「鳳神ヤツルギ」で知られる八剱八幡神社(木更津市)、太田山公園のきみさらづタワー・安西家住宅 訪問。
[第791回]
【A】八剱八幡神社
千葉県木更津市富士見1丁目 にある八剱八幡神社 というと鳳神ヤツルギ・・なんて言っても、関西人は知らない。関東人でも知らない人は少なくないのではないかと思う。私も知らなかった。 全国的知名度というと、八剱八幡神社のすぐ南西にある 護念山 證誠寺(しょうじょうじ)(浄土真宗)https://shojoji.net/ の方が、「しょう、しょう、證誠寺♪ 證誠寺に庭は、つんつん 月夜だ、み~んな出て、来い来い来い♪」の歌でおなじみ〔⇒《YouTube-証城寺の狸囃子(しょうじょうじのたぬきばやし)【歌あり】童謡》https://www.youtube.com/watch?v=aa4DLxca9ko&pp=QAA%3D 〕、「證誠寺の狸囃子」のお話で知られている・・かというと、「證誠寺の狸囃子」の話と野口雨情作詞・中山晋平作曲の童謡は知っていても、その歌の寺にモデルがあるとは知らなかったとか、もしくは、浄土真宗でも真宗山元派本山の山元山 證誠寺(しょうじょうじ)(福井県鯖江市)か真宗誠照寺派 本山の 上野山(うわのさん)誠照寺(じょうしょうじ)(福井県鯖江市)の話か・・とか思い、千葉県木更津市の證誠寺(しょうじょうじ)(浄土真宗本願寺派)が「しょうじょうじ の狸囃子」の寺だと知らない人は多いのではないかと思うが、「しょうじょうじ の狸囃子」の寺だと言われると、そうなの♪ ・・と多くの人間は思い、親しみを感じ、行ってみた~い、と思うのではないか。
「鳳神ヤツルギ」・・なんて言われても、フナッシーの方が全国的知名度は高い。私も最初は知らんかった。「最初は」というと誰でも最初は知らんのだが、アイダ設計のキャラクターショー をYouTube で見るまでは知らんかった。「ほうじん ヤツルギ」と読むらしい。
《YouTube-千葉ご当地ヒーロー「鳳神ヤツルギ」アイダ設計》https://www.youtube.com/watch?v=PivzTKUxuWs
などを見るまで私は知らんかった。 アイダ設計 が、ご当地ヒーロー「鳳神ヤツルギ」を作ったのか・・・というとそうではなく、
《ウィキペディアー鳳神ヤツルギ》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B3%B3%E7%A5%9E%E3%83%A4%E3%83%84%E3%83%AB%E3%82%AE によると、《 『鳳神ヤツルギ』(ほうじんヤツルギ)は、千葉テレビ放送(チバテレ)で放送されている、千葉県木更津市を舞台とした特撮テレビドラマ作品であり(チバテレは制作協力で参加)、木更津市のご当地ヒーローでもある。》ということで、アイダ設計が作ったわけではないらしい。 《YouTube-千葉ご当地ヒーロー「鳳神ヤツルギ」イオンモール津田沼》https://www.youtube.com/watch?v=1yOWyvdY6n0&pp=QAA%3D など見ると、アイダ設計とは関係のないキャラクターショーにも登場しているようだ。
どこが見どころかというと、それはやっぱり、なんといっても、おねえさんのふともも・・・?
「鳳神ヤツルギ」には、メインキャラクターとして「大和タケル」が登場するのだが、八剱八幡神社は「八幡神社」というものの祭神はホンダワケではなくヤマトタケルなのか? ・・というと、八剱八幡神社HP の「八剱八幡神社 由緒」http://www.yaturugi.net/history.html を見ると、祭神は、ホンダワケ(応神天皇)・オキナガタラシヒメ(神宮皇后)・タラシナカツヒコ(仲哀天皇)の3人とスサノオ・ヤマトタケルの5柱と記載されており、八剱八幡神社ではヤマトタケルも祭神になっているが、八幡神社の祭神・ホンダワケもまた祭神で、ホンダワケの方が主たる祭神のようだ。
電車で行く場合は、JRの木更津駅の西口で出て西に進んで南に行くとすぐの場所にある。 證誠寺(しょうじょうじ)から行くと、北に進んで東に右折すると正面に見える。



鳥居をくぐって直進すると、右に手水舎があり、正面に社殿がある。↓

↑ 拝殿。

↑ 社殿の右側(南側)側面。 (左)拝殿、(中)幣殿、(右)本殿。
社殿の左側(北側)に、大規模な木造の建物がある。「参集殿」↓ と言い、その社殿の側に授与所がある。

拝殿や本殿よりも、参集殿の方がでかい。 参集殿も立派な建物だけれども、ここで、これはなかなか・・と思ったのが、清涼飲料水の自動販売機。↓

最近は、清涼飲料水の自動販売機にラッピングと言って、設置する場所の提供者が好む塗装を自販機の設置業者がしてくれるらしく、企業が自販機の一部分にその会社の商品を表示するとかもできるらしいが、かつては、神社や寺などに清涼飲料水の自動販売機を設置すると、その神社や寺の景観と自動販売機の色合いとが合わないことがあったが、そういう場合に、今では、寺社の景観に合うような色合いや模様にラッピングすることができるようだ。
しかし、神社の場合、神社に合わせてということで、「神社色」、要するに赤白の二色でラッピングした自販機では、自販機の方が相当目立ってしまう場合がある。それを、この八剱八幡神社の清涼飲料水自動販売機(アサヒ系らしい)は木目調にして調和をはかっていた。
これは、あくまでも「木目調」であって木目調のラッピングかと思いきや・・・。 側面は金属に木目調のペイントをしたものだが、正面は本物の木なのだ♪
神社に行って、何に関心持ってるんだ・・と思われる方もあるかもしれないが、そこは何と言っても建築探偵団であるからして、こういうものに関心がある。
社殿の右側(南側)に、ソテツが植わっている。↓

現地の説明書きによると、このソテツは、大正15年(1926年)〔「ひどく不合理(1925)」治安維持法制定の翌年〕に、当時の(株)木更津銀行の頭取だった露崎銀平が森家から譲り受けて八剱八幡神社に奉納したもので、森家というのはどういう家かというと、君津市の草牛(そうぎゅう)という山中にあって、馬にのって鹿野山に登る人・下る人がその家の前で休憩を取る場所だったらしく、源頼朝も、そこで兵馬の疲れを癒し、お礼に蘇鉄(ソテツ)を植えた、というその蘇鉄だという話である。
八幡神というのは、元々は鍛冶・冶金などの神だったが、それが武神になり、源氏が氏神として祀るようになったらしく、源頼朝とも源氏としてのつながりがあり、八剱八幡神社も八幡神を祀る神社としての縁がありそうだが、それだけではなく、源頼朝が木更津を通る際に、八剱八幡神社に先勝祈願に訪れ、その後、神領を奉納したということがあった、という話で、そういう縁がある八剱八幡神社に、露崎氏が源頼朝が植えたという蘇鉄を奉納した、というもので、それが源頼朝「御手植えの蘇鉄」としてあるらしい。
しかし・・・、素朴な疑問として、蘇鉄て、南国のものというイメージで、源頼朝の時代からあったのかしらん・・? なんて思いませんか? 《ウィキペディアーソテツ》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BD%E3%83%86%E3%83%84 を見ると、《ソテツ(蘇鉄、鳳尾松、学名:Cycas revoluta)は、裸子植物ソテツ科の常緑低木。ソテツ類の中で日本で自生する唯一の種で、自然分布では日本固有種である。》とあり、「ソテツ類の中で日本で自生する唯一の種」「日本固有種」ということなら日本に昔からあったんかいなあ・・と思いそうですが、《日本の九州南端、南西諸島、台湾、中国大陸南部に分布する。主として海岸近くの岩場に生育する。なお、自生北限は宮崎県串間市都井岬である。》ともあり、「自生北限は宮崎県串間市都井岬」の植物を、まだ政権を取っていなかった時期の源頼朝が植えたというのは、源頼朝ではなく島津の殿様とかならまだしも、どうも、話に無理がありそうな気がしないでもない。まあ、神社の由緒とかお寺の寺伝とか、こういった「お話」というのは、どこまで本当のことかわからないものが多いので、何か似た話があったが源頼朝ではなかったのかもしれないし、実際のところ、どうなのかよくわからないが、そういう話だということで、その森家の人たちは大事にしてきたものだったのでしょう。
拝殿に向かって左側に授与所があり、お守りなど販売されているが、「ヤツルギ」とカタカナで書かれた「ご当地ヒーロー」ものの御守りもあった。さすがに、それを購入したいとは思わなかったが。
ヤマトタケルが、なぜ、祭神に入っているかという問題だが、『古事記』によると、ヤマトタケルは東征の際、三浦半島の走水あたりから海を越えて房総半島に渡ろうとしたが、船が動かず困ったところ、オトタチバナというヤマトタケルのメカケの1人が海に飛び込んで海神の怒りを鎮めたところ、海は穏やかになって浦賀水道を越えて房総半島に渡ることができた、というお話があり、房総半島に着いた後、海辺を見ると、オトタチバナの櫛が流れ着いていて、ヤマトタケルはオトタチバナを思い出して涙を流した・・・ということだ。
神奈川県横須賀市走水の走水神社では、ヤマトタケルとオトタチバナを祭神として祀っているのだけれども、それだけではなく、走水の付近には、ヤマトタケルの船が動かなくなったのはあのあたり・・・とかいう話があるらしいのだが、そんなもん、わかるわけないやろうが・・・・というよりも、もとより、ヤマトタケルというのは実在した人間ではないのであり、実在していないヤマトタケルがどうした、こうした、とか言われても、本当も作り話もない。
『古事記』には、
《 それより入り幸(い)でまして、走水の海を渡りたまひし時、その渡(わたり)の神浪を興して、船を廻らして得進み渡りたまはざりき。ここにその后(きさき)、名は弟橘比売(おとたちばなひめの)命 白したまひしく、「妾(あれ)、御子に易(かは)りて海の中に入らむ。御子は遣はさえし政(まつりごと)を遂(と)げて覆奏したまふべし」とまをして、海に入りたまはむとする時に、菅畳八重(すがだたみやえ)、皮畳八重、絁(きぬ)畳八重を浪の上に敷きて、その上に下りましき。ここにその暴浪(あらなみ)自(おのづか)ら伏(な)ぎて、御船得(え)進みき。・・・・ 》
( 『古事記』「中つ巻」「景行天皇 倭建命の子孫」 倉野憲司 校注 1963.1.16.岩波文庫 )
と書かれている。 「走水の海」と書かれているけれども、神奈川県横須賀市走水 という住居表示の地域があるが、倉野憲司の注では「走水の海」とは「浦賀水道」と書かれており、「渡りたまひし時」と書かれていて、「走水の海」を渡るのだから、この「走水の海」とは、横須賀市走水という住居表示の地域と限定して考えるべきではなく、浦賀水道を「走水の海」と表現していたと考えるべきでしょう。
ヤマトタケルは実在した人間ではないが、しかし、『古事記』『日本書紀』でヤマトタケルとして書かれる話のモデルになった人間というのがいたという可能性なら、可能性としてないとは言えない。モデルになったような話があった可能性はあったとしても、その場所がどこだと断定できるわけがないのに、そこだと言われているような場所があるというのは、それは、戦中、軍国主義の時代に、国民の精神支配をおこなうために、そういったお話が創作されて、そこだと言われた場所もできたのでしょう。現在でもその名残のようなものは残っており、又、そういったものを復活させたいという人もいるようです。 走水神社は、走水港のすぐそばで、海のすぐそばであるにもかかわらず、きれいな真水が出る井戸があり、おそらく、走水神社は、海のそばでありながらきれいな真水が出る井戸を尊重して神聖なものとしたのが起こりではないか。 そこに、ヤマトタケルとオトタチバナの話を結びつけて、さらに、ヤマトタケルの話のモデルになった人がいたとして、その一行が三浦半島から浦賀水道を船で渡ったとしても、どこから出てどこに着いたのか、なんてわかるわけないのだが、それを走水の港からでたと決めつけたのでしょう。
同様に、房総半島側で着いた場所はどこか・・という点について、木更津市では木更津だとしているらしいが、特別に論拠があるわけでもなさそうです。
『古事記』にも、
《 ・・故、七日(なぬか)の後(のち)、その后の御櫛(みくし)海邊(うみべ)に依りき。すなはちその櫛を取りて、御陵を作りて治め置きき。・・》
( 『古事記』「中つ巻」「景行天皇 倭建命の子孫」 倉野憲司 校注 1963.1.16.岩波文庫 )
と書かれていて、オトタチバナの櫛が海辺に流れ着いたという記述はあっても、房総半島のどこに船がついたのかも、櫛が流れ着いた場所はどこかということも『古事記』には書かれていない。

古事記 (岩波文庫) - 倉野 憲司
横須賀市側では、横須賀市走水 のあたりから出港したことにしているらしいが、一般的にはできるだけ短距離で海は渡りたいでしょうから、横須賀市の走水のあたりから船出したとして、できるだけ短い距離でたどりつける房総半島側というと、富津あたりになる。木更津では北上することになる。 もっとも、出港したのがどこなのか、ということも、もとより、ヤマトタケルは実在した人間ではないから、正しいも間違っているもないが、そのお話のモデルになる行動をとった者がいたとしても、出港したのがどこなのかはわからないわけで、走水港のあたりと違うかと言う人があったとしても、それは可能性の1つとしてはないとは言えないという程度の話であり、浦賀水道は「走水の海」と表現されるくらい潮の行き来がある場所だったと考えると、東に最短距離で海を渡ろうとしたが、太平洋から東京湾内部へ向かって潮が流れている時だったので北に流されて木更津あたりに着いた・・ということも、あくまでも、いくつも考えられる可能性の1つとしてならば、ありえないとは言えないかもしれない。 しかし、それはあくまでも、いくつもある可能性の1つとしてありえないとは言えない、という程度の話である。地図を見て考えると、もしも、流されることなく浦賀水道の最も短い距離の場所を渡ることができたとすると、横須賀市の走水港からなら富津あたりに行くのが妥当だろう。今の交通機関で考えると、走水港の少し南の久里浜港から出ているフェリーは鋸山の北側の浜金谷に行く。木更津よりはかなり南だが、浜金谷まで行かなくても、最短距離で浦賀水道を渡れたとすると富津あたりだろう。但し、最短距離の場所というと、逆に潮の流れは激しい場所とも考えられる。むしろ、東京湾の多少は内側の方が波は静かではないかと考えると、横須賀市の走水港まで行かなくても、金沢文庫あたりから君津あたりめがけて進んでも良さそうに思えるし、木更津に着くのなら、東京湾アクアラインだって川崎と結んでいるように、川崎でなくても、横浜市の磯子かそのあたりから出港しても良さそうにも思える。そもそも、このヤマトタケルという人は、いったい、どこに行きたかったのか? その頃は、今のような東京はなく、東京がこの付近の中心地だったわけでもないとしても、ヤマトタケルて、この人、いったい、どこに行きたかったの? ・・て感じ・・しませんか?
「小碓命の東伐」なんて言うけれども、海を渡るだけでも、ほうほうのていでなんとかやっと渡ったという一行が「東伐」なんてできるの? ・・て感じもしませんか?
「きみ、去らず」が木更津になった・・というようなことを木更津市で言っている人もいるようですが、おそらく、違うでしょう。木更津市の南隣は君津市で、「きみつ」と「きさらづ」をくっつけると、
「きみ(つ)(き)さらづ」で、「きみ、去らず」になる・・
・・としても、ヤマトタケルとは関係ないと思う。たぶん。 むしろ、江戸時代は「木更津船」という船で木更津港と江戸とを結んだとか言うし、港は昔からあったようで、今も港はあり、木更津と川崎を結ぶ東京湾アクアラインなんてのも開通したように、東京湾の西側と陸を通らずに行き来したくなる立地であり、地図を見ると貯木場もあるようで、
「木」+「腐らず」+「津」=木更津
の方が、まだしも、ありそうな感じがする。
『鳳神ヤツルギ』に登場するタケルとキサラの「キサラ」という女性の名前は、木更津(きさらづ)の最初の3文字を取って「キサラ」みたい。《ウィキペディア―鳳人ヤツルギ》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B3%B3%E7%A5%9E%E3%83%A4%E3%83%84%E3%83%AB%E3%82%AE によると、大和タケル・橘マリなる登場人物が出るらしいが、橘マリの「橘」はオトタチバナ(弟橘)の「橘」なのだろう。
ヤマトタケルの話というのは、西のクマソや出雲タケルを成敗しに行く時と、東征とではイメージがかなり違う。 西に行く時は、英雄ヤマトタケルにしては、やることがせこい。女に化けて宴会場に忍び込み、相手のそばによってグサァ~ッと騙し討ちで刺し殺すとか、なんか、昔、『がきデカ』という漫画で「こまわりくん」が、「バーのねーちゃんに化けて刺し殺す」なんて話をして、「おまえは、本当に卑怯なやつだな」と西城くんが言う場面があったが、そんな感じ。 「バーのねーちゃん」ではないとしても、女に化けて近づいて相手が気を許したところをグサァ~ッ! ・・。さらに、相手と親しくなったように見せて、互いに川に入って禊をしようと川に入り、自分が先に陸地に上がって、まだ川にいる相手に、おまえを成敗してやると言い、相手があわてて剣を取ると、おまえの剣はこっちだ、すりかえておいた・・とかやって倒すとか、騙し討ちの連続。 なんか、英雄にしてはやることがせこい! どっちが悪もんやらようわからん。
ところが、クマソや出雲タケルを倒して都に凱旋してきたヤマトタケルを待っていたのは、今度は東国を成敗せよという命令で、ヤマトタケルは「父は私に死ねと言うのか」と嘆く。このあたりから悲壮感が出てくる。
相模の国では・・というのか、話の内容から考えて、相模なのか駿河なのかようわからんのだが、今度は、かつて自分が得意とした「騙し討ち」を逆にやられて、草地で火に囲まれるが、そこで秘剣「草薙」が登場して火の向きを変える。
次いで、浦賀水道を船で渡ろうとすると、今度は船が動かない。そこでロシア民謡の「ステンカラージン」よろしく女を海に投げ込めば海神はそのいけにえを喜んで船を通してくれるだろうと考えて、メカケの1人のオトタチバナを海に投げ込んだところ、予想通り、海神は海を静かにして船を通してくれた・・・と。
※ 《 ステンカラージン (ИЗ-ЗА ОСТРОВА НА СТРЕЖЕНЬ)》https://www.youtube.com/watch?v=kmAQc2nyY2k
なんか、昔から、洋の東西を問わず、「英雄」てのは女を海なり川なりに投げ込んでおのれが生き残るというのを得意技にしてきたのだろうか・・・。
走水神社では、オトタチバナとヤマトタケルを「祭神」だということにしていて、木更津市では、太田山公園の上に「きみさらづタワー」を作り、二本の柱の上にヤマトタケルとオトタチバナだという像を作っているけれども、『古事記』の話によると、ヤマトタケルは、浦賀水道でオトタチバナを海に沈めて房総半島に渡った後、西に帰ると、オトタチバナの一周忌もすまないうちに尾張の熱田で別の女を妻にしているわけで、なんだか、オトタチバナとしては「死に損」みたいなものなのだ。 英雄だかなんかしらんが、ひとりの女を浦賀水道で海に沈めておきながら、一周忌もすまないうちに尾張の熱田で別の女とくっつくなんて、このチャラ男、いったい何???
しかも、熱田で別の女と結婚すると、伊吹山の神を退治すると言うものの、調子こいて、「猪木、ボンバイエ♪」て感じで〔⇒《YouTube-https://www.youtube.com/watch?v=BvmqYM1xpZA 〕、こいつは秘剣「草薙」なしで素手で退治してやる・・なんて言って出かけて返り討ちにあう。アホやんけ・・・。まあ、だいたい、女の前でええかっこしようという男というのは負けると相場は決まっとるんや、ほんま・・。
そして、大和に帰りたい帰りたいと思いつつ、三重県の亀山市あたりまで来て力尽きて死んでしまうが、大和に帰りたいというヤマトタケルの魂は体から抜け出して大鳥となって西に飛び立ち・・・、そんでもって、懐かしい大和に着地したのならまだわかるが、大和を通り越して、大阪府堺市の鳳神社に着地した・・・て、なんで、大和を通り越してしまうんだよお・・・、なんか、もう、わけわかんないよ・・・て男がヤマトタケルだったのだ・・。
《 その国より科野(しなの)国に越えて、すなわち科野の坂の神を言向(ことむ)けて、尾張国に還り来て、先の日に期(ちぎ)りたまひし美夜受(みやず)比売の許(もと)に入りましき。・・・ 》
( 『古事記』「中つ巻」「景行天皇 倭建命の子孫」 倉野憲司 校注 1963.1.16.岩波文庫 )
と、『古事記』には書かれており、オトタチバナが浦賀水道に身を沈めた後、西に帰ると、一周忌も経たないうちに、ミヤズヒメの「もとに入りましき」なんてことやっとるわけですよ、この薄情もんの男は! なに、このチャラ男!!! ・・て思いませんか?
もっとも、ヤマトタケルは実在した人物ではなく、その話のモデルとなった人間がいたということなら可能性としてないわけではないとしても、モデルとなった人物がいたとしてもその名前は「ヤマトタケル」ではなかったであろうし、又、1人の話ではなく、何人かのいくつかの話を合体させて『古事記』『日本書紀』には「ヤマトタケル」という男の話としてまとめられたという可能性もあるわけで、浦賀水道でオトタチバナを海に投げ込んだ男と、愛知県でミヤズヒメと「まぐわひ」した男は別人ということも可能性としてはあるが、仮に『古事記』の話を前提として考えると、愛知県を通って東に行く時には、ミヤズヒメと戻ってきた時に結婚しましょうと約束しておいて、浦賀水道で別の「妻」のオトタチバナを海に沈めて犠牲にしておのれらは房総半島に船で渡り、西に戻って愛知県まで来ると、オトタチバナの一周忌もすまないのに平気でミヤズヒメと「まぐわひ」する男・・・て、なんとも薄情で身勝手な男・・。なんか、「女性の敵」て感じ・・しませんか?。
「鳳神(ほうじん)ヤツルギ」の「鳳神(ほうじん)」て何なんだ・・というと、ヤマトタケルの魂が三重県亀山市から大鳥になって大阪府堺市の鳳(おおとり)神社まで飛んで行った・・・という話から、「鳳の神」で「鳳神(ほうじん)」ということではないかな・・・。
大和に帰りたい帰りたい・・という思いが大鳥になって西に飛び立った・・・というのなら、大和に着地せんかい! なんで、通り越して大阪府堺市まで行くねん・・・。堺になんかええもん、あったんかい?
こういうことを考えると、『古事記』に書かれているオトタチバナの話というのは、ヤマトタケルの妻の1人のオトタチバナが自ら海に身を沈めて海神の怒りを解いた・・という話に書かれているけれども、オトタチバナという女はどういうことをした女なのか、どういうデショウの女なのか・・ということが『古事記』には書かれていない。
『古事記』に書かれているオトタチバナの話というと、浦賀水道で海に身を沈めたという話と、ヤマトタケルとの間に子供があってなんとかいう名前だ、という話だけで、それ以外には存在感がない女なのです。・・ということは、実際は『古事記』の記述のようにオトタチバナが自ら海に飛び込んだのではなく、たいして有力な縁故のない女を、浦賀水道を渡る際に、いけにえとして海に投げ込んだのではないのか?
その方がありそうな話だと思いませんか?
『古事記』をよく読みますと、オトタチバナというのは、ヤマトタケルの「妻」の1人とされているけれども、浦賀水道を船で渡ろうとした時、すでに子供があったのです。はらんでいたというのではなく、それより前に産んだ子供があったのです。 ヤマトタケルのオトタチバナによる子供というのが『古事記』に書かれているのです。 普通に考えてですよ。昔から言いますでしょ。
「女は弱し。 されど、おばさんは強し。」・・・て。さらには「おばさん通れば道理ひっこむ」とか「そこのけ、そこのけ、おばさん通る」とか、「泣く子もおばさんには勝てない」とか・・・。
それも言いますけれども、「女は弱し、されど、母は強し」なんて言うように、普通に考えて、すでに子供がある女が、子供を残して海に身を沈めますでしょうかねえ・・・? あなた、こういうこと考えたことない~い?
1970年頃、花登筺『銭の花』のテレビ番組の『細腕繁盛記』での話。伊豆熱川の旅館「山水館」に加代が嫁入りした時、加代の夫、正吾とその妹の正子がいて、さらにその妹に春江がいたが、春江は正子などから下の扱いにされていた。なぜ、春江だけ「正」という字が入ってないのか。もしかして・・と思い夫の正吾に尋ねてみたところ、母親が違った。春江の母は春江を産んだ後、追い出されるように家を出て行き、残された春江は継子としてつらい立場で成長した。大きくなった春江が母に再会した時、春江は「どうして(自分とともに)死んでくれなかったの」と言うが、それに対して母親は「母は死ねません」と答える・・という場面があった。自分ひとりなら、死んでしまう・・ということを考えても、子供がある母は死ねません・・と。
※ 《 銭の花 細うで繁盛記 旅館山水館》https://www.youtube.com/watch?v=jlipoy1IH4U
私は、このオトタチバナの話を、小学校低学年の頃、1960年代後半に、『古事記』より前に『漫画日本の歴史』で読んだのだが、夫のためを思って自ら海に身を沈める・・という話なので、「ヤマトタケルの妻のオトタチバナ」には、その時点で子供はないものだろうと思いこんでいたのだが、『古事記』をじっくりと読むと、オトタチバナが産んだ子供の名前が記述されているのだ。
《 この倭建の命、伊玖米(いくめの)天皇〔垂仁天皇〕の女、布多遲能伊理毘売(ふたぢのいりびめの)命を娶して、生みませる御子、帯中津日子(たらしなかつひこの)命。
またその海に入りたまひし弟橘比売の命を娶して、生みませる御子、若建(わかたけるの)王。
また近つ淡海(あふみ)の安(やすの)国の造の祖、意富多牟和気(おほたむわけ)の女、布多遲比売を娶して、生みませる御子、稲依別(いなよりわけの)王。
また吉備の臣 建日子(たけひこ)の妹(いも)、大吉備建比売を娶して、生みませる御子、建貝児(たけかひこの)王。
また山代の玖玖麻毛理比売(くくまもりひめ)を娶して、生みませる御子、足鏡別(あしかがみわけの)王。
また一妻(あるみめ)の子、息長田別(おきながわけの)王。凡そこの倭建の命の御子等、あわせて六柱なり。・・ 》
( 『古事記』「中つ巻」「景行天皇 倭建命の子孫」 倉野憲司 校注 1963.1.16.岩波文庫 )
この記述、よく見てください。嫁は6人いて子供も6人できたように見えるけれども、もう1人、ミヤズヒメとも「許(もと)に入りましき」やっとるわけですが、『古事記』のこの記事を見ると、ミヤズヒメとの間には子供はできなかったように見えます。ミヤズヒメは別として、他の6人の嫁ですが、天皇の娘が1人、近江の国の造の祖の娘、吉備の臣の娘と父親が明記されているのが2人。一番、軽い表記は「一妻(あるみめ)」と名前すら書かれていない女が1人。オトタチバナともう1人、山代のククマモリヒメの2人は父親が誰かの記載がない。ククマモリヒメは「山代の」という出身地が記載されているが、オトタチバナは出身地の記載もない。
このあたりの記述から考えると、
1.親の力が最も強いのが垂仁天皇の娘で、
2.次いで近江の国の造の祖の娘と吉備の臣の娘。
4.その次が出身地の記載がある山代のククマモリヒメ。
5.オトタチバナは名前の記載もない。
6.「一妻(あるみめ)」は名前も記載がない。
オトタチバナはこの6人の中で下から2番目。
ミヤズヒメはその子供の名前は記載がなく、ヤマトタケルの子は六柱と記載されているところを見ると、ミヤズヒメに子はできなかったのでしょうか。しかし、
《 故、尾張の国に至りて、尾張の国の祖、美夜受比売の家に入りましき。すなはち婚(まぐは)ひせむと思ほししかども、また還り上らむ時に婚ひせむと思はして、期(ちぎ)り定めて東(あづま)の国に幸(い)でまして、悉に山河の荒ぶる神、また伏(まつろ)はぬ人等を言向け和平(やは)したまひき。》
《 その国より科野(しなのの)国に越えて、すなはち科野の坂の神を言向(ことむ)けて、尾張の国に還り来て、先の日に期(ちぎ)りたまひし美夜受比売の許(もと)に入りましき。ここに大御食(おおみけ)献りし時、その美夜受比売、大御酒甕(さかづき)を捧げて献りき。ここに美夜受比売、それ霞の襴(すそ)に、月経(つきのさはり)著ききたりき。故、その月経を見て御歌(みうた)よみしたまひしく、
ひさかたの 天(あめ)の香具山 利鎌(とかま)に さ渡る鵠(くび) 弱細(ひはぼそ) 手弱腕(たわやがいな)を 枕(ま)かむとは 我(あれ)はすれど さ寝むとは 我(あれ)は思へど 汝(な)が著(け)せる 襲(おすひ)の裾に 月立ちにけり
とうたひたまひき。ここに美夜受比売、御歌に答へて曰(い)ひしく、
高光(たかひか)る 日の御子 やすみしし 我が大君 あらたまの 年が来経(きふ)れば あらたまの 月は来経往(きへゆ)く 諾(うべ)な諾な諾な 君待ち難(がた)に 我(わ)が著(け)せる 襲(おすひ)の裾に 月立ちなむよ
といひき。故ここに御合(みあひ)したまひて、その御刀(みはかし)の草薙の剣を、その美夜受比売の許に置きて、伊吹の山の神を取りに幸行(い)でましき。 》
( 『古事記』「中つ巻」「景行天皇 小碓命の東伐」 倉野憲司 校注 1963.1.16.岩波文庫 )
・・・と、ミヤズヒメは、ヤマトタケルの子供を産んだ6人の女よりも記述ははるかに多く、そして、海に身を沈めたという行為は載っていても名前だけで誰の娘かどこの出身かも掲載されないオトタチバナとは違って、「尾張の国の祖」の娘だと明記されており、ミヤズヒメを入れて7人として見ると、
1.「垂仁天皇の娘」のフタジノイリビメ。
2.「尾張の国の祖の娘」で『古事記』の記述が最も多いミヤズヒメ。
3.「近江の安の国の造の祖の娘」のフタジヒメ。
「吉備の臣の妹」のオオキビタケルノヒメ。
5.「山代の」ククマモリヒメ
6. オトタチバナヒメ
7. 一妻(あるみめ)
・・という序列が見える。
このあたりを考えると、浦賀水道で海神だか水神だかのいけにえに海に投げ込むには、天皇の娘を投げ込むわけにはいかないと考えて、「下から二番目」あたりの女が選ばれた・・というのは、十分考えられる話ではないか。
大和から東国に行く途中、尾張ですでにミヤズヒメと話はできていて、予定通り、帰りにミヤズヒメと「まぐはひ」したわけだが、その途中に、何人もいた「妻」なのかメカケなのかの女の中から、重要性の低い女を海に投げ込んで浦賀水道を渡った。オトタチバナはそういう使い方をされた女だった・・ということか。
・・で、殺されたオトタチバナの怨念で、ヤマトタケルはミヤズヒメと「まぐはひ」した後すぐに、伊吹山の神を退治してやると調子こいて出かけたのはいいが、ミヤズヒメの許に秘剣「草薙」を置いていくものだから、伊吹山の神に返り討ちにあって死ぬことになった。自分を殺しておいて他の女と平気で「まぐはひ」する男に、殺された女の怨念が恨みを晴らした・・・・のか?
ヤマトタケルは実在した人間ではないので、ヤマトタケルのお話というのが事実かそうでないかと議論してもしかたがないのですが、ヤマトタケルの話のモデルになるような行為をした人間がいたということなら、可能性としてないとは言えないわけですが、そのモデルになる行為をした人が三浦半島から船で房総半島まで渡った時に、上陸した房総半島側の場所はどこか、ということもわからないのですが、木更津市あたりかもしれない・・ということで、八幡神社として八幡神を祀る八剱八幡神社で、ヤマトタケルは祭神の末席に入れられていて、祭神というのは3柱か5柱かにされることが多いので、それで、もう1人、スサノオを入れた・・・というところ・・かな・・。
それとも、「木」+「腐らず」+「津」=木更津 の可能性はあると思うのですが、地名がその由来でなかったとしても、港があり、木材を貯木したとかいう可能性は考えられるわけで、そこから、「木の神さま」として、イソタケルやククノチノカミよりも知名度が高いスサノオが祀られた・・という可能性もないことはないのではないか・・・。
《ウィキペディアー鳳神ヤツルギ》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B3%B3%E7%A5%9E%E3%83%A4%E3%83%84%E3%83%AB%E3%82%AE によると、「鳳神ヤツルギ」という「ご当地ヒーロー」では登場人物の名前が、「大和タケル」「橘マリ」「草薙靭(くさなぎ じん)」などで(東京湾アクアラインの「アクアマリン」とか證誠寺の狸囃子の「狸たち」とかも出てくるらしいが)、「ヤツルギ」は「鳳神」でヤマトタケルが他界した後に西に向かってヤマトタケルの魂が大鳥となって飛んでいき、大阪府堺市の鳳(おおとり)神社に着地した・・というお話があって全国に大鳥神社があるその「鳳」からきたものと思われるが、「ヤツルギ」は木更津市の八剱八幡神社から来ているのは明らかであることから、八剱八幡神社というのは、主祭神はヤマトタケルで「八幡神社」と言うものの八幡神≒ホンダワケは祀っていないのか? ・・と勘違いしそうになるが、八剱八幡神社のホームページを見ると、あくまでも主祭神は 八幡神≒ホンダワケ であり、八幡神を氏神とした源氏とつながりがあるとする神社で、源頼朝が植えたというお話のある蘇鉄の木が植わっている神社であり、ヤマトタケルは祭神になっているとはいえ、5番目の祭神であり、ヤマトタケルが浦賀水道を船で渡る時にいけにえとして海に投げ込まれたオトタチバナという女が髪にさしていたという櫛が房総半島側に流れ着いたという記述が『古事記』にあってもそれが房総半島のどこかはわからないわけだが、それを木更津市ですうということにしたい人が木更津市にいたようで、それを木更津市では「木更津市総鎮守」を名のる八剱八幡神社および5番目の祭神のヤマトタケルと結びつけた人がいたのだろう。 しかし、八剱八幡神社は、だからといって、本来の祭神の八幡神を捨て去るようなことはしていないようで、あくまでも、主祭神は八幡神であって、ヤマトタケルは5番目の祭神として祭神に入っているという位置づけのようだ。
アイダ設計は、キャラクターショーなどを実施し、それだけではなく、保育園・幼稚園などにそれを見に来てもらうように話をするといったこともやり、その結果、アイダ設計で契約したわけでもない人でも、キャラクターショーを見に行ったことから何だかアイダ設計という会社とそこの従業員に親しみを感じるようになり、特に、子供が味方になるということがあり、それが営業活動に貢献するようだ。住宅建築業の会社は、契約をあげるために、営業にだけ涙ぐましい努力を要求するのではなく、会社としてやっているからには、会社として売るための努力をするべきで、その点ではアイダ設計は、キャラクターショーなどを実施し、自社の営業所のビルの屋上には「アイダ設計」と書かれた大きな看板を設置し、テレビ広告などもやり、会社として「売るための努力」を相当している、という点は高く評価できると思う。 しかし、そういうものに費用をかけると、それが販売価格に加算されることにならないか、という懸念もあるわけだが、「コストと利益を比較考量して」考えるなら、そういう費用をかけることで、それによって営業しやすくなり、契約があがりやすくなるのなら、「コストと利益を比較考量して」、むしろ、費用を節約することにつながる可能性もある。
実際のところ、アイダ設計(株)の千葉県市川市の行徳の営業所にいた時だが、近所の家にポスティングに行った時、近所の人と会うと、「ああ、アイダ設計さ~ん♪」と無茶苦茶歓迎されて驚いた、ということがあった。何、これ?・・・それまで、他の会社で、ポスティングや飛込訪問で行ってそんな対応してもらったことなんてない。 それは、そういう反応をしてもらえるための努力を会社としてしていたのだと思う。
新華ハウジング(有)〔千葉市中央区鵜の森。 建設業。2013年11月に正式に倒産〕でポスティングをしていると、ある家の郵便受けに入れたのを見て、隣の親父が「うちは要らないから」と投入を拒否したり、駅前でチラシを配布しようとしてもなかなか受け取ってもらえなかったり、そういう経験を何度もした。
(株)一条工務店 では、1992年に入社した頃、同社は静岡県中西部・愛知県においては「地元の会社」という「売り」があり、静岡県中西部・愛知県向けの商品であり〔「遠州好み」。古田織部が好んだ「織部好み」・千利休が好んだ「利休好み」のように、小堀遠州が好んだという意味の「遠州好み」ではなく、遠州人の好みに沿った、という意味の「遠州好み」の商品〕、そして何より、「セゾン275S1」というタイプを「施工面積」という延べ床面積よりも広く計算される同社独自の計算法の面積、結果として「坪あたりいくらですか」ときかれた時に安めの額になる計算法で東京都では坪55万円で売らされていたのに、それを浜松・掛川の営業は坪48万円、名古屋の営業は坪49万5千円でウルトラのダンピング販売していて、それだけでも他の地域より売れて当たり前であったが、その静岡県中西部・愛知県のみテレビ広告をドカンと一発♪ やりまくり、テレビ番組のスポンサーにもなっていた。機械プレカット工場も浜松に設けて工場見学会をやり、耐震実験も浜松工場の敷地内でやって静岡県中西部・愛知県の顧客にアピールする販促手段を取りまくった。全国で営業やってる会社が、なぜ、静岡県中西部・愛知県のためだけの販促活動をやりまくるのか?(2011年3月の東日本大震災の後、1996年にバカ息子が女性を刺し殺した時に社長を辞任して以来、社長でも会長でも相談役でもなくなっていたはずの大澄賢二郎が主唱したとして、「お世話になった浜松市に恩返しをしたい」などと称して「防潮堤の費用」と称して300億円を寄付したというのだが、なんで、全国から利益をあげてきた会社が、浜松市にだけ寄付するんだ? おかしいだろうが! 浜松市以外の市町村・都道府県には世話になってないとでも言いたいのか?!? ) さらに、1992年、掛川営業所が全国一の営業成績をあげている・・と(株)一条工務店の経営者は言っていたのだが、それからしておかしいのだ。同年、私が入社した東京都江東区潮見の東京展示場は、林野庁が運営する「木を知ってもらう施設」「国産材を理解してもらい、国産材の利用促進をはかる施設」として作られたもので、住宅展示場は「国産材を使用している会社」のみが出店できることになっていたが、あくまで、木と国産材を理解してもらうための施設であって、売るための住宅展示場ではないので、住宅展示場に幟を立てたり横断幕を垂らすなどは禁止という展示場で、来場者は、たとえば、
(1)「『舞浜』の東京ディズニーランドに行こうとしたけれども混んでるのでやめて、『葛西臨海公園』で葛西臨海公園に行こうと思ったけれどもそれも混んでいるのでやめて、『新木場』で夢の島熱帯園に行こうとしたけれどもそこも混んでいるのでやめて、『潮見』のウッディランド東京は混んでないみたいなので来た」なんて「観光客」や、
(2)林野庁が運営する施設なので国家公務員のおっさんどもが仕事で視察に来たり、
(3)高校生の女の子が先生に連れられて家庭科の授業で見学に来たり、
(4)建築の専門学校の生徒が先生からウッディランド東京を見学してくるように言われて来たり・・、
そういう相手の接客をして、そういう相手から契約をあげろと言われても、家庭科の授業でやってきた高校生の女の子にどうやって契約してもらうんだ??? ・・普通に考えて、「普通の住宅展示場」ならば、「将来のためを思って見学に来たのであって、今すぐとは考えていない」と言う人があり、実際にそうだという人もあるが、基本的には戸建住宅を建てることを検討している人が行く所だ。 「売るための展示場」に勤務している者と「国産材を知ってもらうため」の展示場にいる者とでは条件は明らかに違う。その「観光客」の割合が大きい東京展示場は、「三世代がゆったりのびのび住める家」というキャッチフレーズにしていたが、「三世代がゆったりのびのび住める家」とはどういう間取りの建物かというと、「お母さんとお嫁さんが一緒に調理のできるシステムキッチン」とか「親戚中が集まった時も対応できる二間続きの和室」とか「親戚の人など多くの人が来た時には補助席としても使えるリビングルームの大型のベイウインドウ」とか、来場者から「何、これえ!?!」「イナカの家みた~い!」「こんな家、東京で建てる人なんてあるわけないでしょうよお」と言われる建物だったのだが、営業は最大で13人もそんな展示場に押し込められていたのだ。静岡県中西部・愛知県向けで開発された商品を売っていた静岡県掛川営業所(展示場)よりも、「うわっ、田舎の家みたい!」「何、これえ?」「東京でこんなイナカの家みたいの建てる人なんてあるわけないでしょう」と来場者から言われまくり、「浜松の人というのは、こういう家に住んどるわけですかあ」と、まるで、登呂遺跡https://www.shizuoka-toromuseum.jp/toro-site/ か何か、縄文時代の竪穴住居か何かを見学に来た人みたいに言われたり(こういうことを言うと、「そういうことを言うからいかんのだあ~あ!」と近藤路夫は激怒するのだが、怒りたいのなら、実際にそういうことを言った来場客に怒ってもらいたいもので、言われた人間に向かって怒らないでほしいものだ)、そういう展示場の方が、新築できれいな浜松などの展示場よりもそこに勤務させられていた営業社員の数が多かったのだ。ふざけんな! コンビニの店員を倍に増やしたら販売量は倍に増えるか? コンビニの店員を3倍に増やしたら販売量は3倍に増えるか? 増えるわけないだろうが! (株)一条工務店の東京展示場の営業は「遠州人」〔(株)一条工務店の遠州人〕にそれをされていたのだった。 営業社員の数が適切な数より少ない状態から1人増やしたとすると、1人分、契約も増えるだろうが、すでに飽和した数の営業がそこにいるのに、さらに増やせばどうなるか・・・というのを、経済学では「収穫逓減の法則」と言う。 農夫が1人から2人、3人と増えていくと、最初は2倍・3倍と収穫量は増えていくが、そのうち、好ましい農地がなくなっていき、条件が悪い場所でも農業をせざるをえなくなり、農夫の数がさらに増えると、全体の収穫量は増えても農夫1人あたりの収穫量は減っていく。 その展示場にふさわしい営業の数から考えて、1992年の東京展示場は営業の数が多すぎたのだ。かつ、そういう展示場は2階ホールは端から端まで床鳴りがして、直してくださいと言っても直してもらえず、他方で浜松などの展示場はいずれもきれいな展示場で床鳴りなんてしないのだ。ふざけんな、「遠州人」!
おのれら、しまいに血い見るどお~お!!! おのれら、ええかげんにせんと、そのうち、刺されるぞお!・・・とか思っていると、1996年、なんと、大澄賢二郎初代社長のバカ息子で(株)日信というグループ会社で損害保険の会社の社長に名目上なっていた(ということは、「仕事はしないで社長の給料を盗っていた」ということではないかと思われる)大澄隆史(男。当時、20代)が、つきあっていた女性、同棲していたこともある女性で浜松に住んでいた人を、東京から高速道路をクルマでぶっとばして行って刺し殺しよった。「羽柴秀吉の中国大返し」のごとく、高速道路を東京までとんぼ返りをした上でしらばっくれたが、きょうびの道にはあっちやらこっちやらにNシステムとかなんとかかんとかがついており、「女を刃物で殺し、官憲に追われ逃げる」という中国の小説『水滸伝』の登場人物にして梁山泊の3代目首領「呼保義 宋江(こほうぎ そうこう)」そのまんま、まさに「梁山泊の精神」を実行した男は懲役20年の実刑判決を受けた・・・、『太閤記』+『水滸伝』、「羽柴秀吉+呼保義 宋江」は成功しなかった・・・と、「あんたら、そんなことやってたら、そのうち、刺されるぞお」と思ってたら、逆に刺しよった( 一一) ( 一一) ( 一一) で、週刊誌やスポーツ新聞などに掲載されまくり、「浜松の有名工務店」として実名は掲載されなかったとしても「浜松の有名工務店」というほどは非浜松地域では有名ではないとしても「浜松の有名工務店」といえば(株)一条工務店以外にない。1996年、消費税が上がるので、上がる前に契約とりまくらないと上がった後は契約してもらうのは困難だということで、誰もが必死のパッチで動き回っていたまさにその時、初代社長のバカ息子はいったい何をやってくれるのか!!! (株)一条工務店は営業社員が少しでも営業成績があがらないと「赤字社員」だとか言っていじめまくるが、一番の赤字社員は初代社長のバカ息子だった!!! (株)一条工務店は営業社員の営業成績が悪いと「レッドカード」とか言って「転勤」辞令を出して、「おい、これは転勤だと言うけれども実際は辞めろということなんだぞ。どうだ、辞めないのか、どうなんだ」とか言って辞めさせるということを繰り返していたのだが、それは労働法の上では「人事権の濫用」になるのではないかと思うのだが、そういうバカ息子は関連会社の(株)日信の社長に名目上なっていたというが、そういうバカ息子は「レッドカード」どころか、普通に考えて、懲戒解雇が妥当だろう。(株)一条工務店とその関連会社において実際に働いてもいないのに、そういうバカ息子を関連会社の社長にならせた初代社長の大澄賢二郎もまた「レッドカード」だろう。「転勤」といっても日本国内ではだめで、(株)一条工務店の経営者が大好きなフィリピンもだめで、「シベリア送り」とかして「極寒のシベリア」で強制労働につかせれば、いくらかなりとも「真人間」に矯正されるかもしれん。(それでも矯正されないかもしれん、「電気ショック療法」とかロボトミー、もしくは、「化学的ロボトミー」と言われる薬漬療法とかでもやらないと「この病気は簡単には治らない」のではないか。)初代社長の大澄賢二郎は、それで、カッコだけ「社長を辞任しました」ということにして、「子供の頃からの竹馬の友」という山本庄一を影武者の社長にならせて、まさに『水滸伝』で「梁山泊」の2代目首領には晁蓋(ちょうがい)につかせて陰から「梁山泊」を動かし、晁蓋が自己主張をするようになりうるさくなって戦死させると、3代目首領にはあえてならずによそから呼んできた盧俊義を影武者の首領にならせてまたもや陰から「梁山泊」を動かそうとした・・というのを真似たのか、社長を辞任して会長にも相談役にもならなかったはずなのに、相変わらず会社運営に口出し、2011年3月の東日本大震災の後には、はっきりと表に出て来て「初代社長の大澄賢二郎氏の提案により」などと言って「お世話になった浜松市に恩返しをしたい」などと浜松市以外には世話になってないみたいなことを言って浜松市に従業員の給料へつって貯め込んだカネの一部から300億円の寄付をするというパフォーマンス(日本語に訳すと「ええかっこしい」)をやり、それを浜松市長で慶應大ア法学部卒の鈴木康友と福島第一原発事故の後に静岡県産茶葉の放射線量調査を拒否した静岡県知事の川勝平太が大絶賛した・・が(2代目社長の山本庄一は年齢が高齢になるとともに社長を引退して、銀行から連れて来た人間を3代目社長にならせたが、2代目社長の山本庄一と同年齢の初代社長の大澄賢二郎は相変わらず「初代社長」という立場を存続させていたようで)、バカ息子が「刃物で女を殺し官憲に追われ逃げる」という「梁山泊の精神」を実行したことにより社長を辞任した・・というのは「なかったこと」になったのか? 浜松市長の鈴木康友と静岡県知事の川勝平太は「女を殺して官憲に追われ逃げる」という「梁山泊の精神」を実行したバカ息子を関連会社の社長に任命していたことに対して責任を取るという形で大澄賢二郎が自ら社長を辞任したというのを「なかったこと」にすることに加担したかったのか? 「形式上の辞任」であっても、大澄賢二郎が自ら社長を辞任したのは、「後進に道を譲る」とかそんな理由でではなく「刃物で女を刺し殺し官憲に追われ逃げる」ということをやるバカ息子を関連会社の社長にならせていたということに責任を負うという形で辞任したはずであり、そうである以上は、単に「若い者に活躍の場を譲る」とかいうような理由で社長を辞任した場合とは違って、社長に復帰するとかは簡単にしていいことではないはずなのだが、浜松市長と静岡県知事はそういうパフォーマンスに加担していいのか?
ともかく、掛川営業所の営業成績が全国1位だとか掛川営業所の人間は言うておったようだが、勝手なことを言うんじゃない! 掛川営業所でそんなに契約が取れるのならば、掛川営業所の営業の数を倍に増やしたらどうなんだ! それだけ売れる営業所ならば、営業の数もそれまでよりも多くしていいはずだ。 それを「通算契約棟数全国1位」だと得意がっていた掛川営業所所長の近藤正夫はさせなかったのだ。ずっこいのだ、「遠州人」は! 普通に考えて、小さくないπ(パイ)を適度な数で分ける営業所と小さいπ(パイ)を何人もで分けさせられる営業所では、営業1人あたりで見ると、前者の方が「営業成績が優れている」という結果になったとしても当たり前だろうが! だから、(株)一条工務店の「通算契約棟数全国1位」なんてのは、八百長なのだ。八百長!!! 八百屋の長兵衛である!!! 「遠州人」〔遠州人一般ではなく(株)一条工務店の遠州人のことだが〕は根性ババである。根性がう〇こ でできている。 「審判は巨人びいきや」てなもので、(株)一条工務店の経営者というのは大部分が遠州人であり、「浜松・掛川・名古屋のまわしもの」みたいなやつばっかりであり、(株)一条工務店の経営者は公平性に欠けており、静岡県中西部・愛知県優先主義だった。 箱根の関より西、不破の関・鈴鹿の関より東の地域が「本国」であり、箱根の関より東、不破の関・鈴鹿の関より西の「植民地」とは明らかに差をつけていた。箱根の関より東、不破の関・鈴鹿の関より西の人間にとっては(株)一条工務店という会社は「浜松という後進国の外資系企業」みたいな性質があった。 それだけではなく、東京営業所所長を兼任していた営業本部長の天野隆夫もまた「浜松営業所長みたいな東京営業所長」「浜松の利益を代弁する東京営業所長」だった。何よりも、「渋谷といったら、小岩の東の方だらあ♪ 新宿というと、平井の北の方だら。そうだら。ぼく、東京はよく知ってるんだから。そう思うだら」とか何度も何度も何人もの前で大きな声で言う人が東京営業所長の天野隆夫さんだった。こんな人が東京営業所長なんだ( 一一)・・「渋谷といったら小岩の東の方だら♪」「新宿といったら平井の北の方だら♪」とか大きな声で何人もの前で言う人が東京営業所長だったのだ・・・と思ったが、そういう会社だった。
それで、その結果だが、浜松の本社で実施された研修に参加するため、新幹線で浜松駅まで行き、タクシーに乗ると、「一条工務店」とさえ言えば、タクシーの運転手は「よほどおかしなタクシーでなければ」間違いなく倉松町の本社まで行ってくれたのだ。すごい! 東京で「一条工務店」なんて言っても、「知っている人は知っているけれども、知らない人は知らないというくらいの知名度の会社だと思います」なんて言っても、「そうかしら。誰も知らないわよ。一条工務店なんて。知ってる人なんてないでしょお」と言われる会社だったのに、私は何人ものおばさんにそう言われまくったのに、浜松でタクシーの運転手に「一条工務店」とだけ言えば、ほとんどのタクシーが間違いなく(株)一条工務店の本社まで運んでくれる! すごい!!! この違いは何? ひとつには、(株)一条工務店の本社がかつてあった倉松町というのは、国道1号のバイパスの近くにあって自家用車で行くには便利な場所だが、鉄道の駅から遠いだけでなくバス停も近くにない、バスも通っていないという場所なので、タクシーにとっては「いいお客さん」だったので、タクシーの運転手はよく知っていた、ということもあったとは思う。しかし、それだけではない。浜松駅前からタクシーに乗ると、「一条工務店」という名前を出しただけで、運転手は「お客さんは家を建てる会社に勤めている人だと思うので、教えてほしいんだけど、私は今、年齢が◇歳で、年収は〇万円しかないんだけど、こういう者でも家は建てられるものなんでしょうか」なんて相談されるのだ! すご~い! 東京ではどうかというと、1993年、松戸展示場では、向かいの住友林業の展示場から出て来た家族連れの男の子が、住友林業の向かいの(株)一条工務店の展示場も入るものかと思って入ってくると、その母親が入口から「ちょっと、ここは入らないの。ここは入っちゃだめな所なのお! 早く、出なさ~い! ここは入っちゃだめな所なのお! 入っちゃだめえ~え!!! すぐに、出なさ~い!!!」と中に向かって大声で叫ぶ。 1993年1月に江東区亀戸でオープンした展示場に勤務していた人に聞いた話では、「セゾン」という商品名の亀戸の展示場に入ろうとした家族の親父が「一条工務店」と書いてあるのを見て、「おい、待てえ! 入っちゃだめだ、ここは! 『一条工務店』なんて書いてあるぞ。ここは西武じゃねえぞ、ここは! だめだ、こんな所、入っちゃだめだ。早く出ろ、出ろ! だめだ、こんな所、入っちゃ!!!」と叫んで出て行った・・・と。 それだけの違いがあったのだ。いわば、浜松・掛川・名古屋の営業というのは、その頃の東京圏の営業からすると、「巨人みたいや」「長嶋みたいや」とでも言ってやりたいような連中だったのだ。
〔⇒《YouTube-松山で流れるくたばれ読売(東京音頭)ヤクルトラッキー7 20190416》https://www.youtube.com/watch?v=8qAPp3RbB7s
⇒《YouTube-【阪神タイガース 大合唱】開幕戦の"商魂こめて"は凄まじい》https://www.youtube.com/watch?v=jqA-_IY2Gu8 〕
(株)一条工務店の浜松・掛川・名古屋の営業というのは、いわば、八百長で営業やっていたのである!!! 東京ドームでは、巨人の攻撃の時はホームからセンター方向に人工的に風を吹かせて、巨人の守備の時には逆にセンターからホームに向かって人工的に風を吹かせているのではないか・・というありそうななさそうな話があるのだが、(株)一条工務店の場合、浜松・掛川・名古屋の営業が打者の時にはホームからセンター方向に人工的に風を吹かせるようなことをしていたのだった。だから、掛川営業所長の近藤正夫が通算契約棟数全国1位だった・・などというのは八百長、ラグビーやってる人間と野球やってる人間でラグビーやってる人間の方が得点が多かったとしても、そんなものは当たり前! というものだったのだ。それを、「ラグビーやってる人間」(静岡県中西部・愛知県の営業)が「野球やってる人間」(東京圏の営業)に向かって、自分たちの方が多く得点あげたとか言って自慢しまくっていたのが1992年頃の(株)一条工務店だった。この「長嶋みたいなやつ!」・・と何度も思ったものだった。
浜松・掛川の人間は東京都で55万円のものを48万円、名古屋南営業所の人間は49万5千円でダンピング販売していたのであり、浜松・掛川・名古屋の人間は東京圏ではやらないテレビ広告をドカンとやりテレビ番組のスポンサーもやっていたのであり、宣伝のための耐震実験も浜松でやるなどしていたのだから、浜松・掛川・名古屋の人間、掛川営業所の近藤正夫さん、名古屋南営業所の近藤路夫さんの”ダブル近藤”、それに浜松営業所の平松さんは「粗利益」「あらり」で見ると1棟あたりの粗利益額は東京圏の営業の契約に比べて少ないはずなのに、報酬金額の上でも記録上でも、なぜ、1棟あたりの評価を同じだけ主張していたのか? どない考えても、ずっこいやんけ!!! 1990年代なかば、(株)一条工務店は、1年ごとだったか半年ごとだったかの「売上棟数番付」などというものを作成して、全国の営業所に送ってきたのだが、初代「横綱」はというと、浜松の営業所の古橋・・て、まさに「八百長横綱」やんけ! 相撲の番付とは良く言ったものだ。「八百長横綱」、恥を知れ!・・てものだ。 1971年の日本シリーズ、第三戦、最終回、巨人が1点のビハインドで阪急にリードされていた場面、王が阪急 山田からサヨナラスリーランホームランを打って逆転勝ちした場面の前、4番 王の前、3番の長嶋が二遊間をセンターに抜けるヒットを打ったということになっているが、YouTube にはいっている動画を見ると、遊撃手の阪本が打球をグラブにあてている。野村のじいさんが、遊撃手の守備の評価は「どれだけエラーをしなかったか」の「守備率」ではなく守備機会で見るべきで、動きのいいショートは最後の最後までとことん追いかけてなんとか取ろうとするので、グラブにあてたが取れなかったという場合が出てきてそれが「エラー」と評価されてしまうことになり、正面付近のゴロしか取らないショートはエラーが少なく「守備率」で見ると「守備がいい」かのように見えてしまう・・と書いておったが、1971年の日本シリーズ第三戦最終回、ショートの阪本は長嶋の打球をグラブにあてたが取れずにセーフになった・・が、あれはヒットなのかエラーなのか? あれはヒットかエラーか微妙な打球だったと思うが、又、そうであるからこそ、1971年の日本シリーズの直後、阪急の西本監督は、守備のいいショートが欲しいと考えて、福本が盗塁王の常連になる前、盗塁王のタイトルを取ったこともある打撃と走塁のいい阪本遊撃手をトレードに出して、打率1割台でも守備がいい大橋遊撃手を東映から獲得するということをやった。野村のじいさんの評価で、歴代のショートで守備のいい選手というと、この大橋(阪急)、それに宮本(ヤクルト)だというのだが、どうも、そういう、もっと動きのいいショートなら取ったかもしれんという時に、長嶋が打者の場合だと「ヒット」と記録されたように思うのだ。だから、私は「長嶋の首位打者」は白鵬だけが本来は反則のはずの肘撃ちがなぜか認められている「白鵬の優勝」とともに評価したくないのだ。 王は巨人の選手でも柴田や長嶋とは違って死球をぶつけられてもめったに怒らない選手で、そういう選手だけに、アンチ巨人でも「王だけは別」みたいに思っている人がけっこういたのだが、しかし、1969年、ロバーツ(アトムズ)が本塁打王争いで8月なかばまでトップで、その年はロバーツが本塁打王をとるかと思いきや、巨人戦で負傷して、怪我で休んでいる間に王にホームラン数を抜かれた。その後も、大洋 シピンは巨人の高橋一三から死球をぶつけられて負傷し、試合後、大洋 青田監督は「これからは、うちの投手には、巨人戦では、王・長嶋、もしくは高橋一三にぶつけるように指示する」と発言したように、巨人の優勝が危ないという時、もしくは、王の本塁打王が危ないという時には、必ず巨人の投手が相手主力選手にぶつけて怪我させる・・ということが頻繁にあった。『巨人の星』では、川上が星一徹に「星くん、あえて言う。巨人軍を去りたまえ。その理由は、きみもわかっている通り、巨人軍の投手は決してビーンボールを投げなかった、という巨人軍の伝統だ」とか言う場面があったが、バカ言ったんじゃないわ♪ よく言うわ♪ 1968年、9月まで阪神と巨人が優勝を争った時には、2ゲーム差で巨人にリードされていた阪神は、ダブルヘッダーを含む4連戦で、阪神は初戦 江夏・2戦 村山で勝ち、ダブルヘッダーだった3戦目をバッキ―、中1日での4戦目を再び江夏で4連勝をねらったが、第3戦の乱闘の時にバッキ―が指を骨折し、直後、交替した権藤が王の頭にぶつけた後に長嶋にホームランを打たれて負けたが、その試合を負けたことで4連勝を狙った阪神は3勝1敗に終わり、バッキ―はその骨折がもとに投げられなくなってしまい、巨人が優勝した。どういう状況で怪我したかはともかく、巨人の優勝が危ないという場面か、王の本塁打王が危ないという状況になると、必ず、ライバルチームの主力選手が巨人戦で怪我をするというジンクスがあったのだ。それこそ、「巨人軍の伝統」だったのだ。(株)一条工務店の浜松・掛川・名古屋の営業で営業成績が優秀だったと称しているヤツの営業成績などというものは、いわば、「長嶋の首位打者」か「白鵬の優勝」みたいなものだ。「巨人みたいや」「長嶋みたいや」というヤツの営業成績が少々いいように見えても、そんなものに価値はない。むしろ、恥を知れ! と言ってやるべきものだ。(株)一条工務店の浜松・掛川・名古屋の「長嶋みたいなやつ」というのは、本来、会社・経営者はそのあたりを是正して従業員の評価をしないといけないはずなのだが、(株)一条工務店の経営者は「浜松・名古屋・掛川のまわしもの」であり、「審判は巨人びいきや」てなもの、「ええなあ、長嶋は」てな状態やった。「ほんま、ええなあ、長嶋は」「ええなあ、うらやましいなあ、長嶋は」てものやった。
※ 《 くたばれ讀賣大合唱!みんなで東京音頭♪♪ 2019/5/6 ヤクルト対阪神》https://www.youtube.com/watch?v=-Xxv0Uq5VRQ
だいたい、白鵬てのは、なんで、白鵬だけ「肘撃ち」が認められるんだあ? あれは反則だろうが!!! 相撲にあんな技はないはずだ。「かちあげ」なんて表現しているものを見るが、力士として晩年頃の大鵬も「かちあげ」をやったが大鵬の「かちあげ」は腕を平行にして下から上にあげるもので、白鵬の「肘撃ち」とは全然別のものだ。すでに土俵外に出た力士にさらに2発・3発攻撃を加えるのを「だめおし」などと表現しているが、「だめおし」というのはまだ倒れていない状態でその攻撃をしなくても倒れたかもしれないという相手、まだ土俵内にいるがその攻撃をしなくても土俵外に出たかもしれない相手に念をおして攻撃をするものを「だめおし」と言うのであって、すでに倒れた力士に攻撃したり、すでに土俵外に出た力士にさらに1発・・ではなく、もはや、動きを止めた相手に3発くらいお見舞いするという白鵬の得意技は、あれは暴力であり、刑法上、格闘技としての正当業務行為には該当せず、刑法上の暴行罪・傷害罪に該当するはずだ。ボクシングなら反則として評価され、減点もしくは反則負けになるものを、なんで、相撲なら白鵬だけ認められるのか。 日本人力士が白鵬みたいな肘打ちやったら大変な非難を受けるはずだ。「外交特権」で白鵬だけ肘撃ちが認められるというのは不公平であろう。 下位の力士が横綱の顔を張ったらいかんとか言うが、それなら横綱は下位の力士の顔を張ってもいいのかというと、白鵬はいいと思っている。かつ、大鵬などは横綱が下位の力士に立ち合いの変化などは絶対にしてはいけないと心掛けて、下位の力士が大鵬に立ち合いに変化することはあっても大鵬は変化などしなかったのに対し、白鵬は平気で横綱が平幕に変化する。大鵬は、自分が下位の力士に時間前につっかけたりは絶対にしなかったが、時間前につっかけてくる力士があっても横綱は受けて立つものだと必ず立った。それに対して、白鵬は自分が有利な立ち合いなら立ち合い成立と主張して、自分が不利な立ち合いならば、立ち合い不成立だと言いたいようで、土俵下から手をあげて抗議したり、負けだと行事が言っても土俵下から土俵にあがらなかったりする。稀勢の里と白鵬が10日目くらいに優勝を争っていると、稀勢の里はそこから、白鵬だけでなく日馬富士・鶴竜という強敵と対戦するのに対して、白鵬にとっては日馬富士・鶴竜は安全パイである。かつて、1970年頃、琴桜・清国・前の山・大麒麟の4人が大関だった時、大麒麟の成績がわずかにいいという場所が多かったのだが、二所の関部屋の大麒麟は横綱の大鵬と対戦しないので、大鵬戦で1敗がつく他の大関より有利だったので、なんかずっこい・・て感じがしたのだが、日馬富士・鶴竜が日本人力士にとっては強敵なのに白鵬にとっては安全パイというのはそれ以上にずっこい。日馬富士が引退し、鶴竜に場所の前半で休場することが多くなると、今度は、白鵬は、10日目過ぎて他の力士にリードされると休場し、自分がリードしている場所だけ最後まで出るという作戦を取るようになったが、これもずっこい! 白鵬の「サポーター」は、普通に市販されているサポーターとは違って表面がざらざらしていてあたると痛いらしく、それで、白鵬は凶器攻撃としての「サポーター」を肘にまいているという話があったが、それはどうなんだろう?・・と思って動画を見ていたら、なんと、白鵬は「巡業」ではその「サポーター」はまかずに土俵にあがり、本場所になるとその「サポーター」を巻いている。逆ならまだわかるが、巡業ではまかない「サポーター」を本場所になると必ず肘にまいていて、その「サポーター」のところで肘撃ちを何度もお見舞いする。ということは、やっぱり、「凶器攻撃」としての「サポーター」だった可能性は十分考えられる。そんなヤツの優勝なんて、何回優勝しても優勝の価値はない。(株)一条工務店の浜松・掛川・名古屋の営業というのは、いわば、そんなもの、「まるで、白鵬みたい」であった。
1993年5月に「研修」に講師役に来た名古屋南営業所の近藤路夫が「住友林業なんかが競合になったら、『ごちそうさん♪』てなもんだ」と言うので、「何か、きいてみたいことはあるか」と近藤が言うので、「住友林業なんかが競合になったら、『ごちそうさん』てなもんだと言われましたが、住友林業が競合になった場合、どのようにやれば、『ごちそうさん』というように持っていけるのか教えていただけますでしょうか」と私は言ったのだ。すると、近藤路夫は「そんなもん。『住友林業はプレカットやってますか? やってませんでしょ。住友林業はムクですか? 集成材でしょ』と言えば、それだけで簡単に契約になる。おまえ、それを言ってないんだろう」と言うのです。「そんなことで契約になりますか?」と私は言ったのです。まず、第一に「住友林業はプレカットやってますか?」と言うと、その頃、住友林業(株)はプレカットやっていたのだ。それも、千葉県地域においては、浜松の(株)一条工務店と千葉県の材木会社の(株)ひらい が共同出資会社の(株)一条工務店千葉 を作って「一条工務店」ブランドで建てていた、その(株)ひらい が住友林業の「指定工場」になって「住友林業の家」の機械プレカットをやっていたのだ。それで、住友林業の営業はそれを指して「一条工務店は住友林業の下請けだ」とか見込客に言っていたのだった。「そんなもん」「住友林業はプレカットやってますか? やってませんでしょ」と実際には住友林業はプレカットやっているのに嘘を言ったのでは、それで信用をなくすことはあっても、それで契約してもらえるとは考えられない。 「住友林業はムクですか? 集成材でしょ」なんて言うとどうなるかというと、「集成材の方がいいんでしょ。住友林業の人がそう言っていたよ。あんた、そんなことも知らないの!」と言われることになる。近藤路夫は何をわけのわからんことを言っていたのか・・というと、要するに、近藤路夫という男は、そんないいかげんな営業でも契約してもらえるような場所でばっかり仕事をさせてもらってきた、ということだったのだ。
私は「まず、住友林業という名前と一条工務店という名前では、営業が同じことを言っても見込客にそれを信じてもらえるかどうかに大きく差があるのです。営業の能力が同じであっても、どちらの会社の人間が言うかによって、来場客・見込客がどちらを信じるかに大きな差があるのです。そのあたりについて、どうすればいいのか、教えていただけるのならお願いします」と言ったのですが、そうすると、近藤路夫は「そんなもん。住友林業は財閥系だとしても、一条工務店の方がいいと思えばそれでしまいじゃ。どうだ。違うか」と言って、他の参加者に「あんた、どうだ?」と言うと、その参加者は「『住友林業の方が財閥系だからいいと思う人もいるだろうけれども、一条工務店の方がいい』と言ってもらえます」と答えたのだ。それを聞いて、近藤路夫は「そうだ。その通りだ。ほら、そういうもんだ。おまえが言うべきことを言ってないから、だから、住友林業の方がいいみたいに思われるんだ。」と、近藤路夫はそう言ったのだ。 近藤路夫は、住友林業はプレカットなんてとうにやっているのに、「住友林業はプレカットやってますか? やってませんでしょ」などとアホなことを言って、それでも契約してもらえていたのだった。「住友林業はムクですか? 違いますでしょ。集成材でしょ」などと言おうものなら、「集成材の方がいいんでしょ。住友林業の人がそう言ってたよ。あんた、そんなことも知らないの!」と言われるのがオチなのに、それを「住友林業はムクじゃないでしょ」と言うだけで、それだけで簡単に契約とれる。おまえ、それを言ってないんだろう」などと近藤路夫は言うのだった。そんなことは言っても東京営業所(江東区潮見)や松戸展示場(千葉県松戸市)では効果はなかったが、近藤路夫はそういうことを言えばそれで契約してもらえるような地域で営業させてもらってきた男だったのだ。そして、何より、ある「地方」から来た営業の参加者が「『住友林業の方が財閥系だからいいと思う人もいるだろうけれども、一条工務店の方がいい』と言ってもらえます」と答えたのだが、それはその営業がそれだけ努力と工夫をしたからそう思ってもらえたのではない。「地方」に行くと、「住友林業の方が財閥系だからいいと思う人もいるだろうけれども、一条工務店の方がいい」と思っている人がもともと多かったのだ。その男は、もともと、住友林業と一条工務店ならば一条工務店の方が強い地域で営業していただけだったのだ。その後、福島県いわき市の営業所に勤務した時、(株)一条工務店で自宅を建てたWさんが入社してきたのだが、いわき市で自宅を(株)一条工務店で建てたWさんが、まさに「住友林業の方が財閥系だからいいと思う人もいるだろうけれども、一条工務店の方がいい」とそう言ったのだ。福島県では浜通りでも中通り・会津地方でも、あるいは茨城県北部においても、構造材はムク材で・国産材でと希望する人が多い土地柄であり、その地域においては、もともと、「住友林業の方が財閥系だからいいと思う人もいるだろうけれども、一条工務店の方がいい」と思っている人が圧倒的に多かったのだ。それは営業の努力や工夫でそうなったのではなく、その土地においてはそうだったのだ。1992年の時点で、東京圏においては、(株)一条工務店にとって住友林業は強敵で、まるで、幕下以下の力士が横綱に立ち向かうような感じだったが、「『住友林業の方が財閥系だからいいと思う人もいるだろうけれども、一条工務店の方がいい』と言ってもらえます」と言った男というのは、幕下以下が横綱を倒す方法を知っていたのではなく、(株)一条工務店が住友林業と同格以上であった地域で営業させてもらっていただけだった。 近藤路夫という男は、自分が、もともと、「住友林業の方が財閥系だからいいと思う人もいるだろうけれども、一条工務店の方がいい」と思っている人が多い地域でテレビ広告付きでウルトラのダンピング販売で営業をさせてもらい、「やっぱり、家を建てるのなら、住友林業とかたしかな所に頼んだ方がいいに決まってる」とか言われ、「得体のしれない浜松の工務店」は明らかに「格下」に見られている地域で、そこでなんとかしようと涙ぐましい努力をしてきた者に向かって、そういう口をきいたのだった。近藤路夫は「住友林業なんかが競合になったら楽なもんだ。『ごちそうさん』てなもんだ」などと言い、その上で「なんか、きいてみたいことあるか」と言うので、東京圏においては強敵の住友林業を「『ごちそうさん』てなもん」に変える秘法でも近藤路夫が持っているのなら、頭を下げてお願いすればその秘法を教えてもらえるのならと思い、どうすれば住友林業を「『ごちそうさん』てなもん」に変えることができるのか教えていただきたいと低姿勢でお尋ねしたのだったが、結局、近藤路夫は一貫して最初から(株)一条工務店が住友林業と同格以上の場所で営業させてもらってきたということでしかなく、こちらが期待した「幕下以下が横綱を倒す方法」なんてものを知っていたのではなく、(株)一条工務店が住友林業と同格以上の場所で営業させてもらってきた者が勝手な寝言を言ってるだけだったのだ。
(株)一条工務店では、「研修」で、「テレビ広告なんてやっていてもやらなくても一緒だ」と講師の人間が言うのだったが、その講師の人間というのはテレビ広告をやっていない地域の人間かというとそうではなく、テレビ広告をドカンドカンとやりまくっていた静岡県中西部・愛知県の営業が講師役になってテレビ広告などやっていない地域の営業に向かって勝手なことを言いまくっていたのだった。おまえら、ええかげんにせえよ! おんどれ、しまいに血いみるどお!!! ・・て感じだった。
アイダ設計のキャラクターショーは幼稚園・保育園に行って、「キャラクターショーをやりますから、どうぞ、来てください」と言い、家の契約してもらうかどうかは関係なく来てもらってかまいませんと呼びかけて来てもらうものだから、来た人間は、アイダ設計の人間を、なんだか、公務員かそれとも幼稚園・保育園の関係者か何かみたいに思い、それ以来、他社とは違う意識を持つようになる人がいるようだった。そのやり方は、よく考えてやっていたと思う。
仮に、10の段階まで行けば契約してもらえるとして、会社の努力は特になく、最初の段階でゼロならば、営業は10だけ得点しないと契約に結びつかない。それに対して、テレビ広告やキャラクターショーなどですでに8の段階まで行っていたとすると、営業は2だけ得点すれば契約してもらえる、ということになる。 理屈通りにいくかどうかはさておき、そういう理屈になる。もしも、会社の評価がマイナス10ならば、営業はプラス20のことをやらないと契約してもらえない。 「構造材はムク材で国産材の(株)一条工務店」と「通し柱は集成材で管柱は輸入材の住友林業」では、「ムク材で」「国産材で」という希望が強い「地方」においては「構造材はムク材で国産材の(株)一条工務店」は相当強いのに対して、「集成材の方がいいんでしょ」と思っている人間が多い都市部において「なんで、東京で建てるのに、浜松の無名工務店になんて頼まなきゃならんのだ」と思っている人を相手にするのはけっこうきつい。 マイナス10からのスタートとまでいかなくても、マイナスいくらかからのスタートであり、すでにプラス7かそこらくらいの状態からダンピングで営業すればいい静岡県中西部・愛知県の営業とは条件が全然違った。
その会社によって、「会社の努力」でプラス7くらいまで持って行って営業の努力で残りを達成させるという会社と、私が入社した頃の東京圏での(株)一条工務店のように「会社の努力」はなしですべて営業の努力でなんとかさせようという会社では、〔1992年頃の東京圏の(株)一条工務店はひどかったが〕、アイダ設計のキャラクターショーは、けっこう費用もかかっていたはずだが、それによるプラス面は出ていたと思う。
但し、私は、他の会社で、キャラクターショーなどにそこまで力を入れていない会社に何社も勤めてきたので、アイダ設計に対する近所の人などの好意的な反応に驚いたのだが、最初からアイダ設計しか経験がないという営業には、「それが普通」と思っている人もいたように思う。営業が「それが普通」と思ってしまってはいかんと思うのだ。
2001年だったと思うが、(株)一条工務店で、NHKの「プロジェクトX」という番組でヤマト運輸が宅急便を始めた時の話の放送を見せられたのだが、今では知らない人は誰もないヤマト運輸だが、宅急便を始めたばかりの頃はなかなか頼んでもらえなくて、それで、郵便局の前に行って、小包を出そうとしていた人に声をかけるということをやったという。「おばあちゃん。その荷物、私に運ばせてもらえませんか」と言ったところ、「これはね。孫に送る大事な荷物ですから、だから、あなたには頼めません。郵便局に頼みます」と言われました、とその頃を思い出して涙を流していた社員が映っていた。実際のところ、「一条工務店なんて、まったく聞いたことないわあ。知ってる人なんて誰ひとりないでしょう」と何人もに言われまくり、そういう相手になんとか評価してもらおうと努力してきた者と、「一条工務店」という名前さえ出せば、それだけで「相談に乗ってほしいんだけど」と言われる静岡県中西部・愛知県の営業とでは、経験が大きく違う。アイダ設計の営業でも、最初からアイダ設計にいて「そんなもの」と思ってしまった人と、ポスティングしようとしても「要らんよ」と言われて突き返される経験をしてきた者とでは、相当違いがあると私は思う。
2010年、新華ハウジング(有)で、住宅についての説明会を実施して、そのチラシを駅前で配ろうとした時だが、それと別に、ポケットティッシュが1箱だか2箱だか届いていたのだが、S井さん(男。当時、40代前半)が「ポケットティッシュ、配ろう」と言うので、「チラシを配った方がいいでしょう」と私は言ったのだが、それは、ポケットティッシュというのは、定期的に配ることで会社名を覚えてもらい、認知度を高めることで、最初は「聞いたことがない工務店」であっても、そのうち、「知ってる会社」に変わっていくので、それを狙ったものであるのに対して、翌日に開催する行事に来てもらおうということならば、ポケットティッシュは受け取ってもそのままになる場合があるのに対して、紙1枚のものの方が、受け取った人はとりあえず見る可能性が高いので、ポケットティッシュの方が受け取ってもらえる可能性が大きいのでいいという場合もあるが、翌日の行事に来てもらおうということならば、ポケットティッシュよりも紙1枚の方がいい、と考えて言ったのだが、S井さんはポケットティッシュを配りたがり、紙1枚を配ることに強烈に拒否反応を示したので、それを見て、「ああ、この人はポケットティッシュなら配れても、紙1枚のチラシを配ることはできない人なんだな」とわかった。 紙1枚のチラシを受け取ってもらおうと出しても受け取ってもらえないことが多く、それに対してポケットティッシュなら、もらうだけもらっておけと受け取ってくれる人が多い。しかし、紙1枚のチラシを受け取ってもらおうと差し出す努力のできない人、受け取ってもらおうとして顔をそむけられたり手を引っ込められたりする苦痛に耐えることのできない人は、ポケットティッシュも配らない方がいいのではないかと思うのだ。 紙1枚を受け取ってもらおう差し出して受け取ってもらえない苦労を経験しない人間、それを嫌がる人間は、ともかく出せば受け取るだけは受け取ってもらえるポケットティッシュを配ってはいかんと思うのだ・・が、それならやりたがる、という人もいる。
同様に、キャラクターショーなど頻繁におこなうことで、「アイダ設計」の名前を出すと、それだけで他の会社とは対応が違うというのを、それを「当たり前」「それが普通」みたいに思う人は、一度は、そうでない場合を経験してみた方がいいのではないか、とも思った。 「これはね。孫に送る大事な荷物ですから、だから、あなたには頼めません。郵便局に頼みます」と何も悪いことしてないのに言われてつらい思いをした者と、「住友林業はプレカットやってますか? やってないでしょ」なんて無茶苦茶言っても契約してもらえる地域だけで営業やってほめてもらってきた男とでは、経験してきたものの質が違うと思う。・・「会社として契約をあげよう」としてキャラクターショーなどをやっているアイダ設計の姿勢は評価できると思うし、効果が出ていると思うのだが、「それが当たり前」みたいに思っている人もいたのではないかと思うと、その点についてはどうなのだろうな・・とも思う。
【B】太田山公園 「きみさらづ」タワー、橘神社、及び、安西家住宅。
JR内房線が木更津市を南北に走っていて、木更津駅をはさんで八剱八幡神社とは逆、東側に太田山公園があり、その上の方に「きみさらづタワー」なるものがあります。 タワーといっても、山の上に建っていて階段で途中の展望台まで登ることができるというタワーです。 山頂に行くと周囲がよく見えそうで、実は山頂の周囲に樹木が茂っていて見えないということがよくありますが、樹木の高さを超えるくらいの高さに展望台があるので、階段で展望台まで登ると四方が良く見えます。↓


↑ 太田山公園と「きみさらづタワー」
※ 木更津市 太田山公園 https://www.city.kisarazu.lg.jp/shokai/shisetsu/kouen/1000844.html
千葉県観光物産協会 太田山公園 https://maruchiba.jp/sys/data/index/page/id/8456
ウィキペディア 太田山公園 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E7%94%B0%E5%B1%B1%E5%85%AC%E5%9C%92



中ほどの展望台は、江戸時代から昭和初期にかけて江戸と木更津を行き来した「木更津船」をイメージして作られたものだそうです。「きみさらづタワー」は1992年にふるさと創生事業により竣工したものらしく、《ウィキペディアーきみさらづタワー》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8D%E3%81%BF%E3%81%95%E3%82%89%E3%81%9A%E3%82%BF%E3%83%AF%E3%83%BC によると、高さは12mらしい。
山頂の周囲の樹木を超える高さに展望台を設けると、四方がよく見えます。↓

東京湾アクアラインと海ほたるも見えます。↓

小山の山頂に樹木の高さを超える程度の高さに展望台を設ければ、山頂から周囲がよく見える・・というのはいいとして、その上にヤマトタケルとオトタチバナのオブジェを設けることで、実話でもない『古事記』の話を、それもモデルの話があったとして「純愛」の話ではなさそうなものを「純愛」の話のようにすりかえて国民にアピールするというのは、戦中の「国史」によって国民の精神をコントロールしようとした動きの復活の一環か?・・・と思うと、あまりいいとは思えません。
「きみさらづタワー」の足元に、橘神社があります。↓


オトタチバナは《ウィキペディアー弟橘媛》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%9F%E6%A9%98%E5%AA%9B には《『日本書紀』は弟橘媛とするが、『古事記』では弟橘比売命とする。》とあり「ひめ」「ひめのみこと」の表記は違っても、いずれも、漢字では「弟橘」で、橘神社というのは「弟橘」から命名されたもののようだ。
八剱八幡神社は「八幡神社」であり主祭神は八幡神≒ホンダワケ であり、ヤマトタケルが5番目の祭神に入っていたとしても、八幡神を否定してヤマトタケルを主祭神に置き換えるわけにもいかず、オトタチバナまで祭神に入れるわけにもいかないので、それで、太田山公園の山頂に「オトタチバナを祀る神社」を人工的に作ったのではないか。
・・・しかし、いけにえに海に投げ込まれた女を祭神に祀り上げた神社というのは、どうなのでしょうね・・・。
ヤマトタケルというのは、結局、つきあっていた女の1人を殺した上で泣いてみせて、少し経てば別の女といちゃいちゃしている・・という軽い男。チャラ男と違うのか・・みたいな、なんかそんな感じがしませんか・・・。
「恋の森 橘神社」なんて書いてあるのですが、男に殺されて、殺した男は少し経てば別の女とくっついている・・て、そういう神社か?・・この神社を設立した人はそういうつもりはなかったかもしれないけれども、オトタチバナの話というのは、そんなに「純愛」の話ではなさそうに思えるのですが・・・。
この橘神社の社ですが、外面も真壁ですが、正面は木製ですが、側面を見ると、スタッコ調窯業系サイディング貼りなんです。↓

窯業系サイディング貼りは、予算の上の問題もあってそうなったんかいなあ・・と思わんこともないが、なんで、神社の壁がスタッコ調なんだ? ・・て、気になりませんか? もしかして、施工した工務店の倉庫に余っとったんか? それにしては「神社色」のサイディングだが。
・・なんで、そんなのばっかり気になるの・・なんて言われても、なにしろ、建築探偵団ですから、気になるのです。
太田山公園には、安西家住宅が移築されています。↓



※ 木更津市 安西家住宅 https://www.city.kisarazu.lg.jp/shokai/shisetsu/bunka/1000936.html
田中文男『日本列島 民家の旅(8)関東の住まい』(1996.11.30.INAX出版)でも取り上げられていますが、18世紀初期の建築で、元は木更津市草敷 という場所にあった建物らしい。 この家屋は過去に、一度、見学させてもらったことがあります。今回は時間がなかったので、外観をながめて通るにとどめました。

関東の住まい―日本列島民家の旅〈8〉関東 (INAX ALBUM) - 田中 文男, 入澤企画制作事務所
一度、見学に訪ねても、しばらくすると記憶は薄らいでしまいます。 内容のある本は3回くらい読んでわかるようになる、という話がありますが、建築も3回くらい訪問すると理解できるようになるかもしれません。
今回は、ここまで。 八剱八幡神社と太田山公園の「きみさらづタワー」・橘神社は、ヤマトタケルとオトタチバナつながりということはあっても、木更津駅とJR内房線をはさんで逆側であり、八剱八幡神社と太田山公園で、ブログ掲載において2回に分けた方がいいかとも考えたのですが、太田山公園の安西家住宅などは、今回は通り過ぎただけですので独立した1回を設けるほどのものではないと考えて、八剱八幡神社とセットにして公開することにしました。
(2020.9.22.)
谷川彰英(たにかわ あきひで)『千葉 地名の由来を歩く』(2016.10.20.KKベストセラーズ ベスト新書)には、
《 昭和47年(1972)に出された『木更津市史』では、
(1) 日本武尊伝説にまつわる伝説から「君不去」-「木更津」の地名が生まれたという考え方が「従来ひろく流布されてきた」と指摘した上で、それに対して、
(2) 木更津の港湾がアイヌ語のキサラ(耳)に似ているからという地形類推説、さらに、
(3) キサゴ貝が多く分布しているという海産物類推説などもあり、
「いずれも未だ決定的なものではないとみられている」と指摘している。
ただし、この『市史』では、「木更津」の文献的な解明を行っているのが注目される。それによれば、「きさらす」という文字が文献上最初に登場するのは、文永10年(1273)のことだという。茂原市の永興寺の本尊釈迦如来像の胎内から発見された文で、そこには「きさらすの女房」と書かれているという。
さらに漢字で記された資料の初見は茂原の藻腹寺(そうげんじ)文書に書かれている「木佐良津」で、文和2年(1353)のことだという。その後いくらかのバリエーションはあるものの、中世においては主に「木佐良津」、そして近世に入って、特に寛文~元禄期以降「木更津」という感じが一般的になったとして指摘している。
もともと木更津の地は海に面した「津」であったことは事実なので、地名の発生としてはどこにでもある「〇津」、例えば「沼津」「大津」などと同じ成り立ちであると言える。その場合、「〇」は「津」を形容していることに注目すべきである。「大津」は「大きな津」「沼津」は「沼の津」というように。
もともと「津」という地名の成り立ちをそのようなものと考えるのなら、「君不去」が「君去ら津」になることはまずないと考えてよい。「君不去」(君去らず)の「ず」は「津」ではなく、否定の「ず」だからである。
以上のように考えてくると、「君不去」が「木更津」に自然に転訛することはまず考えられず、いずれかの時代に「きさら津」に日本武尊伝説をかぶせたと考えるのが正しいだろう。・・ 》
と出ている。〔(1)~(3)はブログ作成者が入れた。〕 私もそう思う。 それから、《アイヌ語のキサラ(耳)に似ているから》というのも違うと思う。地名の語源をなんでもアイヌ語から考えるというのは適切ではないと思う。青森県あたりならともかく、千葉県において、古い時代にアイヌ語から地名がついているとは考えにくい。
「きさらす」は「腐らず(くさらず)」⇒「きさらず」⇒「きさらす」 と変化した可能性はあるのではないかと思う。しかし、木更津(きさらづ)の「津」は港の「津(つ)」であろう。木は関係あるかもしれない。「木佐良津」の後半の「良津」は「良い津」からか。「木が腐らず、サラのように良い津」で「木腐らず・サラ・良い津」⇒「木サラ良津」⇒「木佐良津」⇒「木更津」 は可能性としてあるかもしれないか。「佐」は何なんだ? 「遊佐(ゆざ)」の「佐」は接尾語という説があるようで、「木佐」の「さ」も接尾語か。
谷川彰英(たにかわ あきひで)『千葉 地名の由来を歩く』は、《 しかし、だからと言って、この地に長く伝承されてきた日本武尊と弟橘媛伝説を否定するものではない。長く伝承してきた人々の思いを今後も末永く大切にしていくべきである。》と書いているが、それは違うだろう。 ヤマトタケルとオトタチバナの話を「木更津」に結びつけるのは無理がある。 そして、それを結びつけたのはいつで、誰が結びつけたのか、ということが気になる。戦中、軍国主義の時代においてか? 戦前の「天皇を中心とする人物中心の国史」として、国民に『古事記』『日本書紀』の記述を歴史だと教える「神話から説く”歴史”」の一環としてなのか、それ以前からそういったことを言う人があったのか。たとえ、戦中・戦前の国民教化のための細工として作られた話ではなく、それより前からそういった話があったとしても、それを広めようとしたのは、戦前・戦中の軍国主義の風潮とともに広められたはずだ。それを、戦後においても維持し復活させようとしている人たちがいるということであり、そういうものを《今後も末永く大切にしていくべき》だという谷川彰英氏の記述は適切とは言えない。
もっとも、橘神社などの名称の神社が、すべてのものが、戦前・戦中に軍国主義の影響で「天皇を中心とする人物中心の国史」「記紀の神話から説く歴史もどき」によって国民を教化しようという「政策」から作られたものとは決まっていないと思う。『千葉の御朱印めぐり さんぽ旅』(2020.11.30.ぴあMOOK)を見ると、千葉県でも外房の方、茂原市本納 に 橘樹神社 があるのが出ている。これなどは、名称の漢字から考えても、橘の樹木を祀ったものではないかと考えられる。同書には、祭神はオトタチバナとヤマトタケルと忍山宿禰(おしやまのすくね)と出ているが、オトタチバナは神社名が橘樹神社であることから、後から付けられたもので、ヤマトタケルはそれに付随して付けられたものであろう。オシヤマノスクネて誰なんだ? というと、《ウィキペディアー建忍山垂根(たけおしやまたりね)》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BB%BA%E5%BF%8D%E5%B1%B1%E5%9E%82%E6%A0%B9 によると、オトタチバナの父親だという。 千葉県には、橘神社などの名称の神社がいくつか見られるが、樹木の橘の木を祀ったものか、古い時代の橘氏の誰かを祀ったものか。 それらの神社で「祭神」としてオトタチバナの名前が入っていても、それは、そういう系統の神社に後からオトタチバナをくっつけた・・というものではないか。
茂原市の橘樹神社では「芸が細かい」というのか、『千葉の御朱印めぐり さんぽ旅』(2020.11.30.ぴあMOOK)には《 社殿後方に弟橘媛の墓と伝えられる墳丘がある。》と書かれているのだが。 青森県には「キリストの墓」と称するものまであるらしく、たしか、『金田一少年の事件簿』でも登場したと思う。岡本亮輔『聖地巡礼ー世界遺産からアニメの舞台まで』(2015.2.25.中公新書)によると、それは、戦中、日本は「世界四大文明」などにも劣らない古代からの先進地だと言いたい人がいて、孔子も釈迦もキリストも日本で修業したということにしようとしたらしく、青森県のどこやらに行って、そこにある土饅頭を見て霊感がひらめき、「これがキリストの墓だ!♪!」とおっしゃったそうで、そこから「キリストの墓」という話が出てきたが、地元の人もたいていの人は信じていない・・というが、オトタチバナの墓というのも、そんなものではないかと思う。そもそも、ヤマトタケルもオトタチバナも実在した人間ではないという事実をきっちりと認識する必要がある。・・それならば、橘樹神社の社殿の後方にある墳丘というのは、それはデッチアゲで捏造されたものなのか? ・・というと、そうとは限らないと思う。青森県の「キリストの墓」も、もともと、土饅頭はあったわけで、「その地の豪族か誰かの墓」であった可能性が大きいと思われるもののようで、それを見て「これがキリストの墓だ!」と言い出した人があったらしいのだが、「バカ言ってんじゃないわ♪」て感じがしないでもないが、茂原市の橘樹神社の社殿後方の墳丘というのも、おそらく「その地の誰かの墓」だったのではないか。おそらく、「そんなところ」ではないか、と思う。まず、「木更津」は「君去らず」ではない。そういうヨタ話を広めて、ヤマトタケルやオトタチバナといった実在していない人物のお話を歴史であるかのように国民を信じ込ませようとしている人たちに対しては、《長く伝承してきた人々の思いを今後も末永く大切にしていくべきである》などと言うのではなく、おかしな話を広めて国民を惑わせるのはやめてください! とはっきりと言うのが望ましいであろう。 根拠もない話を広めなくても、木更津市には他にいいものはあるはずである。
(2020.11.5.)
谷川彰英(たにかわ あきひで)『千葉 地名の由来を歩く』(2016.10.20.KKベストセラーズ ベスト新書)には、
《 「走水」「吾妻(東)」という地名の由来については『日本書紀』に書かれているので、それは認めていいと言えるだろう。だが、「木更津」については記紀にはひとこともない。後世の人が創作した地名伝説だと考えたほうがいい。・・・》
と述べられており、
「君津(きみつ)」+「木更津(きさらづ)」⇒「きみ(つ)(き)さらづ」⇒「きみさらず」
という語呂合わせから、ヤマトタケルとオトタチバナのお話に結びつけるのは無理があるだろう。
まず第一に、「『つ』に濁点(゛)」と「『す』に濁点(゛)」の違いというのは相当大きい。「きさらす」が「きさらつ」に変化したということなら、可能性としてないとは言えないかもしれないが、木更津は地理的位置から考えて、どう考えても「津(つ)」である。
「走水」の方だが、神奈川県横須賀市走水(はしりみず) に走水神社があり、『古事記』に「走水」という地名が書かれてはいるが、それは、現在の住居表示の横須賀市走水 のことではなく、岩波文庫の『古事記』の校注者の倉野憲司氏の注では「走水」とは「浦賀水道」のこととされているように、現在の住居表示の 横須賀市走水 という狭い範囲と限定されるものではなく、あくまでも《浦賀水道の海に面したどこか》と考えるべきものであろう。
(2020.11.5.)

千葉 地名の由来を歩く (ベスト新書) - 谷川 彰英

聖地巡礼 - 世界遺産からアニメの舞台まで (中公新書) - 岡本 亮輔

日本の歴史〈1〉神話から歴史へ (中公文庫) - 光貞, 井上
【A】八剱八幡神社
千葉県木更津市富士見1丁目 にある八剱八幡神社 というと鳳神ヤツルギ・・なんて言っても、関西人は知らない。関東人でも知らない人は少なくないのではないかと思う。私も知らなかった。 全国的知名度というと、八剱八幡神社のすぐ南西にある 護念山 證誠寺(しょうじょうじ)(浄土真宗)https://shojoji.net/ の方が、「しょう、しょう、證誠寺♪ 證誠寺に庭は、つんつん 月夜だ、み~んな出て、来い来い来い♪」の歌でおなじみ〔⇒《YouTube-証城寺の狸囃子(しょうじょうじのたぬきばやし)【歌あり】童謡》https://www.youtube.com/watch?v=aa4DLxca9ko&pp=QAA%3D 〕、「證誠寺の狸囃子」のお話で知られている・・かというと、「證誠寺の狸囃子」の話と野口雨情作詞・中山晋平作曲の童謡は知っていても、その歌の寺にモデルがあるとは知らなかったとか、もしくは、浄土真宗でも真宗山元派本山の山元山 證誠寺(しょうじょうじ)(福井県鯖江市)か真宗誠照寺派 本山の 上野山(うわのさん)誠照寺(じょうしょうじ)(福井県鯖江市)の話か・・とか思い、千葉県木更津市の證誠寺(しょうじょうじ)(浄土真宗本願寺派)が「しょうじょうじ の狸囃子」の寺だと知らない人は多いのではないかと思うが、「しょうじょうじ の狸囃子」の寺だと言われると、そうなの♪ ・・と多くの人間は思い、親しみを感じ、行ってみた~い、と思うのではないか。
「鳳神ヤツルギ」・・なんて言われても、フナッシーの方が全国的知名度は高い。私も最初は知らんかった。「最初は」というと誰でも最初は知らんのだが、アイダ設計のキャラクターショー をYouTube で見るまでは知らんかった。「ほうじん ヤツルギ」と読むらしい。
《YouTube-千葉ご当地ヒーロー「鳳神ヤツルギ」アイダ設計》https://www.youtube.com/watch?v=PivzTKUxuWs
などを見るまで私は知らんかった。 アイダ設計 が、ご当地ヒーロー「鳳神ヤツルギ」を作ったのか・・・というとそうではなく、
《ウィキペディアー鳳神ヤツルギ》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B3%B3%E7%A5%9E%E3%83%A4%E3%83%84%E3%83%AB%E3%82%AE によると、《 『鳳神ヤツルギ』(ほうじんヤツルギ)は、千葉テレビ放送(チバテレ)で放送されている、千葉県木更津市を舞台とした特撮テレビドラマ作品であり(チバテレは制作協力で参加)、木更津市のご当地ヒーローでもある。》ということで、アイダ設計が作ったわけではないらしい。 《YouTube-千葉ご当地ヒーロー「鳳神ヤツルギ」イオンモール津田沼》https://www.youtube.com/watch?v=1yOWyvdY6n0&pp=QAA%3D など見ると、アイダ設計とは関係のないキャラクターショーにも登場しているようだ。
どこが見どころかというと、それはやっぱり、なんといっても、おねえさんのふともも・・・?
「鳳神ヤツルギ」には、メインキャラクターとして「大和タケル」が登場するのだが、八剱八幡神社は「八幡神社」というものの祭神はホンダワケではなくヤマトタケルなのか? ・・というと、八剱八幡神社HP の「八剱八幡神社 由緒」http://www.yaturugi.net/history.html を見ると、祭神は、ホンダワケ(応神天皇)・オキナガタラシヒメ(神宮皇后)・タラシナカツヒコ(仲哀天皇)の3人とスサノオ・ヤマトタケルの5柱と記載されており、八剱八幡神社ではヤマトタケルも祭神になっているが、八幡神社の祭神・ホンダワケもまた祭神で、ホンダワケの方が主たる祭神のようだ。
電車で行く場合は、JRの木更津駅の西口で出て西に進んで南に行くとすぐの場所にある。 證誠寺(しょうじょうじ)から行くと、北に進んで東に右折すると正面に見える。


鳥居をくぐって直進すると、右に手水舎があり、正面に社殿がある。↓

↑ 拝殿。

↑ 社殿の右側(南側)側面。 (左)拝殿、(中)幣殿、(右)本殿。
社殿の左側(北側)に、大規模な木造の建物がある。「参集殿」↓ と言い、その社殿の側に授与所がある。

拝殿や本殿よりも、参集殿の方がでかい。 参集殿も立派な建物だけれども、ここで、これはなかなか・・と思ったのが、清涼飲料水の自動販売機。↓

最近は、清涼飲料水の自動販売機にラッピングと言って、設置する場所の提供者が好む塗装を自販機の設置業者がしてくれるらしく、企業が自販機の一部分にその会社の商品を表示するとかもできるらしいが、かつては、神社や寺などに清涼飲料水の自動販売機を設置すると、その神社や寺の景観と自動販売機の色合いとが合わないことがあったが、そういう場合に、今では、寺社の景観に合うような色合いや模様にラッピングすることができるようだ。
しかし、神社の場合、神社に合わせてということで、「神社色」、要するに赤白の二色でラッピングした自販機では、自販機の方が相当目立ってしまう場合がある。それを、この八剱八幡神社の清涼飲料水自動販売機(アサヒ系らしい)は木目調にして調和をはかっていた。
これは、あくまでも「木目調」であって木目調のラッピングかと思いきや・・・。 側面は金属に木目調のペイントをしたものだが、正面は本物の木なのだ♪
神社に行って、何に関心持ってるんだ・・と思われる方もあるかもしれないが、そこは何と言っても建築探偵団であるからして、こういうものに関心がある。
社殿の右側(南側)に、ソテツが植わっている。↓

現地の説明書きによると、このソテツは、大正15年(1926年)〔「ひどく不合理(1925)」治安維持法制定の翌年〕に、当時の(株)木更津銀行の頭取だった露崎銀平が森家から譲り受けて八剱八幡神社に奉納したもので、森家というのはどういう家かというと、君津市の草牛(そうぎゅう)という山中にあって、馬にのって鹿野山に登る人・下る人がその家の前で休憩を取る場所だったらしく、源頼朝も、そこで兵馬の疲れを癒し、お礼に蘇鉄(ソテツ)を植えた、というその蘇鉄だという話である。
八幡神というのは、元々は鍛冶・冶金などの神だったが、それが武神になり、源氏が氏神として祀るようになったらしく、源頼朝とも源氏としてのつながりがあり、八剱八幡神社も八幡神を祀る神社としての縁がありそうだが、それだけではなく、源頼朝が木更津を通る際に、八剱八幡神社に先勝祈願に訪れ、その後、神領を奉納したということがあった、という話で、そういう縁がある八剱八幡神社に、露崎氏が源頼朝が植えたという蘇鉄を奉納した、というもので、それが源頼朝「御手植えの蘇鉄」としてあるらしい。
しかし・・・、素朴な疑問として、蘇鉄て、南国のものというイメージで、源頼朝の時代からあったのかしらん・・? なんて思いませんか? 《ウィキペディアーソテツ》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BD%E3%83%86%E3%83%84 を見ると、《ソテツ(蘇鉄、鳳尾松、学名:Cycas revoluta)は、裸子植物ソテツ科の常緑低木。ソテツ類の中で日本で自生する唯一の種で、自然分布では日本固有種である。》とあり、「ソテツ類の中で日本で自生する唯一の種」「日本固有種」ということなら日本に昔からあったんかいなあ・・と思いそうですが、《日本の九州南端、南西諸島、台湾、中国大陸南部に分布する。主として海岸近くの岩場に生育する。なお、自生北限は宮崎県串間市都井岬である。》ともあり、「自生北限は宮崎県串間市都井岬」の植物を、まだ政権を取っていなかった時期の源頼朝が植えたというのは、源頼朝ではなく島津の殿様とかならまだしも、どうも、話に無理がありそうな気がしないでもない。まあ、神社の由緒とかお寺の寺伝とか、こういった「お話」というのは、どこまで本当のことかわからないものが多いので、何か似た話があったが源頼朝ではなかったのかもしれないし、実際のところ、どうなのかよくわからないが、そういう話だということで、その森家の人たちは大事にしてきたものだったのでしょう。
拝殿に向かって左側に授与所があり、お守りなど販売されているが、「ヤツルギ」とカタカナで書かれた「ご当地ヒーロー」ものの御守りもあった。さすがに、それを購入したいとは思わなかったが。
ヤマトタケルが、なぜ、祭神に入っているかという問題だが、『古事記』によると、ヤマトタケルは東征の際、三浦半島の走水あたりから海を越えて房総半島に渡ろうとしたが、船が動かず困ったところ、オトタチバナというヤマトタケルのメカケの1人が海に飛び込んで海神の怒りを鎮めたところ、海は穏やかになって浦賀水道を越えて房総半島に渡ることができた、というお話があり、房総半島に着いた後、海辺を見ると、オトタチバナの櫛が流れ着いていて、ヤマトタケルはオトタチバナを思い出して涙を流した・・・ということだ。
神奈川県横須賀市走水の走水神社では、ヤマトタケルとオトタチバナを祭神として祀っているのだけれども、それだけではなく、走水の付近には、ヤマトタケルの船が動かなくなったのはあのあたり・・・とかいう話があるらしいのだが、そんなもん、わかるわけないやろうが・・・・というよりも、もとより、ヤマトタケルというのは実在した人間ではないのであり、実在していないヤマトタケルがどうした、こうした、とか言われても、本当も作り話もない。
『古事記』には、
《 それより入り幸(い)でまして、走水の海を渡りたまひし時、その渡(わたり)の神浪を興して、船を廻らして得進み渡りたまはざりき。ここにその后(きさき)、名は弟橘比売(おとたちばなひめの)命 白したまひしく、「妾(あれ)、御子に易(かは)りて海の中に入らむ。御子は遣はさえし政(まつりごと)を遂(と)げて覆奏したまふべし」とまをして、海に入りたまはむとする時に、菅畳八重(すがだたみやえ)、皮畳八重、絁(きぬ)畳八重を浪の上に敷きて、その上に下りましき。ここにその暴浪(あらなみ)自(おのづか)ら伏(な)ぎて、御船得(え)進みき。・・・・ 》
( 『古事記』「中つ巻」「景行天皇 倭建命の子孫」 倉野憲司 校注 1963.1.16.岩波文庫 )
と書かれている。 「走水の海」と書かれているけれども、神奈川県横須賀市走水 という住居表示の地域があるが、倉野憲司の注では「走水の海」とは「浦賀水道」と書かれており、「渡りたまひし時」と書かれていて、「走水の海」を渡るのだから、この「走水の海」とは、横須賀市走水という住居表示の地域と限定して考えるべきではなく、浦賀水道を「走水の海」と表現していたと考えるべきでしょう。
ヤマトタケルは実在した人間ではないが、しかし、『古事記』『日本書紀』でヤマトタケルとして書かれる話のモデルになった人間というのがいたという可能性なら、可能性としてないとは言えない。モデルになったような話があった可能性はあったとしても、その場所がどこだと断定できるわけがないのに、そこだと言われているような場所があるというのは、それは、戦中、軍国主義の時代に、国民の精神支配をおこなうために、そういったお話が創作されて、そこだと言われた場所もできたのでしょう。現在でもその名残のようなものは残っており、又、そういったものを復活させたいという人もいるようです。 走水神社は、走水港のすぐそばで、海のすぐそばであるにもかかわらず、きれいな真水が出る井戸があり、おそらく、走水神社は、海のそばでありながらきれいな真水が出る井戸を尊重して神聖なものとしたのが起こりではないか。 そこに、ヤマトタケルとオトタチバナの話を結びつけて、さらに、ヤマトタケルの話のモデルになった人がいたとして、その一行が三浦半島から浦賀水道を船で渡ったとしても、どこから出てどこに着いたのか、なんてわかるわけないのだが、それを走水の港からでたと決めつけたのでしょう。
同様に、房総半島側で着いた場所はどこか・・という点について、木更津市では木更津だとしているらしいが、特別に論拠があるわけでもなさそうです。
『古事記』にも、
《 ・・故、七日(なぬか)の後(のち)、その后の御櫛(みくし)海邊(うみべ)に依りき。すなはちその櫛を取りて、御陵を作りて治め置きき。・・》
( 『古事記』「中つ巻」「景行天皇 倭建命の子孫」 倉野憲司 校注 1963.1.16.岩波文庫 )
と書かれていて、オトタチバナの櫛が海辺に流れ着いたという記述はあっても、房総半島のどこに船がついたのかも、櫛が流れ着いた場所はどこかということも『古事記』には書かれていない。

古事記 (岩波文庫) - 倉野 憲司
横須賀市側では、横須賀市走水 のあたりから出港したことにしているらしいが、一般的にはできるだけ短距離で海は渡りたいでしょうから、横須賀市の走水のあたりから船出したとして、できるだけ短い距離でたどりつける房総半島側というと、富津あたりになる。木更津では北上することになる。 もっとも、出港したのがどこなのか、ということも、もとより、ヤマトタケルは実在した人間ではないから、正しいも間違っているもないが、そのお話のモデルになる行動をとった者がいたとしても、出港したのがどこなのかはわからないわけで、走水港のあたりと違うかと言う人があったとしても、それは可能性の1つとしてはないとは言えないという程度の話であり、浦賀水道は「走水の海」と表現されるくらい潮の行き来がある場所だったと考えると、東に最短距離で海を渡ろうとしたが、太平洋から東京湾内部へ向かって潮が流れている時だったので北に流されて木更津あたりに着いた・・ということも、あくまでも、いくつも考えられる可能性の1つとしてならば、ありえないとは言えないかもしれない。 しかし、それはあくまでも、いくつもある可能性の1つとしてありえないとは言えない、という程度の話である。地図を見て考えると、もしも、流されることなく浦賀水道の最も短い距離の場所を渡ることができたとすると、横須賀市の走水港からなら富津あたりに行くのが妥当だろう。今の交通機関で考えると、走水港の少し南の久里浜港から出ているフェリーは鋸山の北側の浜金谷に行く。木更津よりはかなり南だが、浜金谷まで行かなくても、最短距離で浦賀水道を渡れたとすると富津あたりだろう。但し、最短距離の場所というと、逆に潮の流れは激しい場所とも考えられる。むしろ、東京湾の多少は内側の方が波は静かではないかと考えると、横須賀市の走水港まで行かなくても、金沢文庫あたりから君津あたりめがけて進んでも良さそうに思えるし、木更津に着くのなら、東京湾アクアラインだって川崎と結んでいるように、川崎でなくても、横浜市の磯子かそのあたりから出港しても良さそうにも思える。そもそも、このヤマトタケルという人は、いったい、どこに行きたかったのか? その頃は、今のような東京はなく、東京がこの付近の中心地だったわけでもないとしても、ヤマトタケルて、この人、いったい、どこに行きたかったの? ・・て感じ・・しませんか?
「小碓命の東伐」なんて言うけれども、海を渡るだけでも、ほうほうのていでなんとかやっと渡ったという一行が「東伐」なんてできるの? ・・て感じもしませんか?
「きみ、去らず」が木更津になった・・というようなことを木更津市で言っている人もいるようですが、おそらく、違うでしょう。木更津市の南隣は君津市で、「きみつ」と「きさらづ」をくっつけると、
「きみ(つ)(き)さらづ」で、「きみ、去らず」になる・・
・・としても、ヤマトタケルとは関係ないと思う。たぶん。 むしろ、江戸時代は「木更津船」という船で木更津港と江戸とを結んだとか言うし、港は昔からあったようで、今も港はあり、木更津と川崎を結ぶ東京湾アクアラインなんてのも開通したように、東京湾の西側と陸を通らずに行き来したくなる立地であり、地図を見ると貯木場もあるようで、
「木」+「腐らず」+「津」=木更津
の方が、まだしも、ありそうな感じがする。
『鳳神ヤツルギ』に登場するタケルとキサラの「キサラ」という女性の名前は、木更津(きさらづ)の最初の3文字を取って「キサラ」みたい。《ウィキペディア―鳳人ヤツルギ》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B3%B3%E7%A5%9E%E3%83%A4%E3%83%84%E3%83%AB%E3%82%AE によると、大和タケル・橘マリなる登場人物が出るらしいが、橘マリの「橘」はオトタチバナ(弟橘)の「橘」なのだろう。
ヤマトタケルの話というのは、西のクマソや出雲タケルを成敗しに行く時と、東征とではイメージがかなり違う。 西に行く時は、英雄ヤマトタケルにしては、やることがせこい。女に化けて宴会場に忍び込み、相手のそばによってグサァ~ッと騙し討ちで刺し殺すとか、なんか、昔、『がきデカ』という漫画で「こまわりくん」が、「バーのねーちゃんに化けて刺し殺す」なんて話をして、「おまえは、本当に卑怯なやつだな」と西城くんが言う場面があったが、そんな感じ。 「バーのねーちゃん」ではないとしても、女に化けて近づいて相手が気を許したところをグサァ~ッ! ・・。さらに、相手と親しくなったように見せて、互いに川に入って禊をしようと川に入り、自分が先に陸地に上がって、まだ川にいる相手に、おまえを成敗してやると言い、相手があわてて剣を取ると、おまえの剣はこっちだ、すりかえておいた・・とかやって倒すとか、騙し討ちの連続。 なんか、英雄にしてはやることがせこい! どっちが悪もんやらようわからん。
ところが、クマソや出雲タケルを倒して都に凱旋してきたヤマトタケルを待っていたのは、今度は東国を成敗せよという命令で、ヤマトタケルは「父は私に死ねと言うのか」と嘆く。このあたりから悲壮感が出てくる。
相模の国では・・というのか、話の内容から考えて、相模なのか駿河なのかようわからんのだが、今度は、かつて自分が得意とした「騙し討ち」を逆にやられて、草地で火に囲まれるが、そこで秘剣「草薙」が登場して火の向きを変える。
次いで、浦賀水道を船で渡ろうとすると、今度は船が動かない。そこでロシア民謡の「ステンカラージン」よろしく女を海に投げ込めば海神はそのいけにえを喜んで船を通してくれるだろうと考えて、メカケの1人のオトタチバナを海に投げ込んだところ、予想通り、海神は海を静かにして船を通してくれた・・・と。
※ 《 ステンカラージン (ИЗ-ЗА ОСТРОВА НА СТРЕЖЕНЬ)》https://www.youtube.com/watch?v=kmAQc2nyY2k
なんか、昔から、洋の東西を問わず、「英雄」てのは女を海なり川なりに投げ込んでおのれが生き残るというのを得意技にしてきたのだろうか・・・。
走水神社では、オトタチバナとヤマトタケルを「祭神」だということにしていて、木更津市では、太田山公園の上に「きみさらづタワー」を作り、二本の柱の上にヤマトタケルとオトタチバナだという像を作っているけれども、『古事記』の話によると、ヤマトタケルは、浦賀水道でオトタチバナを海に沈めて房総半島に渡った後、西に帰ると、オトタチバナの一周忌もすまないうちに尾張の熱田で別の女を妻にしているわけで、なんだか、オトタチバナとしては「死に損」みたいなものなのだ。 英雄だかなんかしらんが、ひとりの女を浦賀水道で海に沈めておきながら、一周忌もすまないうちに尾張の熱田で別の女とくっつくなんて、このチャラ男、いったい何???
しかも、熱田で別の女と結婚すると、伊吹山の神を退治すると言うものの、調子こいて、「猪木、ボンバイエ♪」て感じで〔⇒《YouTube-https://www.youtube.com/watch?v=BvmqYM1xpZA 〕、こいつは秘剣「草薙」なしで素手で退治してやる・・なんて言って出かけて返り討ちにあう。アホやんけ・・・。まあ、だいたい、女の前でええかっこしようという男というのは負けると相場は決まっとるんや、ほんま・・。
そして、大和に帰りたい帰りたいと思いつつ、三重県の亀山市あたりまで来て力尽きて死んでしまうが、大和に帰りたいというヤマトタケルの魂は体から抜け出して大鳥となって西に飛び立ち・・・、そんでもって、懐かしい大和に着地したのならまだわかるが、大和を通り越して、大阪府堺市の鳳神社に着地した・・・て、なんで、大和を通り越してしまうんだよお・・・、なんか、もう、わけわかんないよ・・・て男がヤマトタケルだったのだ・・。
《 その国より科野(しなの)国に越えて、すなわち科野の坂の神を言向(ことむ)けて、尾張国に還り来て、先の日に期(ちぎ)りたまひし美夜受(みやず)比売の許(もと)に入りましき。・・・ 》
( 『古事記』「中つ巻」「景行天皇 倭建命の子孫」 倉野憲司 校注 1963.1.16.岩波文庫 )
と、『古事記』には書かれており、オトタチバナが浦賀水道に身を沈めた後、西に帰ると、一周忌も経たないうちに、ミヤズヒメの「もとに入りましき」なんてことやっとるわけですよ、この薄情もんの男は! なに、このチャラ男!!! ・・て思いませんか?
もっとも、ヤマトタケルは実在した人物ではなく、その話のモデルとなった人間がいたということなら可能性としてないわけではないとしても、モデルとなった人物がいたとしてもその名前は「ヤマトタケル」ではなかったであろうし、又、1人の話ではなく、何人かのいくつかの話を合体させて『古事記』『日本書紀』には「ヤマトタケル」という男の話としてまとめられたという可能性もあるわけで、浦賀水道でオトタチバナを海に投げ込んだ男と、愛知県でミヤズヒメと「まぐわひ」した男は別人ということも可能性としてはあるが、仮に『古事記』の話を前提として考えると、愛知県を通って東に行く時には、ミヤズヒメと戻ってきた時に結婚しましょうと約束しておいて、浦賀水道で別の「妻」のオトタチバナを海に沈めて犠牲にしておのれらは房総半島に船で渡り、西に戻って愛知県まで来ると、オトタチバナの一周忌もすまないのに平気でミヤズヒメと「まぐわひ」する男・・・て、なんとも薄情で身勝手な男・・。なんか、「女性の敵」て感じ・・しませんか?。
「鳳神(ほうじん)ヤツルギ」の「鳳神(ほうじん)」て何なんだ・・というと、ヤマトタケルの魂が三重県亀山市から大鳥になって大阪府堺市の鳳(おおとり)神社まで飛んで行った・・・という話から、「鳳の神」で「鳳神(ほうじん)」ということではないかな・・・。
大和に帰りたい帰りたい・・という思いが大鳥になって西に飛び立った・・・というのなら、大和に着地せんかい! なんで、通り越して大阪府堺市まで行くねん・・・。堺になんかええもん、あったんかい?
こういうことを考えると、『古事記』に書かれているオトタチバナの話というのは、ヤマトタケルの妻の1人のオトタチバナが自ら海に身を沈めて海神の怒りを解いた・・という話に書かれているけれども、オトタチバナという女はどういうことをした女なのか、どういうデショウの女なのか・・ということが『古事記』には書かれていない。
『古事記』に書かれているオトタチバナの話というと、浦賀水道で海に身を沈めたという話と、ヤマトタケルとの間に子供があってなんとかいう名前だ、という話だけで、それ以外には存在感がない女なのです。・・ということは、実際は『古事記』の記述のようにオトタチバナが自ら海に飛び込んだのではなく、たいして有力な縁故のない女を、浦賀水道を渡る際に、いけにえとして海に投げ込んだのではないのか?
その方がありそうな話だと思いませんか?
『古事記』をよく読みますと、オトタチバナというのは、ヤマトタケルの「妻」の1人とされているけれども、浦賀水道を船で渡ろうとした時、すでに子供があったのです。はらんでいたというのではなく、それより前に産んだ子供があったのです。 ヤマトタケルのオトタチバナによる子供というのが『古事記』に書かれているのです。 普通に考えてですよ。昔から言いますでしょ。
「女は弱し。 されど、おばさんは強し。」・・・て。さらには「おばさん通れば道理ひっこむ」とか「そこのけ、そこのけ、おばさん通る」とか、「泣く子もおばさんには勝てない」とか・・・。
それも言いますけれども、「女は弱し、されど、母は強し」なんて言うように、普通に考えて、すでに子供がある女が、子供を残して海に身を沈めますでしょうかねえ・・・? あなた、こういうこと考えたことない~い?
1970年頃、花登筺『銭の花』のテレビ番組の『細腕繁盛記』での話。伊豆熱川の旅館「山水館」に加代が嫁入りした時、加代の夫、正吾とその妹の正子がいて、さらにその妹に春江がいたが、春江は正子などから下の扱いにされていた。なぜ、春江だけ「正」という字が入ってないのか。もしかして・・と思い夫の正吾に尋ねてみたところ、母親が違った。春江の母は春江を産んだ後、追い出されるように家を出て行き、残された春江は継子としてつらい立場で成長した。大きくなった春江が母に再会した時、春江は「どうして(自分とともに)死んでくれなかったの」と言うが、それに対して母親は「母は死ねません」と答える・・という場面があった。自分ひとりなら、死んでしまう・・ということを考えても、子供がある母は死ねません・・と。
※ 《 銭の花 細うで繁盛記 旅館山水館》https://www.youtube.com/watch?v=jlipoy1IH4U
私は、このオトタチバナの話を、小学校低学年の頃、1960年代後半に、『古事記』より前に『漫画日本の歴史』で読んだのだが、夫のためを思って自ら海に身を沈める・・という話なので、「ヤマトタケルの妻のオトタチバナ」には、その時点で子供はないものだろうと思いこんでいたのだが、『古事記』をじっくりと読むと、オトタチバナが産んだ子供の名前が記述されているのだ。
《 この倭建の命、伊玖米(いくめの)天皇〔垂仁天皇〕の女、布多遲能伊理毘売(ふたぢのいりびめの)命を娶して、生みませる御子、帯中津日子(たらしなかつひこの)命。
またその海に入りたまひし弟橘比売の命を娶して、生みませる御子、若建(わかたけるの)王。
また近つ淡海(あふみ)の安(やすの)国の造の祖、意富多牟和気(おほたむわけ)の女、布多遲比売を娶して、生みませる御子、稲依別(いなよりわけの)王。
また吉備の臣 建日子(たけひこ)の妹(いも)、大吉備建比売を娶して、生みませる御子、建貝児(たけかひこの)王。
また山代の玖玖麻毛理比売(くくまもりひめ)を娶して、生みませる御子、足鏡別(あしかがみわけの)王。
また一妻(あるみめ)の子、息長田別(おきながわけの)王。凡そこの倭建の命の御子等、あわせて六柱なり。・・ 》
( 『古事記』「中つ巻」「景行天皇 倭建命の子孫」 倉野憲司 校注 1963.1.16.岩波文庫 )
この記述、よく見てください。嫁は6人いて子供も6人できたように見えるけれども、もう1人、ミヤズヒメとも「許(もと)に入りましき」やっとるわけですが、『古事記』のこの記事を見ると、ミヤズヒメとの間には子供はできなかったように見えます。ミヤズヒメは別として、他の6人の嫁ですが、天皇の娘が1人、近江の国の造の祖の娘、吉備の臣の娘と父親が明記されているのが2人。一番、軽い表記は「一妻(あるみめ)」と名前すら書かれていない女が1人。オトタチバナともう1人、山代のククマモリヒメの2人は父親が誰かの記載がない。ククマモリヒメは「山代の」という出身地が記載されているが、オトタチバナは出身地の記載もない。
このあたりの記述から考えると、
1.親の力が最も強いのが垂仁天皇の娘で、
2.次いで近江の国の造の祖の娘と吉備の臣の娘。
4.その次が出身地の記載がある山代のククマモリヒメ。
5.オトタチバナは名前の記載もない。
6.「一妻(あるみめ)」は名前も記載がない。
オトタチバナはこの6人の中で下から2番目。
ミヤズヒメはその子供の名前は記載がなく、ヤマトタケルの子は六柱と記載されているところを見ると、ミヤズヒメに子はできなかったのでしょうか。しかし、
《 故、尾張の国に至りて、尾張の国の祖、美夜受比売の家に入りましき。すなはち婚(まぐは)ひせむと思ほししかども、また還り上らむ時に婚ひせむと思はして、期(ちぎ)り定めて東(あづま)の国に幸(い)でまして、悉に山河の荒ぶる神、また伏(まつろ)はぬ人等を言向け和平(やは)したまひき。》
《 その国より科野(しなのの)国に越えて、すなはち科野の坂の神を言向(ことむ)けて、尾張の国に還り来て、先の日に期(ちぎ)りたまひし美夜受比売の許(もと)に入りましき。ここに大御食(おおみけ)献りし時、その美夜受比売、大御酒甕(さかづき)を捧げて献りき。ここに美夜受比売、それ霞の襴(すそ)に、月経(つきのさはり)著ききたりき。故、その月経を見て御歌(みうた)よみしたまひしく、
ひさかたの 天(あめ)の香具山 利鎌(とかま)に さ渡る鵠(くび) 弱細(ひはぼそ) 手弱腕(たわやがいな)を 枕(ま)かむとは 我(あれ)はすれど さ寝むとは 我(あれ)は思へど 汝(な)が著(け)せる 襲(おすひ)の裾に 月立ちにけり
とうたひたまひき。ここに美夜受比売、御歌に答へて曰(い)ひしく、
高光(たかひか)る 日の御子 やすみしし 我が大君 あらたまの 年が来経(きふ)れば あらたまの 月は来経往(きへゆ)く 諾(うべ)な諾な諾な 君待ち難(がた)に 我(わ)が著(け)せる 襲(おすひ)の裾に 月立ちなむよ
といひき。故ここに御合(みあひ)したまひて、その御刀(みはかし)の草薙の剣を、その美夜受比売の許に置きて、伊吹の山の神を取りに幸行(い)でましき。 》
( 『古事記』「中つ巻」「景行天皇 小碓命の東伐」 倉野憲司 校注 1963.1.16.岩波文庫 )
・・・と、ミヤズヒメは、ヤマトタケルの子供を産んだ6人の女よりも記述ははるかに多く、そして、海に身を沈めたという行為は載っていても名前だけで誰の娘かどこの出身かも掲載されないオトタチバナとは違って、「尾張の国の祖」の娘だと明記されており、ミヤズヒメを入れて7人として見ると、
1.「垂仁天皇の娘」のフタジノイリビメ。
2.「尾張の国の祖の娘」で『古事記』の記述が最も多いミヤズヒメ。
3.「近江の安の国の造の祖の娘」のフタジヒメ。
「吉備の臣の妹」のオオキビタケルノヒメ。
5.「山代の」ククマモリヒメ
6. オトタチバナヒメ
7. 一妻(あるみめ)
・・という序列が見える。
このあたりを考えると、浦賀水道で海神だか水神だかのいけにえに海に投げ込むには、天皇の娘を投げ込むわけにはいかないと考えて、「下から二番目」あたりの女が選ばれた・・というのは、十分考えられる話ではないか。
大和から東国に行く途中、尾張ですでにミヤズヒメと話はできていて、予定通り、帰りにミヤズヒメと「まぐはひ」したわけだが、その途中に、何人もいた「妻」なのかメカケなのかの女の中から、重要性の低い女を海に投げ込んで浦賀水道を渡った。オトタチバナはそういう使い方をされた女だった・・ということか。
・・で、殺されたオトタチバナの怨念で、ヤマトタケルはミヤズヒメと「まぐはひ」した後すぐに、伊吹山の神を退治してやると調子こいて出かけたのはいいが、ミヤズヒメの許に秘剣「草薙」を置いていくものだから、伊吹山の神に返り討ちにあって死ぬことになった。自分を殺しておいて他の女と平気で「まぐはひ」する男に、殺された女の怨念が恨みを晴らした・・・・のか?
ヤマトタケルは実在した人間ではないので、ヤマトタケルのお話というのが事実かそうでないかと議論してもしかたがないのですが、ヤマトタケルの話のモデルになるような行為をした人間がいたということなら、可能性としてないとは言えないわけですが、そのモデルになる行為をした人が三浦半島から船で房総半島まで渡った時に、上陸した房総半島側の場所はどこか、ということもわからないのですが、木更津市あたりかもしれない・・ということで、八幡神社として八幡神を祀る八剱八幡神社で、ヤマトタケルは祭神の末席に入れられていて、祭神というのは3柱か5柱かにされることが多いので、それで、もう1人、スサノオを入れた・・・というところ・・かな・・。
それとも、「木」+「腐らず」+「津」=木更津 の可能性はあると思うのですが、地名がその由来でなかったとしても、港があり、木材を貯木したとかいう可能性は考えられるわけで、そこから、「木の神さま」として、イソタケルやククノチノカミよりも知名度が高いスサノオが祀られた・・という可能性もないことはないのではないか・・・。
《ウィキペディアー鳳神ヤツルギ》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B3%B3%E7%A5%9E%E3%83%A4%E3%83%84%E3%83%AB%E3%82%AE によると、「鳳神ヤツルギ」という「ご当地ヒーロー」では登場人物の名前が、「大和タケル」「橘マリ」「草薙靭(くさなぎ じん)」などで(東京湾アクアラインの「アクアマリン」とか證誠寺の狸囃子の「狸たち」とかも出てくるらしいが)、「ヤツルギ」は「鳳神」でヤマトタケルが他界した後に西に向かってヤマトタケルの魂が大鳥となって飛んでいき、大阪府堺市の鳳(おおとり)神社に着地した・・というお話があって全国に大鳥神社があるその「鳳」からきたものと思われるが、「ヤツルギ」は木更津市の八剱八幡神社から来ているのは明らかであることから、八剱八幡神社というのは、主祭神はヤマトタケルで「八幡神社」と言うものの八幡神≒ホンダワケは祀っていないのか? ・・と勘違いしそうになるが、八剱八幡神社のホームページを見ると、あくまでも主祭神は 八幡神≒ホンダワケ であり、八幡神を氏神とした源氏とつながりがあるとする神社で、源頼朝が植えたというお話のある蘇鉄の木が植わっている神社であり、ヤマトタケルは祭神になっているとはいえ、5番目の祭神であり、ヤマトタケルが浦賀水道を船で渡る時にいけにえとして海に投げ込まれたオトタチバナという女が髪にさしていたという櫛が房総半島側に流れ着いたという記述が『古事記』にあってもそれが房総半島のどこかはわからないわけだが、それを木更津市ですうということにしたい人が木更津市にいたようで、それを木更津市では「木更津市総鎮守」を名のる八剱八幡神社および5番目の祭神のヤマトタケルと結びつけた人がいたのだろう。 しかし、八剱八幡神社は、だからといって、本来の祭神の八幡神を捨て去るようなことはしていないようで、あくまでも、主祭神は八幡神であって、ヤマトタケルは5番目の祭神として祭神に入っているという位置づけのようだ。
アイダ設計は、キャラクターショーなどを実施し、それだけではなく、保育園・幼稚園などにそれを見に来てもらうように話をするといったこともやり、その結果、アイダ設計で契約したわけでもない人でも、キャラクターショーを見に行ったことから何だかアイダ設計という会社とそこの従業員に親しみを感じるようになり、特に、子供が味方になるということがあり、それが営業活動に貢献するようだ。住宅建築業の会社は、契約をあげるために、営業にだけ涙ぐましい努力を要求するのではなく、会社としてやっているからには、会社として売るための努力をするべきで、その点ではアイダ設計は、キャラクターショーなどを実施し、自社の営業所のビルの屋上には「アイダ設計」と書かれた大きな看板を設置し、テレビ広告などもやり、会社として「売るための努力」を相当している、という点は高く評価できると思う。 しかし、そういうものに費用をかけると、それが販売価格に加算されることにならないか、という懸念もあるわけだが、「コストと利益を比較考量して」考えるなら、そういう費用をかけることで、それによって営業しやすくなり、契約があがりやすくなるのなら、「コストと利益を比較考量して」、むしろ、費用を節約することにつながる可能性もある。
実際のところ、アイダ設計(株)の千葉県市川市の行徳の営業所にいた時だが、近所の家にポスティングに行った時、近所の人と会うと、「ああ、アイダ設計さ~ん♪」と無茶苦茶歓迎されて驚いた、ということがあった。何、これ?・・・それまで、他の会社で、ポスティングや飛込訪問で行ってそんな対応してもらったことなんてない。 それは、そういう反応をしてもらえるための努力を会社としてしていたのだと思う。
新華ハウジング(有)〔千葉市中央区鵜の森。 建設業。2013年11月に正式に倒産〕でポスティングをしていると、ある家の郵便受けに入れたのを見て、隣の親父が「うちは要らないから」と投入を拒否したり、駅前でチラシを配布しようとしてもなかなか受け取ってもらえなかったり、そういう経験を何度もした。
(株)一条工務店 では、1992年に入社した頃、同社は静岡県中西部・愛知県においては「地元の会社」という「売り」があり、静岡県中西部・愛知県向けの商品であり〔「遠州好み」。古田織部が好んだ「織部好み」・千利休が好んだ「利休好み」のように、小堀遠州が好んだという意味の「遠州好み」ではなく、遠州人の好みに沿った、という意味の「遠州好み」の商品〕、そして何より、「セゾン275S1」というタイプを「施工面積」という延べ床面積よりも広く計算される同社独自の計算法の面積、結果として「坪あたりいくらですか」ときかれた時に安めの額になる計算法で東京都では坪55万円で売らされていたのに、それを浜松・掛川の営業は坪48万円、名古屋の営業は坪49万5千円でウルトラのダンピング販売していて、それだけでも他の地域より売れて当たり前であったが、その静岡県中西部・愛知県のみテレビ広告をドカンと一発♪ やりまくり、テレビ番組のスポンサーにもなっていた。機械プレカット工場も浜松に設けて工場見学会をやり、耐震実験も浜松工場の敷地内でやって静岡県中西部・愛知県の顧客にアピールする販促手段を取りまくった。全国で営業やってる会社が、なぜ、静岡県中西部・愛知県のためだけの販促活動をやりまくるのか?(2011年3月の東日本大震災の後、1996年にバカ息子が女性を刺し殺した時に社長を辞任して以来、社長でも会長でも相談役でもなくなっていたはずの大澄賢二郎が主唱したとして、「お世話になった浜松市に恩返しをしたい」などと称して「防潮堤の費用」と称して300億円を寄付したというのだが、なんで、全国から利益をあげてきた会社が、浜松市にだけ寄付するんだ? おかしいだろうが! 浜松市以外の市町村・都道府県には世話になってないとでも言いたいのか?!? ) さらに、1992年、掛川営業所が全国一の営業成績をあげている・・と(株)一条工務店の経営者は言っていたのだが、それからしておかしいのだ。同年、私が入社した東京都江東区潮見の東京展示場は、林野庁が運営する「木を知ってもらう施設」「国産材を理解してもらい、国産材の利用促進をはかる施設」として作られたもので、住宅展示場は「国産材を使用している会社」のみが出店できることになっていたが、あくまで、木と国産材を理解してもらうための施設であって、売るための住宅展示場ではないので、住宅展示場に幟を立てたり横断幕を垂らすなどは禁止という展示場で、来場者は、たとえば、
(1)「『舞浜』の東京ディズニーランドに行こうとしたけれども混んでるのでやめて、『葛西臨海公園』で葛西臨海公園に行こうと思ったけれどもそれも混んでいるのでやめて、『新木場』で夢の島熱帯園に行こうとしたけれどもそこも混んでいるのでやめて、『潮見』のウッディランド東京は混んでないみたいなので来た」なんて「観光客」や、
(2)林野庁が運営する施設なので国家公務員のおっさんどもが仕事で視察に来たり、
(3)高校生の女の子が先生に連れられて家庭科の授業で見学に来たり、
(4)建築の専門学校の生徒が先生からウッディランド東京を見学してくるように言われて来たり・・、
そういう相手の接客をして、そういう相手から契約をあげろと言われても、家庭科の授業でやってきた高校生の女の子にどうやって契約してもらうんだ??? ・・普通に考えて、「普通の住宅展示場」ならば、「将来のためを思って見学に来たのであって、今すぐとは考えていない」と言う人があり、実際にそうだという人もあるが、基本的には戸建住宅を建てることを検討している人が行く所だ。 「売るための展示場」に勤務している者と「国産材を知ってもらうため」の展示場にいる者とでは条件は明らかに違う。その「観光客」の割合が大きい東京展示場は、「三世代がゆったりのびのび住める家」というキャッチフレーズにしていたが、「三世代がゆったりのびのび住める家」とはどういう間取りの建物かというと、「お母さんとお嫁さんが一緒に調理のできるシステムキッチン」とか「親戚中が集まった時も対応できる二間続きの和室」とか「親戚の人など多くの人が来た時には補助席としても使えるリビングルームの大型のベイウインドウ」とか、来場者から「何、これえ!?!」「イナカの家みた~い!」「こんな家、東京で建てる人なんてあるわけないでしょうよお」と言われる建物だったのだが、営業は最大で13人もそんな展示場に押し込められていたのだ。静岡県中西部・愛知県向けで開発された商品を売っていた静岡県掛川営業所(展示場)よりも、「うわっ、田舎の家みたい!」「何、これえ?」「東京でこんなイナカの家みたいの建てる人なんてあるわけないでしょう」と来場者から言われまくり、「浜松の人というのは、こういう家に住んどるわけですかあ」と、まるで、登呂遺跡https://www.shizuoka-toromuseum.jp/toro-site/ か何か、縄文時代の竪穴住居か何かを見学に来た人みたいに言われたり(こういうことを言うと、「そういうことを言うからいかんのだあ~あ!」と近藤路夫は激怒するのだが、怒りたいのなら、実際にそういうことを言った来場客に怒ってもらいたいもので、言われた人間に向かって怒らないでほしいものだ)、そういう展示場の方が、新築できれいな浜松などの展示場よりもそこに勤務させられていた営業社員の数が多かったのだ。ふざけんな! コンビニの店員を倍に増やしたら販売量は倍に増えるか? コンビニの店員を3倍に増やしたら販売量は3倍に増えるか? 増えるわけないだろうが! (株)一条工務店の東京展示場の営業は「遠州人」〔(株)一条工務店の遠州人〕にそれをされていたのだった。 営業社員の数が適切な数より少ない状態から1人増やしたとすると、1人分、契約も増えるだろうが、すでに飽和した数の営業がそこにいるのに、さらに増やせばどうなるか・・・というのを、経済学では「収穫逓減の法則」と言う。 農夫が1人から2人、3人と増えていくと、最初は2倍・3倍と収穫量は増えていくが、そのうち、好ましい農地がなくなっていき、条件が悪い場所でも農業をせざるをえなくなり、農夫の数がさらに増えると、全体の収穫量は増えても農夫1人あたりの収穫量は減っていく。 その展示場にふさわしい営業の数から考えて、1992年の東京展示場は営業の数が多すぎたのだ。かつ、そういう展示場は2階ホールは端から端まで床鳴りがして、直してくださいと言っても直してもらえず、他方で浜松などの展示場はいずれもきれいな展示場で床鳴りなんてしないのだ。ふざけんな、「遠州人」!
おのれら、しまいに血い見るどお~お!!! おのれら、ええかげんにせんと、そのうち、刺されるぞお!・・・とか思っていると、1996年、なんと、大澄賢二郎初代社長のバカ息子で(株)日信というグループ会社で損害保険の会社の社長に名目上なっていた(ということは、「仕事はしないで社長の給料を盗っていた」ということではないかと思われる)大澄隆史(男。当時、20代)が、つきあっていた女性、同棲していたこともある女性で浜松に住んでいた人を、東京から高速道路をクルマでぶっとばして行って刺し殺しよった。「羽柴秀吉の中国大返し」のごとく、高速道路を東京までとんぼ返りをした上でしらばっくれたが、きょうびの道にはあっちやらこっちやらにNシステムとかなんとかかんとかがついており、「女を刃物で殺し、官憲に追われ逃げる」という中国の小説『水滸伝』の登場人物にして梁山泊の3代目首領「呼保義 宋江(こほうぎ そうこう)」そのまんま、まさに「梁山泊の精神」を実行した男は懲役20年の実刑判決を受けた・・・、『太閤記』+『水滸伝』、「羽柴秀吉+呼保義 宋江」は成功しなかった・・・と、「あんたら、そんなことやってたら、そのうち、刺されるぞお」と思ってたら、逆に刺しよった( 一一) ( 一一) ( 一一) で、週刊誌やスポーツ新聞などに掲載されまくり、「浜松の有名工務店」として実名は掲載されなかったとしても「浜松の有名工務店」というほどは非浜松地域では有名ではないとしても「浜松の有名工務店」といえば(株)一条工務店以外にない。1996年、消費税が上がるので、上がる前に契約とりまくらないと上がった後は契約してもらうのは困難だということで、誰もが必死のパッチで動き回っていたまさにその時、初代社長のバカ息子はいったい何をやってくれるのか!!! (株)一条工務店は営業社員が少しでも営業成績があがらないと「赤字社員」だとか言っていじめまくるが、一番の赤字社員は初代社長のバカ息子だった!!! (株)一条工務店は営業社員の営業成績が悪いと「レッドカード」とか言って「転勤」辞令を出して、「おい、これは転勤だと言うけれども実際は辞めろということなんだぞ。どうだ、辞めないのか、どうなんだ」とか言って辞めさせるということを繰り返していたのだが、それは労働法の上では「人事権の濫用」になるのではないかと思うのだが、そういうバカ息子は関連会社の(株)日信の社長に名目上なっていたというが、そういうバカ息子は「レッドカード」どころか、普通に考えて、懲戒解雇が妥当だろう。(株)一条工務店とその関連会社において実際に働いてもいないのに、そういうバカ息子を関連会社の社長にならせた初代社長の大澄賢二郎もまた「レッドカード」だろう。「転勤」といっても日本国内ではだめで、(株)一条工務店の経営者が大好きなフィリピンもだめで、「シベリア送り」とかして「極寒のシベリア」で強制労働につかせれば、いくらかなりとも「真人間」に矯正されるかもしれん。(それでも矯正されないかもしれん、「電気ショック療法」とかロボトミー、もしくは、「化学的ロボトミー」と言われる薬漬療法とかでもやらないと「この病気は簡単には治らない」のではないか。)初代社長の大澄賢二郎は、それで、カッコだけ「社長を辞任しました」ということにして、「子供の頃からの竹馬の友」という山本庄一を影武者の社長にならせて、まさに『水滸伝』で「梁山泊」の2代目首領には晁蓋(ちょうがい)につかせて陰から「梁山泊」を動かし、晁蓋が自己主張をするようになりうるさくなって戦死させると、3代目首領にはあえてならずによそから呼んできた盧俊義を影武者の首領にならせてまたもや陰から「梁山泊」を動かそうとした・・というのを真似たのか、社長を辞任して会長にも相談役にもならなかったはずなのに、相変わらず会社運営に口出し、2011年3月の東日本大震災の後には、はっきりと表に出て来て「初代社長の大澄賢二郎氏の提案により」などと言って「お世話になった浜松市に恩返しをしたい」などと浜松市以外には世話になってないみたいなことを言って浜松市に従業員の給料へつって貯め込んだカネの一部から300億円の寄付をするというパフォーマンス(日本語に訳すと「ええかっこしい」)をやり、それを浜松市長で慶應大ア法学部卒の鈴木康友と福島第一原発事故の後に静岡県産茶葉の放射線量調査を拒否した静岡県知事の川勝平太が大絶賛した・・が(2代目社長の山本庄一は年齢が高齢になるとともに社長を引退して、銀行から連れて来た人間を3代目社長にならせたが、2代目社長の山本庄一と同年齢の初代社長の大澄賢二郎は相変わらず「初代社長」という立場を存続させていたようで)、バカ息子が「刃物で女を殺し官憲に追われ逃げる」という「梁山泊の精神」を実行したことにより社長を辞任した・・というのは「なかったこと」になったのか? 浜松市長の鈴木康友と静岡県知事の川勝平太は「女を殺して官憲に追われ逃げる」という「梁山泊の精神」を実行したバカ息子を関連会社の社長に任命していたことに対して責任を取るという形で大澄賢二郎が自ら社長を辞任したというのを「なかったこと」にすることに加担したかったのか? 「形式上の辞任」であっても、大澄賢二郎が自ら社長を辞任したのは、「後進に道を譲る」とかそんな理由でではなく「刃物で女を刺し殺し官憲に追われ逃げる」ということをやるバカ息子を関連会社の社長にならせていたということに責任を負うという形で辞任したはずであり、そうである以上は、単に「若い者に活躍の場を譲る」とかいうような理由で社長を辞任した場合とは違って、社長に復帰するとかは簡単にしていいことではないはずなのだが、浜松市長と静岡県知事はそういうパフォーマンスに加担していいのか?
ともかく、掛川営業所の営業成績が全国1位だとか掛川営業所の人間は言うておったようだが、勝手なことを言うんじゃない! 掛川営業所でそんなに契約が取れるのならば、掛川営業所の営業の数を倍に増やしたらどうなんだ! それだけ売れる営業所ならば、営業の数もそれまでよりも多くしていいはずだ。 それを「通算契約棟数全国1位」だと得意がっていた掛川営業所所長の近藤正夫はさせなかったのだ。ずっこいのだ、「遠州人」は! 普通に考えて、小さくないπ(パイ)を適度な数で分ける営業所と小さいπ(パイ)を何人もで分けさせられる営業所では、営業1人あたりで見ると、前者の方が「営業成績が優れている」という結果になったとしても当たり前だろうが! だから、(株)一条工務店の「通算契約棟数全国1位」なんてのは、八百長なのだ。八百長!!! 八百屋の長兵衛である!!! 「遠州人」〔遠州人一般ではなく(株)一条工務店の遠州人のことだが〕は根性ババである。根性がう〇こ でできている。 「審判は巨人びいきや」てなもので、(株)一条工務店の経営者というのは大部分が遠州人であり、「浜松・掛川・名古屋のまわしもの」みたいなやつばっかりであり、(株)一条工務店の経営者は公平性に欠けており、静岡県中西部・愛知県優先主義だった。 箱根の関より西、不破の関・鈴鹿の関より東の地域が「本国」であり、箱根の関より東、不破の関・鈴鹿の関より西の「植民地」とは明らかに差をつけていた。箱根の関より東、不破の関・鈴鹿の関より西の人間にとっては(株)一条工務店という会社は「浜松という後進国の外資系企業」みたいな性質があった。 それだけではなく、東京営業所所長を兼任していた営業本部長の天野隆夫もまた「浜松営業所長みたいな東京営業所長」「浜松の利益を代弁する東京営業所長」だった。何よりも、「渋谷といったら、小岩の東の方だらあ♪ 新宿というと、平井の北の方だら。そうだら。ぼく、東京はよく知ってるんだから。そう思うだら」とか何度も何度も何人もの前で大きな声で言う人が東京営業所長の天野隆夫さんだった。こんな人が東京営業所長なんだ( 一一)・・「渋谷といったら小岩の東の方だら♪」「新宿といったら平井の北の方だら♪」とか大きな声で何人もの前で言う人が東京営業所長だったのだ・・・と思ったが、そういう会社だった。
それで、その結果だが、浜松の本社で実施された研修に参加するため、新幹線で浜松駅まで行き、タクシーに乗ると、「一条工務店」とさえ言えば、タクシーの運転手は「よほどおかしなタクシーでなければ」間違いなく倉松町の本社まで行ってくれたのだ。すごい! 東京で「一条工務店」なんて言っても、「知っている人は知っているけれども、知らない人は知らないというくらいの知名度の会社だと思います」なんて言っても、「そうかしら。誰も知らないわよ。一条工務店なんて。知ってる人なんてないでしょお」と言われる会社だったのに、私は何人ものおばさんにそう言われまくったのに、浜松でタクシーの運転手に「一条工務店」とだけ言えば、ほとんどのタクシーが間違いなく(株)一条工務店の本社まで運んでくれる! すごい!!! この違いは何? ひとつには、(株)一条工務店の本社がかつてあった倉松町というのは、国道1号のバイパスの近くにあって自家用車で行くには便利な場所だが、鉄道の駅から遠いだけでなくバス停も近くにない、バスも通っていないという場所なので、タクシーにとっては「いいお客さん」だったので、タクシーの運転手はよく知っていた、ということもあったとは思う。しかし、それだけではない。浜松駅前からタクシーに乗ると、「一条工務店」という名前を出しただけで、運転手は「お客さんは家を建てる会社に勤めている人だと思うので、教えてほしいんだけど、私は今、年齢が◇歳で、年収は〇万円しかないんだけど、こういう者でも家は建てられるものなんでしょうか」なんて相談されるのだ! すご~い! 東京ではどうかというと、1993年、松戸展示場では、向かいの住友林業の展示場から出て来た家族連れの男の子が、住友林業の向かいの(株)一条工務店の展示場も入るものかと思って入ってくると、その母親が入口から「ちょっと、ここは入らないの。ここは入っちゃだめな所なのお! 早く、出なさ~い! ここは入っちゃだめな所なのお! 入っちゃだめえ~え!!! すぐに、出なさ~い!!!」と中に向かって大声で叫ぶ。 1993年1月に江東区亀戸でオープンした展示場に勤務していた人に聞いた話では、「セゾン」という商品名の亀戸の展示場に入ろうとした家族の親父が「一条工務店」と書いてあるのを見て、「おい、待てえ! 入っちゃだめだ、ここは! 『一条工務店』なんて書いてあるぞ。ここは西武じゃねえぞ、ここは! だめだ、こんな所、入っちゃだめだ。早く出ろ、出ろ! だめだ、こんな所、入っちゃ!!!」と叫んで出て行った・・・と。 それだけの違いがあったのだ。いわば、浜松・掛川・名古屋の営業というのは、その頃の東京圏の営業からすると、「巨人みたいや」「長嶋みたいや」とでも言ってやりたいような連中だったのだ。
〔⇒《YouTube-松山で流れるくたばれ読売(東京音頭)ヤクルトラッキー7 20190416》https://www.youtube.com/watch?v=8qAPp3RbB7s
⇒《YouTube-【阪神タイガース 大合唱】開幕戦の"商魂こめて"は凄まじい》https://www.youtube.com/watch?v=jqA-_IY2Gu8 〕
(株)一条工務店の浜松・掛川・名古屋の営業というのは、いわば、八百長で営業やっていたのである!!! 東京ドームでは、巨人の攻撃の時はホームからセンター方向に人工的に風を吹かせて、巨人の守備の時には逆にセンターからホームに向かって人工的に風を吹かせているのではないか・・というありそうななさそうな話があるのだが、(株)一条工務店の場合、浜松・掛川・名古屋の営業が打者の時にはホームからセンター方向に人工的に風を吹かせるようなことをしていたのだった。だから、掛川営業所長の近藤正夫が通算契約棟数全国1位だった・・などというのは八百長、ラグビーやってる人間と野球やってる人間でラグビーやってる人間の方が得点が多かったとしても、そんなものは当たり前! というものだったのだ。それを、「ラグビーやってる人間」(静岡県中西部・愛知県の営業)が「野球やってる人間」(東京圏の営業)に向かって、自分たちの方が多く得点あげたとか言って自慢しまくっていたのが1992年頃の(株)一条工務店だった。この「長嶋みたいなやつ!」・・と何度も思ったものだった。
浜松・掛川の人間は東京都で55万円のものを48万円、名古屋南営業所の人間は49万5千円でダンピング販売していたのであり、浜松・掛川・名古屋の人間は東京圏ではやらないテレビ広告をドカンとやりテレビ番組のスポンサーもやっていたのであり、宣伝のための耐震実験も浜松でやるなどしていたのだから、浜松・掛川・名古屋の人間、掛川営業所の近藤正夫さん、名古屋南営業所の近藤路夫さんの”ダブル近藤”、それに浜松営業所の平松さんは「粗利益」「あらり」で見ると1棟あたりの粗利益額は東京圏の営業の契約に比べて少ないはずなのに、報酬金額の上でも記録上でも、なぜ、1棟あたりの評価を同じだけ主張していたのか? どない考えても、ずっこいやんけ!!! 1990年代なかば、(株)一条工務店は、1年ごとだったか半年ごとだったかの「売上棟数番付」などというものを作成して、全国の営業所に送ってきたのだが、初代「横綱」はというと、浜松の営業所の古橋・・て、まさに「八百長横綱」やんけ! 相撲の番付とは良く言ったものだ。「八百長横綱」、恥を知れ!・・てものだ。 1971年の日本シリーズ、第三戦、最終回、巨人が1点のビハインドで阪急にリードされていた場面、王が阪急 山田からサヨナラスリーランホームランを打って逆転勝ちした場面の前、4番 王の前、3番の長嶋が二遊間をセンターに抜けるヒットを打ったということになっているが、YouTube にはいっている動画を見ると、遊撃手の阪本が打球をグラブにあてている。野村のじいさんが、遊撃手の守備の評価は「どれだけエラーをしなかったか」の「守備率」ではなく守備機会で見るべきで、動きのいいショートは最後の最後までとことん追いかけてなんとか取ろうとするので、グラブにあてたが取れなかったという場合が出てきてそれが「エラー」と評価されてしまうことになり、正面付近のゴロしか取らないショートはエラーが少なく「守備率」で見ると「守備がいい」かのように見えてしまう・・と書いておったが、1971年の日本シリーズ第三戦最終回、ショートの阪本は長嶋の打球をグラブにあてたが取れずにセーフになった・・が、あれはヒットなのかエラーなのか? あれはヒットかエラーか微妙な打球だったと思うが、又、そうであるからこそ、1971年の日本シリーズの直後、阪急の西本監督は、守備のいいショートが欲しいと考えて、福本が盗塁王の常連になる前、盗塁王のタイトルを取ったこともある打撃と走塁のいい阪本遊撃手をトレードに出して、打率1割台でも守備がいい大橋遊撃手を東映から獲得するということをやった。野村のじいさんの評価で、歴代のショートで守備のいい選手というと、この大橋(阪急)、それに宮本(ヤクルト)だというのだが、どうも、そういう、もっと動きのいいショートなら取ったかもしれんという時に、長嶋が打者の場合だと「ヒット」と記録されたように思うのだ。だから、私は「長嶋の首位打者」は白鵬だけが本来は反則のはずの肘撃ちがなぜか認められている「白鵬の優勝」とともに評価したくないのだ。 王は巨人の選手でも柴田や長嶋とは違って死球をぶつけられてもめったに怒らない選手で、そういう選手だけに、アンチ巨人でも「王だけは別」みたいに思っている人がけっこういたのだが、しかし、1969年、ロバーツ(アトムズ)が本塁打王争いで8月なかばまでトップで、その年はロバーツが本塁打王をとるかと思いきや、巨人戦で負傷して、怪我で休んでいる間に王にホームラン数を抜かれた。その後も、大洋 シピンは巨人の高橋一三から死球をぶつけられて負傷し、試合後、大洋 青田監督は「これからは、うちの投手には、巨人戦では、王・長嶋、もしくは高橋一三にぶつけるように指示する」と発言したように、巨人の優勝が危ないという時、もしくは、王の本塁打王が危ないという時には、必ず巨人の投手が相手主力選手にぶつけて怪我させる・・ということが頻繁にあった。『巨人の星』では、川上が星一徹に「星くん、あえて言う。巨人軍を去りたまえ。その理由は、きみもわかっている通り、巨人軍の投手は決してビーンボールを投げなかった、という巨人軍の伝統だ」とか言う場面があったが、バカ言ったんじゃないわ♪ よく言うわ♪ 1968年、9月まで阪神と巨人が優勝を争った時には、2ゲーム差で巨人にリードされていた阪神は、ダブルヘッダーを含む4連戦で、阪神は初戦 江夏・2戦 村山で勝ち、ダブルヘッダーだった3戦目をバッキ―、中1日での4戦目を再び江夏で4連勝をねらったが、第3戦の乱闘の時にバッキ―が指を骨折し、直後、交替した権藤が王の頭にぶつけた後に長嶋にホームランを打たれて負けたが、その試合を負けたことで4連勝を狙った阪神は3勝1敗に終わり、バッキ―はその骨折がもとに投げられなくなってしまい、巨人が優勝した。どういう状況で怪我したかはともかく、巨人の優勝が危ないという場面か、王の本塁打王が危ないという状況になると、必ず、ライバルチームの主力選手が巨人戦で怪我をするというジンクスがあったのだ。それこそ、「巨人軍の伝統」だったのだ。(株)一条工務店の浜松・掛川・名古屋の営業で営業成績が優秀だったと称しているヤツの営業成績などというものは、いわば、「長嶋の首位打者」か「白鵬の優勝」みたいなものだ。「巨人みたいや」「長嶋みたいや」というヤツの営業成績が少々いいように見えても、そんなものに価値はない。むしろ、恥を知れ! と言ってやるべきものだ。(株)一条工務店の浜松・掛川・名古屋の「長嶋みたいなやつ」というのは、本来、会社・経営者はそのあたりを是正して従業員の評価をしないといけないはずなのだが、(株)一条工務店の経営者は「浜松・名古屋・掛川のまわしもの」であり、「審判は巨人びいきや」てなもの、「ええなあ、長嶋は」てな状態やった。「ほんま、ええなあ、長嶋は」「ええなあ、うらやましいなあ、長嶋は」てものやった。
※ 《 くたばれ讀賣大合唱!みんなで東京音頭♪♪ 2019/5/6 ヤクルト対阪神》https://www.youtube.com/watch?v=-Xxv0Uq5VRQ
だいたい、白鵬てのは、なんで、白鵬だけ「肘撃ち」が認められるんだあ? あれは反則だろうが!!! 相撲にあんな技はないはずだ。「かちあげ」なんて表現しているものを見るが、力士として晩年頃の大鵬も「かちあげ」をやったが大鵬の「かちあげ」は腕を平行にして下から上にあげるもので、白鵬の「肘撃ち」とは全然別のものだ。すでに土俵外に出た力士にさらに2発・3発攻撃を加えるのを「だめおし」などと表現しているが、「だめおし」というのはまだ倒れていない状態でその攻撃をしなくても倒れたかもしれないという相手、まだ土俵内にいるがその攻撃をしなくても土俵外に出たかもしれない相手に念をおして攻撃をするものを「だめおし」と言うのであって、すでに倒れた力士に攻撃したり、すでに土俵外に出た力士にさらに1発・・ではなく、もはや、動きを止めた相手に3発くらいお見舞いするという白鵬の得意技は、あれは暴力であり、刑法上、格闘技としての正当業務行為には該当せず、刑法上の暴行罪・傷害罪に該当するはずだ。ボクシングなら反則として評価され、減点もしくは反則負けになるものを、なんで、相撲なら白鵬だけ認められるのか。 日本人力士が白鵬みたいな肘打ちやったら大変な非難を受けるはずだ。「外交特権」で白鵬だけ肘撃ちが認められるというのは不公平であろう。 下位の力士が横綱の顔を張ったらいかんとか言うが、それなら横綱は下位の力士の顔を張ってもいいのかというと、白鵬はいいと思っている。かつ、大鵬などは横綱が下位の力士に立ち合いの変化などは絶対にしてはいけないと心掛けて、下位の力士が大鵬に立ち合いに変化することはあっても大鵬は変化などしなかったのに対し、白鵬は平気で横綱が平幕に変化する。大鵬は、自分が下位の力士に時間前につっかけたりは絶対にしなかったが、時間前につっかけてくる力士があっても横綱は受けて立つものだと必ず立った。それに対して、白鵬は自分が有利な立ち合いなら立ち合い成立と主張して、自分が不利な立ち合いならば、立ち合い不成立だと言いたいようで、土俵下から手をあげて抗議したり、負けだと行事が言っても土俵下から土俵にあがらなかったりする。稀勢の里と白鵬が10日目くらいに優勝を争っていると、稀勢の里はそこから、白鵬だけでなく日馬富士・鶴竜という強敵と対戦するのに対して、白鵬にとっては日馬富士・鶴竜は安全パイである。かつて、1970年頃、琴桜・清国・前の山・大麒麟の4人が大関だった時、大麒麟の成績がわずかにいいという場所が多かったのだが、二所の関部屋の大麒麟は横綱の大鵬と対戦しないので、大鵬戦で1敗がつく他の大関より有利だったので、なんかずっこい・・て感じがしたのだが、日馬富士・鶴竜が日本人力士にとっては強敵なのに白鵬にとっては安全パイというのはそれ以上にずっこい。日馬富士が引退し、鶴竜に場所の前半で休場することが多くなると、今度は、白鵬は、10日目過ぎて他の力士にリードされると休場し、自分がリードしている場所だけ最後まで出るという作戦を取るようになったが、これもずっこい! 白鵬の「サポーター」は、普通に市販されているサポーターとは違って表面がざらざらしていてあたると痛いらしく、それで、白鵬は凶器攻撃としての「サポーター」を肘にまいているという話があったが、それはどうなんだろう?・・と思って動画を見ていたら、なんと、白鵬は「巡業」ではその「サポーター」はまかずに土俵にあがり、本場所になるとその「サポーター」を巻いている。逆ならまだわかるが、巡業ではまかない「サポーター」を本場所になると必ず肘にまいていて、その「サポーター」のところで肘撃ちを何度もお見舞いする。ということは、やっぱり、「凶器攻撃」としての「サポーター」だった可能性は十分考えられる。そんなヤツの優勝なんて、何回優勝しても優勝の価値はない。(株)一条工務店の浜松・掛川・名古屋の営業というのは、いわば、そんなもの、「まるで、白鵬みたい」であった。
1993年5月に「研修」に講師役に来た名古屋南営業所の近藤路夫が「住友林業なんかが競合になったら、『ごちそうさん♪』てなもんだ」と言うので、「何か、きいてみたいことはあるか」と近藤が言うので、「住友林業なんかが競合になったら、『ごちそうさん』てなもんだと言われましたが、住友林業が競合になった場合、どのようにやれば、『ごちそうさん』というように持っていけるのか教えていただけますでしょうか」と私は言ったのだ。すると、近藤路夫は「そんなもん。『住友林業はプレカットやってますか? やってませんでしょ。住友林業はムクですか? 集成材でしょ』と言えば、それだけで簡単に契約になる。おまえ、それを言ってないんだろう」と言うのです。「そんなことで契約になりますか?」と私は言ったのです。まず、第一に「住友林業はプレカットやってますか?」と言うと、その頃、住友林業(株)はプレカットやっていたのだ。それも、千葉県地域においては、浜松の(株)一条工務店と千葉県の材木会社の(株)ひらい が共同出資会社の(株)一条工務店千葉 を作って「一条工務店」ブランドで建てていた、その(株)ひらい が住友林業の「指定工場」になって「住友林業の家」の機械プレカットをやっていたのだ。それで、住友林業の営業はそれを指して「一条工務店は住友林業の下請けだ」とか見込客に言っていたのだった。「そんなもん」「住友林業はプレカットやってますか? やってませんでしょ」と実際には住友林業はプレカットやっているのに嘘を言ったのでは、それで信用をなくすことはあっても、それで契約してもらえるとは考えられない。 「住友林業はムクですか? 集成材でしょ」なんて言うとどうなるかというと、「集成材の方がいいんでしょ。住友林業の人がそう言っていたよ。あんた、そんなことも知らないの!」と言われることになる。近藤路夫は何をわけのわからんことを言っていたのか・・というと、要するに、近藤路夫という男は、そんないいかげんな営業でも契約してもらえるような場所でばっかり仕事をさせてもらってきた、ということだったのだ。
私は「まず、住友林業という名前と一条工務店という名前では、営業が同じことを言っても見込客にそれを信じてもらえるかどうかに大きく差があるのです。営業の能力が同じであっても、どちらの会社の人間が言うかによって、来場客・見込客がどちらを信じるかに大きな差があるのです。そのあたりについて、どうすればいいのか、教えていただけるのならお願いします」と言ったのですが、そうすると、近藤路夫は「そんなもん。住友林業は財閥系だとしても、一条工務店の方がいいと思えばそれでしまいじゃ。どうだ。違うか」と言って、他の参加者に「あんた、どうだ?」と言うと、その参加者は「『住友林業の方が財閥系だからいいと思う人もいるだろうけれども、一条工務店の方がいい』と言ってもらえます」と答えたのだ。それを聞いて、近藤路夫は「そうだ。その通りだ。ほら、そういうもんだ。おまえが言うべきことを言ってないから、だから、住友林業の方がいいみたいに思われるんだ。」と、近藤路夫はそう言ったのだ。 近藤路夫は、住友林業はプレカットなんてとうにやっているのに、「住友林業はプレカットやってますか? やってませんでしょ」などとアホなことを言って、それでも契約してもらえていたのだった。「住友林業はムクですか? 違いますでしょ。集成材でしょ」などと言おうものなら、「集成材の方がいいんでしょ。住友林業の人がそう言ってたよ。あんた、そんなことも知らないの!」と言われるのがオチなのに、それを「住友林業はムクじゃないでしょ」と言うだけで、それだけで簡単に契約とれる。おまえ、それを言ってないんだろう」などと近藤路夫は言うのだった。そんなことは言っても東京営業所(江東区潮見)や松戸展示場(千葉県松戸市)では効果はなかったが、近藤路夫はそういうことを言えばそれで契約してもらえるような地域で営業させてもらってきた男だったのだ。そして、何より、ある「地方」から来た営業の参加者が「『住友林業の方が財閥系だからいいと思う人もいるだろうけれども、一条工務店の方がいい』と言ってもらえます」と答えたのだが、それはその営業がそれだけ努力と工夫をしたからそう思ってもらえたのではない。「地方」に行くと、「住友林業の方が財閥系だからいいと思う人もいるだろうけれども、一条工務店の方がいい」と思っている人がもともと多かったのだ。その男は、もともと、住友林業と一条工務店ならば一条工務店の方が強い地域で営業していただけだったのだ。その後、福島県いわき市の営業所に勤務した時、(株)一条工務店で自宅を建てたWさんが入社してきたのだが、いわき市で自宅を(株)一条工務店で建てたWさんが、まさに「住友林業の方が財閥系だからいいと思う人もいるだろうけれども、一条工務店の方がいい」とそう言ったのだ。福島県では浜通りでも中通り・会津地方でも、あるいは茨城県北部においても、構造材はムク材で・国産材でと希望する人が多い土地柄であり、その地域においては、もともと、「住友林業の方が財閥系だからいいと思う人もいるだろうけれども、一条工務店の方がいい」と思っている人が圧倒的に多かったのだ。それは営業の努力や工夫でそうなったのではなく、その土地においてはそうだったのだ。1992年の時点で、東京圏においては、(株)一条工務店にとって住友林業は強敵で、まるで、幕下以下の力士が横綱に立ち向かうような感じだったが、「『住友林業の方が財閥系だからいいと思う人もいるだろうけれども、一条工務店の方がいい』と言ってもらえます」と言った男というのは、幕下以下が横綱を倒す方法を知っていたのではなく、(株)一条工務店が住友林業と同格以上であった地域で営業させてもらっていただけだった。 近藤路夫という男は、自分が、もともと、「住友林業の方が財閥系だからいいと思う人もいるだろうけれども、一条工務店の方がいい」と思っている人が多い地域でテレビ広告付きでウルトラのダンピング販売で営業をさせてもらい、「やっぱり、家を建てるのなら、住友林業とかたしかな所に頼んだ方がいいに決まってる」とか言われ、「得体のしれない浜松の工務店」は明らかに「格下」に見られている地域で、そこでなんとかしようと涙ぐましい努力をしてきた者に向かって、そういう口をきいたのだった。近藤路夫は「住友林業なんかが競合になったら楽なもんだ。『ごちそうさん』てなもんだ」などと言い、その上で「なんか、きいてみたいことあるか」と言うので、東京圏においては強敵の住友林業を「『ごちそうさん』てなもん」に変える秘法でも近藤路夫が持っているのなら、頭を下げてお願いすればその秘法を教えてもらえるのならと思い、どうすれば住友林業を「『ごちそうさん』てなもん」に変えることができるのか教えていただきたいと低姿勢でお尋ねしたのだったが、結局、近藤路夫は一貫して最初から(株)一条工務店が住友林業と同格以上の場所で営業させてもらってきたということでしかなく、こちらが期待した「幕下以下が横綱を倒す方法」なんてものを知っていたのではなく、(株)一条工務店が住友林業と同格以上の場所で営業させてもらってきた者が勝手な寝言を言ってるだけだったのだ。
(株)一条工務店では、「研修」で、「テレビ広告なんてやっていてもやらなくても一緒だ」と講師の人間が言うのだったが、その講師の人間というのはテレビ広告をやっていない地域の人間かというとそうではなく、テレビ広告をドカンドカンとやりまくっていた静岡県中西部・愛知県の営業が講師役になってテレビ広告などやっていない地域の営業に向かって勝手なことを言いまくっていたのだった。おまえら、ええかげんにせえよ! おんどれ、しまいに血いみるどお!!! ・・て感じだった。
アイダ設計のキャラクターショーは幼稚園・保育園に行って、「キャラクターショーをやりますから、どうぞ、来てください」と言い、家の契約してもらうかどうかは関係なく来てもらってかまいませんと呼びかけて来てもらうものだから、来た人間は、アイダ設計の人間を、なんだか、公務員かそれとも幼稚園・保育園の関係者か何かみたいに思い、それ以来、他社とは違う意識を持つようになる人がいるようだった。そのやり方は、よく考えてやっていたと思う。
仮に、10の段階まで行けば契約してもらえるとして、会社の努力は特になく、最初の段階でゼロならば、営業は10だけ得点しないと契約に結びつかない。それに対して、テレビ広告やキャラクターショーなどですでに8の段階まで行っていたとすると、営業は2だけ得点すれば契約してもらえる、ということになる。 理屈通りにいくかどうかはさておき、そういう理屈になる。もしも、会社の評価がマイナス10ならば、営業はプラス20のことをやらないと契約してもらえない。 「構造材はムク材で国産材の(株)一条工務店」と「通し柱は集成材で管柱は輸入材の住友林業」では、「ムク材で」「国産材で」という希望が強い「地方」においては「構造材はムク材で国産材の(株)一条工務店」は相当強いのに対して、「集成材の方がいいんでしょ」と思っている人間が多い都市部において「なんで、東京で建てるのに、浜松の無名工務店になんて頼まなきゃならんのだ」と思っている人を相手にするのはけっこうきつい。 マイナス10からのスタートとまでいかなくても、マイナスいくらかからのスタートであり、すでにプラス7かそこらくらいの状態からダンピングで営業すればいい静岡県中西部・愛知県の営業とは条件が全然違った。
その会社によって、「会社の努力」でプラス7くらいまで持って行って営業の努力で残りを達成させるという会社と、私が入社した頃の東京圏での(株)一条工務店のように「会社の努力」はなしですべて営業の努力でなんとかさせようという会社では、〔1992年頃の東京圏の(株)一条工務店はひどかったが〕、アイダ設計のキャラクターショーは、けっこう費用もかかっていたはずだが、それによるプラス面は出ていたと思う。
但し、私は、他の会社で、キャラクターショーなどにそこまで力を入れていない会社に何社も勤めてきたので、アイダ設計に対する近所の人などの好意的な反応に驚いたのだが、最初からアイダ設計しか経験がないという営業には、「それが普通」と思っている人もいたように思う。営業が「それが普通」と思ってしまってはいかんと思うのだ。
2001年だったと思うが、(株)一条工務店で、NHKの「プロジェクトX」という番組でヤマト運輸が宅急便を始めた時の話の放送を見せられたのだが、今では知らない人は誰もないヤマト運輸だが、宅急便を始めたばかりの頃はなかなか頼んでもらえなくて、それで、郵便局の前に行って、小包を出そうとしていた人に声をかけるということをやったという。「おばあちゃん。その荷物、私に運ばせてもらえませんか」と言ったところ、「これはね。孫に送る大事な荷物ですから、だから、あなたには頼めません。郵便局に頼みます」と言われました、とその頃を思い出して涙を流していた社員が映っていた。実際のところ、「一条工務店なんて、まったく聞いたことないわあ。知ってる人なんて誰ひとりないでしょう」と何人もに言われまくり、そういう相手になんとか評価してもらおうと努力してきた者と、「一条工務店」という名前さえ出せば、それだけで「相談に乗ってほしいんだけど」と言われる静岡県中西部・愛知県の営業とでは、経験が大きく違う。アイダ設計の営業でも、最初からアイダ設計にいて「そんなもの」と思ってしまった人と、ポスティングしようとしても「要らんよ」と言われて突き返される経験をしてきた者とでは、相当違いがあると私は思う。
2010年、新華ハウジング(有)で、住宅についての説明会を実施して、そのチラシを駅前で配ろうとした時だが、それと別に、ポケットティッシュが1箱だか2箱だか届いていたのだが、S井さん(男。当時、40代前半)が「ポケットティッシュ、配ろう」と言うので、「チラシを配った方がいいでしょう」と私は言ったのだが、それは、ポケットティッシュというのは、定期的に配ることで会社名を覚えてもらい、認知度を高めることで、最初は「聞いたことがない工務店」であっても、そのうち、「知ってる会社」に変わっていくので、それを狙ったものであるのに対して、翌日に開催する行事に来てもらおうということならば、ポケットティッシュは受け取ってもそのままになる場合があるのに対して、紙1枚のものの方が、受け取った人はとりあえず見る可能性が高いので、ポケットティッシュの方が受け取ってもらえる可能性が大きいのでいいという場合もあるが、翌日の行事に来てもらおうということならば、ポケットティッシュよりも紙1枚の方がいい、と考えて言ったのだが、S井さんはポケットティッシュを配りたがり、紙1枚を配ることに強烈に拒否反応を示したので、それを見て、「ああ、この人はポケットティッシュなら配れても、紙1枚のチラシを配ることはできない人なんだな」とわかった。 紙1枚のチラシを受け取ってもらおうと出しても受け取ってもらえないことが多く、それに対してポケットティッシュなら、もらうだけもらっておけと受け取ってくれる人が多い。しかし、紙1枚のチラシを受け取ってもらおうと差し出す努力のできない人、受け取ってもらおうとして顔をそむけられたり手を引っ込められたりする苦痛に耐えることのできない人は、ポケットティッシュも配らない方がいいのではないかと思うのだ。 紙1枚を受け取ってもらおう差し出して受け取ってもらえない苦労を経験しない人間、それを嫌がる人間は、ともかく出せば受け取るだけは受け取ってもらえるポケットティッシュを配ってはいかんと思うのだ・・が、それならやりたがる、という人もいる。
同様に、キャラクターショーなど頻繁におこなうことで、「アイダ設計」の名前を出すと、それだけで他の会社とは対応が違うというのを、それを「当たり前」「それが普通」みたいに思う人は、一度は、そうでない場合を経験してみた方がいいのではないか、とも思った。 「これはね。孫に送る大事な荷物ですから、だから、あなたには頼めません。郵便局に頼みます」と何も悪いことしてないのに言われてつらい思いをした者と、「住友林業はプレカットやってますか? やってないでしょ」なんて無茶苦茶言っても契約してもらえる地域だけで営業やってほめてもらってきた男とでは、経験してきたものの質が違うと思う。・・「会社として契約をあげよう」としてキャラクターショーなどをやっているアイダ設計の姿勢は評価できると思うし、効果が出ていると思うのだが、「それが当たり前」みたいに思っている人もいたのではないかと思うと、その点についてはどうなのだろうな・・とも思う。
【B】太田山公園 「きみさらづ」タワー、橘神社、及び、安西家住宅。
JR内房線が木更津市を南北に走っていて、木更津駅をはさんで八剱八幡神社とは逆、東側に太田山公園があり、その上の方に「きみさらづタワー」なるものがあります。 タワーといっても、山の上に建っていて階段で途中の展望台まで登ることができるというタワーです。 山頂に行くと周囲がよく見えそうで、実は山頂の周囲に樹木が茂っていて見えないということがよくありますが、樹木の高さを超えるくらいの高さに展望台があるので、階段で展望台まで登ると四方が良く見えます。↓


↑ 太田山公園と「きみさらづタワー」
※ 木更津市 太田山公園 https://www.city.kisarazu.lg.jp/shokai/shisetsu/kouen/1000844.html
千葉県観光物産協会 太田山公園 https://maruchiba.jp/sys/data/index/page/id/8456
ウィキペディア 太田山公園 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E7%94%B0%E5%B1%B1%E5%85%AC%E5%9C%92


中ほどの展望台は、江戸時代から昭和初期にかけて江戸と木更津を行き来した「木更津船」をイメージして作られたものだそうです。「きみさらづタワー」は1992年にふるさと創生事業により竣工したものらしく、《ウィキペディアーきみさらづタワー》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8D%E3%81%BF%E3%81%95%E3%82%89%E3%81%9A%E3%82%BF%E3%83%AF%E3%83%BC によると、高さは12mらしい。
山頂の周囲の樹木を超える高さに展望台を設けると、四方がよく見えます。↓

東京湾アクアラインと海ほたるも見えます。↓

小山の山頂に樹木の高さを超える程度の高さに展望台を設ければ、山頂から周囲がよく見える・・というのはいいとして、その上にヤマトタケルとオトタチバナのオブジェを設けることで、実話でもない『古事記』の話を、それもモデルの話があったとして「純愛」の話ではなさそうなものを「純愛」の話のようにすりかえて国民にアピールするというのは、戦中の「国史」によって国民の精神をコントロールしようとした動きの復活の一環か?・・・と思うと、あまりいいとは思えません。
「きみさらづタワー」の足元に、橘神社があります。↓


オトタチバナは《ウィキペディアー弟橘媛》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%9F%E6%A9%98%E5%AA%9B には《『日本書紀』は弟橘媛とするが、『古事記』では弟橘比売命とする。》とあり「ひめ」「ひめのみこと」の表記は違っても、いずれも、漢字では「弟橘」で、橘神社というのは「弟橘」から命名されたもののようだ。
八剱八幡神社は「八幡神社」であり主祭神は八幡神≒ホンダワケ であり、ヤマトタケルが5番目の祭神に入っていたとしても、八幡神を否定してヤマトタケルを主祭神に置き換えるわけにもいかず、オトタチバナまで祭神に入れるわけにもいかないので、それで、太田山公園の山頂に「オトタチバナを祀る神社」を人工的に作ったのではないか。
・・・しかし、いけにえに海に投げ込まれた女を祭神に祀り上げた神社というのは、どうなのでしょうね・・・。
ヤマトタケルというのは、結局、つきあっていた女の1人を殺した上で泣いてみせて、少し経てば別の女といちゃいちゃしている・・という軽い男。チャラ男と違うのか・・みたいな、なんかそんな感じがしませんか・・・。
「恋の森 橘神社」なんて書いてあるのですが、男に殺されて、殺した男は少し経てば別の女とくっついている・・て、そういう神社か?・・この神社を設立した人はそういうつもりはなかったかもしれないけれども、オトタチバナの話というのは、そんなに「純愛」の話ではなさそうに思えるのですが・・・。
この橘神社の社ですが、外面も真壁ですが、正面は木製ですが、側面を見ると、スタッコ調窯業系サイディング貼りなんです。↓

窯業系サイディング貼りは、予算の上の問題もあってそうなったんかいなあ・・と思わんこともないが、なんで、神社の壁がスタッコ調なんだ? ・・て、気になりませんか? もしかして、施工した工務店の倉庫に余っとったんか? それにしては「神社色」のサイディングだが。
・・なんで、そんなのばっかり気になるの・・なんて言われても、なにしろ、建築探偵団ですから、気になるのです。
太田山公園には、安西家住宅が移築されています。↓



※ 木更津市 安西家住宅 https://www.city.kisarazu.lg.jp/shokai/shisetsu/bunka/1000936.html
田中文男『日本列島 民家の旅(8)関東の住まい』(1996.11.30.INAX出版)でも取り上げられていますが、18世紀初期の建築で、元は木更津市草敷 という場所にあった建物らしい。 この家屋は過去に、一度、見学させてもらったことがあります。今回は時間がなかったので、外観をながめて通るにとどめました。

関東の住まい―日本列島民家の旅〈8〉関東 (INAX ALBUM) - 田中 文男, 入澤企画制作事務所
一度、見学に訪ねても、しばらくすると記憶は薄らいでしまいます。 内容のある本は3回くらい読んでわかるようになる、という話がありますが、建築も3回くらい訪問すると理解できるようになるかもしれません。
今回は、ここまで。 八剱八幡神社と太田山公園の「きみさらづタワー」・橘神社は、ヤマトタケルとオトタチバナつながりということはあっても、木更津駅とJR内房線をはさんで逆側であり、八剱八幡神社と太田山公園で、ブログ掲載において2回に分けた方がいいかとも考えたのですが、太田山公園の安西家住宅などは、今回は通り過ぎただけですので独立した1回を設けるほどのものではないと考えて、八剱八幡神社とセットにして公開することにしました。
(2020.9.22.)
谷川彰英(たにかわ あきひで)『千葉 地名の由来を歩く』(2016.10.20.KKベストセラーズ ベスト新書)には、
《 昭和47年(1972)に出された『木更津市史』では、
(1) 日本武尊伝説にまつわる伝説から「君不去」-「木更津」の地名が生まれたという考え方が「従来ひろく流布されてきた」と指摘した上で、それに対して、
(2) 木更津の港湾がアイヌ語のキサラ(耳)に似ているからという地形類推説、さらに、
(3) キサゴ貝が多く分布しているという海産物類推説などもあり、
「いずれも未だ決定的なものではないとみられている」と指摘している。
ただし、この『市史』では、「木更津」の文献的な解明を行っているのが注目される。それによれば、「きさらす」という文字が文献上最初に登場するのは、文永10年(1273)のことだという。茂原市の永興寺の本尊釈迦如来像の胎内から発見された文で、そこには「きさらすの女房」と書かれているという。
さらに漢字で記された資料の初見は茂原の藻腹寺(そうげんじ)文書に書かれている「木佐良津」で、文和2年(1353)のことだという。その後いくらかのバリエーションはあるものの、中世においては主に「木佐良津」、そして近世に入って、特に寛文~元禄期以降「木更津」という感じが一般的になったとして指摘している。
もともと木更津の地は海に面した「津」であったことは事実なので、地名の発生としてはどこにでもある「〇津」、例えば「沼津」「大津」などと同じ成り立ちであると言える。その場合、「〇」は「津」を形容していることに注目すべきである。「大津」は「大きな津」「沼津」は「沼の津」というように。
もともと「津」という地名の成り立ちをそのようなものと考えるのなら、「君不去」が「君去ら津」になることはまずないと考えてよい。「君不去」(君去らず)の「ず」は「津」ではなく、否定の「ず」だからである。
以上のように考えてくると、「君不去」が「木更津」に自然に転訛することはまず考えられず、いずれかの時代に「きさら津」に日本武尊伝説をかぶせたと考えるのが正しいだろう。・・ 》
と出ている。〔(1)~(3)はブログ作成者が入れた。〕 私もそう思う。 それから、《アイヌ語のキサラ(耳)に似ているから》というのも違うと思う。地名の語源をなんでもアイヌ語から考えるというのは適切ではないと思う。青森県あたりならともかく、千葉県において、古い時代にアイヌ語から地名がついているとは考えにくい。
「きさらす」は「腐らず(くさらず)」⇒「きさらず」⇒「きさらす」 と変化した可能性はあるのではないかと思う。しかし、木更津(きさらづ)の「津」は港の「津(つ)」であろう。木は関係あるかもしれない。「木佐良津」の後半の「良津」は「良い津」からか。「木が腐らず、サラのように良い津」で「木腐らず・サラ・良い津」⇒「木サラ良津」⇒「木佐良津」⇒「木更津」 は可能性としてあるかもしれないか。「佐」は何なんだ? 「遊佐(ゆざ)」の「佐」は接尾語という説があるようで、「木佐」の「さ」も接尾語か。
谷川彰英(たにかわ あきひで)『千葉 地名の由来を歩く』は、《 しかし、だからと言って、この地に長く伝承されてきた日本武尊と弟橘媛伝説を否定するものではない。長く伝承してきた人々の思いを今後も末永く大切にしていくべきである。》と書いているが、それは違うだろう。 ヤマトタケルとオトタチバナの話を「木更津」に結びつけるのは無理がある。 そして、それを結びつけたのはいつで、誰が結びつけたのか、ということが気になる。戦中、軍国主義の時代においてか? 戦前の「天皇を中心とする人物中心の国史」として、国民に『古事記』『日本書紀』の記述を歴史だと教える「神話から説く”歴史”」の一環としてなのか、それ以前からそういったことを言う人があったのか。たとえ、戦中・戦前の国民教化のための細工として作られた話ではなく、それより前からそういった話があったとしても、それを広めようとしたのは、戦前・戦中の軍国主義の風潮とともに広められたはずだ。それを、戦後においても維持し復活させようとしている人たちがいるということであり、そういうものを《今後も末永く大切にしていくべき》だという谷川彰英氏の記述は適切とは言えない。
もっとも、橘神社などの名称の神社が、すべてのものが、戦前・戦中に軍国主義の影響で「天皇を中心とする人物中心の国史」「記紀の神話から説く歴史もどき」によって国民を教化しようという「政策」から作られたものとは決まっていないと思う。『千葉の御朱印めぐり さんぽ旅』(2020.11.30.ぴあMOOK)を見ると、千葉県でも外房の方、茂原市本納 に 橘樹神社 があるのが出ている。これなどは、名称の漢字から考えても、橘の樹木を祀ったものではないかと考えられる。同書には、祭神はオトタチバナとヤマトタケルと忍山宿禰(おしやまのすくね)と出ているが、オトタチバナは神社名が橘樹神社であることから、後から付けられたもので、ヤマトタケルはそれに付随して付けられたものであろう。オシヤマノスクネて誰なんだ? というと、《ウィキペディアー建忍山垂根(たけおしやまたりね)》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BB%BA%E5%BF%8D%E5%B1%B1%E5%9E%82%E6%A0%B9 によると、オトタチバナの父親だという。 千葉県には、橘神社などの名称の神社がいくつか見られるが、樹木の橘の木を祀ったものか、古い時代の橘氏の誰かを祀ったものか。 それらの神社で「祭神」としてオトタチバナの名前が入っていても、それは、そういう系統の神社に後からオトタチバナをくっつけた・・というものではないか。
茂原市の橘樹神社では「芸が細かい」というのか、『千葉の御朱印めぐり さんぽ旅』(2020.11.30.ぴあMOOK)には《 社殿後方に弟橘媛の墓と伝えられる墳丘がある。》と書かれているのだが。 青森県には「キリストの墓」と称するものまであるらしく、たしか、『金田一少年の事件簿』でも登場したと思う。岡本亮輔『聖地巡礼ー世界遺産からアニメの舞台まで』(2015.2.25.中公新書)によると、それは、戦中、日本は「世界四大文明」などにも劣らない古代からの先進地だと言いたい人がいて、孔子も釈迦もキリストも日本で修業したということにしようとしたらしく、青森県のどこやらに行って、そこにある土饅頭を見て霊感がひらめき、「これがキリストの墓だ!♪!」とおっしゃったそうで、そこから「キリストの墓」という話が出てきたが、地元の人もたいていの人は信じていない・・というが、オトタチバナの墓というのも、そんなものではないかと思う。そもそも、ヤマトタケルもオトタチバナも実在した人間ではないという事実をきっちりと認識する必要がある。・・それならば、橘樹神社の社殿の後方にある墳丘というのは、それはデッチアゲで捏造されたものなのか? ・・というと、そうとは限らないと思う。青森県の「キリストの墓」も、もともと、土饅頭はあったわけで、「その地の豪族か誰かの墓」であった可能性が大きいと思われるもののようで、それを見て「これがキリストの墓だ!」と言い出した人があったらしいのだが、「バカ言ってんじゃないわ♪」て感じがしないでもないが、茂原市の橘樹神社の社殿後方の墳丘というのも、おそらく「その地の誰かの墓」だったのではないか。おそらく、「そんなところ」ではないか、と思う。まず、「木更津」は「君去らず」ではない。そういうヨタ話を広めて、ヤマトタケルやオトタチバナといった実在していない人物のお話を歴史であるかのように国民を信じ込ませようとしている人たちに対しては、《長く伝承してきた人々の思いを今後も末永く大切にしていくべきである》などと言うのではなく、おかしな話を広めて国民を惑わせるのはやめてください! とはっきりと言うのが望ましいであろう。 根拠もない話を広めなくても、木更津市には他にいいものはあるはずである。
(2020.11.5.)
谷川彰英(たにかわ あきひで)『千葉 地名の由来を歩く』(2016.10.20.KKベストセラーズ ベスト新書)には、
《 「走水」「吾妻(東)」という地名の由来については『日本書紀』に書かれているので、それは認めていいと言えるだろう。だが、「木更津」については記紀にはひとこともない。後世の人が創作した地名伝説だと考えたほうがいい。・・・》
と述べられており、
「君津(きみつ)」+「木更津(きさらづ)」⇒「きみ(つ)(き)さらづ」⇒「きみさらず」
という語呂合わせから、ヤマトタケルとオトタチバナのお話に結びつけるのは無理があるだろう。
まず第一に、「『つ』に濁点(゛)」と「『す』に濁点(゛)」の違いというのは相当大きい。「きさらす」が「きさらつ」に変化したということなら、可能性としてないとは言えないかもしれないが、木更津は地理的位置から考えて、どう考えても「津(つ)」である。
「走水」の方だが、神奈川県横須賀市走水(はしりみず) に走水神社があり、『古事記』に「走水」という地名が書かれてはいるが、それは、現在の住居表示の横須賀市走水 のことではなく、岩波文庫の『古事記』の校注者の倉野憲司氏の注では「走水」とは「浦賀水道」のこととされているように、現在の住居表示の 横須賀市走水 という狭い範囲と限定されるものではなく、あくまでも《浦賀水道の海に面したどこか》と考えるべきものであろう。
(2020.11.5.)

千葉 地名の由来を歩く (ベスト新書) - 谷川 彰英

聖地巡礼 - 世界遺産からアニメの舞台まで (中公新書) - 岡本 亮輔

日本の歴史〈1〉神話から歴史へ (中公文庫) - 光貞, 井上
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