大鐘家住宅と相良城址【6/6】土蔵・資料館。大鐘家の裏の丘からの眺望。相良城址と田沼意次。相良城址石碑・土塁。牧之原市史料館。
[第797回]
大鐘家見学の6回目です。
※ 大鐘家HP http://www3.tokai.or.jp/oganeke/
主屋の後ろに、小ぶりの土蔵が2つ、並んでいて、右側が資料館として公開されています。↓
今回は、時間があまりなかったので、それほど、じっくりと見学できなかったのですが、気づいたものとして、田沼意次から大鐘家に贈られた酒杯というのがあったのですが、田沼意次というと「賄賂を取った悪徳政治家」みたいに言われてきたのですが、最近は、その評価は少々変わってきたようなのですが、田沼意次の方が贈ったものというものもあったんだ・・・と思ったのです。
この後、牧之原市相良の牧之原市役所相良庁舎(元 相良町役場?)とその隣の牧之原市史料館など、相良城跡に行ってみたのですが、史料館に、田沼意次は「賄賂を取った政治家」のように言われてきたが、それは反田沼派の悪口であって、実際には、その時代の他の政治家と比べて特にそういうものが多かったということはなかったのではないか、と出ていたのです。但し、まったく何も受け取ることはなかったかというと、特別にものすごい清廉潔白な人ということではなく、「お歳暮程度のもの」なら受け取ったことはあるのではないか、とも出ていた。考えてみると、「賄賂」なのかどうか、という判断というのは、これはなかなか難しい。 「お歳暮程度のもの」というのは「賄賂」なのか?
そもそも、「袖の下」なんて言葉がありますが、「袖の下」というのは、袖の下でこそっと渡すから「袖の下」と言うのであって、明確に、これこれの物を渡しますから、かわりに何じゃらの利権を渡してもらいますという契約書・・なんて普通はないわけです。 人が病気になった時に、お見舞いに行って、その際に何か持って行ったとしたら、それは「賄賂」なのか? 人に何かめでたいことがあって、「お祝い」に何か送ったら「賄賂」なのか?
もし、何か、贈られたとして、もらいっぱなしの人もあるかもしれないが、もらった側もまた、「お返し」をする場合があると思うのですが、「お返し」をすれば、「お互い様」なのか、「お返し」した方も「賄賂」なのか?
宅地建物取引業法では、宅地建物取引業者が受け取っていい報酬というものの最高限度が規定されているのですが、それを上回って受け取ると宅建業法違反になるはずです。実際には、「特別広告費」とかなんかそういう名目で受け取っているみたいですけれどもね。 「業者」が受け取るものと別に営業担当者が受け取ったとしても、その営業担当者が宅地建物取引業者の経営者自身である場合も、雇われ人である場合も、やはり、宅建業法違反になるでしょう・・けれども、その営業さんが大変良くやってくれたと思って、ほんのわずかの「お礼」をしたとすると、それも違法なのか? 「ほんのわずか」ならいいではないか・・とすると、「ほんのわずか」というのはどの程度までなのか? 暑いさなかに案内してくれたからと思って、清涼飲料水の自動販売機で缶コーヒーを買って、「営業さん、どうぞ」と渡したら、缶コーヒーの分だけ宅地建物取引業法違反なのか? ・・普通、そこまでは言わないと思うのですが、それなら、どこからが違法になるのか?
同様に、老中が他の大名からか、それ以外の誰かから贈り物をもらったとして、どこからが「賄賂」なのか? もし、何か助けてもらった者が「お礼」をしたなら「賄賂」か? それこそ、『剣客商売』では、「老中の田沼様」に、田沼意次の娘を嫁にした秋山大二郎が悪者をやっつけるために力を貸してもらうなんて場面があったと思うのですが、「田沼様、ありがとうございます」・・と何かお礼をしたなら「賄賂」なのか? ・・と考えると、これはなかなか難しい。
大鐘家住宅の土蔵(資料館)の右手を少し登っていくと、左手に稲荷社があり、さらに少し登ると右手に海が見えます。↓
ここで見える海は駿河湾。 御前崎から西は南方に遠州灘が見えますが、ここは御前崎より東で、大鐘家住宅からは東南東の方角に駿河湾の海が見えます。
(その時の天候により)富士山が見える時がある・・と書かれていたのですが、残念ながら私が訪問した時は富士山は見えませんでした。
インターネットのYouTube に、大鐘家住宅 の石垣について、大鐘さんが述べているものが出ていました。
《YouTube-国指定重要文化財「大鐘家」》https://www.youtube.com/watch?v=pzodBRonEGI
田沼意次が失脚した時に相良城を解体して売ったものがあり、その際に、大鐘家は石垣の石を買い、それが大鐘家の石垣になった、ということですが、帰宅後に↑のYouTubeを見ましたが、訪問時、それがどれかはわかりませんでした。
相良城跡というのは、今は、牧之原市役所相良庁舎・牧之原市史料館・相良小学校・相良中学校・相良高校が建っている地域らしい。
↑ マーカーの位置が 牧之原市 史料館
↑ 牧之原市役所 相良庁舎。
↑ 牧之原市 史料館
※ 牧之原市観光案内 牧之原市史料館 https://msckc.jp/kankou/contents/miru_shiru/history/hist04_shiryoukan.html
ハローナビしずおか 牧之原市史料館 http://hellonavi.jp/detail/page/detail/2667
牧之原市移住定住サイト 牧之原市史料館 https://www.city.makinohara.shizuoka.jp/site/makinohara-life/1583.html
※ 《ウィキペディアー相良城》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B8%E8%89%AF%E5%9F%8E
牧之原市役所 相良庁舎 の左に 牧之原市 史料館 があり、その後ろに、相良中学校、牧之原市 史料館の左に 相良小学校があり、相良小学校のさらに左に相良高校があります。 だいたい、このあたりが、かつての相良城だった所のようです。
《ウィキペディアー相良城》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B8%E8%89%AF%E5%9F%8E によると、
本丸跡・・・牧之原市役所相良庁舎、牧之原市史料館、
二の丸跡・・・牧之原市立相良小学校、
三の丸跡・・・静岡県立相良高校
・・がある場所のようです。 ・・となると、市立相良中学校の所はどうなんだ? ・・というと、牧之原市 史料館でもらった「遠州相良藩主 田沼意次候 相良城下」というリーフレット を見ると、相良高校のあたりも含めて相良城だったようです。
牧之原市役所 相良庁舎 と 牧之原市 史料館 との間の位置に、
↑ 「相良城址」と書かれた石碑 が立っています。 後ろは市立相良中学校のようです。
牧之原市 資料館 でもらった「意次通信」第10号 2020.5.11.(田沼意次候生誕300年記念事業実行委員会 発行)によると、この石碑の右隣に、田沼意次の銅像を建てようという計画があって、目標額1000万円で募集をして、今、470万円まで集まったらしい。
↑ の石碑の文字だが、ありきたりの字体よりは、多少、威厳のある文字にした方がということでこうなったのかと思うが、私はなんとか「相良城址」という字だろうと推測できたが、人によっては読めない人もいるのではないかと思う。こういう石碑を設けるにおいては、長い年月を経てもなお読めるようにと考えると、誰もが読める字体にしておいた方が良かったのではないか、とは思うが、とりあえず、今は私は読める。
この石碑の左に 牧之原市 史料館 があるのですが、史料館の入口の左側に ↓
↑ 「相良城 本丸跡」と書かれた石碑 が立っています。
相良小学校の前に、相良城 の 二の丸の土塁だったというものと、二の丸の土塁に生えていたという松が残っています。
↑ 相良小学校に向かって右側。
↑ 相良小学校に向かって左側。
土塁がかと思ったら、土塁ではなく、「相良城二の丸土塁のマツ」が 牧之原市指定 天然記念物 に指定されているらしい。
《このクロマツは二の丸の土塁にあり、数少ない相良城の歴史的遺産として、貴重な天然記念物です。》と現地の説明書きに書かれている・・が、この書き方だと、「史跡」として貴重なのか、この松がこの場所の植物として貴重なのか、どちらなのかよくわからない表現ではある。
インターネットでの相良城について書かれたものを行く前に見たところ、相良城のもので残っているのは、この土塁くらい・・と出ていたのを見たのですが、牧之原市 史料館 でもらった「相良城下」というリーフレットによると、相良城の近くを流れて駿河湾に注ぐ 荻間川 という川に「仙台河岸」と言って、《 相良城の石垣が残る場所 》があるらしい。 《仙台藩主の伊達家が石を寄進したと伝えられ、名称の由来になっています。》と書かれている。
井上 清『日本の歴史 中』(1965.10.23.岩波新書)には、
《 幕府では、吉宗の没後(1751年)、体質的に欠陥のある暗愚の将軍が二代つづき、その間に側用人の田沼意次がしだいに実験をにぎり、1772年老中となった。田沼は、江戸・大阪の豪商の出費で、下総の手賀沼・印旛沼の大干拓に着手したり(失敗)、つぎつぎに新しい株仲間を公認して、それから税金をとり、御用商人の「座」や「会所」をつくって、それに銅・鉄・みょうばん・石灰・硫黄などの鉱産および人蔘などの薬種の開発と売買を独占させ、これから税をとるなど、もっぱら商業資本とむすびついて幕府の収入をふやそうとした。田沼はまた、清国(しんこく)向けのこんぶ・干しあわびなどの採取から輸出まで幕府で独占し、北海道でロシアと貿易して、その利益で北海道を開発しようとした。
これらの政策は、当然、御用商人になれない一般商人および生産者とのはげしい対立をひきおこした。またこの間に幕府役人と商人との間の賄賂が横行したが、田沼は、生命のつぎに大切な金銀を贈ってくるのは、忠義の志が深いしょうこであると、うそぶいた。これも幕府内外の非難のまととなった。やがて天明の大飢饉、全国的な民衆蜂起となり、衆怨は田沼に集中し、1786年、彼をかばった将軍家治が瀕死の床につくやいなや、田沼は政権から追放された。
その後に、少年の新将軍家斉(いえなり)のもとで、松平定信を中心とする老中の合議政治がおこなわれた。その施政を当時の年号により「寛政の改革」という。それは田沼の政治とは正反対に、できるだけ商品経済をおさえて、自然経済にもどそうとするものであった。具体的には、株仲間の整理、商品作物栽培の制限、農民離村の禁止等である。寛政改革の他の一面は、例の如き倹約、風紀とりしまり、文芸・学問・思想の統制の強化である。このとき朱子学が「正学」とされ、他の儒学はは異学として幕府学問所で教授するのを禁止された。
・・・・
幕府にせよ諸藩にせよ、商品経済をおさえようとする努力が、この時代に成功するはずもない。しかも江戸・大阪や城下町の商人については、その上層を特権ギルド化することで統制し、領主と商人が利益を分けあうことも、あるていどはできたが、田沼時代にはすでに、そうした統制をこえる在郷商人と農村手工業の成長があった。たとえば田沼政権は1781年に、武蔵・上野二国の絹織物および絹綿(きぬわた)の「貫目改所(かんめあらためしょ)」をもうけたのにたいして、二国の「百姓製造方」がいっせいに反対し、ついにそれを廃止させた。・・・
・・・
経済構造には、いまや単純な商品生産から資本主義生産への新しい質的な変化の萌芽があらわれてきた。その第一は・・・
・・
第三に、海外貿易への要求がおこった。田沼政権は、北海道でロシア船との官営貿易をくわだてたが、民間商人はすでにロシア船との密貿易をしていた。淡路出身の海運業者高田屋嘉兵衛(1769―1827)は、18世紀末、19世紀はじめに、北海道・南千島の漁場を開拓し、また内地物産を北海道に送って巨富をつくったが、彼はまた密貿易業者でもあったらしい。嘉兵衛よりすこし後の加賀の銭屋(ぜにや)五兵衛(1773-1852年)も、北海道と本州との商業・海運で財産をつくったが、北海道・樺太で密貿易もした。密貿易の金額は少なくても、あえて酷寒凛冽の北海に進出し、怒涛と濃霧の海上で、幕府の大禁を犯して外国船と取引きする、こういう冒険的進取的精神を、日本の商人たちが再びうみだしたことは、鎖国が内から破られる前兆である。また九州南方の海上でも、中国船との密貿易がおこなわれたらしい。 》
といったように出ている。
ちなみに、この井上清『日本の歴史 上・中・下』(岩波新書)という3分冊の本は、読みやすくて、一通りの日本史を理解できる本だが、1970年代後半、「受験の日本史」(聖文社)に、「日本史学習と大学受験のために読んでおくべき本」として掲載されていたので、私は読まなきゃいかんもんかと思って高校3年の初めの時期に読んだものだが、最近、柴田孝之が『東京大学機械的合格法』(実業之日本社)で「読む必要のない本」に指定して、そのおかげでかどうかわからんが、長らく出版されてきて新刊で手に入った本だが、最近では、アマゾンで見ても、中古書では手に入るが新刊はなくなったらしい。「受験の日本史」が読むべきだと言えば、読まなきゃと考え、柴田孝之が『東京大学機械的合格法』で読む必要がないと言えば、要らないと考えるというのでは、なんか主体性がないというのか、ひとが何と言おうが、自分が必要がと思えば必要で、要らんと思えば要らんのであり、柴田孝之も「たとえ、多くの人間が読んでいる本でも、多くの人間がとっている学習法でも、自分が要らないと思えば要らないと判断する勇気を持つべきで、自分自身の判断であえて少数派になる勇気を持てないような人間は東大とか司法試験といった難関試験に通る必要はない」と述べていたが、たしかにそうだと私も思う。
日本の歴史〈中〉 (岩波新書) - 清, 井上
井上清『日本の歴史 中』で、《 吉宗の没後(1751年)、体質的に欠陥のある暗愚の将軍が二代つづき、》と表現されているのは、9代の徳川家重と10代の徳川家治のことだが、9代の徳川家重については、《ウィキペディアー徳川家重》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E9%87%8D には、
《 (徳川家重は)父・吉宗が将軍に就任することになると、同時に江戸城に入り、享保10年(1725年)に元服、それまでの徳川将軍家の慣例に倣い、通字の「家」の字を取って家重と名乗る。生来虚弱の上、障害により言語が不明瞭であったため、幼少から大奥に籠りがちで酒色にふけって健康を害した。享保16年12月(1731年)、比宮増子と結婚した。
発話の難に加え、猿楽(能)を好んで文武を怠ったため、文武に長けた次弟の宗武と比べて将軍の継嗣として不適格と見られることも多く、父・吉宗や幕閣を散々悩ませたとされる。このため、一時は老中首座(勝手掛老中)の松平乗邑によって廃嫡および宗武の擁立をされかかったことがある。吉宗は家重を選び、延享2年(1745年)に吉宗は隠居して大御所となり、家重は将軍職を譲られて第9代将軍に就任した。しかし宝暦元年(1751年)までは吉宗が大御所として実権を握り続けた。家重の将軍職継承は、才能云々で次男などに家督を渡すことが相続における長幼の順を乱すことになり、この規律を守らないと兄弟や徳川御三家などの親族さらに派閥家臣らによる後継者争いが権力の乱れを産む、と吉宗が考えたとされる。吉宗自身が徳川本家外から来た人間であり、将軍としての血統の正統性が確実ではなかったため、才覚云々ではなく「現将軍の最長子が相続者」というルールを自らが示し守らねばならなかったこと、吉宗自身が将軍後継争いの当事者であったことが背景にある。またこれとは別に、家重の長男・家治が父とは逆に非常に聡明であったこと、つまり次世代に期待ができると判断されたことも背景にあったと言われている。》
《 ・・・郡上一揆では、家重は真相の徹底究明を指示し、田沼意次が評定所の吟味に参加し、老中、若年寄、大目付、勘定奉行らが処罰され、郡上藩と相良藩2藩が改易となった。百姓一揆で幕府上層部にまで処罰が及んだ例は郡上一揆が唯一である。・・・》
《 ただ、健康を害した後の家重はますます言語不明瞭が進み、側近の大岡忠光のみが聞き分けることができたため彼を重用し、側用人制度を復活させた。田沼意次が大名に取り立てられたのも家重の時代である。重用された大岡忠光はしかし、権勢に奢って失政・暴政を行うことはなかったと言われる。宝暦10年4月26日(1760年6月9日)に忠光が死ぬと、家重は5月13日(6月25日)に長男・家治に将軍職を譲って大御所と称した。》
《 宝暦11年(1761年)6月12日、田沼意次の重用を家治に遺言し、死去した。数え年51歳であった。》
ということだが、
《 大岡忠光や田沼意次のような優秀な幕臣を見出して重用していたり、勘定吟味役を充実させたりしていることから、井沢元彦は「人事能力は優れている」「隠れた名君である」と評し、『徳川実紀』の評価を、障害ゆえに知性も低いという偏見、あるいは抜擢した意次の低評価によるものとしている。また甲斐素直も、障害があっても頭脳は怜悧で強力なリーダーシップで政治実権を握った将軍であり、綱吉同様、幕閣に不人気だったために低評価になったとの見方をしている。》
とも書かれている。
10代の徳川家治は、《ウィキペディアー徳川家治》 には、
《 (徳川家治は)父(徳川家重)の遺言に従い、田沼意次を側用人に重用し、老中・松平武元らと共に政治に励んだ。しかし松平武元が死亡すると、田沼を老中に任命し幕政を任せ、次第に自らは将棋などの趣味に没頭することが多くなった。
田沼は印旛沼・手賀沼干拓を実施し、蝦夷地開発や対ロシア貿易を計画する。安永8年(1779年)、家治の世子・徳川家基が18歳で急死したため、天明元年(1781年)に一橋家当主・徳川治済の長男・豊千代(後の第11代将軍・徳川家斉)を自分の養子とした。
天明6年(1786年)8月25日に死亡。享年50。死因は脚気衝心(脚気による心不全)と推定されている。
高貴な人の死は1ヶ月ほど秘されるのが通例(発葬されたのは9月8日・新暦9月29日)だが、その間に反田沼派の策謀により田沼意次が失脚。また、意次が薦めた医師(日向陶庵・若林敬順)の薬を飲んだ後に家治が危篤に陥ったため、田沼が毒を盛ったのではないかという噂が流れた。》
《 ・・・一方、「田沼意次を重用した事自体が英断である」として、高く評価する意見もある。意次が大胆な重商主義政策を推進し得たのも家治の後援あってのことであり、前述の通り家治の死によって田沼は失脚する。暗君という評価は田沼に対する悪評価とワンセットのものであり、その田沼に対する評価が大幅に改められた現在においても、家治に対する評価はまだまだ過去の暗君説を引き継いでいるのが現状である。》
《 祖父・吉宗から特に寵愛された孫であった。吉宗は家重のことは諦める代わりに、家治に期待を寄せ、自ら帝王学や武術などを教え込んだという。さらに家治に付けた小姓などにも自ら養育を施し、後継者体制を万全なものにしたという。・・》
と出ている。 9代 徳川家重は、体に障害があって言語が不明瞭であったらしいが、障害があって言語が不明瞭であったとしても、だから、それ以外も無能と決まったわけでもなく、徳川家重は田沼意次を重用し、家治に田沼意次を重用するよう遺言を残したらしく、田沼意次を老中にして後ろ盾になった10代徳川家治の暗君説とともに、どうも、この2人の「暗君説」は、「田沼意次=悪人」説とセットになっているところがあるようだ。
11代の家斉はというと、《ウィキペディアー徳川家斉》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E6%96%89 には、
《 (徳川家斉は)将軍に就任すると、家治時代に権勢を振るった田沼意次を罷免し、代わって徳川御三家から推挙された、陸奥白河藩主で名君の誉れ高かった松平定信を老中首座に任命した。これは家斉が若年のため、家斉と共に第11代将軍に目されていた定信を御三家が立てて、家斉が成長するまでの代繋ぎにしようとしたのである。・・》
と出ており、14歳で将軍になった頃は、老中になった松平定信らにより田沼意次を老中から罷免したが、
《 寛政5年(1793年)7月、家斉は父・治済と協力して定信を罷免し、寛政の改革は終わった。ただし、松平定信の失脚はただちに幕政が根本から転換したことを示すわけではない。・・》
《 天保8年(1837年)4月、次男・家慶に将軍職を譲っても幕政の実権は握り続けた(大御所時代)。最晩年は老中の間部詮勝や堀田正睦、田沼意正(意次の四男)を重用している。》
とあり、将軍になった少年時代には田沼意次を罷免したが、最晩年には、田沼意次の4男の田沼意正を「重用」したらしい。
田沼意次が「賄賂」を取った政治家だったと言われてきたのですが、実際には、その時代の他の政治家と比較して、特に田沼意次が他の政治家よりもひどかったというようなことはなかったのではないか、と最近では見られるようになってきたらしい。 大石慎三郎『田沼意次の時代』(2001.6.15.岩波現代文庫 )の「はじめに」に、
《 彼は大変賄賂を好み、賄賂によって政治を左右する腐敗した日本史上最悪の政治家として描かれ続けた。そしてどの日本史の教科書にも、それを風刺する図柄として辻 善之助 著『田沼時代』所収の「まいない鳥」「まいないつぶれ」の図が、のせられ続けたものである(大正4年、日本学術普及会刊『田沼時代』17頁、岩波文庫『田沼時代』24頁。・・)「まいない鳥」の図には、「この鳥 金花山に巣を喰う、名をまいない鳥という、常に金銀を喰う事をおびただし、恵少なき時は、けんもほろろにして寄つかず、但しこの鳥駕籠は腰黒なり」という説明がついており、「まいないつぶれ」の図には、「この虫 常は丸之内にはい廻る。皆人銭だせ、金だせまいないつぶれという」とある。
もちろん私自身も、戦前戦後にかけて日本歴史の教育を受けたものであるが、大学を卒業して研究者の生活をはじめてからも、田沼意次は賄賂好きの腐敗した政治家として教えられ、またそのような記事を読み続け、同時に「まいない鳥」「まいないつぶれ」の図を見てきた。そのうちに奇妙なことがあるのに気がついた。「まいないつぶれ」が背中にしょっている、丸に十の紋所である。「丸に十の字」といえば誰知らぬ者もない九州島津氏の紋所であり、田沼の紋所は「七曜」の紋所である。これはおかしい、ひとつ調べてみる必要があるのではなかろうか。
こんなことを思いついたのが、たしか昭和三十年代の中頃であったが、・・・・》
と書かれており、どうも、田沼意次が「賄賂をとった悪徳政治家」という評価については、それを示す資料はかなり疑わしいものが多いらしい。但し、牧之原市 史料館でも出ていたのだが、「お歳暮程度のもの」も受け取ったことはないのか、ということになると、そこまで特別にものすごい清廉潔白な人だったということでもなく、人並みに受け取ることはあったのではないかと言われるが、少なくとも、その時代の他の人間と比べて特に賄賂を多く取ったというようなことはなかったらしい。
田沼意次の時代 (岩波現代文庫―学術) - 大石 慎三郎
・・しかし、仙台の伊達藩から相良城の石垣の石を寄進されているではないか・・というと、これはどう考えたものか。 何かを受け取ったからといって、直ちに「賄賂」と決まったわけでもないと思う。 各大名は生き抜くために、孤立せず友好関係を持ちたいと考えて、他の大名とのつきあっていくわけで、伊達藩としても、側用人から老中になった田沼意次と友好的な関係を保ちたいと考えて、田沼意次が相良に城を築くように命じられた際に、石を寄進することで友好的関係を築きたいと考えた・・としてもそうおかしなことではないかもしれないし、田沼意次が「もらいっぱなし」ではなく、田沼意次の方から他の大名に何かを贈るということもあったかもしれない・・が、それは「賄賂」なのか? どういうものを「賄賂」と言うのか、なかなか難しい。
日光東照宮の奥の院が徳川家康の墓所になっているが、そこに至る石段の石というのは、見事な一枚ものが使われているのだが、全国から調達されたのであろうし、又、京都の高台寺の前の圓徳院だったか、庭を作る時の石を、全国の大名が豊臣秀吉に寄進した・・という話を聞いたように思う。もしも、寄進を受けたのが徳川家康とか豊臣秀吉とかであったなら、別にどうということはない、全国の大名が寄進していたわけだ。 もしくは、江戸時代において、徳川御三家か、そうでなくても、徳川四天王と言われる井伊・本多・榊原・酒井といった家の者が老中になっていて、屋敷を造営する際に寄進を受けた・・ということなら、別段、どうということはなかったかもしれないが、田沼意次は、父親の田沼意行は紀州徳川家の鉄砲足軽だったのが、徳川吉宗が8代将軍になる時に連れていって600石の旗本になったという者で、その息子の田沼意次は9代将軍の家重の小姓になり、10代将軍の家治の側用人から老中になったという破格の出世をした者であったから、かつ、片方で老中といえども、『剣客商売』のテレビで藤田まこと が演ずる秋山小兵衛 が「公方様の次にえらい人だ」と語っているけれども、「公方様の次」であるのは「老中」という役職のことであって、老中でなくなったならば、最大でも5万7千石の小大名でしかなかったわけだ。司馬遼太郎の『関ケ原』では、石田三成は五奉行筆頭とはいえ小大名でしかなく・・という話が出ているが、石田三成にしても近江佐和山は20万石ほどあったはずで、石田三成が小大名というのはあくまでも五大老筆頭の徳川家康と比較しての話であって、それでも、五奉行として指揮していた際には反感を買ったという話になっているが、田沼意次の場合は、『剣客商売』のドラマでは秋山小兵衛役の藤田まこと が田沼意次を「公方様の次にえらい人だ」と言うものの、公方様の徳川家治は将軍でなくなっても徳川家の徳川家治だが、田沼意次は老中でなくなれば5万7千石の小大名でしかなく、親藩でもなく古くからの譜代大名でもなければ外様の大大名でもない、出自は600石の旗本の息子であった者で、そちらの方は「公方様の次」どころか、ずっとずっと下だったわけで、老中という役職とは極めてアンバランスなもので、老中とはいえ、その点で必ずしも強い立場でもなかったのではないか。だから、もし、親藩か譜代大名の老中が受け取ったのなら、どうってことないものでも、人によっては相当の敵意をもって見られた・・ということがあったのかもしれない。
仙台の伊達家については、大石慎三郎『田沼意次の時代』(2005.岩波現代文庫)によると、田沼意次が賄賂を取った悪徳政治家のように言われた論拠として、『伊達家文書』というものがあるが、伊達重村という人が猟官運動を相当熱心におこなったことが記載されているが、そこに出てくる名前は、老中筆頭の松平武元・側用人の田沼意次・田沼意次の弟で一橋家家老の田沼意誠(おきまさ)・大奥の老女の高岳(たかたけ)の4人で、この文章をよく読むと、
《 松平武元は手入・挨拶を受けることを非常に喜んでいるが、それを世間の目から隠蔽しようと細心の注意を払っているのである。 一方問題の田沼意次は、むしろ清廉で、伊達家で金品を用意して面会を申し込んだところ「御丁寧之御事、態々御出ニも不及候事」、書面で十分だとそれを断っている(同2808・2809号) 》、
《 次に大奥老女高岳であるが、『伊達家文書』によるかぎり、この高岳が一番重村に深入りしているようである。彼女は重村にもちかけて桜田屋敷内に家作を作ってもらっている(同2841号)。前記4人のうち『伊達家文書』によって、伊達家から明らかに金品をもらったことが具体的にわかるのは彼女だけである。》
ということで、伊達重村という人は猟官運動に相当励んだらしいが、田沼意次と弟の意誠が金品を受け取ったという記述はないらしい。
それなら、牧之原市相良の「仙台河岸」は何なんだ?・・・ということになるのだが、
《 では田沼意次は伊達家から賄賂をもらわなかったのであろうか。史料がないのでわからないが、ただ一つ気になることがある。というのは相良の城下町の相良港には、せんだい河岸とよぶ河岸がある。この河岸が仙台伊達家の寄附によるのかどうかということである。せんだいかし と地元で呼んでいるところに、せんだい=伊達ゆかりの地名をつけてよいのかどうか、ここらのことは今まで私が調べたかぎりでは不明である。もしその事実があれば当然何らかの記載があると思われるが『伊達家文書』にはそれがいっさい出てこないところから、「せんだい河岸」の せんだい を伊達氏の仙台と結びつけないほうがよいと私は思っている。》
と出ている。 たしかに、伊達重村の猟官運動で老中の松平武元・側用人の田沼意次・その弟で一橋家家老の意誠・大奥の老女の高岳に働きかけたという話が記載されていて、高岳にはこれこれのものを贈ったと記載されている『伊達文書』に相良の「せんだい河岸」についての記載がない、ということは、相良の「せんだい河岸」の「せんだい」は伊達家の仙台と関係ない可能性が低くなさそうである。『遠州相良藩主 田沼意次候 相良城下』という牧之原市教育委員会 編集・発行のリーフレットでは「仙台河岸」と記載されているが、「仙台河岸」ではなく、ひらがな を使用して「せんだい河岸」という記載にしておいた方がいいのかもしれない。
地名としての「せんだい」は、宮城県の「仙台市」、伊達家の城下町だった「仙台(せんだい)」が一番有名ですが、鹿児島県にも「川内市」、「川内」と書いて「せんだい」と読む市があります。川内(せんだい)原発がある市です。他にも「川内」と書く地名はあり、川の内側につく地名です。大阪府東部はかつては「河内(かわち)の国」で、これは淀川と大和川・石川との間の場所を言ったものですが、東大阪市は何十年か前に布施市・河内市・枚岡市が合併してできた市ですが、この東大阪市中部については、河の内側ではなく、かつては、大和川がこのあたりをいくつもの小河川に分かれて流れていた「川地」の可能性も考えられるのではないかと思います。牧之原市相良の「せんだい河岸」がある場所というのは、見に行っていないのですが地図で見ると荻間川がカーブしている場所で、もう少しで海に出るという場所です。ここで川がカーブしているということは、もしかすると、このあたりで川が二俣に分かれていて、その間に2つに分かれた川の内側の地があった、という可能性としてありそうで、「相良城下」のリーフレットに掲載の「相良城・城下割(作図:松下義和 2019.)」を見ると、このあたりで荻間川から海に注ぐ流れと分かれて相良城の外堀が西に続きます。堀も川のうちと考えると、「せんだい河岸」があるあたりというのは、荻間川と外堀との間にはさまれた「川内」の地形になる場所だった。「川内(かわうち)」は発音しているうちに「かわち」に変化する場合もあるが、音読みにすると「せんだい」であり、鹿児島県の川内市はそちらで、他にも日本全国に「川内」と書く地名があって「せんだい」と読んでいる所があったと思います。地名には喜ばしい文字・美しい文字・格式のある文字をもとからの字に置き換えることがありますが、宮城県の「仙台」は「川内」の「川」を「仙」という喜ばしい字に変えて「内」を「台」にして「仙台」にしたという可能性もあるかもしれない。千葉県稲毛区に「天台(てんだい)」という地名があり、川の近くでもなく、むしろ、台地のような場所だが、「てんだい」と「せんだい」は音が似ており、「台」の字も共通している。「てん台」と「せん台」は、台地・野原のような場所についた地名で「仙台」の「仙」は別の字だったかもしれないが、「川の内側」ではなく「台地」だったということも考えられないことはない。だから、宮城県の「仙台」は「川の内側」の「川内」からきたか別の由来かはわからないが、牧之原市相良の「せんだい河岸」は、海に近い所で荻間川がぐいっと曲がっている場所であり、海に近い場所でぐいっと曲がって別の所で海に注ぐ川というのはけっこうある。海から波で砂が岸に寄せられると、その部分で川が海に注ぐことができず、海に近い場所で曲がって海岸線としばらく平行して流れていくといった川はけっこうある。そのうち、ぐいっと曲がった所で別方向へ流れる流れもできてくる場合もある。荻間川は、今は「せんだい河岸」の所でぐいっと片方に曲がるだけだが、相良城があった時は、そこで他方に外堀が続いていた。その外堀は最初から人工的に造られたのではなく、荻間川が分流した片方を外堀にしたが、相良城が破壊された時に外堀とそれに続き方の川も埋められたが、かつては、荻間川が2方に分かれる所で、その鋭角側の場所が「川の内側」ということで「川内」⇒「せんだい」で「せんだい河岸」と名付けられた・・・という可能性というのは、考えられないことはないようにも思える。
内田康夫『鄙の記憶』を読むと、秋田県大曲市の隣に仙北郡・仙北町といった郡名・町名が出てくる・・が、インターネットで検索すると、大曲市は「平成の大合併」で8市町村が合併して「大仙市」になったらしく、仙北町・西仙北町・中仙町も大仙市になったらしいが、「仙台」の「仙」という字は地名として珍しいかと思ったが、東北地方にはけっこうあるようで、《ウィキペディアー仙北》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%99%E5%8C%97 を見ると、「仙北」という地名は秋田県だけでなく、岩手県・秋田県・宮城県にもあるらしい。仙台の「仙」は川内の「川」が美しい漢字に変わったものかと思ったが、東北地方に「仙」がつく地名がいくつもあるとなると、話は違う。「仙」て何なんだ? 《ウィキペディアー仙北》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%99%E5%8C%97 には、《秋田県の地域名(古文書では「山北」「仙福」「仙乏」との表記もあり)》とあり、「仙北」が「山北」だとすると、仙台の「仙」は川ではなく山の可能性もありそうだ。「川内」で「せんだい」の場合は「川の内側」で、「仙台」の「せんだい」は「山」と「台地」で「山台」で、それににんべんがついて「仙台」か? 宮城県の「仙台」の由来はわからないが、牧之原市の「せんだい河岸」の場所は山でも台地でもないのは間違いなく、川のそばであるから、「川内」で「せんだい」の可能性はありそうに思う。
井上清『日本の歴史 中』(1965.岩波新書)にも、《これらの政策は、当然、御用商人になれない一般商人および生産者とのはげしい対立をひきおこした。またこの間に幕府役人と商人との間の賄賂が横行したが、田沼は、生命のつぎに大切な金銀を贈ってくるのは、忠義の志が深いしょうこであると、うそぶいた。》と出ている部分だが、大石慎三郎『田沼意次の時代』(2005.岩波現代文庫)では、
《 つぎに『江都見聞集』であるが、これは「金銀は人の命にもかえがたき大事な宝である。その宝をおくってもご奉公したいと願うほどの人であれば、上に忠であることは明らかである。志の厚い薄いは贈り物の多少にあらわれる」と田沼意次が言ったといわれる記事が出ている本で、徳富蘇峰が『近世日本国民史』の「田沼時代」篇で使って依頼、多くの人が引用しているものである。私はこの記事の原本を見たいと思って、同書からこの記事を引用している先学達にも問い合すことを含めて、いろいろ努力を重ねてみたが、ついに『江都見聞集』という書物は、原本はおろか、写本・活字本その他に至るまで発見することはできなかった。そのうちたまたま前記引用部分とまったく同じ記事が『江戸見聞二録』という本にあることを東京大学史料編集所蔵本のなかから発見した。この本は水戸在住の水戸藩士小宮山昌秀が、五度ばかり江戸に出た機会に見聞した面白い話を、文化7(1810)年に書き記した、約6400字ほどの小冊子であって、内容は江戸の巷間でひろった面白い話を書き留めたというにすぎないものである。》とある。どうも、田沼意次が《生命のつぎに大切な金銀を贈ってくるのは、忠義の志が深いしょうこであると、うそぶいた》という歴史学者の間でも知られてきた話というのは、《五度ばかり江戸に出た機会に見聞した面白い話》を記した《江戸の巷間でひろった面白い話を書き留めたというにすぎない》本に載っていた話がネタ元のようで、信憑性はたいしてないものだったようだ。
それにしても、600石の旗本の息子が、徳川の親藩の面々を相手にまわして、よく頑張ったものだ・・と考えることもできるかもしれないが、反田沼派からすると、敵対心が強かったのかもしれないが、田沼意次の方からすれば、老中といっても将軍の徳川家治が指示しているからこその老中であり、反徳川の立場でもなく、反徳川になるつもりもなく、親藩の松平定信が田沼憎しの意識を持っていたとしても、松平定信というのは将軍の子孫であり、田沼意次としては「政敵」とか「ライバル」の関係にはなりえない相手だったはずだ。
徳川吉宗の享保の改革・松平定信の寛政の改革・水野忠邦の天保の改革というのを、江戸の三大改革と呼んできたが、「日本三大なんとか」と呼ぶものはいくつもあって、町おこしで、全国的に有名な所2つと自分の所をくっつけて「日本三大なんとか」と言っているようなものはいっぱいある。 江戸の三大改革というものも、3つをワンセットにして考えるのは、あまり適切な考え方ではないのではないか。大石慎三郎『田沼の時代』(岩波現代文庫)では、田沼意次は改革派で、松平定信をかついだ反田沼派の方が「守旧派」「反動派」「抵抗勢力」で、その「抵抗勢力」のクーデターに田沼意次はしてやられ、その結果、日本の社会は停滞することになった・・というように考えているらしい。
野村克也が「南海の三悪人」と言って、江本・江夏・門田の3人をあげていたのだが、江本が書いていた文章によると、「南海の三悪人」というのは、「江本・江夏・門田」の3人というのは2代目で、その前に鶴岡が言った「野村・広瀬・杉浦」の初代の「三悪人」というのがあったらしい。野村のじいさんが言う「三悪人」というのは必ずしもけなし言葉ではないようだが、野村のじいさんの本によると、鶴岡はものすごい勝率を残して南海ホークスを何度も優勝させた監督ではあるが、戦中世代の人間だけに、「営巣に入れるぞ」とか軍隊用語がしばしば口に出る人間で、人情主義・精神主義のところがある監督だったそうで、そういう戦前・戦中世代の人だけに「三悪人」といった用語も口に出たのだろう。
大石慎三郎『田沼の時代』(2001.岩波現代文庫)では、かつて、弓削の道鏡・足利尊氏・田沼意次の3人が「日本史上の三悪人」と言われた、と出ているのだが、「日本史上の三悪人」という言葉はどこかで聞いたように思っていたのだが、その3人だったか? と思って、インターネットで検索すると、《ウィキペディアー日本三悪人》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%B8%89%E6%82%AA%E4%BA%BA には、明治から戦前まで「三悪人」と言われたのは、道鏡・平将門・足利尊氏の3人と出ていて、田沼意次のかわりに平将門が入っている。他に、蘇我入鹿とか松永久秀とか明智光秀とか、「三悪人」に入ってそうな人物もいるのだが、「日本三大名泉」も、いわき湯本温泉では有馬温泉・道後温泉と いわき湯本温泉で「日本三大名泉」と言っているが、宮城県出身の人に聞いた話では宮城県の鳴子温泉も似たようなことを言っていたそうで、飛騨の下呂温泉では「道後温泉と草津温泉と下呂温泉」で三大名泉と平安時代の誰やらが言い出して林羅山がそれをとりあげたということから、下呂温泉とあと2つこそ正統だと言っているらしく、その他の温泉を入れる説もあるらしい。 日本三大天神というのは、大阪の人間は、北野天満宮と太宰府天満宮と、もうひとつは、当然、大阪天満宮だと思っているが、他に、北野天満宮・太宰府天満宮と3つめには防府天満宮を入れる説、鎌倉の荏柄天神社を入れる説などあるらしい。「日本三大なんとか」というのは、その3つの選び方には、何種類かのものがあるという場合が多い。 日本三景だけは、宮島・天橋立・松島の3つと固定されているので、私は子供のころ、これは国立公園・国定公園のように国が決めたものかと思っていたのだが、そうではないらしく、「それほど有名人でない昔の誰か」がそう言ったことかららしく、下呂温泉も「日本三大名泉」に下呂温泉が間違いなく入るために、「平安時代のあまり有名人でない誰か」と林羅山を持ち出して、下呂には銅像が立っているという話だが、三大名泉については、下呂温泉が入る説も有力説だが対立説もまたあるようだ。よくわからんのは、いわき湯本温泉は「温泉湧出量日本一」と言っていたのだが、他にも「温泉湧出量日本一」を名のる温泉がどこやらあったように思うのだが、なんか、そのあたりになると、ようわからん。
「日本史上の三悪人」の方は、戦前・戦中までは、
1.天皇に反逆を企てた者。
2.主君を裏切った者。
3.神仏を犯した者。
が選ばれることが多かったようだが、
足利尊氏なんてのは、大覚寺統で南朝の後醍醐天皇こそ正統の天皇で、楠木正成・正行の親子を「大楠公」「小楠公」などと言って、皇居前に銅像があったような気がするのだが、考えてみると、今の天皇というのは持明院統で北朝の天皇の子孫・持明院統の天皇であり、楠木正成のおかげで天皇やっているわけではなく、足利尊氏のおかげで天皇やっているのであり、足利尊氏からすると、それを「悪人」言われたのでは、なんかあほくさいというのか、なんというのか・・。 松永久秀は、東大寺に大仏殿を燃やしたと言われてきたが、実際は、三好三人衆との戦いの中で燃えてしまったのであって、松永久秀が放火したわけでもなく、松永久秀は大仏殿の復興に尽力したとも言われ、主君を裏切ったという話も信憑性が乏しいらしい。明智光秀については、最近、明智光秀の子孫らしい明智憲三郎氏による『本能寺の変 431年目の真実』(文芸社文庫)といった本も出ている。かなり鋭い指摘があるように思うのだが、この本の内容に対する批判もあるようだ。少なくとも、羽柴秀吉は、そんなに忠義の臣ではなかったであろうし、織田信長と長男の織田信忠が討たれた後、織田家の多くの家臣が、三男の織田信孝を後継にしようという柴田勝家ではなく、孫でまだ3歳の織田秀信を後継ぎだということにして実際には羽柴秀吉が実験を握る豊臣政権の方についたということは、織田政権を守ろうという意思はもうなかったということだったのではないか。
本能寺の変 431年目の真実 - 明智 憲三郎
※ 《ウィキペディアー明智憲三郎》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E6%99%BA%E6%86%B2%E4%B8%89%E9%83%8E
「南海の三悪人」については、野村が江本に「ゴロを取りに行くのが遅い」と言ったところ、江本が「足が長いから足が短いやつに比べてゴロをとるのに時間がかかるんや」と言いよったとか、野村が門田に「そんなに、振り回すな。ヒットの延長がホームランだ」と言うと門田は「ホームランの打ちそこないがヒットだ」と言いよったとか・・・、なんか、おもろい(^^♪
「悪人」とか「悪党」というのは、結局、その時代の権力・体制にとって都合が悪い者、反逆者が「悪人」「悪党」と言われたことが多い。 司馬遼太郎『国盗り物語』では、斎藤道三が「無能な領主こそ悪だ」と言い、無能な領主を駆逐してそれよりもいい政治をおこなう者が何が悪いか・・と語る場面があったが、そういう面はあるだろう。駆逐された方が世のためだという社長は日本の会社にけっこういいるかもしれない・・・。「無能な社長こそ悪だ」と言ってやりたいような社長というのは、けっこういるかもしれない。言われなければならないような社長というのは・・、いるよな・・・・。
牧之原市 史料館でもらった「相良城下」というリーフレットには、牧之原市の相良地区、史料館より海に近い場所に大澤寺という寺があって、《本寺は、寛政3年(1789年)の建築。相良城の木材を再利用したと伝えられています。床下に痕跡が残ります。》と書かれている。1789年というと、田沼意次が老中を辞任させられたのが1786年、相良城が没収されたのが1787年で、その2年後。
※ 《ウィキペディアー大澤寺》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%BE%A4%E5%AF%BA_(%E7%89%A7%E4%B9%8B%E5%8E%9F%E5%B8%82)
大澤寺HP https://www.daitakuji.jp/
大澤寺は、真宗大谷派の寺らしい。
インターネットのYouTube で大鐘家の大鐘さんが、相良城を解体して、城の部材をお金に変えたが、大鐘家は、そのうち、石垣の石を買ったと話しておられるが〔《YouTube-国指定重要文化財「大鐘家」》https://www.youtube.com/watch?v=pzodBRonEGI 〕、大澤寺は、相良城の木材を利用してお堂を建築した、ということか。
《ウィキペディアー相良城》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B8%E8%89%AF%E5%9F%8E には、《1782年、御殿と書院を藤枝宿の中心地に位置した円妙山大慶寺(現在の藤枝市藤枝4-2-7)庫裡に移築している。》と出ている。
↑ 大慶寺は、東海道本線・東海道新幹線より北側、藤枝市役所の北西の方にあるようだ。
円妙山 大慶寺 のホームページhttp://enmyozan.org/ を見ると、大慶寺は日蓮宗の寺で、大慶寺HPの「境内散歩」http://enmyozan.org/?page_id=16 を見ると、「客殿」が《 相良城の御殿を移築し約230年が経ちます。主な柱や梁、小屋組は当時のままです。大慶寺に移築した時には、欄間が12枚ありましたが、現在は4枚だけ残っています。》というものらしい。
《 当時の相良城の城主は田沼意次公でしたが、失脚すると直ぐに相良城取りつぶしの命が下りました。しかし、その御殿は贅を尽くした立派なものでしたので、取りつぶさず払い下げとなりました。当時の大慶寺の檀家さん(岡部の庄屋)が、700両で、御殿の一部を買い取り、藤枝に運び再建しました。玄関を入ると、9畳、15畳、12畳、12畳の部屋が続き、その奥に庭(洗心園)が見えます。玄関から奥の庭が直接見える作りは圧巻です。》と出ている・・・が、《その御殿は贅を尽くした立派なものでしたので》ということは、やっぱり、田沼意次は、けっこういい思いをしていたということだったのか?
・・まあ、大大名ではなく小大名だったとはいえ老中であり、水呑み百姓ではなかったのだから、それなりのものだったのかもしれないが、関ケ原の戦いの後、石田三成の居城の佐和山城に東軍の者が行くと、五奉行として威勢をふるっていた者の城だから、さぞかし豪華なしつらえではないかと思って行ったら、ちっともそんなことはなく、戦闘に備えて堅固な城にはなっていたが、贅沢なものはまったくなかった・・という話があるが、それから考えると、やっぱり、《その御殿は贅を尽くした立派なものでしたので》てことは、「賄賂」をもらってたかどうか知らんが、給料高かったんかな・・・て感じがしないでもない・・・。
しかし、たとえ、相良城の御殿が《贅を尽くした立派なもの》であったとしても、田沼意次自身は老中としてほとんどの期間、江戸にいて相良の城に住んでいたわけではなかったようだ。 藤田覚『田沼意次 ご不審を蒙ること身に覚えなし』( ミネルヴァ書房)によると、江戸時においては大名は参勤交代として、江戸と領国とに1年ごとにいたが、老中になっていた者は老中の職務をおこなうために継続的に江戸にいたそうで、田沼意次は記録に残っているのは将軍家治から許しを得て1度、相良を訪ねたことがあり、牧之原市史料館にある田沼意次が相良を眺望する図の年に相良に行ったという記録はないが、その年に訪問していたのならその時と2度、相良に行ったというだけだったらしく、たとえ、相良城の御殿が《贅を尽くした立派なもの》であっても、ほとんど、江戸で過ごした者にはあまり意味のないものだったかもしれない。
田沼意次:御不審を蒙ること、身に覚えなし (ミネルヴァ日本評伝選) - 藤田 覚
相良城は、田沼意次が一から作ったということでもないようで、牧之原市 史料館 でもらった「相良歴史略年表」によると、
975年 相良氏の祖、藤原維兼遠江守となる。
1112年 工藤周頼(姓 藤原)相良氏を称し、頼景まで5代、82年間 相良の庄に住む。
1193年 7代 相良頼景 九州球磨郡多良木に移る。
1198年 8代 相良長頼 九州人吉に移る。
1576年 武田勝頼 相良城を築く。
1710年 本多忠治 初代相良藩主となる。 1万5千石。
1746年 本多忠恕 奥州泉へ移る。
1746年 板倉佐渡守勝清 相良藩主となる。1万石。
1749年 板倉佐渡神勝清 上野国安中へ移る。
1749年 本多長門守忠央 三河国挙母より移る。
1758年 本多忠央・郡上八幡金森頼錦一揆事件で所領没収。
1758年 田沼意次 相良藩主となる。(39歳) 1万石。
・・・という経緯があったらしい。
↑ を見ると、郡上八幡の一揆に際して、本多忠央という徳川譜代の「本多」を名のる大名が相良の所領を没収され、その際、郡上八幡の一揆に対処したのが田沼意次で、本多忠央の所領だった相良をその田沼意次が所領とすることになった・・となると、田沼意次の後ろ盾であった徳川家治が他界したとなると、その田沼の所領を奪い返してやる・・と考える人が出てきた・・としても、考えられないことはないか・・・。
大石慎三郎『田沼意次の時代』(2001.岩波現代文庫)には、
《 しかしこの一揆(郡上八幡の一揆)には前代未聞ともいうべきいま一つの大事件がからんでいる。それは老中以下の幕閣が、金森藩政にからんでいたとして処罰されたことである。以下列挙すると、
老中 本多伯耆守正珍(まさよし)(駿州田中4万石) 役儀取上げ、逼塞。
若年寄 本多長門守忠央(遠州相良1万5千石) 領地没収、作州津山松平越後守へ永預け。
・・・・
幕閣の中で一番処分がきつかったのが、若年寄の本多忠央で、彼はこの事件で領地1万5千石を没収されている。そしてそのあとをもらったのが、この年(宝暦8年)8月、1万石に加増されたうえ、評定所に出座することを命じられていた田沼意次である。この忠央は将軍世子 家治のいる西の丸の若年寄であるから、当然のこととして2年後に来る10代将軍家治時代には老中として重きをなしたはずで、この失脚の意味は大きい。もし忠央がこの時失脚しなかったら、あるいは田沼意次の出番はなかったかもしれないのである。
そのうえ政策史的にいえば、この一揆は直接税増徴派幕閣を一気に追放してしまったので、幕初以来続いてきた幕府の直接税増徴型政策がここで頓挫し、田沼意次をリーダーとする間接税派の登場の契機ともなっている。》
と出ており、田沼意次の前の相良の領主 本多忠央 は郡上一揆に関して老中を罷免されただけでなく、領地没収にされ、かわりに相良の領主になったのが田沼意次であった・・というあたりが、田沼意次が、晩年、老中を辞任させられただけでなく、相良領を没収されたことにもつながったか・・。
《ウィキペディアー郡上一揆》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%83%A1%E4%B8%8A%E4%B8%80%E6%8F%86 には、
《 郡上藩絡みの箱訴が繰り返される中、将軍家重はこれらの事件の背後に幕府要人の関与があるのではないかとの疑いを抱く。もともと郡上一揆に関する駕籠訴における吟味でも、郡上藩の年貢徴収法改正に幕府役人である美濃郡代が介入したことに関して幕府勘定奉行の大橋親義らの関与が疑われており、大橋はもみ消し工作に奔走していた。そして駕籠訴の吟味が中断状態になった後も、大橋は勘定所内の吟味で事情聴取を受け、箱訴受理後の宝暦8年(1758年)5月、7月と更なる尋問を受けていた。また将軍直属の御庭番からも郡上一揆における幕府要人関与の情報が上げられていたとも推察される。情報を把握した家重は、郡上一揆に幕府要人の関与があったとの確証を抱くに至った。将軍の疑いはこれまでなかなか進まなかった郡上一揆の裁判を徹底審理する方向へと導いた。・・・
幕府の中で評定所御詮議懸りによる吟味の指揮を取ったのが、勝手掛老中首座の堀田正亮、老中酒井忠寄、そして御用取次であった田沼意次であった。田沼は御詮議懸りメンバーの依田正次に対し、この事件は将軍のお疑いがかかっているので、勘定奉行大橋親義、寺社奉行本多忠央が関与しているからといって、少しも手加減する必要は無いと申し渡した。・・》
とある。このあたりを見ると、徳川家重は疾患があって言語不明瞭だったとしても、だからといって「暗君」ではないじゃないか・・とも思えるが、若年寄を更迭したとなると、更迭された側の恨みは更迭した将軍家に向けることができないとなると、将軍の指示を伝えた御用取次に向かったとしても、ありそうなことではある・・・。本多 忠央は《ウィキペディアー本多忠央》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E5%A4%9A%E5%BF%A0%E5%A4%AE によると「ほんだ ただなか」と読むそうで、ウィキペディアで先祖をたどっていくと、徳川家康の重臣 本多忠勝にたどりつく。そういう大名が更迭されたとなり、親藩でも歴代の譜代大名でもない者で、将軍のそばにいて指示を出していた田沼意次というのは、親藩・譜代大名にとって脅威であり、憎しみの的になった・・ということはありそうな感じはする・・・。 真面目に努力する一般入社社員を、一族と銀行系とでよってたかって苛めまくる・・なんて会社もありますしね・・。
栃木県安蘇郡田沼町は、「平成の大合併」の際に、北隣の安蘇郡葛生町とともに佐野市と合併して、佐野市の一部分になったが、「田沼意次ゆかりの地」と言って、「道の駅 どまんなか田沼」https://domannaka.co.jp/ では、田沼意次らしき殿さんのキーホルダーとか売っていたのだが、田沼意次 自身は栃木県の田沼町の生まれでもなければ、田沼町を領有した殿さんでもなかったわけで、田沼意次の息子の田沼意知が佐野政言に刺殺された際に、佐野政言が「身に覚えがあろう」と叫んで刺したということだが、その「身に覚え」とは何か・・という点についても諸説あるらしい。その1つの説として、佐野家の家系図を田沼が借りて返さなかった、というものがあるらしく、足利市の支流の佐野市の支流の田沼氏・・と田沼意次の父親の田沼意行と、どうつながるのか・・、そのあたりについてが、その家系図を返さなかったという件と関係あるのかないのか・・・。栃木県佐野市の田沼地区とは、どうつながるのか、つながらないのか。
大石慎三郎『田沼意次の時代』(2001.6.15.岩波現代文庫)には、
《 田沼意次を生んだ田沼氏は『寛政重修諸家普』によると藤原氏の流れをくむ佐野成敏の後裔だという。田沼という姓を用いるようになったのは、その成俊から六代目の重綱が下野国安蘇郡田沼邑に住んでからということになっている。もっともこのあたりのことは、のち意次の子供の意知(おきとも)が佐野善左衛門という新御番組の旗本に殿中で切りつけられ、それがもとで死亡、その原因の一つが佐野家の系図を借りて返さなかったからである、という話が残っているので、かならずしも正確でないのかもしれない。
ともかく関東の一小族で、戦国期には上杉氏、またそれと敵対する武田氏につくなど、不安定な動向をくりかえしながら、結局武田氏の家来に落ち着く。しかしこの武田氏が天正10(1582)年勝頼の時に亡んだので、しばらく信州などを放浪し、どんなきっかけかわからないが紀州徳川家の初代頼宜に仕えるようになる。次右衛門吉次のときである。以後 次右衛門吉重・同義房と続き、義房のとき病気で勤めができなくなって和歌山城下に退いている。身分は足軽小者のたぐいであったと考えられる。意次の父 意行(もとゆき)はこの義房の子供であり、叔父の田代七右衛門高近に養われて、当時紀州藩主であった吉宗に仕え、享保元(1716)年 吉宗が将軍になって江戸城に入るとき、その供の一員に加えられる。
田沼家の当主で事跡が明らかになるのはこの意行からであるが、彼はかなりの人材であったらしく、江戸城に入るとすぐ吉宗の御小姓となり、米300俵の給与をもらっている。そして享保9年に従五位下主殿頭(とのものかみ)に叙任し、同18年には加増されて600石の知行取となり、翌19年には御小納戸(こなんど)頭取になっている。こんなことから意行は誠実で気くばりよく、かつ財務能力にすぐれた人物だったろうと推測できる。
田沼意次はこの意行の長男として、享保4年江戸で産まれている。場所は父 意行が当時御小姓であるから、江戸城のどこかにある御長屋だったろうと考えられる。享保17年将軍吉宗に拝謁、同19年世子家重づきの御小姓となる。彼16歳のときである。・・・》
(1) 田沼氏が佐野氏の後裔で重綱が安蘇郡田沼邑に住んでからという話があって、かつては、佐野市の北隣が田沼町、今は田沼町も佐野市の一部分になったが、その地域の氏族だったらしいこと、
(2) 田沼意行の先祖が紀州徳川家に足軽小者の類で使えていた。
(3) 田沼意次の父の意行が徳川吉宗が将軍になる時に江戸に行き、徳川吉宗の御小姓になり、600石の知行取になった。意次は江戸で産まれた。
・・・というあたりは確かそうだが、(1)から(2)の間は必ずしも明瞭ではないようで、佐野善左衛門が何を恨みに思ったのかは今もはっきりしないらしいが、系図に関係あるとすると、(1)の部分もそう確かではないのかもしれない。まあ、大名の系図なんて、そう確かでない場合が多いから、田沼家に限ったことではないかもしれないが。
牧之原市 史料館は、市役所相良庁舎のすぐ隣にあって、それほど大規模ではなく、市がやってるし、なんとなく、無料っぽい感じで、無料だろうと思いこんで入ったら、実は有料だった。大人210円らしい。 有料でもいいけれども、有料なら有料で、もうちょっと、有料だとわかりやすく表示してほしいと思う。
※ 牧之原市史料館 https://www.its-mo.com/detail/DIDX_ZPOI-00000000000001714312/
(2020.10.7.)
☆ 大鐘家と相良城跡(静岡県牧之原市)
(1)田沼意次の城下町相良の牧之原市片浜にある大鐘家住宅 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202009article_7.html
(2)井桁に組んだ梁・千木の載る長屋門・酔芙蓉。なぜ川勝平太は事故を起こした原子力発電を製造した会社の責任を問わずに、放射線量検査の方を拒否するのか https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202010article_1.html
(3)地形に合わせた建物の配置。「母屋」「上屋」と「庇」「下屋」。表側の庭と裏側の「小堀遠州庭園」https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202010article_2.html
(4)床の間と床脇。床柱と長押の位置関係。遠州流を他の地域の人に押しつける(株)一条工務店。会社のために協力する従業員を罠にかける(株)一条工務店 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202010article_3.html
(5)神棚の造りについて。その地域のやり方を無視する(株)一条工務店の営業。会社のルールを無視する営業本部長 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202010article_4.html
(6)土蔵・資料館。大鐘家の裏の丘からの眺望。相良城跡と田沼意次。〔今回〕
☆ 加茂荘花鳥園・加茂邸(掛川市)見学
1.「森掛川」I.C.より加茂荘花鳥園。温室と鳥舎。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202006article_2.html
2.花菖蒲園と長屋門。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202006article_3.html
3.加茂家住宅(1) 正玄関、土間、大黒柱・梁、庭の池と亀島と花。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202006article_4.html
4.加茂家住宅(2) 座敷、広縁・濡れ縁、廊下交差箇所の納まり、差鴨居。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202007article_1.html
5.加茂家住宅(3) 床の間 2か所。一般の柱と同材同寸法の床柱と長押の関係。床の手前の横の位置の付書院。きれいな襖絵。
6.加茂家住宅(4) 加茂家住宅の神棚は「竈の神さま」なのか。「浜松流神棚」を他地域に押しつける一条の営業。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202007article_3.html
7.加茂家住宅(5) 窓の格子。「理由のある」桟の作りと「理由のない」作り。味噌蔵・米蔵。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202007article_4.html
☆ 東京都 狛江市立古民家園
上 旧荒井家住宅主屋 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201509article_1.html
下 旧高木家住宅長屋門 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201509article_2.html
☆ 旧近藤家 長屋門(東葉学園 東葉門 )(千葉県船橋市)https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201907article_3.html
☆ 旧安西家住宅(千葉県木更津市)https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202009article_5.html
大鐘家見学の6回目です。
※ 大鐘家HP http://www3.tokai.or.jp/oganeke/
主屋の後ろに、小ぶりの土蔵が2つ、並んでいて、右側が資料館として公開されています。↓
今回は、時間があまりなかったので、それほど、じっくりと見学できなかったのですが、気づいたものとして、田沼意次から大鐘家に贈られた酒杯というのがあったのですが、田沼意次というと「賄賂を取った悪徳政治家」みたいに言われてきたのですが、最近は、その評価は少々変わってきたようなのですが、田沼意次の方が贈ったものというものもあったんだ・・・と思ったのです。
この後、牧之原市相良の牧之原市役所相良庁舎(元 相良町役場?)とその隣の牧之原市史料館など、相良城跡に行ってみたのですが、史料館に、田沼意次は「賄賂を取った政治家」のように言われてきたが、それは反田沼派の悪口であって、実際には、その時代の他の政治家と比べて特にそういうものが多かったということはなかったのではないか、と出ていたのです。但し、まったく何も受け取ることはなかったかというと、特別にものすごい清廉潔白な人ということではなく、「お歳暮程度のもの」なら受け取ったことはあるのではないか、とも出ていた。考えてみると、「賄賂」なのかどうか、という判断というのは、これはなかなか難しい。 「お歳暮程度のもの」というのは「賄賂」なのか?
そもそも、「袖の下」なんて言葉がありますが、「袖の下」というのは、袖の下でこそっと渡すから「袖の下」と言うのであって、明確に、これこれの物を渡しますから、かわりに何じゃらの利権を渡してもらいますという契約書・・なんて普通はないわけです。 人が病気になった時に、お見舞いに行って、その際に何か持って行ったとしたら、それは「賄賂」なのか? 人に何かめでたいことがあって、「お祝い」に何か送ったら「賄賂」なのか?
もし、何か、贈られたとして、もらいっぱなしの人もあるかもしれないが、もらった側もまた、「お返し」をする場合があると思うのですが、「お返し」をすれば、「お互い様」なのか、「お返し」した方も「賄賂」なのか?
宅地建物取引業法では、宅地建物取引業者が受け取っていい報酬というものの最高限度が規定されているのですが、それを上回って受け取ると宅建業法違反になるはずです。実際には、「特別広告費」とかなんかそういう名目で受け取っているみたいですけれどもね。 「業者」が受け取るものと別に営業担当者が受け取ったとしても、その営業担当者が宅地建物取引業者の経営者自身である場合も、雇われ人である場合も、やはり、宅建業法違反になるでしょう・・けれども、その営業さんが大変良くやってくれたと思って、ほんのわずかの「お礼」をしたとすると、それも違法なのか? 「ほんのわずか」ならいいではないか・・とすると、「ほんのわずか」というのはどの程度までなのか? 暑いさなかに案内してくれたからと思って、清涼飲料水の自動販売機で缶コーヒーを買って、「営業さん、どうぞ」と渡したら、缶コーヒーの分だけ宅地建物取引業法違反なのか? ・・普通、そこまでは言わないと思うのですが、それなら、どこからが違法になるのか?
同様に、老中が他の大名からか、それ以外の誰かから贈り物をもらったとして、どこからが「賄賂」なのか? もし、何か助けてもらった者が「お礼」をしたなら「賄賂」か? それこそ、『剣客商売』では、「老中の田沼様」に、田沼意次の娘を嫁にした秋山大二郎が悪者をやっつけるために力を貸してもらうなんて場面があったと思うのですが、「田沼様、ありがとうございます」・・と何かお礼をしたなら「賄賂」なのか? ・・と考えると、これはなかなか難しい。
大鐘家住宅の土蔵(資料館)の右手を少し登っていくと、左手に稲荷社があり、さらに少し登ると右手に海が見えます。↓
ここで見える海は駿河湾。 御前崎から西は南方に遠州灘が見えますが、ここは御前崎より東で、大鐘家住宅からは東南東の方角に駿河湾の海が見えます。
(その時の天候により)富士山が見える時がある・・と書かれていたのですが、残念ながら私が訪問した時は富士山は見えませんでした。
インターネットのYouTube に、大鐘家住宅 の石垣について、大鐘さんが述べているものが出ていました。
《YouTube-国指定重要文化財「大鐘家」》https://www.youtube.com/watch?v=pzodBRonEGI
田沼意次が失脚した時に相良城を解体して売ったものがあり、その際に、大鐘家は石垣の石を買い、それが大鐘家の石垣になった、ということですが、帰宅後に↑のYouTubeを見ましたが、訪問時、それがどれかはわかりませんでした。
相良城跡というのは、今は、牧之原市役所相良庁舎・牧之原市史料館・相良小学校・相良中学校・相良高校が建っている地域らしい。
↑ マーカーの位置が 牧之原市 史料館
↑ 牧之原市役所 相良庁舎。
↑ 牧之原市 史料館
※ 牧之原市観光案内 牧之原市史料館 https://msckc.jp/kankou/contents/miru_shiru/history/hist04_shiryoukan.html
ハローナビしずおか 牧之原市史料館 http://hellonavi.jp/detail/page/detail/2667
牧之原市移住定住サイト 牧之原市史料館 https://www.city.makinohara.shizuoka.jp/site/makinohara-life/1583.html
※ 《ウィキペディアー相良城》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B8%E8%89%AF%E5%9F%8E
牧之原市役所 相良庁舎 の左に 牧之原市 史料館 があり、その後ろに、相良中学校、牧之原市 史料館の左に 相良小学校があり、相良小学校のさらに左に相良高校があります。 だいたい、このあたりが、かつての相良城だった所のようです。
《ウィキペディアー相良城》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B8%E8%89%AF%E5%9F%8E によると、
本丸跡・・・牧之原市役所相良庁舎、牧之原市史料館、
二の丸跡・・・牧之原市立相良小学校、
三の丸跡・・・静岡県立相良高校
・・がある場所のようです。 ・・となると、市立相良中学校の所はどうなんだ? ・・というと、牧之原市 史料館でもらった「遠州相良藩主 田沼意次候 相良城下」というリーフレット を見ると、相良高校のあたりも含めて相良城だったようです。
牧之原市役所 相良庁舎 と 牧之原市 史料館 との間の位置に、
↑ 「相良城址」と書かれた石碑 が立っています。 後ろは市立相良中学校のようです。
牧之原市 資料館 でもらった「意次通信」第10号 2020.5.11.(田沼意次候生誕300年記念事業実行委員会 発行)によると、この石碑の右隣に、田沼意次の銅像を建てようという計画があって、目標額1000万円で募集をして、今、470万円まで集まったらしい。
↑ の石碑の文字だが、ありきたりの字体よりは、多少、威厳のある文字にした方がということでこうなったのかと思うが、私はなんとか「相良城址」という字だろうと推測できたが、人によっては読めない人もいるのではないかと思う。こういう石碑を設けるにおいては、長い年月を経てもなお読めるようにと考えると、誰もが読める字体にしておいた方が良かったのではないか、とは思うが、とりあえず、今は私は読める。
この石碑の左に 牧之原市 史料館 があるのですが、史料館の入口の左側に ↓
↑ 「相良城 本丸跡」と書かれた石碑 が立っています。
相良小学校の前に、相良城 の 二の丸の土塁だったというものと、二の丸の土塁に生えていたという松が残っています。
↑ 相良小学校に向かって右側。
↑ 相良小学校に向かって左側。
土塁がかと思ったら、土塁ではなく、「相良城二の丸土塁のマツ」が 牧之原市指定 天然記念物 に指定されているらしい。
《このクロマツは二の丸の土塁にあり、数少ない相良城の歴史的遺産として、貴重な天然記念物です。》と現地の説明書きに書かれている・・が、この書き方だと、「史跡」として貴重なのか、この松がこの場所の植物として貴重なのか、どちらなのかよくわからない表現ではある。
インターネットでの相良城について書かれたものを行く前に見たところ、相良城のもので残っているのは、この土塁くらい・・と出ていたのを見たのですが、牧之原市 史料館 でもらった「相良城下」というリーフレットによると、相良城の近くを流れて駿河湾に注ぐ 荻間川 という川に「仙台河岸」と言って、《 相良城の石垣が残る場所 》があるらしい。 《仙台藩主の伊達家が石を寄進したと伝えられ、名称の由来になっています。》と書かれている。
井上 清『日本の歴史 中』(1965.10.23.岩波新書)には、
《 幕府では、吉宗の没後(1751年)、体質的に欠陥のある暗愚の将軍が二代つづき、その間に側用人の田沼意次がしだいに実験をにぎり、1772年老中となった。田沼は、江戸・大阪の豪商の出費で、下総の手賀沼・印旛沼の大干拓に着手したり(失敗)、つぎつぎに新しい株仲間を公認して、それから税金をとり、御用商人の「座」や「会所」をつくって、それに銅・鉄・みょうばん・石灰・硫黄などの鉱産および人蔘などの薬種の開発と売買を独占させ、これから税をとるなど、もっぱら商業資本とむすびついて幕府の収入をふやそうとした。田沼はまた、清国(しんこく)向けのこんぶ・干しあわびなどの採取から輸出まで幕府で独占し、北海道でロシアと貿易して、その利益で北海道を開発しようとした。
これらの政策は、当然、御用商人になれない一般商人および生産者とのはげしい対立をひきおこした。またこの間に幕府役人と商人との間の賄賂が横行したが、田沼は、生命のつぎに大切な金銀を贈ってくるのは、忠義の志が深いしょうこであると、うそぶいた。これも幕府内外の非難のまととなった。やがて天明の大飢饉、全国的な民衆蜂起となり、衆怨は田沼に集中し、1786年、彼をかばった将軍家治が瀕死の床につくやいなや、田沼は政権から追放された。
その後に、少年の新将軍家斉(いえなり)のもとで、松平定信を中心とする老中の合議政治がおこなわれた。その施政を当時の年号により「寛政の改革」という。それは田沼の政治とは正反対に、できるだけ商品経済をおさえて、自然経済にもどそうとするものであった。具体的には、株仲間の整理、商品作物栽培の制限、農民離村の禁止等である。寛政改革の他の一面は、例の如き倹約、風紀とりしまり、文芸・学問・思想の統制の強化である。このとき朱子学が「正学」とされ、他の儒学はは異学として幕府学問所で教授するのを禁止された。
・・・・
幕府にせよ諸藩にせよ、商品経済をおさえようとする努力が、この時代に成功するはずもない。しかも江戸・大阪や城下町の商人については、その上層を特権ギルド化することで統制し、領主と商人が利益を分けあうことも、あるていどはできたが、田沼時代にはすでに、そうした統制をこえる在郷商人と農村手工業の成長があった。たとえば田沼政権は1781年に、武蔵・上野二国の絹織物および絹綿(きぬわた)の「貫目改所(かんめあらためしょ)」をもうけたのにたいして、二国の「百姓製造方」がいっせいに反対し、ついにそれを廃止させた。・・・
・・・
経済構造には、いまや単純な商品生産から資本主義生産への新しい質的な変化の萌芽があらわれてきた。その第一は・・・
・・
第三に、海外貿易への要求がおこった。田沼政権は、北海道でロシア船との官営貿易をくわだてたが、民間商人はすでにロシア船との密貿易をしていた。淡路出身の海運業者高田屋嘉兵衛(1769―1827)は、18世紀末、19世紀はじめに、北海道・南千島の漁場を開拓し、また内地物産を北海道に送って巨富をつくったが、彼はまた密貿易業者でもあったらしい。嘉兵衛よりすこし後の加賀の銭屋(ぜにや)五兵衛(1773-1852年)も、北海道と本州との商業・海運で財産をつくったが、北海道・樺太で密貿易もした。密貿易の金額は少なくても、あえて酷寒凛冽の北海に進出し、怒涛と濃霧の海上で、幕府の大禁を犯して外国船と取引きする、こういう冒険的進取的精神を、日本の商人たちが再びうみだしたことは、鎖国が内から破られる前兆である。また九州南方の海上でも、中国船との密貿易がおこなわれたらしい。 》
といったように出ている。
ちなみに、この井上清『日本の歴史 上・中・下』(岩波新書)という3分冊の本は、読みやすくて、一通りの日本史を理解できる本だが、1970年代後半、「受験の日本史」(聖文社)に、「日本史学習と大学受験のために読んでおくべき本」として掲載されていたので、私は読まなきゃいかんもんかと思って高校3年の初めの時期に読んだものだが、最近、柴田孝之が『東京大学機械的合格法』(実業之日本社)で「読む必要のない本」に指定して、そのおかげでかどうかわからんが、長らく出版されてきて新刊で手に入った本だが、最近では、アマゾンで見ても、中古書では手に入るが新刊はなくなったらしい。「受験の日本史」が読むべきだと言えば、読まなきゃと考え、柴田孝之が『東京大学機械的合格法』で読む必要がないと言えば、要らないと考えるというのでは、なんか主体性がないというのか、ひとが何と言おうが、自分が必要がと思えば必要で、要らんと思えば要らんのであり、柴田孝之も「たとえ、多くの人間が読んでいる本でも、多くの人間がとっている学習法でも、自分が要らないと思えば要らないと判断する勇気を持つべきで、自分自身の判断であえて少数派になる勇気を持てないような人間は東大とか司法試験といった難関試験に通る必要はない」と述べていたが、たしかにそうだと私も思う。
日本の歴史〈中〉 (岩波新書) - 清, 井上
井上清『日本の歴史 中』で、《 吉宗の没後(1751年)、体質的に欠陥のある暗愚の将軍が二代つづき、》と表現されているのは、9代の徳川家重と10代の徳川家治のことだが、9代の徳川家重については、《ウィキペディアー徳川家重》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E9%87%8D には、
《 (徳川家重は)父・吉宗が将軍に就任することになると、同時に江戸城に入り、享保10年(1725年)に元服、それまでの徳川将軍家の慣例に倣い、通字の「家」の字を取って家重と名乗る。生来虚弱の上、障害により言語が不明瞭であったため、幼少から大奥に籠りがちで酒色にふけって健康を害した。享保16年12月(1731年)、比宮増子と結婚した。
発話の難に加え、猿楽(能)を好んで文武を怠ったため、文武に長けた次弟の宗武と比べて将軍の継嗣として不適格と見られることも多く、父・吉宗や幕閣を散々悩ませたとされる。このため、一時は老中首座(勝手掛老中)の松平乗邑によって廃嫡および宗武の擁立をされかかったことがある。吉宗は家重を選び、延享2年(1745年)に吉宗は隠居して大御所となり、家重は将軍職を譲られて第9代将軍に就任した。しかし宝暦元年(1751年)までは吉宗が大御所として実権を握り続けた。家重の将軍職継承は、才能云々で次男などに家督を渡すことが相続における長幼の順を乱すことになり、この規律を守らないと兄弟や徳川御三家などの親族さらに派閥家臣らによる後継者争いが権力の乱れを産む、と吉宗が考えたとされる。吉宗自身が徳川本家外から来た人間であり、将軍としての血統の正統性が確実ではなかったため、才覚云々ではなく「現将軍の最長子が相続者」というルールを自らが示し守らねばならなかったこと、吉宗自身が将軍後継争いの当事者であったことが背景にある。またこれとは別に、家重の長男・家治が父とは逆に非常に聡明であったこと、つまり次世代に期待ができると判断されたことも背景にあったと言われている。》
《 ・・・郡上一揆では、家重は真相の徹底究明を指示し、田沼意次が評定所の吟味に参加し、老中、若年寄、大目付、勘定奉行らが処罰され、郡上藩と相良藩2藩が改易となった。百姓一揆で幕府上層部にまで処罰が及んだ例は郡上一揆が唯一である。・・・》
《 ただ、健康を害した後の家重はますます言語不明瞭が進み、側近の大岡忠光のみが聞き分けることができたため彼を重用し、側用人制度を復活させた。田沼意次が大名に取り立てられたのも家重の時代である。重用された大岡忠光はしかし、権勢に奢って失政・暴政を行うことはなかったと言われる。宝暦10年4月26日(1760年6月9日)に忠光が死ぬと、家重は5月13日(6月25日)に長男・家治に将軍職を譲って大御所と称した。》
《 宝暦11年(1761年)6月12日、田沼意次の重用を家治に遺言し、死去した。数え年51歳であった。》
ということだが、
《 大岡忠光や田沼意次のような優秀な幕臣を見出して重用していたり、勘定吟味役を充実させたりしていることから、井沢元彦は「人事能力は優れている」「隠れた名君である」と評し、『徳川実紀』の評価を、障害ゆえに知性も低いという偏見、あるいは抜擢した意次の低評価によるものとしている。また甲斐素直も、障害があっても頭脳は怜悧で強力なリーダーシップで政治実権を握った将軍であり、綱吉同様、幕閣に不人気だったために低評価になったとの見方をしている。》
とも書かれている。
10代の徳川家治は、《ウィキペディアー徳川家治》 には、
《 (徳川家治は)父(徳川家重)の遺言に従い、田沼意次を側用人に重用し、老中・松平武元らと共に政治に励んだ。しかし松平武元が死亡すると、田沼を老中に任命し幕政を任せ、次第に自らは将棋などの趣味に没頭することが多くなった。
田沼は印旛沼・手賀沼干拓を実施し、蝦夷地開発や対ロシア貿易を計画する。安永8年(1779年)、家治の世子・徳川家基が18歳で急死したため、天明元年(1781年)に一橋家当主・徳川治済の長男・豊千代(後の第11代将軍・徳川家斉)を自分の養子とした。
天明6年(1786年)8月25日に死亡。享年50。死因は脚気衝心(脚気による心不全)と推定されている。
高貴な人の死は1ヶ月ほど秘されるのが通例(発葬されたのは9月8日・新暦9月29日)だが、その間に反田沼派の策謀により田沼意次が失脚。また、意次が薦めた医師(日向陶庵・若林敬順)の薬を飲んだ後に家治が危篤に陥ったため、田沼が毒を盛ったのではないかという噂が流れた。》
《 ・・・一方、「田沼意次を重用した事自体が英断である」として、高く評価する意見もある。意次が大胆な重商主義政策を推進し得たのも家治の後援あってのことであり、前述の通り家治の死によって田沼は失脚する。暗君という評価は田沼に対する悪評価とワンセットのものであり、その田沼に対する評価が大幅に改められた現在においても、家治に対する評価はまだまだ過去の暗君説を引き継いでいるのが現状である。》
《 祖父・吉宗から特に寵愛された孫であった。吉宗は家重のことは諦める代わりに、家治に期待を寄せ、自ら帝王学や武術などを教え込んだという。さらに家治に付けた小姓などにも自ら養育を施し、後継者体制を万全なものにしたという。・・》
と出ている。 9代 徳川家重は、体に障害があって言語が不明瞭であったらしいが、障害があって言語が不明瞭であったとしても、だから、それ以外も無能と決まったわけでもなく、徳川家重は田沼意次を重用し、家治に田沼意次を重用するよう遺言を残したらしく、田沼意次を老中にして後ろ盾になった10代徳川家治の暗君説とともに、どうも、この2人の「暗君説」は、「田沼意次=悪人」説とセットになっているところがあるようだ。
11代の家斉はというと、《ウィキペディアー徳川家斉》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E6%96%89 には、
《 (徳川家斉は)将軍に就任すると、家治時代に権勢を振るった田沼意次を罷免し、代わって徳川御三家から推挙された、陸奥白河藩主で名君の誉れ高かった松平定信を老中首座に任命した。これは家斉が若年のため、家斉と共に第11代将軍に目されていた定信を御三家が立てて、家斉が成長するまでの代繋ぎにしようとしたのである。・・》
と出ており、14歳で将軍になった頃は、老中になった松平定信らにより田沼意次を老中から罷免したが、
《 寛政5年(1793年)7月、家斉は父・治済と協力して定信を罷免し、寛政の改革は終わった。ただし、松平定信の失脚はただちに幕政が根本から転換したことを示すわけではない。・・》
《 天保8年(1837年)4月、次男・家慶に将軍職を譲っても幕政の実権は握り続けた(大御所時代)。最晩年は老中の間部詮勝や堀田正睦、田沼意正(意次の四男)を重用している。》
とあり、将軍になった少年時代には田沼意次を罷免したが、最晩年には、田沼意次の4男の田沼意正を「重用」したらしい。
田沼意次が「賄賂」を取った政治家だったと言われてきたのですが、実際には、その時代の他の政治家と比較して、特に田沼意次が他の政治家よりもひどかったというようなことはなかったのではないか、と最近では見られるようになってきたらしい。 大石慎三郎『田沼意次の時代』(2001.6.15.岩波現代文庫 )の「はじめに」に、
《 彼は大変賄賂を好み、賄賂によって政治を左右する腐敗した日本史上最悪の政治家として描かれ続けた。そしてどの日本史の教科書にも、それを風刺する図柄として辻 善之助 著『田沼時代』所収の「まいない鳥」「まいないつぶれ」の図が、のせられ続けたものである(大正4年、日本学術普及会刊『田沼時代』17頁、岩波文庫『田沼時代』24頁。・・)「まいない鳥」の図には、「この鳥 金花山に巣を喰う、名をまいない鳥という、常に金銀を喰う事をおびただし、恵少なき時は、けんもほろろにして寄つかず、但しこの鳥駕籠は腰黒なり」という説明がついており、「まいないつぶれ」の図には、「この虫 常は丸之内にはい廻る。皆人銭だせ、金だせまいないつぶれという」とある。
もちろん私自身も、戦前戦後にかけて日本歴史の教育を受けたものであるが、大学を卒業して研究者の生活をはじめてからも、田沼意次は賄賂好きの腐敗した政治家として教えられ、またそのような記事を読み続け、同時に「まいない鳥」「まいないつぶれ」の図を見てきた。そのうちに奇妙なことがあるのに気がついた。「まいないつぶれ」が背中にしょっている、丸に十の紋所である。「丸に十の字」といえば誰知らぬ者もない九州島津氏の紋所であり、田沼の紋所は「七曜」の紋所である。これはおかしい、ひとつ調べてみる必要があるのではなかろうか。
こんなことを思いついたのが、たしか昭和三十年代の中頃であったが、・・・・》
と書かれており、どうも、田沼意次が「賄賂をとった悪徳政治家」という評価については、それを示す資料はかなり疑わしいものが多いらしい。但し、牧之原市 史料館でも出ていたのだが、「お歳暮程度のもの」も受け取ったことはないのか、ということになると、そこまで特別にものすごい清廉潔白な人だったということでもなく、人並みに受け取ることはあったのではないかと言われるが、少なくとも、その時代の他の人間と比べて特に賄賂を多く取ったというようなことはなかったらしい。
田沼意次の時代 (岩波現代文庫―学術) - 大石 慎三郎
・・しかし、仙台の伊達藩から相良城の石垣の石を寄進されているではないか・・というと、これはどう考えたものか。 何かを受け取ったからといって、直ちに「賄賂」と決まったわけでもないと思う。 各大名は生き抜くために、孤立せず友好関係を持ちたいと考えて、他の大名とのつきあっていくわけで、伊達藩としても、側用人から老中になった田沼意次と友好的な関係を保ちたいと考えて、田沼意次が相良に城を築くように命じられた際に、石を寄進することで友好的関係を築きたいと考えた・・としてもそうおかしなことではないかもしれないし、田沼意次が「もらいっぱなし」ではなく、田沼意次の方から他の大名に何かを贈るということもあったかもしれない・・が、それは「賄賂」なのか? どういうものを「賄賂」と言うのか、なかなか難しい。
日光東照宮の奥の院が徳川家康の墓所になっているが、そこに至る石段の石というのは、見事な一枚ものが使われているのだが、全国から調達されたのであろうし、又、京都の高台寺の前の圓徳院だったか、庭を作る時の石を、全国の大名が豊臣秀吉に寄進した・・という話を聞いたように思う。もしも、寄進を受けたのが徳川家康とか豊臣秀吉とかであったなら、別にどうということはない、全国の大名が寄進していたわけだ。 もしくは、江戸時代において、徳川御三家か、そうでなくても、徳川四天王と言われる井伊・本多・榊原・酒井といった家の者が老中になっていて、屋敷を造営する際に寄進を受けた・・ということなら、別段、どうということはなかったかもしれないが、田沼意次は、父親の田沼意行は紀州徳川家の鉄砲足軽だったのが、徳川吉宗が8代将軍になる時に連れていって600石の旗本になったという者で、その息子の田沼意次は9代将軍の家重の小姓になり、10代将軍の家治の側用人から老中になったという破格の出世をした者であったから、かつ、片方で老中といえども、『剣客商売』のテレビで藤田まこと が演ずる秋山小兵衛 が「公方様の次にえらい人だ」と語っているけれども、「公方様の次」であるのは「老中」という役職のことであって、老中でなくなったならば、最大でも5万7千石の小大名でしかなかったわけだ。司馬遼太郎の『関ケ原』では、石田三成は五奉行筆頭とはいえ小大名でしかなく・・という話が出ているが、石田三成にしても近江佐和山は20万石ほどあったはずで、石田三成が小大名というのはあくまでも五大老筆頭の徳川家康と比較しての話であって、それでも、五奉行として指揮していた際には反感を買ったという話になっているが、田沼意次の場合は、『剣客商売』のドラマでは秋山小兵衛役の藤田まこと が田沼意次を「公方様の次にえらい人だ」と言うものの、公方様の徳川家治は将軍でなくなっても徳川家の徳川家治だが、田沼意次は老中でなくなれば5万7千石の小大名でしかなく、親藩でもなく古くからの譜代大名でもなければ外様の大大名でもない、出自は600石の旗本の息子であった者で、そちらの方は「公方様の次」どころか、ずっとずっと下だったわけで、老中という役職とは極めてアンバランスなもので、老中とはいえ、その点で必ずしも強い立場でもなかったのではないか。だから、もし、親藩か譜代大名の老中が受け取ったのなら、どうってことないものでも、人によっては相当の敵意をもって見られた・・ということがあったのかもしれない。
仙台の伊達家については、大石慎三郎『田沼意次の時代』(2005.岩波現代文庫)によると、田沼意次が賄賂を取った悪徳政治家のように言われた論拠として、『伊達家文書』というものがあるが、伊達重村という人が猟官運動を相当熱心におこなったことが記載されているが、そこに出てくる名前は、老中筆頭の松平武元・側用人の田沼意次・田沼意次の弟で一橋家家老の田沼意誠(おきまさ)・大奥の老女の高岳(たかたけ)の4人で、この文章をよく読むと、
《 松平武元は手入・挨拶を受けることを非常に喜んでいるが、それを世間の目から隠蔽しようと細心の注意を払っているのである。 一方問題の田沼意次は、むしろ清廉で、伊達家で金品を用意して面会を申し込んだところ「御丁寧之御事、態々御出ニも不及候事」、書面で十分だとそれを断っている(同2808・2809号) 》、
《 次に大奥老女高岳であるが、『伊達家文書』によるかぎり、この高岳が一番重村に深入りしているようである。彼女は重村にもちかけて桜田屋敷内に家作を作ってもらっている(同2841号)。前記4人のうち『伊達家文書』によって、伊達家から明らかに金品をもらったことが具体的にわかるのは彼女だけである。》
ということで、伊達重村という人は猟官運動に相当励んだらしいが、田沼意次と弟の意誠が金品を受け取ったという記述はないらしい。
それなら、牧之原市相良の「仙台河岸」は何なんだ?・・・ということになるのだが、
《 では田沼意次は伊達家から賄賂をもらわなかったのであろうか。史料がないのでわからないが、ただ一つ気になることがある。というのは相良の城下町の相良港には、せんだい河岸とよぶ河岸がある。この河岸が仙台伊達家の寄附によるのかどうかということである。せんだいかし と地元で呼んでいるところに、せんだい=伊達ゆかりの地名をつけてよいのかどうか、ここらのことは今まで私が調べたかぎりでは不明である。もしその事実があれば当然何らかの記載があると思われるが『伊達家文書』にはそれがいっさい出てこないところから、「せんだい河岸」の せんだい を伊達氏の仙台と結びつけないほうがよいと私は思っている。》
と出ている。 たしかに、伊達重村の猟官運動で老中の松平武元・側用人の田沼意次・その弟で一橋家家老の意誠・大奥の老女の高岳に働きかけたという話が記載されていて、高岳にはこれこれのものを贈ったと記載されている『伊達文書』に相良の「せんだい河岸」についての記載がない、ということは、相良の「せんだい河岸」の「せんだい」は伊達家の仙台と関係ない可能性が低くなさそうである。『遠州相良藩主 田沼意次候 相良城下』という牧之原市教育委員会 編集・発行のリーフレットでは「仙台河岸」と記載されているが、「仙台河岸」ではなく、ひらがな を使用して「せんだい河岸」という記載にしておいた方がいいのかもしれない。
地名としての「せんだい」は、宮城県の「仙台市」、伊達家の城下町だった「仙台(せんだい)」が一番有名ですが、鹿児島県にも「川内市」、「川内」と書いて「せんだい」と読む市があります。川内(せんだい)原発がある市です。他にも「川内」と書く地名はあり、川の内側につく地名です。大阪府東部はかつては「河内(かわち)の国」で、これは淀川と大和川・石川との間の場所を言ったものですが、東大阪市は何十年か前に布施市・河内市・枚岡市が合併してできた市ですが、この東大阪市中部については、河の内側ではなく、かつては、大和川がこのあたりをいくつもの小河川に分かれて流れていた「川地」の可能性も考えられるのではないかと思います。牧之原市相良の「せんだい河岸」がある場所というのは、見に行っていないのですが地図で見ると荻間川がカーブしている場所で、もう少しで海に出るという場所です。ここで川がカーブしているということは、もしかすると、このあたりで川が二俣に分かれていて、その間に2つに分かれた川の内側の地があった、という可能性としてありそうで、「相良城下」のリーフレットに掲載の「相良城・城下割(作図:松下義和 2019.)」を見ると、このあたりで荻間川から海に注ぐ流れと分かれて相良城の外堀が西に続きます。堀も川のうちと考えると、「せんだい河岸」があるあたりというのは、荻間川と外堀との間にはさまれた「川内」の地形になる場所だった。「川内(かわうち)」は発音しているうちに「かわち」に変化する場合もあるが、音読みにすると「せんだい」であり、鹿児島県の川内市はそちらで、他にも日本全国に「川内」と書く地名があって「せんだい」と読んでいる所があったと思います。地名には喜ばしい文字・美しい文字・格式のある文字をもとからの字に置き換えることがありますが、宮城県の「仙台」は「川内」の「川」を「仙」という喜ばしい字に変えて「内」を「台」にして「仙台」にしたという可能性もあるかもしれない。千葉県稲毛区に「天台(てんだい)」という地名があり、川の近くでもなく、むしろ、台地のような場所だが、「てんだい」と「せんだい」は音が似ており、「台」の字も共通している。「てん台」と「せん台」は、台地・野原のような場所についた地名で「仙台」の「仙」は別の字だったかもしれないが、「川の内側」ではなく「台地」だったということも考えられないことはない。だから、宮城県の「仙台」は「川の内側」の「川内」からきたか別の由来かはわからないが、牧之原市相良の「せんだい河岸」は、海に近い所で荻間川がぐいっと曲がっている場所であり、海に近い場所でぐいっと曲がって別の所で海に注ぐ川というのはけっこうある。海から波で砂が岸に寄せられると、その部分で川が海に注ぐことができず、海に近い場所で曲がって海岸線としばらく平行して流れていくといった川はけっこうある。そのうち、ぐいっと曲がった所で別方向へ流れる流れもできてくる場合もある。荻間川は、今は「せんだい河岸」の所でぐいっと片方に曲がるだけだが、相良城があった時は、そこで他方に外堀が続いていた。その外堀は最初から人工的に造られたのではなく、荻間川が分流した片方を外堀にしたが、相良城が破壊された時に外堀とそれに続き方の川も埋められたが、かつては、荻間川が2方に分かれる所で、その鋭角側の場所が「川の内側」ということで「川内」⇒「せんだい」で「せんだい河岸」と名付けられた・・・という可能性というのは、考えられないことはないようにも思える。
内田康夫『鄙の記憶』を読むと、秋田県大曲市の隣に仙北郡・仙北町といった郡名・町名が出てくる・・が、インターネットで検索すると、大曲市は「平成の大合併」で8市町村が合併して「大仙市」になったらしく、仙北町・西仙北町・中仙町も大仙市になったらしいが、「仙台」の「仙」という字は地名として珍しいかと思ったが、東北地方にはけっこうあるようで、《ウィキペディアー仙北》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%99%E5%8C%97 を見ると、「仙北」という地名は秋田県だけでなく、岩手県・秋田県・宮城県にもあるらしい。仙台の「仙」は川内の「川」が美しい漢字に変わったものかと思ったが、東北地方に「仙」がつく地名がいくつもあるとなると、話は違う。「仙」て何なんだ? 《ウィキペディアー仙北》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%99%E5%8C%97 には、《秋田県の地域名(古文書では「山北」「仙福」「仙乏」との表記もあり)》とあり、「仙北」が「山北」だとすると、仙台の「仙」は川ではなく山の可能性もありそうだ。「川内」で「せんだい」の場合は「川の内側」で、「仙台」の「せんだい」は「山」と「台地」で「山台」で、それににんべんがついて「仙台」か? 宮城県の「仙台」の由来はわからないが、牧之原市の「せんだい河岸」の場所は山でも台地でもないのは間違いなく、川のそばであるから、「川内」で「せんだい」の可能性はありそうに思う。
井上清『日本の歴史 中』(1965.岩波新書)にも、《これらの政策は、当然、御用商人になれない一般商人および生産者とのはげしい対立をひきおこした。またこの間に幕府役人と商人との間の賄賂が横行したが、田沼は、生命のつぎに大切な金銀を贈ってくるのは、忠義の志が深いしょうこであると、うそぶいた。》と出ている部分だが、大石慎三郎『田沼意次の時代』(2005.岩波現代文庫)では、
《 つぎに『江都見聞集』であるが、これは「金銀は人の命にもかえがたき大事な宝である。その宝をおくってもご奉公したいと願うほどの人であれば、上に忠であることは明らかである。志の厚い薄いは贈り物の多少にあらわれる」と田沼意次が言ったといわれる記事が出ている本で、徳富蘇峰が『近世日本国民史』の「田沼時代」篇で使って依頼、多くの人が引用しているものである。私はこの記事の原本を見たいと思って、同書からこの記事を引用している先学達にも問い合すことを含めて、いろいろ努力を重ねてみたが、ついに『江都見聞集』という書物は、原本はおろか、写本・活字本その他に至るまで発見することはできなかった。そのうちたまたま前記引用部分とまったく同じ記事が『江戸見聞二録』という本にあることを東京大学史料編集所蔵本のなかから発見した。この本は水戸在住の水戸藩士小宮山昌秀が、五度ばかり江戸に出た機会に見聞した面白い話を、文化7(1810)年に書き記した、約6400字ほどの小冊子であって、内容は江戸の巷間でひろった面白い話を書き留めたというにすぎないものである。》とある。どうも、田沼意次が《生命のつぎに大切な金銀を贈ってくるのは、忠義の志が深いしょうこであると、うそぶいた》という歴史学者の間でも知られてきた話というのは、《五度ばかり江戸に出た機会に見聞した面白い話》を記した《江戸の巷間でひろった面白い話を書き留めたというにすぎない》本に載っていた話がネタ元のようで、信憑性はたいしてないものだったようだ。
それにしても、600石の旗本の息子が、徳川の親藩の面々を相手にまわして、よく頑張ったものだ・・と考えることもできるかもしれないが、反田沼派からすると、敵対心が強かったのかもしれないが、田沼意次の方からすれば、老中といっても将軍の徳川家治が指示しているからこその老中であり、反徳川の立場でもなく、反徳川になるつもりもなく、親藩の松平定信が田沼憎しの意識を持っていたとしても、松平定信というのは将軍の子孫であり、田沼意次としては「政敵」とか「ライバル」の関係にはなりえない相手だったはずだ。
徳川吉宗の享保の改革・松平定信の寛政の改革・水野忠邦の天保の改革というのを、江戸の三大改革と呼んできたが、「日本三大なんとか」と呼ぶものはいくつもあって、町おこしで、全国的に有名な所2つと自分の所をくっつけて「日本三大なんとか」と言っているようなものはいっぱいある。 江戸の三大改革というものも、3つをワンセットにして考えるのは、あまり適切な考え方ではないのではないか。大石慎三郎『田沼の時代』(岩波現代文庫)では、田沼意次は改革派で、松平定信をかついだ反田沼派の方が「守旧派」「反動派」「抵抗勢力」で、その「抵抗勢力」のクーデターに田沼意次はしてやられ、その結果、日本の社会は停滞することになった・・というように考えているらしい。
野村克也が「南海の三悪人」と言って、江本・江夏・門田の3人をあげていたのだが、江本が書いていた文章によると、「南海の三悪人」というのは、「江本・江夏・門田」の3人というのは2代目で、その前に鶴岡が言った「野村・広瀬・杉浦」の初代の「三悪人」というのがあったらしい。野村のじいさんが言う「三悪人」というのは必ずしもけなし言葉ではないようだが、野村のじいさんの本によると、鶴岡はものすごい勝率を残して南海ホークスを何度も優勝させた監督ではあるが、戦中世代の人間だけに、「営巣に入れるぞ」とか軍隊用語がしばしば口に出る人間で、人情主義・精神主義のところがある監督だったそうで、そういう戦前・戦中世代の人だけに「三悪人」といった用語も口に出たのだろう。
大石慎三郎『田沼の時代』(2001.岩波現代文庫)では、かつて、弓削の道鏡・足利尊氏・田沼意次の3人が「日本史上の三悪人」と言われた、と出ているのだが、「日本史上の三悪人」という言葉はどこかで聞いたように思っていたのだが、その3人だったか? と思って、インターネットで検索すると、《ウィキペディアー日本三悪人》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%B8%89%E6%82%AA%E4%BA%BA には、明治から戦前まで「三悪人」と言われたのは、道鏡・平将門・足利尊氏の3人と出ていて、田沼意次のかわりに平将門が入っている。他に、蘇我入鹿とか松永久秀とか明智光秀とか、「三悪人」に入ってそうな人物もいるのだが、「日本三大名泉」も、いわき湯本温泉では有馬温泉・道後温泉と いわき湯本温泉で「日本三大名泉」と言っているが、宮城県出身の人に聞いた話では宮城県の鳴子温泉も似たようなことを言っていたそうで、飛騨の下呂温泉では「道後温泉と草津温泉と下呂温泉」で三大名泉と平安時代の誰やらが言い出して林羅山がそれをとりあげたということから、下呂温泉とあと2つこそ正統だと言っているらしく、その他の温泉を入れる説もあるらしい。 日本三大天神というのは、大阪の人間は、北野天満宮と太宰府天満宮と、もうひとつは、当然、大阪天満宮だと思っているが、他に、北野天満宮・太宰府天満宮と3つめには防府天満宮を入れる説、鎌倉の荏柄天神社を入れる説などあるらしい。「日本三大なんとか」というのは、その3つの選び方には、何種類かのものがあるという場合が多い。 日本三景だけは、宮島・天橋立・松島の3つと固定されているので、私は子供のころ、これは国立公園・国定公園のように国が決めたものかと思っていたのだが、そうではないらしく、「それほど有名人でない昔の誰か」がそう言ったことかららしく、下呂温泉も「日本三大名泉」に下呂温泉が間違いなく入るために、「平安時代のあまり有名人でない誰か」と林羅山を持ち出して、下呂には銅像が立っているという話だが、三大名泉については、下呂温泉が入る説も有力説だが対立説もまたあるようだ。よくわからんのは、いわき湯本温泉は「温泉湧出量日本一」と言っていたのだが、他にも「温泉湧出量日本一」を名のる温泉がどこやらあったように思うのだが、なんか、そのあたりになると、ようわからん。
「日本史上の三悪人」の方は、戦前・戦中までは、
1.天皇に反逆を企てた者。
2.主君を裏切った者。
3.神仏を犯した者。
が選ばれることが多かったようだが、
足利尊氏なんてのは、大覚寺統で南朝の後醍醐天皇こそ正統の天皇で、楠木正成・正行の親子を「大楠公」「小楠公」などと言って、皇居前に銅像があったような気がするのだが、考えてみると、今の天皇というのは持明院統で北朝の天皇の子孫・持明院統の天皇であり、楠木正成のおかげで天皇やっているわけではなく、足利尊氏のおかげで天皇やっているのであり、足利尊氏からすると、それを「悪人」言われたのでは、なんかあほくさいというのか、なんというのか・・。 松永久秀は、東大寺に大仏殿を燃やしたと言われてきたが、実際は、三好三人衆との戦いの中で燃えてしまったのであって、松永久秀が放火したわけでもなく、松永久秀は大仏殿の復興に尽力したとも言われ、主君を裏切ったという話も信憑性が乏しいらしい。明智光秀については、最近、明智光秀の子孫らしい明智憲三郎氏による『本能寺の変 431年目の真実』(文芸社文庫)といった本も出ている。かなり鋭い指摘があるように思うのだが、この本の内容に対する批判もあるようだ。少なくとも、羽柴秀吉は、そんなに忠義の臣ではなかったであろうし、織田信長と長男の織田信忠が討たれた後、織田家の多くの家臣が、三男の織田信孝を後継にしようという柴田勝家ではなく、孫でまだ3歳の織田秀信を後継ぎだということにして実際には羽柴秀吉が実験を握る豊臣政権の方についたということは、織田政権を守ろうという意思はもうなかったということだったのではないか。
本能寺の変 431年目の真実 - 明智 憲三郎
※ 《ウィキペディアー明智憲三郎》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E6%99%BA%E6%86%B2%E4%B8%89%E9%83%8E
「南海の三悪人」については、野村が江本に「ゴロを取りに行くのが遅い」と言ったところ、江本が「足が長いから足が短いやつに比べてゴロをとるのに時間がかかるんや」と言いよったとか、野村が門田に「そんなに、振り回すな。ヒットの延長がホームランだ」と言うと門田は「ホームランの打ちそこないがヒットだ」と言いよったとか・・・、なんか、おもろい(^^♪
「悪人」とか「悪党」というのは、結局、その時代の権力・体制にとって都合が悪い者、反逆者が「悪人」「悪党」と言われたことが多い。 司馬遼太郎『国盗り物語』では、斎藤道三が「無能な領主こそ悪だ」と言い、無能な領主を駆逐してそれよりもいい政治をおこなう者が何が悪いか・・と語る場面があったが、そういう面はあるだろう。駆逐された方が世のためだという社長は日本の会社にけっこういいるかもしれない・・・。「無能な社長こそ悪だ」と言ってやりたいような社長というのは、けっこういるかもしれない。言われなければならないような社長というのは・・、いるよな・・・・。
牧之原市 史料館でもらった「相良城下」というリーフレットには、牧之原市の相良地区、史料館より海に近い場所に大澤寺という寺があって、《本寺は、寛政3年(1789年)の建築。相良城の木材を再利用したと伝えられています。床下に痕跡が残ります。》と書かれている。1789年というと、田沼意次が老中を辞任させられたのが1786年、相良城が没収されたのが1787年で、その2年後。
※ 《ウィキペディアー大澤寺》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%BE%A4%E5%AF%BA_(%E7%89%A7%E4%B9%8B%E5%8E%9F%E5%B8%82)
大澤寺HP https://www.daitakuji.jp/
大澤寺は、真宗大谷派の寺らしい。
インターネットのYouTube で大鐘家の大鐘さんが、相良城を解体して、城の部材をお金に変えたが、大鐘家は、そのうち、石垣の石を買ったと話しておられるが〔《YouTube-国指定重要文化財「大鐘家」》https://www.youtube.com/watch?v=pzodBRonEGI 〕、大澤寺は、相良城の木材を利用してお堂を建築した、ということか。
《ウィキペディアー相良城》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B8%E8%89%AF%E5%9F%8E には、《1782年、御殿と書院を藤枝宿の中心地に位置した円妙山大慶寺(現在の藤枝市藤枝4-2-7)庫裡に移築している。》と出ている。
↑ 大慶寺は、東海道本線・東海道新幹線より北側、藤枝市役所の北西の方にあるようだ。
円妙山 大慶寺 のホームページhttp://enmyozan.org/ を見ると、大慶寺は日蓮宗の寺で、大慶寺HPの「境内散歩」http://enmyozan.org/?page_id=16 を見ると、「客殿」が《 相良城の御殿を移築し約230年が経ちます。主な柱や梁、小屋組は当時のままです。大慶寺に移築した時には、欄間が12枚ありましたが、現在は4枚だけ残っています。》というものらしい。
《 当時の相良城の城主は田沼意次公でしたが、失脚すると直ぐに相良城取りつぶしの命が下りました。しかし、その御殿は贅を尽くした立派なものでしたので、取りつぶさず払い下げとなりました。当時の大慶寺の檀家さん(岡部の庄屋)が、700両で、御殿の一部を買い取り、藤枝に運び再建しました。玄関を入ると、9畳、15畳、12畳、12畳の部屋が続き、その奥に庭(洗心園)が見えます。玄関から奥の庭が直接見える作りは圧巻です。》と出ている・・・が、《その御殿は贅を尽くした立派なものでしたので》ということは、やっぱり、田沼意次は、けっこういい思いをしていたということだったのか?
・・まあ、大大名ではなく小大名だったとはいえ老中であり、水呑み百姓ではなかったのだから、それなりのものだったのかもしれないが、関ケ原の戦いの後、石田三成の居城の佐和山城に東軍の者が行くと、五奉行として威勢をふるっていた者の城だから、さぞかし豪華なしつらえではないかと思って行ったら、ちっともそんなことはなく、戦闘に備えて堅固な城にはなっていたが、贅沢なものはまったくなかった・・という話があるが、それから考えると、やっぱり、《その御殿は贅を尽くした立派なものでしたので》てことは、「賄賂」をもらってたかどうか知らんが、給料高かったんかな・・・て感じがしないでもない・・・。
しかし、たとえ、相良城の御殿が《贅を尽くした立派なもの》であったとしても、田沼意次自身は老中としてほとんどの期間、江戸にいて相良の城に住んでいたわけではなかったようだ。 藤田覚『田沼意次 ご不審を蒙ること身に覚えなし』( ミネルヴァ書房)によると、江戸時においては大名は参勤交代として、江戸と領国とに1年ごとにいたが、老中になっていた者は老中の職務をおこなうために継続的に江戸にいたそうで、田沼意次は記録に残っているのは将軍家治から許しを得て1度、相良を訪ねたことがあり、牧之原市史料館にある田沼意次が相良を眺望する図の年に相良に行ったという記録はないが、その年に訪問していたのならその時と2度、相良に行ったというだけだったらしく、たとえ、相良城の御殿が《贅を尽くした立派なもの》であっても、ほとんど、江戸で過ごした者にはあまり意味のないものだったかもしれない。
田沼意次:御不審を蒙ること、身に覚えなし (ミネルヴァ日本評伝選) - 藤田 覚
相良城は、田沼意次が一から作ったということでもないようで、牧之原市 史料館 でもらった「相良歴史略年表」によると、
975年 相良氏の祖、藤原維兼遠江守となる。
1112年 工藤周頼(姓 藤原)相良氏を称し、頼景まで5代、82年間 相良の庄に住む。
1193年 7代 相良頼景 九州球磨郡多良木に移る。
1198年 8代 相良長頼 九州人吉に移る。
1576年 武田勝頼 相良城を築く。
1710年 本多忠治 初代相良藩主となる。 1万5千石。
1746年 本多忠恕 奥州泉へ移る。
1746年 板倉佐渡守勝清 相良藩主となる。1万石。
1749年 板倉佐渡神勝清 上野国安中へ移る。
1749年 本多長門守忠央 三河国挙母より移る。
1758年 本多忠央・郡上八幡金森頼錦一揆事件で所領没収。
1758年 田沼意次 相良藩主となる。(39歳) 1万石。
・・・という経緯があったらしい。
↑ を見ると、郡上八幡の一揆に際して、本多忠央という徳川譜代の「本多」を名のる大名が相良の所領を没収され、その際、郡上八幡の一揆に対処したのが田沼意次で、本多忠央の所領だった相良をその田沼意次が所領とすることになった・・となると、田沼意次の後ろ盾であった徳川家治が他界したとなると、その田沼の所領を奪い返してやる・・と考える人が出てきた・・としても、考えられないことはないか・・・。
大石慎三郎『田沼意次の時代』(2001.岩波現代文庫)には、
《 しかしこの一揆(郡上八幡の一揆)には前代未聞ともいうべきいま一つの大事件がからんでいる。それは老中以下の幕閣が、金森藩政にからんでいたとして処罰されたことである。以下列挙すると、
老中 本多伯耆守正珍(まさよし)(駿州田中4万石) 役儀取上げ、逼塞。
若年寄 本多長門守忠央(遠州相良1万5千石) 領地没収、作州津山松平越後守へ永預け。
・・・・
幕閣の中で一番処分がきつかったのが、若年寄の本多忠央で、彼はこの事件で領地1万5千石を没収されている。そしてそのあとをもらったのが、この年(宝暦8年)8月、1万石に加増されたうえ、評定所に出座することを命じられていた田沼意次である。この忠央は将軍世子 家治のいる西の丸の若年寄であるから、当然のこととして2年後に来る10代将軍家治時代には老中として重きをなしたはずで、この失脚の意味は大きい。もし忠央がこの時失脚しなかったら、あるいは田沼意次の出番はなかったかもしれないのである。
そのうえ政策史的にいえば、この一揆は直接税増徴派幕閣を一気に追放してしまったので、幕初以来続いてきた幕府の直接税増徴型政策がここで頓挫し、田沼意次をリーダーとする間接税派の登場の契機ともなっている。》
と出ており、田沼意次の前の相良の領主 本多忠央 は郡上一揆に関して老中を罷免されただけでなく、領地没収にされ、かわりに相良の領主になったのが田沼意次であった・・というあたりが、田沼意次が、晩年、老中を辞任させられただけでなく、相良領を没収されたことにもつながったか・・。
《ウィキペディアー郡上一揆》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%83%A1%E4%B8%8A%E4%B8%80%E6%8F%86 には、
《 郡上藩絡みの箱訴が繰り返される中、将軍家重はこれらの事件の背後に幕府要人の関与があるのではないかとの疑いを抱く。もともと郡上一揆に関する駕籠訴における吟味でも、郡上藩の年貢徴収法改正に幕府役人である美濃郡代が介入したことに関して幕府勘定奉行の大橋親義らの関与が疑われており、大橋はもみ消し工作に奔走していた。そして駕籠訴の吟味が中断状態になった後も、大橋は勘定所内の吟味で事情聴取を受け、箱訴受理後の宝暦8年(1758年)5月、7月と更なる尋問を受けていた。また将軍直属の御庭番からも郡上一揆における幕府要人関与の情報が上げられていたとも推察される。情報を把握した家重は、郡上一揆に幕府要人の関与があったとの確証を抱くに至った。将軍の疑いはこれまでなかなか進まなかった郡上一揆の裁判を徹底審理する方向へと導いた。・・・
幕府の中で評定所御詮議懸りによる吟味の指揮を取ったのが、勝手掛老中首座の堀田正亮、老中酒井忠寄、そして御用取次であった田沼意次であった。田沼は御詮議懸りメンバーの依田正次に対し、この事件は将軍のお疑いがかかっているので、勘定奉行大橋親義、寺社奉行本多忠央が関与しているからといって、少しも手加減する必要は無いと申し渡した。・・》
とある。このあたりを見ると、徳川家重は疾患があって言語不明瞭だったとしても、だからといって「暗君」ではないじゃないか・・とも思えるが、若年寄を更迭したとなると、更迭された側の恨みは更迭した将軍家に向けることができないとなると、将軍の指示を伝えた御用取次に向かったとしても、ありそうなことではある・・・。本多 忠央は《ウィキペディアー本多忠央》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E5%A4%9A%E5%BF%A0%E5%A4%AE によると「ほんだ ただなか」と読むそうで、ウィキペディアで先祖をたどっていくと、徳川家康の重臣 本多忠勝にたどりつく。そういう大名が更迭されたとなり、親藩でも歴代の譜代大名でもない者で、将軍のそばにいて指示を出していた田沼意次というのは、親藩・譜代大名にとって脅威であり、憎しみの的になった・・ということはありそうな感じはする・・・。 真面目に努力する一般入社社員を、一族と銀行系とでよってたかって苛めまくる・・なんて会社もありますしね・・。
栃木県安蘇郡田沼町は、「平成の大合併」の際に、北隣の安蘇郡葛生町とともに佐野市と合併して、佐野市の一部分になったが、「田沼意次ゆかりの地」と言って、「道の駅 どまんなか田沼」https://domannaka.co.jp/ では、田沼意次らしき殿さんのキーホルダーとか売っていたのだが、田沼意次 自身は栃木県の田沼町の生まれでもなければ、田沼町を領有した殿さんでもなかったわけで、田沼意次の息子の田沼意知が佐野政言に刺殺された際に、佐野政言が「身に覚えがあろう」と叫んで刺したということだが、その「身に覚え」とは何か・・という点についても諸説あるらしい。その1つの説として、佐野家の家系図を田沼が借りて返さなかった、というものがあるらしく、足利市の支流の佐野市の支流の田沼氏・・と田沼意次の父親の田沼意行と、どうつながるのか・・、そのあたりについてが、その家系図を返さなかったという件と関係あるのかないのか・・・。栃木県佐野市の田沼地区とは、どうつながるのか、つながらないのか。
大石慎三郎『田沼意次の時代』(2001.6.15.岩波現代文庫)には、
《 田沼意次を生んだ田沼氏は『寛政重修諸家普』によると藤原氏の流れをくむ佐野成敏の後裔だという。田沼という姓を用いるようになったのは、その成俊から六代目の重綱が下野国安蘇郡田沼邑に住んでからということになっている。もっともこのあたりのことは、のち意次の子供の意知(おきとも)が佐野善左衛門という新御番組の旗本に殿中で切りつけられ、それがもとで死亡、その原因の一つが佐野家の系図を借りて返さなかったからである、という話が残っているので、かならずしも正確でないのかもしれない。
ともかく関東の一小族で、戦国期には上杉氏、またそれと敵対する武田氏につくなど、不安定な動向をくりかえしながら、結局武田氏の家来に落ち着く。しかしこの武田氏が天正10(1582)年勝頼の時に亡んだので、しばらく信州などを放浪し、どんなきっかけかわからないが紀州徳川家の初代頼宜に仕えるようになる。次右衛門吉次のときである。以後 次右衛門吉重・同義房と続き、義房のとき病気で勤めができなくなって和歌山城下に退いている。身分は足軽小者のたぐいであったと考えられる。意次の父 意行(もとゆき)はこの義房の子供であり、叔父の田代七右衛門高近に養われて、当時紀州藩主であった吉宗に仕え、享保元(1716)年 吉宗が将軍になって江戸城に入るとき、その供の一員に加えられる。
田沼家の当主で事跡が明らかになるのはこの意行からであるが、彼はかなりの人材であったらしく、江戸城に入るとすぐ吉宗の御小姓となり、米300俵の給与をもらっている。そして享保9年に従五位下主殿頭(とのものかみ)に叙任し、同18年には加増されて600石の知行取となり、翌19年には御小納戸(こなんど)頭取になっている。こんなことから意行は誠実で気くばりよく、かつ財務能力にすぐれた人物だったろうと推測できる。
田沼意次はこの意行の長男として、享保4年江戸で産まれている。場所は父 意行が当時御小姓であるから、江戸城のどこかにある御長屋だったろうと考えられる。享保17年将軍吉宗に拝謁、同19年世子家重づきの御小姓となる。彼16歳のときである。・・・》
(1) 田沼氏が佐野氏の後裔で重綱が安蘇郡田沼邑に住んでからという話があって、かつては、佐野市の北隣が田沼町、今は田沼町も佐野市の一部分になったが、その地域の氏族だったらしいこと、
(2) 田沼意行の先祖が紀州徳川家に足軽小者の類で使えていた。
(3) 田沼意次の父の意行が徳川吉宗が将軍になる時に江戸に行き、徳川吉宗の御小姓になり、600石の知行取になった。意次は江戸で産まれた。
・・・というあたりは確かそうだが、(1)から(2)の間は必ずしも明瞭ではないようで、佐野善左衛門が何を恨みに思ったのかは今もはっきりしないらしいが、系図に関係あるとすると、(1)の部分もそう確かではないのかもしれない。まあ、大名の系図なんて、そう確かでない場合が多いから、田沼家に限ったことではないかもしれないが。
牧之原市 史料館は、市役所相良庁舎のすぐ隣にあって、それほど大規模ではなく、市がやってるし、なんとなく、無料っぽい感じで、無料だろうと思いこんで入ったら、実は有料だった。大人210円らしい。 有料でもいいけれども、有料なら有料で、もうちょっと、有料だとわかりやすく表示してほしいと思う。
※ 牧之原市史料館 https://www.its-mo.com/detail/DIDX_ZPOI-00000000000001714312/
(2020.10.7.)
☆ 大鐘家と相良城跡(静岡県牧之原市)
(1)田沼意次の城下町相良の牧之原市片浜にある大鐘家住宅 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202009article_7.html
(2)井桁に組んだ梁・千木の載る長屋門・酔芙蓉。なぜ川勝平太は事故を起こした原子力発電を製造した会社の責任を問わずに、放射線量検査の方を拒否するのか https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202010article_1.html
(3)地形に合わせた建物の配置。「母屋」「上屋」と「庇」「下屋」。表側の庭と裏側の「小堀遠州庭園」https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202010article_2.html
(4)床の間と床脇。床柱と長押の位置関係。遠州流を他の地域の人に押しつける(株)一条工務店。会社のために協力する従業員を罠にかける(株)一条工務店 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202010article_3.html
(5)神棚の造りについて。その地域のやり方を無視する(株)一条工務店の営業。会社のルールを無視する営業本部長 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202010article_4.html
(6)土蔵・資料館。大鐘家の裏の丘からの眺望。相良城跡と田沼意次。〔今回〕
☆ 加茂荘花鳥園・加茂邸(掛川市)見学
1.「森掛川」I.C.より加茂荘花鳥園。温室と鳥舎。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202006article_2.html
2.花菖蒲園と長屋門。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202006article_3.html
3.加茂家住宅(1) 正玄関、土間、大黒柱・梁、庭の池と亀島と花。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202006article_4.html
4.加茂家住宅(2) 座敷、広縁・濡れ縁、廊下交差箇所の納まり、差鴨居。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202007article_1.html
5.加茂家住宅(3) 床の間 2か所。一般の柱と同材同寸法の床柱と長押の関係。床の手前の横の位置の付書院。きれいな襖絵。
6.加茂家住宅(4) 加茂家住宅の神棚は「竈の神さま」なのか。「浜松流神棚」を他地域に押しつける一条の営業。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202007article_3.html
7.加茂家住宅(5) 窓の格子。「理由のある」桟の作りと「理由のない」作り。味噌蔵・米蔵。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202007article_4.html
☆ 東京都 狛江市立古民家園
上 旧荒井家住宅主屋 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201509article_1.html
下 旧高木家住宅長屋門 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201509article_2.html
☆ 旧近藤家 長屋門(東葉学園 東葉門 )(千葉県船橋市)https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201907article_3.html
☆ 旧安西家住宅(千葉県木更津市)https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202009article_5.html
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