北野天満宮B【4/5】大鳥居から楼門、三光門、御本社。調和する梅と松。文子天満宮。多治比文子とは。
[第845回]冤罪を晴らす神さま・菅原道真・怨念を晴らすお百度参り 第59念-4
これまでの3回、「北野天満宮へ公共交通機関をつかって直近まで行く」ルートについて、2回目は阪急「嵐山」・京福「嵐山」経由で「北野白梅町」駅まで、3回目はJR「円町」から京都市営バスで「北野天満宮前」まで行くルートを述べました。
北野天満宮の今出川通りに面した大鳥居(一の鳥居)とその前のでっかい狛犬 を見ると、ああ、ついに北野天満宮に来たんだあ!・・と感激します。 バックミュージックとしては、ワグナーのオペラ『タンホイザー』の「巡礼の合唱」が鳴り響く。



「天神信仰発祥の社」
「全国天満宮総本社」
※ 《YouTuve-ワーグナー 巡礼の合唱 「タンホイザー」 より The Robert Shaw Chorale》https://www.youtube.com/watch?v=rZWmnpM0Is4
《YouTuveーWagner: Tannhäuser Overture-Karajan Berlin Live 1987- ワーグナー タンホイザー序曲 カラヤン ベルリンライブ》https://www.youtube.com/watch?v=jeLouoZQx2s
『タンホイザー』だけでなく、一般にリヒャルト=ワグナーの曲というのは、誰が演奏しているかというと、YouTuve に出ているものを見ても、フルトヴェングラーとかカラヤンとか、そういった「権力志向」「体制側志向」「権威主義志向」の指揮者の演奏が多い・・というあたりについては、「巡礼の合唱」などは私は好きなのですが、フリードリヒ=ニーチェが『ツァラトゥストラはこう語った』でリヒャルト=ワグナーを悪趣味だと評していたと思いますが、どうも、ワグナーというのは、そういう傾向を感じてしまいますね・・・。又、ニーチェはワグナーを礼賛するのではなく、そういった批判をするあたり、やはり、ニーチェはヒトラーとは違う・・というものが出ているように思います。

タンホイザー Tannhauser―DVD厳選コレクション珠玉の名作オペラ vol.3 ヴァーグナー作曲 (DVD厳選コレクション 珠玉の名作オペラ) - 永竹 由幸(ながたけ よしゆき), 井形 ちづる(いがた ちづる), 長谷川 勝英(はせがわ かつひで), 永竹 由幸(ながたけ よしゆき), 永竹 由幸(ながたけ よしゆき)
大鳥居(一の鳥居)をくぐり、参道を進みます。

大鳥居(一の鳥居)の後、さらに鳥居を2つくぐります。


大鳥居(一の鳥居)の手前にでっかい狛犬が左右に鎮座しているのと別に、牛の像はあちらこちらに見かけますが、牛が狛犬の代わりを務めるわけではなく、狛犬は別にいます。

↑ コロナウイルスが蔓延しているという最中、牛さんも、お疲れ気味のようです。 ↑


↑ 楼門。
《 菅公を讃える「文道大祖(ぶんどうのたいそ) 風月本主(ふうげつのほんしゅ)」と書かれた額が掛かる。》↑
《 「文道大祖(ぶんどうのたいそ) 風月本主(ふうげつのほんしゅ)」と書かれた額がかけられている。この歌詞は平安時代の学者 大江匡衡(おおえ まさひら)の願文にもある。額の字は『北野天神縁起絵巻』承久本(しょうきゅうぼん)の詞書(ことばがき)に基づくものである。》 ↑
( 『日本の神社6 北野天満宮』2014.3.25.デアゴスティーニ・ジャパン )
![日本の神社 6号 (北野天満宮) [分冊百科]](https://m.media-amazon.com/images/I/61Ex6HuZKZL._SL500_.jpg)
日本の神社 6号 (北野天満宮) [分冊百科]

↑ 楼門を入ってすぐの所、北側を見たものですが、ここで、ふと気づいた。 大鳥居(一の鳥居)から、二の鳥居・三の鳥居をくぐり、楼門をくぐって、そのまま直進した位置に社殿があるわけではなく、社殿はこれより少々西に寄って場所にある・・ということに。

なぜだろうか?
・・それはさておき、とりあえず、社殿に参拝しましょう。 大鳥居(一の鳥居)から楼門までの直線から少し西にずれた場所に、社殿に至る直線の参道があります。↓


↑ この突き当りの門が、三光門。
《 石畳の参道をこえたところに姿を現す中門。 この門をくぐると拝殿にたどりつく。 「天満宮」の勅願は後西(ごさい)天皇ご宸筆(しんぴつ)によるもの。重要文化財。》
《 日月星の彫刻がある重要文化財の三光門(さんこうもん)。 「天満宮」の額は後西(ごさい)店の王のご宸筆(しんぴつ)。》
《 梁間(はりま)に日・月・星が刻まれていることからこの名がついた。》
( 『日本の神社6 北野天満宮』2014.3.25.デアゴスティーニ・ジャパン )
↑ 三光門に至る参道の左右に摂社が並んでいます。左側(西側)に、福部社(ふくべしゃ)・老松社(おいまつしゃ)、右側(東側)に白大夫社(しらだゆうしゃ)・火之御子社(ひのみこしゃ)。↑
三光門の左右に、西回廊・東回廊があり、拝殿と西回廊・東回廊に囲まれた中庭があって、鳥居をくぐり、楼門をくぐり、さらに三光門をくぐって回廊に囲まれた空間に入ると、「聖域」にはいった気持ちになります。


↑ 拝殿。
二回目・三回目の訪問をすると、初回に気づかなかったものに気づくことがあります。拝殿の左手前に梅の木が植わっていますが、菅原道真というと、牛と梅が有名ですが、その梅でしょう。左手前の梅とともに、右手前には松が植わっています。 菅原道真が罪人扱いで太宰府に送られた時に、梅と松の木が菅原道真を慕って後を追いかけて飛んだものの、梅は太宰府までたどり着いたけれども、松は摂津のあたりで力尽きた・・というお話があるのが、梅と松です。大宰府天満宮には、たしか、その飛んできた梅がこれですよお~お・・という梅の木があったと思いますが、梅の木は太宰府まで飛んでいったからには、ここの梅は後から植えられた木であって飛んでいった梅ではないのでしょう。 松も、おそらく、摂津で墜落した松が引き返してきたわけでもないでしょう・・・けれども、梅と松の組み合わせというのは、なかなかいいですね。

↑ 拝殿の左手前、梅の木。

↑ 拝殿の右手前、松の木。
YouTuve に造園業者の人で、「庭に植えるのにお勧めできない木」として桜をあげていた人がいましたが、なぜ、その人は桜はお勧めできないかというと、桜は花が咲いた時はきれいだけれども、花が咲いていない時期は地味で、花が咲いている時とそうでない期間とでは花が咲いていない期間の方がずっと長いということと、相当広い庭がある人ならいいけれども、そうでない場合は花が散った時にそれが人さまの家の敷地内に落ちることになる・・ということから、桜はあまりお勧めできないらしい。
桜と梅であれば開花時期が1か月ほど梅の方が早いのですが、見比べると桜の方が派手で華やかなのですが、梅の方が「くろうと好み」みたいなところがあって、又、花が咲いた時に、桜は自分が主役中の主役になるのに対し、梅は開花時においても、他の樹木と協調しようとするようなところがあると思います。 そして、花が咲いていない時期には、桜はそれほど魅力がある木ではないのに対して、梅は花が咲いていない時にもそれなりに趣がある木・・・というのか、もともと、花は咲かない松と並んでいるのを見ても悪くない木ですね。
太宰府天満宮には高校の修学旅行の時に行ったのですが、その時の記憶が違ってなければ、太宰府天満宮では社殿の手前に紅梅と白梅が左右に並んでいたように覚えているのですが、北野天満宮では梅と松が左右に並んでいます。 花が咲いていない時期の梅と松が左右にならぶのもいいですね。たしかに、梅は花が咲いていない時期もいいし、花が咲いている時であっても他の木の存在を否定しない協調性とでもいったものがあるように思えます。

↑ 拝殿。
《 石の間で本殿とつながった国宝。左右に楽(がく)の間を備える。 》
《 八棟造(やつむねづくり)(権現造 ごんげんづくり)の本殿は桃山時代に建造された国宝。
菅原道真を主祭神とし、相殿(あいどの)に中将殿(ちゅうしょうどの)(長子の菅原高視 すがわら たかみ)と 吉祥女(きっしょうにょ)(正室の島田宣来子 しまだ のぶきこ)を祀る。》

↑ 西側の「楽の間」。

↑ 本殿(左)・石の間(中) 西側から見たもの。右端は、西側の「楽の間」。
北野天満宮の社殿は、日光東照宮・上野東照宮や大崎八幡宮などと同じく、「石の間造り」という、拝殿・石の間(幣殿)・本殿の3部構成でできている。「権現造り」の「権現」とは東照大権現・徳川家康のことで、日光東照宮の造りという意味だが、宮城県の大崎八幡宮では、日光東照宮よりも大崎八幡宮の方が造られたのは先だということで「権現造り」とは言わずに「石の間造り」と言っているらしい。
北野天満宮も、拝殿・幣殿・本殿の3部構成だが、最初に造られた時から、この構成だったわけではないらしい。 『週刊朝日百科 国宝の美23 厳島神社・日吉神社・北野天満宮』(2010.1.31. 朝日新聞出版)には、
《 北野天満宮は、菅原道真の御霊(ごりょう)を鎮めるため、天暦(てんりゃく)元年(947)に創建された。
その後、天徳(てんとく)3年(959)には日吉造(ひよしづくり)のような三間三面庇(びさし)の本殿となり、天延(てんえん)元年(973)には拝殿も備わっていた。
遅くとも平安末期には今のような石の間造となり、鎌倉時代には珍しい形態と評された。
桃山時代になると、石の間造は、豊臣秀吉を祀る豊国廟、さらに徳川家康を祀る東照宮に用いられた。
人を神として祀る点に北野天満宮との共通点が見出されたのだろう。しかし、おそらくそれだけの理由ではない。
建物の外観を見ると、豊国廟、東照宮とも規模壮大かつ壮麗であり、内部空間も充実している。これは伝承形式や一般形式の本殿では実現できないし、寺院建築では外観がありふれてしまう。 石の間造という複雑な形態であればこそ、規模が大きく、変化に富み、彫刻や彩色が効果を発揮できる形態となりえたのだ。 桃山風の華麗な意匠をまとって再登場した石の間造は、それ以後、徳川家康にちなんで権現造と呼ばれ、全国の東照宮で用いられた。宮城・大崎八幡宮なども同形式でつくられ、北野天満宮の社殿は神社建築の歴史に大きな影響を及ぼした。
現在の社殿は、慶長(けいちょう)12年(1607)の再建である。社殿の構成は、本殿と拝殿が前後にならび建ち、その間を石の間で繋ぐ。石の間の床は低く、地面に近い。本殿と拝殿は別々の建物で、それぞれ入母屋造(いりもやづくり)、檜皮葺(ひわだぶき)の屋根をのせる。・・・》
と出ている。

国宝の美 23 建築7 厳島神社/日吉大社/北野天満宮(2010年01月31日号) (週刊朝日百科) - 朝日新聞出版

( ↑ 東側から見た 本殿。 )

( ↑ 東側の「楽の間」。)


( ↑ マーカーが北野天満宮。 )
《 拝殿 一重、入母屋造の建物。東西に「楽(がく)の間」をもつ。国宝。》
《 本殿 豊臣秀吉の遺命により、豊臣秀頼が慶長12年(1607)に造営。「八棟造(やつむねづくり)」と称される檜皮葺(ひわだぶき)の屋根に破風を金物で飾った美しい造り。本殿と拝殿を「石の間」でつないでいる。国宝。》
《 石の間 石の間は拝殿や本殿よりも一段低く造られた石敷きで、天井を張らずに化粧屋根裏とするなど、平安時代に原型ができたとされる権現造の古式を残している。》
《 八棟造(はつむねづくり(権現造 ごんげんづくり)の本殿は桃山時代に建造された国宝。菅原道真公を主祭神とし、相殿(あいどの)に中将殿(ちゅうじょうどの)(長子の菅原高視 すがわら たかみ)と吉祥女(きっしょうにょ)(正室の島田 宣来子 しまだ のぶきこ)を祀る。》
( 『日本の神社6 北野天満宮』2014.3.25.デアゴスティーニ・ジャパン )
北野天満宮は拝殿の左右に「楽の間」があるところが他の「石の間造」の建物と違う。
《 本殿と拝殿の棟は平行で、その間に石の間の棟を直交してかけるので、棟は全体で「工」の字の形になる。 さらに拝殿正面の屋根中央に千鳥破風、拝殿の左右に楽の間がついて、屋根の構成はさらに複雑なものとなり、八棟造(やつむねづくり)の異称もある。》
( 『週刊朝日百科 国宝の美23 厳島神社・日吉神社・北野天満宮』2010.1.31. 朝日新聞出版 )
八棟造というからには、棟(むね)が8つあるということだが、拝殿の棟・本殿の棟、それに直行する石の間(幣殿)の棟で3つ。それに拝殿の前、千鳥破風と唐破風で2つ。拝殿の左右の楽の間で2つ。これで7つだが、後1つは、本殿の西に「脇殿」があるが、脇殿は本殿の西側にだけあって東側にはない。脇殿で1つをたして8つということなのか?

( ↑ 本殿の西側と脇殿。)

( ↑ 本殿の東側。 )
それとも、背後の「御后三柱」を祀っている背後から参拝するようになっている部分のことか? ↓


1 ↑ は 本殿の背後の部分。 神社は社殿の背後にまわってみるべきものか、そうではなく拝殿の前から参拝して社殿の背後にはまわらないものか。 それは神社によって異なるようだが、北野天満宮に限らず、天神・天満・北野・菅原系神社では、大阪天満宮(大阪市北区)でも、服部天神宮(大阪府豊中市)でも、背後からも拝むようにできている。大阪市浪速区の今宮戎神社では、「えべっさん」というのは耳が遠くて、しばしば昼寝しているもので、正面からお願いしても聞こえていないことがあるので、正面からお願いするとともに背後にもまわって後ろからも、「えべっさん、よろしゅうお願いしまっせ」と念を押してお願いする・・という話があるようだが、「えべっさん」というのは神さまでもかなり庶民的な神さんなので、そういったお話ができたのだろうけれども、北野天満宮・大阪天満宮・服部天神宮とともに、今宮戎神社も背後からも拝むようになっているようだ。
北野天満宮の場合、現在では、↑ の背後から拝む場所というのは、「御后の三柱(ごこうのみはしら)」と言って、現地の説明書きでは、
《 御后の三柱(ごこうのみはしら)
祭神 天穂日命(あめのほひのみこと) 菅原 清公卿(すがわら きよきみ きょう) 菅原 是吉 卿(すがわら これよし きょう)
神徳 学業成就
・・・・ 》
と書かれている。 天穂日命(あめのほひのみこと)は『古事記』に登場する神で、菅原道真の祖先とされている。 菅原清公は菅原道真の祖父、菅原是善は菅原道真の父。
祖父の菅原清公(すがわらのきよきみ)は、空海・最澄・橘逸勢らとともに遣唐使として唐に行った人で、父の菅原是善(すがわらのこれよし)は大学頭(だいがくのかみ)から参議になった人で、祖父の清公・父の是善ともに文章博士(もんじょうはかせ)を勤めた人で、清公は学問所「文章院(もんじょういん)」を創設し、是善は「菅家廊下(かんけろうか)」と言われた私塾を充実させた人だという。
神話の域での話としては、菅原道真の祖先は『古事記』に登場する天穂日命(あめのほひのみこと)で、その間に相撲の祖だということになっていて、當麻蹴速(たいまのけはや)と武闘派対決をやり當麻蹴速(たいまのけはや)を《足で蹴り殺した》野見宿祢(のみのすくね)がいることになっている。
しかし、北野天満宮の場合、今は、背後から拝む場所は、菅原道真の父と祖父と祖先神を祀ることになっているけれども、もともとはそうではなかったのではないか。
《 北野天満宮でもうひとつ重要な点にふれておきたい。それは神仏習合のあり方で、少なくとも鎌倉時代には本殿内部の背面側に舎利塔(釈迦の遺骨を納めた塔)を祀っていた。参詣の人びとは背面から舎利塔を拝したので、本殿背後の門は舎利門と呼ばれた。舎利塔は、明治時代の神仏分離で京都・常照皇寺(じょうしょうこうじ)に移されたが、北野天満宮では、背面からも拝む参拝方式が現在も続いている。背面からの参拝は霊場寺院にしばしばみられ、神社でも大阪の今宮神社などでみられる。 》
《 舎利塔 もと北野天満宮本殿の背面側にあった黄銅製(おうどうせい)四角宝塔(しかくほうとう)。 中には菅原道真が所持していたという仏舎利が納められている。 台には元禄14年(1701)の銘がある。 常照皇寺蔵。》
今は、祭神は天穂日命・菅原清公・菅原是善だとして祀られている門が、かつては本殿に舎利塔が祀られているということで拝んでいた舎利門ということのようです。
常照皇寺とはどこにあるのかというと、《ウィキペディアー常照皇寺(じょうしょうこうじ)》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%B8%E7%85%A7%E7%9A%87%E5%AF%BA には、《京都府京都市右京区京北井戸町にある臨済宗天龍寺派の寺院。本尊は釈迦如来。・・》とあり、住所は《 京都府京都市右京区京北井戸町字丸山14-6》とあるが、北野天満宮の本殿から移したという舎利塔については書かれていない。
八棟造(はつむねづくり)は、拝殿・本殿・石の間・西側の楽の間・東側の楽の間・拝殿の千鳥破風・拝殿の唐破風で旨が7つ、あと1つは本殿の西側の脇殿か、それとも背後の舎利門か・・・。 《ウィキペディアー八棟造》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E6%A3%9F%E9%80%A0%E3%82%8A を見ると、
《 複雑な形状に配置された棟を多数配置し、それぞれの棟に破風を備えた豪奢な屋根を重ねて配置する建築様式を指した総称で、「八棟」の「八」は「多数」の意味であって棟の数が必ず八棟と決まっている訳ではない。》
と出ている。ということは、それほど真剣に、どれとどれで8棟か考えなくてもいいということか・・・。
北野天満宮の拝殿と中門の三光門との間には西回廊・東回廊があって、その間が中庭になって、拝殿の前に左に梅、右に松が植わっている。この三光門と東西の回廊と拝殿で囲まれた部分は、北野天満宮でも特に「聖域」の印象を受ける空間だが、回廊は本殿の外側を囲むようにはできておらず、あくまで拝殿と三光門の間を囲うようにできている。
今回、北野天満宮に来るのは三度目なのだが、本殿の背後を通って一周してきて気づいたのだが、なぜか、前回と同じように左側から背後にまわり、右側から拝殿の前に戻ってきた。 拝殿と回廊との間に出入口が設けられているものの、どちらが入口でどちらが出口と指定されているわけではないのだけれども、なぜか、それが普通であるかのように左側から時計回りに歩いてきた。 コンビニは左寄りに入口を設けているのは、人間の心理として入口を入って右側に行って反時計回りに歩きやすいので、売り場を一周させて、入る時点では買うつもりがなかったものでも一周するうちに目について買う気にさせようということで、入口を入って右側に売り場があるように作られている・・とどこかで読んだように思ったのだが、北野天満宮の社殿は背後にまわることができるだけではなく、背後からも参拝するようにできていて、又、御本社の後ろの位置にも摂社が配置されているのだけれども、なぜか、二回とも自然と左側から時計回りに歩いてきた。
「石の間造」では、拝殿・本殿と比べて「石の間」は少々低く造られているということで、『週刊朝日百科 国宝の美23 厳島神社・日吉神社・北野天満宮』(2010.1.31. 朝日新聞出版)には、北野天満宮・大崎八幡宮・日光東照宮の石の間の写真が掲載されているが、一般参拝者は、通常は拝殿の手前から参拝し、石の間に入らせてもらうことはできない・・・が、上野東照宮の場合は拝殿と幣殿(石の間)の部分に入らせてもらうことができて、私も複数回入らせてもらって内部を見せてもらってきた。最初、なぜ、この部分は少し低くなっているのだろうか・・などと思ったが、それが石の間だった。もっとも、その後、上野東照宮は改装工事をおこなったようで、今も拝殿・石の間の部分に入らせてもらえるものかどうかはわからない。
《 北野天満宮 石の間
・・石の間は本殿や拝殿より低く床を張り、上部は両者を繋ぐ屋根がそのまま見える化粧屋根裏である。》
( 『週刊朝日百科 国宝の美23 厳島神社・日吉神社・北野天満宮』2010.1.31. 朝日新聞出版)
北野天満宮では、拝殿・本殿・石の間・楽の間 が国宝に指定されており、三光門が重要文化財に指定されている。
「石の間造」と「権現造」は同じなのか、同じではないのか。 どちらも、拝殿・幣殿(石の間)・本殿の3部構成でできている。
『週刊朝日百科 国宝の美23 厳島神社・日吉神社・北野天満宮』(2010.1.31. 朝日新聞出版)に掲載の年表によると、
1607年 北野天満宮 社殿 豊臣秀頼により再建。
1607年 大崎八幡宮 社殿造営。
1636年 日光東照宮 造営。
と、北野天満宮に現在の社殿が再建されて後に、大崎八幡宮の社殿が造営され、さらにその後、日光東照宮が造営された。
《 日光東照宮をはじめとする権現造の社殿は、多量の彫刻と極彩色が特徴である。北野天満宮では、彫刻は極彩色であるが量や大きさは抑制され、そのほかは素木(しらき)の部分が多く、要所に金具を用いて全体を引き締めている。 桃山風の彫刻、彩色はみられるが、平安時代から続く社殿の伝統を守り、格調の高い意匠設計がなされている。ちなみに、北野天満宮と前後する時期の京都八坂神社の社殿も、もとは神殿(本殿)と礼堂(現在は本殿内)を前後にならべる形態だったが、その後、寺院本堂と変わらない形態に発展した。石の間造は、さまざまな可能性をもった発展途上の形式であったが、北野天満宮でその形式が固定したことが、のちの東照宮建築を生む結果となったのである。》
( 『週刊朝日百科 国宝の美23 厳島神社・日吉神社・北野天満宮』(2010.1.31. 朝日新聞出版 )
私は、最初、北野天満宮は日光東照宮のように「きんきらきん」ではなく「刻みまくり、塗りまくり」ではないと思っていたのでしたが、今回、訪問して見ると、北野天満宮もそれなりにきらびやかな彩色がされているようにも思った・・のでしたが、それでも、もう一度、日光東照宮に行って見たならば、おそらく、「きんきらきん」の度合いが違うことを認識するのかもしれません。
「石の間造」の別名が「権現造」なのか、「石の間造」のうち、「きんきらきん」で「刻みまくり、塗りまくり」が「権現造」なのか・・といっても、おそらく、人によって用語の使い方は違うのではないかと思われるし、東照宮のような形式が「権現造」であったとしても、それを踏襲した他の東照宮においても、日光東照宮ほど「刻みまくり、塗りまくり」しようと思っても予算の問題もあってできなかったというケースだってあるのではないか。 だから、「石の間造」と「権現造」は同じと考えるか、「石の間造」のうちの「きんきらきん」「刻みまくり、塗りまくり」の度合いが大きいものを「権現造」と考えるか。いつまで経っても結論は出ないのではないか。
さて、大鳥居からその後の鳥居2つをくぐって参道を進んで楼門を入った後、そのまま前に進むと御本社の右側、東回廊の東側を北に進むことになるが、東回廊の東側を北に進むと、そこに何があるかというと・・・↓

↑ 「文子天満宮(あやこてんまんぐう)」がある。
現地の説明書きによると、
《 末社 文子(あやこ)天満宮
祭神 菅原大神(菅原道真公)
・・・
道真公が太宰府で生涯を閉じられて四十年を経た天慶(てんぎょう)五年(942)、右京七条二坊(現在の京都市下京区千本通り七条辺)に住む 巫女 多治比文子(たじひのあやこ)に菅公の神霊より、わが魂を右近馬場(現 境内地)に祭れとのお告げがあり、文子はとりあえず自宅に菅公の御霊(みたま)をお祭りした。これが北野天満宮の発祥である。
その後、他の霊能者にも同じご神託が相つぎ、天暦(てんりゃく)元年(947)天満宮は現在地に移された。文子の住居跡は神殿につくり改め文子天満宮と称えられてきたが、やがて西の京に移され、さらに明治六年(1873) この場所に遷座された。》
と書かれている。 この場所に移された 明治六年というと「岩波(1873)ほど大きくない明六社」、明六社が設立された年である。
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明六社 1873~1879 啓蒙的思想団体。森有礼(もり ありのり)が発議。福沢諭吉・中村正直・西 周・津田真道・加藤弘之・西村茂樹らが参加。明治6年創立で明六社という。
「明六雑誌」 1874~75 明六社の機関紙。啓蒙思想の紹介宣伝に貢献。新聞紙条例発布により43号で廃刊。
(全国歴史教育研究協議会編『新版 日本史用語集』1975.新版 山川出版社 )
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配置から考えて、
大鳥居(一の鳥居)ー二の鳥居-三の鳥居ー楼門・・・文子天満宮の鳥居ー文子天満宮
となっていることから考えて、もともと、この地に文子天満宮が造られて、後にその左(西)の位置に今の御本社の前身が造られたということかな・・・といったことを考えたが、文子天満宮がこの場所に移されたのは1873年(明治6年)のことだというから、そうではないのでしょう・・・けれども、もしかして、今の文子天満宮のある場所に、何か、かなり重要な社があったとか、ないとは言えないようにも・・。
北野天満宮HP の「御由緒」https://www.kitanotenmangu.or.jp/about_history.php には、
《 北野天満宮の創建は、平安時代中頃の天暦元年(947)に、西ノ京に住んでいた多治比文子や近江国(滋賀県)比良宮の神主 神良種、北野朝日寺の僧最珍らが当所に神殿を建て、菅原道真公をおまつりしたのが始まりとされます。》とあり、
現地の説明書きに書かれている、「他の霊能者」とは、近江国 比良宮の神主 神 良種 と、北野朝日寺の僧 最珍 のことでしょう。
「多治比文子(たじひのあやこ)」とは何者か? 文子天満宮の前の現地の説明書きには、《 右京七条二坊(現在の京都市下京区千本通り七条辺)に住む巫女》と書かれているのだが、
『日本の神社6 北野天満宮』(2014.3.25.デアゴスティーニ・ジャパン)には、
《 文子天満宮(あやこてんまんぐう)
道真公の乳母ともいわれる多治比文子(たじひのあやこ)が、天神として一番はじめに道真公を祀った場所。今は天満宮の末社だが前身となった神社。》
と書かれている。巫女なのか乳母なのか。又、この『日本の神社6 北野天満宮』(2014.3.25.デアゴスティーニ・ジャパン)の書き方だと、やはり、この文子天満宮の場所が、天神として初めに祀った場所だということになる。
《ウィキペディアー北野天満宮》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E9%87%8E%E5%A4%A9%E6%BA%80%E5%AE%AE には、
《 没後20年目、朝廷は道真の左遷を撤回して官位を復し、正二位を贈った。天慶5年(942年)、右京七条に住む多治比文子(たじひのあやこ)という少女に託宣があり、5年後にも近江国の神官の幼児である太郎丸に同様の託宣があった。それに基づいて天暦元年6月9日(947年)、現在地の北野の地にあった朝日寺(東向観音寺)の最鎮(最珍)らが朝廷の命により道真を祀る社殿を造営し、朝日寺を神宮寺とした。後に藤原師輔(藤原時平の甥である)が、壮大な社殿に作り直されたという。・・》
と出ているのだが、文子天満宮の現地での説明書きでは「巫女」で、『日本の神社6 北野天満宮』(2014.3.25.デアゴスティーニ・ジャパン)では「道真公の乳母ともいわれる」で、《ウィキペディアー北野天満宮》では「少女」と、何通りかの書き方がされていて一定しない。
単に「巫女」だと成人した女性かと思われるが、「少女」の「巫女」がいた可能性もないとは言えないだろう。しかし、「乳母」となると、菅原道真は《ウィキペディアー菅原道真》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%85%E5%8E%9F%E9%81%93%E7%9C%9F によると、菅原道真の生誕と他界は《承和12年6月25日(845年8月1日) - 延喜3年2月25日(903年3月26日)》で、903年に他界した時には57歳だったわけで、多治比文子に託宣があったという942年においては、もしも、903年に他界せずにそのまま生き続けていたとすると菅原道真は96歳であり、「乳母」ということは菅原道真より年上であるのは間違いないはずで菅原道真の母親と同年代くらいとすると、仮に道真が産まれた時に20歳だったとして多治比文子に託宣があったという942年には116歳ということになる。全般に今よりも人の寿命は短いとしても、それでも、中には相当長生きする人があって、116歳まで道真の乳母が生きたということはありえないことはないかもしれないが、可能性としてはそう大きいとも思えない。 「少女」で「乳母」はありえないが、「少女」ではなく「老女」で、「乳母」ではなく「乳母の縁者の女性」か「道真の息子の乳母」ならありうることかもしれない。
次回は、北野天満宮 地主神社、北門、東門、伴社・・・
(2021.5. .)
なお、北野天満宮訪問は私としては3回目ですが、ブログ公開では2回目なので、紛らわしいので先に公開したものと区別するため、タイトルは「北野天満宮参拝B」としました。
☆ 北野天満宮B
1.北野天満宮への経路。阪急西院ビル。「西院」の由来。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202105article_4.html
2.阪急「嵐山」・京福「嵐山」から「北野白梅町」へ https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202105article_5.html
3.JR「円町」から京都市営バスで「北野天満宮前」へ https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202105article_6.html
4.大鳥居から楼門、三光門から御本社、文子天満宮〔今回〕
5.東門、北門、地主社、伴氏社。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202105article_8.html
《「緊急事態宣言」「蔓延防止」とGoToトラベルを交互に出したら、むしろ、一時期に集中することになる。「不要不急の」という表現は戦中にも使われた表現。》https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202105article_9.html
《就業時間中に松戸新田駅から40分もハイキングやる「銀行から来た総務のおっさん」と銀行から「融資」でなく「出資」を受けると会社はつぶれる例》https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202105article_10.html
★ 冤罪を晴らす神さま・菅原道真・怨念を晴らすお百度参り
京都府
北野天満宮(京都市上京区)
1 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201302article_2.html
2 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201302article_3.html
3 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201302article_4.html
4 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201302article_5.html
5 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201302article_6.html
北野天満宮B
1.北野天満宮への経路。阪急西院ビル。「西院」の由来。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202105article_4.html
2.阪急「嵐山」・京福「嵐山」から「北野白梅町」へ https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202105article_5.html
3.JR「円町」から京都市営バスで「北野天満宮前」へ https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202105article_6.html
4.大鳥居から楼門、三光門から御本社、文子天満宮 〔今回〕
5.東門、北門、地主社、伴氏社。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202105article_8.html
高台寺天満宮(京都市東山区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201511article_7.html
曼殊院天満宮(京都市上京区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201608article_4.html
長岡天満宮(長岡京市)
1.八条ヶ池 他 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201703article_10.html
2.拝殿・祝詞舎・本殿・手水舎他 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201703article_11.html
3.春日社八幡宮社・紅梅殿・白梅殿・社務所(連歌所)他 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201703article_12.html
4.梅園、長岡稲荷、錦景園他 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201704article_1.html
大阪府
大阪天満宮(大阪市北区)
1.https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201403article_1.html
2.https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201403article_2.html
3.https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201403article_4.html
露の天神社(お初天神)(大阪市北区)
上 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201403article_5.html
下 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201403article_6.html
綱敷天神社(大阪市北区)
1.綱敷天神とは。「北野」の由来。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201604article_6.html
2.社殿と桜。堅魚木と千木。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201604article_7.html
3.「戦災の狛犬」、筆塚。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201604article_8.html
4.白龍社、歯神社。綱敷天神社の周囲https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201604article_9.html
綱敷天神社 御旅社(大阪市北区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201405article_11.html
池田市天神1丁目・2丁目 http://shnkahousinght.at.webry.info/201405/article_10.html
西江寺 摂社天満大自在天神(箕面市) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201611article_5.html
箕面市粟生間谷の天満宮
上 箕面市粟生間谷の天満宮 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201709article_14.html
下 粟生間谷の天満宮の周辺 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201709article_15.html
上新田天神社(豊中市)
1 千里中央駅から。電柱看板の是非。卑怯者不動産屋店長https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201701article_15.html
2 鳥居から参道階段を経て拝殿へ。「他力」とは https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201701article_16.html
3 拝殿・本殿・牛・屋根・稲荷社他 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201701article_17.html
4 神社の社殿を背後から見下ろす下品な高層マンション https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201701article_18.html
上宮天満宮(高槻市)
1.JR「高槻」駅から上宮天満宮へ。大きな一の鳥居をくぐり石段へ。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201811article_2.html
2.絵馬堂・神輿庫・御霊屋・割拝殿。セキュリティーの難しさ https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201811article_3.html
3.竹製の本殿。菅原道真と為理と孝標。山崎の戦い後に建てられた旧本殿 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201811article_4.html
4.本殿裏末社。神社の「経営」「経営者」とは。捨て猫はどう対処すべきか https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201811article_5.html
5.摂社野身神社、車塚古墳、鉄骨で支えた石の鳥居。反則相撲の野彌宿祢 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201811article_6.html
6.天満宮を見下ろす 地域の「気の流れ」を乱す 家相が悪い 高層マンションhttps://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201811article_7.html
7.「不純異性交遊」の男の大学は「同じ大学なのに」と考えるべきか?https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201811article_8.html
8.東大はスーパー京大ではない、厚い本を使えばいいというものではない。高槻駅前 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201811article_9.html
9.和訳でない問題で日本語訳を書くな、親が組みしやすいと親に吹き込む予備校 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201811article_10.html
10.北山本山寺の石碑、景観重点地区、女性客の多い店でも入るのが商学士の使命 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201811article_11.html
千葉県
葛飾天満宮(市川市) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201301article_4.html
白幡天神社(市川市)
1.https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201511article_1.html
2.https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201511article_2.html
3.https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201511article_3.html
市川市北方町4丁目の天神社 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201608article_2.html
意富比神社 末社天神社(船橋市) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201302article_10.html
船橋市東船橋の「天神社」 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201311article_1.html
下飯山満神明神社 摂社天神社(船橋市) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201503article_4.html
白井市河原子の天満宮 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201303article_5.html
子守神社 摂社天神社(千葉市花見川区)https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201605article_3.html
千葉神社 摂社千葉天神 と 鵜の森町の「神札」(千葉市中央区)
(上)https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201305article_2.html
(下)https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201305article_3.html
北總天満宮(千葉市中央区)https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201308article_1.html
新町天満宮(千葉市中央区)
【上】 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201703article_6.html
【下】 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201703article_7.html
大網白里市駒込の天満宮 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202012article_1.html
大網白里市大竹の天満宮 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202012article_2.html
平群天神社(南房総市 平久里中)
1.富楽里、道の駅おおつの里。平群天神社への道。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202101article_2.html
2.伊予ヶ岳・夫婦クスノキ・天神縁起絵巻・鳥居から拝殿へ。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202101article_3.html
3.天神社社殿、木製打上花火筒、朝日山神照寺、民俗資料館跡? https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202101article_4.html
岩井市部天満神社(南房総市市部)参拝。拝殿・幣殿・本殿の3部形式の社殿。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202101article_5.html
東京都
亀戸天神社(江東区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201301article_7.html
亀戸天神社 2回目 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201505article_1.html
湯島天神社(文京区)
上 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201602article_10.html
中 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201602article_11.html
下 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201602article_12.html
北野神社(文京区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201303article_2.html
平河天満宮(千代田区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201210article_3.html
西向天神社(新宿区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201502article_1.html
根津美術館 庭園内 渡唐天神祠(「飛梅祠」)(港区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201603article_3.html
若林天満宮・若林北野神社(世田谷区)https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201312article_5.html
平塚神社 摂社菅原神社〔平塚天神社〕(北区)https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201807article_10.html
谷保天満宮(国立市)
1.谷保駅から鳥居。「やほ」と「やぼ」。「面白い地名」とは? https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201903article_1.html
2.鳥居から坂を下り、拝殿・本殿と鶏。会社にいる『水滸伝』登場人物 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201903article_2.html
3.五社、三郎殿、厳島神社(市登録有形建造物)、左右に2体ずついる狛犬、座牛 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201903article_3.html
4.神楽殿・筆塚。ひとに「親孝行せえよお」と言ってストレス解消する教育勅語主義者https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201903article_4.html
5.梅林、稲荷社、第六天神社。建築は構造・機能・デザイン・経済性をともに満たしてこそ https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201903article_5.html
本町田 菅原神社(町田市本町田)
上 赤い鳥居・井手の澤の谷地・弁天社・御本社・牛の絵。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202102article_2.html
中 御本社・参集殿・神楽殿。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202102article_4.html
下 愛宕社・藤木稲荷・井手の澤古戦場碑。枝が垂れ下がる梅の木。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202102article_5.html
町田天満宮(町田市原町田)https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202102article_1.html
神奈川県
三渓園天満宮(横浜市中区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201303article_8.html
永谷天満宮(横浜市港南区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201309article_1.html
荏柄天神社(鎌倉市) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201401article_7.html
北野神社(鎌倉市山崎)https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201504article_2.html
下平間天満天神社(川崎市幸区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202003article_14.html
幸区東古市場の天満天神社(川崎市幸区)と御幸公園
1.下平間交差点・古市場交差点を経て天満天神社。気分の悪い古市場交番も健在。「両親が離婚した」者は常に不利ではない、ということも理解できないバカ女。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202003article_15.html
2.二度の移転で現在地に来た天満天神社と入口脇の梅。出入の厳重そうな東芝小向工場と管理不十分な(株)一条工務店・(株)日本産業の「いいかげんそう」工場 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202003article_16.html
3.御幸公園。植樹された梅林。役立たず教師・予備校。医者屋族は特権民族なのか? 子猫を助けられなかった思い出。「武蔵小杉」のマンション山。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202003article_17.html
静岡県
深奥山 方広寺 七尊堂(浜松市北区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201707article_13.html
浜松市西区雄踏町宇布見 の 中村家住宅北側の天神社 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202104article_7.html
愛知県
熱田神宮内 菅原社(外天神)と内天神社(名古屋市熱田区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201711article_10.html
岐阜県
飛騨天満宮(高山市)
上 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201309article_7.html
中 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201309article_8.html
下 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201309article_9.html
村山天神(高山市国府町)
1上枝駅から宮川沿い https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201409article_2.html
2村山天神 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201409article_3.html
3村山天神 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201409article_4.html
4あじめ峡、他 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201409article_5.html
桜山八幡宮 摂社天満神社(高山市) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201510article_7.html
日の出天満宮(高山市) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_13.html
石川県
金沢神社(金沢市) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_1.html
椿原天満宮(金沢市) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_2.html
田井菅原神社(金沢市) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_3.html

日本の国宝061 京都/北野天満宮 賀茂別雷神社 賀茂御祖神社 大報恩寺 上品蓮台寺 廬山寺 相国寺 (週刊朝日百科)

警察腐敗―警視庁警察官の告発 (講談社プラスアルファ新書) - 黒木 昭雄

島田事件と赤堀政夫 - 赤堀闘争全国活動者会議
これまでの3回、「北野天満宮へ公共交通機関をつかって直近まで行く」ルートについて、2回目は阪急「嵐山」・京福「嵐山」経由で「北野白梅町」駅まで、3回目はJR「円町」から京都市営バスで「北野天満宮前」まで行くルートを述べました。
北野天満宮の今出川通りに面した大鳥居(一の鳥居)とその前のでっかい狛犬 を見ると、ああ、ついに北野天満宮に来たんだあ!・・と感激します。 バックミュージックとしては、ワグナーのオペラ『タンホイザー』の「巡礼の合唱」が鳴り響く。



「天神信仰発祥の社」
「全国天満宮総本社」
※ 《YouTuve-ワーグナー 巡礼の合唱 「タンホイザー」 より The Robert Shaw Chorale》https://www.youtube.com/watch?v=rZWmnpM0Is4
《YouTuveーWagner: Tannhäuser Overture-Karajan Berlin Live 1987- ワーグナー タンホイザー序曲 カラヤン ベルリンライブ》https://www.youtube.com/watch?v=jeLouoZQx2s
『タンホイザー』だけでなく、一般にリヒャルト=ワグナーの曲というのは、誰が演奏しているかというと、YouTuve に出ているものを見ても、フルトヴェングラーとかカラヤンとか、そういった「権力志向」「体制側志向」「権威主義志向」の指揮者の演奏が多い・・というあたりについては、「巡礼の合唱」などは私は好きなのですが、フリードリヒ=ニーチェが『ツァラトゥストラはこう語った』でリヒャルト=ワグナーを悪趣味だと評していたと思いますが、どうも、ワグナーというのは、そういう傾向を感じてしまいますね・・・。又、ニーチェはワグナーを礼賛するのではなく、そういった批判をするあたり、やはり、ニーチェはヒトラーとは違う・・というものが出ているように思います。

タンホイザー Tannhauser―DVD厳選コレクション珠玉の名作オペラ vol.3 ヴァーグナー作曲 (DVD厳選コレクション 珠玉の名作オペラ) - 永竹 由幸(ながたけ よしゆき), 井形 ちづる(いがた ちづる), 長谷川 勝英(はせがわ かつひで), 永竹 由幸(ながたけ よしゆき), 永竹 由幸(ながたけ よしゆき)
大鳥居(一の鳥居)をくぐり、参道を進みます。

大鳥居(一の鳥居)の後、さらに鳥居を2つくぐります。


大鳥居(一の鳥居)の手前にでっかい狛犬が左右に鎮座しているのと別に、牛の像はあちらこちらに見かけますが、牛が狛犬の代わりを務めるわけではなく、狛犬は別にいます。


↑ コロナウイルスが蔓延しているという最中、牛さんも、お疲れ気味のようです。 ↑


↑ 楼門。
《 菅公を讃える「文道大祖(ぶんどうのたいそ) 風月本主(ふうげつのほんしゅ)」と書かれた額が掛かる。》↑
《 「文道大祖(ぶんどうのたいそ) 風月本主(ふうげつのほんしゅ)」と書かれた額がかけられている。この歌詞は平安時代の学者 大江匡衡(おおえ まさひら)の願文にもある。額の字は『北野天神縁起絵巻』承久本(しょうきゅうぼん)の詞書(ことばがき)に基づくものである。》 ↑
( 『日本の神社6 北野天満宮』2014.3.25.デアゴスティーニ・ジャパン )
![日本の神社 6号 (北野天満宮) [分冊百科]](https://m.media-amazon.com/images/I/61Ex6HuZKZL._SL500_.jpg)
日本の神社 6号 (北野天満宮) [分冊百科]

↑ 楼門を入ってすぐの所、北側を見たものですが、ここで、ふと気づいた。 大鳥居(一の鳥居)から、二の鳥居・三の鳥居をくぐり、楼門をくぐって、そのまま直進した位置に社殿があるわけではなく、社殿はこれより少々西に寄って場所にある・・ということに。

なぜだろうか?
・・それはさておき、とりあえず、社殿に参拝しましょう。 大鳥居(一の鳥居)から楼門までの直線から少し西にずれた場所に、社殿に至る直線の参道があります。↓


↑ この突き当りの門が、三光門。
《 石畳の参道をこえたところに姿を現す中門。 この門をくぐると拝殿にたどりつく。 「天満宮」の勅願は後西(ごさい)天皇ご宸筆(しんぴつ)によるもの。重要文化財。》
《 日月星の彫刻がある重要文化財の三光門(さんこうもん)。 「天満宮」の額は後西(ごさい)店の王のご宸筆(しんぴつ)。》
《 梁間(はりま)に日・月・星が刻まれていることからこの名がついた。》
( 『日本の神社6 北野天満宮』2014.3.25.デアゴスティーニ・ジャパン )
↑ 三光門に至る参道の左右に摂社が並んでいます。左側(西側)に、福部社(ふくべしゃ)・老松社(おいまつしゃ)、右側(東側)に白大夫社(しらだゆうしゃ)・火之御子社(ひのみこしゃ)。↑
三光門の左右に、西回廊・東回廊があり、拝殿と西回廊・東回廊に囲まれた中庭があって、鳥居をくぐり、楼門をくぐり、さらに三光門をくぐって回廊に囲まれた空間に入ると、「聖域」にはいった気持ちになります。


↑ 拝殿。
二回目・三回目の訪問をすると、初回に気づかなかったものに気づくことがあります。拝殿の左手前に梅の木が植わっていますが、菅原道真というと、牛と梅が有名ですが、その梅でしょう。左手前の梅とともに、右手前には松が植わっています。 菅原道真が罪人扱いで太宰府に送られた時に、梅と松の木が菅原道真を慕って後を追いかけて飛んだものの、梅は太宰府までたどり着いたけれども、松は摂津のあたりで力尽きた・・というお話があるのが、梅と松です。大宰府天満宮には、たしか、その飛んできた梅がこれですよお~お・・という梅の木があったと思いますが、梅の木は太宰府まで飛んでいったからには、ここの梅は後から植えられた木であって飛んでいった梅ではないのでしょう。 松も、おそらく、摂津で墜落した松が引き返してきたわけでもないでしょう・・・けれども、梅と松の組み合わせというのは、なかなかいいですね。

↑ 拝殿の左手前、梅の木。

↑ 拝殿の右手前、松の木。
YouTuve に造園業者の人で、「庭に植えるのにお勧めできない木」として桜をあげていた人がいましたが、なぜ、その人は桜はお勧めできないかというと、桜は花が咲いた時はきれいだけれども、花が咲いていない時期は地味で、花が咲いている時とそうでない期間とでは花が咲いていない期間の方がずっと長いということと、相当広い庭がある人ならいいけれども、そうでない場合は花が散った時にそれが人さまの家の敷地内に落ちることになる・・ということから、桜はあまりお勧めできないらしい。
桜と梅であれば開花時期が1か月ほど梅の方が早いのですが、見比べると桜の方が派手で華やかなのですが、梅の方が「くろうと好み」みたいなところがあって、又、花が咲いた時に、桜は自分が主役中の主役になるのに対し、梅は開花時においても、他の樹木と協調しようとするようなところがあると思います。 そして、花が咲いていない時期には、桜はそれほど魅力がある木ではないのに対して、梅は花が咲いていない時にもそれなりに趣がある木・・・というのか、もともと、花は咲かない松と並んでいるのを見ても悪くない木ですね。
太宰府天満宮には高校の修学旅行の時に行ったのですが、その時の記憶が違ってなければ、太宰府天満宮では社殿の手前に紅梅と白梅が左右に並んでいたように覚えているのですが、北野天満宮では梅と松が左右に並んでいます。 花が咲いていない時期の梅と松が左右にならぶのもいいですね。たしかに、梅は花が咲いていない時期もいいし、花が咲いている時であっても他の木の存在を否定しない協調性とでもいったものがあるように思えます。

↑ 拝殿。
《 石の間で本殿とつながった国宝。左右に楽(がく)の間を備える。 》
《 八棟造(やつむねづくり)(権現造 ごんげんづくり)の本殿は桃山時代に建造された国宝。
菅原道真を主祭神とし、相殿(あいどの)に中将殿(ちゅうしょうどの)(長子の菅原高視 すがわら たかみ)と 吉祥女(きっしょうにょ)(正室の島田宣来子 しまだ のぶきこ)を祀る。》

↑ 西側の「楽の間」。

↑ 本殿(左)・石の間(中) 西側から見たもの。右端は、西側の「楽の間」。
北野天満宮の社殿は、日光東照宮・上野東照宮や大崎八幡宮などと同じく、「石の間造り」という、拝殿・石の間(幣殿)・本殿の3部構成でできている。「権現造り」の「権現」とは東照大権現・徳川家康のことで、日光東照宮の造りという意味だが、宮城県の大崎八幡宮では、日光東照宮よりも大崎八幡宮の方が造られたのは先だということで「権現造り」とは言わずに「石の間造り」と言っているらしい。
北野天満宮も、拝殿・幣殿・本殿の3部構成だが、最初に造られた時から、この構成だったわけではないらしい。 『週刊朝日百科 国宝の美23 厳島神社・日吉神社・北野天満宮』(2010.1.31. 朝日新聞出版)には、
《 北野天満宮は、菅原道真の御霊(ごりょう)を鎮めるため、天暦(てんりゃく)元年(947)に創建された。
その後、天徳(てんとく)3年(959)には日吉造(ひよしづくり)のような三間三面庇(びさし)の本殿となり、天延(てんえん)元年(973)には拝殿も備わっていた。
遅くとも平安末期には今のような石の間造となり、鎌倉時代には珍しい形態と評された。
桃山時代になると、石の間造は、豊臣秀吉を祀る豊国廟、さらに徳川家康を祀る東照宮に用いられた。
人を神として祀る点に北野天満宮との共通点が見出されたのだろう。しかし、おそらくそれだけの理由ではない。
建物の外観を見ると、豊国廟、東照宮とも規模壮大かつ壮麗であり、内部空間も充実している。これは伝承形式や一般形式の本殿では実現できないし、寺院建築では外観がありふれてしまう。 石の間造という複雑な形態であればこそ、規模が大きく、変化に富み、彫刻や彩色が効果を発揮できる形態となりえたのだ。 桃山風の華麗な意匠をまとって再登場した石の間造は、それ以後、徳川家康にちなんで権現造と呼ばれ、全国の東照宮で用いられた。宮城・大崎八幡宮なども同形式でつくられ、北野天満宮の社殿は神社建築の歴史に大きな影響を及ぼした。
現在の社殿は、慶長(けいちょう)12年(1607)の再建である。社殿の構成は、本殿と拝殿が前後にならび建ち、その間を石の間で繋ぐ。石の間の床は低く、地面に近い。本殿と拝殿は別々の建物で、それぞれ入母屋造(いりもやづくり)、檜皮葺(ひわだぶき)の屋根をのせる。・・・》
と出ている。

国宝の美 23 建築7 厳島神社/日吉大社/北野天満宮(2010年01月31日号) (週刊朝日百科) - 朝日新聞出版

( ↑ 東側から見た 本殿。 )

( ↑ 東側の「楽の間」。)
( ↑ マーカーが北野天満宮。 )
《 拝殿 一重、入母屋造の建物。東西に「楽(がく)の間」をもつ。国宝。》
《 本殿 豊臣秀吉の遺命により、豊臣秀頼が慶長12年(1607)に造営。「八棟造(やつむねづくり)」と称される檜皮葺(ひわだぶき)の屋根に破風を金物で飾った美しい造り。本殿と拝殿を「石の間」でつないでいる。国宝。》
《 石の間 石の間は拝殿や本殿よりも一段低く造られた石敷きで、天井を張らずに化粧屋根裏とするなど、平安時代に原型ができたとされる権現造の古式を残している。》
《 八棟造(はつむねづくり(権現造 ごんげんづくり)の本殿は桃山時代に建造された国宝。菅原道真公を主祭神とし、相殿(あいどの)に中将殿(ちゅうじょうどの)(長子の菅原高視 すがわら たかみ)と吉祥女(きっしょうにょ)(正室の島田 宣来子 しまだ のぶきこ)を祀る。》
( 『日本の神社6 北野天満宮』2014.3.25.デアゴスティーニ・ジャパン )
北野天満宮は拝殿の左右に「楽の間」があるところが他の「石の間造」の建物と違う。
《 本殿と拝殿の棟は平行で、その間に石の間の棟を直交してかけるので、棟は全体で「工」の字の形になる。 さらに拝殿正面の屋根中央に千鳥破風、拝殿の左右に楽の間がついて、屋根の構成はさらに複雑なものとなり、八棟造(やつむねづくり)の異称もある。》
( 『週刊朝日百科 国宝の美23 厳島神社・日吉神社・北野天満宮』2010.1.31. 朝日新聞出版 )
八棟造というからには、棟(むね)が8つあるということだが、拝殿の棟・本殿の棟、それに直行する石の間(幣殿)の棟で3つ。それに拝殿の前、千鳥破風と唐破風で2つ。拝殿の左右の楽の間で2つ。これで7つだが、後1つは、本殿の西に「脇殿」があるが、脇殿は本殿の西側にだけあって東側にはない。脇殿で1つをたして8つということなのか?

( ↑ 本殿の西側と脇殿。)

( ↑ 本殿の東側。 )
それとも、背後の「御后三柱」を祀っている背後から参拝するようになっている部分のことか? ↓


1 ↑ は 本殿の背後の部分。 神社は社殿の背後にまわってみるべきものか、そうではなく拝殿の前から参拝して社殿の背後にはまわらないものか。 それは神社によって異なるようだが、北野天満宮に限らず、天神・天満・北野・菅原系神社では、大阪天満宮(大阪市北区)でも、服部天神宮(大阪府豊中市)でも、背後からも拝むようにできている。大阪市浪速区の今宮戎神社では、「えべっさん」というのは耳が遠くて、しばしば昼寝しているもので、正面からお願いしても聞こえていないことがあるので、正面からお願いするとともに背後にもまわって後ろからも、「えべっさん、よろしゅうお願いしまっせ」と念を押してお願いする・・という話があるようだが、「えべっさん」というのは神さまでもかなり庶民的な神さんなので、そういったお話ができたのだろうけれども、北野天満宮・大阪天満宮・服部天神宮とともに、今宮戎神社も背後からも拝むようになっているようだ。
北野天満宮の場合、現在では、↑ の背後から拝む場所というのは、「御后の三柱(ごこうのみはしら)」と言って、現地の説明書きでは、
《 御后の三柱(ごこうのみはしら)
祭神 天穂日命(あめのほひのみこと) 菅原 清公卿(すがわら きよきみ きょう) 菅原 是吉 卿(すがわら これよし きょう)
神徳 学業成就
・・・・ 》
と書かれている。 天穂日命(あめのほひのみこと)は『古事記』に登場する神で、菅原道真の祖先とされている。 菅原清公は菅原道真の祖父、菅原是善は菅原道真の父。
祖父の菅原清公(すがわらのきよきみ)は、空海・最澄・橘逸勢らとともに遣唐使として唐に行った人で、父の菅原是善(すがわらのこれよし)は大学頭(だいがくのかみ)から参議になった人で、祖父の清公・父の是善ともに文章博士(もんじょうはかせ)を勤めた人で、清公は学問所「文章院(もんじょういん)」を創設し、是善は「菅家廊下(かんけろうか)」と言われた私塾を充実させた人だという。
神話の域での話としては、菅原道真の祖先は『古事記』に登場する天穂日命(あめのほひのみこと)で、その間に相撲の祖だということになっていて、當麻蹴速(たいまのけはや)と武闘派対決をやり當麻蹴速(たいまのけはや)を《足で蹴り殺した》野見宿祢(のみのすくね)がいることになっている。
しかし、北野天満宮の場合、今は、背後から拝む場所は、菅原道真の父と祖父と祖先神を祀ることになっているけれども、もともとはそうではなかったのではないか。
《 北野天満宮でもうひとつ重要な点にふれておきたい。それは神仏習合のあり方で、少なくとも鎌倉時代には本殿内部の背面側に舎利塔(釈迦の遺骨を納めた塔)を祀っていた。参詣の人びとは背面から舎利塔を拝したので、本殿背後の門は舎利門と呼ばれた。舎利塔は、明治時代の神仏分離で京都・常照皇寺(じょうしょうこうじ)に移されたが、北野天満宮では、背面からも拝む参拝方式が現在も続いている。背面からの参拝は霊場寺院にしばしばみられ、神社でも大阪の今宮神社などでみられる。 》
《 舎利塔 もと北野天満宮本殿の背面側にあった黄銅製(おうどうせい)四角宝塔(しかくほうとう)。 中には菅原道真が所持していたという仏舎利が納められている。 台には元禄14年(1701)の銘がある。 常照皇寺蔵。》
今は、祭神は天穂日命・菅原清公・菅原是善だとして祀られている門が、かつては本殿に舎利塔が祀られているということで拝んでいた舎利門ということのようです。
常照皇寺とはどこにあるのかというと、《ウィキペディアー常照皇寺(じょうしょうこうじ)》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%B8%E7%85%A7%E7%9A%87%E5%AF%BA には、《京都府京都市右京区京北井戸町にある臨済宗天龍寺派の寺院。本尊は釈迦如来。・・》とあり、住所は《 京都府京都市右京区京北井戸町字丸山14-6》とあるが、北野天満宮の本殿から移したという舎利塔については書かれていない。
八棟造(はつむねづくり)は、拝殿・本殿・石の間・西側の楽の間・東側の楽の間・拝殿の千鳥破風・拝殿の唐破風で旨が7つ、あと1つは本殿の西側の脇殿か、それとも背後の舎利門か・・・。 《ウィキペディアー八棟造》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E6%A3%9F%E9%80%A0%E3%82%8A を見ると、
《 複雑な形状に配置された棟を多数配置し、それぞれの棟に破風を備えた豪奢な屋根を重ねて配置する建築様式を指した総称で、「八棟」の「八」は「多数」の意味であって棟の数が必ず八棟と決まっている訳ではない。》
と出ている。ということは、それほど真剣に、どれとどれで8棟か考えなくてもいいということか・・・。
北野天満宮の拝殿と中門の三光門との間には西回廊・東回廊があって、その間が中庭になって、拝殿の前に左に梅、右に松が植わっている。この三光門と東西の回廊と拝殿で囲まれた部分は、北野天満宮でも特に「聖域」の印象を受ける空間だが、回廊は本殿の外側を囲むようにはできておらず、あくまで拝殿と三光門の間を囲うようにできている。
今回、北野天満宮に来るのは三度目なのだが、本殿の背後を通って一周してきて気づいたのだが、なぜか、前回と同じように左側から背後にまわり、右側から拝殿の前に戻ってきた。 拝殿と回廊との間に出入口が設けられているものの、どちらが入口でどちらが出口と指定されているわけではないのだけれども、なぜか、それが普通であるかのように左側から時計回りに歩いてきた。 コンビニは左寄りに入口を設けているのは、人間の心理として入口を入って右側に行って反時計回りに歩きやすいので、売り場を一周させて、入る時点では買うつもりがなかったものでも一周するうちに目について買う気にさせようということで、入口を入って右側に売り場があるように作られている・・とどこかで読んだように思ったのだが、北野天満宮の社殿は背後にまわることができるだけではなく、背後からも参拝するようにできていて、又、御本社の後ろの位置にも摂社が配置されているのだけれども、なぜか、二回とも自然と左側から時計回りに歩いてきた。
「石の間造」では、拝殿・本殿と比べて「石の間」は少々低く造られているということで、『週刊朝日百科 国宝の美23 厳島神社・日吉神社・北野天満宮』(2010.1.31. 朝日新聞出版)には、北野天満宮・大崎八幡宮・日光東照宮の石の間の写真が掲載されているが、一般参拝者は、通常は拝殿の手前から参拝し、石の間に入らせてもらうことはできない・・・が、上野東照宮の場合は拝殿と幣殿(石の間)の部分に入らせてもらうことができて、私も複数回入らせてもらって内部を見せてもらってきた。最初、なぜ、この部分は少し低くなっているのだろうか・・などと思ったが、それが石の間だった。もっとも、その後、上野東照宮は改装工事をおこなったようで、今も拝殿・石の間の部分に入らせてもらえるものかどうかはわからない。
《 北野天満宮 石の間
・・石の間は本殿や拝殿より低く床を張り、上部は両者を繋ぐ屋根がそのまま見える化粧屋根裏である。》
( 『週刊朝日百科 国宝の美23 厳島神社・日吉神社・北野天満宮』2010.1.31. 朝日新聞出版)
北野天満宮では、拝殿・本殿・石の間・楽の間 が国宝に指定されており、三光門が重要文化財に指定されている。
「石の間造」と「権現造」は同じなのか、同じではないのか。 どちらも、拝殿・幣殿(石の間)・本殿の3部構成でできている。
『週刊朝日百科 国宝の美23 厳島神社・日吉神社・北野天満宮』(2010.1.31. 朝日新聞出版)に掲載の年表によると、
1607年 北野天満宮 社殿 豊臣秀頼により再建。
1607年 大崎八幡宮 社殿造営。
1636年 日光東照宮 造営。
と、北野天満宮に現在の社殿が再建されて後に、大崎八幡宮の社殿が造営され、さらにその後、日光東照宮が造営された。
《 日光東照宮をはじめとする権現造の社殿は、多量の彫刻と極彩色が特徴である。北野天満宮では、彫刻は極彩色であるが量や大きさは抑制され、そのほかは素木(しらき)の部分が多く、要所に金具を用いて全体を引き締めている。 桃山風の彫刻、彩色はみられるが、平安時代から続く社殿の伝統を守り、格調の高い意匠設計がなされている。ちなみに、北野天満宮と前後する時期の京都八坂神社の社殿も、もとは神殿(本殿)と礼堂(現在は本殿内)を前後にならべる形態だったが、その後、寺院本堂と変わらない形態に発展した。石の間造は、さまざまな可能性をもった発展途上の形式であったが、北野天満宮でその形式が固定したことが、のちの東照宮建築を生む結果となったのである。》
( 『週刊朝日百科 国宝の美23 厳島神社・日吉神社・北野天満宮』(2010.1.31. 朝日新聞出版 )
私は、最初、北野天満宮は日光東照宮のように「きんきらきん」ではなく「刻みまくり、塗りまくり」ではないと思っていたのでしたが、今回、訪問して見ると、北野天満宮もそれなりにきらびやかな彩色がされているようにも思った・・のでしたが、それでも、もう一度、日光東照宮に行って見たならば、おそらく、「きんきらきん」の度合いが違うことを認識するのかもしれません。
「石の間造」の別名が「権現造」なのか、「石の間造」のうち、「きんきらきん」で「刻みまくり、塗りまくり」が「権現造」なのか・・といっても、おそらく、人によって用語の使い方は違うのではないかと思われるし、東照宮のような形式が「権現造」であったとしても、それを踏襲した他の東照宮においても、日光東照宮ほど「刻みまくり、塗りまくり」しようと思っても予算の問題もあってできなかったというケースだってあるのではないか。 だから、「石の間造」と「権現造」は同じと考えるか、「石の間造」のうちの「きんきらきん」「刻みまくり、塗りまくり」の度合いが大きいものを「権現造」と考えるか。いつまで経っても結論は出ないのではないか。
さて、大鳥居からその後の鳥居2つをくぐって参道を進んで楼門を入った後、そのまま前に進むと御本社の右側、東回廊の東側を北に進むことになるが、東回廊の東側を北に進むと、そこに何があるかというと・・・↓

↑ 「文子天満宮(あやこてんまんぐう)」がある。
現地の説明書きによると、
《 末社 文子(あやこ)天満宮
祭神 菅原大神(菅原道真公)
・・・
道真公が太宰府で生涯を閉じられて四十年を経た天慶(てんぎょう)五年(942)、右京七条二坊(現在の京都市下京区千本通り七条辺)に住む 巫女 多治比文子(たじひのあやこ)に菅公の神霊より、わが魂を右近馬場(現 境内地)に祭れとのお告げがあり、文子はとりあえず自宅に菅公の御霊(みたま)をお祭りした。これが北野天満宮の発祥である。
その後、他の霊能者にも同じご神託が相つぎ、天暦(てんりゃく)元年(947)天満宮は現在地に移された。文子の住居跡は神殿につくり改め文子天満宮と称えられてきたが、やがて西の京に移され、さらに明治六年(1873) この場所に遷座された。》
と書かれている。 この場所に移された 明治六年というと「岩波(1873)ほど大きくない明六社」、明六社が設立された年である。
ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー
明六社 1873~1879 啓蒙的思想団体。森有礼(もり ありのり)が発議。福沢諭吉・中村正直・西 周・津田真道・加藤弘之・西村茂樹らが参加。明治6年創立で明六社という。
「明六雑誌」 1874~75 明六社の機関紙。啓蒙思想の紹介宣伝に貢献。新聞紙条例発布により43号で廃刊。
(全国歴史教育研究協議会編『新版 日本史用語集』1975.新版 山川出版社 )
ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー
配置から考えて、
大鳥居(一の鳥居)ー二の鳥居-三の鳥居ー楼門・・・文子天満宮の鳥居ー文子天満宮
となっていることから考えて、もともと、この地に文子天満宮が造られて、後にその左(西)の位置に今の御本社の前身が造られたということかな・・・といったことを考えたが、文子天満宮がこの場所に移されたのは1873年(明治6年)のことだというから、そうではないのでしょう・・・けれども、もしかして、今の文子天満宮のある場所に、何か、かなり重要な社があったとか、ないとは言えないようにも・・。
北野天満宮HP の「御由緒」https://www.kitanotenmangu.or.jp/about_history.php には、
《 北野天満宮の創建は、平安時代中頃の天暦元年(947)に、西ノ京に住んでいた多治比文子や近江国(滋賀県)比良宮の神主 神良種、北野朝日寺の僧最珍らが当所に神殿を建て、菅原道真公をおまつりしたのが始まりとされます。》とあり、
現地の説明書きに書かれている、「他の霊能者」とは、近江国 比良宮の神主 神 良種 と、北野朝日寺の僧 最珍 のことでしょう。
「多治比文子(たじひのあやこ)」とは何者か? 文子天満宮の前の現地の説明書きには、《 右京七条二坊(現在の京都市下京区千本通り七条辺)に住む巫女》と書かれているのだが、
『日本の神社6 北野天満宮』(2014.3.25.デアゴスティーニ・ジャパン)には、
《 文子天満宮(あやこてんまんぐう)
道真公の乳母ともいわれる多治比文子(たじひのあやこ)が、天神として一番はじめに道真公を祀った場所。今は天満宮の末社だが前身となった神社。》
と書かれている。巫女なのか乳母なのか。又、この『日本の神社6 北野天満宮』(2014.3.25.デアゴスティーニ・ジャパン)の書き方だと、やはり、この文子天満宮の場所が、天神として初めに祀った場所だということになる。
《ウィキペディアー北野天満宮》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E9%87%8E%E5%A4%A9%E6%BA%80%E5%AE%AE には、
《 没後20年目、朝廷は道真の左遷を撤回して官位を復し、正二位を贈った。天慶5年(942年)、右京七条に住む多治比文子(たじひのあやこ)という少女に託宣があり、5年後にも近江国の神官の幼児である太郎丸に同様の託宣があった。それに基づいて天暦元年6月9日(947年)、現在地の北野の地にあった朝日寺(東向観音寺)の最鎮(最珍)らが朝廷の命により道真を祀る社殿を造営し、朝日寺を神宮寺とした。後に藤原師輔(藤原時平の甥である)が、壮大な社殿に作り直されたという。・・》
と出ているのだが、文子天満宮の現地での説明書きでは「巫女」で、『日本の神社6 北野天満宮』(2014.3.25.デアゴスティーニ・ジャパン)では「道真公の乳母ともいわれる」で、《ウィキペディアー北野天満宮》では「少女」と、何通りかの書き方がされていて一定しない。
単に「巫女」だと成人した女性かと思われるが、「少女」の「巫女」がいた可能性もないとは言えないだろう。しかし、「乳母」となると、菅原道真は《ウィキペディアー菅原道真》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%85%E5%8E%9F%E9%81%93%E7%9C%9F によると、菅原道真の生誕と他界は《承和12年6月25日(845年8月1日) - 延喜3年2月25日(903年3月26日)》で、903年に他界した時には57歳だったわけで、多治比文子に託宣があったという942年においては、もしも、903年に他界せずにそのまま生き続けていたとすると菅原道真は96歳であり、「乳母」ということは菅原道真より年上であるのは間違いないはずで菅原道真の母親と同年代くらいとすると、仮に道真が産まれた時に20歳だったとして多治比文子に託宣があったという942年には116歳ということになる。全般に今よりも人の寿命は短いとしても、それでも、中には相当長生きする人があって、116歳まで道真の乳母が生きたということはありえないことはないかもしれないが、可能性としてはそう大きいとも思えない。 「少女」で「乳母」はありえないが、「少女」ではなく「老女」で、「乳母」ではなく「乳母の縁者の女性」か「道真の息子の乳母」ならありうることかもしれない。
次回は、北野天満宮 地主神社、北門、東門、伴社・・・
(2021.5. .)
なお、北野天満宮訪問は私としては3回目ですが、ブログ公開では2回目なので、紛らわしいので先に公開したものと区別するため、タイトルは「北野天満宮参拝B」としました。
☆ 北野天満宮B
1.北野天満宮への経路。阪急西院ビル。「西院」の由来。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202105article_4.html
2.阪急「嵐山」・京福「嵐山」から「北野白梅町」へ https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202105article_5.html
3.JR「円町」から京都市営バスで「北野天満宮前」へ https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202105article_6.html
4.大鳥居から楼門、三光門から御本社、文子天満宮〔今回〕
5.東門、北門、地主社、伴氏社。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202105article_8.html
《「緊急事態宣言」「蔓延防止」とGoToトラベルを交互に出したら、むしろ、一時期に集中することになる。「不要不急の」という表現は戦中にも使われた表現。》https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202105article_9.html
《就業時間中に松戸新田駅から40分もハイキングやる「銀行から来た総務のおっさん」と銀行から「融資」でなく「出資」を受けると会社はつぶれる例》https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202105article_10.html
★ 冤罪を晴らす神さま・菅原道真・怨念を晴らすお百度参り
京都府
北野天満宮(京都市上京区)
1 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201302article_2.html
2 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201302article_3.html
3 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201302article_4.html
4 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201302article_5.html
5 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201302article_6.html
北野天満宮B
1.北野天満宮への経路。阪急西院ビル。「西院」の由来。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202105article_4.html
2.阪急「嵐山」・京福「嵐山」から「北野白梅町」へ https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202105article_5.html
3.JR「円町」から京都市営バスで「北野天満宮前」へ https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202105article_6.html
4.大鳥居から楼門、三光門から御本社、文子天満宮 〔今回〕
5.東門、北門、地主社、伴氏社。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202105article_8.html
高台寺天満宮(京都市東山区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201511article_7.html
曼殊院天満宮(京都市上京区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201608article_4.html
長岡天満宮(長岡京市)
1.八条ヶ池 他 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201703article_10.html
2.拝殿・祝詞舎・本殿・手水舎他 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201703article_11.html
3.春日社八幡宮社・紅梅殿・白梅殿・社務所(連歌所)他 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201703article_12.html
4.梅園、長岡稲荷、錦景園他 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201704article_1.html
大阪府
大阪天満宮(大阪市北区)
1.https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201403article_1.html
2.https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201403article_2.html
3.https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201403article_4.html
露の天神社(お初天神)(大阪市北区)
上 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201403article_5.html
下 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201403article_6.html
綱敷天神社(大阪市北区)
1.綱敷天神とは。「北野」の由来。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201604article_6.html
2.社殿と桜。堅魚木と千木。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201604article_7.html
3.「戦災の狛犬」、筆塚。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201604article_8.html
4.白龍社、歯神社。綱敷天神社の周囲https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201604article_9.html
綱敷天神社 御旅社(大阪市北区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201405article_11.html
池田市天神1丁目・2丁目 http://shnkahousinght.at.webry.info/201405/article_10.html
西江寺 摂社天満大自在天神(箕面市) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201611article_5.html
箕面市粟生間谷の天満宮
上 箕面市粟生間谷の天満宮 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201709article_14.html
下 粟生間谷の天満宮の周辺 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201709article_15.html
上新田天神社(豊中市)
1 千里中央駅から。電柱看板の是非。卑怯者不動産屋店長https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201701article_15.html
2 鳥居から参道階段を経て拝殿へ。「他力」とは https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201701article_16.html
3 拝殿・本殿・牛・屋根・稲荷社他 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201701article_17.html
4 神社の社殿を背後から見下ろす下品な高層マンション https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201701article_18.html
上宮天満宮(高槻市)
1.JR「高槻」駅から上宮天満宮へ。大きな一の鳥居をくぐり石段へ。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201811article_2.html
2.絵馬堂・神輿庫・御霊屋・割拝殿。セキュリティーの難しさ https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201811article_3.html
3.竹製の本殿。菅原道真と為理と孝標。山崎の戦い後に建てられた旧本殿 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201811article_4.html
4.本殿裏末社。神社の「経営」「経営者」とは。捨て猫はどう対処すべきか https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201811article_5.html
5.摂社野身神社、車塚古墳、鉄骨で支えた石の鳥居。反則相撲の野彌宿祢 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201811article_6.html
6.天満宮を見下ろす 地域の「気の流れ」を乱す 家相が悪い 高層マンションhttps://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201811article_7.html
7.「不純異性交遊」の男の大学は「同じ大学なのに」と考えるべきか?https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201811article_8.html
8.東大はスーパー京大ではない、厚い本を使えばいいというものではない。高槻駅前 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201811article_9.html
9.和訳でない問題で日本語訳を書くな、親が組みしやすいと親に吹き込む予備校 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201811article_10.html
10.北山本山寺の石碑、景観重点地区、女性客の多い店でも入るのが商学士の使命 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201811article_11.html
千葉県
葛飾天満宮(市川市) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201301article_4.html
白幡天神社(市川市)
1.https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201511article_1.html
2.https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201511article_2.html
3.https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201511article_3.html
市川市北方町4丁目の天神社 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201608article_2.html
意富比神社 末社天神社(船橋市) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201302article_10.html
船橋市東船橋の「天神社」 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201311article_1.html
下飯山満神明神社 摂社天神社(船橋市) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201503article_4.html
白井市河原子の天満宮 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201303article_5.html
子守神社 摂社天神社(千葉市花見川区)https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201605article_3.html
千葉神社 摂社千葉天神 と 鵜の森町の「神札」(千葉市中央区)
(上)https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201305article_2.html
(下)https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201305article_3.html
北總天満宮(千葉市中央区)https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201308article_1.html
新町天満宮(千葉市中央区)
【上】 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201703article_6.html
【下】 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201703article_7.html
大網白里市駒込の天満宮 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202012article_1.html
大網白里市大竹の天満宮 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202012article_2.html
平群天神社(南房総市 平久里中)
1.富楽里、道の駅おおつの里。平群天神社への道。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202101article_2.html
2.伊予ヶ岳・夫婦クスノキ・天神縁起絵巻・鳥居から拝殿へ。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202101article_3.html
3.天神社社殿、木製打上花火筒、朝日山神照寺、民俗資料館跡? https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202101article_4.html
岩井市部天満神社(南房総市市部)参拝。拝殿・幣殿・本殿の3部形式の社殿。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202101article_5.html
東京都
亀戸天神社(江東区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201301article_7.html
亀戸天神社 2回目 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201505article_1.html
湯島天神社(文京区)
上 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201602article_10.html
中 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201602article_11.html
下 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201602article_12.html
北野神社(文京区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201303article_2.html
平河天満宮(千代田区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201210article_3.html
西向天神社(新宿区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201502article_1.html
根津美術館 庭園内 渡唐天神祠(「飛梅祠」)(港区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201603article_3.html
若林天満宮・若林北野神社(世田谷区)https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201312article_5.html
平塚神社 摂社菅原神社〔平塚天神社〕(北区)https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201807article_10.html
谷保天満宮(国立市)
1.谷保駅から鳥居。「やほ」と「やぼ」。「面白い地名」とは? https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201903article_1.html
2.鳥居から坂を下り、拝殿・本殿と鶏。会社にいる『水滸伝』登場人物 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201903article_2.html
3.五社、三郎殿、厳島神社(市登録有形建造物)、左右に2体ずついる狛犬、座牛 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201903article_3.html
4.神楽殿・筆塚。ひとに「親孝行せえよお」と言ってストレス解消する教育勅語主義者https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201903article_4.html
5.梅林、稲荷社、第六天神社。建築は構造・機能・デザイン・経済性をともに満たしてこそ https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201903article_5.html
本町田 菅原神社(町田市本町田)
上 赤い鳥居・井手の澤の谷地・弁天社・御本社・牛の絵。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202102article_2.html
中 御本社・参集殿・神楽殿。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202102article_4.html
下 愛宕社・藤木稲荷・井手の澤古戦場碑。枝が垂れ下がる梅の木。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202102article_5.html
町田天満宮(町田市原町田)https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202102article_1.html
神奈川県
三渓園天満宮(横浜市中区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201303article_8.html
永谷天満宮(横浜市港南区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201309article_1.html
荏柄天神社(鎌倉市) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201401article_7.html
北野神社(鎌倉市山崎)https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201504article_2.html
下平間天満天神社(川崎市幸区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202003article_14.html
幸区東古市場の天満天神社(川崎市幸区)と御幸公園
1.下平間交差点・古市場交差点を経て天満天神社。気分の悪い古市場交番も健在。「両親が離婚した」者は常に不利ではない、ということも理解できないバカ女。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202003article_15.html
2.二度の移転で現在地に来た天満天神社と入口脇の梅。出入の厳重そうな東芝小向工場と管理不十分な(株)一条工務店・(株)日本産業の「いいかげんそう」工場 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202003article_16.html
3.御幸公園。植樹された梅林。役立たず教師・予備校。医者屋族は特権民族なのか? 子猫を助けられなかった思い出。「武蔵小杉」のマンション山。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202003article_17.html
静岡県
深奥山 方広寺 七尊堂(浜松市北区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201707article_13.html
浜松市西区雄踏町宇布見 の 中村家住宅北側の天神社 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202104article_7.html
愛知県
熱田神宮内 菅原社(外天神)と内天神社(名古屋市熱田区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201711article_10.html
岐阜県
飛騨天満宮(高山市)
上 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201309article_7.html
中 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201309article_8.html
下 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201309article_9.html
村山天神(高山市国府町)
1上枝駅から宮川沿い https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201409article_2.html
2村山天神 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201409article_3.html
3村山天神 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201409article_4.html
4あじめ峡、他 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201409article_5.html
桜山八幡宮 摂社天満神社(高山市) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201510article_7.html
日の出天満宮(高山市) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_13.html
石川県
金沢神社(金沢市) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_1.html
椿原天満宮(金沢市) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_2.html
田井菅原神社(金沢市) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_3.html

日本の国宝061 京都/北野天満宮 賀茂別雷神社 賀茂御祖神社 大報恩寺 上品蓮台寺 廬山寺 相国寺 (週刊朝日百科)

警察腐敗―警視庁警察官の告発 (講談社プラスアルファ新書) - 黒木 昭雄

島田事件と赤堀政夫 - 赤堀闘争全国活動者会議
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