加茂家住宅(掛川市)(3)床の間 2か所。一般の柱と同材同寸法の床柱と長押の関係。床の手前の横の位置の付書院。きれいな襖絵―加茂花鳥園【5/7】
[第777回]
加茂家住宅には、床の間が2か所ある。 なおかつ、その2つが正反対の向きに設けられている。 北側は、明治以降に増築されたものらしいので、南側の方が江戸時代からのものらしいが、この建物は南東というのか、東南東というのかを向いて建っているので、南側の元から存在する方の床の間は、真北ではないが、南ではない方を向いていることになる。
まず、南側の方の床の間は、↓


↑ 左手に床の間があり、右手に床脇として棚がある。 棚は、違い棚があってその右側の下に「地袋」の収納があり、上に引違の「天袋」の収納がある。『新感覚の和風住宅』(1985.2.15.講談社)所収の 小林盛太「和風住宅の構成とディテール 和風のよさを見直そう」に掲載されている、床脇棚の一覧表を見ると、違い棚の右側の下に地袋の収納があって、違い棚の上にも天袋の収納がある、こういうタイプを「袋(ふくろ)」と言うらしい。

↑ 奥行きが浅い「板床」になっている。 向かって左側に床がある「正勝手」の配置だが、南側の10畳の客間の裏側の位置にあり、この部屋の北側(床の間と逆側)に廊下を経て中庭があり、そちらから、いくらか光は入るが、左右に部屋があり、床の間に左右から自然光は入らない。 その点で、少々、変則的と言えなくもない。
床の間と床脇棚の間の壁の下部に「狆潜り(ちんくぐり)」がある。
※ 《図解建築用語 狆潜り》https://w-wallet.com/tinkuguri.html
《タクミホームズ提供 建築用語集 狆潜り》http://www.kenchikuyogo.com/312-chi/017-chinkuguri.htm
※ 《 数寄屋造では書院造と異なり、床・書院が単独に造作されることは時代とともに少なくなった。床の中に書院が入り込んだ形式も考案され、もはや出文机(だしふづくえ)から発生した書院の機能を離れて、単なる床回り意匠の一種と化している。また、棚側の壁下方をあけて ちんくぐり としたり、目線どおりの床柱を切断して床と棚との融合を図った例も多い。》
( 藤井正一・小原二郎編集『インテリアコーディネーター ハンドブック 技術編』(1994.1.10.インテリア産業協会)では、「第2章 インテリアの歴史」「近世」 )
※ 《 なお、床の間と床脇棚との境の壁に、採光のため開けられる孔を、狆潜り(ちんくぐり)または犬潜りといいます。》
( 『新感覚の和風住宅』(1985.2.15.講談社)所収、 小林盛太「和風住宅の構成とディテール 和風のよさを見直そう」)

床の間の上には落とし掛けがあるが、長押は床の間の上にはない。 床脇棚の上には、落とし掛けだけの施工と長押もまわす施工があるようだが、この加茂家住宅の南側の床の間では床脇棚の上にも長押はまわっている。そして、床柱と長押がぶつかる部分では、長押の方が床柱の上まで来ている。↑ 但し、この加茂家住宅の南側の床の間では、床柱はその部屋の一般の柱と同材で同寸法のものが使われており、長押が床柱の上まで来ているとはいえ、一般の柱と同材・同寸法のものの上まで来ている。
(株)一条工務店 で福島県いわき市の営業所に在籍した時、いわき市の住人から、(株)一条工務店の住宅展示場の床の間はおかしい、と指摘されたことがある。どこがおかしいかというと、床の間があって、その右側に床脇棚として違い棚が設けられていたが、違い棚の上の長押(なげし)が床柱とぶつかる部分において、長押が床柱の上に来ているが、床柱を下から上まで見せて長押は床柱の手前で止めるべきであるのに、せっかくの床柱の上に長押が来て見えなくなっており、これでは床柱がかわいそうだ・・ということだった。 それで、私は住宅雑誌の写真や有名建築物・歴史的建築物の和室・床の間の写真やらをずいぶんと調べたのだが、住宅雑誌に掲載されている、現在、住宅建築業の会社が施工した建物の写真では、床脇棚の上まで長押をまわす場合と、床脇棚の上は落とし掛けだけで長押はまわさない場合があり、長押をまわす場合は、床柱と長押がぶつかる部分では、長押が床柱の上までくる施工の写真の方が多かったが、床柱の手前で長押を止める施工のものもあった。 (株)一条工務店のカタログには長押はカリンのムクの床柱の上(手前)までくる施工をしたものが掲載されており、(株)一条工務店の住宅展示場はどこでも、長押の方が床柱の上(手前)までくる施工にしていた。
(株)一条工務店のいわき市の営業所に勤務していた、私より古くから在籍していた営業担当者何人かにきいてみたところ、いわき市および福島県浜通り地区においては、床柱を下から上まで見せて、長押は床柱の手前で止める施工が普通だったらしかった。相当古くからの家を建替えるお宅で、それまでの家を見せてもらったところ、いわき市および福島県浜通り地区の家で古くからの家は、どこでも、床柱を下から上まで見せて、長押は床柱の手前で止める施工になっていた。 公開されている家屋では、記憶があいまいになってしまったが、茨城県北茨城市の野口雨情生家も、たしか、床柱を下から上まで見せて長押は床柱の手前で止める施工になっていたような気がする。
但し、(株)一条工務店で仕事をしている大工さんと話をすると、このあたりでは、床柱を下から上まで見せる施工が普通なんだ、と言う人と、「弟子の頃から長押の方を上に持ってくるものだと教えられたがなあ」と言う人があった。
床柱ではない普通の柱の場合ならば、長押が柱の上までくるのは当たり前で、そもそも、長押(なげし)とは何かというと、今は化粧材になっているけれども、坂本功『木造建築を見直す』(岩波新書)によると、もともとは、長押(なげし)は構造材で、柱だけを建てたのでは、地震・台風その他で、横方向の力が加わった時、簡単に倒れてしまうが、倒れないように柱と柱をつないだもので、柱に穴をあけて木材を通したものが「貫(ぬき」で、柱の外側から貼り付けて柱を固定したものが「長押(なげし)」だったのだ。 だから、本来の構造材としての長押(なげし)で、床柱ではない構造材としての一般の柱であれば、長押は柱の外側から柱の上(部屋から見て手前)まで来るように施工するのは当然だったのだ。
しかし、床柱は構造材ではなく、見せる・魅せるためのものであり、そうであるからには、構造材としての柱とは扱いは違っておかしくない。 だから、床柱は下から上まで見せる(魅せる)もので、長押をその上まで持ってくるべきではないと考える人がいてもおかしくないわけだ。
それで、実際には、これは、それぞれの地域によってやり方が違ったようなのだ。 茨城県の北部から東北地方の特に太平洋側は、床柱を下から上まで見せて、長押は床柱の手前で止める施工にするのが普通という地域が多いようだった。
(株)一条工務店という会社は、「売れない営業のグチ10箇条」などというものを、けっこう高そうな材質の樹脂に印刷して、各展示場に送りつけていたのだが、そこに、「売れない営業のグチ10箇条」の1つとして「浜松流はここには合わない」というものがあったのだ。ということは、全国で、「浜松流はここには合わない」と実感していた営業がいた、ということだ。 そういう発言に対して、「浜松流」ではなく、それぞれの地域に即したものを作り、それぞれの地域に即したやり方でやるようにしよう・・とは(株)一条工務店の経営者は考えず、全国でそう言う者がいても、それでも、全国に「浜松流」を押し広げようとしたようだった。
しかし・・・、いわき市および福島県浜通り地区の住民からすると、(株)一条工務店の内部で、「浜松流」と「非浜松流」の間で「仁義なき戦い」が繰り広げられていて、「浜松中心主義」「浜松独善主義」「浜松流帝国主義」の側が「浜松流はここには合わない」からそれぞれの地域に即したようにやってもらいたいと発言する者に対して、それを黙らせようとして「売れない営業のグチ10箇条」などというものを作成して全国に送りつけたとか、他の地域より安い値段でダンピング販売をして他の地域ではやらないテレビ広告をドカンとやっている静岡県中西部・愛知県の営業の側、「浜松流」の側が、「浜松流はここには合わない」からそれぞれの地域に即して考えるようにしてほしいと会社の為を思って発言する「非浜松流」に対して、自分たちはダンピングとテレビ広告で売った上で「売れない営業」だと罵っている・・なんてそんなことは知らないのだ。福島県いわき市で建てる施主からすれば、いわき市で建てる以上は、いわき流で建ててもらえるものだ、と思い込んでいるのだ。
ところが、(株)一条工務店の名古屋南営業所の所長だった近藤路夫は「浜松でいいものは、日本全国どこでもいいに決まってるんだ。こんな常識もわからんのかあ!」と絶叫するのだった。「そうじゃないと思いますよ、浜松でいいもので、他の地域でもいいものもあると思いますが、浜松ではよくても、他の地域ではいいと思ってもらえないものもあると思いますよ」などと言おうものなら、引きつけ起こして激怒するのだった。「そういうことを言うからいかんのだあ! 浜松でいいものは、東京でも大阪でもいいに決まってるんだあ。八寸角の大黒柱は東京でも大阪でもいいに決まってるんだあ! 東京でも大阪でも、20坪の敷地でも30坪の延べ床面積の家でも、二間続きの和室は絶対に必要なんだあ! こんな常識もわからんのかあ~あ!」と絶叫するのだった。この話を東京圏の知人何人かに話してみたのだが、全員から「その人、頭、おかしいのと違うのお~お?」「その人、酔っ払いか何かなのお~お?」と言われた。ところが、《「浜松でいいものは、日本全国どこでもいいに決まってるんだ。こんな常識もわからんのかあ!」と絶叫する側の人たち》が(株)一条工務店という会社では主流派で、そういう人たちは自分たちのことを「一条工務店の土台を築いてきた人たち」と自称しており、「浜松流はここには合わない」と会社のためを思って発言する者に「売れない営業」だと罵り、「売れない営業のグチ10箇条」などというものをけっこうカネかけてカネのかかった素材で印刷して全国の営業所に送りつけたのだった。そういう「ほとんどビョーキ」みたいな人が勢力を持っている会社だったのだ。「浜松でいいものは全国どこでもいいに決まってるんだあ、こんな常識もわからんのかあ~あ!」と絶叫する人に、それは違いますよと理解してもらおうとしても、無理。今は昔、5・15事件の時、犬養毅が「話せばわかる」と言ったという話だが、(株)一条工務店の「浜松流」の人たちには、話してもわかってもらうことは不可能である。「浜松流」の人たちには、なんかもう、精神安定剤の大量投与とか電気ショックとかロボトミーとか、なんか、そういうことでもしないと「浜松でいいものは日本全国どこでもいいに決まってるんだあ~あ」という思想を改めさせることは不可能の状況であった。彼らはビョーキなのだ、ビョーキ!!!
※ 《 (1932年(昭和7年)5月15日)17時30分頃、警備も手薄の中、海軍の青年将校と陸軍の士官候補生の一団がピストルを振りかざして乱入してきた。襲撃犯の一人である三上卓は犬養を発見すると即座にピストルの引き金を引いた。
しかし、偶然にも弾が入っておらず不発に終わり、その様子を見た犬養は両手を上げて、有名な文句「話せば分かる」を口にして将校たちを応接室に案内した。応接間に着くと「靴ぐらい脱いだらどうだ」と述べ、彼らに煙草を勧めたが、三上は「何か言い残すことはないか」と返した。その言葉を聞いた犬養は何かを言おうとしたが、興奮状態にあった山岸宏が「問答無用、撃て」と叫び、別働隊であった黒岩勇が応接間に突入して犬養を銃撃した。同時に三上も発砲して弾丸は頭部に命中した。 ・・》
( 《ウィキペディア―犬養毅》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8A%AC%E9%A4%8A%E6%AF%85 )
その「ほとんどビョーキ」なのか、「正真正銘ビョーキ」なのか、「その人、酔っ払いか何かなのお~お?」と言われるような「浜松流」の人たちは、床の間・床脇の作り方についても、「浜松流は全国どこでも正しい」「浜松流は全国どこでも喜ばれるはずだ」という思想を持っており、その結果、いわき市でも、「黙って座れば浜松流」の施工になっていたのだ。しかし、営業担当者は、それではいわき市および福島県浜通り地区の人は納得しないということを知っている場合があり、営業担当が工務課(工事担当)と設計担当と「コーディネーター」にそれを言い、工場にもそれを指示して、床柱の室内側には長押を組み込むための仕口を機械プレカットで加工しないように依頼して、工事現場でも、長押は床柱の手前で止まる施工になるようにしていたのだった。
・・しかし、これを言うと(株)一条工務店の「浜松流総本舗」は怒るのだが、本来は、浜松において「黙って座れば浜松流」はいいが、非浜松地域においてまで「黙って座れば浜松流」というのは好ましくないはずなのだ。浜松においても浜松流でないやり方で建てたい人ははっきりとそれを言うべきだが、浜松で浜松流をやりたい人には「黙って座れば浜松流」でいい。しかし、いわきでは「黙って座れば浜松流」ではなく、いわきにおいては「黙って座れば、いわき流」であるべきだろう。 営業担当者が努力して、その地域にあった施工になるようにする、というのではなく、営業担当者との契約ではなく会社として(株)一条工務店は契約してもらっているはずなので、営業担当者がどうであるかにかかわらず、会社として間違いないものができるように対処しないといけないはずで、会社として、非浜松地域においてまで「浜松流」のやり方の施工ではなくそれぞれの地域の実状に沿ったものにしないといけないはずだった。
床の間について、今里隆『これだけは知っておきたい 建築用木材の知識』(1985.5.6. 鹿島出版会)には、
《床柱:床柱は一般に角柱が格調高いものとされ、間内柱(その部屋の一般柱)と同材とする場合は一般柱より太目の良材を選び、異種材は違和感のない色調や木肌のものを選ぶのが品位もあり無難であるとの見方である。
しかし、装飾的な見地や強調から各種丸太材、唐木類の角柱や造形柱、変木柱、竹柱など幅広く選材されるようになった。
落し掛け:内法材と同材で成を増し寸したものがよく用いられるが、床柱同様に様々な材が選ばれるようになった。
一般に見付け柾目、下面板目として用いられる。
床かまち:床の形式やデザインにより多様であるが一般には、塗かまち(ウルシ、カシウ)、堅木材の生地かまち、磨丸太の面皮・太鼓仕立てかまちなどがある。床かまちを用いず地板扱いすることもある。地板にはデザインにもよるが、ヤニ松、天唐、欅、楠、桑、ケンポナシ、米松などの生地仕上げ(透明・着色ラッカー仕上げ)およびカシュウや漆の塗物などがある。》
と出ている。
《 間内柱(その部屋の一般柱)と同材とする場合は一般柱より太目の良材を選び、・・》と書かれているのだが、↑ その部屋の一般柱と同材とする場合でも、《一般柱より太目》のものではなく、一般柱と同寸のものを使用する場合もあるようで、この加茂家住宅においても、同材・同寸法の柱が入っており、私がこれまでに見たものでは、岐阜県高山市の「陣屋」の床の間が、やはり、一般の柱と同材・同寸法のものを使用していて、長押は他の柱と同材・同寸法の床柱の上まで配置されていた。
※ 高山陣屋の床の間については、
[第352回]《 高山陣屋(群代官所)[1]床の間。「真向き兎」の釘隠し。朝市。~高山シリーズ第3回(2)》https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201510article_2.html
[第748回]《高山陣屋の長押が内側まで周る床脇とそうでない床脇。少年期の山岡鉄舟像、赤い中橋。演歌「高山の夜」は実状に合わない。》https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202002article_13.html
長押(なげし)は、もともとは、柱と柱をつないで固定するための構造材だったとしても、今現在では化粧材であるとともに、けっこう昔から化粧材になっている。 床の間の上に長押をまわすことはないが、床脇棚の上には、落し掛けは設けても、長押はまわす場合と長押は床脇棚の上にはもってこない場合があるようだ。
床脇棚の上に長押をまわす場合に、床柱と長押がぶつかる部分で、床柱を下から上まで見せて長押は床柱の手前で止めるべきなのか、構造材としての長押の施工法のように床柱の前まで長押をもってくるべきなのか。 「全国どこでも浜松流の一条工務店」では床柱の上まで長押を持ってくるようにしていたということは、遠州地方では、茨城県北部から東北地方の太平洋側の多くの地域とは異なり、長押を床柱の上まで持ってくる施工が、その地域の床の間の作りであるということか・・・と思っていた。それを確認すべく、遠州地方の「民家」「古民家」で見学させてもらえる所にぜひ行って見たいと思ってきたのだった。
静岡県掛川市というと、遠江地方。 最近では東海道新幹線に掛川駅ができたが、「こだま」しか停まらない駅なんて・・と思うとそうでもなく、「こだま」は東海道新幹線が開通した時には「ひかり」と「こだま」が交互に発着していたのが今では「のぞみ」が圧倒的に多くなったものの、それでも、「こだま」は東京駅発では、新大阪行と名古屋行の「こだま」が1時間に1本ずつ、だから、東京・品川・新横浜から掛川に新幹線で行こうとすると、1時間に2本の「こだま」が出ていることになり、それなりに使える電車・使える駅のようだが、場所としては、浜松と静岡の中間。遠江の浜松と駿河の静岡との中間の遠江。 その遠江に建つ加茂家住宅に来て見ると、やっぱり、床柱と長押がぶつかる部分は「一条浜松流」と同じく、長押の方が床柱より前に来ていたのだった。
しかし・・・。これだけで断定までしては良くないように思う。 なぜかというと、床柱と長押がぶつかる部分で、長押を床柱の前まで持ってくるべきか、長押は床柱の手前で止めるべきかというのは、その場所・地域だけで決まるのではなく、同じ地域でも両方の施工法が並存している場合もあり、床柱がどういう床柱なのかということと、床柱の脇が床脇棚なのか押入か出入口になっているかによっても違いはあるように思うのだ。
加茂家住宅においては、↑ の南の方の床の間も北の方の床の間も、床柱は、床柱として他の柱と異なる樹種のものとか、特殊な柱を入れているのではなく、他の構造柱と同材で、しかも、同寸法のものなのだ。 もしも、床柱に他の柱と同材・同寸法のものを入れている場合においては、その部屋の他の柱の上を長押がまわっているのに、床の間の脇の柱だけ、長押が柱の上まで来ないでその手前で止められていたのでは違和感があるはずだ。 だから、床柱として他の柱と異なる樹種の木か同材でもひとまわり大きい材を使用した場合ならば、床柱の手前で長押を止めるというのはわかるが、床柱と言ってもその部屋の他の柱と同材・同寸法のものを使用している場合には、長押は他の柱の部分と同様に柱の上まで来るようにする方が自然で、柱の手前で長押を止めたのでは不自然です。
今、『新感覚の和風住宅』(1985.講談社)や『やすらぎの「新和風」特選』(1993.9.30.ニューハウス出版)に掲載されている床の間の写真を見てみると、たとえば、『やすらぎの「新和風」特選』(1993.9.30.ニューハウス出版)に掲載されている、設計:中山俊雄建築設計事務所「渋川の家(群馬県)」では、床柱は黒檀の床柱で「一条浜松流」と同じく長押が床柱の前まで来ているのですが、これなどは、いわき市で建てていただいたOさんが「どう見ても変だよ」と言われたように、黒い色をした黒檀の床柱の上より5分の1くらいの所で、白木の長押が黒い床柱の上に来ているというのは、それが普通だという先入観を持っていなければ、たしかに違和感があります。 黒檀の床柱であれば、白木の長押は床柱の手前で止めるか、もしくは、床脇棚の上は落し掛けのみで長押は床脇棚の手前で止めるかの方が自然な感じがするように思います。 それに対して、やはり、『やすらぎの「新和風」特選』(1993.9.30.ニューハウス出版)に掲載の設計・施工:殖産住宅「伊豆長岡の家(静岡)」では、床柱は「杉面皮付き」で、長押は床柱の前、中ほどまで来ていますが、「杉面皮付き」の床柱と長押の色合いが似ているので、こういう場合は、手前で止めても前まで持ってきても不自然ではないのではないか。殖産住宅が施工したように、中ほどまで持ってくるというのが一番自然かもしれないと思いました。 『新感覚の和風住宅』(1985.講談社)掲載の設計:住友林業住宅事業部の床の間も、殖産住宅のものと同様に、「杉磨丸太(みがきまるた)」かと思われる床柱の手前、中ほどまで長押を持ってきていますが、杉磨丸太など、白っぽい針葉樹の床柱を使用した場合には、長押は床柱の手前で止めなくても、前、中ほどまで持ってきても不自然感はないのではないでしょうか。 色合いが長押とそう変わらない色合いでも、絞り丸太などごつごつした床柱の場合では手前で止めた方がいいかもしれません。
もうひとつ、 『新感覚の和風住宅』(1985.講談社)・『やすらぎの「新和風」特選』(1993.ニューハウス出版)に掲載の床の間の写真を見ると、柱が見える真壁和室だけれども、長押は省略した和室があります。 長押を最初から省略している場合には、長押と床柱がぶつかる部分でどうするか、という問題は出てきません。 小堀住研(株)の和風の家でも、長押を省略する場合や、あえて、細いものを使用した場合などあったのですが、(株)一条工務店の場合は、名古屋南営業所の所長の近藤路夫さんなどは「何でも太いものがいいに決まってるんだ。こんな常識もわからんのか!」などとおっしゃるのですが・・・、わかってたまるか! それこそ、数寄屋と言われる建物においては、長押は省略したりあえて細いものを使用することは珍しくもなんともない。常識でもないものを常識だと言いはられて、「こんな常識がわからんのか」などと言われてたまるかいな! そんな非常識な認識を常識だと思っているような人を(株)一条工務店が「所長」にならせているというのが、そもそも、常識でないのだ! 「なんでも太いものがいいに決まってるんだ」というのは、東京圏の来場客から「やっぱり、お宅は浜松ねえ」とか「何でもぶっといのがいい・・とか、そういう発想は、やっぱり、イナカねえ~え」とか言われたものそのもので、こういうことを言うと、近藤路夫さんとか「浜松流一条オリジナル」は「そういうことを言うからいかんのだあ~あ!」と引きつけ起こして叫ぶでしょうけれども・・・、

「てんかん」のことがよくわかる本 (健康ライブラリーイラスト版) - 中里信和
・・・ひきつけ起こして叫ばれても、怒るのならそう言った来場客の後を追いかけていって「そういうことを言うからいかんのだあ~あ!」と怒ってもらいたいもので、言った人間に怒らずに言われた人間に怒るのは筋違い(「すじかい」ではなく「すじちがい」)です。それが「すじちがい」だということも、そんなこともわからんのかあ~あ!!! と言ってやりたいところですが・・・、なんか、レベルの低い話・・という気もする。ともかく、「浜松流一条オリジナル」を相手にすると、ほんと、疲れる!!!
近藤路夫さんの思考というのは「イナカの農家風」のことであり、それも、農家でも「数寄屋風をとりいれた京風感覚の家」とかではなく「いかにもイナカという農家風」の家の「常識」のことだったのです。これ、本当のことですからね。こういうことを言うと、「一条浜松流」は怒るでしょうけれども、本当のことになぜ怒るのか。
〔 ・・ちなみに・・、桜木さゆみ さんの漫画によると、ち〇こ も、ぶっとい方がいいとは決まってないらしい。「なんでも太い方がいいに決まってるんだあ」という近藤路夫さんの見解は、その点でも正しくないようだ・・。 〕
「浜松という後進国の外資系企業」においては、「浜松とその周囲、静岡県中西部から愛知県」という本国の人間は、それ以外の地域、箱根の関より東、鈴鹿の関・不破の関より西の地域の人間、いわば、植民地の人間に対しては、ともかく怒れば、植民地の被支配地域の人間は、帝国主義本国の人間の機嫌を一生懸命とろうとするだろう・・・とそれに味を占めているみたいな、・・・そんな感じです。
(株)一条工務店の初代社長の大澄賢二郎は1996年にドバカ息子が浜松市在住の女性を刺し殺して刑務所に入った際に社長を辞任し、会長とか相談役とかそういったものにもならなかったはずだが、社長ではなく会長でも相談役でもない大澄賢二郎が、2011年、東日本大震災の後、300億円を浜松市に「防潮堤の費用」と称して「寄付」し、浜松市長で慶應大ア法学部卒の鈴木康友が大絶賛したが、あれなども、「全国で儲けた金から浜松市に寄付する」という奇妙なことをしていたのだが、箱根の関より東、鈴鹿の関・不破の関より西 の植民地で稼いだカネを、浜松市を中心とした静岡県中西部・愛知県といった本国に持ち帰る・・という「浜松および静岡県中西部・愛知県を本国とする外資系企業」の特徴が出ているようにも思える。
「数寄屋風」は長押を省略したりあえて細いものを使ったりしますが、別にそれは「安物」ではないのですが、ところが、「一条オリジナル浜松流」からすると、「なんでも、太いものがいいに決まってるんだ。こんな常識もわからんのか」ということになるようで・・・、結論として、そういう人には「逆らうとうるさいから」言わない方がいい・・・ということになります。《「浜松流一条オリジナル」の「常識」》は世間の非常識です。
北側の明治になってから増築したらしい部分の方の床の間は、↓


↑ 8畳の部屋と10畳の部屋が東西に2室並んでおり、西側の8畳の部屋に床の間があり、その西側にある廊下に付書院が突き出していて、廊下の西には中庭があります。
こちらの床の間は、奥行きが3尺ある畳床で、床の間の左側に付書院がありますが、右側は床脇棚ではなく押入れになっています。

↑ 右側の押入れの上から来る長押は、ここでも床柱の上まで来ていますが、ここでも、床柱はこの部屋の他の柱と同材・同寸法のものが使われています。
左側の付書院ですが、床の間の左側に付書院を設ける場合、付書院は床の間の位置からその手前にかけての場所に設けるものか、それとも、床の間の横には付書院はなく、床の間の手前の位置の左側に付書院を配置するものなのか。 (株)一条工務店の住宅展示場は床の間の横から手前にかけて付書院を設けていて、カタログに掲載の和室の写真もそうなっていた。住宅雑誌に掲載されている床の間の写真を見ても、床の間のすぐ横から手前にかけて付書院があるものが多いように思いました。 それなら、床の間のすぐ横には付書院はなくて、床の間の手前の左側に設けるものではないのか・・というと、そうでもないようなのです。
岐阜県高山市には、日下部家住宅(日下部民芸館)と吉島家住宅が南北に並んでいますが、日下部家住宅の主座敷の床の間・吉島家住宅の床の間は、ともに、床の間のすぐ横から手前にかけて付書院があるという施工ですが、高山陣屋の大広間の床の間は、床の間のすぐ横には付書院はなく、床の手前の部分の左側に付書院がある施工になっています。
※ 高山市 日下部家住宅の床の間⇒[第736回]《日下部民芸館(高山市)とともに考える床の間と付書院。付書院は床の間のすぐ横からか手前からか。付書院部分の広縁はどうなるか。床脇の上に長押はまわすべきか、まわさないものか。縦格子は良くても横桟は衛生的でない、て飲食店経営者はわからんかな・・ー日下部民芸館2》https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202002article_1.html
高山市 吉島家住宅の床の間⇒[第743回]《吉島家住宅2-「女性的」は架構だけでない。床の間と長押が床脇の内部まで周っている床脇。みやびな色の釣り床。》https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202002article_8.html
高山陣屋の大広間の床の間⇒[第352回]《高山陣屋(群代官所)[1]床の間。「真向き兎」の釘隠し。朝市。~高山シリーズ第3回(2)》https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201510article_2.html

↑ 左の図のように、床のすぐ横には付書院はなく、床の手前の左側に付書院があるのが高山陣屋の大広間の床の間。
右の図のように、床のすぐ横から手前にかけて付書院があるのが日下部家住宅・吉島家住宅の床の間でした。京都の高台寺の本坊だったかの床の間も、こちらの施工でした。
静岡県掛川市の加茂家住宅の北側の方の床の間には付書院がありますが、それは、↓

↑ 高山陣屋の大広間の床の間と同じく、床のすぐ横の部分には付書院はなく、床の手前の横に付書院があるという施工になっています。
↑ の付書院ですが、障子の部分の意匠もなかなか素敵ですね。
付書院は廊下に突き出ているのですが、廊下部分はどうなっているか・・・というのが、「普通の人」は気にならなくても建築探偵団としては気になるところですが、それは ↓

↑ ここの場合、廊下の幅がそれほど広くないので、かつ、床の間のすぐ左の部分の北側で東西方向の廊下とぶつかるようになっているため、廊下に出っ張る部分をそれほど長くしたくなかった、ということも、床の間のすぐ横には付書院はなく、床の手前の横に付書院があるという施工にして理由としてあるかもしれません。
南側の正玄関から西の和室は客間として使用されることが多かった部屋らしく、正玄関は来客の入口だったということですが、係員の方から聞いた話では、来客にはけっこう高名な絵師がいたという話でしたが、↑ の北側の床の間の右側の押入れの襖や天袋の襖の絵なども素敵な絵が描かれています。どっかの住宅会社の適当に選んだような襖とは違います。
↑ 床の間のある部屋の天井は竿縁天井で、竿は床の間と床刺しにならないよう並行に取りつけられています。
南側の床の間には床脇棚があるのに対して、北側の床の間は右側は押入で床脇棚はありませんが、左側に付書院があります。床の奥行は北側の床の間の方が深くて畳床であり、南を向いていますし、こちらの方が主たる床の間かな・・という感じがしました。
床の間のある部屋の天井は竿縁天井ですが、東隣の10畳の部屋は格天井で、御先祖様かと思われる女性の額がかかっています。 ↓

↑ 床の間のある和室が一番の主座敷か、とも思ったのですが、天井を見ると、床の間のある部屋は竿縁天井であるのに対して、その東側の部屋は格天井ですから、どちらが格上なのかは何とも言えません。
北側の床の間も、長押は床柱の上まで来ていますが、こちらも床柱は部屋の他の柱と同材・同寸法のものですから、長押が床柱の上まで来ていても、それは、同材・同寸法の床柱を使用しているからそうなっているということも可能性として考えられますから、加茂家住宅だけを見て、床柱の上まで長押が来るのが遠州流とまで決めつけることはできません。
ところで。(株)一条工務店では、床柱は、特に、絞り丸太にしたいとか、磨丸太にしたいとかいう希望を言わなければ、カリンのムクの角材で、お施主様が紫檀がいい、黒檀がいいと言われるなら、差額を出してもらって紫檀・黒檀とか鉄刀木(たがやさん)・槐(えんじゅ)とかを入れることもありましたが、その地域の施工がどうかということと別に、長押と同じ色合いの杉磨丸太とか、もしくは桧・杉といった和室の柱と同じく針葉樹の白木の柱を床柱にした場合であれば、長押は床柱の上まで来る施工でもいいけれども、カリン・紫檀・黒檀・鉄刀木・槐といった自然木の角材の床柱にした場合には、もともと、そういう床柱は構造材ではありませんし、長押は床柱の上まで持ってくるよりも、床柱の手前で止める施工にした方が、せっかくのいい床柱を下から上まで見せる(魅せる)ことができて、良さそうに思えます。
《「黙って座れば浜松流」を全国に押しつけるの大好き人間症候群》みたいな人が、(株)一条工務店の浜松の本社や静岡県中西部から愛知県にかけての地域にはいっぱいいたのですが、地域の問題と別に、床柱に使うものがどういうものか、という視点で考えてみる、ということもやっていいと思うのですが、「浜松流」にはそういう思考をする頭はないようです。
私は、福島県いわき市の営業所に赴任してすぐの契約客のOさんから言われて、それ以来、床の間は、床柱と長押がぶつかる場所では、長押を床柱の手前で止めるようにした方がいいか、長押を床柱の前まで来る施工にした方がいいかと、すべての契約客に確認してどちらにするかを決めてもらうようにしました。いわき市および福島県・茨城県北部のお施主さんは、誰もが床柱の方を下から上まで見せるようにしてもらいたい、と言われました。
ところが・・・。 営業担当者で社歴が浅い人の場合、こういうことを知らない人がいるのです。 そして、私の知人で、自宅を(株)一条工務店で建てて、アパートを旭化成(株)で建てた人がいるのですが、(株)一条工務店は担当者がだめならだめだが、旭化成(株)は担当者がどうであるかにかかわらず会社として対応する、という点が違った、と言います。 但し、だから、すべてにおいて旭化成(株)の方がいいということではなく、旭化成(株)の人間は、自分の所は大企業だ・有名企業だという意識があって、何かとえらそうにしている・・という点は感じ悪かったそうです。だから、絶対にどっちの方がいいということはないということでしたが、ともかく、(株)一条工務店という会社は、会社との契約でありながら、担当者にすべてまかせきりというのか、どんなに真面目な担当者でも、どんなにしっかりした担当者でも、人間のやることには失敗はあるはずなのですが、会社として対応しようという姿勢が欠けている会社でした。まるで、営業担当者がすべて管理してとりはからって、利益は会社経営者が持っていくような印象すらある会社でした。 営業本部長のA野T夫さんが懇意にしていたフィリピーナのおねーちゃんの所には、(株)一条工務店で契約してくれたお客さんが払ったお金から、いくばくかのお金が行っていた・・のかな・・・、会社としての対応をしない会社なのに・・・と考える人間は少なからずあったはずです。
1990年代、福島県いわき市にて、私が担当のお施主様から、建築現場にいわき市で(株)一条工務店で自宅を建築中だという方が見えて、「ちょっと、申し訳ないんだけど、お宅の家を見せていただけませんか」と言われるので、「いいですよ」と言って見てもらったら、和室の床の間を見て、「ここの家はきっちりとできているじゃないか。どうして、うちの家はここの家みたいにやってもらえないんだ」と怒っていたけれども、怒られてもうちはどうしようもないのだけれども、「おたくの営業さんは、こうしたいと言えばやってくれましたか」と言うから、「やってくれましたよ」と答えたら、「なんで、うちの営業はここの営業みたいにやってくれないんだ」と言ってられました・・と話されたことがあった。「お互い、一生懸命、努力してやったもんねえ」と言われたが、実際、お施主様も私の方も相当努力をして打ち合わせをおこなったが、床柱を下から上まで見えるようにして、長押は床柱の手前で止める施工にしてほしいと、見に来られた方も言われたらしいが、担当営業のK野T夫さんから「このやり方しかできません」と言われて、それならしかたがないかと思って、長押が床柱の上まで来る施工になったが、しかし、どう考えても、床柱を下から上まで見せないというのはおかしいと思って、それで、他の家はどうなっているのか見せてもらいたいと思われたらしいが、見ると、自分の家には担当営業が床柱の上まで長押がくるやり方しかできませんと言ったのに、見せてもらった家はそうではなく床柱が下から上まで見える施工になっていた、「できるじゃねえか。なんで、うちの家にもこういうようにやってくれないんだ」と言われた、ということだった。
ああ、そういうことがあったのか・・・と思っていたら、その営業担当のK野T夫さんから「あれ、困ってるんだ。なんで、うちの家もあの家みたいにやってもらえねえんだ、とお施主さん、怒ってるんだ」と聞いた。 その点については、私の方が営業担当としてきっちりと対応していたのですが、但し、この点について、K野T夫さんを強く責めるのは少々酷なところもあります。K野T夫さんは、親の代からいわき市の住人ですが、多くの人間は、床柱と長押がぶつかる部分で、長押が床柱の前まで来る施工が正しいのか、長押は床柱の手前で止めるものか、それほど気にしていないと思うのです。もしくは、ある程度以上の住宅建築業の会社であれば、会社としてしかるべく対処しているだろう・・と思い込んでいるのではないか。 ところが、(株)一条工務店という会社は、「会社としてしかるべく対処しているだろう」などと思うと、甘い!・・・という会社だったのだ。 私の場合は、1990年代前半に同社に入社した時点で、その頃、日本の住宅建築業の会社の中では、(株)一条工務店は無名の会社で、決して、「大手」「一流」企業ではなく、「浜松の地方工務店」で、創業20年未満の会社で、なおかつ、入社してから会社の内部を見ても、思っていた以上に未熟な会社で、整備されていないところだらけの会社だったので、「会社としてしかるべく対処しているだろう」という推測をするということはなかった。ところが、K野T夫さんはいわき市の住人であり、いわき市においては、競合になる会社というと、地元の工務店とか浜通り地区で比較的手広く建てている会社とか、そういった所が多く、私がいわき市に赴任した1993年においては、いわき市には住友林業も東日本ハウスもなかったのであり、在来木造を志向する人が多い地域においては、(株)一条工務店は「大手」で、かつ、いわき市においては比較的「有名」でもあったのだ。だから、そういう会社なら、「会社としてしかるべく対処しているだろう」という気持になる人がいても不思議はなかった。しかし、「会社としてしかるべく対処しているだろう」というような会社ではない、ということは、同社にある程度以上の期間、在籍していた人間なら、おのれの体で理解したが、その時点でK野T夫さんは入社してまだ3年も経っていなかったのではないかと思うので、(株)一条工務店という会社を実際よりはるかに優秀な会社みたいに勘違いしてしまっていたのではないか。
東京などの都市圏とは違って、福島県では床の間とか神棚・仏壇といったものは、これは相当重視されるものであり、又、都市圏においては、伝統に反することをしても、施主がそれを好むならいいではないか・・と考えるものでも、「地方」においてはそうもいかないところがあり、親戚の人などが来て見て、「なんだべ、これはあ」・・・となることが考えられ、せっかく、新築したのに、「こんなおかしな家あるけえ」と言われたのでは情けない。だから、営業担当者は、せっかく自分を担当として契約してくれたお施主様にそんな思いをさせないように、細心の注意を払って対応しないといけないし、又、普通、会社としての契約であって営業担当との契約ではないはずなのだから、たとえ、営業担当がミスをすることがあっても、会社としてカバーする体制があっていいはずなのだが、ところが、(株)一条工務店という会社は、営業担当は野球にたとえれば「外野手」。それより後ろには誰もいない。もし、営業がミスをしたなら、エラーして後ろにそらせた球は営業が取りに行かないと誰も取る人間はいない・・というそういう会社だったのだ。
K野T夫さんが担当だったそのお施主さんの場合は「うちも、こんな感じにしてほしいと言ったのに、できませんなんて言いやがって」と言われたということだったのだが、K野T夫さんは、私がお施主さんから床柱を下から上まで見えるように施工してほしいと言われた時に、同社の自分より社歴が古い従業員や工務担当などに何人もに尋ねて、それで、いわき では、床柱は下から上まで見えるように施工するのが普通なんだ・・ということを知り、あらかじめ、言ってもらえば、(株)一条工務店でもそういうように施工することはできるということも、工務担当からも工場の人間からも聞いて確認して、そのように処理したのだが、「こんな感じにしてほしいと言ったのに、できませんなんて言いやがって」という言葉がお施主様の口から出るということは、K野T夫さんは、(株)一条工務店は住宅展示場において長押が床柱の前まで来る施工にしていたことから、そのやり方しかできないものだと決めつけて、そう言った可能性もありそうにも思えるのですが、そうではなく、工事が始まってから、お施主様が言われ、その時点では、すでに床柱に長押とかみ合わされる部分で仕口加工がされていたので、それを床柱の手前で長押を止めると、床柱に彫られた仕口部分をどうするかという問題が出てくるので、長押を床柱の前まで持ってくるようにするか、そうでなければ、床柱に機械プレカットで彫られた仕口部分に、何か他の木で埋め木をして表面を着色するか、そうでなければ、モルタルをつめて表面を着色するか、何かそういう工夫をすることになったでしょうけれども、K野T夫さんとしては、すでに、機械プレカットで床柱の長押とかみ合わされる部分に仕口加工がされている以上は、「こうしかできません」と言ったのかもしれない。どちらにしても、営業担当者にもいろいろな人がいるわけで、営業担当個人の能力と努力に頼った家造りというのは、それは住宅建築業の会社としては本来的ではないはずだ・・・が、こういうことを言うと、営業本部長の天野隆夫から「そんなこと言うならエスバイエルに行けよお」と言われる、という会社だった。
又、「(特に施主が指定しないで)黙って座れば浜松流」というのは、浜松で「(特に施主が指定しないで)黙って座れば浜松流」なら悪くないのかもしれないが、浜松とは異なる場所においては「(特に施主が指定しないで)黙って座れば浜松流」ではなく、いわき においては「(特に施主が指定しないで)黙って座れば いわき流」になるようにしておくべきで、営業担当者がうっかりした場合でも、浜松においては「(特に施主が指定しないで)黙って座れば浜松流」だが、いわき においては「(特に施主が指定しないで)黙って座れば いわき流」となるようなシステムにしておけば、特に問題とならなかったはずだ・・・と思うのだが、そういうことを言うと、またもや、営業本部長の天野隆夫から「そんなこと言うならエスバイエルに行け」とか、「うちの会社が気に入らんのなら辞めて出ていけ」とか言われることになるので、言えない! せっかく、会社のためを思って言っても、営業本部長がそういう男であり、難儀な会社である。往生しまっせ、ほんまあ・・・。
それで、私が担当だったお施主様は、自分の所はきっちりと「いわき流」でやってもらえたと喜んでおられたのだが、もしも、こういうことが営業本部長の天野隆夫の耳に入ったならば、普通、営業本部長ならば、「(特に施主が指定しないで)黙って座れば浜松流」というのは、浜松で「(特に施主が指定しないで)黙って座れば浜松流」なら悪くないのかもしれないが、浜松とは異なる場所においては「(特に施主が指定しないで)黙って座れば浜松流」ではなく、いわき においては「(特に施主が指定しないで)黙って座れば いわき流」になるようにしておくべきだと考えて、そうなるように対処するものだ・・・と思うところだが、ところがどっこい、(株)一条工務店ではそうはいかない。営業本部長の天野隆夫から私の方が呼びつけにされて、「こらあ! おまえのおかげで、他の営業が迷惑しただろう。おまえが、うちではこのやり方しかできませんと言って浜松と同じやり方でやっておけば何の問題もなかったのに、おまえが、いわきでは床柱を下から上まで見せるのが普通だとか言ってそんなことするから、だから、他の営業が迷惑したんだろうが! よく、気をつけろお!」と怒鳴りつけられるところであっただろう。・・しかし、私は、あらかじめ、(株)一条工務店でも、お施主様の希望が床柱を下から上まで見える施工にしてほしいというものならば、そのようにできるかと工務課(工事担当)にもプレカット工場にも確認した上で進めたのであって、会社からそれはできませんと言われたものを私が業務命令違反で勝手なことをしたのではないのだ。K野T夫さんがどうだったのかはわからないのだが、営業の中には、ものぐさな人というのもいて、私なら自分を担当として契約してくれたお施主様にはできる限りいい家を造ってあげたいと思って、できる限りの努力をするところを、少しでも変わったことを希望されると、「うちではできません」と言って建ててしまう・・ということをやる人間というのがいたのだ。そういう人間はどこにでもいると思う。普通、営業本部長ならば、自分が勤めている会社で、そういう対処ができるかどうかを確認もしないで、おのれがめんどうくさいから「できません」ということにして建ててしまうというような営業がいたならば、そちらに注意するものではないのか、と思うのだが、ところが、営業本部長の天野隆夫という男はそうではなく、きっちりと対処した人間の方に「何やってんだ、おまえはあ!」と怒鳴りつける男だった。「何やってんだ、おまえはあ」という文句は営業本部長の天野隆夫こそ言われる必要がある文句だったのではないか。
但し、床柱を下から上まで見えるようにという施工は、いわき市の営業は、ある程度以上在籍している人は誰もが配慮してやっていたことであって、私だけがやっていたことではなく、所長の草野さんもやっていたことでもあったのだ。だから、さすがに、いわき市のある程度以上在籍している営業は誰もがやっていたことで所長もやっていたことを、それを、「そんなもの、『このやり方しかやりようありません』と言って建ててしまえばいいだろうがあ! 何、考えてんだ、おまえはあ!」とは言わないということも可能性としては考えられたが、それでも、私にだけ「何やってんだ、おまえはあ! そんなもの、すでに契約して契約金の100万円を振り込んでもらってるんだから、『このやり方しかできません』と言って適当に建ててしまえばいいだろうが。おまえが、床柱を下から上まで見せる施工になんてするものだから、だから、K野T夫さんが迷惑しただろうが。よく、気をつけろお!!!」と私にだけ怒鳴りつけるという可能性も可能性として十分にあった。なんで、ものぐさに、本来、できるものを「このやり方しかできません」と言って建ててしまうような人間、契約金の100万円振り込んでもらったからには、「このやりかたしかできません」と建ててしまうような「振込め詐欺」みたいなヤツが悪いのではなく、きっちりと対処する人間の方が怒鳴りつけられなければならんのか・・・というと、それは、営業本部長の天野隆夫自身が「振込め詐欺みたいなやつ」だったからだ。〔⇒[第680回]《「契約前は何でもできますと言って、契約後は適当に建ててしまえ」というのは営業上何かプラスになるのか?》https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201902article_10.html 、[第715回]《客宅で「ピンポンダッシュ」を勧める・自分の「特殊意志」を「会社の意思」だと考える営業本部長。「反動」的経営の会社。きれいで新しい浜松展示場vs汚れていて床鳴りのする東京展示場―― 「一条の家は完璧にすばらしい」の反証》https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201908article_7.html 〕そういう会社であり、そういう男が営業本部長になっている会社だった。
1990年代、私が福島県いわき市の営業所(展示場)に在籍した5年間、福島県浜通り地区の所長だった草野さんは「外様の所長」と言われていて、いわき市の材木会社の猪野建材と浜松の(株)一条工務店との共同出資会社の(株)一条工務店南福島 が、共同出資会社を解消した時に、(株)一条工務店の方に移った人であるのに対して、福島県中通り地区の所長だった片山は「大澄社長の腰巾着」と従業員の間で言われる男で、「腰巾着」は「外様」と「外様」が所長の地域の営業所に勤務している従業員をなめていた。かつ、自分こそ「大澄社長の腰巾着」であったくせして、栃木県地域の所長だった五十嵐さんを「天野部長の腰巾着」と悪口を言っていた。私は五十嵐さんはそんなに「腰巾着」という感じではないと思っている。むしろ、片山こそ「いかにも腰巾着」である。
福島県では和風で建てる人はけっこう多かったのだが、ところが、(株)一条工務店は浜通り地区には和風の展示場を作っても、中通り地区には和風の展示場を作らず、その結果、中通り地区の営業所長の片山は、郡山市などで建てる人に、契約だけさせて、「和風の展示場はいわき にありますから、いわき の展示場を見に行って、いわき の営業に説明してもらってきてください」などと言って、大量に既契約客を私がいた展示場に送り込んで、私に片山の担当の既契約客の接客・応対をさせた。かつ、私は、誰の担当のお客様でも(株)一条工務店の会社のお客様なんだと考えて、自分が担当でないお客様でも決して手を抜くことなく応対してきた。その上で、来場して私が接客・応対した後、郡山の営業所に電話を入れて、その人が来場したことを伝えたのだが、ところが、 普通、住宅建築業の会社において、自分が担当の既契約客を他の展示場の営業に接客してもらったならば、「どうも、ありがとうございました」なり「どうも、すいません」なり何なりと礼を言うもので、接客してもらうばっかりで礼も言わないとなると、「あの野郎!」「あの野郎が担当の客は見るなら勝手に見てもらえばいいことで応対しなくていい」ということになってしまう危険がある。だから、礼はきっちりと言わないといけない。又、営業所長は自分が所長になっている営業所の営業担当者にきっちりと指導するべきものであり、それが所長の仕事のはずであった。ところが、(株)一条工務店の福島県中通り地区の所長であった片山は、片山自身が、契約だけさせた既契約客をいわきの私がいた展示場に送り込んで、私に既契約客に説明をさせて、それで自分が担当の契約だということにして建てさせるというのを常套手段・得意技にしていたのだった。「やらずぶったくり」というのか、それで、契約棟数が全国で何位だとか言われても、なんだか、プロ野球にたとえれば、毎試合、先発投手が4回まで投げてリードしている試合に、5回・6回の2イニングだけ投げて、7~9回まではまた別の投手に投げさせて、それで勝ち星だけ稼いでいるような、そんな感じのことを片山はやっていたのだった。それが「大澄社長の腰巾着」で「大澄社長のお気に入り」だったのだ。
「それだけ、契約とってるんだから」などと言って擁護しようとする人がいたが(「腰巾着」の「腰巾着」になろうとする人がいたが)、それは逆立ちした論理である。「多くの契約を取っているから、個々の契約客に対して、少々、雑な対応になってしまう場合がある」というケースもあるかもしれないし、営業は担当のお客様にきっちりとした対応をするべきだが、同時に、1件だけきっちりと対応すればいいというものではなく、数もまた多くの契約を獲得することが求められる仕事であり、内容と数の両方を同時に実現するというのがなかなか難しい、ということはあるだろう。しかし、片山の場合はそういう問題とは違うのだ。「多くの契約を取っているから、だから、1~4イニングを他のピッチャーが投げてリードしている試合の5~6回を投げて、7~9回はまた他のピッチャーに投げさせて、勝ち星だけ獲得せざるをえなくなっている」のではなく、「1~4イニングを他のピッチャーが投げてリードしている試合の5~6回を投げて、7~9回はまた他のピッチャーに投げさせる」というやり口によって「多くの契約を取った」という結果に持って行っていたのだ。会社のためを思って、どんな営業が担当の契約客でも会社のお客様だと思って誠意を尽くして対応してきた結果、そいつに勝ち星(契約)がつくような試合の7~9回ばっかり大量に投げさせられてきた者に向かって言う文句ではないはずだ。プロ野球の中継など見ていても、先発投手が途中で降板して、後半を他の投手が投げて押さえて勝ったというような試合では、勝ち星がつく投手は、試合終了後、リリーフ投手の所に礼を言いに行っているのがテレビに映ったりしているが、片山はそういうことをしたためしがない。そして、福島県中通り地区の社歴の浅い営業は、その片山のやり口を真似ていたのだった。「それだけ、契約とってるんだから、契約だけしてもらって、契約客の仕事を他の営業に押しつけるのは当然の権利だ」などとそういうことを言うのなら、片山が担当の既契約客の応対はしない方がいいということになる。給料を獲得して生活できるようにするために(株)一条工務店に勤めているのであって、片山の犠牲になるために(株)一条工務店に勤めているわけではないのだから。 「それだけ、契約とってるんだから、契約だけしてもらって、契約客の仕事を他の営業に押しつけるのは当然の権利だ」などとそういうことを言う勝手なやつ、勝手な主張をするやつには協力しない方がいいし、そういう勝手なヤツに協力するのは会社のためにならない。
多く契約を取っているから片山は勝手なことをやってもいいのだ、という主張をされるのならば、それなら、取れなくしてやればいいということだよな! 浜通り地区の営業に害を加えて自分だけ契約とる中通り地区の所長というのがそういう主張をするのなら、そいつには協力しないようにして、そいつがそれほど契約を取れないようにしてやれば、そうすれば、その身勝手な男は「多くの契約を取っている男」から「たいして契約取れない男」に変わるはずで、かつ、《「たいして契約取れない男」なのに勝手なことやっている男》になるはずだ。
1997年、巨人がロッテから獲得したヒルマンという投手が、開幕から体調不良で休み続け、シーズンの半ばになってやっと先発登板したという試合で(ヤクルトのブロスと投げ合った試合で、結果はヤクルトの勝ち)、テレビの野球中継で、アナウンサーが「巨人の選手としては、きょうは、長く休んでいたヒルマンの今季初登板ですから、『ヒルマン、頑張れ』『ヒルマン、大丈夫か』と、みんな思っていたでしょうねえ」などと言ったのに対して、解説者の江本孟紀が「は~あ? そんなこと思うでしょうかねえ、そんなこと。普通、そんなこと、思いますかあ~あ? そうじゃなくて、『なんやねん、高い給料とってるくせしてからに、こんな時期まで休みやがってからに。ゴロでも飛んで来たらヒットにしたろか』と、普通、そう考えるものと違いますかねえ。そんなもん、『ヒルマン、頑張れ』『ヒルマン、大丈夫か』やなんて、そんなこと、思いますかねえ」と言うのだったが、さすがは江本(^^♪ ええこと言う! ・・と思ったものだ。それと同様だ。片山は、自分がそんなふうに思われているということを自覚しているのか、いわき市の和風の展示場に送り込んでくるのは既契約客であって、未契約客は絶対に来させなかったのだが、どちらであろうが、どんな営業が担当のお客様であっても「会社のお客様」だと思えばこそ、誠意をもって応対したが、しかし、「会社のお客様」という面があっても「片山の客」という面だってあったわけで、「片山の担当の客」と考えるならば、「ゴロでも飛んできたら、ヒットにしたろか」という気持になる、そういう態度を片山は取りまくっていたのであり、自分だけでなく中通り地区の営業にそういう態度を取らせていたのだった。それを「うまいやり口」のように片山は思っていたようだが、そうだろうか。それは「うまいやり口」なのか? 営業というのはそういうものだろうか? 小堀住研(株)に入社した時、「社内営業」ということを言われたことがあるのだが、他の営業に「ゴロでも飛んできたらヒットにしたろか」という気持にならせるのが「社内営業」なのか? そうではなく、何何さんの担当の見込客なら、なんとか契約になるように協力してあげたい・・、何何さんの担当の契約客なら、問題なくいい家ができるように協力したい・・という気持に他の営業になってもらえるようにとするのが「社内営業」と違うのか? 「ゴロでも飛んできたらヒットにしたろか」という気持にひとにならせる男を(株)一条工務店の経営者は「一条工務店の土台を築いてきた人たち」と称賛していたのだが、実際、私も少しくらいなら、「所長なんだからしかたがないか」くらいに思ったかもしれないが、片山の場合は、はるかに限度を超えていた。
ある時、いつものように、片山が契約だけさせて、「いわきに和風の展示場ありますから、いわきに行って、いわきの営業に説明してもらってきてください」と言って、いわき市の私がいた展示場に送り込まれた既契約客が、その後、電話をしてきて、「郡山の展示場で片山という男を担当で契約したんだけれども、あの片山という男は、いったん、契約したが最後、何もしない男だ。あの男を担当で契約して失敗した。この間、いわきの展示場に行った時に対応してくれた人(私のこと)なら、あの人ならきっちりとやってくれると思うので、担当をあの人に変えてほしい」と言ってきた人があったようだ。実際、片山なんかに担当されてあんまりいいことはないと思う。その話は後から聞いたことで、その電話があった時には、電話を取ったM上が片山の機嫌を取るつもりで話を握りつぶしたようだった。
M上は中通り地区の所長で「大澄社長の腰巾着」の片山の機嫌を取るつもりで話を握り潰したようだったが、しかし、もしも、その際、その話を電話を取った者が握り潰さずに、中通り地区の所長が担当のお客様が担当を変えてくれと言ってきているということで、営業本部長の天野隆夫にでも言ったならば、どうなったか・・・ということを推測すると、おそらく・・・、営業本部長の天野隆夫から私の方が呼びつけにされて、「おまえのおかげで、片山所長が迷惑しただろうが。よく、気をつけろお!」と怒鳴りつけられることだろう。天野隆夫という男はそういう人間であり、(株)一条工務店という会社はそういう会社である。営業本部長というのは、警察から見た検察・裁判所と似ている。警察が送検したものを検察が吟味して、検察が起訴したものを裁判所が判断すると思っている人が多いのではないかと思うが、実態はそうではなく、実態は、警察の下請けが検察で、検察の下請けが裁判所、警察の孫請けが裁判所である。それと似ている。営業所長にならせてもらっている男がやっていることに、客から苦情が来たならば、営業本部長はそれに対処すべき立場であろうとたいていは考えるのではないかと思うが、 (株)一条工務店の営業本部長というのはそういう人間ではなく、営業本部長の方が営業所長のテカ(手下)であり、役に立たない。
1992年、東京都江東区潮見の東京展示場に来場された、東京に在住で浜松で建てるという方について、その方の勤め先の従業員が(株)一条工務店で建てられたことがあるということを理由にして、何の関係もない茨城県土浦営業所の所長だった田中義一が「そのお客さんは土浦営業所で担当させていただきます」と言って横取りしたあげく、有望見込客を何週間も放置して、お客様から苦情が来たということがあったが〔⇒[第709回]《ひとの追客中有望客を横取りして放置する「一条の土台を築いてきた人たち」、それに加担する営業本部長ー「一条工務店の家は完璧にすばらしい」の反証12》https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201907article_7.html 〕、その際も営業本部長で東京営業所長を兼任していた天野隆夫にそれを話したが、営業本部長の天野隆夫は、全然何の関係もないのに、人の追客中の有望見込客を横取りした上で、それを何週間も放置したアホの側についた。(株)一条工務店の営業本部長というのは、いわば、 ””営業本部長の給料タダ取り”” みたいな人間である。さらに、その後、東京都葛飾区で私が追客中の見込客が建替えを考えていた所の近くで、土浦営業所の所長の田中義一が担当で建てた入居者宅があることから、天野隆夫は「それを田中所長に話したらどうだ」などと言ってきたが、要するに、天野隆夫は東京営業所や松戸営業所で追客中の見込客である程度可能性がある人がおれば、土浦営業所の田中にくれてやれということを言っていたわけであり、そういう男が東京営業所長・松戸営業所長になっていたのである。(株)一条工務店の営業所長で比較的多くの契約を取ったという人というのは、結論として他の営業の契約を横取りしてきた人であり、会社が横取りさせてきた人である。
福島県中通り地区の営業所長の片山が、中通り地区の見込客に契約だけしてもらって、「和風の展示場がいわきにありますから、いわきに行って、いわきの営業に説明してもらってきてください」と言って、既契約客を私がいた展示場に次から次へと送り込むというのを得意技にしていたのだが、年末になると、「今年度の契約棟数上位優秀者」だとか言って名前が提示されたが、片山の契約には私は相当貢献していたはずであり、プロ野球でも、勝利数だけではなく、セーブとかホールドとかいうものが今では評価されるが、片山は私がセーブやホールドを相当してあげたおかげで、「勝利」(契約)をあげることができたはずであり、片山みたいに、自分が担当の既契約客を接客してもらっても、「すいません」も「ありがとう」もまったく言わない礼儀知らず・恩知らずの男には、そんなヤツの担当客なんて相手にすることない・・と考える人もいたようだが、私は、どんな営業が担当のお客さんでも、会社のお客様なのだ・・と思って誠意をもって接客・対応したが、そう思ってたとえ自分が会社から評価されなくても尽力すると、この会社の経営者は「恩を仇で返す」態度を取るようだった。
福島県中通り地区の営業所長の片山がそういう態度を取るものだから、中通り地区の営業には、片山の真似をする人間というのが何人も出てきたようだった。いわき地区の営業所にいたM上が「〇〇ちゃん、〇〇ちゃんだって、もう、3年目じゃないか。所長にされるのならまだしも、郡山の営業所の入社して2か月目か3か月目のヤツに、なんで、そんなことされなきゃならないんだ」と言うのだったが、その「入社して2か月目か3か月目のヤツ」というのが所長の片山のやり口を見て、それを真似るのだった。本来、所長というのは、自分が所長になっている営業所(展示場)の営業が、そういう、「ともかく、契約しておきましょう」みたいな契約をさせた上で、「いわきに和風の展示場がありますから、いわきに行っていわきの営業に説明してもらってきてください」と、他の展示場に既契約客を送り込むといったことをするなら、「そういうことをやってはいけません」と注意するもので、それが所長の仕事のはずだが、ところが、(株)一条工務店の場合は、総務部長の天野雅弘が「管理したり指導したりするのは所長の仕事と違います」と言い、それなら、所長というのは所長の役職手当をもらっているはずだが、その役職手当は何のためにもらってるんだ・・ということになるはずだが、天野雅弘は「売るのが所長の仕事であって、管理したり指導したりするのは所長の仕事とは違います」と言うのだったが、売ることに対しては、歩合給で報酬をもらっているはずであり、それなら、所長の役職手当はタダ取りではないか。 1990年代の後半の後半、栃木県佐野市の展示場に移動した時、栃木県地域の営業所長だった五十嵐さんは、過去には自分が営業担当として仕事をしていたが、私が栃木県に移動した時点では、自分自身では営業の仕事をしていなかった。 「自分が売るのが所長の仕事であって、管理したり指導したりするのは所長の仕事とは違います」と総務部長の天野雅弘が言ったわけだが、そうすると、「管理したり指導したりするのは所長の仕事とは違います」であって、なおかつ、自分自身では営業担当の仕事をやらなくなった栃木県地域の所長だった五十嵐さんというのは、やることは何もないということになるではないか。 何もやらずに、給料だけ取るのか? 「管理したり指導したりするのは所長の仕事と違います」と総務部長が言うわりには、発言はするが、発言はするが責任は取らないというのが(株)一条工務店の「所長の仕事」だと総務部長は言いたいということなのか? 私は、たとえ、賃金を構成する部分に歩合給の部分があったとしても、自分の歩合給につながらない行為でも、会社の為に必要なものはやるのが従業員というものであろうと思ってこの会社で働いてきたが、そう思って勤務すると、そう思って勤務する人間というのは、逆に「歩合給をもらえない部分でも働くやつ」と思われてなめられてしまうようだった。
(株)一条工務店は、浜通り地区には、和風の展示場も「洋風」の展示場もあったが、中通り地区には「洋風」の展示場ばかりで和風の展示場を作らず、福島県は和風で建てる人はけっこうあったのに、なぜ、中通り地区に和風の展示場を作らないのか、それは、契約だけさせて、「いわきに和風の展示場がありますから、いわきに行っていわきの営業に説明してもらってきてください」と言って私がいた展示場に既契約客を送りつけるという片山の作戦として、中通りには和風の展示場を作らなかったようだ。「腰巾着」だけあって、汚い男である。 いわき地区の他の営業の既契約客が私が勤務する展示場に来場して私が接客するのはかまわない。逆もあるのだから、お互い様である。いわき地区の草野所長が担当の既契約客を私はずいぶんと接客したが、おそらく、草野さんが私が担当の契約客の接客をしてくれた数よりも私が草野さんが担当の既契約客を接客した方が多いと思うが、草野さんはそれだけ多く契約を取っていたということもあるし、私が担当の既契約客を草野さんが接客してくれた後、そのお客さんから話を聞くと、「この間、所長さんに接客してもらったんですけど、・・・というように言われたんです」といった話を聞くと、なるほど、あの人はそういう話し方をするのか、さすが、年間全国1位の棟数を契約してもらったこともある人だけのことあるなあ・・と思うものもあったから、だから、少々、私の方が多く接客することがあってもそれをどうこう言う必要はない。しかし、いわき地区の営業同士の場合は、「お互い様」だが、中通り地区、特に郡山の営業の場合は、いわき地区には和風の展示場も「洋風」の展示場もあるので、他の展示場も見てみたいという場合、既契約客は、たいてい、いわき地区の他の展示場を見に行き、郡山の展示場を見に行く人は少ないのに対して、郡山の営業が担当の既契約客は、郡山には「洋風」の展示場はあっても和風の展示場はなく、それでいて、郡山付近でも和風で建てたい人は相当あったことから、片山とその真似をする郡山の営業は、契約だけ郡山でさせた上で、「いわきに和風の展示場がありますから、いわきに行って、いわきの営業に説明してもらってきてください」と言っていわき市の展示場に既契約客を送り込むことはあっても、逆はなかったのです。だから、郡山の片山と片山の真似をする郡山の営業は「やらずぶったくり」だったのだ。それではいかんでしょ・・・ということを理解して対応するのがそれが所長の仕事と違うのか?!? ということだが、それを片山はその逆をやっていたのだった。
いわきの営業が担当の既契約客が郡山の展示場を見に行くことは少なかったが、いわき市の住民が中通り地区に行くことはあり、たまたま、郡山市に入ったら(株)一条工務店の展示場があった、と思って見に入る人はおり、1997年だったと思うが、私が担当の既契約客で間取りを決定して、仕様打ち合わせを控え、それぞれの部分で使用するものを決めようという段階だった人が郡山市に行った時に、総合住宅展示場があるのを見かけて、そこに(株)一条工務店の展示場があり、そこの屋根材がいいと思ったので、その屋根材が何か、名称・品番を聞いていこうと思い、郡山のその展示場の営業に、自分はいわき市で契約していわき市で建てる予定になっていて、間取りなど図面は決定して、仕様打ち合わせをおこなう予定が入っているのだけれども、屋根の瓦を何にするか考えているのですが、この展示場の屋根は何と言うものですか・・と尋ねたらしい。すると、郡山の営業はどうしたか? 今まで、あれだけ、何軒も郡山の営業の担当の既契約客の接客をいわき市の展示場でやってきてあげた世話になってきた私が担当の既契約客が、この展示場の屋根材は何ですか、と尋ねたのに対して、「瓦です」・・・そう答えやがった・・・そうな。 営業所長の片山のやり口をその営業も真似たものであろう。「瓦です」て、瓦なのはしろうとでも見ればわかるのだ。これから、自分の家で使う瓦をどれにするか決めようという人が、この展示場の瓦はどういう名称のどういう品番のものですかと尋ねているのに、「瓦です」とは、その答え方は何だ! 今まで、郡山で契約だけさせて、「いわきに和風の展示場がありますから、いわきに行っていわきの営業に説明してもらってきてください」と言っていわきの私がいた展示場に既契約客を送りつけてきた私に世話になりまくってきた郡山の展示場の営業がその態度は何だ!・・というところだが、それが片山のやり口だったようだ。それが「大澄社長の腰巾着」と言われる男のやり口だったようだ。
さらに。1994年、私が担当で契約してもらった人で会津若松市で建てる方の「仕様打ち合わせ」を郡山の「コーディネーター」がいわき市でではなく郡山市でやりたいと言うので、契約客を連れて郡山市の展示場まで行って行ったが、それまで、郡山の営業が担当の既契約客がいわき市の私が勤務する展示場に来場した時には何軒も接客・応対してあげた上で担当営業に連絡してあげて、又、自分以外の営業が郡山の営業が担当の既契約客の応対をした時には、それもまた、何軒もお茶を入れて出してしてきた私が、数からすれば、ずっと少ないのに、私が担当の契約客を、いわき市で打ち合わせをするのではなくお客さんを郡山市に連れて来てほしいと要求したのは郡山の「コーディネーター」であって私や私の担当客が郡山で打ち合わせをやりたいと希望したわけではないのだが、郡山の営業は、お茶の1杯、コーヒーの1杯を、最初から最後まで、私と私が担当の契約客に持ってこなかった。 いわき市にいた営業で、いわきの所長の草野さんと仲が悪かったのか、郡山の片山に頼んで中通り地区に転勤した人がいて、その人が「中通りの展示場では、お客さんが来場したら、5分以内にはお茶を出さないと片山所長が絶対に許さないから」と事実と正反対の大嘘を吹きまくっていたが、1日、郡山の展示場にいて仕様打ちあわせをおこなった私と私の担当の既契約客に対して、それまで、何度も何度も私に世話になってきた中通り地区の営業は、茶の1杯を最後まで持ってこなかったのであり、事実と正反対を吹きまくっていた片山という男のその態度、恥知らずというのか、ええ根性してるというのか、さすがは腰巾着というのか、には、あきれた。
営業本部長というのは、いったい、何のためにいるのか? 一般従業員が契約になるかならないかにかかわらず、深夜まで客宅に行ってへとへとになるまで働いているまさにその時にフィリピーナの相手するためにいるのか? 自分は全然何の関係もないのに、過去に、その見込客と同じ会社・役所に勤めている人を担当したことがあるということにインネンつけて、自分が今いる場所に住んでいるわけでもなく、自分が今いる場所で建てるわけでもない見込客を横取りしたあげく、何週間も放置するといった営業社員としてはありえない態度を取った田中義一に加担し、さらに、天野隆夫は私に「そんなこと、誰でもあるはずだろう」などと言ったが、誰でもはない! 誰でもあってたまるか! 私は東京営業所の「リーダー」の宮崎さんが「納得いかないだろうけれども、あの男(田中義一)はまともな人間じゃないから、どうか、お願いだから我慢して」と言うので、そんなおかしな話はないと思ったが、それならそれで、田中から「申し訳ない」か「ごめん」か何か言ってくるものかと思ったが、何も言ってこなかった。有望見込客を何週間も田中が放置したおかげで、客から怒られて怒鳴りつけられた私に対しても、「申し訳なかった」の一言も言わないような男を営業所長にならせている、というあたりも(株)一条工務店はおかしい。
私は、自分が担当の既契約客が他の展示場を見に行った時に他の営業に接客してもらうこともあるだろうから、他の営業所の営業が担当の既契約客を自分が接客することだってあっていいと思っていたが、片山のやり口は悪質であり、又、片山はそのやり口に味をしめていた。「社長の腰巾着」だから通じると思ってズに乗っていたのかもしれないが、「社長の腰巾着」であろうが何であろうが、会社のためにならない態度を取っている従業員に遠慮するべきではないはずだ。そもそも、社長は自分の「腰巾着」が何をやっているか、見ていない、見えていないというのは、それはおかしい! そんなことだから、自分の息子が何をやっているかも見えない状態になって、1996年8月、ドバカ息子が浜松市在住の女性を殺して刑務所に入るようになったのである。「親の因果が子に報いた」というものであろう。ドバカ息子は、懲役20年だったはずだから、もう、刑務所から出てきたであろうが、だからといって殺された人間が生き返るわけではない。
その地域では、床柱は下から上まで見えるように施工するものだ、という地域において、「浜松流」ではなく、その地域のやり方での施工になるように、きっちりと配慮する営業がいて、その配慮ができていなかった営業がいたならば、きっちりと配慮した営業が悪いのだろうか? そうではないはずだ。 「あの片山という男は、いったん、契約したら何もしないやつだ。あいつが担当で契約して失敗した」と言う人から、「あの人ならきっちりとやってくれると思うので、あの人に担当を変わって欲しい」と言ってもらえた営業がいたならば、悪いのはどっちが? 「あの人ならきっちりとやってくれると思うので、あの人に担当を変わって欲しい」と言ってもらった営業の方が悪いのか? (株)一条工務店の経営者と営業本部長の思考は、思考が逆立ちしている。 最初は、少々理不尽なことがあっても我慢を重ねたが、この会社で生きていくには、田中義一や片山のような悪質な従業員に負けないように、そいつらと闘うことも従業員としての任務のひとつである! ときっちりと認識して勤めないといけない、又、そういう際に、営業本部長はまったく役に立たないということを認識しないといけない! と思うようになった。
床柱と長押がぶつかる部分をどう施工するべきか・・という点については、その地域ではどのようにしているのか、という点と、どういう床柱を使用しているのか、という問題が関係すると思う。 銘木を使用した床柱は柱といえども構造材ではないので、もともとは構造材だった長押を貼りつける必要はないはずだが、床柱であってもその部屋の他の柱と同材・同寸法のものを使用している場合には、その柱だけ他の柱と違って長押を貼りつけずに手前で止めるというのは、むしろ、違和感がある。
遠州地方の江戸時代からの家屋では、どのような施工をしているか、というのを見たいと思って加茂家住宅に訪問したが、2か所の床の間は、いずれも、床柱はその部屋の他の柱(欅らしい)と同材・同寸法のものを使用しており、長押が床柱の前まで来ていたとしても、それがこの地域の施工だと判断まではできないと思われた。
加茂家住宅の床の間だが、2か所あって、南側の床の間の方が江戸時代からあったものらしいのだが、南側の床の間は、客間の裏手に北方向を向いてあり、又、南に広い部屋が何部屋もあるにもかかわらず、この家にしてはあまり広くない部屋に床の間が設けられており、明治になって増築したらしい部分にある床の間の方が南を向いていて、又、畳床でもあり、主たる床の間かな・・という感じがします。立派な家だけれども、南側の床の間は、悪いとは言わないが、何かこう、変則的な印象を受けたのですが、もしかして、かつて、江戸時代までは、玄関というのは武家のものであって「庄屋といえども農家」には玄関はなく、屋根も瓦屋根は武家のものであって農家は瓦屋根にすることは許されなかったらしいのと同様に、床の間も、農家で床の間を大っぴらに設けるのを歓迎されなかった・・とかあったのかな? ・・など考えました。それで、客間の裏手の場所、誰からも見られる場所でない位置にひっそりと設けられたのが南側の床の間で、明治になってから、農家でも瓦葺きの屋根にすることが認められるようになって、床の間も増築された部分に南向きの付書院がある3尺の奥行がある畳床の床の間が設けられた・・といったことがあったかな? など考えたのです・・が、玄関は武家のものであったが、加茂家住宅においては、車寄せのある「正玄関」が設けられており、これまで、見てきた「農家」の建物でも床の間はあったと思うのです。 その場所にもよるでしょうし、その家それぞれに事情があったかもしれませんが、もしかして、ここでは、床の間というのは、武家や公家の住居に設けるもので農家に設けるものではないというような考え方があって、それで、客間の裏手の位置にひっそりと設けられた・・といったことでもあったかな・・と思いましたが、どうだったのでしょうか。
自分が撮影してきた写真を見て、この家は、襖などの絵がきれいだと、現地では建築そのものの方に関心があってそれほど思わなかったものに気づきました。 もう一度、訪問できたなら、その際はそのあたりをよく見てみたいと思います。
※ 加茂荘花鳥園 https://oniwa.garden/kamosho-kachoen-%E5%8A%A0%E8%8C%82%E8%8D%98%E8%8A%B1%E9%B3%A5%E5%9C%92/
加茂荘花鳥園HP http://kamoltd.co.jp/
加茂荘花鳥園HP 庄屋屋敷 加茂荘 http://kamoltd.co.jp/shisetsu/kamoso
次回、神棚、その他について・・・
(2020.7.8.)
☆ 加茂荘花鳥園・加茂邸(掛川市)見学
1.「森掛川」I.C.より加茂荘花鳥園。温室と鳥舎。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202006article_2.html
2.花菖蒲園と長屋門。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202006article_3.html
3.加茂家住宅(1) 正玄関、土間、大黒柱・梁、庭の池と亀島と花。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202006article_4.html
4.加茂家住宅(2) 座敷、広縁・濡れ縁、廊下交差箇所の納まり、差鴨居。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202007article_1.html
5.加茂家住宅(3) 床の間 2か所。一般の柱と同材同寸法の床柱と長押の関係。床の手前の横の位置の付書院。きれいな襖絵。〔今回〕
6.加茂家住宅(4) 加茂家住宅の神棚は「竈の神さま」なのか。「浜松流神棚」を他地域に押しつける一条の営業 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202007article_3.html
7.加茂家住宅(5)

新感覚の和風住宅 (Home life) - 講談社

建築用木材の知識 (これだけは知っておきたい) - 今里 隆

木造建築を見直す (岩波新書) - 坂本 功
加茂家住宅には、床の間が2か所ある。 なおかつ、その2つが正反対の向きに設けられている。 北側は、明治以降に増築されたものらしいので、南側の方が江戸時代からのものらしいが、この建物は南東というのか、東南東というのかを向いて建っているので、南側の元から存在する方の床の間は、真北ではないが、南ではない方を向いていることになる。
まず、南側の方の床の間は、↓


↑ 左手に床の間があり、右手に床脇として棚がある。 棚は、違い棚があってその右側の下に「地袋」の収納があり、上に引違の「天袋」の収納がある。『新感覚の和風住宅』(1985.2.15.講談社)所収の 小林盛太「和風住宅の構成とディテール 和風のよさを見直そう」に掲載されている、床脇棚の一覧表を見ると、違い棚の右側の下に地袋の収納があって、違い棚の上にも天袋の収納がある、こういうタイプを「袋(ふくろ)」と言うらしい。

↑ 奥行きが浅い「板床」になっている。 向かって左側に床がある「正勝手」の配置だが、南側の10畳の客間の裏側の位置にあり、この部屋の北側(床の間と逆側)に廊下を経て中庭があり、そちらから、いくらか光は入るが、左右に部屋があり、床の間に左右から自然光は入らない。 その点で、少々、変則的と言えなくもない。
床の間と床脇棚の間の壁の下部に「狆潜り(ちんくぐり)」がある。
※ 《図解建築用語 狆潜り》https://w-wallet.com/tinkuguri.html
《タクミホームズ提供 建築用語集 狆潜り》http://www.kenchikuyogo.com/312-chi/017-chinkuguri.htm
※ 《 数寄屋造では書院造と異なり、床・書院が単独に造作されることは時代とともに少なくなった。床の中に書院が入り込んだ形式も考案され、もはや出文机(だしふづくえ)から発生した書院の機能を離れて、単なる床回り意匠の一種と化している。また、棚側の壁下方をあけて ちんくぐり としたり、目線どおりの床柱を切断して床と棚との融合を図った例も多い。》
( 藤井正一・小原二郎編集『インテリアコーディネーター ハンドブック 技術編』(1994.1.10.インテリア産業協会)では、「第2章 インテリアの歴史」「近世」 )
※ 《 なお、床の間と床脇棚との境の壁に、採光のため開けられる孔を、狆潜り(ちんくぐり)または犬潜りといいます。》
( 『新感覚の和風住宅』(1985.2.15.講談社)所収、 小林盛太「和風住宅の構成とディテール 和風のよさを見直そう」)

床の間の上には落とし掛けがあるが、長押は床の間の上にはない。 床脇棚の上には、落とし掛けだけの施工と長押もまわす施工があるようだが、この加茂家住宅の南側の床の間では床脇棚の上にも長押はまわっている。そして、床柱と長押がぶつかる部分では、長押の方が床柱の上まで来ている。↑ 但し、この加茂家住宅の南側の床の間では、床柱はその部屋の一般の柱と同材で同寸法のものが使われており、長押が床柱の上まで来ているとはいえ、一般の柱と同材・同寸法のものの上まで来ている。
(株)一条工務店 で福島県いわき市の営業所に在籍した時、いわき市の住人から、(株)一条工務店の住宅展示場の床の間はおかしい、と指摘されたことがある。どこがおかしいかというと、床の間があって、その右側に床脇棚として違い棚が設けられていたが、違い棚の上の長押(なげし)が床柱とぶつかる部分において、長押が床柱の上に来ているが、床柱を下から上まで見せて長押は床柱の手前で止めるべきであるのに、せっかくの床柱の上に長押が来て見えなくなっており、これでは床柱がかわいそうだ・・ということだった。 それで、私は住宅雑誌の写真や有名建築物・歴史的建築物の和室・床の間の写真やらをずいぶんと調べたのだが、住宅雑誌に掲載されている、現在、住宅建築業の会社が施工した建物の写真では、床脇棚の上まで長押をまわす場合と、床脇棚の上は落とし掛けだけで長押はまわさない場合があり、長押をまわす場合は、床柱と長押がぶつかる部分では、長押が床柱の上までくる施工の写真の方が多かったが、床柱の手前で長押を止める施工のものもあった。 (株)一条工務店のカタログには長押はカリンのムクの床柱の上(手前)までくる施工をしたものが掲載されており、(株)一条工務店の住宅展示場はどこでも、長押の方が床柱の上(手前)までくる施工にしていた。
(株)一条工務店のいわき市の営業所に勤務していた、私より古くから在籍していた営業担当者何人かにきいてみたところ、いわき市および福島県浜通り地区においては、床柱を下から上まで見せて、長押は床柱の手前で止める施工が普通だったらしかった。相当古くからの家を建替えるお宅で、それまでの家を見せてもらったところ、いわき市および福島県浜通り地区の家で古くからの家は、どこでも、床柱を下から上まで見せて、長押は床柱の手前で止める施工になっていた。 公開されている家屋では、記憶があいまいになってしまったが、茨城県北茨城市の野口雨情生家も、たしか、床柱を下から上まで見せて長押は床柱の手前で止める施工になっていたような気がする。
但し、(株)一条工務店で仕事をしている大工さんと話をすると、このあたりでは、床柱を下から上まで見せる施工が普通なんだ、と言う人と、「弟子の頃から長押の方を上に持ってくるものだと教えられたがなあ」と言う人があった。
床柱ではない普通の柱の場合ならば、長押が柱の上までくるのは当たり前で、そもそも、長押(なげし)とは何かというと、今は化粧材になっているけれども、坂本功『木造建築を見直す』(岩波新書)によると、もともとは、長押(なげし)は構造材で、柱だけを建てたのでは、地震・台風その他で、横方向の力が加わった時、簡単に倒れてしまうが、倒れないように柱と柱をつないだもので、柱に穴をあけて木材を通したものが「貫(ぬき」で、柱の外側から貼り付けて柱を固定したものが「長押(なげし)」だったのだ。 だから、本来の構造材としての長押(なげし)で、床柱ではない構造材としての一般の柱であれば、長押は柱の外側から柱の上(部屋から見て手前)まで来るように施工するのは当然だったのだ。
しかし、床柱は構造材ではなく、見せる・魅せるためのものであり、そうであるからには、構造材としての柱とは扱いは違っておかしくない。 だから、床柱は下から上まで見せる(魅せる)もので、長押をその上まで持ってくるべきではないと考える人がいてもおかしくないわけだ。
それで、実際には、これは、それぞれの地域によってやり方が違ったようなのだ。 茨城県の北部から東北地方の特に太平洋側は、床柱を下から上まで見せて、長押は床柱の手前で止める施工にするのが普通という地域が多いようだった。
(株)一条工務店という会社は、「売れない営業のグチ10箇条」などというものを、けっこう高そうな材質の樹脂に印刷して、各展示場に送りつけていたのだが、そこに、「売れない営業のグチ10箇条」の1つとして「浜松流はここには合わない」というものがあったのだ。ということは、全国で、「浜松流はここには合わない」と実感していた営業がいた、ということだ。 そういう発言に対して、「浜松流」ではなく、それぞれの地域に即したものを作り、それぞれの地域に即したやり方でやるようにしよう・・とは(株)一条工務店の経営者は考えず、全国でそう言う者がいても、それでも、全国に「浜松流」を押し広げようとしたようだった。
しかし・・・、いわき市および福島県浜通り地区の住民からすると、(株)一条工務店の内部で、「浜松流」と「非浜松流」の間で「仁義なき戦い」が繰り広げられていて、「浜松中心主義」「浜松独善主義」「浜松流帝国主義」の側が「浜松流はここには合わない」からそれぞれの地域に即したようにやってもらいたいと発言する者に対して、それを黙らせようとして「売れない営業のグチ10箇条」などというものを作成して全国に送りつけたとか、他の地域より安い値段でダンピング販売をして他の地域ではやらないテレビ広告をドカンとやっている静岡県中西部・愛知県の営業の側、「浜松流」の側が、「浜松流はここには合わない」からそれぞれの地域に即して考えるようにしてほしいと会社の為を思って発言する「非浜松流」に対して、自分たちはダンピングとテレビ広告で売った上で「売れない営業」だと罵っている・・なんてそんなことは知らないのだ。福島県いわき市で建てる施主からすれば、いわき市で建てる以上は、いわき流で建ててもらえるものだ、と思い込んでいるのだ。
ところが、(株)一条工務店の名古屋南営業所の所長だった近藤路夫は「浜松でいいものは、日本全国どこでもいいに決まってるんだ。こんな常識もわからんのかあ!」と絶叫するのだった。「そうじゃないと思いますよ、浜松でいいもので、他の地域でもいいものもあると思いますが、浜松ではよくても、他の地域ではいいと思ってもらえないものもあると思いますよ」などと言おうものなら、引きつけ起こして激怒するのだった。「そういうことを言うからいかんのだあ! 浜松でいいものは、東京でも大阪でもいいに決まってるんだあ。八寸角の大黒柱は東京でも大阪でもいいに決まってるんだあ! 東京でも大阪でも、20坪の敷地でも30坪の延べ床面積の家でも、二間続きの和室は絶対に必要なんだあ! こんな常識もわからんのかあ~あ!」と絶叫するのだった。この話を東京圏の知人何人かに話してみたのだが、全員から「その人、頭、おかしいのと違うのお~お?」「その人、酔っ払いか何かなのお~お?」と言われた。ところが、《「浜松でいいものは、日本全国どこでもいいに決まってるんだ。こんな常識もわからんのかあ!」と絶叫する側の人たち》が(株)一条工務店という会社では主流派で、そういう人たちは自分たちのことを「一条工務店の土台を築いてきた人たち」と自称しており、「浜松流はここには合わない」と会社のためを思って発言する者に「売れない営業」だと罵り、「売れない営業のグチ10箇条」などというものをけっこうカネかけてカネのかかった素材で印刷して全国の営業所に送りつけたのだった。そういう「ほとんどビョーキ」みたいな人が勢力を持っている会社だったのだ。「浜松でいいものは全国どこでもいいに決まってるんだあ、こんな常識もわからんのかあ~あ!」と絶叫する人に、それは違いますよと理解してもらおうとしても、無理。今は昔、5・15事件の時、犬養毅が「話せばわかる」と言ったという話だが、(株)一条工務店の「浜松流」の人たちには、話してもわかってもらうことは不可能である。「浜松流」の人たちには、なんかもう、精神安定剤の大量投与とか電気ショックとかロボトミーとか、なんか、そういうことでもしないと「浜松でいいものは日本全国どこでもいいに決まってるんだあ~あ」という思想を改めさせることは不可能の状況であった。彼らはビョーキなのだ、ビョーキ!!!
※ 《 (1932年(昭和7年)5月15日)17時30分頃、警備も手薄の中、海軍の青年将校と陸軍の士官候補生の一団がピストルを振りかざして乱入してきた。襲撃犯の一人である三上卓は犬養を発見すると即座にピストルの引き金を引いた。
しかし、偶然にも弾が入っておらず不発に終わり、その様子を見た犬養は両手を上げて、有名な文句「話せば分かる」を口にして将校たちを応接室に案内した。応接間に着くと「靴ぐらい脱いだらどうだ」と述べ、彼らに煙草を勧めたが、三上は「何か言い残すことはないか」と返した。その言葉を聞いた犬養は何かを言おうとしたが、興奮状態にあった山岸宏が「問答無用、撃て」と叫び、別働隊であった黒岩勇が応接間に突入して犬養を銃撃した。同時に三上も発砲して弾丸は頭部に命中した。 ・・》
( 《ウィキペディア―犬養毅》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8A%AC%E9%A4%8A%E6%AF%85 )
その「ほとんどビョーキ」なのか、「正真正銘ビョーキ」なのか、「その人、酔っ払いか何かなのお~お?」と言われるような「浜松流」の人たちは、床の間・床脇の作り方についても、「浜松流は全国どこでも正しい」「浜松流は全国どこでも喜ばれるはずだ」という思想を持っており、その結果、いわき市でも、「黙って座れば浜松流」の施工になっていたのだ。しかし、営業担当者は、それではいわき市および福島県浜通り地区の人は納得しないということを知っている場合があり、営業担当が工務課(工事担当)と設計担当と「コーディネーター」にそれを言い、工場にもそれを指示して、床柱の室内側には長押を組み込むための仕口を機械プレカットで加工しないように依頼して、工事現場でも、長押は床柱の手前で止まる施工になるようにしていたのだった。
・・しかし、これを言うと(株)一条工務店の「浜松流総本舗」は怒るのだが、本来は、浜松において「黙って座れば浜松流」はいいが、非浜松地域においてまで「黙って座れば浜松流」というのは好ましくないはずなのだ。浜松においても浜松流でないやり方で建てたい人ははっきりとそれを言うべきだが、浜松で浜松流をやりたい人には「黙って座れば浜松流」でいい。しかし、いわきでは「黙って座れば浜松流」ではなく、いわきにおいては「黙って座れば、いわき流」であるべきだろう。 営業担当者が努力して、その地域にあった施工になるようにする、というのではなく、営業担当者との契約ではなく会社として(株)一条工務店は契約してもらっているはずなので、営業担当者がどうであるかにかかわらず、会社として間違いないものができるように対処しないといけないはずで、会社として、非浜松地域においてまで「浜松流」のやり方の施工ではなくそれぞれの地域の実状に沿ったものにしないといけないはずだった。
床の間について、今里隆『これだけは知っておきたい 建築用木材の知識』(1985.5.6. 鹿島出版会)には、
《床柱:床柱は一般に角柱が格調高いものとされ、間内柱(その部屋の一般柱)と同材とする場合は一般柱より太目の良材を選び、異種材は違和感のない色調や木肌のものを選ぶのが品位もあり無難であるとの見方である。
しかし、装飾的な見地や強調から各種丸太材、唐木類の角柱や造形柱、変木柱、竹柱など幅広く選材されるようになった。
落し掛け:内法材と同材で成を増し寸したものがよく用いられるが、床柱同様に様々な材が選ばれるようになった。
一般に見付け柾目、下面板目として用いられる。
床かまち:床の形式やデザインにより多様であるが一般には、塗かまち(ウルシ、カシウ)、堅木材の生地かまち、磨丸太の面皮・太鼓仕立てかまちなどがある。床かまちを用いず地板扱いすることもある。地板にはデザインにもよるが、ヤニ松、天唐、欅、楠、桑、ケンポナシ、米松などの生地仕上げ(透明・着色ラッカー仕上げ)およびカシュウや漆の塗物などがある。》
と出ている。
《 間内柱(その部屋の一般柱)と同材とする場合は一般柱より太目の良材を選び、・・》と書かれているのだが、↑ その部屋の一般柱と同材とする場合でも、《一般柱より太目》のものではなく、一般柱と同寸のものを使用する場合もあるようで、この加茂家住宅においても、同材・同寸法の柱が入っており、私がこれまでに見たものでは、岐阜県高山市の「陣屋」の床の間が、やはり、一般の柱と同材・同寸法のものを使用していて、長押は他の柱と同材・同寸法の床柱の上まで配置されていた。
※ 高山陣屋の床の間については、
[第352回]《 高山陣屋(群代官所)[1]床の間。「真向き兎」の釘隠し。朝市。~高山シリーズ第3回(2)》https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201510article_2.html
[第748回]《高山陣屋の長押が内側まで周る床脇とそうでない床脇。少年期の山岡鉄舟像、赤い中橋。演歌「高山の夜」は実状に合わない。》https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202002article_13.html
長押(なげし)は、もともとは、柱と柱をつないで固定するための構造材だったとしても、今現在では化粧材であるとともに、けっこう昔から化粧材になっている。 床の間の上に長押をまわすことはないが、床脇棚の上には、落し掛けは設けても、長押はまわす場合と長押は床脇棚の上にはもってこない場合があるようだ。
床脇棚の上に長押をまわす場合に、床柱と長押がぶつかる部分で、床柱を下から上まで見せて長押は床柱の手前で止めるべきなのか、構造材としての長押の施工法のように床柱の前まで長押をもってくるべきなのか。 「全国どこでも浜松流の一条工務店」では床柱の上まで長押を持ってくるようにしていたということは、遠州地方では、茨城県北部から東北地方の太平洋側の多くの地域とは異なり、長押を床柱の上まで持ってくる施工が、その地域の床の間の作りであるということか・・・と思っていた。それを確認すべく、遠州地方の「民家」「古民家」で見学させてもらえる所にぜひ行って見たいと思ってきたのだった。
静岡県掛川市というと、遠江地方。 最近では東海道新幹線に掛川駅ができたが、「こだま」しか停まらない駅なんて・・と思うとそうでもなく、「こだま」は東海道新幹線が開通した時には「ひかり」と「こだま」が交互に発着していたのが今では「のぞみ」が圧倒的に多くなったものの、それでも、「こだま」は東京駅発では、新大阪行と名古屋行の「こだま」が1時間に1本ずつ、だから、東京・品川・新横浜から掛川に新幹線で行こうとすると、1時間に2本の「こだま」が出ていることになり、それなりに使える電車・使える駅のようだが、場所としては、浜松と静岡の中間。遠江の浜松と駿河の静岡との中間の遠江。 その遠江に建つ加茂家住宅に来て見ると、やっぱり、床柱と長押がぶつかる部分は「一条浜松流」と同じく、長押の方が床柱より前に来ていたのだった。
しかし・・・。これだけで断定までしては良くないように思う。 なぜかというと、床柱と長押がぶつかる部分で、長押を床柱の前まで持ってくるべきか、長押は床柱の手前で止めるべきかというのは、その場所・地域だけで決まるのではなく、同じ地域でも両方の施工法が並存している場合もあり、床柱がどういう床柱なのかということと、床柱の脇が床脇棚なのか押入か出入口になっているかによっても違いはあるように思うのだ。
加茂家住宅においては、↑ の南の方の床の間も北の方の床の間も、床柱は、床柱として他の柱と異なる樹種のものとか、特殊な柱を入れているのではなく、他の構造柱と同材で、しかも、同寸法のものなのだ。 もしも、床柱に他の柱と同材・同寸法のものを入れている場合においては、その部屋の他の柱の上を長押がまわっているのに、床の間の脇の柱だけ、長押が柱の上まで来ないでその手前で止められていたのでは違和感があるはずだ。 だから、床柱として他の柱と異なる樹種の木か同材でもひとまわり大きい材を使用した場合ならば、床柱の手前で長押を止めるというのはわかるが、床柱と言ってもその部屋の他の柱と同材・同寸法のものを使用している場合には、長押は他の柱の部分と同様に柱の上まで来るようにする方が自然で、柱の手前で長押を止めたのでは不自然です。
今、『新感覚の和風住宅』(1985.講談社)や『やすらぎの「新和風」特選』(1993.9.30.ニューハウス出版)に掲載されている床の間の写真を見てみると、たとえば、『やすらぎの「新和風」特選』(1993.9.30.ニューハウス出版)に掲載されている、設計:中山俊雄建築設計事務所「渋川の家(群馬県)」では、床柱は黒檀の床柱で「一条浜松流」と同じく長押が床柱の前まで来ているのですが、これなどは、いわき市で建てていただいたOさんが「どう見ても変だよ」と言われたように、黒い色をした黒檀の床柱の上より5分の1くらいの所で、白木の長押が黒い床柱の上に来ているというのは、それが普通だという先入観を持っていなければ、たしかに違和感があります。 黒檀の床柱であれば、白木の長押は床柱の手前で止めるか、もしくは、床脇棚の上は落し掛けのみで長押は床脇棚の手前で止めるかの方が自然な感じがするように思います。 それに対して、やはり、『やすらぎの「新和風」特選』(1993.9.30.ニューハウス出版)に掲載の設計・施工:殖産住宅「伊豆長岡の家(静岡)」では、床柱は「杉面皮付き」で、長押は床柱の前、中ほどまで来ていますが、「杉面皮付き」の床柱と長押の色合いが似ているので、こういう場合は、手前で止めても前まで持ってきても不自然ではないのではないか。殖産住宅が施工したように、中ほどまで持ってくるというのが一番自然かもしれないと思いました。 『新感覚の和風住宅』(1985.講談社)掲載の設計:住友林業住宅事業部の床の間も、殖産住宅のものと同様に、「杉磨丸太(みがきまるた)」かと思われる床柱の手前、中ほどまで長押を持ってきていますが、杉磨丸太など、白っぽい針葉樹の床柱を使用した場合には、長押は床柱の手前で止めなくても、前、中ほどまで持ってきても不自然感はないのではないでしょうか。 色合いが長押とそう変わらない色合いでも、絞り丸太などごつごつした床柱の場合では手前で止めた方がいいかもしれません。
もうひとつ、 『新感覚の和風住宅』(1985.講談社)・『やすらぎの「新和風」特選』(1993.ニューハウス出版)に掲載の床の間の写真を見ると、柱が見える真壁和室だけれども、長押は省略した和室があります。 長押を最初から省略している場合には、長押と床柱がぶつかる部分でどうするか、という問題は出てきません。 小堀住研(株)の和風の家でも、長押を省略する場合や、あえて、細いものを使用した場合などあったのですが、(株)一条工務店の場合は、名古屋南営業所の所長の近藤路夫さんなどは「何でも太いものがいいに決まってるんだ。こんな常識もわからんのか!」などとおっしゃるのですが・・・、わかってたまるか! それこそ、数寄屋と言われる建物においては、長押は省略したりあえて細いものを使用することは珍しくもなんともない。常識でもないものを常識だと言いはられて、「こんな常識がわからんのか」などと言われてたまるかいな! そんな非常識な認識を常識だと思っているような人を(株)一条工務店が「所長」にならせているというのが、そもそも、常識でないのだ! 「なんでも太いものがいいに決まってるんだ」というのは、東京圏の来場客から「やっぱり、お宅は浜松ねえ」とか「何でもぶっといのがいい・・とか、そういう発想は、やっぱり、イナカねえ~え」とか言われたものそのもので、こういうことを言うと、近藤路夫さんとか「浜松流一条オリジナル」は「そういうことを言うからいかんのだあ~あ!」と引きつけ起こして叫ぶでしょうけれども・・・、

「てんかん」のことがよくわかる本 (健康ライブラリーイラスト版) - 中里信和
・・・ひきつけ起こして叫ばれても、怒るのならそう言った来場客の後を追いかけていって「そういうことを言うからいかんのだあ~あ!」と怒ってもらいたいもので、言った人間に怒らずに言われた人間に怒るのは筋違い(「すじかい」ではなく「すじちがい」)です。それが「すじちがい」だということも、そんなこともわからんのかあ~あ!!! と言ってやりたいところですが・・・、なんか、レベルの低い話・・という気もする。ともかく、「浜松流一条オリジナル」を相手にすると、ほんと、疲れる!!!
近藤路夫さんの思考というのは「イナカの農家風」のことであり、それも、農家でも「数寄屋風をとりいれた京風感覚の家」とかではなく「いかにもイナカという農家風」の家の「常識」のことだったのです。これ、本当のことですからね。こういうことを言うと、「一条浜松流」は怒るでしょうけれども、本当のことになぜ怒るのか。
〔 ・・ちなみに・・、桜木さゆみ さんの漫画によると、ち〇こ も、ぶっとい方がいいとは決まってないらしい。「なんでも太い方がいいに決まってるんだあ」という近藤路夫さんの見解は、その点でも正しくないようだ・・。 〕
「浜松という後進国の外資系企業」においては、「浜松とその周囲、静岡県中西部から愛知県」という本国の人間は、それ以外の地域、箱根の関より東、鈴鹿の関・不破の関より西の地域の人間、いわば、植民地の人間に対しては、ともかく怒れば、植民地の被支配地域の人間は、帝国主義本国の人間の機嫌を一生懸命とろうとするだろう・・・とそれに味を占めているみたいな、・・・そんな感じです。
(株)一条工務店の初代社長の大澄賢二郎は1996年にドバカ息子が浜松市在住の女性を刺し殺して刑務所に入った際に社長を辞任し、会長とか相談役とかそういったものにもならなかったはずだが、社長ではなく会長でも相談役でもない大澄賢二郎が、2011年、東日本大震災の後、300億円を浜松市に「防潮堤の費用」と称して「寄付」し、浜松市長で慶應大ア法学部卒の鈴木康友が大絶賛したが、あれなども、「全国で儲けた金から浜松市に寄付する」という奇妙なことをしていたのだが、箱根の関より東、鈴鹿の関・不破の関より西 の植民地で稼いだカネを、浜松市を中心とした静岡県中西部・愛知県といった本国に持ち帰る・・という「浜松および静岡県中西部・愛知県を本国とする外資系企業」の特徴が出ているようにも思える。
「数寄屋風」は長押を省略したりあえて細いものを使ったりしますが、別にそれは「安物」ではないのですが、ところが、「一条オリジナル浜松流」からすると、「なんでも、太いものがいいに決まってるんだ。こんな常識もわからんのか」ということになるようで・・・、結論として、そういう人には「逆らうとうるさいから」言わない方がいい・・・ということになります。《「浜松流一条オリジナル」の「常識」》は世間の非常識です。
北側の明治になってから増築したらしい部分の方の床の間は、↓


↑ 8畳の部屋と10畳の部屋が東西に2室並んでおり、西側の8畳の部屋に床の間があり、その西側にある廊下に付書院が突き出していて、廊下の西には中庭があります。
こちらの床の間は、奥行きが3尺ある畳床で、床の間の左側に付書院がありますが、右側は床脇棚ではなく押入れになっています。

↑ 右側の押入れの上から来る長押は、ここでも床柱の上まで来ていますが、ここでも、床柱はこの部屋の他の柱と同材・同寸法のものが使われています。
左側の付書院ですが、床の間の左側に付書院を設ける場合、付書院は床の間の位置からその手前にかけての場所に設けるものか、それとも、床の間の横には付書院はなく、床の間の手前の位置の左側に付書院を配置するものなのか。 (株)一条工務店の住宅展示場は床の間の横から手前にかけて付書院を設けていて、カタログに掲載の和室の写真もそうなっていた。住宅雑誌に掲載されている床の間の写真を見ても、床の間のすぐ横から手前にかけて付書院があるものが多いように思いました。 それなら、床の間のすぐ横には付書院はなくて、床の間の手前の左側に設けるものではないのか・・というと、そうでもないようなのです。
岐阜県高山市には、日下部家住宅(日下部民芸館)と吉島家住宅が南北に並んでいますが、日下部家住宅の主座敷の床の間・吉島家住宅の床の間は、ともに、床の間のすぐ横から手前にかけて付書院があるという施工ですが、高山陣屋の大広間の床の間は、床の間のすぐ横には付書院はなく、床の手前の部分の左側に付書院がある施工になっています。
※ 高山市 日下部家住宅の床の間⇒[第736回]《日下部民芸館(高山市)とともに考える床の間と付書院。付書院は床の間のすぐ横からか手前からか。付書院部分の広縁はどうなるか。床脇の上に長押はまわすべきか、まわさないものか。縦格子は良くても横桟は衛生的でない、て飲食店経営者はわからんかな・・ー日下部民芸館2》https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202002article_1.html
高山市 吉島家住宅の床の間⇒[第743回]《吉島家住宅2-「女性的」は架構だけでない。床の間と長押が床脇の内部まで周っている床脇。みやびな色の釣り床。》https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202002article_8.html
高山陣屋の大広間の床の間⇒[第352回]《高山陣屋(群代官所)[1]床の間。「真向き兎」の釘隠し。朝市。~高山シリーズ第3回(2)》https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201510article_2.html

↑ 左の図のように、床のすぐ横には付書院はなく、床の手前の左側に付書院があるのが高山陣屋の大広間の床の間。
右の図のように、床のすぐ横から手前にかけて付書院があるのが日下部家住宅・吉島家住宅の床の間でした。京都の高台寺の本坊だったかの床の間も、こちらの施工でした。
静岡県掛川市の加茂家住宅の北側の方の床の間には付書院がありますが、それは、↓

↑ 高山陣屋の大広間の床の間と同じく、床のすぐ横の部分には付書院はなく、床の手前の横に付書院があるという施工になっています。
↑ の付書院ですが、障子の部分の意匠もなかなか素敵ですね。
付書院は廊下に突き出ているのですが、廊下部分はどうなっているか・・・というのが、「普通の人」は気にならなくても建築探偵団としては気になるところですが、それは ↓

↑ ここの場合、廊下の幅がそれほど広くないので、かつ、床の間のすぐ左の部分の北側で東西方向の廊下とぶつかるようになっているため、廊下に出っ張る部分をそれほど長くしたくなかった、ということも、床の間のすぐ横には付書院はなく、床の手前の横に付書院があるという施工にして理由としてあるかもしれません。
南側の正玄関から西の和室は客間として使用されることが多かった部屋らしく、正玄関は来客の入口だったということですが、係員の方から聞いた話では、来客にはけっこう高名な絵師がいたという話でしたが、↑ の北側の床の間の右側の押入れの襖や天袋の襖の絵なども素敵な絵が描かれています。どっかの住宅会社の適当に選んだような襖とは違います。
↑ 床の間のある部屋の天井は竿縁天井で、竿は床の間と床刺しにならないよう並行に取りつけられています。
南側の床の間には床脇棚があるのに対して、北側の床の間は右側は押入で床脇棚はありませんが、左側に付書院があります。床の奥行は北側の床の間の方が深くて畳床であり、南を向いていますし、こちらの方が主たる床の間かな・・という感じがしました。
床の間のある部屋の天井は竿縁天井ですが、東隣の10畳の部屋は格天井で、御先祖様かと思われる女性の額がかかっています。 ↓

↑ 床の間のある和室が一番の主座敷か、とも思ったのですが、天井を見ると、床の間のある部屋は竿縁天井であるのに対して、その東側の部屋は格天井ですから、どちらが格上なのかは何とも言えません。
北側の床の間も、長押は床柱の上まで来ていますが、こちらも床柱は部屋の他の柱と同材・同寸法のものですから、長押が床柱の上まで来ていても、それは、同材・同寸法の床柱を使用しているからそうなっているということも可能性として考えられますから、加茂家住宅だけを見て、床柱の上まで長押が来るのが遠州流とまで決めつけることはできません。
ところで。(株)一条工務店では、床柱は、特に、絞り丸太にしたいとか、磨丸太にしたいとかいう希望を言わなければ、カリンのムクの角材で、お施主様が紫檀がいい、黒檀がいいと言われるなら、差額を出してもらって紫檀・黒檀とか鉄刀木(たがやさん)・槐(えんじゅ)とかを入れることもありましたが、その地域の施工がどうかということと別に、長押と同じ色合いの杉磨丸太とか、もしくは桧・杉といった和室の柱と同じく針葉樹の白木の柱を床柱にした場合であれば、長押は床柱の上まで来る施工でもいいけれども、カリン・紫檀・黒檀・鉄刀木・槐といった自然木の角材の床柱にした場合には、もともと、そういう床柱は構造材ではありませんし、長押は床柱の上まで持ってくるよりも、床柱の手前で止める施工にした方が、せっかくのいい床柱を下から上まで見せる(魅せる)ことができて、良さそうに思えます。
《「黙って座れば浜松流」を全国に押しつけるの大好き人間症候群》みたいな人が、(株)一条工務店の浜松の本社や静岡県中西部から愛知県にかけての地域にはいっぱいいたのですが、地域の問題と別に、床柱に使うものがどういうものか、という視点で考えてみる、ということもやっていいと思うのですが、「浜松流」にはそういう思考をする頭はないようです。
私は、福島県いわき市の営業所に赴任してすぐの契約客のOさんから言われて、それ以来、床の間は、床柱と長押がぶつかる場所では、長押を床柱の手前で止めるようにした方がいいか、長押を床柱の前まで来る施工にした方がいいかと、すべての契約客に確認してどちらにするかを決めてもらうようにしました。いわき市および福島県・茨城県北部のお施主さんは、誰もが床柱の方を下から上まで見せるようにしてもらいたい、と言われました。
ところが・・・。 営業担当者で社歴が浅い人の場合、こういうことを知らない人がいるのです。 そして、私の知人で、自宅を(株)一条工務店で建てて、アパートを旭化成(株)で建てた人がいるのですが、(株)一条工務店は担当者がだめならだめだが、旭化成(株)は担当者がどうであるかにかかわらず会社として対応する、という点が違った、と言います。 但し、だから、すべてにおいて旭化成(株)の方がいいということではなく、旭化成(株)の人間は、自分の所は大企業だ・有名企業だという意識があって、何かとえらそうにしている・・という点は感じ悪かったそうです。だから、絶対にどっちの方がいいということはないということでしたが、ともかく、(株)一条工務店という会社は、会社との契約でありながら、担当者にすべてまかせきりというのか、どんなに真面目な担当者でも、どんなにしっかりした担当者でも、人間のやることには失敗はあるはずなのですが、会社として対応しようという姿勢が欠けている会社でした。まるで、営業担当者がすべて管理してとりはからって、利益は会社経営者が持っていくような印象すらある会社でした。 営業本部長のA野T夫さんが懇意にしていたフィリピーナのおねーちゃんの所には、(株)一条工務店で契約してくれたお客さんが払ったお金から、いくばくかのお金が行っていた・・のかな・・・、会社としての対応をしない会社なのに・・・と考える人間は少なからずあったはずです。
1990年代、福島県いわき市にて、私が担当のお施主様から、建築現場にいわき市で(株)一条工務店で自宅を建築中だという方が見えて、「ちょっと、申し訳ないんだけど、お宅の家を見せていただけませんか」と言われるので、「いいですよ」と言って見てもらったら、和室の床の間を見て、「ここの家はきっちりとできているじゃないか。どうして、うちの家はここの家みたいにやってもらえないんだ」と怒っていたけれども、怒られてもうちはどうしようもないのだけれども、「おたくの営業さんは、こうしたいと言えばやってくれましたか」と言うから、「やってくれましたよ」と答えたら、「なんで、うちの営業はここの営業みたいにやってくれないんだ」と言ってられました・・と話されたことがあった。「お互い、一生懸命、努力してやったもんねえ」と言われたが、実際、お施主様も私の方も相当努力をして打ち合わせをおこなったが、床柱を下から上まで見えるようにして、長押は床柱の手前で止める施工にしてほしいと、見に来られた方も言われたらしいが、担当営業のK野T夫さんから「このやり方しかできません」と言われて、それならしかたがないかと思って、長押が床柱の上まで来る施工になったが、しかし、どう考えても、床柱を下から上まで見せないというのはおかしいと思って、それで、他の家はどうなっているのか見せてもらいたいと思われたらしいが、見ると、自分の家には担当営業が床柱の上まで長押がくるやり方しかできませんと言ったのに、見せてもらった家はそうではなく床柱が下から上まで見える施工になっていた、「できるじゃねえか。なんで、うちの家にもこういうようにやってくれないんだ」と言われた、ということだった。
ああ、そういうことがあったのか・・・と思っていたら、その営業担当のK野T夫さんから「あれ、困ってるんだ。なんで、うちの家もあの家みたいにやってもらえねえんだ、とお施主さん、怒ってるんだ」と聞いた。 その点については、私の方が営業担当としてきっちりと対応していたのですが、但し、この点について、K野T夫さんを強く責めるのは少々酷なところもあります。K野T夫さんは、親の代からいわき市の住人ですが、多くの人間は、床柱と長押がぶつかる部分で、長押が床柱の前まで来る施工が正しいのか、長押は床柱の手前で止めるものか、それほど気にしていないと思うのです。もしくは、ある程度以上の住宅建築業の会社であれば、会社としてしかるべく対処しているだろう・・と思い込んでいるのではないか。 ところが、(株)一条工務店という会社は、「会社としてしかるべく対処しているだろう」などと思うと、甘い!・・・という会社だったのだ。 私の場合は、1990年代前半に同社に入社した時点で、その頃、日本の住宅建築業の会社の中では、(株)一条工務店は無名の会社で、決して、「大手」「一流」企業ではなく、「浜松の地方工務店」で、創業20年未満の会社で、なおかつ、入社してから会社の内部を見ても、思っていた以上に未熟な会社で、整備されていないところだらけの会社だったので、「会社としてしかるべく対処しているだろう」という推測をするということはなかった。ところが、K野T夫さんはいわき市の住人であり、いわき市においては、競合になる会社というと、地元の工務店とか浜通り地区で比較的手広く建てている会社とか、そういった所が多く、私がいわき市に赴任した1993年においては、いわき市には住友林業も東日本ハウスもなかったのであり、在来木造を志向する人が多い地域においては、(株)一条工務店は「大手」で、かつ、いわき市においては比較的「有名」でもあったのだ。だから、そういう会社なら、「会社としてしかるべく対処しているだろう」という気持になる人がいても不思議はなかった。しかし、「会社としてしかるべく対処しているだろう」というような会社ではない、ということは、同社にある程度以上の期間、在籍していた人間なら、おのれの体で理解したが、その時点でK野T夫さんは入社してまだ3年も経っていなかったのではないかと思うので、(株)一条工務店という会社を実際よりはるかに優秀な会社みたいに勘違いしてしまっていたのではないか。
東京などの都市圏とは違って、福島県では床の間とか神棚・仏壇といったものは、これは相当重視されるものであり、又、都市圏においては、伝統に反することをしても、施主がそれを好むならいいではないか・・と考えるものでも、「地方」においてはそうもいかないところがあり、親戚の人などが来て見て、「なんだべ、これはあ」・・・となることが考えられ、せっかく、新築したのに、「こんなおかしな家あるけえ」と言われたのでは情けない。だから、営業担当者は、せっかく自分を担当として契約してくれたお施主様にそんな思いをさせないように、細心の注意を払って対応しないといけないし、又、普通、会社としての契約であって営業担当との契約ではないはずなのだから、たとえ、営業担当がミスをすることがあっても、会社としてカバーする体制があっていいはずなのだが、ところが、(株)一条工務店という会社は、営業担当は野球にたとえれば「外野手」。それより後ろには誰もいない。もし、営業がミスをしたなら、エラーして後ろにそらせた球は営業が取りに行かないと誰も取る人間はいない・・というそういう会社だったのだ。
K野T夫さんが担当だったそのお施主さんの場合は「うちも、こんな感じにしてほしいと言ったのに、できませんなんて言いやがって」と言われたということだったのだが、K野T夫さんは、私がお施主さんから床柱を下から上まで見えるように施工してほしいと言われた時に、同社の自分より社歴が古い従業員や工務担当などに何人もに尋ねて、それで、いわき では、床柱は下から上まで見えるように施工するのが普通なんだ・・ということを知り、あらかじめ、言ってもらえば、(株)一条工務店でもそういうように施工することはできるということも、工務担当からも工場の人間からも聞いて確認して、そのように処理したのだが、「こんな感じにしてほしいと言ったのに、できませんなんて言いやがって」という言葉がお施主様の口から出るということは、K野T夫さんは、(株)一条工務店は住宅展示場において長押が床柱の前まで来る施工にしていたことから、そのやり方しかできないものだと決めつけて、そう言った可能性もありそうにも思えるのですが、そうではなく、工事が始まってから、お施主様が言われ、その時点では、すでに床柱に長押とかみ合わされる部分で仕口加工がされていたので、それを床柱の手前で長押を止めると、床柱に彫られた仕口部分をどうするかという問題が出てくるので、長押を床柱の前まで持ってくるようにするか、そうでなければ、床柱に機械プレカットで彫られた仕口部分に、何か他の木で埋め木をして表面を着色するか、そうでなければ、モルタルをつめて表面を着色するか、何かそういう工夫をすることになったでしょうけれども、K野T夫さんとしては、すでに、機械プレカットで床柱の長押とかみ合わされる部分に仕口加工がされている以上は、「こうしかできません」と言ったのかもしれない。どちらにしても、営業担当者にもいろいろな人がいるわけで、営業担当個人の能力と努力に頼った家造りというのは、それは住宅建築業の会社としては本来的ではないはずだ・・・が、こういうことを言うと、営業本部長の天野隆夫から「そんなこと言うならエスバイエルに行けよお」と言われる、という会社だった。
又、「(特に施主が指定しないで)黙って座れば浜松流」というのは、浜松で「(特に施主が指定しないで)黙って座れば浜松流」なら悪くないのかもしれないが、浜松とは異なる場所においては「(特に施主が指定しないで)黙って座れば浜松流」ではなく、いわき においては「(特に施主が指定しないで)黙って座れば いわき流」になるようにしておくべきで、営業担当者がうっかりした場合でも、浜松においては「(特に施主が指定しないで)黙って座れば浜松流」だが、いわき においては「(特に施主が指定しないで)黙って座れば いわき流」となるようなシステムにしておけば、特に問題とならなかったはずだ・・・と思うのだが、そういうことを言うと、またもや、営業本部長の天野隆夫から「そんなこと言うならエスバイエルに行け」とか、「うちの会社が気に入らんのなら辞めて出ていけ」とか言われることになるので、言えない! せっかく、会社のためを思って言っても、営業本部長がそういう男であり、難儀な会社である。往生しまっせ、ほんまあ・・・。
それで、私が担当だったお施主様は、自分の所はきっちりと「いわき流」でやってもらえたと喜んでおられたのだが、もしも、こういうことが営業本部長の天野隆夫の耳に入ったならば、普通、営業本部長ならば、「(特に施主が指定しないで)黙って座れば浜松流」というのは、浜松で「(特に施主が指定しないで)黙って座れば浜松流」なら悪くないのかもしれないが、浜松とは異なる場所においては「(特に施主が指定しないで)黙って座れば浜松流」ではなく、いわき においては「(特に施主が指定しないで)黙って座れば いわき流」になるようにしておくべきだと考えて、そうなるように対処するものだ・・・と思うところだが、ところがどっこい、(株)一条工務店ではそうはいかない。営業本部長の天野隆夫から私の方が呼びつけにされて、「こらあ! おまえのおかげで、他の営業が迷惑しただろう。おまえが、うちではこのやり方しかできませんと言って浜松と同じやり方でやっておけば何の問題もなかったのに、おまえが、いわきでは床柱を下から上まで見せるのが普通だとか言ってそんなことするから、だから、他の営業が迷惑したんだろうが! よく、気をつけろお!」と怒鳴りつけられるところであっただろう。・・しかし、私は、あらかじめ、(株)一条工務店でも、お施主様の希望が床柱を下から上まで見える施工にしてほしいというものならば、そのようにできるかと工務課(工事担当)にもプレカット工場にも確認した上で進めたのであって、会社からそれはできませんと言われたものを私が業務命令違反で勝手なことをしたのではないのだ。K野T夫さんがどうだったのかはわからないのだが、営業の中には、ものぐさな人というのもいて、私なら自分を担当として契約してくれたお施主様にはできる限りいい家を造ってあげたいと思って、できる限りの努力をするところを、少しでも変わったことを希望されると、「うちではできません」と言って建ててしまう・・ということをやる人間というのがいたのだ。そういう人間はどこにでもいると思う。普通、営業本部長ならば、自分が勤めている会社で、そういう対処ができるかどうかを確認もしないで、おのれがめんどうくさいから「できません」ということにして建ててしまうというような営業がいたならば、そちらに注意するものではないのか、と思うのだが、ところが、営業本部長の天野隆夫という男はそうではなく、きっちりと対処した人間の方に「何やってんだ、おまえはあ!」と怒鳴りつける男だった。「何やってんだ、おまえはあ」という文句は営業本部長の天野隆夫こそ言われる必要がある文句だったのではないか。
但し、床柱を下から上まで見えるようにという施工は、いわき市の営業は、ある程度以上在籍している人は誰もが配慮してやっていたことであって、私だけがやっていたことではなく、所長の草野さんもやっていたことでもあったのだ。だから、さすがに、いわき市のある程度以上在籍している営業は誰もがやっていたことで所長もやっていたことを、それを、「そんなもの、『このやり方しかやりようありません』と言って建ててしまえばいいだろうがあ! 何、考えてんだ、おまえはあ!」とは言わないということも可能性としては考えられたが、それでも、私にだけ「何やってんだ、おまえはあ! そんなもの、すでに契約して契約金の100万円を振り込んでもらってるんだから、『このやり方しかできません』と言って適当に建ててしまえばいいだろうが。おまえが、床柱を下から上まで見せる施工になんてするものだから、だから、K野T夫さんが迷惑しただろうが。よく、気をつけろお!!!」と私にだけ怒鳴りつけるという可能性も可能性として十分にあった。なんで、ものぐさに、本来、できるものを「このやり方しかできません」と言って建ててしまうような人間、契約金の100万円振り込んでもらったからには、「このやりかたしかできません」と建ててしまうような「振込め詐欺」みたいなヤツが悪いのではなく、きっちりと対処する人間の方が怒鳴りつけられなければならんのか・・・というと、それは、営業本部長の天野隆夫自身が「振込め詐欺みたいなやつ」だったからだ。〔⇒[第680回]《「契約前は何でもできますと言って、契約後は適当に建ててしまえ」というのは営業上何かプラスになるのか?》https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201902article_10.html 、[第715回]《客宅で「ピンポンダッシュ」を勧める・自分の「特殊意志」を「会社の意思」だと考える営業本部長。「反動」的経営の会社。きれいで新しい浜松展示場vs汚れていて床鳴りのする東京展示場―― 「一条の家は完璧にすばらしい」の反証》https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201908article_7.html 〕そういう会社であり、そういう男が営業本部長になっている会社だった。
1990年代、私が福島県いわき市の営業所(展示場)に在籍した5年間、福島県浜通り地区の所長だった草野さんは「外様の所長」と言われていて、いわき市の材木会社の猪野建材と浜松の(株)一条工務店との共同出資会社の(株)一条工務店南福島 が、共同出資会社を解消した時に、(株)一条工務店の方に移った人であるのに対して、福島県中通り地区の所長だった片山は「大澄社長の腰巾着」と従業員の間で言われる男で、「腰巾着」は「外様」と「外様」が所長の地域の営業所に勤務している従業員をなめていた。かつ、自分こそ「大澄社長の腰巾着」であったくせして、栃木県地域の所長だった五十嵐さんを「天野部長の腰巾着」と悪口を言っていた。私は五十嵐さんはそんなに「腰巾着」という感じではないと思っている。むしろ、片山こそ「いかにも腰巾着」である。
福島県では和風で建てる人はけっこう多かったのだが、ところが、(株)一条工務店は浜通り地区には和風の展示場を作っても、中通り地区には和風の展示場を作らず、その結果、中通り地区の営業所長の片山は、郡山市などで建てる人に、契約だけさせて、「和風の展示場はいわき にありますから、いわき の展示場を見に行って、いわき の営業に説明してもらってきてください」などと言って、大量に既契約客を私がいた展示場に送り込んで、私に片山の担当の既契約客の接客・応対をさせた。かつ、私は、誰の担当のお客様でも(株)一条工務店の会社のお客様なんだと考えて、自分が担当でないお客様でも決して手を抜くことなく応対してきた。その上で、来場して私が接客・応対した後、郡山の営業所に電話を入れて、その人が来場したことを伝えたのだが、ところが、 普通、住宅建築業の会社において、自分が担当の既契約客を他の展示場の営業に接客してもらったならば、「どうも、ありがとうございました」なり「どうも、すいません」なり何なりと礼を言うもので、接客してもらうばっかりで礼も言わないとなると、「あの野郎!」「あの野郎が担当の客は見るなら勝手に見てもらえばいいことで応対しなくていい」ということになってしまう危険がある。だから、礼はきっちりと言わないといけない。又、営業所長は自分が所長になっている営業所の営業担当者にきっちりと指導するべきものであり、それが所長の仕事のはずであった。ところが、(株)一条工務店の福島県中通り地区の所長であった片山は、片山自身が、契約だけさせた既契約客をいわきの私がいた展示場に送り込んで、私に既契約客に説明をさせて、それで自分が担当の契約だということにして建てさせるというのを常套手段・得意技にしていたのだった。「やらずぶったくり」というのか、それで、契約棟数が全国で何位だとか言われても、なんだか、プロ野球にたとえれば、毎試合、先発投手が4回まで投げてリードしている試合に、5回・6回の2イニングだけ投げて、7~9回まではまた別の投手に投げさせて、それで勝ち星だけ稼いでいるような、そんな感じのことを片山はやっていたのだった。それが「大澄社長の腰巾着」で「大澄社長のお気に入り」だったのだ。
「それだけ、契約とってるんだから」などと言って擁護しようとする人がいたが(「腰巾着」の「腰巾着」になろうとする人がいたが)、それは逆立ちした論理である。「多くの契約を取っているから、個々の契約客に対して、少々、雑な対応になってしまう場合がある」というケースもあるかもしれないし、営業は担当のお客様にきっちりとした対応をするべきだが、同時に、1件だけきっちりと対応すればいいというものではなく、数もまた多くの契約を獲得することが求められる仕事であり、内容と数の両方を同時に実現するというのがなかなか難しい、ということはあるだろう。しかし、片山の場合はそういう問題とは違うのだ。「多くの契約を取っているから、だから、1~4イニングを他のピッチャーが投げてリードしている試合の5~6回を投げて、7~9回はまた他のピッチャーに投げさせて、勝ち星だけ獲得せざるをえなくなっている」のではなく、「1~4イニングを他のピッチャーが投げてリードしている試合の5~6回を投げて、7~9回はまた他のピッチャーに投げさせる」というやり口によって「多くの契約を取った」という結果に持って行っていたのだ。会社のためを思って、どんな営業が担当の契約客でも会社のお客様だと思って誠意を尽くして対応してきた結果、そいつに勝ち星(契約)がつくような試合の7~9回ばっかり大量に投げさせられてきた者に向かって言う文句ではないはずだ。プロ野球の中継など見ていても、先発投手が途中で降板して、後半を他の投手が投げて押さえて勝ったというような試合では、勝ち星がつく投手は、試合終了後、リリーフ投手の所に礼を言いに行っているのがテレビに映ったりしているが、片山はそういうことをしたためしがない。そして、福島県中通り地区の社歴の浅い営業は、その片山のやり口を真似ていたのだった。「それだけ、契約とってるんだから、契約だけしてもらって、契約客の仕事を他の営業に押しつけるのは当然の権利だ」などとそういうことを言うのなら、片山が担当の既契約客の応対はしない方がいいということになる。給料を獲得して生活できるようにするために(株)一条工務店に勤めているのであって、片山の犠牲になるために(株)一条工務店に勤めているわけではないのだから。 「それだけ、契約とってるんだから、契約だけしてもらって、契約客の仕事を他の営業に押しつけるのは当然の権利だ」などとそういうことを言う勝手なやつ、勝手な主張をするやつには協力しない方がいいし、そういう勝手なヤツに協力するのは会社のためにならない。
多く契約を取っているから片山は勝手なことをやってもいいのだ、という主張をされるのならば、それなら、取れなくしてやればいいということだよな! 浜通り地区の営業に害を加えて自分だけ契約とる中通り地区の所長というのがそういう主張をするのなら、そいつには協力しないようにして、そいつがそれほど契約を取れないようにしてやれば、そうすれば、その身勝手な男は「多くの契約を取っている男」から「たいして契約取れない男」に変わるはずで、かつ、《「たいして契約取れない男」なのに勝手なことやっている男》になるはずだ。
1997年、巨人がロッテから獲得したヒルマンという投手が、開幕から体調不良で休み続け、シーズンの半ばになってやっと先発登板したという試合で(ヤクルトのブロスと投げ合った試合で、結果はヤクルトの勝ち)、テレビの野球中継で、アナウンサーが「巨人の選手としては、きょうは、長く休んでいたヒルマンの今季初登板ですから、『ヒルマン、頑張れ』『ヒルマン、大丈夫か』と、みんな思っていたでしょうねえ」などと言ったのに対して、解説者の江本孟紀が「は~あ? そんなこと思うでしょうかねえ、そんなこと。普通、そんなこと、思いますかあ~あ? そうじゃなくて、『なんやねん、高い給料とってるくせしてからに、こんな時期まで休みやがってからに。ゴロでも飛んで来たらヒットにしたろか』と、普通、そう考えるものと違いますかねえ。そんなもん、『ヒルマン、頑張れ』『ヒルマン、大丈夫か』やなんて、そんなこと、思いますかねえ」と言うのだったが、さすがは江本(^^♪ ええこと言う! ・・と思ったものだ。それと同様だ。片山は、自分がそんなふうに思われているということを自覚しているのか、いわき市の和風の展示場に送り込んでくるのは既契約客であって、未契約客は絶対に来させなかったのだが、どちらであろうが、どんな営業が担当のお客様であっても「会社のお客様」だと思えばこそ、誠意をもって応対したが、しかし、「会社のお客様」という面があっても「片山の客」という面だってあったわけで、「片山の担当の客」と考えるならば、「ゴロでも飛んできたら、ヒットにしたろか」という気持になる、そういう態度を片山は取りまくっていたのであり、自分だけでなく中通り地区の営業にそういう態度を取らせていたのだった。それを「うまいやり口」のように片山は思っていたようだが、そうだろうか。それは「うまいやり口」なのか? 営業というのはそういうものだろうか? 小堀住研(株)に入社した時、「社内営業」ということを言われたことがあるのだが、他の営業に「ゴロでも飛んできたらヒットにしたろか」という気持にならせるのが「社内営業」なのか? そうではなく、何何さんの担当の見込客なら、なんとか契約になるように協力してあげたい・・、何何さんの担当の契約客なら、問題なくいい家ができるように協力したい・・という気持に他の営業になってもらえるようにとするのが「社内営業」と違うのか? 「ゴロでも飛んできたらヒットにしたろか」という気持にひとにならせる男を(株)一条工務店の経営者は「一条工務店の土台を築いてきた人たち」と称賛していたのだが、実際、私も少しくらいなら、「所長なんだからしかたがないか」くらいに思ったかもしれないが、片山の場合は、はるかに限度を超えていた。
ある時、いつものように、片山が契約だけさせて、「いわきに和風の展示場ありますから、いわきに行って、いわきの営業に説明してもらってきてください」と言って、いわき市の私がいた展示場に送り込まれた既契約客が、その後、電話をしてきて、「郡山の展示場で片山という男を担当で契約したんだけれども、あの片山という男は、いったん、契約したが最後、何もしない男だ。あの男を担当で契約して失敗した。この間、いわきの展示場に行った時に対応してくれた人(私のこと)なら、あの人ならきっちりとやってくれると思うので、担当をあの人に変えてほしい」と言ってきた人があったようだ。実際、片山なんかに担当されてあんまりいいことはないと思う。その話は後から聞いたことで、その電話があった時には、電話を取ったM上が片山の機嫌を取るつもりで話を握りつぶしたようだった。
M上は中通り地区の所長で「大澄社長の腰巾着」の片山の機嫌を取るつもりで話を握り潰したようだったが、しかし、もしも、その際、その話を電話を取った者が握り潰さずに、中通り地区の所長が担当のお客様が担当を変えてくれと言ってきているということで、営業本部長の天野隆夫にでも言ったならば、どうなったか・・・ということを推測すると、おそらく・・・、営業本部長の天野隆夫から私の方が呼びつけにされて、「おまえのおかげで、片山所長が迷惑しただろうが。よく、気をつけろお!」と怒鳴りつけられることだろう。天野隆夫という男はそういう人間であり、(株)一条工務店という会社はそういう会社である。営業本部長というのは、警察から見た検察・裁判所と似ている。警察が送検したものを検察が吟味して、検察が起訴したものを裁判所が判断すると思っている人が多いのではないかと思うが、実態はそうではなく、実態は、警察の下請けが検察で、検察の下請けが裁判所、警察の孫請けが裁判所である。それと似ている。営業所長にならせてもらっている男がやっていることに、客から苦情が来たならば、営業本部長はそれに対処すべき立場であろうとたいていは考えるのではないかと思うが、 (株)一条工務店の営業本部長というのはそういう人間ではなく、営業本部長の方が営業所長のテカ(手下)であり、役に立たない。
1992年、東京都江東区潮見の東京展示場に来場された、東京に在住で浜松で建てるという方について、その方の勤め先の従業員が(株)一条工務店で建てられたことがあるということを理由にして、何の関係もない茨城県土浦営業所の所長だった田中義一が「そのお客さんは土浦営業所で担当させていただきます」と言って横取りしたあげく、有望見込客を何週間も放置して、お客様から苦情が来たということがあったが〔⇒[第709回]《ひとの追客中有望客を横取りして放置する「一条の土台を築いてきた人たち」、それに加担する営業本部長ー「一条工務店の家は完璧にすばらしい」の反証12》https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201907article_7.html 〕、その際も営業本部長で東京営業所長を兼任していた天野隆夫にそれを話したが、営業本部長の天野隆夫は、全然何の関係もないのに、人の追客中の有望見込客を横取りした上で、それを何週間も放置したアホの側についた。(株)一条工務店の営業本部長というのは、いわば、 ””営業本部長の給料タダ取り”” みたいな人間である。さらに、その後、東京都葛飾区で私が追客中の見込客が建替えを考えていた所の近くで、土浦営業所の所長の田中義一が担当で建てた入居者宅があることから、天野隆夫は「それを田中所長に話したらどうだ」などと言ってきたが、要するに、天野隆夫は東京営業所や松戸営業所で追客中の見込客である程度可能性がある人がおれば、土浦営業所の田中にくれてやれということを言っていたわけであり、そういう男が東京営業所長・松戸営業所長になっていたのである。(株)一条工務店の営業所長で比較的多くの契約を取ったという人というのは、結論として他の営業の契約を横取りしてきた人であり、会社が横取りさせてきた人である。
福島県中通り地区の営業所長の片山が、中通り地区の見込客に契約だけしてもらって、「和風の展示場がいわきにありますから、いわきに行って、いわきの営業に説明してもらってきてください」と言って、既契約客を私がいた展示場に次から次へと送り込むというのを得意技にしていたのだが、年末になると、「今年度の契約棟数上位優秀者」だとか言って名前が提示されたが、片山の契約には私は相当貢献していたはずであり、プロ野球でも、勝利数だけではなく、セーブとかホールドとかいうものが今では評価されるが、片山は私がセーブやホールドを相当してあげたおかげで、「勝利」(契約)をあげることができたはずであり、片山みたいに、自分が担当の既契約客を接客してもらっても、「すいません」も「ありがとう」もまったく言わない礼儀知らず・恩知らずの男には、そんなヤツの担当客なんて相手にすることない・・と考える人もいたようだが、私は、どんな営業が担当のお客さんでも、会社のお客様なのだ・・と思って誠意をもって接客・対応したが、そう思ってたとえ自分が会社から評価されなくても尽力すると、この会社の経営者は「恩を仇で返す」態度を取るようだった。
福島県中通り地区の営業所長の片山がそういう態度を取るものだから、中通り地区の営業には、片山の真似をする人間というのが何人も出てきたようだった。いわき地区の営業所にいたM上が「〇〇ちゃん、〇〇ちゃんだって、もう、3年目じゃないか。所長にされるのならまだしも、郡山の営業所の入社して2か月目か3か月目のヤツに、なんで、そんなことされなきゃならないんだ」と言うのだったが、その「入社して2か月目か3か月目のヤツ」というのが所長の片山のやり口を見て、それを真似るのだった。本来、所長というのは、自分が所長になっている営業所(展示場)の営業が、そういう、「ともかく、契約しておきましょう」みたいな契約をさせた上で、「いわきに和風の展示場がありますから、いわきに行っていわきの営業に説明してもらってきてください」と、他の展示場に既契約客を送り込むといったことをするなら、「そういうことをやってはいけません」と注意するもので、それが所長の仕事のはずだが、ところが、(株)一条工務店の場合は、総務部長の天野雅弘が「管理したり指導したりするのは所長の仕事と違います」と言い、それなら、所長というのは所長の役職手当をもらっているはずだが、その役職手当は何のためにもらってるんだ・・ということになるはずだが、天野雅弘は「売るのが所長の仕事であって、管理したり指導したりするのは所長の仕事とは違います」と言うのだったが、売ることに対しては、歩合給で報酬をもらっているはずであり、それなら、所長の役職手当はタダ取りではないか。 1990年代の後半の後半、栃木県佐野市の展示場に移動した時、栃木県地域の営業所長だった五十嵐さんは、過去には自分が営業担当として仕事をしていたが、私が栃木県に移動した時点では、自分自身では営業の仕事をしていなかった。 「自分が売るのが所長の仕事であって、管理したり指導したりするのは所長の仕事とは違います」と総務部長の天野雅弘が言ったわけだが、そうすると、「管理したり指導したりするのは所長の仕事とは違います」であって、なおかつ、自分自身では営業担当の仕事をやらなくなった栃木県地域の所長だった五十嵐さんというのは、やることは何もないということになるではないか。 何もやらずに、給料だけ取るのか? 「管理したり指導したりするのは所長の仕事と違います」と総務部長が言うわりには、発言はするが、発言はするが責任は取らないというのが(株)一条工務店の「所長の仕事」だと総務部長は言いたいということなのか? 私は、たとえ、賃金を構成する部分に歩合給の部分があったとしても、自分の歩合給につながらない行為でも、会社の為に必要なものはやるのが従業員というものであろうと思ってこの会社で働いてきたが、そう思って勤務すると、そう思って勤務する人間というのは、逆に「歩合給をもらえない部分でも働くやつ」と思われてなめられてしまうようだった。
(株)一条工務店は、浜通り地区には、和風の展示場も「洋風」の展示場もあったが、中通り地区には「洋風」の展示場ばかりで和風の展示場を作らず、福島県は和風で建てる人はけっこうあったのに、なぜ、中通り地区に和風の展示場を作らないのか、それは、契約だけさせて、「いわきに和風の展示場がありますから、いわきに行っていわきの営業に説明してもらってきてください」と言って私がいた展示場に既契約客を送りつけるという片山の作戦として、中通りには和風の展示場を作らなかったようだ。「腰巾着」だけあって、汚い男である。 いわき地区の他の営業の既契約客が私が勤務する展示場に来場して私が接客するのはかまわない。逆もあるのだから、お互い様である。いわき地区の草野所長が担当の既契約客を私はずいぶんと接客したが、おそらく、草野さんが私が担当の契約客の接客をしてくれた数よりも私が草野さんが担当の既契約客を接客した方が多いと思うが、草野さんはそれだけ多く契約を取っていたということもあるし、私が担当の既契約客を草野さんが接客してくれた後、そのお客さんから話を聞くと、「この間、所長さんに接客してもらったんですけど、・・・というように言われたんです」といった話を聞くと、なるほど、あの人はそういう話し方をするのか、さすが、年間全国1位の棟数を契約してもらったこともある人だけのことあるなあ・・と思うものもあったから、だから、少々、私の方が多く接客することがあってもそれをどうこう言う必要はない。しかし、いわき地区の営業同士の場合は、「お互い様」だが、中通り地区、特に郡山の営業の場合は、いわき地区には和風の展示場も「洋風」の展示場もあるので、他の展示場も見てみたいという場合、既契約客は、たいてい、いわき地区の他の展示場を見に行き、郡山の展示場を見に行く人は少ないのに対して、郡山の営業が担当の既契約客は、郡山には「洋風」の展示場はあっても和風の展示場はなく、それでいて、郡山付近でも和風で建てたい人は相当あったことから、片山とその真似をする郡山の営業は、契約だけ郡山でさせた上で、「いわきに和風の展示場がありますから、いわきに行って、いわきの営業に説明してもらってきてください」と言っていわき市の展示場に既契約客を送り込むことはあっても、逆はなかったのです。だから、郡山の片山と片山の真似をする郡山の営業は「やらずぶったくり」だったのだ。それではいかんでしょ・・・ということを理解して対応するのがそれが所長の仕事と違うのか?!? ということだが、それを片山はその逆をやっていたのだった。
いわきの営業が担当の既契約客が郡山の展示場を見に行くことは少なかったが、いわき市の住民が中通り地区に行くことはあり、たまたま、郡山市に入ったら(株)一条工務店の展示場があった、と思って見に入る人はおり、1997年だったと思うが、私が担当の既契約客で間取りを決定して、仕様打ち合わせを控え、それぞれの部分で使用するものを決めようという段階だった人が郡山市に行った時に、総合住宅展示場があるのを見かけて、そこに(株)一条工務店の展示場があり、そこの屋根材がいいと思ったので、その屋根材が何か、名称・品番を聞いていこうと思い、郡山のその展示場の営業に、自分はいわき市で契約していわき市で建てる予定になっていて、間取りなど図面は決定して、仕様打ち合わせをおこなう予定が入っているのだけれども、屋根の瓦を何にするか考えているのですが、この展示場の屋根は何と言うものですか・・と尋ねたらしい。すると、郡山の営業はどうしたか? 今まで、あれだけ、何軒も郡山の営業の担当の既契約客の接客をいわき市の展示場でやってきてあげた世話になってきた私が担当の既契約客が、この展示場の屋根材は何ですか、と尋ねたのに対して、「瓦です」・・・そう答えやがった・・・そうな。 営業所長の片山のやり口をその営業も真似たものであろう。「瓦です」て、瓦なのはしろうとでも見ればわかるのだ。これから、自分の家で使う瓦をどれにするか決めようという人が、この展示場の瓦はどういう名称のどういう品番のものですかと尋ねているのに、「瓦です」とは、その答え方は何だ! 今まで、郡山で契約だけさせて、「いわきに和風の展示場がありますから、いわきに行っていわきの営業に説明してもらってきてください」と言っていわきの私がいた展示場に既契約客を送りつけてきた私に世話になりまくってきた郡山の展示場の営業がその態度は何だ!・・というところだが、それが片山のやり口だったようだ。それが「大澄社長の腰巾着」と言われる男のやり口だったようだ。
さらに。1994年、私が担当で契約してもらった人で会津若松市で建てる方の「仕様打ち合わせ」を郡山の「コーディネーター」がいわき市でではなく郡山市でやりたいと言うので、契約客を連れて郡山市の展示場まで行って行ったが、それまで、郡山の営業が担当の既契約客がいわき市の私が勤務する展示場に来場した時には何軒も接客・応対してあげた上で担当営業に連絡してあげて、又、自分以外の営業が郡山の営業が担当の既契約客の応対をした時には、それもまた、何軒もお茶を入れて出してしてきた私が、数からすれば、ずっと少ないのに、私が担当の契約客を、いわき市で打ち合わせをするのではなくお客さんを郡山市に連れて来てほしいと要求したのは郡山の「コーディネーター」であって私や私の担当客が郡山で打ち合わせをやりたいと希望したわけではないのだが、郡山の営業は、お茶の1杯、コーヒーの1杯を、最初から最後まで、私と私が担当の契約客に持ってこなかった。 いわき市にいた営業で、いわきの所長の草野さんと仲が悪かったのか、郡山の片山に頼んで中通り地区に転勤した人がいて、その人が「中通りの展示場では、お客さんが来場したら、5分以内にはお茶を出さないと片山所長が絶対に許さないから」と事実と正反対の大嘘を吹きまくっていたが、1日、郡山の展示場にいて仕様打ちあわせをおこなった私と私の担当の既契約客に対して、それまで、何度も何度も私に世話になってきた中通り地区の営業は、茶の1杯を最後まで持ってこなかったのであり、事実と正反対を吹きまくっていた片山という男のその態度、恥知らずというのか、ええ根性してるというのか、さすがは腰巾着というのか、には、あきれた。
営業本部長というのは、いったい、何のためにいるのか? 一般従業員が契約になるかならないかにかかわらず、深夜まで客宅に行ってへとへとになるまで働いているまさにその時にフィリピーナの相手するためにいるのか? 自分は全然何の関係もないのに、過去に、その見込客と同じ会社・役所に勤めている人を担当したことがあるということにインネンつけて、自分が今いる場所に住んでいるわけでもなく、自分が今いる場所で建てるわけでもない見込客を横取りしたあげく、何週間も放置するといった営業社員としてはありえない態度を取った田中義一に加担し、さらに、天野隆夫は私に「そんなこと、誰でもあるはずだろう」などと言ったが、誰でもはない! 誰でもあってたまるか! 私は東京営業所の「リーダー」の宮崎さんが「納得いかないだろうけれども、あの男(田中義一)はまともな人間じゃないから、どうか、お願いだから我慢して」と言うので、そんなおかしな話はないと思ったが、それならそれで、田中から「申し訳ない」か「ごめん」か何か言ってくるものかと思ったが、何も言ってこなかった。有望見込客を何週間も田中が放置したおかげで、客から怒られて怒鳴りつけられた私に対しても、「申し訳なかった」の一言も言わないような男を営業所長にならせている、というあたりも(株)一条工務店はおかしい。
私は、自分が担当の既契約客が他の展示場を見に行った時に他の営業に接客してもらうこともあるだろうから、他の営業所の営業が担当の既契約客を自分が接客することだってあっていいと思っていたが、片山のやり口は悪質であり、又、片山はそのやり口に味をしめていた。「社長の腰巾着」だから通じると思ってズに乗っていたのかもしれないが、「社長の腰巾着」であろうが何であろうが、会社のためにならない態度を取っている従業員に遠慮するべきではないはずだ。そもそも、社長は自分の「腰巾着」が何をやっているか、見ていない、見えていないというのは、それはおかしい! そんなことだから、自分の息子が何をやっているかも見えない状態になって、1996年8月、ドバカ息子が浜松市在住の女性を殺して刑務所に入るようになったのである。「親の因果が子に報いた」というものであろう。ドバカ息子は、懲役20年だったはずだから、もう、刑務所から出てきたであろうが、だからといって殺された人間が生き返るわけではない。
その地域では、床柱は下から上まで見えるように施工するものだ、という地域において、「浜松流」ではなく、その地域のやり方での施工になるように、きっちりと配慮する営業がいて、その配慮ができていなかった営業がいたならば、きっちりと配慮した営業が悪いのだろうか? そうではないはずだ。 「あの片山という男は、いったん、契約したら何もしないやつだ。あいつが担当で契約して失敗した」と言う人から、「あの人ならきっちりとやってくれると思うので、あの人に担当を変わって欲しい」と言ってもらえた営業がいたならば、悪いのはどっちが? 「あの人ならきっちりとやってくれると思うので、あの人に担当を変わって欲しい」と言ってもらった営業の方が悪いのか? (株)一条工務店の経営者と営業本部長の思考は、思考が逆立ちしている。 最初は、少々理不尽なことがあっても我慢を重ねたが、この会社で生きていくには、田中義一や片山のような悪質な従業員に負けないように、そいつらと闘うことも従業員としての任務のひとつである! ときっちりと認識して勤めないといけない、又、そういう際に、営業本部長はまったく役に立たないということを認識しないといけない! と思うようになった。
床柱と長押がぶつかる部分をどう施工するべきか・・という点については、その地域ではどのようにしているのか、という点と、どういう床柱を使用しているのか、という問題が関係すると思う。 銘木を使用した床柱は柱といえども構造材ではないので、もともとは構造材だった長押を貼りつける必要はないはずだが、床柱であってもその部屋の他の柱と同材・同寸法のものを使用している場合には、その柱だけ他の柱と違って長押を貼りつけずに手前で止めるというのは、むしろ、違和感がある。
遠州地方の江戸時代からの家屋では、どのような施工をしているか、というのを見たいと思って加茂家住宅に訪問したが、2か所の床の間は、いずれも、床柱はその部屋の他の柱(欅らしい)と同材・同寸法のものを使用しており、長押が床柱の前まで来ていたとしても、それがこの地域の施工だと判断まではできないと思われた。
加茂家住宅の床の間だが、2か所あって、南側の床の間の方が江戸時代からあったものらしいのだが、南側の床の間は、客間の裏手に北方向を向いてあり、又、南に広い部屋が何部屋もあるにもかかわらず、この家にしてはあまり広くない部屋に床の間が設けられており、明治になって増築したらしい部分にある床の間の方が南を向いていて、又、畳床でもあり、主たる床の間かな・・という感じがします。立派な家だけれども、南側の床の間は、悪いとは言わないが、何かこう、変則的な印象を受けたのですが、もしかして、かつて、江戸時代までは、玄関というのは武家のものであって「庄屋といえども農家」には玄関はなく、屋根も瓦屋根は武家のものであって農家は瓦屋根にすることは許されなかったらしいのと同様に、床の間も、農家で床の間を大っぴらに設けるのを歓迎されなかった・・とかあったのかな? ・・など考えました。それで、客間の裏手の場所、誰からも見られる場所でない位置にひっそりと設けられたのが南側の床の間で、明治になってから、農家でも瓦葺きの屋根にすることが認められるようになって、床の間も増築された部分に南向きの付書院がある3尺の奥行がある畳床の床の間が設けられた・・といったことがあったかな? など考えたのです・・が、玄関は武家のものであったが、加茂家住宅においては、車寄せのある「正玄関」が設けられており、これまで、見てきた「農家」の建物でも床の間はあったと思うのです。 その場所にもよるでしょうし、その家それぞれに事情があったかもしれませんが、もしかして、ここでは、床の間というのは、武家や公家の住居に設けるもので農家に設けるものではないというような考え方があって、それで、客間の裏手の位置にひっそりと設けられた・・といったことでもあったかな・・と思いましたが、どうだったのでしょうか。
自分が撮影してきた写真を見て、この家は、襖などの絵がきれいだと、現地では建築そのものの方に関心があってそれほど思わなかったものに気づきました。 もう一度、訪問できたなら、その際はそのあたりをよく見てみたいと思います。
※ 加茂荘花鳥園 https://oniwa.garden/kamosho-kachoen-%E5%8A%A0%E8%8C%82%E8%8D%98%E8%8A%B1%E9%B3%A5%E5%9C%92/
加茂荘花鳥園HP http://kamoltd.co.jp/
加茂荘花鳥園HP 庄屋屋敷 加茂荘 http://kamoltd.co.jp/shisetsu/kamoso
次回、神棚、その他について・・・
(2020.7.8.)
☆ 加茂荘花鳥園・加茂邸(掛川市)見学
1.「森掛川」I.C.より加茂荘花鳥園。温室と鳥舎。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202006article_2.html
2.花菖蒲園と長屋門。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202006article_3.html
3.加茂家住宅(1) 正玄関、土間、大黒柱・梁、庭の池と亀島と花。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202006article_4.html
4.加茂家住宅(2) 座敷、広縁・濡れ縁、廊下交差箇所の納まり、差鴨居。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202007article_1.html
5.加茂家住宅(3) 床の間 2か所。一般の柱と同材同寸法の床柱と長押の関係。床の手前の横の位置の付書院。きれいな襖絵。〔今回〕
6.加茂家住宅(4) 加茂家住宅の神棚は「竈の神さま」なのか。「浜松流神棚」を他地域に押しつける一条の営業 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202007article_3.html
7.加茂家住宅(5)

新感覚の和風住宅 (Home life) - 講談社

建築用木材の知識 (これだけは知っておきたい) - 今里 隆

木造建築を見直す (岩波新書) - 坂本 功
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