ロシア軍のウクライナ侵攻に際して建築屋的感想【1】ポーランド色が強いリヴィウ、カルパチア山脈よりハンガリー側に国境があるウクライナとハンガリーの国境。【2】ドイツ人建築家ブルーノ=タウトの生誕地のケーニヒスベルク(カリーニングラード)はロシア連邦領になっている。アール=ヌーボーの画家ミュシャはポーランド人で「スラブ人」の意識がある。

[第912回]
  コロナウイルス蔓延により、2011年3月の福島第一原発事故による放射能汚染の問題が世間の関心から薄らいてきてしまったかと思っていたら、ロシア軍によるウクライナ侵攻と、それに対して、NATO・EU による経済制裁に日本が同調したことから、ロシア連邦政府は日本を「非友好国」と指定することになり、「交戦国」ではなく「中立国」とはいえ、アメリカ合衆国やEU諸国でウクライナに武器を供与している国というのは、それは「中立国」なのか? ・・かなり疑問に思えるのだが、「交戦国」ではないから「中立国」というのは、警察さんは「ヤクザ」ではないから「カタギ」みたいに言うことがあるのだが、「ヤクザではない」人というのは誰もが「カタギ」なのか・・というと、「あんなカタギあるわけないだろうが」みたいな人が「カタギ」に分類されてしまうことになってしまうのだが、それと似ていて、「交戦国」ではない、ゆえに「中立国」だとすると、え?・・・てケースが出てくることになり、まあ、ウクライナに武器を援助している国というのは「交戦国」ではないとしても、「非友好国」と認定したい気持ちもわからんことはない。日本は防弾チョッキやヘルメットは供与しても「武器」は供与していないということだが、ロシア連邦政府からすると「非友好国」になるようだ。・・ということは、もしも、プーチンがヤケクソ起こしたとすると(?)もしくは「逆噴射」したとして、核兵器が飛んでいく先はどこか・・・というと、日本・・なんてこと、ないだろうな? ・・原爆が飛んで来たら・・なんてことを考えると、コロナウイルスなんて、どうってことない・・?

  それで、今回は、ウクライナとロシア軍によるウクライナ侵攻に関して、「建築屋的考察」をおこなう。

  ウクライナて、どんな所なのか、ウクライナ人とロシア人は違うのか? もっとわかりにくいのは「ウクライナ国籍の『ロシア語を話すウクライナ人』」というのは、国籍はウクライナであるとしても、民族の概念から考えてウクライナ人なのかロシア人なのか? よくわかっていない人が多いのではないかと思う。
  もうひとつ、ややこしいのは、ウクライナの大統領のゼレンスキーは「ユダヤ系」と言われるけれども、「ユダヤ人」という人たちは「日本人」とか「ベトナム人」「タイ人」とか「フランス人」「イタリア人」とはちょっと違って、昔、『聖書』に描かれているような時代においてユダヤ・パレスチナ地方に住んでいたユダヤ人の子孫という意味と、ユダヤ教徒という意味とがあり、ユダヤ教徒には『聖書』の時代にユダヤ・パレスチナ地方に住んでいたユダヤ人の子孫ではない「ユダヤ人」もいるという点だ。
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  ユダヤ人とスラブ人は、古くから密接な関係があった。とくに、8世紀初め、現在のウクライナ地方にあったハザール国がユダヤ教を受け入れてから東ヨーロッパにユダヤ教が広がる素地ができた。ハザール国はキエフ公国に滅ぼされるが、13世紀以後ポーランド王国はユダヤ人の移住に友好的で、経済活動の自由を保証した。はげしいユダヤ人迫害が行われている西ヨーロッパとは対照的であった。
 〔 学習資料「世界史」編集委員会 編『学習資料「世界史」』1976.4.1.第5版。(株)ほるぷ総連合 「第2部 民族のあゆみ ヨーロッパ・アメリカ(4)東ヨーロッパ」〕
  ユダヤ人とはなにか。『西洋史辞典』(創元社)の「ユダヤ人」の項には次のように書いてある。「前15世紀頃メソポタミア地方からパレスティナに移住したヘブライ人の一部族。旧約聖書のヤコブの第4子ユダにちなんでいわれる。広義にはヘブライ人の別名ともなっている。(以下略)」このユダヤ人がローマに征服されてから各地に散らばり、世界のユダヤ人になったとされている。
  この考えによれば、今日1千万を超える世界のユダヤ人には共通の血が流れ、先祖をたずねていくとかならずパレスティナに行きつく、ということになる。普通の日本人の「ユダヤ人」観はそうなっている。はたしてこれは正しいか。
《 このような見方にとって、実は具合が悪い材料がいろいろとある。その中でとくに興味深いのはハザル(カザル)の歴史である。ハザルの国は8~11世紀、南ロシアを支配したが、この国の王がユダヤ教に改宗し、これを国教としたため、南のビザンツ帝国やアッバース朝国家と対抗するユダヤ教国として知られたハザルの人びとはトルコ系とみられたことにより、ウィグル人ともいわれるが、こうしたユダヤ教徒とされ、まさにそのために、ヨーロッパの社会のつねとして、ユダヤ人とされていくのである。・・・・東欧に多数存在していたといわれる「セム語族」の一部分は、このようにしてつくりだされたのであった。
 (板垣雄三『アラブとイスラエル』東書高校通信世界史、No13) 》
 〔 学習資料「世界史」編集委員会 編『学習資料「世界史」』1976.4.1.第5版。(株)ほるぷ総連合 「第2部 民族のあゆみ アジア・アフリカ (2)ユダヤ史」〕
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  「前15世紀頃メソポタミア地方からパレスティナに移住したヘブライ人の一部族。旧約聖書のヤコブの第4子ユダにちなんでいわれる。広義にはヘブライ人の別名ともなっている。」という「ユダヤ人」ではない「ユダヤ人」が特にロシアからウクライナにかけては存在しており、イスラエルの「ユダヤ人」では2割が「『ロシア系』ユダヤ人」らしく、そういうこともあり、アラブ諸国の立場からすれば、先住民を追い出して、そこに住み着いたのが今のイスラエルだということになるようだ。

  旧ソビエト連邦には、アムール川とウスリー川の合流地点付近のハバロフスクの西のあたりにピロビジャンを州都とする「ユダヤ自治州」という自治州があった。今も「ひとまわり小さいソビエト連邦」のようなロシア連邦において「ユダヤ自治州」は存在している。これは、元々、その地域にロシア人以外の民族が住んでいた場所に自治州を設けたという自治州ではなく、ソビエト連邦各地に居住していたユダヤ人とユダヤ人以外を移住させて「ユダヤ自治州」なるものを作ったというものだ。《ウィキペディアーユダヤ自治州》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A6%E3%83%80%E3%83%A4%E8%87%AA%E6%B2%BB%E5%B7%9E によると、《 民族構成はロシア人、ウクライナ人が多く、ユダヤ人は全体の1%強に過ぎない。 》 《 1928年、ヨシフ・スターリンの社会主義民族政策により、アムール川沿岸の中ソ国境地帯にユダヤ民族区が設置され、西ウクライナから西ベラルーシにまたがるルテニアと呼ばれた地域(カルパティア・ルテニア(カルパト・ウクライナ)・ガリツィア(ガリツィア・ロドメリア王国)・モルダヴィア・ベッサラビアなどの各地域)にあったユダヤ人コミュニティ(シュテットル)から多数のユダヤ人が移住した。》というもので、「嫌(いや)でごわす(1858年)とムラビヨフ」と1858年にシベリア提督ムラビヨフが清朝と結んだアイグン(愛琿)条約により、清からロシアに割譲された土地に人工的に設けられた自治州だが、そこに住んでいる「ユダヤ人」の多くも「西ウクライナから西ベラルーシにまたがるルテニアと呼ばれた地域(カルパティア・ルテニア(カルパト・ウクライナ)・ガリツィア(ガリツィア・ロドメリア王国)・モルダヴィア・ベッサラビアなどの各地域)にあったユダヤ人コミュニティ(シュテットル)から多数のユダヤ人が移住した」という「ユダヤ人」であって、「前15世紀頃メソポタミア地方からパレスティナに移住したヘブライ人の一部族。旧約聖書のヤコブの第4子ユダにちなんでいわれる。広義にはヘブライ人の別名ともなっている。」という「ユダヤ人」ではない人が多いのではないか。
  「ユダヤ人」の国をアムール川の沃野に作るべきだということで「ユダヤ自治州」は設けられた・・・と、1980年代、モスクワ放送のアナウンサーが話していたのをラジオで聞いたことがあるのだが、「ユダヤ人」の国を設けるということならば、何故にアムール川沿いに設けないといけないのか? ウラル山脈よりもヨーロッパ側にいた「ユダヤ人」の国を設けるために、何故にアジアの東部に設けないといけないのか?・・結局、1858年の愛琿(アイグン)条約で奪った土地の中国との国境付近に既成事実を設定するために「ユダヤ人の国」として「ユダヤ自治州」を設けたということではないのか?  その際、「ユダヤ教徒」を意図的に「『聖書』の時代にユダヤ地域に住んでいたユダヤ人の子孫」と混同させた上で。

  ウクライナ東部のルガンスク州・ドネツク州からロシア軍によって「拉致された」のか「人道援助」されたのかで連れ去られた人たちが、なんと、サハリン(樺太)に連れていかれたという話が出ているのだが、サハリンというのは誰の領土なのか? もともと、ウラル山脈より西側の民族だったロシアの領土ではなかったはずなのだ。なぜ、ロシア軍はウクライナ東部の住人をサハリンに住まわせることが許されるのか?
  日本の地図を見ると、日本とロシア連邦との間には千島列島側にもサハリン(樺太)側にも国境線が2つずつ引かれている。日本政府の見解としては、
(1)歯舞諸島と色丹島は北海道の一部分であり、千島列島ではない。特に、歯舞諸島は現在では根室市に属している根室半島中部の歯舞村に属していた島で、かつての根室半島中部の歯舞村の一部分、現在の根室市の一部分である。
(2)サンフランシスコ講和条約で日本が「放棄」した千島列島とは北千島のことであって、南千島の国後島・択捉島は「日本固有の領土」であり、南千島は軍事行動によって他国から奪った領土ではなく、軍事行動によって奪った領土は放棄するというサンフランシスコ講和条約の趣旨からしてサンフランシスコ講和条約で放棄した千島列島とは北千島のことであって、南千島についてはソビエト連邦⇒ロシア連邦が「実効支配」をしていても、日本は南千島は放棄しておらず、そこは日本領である。
(3)北千島とサハリン(樺太)南部はサンフランシスコ講和条約によって「放棄」した地域ではあるが、日本が放棄してもソビエト連邦⇒ロシア連邦の領土になるべき道理の場所ではなく、(あくまで、その地域の元からの民族に対して放棄したのであって)「実効支配」している ソビエト連邦⇒ロシア連邦に対して「放棄」したわけではない。
というもので、それゆえに、日本の地図では日本とロシア連邦との間には国境線が千島列島側にもサハリン(樺太)側にも2本ずつ引かれているのだ。
  仮にこの基準を適用するのならば、サハリン南部は日本はサンフランシスコ講和条約で「放棄」したがソビエト連邦⇒ロシア連邦に対して「放棄」したわけではなく、ソビエト連邦⇒ロシア連邦のサハリン(樺太)における領土は北半分のみである、ということになるが、しかし、サハリン(樺太)の北半分にしても、元からロシア人が住んでいた地域ではないのであり、日本が「軍事活動によって奪った土地」は本来のその土地の居住者に返還するというのであれば、ロシア連邦もまた返還すべきであるということになる
  舟田次郎『千島問題を考える』(たいまつ新書)には、千島列島は誰のものか? サハリン(樺太)は誰のものか? という問いかけが書かれている。 千島列島は誰のものか? アイヌのものである。 サハリン(樺太)は誰のものか? アイヌとギリヤークとオロチ族のものである・・ということになるはずである。
※ ギリヤーク⇒《ウィキペディアーニヴフ》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%83%B4%E3%83%95
オロチ族⇒《ウィキペディアーオロチ族》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%AD%E3%83%81%E6%97%8F
オロチョン⇒《ウィキペディアーオロチョン》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%AD%E3%83%81%E3%83%A7%E3%83%B3%E6%97%8F
  ロシア連邦にウクライナ東部の住民をサハリン(樺太)に移住させるような権利はないはずなのだ。もとより、サハリン(樺太)の対岸の地域、スタノボイ山脈(外興安嶺)より南・アムール川・ウスリー川より北の地域は、「いやでごわす(1858)とムラビヨフ」と1858年の愛琿(アイグン)条約により、シベリア提督ムラビヨフが清朝から強奪した地域であり、ウスリー川より南の沿海州は1858年の愛琿(アイグン)条約で「ロシアと清の両国民雑居後」とされた後、2年後の1860年の北京条約でロシア領にされた地域であり、1858年の時点ではサハリン(樺太)の対岸は清の領土であってロシア領ではなかったのだ。1858年まではサハリン(樺太)の対岸はロシア領ではなく、ましてやサハリン(樺太)はロシア領ではなかったわけであり、そういう場所に、何故にウクライナ東部のルガンスク州・ドネツク州の住民を移住させるなどということが許されるのか? どさくさに紛れて、サハリン(樺太)はロシア領だという既成事実を積み重ねようとしているのではないのか。ウクライナの東部のロシアとの国境線は第一次世界大戦中にウクライナに有利なように設定されたものだという点にロシア連邦としては不満があるような話があるが、ウクライナとの国境線については軍隊を派遣して攻めていくが、サハリンやその対岸については譲歩しないというのは、なんだか「人のものは自分のもの、自分のものは自分のもの」と主張しているようなものだ。
千島問題を考える (1979年) (たいまつ新書) - 舟田 次郎
千島問題を考える (1979年) (たいまつ新書) - 舟田 次郎 

  ヨーロッパの民族はゲルマン・ラテン・スラブに分かれるとされ、スラブは西スラブ・南スラブ・東スラブに分かれるとされる。
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  今日では(『学習資料「世界史」』初版発行の1974年4月、第5版発行の1978年4月。)すべて社会主義国にぞくしている東ヨーロッパは、歴史をさかのぼると、民族的にも宗教的にもかなり複雑である。しかし民族の主体はスラブ人であるといってよい。スラブ人は紀元前後、カルパチア山脈の北方を原住地とし、イラン系遊牧民のスキタイやサルマト、ゲルマンのゴート族の文化的影響をうけた。4世紀以後、周囲に広がり、東スラブ、西スラブ、南スラブに分かれだし、東スラブはやがてロシア人となる。 西スラブポーランド人、チェコ人、スロワク人となり、ドイツ人とふかいかかわりをもつ。 南スラブは、北方ユーラシアの騎馬民族の攻撃を波状的に受けた。フン、マジャール、ベネチェネグなどがそれで、ブルガール人は南スラブと混血し、今日のブルガリアの祖先となる。マジャール人はスラブ人に吸収されず、ハンガリーをつくる。南スラブのセルビア人は12世紀ごろバルカンで国をつくった。
  ふつう東ヨーロッパというときは、東・西・南スラブのうち、西スラブ、南スラブの地域をいう。この地域は、ギリシア文化圏、ドナウ文化圏、ポーランド文化圏の三つに分かれる。ドナウ川が、バルカン半島のギリシア文化圏とハンガリー盆地、ワラキア平野のドナウ文化圏を分けているポーランド文化圏はドイツに開かれており、西ヨーロッパ文化とかかわりをもちつつ発展した。ローマ・カトリックがポーランドには定着した。
  ギリシア・ドナウ文化圏は、ビザンツ帝国の政治支配下に入ったこともあり、ビザンツ文化の影響をうけ、ギリシア正教が支配的となった。ギリシアには、6世紀末からスラブ人が移住し、スラブ化されていった。
 〔 学習資料「世界史」編集委員会 編『学習資料「世界史」』1976.4.1.第5版。(株)ほるぷ総連合 「第2部 民族のあゆみ ヨーロッパ・アメリカ(4)東ヨーロッパ」〕
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  ソビエト社会主義共和国連邦の面積は、2,240万平方キロで、世界陸地のやく6分の1をしめ、世界第1、そこには、15の民族共和国、20の自治共和国、8の自治州、10の民族管区がふくまれる。(1978年4月現在)
  人口は約2億4500万人で世界第3、民族は主要なものだけで50余、少数のものもかぞえると200をこえる。全人口のうち、スラブ族が60%近くをしめる。 全人口のうち、スラブ族がやく75%、大ロシア人が60%近くをしめる。多数の民族の歴史は多様、複雑だが、ここでは大ロシア人の歴史を中心にのべる。
  ロシアという名は、口述のキエフ公国の地域についていわれた「ルス」に起源がある

  ソ連領内にはふるくから強大な国家があった。前15~8世紀のカフカース地方のウラルトゥ、前6世紀からの中央アジアのホラズムなど。
  前8~前3世紀にはスキタイ人が黒海北岸で、ギリシアが黒海とカフカーズの沿岸で活躍した。スキタイ人というのは、いろんな種族の総称だが、ロシア人の祖先である東スラブ人はその一部であったらしい
  3~7世紀ごろ、東スラブ人はゴート族、フン族などに順次支配された。彼らはロシア平原の西部で、主に農業を営みしだいに小国家である公国をつくりあげていった。水路による通商で、ノルマン人とは関係が深かった。

  9世紀になると、東スラブ人のあいだで統一国家の機運が熟した。伝説によると、9世紀後半、ノルマン人出身のノブゴロド公が東スラブの諸公を服従させて、ロシア最初の統一国家キエフ=ルシをつくったという。そのころボルガ上流から黒海・カスピ海にかけて、ボルガール、ペネチク、ハザールのアジア系国家が優勢であった。
  キエフ国は10~11世紀に、カスピ海沿岸やビザンツ帝国へ遠征した。また、王女をフランス王・ノルウェー王・ハンガリ王に嫁がせてその地方と定期の通商関係をもっていた。
  ビザンツ文化を吸収し10世紀末にはギリシア語の文字をつくり、ギリシア正教を国教とした。・・・

  キエフ国家は11~12世紀に諸侯が独立化して分裂した。貿易も地中海貿易の発展のため衰えた。
  北のノブゴロドは12世紀にキエフから分離し、15世紀まで、西ヨーロッパとの貿易などで繁栄した。白樺の表紙に書いた文書によって、庶民、女・子どもまでが文をかいている。1242年には「氷上の戦い」で、侵入したドイツの騎士団を破った。
  13世紀、バツを長とするモンゴル人によって、ロシアの大部を占領された。一部では頑強な抵抗もあったが、封建諸侯の対立と不統一のため、強力なモンゴル人に抗しえなかった。ロシア人は200年以上にわたり、「タタールのくびき」のもとに苦しみ、文科も不振であった。
  14世紀になると、貿易と軍事の要地をしめたモスクワ公国が台頭した。1380年にドン河畔のクリコヴォでモンゴル軍をうち破った。イワン3世(在位1462~1505)はモンゴル軍への貢納をやめて独立し、領土もひろめて、中央集権化につとめた。
  イワン3世はビザンツ最後の皇帝の姪と結婚し、ギリシア正教の擁護者をもって任じた。外交文書ではときにツァーリ(皇帝)と称し、また好んで「全ロシアの君主」といった。
  イワン4世(雷帝)(在位1533~84)(は)正式にツァーリの称号をもちい、貴族を弾圧して、さらに中央集権をすすめた。また、ボルガ中・下流域をあわせ、バルト海進出をめざして、スウェーデン・リトワニアとリボニア戦争を行った。エルマクを長とするカザーク(コサック)が、シベリア制服をはじめたのも、その治世の晩年である。
 〔 学習資料「世界史」編集委員会 編『学習資料「世界史」』1976.4.1.第5版。(株)ほるぷ総連合 「第2部 民族のあゆみ ヨーロッパ・アメリカ(4)東ヨーロッパ」〕
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  ここで、「大ロシア人」という言葉が出てくる。「大ロシア人」とはどういうものか。「ロシア人」と「大ロシア人」は違うのか? 《 ロシアという名は、口述のキエフ公国の地域についていわれた「ルス」に起源がある》ということは、ウクライナの首都のキエフ(キーウ)のあたりこそが東スラブ人の国だったキエフ公国の中心地だったということか。
  かつて、ソビエト連邦が存在した時代において、国連の加盟国として、ソビエト連邦とウクライナ社会主義共和国と白ロシア社会主義共和国が加盟していた。中華人民共和国が国連に加盟する際、アルバニア案といって中華人民共和国とつながりが深かったアルバニアが出した案にのっとり、中華人民共和国の招聘と国民政府(台湾)の追放とが1971年に議決されたのだが、その時に賛成の投票した国にソビエト連邦と別にウクライナ社会主義共和国と白ロシア社会主義共和国があった。 ソビエト連邦に属しているウクライナ社会主義共和国と白ロシア社会主義共和国が国連に加盟していて投票権を持っているというのは、なぜなのだろうか? ソビエト連邦を構成する15の連邦共和国のうちのウクライナ社会主義共和国と白ロシア社会主義共和国が国連に加盟して投票権を持っているのならば、ロシア社会主義共和国が加盟して議決権を持ってもいいとしてソビエト連邦が持つべきではなく、ソビエト連邦が国連に加盟して投票権を持つか、ロシア社会主義共和国・ウクライナ社会主義共和国・白ロシア社会主義共和国が加盟して投票権を持つかわりにソビエト連邦は加盟せずに投票権も持たないかどちらかではないのか?・・と思ったのだが、なぜか、ソビエト連邦とウクライナ社会主義共和国・白ロシア社会主義共和国とが加盟していて投票権を行使していた。当時、小学校の高学年だった私は「なんか、変なの・・」と思ったものだった。
  「白ロシア」という名称も変な名称だな・・と思った。1991年にソビエト連邦が崩壊して「15の連邦共和国」が独立・分離したのだが、その後は「ベラルーシ」という言い方の方が一般的になり、「白ロシア」という言い方はあまりされなくなった。「白ロシア」という言い方だと、「ひと、悔いなし(1971)、ロシア革命」、1971年のロシア革命の際に、革命に賛成したロシア人を「赤いロシア人」と言い、革命に反対して国外に逃亡した、もしくは追放されたロシア人を「白いロシア人」と言ったものと混同されるおそれがあることから、「白ロシア」「白ロシア人」という言い方はあまりされなくなったという。しかし、「ロシア革命に反対して国外逃亡した、もしくは追放されたロシア人」という意味の「白いロシア人」ではなく、ベラルーシ人という意味での「白ロシア人」という言葉、「白ロシア」というのは、どういう理由で「白ロシア」と言うのだろう・・と長く思ってきた。
  《ウィキペディアーベラルーシ》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%A9%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%82%B7 によると、
《 日本語の表記は、ベラルーシ共和国。通称、ベラルーシ。漢字表記は白露西亜。略称は白露もしくは白。なおベラルーシ政府は後述する理由でBelarusを音写した白羅斯 表記を主張し在中ベラルーシ大使館でもその表記が使用されているが一般的になっていない。
17世紀にロシア帝国の支配下に入るとベロルシア(ロシア語:Белоруссия ビラルースィヤ)と名付けられ、日本語でもこれを訳した白ロシアの名で長らく定着していた(この場合の「ロシア」は「ロシア」のことではなく「ルーシ」の意味)。ソ連崩壊直後の1991年9月15日に正式な国号をベラルーシ語を尊重した「ベラルーシ」に定め、各言語でもこの語を用いるように要請している。ロシア語でもБеларусь(ビラルースィ)の名称が使用されるようになっている。》
《 「ベラルーシ」の国名の由来は明らかではないが、ルーシの人々は13世紀から16世紀にかけてモンゴルの支配を受け(「モンゴルのルーシ侵攻」「タタールのくびき」参照)、ベラルーシの国名の由来である白ルーシ(英語版)の名前の由来をモンゴルに関連付ける説がいくつか挙げられている。その際、モンゴル人が中国から学んだ文化である「方角を色で呼ぶ方法(五行思想)」をルーシに持ち込んだため、「赤ルーシ」(南部ルーシすなわち現在のウクライナ西部)、「白ルーシ」(西部ルーシすなわち現在のベラルーシ)、「黒ルーシ」(北部ルーシすなわち現在のモスクワ周辺)という名称が生まれ、そのうちの白ルーシ(ベラルーシ)が国名として残ったと言われている。モンゴル系の国家で用いられたテュルク系の言語の影響を受けて生まれた、「自由な、支配から解放された」白ルーシと「隷属した」黒ルーシの呼称を起源とする説も存在する。》
ということらしく、東スラブ人の中でもとりわけ色が白い人たちとかいう意味ではないらしく、「白ロシア」の「ロシア」はロシア人という意味ではなく「ルーシ」に由来するらしい。「方角を色で呼ぶ方法」によるならば、ベラルーシが「白ルーシ」で、ロシアは「黒ルーシ」になるらしい。

  ウクライナ人を「小ロシア人」と呼ぶ言い方もあるようだが、なぜ、ウクライナ人が「小ロシア人」なのだろうか、ウクライナ人が「小ロシア人」ならば、「大ロシア人」も存在するのか? ロシア人が「大ロシア人」なのか? それなら、なにゆえに「小」、なにゆえに「大」なのか? ・・これも長く疑問に思ってきた。《ウィキペディアー小ロシア》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E3%83%AD%E3%82%B7%E3%82%A2 によると、
  《 小ロシア(しょうロシア)あるいは小ルーシ(しょうルーシ、ギリシャ語: Μικρά Ρωσία)は、東欧の地名で、ルーシ人の本土を指す用語で、ウクライナの旧称の一つである。14世紀にギリシャ正教会の行政概念として登場したものの、17世紀以降にロシア帝国の政治概念に変貌していった。20世紀初頭よりウクライナの蔑称として用いられる。・・・
・・
  「小ロシア」(小ルーシ)の用語は、14世紀のギリシャの聖職者によって作り出されたとされる。13世紀半ばにキエフ大公国(ルーシ)がモンゴル帝国に滅ぼされ、その大公国の後継者としてハールィチ・ヴォルィーニ大公国(南西ルーシ)とウラジーミル・スーズダリ大公国(北東ルーシ)が誕生すると、コンスタンディヌーポリ総主教庁に属した従来のキエフ府主教区を分割するための前提が成立した。ギリシャの聖職者は、2つの大公国を区分する必要性があったため、古代ギリシャの「小ヘラス」と「大ヘラス」の地域的区分を応用し、南西ルーシを「小ロシア」、北東ルーシを「大ロシア」と呼んだ。》
というのが、「小ロシア」という言葉の発祥らしく、「小ロシア」と言われる地域というのは、キエフからモスクワにかけての地域、現在のウクライナ西部からロシア連邦のモスクワ付近までを言った時代と、その後、現在のウクライナの中部を言った時代、現在のウクライナの西部を呼んだ時代があるらしい。
 《 本来の「小ロシア」は「ルーシの本土」を意味していたが、18世紀末以降ロシア帝国の辺境地としてウクライナの地方性を強調する「小さなロシア」という意味に変わった。20世紀初頭に「小ロシア」はウクライナの知識人によって蔑称として認識されるようになり、マスコミ・文学・学問・政治などにおいて「ウクライナ」に改変された。 》
 《 「小ロシア」の地名に由来し、ウクライナ人の間に見られるロシアに対する劣等感、「小ロシア主義」(ウクライナ語: Малоросійство)という社会的・心理的現象が存在する。その現象の原因は、ウクライナが長い間にロシアに支配されて、政治・社会・学問・文化などの多面において抑圧されてきたことにあると考えられる。小ロシア主義の信奉者は、ウクライナ人でありながら、ウクライナの政治・社会・文化・伝統に対し偏見あるいは敵意を抱いて発展の必要性を否定しており、ロシアの社会を崇めてロシアの文化を優先し、ウクライナをロシアの政治文化圏の不可欠な国あるいは地方として位置づけている人である。19世紀のウクライナ知識人ムィハーイロ・ドラホマーノウは、小ロシア主義者はロシアの文化的影響によってウクライナの国民性が屈折されてロシア化したウクライナ人であると定義している。また、20世紀前半のウクライナ政治論者ヴヤチェスラーウ・ルィプィーンシクィイは、小ロシア主義が「無国の民の病」・「奴隷の心理」であると述べている。》ということで、現在のウクライナでは「小ロシア」「小ロシア人」という言い方はしないらしい。
  「大ロシア」「大ロシア人」という言葉はというと、《 1648年にポーランド・リトアニア共和国におけるフメリニツキーの乱が勃発し、事実上でウクライナ・コサックのヘーチマン国家が誕生すると、その国家の外交に携わったルーシ系聖職者はヘーチマン国家を「小ロシア」と呼び、「小ロシア」を国号の同義語としてモスクワ大公国との外交文書で使用した。聖職者が「小ロシア」を流行らせた結果、1654年にペレヤスラウ条約によりヘーチマン国家がモスクワ大公国の保護国になった後、モスクワのツァーリは自らの称号を「ツァーリならびに大公、全大・小・白ロシアの主」と改め、ヘーチマン国家との外交関係を司る小ロシア省が設置された。》というあたりから、現在、言うところの「ロシア人」のことを、モスクワ大公国のツァーリが「ベラルーシ」(「白ルーシ」)・ウクライナ(「小ロシア」)と区別して「大ロシア」と呼んだことに由来しているということか。

  かつて、国連にはソビエト連邦と別に「白ロシア」(ベラルーシ)とウクライナが加盟していたというのは、ロシア社会主義共和国が主たる力を持っていたソビエト連邦において、ロシア人と近い関係にあったベラルーシ(白ロシア)とウクライナは国連に加盟して議決権を持つようにしていた、ソビエト連邦の意思に反した態度を取ることはまずないと思われていたロシア人に近い民族の国2つが国連に加盟していた・・ということ・・かな。
  ところが、ソビエト連邦崩壊の後、ウクライナはベラルーシとは違ってロシア連邦から距離を置き、西スラブの国のチェコやポーランドと同様にEUやNATOに近づきだした・・ということか。

  それで・・・だ。普通に考えて、ロシアとウクライナならば、ロシアとチェチェンほどの差はないとしても、ロシアの方が大国で軍事大国であり、戦争始めたらロシアの方が優位のように思えて、実際には侵略者であるロシア軍は苦戦しているらしい。
  まず、ロシアとウクライナが戦争しているといっても、かつて、ソビエト連邦と中華人民共和国がアムール川とウスリー川の合流地点付近の川の中の島の領有権を争っていた時などのように、国境付近で戦っているのではなく、ロシア軍がウクライナの領土内に侵入しているのであり、侵略者と防衛しようとしているウクライナ国民との戦い・・・となると、相手国民全体を敵にまわしての戦いとなると、いかに戦力が勝っていても、相手国民全員を死滅させるつもりなのか? ・・という話になってくる。 かつて、日中戦争の時、日本軍は、西半分はモンゴル人が多く、東半分は「マンジュ」と言われた民族が多く住んでいた地域に満州国を作り、西半分にはモンゴル人の自治権を認めたというあたりはまだわかるとしても、いい悪いとは別の問題として、中国全土へ攻撃して、いったい、どこで妥協するつもりだったのか? 中国みたいな面積も広くて人口も多い国に攻めていって、軍隊相手になら勝てても、その国の住民全体を敵にしてどうするのか・・・というのと、ロシアのウクライナ侵攻は似ているのではないか。 
  不思議なのは、ロシア軍がウクライナに侵攻するよりも前においては、ウクライナの西部はヨーロッパに近づこうとしている人が多いが、《ルガンスク・ドネツクの「親ロ派」が支配する地域》以外でも東部はロシアとの関係を維持しようとしている人が多い・・と新聞などにも書かれていたのだが、ところが、ロシア軍によるウクライナ侵攻が始まると、東部も西部も関係なく反ロシアになっているようで、「東部の親ロシアの人たち」というのは、いったいどこに行ったんだ? ・・・という感じである。


  それで、
ロシア軍のウクライナ侵攻に際しての「建築屋的感想」の【1】ポーランド色が強く存在するリヴィウ(リヴォフ)とカルパチア山脈(カルパート山脈)よりもハンガリー側に国境があるウクライナとハンガリーの国境について。
  今では、ウクライナはポーランドやチェコと同じスラブ民族の国で、いつ、戦車で攻め込んでくるかわからん、危なっかしいロシアという国に脅かされている国・民族・・・という立場になっているが〔「日本の場合は、千島や歯舞諸島・色丹島を返してくれと言う立場であって、奪われる所はないから」とかテレビで言っている人がいたが、戦後、ソ連は、たしか、留萌と釧路を結ぶ線から北東側はソ連に統治させるようにGHQに要求したことがあり、GHQはそれを拒否したことから、現在のような状況になっているが、駐日「ジョージア」大使がテレビで話していたが「ロシアとの国境線」というのは「はう国境線」と言って、赤ん坊が「はう」ようにこちらにむかってはってくる国境線であり、常に安心できない・・と言い、「ロシア拡張主義」に対しては日本も他人事ではないものだろう〕、かつて、ソビエト連邦が存在していた時代においては、ソビエト連邦(ウクライナを含む)と東ヨーロッパのコメコン・ワルシャワ条約機構加盟国との関係においては、「ソビエト連邦」の方が立場は強かったわけだ。その時点においては「ソビエト連邦の一部分のウクライナ」とその西側の社会主義国とでは「ソビエト連邦の一部分のウクライナ」の方が立場は強かったのだ。
  この点について、太田邦夫『建築巡礼(1) ヨーロッパの民家』(1988.5.30.丸善 )の「ポーランドの国境」に記述がある。
《 1977年4月25日、私はウクライナ共和国の西端、リヴォフにいた。・・・》と、この文章は始まるのだが、「リヴォフ」とは、最近のニュースでは「リヴィウ」と発音・表記されているウクライナ西端の年のことである。太田邦夫『建築巡礼(1) ヨーロッパの民家』(1988.5.30.丸善 )では「リヴォフ」と表記され、『帝国書院 最新基本地図ー世界・日本ー 20訂版 ’96』(1995.12.25.帝国書院)には「リボフ」と表記されている。 《ウィキペディアーリヴィウ》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%82%A6 によると《リヴィウ(ウクライナ語: Львів [lʲʋʲiu̯] ( 音声ファイル))は、ウクライナ西部の都市である。リヴィウ州の州庁所在地。》で、《 現在の公用語であるウクライナ語に準ずる表記としてはリヴィウ、リヴィヴもしくは新聞等でリビウと書かれる。そのほか、歴史的経緯からドイツ語からのレンベルク(Lemberg)、ポーランド語からのルヴフ(Lwów [lvuf] ( 音声ファイル))、ロシア語からのリボフ、リヴォフ(Львов)などの表記も一定の知名度がある。英語表記はLviv([ləˈviːv])。 文献上で圧倒的に多いのはロシア語風表記で、そのほかポーランド関係の書籍ではポーランド語風表記も多用されたが、近年はウクライナ語名で書かれることが増えている。》とあり、
リヴィウ・リヴィヴ・リビウ・・・ウクライナ語表記、
レンベルク・・・ドイツ語から
ルヴィフ・・・ポーランド語から
リヴォフ・リボフ・・・ロシア語から
というもので、太田邦夫『建築巡礼(1) ヨーロッパの民家』(1988.5.30.丸善 )はソビエト連邦が存在した時代、「ロシア語がソビエト連邦における共通言語」とモスクワ放送で言っていた時代に発行されたものであることからか、ロシア語表記の「リヴィウ」になっているのだろうか。 『帝国書院 最新基本地図ー世界・日本ー 20訂版 ’96』(1995.12.25.帝国書院)の「リボフ」という表記もロシア語からのものらしい。太田邦夫『建築巡礼(1) ヨーロッパの民家』(1988.5.30.丸善 )には《 このリヴォフという町の名はポーランド語でルヴフ、ドイツ語でレンヴルク、みな獅子という意味である。》と書かれている。
  《 13世紀以降、ほんのわずかハンガリーやオーストリアに属したことはあっても、長い間このリヴォフ地方はポーランドの領地であった。1939年にソ連領に編入されてウクライナ共和国の一部となったが、民族的なつながりから言えば、ポーランド色が強く残る地方である。》
とある。
  ルーマニアの西部にV字型に山脈が伸びており、そのV字の南側がトランシルバニア山脈、北側がカルパート(カルパチア)山脈で、地図を見ると、そのカルパート山脈(カルパチア山脈)はウクライナの南西部とハンガリー・スロバキアとの国境付近を通りポーランドとスロバキアとの国境付近まで延びている。
《 昨日のカルパチア山地は雨模様。しかし、所々並木のある一本道をリヴォフから西南に走ると、低い山並が雨雲の下に横一線に見えてくる。きっと峠の向こうのハンガリー側は少しは天気がいいのだろう。・・・・
  約1時間半の高速ドライヴでヴェレッキー峠着。ここはドニエストル川とチサ川との分水嶺。チサ川はハンガリーの大平原を経てドナウ川に合流し、黒海へと注ぐ。ドニエストル川も東へ迂回して黒海へ流れる。この二つに挟まれたカルパチアは、スラヴの世界を東西に分断する山脈だった。それに加えてこの峠の西数キロの谷からの水は、今度は北へ流れてビスワ川となり、バルト海に注ぐ。いうなれば、ここは東ヨーロッパの地勢を三分する地点なのである。この辺の古い木造建築が多彩でおもしろいのは言うまでもない。日本を発つ前にいろいろ下調べしたし、新しい出会いを期待してのとっておきのエクスカーションであった。
  しかし、外国人はこの峠から先に進めない。レオが身振りでここから引き返すという。・・・あれが〈カルパチアのむこう〉、ザ・カルパチアなのだ。ソ連領なのに何故行けないのだろう。ここでも峠の上に戦勝記念碑が立っていた。これを見にわざわざ出かけて来たのではない証にと、腹立ちまぎれにその上に上がり、望遠レンズで峠の向こうを撮る。・・・
  (ヴェレッキー)峠の手前のクリメッツという寒村では、まだ住まいはウクライナ風である。だがザ・カルパチアにはポーランド系のレムク人やボイク人の建築の伝統が色濃く残っているという。なだらかといっても、山脈がこのように厳然と人びとの風習や言語を分けているというのに、ハンガリー側ではチサ川の上流だけがソ連に含まれているというこの不自然さ。これがポーランドの分割を始めさまざまな政治的な取引きの結果であることは世界史の地図帳でうっすらとわかっていたが、今となっては国境の複雑な過去を知られたくないソ連側の事情で、この峠の上には線には描けない赤い国境があったのである。・・》
  地図で見ると、ドニエストル川はウクライナ南西部を西から東に流れ、そして、ウクライナとモルドバとの国境を南下して黒海に注いでいる。モルドバのドニエストル川沿いに「沿ドニエストル共和国」が存在している・・という話は『ゴルゴ13』にも登場している。
※ 《ウィキペディアー沿ドニエストル共和国》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%BF%E3%83%89%E3%83%8B%E3%82%A8%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%AB%E5%85%B1%E5%92%8C%E5%9B%BD
  ビスワ川は、《ウィキペディアーヴィスワ川》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%82%B9%E3%83%AF%E5%B7%9D を見ると、カルパート(カルパチア)山脈の北側から流れ出すヴィスワ川とサン川とが合流してヴィスワ川となって北に流れてバルト海に注いでいる。 《ウィキペディアーティサ川》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%B5%E5%B7%9D https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%B5%E5%B7%9D#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Thiz_river.jpg を見ると、チサ川はハンガリー東部を南下してベオグラードの手前でドナウ川に合流し、ドナウ川はモルドバ・ウクライナ・ルーマニアの国境付近からルーマニアとウクライナの国境を流れて黒海に注いでいる。
  たしかに、国境は山脈や川が境目になることが多いのだが、カルパチア(カルパート)山脈のウクライナ共和国とハンガリーとの国境は、地図で確認して見ても、カルパチア(カルパート)山脈よりもハンガリー側にあるようだ。
  ウクライナは西部はウクライナ語を話す人が多く、東部はロシア語を話す人が多く、又、正教の信者が多いが、最西部のリヴィウ付近はカトリックの信者が多いとも言われるらしい。 リヴィウ(リヴォフ)は《13世紀以降、ほんのわずかハンガリーやオーストリアに属したことはあっても、長い間このリヴォフ地方はポーランドの領地であった。1939年にソ連領に編入されてウクライナ共和国の一部となったが、民族的なつながりから言えば、ポーランド色が強く残る地方である。》とともに、ハンガリーとの国境はカルパチア山脈(カルパート山脈)ではなくカルパチア山脈(カルパート山脈)よりもハンガリー側に寄った場所に国境が設定されているようである。「ソビエト連邦の一部分だったウクライナ」とポーランドやハンガリーとでは「ソビエト連邦」の方が立場が強かった、現在のウクライナとロシア連邦ではロシア連邦の方が軍事的に脅威であるのと似てソビエト連邦の方が強い立場であって、「ソビエト連邦の一部としてのウクライナ」に有利な位置に国境線が決められていた・・ということか
  《 こうして昨日のことを思い出しながら、レオの隣に座ってリヴォフ駅まで行く。うしろの座席にカナダ人夫妻が乗った。男の方は相当老けている。あとでわかったことだがもう81歳で、1928年までここポーランドに住んでいたという。いうなれば、50年振りの里帰りである。・・・
  ポーランドとの国境は無気味で人影が全くない。幾重にも張りめぐらされた鉄条網が、起伏のなだらかな、まだ緑も出ぬ草原を縫うように、南から北へ延々と続いている。・・・徐行する車中の人は、みな黙々と窓の外を眺めている。それも申し合わせたように、北側の情景だけを目で追っている。昔を想うためには、逆光の景色がふさわしくないのだろうか。カナダ人が鉄条網を指して言った。「昔はこの左も右もすべてポーランドでした」。・・・ 》
ヨーロッパの民家 (建築巡礼) - 太田 邦夫
ヨーロッパの民家 (建築巡礼) - 太田 邦夫
  ウクライナが「ソビエト連邦」だった時代においては、隣国に対して「ソ連社会帝国主義」にしてやられる側ではなく、「ソ連社会帝国主義」の側だったわけで、ベラルーシの大統領がベラルーシがロシア連邦へ所属することを主張しているというのも、「ソビエト連邦の一部」であった時にソビエト連邦でない国に対して有利な立場であった時と同様に「ロシア連邦の一部」になった方が有利であろうという見方があるのか。
DSC00627.JPG
( 『帝国書院 最新基本地図ー世界・日本ー 20訂版 ’96』1995.帝国書院 )

  かつてのルーマニア付近の地図を見ると、ルーマニアの領土はカルパチア山脈(カルパート山脈)とトランシルバニア山脈がほぼ国境になっていて、Y字型をしており、カルパチア山脈(カルパート山脈)とトランシルバニア山脈にはさまれたY字というのかV字というのかの間の部分はルーマニア領ではない扱いになっていた。 『学習資料 世界史』には、
ー・ー・ー・ー・ー・ー
 1919年1月からパリ講和会議は、結局、米英仏の3巨頭会談によって重要問題が決められていった。「虎」というあだ名を持つフランス首相クレマンソーは、ドイツ人に「何もかも払わせて見せる」と国民に約束していた。イギリス首相ロイド・ジョージは、「カイゼルを絞首刑にせよ」「レモンの種子が泣くまで(ドイツを)しぼれ」の標語を出していた。「14か条」の平和原則をかかげ、国際連盟の設立に意気ごんでいたアメリカ大統領ウィルソンは、英仏の攻撃にあい、国内ではかれの属する民主党が下院選挙に敗れて支持力は弱まっていた。会議は、帝国主義列強の取引きの場で、小国にたいする大国の横柄ぶりが目立った。
《 ルーマニアの名家という・・・人がたって、非常に悲壮な態度で、はじめてこの国境の取りきめを見た、容易ならん吾々にとっての問題であり・・・・考慮の余地を与えるため、ぜひ決定を少し延期してもらいたい、との意味のことを述べた。
  クレマンソー議長は・・・・ただちに起立して、非常な剣幕で、いったいこんどの戦争は誰が勝ったのか、すなわち連合国のおかげで勝ったのである。吾々は決定権があるというような、当るべからざる勢いで一喝してしまった。・・・・とうとう泣き寝入りになって・・・・原案は一字の修正もみずに成立した。》
  (牧野伸顕『松濤閑談』より)
 〔 学習資料「世界史」編集委員会 編『学習資料「世界史」』1976.4.1.第5版。(株)ほるぷ総連合。 「第4章 ロシア革命と民族解放運動 (54)ベルサイユ・ワシントン体制」より〕
と出ている。 第1次世界大戦の後のパリ講和会議で決められたルーマニアの国境線というのは、カルパチア山脈(カルパート山脈)とトランシルバニア山脈より海側(黒海の側)であって、現在のルーマニアの領土のうち、カルパチア山脈(カルパート山脈)とトランシルバニア山脈にはさまれた地域はルーマニア領と認められなかった、ということのようだ。 それが第二次世界大戦後において、カルパチア山脈(カルパート山脈)とトランシルバニア山脈ではさまれた地域もルーマニア領になった、ということのようだ。
《ウィキペディアールーマニア》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%8B%E3%82%A2 によると、《 国土の中央をほぼ逆L字のようにカルパティア山脈が通り、山脈に囲まれた北西部の平原のトランシルヴァニア、ブルガリアに接するワラキア、モルドバに接するモルダヴィア、黒海に面するドブロジャの4つの地方に分かれている。》とあり、2つの山脈に囲まれたトランシルヴァニア地方がルーマニアに属していなかったようだ。《ウィキペディアートランシルバニア》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%83%AB%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%8B%E3%82%A2 には《(トランシルバニアの人口は)ルーマニア人8割、ハンガリー人2割。第一次世界大戦前はルーマニア人が6割程度。ドイツ人が1割ほど居住していたが、第二次世界大戦後に追放された(ドイツ人追放)。》と出ている。 どちらの主張がもっともなものか日本の人間にはわかりにくいが、それぞれの時期において有力だった国とそうでない国との力関係というものが影響していることは考えられるであろう。 

  元外務省の佐藤優 氏が、《YouTube-<プーチン大統領の思考分析:ウクライナ戦争>2022年02月25日東京・永田町、東京大地塾》https://www.youtube.com/watch?v=mwbtsTOHa0M で、なかなか有益な話をしている。
  北方領土の経済活動を共同でやりましょうという話は日本の側が相当の努力して実現したもので、北方四島での経済活動はやめましょうと日本の方から言いだしたら、ロシアはやめましょうと言うだけ。 
  1918年のブレスト=リトフスク条約の時にウクライナ共和国ができた。その際、ウクライナの領土はロシア側に食い込んだ位置に国境が設けられた。トロツキーは反対したが、レーニンは平和が大事だからということで妥協して認めたのが、現在のウクライナとロシアとの間の国境線で、ドイツが敗れた後、ソビエト連邦ではロシア社会主義共和国とウクライナ社会主義共和国の「国境」というのは日本の「県境」みたいなものだったから、たいした問題にならなかったが、ウクライナがロシアとはっきりと別の国になると事情は変わってきた。
  ウクライナの正教とロシアの正教には特別の違いはなかったがゼレンスキーはウクライナの正教を分けようとした。リヴィウはカトリックだが東方洗礼カトリックと言って特殊なカトリック。
  ソ連の支配を潔しとしない人がウクライナからカナダに移住した。だから、カナダにウクライナ人が多い。だから、カナダはウクライナに肩入れする。
  ウクライナ東部にいる人たちは、自分はウクライナ人なのかロシア人なのか、複合アイデンティティーを持っている。
  去年の10月23日、ゼレンスキーがトルコの自爆ドローンをルガンスク・ドネツクの親ロシア地域に飛ばしてからプーチンは国境に軍隊を派遣した。1月半ば頃から攻めてくるぞ攻めてくるぞとバイデンは言ってきたが、対話しようという姿勢がなかった。・・なるほど。
  ゼレンスキーが大統領になったのは『大統領ー国民のしもべ』という映画に出て大統領になった人で、元から政治家だった人ではなくテレビ関係者しか相談する人がいない。 国際社会の秩序を力で変えようというのは間違っているが、ゼレンスキーはその対処を間違えている。
  相手はけしからんやつだとしても、だから話をしないというのはだめ。
  ロシアは情報が統制されていて・・というのは、西側のおごり。
  国民をこういう戦争に巻き込んだという点でゼレンスキーの責任は大きい。
  ヨーロッパは4割、ドイツは5割、燃料を依存している。ドイツはロシアからの輸入なしではおれない。日本はガソリン代が上がる、電気代が上がる。・・なるほど。
  イギリスとカナダとアメリカ(合衆国)は一体で、フランスとドイツは少し距離を置いている。特にドイツはロシアと2回戦争やって2回負けてるからロシアと戦争したくないという意識が骨身にしみてある。イギリスとカナダとアメリカ(合衆国)が相当怒っているから、フランスとドイツは怒ってるふりしている。イタリアはさらに隠れた場所で目立たないように怒ったふりしている。日本もイタリアぐらいにしときゃいいのに。・・なるほど。
  これまで、銃なんか持ったこともない人に銃を渡して戦ってくれといって戦えると思う? プロとしろうとの戦いでしょ。銃を持たした時から民間人ではなく民兵になる。彼我の戦力を比較して負けると思ったら本当に死者を出したくないなら、「無防備都市」にして、そこには民間人しかいないから攻撃しないでくれと言った方がいい。⇒・・なるほど、たしかにそういう面はあるのかもしれない。但し、侵略者にたいして、市民が戦う気になっているものを止めるわけにもいかないのではないか。侵略者に戦おうとしている市民に武器を持たさないより渡した方がいいという考え方もあるということはないか。攻める側からすれば、一般民間人が敵として立ち向かってくる場合こそ、戦いにくい、そういう相手に勝つというのは並大抵のものではないのではないか。イタリア映画の『無防備都市』など見ても、「無防備都市」にするのが市民にとっていいというものでもなく、「無防備都市」にすれば市民は攻撃されないのかというと、そうでもないのではないか。〔⇒《YouTube-ロシア軍に新たな疑惑 略奪品を発送か・・・防犯カメラにロシア兵(2022年4月10日)》https://www.youtube.com/watch?v=Uoj-GJAsYr8 〕 強盗がやってくるからと「無防備」状態にすれば被害に合わないかというと、そうではないはずです。

  ロシアを擁護するつもりはない、とんでもないことやってるから、しかし、とんでもないことやってるからこそ対話しなきゃいけないということが何でわからないんだ・・・。なるほど。
  領土問題はそれぞれの国によって違うんだ、ひとつひとつ違うんだから。「日本とウクライナがロシアに対してともに領土問題をかかえているから連帯するべきだ」などと言う人がいるが、それならば「中国とウクライナは尖閣諸島の問題で日本に対して領土問題をかかえているから連帯するべきだ」ということになるでしょ・・なるほど。
  アメリカ(合衆国)のインテリジェンスは実は分析は強くない。アメリカのインテリジェンスの情報ではエリツィンは何度も死んでる。⇒たしかに、チェルノブイリ原発事故の時にも、アメリカ合衆国のCIAの発表だったかでは、何百人だったか相当の即死者が出たと発表したが、放射能の事故により「結果として死亡する人」が相当でるということはあっても、「即死する人」というのが大量に出たというのは考えにくいが・・と思ったら、やっぱり違った。
  ロシアがウクライナを非軍事化したらどうなるの? ウクライナが受け取った兵器をロシアが「ありがとうございます」と持っていくでしょ。・・なるほど。

  《 1918年のブレスト=リトフスク条約の時にウクライナ共和国ができた。その際、ウクライナの領土はロシア側に食い込んだ位置に国境が設けられた。》⇒ 国連でケニアの大使が、アフリカの国の国境はヨーロッパの国が決めたもので、本来のその土地の民族にとってふさわしい境界ではないが、戦争で変更しようとはしていないということを考えてもらいたい、と発言。 ロシアは自国に有利な国境を維持しながら、ロシアに不利な国境を戦争で変更しようというのは慎むべきではないのか、という意味を持つか。

  《 ロシアは情報が統制されていて・・というのは、西側のおごり。》⇒ 1980年代後半、慶應大学の三田の図書館で『ソ連は笑う』という本を見かけ、自習をするために図書館に行ったのに、つい手に取って読みだしたら面白くて、ふと気づくと自習する予定だった時間を過ぎてしまった・・ということがあったのだが、そこには、たとえば、
〈 〖駅のキオスクにて〗 
(客)「プラウダをください」
(店員)「ここにはプラウダはないよ。あるのはイズベスチヤだけさ」 〉
というものがあった。この話は「プラウダ」「イズベスチヤ」というロシア語の意味がわからないと面白くもなんともない。「▽▽新聞をください」「▽▽新聞は売り切れてないよ。☆☆新聞ならあるよ」と言われても、だから何なんだてことになる。「プラウダ」はロシア語で「真理」を意味し、「イズベスチヤ」は「官報」を意味するらしい。だから、その言葉を入れ替えると、
〈 〖駅のキオスクにて〗
(客)「真理をください」
(店員)「ここには真理はないよ。あるのは官報だけさ」 〉
ということになる。この『ソ連は笑う』という本で、ソビエト連邦の困った状態について述べたものだと理解する人がけっこういたのだが、実は、この程度の「笑い話」はその頃のソ連でも口にしたからといって、そのくらいで投獄されたり迫害されたりするものではなかったようだ。
  2000年にロシア連邦のイルクーツク州に行った時、ロシア人のガイドさんが自動車の中で「昔から、ロシアのお話に『政治の悪さと道路の悪さはロシアの特徴だ』と言われてきた言葉があるんです」と話してくれたのだが、「道路の悪さ」については、ロシアは広くて道路延長も長いし冬になると雪が積もり春になると溶けるので、道路の整備をするのが大変だからということがあるでしょうけれども、「政治の悪さ」ということを言っていいのか・・というと、いいみたいです。行ったのはロシア連邦になってからですが、元インツーリスト社だったものが国鉄の「分割民営化」みたいに「民営化」された旅行社に所属のガイドさんも特別に過激なことを話しているつもりなんかまったくなかったみたいで、そのくらい、言っても別にそれでどうなるということもないみたいです。だから、資本制経済における「自由」とは資本の自由であり、国民の自由を実現するためには社会主義の経済体制にしないといけないのだという主張から社会主義経済のソビエト連邦が出現したが、実際に出現したソビエト連邦は必ずしも国民ひとりひとりの自由が尊重された社会にはなっていなかった・・という面はあるかもしれないが、その内容を誤解している人・曲解している人が日本にはいたのかもしれない。ソビエト連邦にも、その後のロシア連邦にも問題点はあるとしても、「ここにはイズベスチヤ(官報)しかないよ」というくらいのことを口に出すことはできたようなのだ。だから、そういうお話を集めた『ソ連は笑う』という題名の本が日本で出版されたのだ・・と思う。
ソ連は笑う―ソ連漫画傑作集 (1980年) - 大木 昭男
ソ連は笑う―ソ連漫画傑作集 (1980年) - 大木 昭男
  そういえば、何新聞だったか忘れたが、ソ連時代のソ連での小噺として、
〈 モスクワの赤の広場で「フルシチョフはバカだ」と書かれた幕をかかげた者が逮捕され、22年の実刑判決を受けた。2年は侮辱罪だとされたが、20年は何なのかというと、国家機密漏洩罪だった。(「フルシチョフはバカだ」という国家機密を漏洩した、という罪で罰せられた)〉という小噺・笑い話が載っていたが、それを言ったからどうということがあるわけではなかったようで、「社長はバカだ」という「会社の機密を漏洩」したら追い出される日本のどこぞの会社よりも、よっぽど民主的かもしれない。
  ゴルバチョフのペレストロイカの時代、「朝日新聞」にペレストロイカによる変化として、ソ連での小噺として、
〈 「多くの人間がその書物の存在を知っているが、読み通した人は多くない。その書物とは何だ?」
「なんだろう。『聖書』だろうか」
答えは『資本論』 〉
・・・て、いいのか、そんなこと言って。そういうことを言えるようになったのがペレストロイカによる変化だというように「朝日新聞」は書いていたのだが、しかし、もしかすると、その程度のことは、ペレストロイカより前でも、別に口にしたとしても、だからどうということはなかったということはないか。
  もとより、『資本論』というのは大部であり、日本でも全体を読み通したことがある人というのは、そう多くはないのではないか。大内秀明・鎌倉孝夫編『経済原論』(有斐閣新書)では、『資本論』を読み通すまでできない人に、とりあえず内田義彦『資本論の世界』(岩波新書)を読むことを勧めているが、日本の大学生だって『資本論』を全巻読み通すというのは簡単ではない。
資本論の世界 (岩波新書) - 内田 義彦
資本論の世界 (岩波新書) - 内田 義彦
  むしろ、私は高校生の頃、高校の「政治 経済」の教科書に書名が記載されていた経済学の本として、アダム=スミス『諸国民の富』・カール=マルクス『資本論』が掲載されていて、私自身は経済学部・商学部・経営学部といった学部に行く予定はなかったのだが、経済学部・商学部・経営学部といった学部に行った人ならば『資本論』を一読するくらいのことは大学生の間に最低限おこなっておくべきものであろうと思い込んでいたのだが、ところが、大学生でも「慶應タイプ」の大学生などはそうではなく、ともかく、マルクス・エンゲルス・レーニンといった人たちやその著作については読んではならないと考えていて、マルクス経済学に対しては読みもしないで悪口雑言罵詈讒謗中傷を必死になって浴びせまくるのが、それが「思考が柔軟な慶大生」だと主張しており、そういう態度が「自我が確立されている」であり「独立自尊の精神」であると主張しまくっていた。うかつに「なんでやねん?」なんて言おうものなら、それだけで「共産党」呼ばわりされる学校だった。慶應という学校はそういう学校だった。元慶應義塾塾長で近代経済学者だった小泉信三は『共産主義批判の常識』(講談社現代文庫)の序文で、批判する場合には論拠をあげて論理的に批判するべきであり、批判しようと思うならば批判しようと思うものについて学習した上でおこなうべきであると述べ、そうでない悪口雑言罵詈讒謗中傷といったものは慎むべきであると言っているのだが、小泉信三が述べているものは「慶應タイプ」の「思考が柔軟な慶大生」「企業はそういう人間を喜ぶ」「ギャルにもてもて」とか自称している人たちの主張とは正反対のものである。一時は社会主義とソビエト連邦に好意的だったアンドレ=ジッドはロシア革命後のソビエト連邦に行って、思っていたものとは違うと感じ、『ソビエト紀行(旅行記)』(光文社文庫)において「もしも、レーニンが生きていたならば、レーニンですらも収容所に入れられるおそれがある」と述べるのだが、もしも、小泉信三か福沢諭吉が生きていて慶應大学の学生であったならば、小泉信三や福沢諭吉ですらも「慶應タイプ」から「アカ」攻撃を受け、「共産党」呼ばわりをされ苛められることになるだろう・・・と慶應大学に在学した時に私は思った。それから考えると、
〈 「多くの人間がその書物の存在を知っているが、読み通した人は多くない。その書物とは何だ?」
「なんだろう。『聖書』だろうか」
答えは『資本論』 〉
といった小噺を普通に話すことができる国の方がよっぽど「リベラル」であろう・・と思う。
ソヴィエト旅行記 (光文社古典新訳文庫) - Gide,Andr´e, ジッド,アンドレ, 俊宏, 國分
ソヴィエト旅行記 (光文社古典新訳文庫) - Gide,Andr´e, ジッド,アンドレ, 俊宏, 國分
・・・だから、少なくない日本人がソビエト連邦⇒ロシア連邦について思っている、言論統制がされていて・・といった話には実態と矛盾しているものがあるかもしれない。あるだろう。しかし、そうはいっても、動画で見ることができるものでも、ロシア軍のウクライナ侵攻後、ロシア連邦で戦争反対のデモをした人が警察に捕まったり、警察官から暴行を受ける映像が流れており、それは創作とは考えにくいように思える。

  《YouTube-最新:ロシア情勢】2022年03月23日東京大地塾【新着ウクライナ戦争】》https://www.youtube.com/watch?v=wgqZN34E__Q でも、佐藤優氏はなかなか鋭い指摘をしている。
  もしも、ウクライナが負けたら日本はどうするんだ?  日本の周囲には北朝鮮・中国と日本に好意的でない国があり、韓国のように親米であっても反日の国もあり、ロシアと完全に険悪な関係になったなら日本の周囲は敵ばかりになるということはないか?
  ビザなし交流については墓参については停止するとは言っていない。なるほど・・。 漁業についての協議を停止するとは言っていない。なるほど・・・。
国家の罠―外務省のラスプーチンと呼ばれて―(新潮文庫) - 佐藤 優
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  《YouTube-ロシアのセレブ 「シャネル」バッグを切断・・・過激な動画投稿で“抗議”(2022年4月8日)》https://www.youtube.com/watch?v=AxTvufH73ps を見ると、「ロシアのセレブ」がシャネルの高級バッグを植木の剪定ハサミで切断する動画が出ているが、私なら、たとえ、その商品の製造会社なり販売会社なりの態度・対応に納得いかなかったとしても、植木の剪定ハサミで切断するなんてことはしない。次から購入しない・・というようにするだろう。もしくは、次から購入しないとともに、すでに購入したものは当分の間、使用しない・・ということにする。何十万円・何百万円もするものを廃棄するなどという「セレブ」はロシア連邦にいつから存在するようになったのか? 誰もが平等に暮らせる社会としてのソビエト社会主義共和国連邦からロシア連邦に変わって、「セレブ」も出現したのか? そんなバッグ持ってるのなら、植木の剪定ハサミで切断するくらい、要らんのならば、とりあえず、それを売って貧しい人に施しをすればどうだろうか? 
  ベートーベンはナポレオンを頭に描いて交響曲第3番「英雄」を作曲したが、ナポレオンが皇帝に就任したというのを聞いて怒り、交響曲第3番「英雄」の楽譜の「表紙を破り捨てた」・・・というお話があって、あくまでも「表紙を破り捨てた」、中味は破らなかった・・・て、なんか、せこいやっちゃな・・て感じがしたのだが、カネで買ったシャネルのバッグなどというものを植木の剪定ハサミで切断するような「セレブ」か慶應女子高女みたいなやつよりは「表紙を破り捨てた」男 ベートーベンの方がまだしも好感を持てる。植木の剪定ハサミで切断するのは間男弁護士のち〇ぽ に限定した方が良さそう・・( 一一)
モンダイの弁護士―弁護士って、ほんとうに「人権を守る正義の人」なのか!? (別冊宝島Real (028))
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ロシア軍のウクライナ侵攻に際しての「建築屋的感想」の【2】ブルーノ=タウトの生誕地はケーニヒスベルク(カリーニングラード)。ミュシャの絵に描かれる「ドイツ宗教騎士団」。
  最近、インターネット上に「スヴァウキ回廊」という言葉がよく出てくる。西はポーランド・リトワニアとロシア連邦の飛び地であるカリーニングラード州との3国の国境から、東はポーランド・リトワニア・ベラルーシ3国の国境までの部分のことだ。
※ 《ウィキペディアーリトワニア=ポーランド国境》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%83%88%E3%82%A2%E3%83%8B%E3%82%A2%EF%BC%9D%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89%E5%9B%BD%E5%A2%83
  スヴェウキはポーランドの都市の名前らしい。《 NATOの軍事計画立案者によって、国境地域は近隣のスヴァウキの町にちなんで名付けられた「スヴァウキ・ギャップ」や「スヴァウキ回廊」として知られる。これは、ベラルーシとロシア・カリーニングラード州の間にあたり、平坦な土地で面積が狭いことから防衛が難しく、兵站上重要となる補給路や回廊地帯を示す「ギャップ」と呼ばれており、NATO加盟国であるポーランドとバルト三国を結ぶ軍事上の要衝となる。》
※ 《ウィキペディアースヴェウキ》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%82%A6%E3%82%AD
  それで、ロシア連邦のカリーニングラード州というのは、なぜ、ロシア連邦領になっているのか? ・・という問題がある。 第二次世界大戦でドイツが敗北するまではドイツ領だった地域だ。カリーニングラードはロシア語で、ロシア語で「ゴーラット」は都市という意味で、レニングラードは「レーニンの都市」・ボルゴグラードは「ボルガの都市」という意味であるのと同じく、「カリーニングラード」は《 1946年7月4日、ソ連領となったケーニヒスベルクは1ヶ月前に死去した先のソビエト連邦最高会議幹部会議長ミハイル・イワノヴィッチ・カリーニンにちなんでカリーニングラード市、区域全体はカリーニングラード州とロシア語名に改称された。》(《ウィキペディアーカリーニングラード》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%8B%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%89 )と「カリーニンの都市」という意味だ。カリーニングラード市はドイツ領だった時は「ケーニヒスベルク」と言われていたが、「ベルク」は「ハンブルク」などと同じくドイツ語で都市・街という意味で、「ケーニヒスベルク」は《ドイツ語で「王の山」という意味がある。》(《ウィキペディアーケーニヒスベルク》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B1%E3%83%BC%E3%83%8B%E3%83%92%E3%82%B9%E3%83%99%E3%83%AB%E3%82%AF_(%E3%83%97%E3%83%AD%E3%82%A4%E3%82%BB%E3%83%B3) )らしい。
  このケーニヒスベルク(カリーニングラード)生まれの有名人としては、ドイツ人の建築科のブルーノ=タウト、哲学者のカントがいる。
日本美の再発見 増補改訳版 (岩波新書) - ブルーノ・タウト, 篠田 英雄
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建築とは何か (SD選書 95) - ブルーノ・タウト, 篠田 英雄
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カント哲学 (文庫クセジュ (499)) - ジャン・ラクロワ, 木田 元, 渡辺 昭造
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  ブルーノ=タウトというと、日本人の間で名前が知られているヨーロッパ人の建築家として上位の人だと思うが、ブルーノ=タウトが設計した建物によって知られているのではなく「桂離宮と伊勢神宮を称賛して日光東照宮をボロクソに言った人」として知られている。
  ドイツ人のブルーノ=タウトやカントは、このケーニヒスベルク(カリーニングラード)の生まれだったのだ。
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( 『帝国書院 最新基本地図ー世界・日本ー 20訂版 ’96』1995.帝国書院 )
  今ではドイツとはポーランドを挟んだ飛び地になっているこの地域がなぜドイツ領だったのかというと、ケーニヒスベルク(カリーニングラード)の地域は東プロイセン(プロシア)と言われる地域で、現在はポーランド領になっている西プロイセン(プロシア)とともに、ドイツ人の国であったプロイセン(プロシア)の領土だったのだ。
  そのプロイセン(プロシア)と西側のブランデンブルクとが合併して、ブランデンブルク=プロイセンとなり、このブランデンブルク=プロイセンが中心となり、大国だったオーストリアをドイツ統一から除外してドイツが統一されたのだ。だから、元々はドイツ領だった場所で、ブルーノ=タウトやカントはそこで生まれたのだ。

  しかし、「元々は」と言っても、どこまでさかのぼるかという問題がある。プロイセン(プロシア)の領土となった経緯として、ドイツ宗教騎士団領であった所がプロイセン(プロシア)領になったという経緯があるが、「ドイツ宗教騎士団」というのはキリスト教の宗教に基づく騎士団と言われたが、実際は・実質的には他の地域への植民であり、スラブ人からするとゲルマン人の侵略であったと受け取るらしい。
  アール=ヌーボーの画家のミュシャはパリで活躍した装飾画の画家としてよく知られているが、実はミュシャは元々はポーランド人であり、化粧品の箱にでも載ってそうな装飾的な女性の姿の絵とかばかり描いていたのではなく、そうではない絵も描いていたようなのだ。たしか、上野の東京都美術館に見に行った時に見たと思うのだが、ミュシャの絵にはゲルマン人の「ドイツ宗教騎士団」の侵略を受けるスラブ人を描いたという絵も展示されていたのだが、ポーランド人だったミュシャはそういった絵も描いていたのだ。スラブ人の側からすれば、プロイセン(プロシア)領というのはスラブ人がゲルマン人に奪われた土地という意識があったようだ。
  ドイツが統一された後、首都はベルリンに置かれ、プロイセン(プロシア)は飛び地のようになったが、ブランデンブルク=プロイセンの「プロイセン(プロシア)」があった場所だったのだ。その東側の東プロイセンが現在ではロシア連邦領のカリーニングラード州になり、西側の西プロイセンはポーランド領になっている。
  西プロイセンがポーランド領になるのはまだしも、東プロイセンが何故にロシア連邦領になるのか?  ドイツ宗教騎士団領になるよりも前はゲルマン人の領地ではなくスラブ人の領土だったということがあるらしいのだが、「スラブ人」といってもロシア人ではないはずなのだ。それが、何故か第二次世界大戦の後、ソビエト連邦のロシア社会主義共和国の領土となり、ソビエト連邦の崩壊後はロシア連邦に属するカリーニングラード州となって今日に至っているらしい。
  ドイツ人の建築科ブルーノ=タウトやドイツ人の哲学者カントの生誕地であるケーニヒスベルク(カリーニングラード)は、「ドイツ宗教騎士団」領になるよりも前はスラブ人の居住地であったとしても、その「スラブ人」というのはロシア人ではなかったはずであり、もしも、過去においてはスラブ人の土地であったからとドイツ領である土地を戦争で奪い取ってロシア人の土地にしてよいということならば、日本がもっと軍備拡張して軍事大国になったならば、もともとは「アジア人の土地」であるのにロシア人が居住している地域を攻めていって日本領にしても良いという理屈になる。それは認められないであろうけれども、しかし、それならば、なぜ、カリーニングラード(ケーニヒスベルク)はロシア連邦領として認められているのか? ・・・ということだ。
  又、過去にはスラブ人の居住地であったといっても、領土というものは、いったい、どこまで遡って考えるべきかという問題もある。昔むかしまで遡るとすると、アメリカ合衆国の白人はヨーロッパに戻るのか? 何よりも、シベリアや極東のロシア人はウラル山脈よりも西側に帰るのか? どうも、そのあたりに、ロシアの膨張主義というのか、過去においてはスラブ人の土地であったという場所は奪還して「スラブ人」ではなくロシア人の土地にして、他方において、ロシア人が比較的最近になって居住するようになった地域は、それは現在の状態を維持する主張をする。そういった相反する態度というものがロシア連邦には存在している。
  建築屋を仕事としてきた者としては、建築家ブルーノ=タウトの生誕地という点、人間としては哲学徒であるつもりの者としては、哲学者カントの先端地であるという点から、そういった事情がない場合より、より気になる点である。

  次回、ロシア軍のウクライナ侵攻に際しての「建築屋的感想」の【3】以降を述べます。
  
  ロシア連邦の外務官が、日本はヒステリックに反ロシアの態度を取りまくっている・・と語ったというのだが、「日本はアメリカ(合衆国)のメカケだからダンナの言うことをきくのは当たり前だ」という点はあるとしても、佐藤優が「アメリカ合衆国とイギリス・カナダというのはアングロサクソンの国として一体となって動くが、ドイツ・フランスは少し距離を置いていてアメリカ合衆国に同調してロシアに怒っているようなふりをしていて、イタリアはさらに隠れたような形で怒ったふりをしている。日本もイタリアくらいにしておけば良さそうなものなのに」と述べていたが、「イタリアくらい」の姿勢にしておけば良さそうなものなのに、ずいぶんと精力的に反ロシアの態度を取っているという点について、ロシア連邦の政治家からすれば、ロシア連邦の軍隊が攻撃したのはウクライナであって日本には何ら攻撃していないのに、なんで、そこまでヒステリックに反ロシアの態度を取りまくるの? それが、あんたらに得するの? 得しないのじゃないの? ・・・という印象があるのではないか。

  YouTube を見ていると、ロシア連邦の議員で、「ロシアには日本の北海道に対して権利がある」とか言いだしたヤカラまで出てきたらしい。そんなもの、あるわけがないであろう。むしろ、シベリア・極東のロシア人はウラル山脈より西に帰るべきで、ウラル山脈より東側は本来の所有者・居住者にその領土を返還するべきであろう。
  しかし、片方で、ロシア連邦軍のウクライナ侵攻は、ウクライナとロシア連邦との間の「ミンスク合意」をゼレンスキー政権が守らず、ウクライナ東部の親ロシア派が実効支配する地域へ「自爆型ドローン」による攻撃をゼレンスキー政権がおこなったところから始まった・・ということを考えるならば、その後の行動において、ロシア軍の侵略は肯定しがたいのは間違いないとして、危なっかしい相手と勝手に戦争始めておいて、遠く離れた日本まで巻き添えにするな・・という面もある。

  (2022.4.8.)

  動画でゼレンスキーが「今のロシア連邦は、ソビエト連邦の悪い部分だけを残したものだ」と話していたものを視聴したが、「ソ連社会帝国主義」から「社会」を取り除いたもの・・ということか。
  (2022.4.14.)

★ ロシア軍のウクライナ侵攻に際して建築屋的感想
[1]〔今回〕
【1】ポーランド色が強いリヴィウ、カルパチア山脈よりハンガリー側に国境があるウクライナとハンガリーの国境
【2】ドイツ人建築家ブルーノ=タウトの生誕地のケーニヒスベルク(カリーニングラード)はロシア連邦領になっている。アール=ヌーボーの画家ミュシャはポーランド人で「スラブ人」の意識がある

[2]https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202204article_2.html
【3】ロシア連邦から日本へ輸入される木材
【4】自然保護されるか
【5】ロシアの建築は魅力的だが行けなくなってしまった

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