瑞鹿山 円覚寺 と夏目漱石『門』【1/6】北鎌倉駅から総門・山門へ。夏目漱石『門』における総門。
[第849回]
神奈川県鎌倉市山之内 の 円覚寺に参拝してきました。
円覚寺と言えば、
(1)国宝の舎利殿、なにしろ、教科書に載ってる。
(2)臨済宗円覚寺派 大本山。
(3)鎌倉五山第二位。
(4)無学祖元が開山、北条時宗が開基。
(5)夏目漱石『門』に登場する門、それに、『門』の中で、登場人物の野中宗助が『門』の中では「一窓庵」とされる塔頭で過ごす、実際には夏目漱石が帰源院で過ごした寺。
(6)鎌倉で最も駅から近い史跡。
そして、今回、気づいたものに、
(7)建長寺の上の半僧坊のあたりから富士山らしき山が見えるのと同じく、円覚寺の弁天堂の横から富士山が見える・・。
建築屋として、鎌倉の有名建築には足を運んで一度は見ておくべきだと思ってきたのだが、ふと気づくと、それなりに訪問してきた。
1.建長寺・・・臨済宗建長寺派大本山。鎌倉五山第一位。
2.高徳院 鎌倉の大仏・・・広い意味での免震構造。内部に入らせてもらうことができるが、東京カテドラル聖マリア大聖堂と同じく外が中心で中に入ることを目的として作られたものではない。
3.鎌倉宮・・・明治になってから設立された「建武中興十五社」の1社で、メカケや「逆賊」の言うことばっかり聞きやがってからに、自分を犠牲にして会社に滅私奉公を続けた者をいじめる不良経営者をこらしめる神、大塔宮 護良親王(おおとうのみや もりながしんのう) を祀る。
4.荏柄天神社(えがらてんじんじゃ)・・・ご存じ、冤罪を晴らす神さま・怨念を晴らす神さま・菅原道真を祀る。大阪の人間は北野天満宮・大宰府天満宮と大阪天満宮で日本三大天神と言うが、北野天満宮(京都市)・大宰府天満宮(福岡県太宰府市)と鎌倉市の荏柄天神社で三大天神と言う人もあるらしい。まあ、「三大◇◇」というのは法律で決められたものでもないので、「言った者勝ち」みたいなところもあるのだけれども、荏柄天神社は敷地面積とか建物の規模ではそれほど大きなものでもないのだけれども、菅原道真が大変正直な人だったというところから、平安時代後期だったか鎌倉時代だったか、役人に任命された者は、西日本では京都の北野天満宮、東日本では鎌倉の荏柄天神社で宣誓をするということになっていた時期があったことから、荏柄天神社を三大天神の3番目に入れる説が出たらしい・・が、何に書いてあった話だったか忘れてしまった。
5.光明寺・・・浄土宗の関東地方での寺というと、増上寺が知られているが、徳川家が浄土宗だったということから江戸城に近い増上寺が力を持ったということで、それより前には鎌倉の光明寺が浄土宗の寺としては知られていたらしい。
6.雪の下教会・・・プロテスタントの教会としてけっこう知名度がある・・と思ったが、鎌倉の雪の下教会には、カトリック雪の下教会 と プロテスタントの日本基督教団雪の下教会がある。
7.天園ハイキングコース・・・建長寺の背後から登り、鎌倉の外周の山をまわって鎌倉宮の背後に降りてくる。鎌倉のリスと出会う。もともとは人が飼っていたリスが野生化したものらしい。ロンドンのハイドパークのリスは人を見ると寄ってくるが、鎌倉のリスは人を見ると逃げる。
8.北鎌倉から稲村ケ崎付近への縦走ハイキングコース・・・銭洗い弁天などを通る。鎌倉のリスと出会う。
9.江ノ島電鉄・・・JR「鎌倉」駅と「江の島」を通って「藤沢」駅を結ぶ。・・・外から見ると、芋虫みたいで「魅力的な風合い」だが、乗ると内部は狭くて、江の島に行くなら、むしろ、大船から出ているモノレールか、藤沢から出ている小田急江ノ島線の方が乗り心地はいい。
・・・と、ふと気づくと、それなりに何か所か訪問してきた。
10. 1993年、(株)一条工務店に在籍した時には、材木座付近で建築される見込客があって現地にも来たが住友林業(株)で契約された。 都市圏の客に対しての対応力のなさを実感したのだが、浜松など「地方」ではよくても、東京圏・都市圏ではやりにくい対応をしているということについて自覚がない、「病識がない」会社の状態を実感した。
11.広い意味での鎌倉として、
鎌倉市山崎の北野神社。
12.大船駅前、大船観音寺と大船観音。
13. 2005年、(株)チムニーhttps://www.chimney.co.jp/ が「ファーストグルメ」という外見はファーストフード店でありながら、出す食事の内容は相当ボリュームのある肉料理の店を東京近郊に3店舗ほど出してさっさと撤退した2店舗目だったかを出したのが大船駅の南東のあたり。社長の和泉さんは「ファーストフードは苦手だ」とか言いながら、そう言ってもやりだしたからには売れるようにせんかい・・というのに、やるべきことやらずにさっさと撤退した、「バッカじゃなかろかルンバ♪」て感じやった・・という店があったのが大船駅の南東のあたりだったが、大船駅というのは何市かというと、鎌倉市と横浜市にまたがってある。「ファーストグルメ」大船店がどっちだったか微妙だが、どっちかというと横浜市側だったかな・・。
14.慶應大学の商学部の教授で鎌倉市に住んでいる方がおられて、「鎌倉というと文化的な街かと思うと、必ずしもそうではない。文化人なら住んでいる街に貢献すれば良さそうなものなのに、そうではなくて、むしろ『鎌倉』を利用して『鎌倉に住んでいる』ということで文化人ぶりたいみたいな人間がいる」と話されたことがあったが、その教授が住まれていたのが円覚寺などがある鎌倉市山之内のあたりだったと記憶している。
「文化人ぶりたいから鎌倉に住んでいるような人」というのがいいとは思わないが、しかし、他方で、何かやろうという時、その街が持つイメージに合ったことをやる、やろうとするものに合う街でやるというのは商売の方法として間違ったことではないわけで、鎌倉付近に出展している店を見ても、鎌倉のイメージを利用してそこに出展しているという店がある。1979年にNHKの朝のテレビドラマで放送された花登筺 原作『鮎のうた』では、大阪船場の糸問屋の糸原をつぶした三代目が行商でお金を稼いで店を復興させようとした時に、何の店を設立するのがいいかと考えた時、長浜の縮緬問屋の今甚の社長が「糸原さんが店を出すなら糸に関係のある店がいいでしょう。縮緬というのは長浜という印象があるから、縮緬の商売をやるなら長浜は他の場所よりもやりやすいし、長浜では縮緬は全然関係のないものをやるよりも縮緬はやりやすい。糸原さんというと糸という印象がありますから、糸と関係のない店をやるよりも糸に関係のある店をやった方が、その分だけうまくいくでしょう」と話す場面があった。だから、「どこにでもあるものではない」というもので、「少々おしゃれ」なものとか、「民芸的なもの」とかそういったものをやるなら鎌倉でやるとうまくいくのではないか・・といったことを考えて鎌倉でやっている店というのがあると思いますが、そういうのは悪くないと思います。
岐阜県高山市は「古い町並み」を「売り」にしているけれども、高山で店をやっている人は誰もが高山の生まれの人ということではなく、他からやってきて店をやっている人もいるようで、それはその街のイメージに合うものをやろうとした時、他の場所でやるよりも合うからでしょう。
大阪府箕面市の箕面大滝に行く滝道に沿った土産物屋が、どうも、最近、軒数が減ってきたように思い、ある店でそれを話してみたところ、「うちは息子も嫁もやってくれてますけれども、若い人は昔からの土産物屋をやるのを嫌がってやめてしまう店もあるみたいです」と聞いたのだが、「昔からの土産物屋」をやろうとするからいかんのではないかと思った。そうではなく、「昔からの土産物屋」をある程度存続させながら、「その場所だからできる」というものを作っていけばいいのではないのか。役行者が修行をして悟りを開いたと伝えられる箕面大滝に至る場所というのは、鎌倉や高山と同じく「そこでしかない」というものをやる場所として使えるのではないかと思ったのだがな。又、「東京もんのおっさん」というのはアンチ関西・アンチ大阪の人間が多いのだが、「阪急」は大阪の会社でも有楽町に店を出したりしており、「東京もんのおっさん」にある程度受け入れられているが、「東京もんのおっさん」にある程度受け入れられる関西と受け入れらない関西はどう違うのか。箕面は「受け入れられる関西」として成り立つ可能性があると思ったのだがな・・。
(株)一条工務店で福島県いわき市に勤務した時、いわき市および福島県浜通り地区の人で「ここは、何にもねえ」「何もねえところだ」とか言う人がけっこういたのだが、「そんなこと言ってるからだめなんでしょ」と思った。自分たちの所のいいところを発見できていない、そうではなく、自分たちの所にどういう特色があるかを考えて、その場所に合うもの、「そこであってこそできる」というものを考えるべきで、「何もねえ」「どうしようもねえ」ばっかり言いまくるというのは、片方で「ここはこんなに由緒ある特別の場所で」ともったいつけるのは好まない土地柄というプラスの面もあるとしても、「何もねえ」「どうしようもねえ」だのと、実際にはそんなにだめな場所ではないと思ったのに地元の人間が言いまくる・・という、そんなこと言ってるから原発みたいなものを作られてしまうんだよお!・・・て感じがした。浜通り地区も、もうちょっと、この場所には何ができるか、この場所でないとできないものとは何だろうか・・といったことをもっと考えるべきだったのではないかと思う。
1990年頃、静岡県清水市の菊池建設 https://www.kikuchi-kensetsu.co.jp/index.html は住宅雑誌の論評を見ると「発祥の地の清水市では相変わらず苦戦するも、東京圏では好調」と書かれていたのを見たが、「地方の工務店」というのをあえて「売り」にして、「宮大工からここまで」と「口大工」やることで東京圏において「和風の高級住宅」に特化してその客層に「静岡県清水市における歴史ある工務店」と少々ふくらませたかな・・みたいなこと言って「売り」にして、一時期、東京圏ではけっこう受けた。
〔同社HPを見ると、今現在は本社は横浜市鶴見区となっているらしい。 《ウィキペディアー菊池建設(神奈川県)》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%8A%E6%B1%A0%E5%BB%BA%E8%A8%AD_(%E7%A5%9E%E5%A5%88%E5%B7%9D%E7%9C%8C) によると、《 2016年(平成28年)5月19日付で東京地方裁判所へ民事再生法の適用を申請・・2016年(平成28年)11月17日付ですてきナイスグループの100%子会社となり、本社を横浜市鶴見区鶴見中央4丁目36番1号に移転 2017年(平成29年)4月28日付で東京地方裁判所が民事再生手続の終結を決定 》ということらしい。 ウィキペディアでは単に「菊池建設」ではなく「菊池建設(神奈川県)」と書かれているのは、他の都道府県にまったく関係のない「菊池建設」があるからだろう。1993年、(株)一条工務店に在籍した時、福島県いわき市の営業所で、いわき市生まれの従業員に「菊池建設」について話したところ、話がかみ合わないので「?」と思ったことがあったが、福島県いわき市にも地元の会社で静岡市清水区発祥の菊池建設とはまったく別の「菊池建設」があったらしい。〕
最近、今一つぱっとしない印象があるが、1990年頃の東京圏での評価は評価が高すぎたのか、それとも「高級和風住宅」の客層は数としてそれほど多いというわけではないので「それほど多くない」客層に特化した会社としてやっていくのか他の客層にも手をつけて本体をなくすのか・・そのあたりの判断を間違えたか。それほど変わらない頃、静岡県浜松市の工務店の(株)一条工務店https://www.ichijo.co.jp/ は「いかにもイナカて感じの家」を「売り」にしようとして東京圏の住人からバカにされた。1992年、(株)一条工務店の遠州人は「菊池建設みたいなもん」などと浜松での「研修」で言っていたが、「浜松では」そうでも東京圏では立場は逆であったが、それを「遠州人」に理解させるのは極めて難しいことだった。 その頃、清水市(現 静岡市清水区)の菊池建設は発祥の地の清水市で不振でもいいから、東京圏で和風の高級住宅に特化した工務店として売れればいいという姿勢で会社を運営していたのに対して、浜松市の(株)一条工務店はその逆で、東京圏を犠牲にすることで静岡県中西部・愛知県の営業が売りやすい・売れやすいようにしようという作戦を明らかに取っていた。東京都江東区潮見に東京展示場を設けてはいたものの、浜松あたりの展示場は新しいきれいな展示場だったのと逆で来場客から「普通、展示場というものはきれいなものを見せるものだと思うのだけど、なんで、ここの展示場は汚いのですか」と言われたように潮見の展示場は汚い展示場で、この場合「汚い」というのはそこに勤務している営業が掃除してないとかいう意味ではなく浜松あたりの展示場に比べてカネもかけてない建物で外壁も汚れ放題で黒い筋がいっていて床鳴りしまくりでそこに勤務している営業が掃除してどうこうなるものではない状態だったのだが、東京展示場は浜松・掛川・名古屋の展示場と比較してそれだけ差をつけた展示場になっていて、東京都で売るための展示場ではなくあくまで浜松・掛川・名古屋の営業が「一条工務店は東京にも展示場を持ってる会社なんですよお」と言うことで浜松・掛川・名古屋の営業が売れやすく・売りやすくするための展示場であり、しかも、浜松・掛川では坪48万円、名古屋では坪49万5千円と設定していた「セゾン275S1」を東京都・神奈川県では坪55万円での割高販売させることで、浜松・掛川・名古屋の営業が「これ、東京では坪55万円で売ってる商品なんですよ」と言うことで割安感を浜松・掛川・名古屋の客に持たせることで売りやすい・売れやすいようにしようという作戦で設けた展示場と東京都の「坪単価」だった。結論として、その頃の静岡県の「工務店」では清水市(現 静岡市清水区)の菊池建設は静岡県内を犠牲にしてもいいから東京圏で売るという作戦を取っていて、浜松市の(株)一条工務店は東京都を犠牲にすることで浜松・掛川・名古屋の営業(静岡県中西部・愛知県の営業)が売りやすく・売れやすくするという作戦を取っていた。普通、その頃の(株)一条工務店みたいにあそこまで露骨にやったなら、やっていることを理解できるはずだが、ところが(株)一条工務店の静岡県中西部・愛知県の営業は「病識がない」のか、「ええ根性してる」のか、そのあたりを事実を事実として認める謙虚さが欠落していた。 最近、東京圏でも(株)一条工務店のことを「天下の一条さん」とか言う人間がいてびっくりするのだが、・・又、かつてに比べると知名度が上がったのは事実とはいえ、いくらなんでもそこまで言うかあ~あ、なんか妄想でも見てんのとちゃうかあ~あ・・とあきれるのだが、営業やるのに、あらかじめ、その会社がその地域でどういう評価を得ているかは条件が大きく違う。
鎌倉は「鎌倉」というブランドに人が集まってくるという特色があり、中には「たいした内容ないくせに文化人ぶりたい」から「鎌倉に住んでる」ということにしている人というのもいるだろうけれども、「鎌倉」というブランドを生かして・使ってという思考は、マイナスに考えなくてもいいように思うのだ。
※ 《NHK放送歴史 鮎のうた》https://www2.nhk.or.jp/archives/tv60bin/detail/index.cgi?das_id=D0009010240_00000

鮎のうた〈上〉 (1979年)

鮎のうた〈下〉 (1980年) - 花登 筐
・・・とこれで14点。今では、鎌倉中級者くらいにはなったか?
駅から近い史跡というのは、つい後回しになってしまう傾向がある。
阪急「京都河原町」駅からすぐの八坂神社・知恩院。
JR「京都」駅から近い東本願寺(真宗本廟)・東寺(教王護国寺)。
京福電鉄「嵐山」駅の目の前の天龍寺。
・・こういう所は、「いつでも行ける」という意識から後回しになって、ふと気づくと、すでに何年も経っているということがある。鎌倉の円覚寺もまた、JR横須賀線の「北鎌倉」駅のすぐそばなので、「いつでも行ける」みたいに思って後回しになりがちだが、そう考えない方がいい・・・ということで、今回、訪問した。
今回は、自家用車で行き、付近の時間パーキングに駐車して訪問したが、JR横須賀線「北鎌倉」駅からの順路に沿って述べる。
まず、「北鎌倉」駅を西側に出た所が ↓

↑ JR横須賀線「北鎌倉」駅 西口。

↑ 「北鎌倉」駅を出てすぐの所に「門」という喫茶店がある。 もちろん、夏目漱石の小説『門』から名づけられたものだろう。
駅とは逆側にあるのが、公衆便所型交番の大船警察署山之内交番 ↓

JR「北鎌倉」駅付近は鎌倉警察署ではなく大船警察署の「管内」らしい。
交番には、デザイナーズハウス型交番 と 公衆便所型交番がある。
なんか、最近、矢鱈とデザインに凝った交番が建てられてきたのだが、そのデザインにも2通りあって、
(1)丹下健三型自分が一番目立たないと気がすまない自己顕示欲の塊型デザインのもの。
(2)史跡・歴史的建造物の近くなどにあって、史跡・歴史的建造物の景観を阻害しないように配慮されたもの。
この2通りがあるが、(1)については、国民の税金使って機能上必要もないのに「デザイナーズハウス」作るのはいかがなものかと思うが、(2)についてはその地域の町並みを配慮したものにしようというのはわかる。
「公衆便所型交番」というのはどういうものかというと、名前の通り「公衆便所みたい」な外観のものだ。今は昔、1980年代、朝日新聞の新聞販売店で配達の仕事をやったことが少しだけあったのだが、新聞の配達というのは配達している最中に便意を催すことがあった時、どこでトイレを借りるか・・というのがけっこう難題で、最近はトイレを貸してくれるコンビニが多くなったが、その頃はコンビニはトイレは貸してくれないことが多く、夕刊の配達の時は、大規模なスーパー・ホームセンターとか市役所・図書館・公民館・公営体育館などがあると借りることができたし、パチンコ屋で借りるというのもあるだろうけれども、朝刊の配達時にはスーパー・ホームセンターは開いていないしパチンコ屋も開いていない。朝刊の配達時でも空いているお店としては、交番という所があるのだが、ところが「交番は頼んでもトイレは貸してくれない」と長く新聞配達をしている人たちは言うのだった。「『市民の緊急事態』を助けるのが交番の役目だろ、『出物腫物所かまわず』と言うから、トイレを使わせてくれないなら交番の前でう〇こ すんぞお~お」なんてことを実行して、公務執行妨害とか言い出されてもかなわん・・というそこまでやった人はないようだったが、交番はトイレ貸してほしいと言っても貸してくれないらしい。
その時、「どうして貸してくれないかわかる?」と言った「(おじさん+おにいさん)÷2」がいて、「どうしてなんですか」と言うと、「だって、公衆便所じゃないもん。似てるけど」と言うので、え? 交番て公衆便所と似てたっけ?・・・と思ってそれ以来、交番と公衆便所を注意して見るようになったのだが、たしかに、「昔ながらの」タイプの交番というのは公衆便所と似てるわ・・・(^^)/
そう思ってよく見ると、「昔ながらの」タイプの交番と公衆便所は実に外観がよく似ているのだ。しかし、さらによく観察すると、似ているといえば似ているけれども、違うところもある。
(1)交番は2階建てが多いが公衆便所は1階建てが多い。
(2)公衆便所は男女別で2か所の出入口があるが交番はそうではない。
(3)公衆便所は外から内部が見えないように窓の高さが一般の窓よりも高めの位置にあるが、交番はそういったことはない。中から外の通行人を監視できるようにできている。
(4)交番には出入口の上に赤い電球がついているが公衆便所にはない。
(5)交番は襲撃された時に防禦できるように、内側に鋼製の枠が配置されたりしている所があるが、公衆便所にはそういうものはない。交番の場合、襲撃された時の為にけっこう頑丈にできていると思われる建物が多いが、公衆便所にはそういった配慮で建てられているものはない。
・・・これらの違いがある。
最近、「デザイナーズハウス」型交番というものが出現しているのだけれども、歴史的街区においては周囲の景観を破壊しないようにという配慮はわかるのだけれども、交番というのは、ここに交番がありますよ・・とわかりやすくてこそ交番であるという性質を考えると、その交番ごとにデザインが異なるというのは、その施設の性質から考えて適切とは言えないのではないか。交番というものはこういうデザインのものとある程度決まっていてこそ、機能するのではないだろうか・・と思うが、「無人の交番」というのがけっこう多く、暴漢に襲われた・・ということがもしもあった時、交番に駆け込めば・・なんて思って行くと、そこには「御用の方は、××ー×××× までお電話ください」と書かれて警察署の電話番号が書かれていて電話機が置いてある・・なんてことでは交番にかけこんだ意味はないことになるわけで、それなら、コンビニにかけこんだ方が「とりあえず、誰か人がいる」ことになる。
なお、円覚寺参拝の場合は、拝観料を払って総門より内側に入ると、総門を入ってすぐ右側にトイレがある。 今回、確認しなかったが『古寺を巡る35 円覚寺』(2007.10.16. 小学館)に掲載の地図を見ると、鎌倉街道から円覚寺の方に行くカドの、元は円覚寺の参拝者用駐車場だったが今は時間パーキングになった所に道路に面して公衆便所があるように記載されている。電車で来た人は北鎌倉駅にトイレがあったはずだから、交番に「トイレ貸してください。市民の緊急事態なんです」などと言わない方がいい・・・と思う。「公衆便所みたい」と言えばそう見えないこともないが、公衆便所ではない。
JR横須賀線と並行して南北に走る通りが「鎌倉街道」(県道21号)。 「北鎌倉」駅の少し南側で、線路を横断する道があるが、線路の手前の左右に池があり、池の手前に石碑が建っている。↓

↑ 「大本山 円覚寺」を難しい字で書かれている。
線路の手前の左右の池が「白鷺池(びゃくろち)」という池で、線路の向こう側からではなく、ここから円覚寺の敷地らしい。

↑ 電車が通る時には踏み切りが降りる。

↑ 円覚寺の境内を電車が通っているということになる・・か。
踏切を渡ってすぐに、円覚寺に登る石段がある。 ↓

↑ 右側に「臨済宗大本山 円覚寺」、左側に「北条時宗公御廟所」と書かれた石碑が建っている。

↑ 石段の上にあるのが「総門」。


↑ 「総門」。 「瑞鹿山」という額がかかっている。 円覚寺は「瑞鹿山 円覚寺」と言う。
山門(三門)の後ろの仏殿のうしろの法堂跡のうしろ、方丈のさらにうしろ。佛日庵・開基廟(時宗廟)の南のあたりに「白鹿洞」と言われる所があり、《 円覚寺の落慶法要の日、この洞内から一群の白鹿があらわれて法筵に列したという。》(『古寺を巡る35 円覚寺』)というところから、「瑞鹿山」と言うらしい。
この「総門」を入って左側に拝観受付がある。 「総門」を入った後、さらに石段を登った上に規模が大きい「山門(三門)」がある。
夏目漱石『門』では、野中宗助が寺を退去する際に、
《 ・・自分は門を開けて貰いに来た。けれども門番は扉の向側にいて、敲いても遂に顔さえ出してくれなかった。ただ、
「敲いても駄目だ。独りで開けて入れ」と云う声が聞こえただけであった。彼はどうしたらこの門の閂(かんぬき)を開けることが出来るかを考えた。そうしてその手段と方法を明らかに頭の中で拵えた。けれどもそれを実地に開ける力は、少しも養成する事が出来なかった。従って依然として自分の立っている場所は、この問題を考えない昔と毫も異なるところがなかった。彼は依然として無能無力に鎖された扉の前に取り残された。彼は平成自分の分別を便(たより)に生きて来た。その分別が今は彼に祟ったのを口惜しく(くちおしく)思った。そうして始から取捨も商量も容れない(いれない)愚なものの一徹一図を羨んだ。もしくは信念に篤い善男善女の、知慧も忘れ思議も浮ばぬ精進の程度を崇高と仰いだ。彼自身は長く門外に佇立む(たたずむ)べき運命をもって生れて来たものらしかった。それは是非もなかった。けれども、どうせ通れない門なら、わざわざ其所まで辿り付くのが矛盾であった。彼は後を顧みた。そうして到底又元の路へ引き返す勇気を有たなかった。彼は前を眺めた。前には堅牢な扉が何時までも展望を遮っていた。彼は門を通る人ではなかった。又門を通らないで済む人でもなかった。要するに、彼は門の下に立ち竦んで、日の暮れるのを待つべき不幸な人であった。・・ 》
と述べられている「門」は、「山門(三門)」ではなくこの「総門」を想定して書かれているのではないだろうか。

門 (新潮文庫) - 漱石, 夏目
「総門」をくぐって中に入ると左手に拝観受付がある。↓

さらに進むと、石段の上に大きな「山門(三門)」が見える。


夏目漱石『門』(新潮文庫)には、
《 山門を入ると、左右には大きな杉があって、高く空を遮っているために、路が急に暗くなった。その陰気な空気に触れた時、宗助は世の中と寺との区別を急に覚った。静かな境内の入口に立った彼は、初めて風邪(ふうじゃ)を意識する場合に似た一種の悪寒(さむけ)を催した。・・》
と書かれている。
これは今もあてはまるように思う。円覚寺に登る石段のあたりは、JR「北鎌倉」駅のすぐそばで、前を横須賀線の電車が通り、人通りも多い場所であるにもかかわらず、いったん、総門から内側に入ると、静寂な環境がそこにあって、外とは大きな違いが感じられる。
夏目漱石『三四郎』では、東大の本郷キャンパスが、東京の街中でありながら静かな環境で、学問をするにはこういう場所でないとと「野々宮さん」が語る場面があるが、それと似たところがある。
《 ・・二人で坂を上がって、丘の上へ出た。野々宮君はさっき女の立っていたあたりでちょっととまって、向うの青い木立のあいだから見える赤い建物と、崖(がけ)の高いわりに、水の落ちた池をいちめんに見渡して、
「ちょっといい景色でしょう。あの建築(ビルジング)の角度(アングル)のところだけが少し出ている。木のあいだから。ね。いいでしょう。君気がついていますか。あの建物はなかなかうまくできていますよ。工科もよくできているがこのほうがうまいですね」
三四郎は野々宮君の鑑賞力に少々驚いた。実をいうと自分にはどっちがいいかまるでわからないのである。そこで今度は三四郎のほうが、はあ、はあと言い出した。
「それから、この木と水の感じ(エフフェクト)がね。――たいしたものじゃないが、なにしろ東京のまん中にあるんだから――静かでしょう。こういう所でないと学問をやるにはいけませんね。近ごろは東京があまりやかましくなりすぎて困る。これが御殿」と歩き出しながら、左手(ゆんで)の建物をさしてみせる。
「教授会をやる所です。うむなに、ぼくなんか出ないでいいのです。ぼくは穴倉生活をやっていればすむのです。・・・」 》
(夏目漱石『三四郎』角川文庫)

三四郎 (新潮文庫) - 漱石, 夏目
『三四郎』や『門』でこういった記述が見られるように、夏目漱石は、こういった場所の雰囲気というものを感じ取る感性を持ち合わせた人間だったと考えていいのかもしれません。・・もっとも、東大の本郷キャンパスは私が高校を卒業する頃、1970年代後半くらいまでは、「野々宮君」が『三四郎』の中で語るように、東京のまん中でありながら静かな環境が維持されていましたが、最近、行ってみると、人口密度は特に増えていないと思うのですが、建物密度は増えて、高層の建物が増え、又、本郷キャンパスの中から外の高層の建物が見えるようになってきた、本郷キャンパスから見えるような高層の建物が周囲に建ってきた。夏目漱石が『三四郎』の中で「野々宮君」に語らせた東大本郷キャンパスの東京のまん中にありながら静かな環境の良さというものを感じられない人が増えてきたということでしょうか。
「建築家」なのに、こういった感性を持ち合わせていないような人もいるように思います。又、こういった感性を持ち合わせていないから「建築家」やってるのではないかという感じの人もいるのではないかと思います。
夏目漱石『門』の中には、登場人物の野中宗助が訪ねた鎌倉の寺が円覚寺だとはどこにも書かれていないのだけれども、『古寺を巡る35 円覚寺』(2007.10.16. 小学館)には、
《 帰源院(きげんいん)
山門前から右手の路を行くと、円覚寺38世 傑翁是英(けつおうぜえい)(仏恵〔ぶつえ〕禅師。1378年<永和4/天授4>示寂)の塔所(たっしょ)である帰源院が建つ。中興開祖は円覚寺154世の奇文禅才(きもんぜんざい)で、中興開基は戦国大名の北条氏 第3代 氏康(うじやす)と伝えられる。
夏目漱石は1894年(明治27)12月23日から翌年1月7日にかけて帰源院に寄宿して、当時の管長である洪嶽〔こうがく〕(釈〔しゃく〕)宗演(そうえん)の下に参禅した。 漱石は当寺28歳で、健康や仕事への不安からうつ気味となり、親友に参禅を勧められたのだった。15日の参禅期間、漱石は老師から与えられた公案に懸命に取り組んだが、たいした収穫を得られぬまま下山するしかなかった。このときの体験をもとにして書かれた小説が『門』である。
境内には「佛性(ぶっしょう)は白き桔梗にこそあらめ」と刻まれた漱石の句碑が立つ。》
と書かれており、山門(三門)の南の位置にある帰源院が、『門』では「一窓庵」として書かれる塔頭のことらしいと出ている。
『門』では《山門を入ると、左右には大きな杉があって、高く空を遮っているために、路が急に暗くなった。・・・》と書かれているのだが、現地に行ってみると、山門(三門)をくぐった後ろには仏殿があって、左右に大きな樹木が生えていて、高く空を遮っているという場所は、山門(三門)の内側(東側)ではなく、総門と山門(三門)の間の区域であるから、夏目漱石は総門を入った所を念頭にこの部分の文章を書いたのではないかと思われる。
『古寺を巡る35 円覚寺』(2007.10.16. 小学館)では、
《 ――山門を入ると、左右には大きな杉があって、高く空をさえぎっているために、路(みち)が急に暗くなった。その陰気な空気に触れた時、宗助は世の中と寺の中との区別を急にさとった。――
夏目漱石の小説『門』の主人公 宗助が感じた思いは、円覚寺で参禅をした漱石自身の思いと言っていいだろう。文中の山門とは、おそらく総門のことである。「瑞鹿山(ずいろくざん)」の額が掛かる総門を過ぎるとき、720余年の歴史を経た禅林の空気に触れて身が引き締まる思いがするのは、いまの我々も同じだろう。・・》
と書かれているが、『門』で《山門を入ると・・・》と書かれているエリアは、円覚寺の山門(三門)の背後のあたりのことではなく、総門を入ってから山門(三門)までの間のエリアのことでしょう。

週刊 古寺を巡る 35 円覚寺 北条時宗が開いた北鎌倉の座禅道場 (小学館ウイークリーブック) - 小学館
《 『門』は明治43年(1910年)3月1日から6月12日まで朝日新聞に連載された。前年に、漱石は『それから』を連載したが、その題名はその前年(明治41年)の『三四郎』のそれからという意味だった。「門」という題名は彼の弟子が決めたもので、漱石は書きはじめてからも、「一向に門らしくなくて困っている」(寺田寅彦宛書簡)とこぼしている。つまり、『門』は、『それから』のそれからにほかならないのである。・・》(柄谷 行人「夏目漱石『門』(新潮文庫) 解説」 )
1894年から95年にかけて、夏目漱石は円覚寺の帰源院に逗留した経験を踏まえて、1910年の前半に朝日新聞に連載された『門』を書いた・・・ということは、円覚寺の仏殿は《関東大震災(1923年、大正12年)で倒壊しましたが、昭和39年(1964年)に再建されました。》(現地の説明書き)というものなので、夏目漱石が帰源院に逗留した期間、及び、『門』を朝日新聞に連載した期間は、1923年の関東大震災より前なので、仏殿は1964年、東京オリンピックの年に建てられた今の鉄筋コンクリート造の仏殿ではなく、1923年(「幾人、見つかる(1923)、関東大震災」)の関東大震災で倒壊する前の仏殿が建っていたようだ。
全体を執筆してから題名をつけるのではなく、先に題名をつけてから新聞に連載をするという書き方だと、内容が題名と合わなくなってしまって困るということが出てくるようだ。
《 『門』の宗助は急に鎌倉に参禅してしまう。それまでの問題を放り出しておいて、「悟り」も何もあったものではない。これはこの作品の欠点とされており、その理由として、漱石の肉体的衰弱があげられ、また、『門』という題名に落ちをつけるためにそうしたとも考えられている。・・・》
たしかに、『門』は前半から半ばまでの話と、鎌倉の寺(円覚寺だと明記はされていないが、夏目漱石が円覚寺の帰源院に逗留した経験を踏まえてのものらしいので、円覚寺を想定しての話だろう)に参禅する話がしっくりとつながっていないのではないかと言われると、そんなところがあるかもしれない。
《その理由として、漱石の肉体的衰弱があげられ》るというけれども、夏目漱石が神経衰弱にかかっていたと言われるのは、けっこう長い期間だったはずだし、《肉体的衰弱があげられ》と言うのなら、夏目漱石の全盛期ていつなんだ? ・・という話にもなる。
《ウィキペディアー夏目漱石》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%8F%E7%9B%AE%E6%BC%B1%E7%9F%B3 をもとに作品を並べると、
1835年 福沢諭吉 生れる。
1841年 伊藤博文 生れる。
1862年 森鴎外 生れる。
1867年 夏目漱石 生まれる。
正岡子規 生まれる。
1968年 明治維新
北村透谷 生まれる。
1892年 芥川龍之介 生れる。
1894年 北村透谷 25歳で縊死。
日清戦争 始まる。
1901年 福沢諭吉 66歳で他界。
1902年 「日暮れに(1902)結ぶ、日英同盟」日英同盟 締結。
正岡子規 34歳で他界。
1894年 「一躍、清を(1894)攻撃する」日清戦争。
1904年 「ロシアに行くを知ってか(1904)兵隊さん」日露戦争 始まる。
吾輩は猫である(1905年1月 - 1906年8月、『ホトトギス』/1905年10月 - 1907年5月、大倉書店・服部書店)
坊っちゃん(1906年4月、『ホトトギス』/1907年、春陽堂刊『鶉籠』収録)
草枕(1906年9月、『新小説』/『鶉籠』収録)
二百十日(1906年10月、『中央公論』/『鶉籠』収録)
野分(1907年1月、『ホトトギス』/1908年、春陽堂刊『草合』収録)
虞美人草(1907年6月 - 10月、『朝日新聞』/1908年1月、春陽堂)
坑夫(1908年1月 - 4月、『朝日新聞』/『草合』収録)
三四郎(1908年9 - 12月、『朝日新聞』/1909年5月、春陽堂)
それから(1909年6 - 10月、『朝日新聞』/1910年1月、春陽堂)
1909年10月 伊藤博文 ハルビン駅にて狙撃され68歳で死亡。
門(1910年3月 - 6月、『朝日新聞』/1911年1月、春陽堂)
1911年「辛亥革命、行くといい(1911)」辛亥革命。
彼岸過迄(1912年1月 - 4月、『朝日新聞』/1912年9月、春陽堂)
1912年(明治45年/大正1年)7月 明治天皇 崩御。
1912年9月 乃木希典 62歳で妻 静子とともに自刃。
行人(1912年12月 - 1913年11月、『朝日新聞』/1914年1月、大倉書店)
1914年 第一次世界大戦 始まる。
こゝろ(1914年4月 - 8月、『朝日新聞』/1914年9月、岩波書店)
道草(1915年6月 - 9月、『朝日新聞』/1915年10月、岩波書店)
明暗(1916年5月 - 12月、『朝日新聞』/1917年1月、岩波書店)
1916年(大正5) 夏目漱石 49歳で他界。
1917年 ロシア革命
1922年 森 鴎外 60歳で他界。
1923年(大正12) 「幾人、見つかる(1923)、関東大震災」関東大震災。
1927年 芥川龍之介 35歳で服毒自殺。
『草枕』『三四郎』『門』など日露戦争と第一次世界大戦の間に発表された作品が多くて、『こころ』『明暗』などは第一次世界大戦が始まってからの作品だった。
結局、どの作品を書いた頃が「全盛期」なのか、どうも、よくわからないし、もとより、夏目漱石の作品というのは、部分部分を見ると、相当鋭い指摘が見られるものの、小説として全体として見ると「どうかな」みたいな作品は、全般に多いように思う。 又、夏目漱石だけではなく、そういった文学作品は珍しくもない。
但し、《ウィキペディアー夏目漱石》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%8F%E7%9B%AE%E6%BC%B1%E7%9F%B3 によると、
《 1910年(明治43年)6月、『三四郎』『それから』に続く前期三部作の3作目にあたる『門』を執筆途中に胃潰瘍で長与胃腸病院(長與胃腸病院)に入院。同年8月、療養のため門下の松根東洋城の勧めで伊豆の修善寺に出かけ、菊屋旅館で転地療養する。しかしそこで胃疾患になり、800gにも及ぶ大吐血を起こし、生死の間を彷徨う危篤状態に陥る。これが「修善寺の大患」と呼ばれる事件である。・・》
と出ている。 『門』は、1867年(慶應3年)、明治維新の1868年の1年前に生れて1916年(大正5年)、第一次世界大戦開始の1914年の2年後、「人、悔いなし(1917)ロシア革命」のロシア革命の1917年の前年に49歳で他界した夏目漱石の43歳の時の作品であるが、43歳の時の作品である『門』については「朝日新聞」に連載した最後の頃に胃潰瘍で入院したということがあったようで、神経衰弱とは別に「肉体的衰弱」が執筆時にあったらしい。
『門』の野中宗助 自身が、鎌倉の寺に参禅したが、冝道さんという僧と老師に世話になったことを感謝しながらも、求めていたものとは違ったことを感じ、早々に退去することが述べられている。
《 ・・彼から云うと所謂(いわゆる)公案なるものの性質が、如何にも自分の現在と縁の遠い様な気がしてならなかった。自分は今腹痛で悩んでいる。その腹痛と言う訴を抱いて来てみると、豈計らんや(あにはからんや)、その対症療法として、むずかしい数学の問題を出して、まあこれでも考えたら可かろうと云われたと一般であった。考えろと云われれば、考えないでもないが、それは一応腹痛が治まってからの事でなくては無理であった。・・》
この部分の文章を読むと、夏目漱石自身が『門』の中で、鎌倉の寺(円覚寺)への参禅は、実際に来てみると、いわば、腹痛をなんとかしようと思ってきたけれども、《むずかしい数学の問題をだして、まあこれでも考えたらよかろうと云われた》ようなもので、求めていたものとは違ったようだということを述べており、参禅するといいかと思って来たが、それまでの話とのつながりから考えると、あまり役に立つものではなかった旨を述べているから、《それまでの問題を放り出しておいて、「悟り」も何もあったものではない。これはこの作品の欠点とされており》と考えたり、《その理由として、漱石の肉体的衰弱があげられ》と解釈しなければならないこともないようにも思うが。
神経衰弱だったのではないかといった話は、この頃に突然でてきた話でもないし、もっと早い時期の『坊ちゃん』という小説が天真爛漫な「坊ちゃん」の話だなどと言う人がいるが、実際には、そこまで怒らなくてもいいようなことに怒ってみたり、「坊ちゃん」は決して天真爛漫という性格ではなく、むしろ、神経衰弱が背景にあるのかもしれないとも思える小説である。
『門』は私はけっこう好きな小説であるのだが、鎌倉参禅のあたりが唐突だと言われるとそうかもしれないが、それでも、けっこう好きな小説の1つである。
次回、山門(三門)から仏殿へ・・。
※ 円覚寺HP https://www.engakuji.or.jp/


(2021.6.13.)
☆ 瑞鹿山 円覚寺と夏目漱石『門』
1.北鎌倉駅から総門・山門へ。夏目漱石『門』における総門。〔今回〕
2.山門(三門)・仏殿・法堂跡・居士林。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202106article_2.html
3.庫裏・方丈・池泉庭園・正続院・舎利殿。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202106article_3.html
4.佛日庵・開基廟、黄梅院・聖観音、洪鐘(おおがね)・弁天堂、弁天堂から富士山が見える。傍若無人の「高層マンション」は反社会的勢力。「高層マンション」の問題点を理解しない・「高層マンション」が向いている場所・向いていない場所を考える思考が欠落した建築学科教授は建築について何を学んできたのか? 何を教えているのか? https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202106article_4.html
5.帰源院。『門』の小六と私。薬漬したカネでゴルフやる医者屋階級とキャディーさせられるガチンコ族。「工学部行かす金持とは違う」民族と「バカでも入れる私大の工学部」行く民族。「バカでも入れる私大の建築学科」を増長させる営業本部長。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202106article_5.html
6.総門から北鎌倉駅。鎌倉小坂郵便局。「平常心是道」と「あるがまま」と「完全なる機能」「自己一致」。規制され守られている「鎌倉」はごく一部分でしかない。 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202106article_6.html
鎌倉シリーズ
(1) 荏柄天神社 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201401article_7.html
(2) 山崎天神 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201504article_2.html
(3) 光明寺(鎌倉市)参拝
1.光明寺は、浄土宗の鎮西派と西山派のうち、鎮西派。 菊と三つ葉葵の両方の紋が入った「総門」 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201804article_1.html
2.「山門」と桜。「羅漢」とは。 鐘楼。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201804article_2.html
3.「大殿」(本堂)と桜。火灯窓。善導大師とは。 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201804article_3.html
4.「大聖閣」と「記主庭園」。景観に隠す建築と新たに創造する建築 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201804article_4.html
5.「開山堂」。「網引地蔵」。地蔵とは。「戦没者碑」https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201804article_5.html
6.天照山の展望台から見た山門・大殿と海、「廟所」、背後から見た大殿と大聖閣 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201804article_6.html
7.「鎌倉アカデミア」碑。 「『教育』する側」の論理・「される側」の論理 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201804article_7.html
8.2階追焚有浴室と耐力壁配置。自分の都合に合わせ構造基準を変える会社+光明寺前の海 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201804article_8.html
9.コンパネはぬるま湯ではがれる? 釘と接着剤による接合の違い。建築専門学校は役立つか https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201804article_9.html
10.「集成材はムク材の1.5倍強い」て誰が言った? https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201804article_10.html
11.九品寺・日本基督教団鎌倉教会・「共産党建築」・「警察建築」・交番研究 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201804article_11.html

こころ (新潮文庫) - 漱石, 夏目

私の個人主義 (講談社学術文庫) - 夏目漱石
神奈川県鎌倉市山之内 の 円覚寺に参拝してきました。
円覚寺と言えば、
(1)国宝の舎利殿、なにしろ、教科書に載ってる。
(2)臨済宗円覚寺派 大本山。
(3)鎌倉五山第二位。
(4)無学祖元が開山、北条時宗が開基。
(5)夏目漱石『門』に登場する門、それに、『門』の中で、登場人物の野中宗助が『門』の中では「一窓庵」とされる塔頭で過ごす、実際には夏目漱石が帰源院で過ごした寺。
(6)鎌倉で最も駅から近い史跡。
そして、今回、気づいたものに、
(7)建長寺の上の半僧坊のあたりから富士山らしき山が見えるのと同じく、円覚寺の弁天堂の横から富士山が見える・・。
建築屋として、鎌倉の有名建築には足を運んで一度は見ておくべきだと思ってきたのだが、ふと気づくと、それなりに訪問してきた。
1.建長寺・・・臨済宗建長寺派大本山。鎌倉五山第一位。
2.高徳院 鎌倉の大仏・・・広い意味での免震構造。内部に入らせてもらうことができるが、東京カテドラル聖マリア大聖堂と同じく外が中心で中に入ることを目的として作られたものではない。
3.鎌倉宮・・・明治になってから設立された「建武中興十五社」の1社で、メカケや「逆賊」の言うことばっかり聞きやがってからに、自分を犠牲にして会社に滅私奉公を続けた者をいじめる不良経営者をこらしめる神、大塔宮 護良親王(おおとうのみや もりながしんのう) を祀る。
4.荏柄天神社(えがらてんじんじゃ)・・・ご存じ、冤罪を晴らす神さま・怨念を晴らす神さま・菅原道真を祀る。大阪の人間は北野天満宮・大宰府天満宮と大阪天満宮で日本三大天神と言うが、北野天満宮(京都市)・大宰府天満宮(福岡県太宰府市)と鎌倉市の荏柄天神社で三大天神と言う人もあるらしい。まあ、「三大◇◇」というのは法律で決められたものでもないので、「言った者勝ち」みたいなところもあるのだけれども、荏柄天神社は敷地面積とか建物の規模ではそれほど大きなものでもないのだけれども、菅原道真が大変正直な人だったというところから、平安時代後期だったか鎌倉時代だったか、役人に任命された者は、西日本では京都の北野天満宮、東日本では鎌倉の荏柄天神社で宣誓をするということになっていた時期があったことから、荏柄天神社を三大天神の3番目に入れる説が出たらしい・・が、何に書いてあった話だったか忘れてしまった。
5.光明寺・・・浄土宗の関東地方での寺というと、増上寺が知られているが、徳川家が浄土宗だったということから江戸城に近い増上寺が力を持ったということで、それより前には鎌倉の光明寺が浄土宗の寺としては知られていたらしい。
6.雪の下教会・・・プロテスタントの教会としてけっこう知名度がある・・と思ったが、鎌倉の雪の下教会には、カトリック雪の下教会 と プロテスタントの日本基督教団雪の下教会がある。
7.天園ハイキングコース・・・建長寺の背後から登り、鎌倉の外周の山をまわって鎌倉宮の背後に降りてくる。鎌倉のリスと出会う。もともとは人が飼っていたリスが野生化したものらしい。ロンドンのハイドパークのリスは人を見ると寄ってくるが、鎌倉のリスは人を見ると逃げる。
8.北鎌倉から稲村ケ崎付近への縦走ハイキングコース・・・銭洗い弁天などを通る。鎌倉のリスと出会う。
9.江ノ島電鉄・・・JR「鎌倉」駅と「江の島」を通って「藤沢」駅を結ぶ。・・・外から見ると、芋虫みたいで「魅力的な風合い」だが、乗ると内部は狭くて、江の島に行くなら、むしろ、大船から出ているモノレールか、藤沢から出ている小田急江ノ島線の方が乗り心地はいい。
・・・と、ふと気づくと、それなりに何か所か訪問してきた。
10. 1993年、(株)一条工務店に在籍した時には、材木座付近で建築される見込客があって現地にも来たが住友林業(株)で契約された。 都市圏の客に対しての対応力のなさを実感したのだが、浜松など「地方」ではよくても、東京圏・都市圏ではやりにくい対応をしているということについて自覚がない、「病識がない」会社の状態を実感した。
11.広い意味での鎌倉として、
鎌倉市山崎の北野神社。
12.大船駅前、大船観音寺と大船観音。
13. 2005年、(株)チムニーhttps://www.chimney.co.jp/ が「ファーストグルメ」という外見はファーストフード店でありながら、出す食事の内容は相当ボリュームのある肉料理の店を東京近郊に3店舗ほど出してさっさと撤退した2店舗目だったかを出したのが大船駅の南東のあたり。社長の和泉さんは「ファーストフードは苦手だ」とか言いながら、そう言ってもやりだしたからには売れるようにせんかい・・というのに、やるべきことやらずにさっさと撤退した、「バッカじゃなかろかルンバ♪」て感じやった・・という店があったのが大船駅の南東のあたりだったが、大船駅というのは何市かというと、鎌倉市と横浜市にまたがってある。「ファーストグルメ」大船店がどっちだったか微妙だが、どっちかというと横浜市側だったかな・・。
14.慶應大学の商学部の教授で鎌倉市に住んでいる方がおられて、「鎌倉というと文化的な街かと思うと、必ずしもそうではない。文化人なら住んでいる街に貢献すれば良さそうなものなのに、そうではなくて、むしろ『鎌倉』を利用して『鎌倉に住んでいる』ということで文化人ぶりたいみたいな人間がいる」と話されたことがあったが、その教授が住まれていたのが円覚寺などがある鎌倉市山之内のあたりだったと記憶している。
「文化人ぶりたいから鎌倉に住んでいるような人」というのがいいとは思わないが、しかし、他方で、何かやろうという時、その街が持つイメージに合ったことをやる、やろうとするものに合う街でやるというのは商売の方法として間違ったことではないわけで、鎌倉付近に出展している店を見ても、鎌倉のイメージを利用してそこに出展しているという店がある。1979年にNHKの朝のテレビドラマで放送された花登筺 原作『鮎のうた』では、大阪船場の糸問屋の糸原をつぶした三代目が行商でお金を稼いで店を復興させようとした時に、何の店を設立するのがいいかと考えた時、長浜の縮緬問屋の今甚の社長が「糸原さんが店を出すなら糸に関係のある店がいいでしょう。縮緬というのは長浜という印象があるから、縮緬の商売をやるなら長浜は他の場所よりもやりやすいし、長浜では縮緬は全然関係のないものをやるよりも縮緬はやりやすい。糸原さんというと糸という印象がありますから、糸と関係のない店をやるよりも糸に関係のある店をやった方が、その分だけうまくいくでしょう」と話す場面があった。だから、「どこにでもあるものではない」というもので、「少々おしゃれ」なものとか、「民芸的なもの」とかそういったものをやるなら鎌倉でやるとうまくいくのではないか・・といったことを考えて鎌倉でやっている店というのがあると思いますが、そういうのは悪くないと思います。
岐阜県高山市は「古い町並み」を「売り」にしているけれども、高山で店をやっている人は誰もが高山の生まれの人ということではなく、他からやってきて店をやっている人もいるようで、それはその街のイメージに合うものをやろうとした時、他の場所でやるよりも合うからでしょう。
大阪府箕面市の箕面大滝に行く滝道に沿った土産物屋が、どうも、最近、軒数が減ってきたように思い、ある店でそれを話してみたところ、「うちは息子も嫁もやってくれてますけれども、若い人は昔からの土産物屋をやるのを嫌がってやめてしまう店もあるみたいです」と聞いたのだが、「昔からの土産物屋」をやろうとするからいかんのではないかと思った。そうではなく、「昔からの土産物屋」をある程度存続させながら、「その場所だからできる」というものを作っていけばいいのではないのか。役行者が修行をして悟りを開いたと伝えられる箕面大滝に至る場所というのは、鎌倉や高山と同じく「そこでしかない」というものをやる場所として使えるのではないかと思ったのだがな。又、「東京もんのおっさん」というのはアンチ関西・アンチ大阪の人間が多いのだが、「阪急」は大阪の会社でも有楽町に店を出したりしており、「東京もんのおっさん」にある程度受け入れられているが、「東京もんのおっさん」にある程度受け入れられる関西と受け入れらない関西はどう違うのか。箕面は「受け入れられる関西」として成り立つ可能性があると思ったのだがな・・。
(株)一条工務店で福島県いわき市に勤務した時、いわき市および福島県浜通り地区の人で「ここは、何にもねえ」「何もねえところだ」とか言う人がけっこういたのだが、「そんなこと言ってるからだめなんでしょ」と思った。自分たちの所のいいところを発見できていない、そうではなく、自分たちの所にどういう特色があるかを考えて、その場所に合うもの、「そこであってこそできる」というものを考えるべきで、「何もねえ」「どうしようもねえ」ばっかり言いまくるというのは、片方で「ここはこんなに由緒ある特別の場所で」ともったいつけるのは好まない土地柄というプラスの面もあるとしても、「何もねえ」「どうしようもねえ」だのと、実際にはそんなにだめな場所ではないと思ったのに地元の人間が言いまくる・・という、そんなこと言ってるから原発みたいなものを作られてしまうんだよお!・・・て感じがした。浜通り地区も、もうちょっと、この場所には何ができるか、この場所でないとできないものとは何だろうか・・といったことをもっと考えるべきだったのではないかと思う。
1990年頃、静岡県清水市の菊池建設 https://www.kikuchi-kensetsu.co.jp/index.html は住宅雑誌の論評を見ると「発祥の地の清水市では相変わらず苦戦するも、東京圏では好調」と書かれていたのを見たが、「地方の工務店」というのをあえて「売り」にして、「宮大工からここまで」と「口大工」やることで東京圏において「和風の高級住宅」に特化してその客層に「静岡県清水市における歴史ある工務店」と少々ふくらませたかな・・みたいなこと言って「売り」にして、一時期、東京圏ではけっこう受けた。
〔同社HPを見ると、今現在は本社は横浜市鶴見区となっているらしい。 《ウィキペディアー菊池建設(神奈川県)》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%8A%E6%B1%A0%E5%BB%BA%E8%A8%AD_(%E7%A5%9E%E5%A5%88%E5%B7%9D%E7%9C%8C) によると、《 2016年(平成28年)5月19日付で東京地方裁判所へ民事再生法の適用を申請・・2016年(平成28年)11月17日付ですてきナイスグループの100%子会社となり、本社を横浜市鶴見区鶴見中央4丁目36番1号に移転 2017年(平成29年)4月28日付で東京地方裁判所が民事再生手続の終結を決定 》ということらしい。 ウィキペディアでは単に「菊池建設」ではなく「菊池建設(神奈川県)」と書かれているのは、他の都道府県にまったく関係のない「菊池建設」があるからだろう。1993年、(株)一条工務店に在籍した時、福島県いわき市の営業所で、いわき市生まれの従業員に「菊池建設」について話したところ、話がかみ合わないので「?」と思ったことがあったが、福島県いわき市にも地元の会社で静岡市清水区発祥の菊池建設とはまったく別の「菊池建設」があったらしい。〕
最近、今一つぱっとしない印象があるが、1990年頃の東京圏での評価は評価が高すぎたのか、それとも「高級和風住宅」の客層は数としてそれほど多いというわけではないので「それほど多くない」客層に特化した会社としてやっていくのか他の客層にも手をつけて本体をなくすのか・・そのあたりの判断を間違えたか。それほど変わらない頃、静岡県浜松市の工務店の(株)一条工務店https://www.ichijo.co.jp/ は「いかにもイナカて感じの家」を「売り」にしようとして東京圏の住人からバカにされた。1992年、(株)一条工務店の遠州人は「菊池建設みたいなもん」などと浜松での「研修」で言っていたが、「浜松では」そうでも東京圏では立場は逆であったが、それを「遠州人」に理解させるのは極めて難しいことだった。 その頃、清水市(現 静岡市清水区)の菊池建設は発祥の地の清水市で不振でもいいから、東京圏で和風の高級住宅に特化した工務店として売れればいいという姿勢で会社を運営していたのに対して、浜松市の(株)一条工務店はその逆で、東京圏を犠牲にすることで静岡県中西部・愛知県の営業が売りやすい・売れやすいようにしようという作戦を明らかに取っていた。東京都江東区潮見に東京展示場を設けてはいたものの、浜松あたりの展示場は新しいきれいな展示場だったのと逆で来場客から「普通、展示場というものはきれいなものを見せるものだと思うのだけど、なんで、ここの展示場は汚いのですか」と言われたように潮見の展示場は汚い展示場で、この場合「汚い」というのはそこに勤務している営業が掃除してないとかいう意味ではなく浜松あたりの展示場に比べてカネもかけてない建物で外壁も汚れ放題で黒い筋がいっていて床鳴りしまくりでそこに勤務している営業が掃除してどうこうなるものではない状態だったのだが、東京展示場は浜松・掛川・名古屋の展示場と比較してそれだけ差をつけた展示場になっていて、東京都で売るための展示場ではなくあくまで浜松・掛川・名古屋の営業が「一条工務店は東京にも展示場を持ってる会社なんですよお」と言うことで浜松・掛川・名古屋の営業が売れやすく・売りやすくするための展示場であり、しかも、浜松・掛川では坪48万円、名古屋では坪49万5千円と設定していた「セゾン275S1」を東京都・神奈川県では坪55万円での割高販売させることで、浜松・掛川・名古屋の営業が「これ、東京では坪55万円で売ってる商品なんですよ」と言うことで割安感を浜松・掛川・名古屋の客に持たせることで売りやすい・売れやすいようにしようという作戦で設けた展示場と東京都の「坪単価」だった。結論として、その頃の静岡県の「工務店」では清水市(現 静岡市清水区)の菊池建設は静岡県内を犠牲にしてもいいから東京圏で売るという作戦を取っていて、浜松市の(株)一条工務店は東京都を犠牲にすることで浜松・掛川・名古屋の営業(静岡県中西部・愛知県の営業)が売りやすく・売れやすくするという作戦を取っていた。普通、その頃の(株)一条工務店みたいにあそこまで露骨にやったなら、やっていることを理解できるはずだが、ところが(株)一条工務店の静岡県中西部・愛知県の営業は「病識がない」のか、「ええ根性してる」のか、そのあたりを事実を事実として認める謙虚さが欠落していた。 最近、東京圏でも(株)一条工務店のことを「天下の一条さん」とか言う人間がいてびっくりするのだが、・・又、かつてに比べると知名度が上がったのは事実とはいえ、いくらなんでもそこまで言うかあ~あ、なんか妄想でも見てんのとちゃうかあ~あ・・とあきれるのだが、営業やるのに、あらかじめ、その会社がその地域でどういう評価を得ているかは条件が大きく違う。
鎌倉は「鎌倉」というブランドに人が集まってくるという特色があり、中には「たいした内容ないくせに文化人ぶりたい」から「鎌倉に住んでる」ということにしている人というのもいるだろうけれども、「鎌倉」というブランドを生かして・使ってという思考は、マイナスに考えなくてもいいように思うのだ。
※ 《NHK放送歴史 鮎のうた》https://www2.nhk.or.jp/archives/tv60bin/detail/index.cgi?das_id=D0009010240_00000

鮎のうた〈上〉 (1979年)

鮎のうた〈下〉 (1980年) - 花登 筐
・・・とこれで14点。今では、鎌倉中級者くらいにはなったか?
駅から近い史跡というのは、つい後回しになってしまう傾向がある。
阪急「京都河原町」駅からすぐの八坂神社・知恩院。
JR「京都」駅から近い東本願寺(真宗本廟)・東寺(教王護国寺)。
京福電鉄「嵐山」駅の目の前の天龍寺。
・・こういう所は、「いつでも行ける」という意識から後回しになって、ふと気づくと、すでに何年も経っているということがある。鎌倉の円覚寺もまた、JR横須賀線の「北鎌倉」駅のすぐそばなので、「いつでも行ける」みたいに思って後回しになりがちだが、そう考えない方がいい・・・ということで、今回、訪問した。
今回は、自家用車で行き、付近の時間パーキングに駐車して訪問したが、JR横須賀線「北鎌倉」駅からの順路に沿って述べる。
まず、「北鎌倉」駅を西側に出た所が ↓

↑ JR横須賀線「北鎌倉」駅 西口。

↑ 「北鎌倉」駅を出てすぐの所に「門」という喫茶店がある。 もちろん、夏目漱石の小説『門』から名づけられたものだろう。
駅とは逆側にあるのが、公衆便所型交番の大船警察署山之内交番 ↓

JR「北鎌倉」駅付近は鎌倉警察署ではなく大船警察署の「管内」らしい。
交番には、デザイナーズハウス型交番 と 公衆便所型交番がある。
なんか、最近、矢鱈とデザインに凝った交番が建てられてきたのだが、そのデザインにも2通りあって、
(1)丹下健三型自分が一番目立たないと気がすまない自己顕示欲の塊型デザインのもの。
(2)史跡・歴史的建造物の近くなどにあって、史跡・歴史的建造物の景観を阻害しないように配慮されたもの。
この2通りがあるが、(1)については、国民の税金使って機能上必要もないのに「デザイナーズハウス」作るのはいかがなものかと思うが、(2)についてはその地域の町並みを配慮したものにしようというのはわかる。
「公衆便所型交番」というのはどういうものかというと、名前の通り「公衆便所みたい」な外観のものだ。今は昔、1980年代、朝日新聞の新聞販売店で配達の仕事をやったことが少しだけあったのだが、新聞の配達というのは配達している最中に便意を催すことがあった時、どこでトイレを借りるか・・というのがけっこう難題で、最近はトイレを貸してくれるコンビニが多くなったが、その頃はコンビニはトイレは貸してくれないことが多く、夕刊の配達の時は、大規模なスーパー・ホームセンターとか市役所・図書館・公民館・公営体育館などがあると借りることができたし、パチンコ屋で借りるというのもあるだろうけれども、朝刊の配達時にはスーパー・ホームセンターは開いていないしパチンコ屋も開いていない。朝刊の配達時でも空いているお店としては、交番という所があるのだが、ところが「交番は頼んでもトイレは貸してくれない」と長く新聞配達をしている人たちは言うのだった。「『市民の緊急事態』を助けるのが交番の役目だろ、『出物腫物所かまわず』と言うから、トイレを使わせてくれないなら交番の前でう〇こ すんぞお~お」なんてことを実行して、公務執行妨害とか言い出されてもかなわん・・というそこまでやった人はないようだったが、交番はトイレ貸してほしいと言っても貸してくれないらしい。
その時、「どうして貸してくれないかわかる?」と言った「(おじさん+おにいさん)÷2」がいて、「どうしてなんですか」と言うと、「だって、公衆便所じゃないもん。似てるけど」と言うので、え? 交番て公衆便所と似てたっけ?・・・と思ってそれ以来、交番と公衆便所を注意して見るようになったのだが、たしかに、「昔ながらの」タイプの交番というのは公衆便所と似てるわ・・・(^^)/
そう思ってよく見ると、「昔ながらの」タイプの交番と公衆便所は実に外観がよく似ているのだ。しかし、さらによく観察すると、似ているといえば似ているけれども、違うところもある。
(1)交番は2階建てが多いが公衆便所は1階建てが多い。
(2)公衆便所は男女別で2か所の出入口があるが交番はそうではない。
(3)公衆便所は外から内部が見えないように窓の高さが一般の窓よりも高めの位置にあるが、交番はそういったことはない。中から外の通行人を監視できるようにできている。
(4)交番には出入口の上に赤い電球がついているが公衆便所にはない。
(5)交番は襲撃された時に防禦できるように、内側に鋼製の枠が配置されたりしている所があるが、公衆便所にはそういうものはない。交番の場合、襲撃された時の為にけっこう頑丈にできていると思われる建物が多いが、公衆便所にはそういった配慮で建てられているものはない。
・・・これらの違いがある。
最近、「デザイナーズハウス」型交番というものが出現しているのだけれども、歴史的街区においては周囲の景観を破壊しないようにという配慮はわかるのだけれども、交番というのは、ここに交番がありますよ・・とわかりやすくてこそ交番であるという性質を考えると、その交番ごとにデザインが異なるというのは、その施設の性質から考えて適切とは言えないのではないか。交番というものはこういうデザインのものとある程度決まっていてこそ、機能するのではないだろうか・・と思うが、「無人の交番」というのがけっこう多く、暴漢に襲われた・・ということがもしもあった時、交番に駆け込めば・・なんて思って行くと、そこには「御用の方は、××ー×××× までお電話ください」と書かれて警察署の電話番号が書かれていて電話機が置いてある・・なんてことでは交番にかけこんだ意味はないことになるわけで、それなら、コンビニにかけこんだ方が「とりあえず、誰か人がいる」ことになる。
なお、円覚寺参拝の場合は、拝観料を払って総門より内側に入ると、総門を入ってすぐ右側にトイレがある。 今回、確認しなかったが『古寺を巡る35 円覚寺』(2007.10.16. 小学館)に掲載の地図を見ると、鎌倉街道から円覚寺の方に行くカドの、元は円覚寺の参拝者用駐車場だったが今は時間パーキングになった所に道路に面して公衆便所があるように記載されている。電車で来た人は北鎌倉駅にトイレがあったはずだから、交番に「トイレ貸してください。市民の緊急事態なんです」などと言わない方がいい・・・と思う。「公衆便所みたい」と言えばそう見えないこともないが、公衆便所ではない。
JR横須賀線と並行して南北に走る通りが「鎌倉街道」(県道21号)。 「北鎌倉」駅の少し南側で、線路を横断する道があるが、線路の手前の左右に池があり、池の手前に石碑が建っている。↓

↑ 「大本山 円覚寺」を難しい字で書かれている。
線路の手前の左右の池が「白鷺池(びゃくろち)」という池で、線路の向こう側からではなく、ここから円覚寺の敷地らしい。

↑ 電車が通る時には踏み切りが降りる。

↑ 円覚寺の境内を電車が通っているということになる・・か。
踏切を渡ってすぐに、円覚寺に登る石段がある。 ↓

↑ 右側に「臨済宗大本山 円覚寺」、左側に「北条時宗公御廟所」と書かれた石碑が建っている。

↑ 石段の上にあるのが「総門」。


↑ 「総門」。 「瑞鹿山」という額がかかっている。 円覚寺は「瑞鹿山 円覚寺」と言う。
山門(三門)の後ろの仏殿のうしろの法堂跡のうしろ、方丈のさらにうしろ。佛日庵・開基廟(時宗廟)の南のあたりに「白鹿洞」と言われる所があり、《 円覚寺の落慶法要の日、この洞内から一群の白鹿があらわれて法筵に列したという。》(『古寺を巡る35 円覚寺』)というところから、「瑞鹿山」と言うらしい。
この「総門」を入って左側に拝観受付がある。 「総門」を入った後、さらに石段を登った上に規模が大きい「山門(三門)」がある。
夏目漱石『門』では、野中宗助が寺を退去する際に、
《 ・・自分は門を開けて貰いに来た。けれども門番は扉の向側にいて、敲いても遂に顔さえ出してくれなかった。ただ、
「敲いても駄目だ。独りで開けて入れ」と云う声が聞こえただけであった。彼はどうしたらこの門の閂(かんぬき)を開けることが出来るかを考えた。そうしてその手段と方法を明らかに頭の中で拵えた。けれどもそれを実地に開ける力は、少しも養成する事が出来なかった。従って依然として自分の立っている場所は、この問題を考えない昔と毫も異なるところがなかった。彼は依然として無能無力に鎖された扉の前に取り残された。彼は平成自分の分別を便(たより)に生きて来た。その分別が今は彼に祟ったのを口惜しく(くちおしく)思った。そうして始から取捨も商量も容れない(いれない)愚なものの一徹一図を羨んだ。もしくは信念に篤い善男善女の、知慧も忘れ思議も浮ばぬ精進の程度を崇高と仰いだ。彼自身は長く門外に佇立む(たたずむ)べき運命をもって生れて来たものらしかった。それは是非もなかった。けれども、どうせ通れない門なら、わざわざ其所まで辿り付くのが矛盾であった。彼は後を顧みた。そうして到底又元の路へ引き返す勇気を有たなかった。彼は前を眺めた。前には堅牢な扉が何時までも展望を遮っていた。彼は門を通る人ではなかった。又門を通らないで済む人でもなかった。要するに、彼は門の下に立ち竦んで、日の暮れるのを待つべき不幸な人であった。・・ 》
と述べられている「門」は、「山門(三門)」ではなくこの「総門」を想定して書かれているのではないだろうか。

門 (新潮文庫) - 漱石, 夏目
「総門」をくぐって中に入ると左手に拝観受付がある。↓

さらに進むと、石段の上に大きな「山門(三門)」が見える。


夏目漱石『門』(新潮文庫)には、
《 山門を入ると、左右には大きな杉があって、高く空を遮っているために、路が急に暗くなった。その陰気な空気に触れた時、宗助は世の中と寺との区別を急に覚った。静かな境内の入口に立った彼は、初めて風邪(ふうじゃ)を意識する場合に似た一種の悪寒(さむけ)を催した。・・》
と書かれている。
これは今もあてはまるように思う。円覚寺に登る石段のあたりは、JR「北鎌倉」駅のすぐそばで、前を横須賀線の電車が通り、人通りも多い場所であるにもかかわらず、いったん、総門から内側に入ると、静寂な環境がそこにあって、外とは大きな違いが感じられる。
夏目漱石『三四郎』では、東大の本郷キャンパスが、東京の街中でありながら静かな環境で、学問をするにはこういう場所でないとと「野々宮さん」が語る場面があるが、それと似たところがある。
《 ・・二人で坂を上がって、丘の上へ出た。野々宮君はさっき女の立っていたあたりでちょっととまって、向うの青い木立のあいだから見える赤い建物と、崖(がけ)の高いわりに、水の落ちた池をいちめんに見渡して、
「ちょっといい景色でしょう。あの建築(ビルジング)の角度(アングル)のところだけが少し出ている。木のあいだから。ね。いいでしょう。君気がついていますか。あの建物はなかなかうまくできていますよ。工科もよくできているがこのほうがうまいですね」
三四郎は野々宮君の鑑賞力に少々驚いた。実をいうと自分にはどっちがいいかまるでわからないのである。そこで今度は三四郎のほうが、はあ、はあと言い出した。
「それから、この木と水の感じ(エフフェクト)がね。――たいしたものじゃないが、なにしろ東京のまん中にあるんだから――静かでしょう。こういう所でないと学問をやるにはいけませんね。近ごろは東京があまりやかましくなりすぎて困る。これが御殿」と歩き出しながら、左手(ゆんで)の建物をさしてみせる。
「教授会をやる所です。うむなに、ぼくなんか出ないでいいのです。ぼくは穴倉生活をやっていればすむのです。・・・」 》
(夏目漱石『三四郎』角川文庫)

三四郎 (新潮文庫) - 漱石, 夏目
『三四郎』や『門』でこういった記述が見られるように、夏目漱石は、こういった場所の雰囲気というものを感じ取る感性を持ち合わせた人間だったと考えていいのかもしれません。・・もっとも、東大の本郷キャンパスは私が高校を卒業する頃、1970年代後半くらいまでは、「野々宮君」が『三四郎』の中で語るように、東京のまん中でありながら静かな環境が維持されていましたが、最近、行ってみると、人口密度は特に増えていないと思うのですが、建物密度は増えて、高層の建物が増え、又、本郷キャンパスの中から外の高層の建物が見えるようになってきた、本郷キャンパスから見えるような高層の建物が周囲に建ってきた。夏目漱石が『三四郎』の中で「野々宮君」に語らせた東大本郷キャンパスの東京のまん中にありながら静かな環境の良さというものを感じられない人が増えてきたということでしょうか。
「建築家」なのに、こういった感性を持ち合わせていないような人もいるように思います。又、こういった感性を持ち合わせていないから「建築家」やってるのではないかという感じの人もいるのではないかと思います。
夏目漱石『門』の中には、登場人物の野中宗助が訪ねた鎌倉の寺が円覚寺だとはどこにも書かれていないのだけれども、『古寺を巡る35 円覚寺』(2007.10.16. 小学館)には、
《 帰源院(きげんいん)
山門前から右手の路を行くと、円覚寺38世 傑翁是英(けつおうぜえい)(仏恵〔ぶつえ〕禅師。1378年<永和4/天授4>示寂)の塔所(たっしょ)である帰源院が建つ。中興開祖は円覚寺154世の奇文禅才(きもんぜんざい)で、中興開基は戦国大名の北条氏 第3代 氏康(うじやす)と伝えられる。
夏目漱石は1894年(明治27)12月23日から翌年1月7日にかけて帰源院に寄宿して、当時の管長である洪嶽〔こうがく〕(釈〔しゃく〕)宗演(そうえん)の下に参禅した。 漱石は当寺28歳で、健康や仕事への不安からうつ気味となり、親友に参禅を勧められたのだった。15日の参禅期間、漱石は老師から与えられた公案に懸命に取り組んだが、たいした収穫を得られぬまま下山するしかなかった。このときの体験をもとにして書かれた小説が『門』である。
境内には「佛性(ぶっしょう)は白き桔梗にこそあらめ」と刻まれた漱石の句碑が立つ。》
と書かれており、山門(三門)の南の位置にある帰源院が、『門』では「一窓庵」として書かれる塔頭のことらしいと出ている。
『門』では《山門を入ると、左右には大きな杉があって、高く空を遮っているために、路が急に暗くなった。・・・》と書かれているのだが、現地に行ってみると、山門(三門)をくぐった後ろには仏殿があって、左右に大きな樹木が生えていて、高く空を遮っているという場所は、山門(三門)の内側(東側)ではなく、総門と山門(三門)の間の区域であるから、夏目漱石は総門を入った所を念頭にこの部分の文章を書いたのではないかと思われる。
『古寺を巡る35 円覚寺』(2007.10.16. 小学館)では、
《 ――山門を入ると、左右には大きな杉があって、高く空をさえぎっているために、路(みち)が急に暗くなった。その陰気な空気に触れた時、宗助は世の中と寺の中との区別を急にさとった。――
夏目漱石の小説『門』の主人公 宗助が感じた思いは、円覚寺で参禅をした漱石自身の思いと言っていいだろう。文中の山門とは、おそらく総門のことである。「瑞鹿山(ずいろくざん)」の額が掛かる総門を過ぎるとき、720余年の歴史を経た禅林の空気に触れて身が引き締まる思いがするのは、いまの我々も同じだろう。・・》
と書かれているが、『門』で《山門を入ると・・・》と書かれているエリアは、円覚寺の山門(三門)の背後のあたりのことではなく、総門を入ってから山門(三門)までの間のエリアのことでしょう。

週刊 古寺を巡る 35 円覚寺 北条時宗が開いた北鎌倉の座禅道場 (小学館ウイークリーブック) - 小学館
《 『門』は明治43年(1910年)3月1日から6月12日まで朝日新聞に連載された。前年に、漱石は『それから』を連載したが、その題名はその前年(明治41年)の『三四郎』のそれからという意味だった。「門」という題名は彼の弟子が決めたもので、漱石は書きはじめてからも、「一向に門らしくなくて困っている」(寺田寅彦宛書簡)とこぼしている。つまり、『門』は、『それから』のそれからにほかならないのである。・・》(柄谷 行人「夏目漱石『門』(新潮文庫) 解説」 )
1894年から95年にかけて、夏目漱石は円覚寺の帰源院に逗留した経験を踏まえて、1910年の前半に朝日新聞に連載された『門』を書いた・・・ということは、円覚寺の仏殿は《関東大震災(1923年、大正12年)で倒壊しましたが、昭和39年(1964年)に再建されました。》(現地の説明書き)というものなので、夏目漱石が帰源院に逗留した期間、及び、『門』を朝日新聞に連載した期間は、1923年の関東大震災より前なので、仏殿は1964年、東京オリンピックの年に建てられた今の鉄筋コンクリート造の仏殿ではなく、1923年(「幾人、見つかる(1923)、関東大震災」)の関東大震災で倒壊する前の仏殿が建っていたようだ。
全体を執筆してから題名をつけるのではなく、先に題名をつけてから新聞に連載をするという書き方だと、内容が題名と合わなくなってしまって困るということが出てくるようだ。
《 『門』の宗助は急に鎌倉に参禅してしまう。それまでの問題を放り出しておいて、「悟り」も何もあったものではない。これはこの作品の欠点とされており、その理由として、漱石の肉体的衰弱があげられ、また、『門』という題名に落ちをつけるためにそうしたとも考えられている。・・・》
たしかに、『門』は前半から半ばまでの話と、鎌倉の寺(円覚寺だと明記はされていないが、夏目漱石が円覚寺の帰源院に逗留した経験を踏まえてのものらしいので、円覚寺を想定しての話だろう)に参禅する話がしっくりとつながっていないのではないかと言われると、そんなところがあるかもしれない。
《その理由として、漱石の肉体的衰弱があげられ》るというけれども、夏目漱石が神経衰弱にかかっていたと言われるのは、けっこう長い期間だったはずだし、《肉体的衰弱があげられ》と言うのなら、夏目漱石の全盛期ていつなんだ? ・・という話にもなる。
《ウィキペディアー夏目漱石》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%8F%E7%9B%AE%E6%BC%B1%E7%9F%B3 をもとに作品を並べると、
1835年 福沢諭吉 生れる。
1841年 伊藤博文 生れる。
1862年 森鴎外 生れる。
1867年 夏目漱石 生まれる。
正岡子規 生まれる。
1968年 明治維新
北村透谷 生まれる。
1892年 芥川龍之介 生れる。
1894年 北村透谷 25歳で縊死。
日清戦争 始まる。
1901年 福沢諭吉 66歳で他界。
1902年 「日暮れに(1902)結ぶ、日英同盟」日英同盟 締結。
正岡子規 34歳で他界。
1894年 「一躍、清を(1894)攻撃する」日清戦争。
1904年 「ロシアに行くを知ってか(1904)兵隊さん」日露戦争 始まる。
吾輩は猫である(1905年1月 - 1906年8月、『ホトトギス』/1905年10月 - 1907年5月、大倉書店・服部書店)
坊っちゃん(1906年4月、『ホトトギス』/1907年、春陽堂刊『鶉籠』収録)
草枕(1906年9月、『新小説』/『鶉籠』収録)
二百十日(1906年10月、『中央公論』/『鶉籠』収録)
野分(1907年1月、『ホトトギス』/1908年、春陽堂刊『草合』収録)
虞美人草(1907年6月 - 10月、『朝日新聞』/1908年1月、春陽堂)
坑夫(1908年1月 - 4月、『朝日新聞』/『草合』収録)
三四郎(1908年9 - 12月、『朝日新聞』/1909年5月、春陽堂)
それから(1909年6 - 10月、『朝日新聞』/1910年1月、春陽堂)
1909年10月 伊藤博文 ハルビン駅にて狙撃され68歳で死亡。
門(1910年3月 - 6月、『朝日新聞』/1911年1月、春陽堂)
1911年「辛亥革命、行くといい(1911)」辛亥革命。
彼岸過迄(1912年1月 - 4月、『朝日新聞』/1912年9月、春陽堂)
1912年(明治45年/大正1年)7月 明治天皇 崩御。
1912年9月 乃木希典 62歳で妻 静子とともに自刃。
行人(1912年12月 - 1913年11月、『朝日新聞』/1914年1月、大倉書店)
1914年 第一次世界大戦 始まる。
こゝろ(1914年4月 - 8月、『朝日新聞』/1914年9月、岩波書店)
道草(1915年6月 - 9月、『朝日新聞』/1915年10月、岩波書店)
明暗(1916年5月 - 12月、『朝日新聞』/1917年1月、岩波書店)
1916年(大正5) 夏目漱石 49歳で他界。
1917年 ロシア革命
1922年 森 鴎外 60歳で他界。
1923年(大正12) 「幾人、見つかる(1923)、関東大震災」関東大震災。
1927年 芥川龍之介 35歳で服毒自殺。
『草枕』『三四郎』『門』など日露戦争と第一次世界大戦の間に発表された作品が多くて、『こころ』『明暗』などは第一次世界大戦が始まってからの作品だった。
結局、どの作品を書いた頃が「全盛期」なのか、どうも、よくわからないし、もとより、夏目漱石の作品というのは、部分部分を見ると、相当鋭い指摘が見られるものの、小説として全体として見ると「どうかな」みたいな作品は、全般に多いように思う。 又、夏目漱石だけではなく、そういった文学作品は珍しくもない。
但し、《ウィキペディアー夏目漱石》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%8F%E7%9B%AE%E6%BC%B1%E7%9F%B3 によると、
《 1910年(明治43年)6月、『三四郎』『それから』に続く前期三部作の3作目にあたる『門』を執筆途中に胃潰瘍で長与胃腸病院(長與胃腸病院)に入院。同年8月、療養のため門下の松根東洋城の勧めで伊豆の修善寺に出かけ、菊屋旅館で転地療養する。しかしそこで胃疾患になり、800gにも及ぶ大吐血を起こし、生死の間を彷徨う危篤状態に陥る。これが「修善寺の大患」と呼ばれる事件である。・・》
と出ている。 『門』は、1867年(慶應3年)、明治維新の1868年の1年前に生れて1916年(大正5年)、第一次世界大戦開始の1914年の2年後、「人、悔いなし(1917)ロシア革命」のロシア革命の1917年の前年に49歳で他界した夏目漱石の43歳の時の作品であるが、43歳の時の作品である『門』については「朝日新聞」に連載した最後の頃に胃潰瘍で入院したということがあったようで、神経衰弱とは別に「肉体的衰弱」が執筆時にあったらしい。
『門』の野中宗助 自身が、鎌倉の寺に参禅したが、冝道さんという僧と老師に世話になったことを感謝しながらも、求めていたものとは違ったことを感じ、早々に退去することが述べられている。
《 ・・彼から云うと所謂(いわゆる)公案なるものの性質が、如何にも自分の現在と縁の遠い様な気がしてならなかった。自分は今腹痛で悩んでいる。その腹痛と言う訴を抱いて来てみると、豈計らんや(あにはからんや)、その対症療法として、むずかしい数学の問題を出して、まあこれでも考えたら可かろうと云われたと一般であった。考えろと云われれば、考えないでもないが、それは一応腹痛が治まってからの事でなくては無理であった。・・》
この部分の文章を読むと、夏目漱石自身が『門』の中で、鎌倉の寺(円覚寺)への参禅は、実際に来てみると、いわば、腹痛をなんとかしようと思ってきたけれども、《むずかしい数学の問題をだして、まあこれでも考えたらよかろうと云われた》ようなもので、求めていたものとは違ったようだということを述べており、参禅するといいかと思って来たが、それまでの話とのつながりから考えると、あまり役に立つものではなかった旨を述べているから、《それまでの問題を放り出しておいて、「悟り」も何もあったものではない。これはこの作品の欠点とされており》と考えたり、《その理由として、漱石の肉体的衰弱があげられ》と解釈しなければならないこともないようにも思うが。
神経衰弱だったのではないかといった話は、この頃に突然でてきた話でもないし、もっと早い時期の『坊ちゃん』という小説が天真爛漫な「坊ちゃん」の話だなどと言う人がいるが、実際には、そこまで怒らなくてもいいようなことに怒ってみたり、「坊ちゃん」は決して天真爛漫という性格ではなく、むしろ、神経衰弱が背景にあるのかもしれないとも思える小説である。
『門』は私はけっこう好きな小説であるのだが、鎌倉参禅のあたりが唐突だと言われるとそうかもしれないが、それでも、けっこう好きな小説の1つである。
次回、山門(三門)から仏殿へ・・。
※ 円覚寺HP https://www.engakuji.or.jp/
(2021.6.13.)
☆ 瑞鹿山 円覚寺と夏目漱石『門』
1.北鎌倉駅から総門・山門へ。夏目漱石『門』における総門。〔今回〕
2.山門(三門)・仏殿・法堂跡・居士林。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202106article_2.html
3.庫裏・方丈・池泉庭園・正続院・舎利殿。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202106article_3.html
4.佛日庵・開基廟、黄梅院・聖観音、洪鐘(おおがね)・弁天堂、弁天堂から富士山が見える。傍若無人の「高層マンション」は反社会的勢力。「高層マンション」の問題点を理解しない・「高層マンション」が向いている場所・向いていない場所を考える思考が欠落した建築学科教授は建築について何を学んできたのか? 何を教えているのか? https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202106article_4.html
5.帰源院。『門』の小六と私。薬漬したカネでゴルフやる医者屋階級とキャディーさせられるガチンコ族。「工学部行かす金持とは違う」民族と「バカでも入れる私大の工学部」行く民族。「バカでも入れる私大の建築学科」を増長させる営業本部長。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202106article_5.html
6.総門から北鎌倉駅。鎌倉小坂郵便局。「平常心是道」と「あるがまま」と「完全なる機能」「自己一致」。規制され守られている「鎌倉」はごく一部分でしかない。 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202106article_6.html
鎌倉シリーズ
(1) 荏柄天神社 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201401article_7.html
(2) 山崎天神 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201504article_2.html
(3) 光明寺(鎌倉市)参拝
1.光明寺は、浄土宗の鎮西派と西山派のうち、鎮西派。 菊と三つ葉葵の両方の紋が入った「総門」 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201804article_1.html
2.「山門」と桜。「羅漢」とは。 鐘楼。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201804article_2.html
3.「大殿」(本堂)と桜。火灯窓。善導大師とは。 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201804article_3.html
4.「大聖閣」と「記主庭園」。景観に隠す建築と新たに創造する建築 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201804article_4.html
5.「開山堂」。「網引地蔵」。地蔵とは。「戦没者碑」https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201804article_5.html
6.天照山の展望台から見た山門・大殿と海、「廟所」、背後から見た大殿と大聖閣 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201804article_6.html
7.「鎌倉アカデミア」碑。 「『教育』する側」の論理・「される側」の論理 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201804article_7.html
8.2階追焚有浴室と耐力壁配置。自分の都合に合わせ構造基準を変える会社+光明寺前の海 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201804article_8.html
9.コンパネはぬるま湯ではがれる? 釘と接着剤による接合の違い。建築専門学校は役立つか https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201804article_9.html
10.「集成材はムク材の1.5倍強い」て誰が言った? https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201804article_10.html
11.九品寺・日本基督教団鎌倉教会・「共産党建築」・「警察建築」・交番研究 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201804article_11.html

こころ (新潮文庫) - 漱石, 夏目

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