建築の見学後、早めに文章にしないと記憶と印象が薄れる。「吐き出す物」がある人間は吸収しにくい。差別政策としての知能指数。遠山『競争原理を越えて』は実状を見ないで書かれた本、賛成できかねる部分がある。数学科・史学科は価値があって社会科学系学部卒は高卒と同じ扱いにしろという主張は横暴で不適切。「高卒のおっさん」偏重が公平ではない。本を読む際に自分を省みる為でなく人を攻撃する道具を仕入れる為に読む人がいる。ー渉成園(京都市) 見学【1/9】

[第923回]
  京都市下京区 の 渉成園〔 真宗大谷派 の 本山 真宗本廟(東本願寺)の飛び地 〕に行ってきました。
  前回まで、東京都中央区銀座 の 中銀カプセルタワービル(解体工事中)を見学にいった時のもようとその周囲について述べました。東京メトロ日比谷線・都営浅草線「東銀座」駅の上にある歌舞伎座ビルとその前の晴海通り をクルマで通った際の話、(株)一条工務店https://www.ichijo.co.jp/ における自動車通勤において、横暴な従業員とそれを保護する経営者・保護義務違反の経営者についてを、その8部作に続いて述べる予定にしていましたが、京都市の渉成園 訪問 と、神奈川県鎌倉市の鶴岡八幡宮 訪問について先に述べて、その後に述べるようにしたいと思います。

  その理由として、渉成園訪問は4月初め、鶴岡八幡宮訪問も4月上旬であり、訪問からあまり後になると記憶とその時の意識が薄らいでしまうことが考えられるので、記憶と訪問時の意識が薄くならないうちに文字にして公開しておきたいと考えたからです。
  愛知産業大学の建築学科に在籍させてもらっていた時、「現代建築論」という科目の課題が2つあって、第1課題は、
(A)ルーコルビュジェ・ミース=ファンデルローエ・フランク=ロイド=ライトの「世界建築三大巨匠」と言われる3人から1人、
(B)平尾和洋・末包伸吾編『テキスト 建築意匠』(2006.学芸出版社)の「第2章 現代の建築」に取り上げられている建築家から1人、
(C)第3章「戦後日本の建築」に取り上げられている建築家から1人
を取り上げて、空間的特徴を述べよ、というもの。
第2課題は、ここ30年間くらいの間に建てられた建築について、指定のテーマに基づいて述べよというもので、実際に訪問して見学した上で述べるのが好ましく、海外のものなど訪問が難しいものについては書物やインターネット上の資料に基づいて述べてもよいというものでした。
  私は第1課題の方では(A)で、フランク=ロイド=ライトを選び、明石 信道 村井 修『フランク=ロイド=ライトの帝国ホテル』(廣済堂)を購入して読み、東京から夜行バスで名古屋まで行き名古屋から名鉄で犬山まで行き犬山駅からバスで明治村まで行ってフランク=ロイド=ライト設計の旧 帝国ホテル 玄関ロビー部分を見学し、さらにはフランク=ロイド=ライト設計と言われていた・・はずだったJR日光駅を見学するために、かつ、JR日光駅について語るのなら日光線にも乗ってみた方がいいと思って、今では日光に東京圏から行くには東武の方が便利だが、あえて東北本線「快速 ラビット」にのって宇都宮駅まで行って、宇都宮駅で「宇都宮餃子」を昼食に食べて日光線に乗って日光まで行って見学しました。但し、JR日光駅は何十年か前に日光に行った際に「フランク=ロイド=ライト設計による」と書かれていたはずでしたが、今ではその記述ははずされており、どうも、JR日光駅の設計者については何説かあって、フランク=ロイド=ライトではないという説の方が有力と最近では考えられるようになったらしかった。さらに、中村好文『住宅巡礼』(新潮社)の中の「フランク=ロイド=ライト「カウフマン邸(落水荘)」などを読んで、フランク=ロイド=ライトについては旧帝国ホテルとカウフマン邸(落水荘)を基本として述べました。フランク=ロイド=ライトというと施主の嫁はんと仲良くなって駆け落ちみたいなことした男・・・という、まったくつくづくろくなもんじゃねえ・・て印象を持っていたのですが、しかし、旧帝国ホテルの建物を実施に行って見ると・・⇒すごい! たしかに、「世界三大巨匠」というだけのことはある・・と思いました。施主の嫁はんと仲良くなってどうこうというあたりはほめられたものではありませんが、そういうろくでもない人間の設計の建物・・ではなく、建築に精進し日本の文化に謙虚にふれた設計者による作品と言えると思いました。「高級ホテル」なんて泊まるガラでもないし、そんなもの、詐欺師かろくでもないやつが泊まる所ではないかみたいに思っていたのですが、フランク=ロイド=ライトの旧帝国ホテルがもしも今もあったなら、そういうポリシーなんて曲げてでも泊まりたい♪・・という建物でした。ロシアのバスの声楽家のフョードル=シャリアピンが帝国ホテルに泊まった時にレストランで特注でシャリアピン・ステーキなるものを作らせ、今も帝国ホテル1階のレストラン「ラ・ブラスリー」では「シャリアピン・ステーキ」がメニューにある(けっこう高い)が、「ヴォルガの舟歌」とか労働者の歌を得意として歌っていたシャリアピンが帝国ホテルなんて「高級ホテル」に泊まって、しかも、ステーキを特注で自分の好みに合わせて作らせるとは、なんだ、それは・・森鴎外『青年』(新潮文庫)では登場人物の大学生が「アートとライフが別のやつはだめだな」と語る場面があったが、シャリアピンというのはその「アートとライフが別のやつ」だったのか?・・なんて思ったりもしたのですが、インターネットで検索して見るとシャリアピンステーキについてはシャリアピンは虫歯の治療をしていたことから通常よりも柔らかいステーキにしてもらうように頼んだというものらしく、そして、フランク=ロイド=ライト設計の旧帝国ホテルは「ヴォルガの舟歌」とかそういう労働者の歌を得意として歌う声楽家であっても、それでも宿泊したい~い・・という気持になるであろう建物でした。
※ 《YouTube-Feodor Chaliapin - Song of the Volga Boatman ヴォルガの舟歌 (1936)》https://www.youtube.com/watch?v=2HR6n9R2d30
  (B)ではヨルン=ウッソンを取り上げ、『建築ノート 2010. No.08』(2010.3.1.誠文堂新光社 )掲載の「アーキニアリング・デザインへの招待」の「09 シドニーオペラハウス」ほか建築雑誌やインターネット上に掲載されているシドニー=オペラハウスと、それに『GA No.61 バウスヴェアーの教会1973-76〈ヨーン・ウツソン〉(グローバル・アーキテクチュア)』を購入して読み、バウスベア―教会と『地球の歩き方 北欧』(ダイヤモンド社)に出ていたヨルン=ウッソン設計の他の建築と合わせて論じました。教会というものは信仰のためにあるものであり、ウィリアム=メレル=ヴォーリズは「教会の建物は特別な建物である必要はない」と語ったといい、キリスト教ではなく仏教の方でも『正法眼蔵隋聞記』(岩波文庫)では京都の建仁寺は鴨川のそばにあることから、栄西に弟子が洪水が起こった場合のことなどを考えて、もう少し山手の方に移転するなど考えてはどうかと言ったところ、栄西は、いずれ伽藍は滅びるであろうが大事なのは禅の心であると語ったとか、とういった記述が出ており、あまり建築デザインに凝った教会堂というのはいかがなものかとも思ったのですが、キリスト教の教会の場合、教会は信徒が集会を持つ場であって特別な建物である必要はないという考え方〔教会堂というものをあまりにも重視するようになるなら、それは偶像崇拝の禁止というキリスト教の考え方に反することになるのではないか〕とともに、他方で「神に出会うための特別な場」とする考え方もあるらしく、バウスベア教会は後者の考えがあったらしく、同書を読んで「神に出会う場」と考える考え方があるらしいことを知りました。しかし、特別な建物に行って「神と出会った」ような気持になったとしても、そんなものは幻覚でしかないのではないか・・という気も私はしますが。
  (C)は前川国男について、小金井市の江戸東京建物園まで行って旧前川国男自邸を見学し、夜行バスで博多まで行き、博多から九州新幹線で熊本まで行って熊本県立美術館を見学し、前々からいい建物だと思っていた上野の東京都美術館東京文化会館、それと外観の色合いは今一つかと思うが国立西洋美術館の別館の方、それに新宿の紀伊国屋書店本店 、それに東大本郷キャンパスの山上会館を取り上げて述べました。
フランク・ロイド・ライトの帝国ホテル - 信道, 明石, 修, 村井
フランク・ロイド・ライトの帝国ホテル - 信道, 明石, 修, 村井
建築ノート no.08―建築のメイキングマガジン 名建築の知恵に学ぶ100のアイデア (SEIBUNDO Mook)
建築ノート no.08―建築のメイキングマガジン 名建築の知恵に学ぶ100のアイデア (SEIBUNDO Mook)
GA No.61 バウスヴェアーの教会1973-76〈ヨーン・ウツソン〉(グローバル・アーキテクチュア) - ヨーン・ウツソン, 二川 幸夫, 細谷 巖, クリスチャン・ノルベルク=シュルツ
GA No.61 バウスヴェアーの教会1973-76〈ヨーン・ウツソン〉(グローバル・アーキテクチュア) - ヨーン・ウツソン, 二川 幸夫, 細谷 巖, クリスチャン・ノルベルク=シュルツ
  第2課題の方では丹下健三・槙文彦・磯崎新の3人を選び、丹下健三東京都庁舎新宿パークタワー、それに東京カテドラル聖マリア大聖堂、港区三田のクウェート大使館、新橋の静岡新聞静岡放送東京支社ビル東大の本郷キャンパスの本部棟を見学に訪問し、コクーンタワーは新宿まで行くと見えますから、それらを基に述べ、槙文彦慶應大学の日吉新図書館三田新図書館に行って図書館員のおねえさんに「卒業生なのですが、他大学の建築学科に今、在籍していまして、ここの図書館をもう一度、見学させていただきたいのですが入らせていただけませんでしょうか」と言ってお願して入らせてもらい、東京大学本郷キャンパスの法科大学院棟を見学に行って見学して述べました。 磯崎新については、かつて、つくばエクスプレスがまだ開通していなかった時代に一度、訪問したことがあった つくばセンタービルにつくばエクスプレスで「つくば」駅まで行って見学し、御茶ノ水の御茶ノ水スクエア を見学してその2つを基に述べました。
  慶應大学の日吉新図書館ができる前には慶應大学の日吉キャンパスに図書館はなかったわけではなく、藤山記念館と言っている建物が藤山記念図書館としてあり、図書館としていい建物だと思っていたのですが、「東京大学の建築学科を卒業して、今、慶應大学で教えておられる槙文彦先生が設計された」という日吉新図書館ができてみると、「なんか、前の藤山記念図書館の方がええてことないかあ」なんて思ったものだったのですが、30年ほど経って再訪してみると、「そんなに悪くないのではないか」と思った部分と、「これは図書館としては好ましくないなあ」と30年前には気づかなかった部分に気づいたものとがありました。つくばセンタービル は10年ほど前に訪問した時は悪くないように思ったのですが、再訪してみると、安全性に対する配慮が欠落しており、デザインとしても、つくばセンタービルのノバホール などは「納骨堂みたい!」だし、ろくなもんじゃねえなあ・・て感じがしました。槙文彦設計の慶應大学日吉新図書館はできた時には「使い勝手を考えないでデザインにばっかり凝って不必要な装飾にカネかけた建物」という印象でしたが、30年後に訪問して見ると、特に丹下健三設計の建物を見学した後で訪問してみると「むしろ、おとなしい方」、丹下健三の目立ちたがり建築に比べると「そのくらいの装飾ならまだいい方」という印象を受けたのでした。
  今から考えてみても、けっこうよく努力して時間と労力をかけて、費用も熊本県まで行ったり愛知県まで行ったりする費用もかけて、よく頑張ってレポートを作成して提出しました・・が、評点は「C」でした。あれだけやったのになあ・・と思いましたが、なにしろ、「ストライクかボールかの審判の判定にはリクエストできない」のでしかたありません・・が、あれだけやったのになあ・・という気持にはなりました。
テキスト建築意匠 - 和洋, 平尾, 健之, 大窪, 裕, 松本, 伸吾, 末包, 庸介, 藤木, 直彦, 山本
テキスト建築意匠 - 和洋, 平尾, 健之, 大窪, 裕, 松本, 伸吾, 末包, 庸介, 藤木, 直彦, 山本
  その際ですが、私が失敗したのは、先に取り上げようと思った建築を見学に行き、ひととおり訪問して写真も撮影して、それから文章を書きだした、という点です。全体について見学してから書いた方がいいと思ったのですが、ところが、訪問から日数が経つと訪問時や訪問直後の印象というものが薄らいできて、又、自分で撮影した写真が「なんだっけ?」と思い、又、「なんで、この写真を撮ったんだっけ?」なんて思うようになったのです。そう思っていたところ、愛知産業大学の建築学科の履修案内書にも書かれていたのです。建築を訪問してから日数が経ってから文章にしようとしても訪問時に感じたものを忘れてしまうので、できるだけ早いうちに文章にした方がよい、と。・・その通りです。
  だから、今回、中銀カプセルタワービル(解体工事中)訪問に際して、都営浅草線「東銀座」駅を地上にでた上の位置に歌舞伎座があり、歌舞伎座の前の通り、晴海通りというのは1992年に(株)一条工務店の東京都江東区にあったウッディランド東京 内の東京展示場(営業所)に通った際に通ったなつかしい道であり、その際、あつかましい・えげつない同僚から嫌がらせを受けた経験とそれについての(株)一条工務店経営者の保護義務違反について述べようと考えたのですが、その前に訪問していた京都市下京区の渉成園 と 神奈川県鎌倉市の鶴岡八幡宮 について先に文章にしないと、忘れてしまう・・とまではいかないとしても記憶が薄くなり、印象も日が経つとともに変化してしまうので、そちらを先に述べて、(株)一条工務店の保護義務違反についてはその後で述べるようにしたい、と考えたのでした。

  愛知産業大学の通信課程の建築学科は結局、「最大可能在籍年数の6年+休学1年」の7年間、在籍して卒業できませんでした。「再入学」という制度があることはあるのですが、50代の後半にまでなり、もう疲れました。
  遠山啓(ひらく)『競争原理を越えてーひとりひとりを生かす教育』(太郎次郎社)というのを北野高校の3年の時の担任だった大谷郁三が推薦までいかないが彼の愛読書だったらしかったのですが、この本に書かれている内容については私は「各論賛成、総論反対」みたいな感じです。各論として述べているものについては、もっともだと思えるものがある。たとえば、人間の能力というものは複雑で多元的なもののはずだが知能指数というものによると人間の能力を一直線上に並べることができることになってしまうのだが、そもそも、ニュートンとベートーベンはどちらが優秀か・・なんて言えるのか? 山下清なんて人はおそらく知能検査をすれば知能指数は低い方の人だったであろうけれども、すばらしい絵を残した人であり、知能検査なんてものをやって知能指数が低いからあなたはだめな人・・なんて「認定」をしても有害無益なだけだ、というのは大いにもっともなことだと思います。そもそも、これは慶應大学の「心理学」という講義で教授が話されたものですが、もともと知能指数というのはフランスで差別政策の一環として考えられたものだそうですから、最初の出発点からしてそういう差別的な性格を持ったもので「ひとりひとりを生かす教育」のためのものではなかったのです。だから、知能検査だの知能指数だのというものは人間の能力を判断するのに有益なものではないという点については私もそう思います。ちなみに『金田一少年の事件簿』では金田一 一は学校の勉強はできないが知能指数はものすごく高い・・ということになっているけれども、そんなに知能指数が高いから優秀だと言いたいのなら、それならちょっとは勉強して成績あげろよお・・て気もします。なんか、あんまり意味のない高知能指数だなあ・・て感じが。知能指数などというものは、少なくとも、「いいにこしたことない」くらいに考えるならともかく、絶対的なものと考えてしまうなら、むしろ、害があると思います。又、司法試験に法科大学院大学を経て受ける新制度ができた時に「適性テスト」というものが実施されたのですが、「適性テスト」という名称から考えるならば、適性を見る試験であるから「適性テスト」の受験対策なんてやってもやらなくても結果は一緒・・みたいな印象を受ける言葉ですが、柴田孝之が『司法試験ゼッタイ合格の秘訣』だったか『司法試験 機械的合格法』(実業之日本社)だったかで述べていたが、実際のところ、そんなこと本気で思っている人間なんてほとんどいない。多くの人間が「適性テスト」の試験対策をおこなって受験しており、試験対策をやってもやらなくても結果は一緒などということはない、というものらしい。知能テストと知能指数いうものもそういうところがあるのではないか、と私は思っています。金田一少年は知能指数は高いけれども学校の勉強はできない・・ということは、逆に知能指数が低くても学校の勉強はできるようになることはできるということで、知能指数が高くても「謎はすべて解けた。犯人はこの中にいる」とかやるのにはいいとしても、他にはあまり役に立たないてことか。
  それに対して、東大に合格する人というのは様々な科目をできる人が合格できるという制度だが、たとえば、数学の研究者になろうとするのにそんなにいっぱいの科目について何から何までできなければいけないのか、すべての科目について平均的に出来る人間が評価される制度になっている・・という批判がされているのでしたが、それは事実に反すると私は思ったのです。まず、東大の入試というのは1978年までは一次試験で数学1・2B,国語(現代国語・古文・漢文)・英語・理科2科目・社会科2科目で、二次試験で理科1~3類は数学1・2B・3、国語(現代国語・古文・漢文)・英語・理科2科目(物理1・2,化学1・2,もしくは生物1・2)で、文科1~3類では数学1・2B、国語(現代国語・古文・漢文)・英語・社会科2科目(世界史・日本史・政治経済・地理A・地理Bより・・だったと思う)でしたが、1979年の共通一次試験実施後は二次試験の科目と配点は変わらず、一次試験が共通一次試験に変わり、理科2科目・社会科2科目ですが社会科で東大の一次試験では地理A(系統地理)と地理B(地誌)の選択ができたのが共通一次試験では地理Aと地理Bで2科目というのは不可になったことと、東大の一次試験では数学は数学1・2Bだったのが共通一次試験では数学1 だったという点が変わり、東大の一次試験は「ぎりぎりでも通ればいい」試験だったのに対し、共通一次試験は1000点満点のものを110点満点に換算して、東大の二次試験440点満点のものに合算して合否を決めるというものになり、共通一次試験実施後の東大の試験では「100点の差をつけてもつけられても11点、200点の差をつけてもつけられても22点の差」となりましたが、その11点・22点というのは小さいようで大きいようで・・というもので、合格するためには共通一次試験の科目の選択のしかたというものが合否に影響を与えるようになりました。今から考えると、私などはそのあたりについての作戦というものが十分にたてられていなかった。相撲の安芸乃島がYouTubeでの やく みつる との対談で、現役時代、相手がどういう力士でどのように来るから自分はこう攻めて・・といったことをあんまり考えないで、ともかく自分が最強になればいいと思っていたと言い、「今から考えると、アホですね」と話し「もし、そのあたりをもっと考えてやっていたら大関になれたかもしれない」と話していたが、大学受験の際の私も、そのあたりをまったく考えていなかったわけではないが、今から考えてみると「不足していた」と思う。もっと「ID野球 弱者の戦術」というものを考えるべきだった。
  それで、試験の性質として考えると、東大の試験というのは二次試験では文科は英語・国語・社会科が120点の配点、数学は80点の配点で理科はない。理科は英語・数学・理科が120点の配点で社会科はない、という試験であり、それだけ文科1~3類は英語・国語・社会科に比重があり、理科1~3類は英語・数学・理科に比重がある試験だったのです。むしろ、京大・阪大の方が全科目が平均的にできる生徒に有利な試験でした。1978年までは京大は法学部・経済学部・文学部・教育学部は数学1・2B,英語・国語(現代国語・古文・漢文)・社会科2科目選択(世界史・日本史・政治経済より選択だったか・・)が200点の配点、理科が2科目選択(物理1・化学1・生物1よりだったか)で100点の配点、工学部・理学部・農学部・医学部・農学部は逆に理科は200点の配点で社会科は1科目で100点の配点でした。学部学科により国語は現代国語だけでいいという学部学科もあったと記憶しています。阪大は京大とほとんど科目と配点は一緒でしたが、法学部・経済学部・文学部・人間科学部では理科は京大と違って1科目で良かった。神戸大も阪大と似たような科目と配点だったと思います。1979年の共通一次試験実施から、京大は社会科は共通一次試験のみで共通一次試験の点数をかなり大きく配点し、数学・英語などは共通一次試験の問題では京大受験生の学力をはかることは無理と考えて独自の二次試験を実施して共通一次試験と二次試験を合算して合否を決めるようになりました。遠山啓『競争原理を越えて』(太郎次郎社)では、東大は多くの科目をまんべんなくできる人に有利と書いていましたが、そうではなく、1970年代後半から1980年代にかけて全科目についてまんべんなくできる人が有利なのは京大・阪大の方で、東大は文科は英語・国語が相当できる人が有利で、理科は数学・理科と英語ができる人が有利という試験制度になっていたと思います。どうも、違うように思うがなあ・・と『競争原理を越えて』を最初に読んだ時は思ったのでしたが、そのあたりについては実状をきっちりと調べて吟味分析しないで書かれていた本だったということです。
  そして、特定の科目だけのめりこんで学習するタイプの人は一流大学には行けない制度になっている。だから、数学だけ必死で勉強して数学が好きで好きでたまらないという生徒は一流大学には行けず、だめな人間という烙印を押されてしまう・・なんて遠山啓は書いていたのですが、それは違うと思ったのです。実際のところ、高校の数学の先生とかになっている人にはその科目が好きで好きでたまらないから理学部の数学科・物理学科・化学科・生物学科・地学科・天文学科に行って高校の先生になったとかいう人がいるようですが、そういう人にその科目の学び方なんて聞いても、そういうタイプの人というのはその人の学習時間の半分以上をその特定の科目にあてていたりしますから、それだけ勉強したらその科目はできて当たり前やんけ・・そんな人の学習法なんて役に立つかい・・て場合があります。北野高校に私が入学した年に阪大の数学科の大学院修士課程を修了して勤めたS田先生は中学生の時から数学科に行きたいと思っていたそうでしたが、高校3年の時の成績を見て「京都大学理学部数学科」から「大阪大学理学部数学科」に受験先を変えて阪大の理学部数学科に行ったと本人から教えてもらったのでしたが、見ていると、いつでも少しでも時間があると数学について考えているような人でしたが、もしかすると、その数学やってる時間のいくばくかを他の科目に割り振っていたならば、もしかすると「大阪大学理学部数学科」ではなく最初の志望の「京都大学理学部数学科」に行けたてことないかあ?・・なんて横で見て思いました・・がそういう人もあると思います。しかし、S田先生にしても、それでも、「京都大学理学部数学科」には行けなかったとしても「大阪大学理学部数学科」には行けたわけですし、「全科目まんべんなくできる人」に比べて「数学マニア」「数学オタク」は不利だったとしても、京大は厳しくても阪大なら行ける、もしくは神戸大なら行けるということだってあると思うのです。そして、さらに少ない科目だけしかどうしてもできないという人は入試科目が多い旧帝大系国立大学ではなく入試科目が少ない早稲田大を受けて行けばいいではないか!・・と思ったのだ。早稲田大は国立大学に比べて試験科目が少なかった。私が高校を卒業した1970年代後半においては、法学部・政治経済学部政治学科・政治経済学部経済学科・商学部・第一文学部・教育学部(文系)は英語と国語(現代国語・古文・漢文)と社会科1科目の3科目で受けることができたし、理工学部は数学1・2B・3と理科が物理1・2と化学1・2,それに英語の3科目で受けることができた。慶應大は私立大学だがその頃は全科目に数学の試験がある大学で、片方で法学部以外には国語が試験にない大学だった。慶應大学の学生や卒業生に強姦魔が多いというのは伝統的な「内部進学中心主義」に原因があるとともに「国語がない大学」というのが原因のひとつとしてあるのではないかと思う福沢諭吉が「虚学」を排し「実学」と尊ぶというのは、何も語学や簿記が「実学」で文学や哲学は「虚学」だと言ったのではなく、文学・哲学にも「虚学」である文学・哲学と「実学」である文学・哲学があるということを言っていたはずだが、ところが、いつからなのか慶應という学校では語学や簿記が実学で文学・哲学は虚学だという考え方が蔓延してしまい、その結果、「入試に国語がない大学」として高校卒業までに文学や哲学の本を読んでいない学生が多い大学となり、更にその結果、「強姦魔の大学」になってしまった。私はそいつらの仲間もしくは下僕にならされたくなかったから慶應大には行きたくなかったが行かされてしまった。私が高校を卒業した1970年代後半においては、慶應大は経済学部と文学部は試験科目が数学1・2Bと英語の2科目だけで、科目数が多いのは法学部法律学科・法学部政治学科と商学部で、慶應大の経済学部と文学部は科目数が少ないことから「1浪で慶應の経済」を目指して、だめだったときは「1浪で慶應の文学部」をめざす、慶應の試験科目以外はまったく勉強してきていないという「慶應タイプ」、それを「思考が柔軟」とか「自我が確立されている」とか主張する者が多かった。慶應大は経済学部・商学部・法学部法律学科・法学部政治学科・文学部についてはそういうものだったが、医学部と工学部(現 理工学部)は早稲田大の理工学部と同じく数学1・2B・3と理科が物理1・2と化学1・2指定で、それに英語の3科目だった。だから、もしも、少ない科目だけしかできないが、その少ない科目については相当いい成績を取れるというタイプの人は早稲田大の理工学部・慶應大の工学部(現 理工学部)・慶應大の医学部とか、社会科学系・人文科学系学部ならば早稲田大の法学部・政治経済学部・商学部・第一文学部を受ければよかったのだ。早稲田大とか慶應大は私立なので国立大学より学費が高いではないかと言うのならば、日本育英会奨学金を受給して行けばよかったはずだ。その頃、日本育英会奨学金は高校・大学については受給できるかどうかは学業成績と親の年収により決まり、受給できた時に出してもらえる金額は「学費分」であり、国立大学でなくても私立大学に行く場合でも受給できたので、日本育英会奨学金を受給して大学に行く人にとっては私立大学が国立大学より学費が高くても、早稲田大学の方が慶應大学よりも学費が高くても行く者にとっては一緒だった。又、日本育英会奨学金を受給できる基準よりは親の年収が多いものの決して多くはないとうような人で少ない科目だけは良い成績を取れるという人の場合、自治医大ならば数学1・2B・3と英語と理科が物理1・2と化学1・2の3科目だけで受けることができて、自治医大の場合は卒業後に出身地のへき地の病院に医師として何年か勤務するという条件で学費はタダ・全寮制で寮費もタダ・・というすばらしい条件であり、他にも防衛大学校・防衛医科大学校とか「大学校」という名前の学校の場合は大学校在学中から公務員の扱いで、学費を払う必要がないだけでなく給料もらえるというすんばらしい条件であるから、「まんべんなく全科目ができる」のではなく「少数の科目だけ高得点を取ることができる」というタイプの人はそういう所を目指せばいいことであり、決して「一流大学には行けない制度になっている」なんてことはないはずで、その点で遠山啓は事実に反することを書いていた。北野高校の教諭だった大谷郁三がいくらありがたがる本であっても事実に反するものについては賛成できかねた。
  遠山啓の本としては『数学の学び方・教え方』(岩波新書)を読んだ。これは高校1年に入学してすぐの頃、『Z会旬報』に「各科目学習法」というものが載っていて、そこの「数学」のところに「読んでおいた方がいい本」として、遠山啓『数学対話』(岩波新書)があげられていたので読んでみようと思い、高校1年の初めの頃、梅田の紀伊国屋書店に行き、阪急百貨店書籍部に行きして捜したが在庫がなく、同じ著者の『数学の学び方・教え方』(岩波新書)があったので購入して読んだというものだが、たとえば「蜜柑が10個、林檎が3個ありました。さて、蜜柑10個から林檎3個をひくと、のこりはいくつでしょうか」なんて算数の問題が出されるが、そうすると、「先生、蜜柑から林檎はひけません」なんて言う生徒がいる。「男の子が10人、女の子が7人いました。男の子から女の子をひくと何人でしょうか」なんて算数の問題があり、「先生、男の子から女の子はひけません」なんて言う生徒がいる。そうすると、そういう生徒は「算数ができない生徒」と評価されてしまい、そういったことを考えないで「蜜柑10個から林檎3個をひく」「男の子10人から女の子7人をひく」という計算をやる生徒が「算数ができる生徒」と評価されてしまう。しかし、本来、数学・算数というものは、足し算・引き算というものは性質が同じものでないと「たす」「ひく」ということはできないものであり、「蜜柑の数から林檎の数を引くことはできない」「男の子の人数から女の子の人数を引くことはできない」というそういう思考ができる者こそ数学的思考ができる人間のはずだ・・と遠山啓は言うのだった。思い返してみると、私自身も小学生の頃に「先生、蜜柑から林檎はひけません」みたいなことを口にしたことがあるように思うのだが、そうすると「屁理屈こねないの」と親にだったか小学校の先生にだったか記憶がはっきりしないのだが言われたように思うのだ。私の場合はそれだけですんだのだが、しかし、実際のところ、よく考えてみると、「蜜柑が10個、林檎が3個ありました。さて、蜜柑10個から林檎3個をひくと、のこりはいくつでしょうか」「男の子が10人、女の子が7人いました。男の子から女の子をひくと何人でしょうか」という問題の方が数学的思考としてはおかしいのではないか。遠山啓は「男の子が10人いました。女の子が7人いました。男女でペアを組んでもらいます。ペアを組むことができなかった男の子は何人になったでしょうか」という問題にすればいい、と言うのです。あるいは「蜜柑が10個ありました。3個を食べました。いくつ残っているでしょうか」という問題にすればいいのです。こういうことを言うと、人によっては「屁理屈こねないの」と言われてしまうのですが、こういった思考をする人間というのは「数学・算数的思考ができる人間」であり、決して「数学的・算数的思考ができない人間」ではないというのは、それについては私もそう思う。但し、この本を読んでも大学入試には1点でも点数アップにはつながりませんけれどもね。
  遠山啓の本では『数学の学び方・教え方』(岩波新書)などは大いにもっともだと思うものが多いのですが、『競争原理を越えて』(太郎次郎社)になると、ちょっと違うのではないか・・というものが多くなるのでした。私は自分が高校生の頃や高校卒業してすぐの頃は知らなかったのですが、遠山啓は日教組とつきあいがある学者で、その為、遠山啓自身の考えを述べた本とそうではなく日教組の主張を遠山啓の名前で書いた本とがあったようで、『競争原理を越えて』(太郎次郎社)の場合は、現在の教育制度というものは国民を差別するためのものだという日教組の主張を肯定するために、少なくとも部分的には事実に即して適切とは言えない記述があったということだと思います。その結果、↑ に述べたように、「多くの科目についてまんべんなくできる生徒」ではなく「特定の少数の科目だけできる生徒」は入試科目が多い旧帝大系国立大学には不利だということならば、それなら早稲田大とか自治医大とかそういう所を受ければいいだろうが・・・と思うのに、そういったことはどこかに蹴り飛ばして、「今の制度は・・・」という結論に無理矢理もっていこうというものがあったのです。

  遠山啓『競争原理を越えて』(太郎次郎社)で述べられていたものに、「歳をいくと記憶力が低下して学べなくなる」なんて言う人がいるがそんなことはない、ある程度の年齢になり仕事を持つようになると仕事の上でわずらわしい問題や家庭の問題とかに気を使うようになり、そのために学びにくくなるということはあるが、記憶力そのものは歳をいっても衰えるということはない、と述べられていたのだが、それは正しいと言えば正しいが、間違っていると言えば間違っている。
  高校を卒業するのは18歳、浪人すると19歳の誕生日を迎えることになるが、そのあたりの年齢で1歳や2歳、歳をいったとしても、それで記憶力が低下するとかしないとか考える必要はないし、むしろ、そんなことを考えることがマイナスになる・・と思う。 しかし、その程度ではなく、もっと年齢がいった場合、40歳を過ぎたくらいから老眼が出る人がいるらしいが私の場合、40歳台前半でコンタクトレンズを作り変えようと眼科に行った時に、習志野市内の眼科医(男性)が「年齢からいって当然、老眼が出てきているはずですが」と言ったのだが、その時点では私は老眼はまったく出ていなかった・・のだが、40歳台の終わり頃から老眼が出てきて、そうなると近視と老眼の両方をわずらうことになり、その条件での学習はその分だけハンデとなった。しかし、盲目の人で司法試験に合格した人とかもあるわけだから、人との比較で考えるのではなく、自分自身としてこれを学びたいと思うものがあれば、少しくらいのハンデがあっても学べばよい。
  又、50歳台の終わりくらいから、それまでと違って思い出せないものが多くなったように思えてきた。そのうち思い出すのだが、それでも、それまでよりも思い出すのに時間がかかるような気がした。しかし、それだって、人との比較ではなく自分が学びたいと思うものがあれば学べばよいのだ。私がいつも思ってきたのは、狭山事件の石川さんと足利事件の菅家さんで、石川さんは逮捕された時、文字が読めなかった。だから、警察官から筆跡を調べるためと言って犯人が届けた脅迫状を見せられて、これを書けと言われ、文字が書けない石川さんは脅迫状の字を真似て書いたところ、「筆跡が似ている」とされた。文字を書ける人間ならば、その文章を自分の筆跡で書くが、文字を書けない人は何と書いてあるのかもわからないから犯人の脅迫状をそのまま形を真似て書いたら「似ている」とされたらしい。似ていて当たり前だったのだが、それが犯人の扱いにされる原因のひとつになった。石川さんは自分が無学だったからこういう扱いにされたのだと思い、30歳を過ぎてから学び出したという。足利事件の菅家さんは知能指数がごくわずかだが低い方の人だったらしく、自分が無学だったことからこういった扱いを受けたと考えて、すでにある程度以上の年齢になっていたが、そこから法律についても学ぶようになったらしい。韓国の大統領になった金大中は、1973年、東京のホテルオークラから拉致され、結果としては拉致事件だったが実質は殺人未遂事件だったらしい。韓国の軍事政権から牢獄に入れられることがあったが、金大中は牢獄の中でフランス語を学び習得した・・と何でだったか読んだ。野村克也のじいさんが野球選手を引退したのは42歳だったか、南海ホークスの選手兼任監督を解任されたことから、南海ホークスが消滅するまで監督やコーチにならせてもらうことができず、その後、ヤクルトスワローズの監督になったというのも、南海ホークスと同じパリーグもしくは関西の球団での採用は難しかったらしいが、西武ライオンズの選手をやめた後、知り合いだった草柳太蔵から「若いじゃないですか。フランスの大統領は70歳からロシア語を勉強したといいます」と言われたという。そういった話を読み聞くと、若い頃に比べると能力的に劣るところが出てきたとしても、それがどうした・・という気持になる。
  逆に、2001年、(株)一条工務店https://www.ichijo.co.jp/ の栃木県南部営業所の「副所長」という役職で所長の仕事をしていた木下(男。当時、40代前半)から「あんたはインテリアコーディネーターもキッチンスペシャリストも宅地建物取引主任者(⇒宅地建物取引士)も何の努力もしてないのに簡単に通る。ぼくらはどんなにしても通らないのにあんたは簡単に通る。ズルイ!」などと言われたのだが、むしろ、木下の方こそ「ズルイ!」はずだ。第一に「インテリアコーディネーターもキッチンスペシャリストも宅地建物取引主任者(⇒宅地建物取引士)も私は合格するまで「何の努力もしてない」ことないし「簡単に」なんて通ってないし、同社の過酷な営業の仕事をこなしながら学習時間をひねり出して苦労して工夫して努力してやっと通ったのであり、私と同じだけの努力をしていない者が「ズルイ!」などと口にすることの方こそ「ズルイ!」。もしも、木下が私よりも学習能力が2割劣っていたとしたならば、それでもそういった資格試験に通りたかったなら、2割学習能力が劣っている人は人よりも2割増しの努力をすればいいことではないか。それを2割増しどころか、何もしないでおいて「どんなにしても通らない」とは片腹痛い。そういう文句は何かやってから口にすべきであろう。2002年、ラジオの野球中継を聞いていたところ、解説者の豊田康光が巨人に入団した高橋由伸について「彼の手を見せてもらいましたらね。手のひらにものすごいタコをつくっていましたよ。彼のことを天才とか言う人がいますが、そうではなく、相当の努力をしていますよ」と話し、「昔から言うように『天才とは努力の代名詞』と言いますが、その通りです」と話していたが、「ぼくらはどんなにしても通らないのに、あんたは簡単に通る。ズルイ!」とか何とかズルイことを言うやつにその文句を聞かせてやりたい気がする。但し、やはり、野球中継の時にアナウンサーが話していたことだが、巨人に入った松井秀喜のお父さんが新興宗教をやっている人らしく、そのお父さんが「努力しようという気持になれるということが才能である」と言っていたと話していたのだが、「ぼくらはどんなにしても通らないのにあんたは簡単に通る。ズルイ!」とか勝手なことを言う人というのは、その「努力しようという気持になる」という才能に欠けている人と見ることができるのかもしれない。しかし、もう一度、↑ に述べたことを振りかえってみたいのだが、狭山事件の石川さんは自分が犯人でもないのに犯人とされてしまったというのは自分が文字も読めない書けない人間だったからだと思って、30歳くらいから学習を始めて今では普通に読み書きもできる人になったとか、そういった話を考えてみると、「あんたはインテリアコーディネーターもキッチンスペシャリストも宅地建物取引主任者(⇒宅地建物取引士)も何の努力もしてないのに簡単に通る。ぼくらはどんなにしても通らないのにあんたは簡単に通る。ズルイ!」などと勝手なこと言ってるやつというのは、何を言ってやがる( 一一) ・・て感じがする。
狭山事件の真実 (岩波現代文庫) - 鎌田 慧
狭山事件の真実 (岩波現代文庫) - 鎌田 慧
  足利事件(冤罪を証明した一冊のこの本) (講談社文庫) - 小林篤
足利事件(冤罪を証明した一冊のこの本) (講談社文庫) - 小林篤
  しかし、そうはいっても年齢をいくと学びにくくなるものはある。ひとつは、仕事で活かすための学習の場合で、仕事が忙しくて学ぶ時間を取れないというのは若い頃からそうだが、残り何年働くかといったことを考えてみて、何年かかけて資格試験に合格しても合格後に働ける年数がたいして長くないと思うと、そんな資格を取ってもしかたがないか・・と思うようになったりする。 又、新たにその資格を取っても、自分の年齢を考えると、せっかくその資格を取ってもどこも雇ってくれないのではないか、と思うと努力して取得する意味はないのではないかとか考えるようになる。
  そして、愛知産業大学の通信課程の建築学科に行って思ったことだが、ある程度の年齢になると、それまでに吸収したものがあるので、それを「吐き出す」ことができるため、記憶力といったものは若い頃よりそれほど低下はしていなくても、「吸収する」作業というのは苦手になるということがあるように思った。推理小説家の内田康夫が書いていたのだが、小説家として大成するには40歳台でデビューするのがいいという説があるそうで、内田康夫はまさにその40歳台前半で推理小説かとしてデビューして80歳台で他界するまで書き続けたのだが、小説家の場合はそれはあると思う。芥川賞の受賞者が最年少とか言われたりする年があるが、あまり若い年齢でそういう賞を受賞してしまうと、その作品は評価されたとしても、それまでの人生で吸収したものがたいしてないのに「作家」という評価を受けてしまうと、その後、吐き出そうと思っても吐き出すものが内部にないから吐き出しようがないという場合があるのではないか。現実にそんな「芥川賞受賞作家」がいるのではないか。しかし、「それまでの人生で吸収したものがある」というのは「吐き出す」ことが必要な場合はいいが、「吸収する」作業をしようとする場合には、「吐き出す」のと「吸収する」のは逆であるので「吐き出すものがある」のが妨げになる場合もある。愛知産業大学の通信課程の建築学科でレポート課題を作成していて、それを私は感じた。何で読んだか忘れてしまったが、東大の教授だった廣松渉が「最近、本を読んでも頭に入りにくくなった」と友人に話したところ、「その年齢で読む必要はないだろ。むしろ、遺書がわりに書け」と言われたと「朝日ジャーナル」だったか「週刊朝日」だったか他の雑誌だったかで読んだことがあるが、私はその頃の廣松渉教授ほどの年齢にはまだまだならないが、記憶力がどうこうよりも、年齢とともに「吐き出す」ことができるものを持つようになった者は、「吐き出す」のと「吸収する」のは頭脳の働きとして逆の動きであり、「吐き出す」ことはできても「吸収する」のがしにくくなる、ということは現実にあると思った。
  何の因果か住宅建築業界の会社に勤めたが、どうも、この業界では建築学科卒の者に比べて社会科学系学部卒の者が軽んじられる傾向がある。なおかつ、(株)一条工務店https://www.ichijo.co.jp/ のような一族とその縁故が幅を利かせている会社、かつ、一族と縁故は大部分が高卒か中卒という会社においては、「学歴で人を差別してはいかんだろうが」などと総務部長の天野雅弘が私に言ったことがあったのだが、その場合、中卒高卒の人間というのは大卒のどういう学部卒の者と同じ扱いにしないといけないと主張するのかというと、経済学部・商学部・法学部卒の者と中卒高卒の人間を同じ扱いにしなきゃいかんだろうが・・という主張をするのであり、建築学科卒の人間というのは「バカでも入れる私大の建築学科」卒の者は同社においては大学でて新卒入社したその日からお殿様であり特権階級だった。そういう「バカでも入れる私大の建築学科」卒の人間というのが右も左もわからんくせして「学校でてるんだから」とか言いよるわけだ( 一一) かつ、(株)一条工務店の営業本部長の天野隆夫はそういう人間を増長させるのが趣味だった。
・・趣味なのだ( 一一)
  そういう会社に勤めてくると、なんか社会科学系学部卒でこの会社〔(株)一条工務店〕に入社するとあほくさいなあ・・と思うようになった。それならいっそのことどこかの大学の建築学科の二部(夜間)にでも行って「建築学科卒」になってやろうかとか考えたこともあったのだが、ところが、難しい点が2つあって、二部(夜間)の大学といっても、それは午前9時から午後5時までとかいう仕事で残業はそれほどないという仕事についている人ならば、その後、二部(夜間)の大学に行くことはできるのだが、(株)一条工務店の営業なんて「5時から男」とか「夜の仕事」とか言われるような、ひとが仕事を終わって家に帰ったころに訪問して営業する性質の仕事の者にとってはその二部(夜間)の授業時間が仕事時間であり、とても行けたものではなかったのだ。たとえば、千葉大学の工学部は一部と二部があるが、二部(夜間)といっても(株)一条工務店などの営業が仕事を終える夜の11時とか12時とか午前1時とかから授業が始まるわけではなかったのだ。放送大学なんて大学もあるので、放送大学に建築学科はないかと調べたがなかった。通信課程の大学というのがあり、慶應大学にも法学部・経済学部・文学部に通信課程があり、夏休みになると日吉キャンパスに通信課程の人がスクーリングに来ていたのを見たことがあったが、慶應大学の通信課程もあるのは法学部・経済学部・文学部であって医学部や理工学部には通信課程はなかった。大学ではなく専門学校なら大学よりも負担が軽いということはないかといったことも考えて、中央工学校とかのホームページを見たりもしたが、負担はそれほど軽くはなかった。法学部・経済学部・文学部には通信課程のものがあるのに対して、工学部・理工学部の場合は通信課程は難しいようで、建築学科の場合には通信課程は無理かとなかば諦めていた。
  ところが、2008年にポリテクセンター千葉の建築CAD科に半年通った時に「パワーポイントでプレゼン資料を作ってみましょう」という課題があって、受講生の作品をCDにまとめてもらったのだが、そこで「通信課程の建築学科について」というものを作成していた人があり、その人の作品を見て通信課程でも建築学科の大学があることを知った。
  どこにあったかというと、インターネットで調べたところ、愛知産業大学の造形学部に建築学科があり、他に名称は建築学科ではないが建築を扱い、卒業すると二級建築士の受験資格を得ることができるものとして京都造形芸術大学(最近、京都芸術大学と名称変更したらしく、京都市立芸術大学と紛らわしく、京都市立芸術大学からクレームが入ったが裁判所は京都芸術大学を名乗ることを認めたらしく、京都市立芸術大学としては略称として「京都芸大」は名乗らないという条件をつけたらしい)に「建築デザイン学科」だったかそんな名称の学科があった。さらに、愛知産業大学の通信課程の建築学科についての入学ガイダンスを聞きにいった時に愛知産業大学の先生から聞いたのだが、もうひとつ、大阪芸術大学にも建築学科の通信課程があるらしいことを知った。但し、愛知産業大学と京都造形芸術大学(現 京都芸術大学)の場合は、通学過程と通信課程が2本立てで、通信課程用のスクーリング用の会場や試験会場が東京にも用意されているのに対して、大阪芸大の場合は慶應大学では通学過程が主であって通信課程のスクーリングは通学過程の講義がおこなわれない夏休みの期間にだけおこなわれていたのと似ていて、大阪芸大がある大阪府の羽曳野市だったか柏原市だったかでだけおこなわれていたので、大阪芸大に近い場所に住んでいる人はいいが、そうでない人にとっては愛知産業大学や京都造形芸術大学(現 京都芸術大学)に比べるとやりにくいようだった。
  私は建築学科というと工学部・理工学部にあるものと思い込んでいた。北野高校の同じ年代の人で建築学科に行った人というと京都大学工学部建築学科・大阪大学工学部建築学科・神戸大学工学部建築学科といった所に行った人があり、浪人した上で併願する大学というと早稲田大学の理工学部に建築学科があるので早稲田大学理工学部を併願で受ける人があったはずだ。他には千葉大の工学部に建築学科があるのは知っていた。1992年に(株)一条工務店に入社して西岡常一・小原二郎『法隆寺を支えた木』(NHKブックス)を読んだが、その著者の小原二郎さんは千葉大学工学部建築学科卒だった。東京工大にも建築学科はあった。戸建住宅建築業の会社に勤めて『これだけは知っておきたい 住宅の設計と施工の知識』(鹿島出版会)を購入して読んだのだが、この本の編著者の高田修三という人は東京芸大の建築学科卒で、なんで東京芸大に建築学科があるの? と思い、その時に芸術学部・美術学部に建築学科がある大学があることを知ったが、東京芸大だけかと思っていた。〔愛知産業大学の守屋先生に聞いた話では日本の大学では私立大学では芸術学部・美術学部にある建築学科もあるが国立大学では東京芸大以外は工学部・理工学部に建築学科があるがヨーロッパの大学では建築学科は芸術学部・美術学部にあることの方が多いらしく、ヨーロッパでは建築学科卒で建築以外のデザインの仕事につく人もあるらしい。〕 通信課程の建築学科があるのは愛知産業大学造形学部と京都造形芸術大学(現 京都芸術大学)と大阪芸大の3つで、いずれも芸術学部・美術学部系の建築学科だが、工学部・理工学部系の建築学科と芸術学部・美術学部系の建築学科はどう違うかというと、一般に工学部・理工学部系の建築学科でも意匠・デザインについても扱うが理工学系の科目に重心があり、芸術学部・美術学部系の建築学科でも理工学系の科目を扱うけれども意匠・デザインについての方に重心があるらしい。慶應大学の経済学部と商学部では、商業学・経営学・会計学なども扱うが経済学の比重が大きいのが経済学部で、経済学も扱うが商業学・経営学・会計学などの方の比重が大きいのがそのうちの商業学を代表させて学部名とした商学部だというのと似ているかもしれない。工学部・理工学部系の建築学科では実験を多くする必要があるので通信課程では難しいようで、それに対して芸術学部・美術学部系の建築学科は意匠・デザインに関してならば通学しなくても可能ということから通信課程の建築学科を持つ3つの大学はすべて芸術学部・美術学部系の建築学科だったらしい。
  愛知産業大学と京都造形芸術大学(現 京都芸術大学)では、愛知県岡崎市にある大学と京都市にある大学とであれば、地名のブランド力としては京都の方が強い・・が、実際には岡崎か京都までスクーリングを受けにいくわけではなくどちらも東京で受けるのだから、あまり関係はない。使用するCADが愛知産業大学はAuto CAD であったのに対して京都造形芸術大学はVector Works で、Auto CAD の方が本格的でマスターした場合に使いでがあるが、ともかく、卒業できるようにということならVector Works の方が易しいので、どちらがいいとはいちがいに言えなかった。私が愛知産業大学の方を選んだのは、説明会に行った時に来られていた先生では愛知産業大学の守屋先生の話がなかなかもっともなことを話す人だと思い、こういう人に世話になりたいと思ったということはあるが、他方、京都造形芸術大学の説明会に来られていた先生は比較的若い女性でなかなか魅力的だったので、そうなると男の気持ちとしてはそっちの方にふらふらふら~と行きそうになった・・が行かなかったというのはエライ♪・・・かどうかわからんが、他に年間の学費が愛知産業大学の方が京都造形芸術大学より安かったということがあり、そして、学科の名称が愛知産業大学は建築学科であったのに対して、京都造形芸術大学は大学の名称が「芸術」の大学だけあって芸術の中における建築という性質が強く、正確には忘れてしまったが「建築学科」ではなかったと思うのだ。住宅建築業界の採用担当者というのは「アホちゃうか」みたいな人もおり、もしも、応募した時のことを考えると「建築学科卒」だと評価されるが、京都造形芸術大学のように「デザイン学科」とかそういう名称だと「わかりよれへん」可能性が考えられる。そこから、愛知産業大学の方の通信課程に行かせてもらうことにした。
  しかし、実際に入学させてもらってみると、思っていたよりも大変だった。何が大変かというと、仕事を持ちながら学習するのは大変ということは最初からわかっていたが思っていた以上に大変だった。又、通信課程の大学というのは資格試験の勉強よりもシステムとして仕事を持ちながらやるのは難しいとわかった。又、通学過程ならば、同じ講座を受講している人と教室で話をして、自分はこういうようにやったという情報交換をすることができるのに対して、通信課程ではそれができない
  そして、私の場合、↑ に述べたように、すでに「吸収したもの」で「吐き出すことができるもの」がけっこうできていたので、「吐き出す」のと「吸収する」のは逆の動きであり、今さら「吸収する」ことに体が抵抗反応を示した。↑ に述べた廣松渉教授ほどの年齢にはなっていなかったが、しかし、「遺書がわり」とまでいかないとしても、書き残したいものはいっぱいあることを考えると、「吸収する」作業なんかしている時じゃないようにも思えた。
  愛知産業大学の方に入学させてもらい、結局、卒業できなかったが、入学説明会には京都造形芸術大学(現 京都芸術大学)の方にも行かせてもらったが、その際に、学生部長さんだったか何部長さんだったかが「すでに社会人としての勤務経験を持った方が、さらに学ぼうとして通信課程の大学に入学することを検討されるということに対して、心より敬意を表したいと思います」と言われたのだが、すでに50歳の年齢を超えて通信課程の大学の建築学科に行こうと考え、結果として卒業できなかったけれども、それでも、その年齢になってからでも通信課程の大学の建築学科に行って卒業しようと考えたという、その考えたというだけでも、私は「敬意を表したい」という気持を自分自身に対して持つ。「ぼくらはどんなにしてもできない」とかふんぞり返って言うやつとは大きく違う。野村克也のじいさんはヤクルトスワローズの監督だった時はいい監督だと思ったのだが、阪神の監督になってからは選手のせいにしたりこれまでの監督のせいにしたりで、南海以来のファンとしては情けない思いがした・・のだが、それでも、たとえ、阪神では3年間最下位であったとしても、それでも、そのままヤクルトの監督をあと3年やっていたならば、最低でももう1回は優勝できて「名監督」と言われて残りの人生を送ることができたであろうにもかかわらず、あえて最下位のチームの監督を引き受けて強くしようと野球の監督としてはすでに高齢になっているにもかかわらず挑戦した・・という点を高く評価したいと思うのだ。すでに一度、勤めた経験がある者が、すでにある程度の年齢になっているにもかかわらず、さらに通信課程の大学に行って学び卒業しようと挑戦する人というものに、私は卒業までたどりつけた人だけでなく卒業までたどりつけなかった人であっても、通信課程の大学に行って卒業しようと試みたというだけでもその姿勢に「敬意を表したい」と、自分以外の人に対しても自分自身に対しても思う。

  また、遠山啓『競争原理を越えて』(太郎次郎社)では、日本国憲法ではすべて差別は許さないと書かれているはずなのに、今では「学歴」による差別というものがおこなわれている。学歴が低い人は努力しても報われない。学歴が高い人は特に値打ちのない人でも優遇される・・などと書いてあったのだが、「バカ言ってんじゃないわ♪」・・てのが実際に会社という所に勤めた上での私の感想である。
※ 《YouTube-3年目の浮気 ヒロシ&キーボー》https://www.youtube.com/watch?v=H8vISMbjK7g
  もしも、本当にそうならば、とりあえず、もうちょっとマシな扱いしてもらいたいもんだ。「よく言うわ♪」「バカ言ってんじゃないわ♪」 俺なんか、ちっとも優遇なんかしてもらってないぞ( 一一) むしろ、(株)一条工務店なんて会社は「中卒高卒優遇主義」の会社であり逆だ。
  それから、潮見敏隆『法律家』(岩波新書)に、裁判官では上級審に行けば行くほど東大法学部出身者の割合が大きくなるというが、それは東大法学部出身者に優秀な人が多いからそうなっているのであって「学閥」とかいったものによるのではないという説もあるらしい。しかし、潮見敏隆教授は、たとえ、東大法学部出身者に優秀な人が多かったとしても、それでも、国民全体のことを扱う裁判官という職業において特定の大学学部の出身者の割合があまりにも大きいというのはいいと言えるのかという疑問が呈されていたのだが、実際のところ、ある職業において特定の大学学部の出身者が多かったとしても、はたしてそれが「学閥」とか「学歴偏重」とかそういうものによるのか、そうではなく、その大学学部の出身者に優秀な人が多いからそうなっているのかというのは、この判断はなかなか難しい

  遠山啓『競争原理を越えて』(太郎次郎社)が「学歴が差別を起こしている」と主張していることを引用して、「学歴によって人を差別するということは大変嫌なことですね」とか北野高校の3年の時の担任だった大谷郁三(男。当時、40代)は言うのだったが、大谷郁三の主張は「ちょっとずるい」と気づくようになった。1970年代後半、大谷郁三は「京都に行っていた時・・・」という話し方を進路懇談の時に私にしたことがあったのだが、「京都に行っていた時・・」と言われると京都大学文学部史学科卒なのか?・・と思いそうだが・・、たぶん、違うと思うのだ。後になってから思い出した。私が北野高校に入学した年に大谷は大手前高校から転任してきたのだったが、教諭が新任したり転任してきた時には始業式などで校長先生が生徒に紹介するのだが、私が北野高校に入学した年には新任してきた先生が1人、転任してきた先生が2人あり、数学のS田先生(男性)は「S田先生は北野高校を卒業されて大阪大学の理学部数学科に進学された後、大阪大学の理学部数学科の大学院に行かれてこの春に修士課程を修了され、母校に数学の教諭として勤務していただくことになりました」というもので、化学のM本先生(女性)は「M本先生は奈良女子大学の理学部化学科を卒業されて大手前高校で化学を教えてこられましたが、今年から北野高校に転任していただき化学を担当していただくことになりました」というものだったが、大谷だけは「大谷先生は大手前高校で日本史を教えてこられましたが、今年から本校に来ていただいて日本史を担当していただくことになりました」というもので、大谷だけ卒業した大学の名前がなかったのだ。その翌年、新任で赴任した数学の先生(男性)は「☆☆先生は北野高校を卒業して大阪大学理学部数学科に進学され、今年、卒業して母校の教諭として勤務していただくことになりました」というもので、さらにその翌年、英語の教諭として赴任した先生(女性)は「△△先生は北野高校を卒業後、大阪外大の英語科に進まれて今年卒業され、母校で教えていただくことになりました」というものだった。大谷だけが「なじかは知らねど」出身大学の名前がなかったのだ。〔⇒《YouTube-ローレライ (歌詞つき) 鮫島有美子 Die Loreley sung by Yumiko Samejima》https://www.youtube.com/watch?v=zbJy_EuY-mE 〕・・てことは、だ。会社が株主に送る「株主の皆さんへ」とかいう冊子にそれまで取締役の経歴を書いた欄に学歴が書かれていたのに、ある年から学歴の記載がなくなった・・なんてことがあるかと思うのだが、「なんでやろ?」と思って見ると、その年から「社長の息子」が取締役になりよった(^^♪ ・・てことは、「社長の息子」、あんまりええ大学でとれへんてことか・・(^○^)(^○^)(^○^) ・・て、マア、そんなとこやろ。それと似たようなものではないか。校長先生による紹介において大谷だけ出身大学がない・・てことは「ははあ~ん。なるほどお~お・・・」て感じが( 一一)
  北野高校の音楽の教諭だったN川先生(女性)が「私は1年生の担任をやってくれと言われるならやりますけれども、3年生の担任をやってくれと言われても断ります。ここの学校の生徒は京大とか阪大とか東大とかに行く人ですから、そういう3年生の担任はそういう大学の大学入試にある科目を担当している先生で自分自身がそういう大学を受けた経験がある人がやった方がいいと思います。私は、もしも芸大の音楽学部に行きたいとかいう人なら、私が受けた時のことなど話してあげることもできますけれども、京大とか阪大とか東大とかそういう大学の入試のことはわかりませんから、」と話されていた。それは良心的だと思います。大谷は日本史が担当だったので、京大とか阪大とかの文学部史学科卒かと最初思っていたのだが・・・、どうも違うみたいなのだ。「京都に行っていた時・・」という話し方だと「京都大学に在学した時・・」という意味と受け取りがちだが、違うみたいなのだ。私は高校生くらいの時は知らなかったのだが、世の中には「京都の大学卒」のことを「京都大学卒」みたいに言う人、「神戸の大学卒」のことを「神戸大学卒」みたいに言う人というのがゴマンといるのだ( 一一)  それやろ・・。
  たしかに、大谷が言うように、行きたいと思う大学学部に行けても行けなくても関係なしに自分が学びたいと思うものを学び続けることが大事だ、というのは間違いということはないだろう。しかし、大谷はどこの「大学」か知らんが史学科を卒業して高校教諭の資格を取得して高校教諭の仕事にありついたが、それを「卒業した大学によって差別することはあってはならないことですね」とか言うのだが、しかし、東大とか京大とかを卒業して高校教諭になった人からすれば、高校の教諭とかは「勉強してきた人」がなる仕事であり、「なんで、そんな大学に行ったようなやつが学校の先生になんかなるんや」という気持になる場合があるのだ。実際、中学校の同窓会があった時に中学校で担任だった先生から(けっこう正直な人だったようで)「『こんなやつが』というようなやつが教育実習にきてます」という話を聞いたのだが、「学校の先生というのは『勉強してきた人』がなる仕事」と前提するなら、なんで「こんなやつが」なるんや? という人が現実になっている。
  そして、進学校の教諭、特に3年の担任を担当する教諭というのは、京大・阪大・東大などを受けて通って卒業した人、もしくはそういう所に行きたいと思ったが行けずに早慶あたりに行った人か、そういう人がなるべきものではないのか。相撲の高砂親方(元大関 朝潮)は元大関の親方で元横綱の親方ではないから横綱の朝青龍を指導できないのではないかと言われたことがあったが、それについて「元横綱の親方というのは自分は達成したという気持でいる。それに対して、大関までなれたが横綱にはなれなかった者は引退してからも『なぜ、自分は横綱になれなかったのだろうか。どこが悪かったのだろうか』と、いつまでもいつまでも考え続ける。その思いを弟子の指導にぶつけるから、うまくいく。だから、元大関の親方が元横綱の親方に劣るということはない」とどこだったかに書いていたらしいが、実際、そういうことはあるのではないかと思う。だから、大学入試において、東大なり京大なりに行きたいと思ってさっさと現役で合格して行けた者と、浪人して行った者と、浪人した上で目標修正して阪大あたりに行った者と、受けたが落ちてしまって早慶あたりに行った者とでは、もしも、高校の教諭とか予備校の講師とかになった場合、どちらがより成果を出せるかはいちがいに言えないと思う。「週刊ポスト」だったか「週刊現代」だったかに載っていた話では、大王製紙の2代目は北野高校卒で東大を受けたが通ることができず、慶應大に行って卒業したが、息子には何が何でも東大に行かせたいと思い、そして、息子の3代目は筑波大付属駒場高校から東大に進学した・・・が、卒業後、大王製紙の3代目社長になったがラスベガスのカジノで「しょーもないことしい」やりよったあ( 一一) ・・ということらしいが、行けなかった者だからこそ、自分が指導する立場になった時に能力を発揮できる場合があると思う。『あしたのジョー』ではボクシングの試合中に眼を傷めて引退せざるをえなくなった丹下段平は山谷で若い男を見かけるたびに「おい、わけえの。ボクシングしねえか。おれがコーチしてやる。おれがコーチしてやりぁチャンピオンになれる」と言って誘うが、山谷のガキどもはそれを見て「拳キチ(拳闘きちがい)の親父、また、ボクシング誘ってやがる。若い男でさえあれば誰でも世界チャンピオンになれると思ってやがる。頭おかしいんじゃないかあ」とあざ笑う・・が、そこに現れたのが矢吹丈だった。「こいつだ。俺が捜していたのは、こいつだ」と。〔⇒《YouTube-【ジョーの子守唄】 小池朝雄》https://www.youtube.com/watch?v=JS9rX813290 〕
だから、大学入試においても東大とか京大とかにさっさと現役ですんなり通った方がいいか落ちた方がいいかというと、本人にとってはさっさと現役で通った方がいいのは間違いないが、もしも、高校の教諭とか予備校の講師とかになった場合にどちらがより成果を発揮できるかというと、それは一概に言えないと思うのだ。
  しかし、「京都の大学」卒の人とか「神戸の大学」卒の人とかはどうか・・というと、それはだめだと思うのだ。YMCA予備校高槻校で「主事」というよくわからん職種についていた藤井という男は年がら年中デタラメばっかり言いまくる男で、「こいつ、黙ってくれないか」といつも思っていた。ところが、うちの父親は「専門家やがな、専門家。専門家の言うことやがな、専門家。せ~んもお~くわぁあ~あ!」と言ってきかなかった。私が「あんなやつ、専門家じゃない」と言っても絶対にきかないのだ。「専門家」と称して「人に言うことをきかす」ということをやろうとする者が世の中にはおり、藤井もそのひとりだったのだが、うちの父親というのは、そういう「専門家」にしてやられることが多い人間だった。T=W=アドルノらの『権威主義的パーソナリティー』(青木書店)では「専門家」信仰が強い人間というのは、
ファシズム的傾向≒サドマゾ的人格≒権威主義的パーソナリティー=「専門家」信仰
と相関関係がある人間であることが多いことが指摘されているが、うちの父親などもそれが見られた。藤井は「ぼくは早稲田の政経でてるんだけどな」と一日に最低3度は言わないとおれない症候群の男で、それを聞いて私は「早稲田大学というのはくだらん大学なんだなあ」と思ったのだが、後から考えてみるとそういう問題ではなく・・⇒「あんな早稲田ないやろ」・・と考えるべきだったと思う。私はうちの親に「あの男は東大も京大も受けたこともない人間なんだから」と言ったのだが、うちの母親は「受けたことがなくても受ける生徒の指導をしてきた人なんだから」と言ってきかなかった。しかし、他の仕事ならば「大学はそんなにいい大学を出ていないけれども職場に勤めてからは一生懸命努力して実績を残しました」というケースだってあるかもしれないが、「京大東大文系クラス」と名付けた予備校のクラスの指導を京大も東大も合格していないだけでなく受けたこともないという人に指導できるのか・・というと、できないと思う。むしろ、「ちょっと黙っていてもらえませんか」と私は何度も思った・・し、実際、「遠回しに」「婉曲に」言ったこともあったのだが、「遠回しに」「婉曲に」言われたぐらいでは理解しない男だった。自動車学校で自動車の教習を受けるのに第1種普通自動車運転免許も持っていない人に指導を受けようと思いますか? 思わないでしょう。同様に、「京大東大文系クラス」の指導を亜拓大東帝国卒の人に指導を受けたいと思いますか? こういうことを言うと「差別はいかんだろうが」とか言いだす人がいるのですが、なんでそれが「差別」なのですか。
  そして、北野高校の3年の時の担任で「日本史」が担当だった大谷郁三もまたそれだったと思う。大谷は「大学入試の指導は高校の教師の仕事と違う」と言うのだった。最初、その「大学入試の指導は高校の教師の仕事と違う」という文句を聞いた時は、高校の教師の仕事というのは高校生が人間として立派な人格を備えて卒業でき、又、それぞれの科目について興味を持ち学習したいという気持になってもらう手助けをするのが主たる仕事であって、大学入試の対策を取るのが第一の仕事ということではない、という意味で言っているのだろうと思い込んでいた・・のだが違った。そうではなく、大谷は自分が大学入試についてわからないものだから、だから「大学入試の指導は高校の教師の仕事と違う」と言って居直っていたのだ。私は今でも「高校の勉強は高校の勉強だ」と思っており、慶應大学の内部進学の教授みたいに「小学校から高校までの勉強は受験勉強だ。害があるんだ」などとは思っていないのだが〔こういうことを言うと慶應の内部進学の人は激怒して殴りかかってくるかもしれないが、激怒されても「それでも地球はまわっている」からしかたがない〕〔また、「慶應心理学」は高校の勉強のことを「受験勉強」と言うのだが、「心理学」によるとそうなるのかもしれないが、私は「高校の勉強は高校の勉強だ」と思っており、入学試験にない科目や入学試験で出ないようなものまでも「受験勉強」と決めつける「心理学」の判断というのは適切ではないと考える。〕、しかし、大学入試において行きたいと思う大学学部の問題について「傾向と対策」を考え「試験に出る」部分を「出る順に」学習するのと、「ID野球 弱者の戦術」を取るのと、何も考えずにひたすらやるのとではそれが原因で結果に違いが出る生徒がやっていることに適切なアドバイスをできる人がそばにいるのと「大学入試の指導は高校の教師の仕事と違う」とか言ってるおっさんがいるのとでは、それが原因で合格か不合格か変わってみたりもするのだ。 高校の教諭が自分が担当している生徒にある大学学部に合格させたとしても、どこか他で落ちる人間が出ただけのことであり、そのこと自体は別段「社会の為に貢献した」ことにもならないが、しかし、そうであったとしても、目の前にいる生徒には何とか合格させてあげたいと考えるのがそれが「親心」とでもいうものではないだろうか。「大学入試の指導は高校の教師の仕事と違う」とか居直るおっさんが良心的だろうか。違うと思うのだ
  『ドラゴン桜』という漫画があって、高校3年の最初の時期において中学校でやっている内容も理解できていない男女2人に卒業時に東大の理科一類の試験に合格させてやろうという話だが、面白い話だとは思うが、さすがに高校3年の最初の時期において中学校の内容も理解できていない人に次の入試で東大の試験に合格させるというのは簡単ではないと思う・・・が、しかし、大学入試の模擬試験には「学力テスト型模擬試験」と「模擬試験型模擬試験」があり、後者としては駿台予備校の東大模試・京大模試、河合塾の「東大オープン」「京大オープン」、世予備ゼミナールの東大模試とかが該当し、前者は「全国総合模試」とかいったものが該当すると考えていいと思うのだが、その「実力テスト型模擬試験」の点数の順番に合否が決まるわけではないと私は思っている。1973年、前後期制度を実施したパリーグは前期優勝チームと後期優勝チームが5戦のうち3つ先に勝った方が年間優勝というプレーオフを実施したが、前期優勝の南海ホークスは年間通しての勝率で見ると2位ですらなく3位で、後期優勝の阪急は年間通しても1位だったが、プレーオフでは南海が3勝2敗で勝ちこして年間優勝を勝ち取った。野村のじいさんはその時のことを何度も何度も書き、又、テレビなどでも話していたが、「後期は阪急に3つ勝つことができれば、極端な話、他は全敗したっていい」と考えた、というのだ。大学入試においてもこれはあてはまる。YMCA予備校高槻校の「古文」の講師だった山之内というおっさんは「最低で京大、うまくいけば東大。さらに行けば亜細亜大だあ~あ♪」とか言っていたが、亜細亜大は冗談として、「最低で京大、うまくいけば東大」などという考え方をしていたなら、「通るものも落ちる」と思う。むしろ、東大と京大は試験科目も違えば配点も違い、出題傾向も違ったのだから、これは野球中継の時に落合が言っていたのだが、横浜ベイスターズの横山投手だったと思うが、試合途中に出てきた時に「私はこういうタイプの投手は大好きですね。ストレートとフォークボールの2つしか球種がないけれども、その2つが相当いいという大魔神佐々木の小型みたいなピッチャーですね。こういう投手を打つには、ストレートとフォークボールのどちらか片方に絞って、もしも、自分が狙ったのと違う方の球が来た時には、その時には『ごめんなさい』と言うしかないです。それでだめだと言われても、プロのピッチャーが投げるストレートとフォークボールの両方を同時にねらったって打てるわけないのだから、そうするしかないでしょう。それではだめだと言われるなら、俺みたいな人間に打たせる者が間違ってるんだとでも考えるしかないですよ」と話していたのだが、それに似ているように思うのだ。東大と京大は試験科目も違えば配点も違い出題傾向も違ったのだから、「どちらか片方に絞って」やった方が合格に近づいたと思う。YMCA予備校の「主事」の藤井は「浪人したからには京大に行きたいと思ったら、模擬試験で『通った人8人、落ちた人2人』くらいの成績を取らなかったら受けてはいかん。東大ならそれ以上の成績を取らなかったら受けてはいかん」などと言っていたが、そんなこと考えていたら通るものも落ちるだろう。そもそも、「模擬試験で京大なら通った人8人、落ちた人2人」なんてそんなものすごい成績なんて簡単に取れると思うか? 中に「結果として取った」人はいるかもしれないが、それは「結果として取った」のであり、最初からその成績を「模擬試験で取れなかったら受けてはいかん」などと考えていたならば「通るものも落ちる」。そんなもの、取らなくてもいいんだよ。そうではなくて、「後期は阪急に3つ勝つことができれば、極端な話、ほかは全敗したっていい」という考え方でやった方がうまくいく。『ドラゴン桜』の話にある高校3年の初めの時点で中学校の内容も理解できていない生徒に次の入試で東大の理科一類に合格させる・・というのはさすがに簡単ではないと思うが、物事の考え方として、試験の問題の内容を分析して「試験に出る」部分を「出る順」に効率よく学習するようにすれば、「模擬試験型模擬試験」での成績が「1位」ではなく「3位」くらいであっても東大の試験に合格できる可能性は十分ある・・と考えるべきだ、と私は思う。野村じいさんもプロ野球の公式戦で年間通じて上位の成績を取る戦い方とプレーオフや日本シリーズの短期決戦で勝つ戦い方は戦い方が違うと述べているが、それと似ている。YMCA予備校高槻校の「主事」の藤井が言っていた、東大を受けたいと思うなら「学力テスト型模擬試験」で「京大なら通った人9人・落ちた人1人くらいの成績を取らなかったら受けてはいけない」なんて考えは間違いで、そうではなく「学力テスト型模擬試験」ではプロ野球で言うところの3位くらいの成績でもいいから、「模擬試験型模擬試験」および本番の試験で合格最低点よりも1点でも多い点数をなんとかもぎ取る方法というものを考えるべきであり、それこそが「ID野球 弱者の戦術」とでもいうものだろう。「4番ばっかり、一塁手と三塁手ばっかり集めた巨人」に勝つ方法、「『模擬試験型模擬試験』で高得点を取ってもその大学学部の試験では合格最低点より低い点しか取れない人」に勝つ方法である。
※ 《YouTube-【ヤクルトスワローズ】東京音頭 くたばれ読売》https://www.youtube.com/watch?v=5pD6NjDEDXE
短期決戦の勝ち方 (祥伝社新書) - 野村 克也
短期決戦の勝ち方 (祥伝社新書) - 野村 克也
こういったことは、実際に受けた経験がある人間でないとわからないと思うのだ。「大学入試の指導は高校の教師の仕事と違う」とか何とかかんとか、ねったらもったらねったらもったら言いまくる人が担任である場合と「俺が指導してやる。俺が指導してやれば世界チャンピオンにだってなれる」という意気込みの人が担任である場合とでは間違いなく差が出る・・と思う。元大洋ホエールズの平松はもともとは巨人ファンだったらしいが、高校卒業した年は巨人はドラフト1位で堀内を指名すると聞いたので社会人野球の日本石油に入ったが、日本石油で1年いた後、巨人のスカウトから「きみを1位で指名するから巨人で頑張ってほしい」と言われ、そのつもりでいたところ、巨人が指名したのは東京六大学野球出身の捕手の槌田だった。巨人のスカウトから「手違いで申し訳なかったが来年こそきみを指名するから巨人に来てほしい」と言われ、「馬鹿にすんな」と思ったらしく、大洋ホールズに入った後、カミソリシュートを武器に「巨人キラー」として活躍したが、YouTubeの動画で平松が「野村さんが『怨念のパワーは人間に1.5倍の能力を発揮させる』と言っていたように、まさにその通り、相手が巨人となると『おのれ、川上。何があってもこの相手にだけは負けるもんかあ』という気持になって投げた」と話していたが、落されて行けなかった者にはその「怨念パワー」のようなものがあるのであり、合格させてもらってそこに行った者に負けてなるものかあ・・という気持を持つ者は高校の教諭なり予備校の講師なりになった場合でも「1.5倍の能力を発揮」する。
  大谷郁三は片方で「大学入試の指導は高校の教師の仕事とは違う」と言うのだったが、他方で、うちは親とのつきあいに苦労していたのだが、高校の教諭なら、高校の担任ならば少しくらい協力してくれてもいいのではないか・・と思ったが何の助けにもなってくれなかった。何ら協力してくれなかった。むしろ、逆だった。
  大谷が「出身大学によって人を差別してはいけない」と遠山啓『競争原理を越えて』(太郎次郎社)を引用して主張するのは、「京都の大学」卒の大谷が「京都大学」とか「東京大学」とか卒の人と「差別」されるのは不当だと言いたいということだったようだ。同様に、会社とう所において「一流大学」卒の人間が高卒や中卒の人、「五流大学」卒の人が「一流大学」卒の人と「差別」されるとうのは不当だ、同じ扱いにしなければならないという主張をするのだった・・が、そうか?
  そして、遠山啓『競争原理を越えて』(太郎次郎社)および大谷郁三は理学部数学科卒の人がそうでない人とは違って理学部数学科の大学院に行って数学者になったり高校の数学科の教諭になったりすること、文学部史学科卒の人が大学院に行って歴史学者になったり高校の日本史の教諭になったりするのは当然の権利であって、それに対して経済学部・商学部・経営学部や法学部卒の人間が会社という所に勤めた場合には高卒の人・中卒の人や「五流大学」卒の人と同じ扱いにしなければ「差別」であり人間として許されないことだ・・と主張するのだが、それはずるいてことないか? 理学部数学科とか文学部史学科卒の人というのは価値があることを大学でやっていて、それに対して経済学部・商学部・経営学部や法学部卒の人間というのは「何の価値もないことやっているのだから、中卒や高卒の人間と同じ扱いにしなければ差別だ」という主張はそれは身勝手というものではないのか。
  誰に言われたか記憶がはっきりしなくなってしまったのだが、(株)一条工務店でだったと思ったのだが、「おまえは慶應でマーケッティングとかやって遊んでたんだろう」などと言われたことがあった。まず、「マーケティング」は「マーケティング」であり「アクセントは頭にあり」「小さい『ッ』は入らない」。慶應大学の商学部の「日本産業論」という講義の時だったと思うのだが、教授が「きみたち、『マーケティング』は『マーケティング』であって『マーケッティング』ではありませんからね。アクセントは頭にあります。小さい『ッ』は入りませんからね。会社に勤めて慶應義塾の卒業生が『マーケッティング』なんて言ったら恥ですからね」と言われたのだが、ところが、会社に勤めて「マーケティング」と言うと「おまえ、『マーケティング』なんて言いやがって腹立つなあ。『マーケッティング』と言え」とか言って怒られるのだった( 一一)  「マーケティング」は慶應用語であって会社用語としては「マーケッティング」らしいのだ( 一一)  ついでに会社という所の「エライ人」は「バブル経済」のことを「バルブ経済」と言います。「バルブがはじけたからなあ」とうちの父親なども言っていました( 一一)  「エライ人」用語としては「バルブ経済」なのです。そういう人に「バルブ経済ちゃいまんがな。バ、ブ、ル経済でっしゃろ」なんて言ったら怒りますからね。怒られてまで教えることない・・て気持ちになります( 一一)
  森川英正『日本経営史』(日経文庫)・『日本財閥史』(教育者歴史新書)では、日本の企業において一族ではない「学識者」の採用が明治以降おこなわれてきたが、最初は工学部・理工学部などの技術畑の人間の採用がおこなわれ、社会科学系学部卒の者の採用はその後におこなわれたということが述べられている。 慶應大学の教授先生で「東大・京大や慶応・早稲田といった大学の卒業生だらけという会社に勤めるとライバルはいっぱいいて、その競争に勝つのは大変で、なかなか実力を発揮する場がないけれども、東大・京大や慶応・早稲田といった大学の卒業生をなかなか採用できないというくらいの会社に勤めた方が、ライバルがいないから経験を積む場もあれば実力を発揮する場もあっていい」と言われる方が複数あったのだが、(株)一条工務店に入社して2年目に入った頃、営業本部長の天野隆夫から「〇〇くんが応募してきた時はびっくりしたなあ。うちの会社に慶應大学卒の人が来てくれるのかと驚いた」と言われた。その時点で従業員数千人未満の会社で・未上場の会社で・浜松では知名度があっても東京圏や関西圏ではまったく無名の会社で・財閥系でもなく・地方に本社がある会社だったが、そこまで喜んでもらえるのなら悪くないだろう・・と思ったのだった・・・が、ところが、「東大・京大や慶応・早稲田といった大学の卒業生だらけという会社に勤めるとライバルはいっぱいいて、その競争に勝つのは大変で、なかなか実力を発揮する場がないけれども、東大・京大や慶応・早稲田といった大学の卒業生をなかなか採用できないというくらいの会社に勤めた方が、ライバルがいないから経験を積む場もあれば実力を発揮する場もあっていい」という理論が適用される会社ではなく、そうではなく「建築学科卒の人間は尊重されるどころか『新卒入社したその日からも左もわからない人間がお殿様』である会社」であるとともに「『学歴で人を差別してはいかんだろうが』と言って中卒高卒の人間を社会科学系学部卒の人間よりも優遇する会社」であり、その後半の方については「明治維新以前の会社」「江戸時代の会社」だった( 一一)
  日本の大学の理学部数学科とか文学部史学科でやっていることは価値があるが経済学部・商学部・経営学部という所でやっていることというのは(株)一条工務店の誰だったかが言ったような「マーケッティングとかやって遊んでたんだろう」というようなものなのか? そうではあるまい。森川英正『日本経営史』(日経文庫)・『日本財閥史』(教育者歴史新書)では、社会科学系学部卒の学識者を活用した会社が大きく発展し、社会科学系学部卒の学識者の活用をおこなわなかった会社はそれほど発展しなかったという事実が述べられていて、それを「学歴偏重」とか言うのはあたりませんと述べられているが、私もそう思う。理学部数学科とか文学部史学科とかを卒業した人はそれを評価されて当然で、経済学部・商学部・経営学部や法学部卒で会社という所に勤めた人は中卒や高卒の人や「五流大学」卒の人と同じ扱いにしなければ「不公平」で「差別」だという遠山啓や大谷郁三の主張は適切ではないと思う。遠山啓や大谷郁三は会社という所に勤めたことがない人間であり、実際に、(株)一条工務店のような会社においては社会科学系学部卒の人間なら認識できているようなことを認識できていない「高卒のおっさん」は認識できておらず、そのおかげで従業員が苦労させられているという実状を理解できていないのである。
日本財閥史 (教育社歴史新書 日本史 123) - 森川 英正
日本財閥史 (教育社歴史新書 日本史 123) - 森川 英正

  末広厳太郎『法学入門』(日本評論社)では、法は「パンのための学問」と言われるが法学を学ぶことは、法学部の教員とか裁判官・弁護士のような法律そのものを職業とする仕事ではない一般の会社員などになった場合に役立つものなのか。 それについて、「大学の法学部で学んだことなんて忘れてしまったころになって役立つ」と言われると述べられている。 どういうことかというと、法学部の学生は法律を学ぶという時、どういう条文があってどのような解釈になってといったことを学ぶが、しかし、法律の条文をすべて暗記している人なんていないし、法令は時代とともに変更されることもあり新たな判例がでることもあり、それまでになかった問題が提起されることもあるが、「大学の法学部で学んだことなんて忘れた頃になって役立つ」というのは、そこで「役立つ」のは法令の細かい解釈ではなく「法学的の考え方」のことであるからだという。実際、そうではないか。
(新装版)法学入門 - 末弘 厳太郎
(新装版)法学入門 - 末弘 厳太郎
  但し、勤める会社にもよるかもしれない。(株)一条工務店は営業本部長の天野隆夫が「一条工務店には『労働基準法は守らない』というルールがある」だの「労働基準法は守らないというのが一条工務店の会社の方針だ」などと何人もを前にして発言していた。労働基準法という法律については、厳密に守れていない会社というのは実際問題としてけっこうあるかと思うが、しかし、「一条工務店には『労働基準法は守らない』というルールがある」だの「労働基準法は守らないというのが一条工務店の会社の方針だ」などと上から何番目かの男が明言・公言する会社というのはそれほどないのではないか・・と思うが、(株)一条工務店という会社はそういう反社会的勢力の会社だった。その反社会的勢力の会社・法敵企業から「寄付金」と称してカネをもらっていたのが「浜松市」であり「東京大学」だった。「浜松市」と「東京大学」は、いわば、盗っ人の仲間である。
  ところで、そういう会社においては労働法などを学んできた人間というのは、それだけで「腹立つ」らしかったが、私はそういう思考からしておかしいと思うのだ。会社を運営していくのに会社法・労働法は大きく影響し、その2つの法律は特に経営者は認識しないといけない法律のはずだ。だいたい、1996年に社長を退任したはずの大澄賢次郎が2011年に東日本大震災の後、浜松市に(株)一条工務店が300億円の寄附をすると言い出した時になると、社長は他の人間なのにそういう時には「初代社長」として表に出てくるというのは会社法の考え方としておかしいであろう。何か問題があって代表取締役が責任を問われる時になると「影武者」としてならせた社長に責任を負わせ、「また、ええかっこしいやったろ思うてはるう」てのをやろうとう時には「初代社長」として現在は社長でも会長でも相談役でもないのに出てくる・・というのは、それは会社としておかしいし、会社法の考え方としておかしいであろう。
  労働基準法・労働安全衛生法・労働契約法などの労働法は何のために存在するのか。
(1)  労働者の権利を実現して、労働者が主人である国としての社会主義体制を実現するステップとして位置付けるという考え方が社会主義を目指す人たちにはあった。
(2) しかし、片方で労働法が充実した場合に資本制経済を打倒して社会主義経済を目指す動きになるのか、というとそうとは決まっていない。カール=マルクスは資本制経済が十分に発達した国において最初の社会主義革命は起こるであろうと考えたにもかかわらうず、最初の社会主義革命としてのロシア革命は資本制経済が十分に発達していないロシアで起こったのはなぜか。その考察として、西ヨーロッパやアメリカ合衆国においては、資本と労働との関係において、労働者の側の主張を資本の側がある程度の譲歩をしたり妥協したりすることで資本制という経済体制を維持していくしくみができていたのに対して、資本制経済が十分に発達していなかったロシアにおいてはそういったシステムができておらず、「根底からひっくり返す」しかなかった。だから、労働法が充実した国においては「根底からひっくり返す」必要がないことから、むしろ、資本制経済は維持される・・という方向に進む可能性も考えられ、労働法というものは資本制経済を維持しながら資本・使用者と労働・労働者との関係を調整していくための方法
(3)そして、世界における競争の公平化をはかるため、劣悪な労働条件でも働くことが許容される国の存在を認めない動きがあり、そのために、日本でも労働基準法その他の労働法を整備していますよお・・と国際的にアピールする必要があり、それゆえに労働基準法などは相当内容があるものが規定されているにもかかわらず、現実には守られておらず、なおかつ、労働基準監督署と労働基準監督官という「労働基準法違反を取り締まっているふりをしながら取り締まらないということを仕事としている」公務員がおり、彼らは「労働基準法違反を取り締まっているふりをする」ことで対外的にアピールしながら、国内的には労働基準法を取り締まらず、労基法違反を訴える従業員・元従業員に対しては、な~んとか取り下げさせようと精力的に努力している。国際的な基準を定めて(実際にはその基準を守っていない会社が多いのに守られているかのように)対外的にアピールするためのもの、という性質があるのではないか。
(4)末広厳太郎『法学入門』(日本評論社)で法学部でやっている内容は裁判官・検察官・弁護士や大学の法学部の教員といった「法律そのもの」を職業とする仕事でない一般の会社員になった場合においても役に立つものだが、それは法律の細かい解釈や細かい知識よりも「法学的の考え方」の方だというのだが、労働基準法・労働契約法などの労働法においても、それらの条文や内容をすべて間違いなく理解している人は多くないはずだが、基本的な考え方といったものについて理解できている者とそうでない者とでは大きな違いがある。この「法学的の考え方」「労働法の基本的な考え方」を身に着けている者が経営に携わる場合と「労働基準法は守らないというのが方針だ」と公言する程度の低い人間が経営に携わる場合とでは、会社にとって「労働法の基本的な考え方」を身に着けている者が経営に携わった方がうまくいくと考えていいのではないか。資本・使用者の立場からすれば、労働法の細かい部分について労働者側・従業員側が有利になる部分について守らない方が使用者は得という場合があり、守りたくない時もあるかもしれないが、部分的・細かい部分について完璧に守れていないということならばともかく、「労働基準法は守らないというのが会社の方針だ」とか「(株)一条工務店には労働基準法はまもらないというルールがある」だのと公言するようでは、それは「この法律のシステムに沿ってやればうまくいく」というものを否定していることであり、経営の側にとってもマイナスになることが考えられる。細かい部分で労働者側・従業員側が有利になる部分を守りたくないと使用者が思う時があってもまったくわからないことはないが、労働法というのは「このシステムに沿って運営すればうまくいく」というものであると考えることができるのであり、それを否定してしまうなら使用者の側にとってマイナスになることが考えられる。
(5) そして、労働基準法というものは、使用者側に対して「こういうことはしてはいけません」という規定があるとともに、「こういうことはやってもかまいません」という規定もあるものであり、それから考えるならば、会社使用者は私のように大学の社会科学系学部において労働法などを学んできた者を敵視するのではなく、むしろ、そういう者を活用するべきであるはずだ。もちろん、大学の社会科学系学部において労働法などを学んできた者といえども、労働法の分野について何から何まで理解できているわけでもなく、又、法の改正もあれば新しく判例がでる場合もあり、時々刻々変わる部分もあるのだが、私のように最終学校卒業までに基本的なものを身に着けている者と(株)一条工務店のオーナー一族が好きな「高卒のおっさん」とでは差が大きいのは明らかであり、(株)一条工務店の一族の経営者が好む「高卒のおっさん」には・・⇒実際問題として、無理でしょう・・というより、明らかに無理です
  森川英正『日本経営史』(日経文庫)では大卒の「学識者」が会社において人事担当になったような場合に労働者に対して「同情的態度」を取ることが多くあったことを指摘し、「学識者」の活用が「差別」になるとかそういった主張は間違いであり、むしろ、「学識者」を活用してこそ、労働者のためにもなることを述べていますが私もそう思う。一般従業員のためにならない「高卒のおっさん」を私は会社という所で嫌程見せられてきた。
  だから、遠山啓と日教組、および大谷郁三の学識者を活用することが「差別」になるとかいう主張は見当はずれなものと言わざるをえません。

  2000年代、千葉市稲毛区に本社がある千葉県を中心としたリフォームの会社の(株)ウッディホームhttps://www.woodyhome.com/ で「研修用ビデオ」なるもので花登 筺(はなと こばこ)のテレビドラマみたいな話を見せられたのだが、そこでは滋賀県の大店(おおだな)の息子に叔父が「おまえは大店(おおだな)のあとを継ぐという意味を勘違いしておりぁせんか」と語りかける話があった。「おまえは『大店(おおだな)のあとを継ぐということを自分だけ楽してええ思いをする立場を継ぐ』という意味だと思っておりぁせんか。そうじゃないんだぞ。大店(おおだな)のあとを継ぐということは、他の人間がやらんような努力をし、他の人間がやらんような苦労をし、他の人間がやらんような我慢をするというそういうことやんやぞ」と。
  私は(株)一条工務店に入社した時、当然のことながら「慶應大学の商学部の卒業生として採用」されたと思っていたので、「高卒のおっさん」がやらんような努力をしなければならないと思って実行し、「高卒のおっさん」がやらんような苦労をすることだってあるだろうと思ってやり、「高卒のおっさん」がやらんような我慢をさせられることだってあるだろうと思って実際にやってきた・・・が、(株)一条工務店は会社の為を思いそういう「高卒のおっさん」がやらんような努力をして苦労をして我慢をしてきた私に対して「恩を仇で返す」態度を取り、「やらずぶったくり」の扱いにした。
  自分が「一流大学」卒の人間として採用されたのだから会社という所において「他の人間がやらんような努力をし、他の人間がやらんような苦労をし、他の人間がやらんような我慢をし」てきた者というのは、何か不公平で不当な利得を得てきたと遠山啓と日教組と大谷郁三は言いたいようだが、それは実際に会社という所に自分自身が勤めたことがない者の妄想であり、そのような認識は間違いだ

  これだけですべてではないが、遠山啓『競争原理を越えて』(太郎次郎社)は部分部分においては大いにもっとだと思うものがあるけれども、全体として見ると、それは違うぞというものがあり、各論には賛成できるものが多いものの、総論としては肯定できかねる書物だったと思う。遠山啓は日教組と関わりがある人だったらしく、私はネトウヨのにーちゃんどもと違って日教組の悪口を言うのが生き甲斐みたいな人間ではなく、もとより日教組は教員の労働組合であり、教員の労働組合は日本の法律において認められている存在であり、日教組がもっともなことを言っている時もあると思っているのだが、遠山啓『競争原理を越えて』(太郎次郎社)において遠山啓自身の考えではなく日教組の主張を「東京工業大学教授 数学者 遠山啓」の名前のもとで述べた部分については、事実に照らしてあまり適切とは言えないものが多いと思われる。

  上記に述べたもの以外でも、たとえば、「雪がとけたら何になるか?」という問いに対して、多くの生徒は「水」と答えたが、ある生徒は「春」と答え、× をつけられたが、しかし、「雪がとけたら春になる」という思考だってあっていいのではないか。「雪がとけたら水になる」と画一的な答えを強要する教育がいいのか・・といったことを遠山啓は述べていたのだが。
  結論として言うと、遠山啓のこの点についての主張には無理がある。「雪がとけたら何になるか?」という日本語の文章には、
「雪がとけたら、◇◇は何になるか?」という◇◇の部分が省略されており、通常の日本語においては、この◇◇の部分の主語が省略された場合には、前半の主語が後半の主語でもあると考えるものである。だから、厳密に表現しなおすならば、「雪がとけたら何になるか?」という文章は「雪がとけたら、その雪は何になるか?」というものになる。雪がとけたら、その雪は水になる。春になるわけではない。

  「雪がとけたら、季節は何になるか?」という文章ならば「春になる」でいいのかもしれないが、日本語では後半部分の主語が省略された場合には後半の主語は前半部分の主語が後半部分の主語でもあると考えるものである。

  1970年代の終わり、うちの父親の親友の医者屋のM川という男〔1970年代末現在、50代前半。当時、大阪府豊中市在住。自称「金沢大医学部卒」だが嘘くさい。実際は私立金権関西医大卒か、そうでなければ「かわいいキンタマ」(川崎医大+愛知医大+金沢医大+埼玉医大=かわいいキンタマ)あたりではないか〕が、この遠山啓『競争原理を越えて』(太郎次郎社)を読んだ上で私に「雪がとけたら何になるか?」と言うので、「雪がとけたら水になるのと違うのですか」と私が言うと、「違うなあ。わからんのか、きみは、こんなことすらも」と言うのだった。「違うのなら、何になるのですか」と言うと、「雪解け。春になるんじゃ。こんなこともわからんとは、それはきみが思考が硬いということなんじゃ。その点、わしは思考が柔軟なもんじゃから、わかるんじゃあ」などと言い、それを聞いてうちの父親は「そうです、そうです。M川先生は思考が柔軟やからわかるんじゃ。おまえは思考が硬いから雪がとけたら水になるなどと言いよるんじゃ、わかったかあ」などと言って私に怒鳴りつけたのだった。
  しかし・・だ。M川が「春になる」と答えたのは、それはM川が「思考が柔軟なもんじゃからな」「何しろ、医者というものは普通の人間よりもえらいエライえらい人間なもんじゃからな」というようなそういうことではなく、M川があらかじめ、遠山啓『競争原理を越えて』(太郎次郎社)を読んでこの話を知っていたからだった。
  そして、「雪がとけたら何になるか?」という問いに対して「春になる」という回答は、遠山啓はそういう答えをする生徒に「そのくらいのことも答えることができないだめな生徒」と決めつけるのではなく、そういう発想もあるのか・・と考えてもいいのではないかと言っていたのであるが、M川の場合はそうではなく、「雪がとけたら何になるか?」という質問に対して「春になる」と答えない限り、「思考が硬いな」という「診断」を相手に貼りつけようと画策していたのであり、「雪がとけたら何になるか?」という質問に対しての答えとして「水になる」という答えを認めず「春になる」と答えないといけないと要求していたのであり、これでは本末転倒であるとともに、遠山啓がそこで述べていた趣旨とは正反対のことを主張しているものであった。
  佐藤優が『国家の罠』(新潮文庫)で書物を読んでも、その書物に書かれているものから自分自身のあり方を振りかえり反省する人と、そうではなくそこに書かれている内容を利用して人に攻撃を加えようとする人、人を攻撃するための道具を仕入れるために書物を読んでいる人がおり、書物の読み方としてこの2通りの読み方をする人があるということを述べていたと思うのだが、十代から二十代の頃の私は書物を読んだ時にはそこに書かれている内容から自分自身のあり方を省みるということをしていたのだったが、それに対してM川の場合はそうではなく、そこに書かれている内容を利用して人を攻撃する道具として使えないかと思って常に利用できる題材を収集するために書物を読んでいた。結論として言うが「雪がとけたら、その雪は水になる」のであって「雪がとけたら、その雪は春になるのではない」。 うちの父親の親友で医者屋のM川は読書することがあっても、いついかなる時もそこから自分自身のあり方を反省することは絶対にすることはなく、常に人を攻撃し、人に否定的レッテルを貼るための道具を仕入れるために本を読むという人間だった
  遠山啓は、あくまでも「雪がとけたら何になるか?」という質問に対して「春になる」と答えた生徒を「だめな生徒」と決めつけるのではなく、そういう発想もあるのだと考える思考をしてもいいのではないか・・ということを述べていたのであり、M川とは全然違うのであるけれども、それでもやっぱり、「雪がとけたら何になるか?」に対して「春になる」という答え方は、「雪がとけたら◇◇は何になるか?」の「◇◇は」の部分が省略された文章であって、後半部分の主語が省略された場合は前半部分の主語が後半部分の主語も兼ねるという日本語のルールに基づけばその答えはだめである。
国家の罠―外務省のラスプーチンと呼ばれて―(新潮文庫) - 佐藤 優
国家の罠―外務省のラスプーチンと呼ばれて―(新潮文庫) - 佐藤 優

  それから、遠山啓は『教育問答 かけがえのないこの自分』(太郎次郎社)で、父親とは家族の中で最も「世間知」というものを持っている存在であると述べ、父親とは息子を外敵から守ってくれる存在である・・と述べていたが、遠山啓は子供の頃に父親の顔を見るよりも前に父親が他界してしまった、父親のない子供として成長した人だったらしく、そうであるからか、父親というものをよそのお父さんでもかなりいいお父さんを見て「父親というもの」を規定していると思われる。実際には、そういうお父さんもあるかもしれないが、そうではないお父さんもいる。すべての父親が「世間知」というものを持っているわけでもないし、すべての父親が「外敵から守ってくれる」わけでもない。むしろ、外敵を引っ張り込んでくる父親もいる。遠山啓はそのあたりを理解できていない人だったようだ。

  少々、話が横にそれもしまたが、遠山啓が『競争原理を越えて』(太郎次郎社)では「歳をいくと学べなくなる」と言う人がいるがそのようなことはない・・と遠山啓は述べているのですが、そうである面とそうではない面があるということを述べました。
  京都造形芸術大学(現 京都芸術大学)の通信課程の入学説明会の際に学生部長さんだったか(他の役職名だったか)の方が「社会人として勤務された後においても、再び通信課程の大学に入学して学ぼうと考えられる方に対して、心から敬意を表したいと思います」と述べられたのでしたが、それは他の人に対しても私自身に対しても敬意を表したいと、今、思っています。通信課程の大学というのは、他は知りませんが、愛知産業大学の建築学科・京都造形芸術大学(現 京都芸術大学)のデザイン学科でしたかに「3年次編入」で入れてもらう場合は、特に入学試験があるわけではなく、過去に卒業した大学の卒業証明書を提出することができれば入学させてもらえたのですが、「日本の大学は入るのは難しいが入学してからは簡単」とか無責任なことを言う人がいますが、実際にそうかどうかはその大学にもよるのではないかと思うのですが、通信課程の建築学科については「3年次編入」で入学させてもらうのは難しいわけではないのですが、入学後、卒業までたどりつけるかどうかについては、決して簡単ではありません
  結局、卒業までたどりつくことはできませんでしたが、それでも、その過程でけっこう一生懸命頑張りましたし、スクーリングなどで有益なお話を聞かせてもらったりもしました。

  スクーリングの際に担当の先生から聞かせてもらった話としては、服などのブランドで「ジバンシー」とか「ランセル」とか「サルバトーレフェラガモ」とか「バーバリー」とかあると思うのですが、「丹下健三」とか「磯崎新」とかそういう名前も「ジバンシー」とか「ランセル」とか「サルバトーレフェラガモ」とか「バーバリー」とかと同じように、実際には丹下健三という人が設計していなくて丹下都市建築設計事務所の若造が設計していたものでも「丹下健三」ブランドとして発表しているということはないのか・・なんてことを思ったのです。これは丹下健三という人がいいとか悪いとかいう問題ではなく、服などのブランドでも「サルバトーレフェラガモ」はもともとは靴屋だったらしいけれども、今では靴以外のものも出していると思いますが、ひとりの人間が考案しているのではなく、ブランドとして「サルバトーレフェラガモ」というブランドを使用して販売しているというもので、「丹下健三」「磯崎新」「黒川紀章」とかいうものもブランドであって、実際にその人が設計した建物もあるかもしれないけれども、ほとんど関わっていないものでもその「ブランド」で発表しているということはないのか、それこそ、JR日光駅はフランク=ロイド=ライトの設計によるものではなかった可能性が大きいらしいけれども、しかし、なかなか素敵な建物ですが、「フランク=ロイド=ライト設計による」という枕詞をつけた方が現実問題として評価されますでしょ。「丹下健三の設計による」というのもそれではないのか。丹下健三は2005年に91歳で他界したわけですが〔《ウィキペディアー丹下健三》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%B9%E4%B8%8B%E5%81%A5%E4%B8%89 〕、90歳台にもなった爺さんに巨大な建築の設計なんてできるわけないだろうが・・・と思うと、実際には丹下都市建築設計事務所の「若手」の担当者が設計したものに「丹下健三設計による」という枕詞をつけて発表して、ブランド料というのかロイヤルティー料というのかを取っていた・・とかいうことではないのか・・なんてことを考えたのです。ありそうなことだと思いませんか。「ジバンシー」にしてもデザイナーは初代・2代目・3代目とか変わってもブランドとしての「ジバンシー」は続いているわけですし、そのようなものではないのかと思ったのです。「世界的建築家磯崎新の設計による」という つくばセンタービルを見ても「しろうとの仕事」と違うのかみたいなところが何か所もありましたしね。
  しかし、愛知産業大学の建築学科の先生にスクーリングの際に聞いた話によると、91歳で他界する直前でも、丹下健三は「弟子がやった仕事に自分の名前だけ入れていた」とかではなく、自分でひととおり図面を見ていたというのです。但し、何から何まで自分でやっていたということではなく、スタッフが何人かいてやっていたのだけれども、それも「弟子の功績を横取りした」とかいうことでもなく、スタッフの名前も入れた上で発表していたと。だから、「建築家」の場合は「ジバンシー」とか「バーバリー」とか「サルバトーレフェラガモ」とかと一緒ということでもないらしい。

  建築を見学した時には、あまり日数が経たないうちに、それを文章にしておいた方がいい。日数が経てば経つほど印象は薄らいでいくというのも、愛知産業大学の課題作成のポイントとして書かれていたものを見て、たしかにそうだと思ったものです。 また、「文章にする」という作業をしたものとそうでないものとでは「文章にする」という作業をした場合の方が自分のものとしてそれが残るように思うようになりました。さらには「文章にする」場合も日記のようなものではなく、誰かに読んでもらう前提の文章にした方がいいとも思うようになり、そういうこともあって、ここに公開させてもらっています。

  ということで、京都市下京区の渉成園、真宗大谷派の本山 真宗本廟(東本願寺)の飛び地としての「渉成園」、別名「枳殻邸」訪問について述べていきたいと思います。
DSC00465.JPG


 ↑ 真宗本廟(東本願寺)の御影堂門の少し北を東に行く道(「正面通」とヤフー地図ではでている)を進むと渉成園の入口が見えてきます。現在、訪問者は入園口である西門から入りますが、南側にも門があります。どちらが本来の正門なのだろうかと考えたのですが、南よりに「大玄関」という建物があるので、南の方が正門なのかというと、「大玄関」は明治になってから明治天皇が渉成園に来訪した後に大宮御所から移築した建物で渉成園の建物としては新しい方の建物らしく、南が正門というわけでもなさそうです。平地にあるお寺の場合は南から北に入るか東から西に入る場合が多いと思いますが、渉成園の場合は真宗本廟(東本願寺)の庭園であり、真宗本廟(東本願寺)は渉成園の西側にありますから、西門が正門と考えていいのかな・・と思ったりもしたのですが、しかし、それにしては西門を入った正面に遮るように「高石垣」があります。
  そのあたりも考えながら、次回、渉成園について述べていきたいと思います。

  晴海通りを通って(株)一条工務店の江東区潮見にあった東京展示場(営業所)に通った際の話はそれより後で述べることにします。

  (2022.5.23.)

☆ 渉成園(京都市下京区)訪問。
1.建築の見学後、早めに文章にしないと記憶と印象が薄れる。「吐き出す物」がある人間は吸収しにくい。差別政策としての知能指数。遠山『競争原理を越えて』は実状を見ないで書かれた本、賛成できかねる部分がある。数学科・史学科は価値があって社会科学系学部卒は高卒と同じ扱いにしろという主張は横暴で不適切。「高卒のおっさん」偏重が公平ではない。本を読む際に自分を省みる為でなく人を攻撃する道具を仕入れる為に読む人がいる。〔今回〕
2.京都駅から真宗本廟を経て渉成園西門。「エイブル看板」は街並と調和を考えた色にできないか。パンタグラフの変遷。「昭和」を江戸時代みたいに言うな、「戦前の昭和」と「戦後の昭和」を一緒にするな。東海道本線は「東京と神戸を結ぶ為の鉄道」として作られたのではない。「東京もん」の悪質な大阪嫌い。仏旗と一条三色旗の意味。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202205article_5.html
3.入園口から高石垣を見て庭園北口へ。渉成園の桜。松花堂昭乗は弁当屋ではない、ティファニーは軽食屋ではない。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202206article_1.html
4.臨池亭・滴翠軒・檜垣の灯籠。桜と本来は楼門らしい傍花閣と園林堂。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202206article_2.html
5.代笠席・印月池・侵雪橋・五松塢・回棹廊・丹楓渓と渉成園の桜。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202206article_3.html
6.回棹廊・紫藤岸・傍花閣と桜。北大島の縮遠亭。源融ゆかりの塔・臥龍堂(南大島)・漱枕居・閬風亭。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202206article_4.html
7.「渉成園4名橋」侵雪橋・北大島の石橋・西岸の小川の石橋・棹回廊。盧菴・閬風亭・漱枕居。「宗教は毒薬」とはマルクスは言っていないのに誤解して人に教える「医者」階級・「医者」民族。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202206article_5.html
8.庭園南口・双梅檐・大玄関・馬繋ぎ。南側の門。「裏口入学した・させた」なんて自慢することと違うやろ!https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202206article_6.html
9.東側・河原町通り・北側の通り・西側の仏願寺。京都駅。そして真宗本廟(東本願寺)の「ええ?」・・・https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202206article_7.html 

☆ 真宗本廟(東本願寺)参拝
1.京都駅から北に歩けば、真宗本廟(東本願寺)。京都駅から程よい距離。東本願寺の前の道はトラックの休憩所ではない。使用者はトラック運転手の休憩場所・待機場所をきっちりと確保せよ。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202010article_7.html
2.阿弥陀堂門・阿弥陀堂、御影堂門・御影堂、鐘楼、手水屋形。正門はどちらか・・。裏口入学する者は正規に入試に合格しようとする者を妨げる。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202010article_8.html 
3.境内から阿弥陀堂門・阿弥陀堂、御影堂門・御影堂。「法話」。「しんらん交流センター」。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202010article_9.html
4.大寝殿・菊門・玄関門。「ギャラリー」。 街の景観との調和は悪くはないが、交番は交番とわかりやすい意匠にする必要はないか。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202010article_10.html 

☆ 中銀カプセルタワービル(解体工事中)(黒川紀章設計。東京都中央区)見学。
1.解体工事は始まったが4/21現在、中銀タワーの姿は見えた。あいみ互いの「コシノ某と安藤忠雄」。黒川紀章はなぜ女優と結婚したか、若尾文子はなぜ黒川紀章と結婚したか。「すかした」の意味はわからないであろう「建築家のつくる家」を得意とする自称「建築家」の東京人。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202204article_4.html
2.北側の道からはカプセルタワーが見えた。警備員に劣る警察官の立哨。警備員を自分達の小使いと勘違いしている法務省職員。建築・解体現場の高所作業なんて自分はやらない「名建築家」。「名建築」は本当に名建築なのか、それとも権威主義による幻覚なのか。工事現場監督の仕事をしていない(株)フジタ工業の「工事監督」。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202204article_5.html
3.北側から見て。道路側に窓、隣接ビル側は壁。補修用梯子、階と階の間の充填。50年で解体はひょっとこ建築の宿命か。真っ黒ビルは街を暗くする。「マンション住民に戸建住宅の設計させるとマンションみたいな戸建の家にする」説。未熟で基本を理解していない設計を「世界でただひとつの家」と勘違いしている人。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202204article_6.html
4.道路を隔てた向かいから見て。屋上の「塔」に隠された貯水槽など。住居表示では「銀座」でも「汐留浜離宮ビル」とする会社と山梨県なのに「西東京工場」とする会社の違い。建築の基本を理解していないことを「世界でただひとつの家」などという詭弁。エアコン室外機・灯油タンク・ダクト・樋は隠すかデザイン化する必要はあるか。「リフォームのナカヤマ」の押売り的営業。東京地裁の裁判官と「地方」の裁判所の裁判官はどちらがいいか。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202204article_8.html
[別稿]ロシア軍ウクライナ侵攻により採用取消された在日ロシア人と「リフォームのナカヤマ」に採用取消された何年か前の私の話。後の就職席にまで誹謗中傷を加える卑劣な者。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202204article_9.html
5.南面・西面。隣室のプライバシー配慮の為の覆い? 「解体中」だからこそ遠慮なく見学可。「建築家」建物は長持ちしないか?https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202205article_1.html
6.浜離宮・芝離宮・世界貿易センタービル・浜離宮建設産業ビル・朝日新聞社本社・築地本願寺・聖路加病院。舌やノドがヒリヒリする料理は高級料理ではなく化学調味料使い過ぎの可能性有。縁がなかった朝日新聞社。「あんたに世話になることは絶対にないんやからな」と言ってすぐに「息子の結婚式に出てくれ」と頼んでくるスポーツマン。「(株)一条工務店の遠州人」はロシア連邦の「はう国境線」みたいなもの。浜松での研修にひとりだけ遅刻してきて大きな顔して着席する浜松営業。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202205article_2.html
7.新幹線で東京に来た人間の眼に入る位置のモニュメント建築「静岡新聞静岡放送東京支社ビル」・銀座の手前に駅を設けた旧新橋停車場・日本では厳しそうなフーターズ。銀座か新橋かで自転車買ってどうすんだろ。「うち」と「よそ」しか2社しか住宅建築業の会社がない「一条オリジナル」の世界観。戸建住宅建築は敷地が道路と高低差がある場合は門の位置・アプローチの取り方を考え、車庫はあらかじめ設けておいた方がいい場合はアドバイスするのが専門家ではないのか。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202205article_3.html
8.歌舞伎座ビル・銀座三越・晴海通り。大阪出店に際しての三越の傲慢。銀座通りと昭和通りの違い。銀座ピアスビルhttps://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202205article_4.html 

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック