浜松市西区雄踏町宇布見 の中村家北西の天神社 参拝。元 中村家の氏神だった天神社。岩長姫は長寿の神?
[第835回]冤罪を晴らす神さま・菅原道真・怨念を晴らすお百度まいり 第58念。
浜松市西区雄踏町宇布見の中村家住宅【6/6】
静岡県浜松市西区雄踏(ゆうとう)町宇布見(うぶみ) の 重要文化財 中村家住宅 の北側の道路を隔てた北西の天神社に参拝してきました。

↑ 鳥居の右脇の石碑には「天神社」と書かれています。
鳥居をくぐり、参道を北に進むと、社殿に至ります。↓

↑ 社殿の左手前の幟は「◇◇終息祈願」と書かれているようですが、最初の2文字は何と書かれているのかわかりません。
それほど大きな社殿ではありませんが、↑ の写真で見える正面は拝殿で、その後ろに幣殿・本殿とある3部形式の社殿です。↓

( ↑ 東側から見た社殿の東面。 左から拝殿・幣殿・本殿。)

( ↑ 東側から見た 幣殿と本殿 の部分。)


( ↑ 西側から見た社殿。 左から本殿・幣殿・拝殿。)
「西側から見た社殿」て、社殿の手前に生垣があるようだけれども、人さまの敷地に入って撮影したのか・・というと、西側の隣地は領家公民館という公民館の敷地ですので、天神社の撮影に立ち入らせてもらってもいいだろうと思って立ち入らせてもらって撮影しました。
住所は、静岡県浜松市西区雄踏(ゆうとう)町 宇布見(うぶみ)4962ー8 。 重要文化財に指定されている「中村家住宅」(浜松市西区雄踏町宇布見4912ー1 )の道路を隔てた北側に中村家住宅の訪問者用の駐車場があり、その西隣にこの天神社があります。 天神社の西隣は領家公民館。 背中合わせの北側に宇布見郵便局があります。


( ↑ 中村家住宅の北側の天神社。 静岡県浜松市西区雄踏(ゆうとう)町 宇布見(うぶみ)4962ー8 )
最寄駅というと、JR東海道本線「舞阪」駅になります。近くはありませんが、環境が悪い場所ではないので、付近がどんな場所か見ながら舞阪駅から歩いて行っても悪くはないかもしれません。 北側を東西に通る道路にバス停があるようで、中村家住宅でもらったリーフレットによると「宇布見領家」というバス停で、浜松駅から志都呂宇布見線という路線のバスに乗るとこのバス停に来るようです・・が、浜松駅からだとけっこうあるのではないかと思います。
宇布見郵便局という本局と思われる郵便局のすぐ東の信号がある交差点を南に曲がり、最初の四辻を右(西)に曲がると、中村家住宅の駐車場の西隣に天神社があります。
遠方から自家用車で行くとすると・・といっても、わざわざ千葉県から浜松市まで行く ””天神社フェチ”” は私くらいかもしれませんが、東名高速道路「浜松西」インターチェンジが一番近いインターチェンジですが、「浜松西」インターチェンジで高速道路を降りて右折、県道65号(浜松環状線)を南に進みます。左向こう(南東側)にイオンがある「南九領橋」という交差点を右折、さらに「堀出橋東」という信号がある交差点を右折して進むと、クリエイトエスティ― という薬店が北側にあり、さらに進むと、ウェルシア薬局雄踏店が北側にあり、さらに進むと北側に「かさご餃子」があって、左向こう(南西側)に宇布見郵便局が見えたあたりの信号がある交差点の左側(南側)に、中村家はあっちという看板が2つ出ているので、左折してその方向(南側)に進むと、右向こうに中村家住宅が見えてきます。最初の四辻の右手前側に中村家住宅の駐車場があり、その西隣が天神社です。
この天神社の西隣の領家公民館のさらに西のあたりに、息神社 という神社もあり、地図で見ると、息神社の方が天神社より少しだけ広いように見えますが、今回は息神社に訪問する時間はなかったので、息神社には訪問できませんでした。
中村家住宅の主屋の南西に「天神社跡地」があります。↓

中村家住宅で購入した 浜松市西区役所まちづくり推進課・浜松市市民部文化財課編集『【国指定】重要文化財 中村家住宅 2021年1月版』(浜松市西区役所まちづくり推進課 発行)には、
《 現在中村家住宅の北西にある天神社は、中村家の氏神で、元々中村家の敷地内にあり、昭和33年までこの場所(中村家住宅の主屋の南西の場所)に鎮座していました。》
と書かれています。
中村家住宅の「天神社跡地」の説明書きには、
《 明治13年(1880年)より 昭和33年(1958年)まで鎮座
弘化2年(1845年)津山藩8代藩主 松平齋民(なりたみ)公が再建したもの。
現在は中村家住宅の北西に移されている。釘隠しは津山藩 上屋敷 鍜治橋屋敷のものを使用した。》
と出ていたのですが、1845年というと「敗戦」「終戦」の1945年の100年前、
「いくさ長引く(1937)日中戦争」盧溝橋事件、日中戦争開始の1937年の100年前の1837年の大塩平八郎の乱の8年後、
天保の改革と言われた天保は1830年 - 1843年で、天保が終わった2年後、
「嫌(いや)でごわす(1858)とムラビヨフ」の愛琿(アイグン)条約の13年前・・
・・という時期に津山藩主が再建した・・「再建」ということはそれよりも前に中村家住宅内に天神社があったものを「再建」したということで、それを1958年、東海道新幹線開通・東京オリンピックの1964年の6年前に北西の現在地に移した・・ということのようです。
天神社での説明書きには、
《 御祭神 菅原道真命 ・ 後醍醐天皇 ・ 倉稲御魂(うかのみたま)神 ・ 岩長比賣(いわながひめ)命 ・ 松平秀康卿命 》
と書かれています。
「倉稲御魂(うかのみたま)」は『古事記』に登場する神で、稲の穀霊(いなり)・インドの神のダキニ天・秦氏の氏神と習合しています。「お稲荷さん」ですね。
「岩長比賣(いわながひめ)」は、《 大山津見神(おおやまつみ)の娘で、木花之佐久夜毘売(このはなさくやびめ)の姉 》《石長比売は岩の永遠性を表すものとされる。名義は「岩のように長久に変わることのない女性」と考えられる。》(《ウィキペディアーイワナバヒメ》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%AF%E3%83%8A%E3%82%AC%E3%83%92%E3%83%A1 )。
1993年、(株)一条工務店https://www.ichijo.co.jp/ の千葉県松戸市の展示場で、中途入社1年目の従業員に営業本部長の天野隆夫が「デザインがいいということは耐久性がないということだ。その点、うちは耐久性があるんだ」などと言うので、それでは「うちの娘は『スーパー耐久性ブス』ですよお」と自慢しているようなものではないか、そんなこと言われて誰がいいと思うんだ、変なことを教える人だな・・と思ったことがありました。そうでしょ。 「やっぱり、結婚するなら健康な女性が一番ですよ。美人でも薄命な人は困りますでしょ。その点、うちの娘はブスもブスもブス、ブス、ブス! なんといってもスーパー高耐久性ブスですからねえ」・・なんて言われて、「そうでんなあ、なんちゅうたって、ブスが一番でんなあ」なんて思いますか? 「やっぱり、結婚するなら健康な女性が一番ですよ。美人でも薄命な人は困りますでしょ。その点、うちの娘はブスもブスもブス、ブス、ブス! なんといってもスーパー高耐久性ブスですからねえ」なんて(株)一条工務店の営業本部長の天野隆夫みたいなこと言われたあかつきには、「ブスなんか、長生きするんじゃねえ!」とでも言いたくなりませんか?
まず、「デザインがいいということは耐久性がないということだ」なんて論理もしくは非論理がおかしいのです。建築というものは、構造・機能・デザイン・経済性をともに満たしてこそ建築であり、(株)一条工務店の建物がいいか悪いかの問題ではなく天野隆夫の言っていることがおかしい。「なんと言ってもうちの娘はスーパー高耐久性ブスですからねえ。耐久性があるんですよ」なんて言われて、「そりぁ、ええなあ」なんて・・、普通は思わんでしょ。
(株)一条工務店の営業本部長 兼 東京営業所長・松戸営業所長だった天野隆夫は実状を認識できていなかったからそういった発言をしたと思われますが、見込客の気持ちからすれば、建築というものは構造・機能・デザイン・経済性の4つをともに満たしてこそ建築であり、住宅においてもその4つを満たしてこそのものであると思っており、かつ、理屈としては「きっちりとした構造のもので、うちの予算で出せる金額のもので」と思っていて、まず、それが大事だと理屈では思っているのです。しかし、「きっちりとした構造のもの」が大事だと理屈では思っていても、やっぱり、ブサイクな家は嫌なのです。そうではなく、自分たちの好みにあって、かつ、建てる地域に合うデザインのものである場合に「こういうのがいいね」と思った時に、自分たちが考えている機能のもので自分たちの考えるデザインのものができそうだと思った時に、そういうものを建てている会社の営業から「間取やデザインよりも構造の方が大事なのです」「美人薄命では困りますね。長く住める家でないと」と言われると、「そうだよねえ」となり、その上で自分たちの予算で建てることができるものであるとわかると契約しようかということになるのです。それに対して、1993年頃、東京圏においては(株)一条工務店が建てていた住宅はその地域の住人から機能という点で求められていたものとは異なり、「イナカの家て感じですね」と言われ、「浜松の人というのはこんな家に住んでるのですか」と言われて住宅展示場を登呂遺跡でも見学した人みたいな発言をされたのですが、こんな家では嫌だと展示場の間取りなどを見て思われて、そして、「こんなイナカくさい家をなんでわざわざ建てなきゃならないの」と思われて、その上で、そういう会社の人間から「デザインがいいとか使いやすいとかいう家というのは耐久性がないということです。その点、一条工務店の家は耐久性があるんです」などと言われたのでは、いくら「耐久性」があっても使えない家とかあまりにもブサイクな家なんて要らんなあ・・と思われてしまうことになります。天野隆夫は誤解していたかもしれませんが、「機能やデザインよりも構造が大事です。耐久性のある家ということが大事なのです」と言って営業上プラスになるのはその家の機能やデザインが気に入った人に対してであって、決してその家の機能やデザインに幻滅を感じた人に対してではないのです。
坂本功『木造建築を見直す』(岩波新書)では、法隆寺などの飛鳥建築がなかなか優れたものであるのはたしかだけれども、高く評価しすぎではないかと思われるところもあり、ひとつには法隆寺が建つ地域はあまり大きな自然災害に合わなかった場所であるということがあり、五重塔が地震に強いと言われるけれども大阪市天王寺区の四天王寺の五重塔は室戸台風で倒壊したが、室戸台風はものすごい巨大な台風だったということがあるとしても、五重塔というのは「行ったり来たり」の地震の揺れには強くても一方向から連続的に力が加わる台風の力にはそれほど強くなかったのではないかという疑問があり、そして、地震の揺れに強かったとして、はたして、それは飛鳥時代の工人が地震に強いものを作ろうと考えて地震に強いものを作ったのか、たまたま、作ったものが地震に強いようにできていたのか、後者ではないのか・・といったことが述べられています。 (株)一条工務店の遠州地方の営業で、(株)一条工務店の展示場の間取りやデザインをけっこう気に入った人に構造の話をして、契約しようと思ってもらった営業担当者はいたでしょうけれども、ある程度以上売れていた人であっても、それは(株)一条工務店の展示場の間取りやデザインが遠州地方で家を建てる人に比較的合っているものだから、そういう人に構造の話をしてきっちりと建てていますよとアピールすると、その時点では、構造についてかなり甘い見方でその見込客は見てくれている、いったん、その間取やデザインのものを購入したいという気持になった人は構造の話をする場合にかなり甘めの見方で考えてくれていたし、機能やデザインを気に入ってくれていた人だから構造において納得すれば契約しようということになったのだという事実を理解・認識できて契約していたのか、そうではなく、たまたまやったら売れていたのか・・というと、最低でも過半数の浜松営業・「箱根の関より西・鈴鹿の関・不破の関より東の営業」はこのあたりの原理を理解しないで売っていたと思われます。浜松・掛川・名古屋の営業はこのあたりの原理を理解しないで、理解できていない営業でも売れる場所で営業させてもらって「売らせてもらってきた」のです。名古屋南展示場の所長の近藤路夫なんか典型的です。

木造建築を見直す (岩波新書) - 坂本 功
(株)一条工務店の営業本部長の天野隆夫さんは「一族」として20代の頃に浜松でちょろっと営業やっただけの経験の人であり、浜松でしか営業の経験がない人であり、(株)一条工務店の建物というのは展示場の建物にしても間取もデザインも浜松向けでできており、浜松近辺の人にとっては「ちょうどいい」ものにできていたけれども、東京圏の住人からすれば「なに、これえ」と言われるもので、間取りや機能が「ちょうどいい」と思い、デザインもその場所に合っていて「ちょうどいい」と思った人に「デザインよりも耐久性があるかどうか、構造が何より大事なんです」と言えば、「そうだよねえ」となるのに対して、「なに、これえ」「うち、浜松で建てるんじゃないんですけどお」「うわっ、イナカの家みたいですね」「いかにもイナカて感じですね」とか言ってる人に「デザインよりも耐久性が大事なんですよ」などと言えば、「耐久性、耐久性というあたり、やっぱり、一条工務店はイナカの会社ねええ~え!!!」ということになってしまうのです。それを20代の頃に浜松でちょろっと特別扱いの営業やっただけしか営業の経験がない(株)一条工務店の営業本部長の天野隆夫は理解できていなかった。
人間の心理というものを考えてみる必要があります。その相手に魅力を感じた時、魅力を感じた相手に健康上問題はないかということを検討して問題がないとなると、その相手と結婚なり契約なりしようと考えだします。もしも、少しくらい健康上問題があったとしても、その相手に魅力を感じた人間は一生懸命それでもいい理由を考え出そうとします。スタンダール『恋愛論』(新潮文庫)には「クリスタザリオン」(「結晶作用」)という言葉が出ています。別名「ザルツブルクの小枝」とも言います。ザルツブルクには岩塩を取る鉱山があり、そこに枯れ枝を1本投げ込んで一晩おくと、そこには塩の結晶ができており、もはや、そこには枯れ枝は見当たらない。恋する男の心を一晩おいておくとこれと同じことが起る・・・といい、それを「クリスタザリオン」「結晶作用」とスタンダールは呼んでいる。戸建住宅を建てようとしている人が、間取りや機能の点でその会社で建てると自分たちが思っているような家ができそうだと思い、かつ、デザインも自分たちが考えているものに合っていてその地域にも馴染みそうだと思ったならば、その段階で「構造がより大事なんですよ」と言われると「それはもっともだ」と思うとともに、いったん、機能とデザインについて魅力を感じて納得した人は構造について考える時、比較的いいように解釈しようとしがちで「採点基準」がかなり甘めなのです。
アメリカ合衆国のプラグマティズムの哲学者ウィリアム=ジェイムズだかが「悲しいから泣くのではなく、泣くから悲しいのだ」と言ったようだが、住宅を求める見込客にもそんなところはあり、「いいものだから魅力を感じるのではなく、魅力を感じるものはいいものだと考えたくなる」みたいな面が間違いなくあるのです。魅力を感じたものについては、構造についての話をするにしても、いいと思いやすいのに対して、魅力を感じないものについて「構造がいいんです」と言われてもいいと思いにくい、相当厳しい基準で見ることになります。
※ 《ウィキペディアーウィリアム・ジェイムズ》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%A0%E3%82%BA
「なに、これえ」と間取・機能やデザインについて思われた見込客に対して「うちの娘はブスでしょお~お。ブスってことは耐久性があるということなんです。一条工務店の家というのはスーパー高耐久性ブスなんですよ。ブスもブスもブス、ブス、ブス。もんのすごいブスですから耐久性があるんです。契約しましょう」と言われても、要らんわい、そんなもん!!! となります。そのあたりの人間の心理というものを天野隆夫はまったく理解できていないのです。「浜松でしか営業やったことない人間」はたいていの人間がこれです。「遠州人」(あくまでも「(株)一条工務店の遠州人」のことです。「遠州人一般」がどうかという問題ではありません。「遠州人一般」にはそれに該当する人も該当しない人もおられるのではないか、と思います。)にそのあたりをわからせてあげようと思っても無理です。スタンダールの『恋愛論』でも読んでみたらどうか・・と思ってもそういう人は読みませんしね・・・。

恋愛論 (新潮文庫) - スタンダール, 昇平, 大岡

人間性の心理学―モチベーションとパーソナリティ - A.H. マズロー, 小口 忠彦

人間性の心理学 (岩波新書 青版 670) - 宮城 音弥
もうひとつ、「耐久性がある」という表現は「地方」においては高く評価されるのですが、都市圏においては「耐久性」ばかり言うと、むしろ、「『耐久性』『耐久性』ばっかり言うというあたり、やっぱり、お宅はイナカの会社ねえ」となるのです。都市圏においても住宅は耐久性は必要ですよ。実際、クルマなら10年乗ったら「けっこう、よく乗ったかなあ」という感じですが住宅は30年住んでも「まだ、建ててそれほど経ってない」みたいな感覚のものですから、耐久性は都市圏においても住宅には必要なのですが、言い方というものがあるのです。(株)一条工務店の営業本部長の天野隆夫はそれを理解できていない。かつ、理解できていない男が東京営業所長・松戸営業所長を兼任していたのです。
又、建築は構造・機能・デザイン・経済性の4つが満たされてこそ建築ですが、(株)一条工務店の浜松の本社が教える「構造アプローチ」というのは、あくまでも対在来木造での話であり、在来木造以外の所が競合の場合に通じる話はないのです。これは「地方」においては「家というものは在来木造で建てるもの」という観念を強く持っている人が都市圏と違って多いということがあり、遠州地方においては「対在来木造だけの構造アプローチ」でもそれでも建ててもらえる見込客はあったのですが、東京圏においてはそうはいかない・・ということを理解できない人が営業本部長で東京営業所長・松戸営業所長を兼任していたのです。
されにもうひとつ、その会社の商品についての話を営業がする際、見込客は話の内容とともに担当営業も見ているのです。私が話せば、論理的・理論的・科学的に話をしますし、時には記憶違いや言い間違いがあるかもしれませんが嘘は言わないのですが、天野隆夫の場合は、たとえば、1993年、松戸展示場にいた中途入社1年目の松田(男。当時、20代後半)が展示場で接客した見込客が「エスバイエルのハウス55というの、あれでいいのじゃないかと思ってるんだ」と松田に話したと事務所に戻ってきて話すと、天野隆夫がどう言ったかというと「『エスバイエルで建てたら地震が来たら家がひっくり返りますよ』と、こう言ってやれ」と言うので、これではなあ~あ( 一一)・・・とあきれた・・ということがありました。そういうのを喜ぶ人というのも中にはあるようなのですよ。しかし、そういうのを嫌がる人もいるのです。嫌がる人の方が多いと思います。一般に在来木造で建てる人と在来木造以外で建てる人では在来木造で建てる層には論理的でない・理論的でない・科学的でないものを受け入れる人の割合が比較的大きいと考えられているのですが、それでも、そういった同業他社への論理的でない・科学的でない悪口雑言を喜ばない、嫌がる人はいるのです。特に、エスバイエル(株)〔←小堀住研(株)、→ヤマダエスバイエルホーム(株)→ヤマダホームズ(株)〕は1993年頃は木質パネル構法が主で「ハウス55」は木質パネル構法によるもので、この木質パネル構法というのは在来木造とツーバイフォー工法(枠組壁工法)の両方を参考にして考えられた新しい構法ですから、それだけに、こういう理由で木質パネル構法は強い・・といった理論、特に在来木造よりも強いという理論、在来木造より耐久性は優れているという理論があり、その頃の(株)一条工務店には構造専用のカタログはなかったのに対して、エスバイエル(株)には木質パネル構法の構造について専用のカタログもありましたし、そういった話を「よっぽどおかしな営業」でなければ展示場来場客にしているはずであり、そういった話を聞いてきた見込客に対して 「『エスバイエルで建てたら地震が来た時にひっくり返りますよ』と言ってやれ」なんて天野隆夫が””指導””していたようなことを言ったのでは、「なんて品の悪い営業なんだ」と思われ「こんな営業の話なんて聞いてもしかたがない」と思われて嫌われるとともに、(株)一条工務店はそういった論理的でない・理論的でない・科学的でない悪口雑言を言う会社であるということは、あまり良い構造の建物ではないということか・・という印象を与えることになります。特に、木質パネル構法というのは「在来木造より・・という点で優れている」という話が多く、それぞれにその理屈・理論がありますから、それに対して「地震が来た時にひっくり返りますよ」では、それでは「ああ、この人はこんなことしか言えない下品で不勉強な人なんだな」と軽蔑されるだけでしょう。小堀住研(株)→エスバイエル(株) は1993年に松田が松戸展示場で「エスバイエルの『ハウス55』というの、あれでいいのじゃないかと思ってるんだ」と見込客から言われた頃までは、比較的広い価格帯で建てていた会社で、クルマに例えるならば(株)一条工務店が「クラウンくらい」の価格帯のものしかなかったのに対して、エスバイエル(株)はカローラからクラウン・センチュリーまである会社で、「ハウス55」というのはそのうちの「カローラ」だったのですが、「エスバイエルで建てたら地震が来た時にひっくり返りますよ」は単に不勉強で同業他社がどういうものを建てているか学習しておらず、同業他社がどういったものを建てているか理解できていないからいいかげんなことを””指導””していたのですが、カローラからクラウン・センチュリーまで建てていた会社の「カローラ」のものについても、「ハウス55なんか建てたら地震が来た時にひっくり返りますよ」という天野隆夫の「構造アプローチ」というのは、それはトヨタ以外のクルマの会社の営業が論拠もなく「カローラなんて買ったらハンドル右に切ったら左に曲がりますよ」とか「カローラなんて買ったらブレーキ踏んだら加速しますよ」とか言っているようなもので、そういう営業を喜ぶ人というのも百人に一人くらいあるのかもしれませんが、普通はそういうことを言われると「変な営業だなあ」「下品な営業だなあ」「良心的でない営業だなあ」と思われ、特にその頃の(株)一条工務店の東京圏での評価は「東京圏では実績がないえたいの知れない浜松のいなかくさい工務店」でしたから、「東京圏では実績がないえたいの知れない浜松のいなかくさい工務店」の営業から言われると「あんな変な会社、相手にしない方が良さそうだな」と判断されることになる可能性が大きいでしょう。 私は運転免許を取って最初に運転したクルマはカローラでしたが、カローラはハンドルを右に切ったら左に曲がったりはしません。カローラはハンドルを右に切ったら右に曲がります。カローラはブレーキ踏んだら加速したりしません。カローラはブレーキ踏んだら減速します。同業他社の建物に対して論理的でない・科学的でない悪口雑言を大声で言うという「一条オリジナル構造アプローチ」というのが営業上プラスになると営業本部長の天野隆夫は考えていたようですが、それはマイナスになると私は思います。「オウンゴール」「自爆」行為となる可能性が小さくないと思います・・・が、それを理解できない人が(株)一条工務店の営業本部長になっていたのであり、そういう人が東京営業所長・松戸営業所長を兼任していたのです。東京都江東区潮見のウッディランド東京にあった東京展示場で1993年前半に契約いただいた方を「工場見学会」の時と別に私が浜松工場に案内して、その後、天竜川駅の南側の総合住宅展示場に(株)一条工務店の展示場が新しいきれいな建物が3つ建っていた所に案内したのですが、その際、浜松の営業が横で来場客に「構造アプローチ」として話しているのが聞こえたのですが、鉄骨造の建築現場の現場事務所か休憩所に使う仮設の軽量鉄骨造の建物が錆びている写真を見せて「錆びてますでしょ。こういうもののことを『プレハブ』と言うのです」などと言うので、いいかげんなことを言うやつだなあ~あ・・とあきれたし、そういった「一条オリジナル」「浜松流」の「構造アプローチ」を教えてそういった無茶苦茶な話を言わせたがる経営者というのは困ったものだと思いました。「プレハブ」というのは、英語のプレファブリケイト prefabricate 、プレファブリケイション prefabrication の略で「あらかじめ形作る」「あらかじめ形作ったもの」という意味で、木質系のもの・鉄骨系のもの・コンクリート系のものがあり、鉄骨造でも積水ハウス・パナホーム・大和ハウスとか旭化成とかが建てている軽量鉄骨造の建物というのは、建築現場の軽量鉄骨造の仮設小屋とは別なのです。そういういいかげんなことを言うと東京圏の見込客なら「こんな営業は相手にしない方がいい」と判断される可能性が小さくないのに対して、浜松ではそれで通じるらしく、浜松営業はそれを得意がってやっていたのです。1992年前半に浜松の展示場にいて1992年8月に東京展示場に本人の希望で転勤してきた、(株)一条工務店ではその時点で通算契約棟数全国2位だった「平松所長の直弟子」という小野田くん(男。当時、20代前半)はさらに「ぷれっはぶう~う!」などと言ってみせたりしていたので、世の中にはいろいろな人がいるのだろうけれども、私ならそんな態度の営業だと、それを原因として断るだろうなあ・・と思ったものでした。その「ぷれっはぶう~う!」とか言ってみせるのがそれが「平松所長のやり方」というものらしいのですが、しかし、その点については、本当かあ?・・とも思ったのです。なぜなら、その平松さんから私も一度だけ平松さんがやっている「構造アプローチ」について実演して見せてもらったことがあるのですが、平松さんは小野田君みたいに「ぷれっはぶう~う!」なんてやらないのです。平松さんがやらなくて小野田くんがやっていることを「平松所長のやり方」と小野田くんは言うのでしたが、実際にはその人がやってもいないことをやっていると他で言いまくっているということはないのか? 私だって、1993年に松戸展示場に中途入社した秋山だったかいう男(当時、20代後半)から私が一言も言ったことないようなことを私から教えられたなどと言われたことがあったが、平松さんも時分が言ったこともないことを「平松所長のやり方」だとして広められていたという可能性は十分にありうることではないか・・とも思ったのです。その「ぷれっはぶう~う!」とかほっぺたふくらませて言ってみせるという、まるで天野隆夫が「エスバイエルで建てたら地震が来たらひっくり返りますよと言ってやれ」みたいな下品で非科学的・非論理的な態度は、小野田くんは「平松所長のやり方」と言うが平松さん自身はやってないのではないか。しかし、天竜川駅南総合住宅展示場の浜松営業は建築現場の仮設の軽量鉄骨造が錆びている写真を指差して「錆びてますでしょ。こういうもののことを『プレハブ』と言うのですね」などと得意がって言い、「おいおい、おまえ、何言ってんだよ。それはあくまでも『建築現場の軽量鉄骨造の仮設小屋』であって『プレファブリケイテッド ハウス』とは別物だろうが。何をいいかげんなこと言ってんだよ」と思い、「おいおい、そんなこと言ったら、お客さん、離れてしまうぞ」と思っていたら、そうではなく、浜松の見込客・来場客というのはそんないいかげんな話を聞いて「へえ。そうなんですかあ~あ」などと言って感心して聞いていたので、「この人、いったい何?」と片方で思うとともに、そうなんだあ、ここでは(浜松近辺では)こんないいかげんなことを言っても、こんないいかげんな営業でも通じるんだあ~あ、浜松近辺の見込客というのは東京展示場や松戸展示場の来場客・見込客とは全然違う人間なんだあ・・と認識を新たにした・・・ということがありました。
『古事記』の文章を読むと、邇邇芸命(ににぎのみこと)が美人だったコノハナサクヤヒメを嫁に欲しいと考えたが、父親の大山津見神(おおやまつみ)は、醜かった姉のイワナガヒメと2人セットで妻にさせたが、ニニギノミコトは美人の妹はいるけれども、ブスは要らんと言って返却しよったそうで、《 大山津見神はそれを怒り、「石長比売を差し上げたのは天孫が岩のように永遠のものとなるように、木花之佐久夜毘売を差し上げたのは天孫が花のように繁栄するようにと誓約を立てたからである」ことを教え、石長比売を送り返したことで天孫の寿命が短くなるだろうと告げた。》ということだった・・・が、ニニギノミコトですらも「スーパー高耐久性ブス」は要らんわあ~あ・・・と返したというようなもので、「デザインがいいということは耐久性がないということだ。その点、うちの建物はスーパー高耐久性ブスで、ブスもブスもブス、ブス、ブス。耐久性があるブスですから。家を建てるなら、何と言っても、スーパー高耐久性ブスに限りますね♪」なんて言われても、要らんわい!!!・・・と思われるでしょう。そんな言い方ではだめですね。
・・それで、なぜ、ここでその「スーパー高耐久性ブス」の神さんが祀られているのか・・というと、「長寿の神さま」ということではないのでしょうか。決して「ブスの神さま」ではないと思いますよ。たぶん・・・(^^)/
菅原道真命 ・ 後醍醐天皇 ・ 松平秀康卿命の3人は実在した人間です。天神社ですから菅原道真が祀られるのは当然として、後醍醐天皇が祀られているというのは、中村家は源範頼の子孫でもともとは武士だったらしく、南北朝の争乱の時には南朝側についたらしく、そこから後醍醐天皇が祀られているのでしょう。
その後、今川氏・徳川氏に仕え、徳川家康の側室の「お万の方」が家康の次男の秀康を出産する時、中村家で出産して3歳まで中村家で育ったらしい。秀康は、その後、羽柴秀吉の養子となって、秀吉の「秀」と家康の「康」で「秀康」という、その時代においてはものすごい名前を持ち、羽柴秀康から豊臣秀康となったが、秀吉に子供ができて、茨城県の結城氏の養子になって結城秀康を名のり、今では「結城秀康」という言い方が一般的になっているが、さらに後に越前松平家の祖となり、松平秀康となった。 江戸幕府の2代目の将軍は秀忠で、秀忠は三男だったが、次男の秀康が家督を継ぐことができなかったのは、秀忠の母親と秀康の母親では秀康の母親の家系の方が弱かったとも言われるけれども、より大きな問題は、豊臣の養子であった者が徳川の家督を継ぐわけにはいかないというそちらではないか。司馬遼太郎『関ケ原(上・中・下)』(新潮社)では、石田三成が加藤清正らによる「七将襲撃事件」で領国の近江佐和山に帰る際、瀬田まで同行した話が出ており、《 三成はその労を感謝し、正宗の刀を秀康に贈った。この名刀は「石田正宗」と称され、秀康の末裔にあたる津山松平家に伝世されている(名刀「石田正宗」は現在、東京国立博物館蔵)》( 《ウィキペディアー結城秀康》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%90%E5%9F%8E%E7%A7%80%E5%BA%B7 )という話がある。徳川の息子でありながら、豊臣の養子であって豊臣恩顧の大名ともつきあいがあり、「微妙な立場」だったと描かれている。関ケ原の戦いにおいても、関ケ原まで行って石田三成ら豊臣恩顧の大名と戦うのではなく、関東に残って上杉・佐竹を牽制する役割を担当させられたというのも、豊臣恩顧の大名と戦わせたくないという事情があったか。
日本博学倶楽部『戦国武将「できる男」の意外な結末』(2007.10.29.PHP研究所)には「結城秀康 1574ー1607) 家康の二男なのに将軍になれなかった男」として、
《 結城秀康は、徳川家康の二男だが、家康のもとでは育っていない。側室との子として1574(天正2)年に生まれると、徳川家臣の本多重次(しげつぐ)のもとで育った。異母兄の信康のとりなしで、三歳になってようやく父子の対面を果たしている。家康が長らく秀康と会わなかったのは、自分の子かどうか疑ったためとも、正室・築山殿に気をつかったためともいわれている。
1584(天正12)年、秀康は豊臣秀吉のもとに人質同然の養子として送られた。それでも誇り高く豪胆な性格が秀吉に気にいられ、6年後に秀吉のはからいで下総の結城家の養子となり、結城10万石を継いでいる。・・・
ついに将軍になれなかった秀康だが、関ケ原の戦いの功労により、松平姓に戻って越前67万石を与えられた。越前松平家は、将軍の威令の及ばない「制外の家」という特権も与えられている。秀康自身は34歳の若さで病死したが、その子供たちはそれぞれ大名となり、子孫は江戸時代を通じて家名を保っている。》
と書かれている。

戦国武将「できる男」の意外な結末(愛蔵版) - 日本博学倶楽部
もっとも、日本博学倶楽部『戦国武将「できる男」の意外な結末』(2007.10.29.PHP研究所)には、
《 ・・家康率いる東軍が石田三成らと戦うために西に向かう際、秀康は上杉景勝の牽制を命じられた。強力な上杉軍が南下して関東を攻撃すれば、家康は本拠地を失いかねないからだ。それを防ぐ仕事は一見地味だが、重要な役割だった。
秀康はこの院無をまっとうし、宇都宮城に入ってにらみをきかせることによって、上杉軍の進軍を防いだのである。・・》
と書かれているのだが、実際はそういうことではなく、秀康は徳川家康の息子であっても、同時に豊臣秀吉の養子として大阪城で過ごした時期があって西軍側の武将とのつきあいがあり、たとえそうであっても秀康が西軍側につくということはないであろうと思われたものの、関ケ原で西軍側の武将と戦いにくいという立場から関東に残されたということはないか・・。
秀康は、1607年、1600年の関ケ原の戦いの7年後、1614年の大阪冬の陣の7年前、34歳の若さで他界したが、《ウィキペディアー結城秀康》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%90%E5%9F%8E%E7%A7%80%E5%BA%B7 によると、
《 慶長12年3月1日に越前へ帰国し、そのまま閏4月8日に死去。享年34。死因は『当代記』に「日来唐瘡相煩、其上虚成」とあるから、梅毒ではなかったかとされる。また梅毒が直接の死因ではなく、梅毒による衰弱症が死因とする指摘もある。なお曲直瀬玄朔の『医学天正記』には、「越前宰相殿、瀉利・発熱・咽渇・五令ニ加滑」とあり、他の難病にもとりつかれていたようである。》
とあり、34歳で他界というと悲劇の若大名のように思えるものの、死因が「梅毒で」となると・・なんだか・・ということにもなるが、断定的にこの病気でと言えるわけではないらしい。
中村家にとっては、秀康が中村家で産まれたということがあり、秀康が越前松平家67万石の大大名となった後も、《この縁により、のちの歴代福井藩主は参勤交代の際、中村家で供応を受ける慣例が続いた。》(《ウィキペディアー結城秀康》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%90%E5%9F%8E%E7%A7%80%E5%BA%B7 )ということがあり、又、《ウィキペディアー津山藩》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%A5%E5%B1%B1%E8%97%A9 には《元禄11年(1698年)、結城秀康を祖とする越前松平家分家の松平宣富が10万石で入部、以後廃藩置県まで松平氏が治めるところとなった。》とあり、中村家住宅の主屋の南西の「天神社跡」に《 弘化2年(1845年)津山藩8代藩主 松平齋民(なりたみ)公が再建したもの。 現在は中村家住宅の北西に移されている。釘隠しは津山藩 上屋敷 鍜治橋屋敷のものを使用した。》というのも、美作国津山藩の藩主は秀康の子孫であったことからのようだ。だから、中村家にとっては秀康は「神さま」のようなところがあったのだろう。
それで、中村家の氏神様であった・・とすると、なぜ、天神社なのだろう・・という問題がある。 中村家は源範頼の子孫だということならば、清和源氏は八幡神を氏神としたはずだったが、中村家の氏神が八幡社ではなく天神社というのはなぜか・・。 源氏でも源範頼は義経とともに平氏追討に功績をあげたものの、その後、源頼朝からはしりぞけられた存在であり、又、中村家は南北朝の争乱の時には南朝側についたものの、ここでも南朝側は敗者になったという経緯があり、「敗者の神」であった 菅原道真≒天神 と通じるものがあったか・・・。
武光誠『日本人なら知っておきたい 神道と神社』(2007.1.10. 河出書房新社)には、
《 菅原道真が活躍した時代は、中央で藤原氏による独裁体制が確立したことにより、貴族の専制が志向されつつあった。それにたいし、地方では、村落の小領主である武士や農村の秩序の外にある商工民が成長しつつあった。菅原道真は、そのような実状をふまえて地方の人びとのためになる政治をおこなおうとし、藤原氏に憎まれた。
そして、道真の怨霊騒ぎがはじまったことをきっかけに、武士や商工民が道真をまつりはじめた。そして、平安時代末期に八幡信仰が流行し、武士が天神に代わって八幡神を祀るようになった。それ以降、天神が商工民の神とされたのだ。
江戸時代に、稲荷信仰や七福神信仰などの新たな福の神の祭りが広まったことによって、天神と商工民とのつながりは後退していった。
それとともに、幕府の保護を受けた朱子者の天神信仰がさかんになった。かれらは、道真の詩文を読み、道真をすぐれた詩人や儒学者として尊敬したのである。
この動きがもとになって、明治時代以降に、庶民のあいだにも天神を学問の神とする考えが広がっていった。》
と出ている。
菅原道真≒天神 ・・学問の神、八幡神・・武士の神 と、いつの時代も決まっていたわけではなく、菅原道真≒天神は「武士や商工民の神」であった時代もあったらしい。もっとも、中村家は源範頼の子孫とはいえ、この地で氏神様を設けたのは平安時代ではなく、源範頼より後、鎌倉時代より後のはずなので、武士の神は菅原道真≒天神 ではなくなってきた時代に設けられたのではないかとも思えるが。 徳川家康が江戸に移った後には庄屋として武士ではなくなり、それほど武家的ではなくなったのか。徳川家から尊重された庄屋とはいえ、源範頼は源頼朝との争いに敗れ、南北朝の争乱では南朝側が破れ、結城秀康は家康の二男とはいえ将軍家の後継にはなれず、そのあたりが 「敗者の神」としての 菅原道真≒天神 に近づく傾向となったのかどうか・・。

日本人なら知っておきたい神道と神社 神々に何を求め、どうつき合ってきたかが、ひと目でわかるイラスト図解版 - 武光 誠
(2021.4.17.)
☆ 中村家住宅(浜松市西区雄踏町宇布見)
1.浜松IC・浜松西ICから中村家住宅まで。長屋門。茅葺と瓦葺のミックスの屋根。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202104article_2.html
2.「和小屋組と扠首(さす)組が合わさった小屋組」、「浜松なのにイナカくさくない」、元 梁材を「柱」にするのではなく上り口に使用。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202104article_3.html
3.「押板」・畳敷きの部屋の囲炉裏・女性的な造りの和室。茶室。「浜松に『浜松流』、他の場所にはその場所流」と考えることができない浜松中心主義は困りもの。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202104article_4.html
4.「鏡戸」「板戸」。内側の雨戸、縦桟の格子。「面取り」した柱とそうでない柱。噛み合わせを設けて継いだ木材。細くない「貫」。飲食店なのに不衛生なしつらえの「花の舞」。嫌がらせの配置をされて学ぶ者と去る者。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202104article_5.html
5.胞衣塚・天神社跡地・茶室・屋敷神祠・井戸屋形、満開の桜。中家住宅(大阪府熊取町)・大国家住宅(岡山県和気町)について。3月下旬、中村家住宅の桜はきれい。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202104article_6.html
6.中村家 北西の天神社。
★ 冤罪を晴らす神さま・菅原道真・怨念を晴らすお百度参り
静岡県
深奥山 方広寺 七尊堂(浜松市北区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201707article_13.html
浜松市西区雄踏町宇布見 の 中村家住宅北側の天神社 〔今回〕
愛知県
熱田神宮内 菅原社(外天神)と内天神社(名古屋市熱田区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201711article_10.html
千葉県
葛飾天満宮(市川市) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201301article_4.html
白幡天神社(市川市)
1.https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201511article_1.html
2.https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201511article_2.html
3.https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201511article_3.html
市川市北方町4丁目の天神社 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201608article_2.html
意富比神社 末社天神社(船橋市) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201302article_10.html
船橋市東船橋の「天神社」 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201311article_1.html
下飯山満神明神社 摂社天神社(船橋市) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201503article_4.html
白井市河原子の天満宮 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201303article_5.html
子守神社 摂社天神社(千葉市花見川区)https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201605article_3.html
千葉神社 摂社千葉天神 と 鵜の森町の「神札」(千葉市中央区)
(上)https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201305article_2.html
(下)https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201305article_3.html
北總天満宮(千葉市中央区)https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201308article_1.html
新町天満宮(千葉市中央区)
【上】 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201703article_6.html
【下】 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201703article_7.html
大網白里市駒込の天満宮 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202012article_1.html
大網白里市大竹の天満宮 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202012article_2.html
平群天神社(南房総市 平久里中)
1.富楽里、道の駅おおつの里。平群天神社への道。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202101article_2.html
2.伊予ヶ岳・夫婦クスノキ・天神縁起絵巻・鳥居から拝殿へ。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202101article_3.html
3.天神社社殿、木製打上花火筒、朝日山神照寺、民俗資料館跡? https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202101article_4.html
岩井市部天満神社(南房総市市部)参拝。拝殿・幣殿・本殿の3部形式の社殿。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202101article_5.html
東京都
亀戸天神社(江東区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201301article_7.html
亀戸天神社 2回目 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201505article_1.html
湯島天神社(文京区)
上 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201602article_10.html
中 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201602article_11.html
下 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201602article_12.html
北野神社(文京区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201303article_2.html
平河天満宮(千代田区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201210article_3.html
西向天神社(新宿区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201502article_1.html
根津美術館 庭園内 渡唐天神祠(「飛梅祠」)(港区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201603article_3.html
若林天満宮・若林北野神社(世田谷区)https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201312article_5.html
平塚神社 摂社菅原神社〔平塚天神社〕(北区)https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201807article_10.html
谷保天満宮(国立市)
1.谷保駅から鳥居。「やほ」と「やぼ」。「面白い地名」とは? https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201903article_1.html
2.鳥居から坂を下り、拝殿・本殿と鶏。会社にいる『水滸伝』登場人物 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201903article_2.html
3.五社、三郎殿、厳島神社(市登録有形建造物)、左右に2体ずついる狛犬、座牛 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201903article_3.html
4.神楽殿・筆塚。ひとに「親孝行せえよお」と言ってストレス解消する教育勅語主義者https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201903article_4.html
5.梅林、稲荷社、第六天神社。建築は構造・機能・デザイン・経済性をともに満たしてこそ https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201903article_5.html
本町田 菅原神社(町田市本町田)
上 赤い鳥居・井手の澤の谷地・弁天社・御本社・牛の絵。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202102article_2.html
中 御本社・参集殿・神楽殿。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202102article_4.html
下 愛宕社・藤木稲荷・井手の澤古戦場碑。枝が垂れ下がる梅の木。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202102article_5.html
町田天満宮(町田市原町田)https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202102article_1.html
神奈川県
三渓園天満宮(横浜市中区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201303article_8.html
永谷天満宮(横浜市港南区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201309article_1.html
荏柄天神社(鎌倉市) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201401article_7.html
北野神社(鎌倉市山崎)https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201504article_2.html
下平間天満天神社(川崎市幸区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202003article_14.html
幸区東古市場の天満天神社(川崎市幸区)と御幸公園
1.下平間交差点・古市場交差点を経て天満天神社。気分の悪い古市場交番も健在。「両親が離婚した」者は常に不利ではない、ということも理解できないバカ女。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202003article_15.html
2.二度の移転で現在地に来た天満天神社と入口脇の梅。出入の厳重そうな東芝小向工場と管理不十分な(株)一条工務店・(株)日本産業の「いいかげんそう」工場 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202003article_16.html
3.御幸公園。植樹された梅林。役立たず教師・予備校。医者屋族は特権民族なのか? 子猫を助けられなかった思い出。「武蔵小杉」のマンション山。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202003article_17.html
岐阜県
飛騨天満宮(高山市)
上 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201309article_7.html
中 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201309article_8.html
下 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201309article_9.html
村山天神(高山市国府町)
1上枝駅から宮川沿い https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201409article_2.html
2村山天神 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201409article_3.html
3村山天神 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201409article_4.html
4あじめ峡、他 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201409article_5.html
桜山八幡宮 摂社天満神社(高山市) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201510article_7.html
日の出天満宮(高山市) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_13.html
石川県
金沢神社(金沢市) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_1.html
椿原天満宮(金沢市) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_2.html
田井菅原神社(金沢市) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_3.html
京都府
北野天満宮(京都市上京区)
1 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201302article_2.html
2 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201302article_3.html
3 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201302article_4.html
4 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201302article_5.html
5 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201302article_6.html
高台寺天満宮(京都市東山区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201511article_7.html
曼殊院天満宮(京都市上京区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201608article_4.html
長岡天満宮(長岡京市)
1.八条ヶ池 他 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201703article_10.html
2.拝殿・祝詞舎・本殿・手水舎他 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201703article_11.html
3.春日社八幡宮社・紅梅殿・白梅殿・社務所(連歌所)他 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201703article_12.html
4.梅園、長岡稲荷、錦景園他 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201704article_1.html
大阪府
大阪天満宮(大阪市北区)
1.https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201403article_1.html
2.https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201403article_2.html
3.https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201403article_4.html
露の天神社(お初天神)(大阪市北区)
上 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201403article_5.html
下 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201403article_6.html
綱敷天神社(大阪市北区)
1.綱敷天神とは。「北野」の由来。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201604article_6.html
2.社殿と桜。堅魚木と千木。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201604article_7.html
3.「戦災の狛犬」、筆塚。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201604article_8.html
4.白龍社、歯神社。綱敷天神社の周囲https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201604article_9.html
綱敷天神社 御旅社(大阪市北区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201405article_11.html
池田市天神1丁目・2丁目 http://shnkahousinght.at.webry.info/201405/article_10.html
西江寺 摂社天満大自在天神(箕面市) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201611article_5.html
箕面市粟生間谷の天満宮
上 箕面市粟生間谷の天満宮 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201709article_14.html
下 粟生間谷の天満宮の周辺 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201709article_15.html
上新田天神社(豊中市)
1 千里中央駅から。電柱看板の是非。卑怯者不動産屋店長https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201701article_15.html
2 鳥居から参道階段を経て拝殿へ。「他力」とは https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201701article_16.html
3 拝殿・本殿・牛・屋根・稲荷社他 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201701article_17.html
4 神社の社殿を背後から見下ろす下品な高層マンション https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201701article_18.html
上宮天満宮(高槻市)
1.JR「高槻」駅から上宮天満宮へ。大きな一の鳥居をくぐり石段へ。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201811article_2.html
2.絵馬堂・神輿庫・御霊屋・割拝殿。セキュリティーの難しさ https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201811article_3.html
3.竹製の本殿。菅原道真と為理と孝標。山崎の戦い後に建てられた旧本殿 〔今回〕
4.本殿裏末社。神社の「経営」「経営者」とは。捨て猫はどう対処すべきか https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201811article_5.html
5.摂社野身神社、車塚古墳、鉄骨で支えた石の鳥居。反則相撲の野彌宿祢 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201811article_6.html
6.天満宮を見下ろす 地域の「気の流れ」を乱す 家相が悪い 高層マンションhttps://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201811article_7.html
7.「不純異性交遊」の男の大学は「同じ大学なのに」と考えるべきか?https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201811article_8.html
8.東大はスーパー京大ではない、厚い本を使えばいいというものではない。高槻駅前 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201811article_9.html
9.和訳でない問題で日本語訳を書くな、親が組みしやすいと親に吹き込む予備校 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201811article_10.html
10.北山本山寺の石碑、景観重点地区、女性客の多い店でも入るのが商学士の使命 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201811article_11.html

裁判官はなぜ誤るのか (岩波新書) - 秋山 賢三

絶望の裁判所 (講談社現代新書) - 瀬木 比呂志

狂った裁判官 (幻冬舎新書) - 薫, 井上
浜松市西区雄踏町宇布見の中村家住宅【6/6】
静岡県浜松市西区雄踏(ゆうとう)町宇布見(うぶみ) の 重要文化財 中村家住宅 の北側の道路を隔てた北西の天神社に参拝してきました。

↑ 鳥居の右脇の石碑には「天神社」と書かれています。
鳥居をくぐり、参道を北に進むと、社殿に至ります。↓

↑ 社殿の左手前の幟は「◇◇終息祈願」と書かれているようですが、最初の2文字は何と書かれているのかわかりません。
それほど大きな社殿ではありませんが、↑ の写真で見える正面は拝殿で、その後ろに幣殿・本殿とある3部形式の社殿です。↓

( ↑ 東側から見た社殿の東面。 左から拝殿・幣殿・本殿。)

( ↑ 東側から見た 幣殿と本殿 の部分。)


( ↑ 西側から見た社殿。 左から本殿・幣殿・拝殿。)
「西側から見た社殿」て、社殿の手前に生垣があるようだけれども、人さまの敷地に入って撮影したのか・・というと、西側の隣地は領家公民館という公民館の敷地ですので、天神社の撮影に立ち入らせてもらってもいいだろうと思って立ち入らせてもらって撮影しました。
住所は、静岡県浜松市西区雄踏(ゆうとう)町 宇布見(うぶみ)4962ー8 。 重要文化財に指定されている「中村家住宅」(浜松市西区雄踏町宇布見4912ー1 )の道路を隔てた北側に中村家住宅の訪問者用の駐車場があり、その西隣にこの天神社があります。 天神社の西隣は領家公民館。 背中合わせの北側に宇布見郵便局があります。
( ↑ 中村家住宅の北側の天神社。 静岡県浜松市西区雄踏(ゆうとう)町 宇布見(うぶみ)4962ー8 )
最寄駅というと、JR東海道本線「舞阪」駅になります。近くはありませんが、環境が悪い場所ではないので、付近がどんな場所か見ながら舞阪駅から歩いて行っても悪くはないかもしれません。 北側を東西に通る道路にバス停があるようで、中村家住宅でもらったリーフレットによると「宇布見領家」というバス停で、浜松駅から志都呂宇布見線という路線のバスに乗るとこのバス停に来るようです・・が、浜松駅からだとけっこうあるのではないかと思います。
宇布見郵便局という本局と思われる郵便局のすぐ東の信号がある交差点を南に曲がり、最初の四辻を右(西)に曲がると、中村家住宅の駐車場の西隣に天神社があります。
遠方から自家用車で行くとすると・・といっても、わざわざ千葉県から浜松市まで行く ””天神社フェチ”” は私くらいかもしれませんが、東名高速道路「浜松西」インターチェンジが一番近いインターチェンジですが、「浜松西」インターチェンジで高速道路を降りて右折、県道65号(浜松環状線)を南に進みます。左向こう(南東側)にイオンがある「南九領橋」という交差点を右折、さらに「堀出橋東」という信号がある交差点を右折して進むと、クリエイトエスティ― という薬店が北側にあり、さらに進むと、ウェルシア薬局雄踏店が北側にあり、さらに進むと北側に「かさご餃子」があって、左向こう(南西側)に宇布見郵便局が見えたあたりの信号がある交差点の左側(南側)に、中村家はあっちという看板が2つ出ているので、左折してその方向(南側)に進むと、右向こうに中村家住宅が見えてきます。最初の四辻の右手前側に中村家住宅の駐車場があり、その西隣が天神社です。
この天神社の西隣の領家公民館のさらに西のあたりに、息神社 という神社もあり、地図で見ると、息神社の方が天神社より少しだけ広いように見えますが、今回は息神社に訪問する時間はなかったので、息神社には訪問できませんでした。
中村家住宅の主屋の南西に「天神社跡地」があります。↓

中村家住宅で購入した 浜松市西区役所まちづくり推進課・浜松市市民部文化財課編集『【国指定】重要文化財 中村家住宅 2021年1月版』(浜松市西区役所まちづくり推進課 発行)には、
《 現在中村家住宅の北西にある天神社は、中村家の氏神で、元々中村家の敷地内にあり、昭和33年までこの場所(中村家住宅の主屋の南西の場所)に鎮座していました。》
と書かれています。
中村家住宅の「天神社跡地」の説明書きには、
《 明治13年(1880年)より 昭和33年(1958年)まで鎮座
弘化2年(1845年)津山藩8代藩主 松平齋民(なりたみ)公が再建したもの。
現在は中村家住宅の北西に移されている。釘隠しは津山藩 上屋敷 鍜治橋屋敷のものを使用した。》
と出ていたのですが、1845年というと「敗戦」「終戦」の1945年の100年前、
「いくさ長引く(1937)日中戦争」盧溝橋事件、日中戦争開始の1937年の100年前の1837年の大塩平八郎の乱の8年後、
天保の改革と言われた天保は1830年 - 1843年で、天保が終わった2年後、
「嫌(いや)でごわす(1858)とムラビヨフ」の愛琿(アイグン)条約の13年前・・
・・という時期に津山藩主が再建した・・「再建」ということはそれよりも前に中村家住宅内に天神社があったものを「再建」したということで、それを1958年、東海道新幹線開通・東京オリンピックの1964年の6年前に北西の現在地に移した・・ということのようです。
天神社での説明書きには、
《 御祭神 菅原道真命 ・ 後醍醐天皇 ・ 倉稲御魂(うかのみたま)神 ・ 岩長比賣(いわながひめ)命 ・ 松平秀康卿命 》
と書かれています。
「倉稲御魂(うかのみたま)」は『古事記』に登場する神で、稲の穀霊(いなり)・インドの神のダキニ天・秦氏の氏神と習合しています。「お稲荷さん」ですね。
「岩長比賣(いわながひめ)」は、《 大山津見神(おおやまつみ)の娘で、木花之佐久夜毘売(このはなさくやびめ)の姉 》《石長比売は岩の永遠性を表すものとされる。名義は「岩のように長久に変わることのない女性」と考えられる。》(《ウィキペディアーイワナバヒメ》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%AF%E3%83%8A%E3%82%AC%E3%83%92%E3%83%A1 )。
1993年、(株)一条工務店https://www.ichijo.co.jp/ の千葉県松戸市の展示場で、中途入社1年目の従業員に営業本部長の天野隆夫が「デザインがいいということは耐久性がないということだ。その点、うちは耐久性があるんだ」などと言うので、それでは「うちの娘は『スーパー耐久性ブス』ですよお」と自慢しているようなものではないか、そんなこと言われて誰がいいと思うんだ、変なことを教える人だな・・と思ったことがありました。そうでしょ。 「やっぱり、結婚するなら健康な女性が一番ですよ。美人でも薄命な人は困りますでしょ。その点、うちの娘はブスもブスもブス、ブス、ブス! なんといってもスーパー高耐久性ブスですからねえ」・・なんて言われて、「そうでんなあ、なんちゅうたって、ブスが一番でんなあ」なんて思いますか? 「やっぱり、結婚するなら健康な女性が一番ですよ。美人でも薄命な人は困りますでしょ。その点、うちの娘はブスもブスもブス、ブス、ブス! なんといってもスーパー高耐久性ブスですからねえ」なんて(株)一条工務店の営業本部長の天野隆夫みたいなこと言われたあかつきには、「ブスなんか、長生きするんじゃねえ!」とでも言いたくなりませんか?
まず、「デザインがいいということは耐久性がないということだ」なんて論理もしくは非論理がおかしいのです。建築というものは、構造・機能・デザイン・経済性をともに満たしてこそ建築であり、(株)一条工務店の建物がいいか悪いかの問題ではなく天野隆夫の言っていることがおかしい。「なんと言ってもうちの娘はスーパー高耐久性ブスですからねえ。耐久性があるんですよ」なんて言われて、「そりぁ、ええなあ」なんて・・、普通は思わんでしょ。
(株)一条工務店の営業本部長 兼 東京営業所長・松戸営業所長だった天野隆夫は実状を認識できていなかったからそういった発言をしたと思われますが、見込客の気持ちからすれば、建築というものは構造・機能・デザイン・経済性の4つをともに満たしてこそ建築であり、住宅においてもその4つを満たしてこそのものであると思っており、かつ、理屈としては「きっちりとした構造のもので、うちの予算で出せる金額のもので」と思っていて、まず、それが大事だと理屈では思っているのです。しかし、「きっちりとした構造のもの」が大事だと理屈では思っていても、やっぱり、ブサイクな家は嫌なのです。そうではなく、自分たちの好みにあって、かつ、建てる地域に合うデザインのものである場合に「こういうのがいいね」と思った時に、自分たちが考えている機能のもので自分たちの考えるデザインのものができそうだと思った時に、そういうものを建てている会社の営業から「間取やデザインよりも構造の方が大事なのです」「美人薄命では困りますね。長く住める家でないと」と言われると、「そうだよねえ」となり、その上で自分たちの予算で建てることができるものであるとわかると契約しようかということになるのです。それに対して、1993年頃、東京圏においては(株)一条工務店が建てていた住宅はその地域の住人から機能という点で求められていたものとは異なり、「イナカの家て感じですね」と言われ、「浜松の人というのはこんな家に住んでるのですか」と言われて住宅展示場を登呂遺跡でも見学した人みたいな発言をされたのですが、こんな家では嫌だと展示場の間取りなどを見て思われて、そして、「こんなイナカくさい家をなんでわざわざ建てなきゃならないの」と思われて、その上で、そういう会社の人間から「デザインがいいとか使いやすいとかいう家というのは耐久性がないということです。その点、一条工務店の家は耐久性があるんです」などと言われたのでは、いくら「耐久性」があっても使えない家とかあまりにもブサイクな家なんて要らんなあ・・と思われてしまうことになります。天野隆夫は誤解していたかもしれませんが、「機能やデザインよりも構造が大事です。耐久性のある家ということが大事なのです」と言って営業上プラスになるのはその家の機能やデザインが気に入った人に対してであって、決してその家の機能やデザインに幻滅を感じた人に対してではないのです。
坂本功『木造建築を見直す』(岩波新書)では、法隆寺などの飛鳥建築がなかなか優れたものであるのはたしかだけれども、高く評価しすぎではないかと思われるところもあり、ひとつには法隆寺が建つ地域はあまり大きな自然災害に合わなかった場所であるということがあり、五重塔が地震に強いと言われるけれども大阪市天王寺区の四天王寺の五重塔は室戸台風で倒壊したが、室戸台風はものすごい巨大な台風だったということがあるとしても、五重塔というのは「行ったり来たり」の地震の揺れには強くても一方向から連続的に力が加わる台風の力にはそれほど強くなかったのではないかという疑問があり、そして、地震の揺れに強かったとして、はたして、それは飛鳥時代の工人が地震に強いものを作ろうと考えて地震に強いものを作ったのか、たまたま、作ったものが地震に強いようにできていたのか、後者ではないのか・・といったことが述べられています。 (株)一条工務店の遠州地方の営業で、(株)一条工務店の展示場の間取りやデザインをけっこう気に入った人に構造の話をして、契約しようと思ってもらった営業担当者はいたでしょうけれども、ある程度以上売れていた人であっても、それは(株)一条工務店の展示場の間取りやデザインが遠州地方で家を建てる人に比較的合っているものだから、そういう人に構造の話をしてきっちりと建てていますよとアピールすると、その時点では、構造についてかなり甘い見方でその見込客は見てくれている、いったん、その間取やデザインのものを購入したいという気持になった人は構造の話をする場合にかなり甘めの見方で考えてくれていたし、機能やデザインを気に入ってくれていた人だから構造において納得すれば契約しようということになったのだという事実を理解・認識できて契約していたのか、そうではなく、たまたまやったら売れていたのか・・というと、最低でも過半数の浜松営業・「箱根の関より西・鈴鹿の関・不破の関より東の営業」はこのあたりの原理を理解しないで売っていたと思われます。浜松・掛川・名古屋の営業はこのあたりの原理を理解しないで、理解できていない営業でも売れる場所で営業させてもらって「売らせてもらってきた」のです。名古屋南展示場の所長の近藤路夫なんか典型的です。

木造建築を見直す (岩波新書) - 坂本 功
(株)一条工務店の営業本部長の天野隆夫さんは「一族」として20代の頃に浜松でちょろっと営業やっただけの経験の人であり、浜松でしか営業の経験がない人であり、(株)一条工務店の建物というのは展示場の建物にしても間取もデザインも浜松向けでできており、浜松近辺の人にとっては「ちょうどいい」ものにできていたけれども、東京圏の住人からすれば「なに、これえ」と言われるもので、間取りや機能が「ちょうどいい」と思い、デザインもその場所に合っていて「ちょうどいい」と思った人に「デザインよりも耐久性があるかどうか、構造が何より大事なんです」と言えば、「そうだよねえ」となるのに対して、「なに、これえ」「うち、浜松で建てるんじゃないんですけどお」「うわっ、イナカの家みたいですね」「いかにもイナカて感じですね」とか言ってる人に「デザインよりも耐久性が大事なんですよ」などと言えば、「耐久性、耐久性というあたり、やっぱり、一条工務店はイナカの会社ねええ~え!!!」ということになってしまうのです。それを20代の頃に浜松でちょろっと特別扱いの営業やっただけしか営業の経験がない(株)一条工務店の営業本部長の天野隆夫は理解できていなかった。
人間の心理というものを考えてみる必要があります。その相手に魅力を感じた時、魅力を感じた相手に健康上問題はないかということを検討して問題がないとなると、その相手と結婚なり契約なりしようと考えだします。もしも、少しくらい健康上問題があったとしても、その相手に魅力を感じた人間は一生懸命それでもいい理由を考え出そうとします。スタンダール『恋愛論』(新潮文庫)には「クリスタザリオン」(「結晶作用」)という言葉が出ています。別名「ザルツブルクの小枝」とも言います。ザルツブルクには岩塩を取る鉱山があり、そこに枯れ枝を1本投げ込んで一晩おくと、そこには塩の結晶ができており、もはや、そこには枯れ枝は見当たらない。恋する男の心を一晩おいておくとこれと同じことが起る・・・といい、それを「クリスタザリオン」「結晶作用」とスタンダールは呼んでいる。戸建住宅を建てようとしている人が、間取りや機能の点でその会社で建てると自分たちが思っているような家ができそうだと思い、かつ、デザインも自分たちが考えているものに合っていてその地域にも馴染みそうだと思ったならば、その段階で「構造がより大事なんですよ」と言われると「それはもっともだ」と思うとともに、いったん、機能とデザインについて魅力を感じて納得した人は構造について考える時、比較的いいように解釈しようとしがちで「採点基準」がかなり甘めなのです。
アメリカ合衆国のプラグマティズムの哲学者ウィリアム=ジェイムズだかが「悲しいから泣くのではなく、泣くから悲しいのだ」と言ったようだが、住宅を求める見込客にもそんなところはあり、「いいものだから魅力を感じるのではなく、魅力を感じるものはいいものだと考えたくなる」みたいな面が間違いなくあるのです。魅力を感じたものについては、構造についての話をするにしても、いいと思いやすいのに対して、魅力を感じないものについて「構造がいいんです」と言われてもいいと思いにくい、相当厳しい基準で見ることになります。
※ 《ウィキペディアーウィリアム・ジェイムズ》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%A0%E3%82%BA
「なに、これえ」と間取・機能やデザインについて思われた見込客に対して「うちの娘はブスでしょお~お。ブスってことは耐久性があるということなんです。一条工務店の家というのはスーパー高耐久性ブスなんですよ。ブスもブスもブス、ブス、ブス。もんのすごいブスですから耐久性があるんです。契約しましょう」と言われても、要らんわい、そんなもん!!! となります。そのあたりの人間の心理というものを天野隆夫はまったく理解できていないのです。「浜松でしか営業やったことない人間」はたいていの人間がこれです。「遠州人」(あくまでも「(株)一条工務店の遠州人」のことです。「遠州人一般」がどうかという問題ではありません。「遠州人一般」にはそれに該当する人も該当しない人もおられるのではないか、と思います。)にそのあたりをわからせてあげようと思っても無理です。スタンダールの『恋愛論』でも読んでみたらどうか・・と思ってもそういう人は読みませんしね・・・。

恋愛論 (新潮文庫) - スタンダール, 昇平, 大岡

人間性の心理学―モチベーションとパーソナリティ - A.H. マズロー, 小口 忠彦

人間性の心理学 (岩波新書 青版 670) - 宮城 音弥
もうひとつ、「耐久性がある」という表現は「地方」においては高く評価されるのですが、都市圏においては「耐久性」ばかり言うと、むしろ、「『耐久性』『耐久性』ばっかり言うというあたり、やっぱり、お宅はイナカの会社ねえ」となるのです。都市圏においても住宅は耐久性は必要ですよ。実際、クルマなら10年乗ったら「けっこう、よく乗ったかなあ」という感じですが住宅は30年住んでも「まだ、建ててそれほど経ってない」みたいな感覚のものですから、耐久性は都市圏においても住宅には必要なのですが、言い方というものがあるのです。(株)一条工務店の営業本部長の天野隆夫はそれを理解できていない。かつ、理解できていない男が東京営業所長・松戸営業所長を兼任していたのです。
又、建築は構造・機能・デザイン・経済性の4つが満たされてこそ建築ですが、(株)一条工務店の浜松の本社が教える「構造アプローチ」というのは、あくまでも対在来木造での話であり、在来木造以外の所が競合の場合に通じる話はないのです。これは「地方」においては「家というものは在来木造で建てるもの」という観念を強く持っている人が都市圏と違って多いということがあり、遠州地方においては「対在来木造だけの構造アプローチ」でもそれでも建ててもらえる見込客はあったのですが、東京圏においてはそうはいかない・・ということを理解できない人が営業本部長で東京営業所長・松戸営業所長を兼任していたのです。
されにもうひとつ、その会社の商品についての話を営業がする際、見込客は話の内容とともに担当営業も見ているのです。私が話せば、論理的・理論的・科学的に話をしますし、時には記憶違いや言い間違いがあるかもしれませんが嘘は言わないのですが、天野隆夫の場合は、たとえば、1993年、松戸展示場にいた中途入社1年目の松田(男。当時、20代後半)が展示場で接客した見込客が「エスバイエルのハウス55というの、あれでいいのじゃないかと思ってるんだ」と松田に話したと事務所に戻ってきて話すと、天野隆夫がどう言ったかというと「『エスバイエルで建てたら地震が来たら家がひっくり返りますよ』と、こう言ってやれ」と言うので、これではなあ~あ( 一一)・・・とあきれた・・ということがありました。そういうのを喜ぶ人というのも中にはあるようなのですよ。しかし、そういうのを嫌がる人もいるのです。嫌がる人の方が多いと思います。一般に在来木造で建てる人と在来木造以外で建てる人では在来木造で建てる層には論理的でない・理論的でない・科学的でないものを受け入れる人の割合が比較的大きいと考えられているのですが、それでも、そういった同業他社への論理的でない・科学的でない悪口雑言を喜ばない、嫌がる人はいるのです。特に、エスバイエル(株)〔←小堀住研(株)、→ヤマダエスバイエルホーム(株)→ヤマダホームズ(株)〕は1993年頃は木質パネル構法が主で「ハウス55」は木質パネル構法によるもので、この木質パネル構法というのは在来木造とツーバイフォー工法(枠組壁工法)の両方を参考にして考えられた新しい構法ですから、それだけに、こういう理由で木質パネル構法は強い・・といった理論、特に在来木造よりも強いという理論、在来木造より耐久性は優れているという理論があり、その頃の(株)一条工務店には構造専用のカタログはなかったのに対して、エスバイエル(株)には木質パネル構法の構造について専用のカタログもありましたし、そういった話を「よっぽどおかしな営業」でなければ展示場来場客にしているはずであり、そういった話を聞いてきた見込客に対して 「『エスバイエルで建てたら地震が来た時にひっくり返りますよ』と言ってやれ」なんて天野隆夫が””指導””していたようなことを言ったのでは、「なんて品の悪い営業なんだ」と思われ「こんな営業の話なんて聞いてもしかたがない」と思われて嫌われるとともに、(株)一条工務店はそういった論理的でない・理論的でない・科学的でない悪口雑言を言う会社であるということは、あまり良い構造の建物ではないということか・・という印象を与えることになります。特に、木質パネル構法というのは「在来木造より・・という点で優れている」という話が多く、それぞれにその理屈・理論がありますから、それに対して「地震が来た時にひっくり返りますよ」では、それでは「ああ、この人はこんなことしか言えない下品で不勉強な人なんだな」と軽蔑されるだけでしょう。小堀住研(株)→エスバイエル(株) は1993年に松田が松戸展示場で「エスバイエルの『ハウス55』というの、あれでいいのじゃないかと思ってるんだ」と見込客から言われた頃までは、比較的広い価格帯で建てていた会社で、クルマに例えるならば(株)一条工務店が「クラウンくらい」の価格帯のものしかなかったのに対して、エスバイエル(株)はカローラからクラウン・センチュリーまである会社で、「ハウス55」というのはそのうちの「カローラ」だったのですが、「エスバイエルで建てたら地震が来た時にひっくり返りますよ」は単に不勉強で同業他社がどういうものを建てているか学習しておらず、同業他社がどういったものを建てているか理解できていないからいいかげんなことを””指導””していたのですが、カローラからクラウン・センチュリーまで建てていた会社の「カローラ」のものについても、「ハウス55なんか建てたら地震が来た時にひっくり返りますよ」という天野隆夫の「構造アプローチ」というのは、それはトヨタ以外のクルマの会社の営業が論拠もなく「カローラなんて買ったらハンドル右に切ったら左に曲がりますよ」とか「カローラなんて買ったらブレーキ踏んだら加速しますよ」とか言っているようなもので、そういう営業を喜ぶ人というのも百人に一人くらいあるのかもしれませんが、普通はそういうことを言われると「変な営業だなあ」「下品な営業だなあ」「良心的でない営業だなあ」と思われ、特にその頃の(株)一条工務店の東京圏での評価は「東京圏では実績がないえたいの知れない浜松のいなかくさい工務店」でしたから、「東京圏では実績がないえたいの知れない浜松のいなかくさい工務店」の営業から言われると「あんな変な会社、相手にしない方が良さそうだな」と判断されることになる可能性が大きいでしょう。 私は運転免許を取って最初に運転したクルマはカローラでしたが、カローラはハンドルを右に切ったら左に曲がったりはしません。カローラはハンドルを右に切ったら右に曲がります。カローラはブレーキ踏んだら加速したりしません。カローラはブレーキ踏んだら減速します。同業他社の建物に対して論理的でない・科学的でない悪口雑言を大声で言うという「一条オリジナル構造アプローチ」というのが営業上プラスになると営業本部長の天野隆夫は考えていたようですが、それはマイナスになると私は思います。「オウンゴール」「自爆」行為となる可能性が小さくないと思います・・・が、それを理解できない人が(株)一条工務店の営業本部長になっていたのであり、そういう人が東京営業所長・松戸営業所長を兼任していたのです。東京都江東区潮見のウッディランド東京にあった東京展示場で1993年前半に契約いただいた方を「工場見学会」の時と別に私が浜松工場に案内して、その後、天竜川駅の南側の総合住宅展示場に(株)一条工務店の展示場が新しいきれいな建物が3つ建っていた所に案内したのですが、その際、浜松の営業が横で来場客に「構造アプローチ」として話しているのが聞こえたのですが、鉄骨造の建築現場の現場事務所か休憩所に使う仮設の軽量鉄骨造の建物が錆びている写真を見せて「錆びてますでしょ。こういうもののことを『プレハブ』と言うのです」などと言うので、いいかげんなことを言うやつだなあ~あ・・とあきれたし、そういった「一条オリジナル」「浜松流」の「構造アプローチ」を教えてそういった無茶苦茶な話を言わせたがる経営者というのは困ったものだと思いました。「プレハブ」というのは、英語のプレファブリケイト prefabricate 、プレファブリケイション prefabrication の略で「あらかじめ形作る」「あらかじめ形作ったもの」という意味で、木質系のもの・鉄骨系のもの・コンクリート系のものがあり、鉄骨造でも積水ハウス・パナホーム・大和ハウスとか旭化成とかが建てている軽量鉄骨造の建物というのは、建築現場の軽量鉄骨造の仮設小屋とは別なのです。そういういいかげんなことを言うと東京圏の見込客なら「こんな営業は相手にしない方がいい」と判断される可能性が小さくないのに対して、浜松ではそれで通じるらしく、浜松営業はそれを得意がってやっていたのです。1992年前半に浜松の展示場にいて1992年8月に東京展示場に本人の希望で転勤してきた、(株)一条工務店ではその時点で通算契約棟数全国2位だった「平松所長の直弟子」という小野田くん(男。当時、20代前半)はさらに「ぷれっはぶう~う!」などと言ってみせたりしていたので、世の中にはいろいろな人がいるのだろうけれども、私ならそんな態度の営業だと、それを原因として断るだろうなあ・・と思ったものでした。その「ぷれっはぶう~う!」とか言ってみせるのがそれが「平松所長のやり方」というものらしいのですが、しかし、その点については、本当かあ?・・とも思ったのです。なぜなら、その平松さんから私も一度だけ平松さんがやっている「構造アプローチ」について実演して見せてもらったことがあるのですが、平松さんは小野田君みたいに「ぷれっはぶう~う!」なんてやらないのです。平松さんがやらなくて小野田くんがやっていることを「平松所長のやり方」と小野田くんは言うのでしたが、実際にはその人がやってもいないことをやっていると他で言いまくっているということはないのか? 私だって、1993年に松戸展示場に中途入社した秋山だったかいう男(当時、20代後半)から私が一言も言ったことないようなことを私から教えられたなどと言われたことがあったが、平松さんも時分が言ったこともないことを「平松所長のやり方」だとして広められていたという可能性は十分にありうることではないか・・とも思ったのです。その「ぷれっはぶう~う!」とかほっぺたふくらませて言ってみせるという、まるで天野隆夫が「エスバイエルで建てたら地震が来たらひっくり返りますよと言ってやれ」みたいな下品で非科学的・非論理的な態度は、小野田くんは「平松所長のやり方」と言うが平松さん自身はやってないのではないか。しかし、天竜川駅南総合住宅展示場の浜松営業は建築現場の仮設の軽量鉄骨造が錆びている写真を指差して「錆びてますでしょ。こういうもののことを『プレハブ』と言うのですね」などと得意がって言い、「おいおい、おまえ、何言ってんだよ。それはあくまでも『建築現場の軽量鉄骨造の仮設小屋』であって『プレファブリケイテッド ハウス』とは別物だろうが。何をいいかげんなこと言ってんだよ」と思い、「おいおい、そんなこと言ったら、お客さん、離れてしまうぞ」と思っていたら、そうではなく、浜松の見込客・来場客というのはそんないいかげんな話を聞いて「へえ。そうなんですかあ~あ」などと言って感心して聞いていたので、「この人、いったい何?」と片方で思うとともに、そうなんだあ、ここでは(浜松近辺では)こんないいかげんなことを言っても、こんないいかげんな営業でも通じるんだあ~あ、浜松近辺の見込客というのは東京展示場や松戸展示場の来場客・見込客とは全然違う人間なんだあ・・と認識を新たにした・・・ということがありました。
『古事記』の文章を読むと、邇邇芸命(ににぎのみこと)が美人だったコノハナサクヤヒメを嫁に欲しいと考えたが、父親の大山津見神(おおやまつみ)は、醜かった姉のイワナガヒメと2人セットで妻にさせたが、ニニギノミコトは美人の妹はいるけれども、ブスは要らんと言って返却しよったそうで、《 大山津見神はそれを怒り、「石長比売を差し上げたのは天孫が岩のように永遠のものとなるように、木花之佐久夜毘売を差し上げたのは天孫が花のように繁栄するようにと誓約を立てたからである」ことを教え、石長比売を送り返したことで天孫の寿命が短くなるだろうと告げた。》ということだった・・・が、ニニギノミコトですらも「スーパー高耐久性ブス」は要らんわあ~あ・・・と返したというようなもので、「デザインがいいということは耐久性がないということだ。その点、うちの建物はスーパー高耐久性ブスで、ブスもブスもブス、ブス、ブス。耐久性があるブスですから。家を建てるなら、何と言っても、スーパー高耐久性ブスに限りますね♪」なんて言われても、要らんわい!!!・・・と思われるでしょう。そんな言い方ではだめですね。
・・それで、なぜ、ここでその「スーパー高耐久性ブス」の神さんが祀られているのか・・というと、「長寿の神さま」ということではないのでしょうか。決して「ブスの神さま」ではないと思いますよ。たぶん・・・(^^)/
菅原道真命 ・ 後醍醐天皇 ・ 松平秀康卿命の3人は実在した人間です。天神社ですから菅原道真が祀られるのは当然として、後醍醐天皇が祀られているというのは、中村家は源範頼の子孫でもともとは武士だったらしく、南北朝の争乱の時には南朝側についたらしく、そこから後醍醐天皇が祀られているのでしょう。
その後、今川氏・徳川氏に仕え、徳川家康の側室の「お万の方」が家康の次男の秀康を出産する時、中村家で出産して3歳まで中村家で育ったらしい。秀康は、その後、羽柴秀吉の養子となって、秀吉の「秀」と家康の「康」で「秀康」という、その時代においてはものすごい名前を持ち、羽柴秀康から豊臣秀康となったが、秀吉に子供ができて、茨城県の結城氏の養子になって結城秀康を名のり、今では「結城秀康」という言い方が一般的になっているが、さらに後に越前松平家の祖となり、松平秀康となった。 江戸幕府の2代目の将軍は秀忠で、秀忠は三男だったが、次男の秀康が家督を継ぐことができなかったのは、秀忠の母親と秀康の母親では秀康の母親の家系の方が弱かったとも言われるけれども、より大きな問題は、豊臣の養子であった者が徳川の家督を継ぐわけにはいかないというそちらではないか。司馬遼太郎『関ケ原(上・中・下)』(新潮社)では、石田三成が加藤清正らによる「七将襲撃事件」で領国の近江佐和山に帰る際、瀬田まで同行した話が出ており、《 三成はその労を感謝し、正宗の刀を秀康に贈った。この名刀は「石田正宗」と称され、秀康の末裔にあたる津山松平家に伝世されている(名刀「石田正宗」は現在、東京国立博物館蔵)》( 《ウィキペディアー結城秀康》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%90%E5%9F%8E%E7%A7%80%E5%BA%B7 )という話がある。徳川の息子でありながら、豊臣の養子であって豊臣恩顧の大名ともつきあいがあり、「微妙な立場」だったと描かれている。関ケ原の戦いにおいても、関ケ原まで行って石田三成ら豊臣恩顧の大名と戦うのではなく、関東に残って上杉・佐竹を牽制する役割を担当させられたというのも、豊臣恩顧の大名と戦わせたくないという事情があったか。
日本博学倶楽部『戦国武将「できる男」の意外な結末』(2007.10.29.PHP研究所)には「結城秀康 1574ー1607) 家康の二男なのに将軍になれなかった男」として、
《 結城秀康は、徳川家康の二男だが、家康のもとでは育っていない。側室との子として1574(天正2)年に生まれると、徳川家臣の本多重次(しげつぐ)のもとで育った。異母兄の信康のとりなしで、三歳になってようやく父子の対面を果たしている。家康が長らく秀康と会わなかったのは、自分の子かどうか疑ったためとも、正室・築山殿に気をつかったためともいわれている。
1584(天正12)年、秀康は豊臣秀吉のもとに人質同然の養子として送られた。それでも誇り高く豪胆な性格が秀吉に気にいられ、6年後に秀吉のはからいで下総の結城家の養子となり、結城10万石を継いでいる。・・・
ついに将軍になれなかった秀康だが、関ケ原の戦いの功労により、松平姓に戻って越前67万石を与えられた。越前松平家は、将軍の威令の及ばない「制外の家」という特権も与えられている。秀康自身は34歳の若さで病死したが、その子供たちはそれぞれ大名となり、子孫は江戸時代を通じて家名を保っている。》
と書かれている。

戦国武将「できる男」の意外な結末(愛蔵版) - 日本博学倶楽部
もっとも、日本博学倶楽部『戦国武将「できる男」の意外な結末』(2007.10.29.PHP研究所)には、
《 ・・家康率いる東軍が石田三成らと戦うために西に向かう際、秀康は上杉景勝の牽制を命じられた。強力な上杉軍が南下して関東を攻撃すれば、家康は本拠地を失いかねないからだ。それを防ぐ仕事は一見地味だが、重要な役割だった。
秀康はこの院無をまっとうし、宇都宮城に入ってにらみをきかせることによって、上杉軍の進軍を防いだのである。・・》
と書かれているのだが、実際はそういうことではなく、秀康は徳川家康の息子であっても、同時に豊臣秀吉の養子として大阪城で過ごした時期があって西軍側の武将とのつきあいがあり、たとえそうであっても秀康が西軍側につくということはないであろうと思われたものの、関ケ原で西軍側の武将と戦いにくいという立場から関東に残されたということはないか・・。
秀康は、1607年、1600年の関ケ原の戦いの7年後、1614年の大阪冬の陣の7年前、34歳の若さで他界したが、《ウィキペディアー結城秀康》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%90%E5%9F%8E%E7%A7%80%E5%BA%B7 によると、
《 慶長12年3月1日に越前へ帰国し、そのまま閏4月8日に死去。享年34。死因は『当代記』に「日来唐瘡相煩、其上虚成」とあるから、梅毒ではなかったかとされる。また梅毒が直接の死因ではなく、梅毒による衰弱症が死因とする指摘もある。なお曲直瀬玄朔の『医学天正記』には、「越前宰相殿、瀉利・発熱・咽渇・五令ニ加滑」とあり、他の難病にもとりつかれていたようである。》
とあり、34歳で他界というと悲劇の若大名のように思えるものの、死因が「梅毒で」となると・・なんだか・・ということにもなるが、断定的にこの病気でと言えるわけではないらしい。
中村家にとっては、秀康が中村家で産まれたということがあり、秀康が越前松平家67万石の大大名となった後も、《この縁により、のちの歴代福井藩主は参勤交代の際、中村家で供応を受ける慣例が続いた。》(《ウィキペディアー結城秀康》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%90%E5%9F%8E%E7%A7%80%E5%BA%B7 )ということがあり、又、《ウィキペディアー津山藩》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%A5%E5%B1%B1%E8%97%A9 には《元禄11年(1698年)、結城秀康を祖とする越前松平家分家の松平宣富が10万石で入部、以後廃藩置県まで松平氏が治めるところとなった。》とあり、中村家住宅の主屋の南西の「天神社跡」に《 弘化2年(1845年)津山藩8代藩主 松平齋民(なりたみ)公が再建したもの。 現在は中村家住宅の北西に移されている。釘隠しは津山藩 上屋敷 鍜治橋屋敷のものを使用した。》というのも、美作国津山藩の藩主は秀康の子孫であったことからのようだ。だから、中村家にとっては秀康は「神さま」のようなところがあったのだろう。
それで、中村家の氏神様であった・・とすると、なぜ、天神社なのだろう・・という問題がある。 中村家は源範頼の子孫だということならば、清和源氏は八幡神を氏神としたはずだったが、中村家の氏神が八幡社ではなく天神社というのはなぜか・・。 源氏でも源範頼は義経とともに平氏追討に功績をあげたものの、その後、源頼朝からはしりぞけられた存在であり、又、中村家は南北朝の争乱の時には南朝側についたものの、ここでも南朝側は敗者になったという経緯があり、「敗者の神」であった 菅原道真≒天神 と通じるものがあったか・・・。
武光誠『日本人なら知っておきたい 神道と神社』(2007.1.10. 河出書房新社)には、
《 菅原道真が活躍した時代は、中央で藤原氏による独裁体制が確立したことにより、貴族の専制が志向されつつあった。それにたいし、地方では、村落の小領主である武士や農村の秩序の外にある商工民が成長しつつあった。菅原道真は、そのような実状をふまえて地方の人びとのためになる政治をおこなおうとし、藤原氏に憎まれた。
そして、道真の怨霊騒ぎがはじまったことをきっかけに、武士や商工民が道真をまつりはじめた。そして、平安時代末期に八幡信仰が流行し、武士が天神に代わって八幡神を祀るようになった。それ以降、天神が商工民の神とされたのだ。
江戸時代に、稲荷信仰や七福神信仰などの新たな福の神の祭りが広まったことによって、天神と商工民とのつながりは後退していった。
それとともに、幕府の保護を受けた朱子者の天神信仰がさかんになった。かれらは、道真の詩文を読み、道真をすぐれた詩人や儒学者として尊敬したのである。
この動きがもとになって、明治時代以降に、庶民のあいだにも天神を学問の神とする考えが広がっていった。》
と出ている。
菅原道真≒天神 ・・学問の神、八幡神・・武士の神 と、いつの時代も決まっていたわけではなく、菅原道真≒天神は「武士や商工民の神」であった時代もあったらしい。もっとも、中村家は源範頼の子孫とはいえ、この地で氏神様を設けたのは平安時代ではなく、源範頼より後、鎌倉時代より後のはずなので、武士の神は菅原道真≒天神 ではなくなってきた時代に設けられたのではないかとも思えるが。 徳川家康が江戸に移った後には庄屋として武士ではなくなり、それほど武家的ではなくなったのか。徳川家から尊重された庄屋とはいえ、源範頼は源頼朝との争いに敗れ、南北朝の争乱では南朝側が破れ、結城秀康は家康の二男とはいえ将軍家の後継にはなれず、そのあたりが 「敗者の神」としての 菅原道真≒天神 に近づく傾向となったのかどうか・・。

日本人なら知っておきたい神道と神社 神々に何を求め、どうつき合ってきたかが、ひと目でわかるイラスト図解版 - 武光 誠
(2021.4.17.)
☆ 中村家住宅(浜松市西区雄踏町宇布見)
1.浜松IC・浜松西ICから中村家住宅まで。長屋門。茅葺と瓦葺のミックスの屋根。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202104article_2.html
2.「和小屋組と扠首(さす)組が合わさった小屋組」、「浜松なのにイナカくさくない」、元 梁材を「柱」にするのではなく上り口に使用。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202104article_3.html
3.「押板」・畳敷きの部屋の囲炉裏・女性的な造りの和室。茶室。「浜松に『浜松流』、他の場所にはその場所流」と考えることができない浜松中心主義は困りもの。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202104article_4.html
4.「鏡戸」「板戸」。内側の雨戸、縦桟の格子。「面取り」した柱とそうでない柱。噛み合わせを設けて継いだ木材。細くない「貫」。飲食店なのに不衛生なしつらえの「花の舞」。嫌がらせの配置をされて学ぶ者と去る者。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202104article_5.html
5.胞衣塚・天神社跡地・茶室・屋敷神祠・井戸屋形、満開の桜。中家住宅(大阪府熊取町)・大国家住宅(岡山県和気町)について。3月下旬、中村家住宅の桜はきれい。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202104article_6.html
6.中村家 北西の天神社。
★ 冤罪を晴らす神さま・菅原道真・怨念を晴らすお百度参り
静岡県
深奥山 方広寺 七尊堂(浜松市北区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201707article_13.html
浜松市西区雄踏町宇布見 の 中村家住宅北側の天神社 〔今回〕
愛知県
熱田神宮内 菅原社(外天神)と内天神社(名古屋市熱田区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201711article_10.html
千葉県
葛飾天満宮(市川市) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201301article_4.html
白幡天神社(市川市)
1.https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201511article_1.html
2.https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201511article_2.html
3.https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201511article_3.html
市川市北方町4丁目の天神社 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201608article_2.html
意富比神社 末社天神社(船橋市) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201302article_10.html
船橋市東船橋の「天神社」 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201311article_1.html
下飯山満神明神社 摂社天神社(船橋市) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201503article_4.html
白井市河原子の天満宮 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201303article_5.html
子守神社 摂社天神社(千葉市花見川区)https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201605article_3.html
千葉神社 摂社千葉天神 と 鵜の森町の「神札」(千葉市中央区)
(上)https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201305article_2.html
(下)https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201305article_3.html
北總天満宮(千葉市中央区)https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201308article_1.html
新町天満宮(千葉市中央区)
【上】 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201703article_6.html
【下】 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201703article_7.html
大網白里市駒込の天満宮 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202012article_1.html
大網白里市大竹の天満宮 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202012article_2.html
平群天神社(南房総市 平久里中)
1.富楽里、道の駅おおつの里。平群天神社への道。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202101article_2.html
2.伊予ヶ岳・夫婦クスノキ・天神縁起絵巻・鳥居から拝殿へ。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202101article_3.html
3.天神社社殿、木製打上花火筒、朝日山神照寺、民俗資料館跡? https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202101article_4.html
岩井市部天満神社(南房総市市部)参拝。拝殿・幣殿・本殿の3部形式の社殿。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202101article_5.html
東京都
亀戸天神社(江東区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201301article_7.html
亀戸天神社 2回目 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201505article_1.html
湯島天神社(文京区)
上 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201602article_10.html
中 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201602article_11.html
下 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201602article_12.html
北野神社(文京区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201303article_2.html
平河天満宮(千代田区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201210article_3.html
西向天神社(新宿区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201502article_1.html
根津美術館 庭園内 渡唐天神祠(「飛梅祠」)(港区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201603article_3.html
若林天満宮・若林北野神社(世田谷区)https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201312article_5.html
平塚神社 摂社菅原神社〔平塚天神社〕(北区)https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201807article_10.html
谷保天満宮(国立市)
1.谷保駅から鳥居。「やほ」と「やぼ」。「面白い地名」とは? https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201903article_1.html
2.鳥居から坂を下り、拝殿・本殿と鶏。会社にいる『水滸伝』登場人物 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201903article_2.html
3.五社、三郎殿、厳島神社(市登録有形建造物)、左右に2体ずついる狛犬、座牛 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201903article_3.html
4.神楽殿・筆塚。ひとに「親孝行せえよお」と言ってストレス解消する教育勅語主義者https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201903article_4.html
5.梅林、稲荷社、第六天神社。建築は構造・機能・デザイン・経済性をともに満たしてこそ https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201903article_5.html
本町田 菅原神社(町田市本町田)
上 赤い鳥居・井手の澤の谷地・弁天社・御本社・牛の絵。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202102article_2.html
中 御本社・参集殿・神楽殿。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202102article_4.html
下 愛宕社・藤木稲荷・井手の澤古戦場碑。枝が垂れ下がる梅の木。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202102article_5.html
町田天満宮(町田市原町田)https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202102article_1.html
神奈川県
三渓園天満宮(横浜市中区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201303article_8.html
永谷天満宮(横浜市港南区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201309article_1.html
荏柄天神社(鎌倉市) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201401article_7.html
北野神社(鎌倉市山崎)https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201504article_2.html
下平間天満天神社(川崎市幸区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202003article_14.html
幸区東古市場の天満天神社(川崎市幸区)と御幸公園
1.下平間交差点・古市場交差点を経て天満天神社。気分の悪い古市場交番も健在。「両親が離婚した」者は常に不利ではない、ということも理解できないバカ女。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202003article_15.html
2.二度の移転で現在地に来た天満天神社と入口脇の梅。出入の厳重そうな東芝小向工場と管理不十分な(株)一条工務店・(株)日本産業の「いいかげんそう」工場 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202003article_16.html
3.御幸公園。植樹された梅林。役立たず教師・予備校。医者屋族は特権民族なのか? 子猫を助けられなかった思い出。「武蔵小杉」のマンション山。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202003article_17.html
岐阜県
飛騨天満宮(高山市)
上 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201309article_7.html
中 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201309article_8.html
下 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201309article_9.html
村山天神(高山市国府町)
1上枝駅から宮川沿い https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201409article_2.html
2村山天神 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201409article_3.html
3村山天神 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201409article_4.html
4あじめ峡、他 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201409article_5.html
桜山八幡宮 摂社天満神社(高山市) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201510article_7.html
日の出天満宮(高山市) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_13.html
石川県
金沢神社(金沢市) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_1.html
椿原天満宮(金沢市) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_2.html
田井菅原神社(金沢市) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_3.html
京都府
北野天満宮(京都市上京区)
1 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201302article_2.html
2 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201302article_3.html
3 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201302article_4.html
4 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201302article_5.html
5 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201302article_6.html
高台寺天満宮(京都市東山区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201511article_7.html
曼殊院天満宮(京都市上京区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201608article_4.html
長岡天満宮(長岡京市)
1.八条ヶ池 他 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201703article_10.html
2.拝殿・祝詞舎・本殿・手水舎他 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201703article_11.html
3.春日社八幡宮社・紅梅殿・白梅殿・社務所(連歌所)他 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201703article_12.html
4.梅園、長岡稲荷、錦景園他 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201704article_1.html
大阪府
大阪天満宮(大阪市北区)
1.https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201403article_1.html
2.https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201403article_2.html
3.https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201403article_4.html
露の天神社(お初天神)(大阪市北区)
上 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201403article_5.html
下 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201403article_6.html
綱敷天神社(大阪市北区)
1.綱敷天神とは。「北野」の由来。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201604article_6.html
2.社殿と桜。堅魚木と千木。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201604article_7.html
3.「戦災の狛犬」、筆塚。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201604article_8.html
4.白龍社、歯神社。綱敷天神社の周囲https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201604article_9.html
綱敷天神社 御旅社(大阪市北区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201405article_11.html
池田市天神1丁目・2丁目 http://shnkahousinght.at.webry.info/201405/article_10.html
西江寺 摂社天満大自在天神(箕面市) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201611article_5.html
箕面市粟生間谷の天満宮
上 箕面市粟生間谷の天満宮 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201709article_14.html
下 粟生間谷の天満宮の周辺 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201709article_15.html
上新田天神社(豊中市)
1 千里中央駅から。電柱看板の是非。卑怯者不動産屋店長https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201701article_15.html
2 鳥居から参道階段を経て拝殿へ。「他力」とは https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201701article_16.html
3 拝殿・本殿・牛・屋根・稲荷社他 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201701article_17.html
4 神社の社殿を背後から見下ろす下品な高層マンション https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201701article_18.html
上宮天満宮(高槻市)
1.JR「高槻」駅から上宮天満宮へ。大きな一の鳥居をくぐり石段へ。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201811article_2.html
2.絵馬堂・神輿庫・御霊屋・割拝殿。セキュリティーの難しさ https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201811article_3.html
3.竹製の本殿。菅原道真と為理と孝標。山崎の戦い後に建てられた旧本殿 〔今回〕
4.本殿裏末社。神社の「経営」「経営者」とは。捨て猫はどう対処すべきか https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201811article_5.html
5.摂社野身神社、車塚古墳、鉄骨で支えた石の鳥居。反則相撲の野彌宿祢 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201811article_6.html
6.天満宮を見下ろす 地域の「気の流れ」を乱す 家相が悪い 高層マンションhttps://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201811article_7.html
7.「不純異性交遊」の男の大学は「同じ大学なのに」と考えるべきか?https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201811article_8.html
8.東大はスーパー京大ではない、厚い本を使えばいいというものではない。高槻駅前 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201811article_9.html
9.和訳でない問題で日本語訳を書くな、親が組みしやすいと親に吹き込む予備校 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201811article_10.html
10.北山本山寺の石碑、景観重点地区、女性客の多い店でも入るのが商学士の使命 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201811article_11.html

裁判官はなぜ誤るのか (岩波新書) - 秋山 賢三

絶望の裁判所 (講談社現代新書) - 瀬木 比呂志

狂った裁判官 (幻冬舎新書) - 薫, 井上
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