大鐘家住宅(牧之原市)見学【1/6】田沼意次の城下町相良の牧之原市片浜にある大鐘家住宅
[第792回]
静岡県の「民家」として、掛川市原里の加茂家に続き、今回、牧之原市の大鐘(おおがね)家住宅を見学に行きました。 牧之原市と言われても、どうも、ピンとこなかったのですが、2005年(平成17年)に榛原郡榛原町と榛原郡相良(さがら)町とが合併して牧之原市になったようです。
相良(さがら)というと、江戸時代後半の老中 田沼意次(おきつぐ)の領地であった所ですね。栃木県安蘇郡田沼町は、2005年(平成17年)、「平成の大合併」で北隣の安蘇郡葛生町とともに南隣の佐野市に合併して佐野市の一部分になったようですが、田沼町では「田沼意次ゆかりの地」と言って、「道の駅 どまんなかたぬま」https://domannaka.co.jp/ では田沼意次らしき殿さんのキーホルダーを販売したりしていましたが、栃木県の田沼町は田沼意次の領地であったわけではなく、静岡県の現在では牧之原市になった相良(さがら)が田沼意次の城があった場所です。
《ウィキペディアー田沼意次》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E6%B2%BC%E6%84%8F%E6%AC%A1 によると、田沼意次の父の田沼意行(おきゆき、もとゆき)は紀州藩の足軽だったが、紀州藩主 徳川光貞の四男だった徳川吉宗が、2番目の兄は早世しており、父と他の兄2人が死亡したことから紀州藩主になり、さらに、7代将軍 徳川家継の死により徳川吉宗が8代将軍になり(《ウィキペディアー徳川吉宗》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%90%89%E5%AE%97 )、「暴れん坊将軍」になったかというとそのあたりは違うように思うのだけれども、その吉宗が紀州藩の家臣を連れて幕臣としたことから、600石の旗本になり、息子の田沼意次は9代将軍 徳川家重の小姓になり、さらに10代 徳川家治の側用人から老中にまで出世し、最大で5万7千石の大名になったが、1784年、佐野政言により田沼意次の長子で若年寄になっていた 田沼意知(おきとも)が江戸城にて刺殺された後、1786年、10代将軍 徳川家治が他界した後、老中を辞任させられ、2度にわたる厳封を受けて、孫の田沼意明(おきあき)が陸奥下村藩(現 福島県福島市)1万石に減転封され、相良城は打ち壊され、1788年、意次は他界した。田沼意次が他界後に子孫が厳封されたのではなく、意次が生存中に老中を辞任させられるとともに、相良城も破壊され、孫が下村藩に減転封されてかろうじて大名として残ったというものだったようだ。「田沼の政治」については賛否あるようだが、中国の四人組裁判の時に、文化大革命を裁いているかのように外国から言われたことについて、当時、中国の政治家が「文化大革命は政治の問題であるから、政治の問題については成功でも失敗でもそれを刑事上の問題として裁く性質のものではない。決して、文化大革命を裁いているのではなく、文化大革命の過程においておこなわれた犯罪行為を裁いているのだ」と述べたのを見たが、20世紀と江戸時代とでは同じではないとしても、「田沼の政治」がもしも失敗だったという評価を受けたとしても、それで老中を辞任させられたとしても、5万7千石から1万石への厳封での転封、相良城の徹底した破壊というのは、単に「田沼の政治」の否定にすまないように思われる。
牧之原市役所相良庁舎の西、相良城跡に牧之原市史料館が建っており、そこに、老中を辞任させられた時の田沼意次の文書があり、長い文章だが、要するに、自分は何も悪いことはしていないのに、なぜ、こうのような扱いを受けなければならないのか・・という嘆きの文章だった。『剣客商売』では、白河藩主で田沼意次の後に老中になった松平定信が、もともとは将軍家の血筋なのに、白河松平家の養子になったことから、一度、家臣の立場になった者が将軍になるわけにはいかないということで将軍になれなかったのは、田沼意次の陰謀によるものだと誤解して恨んでおり、田沼意次は白河候の誤解と執拗な恨みに困っていたという話が出てくるが、老中を事実上解任されただけでなく、相良城も破壊され、5万7千石から1万石への減転封、さらには《大坂にある蔵屋敷の財産の没収と江戸屋敷の明け渡しも命じられた》《(相良)城内に備蓄されていた八万両のうち一万三千両と塩・味噌を備蓄用との名目で没収された》(《ウィキペディアー田沼意次》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E6%B2%BC%E6%84%8F%E6%AC%A1 )など、《同じく軽輩から側用人として権力をのぼりつめた柳沢吉保や間部詮房(まなべ あきふさ)が、辞任のみで処罰はなく、家禄も維持し続けたことに比べると、最も苛烈な末路となった》もので、「恨み骨髄に至る」みたいな感じ、よっぽど恨みがあったのか・・という感じだが、《反田沼派や一橋家(徳川治済)の策謀があったともされる》とあり、徳川 治済(とくがわ はるさだ / はるなり)とは、《 江戸時代の御三卿の一つ一橋徳川家の第2代当主。江戸幕府第8代将軍徳川吉宗の孫で、第11代将軍徳川家斉の実父》で《田沼意次が幕政を指揮する中、一橋家には意次の弟意誠(おきのぶ)や甥意致(おきむね)が家老となり、一橋家家臣とも縁戚関係を築いていた。しかし治済は松平定信ら反田沼派の黒幕として運動し、天明6年(1786年)、将軍・徳川家治が亡くなり長男の豊千代改め家斉が11代目の将軍職に就任すると、意次の罷免、田沼派の一掃を行わせた。》(《ウィキペディアー徳川治済(とくがわ はるさだ / はるなり)》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E6%B2%BB%E6%B8%88 )とあり、田沼意次が恨まれていたのは田安家出身の松平定信だけではなく、一橋家の徳川治済(はるさだ/はるなり)も反田沼の動きを取っていたらしい。
田沼意次が賄賂をとったという話は、実際には、松平定信らによる悪口であって違うという話だが、まったく賄賂を受け取ることはなかったのかというと、お歳暮くらいのものでも賄賂だと考えるのならば、それも受け取ることはなかったというわけでもなさそうで、史料館でもらった「相良城下」というリーフレットには、牧之原市相良の市役所相良庁舎の近くには「仙台河岸(せんだいがし)」という《相良城の石垣が残る場所》があり、《仙台藩主の伊達家が石を寄進したと伝えられ、名称の由来になっています。》ということで、老中には、城の為の石を寄進するなどする大名も出てきたのだろう。普通に考えて、名前で判断すると、「田沼」と「伊達」では「伊達」の方が大大名で田沼意次を別にすると「有名人」であり、そんな大大名が老中とはいえ紀州藩の足軽から旗本になった父親の息子に石を寄進した・・といったことがあったようで、その老中が松平定信のような「徳川将軍家の子孫」だったり、徳川四天王の井伊・本多・酒井・榊原といった譜代大名の家の息子なら、「まあ、そんなもんか」と思うものを、田沼意次がそういったものを大大名から贈られたとなると、「あの野郎」と思う者がいたのかもしれない。又、足軽の息子とか600石の旗本の息子として見ると、最大で5万7千石の大名というのはものすごい出世だが、江戸時代の大名の中では5万7千石というのは「たいしたことない」わけで、老中とはいっても、田沼意次を支持した10代将軍徳川家治に他界されてしまったのでは、藤原家を相手にまわした菅原道真というのか、豊臣秀吉亡き後の石田三成というのか、田沼意次が失脚した後の老中の松平定信は老中として「ライバル」「政敵」だったかもしれないが、600石の旗本から5万7千石の大名になったという田沼意次に対して、松平定信は将軍になれなかったのが不満だったとしても白河藩は11万石だそうで(《ウィキペディアー白河藩》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E6%B2%B3%E8%97%A9 )、松平定信の出自の田安家も10万石(《ウィキペディアー田安徳川家》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E5%AE%89%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6 )、なにより徳川将軍家の血筋であり、政治家としてどちらが優秀かという問題ではなく、田沼意次の後ろ盾の徳川家治が亡くなってしまっては、「ライバル」とか「政敵」というような立場ではなかったのではないか。《 家督相続後、定信は養父の意思に従い、田沼に賄賂を贈るなど幕閣に家格上昇を積極的に働きかける。》(《ウィキペディアー松平定信》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E5%AE%9A%E4%BF%A1 と出ており、「賄賂」というのは贈る者がいて贈られる者がいることで成立するわけで、清廉潔白のように言われる松平定信が田沼意次に「賄賂」を贈ったそうだから、贈られた側だけが悪いのではなく贈った側にもまた責任はありそうだが、徳川吉宗の孫からすると、その徳川吉宗が紀州藩から連れてきて足軽から旗本にならせてやった男の息子に「賄賂」を贈るというのは、「なんで、あんなやつに」という意識があったか・・?
老中でも、徳川家の子孫とか譜代大名の井伊・本多・榊原といった家の人間が老中になっていたのならば、たとえ、何かを贈る大名がいたとしても、「そんなもの」と見られたかもしれないところを、父親は旗本600石でしかなかったという田沼意次が受け取ったとすると、その時代の政治家としては決して多い方ではなかったとしても、相当のものを受け取ったかのように解釈された・・ということはありそうな感じがしないではない。 又、もとからの大名ではない田沼意次は、徳川家譜代の家臣などに比べて、そういったものをどう対処すべきかについて「脇が甘かった」ということなら、あったとしても不思議ではないかもしれない。
※ 牧之原市史料館 https://www.city.makinohara.shizuoka.jp/site/makinohara-life/1583.html
牧之原市観光案内所 https://msckc.jp/kankou/contents/miru_shiru/history/hist04_shiryoukan.html
・・市役所の相良庁舎の隣にあり、展示はワンフロアだけで、「市」がやってるから無料かと思ったら、有料だった。
※ 《ウィキペディアー佐野政言(まさこと)》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E9%87%8E%E6%94%BF%E8%A8%80
田沼意次は、かつては、賄賂を取ったけしからん政治家と言われたが、最近では、むしろ、江戸の三大改革などというものはたいした改革ではなく、田沼意次こそ、真面目に改革を考えていた江戸時代では最も良心的な政治家だったのではないか、という見解が出てきたようだ。
池波正太郎 原作・大島やすいち 画『剣客商売』では、秋山小兵衛の息子 大治郎は田沼意次の娘の三冬を妻とし、田沼意次は良心的な政治家として登場し、田沼意次の後に老中に就任する松平定信が本来は徳川将軍家の子孫なのに白河藩主を継いだことから将軍になれないのは田沼意次にしてやられたと思いこんで恨みを持っていたて、田沼意次はその誤解に苦しんでいた・・という話になっている。 池波正太郎 原作・さいとう たかを 画『仕掛人 藤枝梅安』では、梅安の友人の剣客 小杉十五郎が白川藩主 松平定信に使えるが、『仕掛人 藤枝梅安』では松平定信は清廉潔白な人として登場する。
※ 《dailymotion 剣客商売/三冬の縁談》https://www.dailymotion.com/video/x28zk9b
↑ 老中が一人で出歩いて「剣客」を訪ねる・・なんてせんと思うけどな・・・。
平(ひら)幹次郎は、かつて、1973年、司馬遼太郎の小説がNHKの大河ドラマになった『国盗り物語』で斎藤道三(どうさん)を演じたが、どうも、斎藤道三のイメージと『剣客商売』の田沼意次とが重なり、又、単身、秋山小兵衛の家を訪ねるなどは『暴れん坊将軍』や『遠山の金さん捕物帖』の話と重なり、池波正太郎の小説や大島やすいち の劇画に比べて、秋山大二郎の役の俳優が「細い」印象・剣客らしからぬ神経質そうな印象があり、三冬の役の俳優に「剣術のできる女」というイメージがなく、剣術の試合にも本物っぽい感じがしない、剣術家の話ならば、剣道がものすごくできるというほどでなくても、かつて、森田健作が青春ドラマで剣道部を演じた時、実際には森田健作が剣道何段とかいう話は嘘だったらしいが、それでも、”「剣道やってる」っぽい感じ” が出ていたように、”「剣道やってる」っぽい感じ” の俳優を使うとかできないものかと思った。 どうも、こういう小説は、小説が劇画(漫画)になり、テレビドラマになると、だんだんと内容が低下する傾向があるように思える。
栃木県安蘇郡田沼町⇒栃木県佐野市の旧田沼町地区 は、地名は田沼意次と関係ありそうな地名だが、田沼意次の生誕地でもなく、領地でもなかったようだが、どう関係あるのか。 《ウィキペディアー田沼氏》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E6%B2%BC%E6%B0%8F によると、《 田沼氏(たぬまし)は、日本の氏族のひとつ。本姓は藤原(藤姓足利氏族)で佐野氏分流。下野国安蘇郡田沼村(現:栃木県佐野市田沼町)を領し、1224年(元仁元年)に佐野重綱が田沼氏を称し、家祖とす。のち源姓(清和源氏)に改める。子孫に江戸時代中後期に江戸幕府老中を務めた田沼意次がいることで知られている。》とある。
栃木県の田沼氏がなぜ紀州藩の足軽になったかというと、《地方の一小族として、家祖以来約400年間、所領は下野・上野・武蔵・下総・相模・甲斐と関東近辺を点々とする。ただし、家祖が創建した田沼村の西林寺を変わらず菩提寺とし、この時期の家人の多くは同寺に葬られている。戦国期には上杉氏や武田氏に仕え、武田氏滅亡後はしばらく信州などを放浪していたという。12代目 吉次は鉄砲の妙手と謳われ佐野氏に仕えていたが、1615年、大坂の陣と前後して、当時鉄砲組が有名であった紀州藩にその才を請われ、主家の同意を得て転属する。吉次以降、吉重・義房・意行と4代に渡って紀州藩に仕える。身分は足軽(鉄砲足軽)とされるが、吉次と吉重の戒名は居士号であり、郷土史家の後藤一郎は高い士分であった可能性を指摘している。》《田沼家の当主で事跡が明白になるのは15代意行からで、宝永2年(1705年)に兄たちの相次ぐ死去によって徳川吉宗が第5代藩主になった折に奥小姓として藩に勤仕する。その後、享保元年(1716年)に吉宗が将軍に就任した際に将軍小姓として召されて、幕府旗本に列した。最終的には小納戸頭取などを務め家禄は600石となる。 》(《ウィキペディアー田沼氏》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E6%B2%BC%E6%B0%8F )ということらしい。
足利氏には源氏の足利氏と藤原の足利氏があって、鎌倉時代に藤原の足利氏の佐野氏の分流の佐野重綱が「田沼氏」を名のり、その子孫が田沼意次だということだが、佐野政言が田沼意次の息子で若年寄になっていた田沼意知を江戸城内において、「身に覚えがあろう」と言って刺し殺したということがあり、《大石慎三郎は、後世の田沼意知の暗殺原因の1つに佐野氏系図の未返還が原因だった説があることに触れ、この出自が必ずしも事実ではない可能性を指摘している》というが、まあ、大名の出自が「必ずしも事実でない可能性」なんて「よくある話」「あること」ではあろう。

田沼意次の時代 - 大石 慎三郎
大鐘家の重要文化財に指定されている長屋門は、田沼意次が相良城主であった期間に建てられたものらしい。 大鐘家は、もともとは柴田勝家の家臣で、江戸時代の初めは旗本だったが、「大庄屋」になったという家だったらしい。「大庄屋」というのは、「庄屋」の中で規模が大きい庄屋とか、勢いのある庄屋とかいう意味ではなく、庄屋をまとめる役だったらしい。
牧之原市は榛原町と相良町とが合併して「牧之原市」を名のるようになったのだが、どうも、その名称がしっくりこない印象を受けるのは、「牧の原」というと茶の産地で静岡空港が作られた「牧之原台地」の牧之原を思い浮かべるのに対し、旧 榛原町も旧 相良町も、いずれも海に近い場所に市街地がある。 相良城があった場所に、今は牧之原市相良庁舎・歴史史料館・相良小学校・相良高校があるようだが、「すぐそこ」が太平洋であり、大鐘家住宅の裏山からも太平洋が見える。 牧の原市の市域には内陸部も台地もあるようだが、市庁舎の相良庁舎・榛原庁舎があるあたりは「すぐそこが海」という場所であり、そのあたりに行ってみると、どうも、台地の名称である「牧之原」、特に「原」は違和感がある。 牧之原市 HPhttps://www.city.makinohara.shizuoka.jp/ を見ると、市庁舎の住所は「静岡県牧之原市静波447-1」と旧 榛原町の庁舎の方の住所が書かれている。
※ 《ウィキペディアー牧之原市》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%A7%E4%B9%8B%E5%8E%9F%E5%B8%82
それにしても、
(1) 吉良上野介を城内で刃物で切りかかって切腹させられた上、藩取りつぶしにされた赤穂藩主の浅野内匠頭、
(2) 江戸城内で田沼意次の息子の田沼意知を刺して切腹させられた佐野政言・・、それに、
(3) 「女を刃物で刺し殺し、官憲に追われ逃げる」という『水滸伝』の登場人物にして「梁山泊」の3代目首領 「呼保義 宋江(こほうぎ そうこう)」そのまんま、「梁山泊の精神」を実行した(株)一条工務店の初代社長の大澄賢二郎のドバカ息子で関連会社の(株)日信の社長に名目上なっていたらしい大澄隆史と・・・後先考えずに、刃物抜いて切りかかるやつというのがいたわけだ。浅野内匠頭や佐野政言の場合は侍として最初から脇差を身に着けていたわけだが、大澄のバカ息子の場合は東京から浜松まで刃物を持ってクルマをぶっとばして行ったわけだから「後先考えずに」ではなく十分に考えて計画的にやったのだろうが、「計画的にやった」わりには今の日本の道にはあっちやらこっちやらにカメラがついてるといったことも考えなかった・・というあたりは、「計画的にやった」わりに計画的でないようで・・・、なんか、そんなのが何も仕事してないのに関連会社の社長になっとったのかと思うと、日夜、滅私奉公を続けてきた従業員・元従業員としてはあほくさいというのか何と言うのか・・・( 一一) (株)一条工務店の経営者は少しでも営業成績が悪い従業員がいると「赤字社員」だとか何とか言いながら、「社長の息子」こそ最大の赤字社員だったのだが、一般入社の従業員なら許せんというものでも「社長の息子」ならかまわん・・というあたりは、旗本あがりの田沼意次なら許せんが徳川家の子孫だったり譜代大名だったりした場合なら許せるみたいな、それといくらか似ているかもしれない。
浅野内匠頭・佐野政言と違って大澄のドバカ息子だけが切腹していないが。 赤穂藩の藩士からすれば浅野内匠頭なんてのは、「おのれの感情からアホやって会社つぶしたバカ社長」みたいなもん・・ではないかて感じもするのだが。一般従業員だって腹立つことを我慢して勤めているのに、社長が何やってくれるんだよお・・て感じで、何でそんなバカ社長のために「忠臣蔵」やらなきゃならんのだ? 滅私奉公続けて来た会社をバカ社長につぶされてからに、こっちは次の就職先を見つけるのに大変なのに、バカ社長のためにて、バカ社長は社長であってこそバカ社長であって、社長やめたら「ただのバカ」であろうが!・・・とか、あなた、こういうこと考えたことない~い?
「殿中でござる」とか言うけれども、江戸城内で刃物抜いて切りかかったのは浅野内匠頭だけではなかったわけだ。大澄のドバカ息子は懲役20年の実刑判決を受けたが、早いもので20年なんてあっという間に過ぎたから、今はシャバに出ていらっしゃったのだろう。「相手が悪い」とおっしゃったらしい父親の大澄賢二郎は、ドバカ息子が女性を刺し殺した時に、そういう男を仕事は何もしていないのに関連会社の(株)日信の社長にならせていたことに責任を取るかのように(株)一条工務店の社長を辞任したはずだったが、2011年3月、東日本大震災と福島第一原発事故があると、「お世話になった浜松市に恩返しをしたい」などと言いだして300億円を「防潮堤の費用」と称して寄付し、浜松市長で慶應大ア法学部卒の鈴木康友と福島第一原発事故の直後に静岡茶の放射線量検査を拒否した静岡県知事の川勝平太とが大絶賛した・・というのだが、「お世話になった浜松市に恩返しをしたい」などと言われたのでは、浜松市以外の都道府県・市町村には世話になってないとでも言いたいんかい?!? ・・てことになるはずで、静岡県知事の川勝平太は「せめて、『浜松市に』ではなく『静岡県に』と言わんのかい?」と言っても良さそうなものだったが言わなかったようだ。なんでだろうな? それを言うと、「静岡県に」ではなく「全国の市町村に」になり、話が消えるかと思ったのかな?
牧之原市は旧 相良町の方が南側、旧榛原町がその旧 相良町の北側にあり、その北隣は榛原郡吉田町。 旧 相良町の南隣はというと、皆さん、御存じの御前崎市。 御前崎市というと、有名なのは御前崎灯台、それに浜岡原発。
御前崎原発ではなく浜岡原発と言うのは、《ウィキペディアー御前崎市》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E5%89%8D%E5%B4%8E%E5%B8%82 によると、2004年(平成18年)に、小笠郡浜岡町と榛原郡御前崎市が合併して御前崎市になったが、原発が作られた時点においては浜岡町だったからのようだ。
だいたい、原発が作られる所というと似ていて、「盲腸みたいな立地の場所で海に面した場所」に作られることが多い。中には意図的に「盲腸」化された場所もある。 四国 愛媛県の佐多岬は、お鼻が長く出っ張った佐多岬半島の途中にある。 山口県の柳井市に中国電力が原発を計画している場所も、JR山陽本線は広島から宮島口・大竹・岩国・柳井・光・下松・徳山から防府・小郡(新山口)・・と続いていたのが、山陽新幹線は、岩国から徳山まで、ほぼ岩徳線のルートを走り、柳井・光・下松といった市は山陽新幹線のルートから見ると出っ張った半島の先になり、しかも、その柳井市から半島が細長く南に出た先に原発は建設が検討されている。青森県は北側に津軽半島と下北半島が出っ張っており、下北半島は「まさかり半島」と愛称がつけられているが、青函トンネルは津軽半島側に設けられ、北海道新幹線も津軽半島側から津軽海峡をもぐって渡島半島に至り、下北半島側に原発と放射能施設が作られた。「まさかり半島」は「まさかり」の刃の部分は恐山とか薬研温泉とか火山・温泉の地域であり、「まさかり」の柄の部分というと、昔々、砂洲でつながったかと思われる地形であり、そんな場所に放射能施設を作って大丈夫か? ・・という感じがする。 青森県は旧津軽藩と旧南部藩とそれ以外でできた県で、今でも「津軽藩の人間と南部藩の人間が同じ県にいるのが間違っている」とか言う人がいるとかいう話だが、県庁所在地の青森市は津軽藩の城下町の弘前の外港だった街であり、下北半島側よりも津軽半島側の方が政治的に強かったのか? ・・という感じがしないでもない。福井県は若狭国と越前の国とで福井県になったが、若狭と越前ではかなり感じが違う。若狭は近江の滋賀県と一緒になるか、京都府北部の丹後と一緒になるかした方が違和感がないかもしれない。若狭もまた、鉄道では、東海道本線・北陸本線ともに滋賀県から京都・大阪に至り、山陽本線・山陰本線もまた京都・大阪から西に行くことで、地形としては若狭は「盲腸」ではないが、交通のルートとして「盲腸」のようになってしまっている。さらに、福井県では旧若狭と旧越前とでは旧越前の福井市が県庁所在地になっており、直線距離では若狭の方が京都・大阪に近いにもかかわらず、若狭の方が「盲腸」になり、越前の方が北陸本線のルートになっている。 福島県は東から浜通り・中通り・会津地方の3地域に分かれるが、中通りを東北本線・東北新幹線・国道4号・東北自動車道が通り、浜通りは常磐線・国道6号・常磐自動車道が通るが、中通りの方が平野が広いということもあるのか、又、現在では いわき市の旧 平(たいら)藩は幕末に筆頭老中 安藤忠正の城があった場所で、幕末の佐幕と討幕の戦いにおいて佐幕側についた藩だったことで、佐幕側の筆頭の会津若松とともに、旧 城下町ながら県庁所在地になることはできず、県庁所在地になった福島市と安積疎水で開けたらしい郡山市を通る中通りの方がメインのルートになり、浜通りは中通りに比べて「盲腸」にされたようなところがある。石川県の能登地方の志賀原発もまた、北陸本線・北陸新幹線・北陸自動車道のルートから北に出っ張った能登半島にある。北海道の泊原発もまた、積丹半島にあり、函館本線のルートから少々離れている。島根県の島根原発は県庁所在地の松江市にあるが、松江市の中心街ではなく、北に出っ張った島根半島にある。 どうも、原発というのはそういう場所に作られることが多く、もしくは、原発を作ろうという場所は、最初からそういう「盲腸」のような地理的位置でない場合も、作為的に「盲腸」化されるようだ。
・・で、浜岡原発はというと、静岡県で、神奈川県と愛知県の間の静岡県なら不利な立場ではなさそうに思えて、東海道本線・東海道新幹線・国道1号・東名高速道路のルートから見ると、この静岡県の駿河湾西側の地域というのは出っ張った半島的な位置にある。もっとも、菅直人内閣の時に浜岡原発は停止されたが、それは福島第一原発事故を見ると原発事故の影響範囲が広く、又、浜岡原発から放射性物質が太平洋に放出されると、日本海流(黒潮)に乗って流れていく先に東京がある・・ということから、特に他の原発より優先して停止されたのではないか・・な・・と思ったのだが、福島第一原発事故の直後、京都大学原子炉実験所助教の小出裕章さんが、「今、日本の原発の中で一番危険な原発というとどこでしょうか」と質問されたのに対して、「私はその質問には答えないことにしています。なぜかというと、原発で安全な原発などないということと、私は日本の原発で一番危険な原発は浜岡原発だと思っていたのですが、実際には浜岡原発ではなく福島第一原発で大事故が起こった。私の予想ははずれたのです。だから、どこで事故が起こっても不思議ではないですから、どこが一番というのは言いません」と語っている動画を見たが、予想ははずれたとしても、「日本で一番危険な原発は浜岡原発だと思っていた」ということですから、今は停止しているとはいえ、相当危険なのでしょう。

原発のウソ (扶桑社新書) - 小出 裕章
田沼意次の時代には、「田沼街道」と言って、相良城から東海道 藤枝宿まで28㎞の街道がひかれたようだが、↓

( ↑ は、大鐘家住宅のすぐ南側の看板。)
田沼意次は晩年に左遷されてしまい、幕末に田沼の子孫が相良の領主に復活したらしいが、それでも、「東海道のメインルートからは少々はずれた地域」として今日に至るようだ。 もっとも、東名高速道路の「相良牧之原」インターから相良地区まではクルマでなら遠くはない。大鐘家住宅は、東名高速道路からならば、吉田インターからか、相良牧之原インターからか、どちらからがより近いかわからないが、クルマならば遠くはない。
東海道新幹線の真上に作った静岡空港(「富士山静岡空港」)http://www.mtfuji-shizuokaairport.jp/ に、新幹線の駅を作ってほしい静岡県と作りたくないJRという話がしばしば出ているが、その静岡空港は牧之原市と島田市にまたがって立地しているらしい。 もし、静岡空港に直結の新幹線駅を作ったならば、成田空港の客、中部空港の客の何割かが静岡空港に行くのではないか、特に、中部国際空港より静岡空港の方が便利というケースが出てきて、その2空港、特に名古屋からけっこう遠い中部国際空港の「立場がなくなる」おそれがあるので、それで新幹線駅を作らないのではないか?
掛川駅に近いので、「こだま」は静岡空港駅を作ったなら、静岡空港駅から掛川駅まで加速しきらないうちに着いてしまうという話があるが、「こだま」だけ停まる駅を作ってもあまり意味はない。作るのなら、「ひかり」を停車させる駅にすれば、東京・名古屋から海外に行くのに便利な空港になるのではないか。成田・中部国際空港としてはそれが怖いのではないかな・・。もしかすると、関空より便利かもしれんし。新大阪から関空に行くのと静岡空港に行くのとたいして変わらんかもしれん・・。関空は大阪府でも北部の人間にとっては便利悪いからな・・。だから、既存空港の存立にかかわることになるので、静岡空港駅を作りたくないと言う人がいるのではないかな・・・。
宮城まり子が作った「ねむの木学園」「ねむの木村」が浜岡町(現 御前崎市)の海に近い場所にあったと思ったのだが、掛川市の山中にもあるようで、一部分、引越したのかと思ったら、《ウィキペディアーねむの木村》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%AD%E3%82%80%E3%81%AE%E6%9C%A8%E6%9D%91 を見ると、1968年に小笠郡浜岡町(現 御前崎市)にできたが、《 1997年 - ねむの木学園・ねむの木養護学校が浜岡町から現在地(掛川市)に移転》したらしい。

ともだちねむの木そして私〈1〉 (1981年) (集英社文庫) - 宮城 まり子
牧之原市が静岡県なのはわかるが、遠江か駿河か、どちらだろう・・・、御前崎の岬が境界かな・・・とすると、駿河か? ・・というと、《ウィキペディアー遠江》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%A0%E6%B1%9F を見ると、牧之原市は駿河ではなく遠江に属するらしく、遠江の東端に位置するようだ。 かつては、静岡鉄道駿遠線という鉄道が東海道本線の藤枝から榛原町・相良を通って袋井まで走っていたらしいが、1964年から区間廃止、大阪万博があった1970年に全線廃止されたらしい。私が小学校に入学した年には、相良・片浜・榛原町・静波にはまだ静岡鉄道駿遠線は走っていたようだ。
※ 《ウィキペディアー静岡鉄道駿遠線》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%99%E5%B2%A1%E9%89%84%E9%81%93%E9%A7%BF%E9%81%A0%E7%B7%9A
牧之原というと、江戸時代末期に、「幕末の三舟」と呼ばれる勝海舟・山岡鉄舟・高橋泥舟の3人が、駿河に江戸から送られて生活に困窮していた幕臣とその家族を救うために、牧之原台地で茶の栽培を始めた・・という話が 山本おさむ『そばもん』という漫画に出ていたが、その牧之原台地の牧之原か・・。 静岡県産の茶は牧之原台地だけではなく、他の地域でも栽培されており、(株)一条工務店が「来客用」だといって住宅展示場に送ってきた「本川根」茶はおいしかった〔 展示場によっては、会社が「来客用」だと言って送ってきた茶を営業が飲んで、「従業員用」だと言って送りつけてきた気色の悪い合成着色料たっぷりのおよそ「お茶」と言えないようなイカサマ茶を客に出していたという展示場もあったと聞くが、私はそんなことはしていない。福島県いわき市の展示場では、来客に「来客用」でお茶を入れて、その2番茶を従業員が飲んでいた。2番茶でも「本川根」茶はおいしかった。 〕
大鐘家住宅では、何種類ものお茶の葉を混合して、それを「百葉茶」と名付けて販売しているのだが、静岡県知事の川勝平太が福島第一原発事故の直後に静岡県産茶葉の放射線量検査を拒否したということがあったので、静岡県の農産物というのはそういう性質のものか・・ということになるわけで、そういう農産物は買わない方が良さそうだと考えたのだったが、大鐘家住宅に行くと、「お兄さんの場合なら、この百葉茶を飲んでもらうと痩せていいですよ」なんて言われたので、「お兄さん」にしてもらったのは大いに喜ぶとしても、痩せるとか痩せないとか大きなお世話だ・・と思い、「誰が買うかい」と思ったのだったが・・・、なんか、買っちゃった・・・・。むしろ、「大鐘餅(おおがねもち)」という餅が販売されているということで、ネーミングからしてなかなかのものであり、そっちを買って帰ろうかと思って行ったのだったが、それは、どうもよくわからないまま、帰ってしまった。
牧之原市相良というと・・・、何と言っても、「賄賂最中」なるものが名産としてある・・と聞いた(^^♪
《 箱を開けると、「付け届けは饅頭にかぎるのう。」との言葉と共に饅頭の写真が印刷された紙が入っている。これをめくると、小判をかたどった最中がつめられており、「したごころ」の表書きがある熨斗袋、さらに相良茶のティーバッグが付属している。最中にはお茶あんとつぶあんの二種類の風味がある 》(《ウィキペディアー賄賂最中》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AF%E3%82%A4%E3%83%AD%E6%9C%80%E4%B8%AD ) 《 町民や郷土史家の中にはイメージが悪いとして、販売を非難する者もいた。 2003年8月に静岡新聞に取り上げられたことから注文が4倍に増え、2003年11月15日からは牧之原SA売店でも週末限定で販売されるようになった。「ワイロ」であることから、それまでパッケージは桐箱を模した地味なものを使用してきたが、以降は相良高校美術部の生徒によるデザインのものに変更された。SAでの販売初日は販売開始前から列ができ、用意した100個が3時間で売り切れた。》というものらしい。
牧之原サービスエリア(下り線)と牧之原市相良の桃林堂という菓子店で販売されているということだが、今回は、大鐘家住宅と相良城跡に立ち寄るだけのつもりが、史料館にも入館して時間がなかったので、桃林堂を捜すことはできなかった。桃林堂の住所の牧之原市地頭方は、牧之原市相良の市役所相良庁舎などよりずっと南、御前崎市との境目に近い場所のようだ。 牧之原サービスエリアは、東名高速道路の吉田インターチェンジと相良牧之原インターチェンジの間、相良牧之原インターチェンジ寄りの場所にあり、上下線、サービスエリアは別のものがあるようだが、今回は、吉田サービスエリアで出て大鐘家住宅と相良城跡に行き、相良牧之原インターチェンジから乗って西に行ったので、牧之原サービスエリア下り線 には立ち寄らなかったが、次、東名高速道路で同区間を通る時にはぜひとも牧之原サービスエリア下り線に立ち寄ってみたいと思う(^^♪
※ 大鐘家HP http://www3.tokai.or.jp/oganeke/
※ ワイロ最中 http://daturyoku.webcrow.jp/sizu/sonota2/wairo/wairo.html
い~らナビ 桃林堂 https://www.iiranavi.net/shop/shop.shtml?s=1211
「ワイロ最中」は通信販売でも購入できるらしい♪
※ ワイロ最中 通販 http://www.shop-online.jp/yuuto/
牧之原市以外では、その名も「山吹色のお菓子」 ↓ とか
![山吹色のお菓子マスコット [全5種セット(フルコンプ)]](https://m.media-amazon.com/images/I/616YcmhOwJL.jpg)
山吹色のお菓子マスコット [全5種セット(フルコンプ)]
「これでよしなに」↓ という「小判煎餅」も販売されているらしい(^^♪

㈱みなとや 小判煎餅「これでよしなに」(20枚入)
インターネットの検索エンジンに「ワイロ最中」と入れて「検索」をクリックすると、「虎屋の羊羹」なんてのも出てきたが、これになると、ジョークではない話になるので、牧之原市の「ワイロ最中」とか「山吹色のお菓子」とかとは少々事情が変わってくる。
静岡県観光協会 の「ハローナビ静岡 大鐘家住宅」http://hellonavi.jp/detail/page/detail/1240 では、「交通アクセス」として、「吉田IC (経路) から20分 」と書かれているが、今回、東名高速道路「吉田」インターチェンジから大鐘家住宅に行き、そこから牧之原市役所相良庁舎・牧之原市史料館など相良城跡 に行き、東名高速道路「相良牧之原」インターチェンジを経て帰ったのだが、大鐘家住宅から牧之原市役所相良庁舎付近まではそれほどの距離はなく、吉田インターチェンジから大鐘家住宅までよりも、牧之原市役所相良庁舎付近から相良牧之原インターチェンジまでの方が時間はかからなかったように思う。 地図を見る限り、距離としては、吉田インターチェンジから大鐘家住宅までと、牧之原市役所相良庁舎付近から相良牧之原インターチェンジまでの実際にクルマで走る距離は同じくらいかと思われるのですが、吉田インターチェンジから大鐘家住宅までは、特に渋滞・混雑するわけではないけれども、市街地の道路であるのに対して、相良庁舎付近から吉田インターチェンジまでの道は、その多くが国道273号相良バイパス という自動車専用道(無料)で走りやすいので、時間としては相良庁舎付近からならば相良牧之原インターチェンジまでの方がかからないのではないかと思う。 大鐘家住宅までならば、いくらか距離としては吉田インターチェンジからの方が近いかと思うが、時間としては同じくらいではないか。
吉田インターチェンジを出ると、前の道は県道34号。これを右に行くと海側。大鐘家住宅に行くには右側に行く。すぐの交差点は「神戸東」交差点は曲がらず直進。 「神戸」は全国的に一番有名な「神戸」は兵庫県神戸市で「こうべ」と読むが、織田信長の三男 織田信孝が一時、養子に行ったという伊勢の神戸家は「かんべ」で、多数決だと「こうべ」より「かんべ」の方が多いようなので、ここも「かんべ」かと思うとそうではなく、「かんど」と読むらしい。
2番目の交差点も曲がらず直進。「湯日川橋東」という交差点を右折。地図を見ると、これを曲がり損ねて直進しても、そのうち右折すれば大鐘家住宅の方には行けるようだけれども。
「湯日川橋東」交差点を右折して進む道が国道150号。国道だけれども、片側1車線でそれほど広い道でもない。 両側に「こんなもんかな」という街が続く。 「こんなもんかな」というのは、ものすごい街ではないけれども、「こんなもんかな」という街が続いている・・ということだ。 この表現でわからんかったら、行ってみてもらえば意味がわかると思う。道沿いにセブンイレブンはあった。そのくらいの道である。
左側に「KOマート」がある所で県道31号が合流する。 慶應大学では略字として「慶應」を略して「KO大学」と表記をする人があったが(まだれをKとOにつけるという手法もあったが、それはパソコンで入れようがない)、「KOマート」は、KOグループHPの企業概要https://www.komart.jp/kogroup/about/ によると、会社名が「(株)京王商事」で店名が「KOマート」が正式名称らしい。
牧之原市の旧榛原町の静波という所の国道150号より山側に牧之原市役所榛原庁舎がある。そこを過ぎて、しばらくすると、片浜という所に大鐘家住宅があるはずなので、どこを右折するか(山側に曲がるか)が問題なのだが、なかなか、目印がない。
ヤフー地図を見ると、小さい川を渡ってすぐのようだが、「小さい川」なんてのは1つではない。「伊藤園産業(株) 片浜工場」というのがヤフー地図に出ており、ヤフー地図では、そこの信号を右折して山側に行くと大鐘家住宅というのがあることになっている。しかし、現地に行ってみても、「伊藤園産業(株) 片浜工場」なんて看板は出ていない。もしかすると、目を凝らして良く見ると小さくどこかに出ているということはあるかもしれないが、初めてそこに行った者がクルマを運転しながら認知できる程度のものはない。 ヤフー地図には「本杉カメラ」「寿しとも」なるものも出ているが、現地ではそれがどれなのかわからなかった。
国道150号を吉田インターチェンジの方から牧之原市役所榛原庁舎がある静波地区のあたりを経て大鐘家住宅の近くに来ると、道路の端(海側)に「大鐘家 ⇒」という看板が出ている。
それほど大きな看板ではないが、他にたいした目印があるわけではないので、その看板が一番の目印だと思う。 そこを右折すると(山側に曲がると)、少しして、直交する道があり、それを左折しろという看板が出ているので左折すると、川があって橋があるのでその橋を渡ると右手に大鐘家住宅の駐車場が見える。 駐車場は手前にバスの駐車可の駐車場があり、細い道を入ると左手に乗用車用の駐車場がある。「大庄屋」の家でも入っていく道はそれほど広い道ではないので、「大庄屋」なら道も相当広いだろうなどと思いこんでいるとそうではないので通り過ぎてしまう可能性がある。
大鐘家住宅から国道150号に直進することも乗用車なら可能なのだが、なぜ、それより静波よりに「大鐘家 ⇒」という看板が出ていたかというと、バス・マイクロバスなどでは国道150号までの道は細いので、いくらかなりともそれより太い道の所で「大鐘家 ⇒」という看板を出していたのではないかと思う。
大鐘家のすぐ前の道で国道150号に出る、国道150号から入るのは、乗用車でも、(株)一条工務店の初代社長のバカ息子が燃やしたというフェラーリテスタロッサ(「燃やしてやる」とマッチで火をつけたとかいうことではなく、市街地をとろとろと運転していると、カローラなんかと違ってフェラーリテスタロッサというクルマはエンジンが火を噴くことがあるらしく、それで「燃やした」らしい。それだけのクルマを買えるカネをおのれが働いて稼いだわけでもないバカ息子にそんなクルマに従業員の給料をへつって貯めたカネで買って乗せるアホ父というのは、どんなもんですかいねえ・・と私なら思うが。私なら、20代前半の息子が最初に運転するクルマなら、そんな「清原みたいや」てなクルマを買えたとしても買って乗せない。「中古のカローラ」でもおのれが働いて貯めたカネで買えばいいだろうが! 最初に屋根のある背もたれのあるクルマに乗った時の感動なんて、「清原みたいや」「清原と一緒や」「清原そっくりや」てクルマを親から用意してもらって乗せてもらったバカ息子はそんな感動したことなんてないだろう・・)なんてそんな乗用車なら通れるかどうか知らんし、真っ直ぐ進むことはできても国道から入る時、国道に出る時、うまく曲がれるかどうか知らんが、私なんかの乗っている「リーズナブル」な価格の国産車ならば、別段、問題なく曲がることも進むこともできる。

↑ の右側が、手前側のバス駐車可の駐車場で、この道を入って行った突き当りが大鐘家住宅だが、その左手前に、乗用車用駐車場がある。
「ハローなび しずおか 大鐘家住宅」http://hellonavi.jp/detail/page/detail/1240 では、大鐘家住宅には、トイレ設備はなし と書かれているが、長屋門の左手前の乗用車用駐車場の横にトイレがあったように思うのだが。
↑の写真の細い道を直進すると「長屋門」があり、その右手前で入場料というのか見学料というのかを払って入ることになる。

↑ 「大鐘家住宅 長屋門」。
大鐘家住宅は、吉澤政己『日本列島民家の旅(6)中部1 東海・中央高地の住まい』(1996.4.30.INAX出版)、藤井恵介監修『日本の家 2 中部』(2004.5.28.講談社)にも紹介されている。 大鐘家の長屋門は主屋とともに国の重要文化財に指定されており、「伊勢神宮のような千木をのせる長屋門」が特徴であり、私がこれまでに見せてもらった長屋門でも、大鐘家住宅のように千木(ちぎ)が屋根の上に載っている長屋門は、これまでに見たことはないが、藤井恵介監修『日本の家2 中部』(2004.5.28.講談社)を見ると、大鐘家と同じく静岡県のかつては小笠町だったが現在は菊川市になった黒田家住宅も、《 ・・十一本の置千木(おきちぎ)を載せた長大な長屋門を構える》らしい。
黒田家は、
※ 菊川市HP 黒田家代官屋敷 https://www.city.kikugawa.shizuoka.jp/shoukoukankou/kurodake.html
菊川市HP 黒田家代官屋敷資料館 https://www.city.kikugawa.shizuoka.jp/shakaikyouiku/kurodake_2.html
ウィキペディアー黒田家代官屋敷 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%92%E7%94%B0%E5%AE%B6%E4%BB%A3%E5%AE%98%E5%B1%8B%E6%95%B7
黒田家は、現在も居住中で、長屋門付近のみ見学できるらしい。黒田家代官屋敷資料館では美術品や黒田家家屋の解体修理の写真を見ることができるらしい。
大鐘家の長屋門は千木がのっているという特徴はあり、立派な長屋門ではあるが、左右の幅については、長屋門が立っているこの場所の幅の制約があるからでもあるのだろうけれども、私がこれまでに見せてもらった長屋門では、千葉県船橋市の旧近藤家長屋門(現 東葉学園 東葉門)とか、大鐘家と同じ静岡県の掛川市原里の加茂家住宅の長屋門、あるいは大阪府豊中市の服部緑地の日本民家集落博物館http://hattori.osaka-park.or.jp/guide/facility/musium/ に移築されて同施設の入口を兼ねている「布施(ふせ)の長屋門」(旧塩川邸長屋門)などの方が長屋門の幅は広い。
大鐘家住宅では、長屋門と主屋が重要文化財に指定されており、その2つのほか、2棟ある土蔵の片方が資料館として中に入ることができる。
長屋門の奥に主屋があり ↓、主屋の奥に土蔵が2つ並んでいて、右側の土蔵が資料館として内部に展示がされている。

↑ 「大鐘家住宅 主屋」。
大鐘家住宅の主屋では、小屋組みが《二本の大黒柱の上に、手斧(ちょうな)削りの太い梁が井桁に高く組まれ、圧倒するような空間を作り出している。》というのが特徴だが、これについては次回に述べることにしたい。



東海・中央高地の住まい―日本列島民家の旅〈6〉中部 1 (INAX ALBUM) - 吉澤 政己, 入澤企画制作事務所

日本の家 (2) 中部 - 藤井 恵介, 和田 久士
大鐘家は、元は柴田勝家の家臣だったということで、江戸時代でも始めは旗本だったのが、「大庄屋」になったということで、「大庄屋」というのは「庄屋」の中でも勢いのいい庄屋とかいう意味ではなく「庄屋をまとめる立場」を「大庄屋」と言ったというものらしい。 部屋の天井が低めにできているのは、そこで刀を振り回そうとしても天井につかえて振り回せないように考えて低くしたというように、《「庄屋をまとめる立場の大庄屋」とはいえ農家》であっても、幾分、武家に近い農家だったと考えていいのかもしれない。土蔵の資料館には、田沼意次から受領したという酒杯(さかつき)も展示されていたが、「賄賂をとった」と言われた田沼意次だが、逆に「大庄屋」に田沼意次の方から渡したものもあったようだ。
次回、大鐘家住宅について、述べていく予定です・・。
(2020.10.1.)
2020年11月21日、「賄賂最中」が販売されているという東名高速道路「牧之原」(下り)(西行き)サービスエリアに行き、ぜひとも「賄賂最中」を購入したいと思って捜したのでした・・・が、↓

( ↑ 東名高速道路「牧之原」(下り)サービスエリア。 )
・・・見当たらない。 勇気を出して、売店の女性に尋ねてみたのですが、「2年ほど前までは置いていたようですが、今は置いていません」ということでした。


その後、「牧之原」(上り)(東行き)サービスエリアにも立ち寄り、捜しましたが見当たりません。だめもとで売店の女性に尋ねてみましたが、やはり、置いてないということでした。


(2020.12.3.)
☆ 大鐘家と相良城跡
(1)田沼意次の城下町相良の牧之原市片浜にある大鐘家住宅 〔今回〕
(2)井桁に組んだ梁・千木の載る長屋門・酔芙蓉。なぜ川勝平太は事故を起こした原子力発電を製造した会社の責任を問わずに、放射線量検査の方を拒否するのか https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202010article_1.html
(3)地形に合わせた建物の配置。「母屋」「上屋」と「庇」「下屋」。表側の庭と裏側の「小堀遠州庭園」https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202010article_2.html
(4)床の間と床脇。床柱と長押の位置関係。遠州流を他の地域の人に押しつける(株)一条工務店。会社のために協力する従業員を罠にかける(株)一条工務店 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202010article_3.html
(5)神棚の造りについて。その地域のやり方を無視する(株)一条工務店の営業。会社のルールを無視する営業本部長 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202010article_4.html
(6)土蔵・資料館。大鐘家の裏の丘からの眺望。相良城跡と田沼意次。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202010article_6.html
☆ 加茂荘花鳥園・加茂邸(静岡県掛川市)見学
1.「森掛川」I.C.より加茂荘花鳥園。温室と鳥舎。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202006article_2.html
2.花菖蒲園と長屋門。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202006article_3.html
3.加茂家住宅(1) 正玄関、土間、大黒柱・梁、庭の池と亀島と花。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202006article_4.html
4.加茂家住宅(2) 座敷、広縁・濡れ縁、廊下交差箇所の納まり、差鴨居。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202007article_1.html
5.加茂家住宅(3) 床の間 2か所。一般の柱と同材同寸法の床柱と長押の関係。床の手前の横の位置の付書院。きれいな襖絵。
6.加茂家住宅(4) 加茂家住宅の神棚は「竈の神さま」なのか。「浜松流神棚」を他地域に押しつける一条の営業。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202007article_3.html
7.加茂家住宅(5) 窓の格子。「理由のある」桟の作りと「理由のない」作り。味噌蔵・米蔵。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202007article_4.html
☆ 東京都 狛江市立古民家園
上 旧荒井家住宅主屋 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201509article_1.html
下 旧高木家住宅長屋門 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201509article_2.html
☆ 旧近藤家 長屋門(東葉学園 東葉門 )(千葉県船橋市)https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201907article_3.html
☆ 旧安西家住宅(千葉県木更津市)https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202009article_5.html
静岡県の「民家」として、掛川市原里の加茂家に続き、今回、牧之原市の大鐘(おおがね)家住宅を見学に行きました。 牧之原市と言われても、どうも、ピンとこなかったのですが、2005年(平成17年)に榛原郡榛原町と榛原郡相良(さがら)町とが合併して牧之原市になったようです。
相良(さがら)というと、江戸時代後半の老中 田沼意次(おきつぐ)の領地であった所ですね。栃木県安蘇郡田沼町は、2005年(平成17年)、「平成の大合併」で北隣の安蘇郡葛生町とともに南隣の佐野市に合併して佐野市の一部分になったようですが、田沼町では「田沼意次ゆかりの地」と言って、「道の駅 どまんなかたぬま」https://domannaka.co.jp/ では田沼意次らしき殿さんのキーホルダーを販売したりしていましたが、栃木県の田沼町は田沼意次の領地であったわけではなく、静岡県の現在では牧之原市になった相良(さがら)が田沼意次の城があった場所です。
《ウィキペディアー田沼意次》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E6%B2%BC%E6%84%8F%E6%AC%A1 によると、田沼意次の父の田沼意行(おきゆき、もとゆき)は紀州藩の足軽だったが、紀州藩主 徳川光貞の四男だった徳川吉宗が、2番目の兄は早世しており、父と他の兄2人が死亡したことから紀州藩主になり、さらに、7代将軍 徳川家継の死により徳川吉宗が8代将軍になり(《ウィキペディアー徳川吉宗》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%90%89%E5%AE%97 )、「暴れん坊将軍」になったかというとそのあたりは違うように思うのだけれども、その吉宗が紀州藩の家臣を連れて幕臣としたことから、600石の旗本になり、息子の田沼意次は9代将軍 徳川家重の小姓になり、さらに10代 徳川家治の側用人から老中にまで出世し、最大で5万7千石の大名になったが、1784年、佐野政言により田沼意次の長子で若年寄になっていた 田沼意知(おきとも)が江戸城にて刺殺された後、1786年、10代将軍 徳川家治が他界した後、老中を辞任させられ、2度にわたる厳封を受けて、孫の田沼意明(おきあき)が陸奥下村藩(現 福島県福島市)1万石に減転封され、相良城は打ち壊され、1788年、意次は他界した。田沼意次が他界後に子孫が厳封されたのではなく、意次が生存中に老中を辞任させられるとともに、相良城も破壊され、孫が下村藩に減転封されてかろうじて大名として残ったというものだったようだ。「田沼の政治」については賛否あるようだが、中国の四人組裁判の時に、文化大革命を裁いているかのように外国から言われたことについて、当時、中国の政治家が「文化大革命は政治の問題であるから、政治の問題については成功でも失敗でもそれを刑事上の問題として裁く性質のものではない。決して、文化大革命を裁いているのではなく、文化大革命の過程においておこなわれた犯罪行為を裁いているのだ」と述べたのを見たが、20世紀と江戸時代とでは同じではないとしても、「田沼の政治」がもしも失敗だったという評価を受けたとしても、それで老中を辞任させられたとしても、5万7千石から1万石への厳封での転封、相良城の徹底した破壊というのは、単に「田沼の政治」の否定にすまないように思われる。
牧之原市役所相良庁舎の西、相良城跡に牧之原市史料館が建っており、そこに、老中を辞任させられた時の田沼意次の文書があり、長い文章だが、要するに、自分は何も悪いことはしていないのに、なぜ、こうのような扱いを受けなければならないのか・・という嘆きの文章だった。『剣客商売』では、白河藩主で田沼意次の後に老中になった松平定信が、もともとは将軍家の血筋なのに、白河松平家の養子になったことから、一度、家臣の立場になった者が将軍になるわけにはいかないということで将軍になれなかったのは、田沼意次の陰謀によるものだと誤解して恨んでおり、田沼意次は白河候の誤解と執拗な恨みに困っていたという話が出てくるが、老中を事実上解任されただけでなく、相良城も破壊され、5万7千石から1万石への減転封、さらには《大坂にある蔵屋敷の財産の没収と江戸屋敷の明け渡しも命じられた》《(相良)城内に備蓄されていた八万両のうち一万三千両と塩・味噌を備蓄用との名目で没収された》(《ウィキペディアー田沼意次》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E6%B2%BC%E6%84%8F%E6%AC%A1 )など、《同じく軽輩から側用人として権力をのぼりつめた柳沢吉保や間部詮房(まなべ あきふさ)が、辞任のみで処罰はなく、家禄も維持し続けたことに比べると、最も苛烈な末路となった》もので、「恨み骨髄に至る」みたいな感じ、よっぽど恨みがあったのか・・という感じだが、《反田沼派や一橋家(徳川治済)の策謀があったともされる》とあり、徳川 治済(とくがわ はるさだ / はるなり)とは、《 江戸時代の御三卿の一つ一橋徳川家の第2代当主。江戸幕府第8代将軍徳川吉宗の孫で、第11代将軍徳川家斉の実父》で《田沼意次が幕政を指揮する中、一橋家には意次の弟意誠(おきのぶ)や甥意致(おきむね)が家老となり、一橋家家臣とも縁戚関係を築いていた。しかし治済は松平定信ら反田沼派の黒幕として運動し、天明6年(1786年)、将軍・徳川家治が亡くなり長男の豊千代改め家斉が11代目の将軍職に就任すると、意次の罷免、田沼派の一掃を行わせた。》(《ウィキペディアー徳川治済(とくがわ はるさだ / はるなり)》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E6%B2%BB%E6%B8%88 )とあり、田沼意次が恨まれていたのは田安家出身の松平定信だけではなく、一橋家の徳川治済(はるさだ/はるなり)も反田沼の動きを取っていたらしい。
田沼意次が賄賂をとったという話は、実際には、松平定信らによる悪口であって違うという話だが、まったく賄賂を受け取ることはなかったのかというと、お歳暮くらいのものでも賄賂だと考えるのならば、それも受け取ることはなかったというわけでもなさそうで、史料館でもらった「相良城下」というリーフレットには、牧之原市相良の市役所相良庁舎の近くには「仙台河岸(せんだいがし)」という《相良城の石垣が残る場所》があり、《仙台藩主の伊達家が石を寄進したと伝えられ、名称の由来になっています。》ということで、老中には、城の為の石を寄進するなどする大名も出てきたのだろう。普通に考えて、名前で判断すると、「田沼」と「伊達」では「伊達」の方が大大名で田沼意次を別にすると「有名人」であり、そんな大大名が老中とはいえ紀州藩の足軽から旗本になった父親の息子に石を寄進した・・といったことがあったようで、その老中が松平定信のような「徳川将軍家の子孫」だったり、徳川四天王の井伊・本多・酒井・榊原といった譜代大名の家の息子なら、「まあ、そんなもんか」と思うものを、田沼意次がそういったものを大大名から贈られたとなると、「あの野郎」と思う者がいたのかもしれない。又、足軽の息子とか600石の旗本の息子として見ると、最大で5万7千石の大名というのはものすごい出世だが、江戸時代の大名の中では5万7千石というのは「たいしたことない」わけで、老中とはいっても、田沼意次を支持した10代将軍徳川家治に他界されてしまったのでは、藤原家を相手にまわした菅原道真というのか、豊臣秀吉亡き後の石田三成というのか、田沼意次が失脚した後の老中の松平定信は老中として「ライバル」「政敵」だったかもしれないが、600石の旗本から5万7千石の大名になったという田沼意次に対して、松平定信は将軍になれなかったのが不満だったとしても白河藩は11万石だそうで(《ウィキペディアー白河藩》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E6%B2%B3%E8%97%A9 )、松平定信の出自の田安家も10万石(《ウィキペディアー田安徳川家》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E5%AE%89%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6 )、なにより徳川将軍家の血筋であり、政治家としてどちらが優秀かという問題ではなく、田沼意次の後ろ盾の徳川家治が亡くなってしまっては、「ライバル」とか「政敵」というような立場ではなかったのではないか。《 家督相続後、定信は養父の意思に従い、田沼に賄賂を贈るなど幕閣に家格上昇を積極的に働きかける。》(《ウィキペディアー松平定信》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E5%AE%9A%E4%BF%A1 と出ており、「賄賂」というのは贈る者がいて贈られる者がいることで成立するわけで、清廉潔白のように言われる松平定信が田沼意次に「賄賂」を贈ったそうだから、贈られた側だけが悪いのではなく贈った側にもまた責任はありそうだが、徳川吉宗の孫からすると、その徳川吉宗が紀州藩から連れてきて足軽から旗本にならせてやった男の息子に「賄賂」を贈るというのは、「なんで、あんなやつに」という意識があったか・・?
老中でも、徳川家の子孫とか譜代大名の井伊・本多・榊原といった家の人間が老中になっていたのならば、たとえ、何かを贈る大名がいたとしても、「そんなもの」と見られたかもしれないところを、父親は旗本600石でしかなかったという田沼意次が受け取ったとすると、その時代の政治家としては決して多い方ではなかったとしても、相当のものを受け取ったかのように解釈された・・ということはありそうな感じがしないではない。 又、もとからの大名ではない田沼意次は、徳川家譜代の家臣などに比べて、そういったものをどう対処すべきかについて「脇が甘かった」ということなら、あったとしても不思議ではないかもしれない。
※ 牧之原市史料館 https://www.city.makinohara.shizuoka.jp/site/makinohara-life/1583.html
牧之原市観光案内所 https://msckc.jp/kankou/contents/miru_shiru/history/hist04_shiryoukan.html
・・市役所の相良庁舎の隣にあり、展示はワンフロアだけで、「市」がやってるから無料かと思ったら、有料だった。
※ 《ウィキペディアー佐野政言(まさこと)》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E9%87%8E%E6%94%BF%E8%A8%80
田沼意次は、かつては、賄賂を取ったけしからん政治家と言われたが、最近では、むしろ、江戸の三大改革などというものはたいした改革ではなく、田沼意次こそ、真面目に改革を考えていた江戸時代では最も良心的な政治家だったのではないか、という見解が出てきたようだ。
池波正太郎 原作・大島やすいち 画『剣客商売』では、秋山小兵衛の息子 大治郎は田沼意次の娘の三冬を妻とし、田沼意次は良心的な政治家として登場し、田沼意次の後に老中に就任する松平定信が本来は徳川将軍家の子孫なのに白河藩主を継いだことから将軍になれないのは田沼意次にしてやられたと思いこんで恨みを持っていたて、田沼意次はその誤解に苦しんでいた・・という話になっている。 池波正太郎 原作・さいとう たかを 画『仕掛人 藤枝梅安』では、梅安の友人の剣客 小杉十五郎が白川藩主 松平定信に使えるが、『仕掛人 藤枝梅安』では松平定信は清廉潔白な人として登場する。
※ 《dailymotion 剣客商売/三冬の縁談》https://www.dailymotion.com/video/x28zk9b
↑ 老中が一人で出歩いて「剣客」を訪ねる・・なんてせんと思うけどな・・・。
平(ひら)幹次郎は、かつて、1973年、司馬遼太郎の小説がNHKの大河ドラマになった『国盗り物語』で斎藤道三(どうさん)を演じたが、どうも、斎藤道三のイメージと『剣客商売』の田沼意次とが重なり、又、単身、秋山小兵衛の家を訪ねるなどは『暴れん坊将軍』や『遠山の金さん捕物帖』の話と重なり、池波正太郎の小説や大島やすいち の劇画に比べて、秋山大二郎の役の俳優が「細い」印象・剣客らしからぬ神経質そうな印象があり、三冬の役の俳優に「剣術のできる女」というイメージがなく、剣術の試合にも本物っぽい感じがしない、剣術家の話ならば、剣道がものすごくできるというほどでなくても、かつて、森田健作が青春ドラマで剣道部を演じた時、実際には森田健作が剣道何段とかいう話は嘘だったらしいが、それでも、”「剣道やってる」っぽい感じ” が出ていたように、”「剣道やってる」っぽい感じ” の俳優を使うとかできないものかと思った。 どうも、こういう小説は、小説が劇画(漫画)になり、テレビドラマになると、だんだんと内容が低下する傾向があるように思える。
栃木県安蘇郡田沼町⇒栃木県佐野市の旧田沼町地区 は、地名は田沼意次と関係ありそうな地名だが、田沼意次の生誕地でもなく、領地でもなかったようだが、どう関係あるのか。 《ウィキペディアー田沼氏》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E6%B2%BC%E6%B0%8F によると、《 田沼氏(たぬまし)は、日本の氏族のひとつ。本姓は藤原(藤姓足利氏族)で佐野氏分流。下野国安蘇郡田沼村(現:栃木県佐野市田沼町)を領し、1224年(元仁元年)に佐野重綱が田沼氏を称し、家祖とす。のち源姓(清和源氏)に改める。子孫に江戸時代中後期に江戸幕府老中を務めた田沼意次がいることで知られている。》とある。
栃木県の田沼氏がなぜ紀州藩の足軽になったかというと、《地方の一小族として、家祖以来約400年間、所領は下野・上野・武蔵・下総・相模・甲斐と関東近辺を点々とする。ただし、家祖が創建した田沼村の西林寺を変わらず菩提寺とし、この時期の家人の多くは同寺に葬られている。戦国期には上杉氏や武田氏に仕え、武田氏滅亡後はしばらく信州などを放浪していたという。12代目 吉次は鉄砲の妙手と謳われ佐野氏に仕えていたが、1615年、大坂の陣と前後して、当時鉄砲組が有名であった紀州藩にその才を請われ、主家の同意を得て転属する。吉次以降、吉重・義房・意行と4代に渡って紀州藩に仕える。身分は足軽(鉄砲足軽)とされるが、吉次と吉重の戒名は居士号であり、郷土史家の後藤一郎は高い士分であった可能性を指摘している。》《田沼家の当主で事跡が明白になるのは15代意行からで、宝永2年(1705年)に兄たちの相次ぐ死去によって徳川吉宗が第5代藩主になった折に奥小姓として藩に勤仕する。その後、享保元年(1716年)に吉宗が将軍に就任した際に将軍小姓として召されて、幕府旗本に列した。最終的には小納戸頭取などを務め家禄は600石となる。 》(《ウィキペディアー田沼氏》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E6%B2%BC%E6%B0%8F )ということらしい。
足利氏には源氏の足利氏と藤原の足利氏があって、鎌倉時代に藤原の足利氏の佐野氏の分流の佐野重綱が「田沼氏」を名のり、その子孫が田沼意次だということだが、佐野政言が田沼意次の息子で若年寄になっていた田沼意知を江戸城内において、「身に覚えがあろう」と言って刺し殺したということがあり、《大石慎三郎は、後世の田沼意知の暗殺原因の1つに佐野氏系図の未返還が原因だった説があることに触れ、この出自が必ずしも事実ではない可能性を指摘している》というが、まあ、大名の出自が「必ずしも事実でない可能性」なんて「よくある話」「あること」ではあろう。

田沼意次の時代 - 大石 慎三郎
大鐘家の重要文化財に指定されている長屋門は、田沼意次が相良城主であった期間に建てられたものらしい。 大鐘家は、もともとは柴田勝家の家臣で、江戸時代の初めは旗本だったが、「大庄屋」になったという家だったらしい。「大庄屋」というのは、「庄屋」の中で規模が大きい庄屋とか、勢いのある庄屋とかいう意味ではなく、庄屋をまとめる役だったらしい。
牧之原市は榛原町と相良町とが合併して「牧之原市」を名のるようになったのだが、どうも、その名称がしっくりこない印象を受けるのは、「牧の原」というと茶の産地で静岡空港が作られた「牧之原台地」の牧之原を思い浮かべるのに対し、旧 榛原町も旧 相良町も、いずれも海に近い場所に市街地がある。 相良城があった場所に、今は牧之原市相良庁舎・歴史史料館・相良小学校・相良高校があるようだが、「すぐそこ」が太平洋であり、大鐘家住宅の裏山からも太平洋が見える。 牧の原市の市域には内陸部も台地もあるようだが、市庁舎の相良庁舎・榛原庁舎があるあたりは「すぐそこが海」という場所であり、そのあたりに行ってみると、どうも、台地の名称である「牧之原」、特に「原」は違和感がある。 牧之原市 HPhttps://www.city.makinohara.shizuoka.jp/ を見ると、市庁舎の住所は「静岡県牧之原市静波447-1」と旧 榛原町の庁舎の方の住所が書かれている。
※ 《ウィキペディアー牧之原市》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%A7%E4%B9%8B%E5%8E%9F%E5%B8%82
それにしても、
(1) 吉良上野介を城内で刃物で切りかかって切腹させられた上、藩取りつぶしにされた赤穂藩主の浅野内匠頭、
(2) 江戸城内で田沼意次の息子の田沼意知を刺して切腹させられた佐野政言・・、それに、
(3) 「女を刃物で刺し殺し、官憲に追われ逃げる」という『水滸伝』の登場人物にして「梁山泊」の3代目首領 「呼保義 宋江(こほうぎ そうこう)」そのまんま、「梁山泊の精神」を実行した(株)一条工務店の初代社長の大澄賢二郎のドバカ息子で関連会社の(株)日信の社長に名目上なっていたらしい大澄隆史と・・・後先考えずに、刃物抜いて切りかかるやつというのがいたわけだ。浅野内匠頭や佐野政言の場合は侍として最初から脇差を身に着けていたわけだが、大澄のバカ息子の場合は東京から浜松まで刃物を持ってクルマをぶっとばして行ったわけだから「後先考えずに」ではなく十分に考えて計画的にやったのだろうが、「計画的にやった」わりには今の日本の道にはあっちやらこっちやらにカメラがついてるといったことも考えなかった・・というあたりは、「計画的にやった」わりに計画的でないようで・・・、なんか、そんなのが何も仕事してないのに関連会社の社長になっとったのかと思うと、日夜、滅私奉公を続けてきた従業員・元従業員としてはあほくさいというのか何と言うのか・・・( 一一) (株)一条工務店の経営者は少しでも営業成績が悪い従業員がいると「赤字社員」だとか何とか言いながら、「社長の息子」こそ最大の赤字社員だったのだが、一般入社の従業員なら許せんというものでも「社長の息子」ならかまわん・・というあたりは、旗本あがりの田沼意次なら許せんが徳川家の子孫だったり譜代大名だったりした場合なら許せるみたいな、それといくらか似ているかもしれない。
浅野内匠頭・佐野政言と違って大澄のドバカ息子だけが切腹していないが。 赤穂藩の藩士からすれば浅野内匠頭なんてのは、「おのれの感情からアホやって会社つぶしたバカ社長」みたいなもん・・ではないかて感じもするのだが。一般従業員だって腹立つことを我慢して勤めているのに、社長が何やってくれるんだよお・・て感じで、何でそんなバカ社長のために「忠臣蔵」やらなきゃならんのだ? 滅私奉公続けて来た会社をバカ社長につぶされてからに、こっちは次の就職先を見つけるのに大変なのに、バカ社長のためにて、バカ社長は社長であってこそバカ社長であって、社長やめたら「ただのバカ」であろうが!・・・とか、あなた、こういうこと考えたことない~い?
「殿中でござる」とか言うけれども、江戸城内で刃物抜いて切りかかったのは浅野内匠頭だけではなかったわけだ。大澄のドバカ息子は懲役20年の実刑判決を受けたが、早いもので20年なんてあっという間に過ぎたから、今はシャバに出ていらっしゃったのだろう。「相手が悪い」とおっしゃったらしい父親の大澄賢二郎は、ドバカ息子が女性を刺し殺した時に、そういう男を仕事は何もしていないのに関連会社の(株)日信の社長にならせていたことに責任を取るかのように(株)一条工務店の社長を辞任したはずだったが、2011年3月、東日本大震災と福島第一原発事故があると、「お世話になった浜松市に恩返しをしたい」などと言いだして300億円を「防潮堤の費用」と称して寄付し、浜松市長で慶應大ア法学部卒の鈴木康友と福島第一原発事故の直後に静岡茶の放射線量検査を拒否した静岡県知事の川勝平太とが大絶賛した・・というのだが、「お世話になった浜松市に恩返しをしたい」などと言われたのでは、浜松市以外の都道府県・市町村には世話になってないとでも言いたいんかい?!? ・・てことになるはずで、静岡県知事の川勝平太は「せめて、『浜松市に』ではなく『静岡県に』と言わんのかい?」と言っても良さそうなものだったが言わなかったようだ。なんでだろうな? それを言うと、「静岡県に」ではなく「全国の市町村に」になり、話が消えるかと思ったのかな?
牧之原市は旧 相良町の方が南側、旧榛原町がその旧 相良町の北側にあり、その北隣は榛原郡吉田町。 旧 相良町の南隣はというと、皆さん、御存じの御前崎市。 御前崎市というと、有名なのは御前崎灯台、それに浜岡原発。
御前崎原発ではなく浜岡原発と言うのは、《ウィキペディアー御前崎市》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E5%89%8D%E5%B4%8E%E5%B8%82 によると、2004年(平成18年)に、小笠郡浜岡町と榛原郡御前崎市が合併して御前崎市になったが、原発が作られた時点においては浜岡町だったからのようだ。
だいたい、原発が作られる所というと似ていて、「盲腸みたいな立地の場所で海に面した場所」に作られることが多い。中には意図的に「盲腸」化された場所もある。 四国 愛媛県の佐多岬は、お鼻が長く出っ張った佐多岬半島の途中にある。 山口県の柳井市に中国電力が原発を計画している場所も、JR山陽本線は広島から宮島口・大竹・岩国・柳井・光・下松・徳山から防府・小郡(新山口)・・と続いていたのが、山陽新幹線は、岩国から徳山まで、ほぼ岩徳線のルートを走り、柳井・光・下松といった市は山陽新幹線のルートから見ると出っ張った半島の先になり、しかも、その柳井市から半島が細長く南に出た先に原発は建設が検討されている。青森県は北側に津軽半島と下北半島が出っ張っており、下北半島は「まさかり半島」と愛称がつけられているが、青函トンネルは津軽半島側に設けられ、北海道新幹線も津軽半島側から津軽海峡をもぐって渡島半島に至り、下北半島側に原発と放射能施設が作られた。「まさかり半島」は「まさかり」の刃の部分は恐山とか薬研温泉とか火山・温泉の地域であり、「まさかり」の柄の部分というと、昔々、砂洲でつながったかと思われる地形であり、そんな場所に放射能施設を作って大丈夫か? ・・という感じがする。 青森県は旧津軽藩と旧南部藩とそれ以外でできた県で、今でも「津軽藩の人間と南部藩の人間が同じ県にいるのが間違っている」とか言う人がいるとかいう話だが、県庁所在地の青森市は津軽藩の城下町の弘前の外港だった街であり、下北半島側よりも津軽半島側の方が政治的に強かったのか? ・・という感じがしないでもない。福井県は若狭国と越前の国とで福井県になったが、若狭と越前ではかなり感じが違う。若狭は近江の滋賀県と一緒になるか、京都府北部の丹後と一緒になるかした方が違和感がないかもしれない。若狭もまた、鉄道では、東海道本線・北陸本線ともに滋賀県から京都・大阪に至り、山陽本線・山陰本線もまた京都・大阪から西に行くことで、地形としては若狭は「盲腸」ではないが、交通のルートとして「盲腸」のようになってしまっている。さらに、福井県では旧若狭と旧越前とでは旧越前の福井市が県庁所在地になっており、直線距離では若狭の方が京都・大阪に近いにもかかわらず、若狭の方が「盲腸」になり、越前の方が北陸本線のルートになっている。 福島県は東から浜通り・中通り・会津地方の3地域に分かれるが、中通りを東北本線・東北新幹線・国道4号・東北自動車道が通り、浜通りは常磐線・国道6号・常磐自動車道が通るが、中通りの方が平野が広いということもあるのか、又、現在では いわき市の旧 平(たいら)藩は幕末に筆頭老中 安藤忠正の城があった場所で、幕末の佐幕と討幕の戦いにおいて佐幕側についた藩だったことで、佐幕側の筆頭の会津若松とともに、旧 城下町ながら県庁所在地になることはできず、県庁所在地になった福島市と安積疎水で開けたらしい郡山市を通る中通りの方がメインのルートになり、浜通りは中通りに比べて「盲腸」にされたようなところがある。石川県の能登地方の志賀原発もまた、北陸本線・北陸新幹線・北陸自動車道のルートから北に出っ張った能登半島にある。北海道の泊原発もまた、積丹半島にあり、函館本線のルートから少々離れている。島根県の島根原発は県庁所在地の松江市にあるが、松江市の中心街ではなく、北に出っ張った島根半島にある。 どうも、原発というのはそういう場所に作られることが多く、もしくは、原発を作ろうという場所は、最初からそういう「盲腸」のような地理的位置でない場合も、作為的に「盲腸」化されるようだ。
・・で、浜岡原発はというと、静岡県で、神奈川県と愛知県の間の静岡県なら不利な立場ではなさそうに思えて、東海道本線・東海道新幹線・国道1号・東名高速道路のルートから見ると、この静岡県の駿河湾西側の地域というのは出っ張った半島的な位置にある。もっとも、菅直人内閣の時に浜岡原発は停止されたが、それは福島第一原発事故を見ると原発事故の影響範囲が広く、又、浜岡原発から放射性物質が太平洋に放出されると、日本海流(黒潮)に乗って流れていく先に東京がある・・ということから、特に他の原発より優先して停止されたのではないか・・な・・と思ったのだが、福島第一原発事故の直後、京都大学原子炉実験所助教の小出裕章さんが、「今、日本の原発の中で一番危険な原発というとどこでしょうか」と質問されたのに対して、「私はその質問には答えないことにしています。なぜかというと、原発で安全な原発などないということと、私は日本の原発で一番危険な原発は浜岡原発だと思っていたのですが、実際には浜岡原発ではなく福島第一原発で大事故が起こった。私の予想ははずれたのです。だから、どこで事故が起こっても不思議ではないですから、どこが一番というのは言いません」と語っている動画を見たが、予想ははずれたとしても、「日本で一番危険な原発は浜岡原発だと思っていた」ということですから、今は停止しているとはいえ、相当危険なのでしょう。

原発のウソ (扶桑社新書) - 小出 裕章
田沼意次の時代には、「田沼街道」と言って、相良城から東海道 藤枝宿まで28㎞の街道がひかれたようだが、↓

( ↑ は、大鐘家住宅のすぐ南側の看板。)
田沼意次は晩年に左遷されてしまい、幕末に田沼の子孫が相良の領主に復活したらしいが、それでも、「東海道のメインルートからは少々はずれた地域」として今日に至るようだ。 もっとも、東名高速道路の「相良牧之原」インターから相良地区まではクルマでなら遠くはない。大鐘家住宅は、東名高速道路からならば、吉田インターからか、相良牧之原インターからか、どちらからがより近いかわからないが、クルマならば遠くはない。
東海道新幹線の真上に作った静岡空港(「富士山静岡空港」)http://www.mtfuji-shizuokaairport.jp/ に、新幹線の駅を作ってほしい静岡県と作りたくないJRという話がしばしば出ているが、その静岡空港は牧之原市と島田市にまたがって立地しているらしい。 もし、静岡空港に直結の新幹線駅を作ったならば、成田空港の客、中部空港の客の何割かが静岡空港に行くのではないか、特に、中部国際空港より静岡空港の方が便利というケースが出てきて、その2空港、特に名古屋からけっこう遠い中部国際空港の「立場がなくなる」おそれがあるので、それで新幹線駅を作らないのではないか?
掛川駅に近いので、「こだま」は静岡空港駅を作ったなら、静岡空港駅から掛川駅まで加速しきらないうちに着いてしまうという話があるが、「こだま」だけ停まる駅を作ってもあまり意味はない。作るのなら、「ひかり」を停車させる駅にすれば、東京・名古屋から海外に行くのに便利な空港になるのではないか。成田・中部国際空港としてはそれが怖いのではないかな・・。もしかすると、関空より便利かもしれんし。新大阪から関空に行くのと静岡空港に行くのとたいして変わらんかもしれん・・。関空は大阪府でも北部の人間にとっては便利悪いからな・・。だから、既存空港の存立にかかわることになるので、静岡空港駅を作りたくないと言う人がいるのではないかな・・・。
宮城まり子が作った「ねむの木学園」「ねむの木村」が浜岡町(現 御前崎市)の海に近い場所にあったと思ったのだが、掛川市の山中にもあるようで、一部分、引越したのかと思ったら、《ウィキペディアーねむの木村》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%AD%E3%82%80%E3%81%AE%E6%9C%A8%E6%9D%91 を見ると、1968年に小笠郡浜岡町(現 御前崎市)にできたが、《 1997年 - ねむの木学園・ねむの木養護学校が浜岡町から現在地(掛川市)に移転》したらしい。

ともだちねむの木そして私〈1〉 (1981年) (集英社文庫) - 宮城 まり子
牧之原市が静岡県なのはわかるが、遠江か駿河か、どちらだろう・・・、御前崎の岬が境界かな・・・とすると、駿河か? ・・というと、《ウィキペディアー遠江》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%A0%E6%B1%9F を見ると、牧之原市は駿河ではなく遠江に属するらしく、遠江の東端に位置するようだ。 かつては、静岡鉄道駿遠線という鉄道が東海道本線の藤枝から榛原町・相良を通って袋井まで走っていたらしいが、1964年から区間廃止、大阪万博があった1970年に全線廃止されたらしい。私が小学校に入学した年には、相良・片浜・榛原町・静波にはまだ静岡鉄道駿遠線は走っていたようだ。
※ 《ウィキペディアー静岡鉄道駿遠線》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%99%E5%B2%A1%E9%89%84%E9%81%93%E9%A7%BF%E9%81%A0%E7%B7%9A
牧之原というと、江戸時代末期に、「幕末の三舟」と呼ばれる勝海舟・山岡鉄舟・高橋泥舟の3人が、駿河に江戸から送られて生活に困窮していた幕臣とその家族を救うために、牧之原台地で茶の栽培を始めた・・という話が 山本おさむ『そばもん』という漫画に出ていたが、その牧之原台地の牧之原か・・。 静岡県産の茶は牧之原台地だけではなく、他の地域でも栽培されており、(株)一条工務店が「来客用」だといって住宅展示場に送ってきた「本川根」茶はおいしかった〔 展示場によっては、会社が「来客用」だと言って送ってきた茶を営業が飲んで、「従業員用」だと言って送りつけてきた気色の悪い合成着色料たっぷりのおよそ「お茶」と言えないようなイカサマ茶を客に出していたという展示場もあったと聞くが、私はそんなことはしていない。福島県いわき市の展示場では、来客に「来客用」でお茶を入れて、その2番茶を従業員が飲んでいた。2番茶でも「本川根」茶はおいしかった。 〕
大鐘家住宅では、何種類ものお茶の葉を混合して、それを「百葉茶」と名付けて販売しているのだが、静岡県知事の川勝平太が福島第一原発事故の直後に静岡県産茶葉の放射線量検査を拒否したということがあったので、静岡県の農産物というのはそういう性質のものか・・ということになるわけで、そういう農産物は買わない方が良さそうだと考えたのだったが、大鐘家住宅に行くと、「お兄さんの場合なら、この百葉茶を飲んでもらうと痩せていいですよ」なんて言われたので、「お兄さん」にしてもらったのは大いに喜ぶとしても、痩せるとか痩せないとか大きなお世話だ・・と思い、「誰が買うかい」と思ったのだったが・・・、なんか、買っちゃった・・・・。むしろ、「大鐘餅(おおがねもち)」という餅が販売されているということで、ネーミングからしてなかなかのものであり、そっちを買って帰ろうかと思って行ったのだったが、それは、どうもよくわからないまま、帰ってしまった。
牧之原市相良というと・・・、何と言っても、「賄賂最中」なるものが名産としてある・・と聞いた(^^♪
《 箱を開けると、「付け届けは饅頭にかぎるのう。」との言葉と共に饅頭の写真が印刷された紙が入っている。これをめくると、小判をかたどった最中がつめられており、「したごころ」の表書きがある熨斗袋、さらに相良茶のティーバッグが付属している。最中にはお茶あんとつぶあんの二種類の風味がある 》(《ウィキペディアー賄賂最中》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AF%E3%82%A4%E3%83%AD%E6%9C%80%E4%B8%AD ) 《 町民や郷土史家の中にはイメージが悪いとして、販売を非難する者もいた。 2003年8月に静岡新聞に取り上げられたことから注文が4倍に増え、2003年11月15日からは牧之原SA売店でも週末限定で販売されるようになった。「ワイロ」であることから、それまでパッケージは桐箱を模した地味なものを使用してきたが、以降は相良高校美術部の生徒によるデザインのものに変更された。SAでの販売初日は販売開始前から列ができ、用意した100個が3時間で売り切れた。》というものらしい。
牧之原サービスエリア(下り線)と牧之原市相良の桃林堂という菓子店で販売されているということだが、今回は、大鐘家住宅と相良城跡に立ち寄るだけのつもりが、史料館にも入館して時間がなかったので、桃林堂を捜すことはできなかった。桃林堂の住所の牧之原市地頭方は、牧之原市相良の市役所相良庁舎などよりずっと南、御前崎市との境目に近い場所のようだ。 牧之原サービスエリアは、東名高速道路の吉田インターチェンジと相良牧之原インターチェンジの間、相良牧之原インターチェンジ寄りの場所にあり、上下線、サービスエリアは別のものがあるようだが、今回は、吉田サービスエリアで出て大鐘家住宅と相良城跡に行き、相良牧之原インターチェンジから乗って西に行ったので、牧之原サービスエリア下り線 には立ち寄らなかったが、次、東名高速道路で同区間を通る時にはぜひとも牧之原サービスエリア下り線に立ち寄ってみたいと思う(^^♪
※ 大鐘家HP http://www3.tokai.or.jp/oganeke/
※ ワイロ最中 http://daturyoku.webcrow.jp/sizu/sonota2/wairo/wairo.html
い~らナビ 桃林堂 https://www.iiranavi.net/shop/shop.shtml?s=1211
「ワイロ最中」は通信販売でも購入できるらしい♪
※ ワイロ最中 通販 http://www.shop-online.jp/yuuto/
牧之原市以外では、その名も「山吹色のお菓子」 ↓ とか
![山吹色のお菓子マスコット [全5種セット(フルコンプ)]](https://m.media-amazon.com/images/I/616YcmhOwJL.jpg)
山吹色のお菓子マスコット [全5種セット(フルコンプ)]
「これでよしなに」↓ という「小判煎餅」も販売されているらしい(^^♪

㈱みなとや 小判煎餅「これでよしなに」(20枚入)
インターネットの検索エンジンに「ワイロ最中」と入れて「検索」をクリックすると、「虎屋の羊羹」なんてのも出てきたが、これになると、ジョークではない話になるので、牧之原市の「ワイロ最中」とか「山吹色のお菓子」とかとは少々事情が変わってくる。
静岡県観光協会 の「ハローナビ静岡 大鐘家住宅」http://hellonavi.jp/detail/page/detail/1240 では、「交通アクセス」として、「吉田IC (経路) から20分 」と書かれているが、今回、東名高速道路「吉田」インターチェンジから大鐘家住宅に行き、そこから牧之原市役所相良庁舎・牧之原市史料館など相良城跡 に行き、東名高速道路「相良牧之原」インターチェンジを経て帰ったのだが、大鐘家住宅から牧之原市役所相良庁舎付近まではそれほどの距離はなく、吉田インターチェンジから大鐘家住宅までよりも、牧之原市役所相良庁舎付近から相良牧之原インターチェンジまでの方が時間はかからなかったように思う。 地図を見る限り、距離としては、吉田インターチェンジから大鐘家住宅までと、牧之原市役所相良庁舎付近から相良牧之原インターチェンジまでの実際にクルマで走る距離は同じくらいかと思われるのですが、吉田インターチェンジから大鐘家住宅までは、特に渋滞・混雑するわけではないけれども、市街地の道路であるのに対して、相良庁舎付近から吉田インターチェンジまでの道は、その多くが国道273号相良バイパス という自動車専用道(無料)で走りやすいので、時間としては相良庁舎付近からならば相良牧之原インターチェンジまでの方がかからないのではないかと思う。 大鐘家住宅までならば、いくらか距離としては吉田インターチェンジからの方が近いかと思うが、時間としては同じくらいではないか。
吉田インターチェンジを出ると、前の道は県道34号。これを右に行くと海側。大鐘家住宅に行くには右側に行く。すぐの交差点は「神戸東」交差点は曲がらず直進。 「神戸」は全国的に一番有名な「神戸」は兵庫県神戸市で「こうべ」と読むが、織田信長の三男 織田信孝が一時、養子に行ったという伊勢の神戸家は「かんべ」で、多数決だと「こうべ」より「かんべ」の方が多いようなので、ここも「かんべ」かと思うとそうではなく、「かんど」と読むらしい。
2番目の交差点も曲がらず直進。「湯日川橋東」という交差点を右折。地図を見ると、これを曲がり損ねて直進しても、そのうち右折すれば大鐘家住宅の方には行けるようだけれども。
「湯日川橋東」交差点を右折して進む道が国道150号。国道だけれども、片側1車線でそれほど広い道でもない。 両側に「こんなもんかな」という街が続く。 「こんなもんかな」というのは、ものすごい街ではないけれども、「こんなもんかな」という街が続いている・・ということだ。 この表現でわからんかったら、行ってみてもらえば意味がわかると思う。道沿いにセブンイレブンはあった。そのくらいの道である。
左側に「KOマート」がある所で県道31号が合流する。 慶應大学では略字として「慶應」を略して「KO大学」と表記をする人があったが(まだれをKとOにつけるという手法もあったが、それはパソコンで入れようがない)、「KOマート」は、KOグループHPの企業概要https://www.komart.jp/kogroup/about/ によると、会社名が「(株)京王商事」で店名が「KOマート」が正式名称らしい。
牧之原市の旧榛原町の静波という所の国道150号より山側に牧之原市役所榛原庁舎がある。そこを過ぎて、しばらくすると、片浜という所に大鐘家住宅があるはずなので、どこを右折するか(山側に曲がるか)が問題なのだが、なかなか、目印がない。
ヤフー地図を見ると、小さい川を渡ってすぐのようだが、「小さい川」なんてのは1つではない。「伊藤園産業(株) 片浜工場」というのがヤフー地図に出ており、ヤフー地図では、そこの信号を右折して山側に行くと大鐘家住宅というのがあることになっている。しかし、現地に行ってみても、「伊藤園産業(株) 片浜工場」なんて看板は出ていない。もしかすると、目を凝らして良く見ると小さくどこかに出ているということはあるかもしれないが、初めてそこに行った者がクルマを運転しながら認知できる程度のものはない。 ヤフー地図には「本杉カメラ」「寿しとも」なるものも出ているが、現地ではそれがどれなのかわからなかった。
国道150号を吉田インターチェンジの方から牧之原市役所榛原庁舎がある静波地区のあたりを経て大鐘家住宅の近くに来ると、道路の端(海側)に「大鐘家 ⇒」という看板が出ている。
それほど大きな看板ではないが、他にたいした目印があるわけではないので、その看板が一番の目印だと思う。 そこを右折すると(山側に曲がると)、少しして、直交する道があり、それを左折しろという看板が出ているので左折すると、川があって橋があるのでその橋を渡ると右手に大鐘家住宅の駐車場が見える。 駐車場は手前にバスの駐車可の駐車場があり、細い道を入ると左手に乗用車用の駐車場がある。「大庄屋」の家でも入っていく道はそれほど広い道ではないので、「大庄屋」なら道も相当広いだろうなどと思いこんでいるとそうではないので通り過ぎてしまう可能性がある。
大鐘家住宅から国道150号に直進することも乗用車なら可能なのだが、なぜ、それより静波よりに「大鐘家 ⇒」という看板が出ていたかというと、バス・マイクロバスなどでは国道150号までの道は細いので、いくらかなりともそれより太い道の所で「大鐘家 ⇒」という看板を出していたのではないかと思う。
大鐘家のすぐ前の道で国道150号に出る、国道150号から入るのは、乗用車でも、(株)一条工務店の初代社長のバカ息子が燃やしたというフェラーリテスタロッサ(「燃やしてやる」とマッチで火をつけたとかいうことではなく、市街地をとろとろと運転していると、カローラなんかと違ってフェラーリテスタロッサというクルマはエンジンが火を噴くことがあるらしく、それで「燃やした」らしい。それだけのクルマを買えるカネをおのれが働いて稼いだわけでもないバカ息子にそんなクルマに従業員の給料をへつって貯めたカネで買って乗せるアホ父というのは、どんなもんですかいねえ・・と私なら思うが。私なら、20代前半の息子が最初に運転するクルマなら、そんな「清原みたいや」てなクルマを買えたとしても買って乗せない。「中古のカローラ」でもおのれが働いて貯めたカネで買えばいいだろうが! 最初に屋根のある背もたれのあるクルマに乗った時の感動なんて、「清原みたいや」「清原と一緒や」「清原そっくりや」てクルマを親から用意してもらって乗せてもらったバカ息子はそんな感動したことなんてないだろう・・)なんてそんな乗用車なら通れるかどうか知らんし、真っ直ぐ進むことはできても国道から入る時、国道に出る時、うまく曲がれるかどうか知らんが、私なんかの乗っている「リーズナブル」な価格の国産車ならば、別段、問題なく曲がることも進むこともできる。

↑ の右側が、手前側のバス駐車可の駐車場で、この道を入って行った突き当りが大鐘家住宅だが、その左手前に、乗用車用駐車場がある。
「ハローなび しずおか 大鐘家住宅」http://hellonavi.jp/detail/page/detail/1240 では、大鐘家住宅には、トイレ設備はなし と書かれているが、長屋門の左手前の乗用車用駐車場の横にトイレがあったように思うのだが。
↑の写真の細い道を直進すると「長屋門」があり、その右手前で入場料というのか見学料というのかを払って入ることになる。

↑ 「大鐘家住宅 長屋門」。
大鐘家住宅は、吉澤政己『日本列島民家の旅(6)中部1 東海・中央高地の住まい』(1996.4.30.INAX出版)、藤井恵介監修『日本の家 2 中部』(2004.5.28.講談社)にも紹介されている。 大鐘家の長屋門は主屋とともに国の重要文化財に指定されており、「伊勢神宮のような千木をのせる長屋門」が特徴であり、私がこれまでに見せてもらった長屋門でも、大鐘家住宅のように千木(ちぎ)が屋根の上に載っている長屋門は、これまでに見たことはないが、藤井恵介監修『日本の家2 中部』(2004.5.28.講談社)を見ると、大鐘家と同じく静岡県のかつては小笠町だったが現在は菊川市になった黒田家住宅も、《 ・・十一本の置千木(おきちぎ)を載せた長大な長屋門を構える》らしい。
黒田家は、
※ 菊川市HP 黒田家代官屋敷 https://www.city.kikugawa.shizuoka.jp/shoukoukankou/kurodake.html
菊川市HP 黒田家代官屋敷資料館 https://www.city.kikugawa.shizuoka.jp/shakaikyouiku/kurodake_2.html
ウィキペディアー黒田家代官屋敷 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%92%E7%94%B0%E5%AE%B6%E4%BB%A3%E5%AE%98%E5%B1%8B%E6%95%B7
黒田家は、現在も居住中で、長屋門付近のみ見学できるらしい。黒田家代官屋敷資料館では美術品や黒田家家屋の解体修理の写真を見ることができるらしい。
大鐘家の長屋門は千木がのっているという特徴はあり、立派な長屋門ではあるが、左右の幅については、長屋門が立っているこの場所の幅の制約があるからでもあるのだろうけれども、私がこれまでに見せてもらった長屋門では、千葉県船橋市の旧近藤家長屋門(現 東葉学園 東葉門)とか、大鐘家と同じ静岡県の掛川市原里の加茂家住宅の長屋門、あるいは大阪府豊中市の服部緑地の日本民家集落博物館http://hattori.osaka-park.or.jp/guide/facility/musium/ に移築されて同施設の入口を兼ねている「布施(ふせ)の長屋門」(旧塩川邸長屋門)などの方が長屋門の幅は広い。
大鐘家住宅では、長屋門と主屋が重要文化財に指定されており、その2つのほか、2棟ある土蔵の片方が資料館として中に入ることができる。
長屋門の奥に主屋があり ↓、主屋の奥に土蔵が2つ並んでいて、右側の土蔵が資料館として内部に展示がされている。

↑ 「大鐘家住宅 主屋」。
大鐘家住宅の主屋では、小屋組みが《二本の大黒柱の上に、手斧(ちょうな)削りの太い梁が井桁に高く組まれ、圧倒するような空間を作り出している。》というのが特徴だが、これについては次回に述べることにしたい。

東海・中央高地の住まい―日本列島民家の旅〈6〉中部 1 (INAX ALBUM) - 吉澤 政己, 入澤企画制作事務所

日本の家 (2) 中部 - 藤井 恵介, 和田 久士
大鐘家は、元は柴田勝家の家臣だったということで、江戸時代でも始めは旗本だったのが、「大庄屋」になったということで、「大庄屋」というのは「庄屋」の中でも勢いのいい庄屋とかいう意味ではなく「庄屋をまとめる立場」を「大庄屋」と言ったというものらしい。 部屋の天井が低めにできているのは、そこで刀を振り回そうとしても天井につかえて振り回せないように考えて低くしたというように、《「庄屋をまとめる立場の大庄屋」とはいえ農家》であっても、幾分、武家に近い農家だったと考えていいのかもしれない。土蔵の資料館には、田沼意次から受領したという酒杯(さかつき)も展示されていたが、「賄賂をとった」と言われた田沼意次だが、逆に「大庄屋」に田沼意次の方から渡したものもあったようだ。
次回、大鐘家住宅について、述べていく予定です・・。
(2020.10.1.)
2020年11月21日、「賄賂最中」が販売されているという東名高速道路「牧之原」(下り)(西行き)サービスエリアに行き、ぜひとも「賄賂最中」を購入したいと思って捜したのでした・・・が、↓

( ↑ 東名高速道路「牧之原」(下り)サービスエリア。 )
・・・見当たらない。 勇気を出して、売店の女性に尋ねてみたのですが、「2年ほど前までは置いていたようですが、今は置いていません」ということでした。



その後、「牧之原」(上り)(東行き)サービスエリアにも立ち寄り、捜しましたが見当たりません。だめもとで売店の女性に尋ねてみましたが、やはり、置いてないということでした。



(2020.12.3.)
☆ 大鐘家と相良城跡
(1)田沼意次の城下町相良の牧之原市片浜にある大鐘家住宅 〔今回〕
(2)井桁に組んだ梁・千木の載る長屋門・酔芙蓉。なぜ川勝平太は事故を起こした原子力発電を製造した会社の責任を問わずに、放射線量検査の方を拒否するのか https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202010article_1.html
(3)地形に合わせた建物の配置。「母屋」「上屋」と「庇」「下屋」。表側の庭と裏側の「小堀遠州庭園」https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202010article_2.html
(4)床の間と床脇。床柱と長押の位置関係。遠州流を他の地域の人に押しつける(株)一条工務店。会社のために協力する従業員を罠にかける(株)一条工務店 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202010article_3.html
(5)神棚の造りについて。その地域のやり方を無視する(株)一条工務店の営業。会社のルールを無視する営業本部長 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202010article_4.html
(6)土蔵・資料館。大鐘家の裏の丘からの眺望。相良城跡と田沼意次。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202010article_6.html
☆ 加茂荘花鳥園・加茂邸(静岡県掛川市)見学
1.「森掛川」I.C.より加茂荘花鳥園。温室と鳥舎。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202006article_2.html
2.花菖蒲園と長屋門。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202006article_3.html
3.加茂家住宅(1) 正玄関、土間、大黒柱・梁、庭の池と亀島と花。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202006article_4.html
4.加茂家住宅(2) 座敷、広縁・濡れ縁、廊下交差箇所の納まり、差鴨居。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202007article_1.html
5.加茂家住宅(3) 床の間 2か所。一般の柱と同材同寸法の床柱と長押の関係。床の手前の横の位置の付書院。きれいな襖絵。
6.加茂家住宅(4) 加茂家住宅の神棚は「竈の神さま」なのか。「浜松流神棚」を他地域に押しつける一条の営業。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202007article_3.html
7.加茂家住宅(5) 窓の格子。「理由のある」桟の作りと「理由のない」作り。味噌蔵・米蔵。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202007article_4.html
☆ 東京都 狛江市立古民家園
上 旧荒井家住宅主屋 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201509article_1.html
下 旧高木家住宅長屋門 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201509article_2.html
☆ 旧近藤家 長屋門(東葉学園 東葉門 )(千葉県船橋市)https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201907article_3.html
☆ 旧安西家住宅(千葉県木更津市)https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202009article_5.html
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