屋組みの変形のようなもので施工されている場合が多く、和小屋組みを見たいと思ってもなかなか見れない。私がこれまでに見ることができた和小屋組みの建物というと、奈良の東大寺の大仏殿の左手前のトイレの屋根が和小屋組みだったが、今では見ることが少なくなった和小屋組みだが、加茂荘 加茂花鳥園では、加茂家住宅が18世紀、江戸時代からの建物であることと併せて、温室のトイレの小屋組みも和小屋組みで作ったもの・・かどうかわからないが、今では見ることが少なくなった和小屋組みで作られていた。

  鳥舎の鳥にエサをやりたい人は、エサを購入して鳥にあげることができる。
DSC08536.JPG
なるほど・・・。 ↑ の写真は網の外側から撮影したものだが、普通、鳥の正面から撮影したいと思ったもなかなか正面をカメラの方に向けてくれないことが多いのだが、この鳥は、正面を向いて撮らせてくれた。 鎌倉の山のリスは人の姿を見ると逃げるのに対して、ロンドンのハイドパークのリスは人を見ると近寄ってくる。ハイドパークで、当然、逃げるだろうと思ったリスがリスの方から近寄ってくるので、え? と思ったのだが、エサをやる人がいるので、それで、ハイドパークのリスは人を見ると近寄ってくるようになったのだと思う。 ここの鳥も、正面からの姿を撮らせてくれるというのは、ここに来る人は鳥に危害を加える人はなく、エサをくれる人がくるからかもしれない。
DSC08539.JPG

  次回、菖蒲園・・・

※ 加茂荘花鳥園HP http://kamoltd.co.jp/
《ウィキペディアー加茂花菖蒲園》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A0%E8%8C%82%E8%8A%B1%E8%8F%96%E8%92%B2%E5%9C%92
掛川市観光協会 加茂荘花鳥園 http://www.kakegawa-kankou.com/kanko/guide/facility_detail.php?_mfi=158
静岡県観光協会 加茂荘花鳥園 http://hellonavi.jp/detail/page/detail/1581

  (2020.6.13.)

☆ 加茂荘花鳥園・加茂邸(掛川市)見学
1.「森掛川」I.C.より加茂荘花鳥園。温室と鳥舎。 〔今回〕
2. 花菖蒲園と長屋門。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202006article_3.html
3.加茂家住宅(1) 正玄関、土間、大黒柱・梁、庭の池と亀島と花。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202006article_4.html 
4.加茂家住宅(2) 座敷、広縁・濡縁、廊下交差箇所の納まり。「差鴨居」「本鴨居」「胴梁」https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202007article_1.html?1594081790
5.加茂家住宅(3) 床の間 2か所。一般の柱と同材同寸法の床柱と長押の関係。床の手前の横の位置の付書院。きれいな襖絵。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202007article_2.html
6.加茂家住宅(4) 加茂家住宅の神棚は「竈の神さま」なのか。「浜松流神棚」を他地域に押しつける一条の営業。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202007article_3.html
7.加茂家住宅(5) 窓の格子。「理由のある」桟の作りと「理由のない」作り。味噌蔵・米蔵。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202007article_4.html
日本の家 (2) 中部 - 藤井 恵介, 和田 久士
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自己分析―心身医学からみた人間形成 (講談社現代新書 166) - 池見 酉次郎
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《 ・・時にはそのような自分が情けなくて、「オヤジの墓石をけたおしてやろう」と思うこともあるという。・・・》
( 池見酉次郎『自己分析』1968.10.16.講談社現代新書。 ↑ )
箱庭 (徳間文庫) - 内田 康夫
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島田事件と赤堀政夫 - 赤堀闘争全国活動者会議
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ともだちねむの木そして私〈1〉 (1981年) (集英社文庫) - 宮城 まり子
ともだちねむの木そして私〈1〉 (1981年) (集英社文庫) - 宮城 まり子
《「ねえ、今きいたんだけど、変なおじさんとおばさんが来たんだって?」
 一瞬、今までうれしそうだった声が止まりました。
「まり子さんね。びっくりして電話してしまったけど、ごめんね。変な人だったのね」
 少し間があって、答が返ってきました。
「アノネ、ボクタチ遊ンデイタラ、オバサンガイッタノ」
「うーん」
「ひとみチャンニ ” アンタ、手ガワルイノ” ッテ。ソイデ、ボク ” チガウヨ ” ッテ、イッタノ」
「そうか、えらいなー」
・・・・
「ソイデネ、みっチャンニ ” アンタ、名前、ナンテイウノ” ッテ、イッタノ」
「まあ! それで?」
「ソシタラ、みっチャンネ、オオキナコエデ ”バカ” ッテイッタヨ」
 私は、涙があふれました。・・・
なんと心ない大人たちでしょう。からだにハンディキャップを持っていると、一目で分かる子に、そんな問いをするなんて。かわいい顔をしているからって、しゃべれない子に名前をきくなんて。”あんた、手が悪いの? かわいそうね” ”名前は?” 子どもたち、どんなに傷ついたでしょう。
  六年で、やっと私のことを「マ、リ、コ」と小さな声でしかいえない子に「バカ」といわせるなんて。やっとしゃべれるようになった、少ない言葉の中に「バカ」を入れさせるなんて。・・・ 》
( 宮城まり子『ともだち ねむの木 そして私 1』1981.3.25.集英社文庫 ↑ ) 

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