中村家住宅(静岡県)【5/6】胞衣塚・天神社跡地・茶室・屋敷神祠・井戸屋形、満開の桜。中家住宅(大阪府)・大国家住宅(岡山県)について。3月下旬、中村家住宅の桜はきれい。
[第834回]
静岡県浜松市西区雄踏町宇布見 の 中村家住宅 見学の5回目です。
中村家住宅では、出入口は現在では東よりの土間の南面に「大戸口」があり、これが主たる出入り口であり、土間の北面に「背戸口(せどぐち)(西)」と「背戸口(東)」があります。 土間の西の「ヒロシキ」という板貼りの部屋の南側に「上がり框」があったようです。入る人間の立場によって入口が違ったのでしょうか。
吉澤政己『日本列島民家の旅(6)中部1 東海・中央高地の住まい』(1996.4.30. INAX出版)に掲載されている平面図は中村家住宅でもらったリーフレットに掲載されている平面図と間取が異なっており、リーフレットに掲載されている平面図は中村家住宅が17世紀に建てられた頃の間取りに復元して公開した現在の建物の間取りで、吉澤政己『日本列島民家の旅(6)中部1 東海・中央高地の住まい』(1996.4.30. INAX出版)に掲載されている平面図は1996年に同書が出版された頃に中村さんが居住されていた時の間取りかと思われますが、同書に掲載されている平面図では、土間の西に南側は3部屋の畳敷きの部屋が並んでいるうちの中央の部屋、リーフレットでは「ヒロマ」となっている18帖の部屋が「ゲンカン」とされ、その南に出入口が設けられ、「ゲンカン」の北に「ネマ」「チャノマ」があり、西に「ザシキ」があるという配置になっています。 時代とともに、居住者にとって住み良い間取は変わるようです。保存して公開する場合に、どの時期の間取りのもので保存すべきかというのは難しいところがあるかとも思います。

東海・中央高地の住まい―日本列島民家の旅〈6〉中部 1 (INAX ALBUM) - 吉澤 政己, 入澤企画制作事務所
福島県いわき市内郷白水町 にある福島県で唯一の建築の国宝である白水阿弥陀堂と岩手県平泉市にある平泉金色堂は同じ頃の建築らしいのですが、平泉金色堂は建築された頃の状態に復元されて保存されているのに対して、白水阿弥陀堂の方は経年変化を受け入れた状態での保存としている。これはどちらの方がいいのかはいちがいに言えない。
奈良市の薬師寺は金堂を復元して金堂の前方東西に建築時はあったが長く東塔のみが存在したが、1981年に西岡常一棟梁により西塔が建造され、その後も回廊が作られて薬師寺建築時の伽藍配置に近づいている。しかし、建築されてから後、建築時と異なる伽藍配置の時代においての薬師寺に親しみを感じてきた人もいたわけで、1970年代、私が中学生の時に中学校の遠足で薬師寺に行った時と2000年代に薬師寺を訪問した時とではまるで別の寺に行ったような印象を受けたのだが、最初の創建時の伽藍配置に戻すという復元が絶対にいいのかどうかはよくわからないところもある。薬師寺の場合はそれでも創建時の状態に近づけることに意義はあるとは思うがすべての寺社がそうとは限らないでしょう。
東京の上野公園というのはもともとは寛永寺の敷地で、現在の寛永寺はかつての寛永寺の塔頭のひとつの場所にあり、もともとの寛永寺は今の上野公園の中央噴水のあたりに根本中堂(金堂)があり、国立博物館のあたりに本坊があったらしいが、明治になって、上野公園として利用されてきて、現在ではかつての寛永寺の敷地に上野動物園があり、東京芸大があり、東京文化会館・国立西洋美術館・国立科学館・東京都美術館があり、上野駅もかつての寛永寺の敷地にあるらしく、薬師寺のように寛永寺が最大規模を誇った時期の状態に戻そうとすると大変なことであるとともに、世界遺産に指定されたル=コルビュジェ設計の国立西洋美術館も撤去しないといけないことにもなる。すべてのものを過去の最大規模の状態に戻したり、創建時の状態に戻すとなると、現在、人がそこを利用して生活しているものを使えなくすることにもなり、生活上、あまりにも不便になることもある。奈良市の平城宮跡を横切っている近鉄奈良線を南に迂回させる計画があるらしいが、南に迂回させることで踏切が解消されるという生活上の利点もあるらしいが、近鉄奈良線としては迂回させることで西大寺から近鉄奈良駅までの距離がわずかにでも長くなることになり、それだけ所要時間が長くなることも考えられるわけで、過去の遺跡のために今の人間が生きているわけではないことを考えるならば、すでにその場所を走っている鉄道についてまで動かす必要があるのか、という問題もある。
大阪市北区の中之島の北側のあたりに「福沢諭吉 生誕の碑」が立って公園のようになった一画があるのだが、ここは、かつては中津藩下屋敷跡だったのだが、福沢諭吉はそこで生まれたが、親が中津の方に帰ることになり大分県の中津で育ったらしいのだが、その後、一時期、この場所は旧制大阪一中である北野高校の前身の堂島中学校があった場所でもあり、さらに、大阪大学医学部もその場所にあった時期があったはずで〔《大阪大学医学部の歩み》https://www.ichou.or.jp/pdf/history.pdf 〕、そういう場所に「福沢諭吉生誕の碑」というものを設けて公園のようにすると、その場所は「福沢諭吉生誕の地」であることに間違いはないとしてもそれ以外の場所でもあったにもかかわらず「福沢諭吉生誕の地」であるだけでそれ以外の場所ではないかのような主張をしているかのような印象を受けることになり〔実際、慶應の人、特に ””「塾風」「塾生」とか「福沢精神」とか言いまくらないとおれない人間シンドローム””の人には排他的で独善的な人が多く、かつ自分のそういう態度・精神的姿勢を自慢する人が多く、「福沢諭吉生誕の地」の碑にもそのニオイを私は感じたのだが〕、そういった偏狭な姿勢はそれ以外の場所としての思い入れがある人とってはその思い入れの気持ちを踏みにじる記念碑の建て方とも言える。
(1)中村家住宅のように、住宅としてその時代とともに使い方も変わり間取りも変わった建物を、復元保存して公開する場合に、どの時期の間取りで復元して公開するのか、という問題。
(2)白水阿弥陀堂と平泉金色堂で対比されるように、ある程度の経年変化を受け入れた状態で保存するのか、それとも、創建時の状態に戻すのか、という問題。
(3)多くの寺社などで見られるように、薬師寺のように創建時の状態に戻すのがいいのか、創建時と異なった状態になっても寺社などは異なった状態の寺社を参拝してきた人がいることを尊重して変化した状態を守った方がいいのかという問題とともに、さらにその後、上野公園のようにその場に別の施設が設けられた時に、どの施設を優先的に保存するべきなのか、という問題。
(4)又、上野公園内の施設や近鉄奈良線などのように、現在、その場所を今生きている人間が使用しているにもかかわらず、過去の状態に戻すと今生きている人間が生活に不便をきたす可能性がある場合もある、という問題。
(5)福沢諭吉生誕の碑のように、いくつもの性質を持つ場所でありながら、1つの性質のみについての記念碑を設けると、それ以外の性質の場所でもあるにもかかわらず、特定の性質のものだけを保存することになる、という問題。
これらが、史跡・文化遺産といったものを保存する際に問題となるのではないか、と思う。
中村家住宅において、徳川家康の側室の「お万の方」が家康の次男の結城秀康を出産して結城秀康は3歳までこの地で育ったそうで、その時に居住した建物は現在の中村家主屋ではなく、主屋の南西にあった建物らしく、今は存在していない。

↑ 主屋の南西に「天神社 跡地」と書かれた札が立っている区域があり、
《 明治13年(1880年)より 昭和33年(1958年)まで鎮座
弘化2年(1845年)津山藩8代藩主 松平齋民(なりたみ)公が再建したもの。
現在は中村家住宅の北西に移されている。釘隠しは津山藩 上屋敷 鍜治橋屋敷のものを使用した。》
と現地の説明書きには書かれているのですが。1880年、明治の前半から1958年、1950年の朝鮮戦争と1964年の東京オリンピックの真ん中あたりの時期まで存在した・・にしては、津山藩主の松平齋民公が「再建した」のはそれより前の1845年。
1845年というと19世紀中ごろ、
1868年の大政奉還よりも23年前、
1860年の桜田門外の変より15年前、
「異な国(1792)、ラックスマン、根室に来航」ロシアのラックスマンが根室に来航した1792年より53年後、
「嫌でごわす(1858)とムラビヨフ、愛琿(あいぐん)条約」でスタノボイ山脈以南・ウスリー川以北が清からロシア領になり、沿海州が清とロシアの「雑居の地」とされてその2年後の北京条約で沿海州もロシア領になった1858年の愛琿条約より13年前、
天保の改革がおこなわれたという天保年間は1830年 - 1843年、その少し後、
大塩平八郎の乱は1837年で、その8年後、
そういう時期に津山藩主の松平齋民公が「再建した」ということは、それよりも前に存在していたものを、天保の改革の後くらいの時期に津山藩主が再建して、さらに後の1880年から1958年、朝鮮戦争と東京オリンピックの中間頃、東海道新幹線開通の1964年の6年前までこの地にあって、その後、中村家住宅の北西の天神社に移った・・ということか。
中村家住宅の南西あたりに結城秀康が生まれて育った建物はあった・・ということは、このあたりにその建物はあったということなのか。

↑ 主屋の南側。
中村家住宅の主屋の南側の一番西の部屋の「ザシキ」にはその南側に「ザシキ 入側」という板敷きのスペースがあり、↓

こちらの部屋への出入口もあったらしく、南西の秀康が居住した建物と西寄の「ザシキ」との間で行き来ができるようになっていたのではないか。
結城秀康が産まれた時、胞衣(えな)(後産)を埋めたという「胞衣塚」が ↓

浜松市指定文化財 となっている。
日本博学倶楽部『』(2007.10.29. PHP研究所)には
《 結城秀康は、徳川家康の二男だが、家康のもとでは育っていない。側室の子として1574(天正2)年に生まれると、徳川家臣の本多重次(しげつぐ)のもとで育った。異母兄の信康のとりなしで、三歳になってようやく父子の対面を果たしている。家康が長らく秀康と会わなかったのは、自分の子かどうか疑ったためとも、正室・築山殿(つきやまどの)に気をつかったためともいわれている。・・》
と出ている。《ウィキペディアー結城秀康》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%90%E5%9F%8E%E7%A7%80%E5%BA%B7 には、
《 あくまで伝承ではあるが秀康は双子で誕生し、もう一人はすぐに亡くなったとする言い伝えがある。その後、家康が正室・築山殿の悋気を恐れたために、秀康を妊娠した於万は重臣の本多重次のもとに預けられたという。》
《幼名を於義伊(於義丸 / 義伊丸 / 義伊松)と名づけられた秀康は、父・家康とは満3歳になるまで対面を果たせなかった。その対面も、あまりの冷遇を受ける異母弟を不憫に思った兄・信康による取りなしで実現したものであったという。
冷遇の理由は、築山殿を憚ったためとも、双子で生まれてきたことにあるともされるが、寛永11年(1634年)に書かれた『中村家御由緒書』には「本多作左衛門が家康に委細を言上に及んだところ、家康には何か考えることがあり、お取り上げが難しいということになり」とだけ書かれており、研究者の小楠和正は武田勝頼との戦いに直面していたために家康は秀康を浜松城に引き取る機会も、対面する機会も持てなかったのではないかと推定している。》と出ている。
武将・大名が側室を持つことは珍しいことでもなく、正室の築山殿に気をつかう必要がそこまであったのか・・というと、《ウィキペディアー長勝院》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E5%8B%9D%E9%99%A2 には
《 はじめ徳川家康の正室・築山殿の奥女中で、家康の手付となり、於義伊(のちの結城秀康)を産んだとされるが、家康が永見氏を臣従させたときに万を仕えさせることを約束させ、元亀三年に浜松城に仕え、於義伊を産んだともされる。この時、双子であったといわれ、俗に永見貞愛がもう一人にあたるという。知立神社には、万が貞愛の容体を心配して送った手紙が残されている。当時、双子は「犬畜生と同じ双子腹」と忌み嫌われていたため、貞愛は万の実家・永見家に預けられ、於義伊も家康に嫌われ2歳(または3歳)の時に初めて家康と対面した。》と出ている。正室の築山殿の奥女中だった女であったからなのか。
双子であったとして、《当時、双子は「イヌ畜生と同じ双子腹」と忌み嫌われていた》ということがあって、地方によっては双子で産まれた場合には片方を生まれてすぐに殺して生き残るのは一人にしないといけないという伝統がある地域もあったとかいうお話もあるので、もしかして、殺された片方の遺体を埋葬したのが「胞衣塚」だという可能性はないか? ・・・とか、ふと思ったが、《俗に永見貞愛がそれにあたるという》という固有名詞まであるなら、双子の片方は殺されることはなく家康の子としては表に出なかっただけで、胞衣塚も実際に「胞衣」を埋めた場所か。
主屋の南西側に「天神社跡地」、主屋の西に「胞衣塚」があり、主屋の北西に「茶室」がある。↓

茶室の北側には「屋敷神祠(やしきがみほこら)」がある。↓

主屋の南西の「天神社跡」にあった天神社が、現在では、中村家住宅の道路を隔てた北西側にある天神社となり、菅原道真とともに後醍醐天皇や結城秀康もともに祀っており、浜松市西区役所まちづくり推進課・浜松市市民部文化財課編集『【国指定】重要文化財 中村家住宅』(2021年1月版。浜松市西区役所まちづくり推進課 発行)には「天神社跡地」について《 現在中村家住宅の北西にある天神社は、中村家の氏神で、元々中村家の敷地内にあり、昭和33年(1958年)までこの場所(「天神社跡地」)に鎮座していました。》と出ているのですが、現在、北西にある天神社が中村家の氏神だったのなら、この茶室の北に配置されている「屋敷神祠」は氏神さんとは別なのか?
歴史のある家では屋敷の神さんが複数存在することもあるのかもしれませんが、天神社とは異なる神を祀っていた祠だったのか。

↑ 主屋の北側の「井戸屋形(いどやがた)」。

↑ 主屋の南側の桜。 左側に見えるのは「展示棟」で、中村家と結城秀康との関係などが展示・解説されている。

↑ 長屋門の内側(西側)と桜。

↑ 主屋の北側の桜。
撮影は2021年3月28日、なかなか桜がきれいです。

↑ 北側の道路から見た桜もきれいです。
長屋門は現在は東側にあるが、かつては南側にあったものを東側に移築したらしい。現在は浜名湖の水面は中村家住宅よりある程度南に離れているが、かつてはすぐ南まで浜名湖はきていて船ですぐそばまで来ることができたらしく、家康なども船で来たのではないかと言われるらしい。 そう言われて地図を見直すと、中村家住宅のあたりまでは昔から陸地だったが、それより南側は今は陸地になっていてもかつては浜名湖の一部分だったのか?・・とも思える地形である。


今回、南側、浜名湖まで歩いてみたかったが時間が不足したことから見にいけなかったのは残念だった。



↑ 中村家住宅の主屋の屋根は茅葺で頂部のみが瓦葺きになっているが、これは庄屋でも武家に近い特別の扱いであったことから部分的に瓦葺きの屋根にすることを許されたものなのか? ・・・とも思ったのだが、浜松市西区役所まちづくり推進課・浜松市市民部文化財課編集『【国指定】重要文化財 中村家住宅』(2021年1月版。浜松市西区役所まちづくり推進課 発行)には、
《 このような茅葺屋根の大棟(おおむね)を本瓦葺とする古民家の例は珍しく、中村家住宅のほか、重要文化財では大阪府の中家住宅、岡山県の旧大国家住宅の二例しか確認されていません。》
と書かれています。
「大阪府の中家住宅」ですが、平山育夫『日本列島民家の旅(29)近畿1 近畿農村の住まい』(1994.12.15.INAX出版)を見ると、大阪府泉南郡熊取町 の「中家住宅」が掲載されており、
《 屋根形式・主な葺材――入母屋造、茅葺。
四面庇および西・東・北面突出部=本瓦葺 》
と書かれていますので、この大阪府泉南郡熊取町の「中家住宅」のことでしょうか。
平山育夫『日本列島民家の旅(29)近畿1 近畿農村の住まい』(1994.12.15.INAX出版)には、大阪府泉南郡熊取町の中家住宅とは別に、「奈良県生駒郡安堵村 の中家住宅」も掲載されていますが、「奈良県生駒郡安堵村 の中家住宅」は《 屋根形式・主な葺材――切妻造段違、茅・本瓦および桟瓦葺 》と書かれており、部分的に瓦屋根ではなく大阪府ではなく奈良県ですから「奈良県生駒郡安堵村 の中家住宅」のことではないでしょう。
林良彦『日本列島民家の旅(32)近畿2 近畿町家の住まい』(1995.11.20.INAX出版)には、「中家住宅」の記載はありません。又、大野敏『日本列島民家の旅(17)民家村の旅』(1993.8.30.INAX出版)には、大阪府豊中市の服部緑地にある日本民家集落博物館に移築されている建物から山田家住宅・泉家住宅・椎葉家住宅が掲載されていますが「中家住宅」の記載はありません。
平山育夫『日本列島民家の旅(29)近畿1 近畿農村の住まい』(1994.12.15.INAX出版)では「大阪府泉南郡熊取町の中家住宅」は《 公開状況――見学は11月初旬の2日間のみ。熊取町教育委員会(0724―52ー1101)に問い合わせのこと》と書かれていますが、インターネットで検索すると、
熊取町HP 中家住宅 https://www.town.kumatori.lg.jp/town_syoukai/syoukai_kankou/rekisi_bunnka/1297843613933.html
熊取町HP 公共施設案内 重要文化財 中家住宅について http://www.town.kumatori.lg.jp/shisetsu/nakakezyuutaku/shisetsu_annnai/1298600171219.html
などが出ており、
《熊取町HP 中家住宅 利用案内》https://www.town.kumatori.lg.jp/shisetsu/nakakezyuutaku/riyou_anai/index.html には、
《 開館時間:午前10時~午後4時30分(入館は午後4時まで)
休館日:水曜日(祝日の場合は翌日)・年末年始(12月29日~1月3日)
※1月,2月,8月の休館日は祝日を除く月~金曜日 》、
《熊取町HP 中家住宅見学の御案内》https://www.town.kumatori.lg.jp/shisetsu/nakakezyuutaku/shisetsu_annnai/1298594316017.html には、
《 休館日
1、2、8月は、月曜日から金曜日(ただし祝日は除く)
上記以外の月は、水曜日(祝日の場合は翌日)
年末年始(12月29日から翌年1月3日)
開館時間
午前10時から午後4時30分まで
ただし、入館は午後4時までにお願いいたします。
入館料
無料です。
申し込み
不要です。直接お越しください。 》
と出ているので、平山育夫『日本列島民家の旅(29)近畿1 近畿農村の住まい』(1994.12.15.INAX出版)が発行された1994年と違って現在では見学しやすくなったようです。
熊取・・というと、京都大学原理力実験所がある熊取、『熊取六人衆』の熊取ですが、《熊取町HP 中家住宅 アクセス》https://www.town.kumatori.lg.jp/shisetsu/nakakezyuutaku/access/access.html によると、「中家住宅」はJR阪和線「熊取」駅から徒歩で約20分くらいの場所にあるらしい。

近畿農村の住まい (INAX album―日本列島民家の旅 (29)) - 平山 育男, 入澤企画制作事務所

近畿町家の住まい (INAX album―日本列島民家の旅 (32)) - 林 良彦, 入澤企画制作事務所, 入澤美時, 坂井基樹

民家村の旅 (INAX ALBUM) - 大野 敏
「岡山県の旧大国家住宅」は、「岡山県和気郡和気町 の旧大国家住宅」が《ウィキペディアー旧大國家住宅》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A7%E5%A4%A7%E5%9C%8B%E5%AE%B6%E4%BD%8F%E5%AE%85 に《屋根は入母屋部分は茅葺で、切妻部分は棟が瓦葺で下部は茅葺、庇は瓦葺となっている。》と出ているので、おそらく、それでしょう。
《和気町 民俗資料館 旧大国家住宅》http://ww32.tiki.ne.jp/~wake/rekimin/ookunikejyuutaku.htm には《 平成29年(2017年)1月1日より、老朽化のため見学受付を休止させていただいております。》と出ており、見学は外観のみ可能のようです。場所はJR山陽本線「和気」駅と和気町役場の間くらいの場所のようです。
※ 浜松市HP 中村家住宅 https://www.city.hamamatsu.shizuoka.jp/bunkazai/shitei/yuto/yuto/nakamurake.html
ウィキペディアー中村家住宅(静岡県) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%9D%91%E5%AE%B6%E4%BD%8F%E5%AE%85_(%E9%9D%99%E5%B2%A1%E7%9C%8C)
YAHOO!ロコ 中村家住宅 https://loco.yahoo.co.jp/place/g-UjOVGKKqIWQ/?utm_source=dd_spot&sc_e=sydd_spt_slo_p_ttl&lsbe=1
浜松・浜名湖大好きネット 中村家住宅 https://hamamatsu-daisuki.net/search/area/are-west/post-396.html
じゃらん 中村家住宅 https://www.jalan.net/kankou/spt_22505ae2180022423/
次回、中村家住宅の北西の天神社。
(2021.4.16.)
☆ 中村家住宅(浜松市西区雄踏町宇布見)
1.浜松IC・浜松西ICから中村家住宅まで。長屋門。茅葺と瓦葺のミックスの屋根。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202104article_2.html
2.「和小屋組と扠首(さす)組が合わさった小屋組」、「浜松なのにイナカくさくない」、元 梁材を「柱」にするのではなく上り口に使用。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202104article_3.html
3.「押板」・畳敷きの部屋の囲炉裏・女性的な造りの和室。茶室。「浜松に『浜松流』、他の場所にはその場所流」と考えることができない浜松中心主義は困りもの。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202104article_4.html
4.「鏡戸」「板戸」。内側の雨戸、縦桟の格子。「面取り」した柱とそうでない柱。噛み合わせを設けて継いだ木材。細くない「貫」。飲食店なのに不衛生なしつらえの「花の舞」。嫌がらせの配置をされて学ぶ者と去る者。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202104article_5.html
5.胞衣塚・天神社跡地・茶室・屋敷神祠・井戸屋形、満開の桜。中家住宅(大阪府熊取町)・大国家住宅(岡山県和気町)について。3月下旬、中村家住宅の桜はきれい。〔今回〕
6.中村家 北西の天神社。元 中村家の氏神だった天神社。岩長姫は長寿の神? https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202104article_7.html
☆ 大鐘家と相良城跡(静岡県牧之原市)
(1)田沼意次の城下町相良の牧之原市片浜にある大鐘家住宅 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202009article_7.html
(2)井桁に組んだ梁・千木の載る長屋門・酔芙蓉。なぜ川勝平太は事故を起こした原子力発電を製造した会社の責任を問わずに、放射線量検査の方を拒否するのか https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202010article_1.html
(3)地形に合わせた建物の配置。「母屋」「上屋」と「庇」「下屋」。表側の庭と裏側の「小堀遠州庭園」https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202010article_2.html
(4)床の間と床脇。床柱と長押の位置関係。遠州流を他の地域の人に押しつける(株)一条工務店。会社のために協力する従業員を罠にかける(株)一条工務店 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202010article_3.html
(5)神棚の造りについて。その地域のやり方を無視する(株)一条工務店の営業。会社のルールを無視する営業本部長 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202010article_4.html
(6)土蔵・資料館。大鐘家の裏の丘からの眺望。相良城跡と田沼意次。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202010article_6.html
☆ 加茂荘花鳥園・加茂邸(掛川市)
1.「森掛川」I.C.より加茂荘花鳥園。温室と鳥舎。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202006article_2.html
2.花菖蒲園と長屋門。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202006article_3.html
3.加茂家住宅(1) 正玄関、土間、大黒柱・梁、庭の池と亀島と花。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202006article_4.html
4.加茂家住宅(2) 座敷、広縁・濡れ縁、廊下交差箇所の納まり、差鴨居。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202007article_1.html
5.加茂家住宅(3) 床の間 2か所。一般の柱と同材同寸法の床柱と長押の関係。床の手前の横の位置の付書院。きれいな襖絵。
6.加茂家住宅(4) 加茂家住宅の神棚は「竈の神さま」なのか。「浜松流神棚」を他地域に押しつける一条の営業。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202007article_3.html
7.加茂家住宅(5) 窓の格子。「理由のある」桟の作りと「理由のない」作り。味噌蔵・米蔵。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202007article_4.html
☆ 東京都 狛江市立古民家園
上 旧荒井家住宅主屋 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201509article_1.html
下 旧高木家住宅長屋門 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201509article_2.html
☆ 旧近藤家 長屋門(東葉学園 東葉門 )(千葉県船橋市)https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201907article_3.html
☆ 旧安西家住宅(千葉県木更津市)https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202009article_5.html

熊取六人衆の脱原発 - 哲二, 今中, 眞治, 川野, 裕章, 小出, 健, 瀬尾, 圭二, 小林, 徹, 海老澤

原発のない世界へ - 小出 裕章
原子力発電所は大変危険なもので、最近も福島第一原発事故による放射能汚染水の処理ができないといった問題が新聞に出ていたりしますが(そんなこと言っている最中に電力を相当消費するリニアモーターカーによる中央新幹線なんて作ろうという話がでているが)、片方で原子力発電は極めて危険なものであるという問題がありますが、浜名湖周辺のグーグル地図の上空写真のものを見ると太陽光発電が設置された土地が相当広い範囲で見られるのですが、新幹線の窓から、あるいは長距離バスの窓から外を見ていて太陽光発電の装置が広い範囲に設けられている場所を見ると、景観が良くないとともに、あまりいいものではないのではないかとも思われ、風力発電の大きな風車もまた、あまり景観がいいものではない。浜名湖周辺の太陽光発電設備を航空写真で見たものでも、見た目はいい印象を受けません。
水力発電と火力発電となら、水力発電の方が空気を汚さないでいいかと私は子供の頃は思ったのですが、静岡県の遠州地方においても、天竜川にダムをいくつも設置した結果、それまでは天竜川が太平洋に流し出した砂が太平洋の波で押し戻されてできた中田島砂丘がやせるという問題がでてきたようで、又、ダムを設置したことから川の魚が川を遡れないという事態も出ているらしい。武田邦彦氏のブログによると、天然ガスによる火力発電がこれからは主力として考えるべきではないか、ということでした。原子力発電は検討対象外として、それ以外の発電設備をどのように組み合わせるのか、又、同時に必要のない電力はいかに節電するかという問題があるようです。
電気による自動車の普及が環境を良くするという話が出ていましたが、理由がよくわかりません。電力による自動車は自動車が走っている場所の空気汚染はしないとしても、その電力を発電するまでには化石燃料を消費しているはずで、かつ、電気は備蓄すると目減りするのでその点で非効率のはずなのです。
(2021.4.16.)
☆ 《YouTuve-【武田邦彦】『太陽光発電はバカらしい!』 政府がひた隠すトンデモないデメリットをノーカットで暴露します!》https://www.youtube.com/watch?v=OyFQf2dUamg
《一条工務店の白旗山メガソーラー乱開発の説明会 日本共産党嘉飯地区委員会》http://jcp-kahan.info/archives/194
《YouTuve-【武田邦彦】トリチウム汚染水の毒性の“真実”を完全にノーカットで暴露します!》https://www.youtube.com/watch?v=y3Z_TBsO0Wc

偽善エネルギー (幻冬舎新書) - 武田 邦彦
「汚染水」にトリチウム以外の放射性物質が入っているのか入っていないのか・・・。 2011年3月の福島第一原発事故の時の日本の政権は民主党の政権でした。民主党が政権であった時期、株価はずいぶんと低かった。大地震や原発事故があれば何党のどの政権であったとしても全般的に株価は下がった可能性が大きいでしょうけれども、それにしても、民主党政権の時代は株価は低かった。株価が高くなっても株を持ってない人は関係ないとか言い出すおばさんもいるようですが、そうではなく、特定の会社の株価が下がるのではなく株価が全般的に下がるということは、一般に景気の悪化と連動している場合があり、「株を持っていない人」も関係ないわけではないはずです。民主党政権の時代は全般的に株価が低かったのですが、2011年3月の福島第一原発事故が民主党政権の時期に起ったことで良かった点として、おそらく、自民党政権の時に原発事故が起こっていたならば表に出ないものがもっとあったのではないか、民主党政権の時代に福島第一原発事故が起こったからまだしも表に出たものがあったのではないか・・と思われる点である。・・そして、福島第一原発の放射能汚染水を海洋に投棄するという話が出てきているが、今は民主党政権ではなく自民党の政権であり、おそらく、民主党政権の時代よりも表に出るものが少ない可能性が考えられる・・と思われる。
放射能汚染水を福島県沖の太平洋だけではなく大阪湾にも投棄すべきだなどと橋下徹と吉村なんとかが言い出したようだが、福島県沖と大阪湾とでは事情は同じではないはずだ。福島県沖に投棄すると太平洋全域に広がり、全世界の海に汚染が広がることになるが、同時に全世界の海に広がるかわりに特定地域での汚染は比較的軽度になることが考えられる。それに対して、大阪湾や瀬戸内海のような内海に投棄した場合には福島県沖のようには海水が入れ替わらないので、その地域での汚染はかなり深刻なものになることが考えられる。 全都道府県で負担すべきだとか橋下と吉村が言い出したようだが、全都道府県で負担するということは、滋賀県は琵琶湖に放射能汚染水を投棄しろということなのか? 京都府・大阪府の住民はその水を飲めということか? 山梨県は河口湖に投棄するのか? 奈良県は東大寺の大仏殿の前の池に投棄しろというのか、それともダム湖である津風呂湖にでも投棄しろと言うのか? 岐阜県はどうするのか? 岐阜県もダム湖に投棄しろと言うのか? 全都道府県で負担すべきだというのなら、全都道府県で海か湖か池かに投棄しなくても全都道府県で放射能汚染水の置き場を負担した方がいいということはないか。
そもそも、橋下は政治家を辞めると言ったはずだが、辞めると言ったにしては政治的発言が多いようだが、もちろん、「一市民」であっても政治に発言して悪いことはないであろうけれども、橋下の場合は「一市民の発言」としてのものとは思えない発言が多い。辞めると言ったのは大阪市長や大阪府知事を辞めるだけで政治家は辞めないのか? それなら、裏から操るような態度ではなく自分自身が議員になって発言した方がよっぽどまともではないか? 大阪府知事・大阪市長なら大阪に持ってくるなという方がまともであり、大阪湾にも放射能汚染水を投棄するなどと言う方がおかしいし、そういう発言が福島県民の為になるとも思えない。
橋下徹は大阪府知事だった時、原発に反対の姿勢を一時とっていたことがあったと思うが、福島県に電力を供給している電力会社は東北電力でありながら福島第一原発・福島第二原発を運営している電力会社は東京電力で、福島第一原発で発電された電気は送電線で東京圏に送られていたのであり、放射能汚染水を海に放散するのなら東京圏で利用する電気を発電していた原子力発電所のために出てきた放射能汚染水は福島県沖ではなく関東地方の沖に投棄するべきではないかというのなら一理あるが、それを大阪湾に投棄するという話になると事情は違う。全国の海に放射能汚染水を放散するのだからいいじゃないか・・という結論を福島県民は望んでいないのではないか。そうではなく、福島県の原子力発電所のために出た放射能汚染水とはいえ東京圏の電力のために発生したものを福島県沖に投棄するのはおかしい・・・のだから、そういった危険であるとともに不合理な原子力発電所はもうやめよう・・と考えるべきものではないか。全国の海を平等に放射能汚染するからいいじゃないかというのは議論がおかしい。
ネトウヨの人のコメントで、放射能汚染水は濃度が薄いものだからといったものを見たが、濃度を薄くしようと思えば太平洋から海水を汲んで薄めれば濃度は薄くできるのであり、濃度が薄いというのは意味がない。
(2021.4.26.)
静岡県浜松市西区雄踏町宇布見 の 中村家住宅 見学の5回目です。
中村家住宅では、出入口は現在では東よりの土間の南面に「大戸口」があり、これが主たる出入り口であり、土間の北面に「背戸口(せどぐち)(西)」と「背戸口(東)」があります。 土間の西の「ヒロシキ」という板貼りの部屋の南側に「上がり框」があったようです。入る人間の立場によって入口が違ったのでしょうか。
吉澤政己『日本列島民家の旅(6)中部1 東海・中央高地の住まい』(1996.4.30. INAX出版)に掲載されている平面図は中村家住宅でもらったリーフレットに掲載されている平面図と間取が異なっており、リーフレットに掲載されている平面図は中村家住宅が17世紀に建てられた頃の間取りに復元して公開した現在の建物の間取りで、吉澤政己『日本列島民家の旅(6)中部1 東海・中央高地の住まい』(1996.4.30. INAX出版)に掲載されている平面図は1996年に同書が出版された頃に中村さんが居住されていた時の間取りかと思われますが、同書に掲載されている平面図では、土間の西に南側は3部屋の畳敷きの部屋が並んでいるうちの中央の部屋、リーフレットでは「ヒロマ」となっている18帖の部屋が「ゲンカン」とされ、その南に出入口が設けられ、「ゲンカン」の北に「ネマ」「チャノマ」があり、西に「ザシキ」があるという配置になっています。 時代とともに、居住者にとって住み良い間取は変わるようです。保存して公開する場合に、どの時期の間取りのもので保存すべきかというのは難しいところがあるかとも思います。

東海・中央高地の住まい―日本列島民家の旅〈6〉中部 1 (INAX ALBUM) - 吉澤 政己, 入澤企画制作事務所
福島県いわき市内郷白水町 にある福島県で唯一の建築の国宝である白水阿弥陀堂と岩手県平泉市にある平泉金色堂は同じ頃の建築らしいのですが、平泉金色堂は建築された頃の状態に復元されて保存されているのに対して、白水阿弥陀堂の方は経年変化を受け入れた状態での保存としている。これはどちらの方がいいのかはいちがいに言えない。
奈良市の薬師寺は金堂を復元して金堂の前方東西に建築時はあったが長く東塔のみが存在したが、1981年に西岡常一棟梁により西塔が建造され、その後も回廊が作られて薬師寺建築時の伽藍配置に近づいている。しかし、建築されてから後、建築時と異なる伽藍配置の時代においての薬師寺に親しみを感じてきた人もいたわけで、1970年代、私が中学生の時に中学校の遠足で薬師寺に行った時と2000年代に薬師寺を訪問した時とではまるで別の寺に行ったような印象を受けたのだが、最初の創建時の伽藍配置に戻すという復元が絶対にいいのかどうかはよくわからないところもある。薬師寺の場合はそれでも創建時の状態に近づけることに意義はあるとは思うがすべての寺社がそうとは限らないでしょう。
東京の上野公園というのはもともとは寛永寺の敷地で、現在の寛永寺はかつての寛永寺の塔頭のひとつの場所にあり、もともとの寛永寺は今の上野公園の中央噴水のあたりに根本中堂(金堂)があり、国立博物館のあたりに本坊があったらしいが、明治になって、上野公園として利用されてきて、現在ではかつての寛永寺の敷地に上野動物園があり、東京芸大があり、東京文化会館・国立西洋美術館・国立科学館・東京都美術館があり、上野駅もかつての寛永寺の敷地にあるらしく、薬師寺のように寛永寺が最大規模を誇った時期の状態に戻そうとすると大変なことであるとともに、世界遺産に指定されたル=コルビュジェ設計の国立西洋美術館も撤去しないといけないことにもなる。すべてのものを過去の最大規模の状態に戻したり、創建時の状態に戻すとなると、現在、人がそこを利用して生活しているものを使えなくすることにもなり、生活上、あまりにも不便になることもある。奈良市の平城宮跡を横切っている近鉄奈良線を南に迂回させる計画があるらしいが、南に迂回させることで踏切が解消されるという生活上の利点もあるらしいが、近鉄奈良線としては迂回させることで西大寺から近鉄奈良駅までの距離がわずかにでも長くなることになり、それだけ所要時間が長くなることも考えられるわけで、過去の遺跡のために今の人間が生きているわけではないことを考えるならば、すでにその場所を走っている鉄道についてまで動かす必要があるのか、という問題もある。
大阪市北区の中之島の北側のあたりに「福沢諭吉 生誕の碑」が立って公園のようになった一画があるのだが、ここは、かつては中津藩下屋敷跡だったのだが、福沢諭吉はそこで生まれたが、親が中津の方に帰ることになり大分県の中津で育ったらしいのだが、その後、一時期、この場所は旧制大阪一中である北野高校の前身の堂島中学校があった場所でもあり、さらに、大阪大学医学部もその場所にあった時期があったはずで〔《大阪大学医学部の歩み》https://www.ichou.or.jp/pdf/history.pdf 〕、そういう場所に「福沢諭吉生誕の碑」というものを設けて公園のようにすると、その場所は「福沢諭吉生誕の地」であることに間違いはないとしてもそれ以外の場所でもあったにもかかわらず「福沢諭吉生誕の地」であるだけでそれ以外の場所ではないかのような主張をしているかのような印象を受けることになり〔実際、慶應の人、特に ””「塾風」「塾生」とか「福沢精神」とか言いまくらないとおれない人間シンドローム””の人には排他的で独善的な人が多く、かつ自分のそういう態度・精神的姿勢を自慢する人が多く、「福沢諭吉生誕の地」の碑にもそのニオイを私は感じたのだが〕、そういった偏狭な姿勢はそれ以外の場所としての思い入れがある人とってはその思い入れの気持ちを踏みにじる記念碑の建て方とも言える。
(1)中村家住宅のように、住宅としてその時代とともに使い方も変わり間取りも変わった建物を、復元保存して公開する場合に、どの時期の間取りで復元して公開するのか、という問題。
(2)白水阿弥陀堂と平泉金色堂で対比されるように、ある程度の経年変化を受け入れた状態で保存するのか、それとも、創建時の状態に戻すのか、という問題。
(3)多くの寺社などで見られるように、薬師寺のように創建時の状態に戻すのがいいのか、創建時と異なった状態になっても寺社などは異なった状態の寺社を参拝してきた人がいることを尊重して変化した状態を守った方がいいのかという問題とともに、さらにその後、上野公園のようにその場に別の施設が設けられた時に、どの施設を優先的に保存するべきなのか、という問題。
(4)又、上野公園内の施設や近鉄奈良線などのように、現在、その場所を今生きている人間が使用しているにもかかわらず、過去の状態に戻すと今生きている人間が生活に不便をきたす可能性がある場合もある、という問題。
(5)福沢諭吉生誕の碑のように、いくつもの性質を持つ場所でありながら、1つの性質のみについての記念碑を設けると、それ以外の性質の場所でもあるにもかかわらず、特定の性質のものだけを保存することになる、という問題。
これらが、史跡・文化遺産といったものを保存する際に問題となるのではないか、と思う。
中村家住宅において、徳川家康の側室の「お万の方」が家康の次男の結城秀康を出産して結城秀康は3歳までこの地で育ったそうで、その時に居住した建物は現在の中村家主屋ではなく、主屋の南西にあった建物らしく、今は存在していない。

↑ 主屋の南西に「天神社 跡地」と書かれた札が立っている区域があり、
《 明治13年(1880年)より 昭和33年(1958年)まで鎮座
弘化2年(1845年)津山藩8代藩主 松平齋民(なりたみ)公が再建したもの。
現在は中村家住宅の北西に移されている。釘隠しは津山藩 上屋敷 鍜治橋屋敷のものを使用した。》
と現地の説明書きには書かれているのですが。1880年、明治の前半から1958年、1950年の朝鮮戦争と1964年の東京オリンピックの真ん中あたりの時期まで存在した・・にしては、津山藩主の松平齋民公が「再建した」のはそれより前の1845年。
1845年というと19世紀中ごろ、
1868年の大政奉還よりも23年前、
1860年の桜田門外の変より15年前、
「異な国(1792)、ラックスマン、根室に来航」ロシアのラックスマンが根室に来航した1792年より53年後、
「嫌でごわす(1858)とムラビヨフ、愛琿(あいぐん)条約」でスタノボイ山脈以南・ウスリー川以北が清からロシア領になり、沿海州が清とロシアの「雑居の地」とされてその2年後の北京条約で沿海州もロシア領になった1858年の愛琿条約より13年前、
天保の改革がおこなわれたという天保年間は1830年 - 1843年、その少し後、
大塩平八郎の乱は1837年で、その8年後、
そういう時期に津山藩主の松平齋民公が「再建した」ということは、それよりも前に存在していたものを、天保の改革の後くらいの時期に津山藩主が再建して、さらに後の1880年から1958年、朝鮮戦争と東京オリンピックの中間頃、東海道新幹線開通の1964年の6年前までこの地にあって、その後、中村家住宅の北西の天神社に移った・・ということか。
中村家住宅の南西あたりに結城秀康が生まれて育った建物はあった・・ということは、このあたりにその建物はあったということなのか。

↑ 主屋の南側。
中村家住宅の主屋の南側の一番西の部屋の「ザシキ」にはその南側に「ザシキ 入側」という板敷きのスペースがあり、↓

こちらの部屋への出入口もあったらしく、南西の秀康が居住した建物と西寄の「ザシキ」との間で行き来ができるようになっていたのではないか。
結城秀康が産まれた時、胞衣(えな)(後産)を埋めたという「胞衣塚」が ↓

浜松市指定文化財 となっている。
日本博学倶楽部『』(2007.10.29. PHP研究所)には
《 結城秀康は、徳川家康の二男だが、家康のもとでは育っていない。側室の子として1574(天正2)年に生まれると、徳川家臣の本多重次(しげつぐ)のもとで育った。異母兄の信康のとりなしで、三歳になってようやく父子の対面を果たしている。家康が長らく秀康と会わなかったのは、自分の子かどうか疑ったためとも、正室・築山殿(つきやまどの)に気をつかったためともいわれている。・・》
と出ている。《ウィキペディアー結城秀康》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%90%E5%9F%8E%E7%A7%80%E5%BA%B7 には、
《 あくまで伝承ではあるが秀康は双子で誕生し、もう一人はすぐに亡くなったとする言い伝えがある。その後、家康が正室・築山殿の悋気を恐れたために、秀康を妊娠した於万は重臣の本多重次のもとに預けられたという。》
《幼名を於義伊(於義丸 / 義伊丸 / 義伊松)と名づけられた秀康は、父・家康とは満3歳になるまで対面を果たせなかった。その対面も、あまりの冷遇を受ける異母弟を不憫に思った兄・信康による取りなしで実現したものであったという。
冷遇の理由は、築山殿を憚ったためとも、双子で生まれてきたことにあるともされるが、寛永11年(1634年)に書かれた『中村家御由緒書』には「本多作左衛門が家康に委細を言上に及んだところ、家康には何か考えることがあり、お取り上げが難しいということになり」とだけ書かれており、研究者の小楠和正は武田勝頼との戦いに直面していたために家康は秀康を浜松城に引き取る機会も、対面する機会も持てなかったのではないかと推定している。》と出ている。
武将・大名が側室を持つことは珍しいことでもなく、正室の築山殿に気をつかう必要がそこまであったのか・・というと、《ウィキペディアー長勝院》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E5%8B%9D%E9%99%A2 には
《 はじめ徳川家康の正室・築山殿の奥女中で、家康の手付となり、於義伊(のちの結城秀康)を産んだとされるが、家康が永見氏を臣従させたときに万を仕えさせることを約束させ、元亀三年に浜松城に仕え、於義伊を産んだともされる。この時、双子であったといわれ、俗に永見貞愛がもう一人にあたるという。知立神社には、万が貞愛の容体を心配して送った手紙が残されている。当時、双子は「犬畜生と同じ双子腹」と忌み嫌われていたため、貞愛は万の実家・永見家に預けられ、於義伊も家康に嫌われ2歳(または3歳)の時に初めて家康と対面した。》と出ている。正室の築山殿の奥女中だった女であったからなのか。
双子であったとして、《当時、双子は「イヌ畜生と同じ双子腹」と忌み嫌われていた》ということがあって、地方によっては双子で産まれた場合には片方を生まれてすぐに殺して生き残るのは一人にしないといけないという伝統がある地域もあったとかいうお話もあるので、もしかして、殺された片方の遺体を埋葬したのが「胞衣塚」だという可能性はないか? ・・・とか、ふと思ったが、《俗に永見貞愛がそれにあたるという》という固有名詞まであるなら、双子の片方は殺されることはなく家康の子としては表に出なかっただけで、胞衣塚も実際に「胞衣」を埋めた場所か。
主屋の南西側に「天神社跡地」、主屋の西に「胞衣塚」があり、主屋の北西に「茶室」がある。↓

茶室の北側には「屋敷神祠(やしきがみほこら)」がある。↓

主屋の南西の「天神社跡」にあった天神社が、現在では、中村家住宅の道路を隔てた北西側にある天神社となり、菅原道真とともに後醍醐天皇や結城秀康もともに祀っており、浜松市西区役所まちづくり推進課・浜松市市民部文化財課編集『【国指定】重要文化財 中村家住宅』(2021年1月版。浜松市西区役所まちづくり推進課 発行)には「天神社跡地」について《 現在中村家住宅の北西にある天神社は、中村家の氏神で、元々中村家の敷地内にあり、昭和33年(1958年)までこの場所(「天神社跡地」)に鎮座していました。》と出ているのですが、現在、北西にある天神社が中村家の氏神だったのなら、この茶室の北に配置されている「屋敷神祠」は氏神さんとは別なのか?
歴史のある家では屋敷の神さんが複数存在することもあるのかもしれませんが、天神社とは異なる神を祀っていた祠だったのか。

↑ 主屋の北側の「井戸屋形(いどやがた)」。

↑ 主屋の南側の桜。 左側に見えるのは「展示棟」で、中村家と結城秀康との関係などが展示・解説されている。

↑ 長屋門の内側(西側)と桜。

↑ 主屋の北側の桜。
撮影は2021年3月28日、なかなか桜がきれいです。

↑ 北側の道路から見た桜もきれいです。
長屋門は現在は東側にあるが、かつては南側にあったものを東側に移築したらしい。現在は浜名湖の水面は中村家住宅よりある程度南に離れているが、かつてはすぐ南まで浜名湖はきていて船ですぐそばまで来ることができたらしく、家康なども船で来たのではないかと言われるらしい。 そう言われて地図を見直すと、中村家住宅のあたりまでは昔から陸地だったが、それより南側は今は陸地になっていてもかつては浜名湖の一部分だったのか?・・とも思える地形である。
今回、南側、浜名湖まで歩いてみたかったが時間が不足したことから見にいけなかったのは残念だった。



↑ 中村家住宅の主屋の屋根は茅葺で頂部のみが瓦葺きになっているが、これは庄屋でも武家に近い特別の扱いであったことから部分的に瓦葺きの屋根にすることを許されたものなのか? ・・・とも思ったのだが、浜松市西区役所まちづくり推進課・浜松市市民部文化財課編集『【国指定】重要文化財 中村家住宅』(2021年1月版。浜松市西区役所まちづくり推進課 発行)には、
《 このような茅葺屋根の大棟(おおむね)を本瓦葺とする古民家の例は珍しく、中村家住宅のほか、重要文化財では大阪府の中家住宅、岡山県の旧大国家住宅の二例しか確認されていません。》
と書かれています。
「大阪府の中家住宅」ですが、平山育夫『日本列島民家の旅(29)近畿1 近畿農村の住まい』(1994.12.15.INAX出版)を見ると、大阪府泉南郡熊取町 の「中家住宅」が掲載されており、
《 屋根形式・主な葺材――入母屋造、茅葺。
四面庇および西・東・北面突出部=本瓦葺 》
と書かれていますので、この大阪府泉南郡熊取町の「中家住宅」のことでしょうか。
平山育夫『日本列島民家の旅(29)近畿1 近畿農村の住まい』(1994.12.15.INAX出版)には、大阪府泉南郡熊取町の中家住宅とは別に、「奈良県生駒郡安堵村 の中家住宅」も掲載されていますが、「奈良県生駒郡安堵村 の中家住宅」は《 屋根形式・主な葺材――切妻造段違、茅・本瓦および桟瓦葺 》と書かれており、部分的に瓦屋根ではなく大阪府ではなく奈良県ですから「奈良県生駒郡安堵村 の中家住宅」のことではないでしょう。
林良彦『日本列島民家の旅(32)近畿2 近畿町家の住まい』(1995.11.20.INAX出版)には、「中家住宅」の記載はありません。又、大野敏『日本列島民家の旅(17)民家村の旅』(1993.8.30.INAX出版)には、大阪府豊中市の服部緑地にある日本民家集落博物館に移築されている建物から山田家住宅・泉家住宅・椎葉家住宅が掲載されていますが「中家住宅」の記載はありません。
平山育夫『日本列島民家の旅(29)近畿1 近畿農村の住まい』(1994.12.15.INAX出版)では「大阪府泉南郡熊取町の中家住宅」は《 公開状況――見学は11月初旬の2日間のみ。熊取町教育委員会(0724―52ー1101)に問い合わせのこと》と書かれていますが、インターネットで検索すると、
熊取町HP 中家住宅 https://www.town.kumatori.lg.jp/town_syoukai/syoukai_kankou/rekisi_bunnka/1297843613933.html
熊取町HP 公共施設案内 重要文化財 中家住宅について http://www.town.kumatori.lg.jp/shisetsu/nakakezyuutaku/shisetsu_annnai/1298600171219.html
などが出ており、
《熊取町HP 中家住宅 利用案内》https://www.town.kumatori.lg.jp/shisetsu/nakakezyuutaku/riyou_anai/index.html には、
《 開館時間:午前10時~午後4時30分(入館は午後4時まで)
休館日:水曜日(祝日の場合は翌日)・年末年始(12月29日~1月3日)
※1月,2月,8月の休館日は祝日を除く月~金曜日 》、
《熊取町HP 中家住宅見学の御案内》https://www.town.kumatori.lg.jp/shisetsu/nakakezyuutaku/shisetsu_annnai/1298594316017.html には、
《 休館日
1、2、8月は、月曜日から金曜日(ただし祝日は除く)
上記以外の月は、水曜日(祝日の場合は翌日)
年末年始(12月29日から翌年1月3日)
開館時間
午前10時から午後4時30分まで
ただし、入館は午後4時までにお願いいたします。
入館料
無料です。
申し込み
不要です。直接お越しください。 》
と出ているので、平山育夫『日本列島民家の旅(29)近畿1 近畿農村の住まい』(1994.12.15.INAX出版)が発行された1994年と違って現在では見学しやすくなったようです。
熊取・・というと、京都大学原理力実験所がある熊取、『熊取六人衆』の熊取ですが、《熊取町HP 中家住宅 アクセス》https://www.town.kumatori.lg.jp/shisetsu/nakakezyuutaku/access/access.html によると、「中家住宅」はJR阪和線「熊取」駅から徒歩で約20分くらいの場所にあるらしい。

近畿農村の住まい (INAX album―日本列島民家の旅 (29)) - 平山 育男, 入澤企画制作事務所

近畿町家の住まい (INAX album―日本列島民家の旅 (32)) - 林 良彦, 入澤企画制作事務所, 入澤美時, 坂井基樹

民家村の旅 (INAX ALBUM) - 大野 敏
「岡山県の旧大国家住宅」は、「岡山県和気郡和気町 の旧大国家住宅」が《ウィキペディアー旧大國家住宅》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A7%E5%A4%A7%E5%9C%8B%E5%AE%B6%E4%BD%8F%E5%AE%85 に《屋根は入母屋部分は茅葺で、切妻部分は棟が瓦葺で下部は茅葺、庇は瓦葺となっている。》と出ているので、おそらく、それでしょう。
《和気町 民俗資料館 旧大国家住宅》http://ww32.tiki.ne.jp/~wake/rekimin/ookunikejyuutaku.htm には《 平成29年(2017年)1月1日より、老朽化のため見学受付を休止させていただいております。》と出ており、見学は外観のみ可能のようです。場所はJR山陽本線「和気」駅と和気町役場の間くらいの場所のようです。
※ 浜松市HP 中村家住宅 https://www.city.hamamatsu.shizuoka.jp/bunkazai/shitei/yuto/yuto/nakamurake.html
ウィキペディアー中村家住宅(静岡県) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%9D%91%E5%AE%B6%E4%BD%8F%E5%AE%85_(%E9%9D%99%E5%B2%A1%E7%9C%8C)
YAHOO!ロコ 中村家住宅 https://loco.yahoo.co.jp/place/g-UjOVGKKqIWQ/?utm_source=dd_spot&sc_e=sydd_spt_slo_p_ttl&lsbe=1
浜松・浜名湖大好きネット 中村家住宅 https://hamamatsu-daisuki.net/search/area/are-west/post-396.html
じゃらん 中村家住宅 https://www.jalan.net/kankou/spt_22505ae2180022423/
次回、中村家住宅の北西の天神社。
(2021.4.16.)
☆ 中村家住宅(浜松市西区雄踏町宇布見)
1.浜松IC・浜松西ICから中村家住宅まで。長屋門。茅葺と瓦葺のミックスの屋根。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202104article_2.html
2.「和小屋組と扠首(さす)組が合わさった小屋組」、「浜松なのにイナカくさくない」、元 梁材を「柱」にするのではなく上り口に使用。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202104article_3.html
3.「押板」・畳敷きの部屋の囲炉裏・女性的な造りの和室。茶室。「浜松に『浜松流』、他の場所にはその場所流」と考えることができない浜松中心主義は困りもの。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202104article_4.html
4.「鏡戸」「板戸」。内側の雨戸、縦桟の格子。「面取り」した柱とそうでない柱。噛み合わせを設けて継いだ木材。細くない「貫」。飲食店なのに不衛生なしつらえの「花の舞」。嫌がらせの配置をされて学ぶ者と去る者。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202104article_5.html
5.胞衣塚・天神社跡地・茶室・屋敷神祠・井戸屋形、満開の桜。中家住宅(大阪府熊取町)・大国家住宅(岡山県和気町)について。3月下旬、中村家住宅の桜はきれい。〔今回〕
6.中村家 北西の天神社。元 中村家の氏神だった天神社。岩長姫は長寿の神? https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202104article_7.html
☆ 大鐘家と相良城跡(静岡県牧之原市)
(1)田沼意次の城下町相良の牧之原市片浜にある大鐘家住宅 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202009article_7.html
(2)井桁に組んだ梁・千木の載る長屋門・酔芙蓉。なぜ川勝平太は事故を起こした原子力発電を製造した会社の責任を問わずに、放射線量検査の方を拒否するのか https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202010article_1.html
(3)地形に合わせた建物の配置。「母屋」「上屋」と「庇」「下屋」。表側の庭と裏側の「小堀遠州庭園」https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202010article_2.html
(4)床の間と床脇。床柱と長押の位置関係。遠州流を他の地域の人に押しつける(株)一条工務店。会社のために協力する従業員を罠にかける(株)一条工務店 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202010article_3.html
(5)神棚の造りについて。その地域のやり方を無視する(株)一条工務店の営業。会社のルールを無視する営業本部長 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202010article_4.html
(6)土蔵・資料館。大鐘家の裏の丘からの眺望。相良城跡と田沼意次。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202010article_6.html
☆ 加茂荘花鳥園・加茂邸(掛川市)
1.「森掛川」I.C.より加茂荘花鳥園。温室と鳥舎。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202006article_2.html
2.花菖蒲園と長屋門。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202006article_3.html
3.加茂家住宅(1) 正玄関、土間、大黒柱・梁、庭の池と亀島と花。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202006article_4.html
4.加茂家住宅(2) 座敷、広縁・濡れ縁、廊下交差箇所の納まり、差鴨居。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202007article_1.html
5.加茂家住宅(3) 床の間 2か所。一般の柱と同材同寸法の床柱と長押の関係。床の手前の横の位置の付書院。きれいな襖絵。
6.加茂家住宅(4) 加茂家住宅の神棚は「竈の神さま」なのか。「浜松流神棚」を他地域に押しつける一条の営業。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202007article_3.html
7.加茂家住宅(5) 窓の格子。「理由のある」桟の作りと「理由のない」作り。味噌蔵・米蔵。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202007article_4.html
☆ 東京都 狛江市立古民家園
上 旧荒井家住宅主屋 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201509article_1.html
下 旧高木家住宅長屋門 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201509article_2.html
☆ 旧近藤家 長屋門(東葉学園 東葉門 )(千葉県船橋市)https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201907article_3.html
☆ 旧安西家住宅(千葉県木更津市)https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202009article_5.html

熊取六人衆の脱原発 - 哲二, 今中, 眞治, 川野, 裕章, 小出, 健, 瀬尾, 圭二, 小林, 徹, 海老澤

原発のない世界へ - 小出 裕章
原子力発電所は大変危険なもので、最近も福島第一原発事故による放射能汚染水の処理ができないといった問題が新聞に出ていたりしますが(そんなこと言っている最中に電力を相当消費するリニアモーターカーによる中央新幹線なんて作ろうという話がでているが)、片方で原子力発電は極めて危険なものであるという問題がありますが、浜名湖周辺のグーグル地図の上空写真のものを見ると太陽光発電が設置された土地が相当広い範囲で見られるのですが、新幹線の窓から、あるいは長距離バスの窓から外を見ていて太陽光発電の装置が広い範囲に設けられている場所を見ると、景観が良くないとともに、あまりいいものではないのではないかとも思われ、風力発電の大きな風車もまた、あまり景観がいいものではない。浜名湖周辺の太陽光発電設備を航空写真で見たものでも、見た目はいい印象を受けません。
水力発電と火力発電となら、水力発電の方が空気を汚さないでいいかと私は子供の頃は思ったのですが、静岡県の遠州地方においても、天竜川にダムをいくつも設置した結果、それまでは天竜川が太平洋に流し出した砂が太平洋の波で押し戻されてできた中田島砂丘がやせるという問題がでてきたようで、又、ダムを設置したことから川の魚が川を遡れないという事態も出ているらしい。武田邦彦氏のブログによると、天然ガスによる火力発電がこれからは主力として考えるべきではないか、ということでした。原子力発電は検討対象外として、それ以外の発電設備をどのように組み合わせるのか、又、同時に必要のない電力はいかに節電するかという問題があるようです。
電気による自動車の普及が環境を良くするという話が出ていましたが、理由がよくわかりません。電力による自動車は自動車が走っている場所の空気汚染はしないとしても、その電力を発電するまでには化石燃料を消費しているはずで、かつ、電気は備蓄すると目減りするのでその点で非効率のはずなのです。
(2021.4.16.)
☆ 《YouTuve-【武田邦彦】『太陽光発電はバカらしい!』 政府がひた隠すトンデモないデメリットをノーカットで暴露します!》https://www.youtube.com/watch?v=OyFQf2dUamg
《一条工務店の白旗山メガソーラー乱開発の説明会 日本共産党嘉飯地区委員会》http://jcp-kahan.info/archives/194
《YouTuve-【武田邦彦】トリチウム汚染水の毒性の“真実”を完全にノーカットで暴露します!》https://www.youtube.com/watch?v=y3Z_TBsO0Wc

偽善エネルギー (幻冬舎新書) - 武田 邦彦
「汚染水」にトリチウム以外の放射性物質が入っているのか入っていないのか・・・。 2011年3月の福島第一原発事故の時の日本の政権は民主党の政権でした。民主党が政権であった時期、株価はずいぶんと低かった。大地震や原発事故があれば何党のどの政権であったとしても全般的に株価は下がった可能性が大きいでしょうけれども、それにしても、民主党政権の時代は株価は低かった。株価が高くなっても株を持ってない人は関係ないとか言い出すおばさんもいるようですが、そうではなく、特定の会社の株価が下がるのではなく株価が全般的に下がるということは、一般に景気の悪化と連動している場合があり、「株を持っていない人」も関係ないわけではないはずです。民主党政権の時代は全般的に株価が低かったのですが、2011年3月の福島第一原発事故が民主党政権の時期に起ったことで良かった点として、おそらく、自民党政権の時に原発事故が起こっていたならば表に出ないものがもっとあったのではないか、民主党政権の時代に福島第一原発事故が起こったからまだしも表に出たものがあったのではないか・・と思われる点である。・・そして、福島第一原発の放射能汚染水を海洋に投棄するという話が出てきているが、今は民主党政権ではなく自民党の政権であり、おそらく、民主党政権の時代よりも表に出るものが少ない可能性が考えられる・・と思われる。
放射能汚染水を福島県沖の太平洋だけではなく大阪湾にも投棄すべきだなどと橋下徹と吉村なんとかが言い出したようだが、福島県沖と大阪湾とでは事情は同じではないはずだ。福島県沖に投棄すると太平洋全域に広がり、全世界の海に汚染が広がることになるが、同時に全世界の海に広がるかわりに特定地域での汚染は比較的軽度になることが考えられる。それに対して、大阪湾や瀬戸内海のような内海に投棄した場合には福島県沖のようには海水が入れ替わらないので、その地域での汚染はかなり深刻なものになることが考えられる。 全都道府県で負担すべきだとか橋下と吉村が言い出したようだが、全都道府県で負担するということは、滋賀県は琵琶湖に放射能汚染水を投棄しろということなのか? 京都府・大阪府の住民はその水を飲めということか? 山梨県は河口湖に投棄するのか? 奈良県は東大寺の大仏殿の前の池に投棄しろというのか、それともダム湖である津風呂湖にでも投棄しろと言うのか? 岐阜県はどうするのか? 岐阜県もダム湖に投棄しろと言うのか? 全都道府県で負担すべきだというのなら、全都道府県で海か湖か池かに投棄しなくても全都道府県で放射能汚染水の置き場を負担した方がいいということはないか。
そもそも、橋下は政治家を辞めると言ったはずだが、辞めると言ったにしては政治的発言が多いようだが、もちろん、「一市民」であっても政治に発言して悪いことはないであろうけれども、橋下の場合は「一市民の発言」としてのものとは思えない発言が多い。辞めると言ったのは大阪市長や大阪府知事を辞めるだけで政治家は辞めないのか? それなら、裏から操るような態度ではなく自分自身が議員になって発言した方がよっぽどまともではないか? 大阪府知事・大阪市長なら大阪に持ってくるなという方がまともであり、大阪湾にも放射能汚染水を投棄するなどと言う方がおかしいし、そういう発言が福島県民の為になるとも思えない。
橋下徹は大阪府知事だった時、原発に反対の姿勢を一時とっていたことがあったと思うが、福島県に電力を供給している電力会社は東北電力でありながら福島第一原発・福島第二原発を運営している電力会社は東京電力で、福島第一原発で発電された電気は送電線で東京圏に送られていたのであり、放射能汚染水を海に放散するのなら東京圏で利用する電気を発電していた原子力発電所のために出てきた放射能汚染水は福島県沖ではなく関東地方の沖に投棄するべきではないかというのなら一理あるが、それを大阪湾に投棄するという話になると事情は違う。全国の海に放射能汚染水を放散するのだからいいじゃないか・・という結論を福島県民は望んでいないのではないか。そうではなく、福島県の原子力発電所のために出た放射能汚染水とはいえ東京圏の電力のために発生したものを福島県沖に投棄するのはおかしい・・・のだから、そういった危険であるとともに不合理な原子力発電所はもうやめよう・・と考えるべきものではないか。全国の海を平等に放射能汚染するからいいじゃないかというのは議論がおかしい。
ネトウヨの人のコメントで、放射能汚染水は濃度が薄いものだからといったものを見たが、濃度を薄くしようと思えば太平洋から海水を汲んで薄めれば濃度は薄くできるのであり、濃度が薄いというのは意味がない。
(2021.4.26.)
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