小休本陣 常盤家住宅 見学【2/5】富士川橋付近から小休本陣まで。「あいの宿」「小休(こやすみ)」とは。薬医門。門前から見える富士山は絶景。

[第871回]
  小休本陣 常盤家住宅見学の2回目です。
  東名高速道路「富士川(下り)」サービスエリアの東端から階段で””下界””に降りまして、富士川の西側を川沿いに南北に通る県道10号(富士川身延線)を南に進んで富士川橋の所まで来ました。
  富士川橋を通る道と富士川橋から南は県道396号(富士由比線)と名前を変えますが、今は地図にはこの県道396号(富士由比線)を「東海道」と記載されていますが、もともとの東海道はこれよりも西側、丘側の道で、県道188号と番号が付けられている道で、その県道188号の西側に小休本陣 常盤家住宅 があります。

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  ↑ 富士川橋はなかなかデザインのいい橋で、色彩も周囲に調和した色彩のものであるとともに、車道部分と別に歩道専用の通路が設けられていて、住人の便をよく考えた橋だと思います。問題点としては、橋のフレームの高さが少々低いようで、乗用車などは問題ありませんが、トラックなどで積荷の高さがあるクルマは気をつける必要がありそうです。
  そして、富士川橋から北を見た眺めもいい♪ ↓
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↑ 向こうに富士山、手前に富士川・・写真の撮り方のセンスも悪くないでしょ(^^♪
建築屋で何十年間、写真撮ってきたのですから・・・。そういう人間の能力を活かす会社と活かさない、アホばっかし大事にする会社と・・、後者の方が多いみたいですがね・・・。

↑ が、清源院(曹洞宗)で、


↑ が、小休本陣 常盤邸 です。

  それで・・・、《しずおか近代和風建築さんぽ 小休本陣常盤邸》https://kindaiwafu.eshizuoka.jp/e1020531.html にリンクされていたグーグル地図https://www.google.co.jp/maps/place/%E3%80%92421-3305+%E9%9D%99%E5%B2%A1%E7%9C%8C%E5%AF%8C%E5%A3%AB%E5%B8%82%E5%B2%A9%E6%B7%B5%EF%BC%94%EF%BC%95%EF%BC%95/@35.153214,138.618536,14z/data=!4m5!3m4!1s0x601bd337e196cc3f:0xb35e46861ad1622a!8m2!3d35.1530715!4d138.6187327?hl=ja で見ると、小休本陣 常盤邸も、清源院も、どちらも、富士川橋の西、「郵便ポスト」と「斎藤畳店」の間の道、一方通行の道の逆向きを歩いて登っていくみたいです。天満天神宮は清源院の南西、小休本陣常盤邸の北西のあたりのようですが、天満天神宮への道はグーグル地図ではどうもよくわかりません。
  とりあえず、小休本陣 常盤邸や清源院の方、旧東海道の方へ行ってみましょう。
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↑ この右のお家の手前にある小さな郵便ポストが、これが目印として書かれているものみたいです。その向こうに細い道があり、道の向こうに「タキ」という店があって、その隣に「新畳でおもてなし」と書かれた幟が立っていますが、その「新畳でおもてなし」の幟の店が「斎藤畳店」で、手前の「タキ」という店は何屋さんかというと、「JEWELRY COLECTION」と書かれた看板が出ていて、「電池交換」と書かれた幟が立っていますから、「宝石屋 兼 時計屋」ということかな?
  この「郵便ポスト」と「宝石屋 兼 時計屋 タキ」の間の道を登っていきますと、
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↑ T字路に出ます。これをちょっとだけ右側に行くと、細目のごにょごにょしたL型に曲がる人だけ通れる道? があって、通らせてもらっていいのかなあ? と気兼ねしながら通ると、南北の道があって、どうやらその南北の道が「旧 東海道」らしい。↓
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( ↑ 旧 東海道。 南の方を見た写真。)
  その「細目のごにょごにょしたL型に曲がる人だけ通れる、通らせてもらっていいのかなあ?・・て感じの道」から来た正面あたりに、↓
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↑ 両側に石柱が立っているけれども、何も刻まれていない。 寺や神社の参道なら「☆☆神社」「◇◇山▽▽寺」とか「△△宗▽▽寺」とか何か刻まれていることが多いが、ここは石柱だけで何もない・・・ということは、この階段は個人の家に入る階段なのか? ・・・と思っていたら、寺か神社かを訪ねてきたみたいな雰囲気の年配の夫婦が上がっていくのを見かけたが、後をついて上がっていいのかどうかわからない・・し、人のケツの後を登るというのはあんまり好きではないので、とりあえず、この「旧 東海道」を歩いてみることにした。
  実際には、この何も刻まれていない石柱の間の階段を登っていくと、清源院という曹洞宗のお寺があって、お寺の境内の左の方に後ろの山に登る階段があって、その階段で山を登っていくと小山の上に天満天神宮があったのだが、今回は、もともとは千葉県からわざわざクルマを運転していって静岡県の天満宮まで行く””天満宮フェチ””としては天神天満宮 が最優先だったのだが、とりあえず、旧 東海道を南に歩いていったところ、右手に小休本陣 常盤家住宅 があった。
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↑ 小休本陣 常盤家住宅 の門だが、一番下の写真は撮影が午後で逆光であったこともあり、レンズに雨の時に水滴がついていたのか、どうも、汚れが写真に出てしまった・・が、
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↑ 右に「西條少将 小休」、左は「無料公開中」と書かれている。
  退出後、南に歩いてみて、再度来てみると門が閉鎖されていたが、
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閉められた状態だとこんな感じ。↑

  「西條少将」て誰なんだ?
  現地でもらったリーフレットに、
《 ・・小休本陣に、天保7年(1836)3月1日、紀州藩(徳川御三家)の枝藩である西条藩(愛媛県)9代藩主・松平 頼学(よりさと)西条少将・1808~1865)が休息しました。この時 松平頼学(よりさと)は、身延山参詣の帰りで、1,080人余の供を率いてきたと記録にあります(『身延山史』)。
・・・ 》
と書かれていますが、愛媛県の西条藩の藩主の松平頼学(よりさと)(西条少将)がここで休息したということから、「西條少将 小休」という木札が掲げられているということなのでしょう。

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 ↑ は「薬医門」と言うようですが、内側から見ると、↓
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↑ こんな感じ・・・。
  「薬医門」とは、《コトバンクー薬医門》https://kotobank.jp/word/%E8%96%AC%E5%8C%BB%E9%96%80-647789 「精選版 日本国語大辞典「薬医門」の解説」には《現在は本柱と控柱各二本ずつと、冠木、男梁(おうつばり)、女梁(めうつばり)などから成り、屋根が切妻破風造りのものをいう。》と出ている。
  《鎌倉の古建築 薬医門》https://www.kcn-net.org/senior/tsushin/kokenchiku/mon/yakuimon/yakuimon.htm には《 薬医門のいわれは、一説には矢の攻撃を食い止める「矢食い(やぐい)」からきたと言われています。
また、かつて医者の門として使われたことからとも。》と出ています。昔は庶民の家には門はなかったわけで、その頃から医者屋というのは患者を薬漬けにして稼いだカネで金持ちだったのか、権力・体制にすり寄ることでそういう姿勢のことを「自我が確立されている」とか評価されて優遇されてきた・・ということでしょうか。
※ 「大阪文化財ナビ 薬医門」https://osaka-bunkazainavi.org/glossary/%e8%96%ac%e5%8c%bb%e9%96%80
 「犬山城を楽しむためのウェブサイト 薬医門」https://www.takamaruoffice.com/shiro-shiro/yakuimon/

  小休本陣 常盤家住宅の前の南北の道から北側を見た時に見える富士山がなかなかいいのです♪ ↓
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 ↑ こういうのを見ると、富士山ていいなあ~あ・・と思いますね。 又、富士山が見える所というのはいいなあ・・とも思いますね。
↑ の道の突き当りには家屋が見えますが、そこの部分で道がクランクというのか「桝形」に曲がっています。

  富士川沿いの県道10号(富士川身延線)からの行き方ですが、富士川橋の西の「郵便ポスト」と「宝石・時計店 タキ」「斎藤畳店」の間の道を登る経路の他に、それよりも手前で丘側(西側)に登る経路があります。
  今回は富士川橋の所まで行きたかったので、《「郵便ポスト」と「宝石・時計店 タキ」「斎藤畳店」の間の道を登る経路》を取りましたが、それよりも北で丘側に入る道があります。↓
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  《「郵便ポスト」と「宝石・時計店 タキ」「斎藤畳店」の間の道》は富士川橋の西側の橋より少しだけ南ですが、↑ の道は富士川橋より少しだけ北で丘側に登ります。 地図を見ると、この道が「旧 東海道」だったということのようです。
  この道を登っていくと、途中L型に曲がります。↓
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  「天野園芸株式会社」という看板が見えますが、この写真は丘側から撮影したものです。富士川がきれいです。
  この付近から見ると、↓
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↑ 目の前に富士川の堰が見えます。

  こちらの経路から南に進むと、先ほどの両側に石柱が立った階段が右手(西側)にあって、さらに直進すると、道がクランク状になり、それを過ぎて直進すると右手に 小休本陣 常盤家住宅 があります。
  道がクランク状になっているのは、おそらく意図的にそうしたものでしょう。馬籠宿にも、意図的にクランク状にした部分、「桝形」と言ったりするようですが・・ありました。 日本の城では城の本丸に至る経路に意図的にクランク状にした経路を設けていたことがあるようで、それは城に攻めてくる者がいた場合、直線だと大軍が滞りなく突き進んでくるが、クランク状態にしておくとそこで曲がるために歩みが止まることになり、そこに鉄砲を浴びせるなどして防ぐことができるということで、「攻めにくく守りやすい」ようにしたようですが、お殿様が宿泊したり休息したりする宿場においても、同様に襲撃してくる者がいた場合もクランク状に道がなっておれば、そこで曲がるためにいったん停止することになり、「攻めにくく守りやすい」ようになるからでしょう。

  ここの場合、インターネットの地図に掲載されていた「◇◇店」と書かれた店舗が目印になるかと思って捜しても実際に行ってみるとないのか看板がないだけなのかわからないが、見当たらないものが多かった。

  「小休本陣」の「小休(こやすみ)」とは何なのか? どういう意味か?
  この岩淵宿は、西側の蒲原、東側の吉原の間の「あいの宿」だったらしい。「あいの宿」とは何か。
  内田康夫『斎王の葬列』(角川文庫)には「鈴鹿馬子唄」に「坂は照る照る 鈴鹿は曇る あいの土山雨が降る」と歌われる「あいの土山」の「あい」とはどういう意味かという話が出ている。
《 「・・第一の説では、東海道を江戸から下って来て、峠を越えた土山宿辺りでは天気がよかったのに、鈴鹿峠にかかる辺りでは曇ってきて、峠を越えた土山宿では雨が降っておるいうもので、これがもっとも有力ということになっておる。この場合、『坂は照る照る』の『坂』は坂下宿のこと。しかし『相対する』を『あいの』と歌うかどうか疑問視する説もある。
  そこで第二の説は、土山宿は東海道五十三次の宿駅を設定する以前は間の宿――つまり本宿に対してそういう呼び方をしたとするものだが、これはいささか眉唾ものかもしれんな」
・・・
「三つ目の説は、『坂』いうのは坂下宿のことでなく、土山と水口のあいだにある『松尾坂』のことではないかいうものだが、調べてみると、その松尾坂いうのがどこかはっきりせんのやね。北土山と頓宮のあいだに松尾いう地名があったいう話を聞いたこともあるが、現在の地図には載っておらんし、かりにそこの坂が松尾坂だとすると、土山宿のほんの隣みたいなもので、鈴鹿と土山との距離と対比して考えるのはかなり無理があるでしょうな。
  もっと無理な解釈は、『あいの』を『あいのう』――つまり『間なし』、ひっきりなしに降るさまを言うたという説
  さらには山間の間や山峡の峡を『あい』と言うたのであって、土山の地形が谷間だからという説
そのほかいくつかの説があるが、やはり最初の、坂下宿の向かい側いう説が、もっとも妥当やないかな」 ・・ 》
と出ている。
(1)峠の向こう側の宿場と「相対する」ということで「あいの」宿場・・なのか、
(2)本宿に対して「間の宿」という意味か、
(3)山間や山峡の峡谷を「あい」と言った、谷間の地形の場所を「あいの・・」と言ったのか。
この(1)~(3)の可能性は、地形や立地から考えて、富士市の岩淵宿にもあてはまりそうにも思える。
斎王の葬列 (角川文庫) - 内田 康夫
斎王の葬列 (角川文庫) - 内田 康夫
  岩淵宿は、富士川を隔てて東側の吉原宿と「相対する」宿場とも言える。 本宿ではなく「間の宿」だったらしい。富士川が流れる西側の河岸段丘の丘に立地していて、富士川は両側より低くなった峡谷になっている。
「岩淵」という地名からして、岩でできた淵・・峡谷を意味する地名。現在の地図を見ると富士川の対岸、富士川の左岸側には、森島(もりじま)・水戸島(みとじま)・五貫島・宮島・川成島・柳島・加島・鮫島・瓜島・島田・田島・・と「島」がつく地名がいくつも見られる。富士川の西側は山が迫っているが、東側には富士川より東にも潤井川ほか川が流れていて、旧富士川町と異なって旧富士市地域、JR「富士」駅などの地域は富士川とその他の川にはさまれた三角州のような地形だったか。
こういったことを考えると、岩淵宿は(1)~(3)の3つともあてはまるように思える。

  小休本陣 常盤家住宅 にてもらったリーフレットには、
《 慶長6年(1601)、徳川家康が江戸から京都を結ぶ東海道に宿駅(しゅくえき)制度を定めました。翌7年に富士川の渡船役(とせんやく)が川成島(かわなりじま)から岩淵(いわぶち)村へ移ったことにより、東海道五十三次の宿場に課せられた伝馬役(てんまやく)と同様の重要性を、岩淵村は持つことになりました。また、岩淵村には富士川舟運(しゅううん)の河岸場(かしば)(船着場)という機能もありました。
  当寺の岩淵には、街道沿いに街並みらしいものがなく、旅行者が休憩する施設もありませんでした。そこで、幕府は慶長14年(1609)8月、伊奈 忠次(いな ただつぐ)に検地をさせ、宿駅と同様の街並みにするように命令しました。こうして岩淵村の街並みは次第に富士川に並行するように作られていきました。これが東海道「吉原宿(よしわらしゅく)」と「蒲原宿(かんばらしゅく)」の間に位置する「間宿 岩淵(あいのしゅく いわぶち)」の始まりです。・・・ 》
《 常盤弥兵衛(ときわやへえ)家は、慶長7年(1602)、対岸の川成島(かわなりじま)から岩淵村へ富士川の渡船役(とせんやく)が移った時、同じ渡船名主である齋藤 縫左衛門(さいとう ぬいざえもん)家、齋藤億右衛門(さいとう おくえもん)家とともに河東(かとう)(富士川東岸)から移住してきました。以来、常盤家は渡船名主を世襲で受け継ぐとともに、村方(むらかた)名主も年番で勤めてきました。あわせて、東海道・間宿(あいのしゅく)岩淵(いわぶち)の大名や公家などの身分の高い人が休憩をする「小休 本陣(こやすみ ほんじん)」として重要な役割も果たしてきました。小休本陣では、休憩を原則とし、宿泊することは幕府から禁止されており、別名「立場(たてば)本陣」ともいわれました。・・・ 》
と書かれています。
  「小休 本陣」とは、大名・公家など身分の高い人が休憩する場所で、宿泊はしない所という意味のようです。

  次回https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202109article_4.html は、小休本陣 常盤家住宅主屋 について述べます。

  (2019.9.30.)

☆ 小休本陣 常盤家主屋(静岡県富士市岩淵) 見学。
1.富士川サービスエリアから富士川橋まで。富士川と富士山。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202109article_2.html
2.富士川橋付近から小休本陣まで。「あいの宿」「小休(こやすみ)」とは。薬医門。門前から見える富士山は絶景。〔今回〕
3.座敷の前の土間、高くなった上段の間、上段の間から富士山が見える配置。槇の大木。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202109article_4.html
4.床柱と長押がぶつかる部分で長押を前に持ってくるか手前で止めるか。静岡県では長押を前まで持ってくる例。「浜松流」独善主義の会社。ダンピングとテレビ広告で売る静岡県・愛知県の営業 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202110article_1.html
5. 静岡県型神棚。本来の営業担当を退け関係ない「浜松流」に遠方まで契約に行かせて「静岡県型」神棚を福島県に押しつける一条工務店と営業本部長。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202110article_2.html


◎ 静岡県シリーズ
★ 駿河地域
☆ 登呂遺跡(静岡市駿河区登呂5丁目)
1.「日本平久能山」スマートI.C.から登呂遺跡へ。駿河と遠江は違う。静岡市に勝とうとする浜松市。京大・阪大の工学部を落ちて静岡大工学部に行った者で「誰がこんな所にいるもんか」と言って出て行く者の話をすると「こんな所とはなんだあ」と激怒する遠州人。片方で浜松は都会だと言い、他方で日本一のドイナカだとダブルスタンダードを主張する卑怯な「(株)一条工務店の遠州人」https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202107article_7.html
2.切妻屋根に似た竪穴式住居。高床式倉庫。棟持柱で支える祭殿。一体式屋根の竪穴住居と2つの部分に分かれた屋根の竪穴住居。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202108article_1.html
3. 登呂遺跡博物館。「エスキモーの家」か「弥生時代の人の竪穴住居」みたいな「浜松の家」の展示場に勤務した経験と傲慢な「遠州人」。認知度の低い時代に苦労して尽力した従業員を「すて石」にする「一族」の会社。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202108article_2.html

★ 遠江地域
☆ 加茂荘花鳥園・加茂邸(掛川市)
1.「森掛川」I.C.より加茂荘花鳥園。温室と鳥舎。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202006article_2.html
2.花菖蒲園と長屋門。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202006article_3.html
3.加茂家住宅(1) 正玄関、土間、大黒柱・梁、庭の池と亀島と花。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202006article_4.html 
4.加茂家住宅(2) 座敷、広縁・濡れ縁、廊下交差箇所の納まり、差鴨居。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202007article_1.html
5.加茂家住宅(3) 床の間 2か所。一般の柱と同材同寸法の床柱と長押の関係。床の手前の横の位置の付書院。きれいな襖絵。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202007article_2.html
6.加茂家住宅(4) 加茂家住宅の神棚は「竈の神さま」なのか。「浜松流神棚」を他地域に押しつける一条の営業 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202007article_3.html
7.加茂家住宅(5) 窓の格子。「理由のある」桟の作りと「理由のない」作り。味噌蔵・米蔵。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202007article_4.html 

☆ 大鐘家住宅と相良城跡(静岡県牧之原市〔旧 相良町〕)
(1)田沼意次の城下町相良の牧之原市片浜にある大鐘家住宅 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202009article_7.html
(2)井桁に組んだ梁・千木の載る長屋門・酔芙蓉。なぜ川勝平太は事故を起こした原子力発電を製造した会社の責任を問わずに、放射線量検査の方を拒否するのか https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202010article_1.html
(3)地形に合わせた建物の配置。「母屋」「上屋」と「庇」「下屋」。表側の庭と裏側の「小堀遠州庭園」https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202010article_2.html
(4)床の間と床脇。床柱と長押の位置関係。遠州流を他の地域の人に押しつける(株)一条工務店。会社のために協力する従業員を罠にかける(株)一条工務店 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202010article_3.html
(5)神棚の造りについて。その地域のやり方を無視する(株)一条工務店の営業。会社のルールを無視する営業本部長 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202010article_4.html
(6)土蔵・資料館。大鐘家の裏の丘からの眺望。相良城跡と田沼意次。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202010article_6.html 

☆ 中田島砂丘(浜松市南区)
1.浜松インターから中田島砂丘へ。遠州灘海浜公園の風車と凧と桜。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202106article_7.html
2.樹木の生えた丘と土の丘が2列にある。テトラポッドが沖に。労基法違反の会社・脱税経験の会社・安全対策不備の会社から浜松市は寄付金をもらっていいのか?https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202106article_8.html
3.2列の丘。土の丘から見た浜松駅付近。高層ビルをありがたがる精神面がイナカモン。一条浜松流営業のデタラメhttps://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202106article_9.html
4.海側の丘は砂丘でなく人工の「防潮堤」だった。従業員の賃金をへつったカネが「防潮堤」に化けた。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202107article_1.html
5.陸側の丘に生える松は黒松か赤松か。松丸太梁に使われる松は黒松ではなく赤松の方が良いのか。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202107article_2.html 
6.恥知らず「一条堤」碑。従業員の給料削ったカネを寄付する労基法違反の会社を称える浜松市と浜松商工会議所。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202107article_3.html
7.「防潮堤」は津波対策として河口付近には役に立たないのではないか。両隣の市にはむしろ津波の害を大きくすることはないか。CSG工法とは。自然に広まった名称が「通称」で誰かが決めたような名前は「通称」ではない。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202107article_4.html
8.もともと、地元向けで観光用でない中田島砂丘は観光資源としては要らないのではないか。「防潮堤」が海側と陸側に「砂丘」を分けたことの影響。砂丘は保護すべきものか撤去すべきものか。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202107article_5.html
9.建物はあっても閑散とした倉松町の(株)一条工務店跡? 木材は潮風にあたると傷むのか? 「遠州人だけ得することならどんなことでも『やらまいか』」という「やらまいか精神」による「防潮堤」https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202107article_6.html
[第809回](株)一条工務店は創業以来、TVコマーシャルをやってきた。「借入金0」の論拠を示せ。中田島砂丘がやせる対策は防潮堤でいいのか?~インターネット上の嘘もしくは誤解を指摘する。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202012article_5.html

☆ 中村家住宅(浜松市西区雄踏町宇布見 〔うぶみ〕)
1.浜松IC・浜松西ICから中村家住宅まで。長屋門。茅葺と瓦葺のミックスの屋根。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202104article_2.html
2.「和小屋組と扠首(さす)組が合わさった小屋組」、「浜松なのにイナカくさくない」。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202104article_3.html
3.「押板」・畳敷きの部屋の囲炉裏・女性的な造りの和室。茶室。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202104article_4.html
4.「鏡戸」「板戸」。内側の雨戸、縦桟の格子。「面取り」した柱とそうでない柱。噛み合わせを設けて継いだ木材。細くない「貫」。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202104article_5.html
5.胞衣塚・天神社跡地・茶室・屋敷神祠・井戸屋形、満開の桜。3月下旬、中村家住宅の桜。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202106article_7.html
6.中村家 北西の天神社。元 中村家の氏神だった天神社。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202104article_7.html

☆ 深奥山方広寺(浜松市北区引佐町奥山)と「信教の自由」を侵害する者
1. 八百長の通算契約棟数全国1位。遠州地方の営業の我田引水。 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201707article_1.html
2. 商品を大事に思う心。住宅営業にとっての知識。 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201707article_2.html
3. 払うべきカネを払わない者。掛川の人口は4万人ではない。 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201707article_3.html
4. 営業は自分で考えるもの+協力を求めてそれで契約になるのなら。 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201707article_4.html
5. うかつに「売れる人」と言うな。営業は大貧民ゲーム。 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201707article_5.html
6. 山門。 「もうかってる」会社が人をやめさせてよいのか。 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201707article_6.html
7. 弁天堂。 利益を生み出したのは労働。使用者に媚びる俗物寺。 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201707article_7.html
8. 椎河龍王。亀背橋。「信教の自由の侵害」を認識できないのは「病」 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201707article_8.html
9. 三重塔。 堂宇を増やすのが寺の発展なのか。 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201707article_9.html
10. 鐘楼、本堂。 裏口は嫌い。従業員の労働が化けた羅漢? https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201707article_10.html
11. 上天台舎利殿、観音堂。 「親に感謝」は「教育勅語」の思想。 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201707article_11.html
12. 開山堂、勅使門、半僧坊真殿。 本人が希望しないお守りは害がある。 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201707article_12.html
13. 七尊堂(富士浅間・春日・伊勢・稲荷・八幡・梅宮・北野)と稲荷社 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201707article_13.html
14. 不良ボーズによる宗教の強制は国民に信仰心を妨げる https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201707article_14.html 
15. (株)一条工務店の従業員の給料へつった金が、深奥山方広寺門前のじいさんとその孫の小遣いに化けた https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201707article_15.html
(番外)『ゴルゴ13』と考える「信教の自由」。「信教の自由」を侵害する深奥山方広寺は宗教失格。「信教の自由」を侵害する営業は三流の営業。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202001article_4.html
日本文化史 第2版 (岩波新書) - 家永 三郎
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カラー版 図説 建築の歴史: 西洋・日本・近代 - 西田 雅嗣, 矢ヶ崎 善太郎
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建築史 - 藤岡 通夫, 桐敷 真次郎, 平井 聖, 河東 義之, 渡辺 保忠, 齊藤 哲也
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