多賀大社参拝[3/9]多賀大社前駅から絵馬通りを経て多賀大社へ。真如寺・日向神社・笑門。多賀大社とは。イザナギ・イザナミを祀る神社。裏口入学は嫌い。「ともかく笑え」

[第961回]
  近江鉄道多賀線「多賀大社前」駅の前を通って川(「車戸川」と言うらしい)を渡った先のT字路 ↓
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↑ ここを左折して 県道225号・多賀停車場線・「絵馬通り」を進みます。
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 ↓ ↓ ↓ ↓
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 ↓ ↓ ↓ ↓
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昔からの通りのようで、多賀大社の周囲に参拝者用の駐車場もありますが、多賀大社に行くには「多賀大社前」駅からこの通りを歩いて行くのがいいように思います。

  左手に(北側に)、↓
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↑ これはお寺で、石柱には「多賀大社 𦾔本地佛」と書かれています。
《滋賀・びわ湖観光情報 真如寺(しんにょじ)》https://www.biwako-visitors.jp/spot/detail/571/ によると「真如寺(しんにょじ)」という寺で、浄土宗の寺らしい。
滋賀県歴史散歩編集委員会編『滋賀県の歴史散歩 (下)彦根・湖東・湖北・湖西』(2008.5.25.山川出版社)には、
《 多賀大社のすぐ西隣に真如寺(しんにょじ)(浄土宗)という寺がある。本堂に安置されている木造阿弥陀如来坐像(国重要文化財)は、多賀大社本地堂(ほんじどう)の本尊であったもので、やわらかみのある体躯と柔和な顔つきは、平安時代の仏像の典型的な特徴を示す。》
と出ている。
滋賀県の歴史散歩〈下〉彦根・湖東・湖北・湖西 - 滋賀県歴史散歩編集委員会
滋賀県の歴史散歩〈下〉彦根・湖東・湖北・湖西 - 滋賀県歴史散歩編集委員会

  さらに進むと、左手に(北側に)↓
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↑ 奥に鳥居が見えますが、これは多賀大社の一部なのか別なのか。
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多賀大社の境内地図によると、この鳥居は「西参道入口」で、鳥居の向こうの社殿は摂社の「日向神社」。 日向神社は「瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)」を祀る神社らしい。

  多賀大社にはここから入ってもいいのだけれども、県道225号・多賀停車場線・「絵馬通り」をもう少し東に進んだ所に多賀大社の
鳥居⇒太閤橋⇒神門
という通りがあり、そちらが「正門」とは表記されていないけれども、正門のようなものだろうから、やっぱり、世の中、何が嫌いと言うて裏口入学ほど嫌いなものはない、そやから、神社でも寺でも2回目以降に入る時はどこから入ってもいいことにするとしても、最初に訪問する時は正門から入るようにしたい。 ほんま、裏口入学なんてするやつは人間やないで。相撲取りで八百長する力士というのは、八百長するために力士になったのか? そうでないならガチンコで相撲とった方がええやろ。小学校の1年の時から同級生が遊んでいる時も勉強してきた者と、ガチンコの人間が勉強しておっても勉強せんといてからに医者屋の息子なもんやから、親が「患者」を薬漬け・検査漬け・毒盛りやって得たカネで裏口入学する人間とは、それは人間としての民族が違うのであり、人種が違うのだ。ガチンコの人間は正門から入るべし、だ。
  今となっては10年以上前になるか、「週刊現代」に若ノ鵬が書いていたが、若ノ鵬が大麻で捕まった時、露鵬と白露山の2人は警察に訪ねていったら自分も疑われるというのを承知の上で来てくれたのに対して琴欧州は自分が危ないとなると若ノ鵬が関脇・小結に上がりたいという場面でも八百長で負けろと要求して負けさせておきながら、若ノ鵬が大麻で捕まったとなると知らない人間のふりをしやがったそうで、その琴欧州が大関でカド番の時、陥落しては困ると星を買った結果、買い過ぎて優勝してしまったらしいが、その場所で中盆の恵那司に稀勢の里に負けてくれと頼みに行ってもらったが稀勢の里は断固として断り、最後、恵那司は「800万円出しますから負けてください」と言うと稀勢の里は「やかましい! 向こう行けえ!」と怒鳴りつけたらしく、それを若ノ鵬は見ていて、東西の支度部屋の境目に机を持っていって乗って、琴欧州にロシア語で「稀勢の里は無理だよ。あれでは先生(恵那司)がかわいそうだよ」と話したということがあったらしいが、私なども高校生や大学受験生の時には裏口で大学に行くなんてことは、私にはそんな口はないけれどもあったとしても「やかましい! 向こういけえ」という気持でいたが、それに対して、うちの父親の親友だった医者屋のM川という男(1970年代終わり当時、50代前半。自称「金沢大医学部卒」だが嘘くさい。実際は私立金権関西医大裏口入学卒か、そうでなくても「かわいいキンタマ」(川崎医大+愛知医大+金沢医大+埼玉医大=かわいいキンタマ)あたりではないか。当時、大阪府豊中市在住)はドバカ息子を私立金権関西医大に裏口入学させたと自慢していた。まず第一に、裏口入学なんて自慢するものなのかあ? 裏口入学なんてものは、たとえ、やるとしても、やったとしても、「恥ずかしそうに」「こそっと」やるものと違うのかあ? と思ったが、M川は自慢していたのだった。「なにしろ、わしは思考が柔軟なもんじゃからなあ。思考が柔軟なもんじゃから、じゃから、うちの息子は関西医大に裏口入学なんじゃ。どうじゃ、わかったかあ!」と言って大声で自慢していた( 一一)
  うちの父親は私の言うことは絶対にきかない男だったが、他方でよその人間の言うことは本当によくきく人間で「そうや。M川先生は思考が柔軟やから息子さんは裏口入学なんや」と言って称賛していた。そして私に言うのだった。「わかっとんのかチャンコロ! M川先生の息子さんは、おまえとはちごうて裏口入学やねんぞ、裏口入学。おまえなんかとは違うねんぞ。おまえなんかと違って裏口やぞ裏口♪」と私の眼を指で突き刺すようにして言うのだった。「裏口入学したら何かエライんですかあ?」と私は言ったのだが、うちの父親は「わからんかあ~あ? おまえはそんなことすらも、わからんのんかあ~あ?」と言うのだった。
  「さあ、ぼく、頭悪いからなんか、ようわかりませんねんけどもねえ。なんで、裏口入学したらエライんですかあ?」と言うと、
「わからんのか、おまえは。裏口入学ということは、思考が柔軟やちゅうことじゃ。どうじゃ、わかったかあ!」と言うのだった。それで、私は
「なんで、思考が柔軟やったら裏口入学せんといかんのですかあ。思考が柔軟なら、それならその『柔軟な思考力』を活かして狂徒大学医学部とか頭狂大学理科三類とかに現役で実力で通ったらええのと違うんですかあ。なんで、私立金権関西医大やなんて、そんなどこの馬の骨かわからんような所に裏口入学やなんて汚らわしいことやって行かなあきませんのん。なんでですのん? ぼく、頭悪いからなんか、さっぱりわかりませんわあ」と言ったのだ。すると、うちの父親は、
「そのあたりがおまえが思考が硬いちゅうことなんじゃ。その点、M川先生は医者だけあって思考が柔軟なんじゃ。M川先生は思考が柔軟なもんやから、そやからM川先生の息子さんは裏口入学なんじゃ。どうじゃ、わかったかあ!」と言うのだったが、わからんかった。
「ですから、なんで、『思考が柔軟』なら裏口入学で関西医大に行かなきゃなりませんのん? 『思考が柔軟』ならその『柔軟な思考力』によって狂大医学部でも犯大医学部でも現役で実力で通って行けばいいのとちゃいますのん? なんで、『思考が柔軟』なら関西医大に裏口入学せんといかんのか、ぼく、頭悪いからなんかさっぱりわからへん」と言ったのです・・が、
「そやから、そのあたりがおまえは思考が硬いんじゃいうて教えてやってやってあげてやってあげておるんじゃ。わからんのかチャンコロろすけイタコ! ちゃんちゃんコロコロちゃんコロコロ♪ ちゃんちゃんコロコロちゃんコ~ロコロ♪」と言うのだった。
ともかく、医者屋のM川によるM川教の熱心な信者にならされてしまったうちの父親は「裏口入学なさったお方」というのは「思考が柔軟なお方なんや」と言ってどうしても譲らないのだった。
・・・で、世の中には八百長裏口民族とガチンコ民族の2種類の民族・人種というものが存在しているようなのだ。私はガチンコ民族であり、「M川先生」というのは八百長裏口医者屋民族だ。ガチンコの民族はガチンコであることを誇りとしており、「うわあ、裏口入学やて・・」と裏口入学したというような人を軽蔑していたのだが、他方で八百長裏口医者屋民族は自分たちが八百長裏口だということについて誇りに思っており自慢していたのだった。ガチンコ民族にとっては理解に苦しむところだが、八百長裏口医者屋民族にとっては「裏口入学ちゅうことは思考が柔軟ちゅうことなんじゃ」という理屈を理解できない人間というのは「思考が硬い」「柔軟性がない」「思い上がっている」「つけあがっている」「根性がねじくれまがっている」・・等等という「診断」になるらしく、なんでやねん! なんて言うと「病状が悪化した」とか「病気が重い」とか言いだすことになる。だから、そう「診断」されたくなければガチンコ民族は八百長裏口医者屋民族とは極力関わらないようにした方がいい。
  八百長裏口医者屋民族は裏口から入るということを誇りにしており、自慢にしているのに対して、ガチンコ民族は正門から正規入試を経て入るということを誇りにしているので、ガチンコ民族の私は正門から入りたいと思うのだ。
  多賀大社の場合は今回が初めての訪問ではなくて2回目だけれども、1回目の訪問は観光バスで来て、どこから入ったかもよくわからないので、自分自身で計画を立てて訪問するのは初回なので「初回に準ずる訪問」と考えて正門から入るようにしたいと考えた。
  世の中、な~にが嫌いと言うて、裏口入学ほど嫌いなものはない。裏口入学は人間のすることやおまへん!!!
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  だから、多賀大社にも「西参道」から入るのではなく、県道225号・多賀停車場線・「絵馬通り」をもう少し東に進み、鳥居⇒太閤橋⇒神門 がある所から入ることにする。但し、太鼓橋(太閤橋)は通りにくいので、子供じゃあろまいし今さらしんどい思いをして通らないといけないものではないので、それは通らずに横から平坦な橋を通って行くことにした。

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「絵馬通り」と書かれた看板が街燈柱につき、「お多賀さんと笑門のまち」と書かれた幟(のぼり)が立っている。

  この県道225号・多賀停車場線・「絵馬通り」には、
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↑ 「お多賀さんと笑門のまち」と書かれた幟(のぼり)がところどころに立っている。

  「笑門」というと、今は昔、「ビッグコミックスペリオール」に「笑門(わらかど)」という漫画が連載されていたことがあった。大阪で、あるおっさんがキャバクラに行って、キャバクラのホステスのねーちゃんに結婚してくれと言ったら「いいですけど、うちの跡継ぎになってください」と言われて、お寺の坊さんの跡継ぎになった、というおっさんの話で、このナマグサのおっさん、ともかくも坊主なのに、正月になったら今宮戎神社で「商売繁盛で笹もって来~い」の福笹売りをアルバイトをやって、そして、今宮戎神社に参拝にきた自営業のオヤジに言うのだった。
「こらあ! おまえ、しけた顔しやがってからに。おまえは自分が事業がうまくいかんもんやから、そやから、そんなふさぎ込んだ、しけた顔しとると思うておるやろう。違うぞ。逆やぞ。そうやのうて、おまえがそんなしけた陰気くさい顔しとるもんやから、そやから、うまくいかんのやぞ。わかったか。わかったなら、ともかく笑え~え!」と怒鳴りつける。
無茶苦茶言うとるように見えて、一理あるようなところがある。「笑門(わらかど)」とは「笑う門(かど)には福きたる」というところから名づけられた題名だったようだ。
  この多賀大社の南の道に書かれている「笑門」というのは、その意味なのかどうか。
  「こらあ! おまえ、しけた顔しやがってからに。おまえは自分が事業がうまくいかんもんやから、そやから、そんなふさぎ込んだ、しけた顔しとると思うておるやろう。違うぞ、逆やぞ。そうやのうて、おまえがそんなしけた陰気くさい顔しとるもんやから、そやから、うまくいかんのやぞ。わかったか。わかったなら、ともかく笑え~え!」というのは一理はあるようにも思える・・ので、そうなれば、とりあえず、甲子園球場に行って、ともかく、大声あげてくるか・・・ (^^♪ ⇒《YouTube-六甲おろし 唄:立川清登》https://www.youtube.com/watch?v=yV814_p2fxE
※ 笑う門(かど)に福 来る(きたる)・・[意味]いつもにこにこしている人の家には幸福がまわってくる。幸福は喜悦の門から入ってくる。 ( 折井英治編『暮らしの中の ことわざ辞典』1962.9.20.集英社 )
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※ 今宮戎神社HP https://www.imamiya-ebisu.jp/

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↑ 「笑門」と大きく書かれた「絵馬」? がかかっている。
左側が多賀大社。

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↑ 多賀大社。 鳥居の向こうに見える太鼓橋「太閤橋」とも言うらしい。その向こうの門が「神門」

  多賀大社とはどういう神社なのか。滋賀県・近江の国で有名な神社というと、社殿の造りの1つとされる「日吉造り」の坂本の日吉大社、琵琶湖に浮かぶ竹生島の都久夫須麻神社(つくぶすまじんじゃ)(竹生島神社 ちくぶしまじんじゃ)。それにこの多賀大社。近江の国の一宮はどれだろう。多賀大社のホームページを見ても「近江の国一宮」とは書かれていないところを見ると日吉大社だろうか・・と思って、「近江の国一宮」と入れて検索すると、瀬田のあたりにあるらしい 建部(たけべ)大社 が「近江の国一宮」を名乗っているのが出てきた。
※ 日吉大社 HP http://hiyoshitaisha.jp/
《 滋賀・びわ湖 観光情報 山王総本宮日吉大社》https://www.biwako-visitors.jp/spot/detail/84/
※ 竹生島神社HP http://www.chikubusima.or.jp/
《 滋賀・びわ湖観光情報 都久夫須麻神社(つくぶすまじんじゃ)(竹生島神社 ちくぶしまじんじゃ)》https://www.biwako-visitors.jp/spot/detail/1312/
※ 建部大社 HP http://takebetaisha.jp/
  インターネット上で検索すると、《諸国一宮・二宮・三宮》https://genbu.net/engi/1miya.htm というものに、近江の国は、
一宮・・建部大社
二宮・・日吉大社
三宮・・多賀大社・御上神社
と出ていた。
※ 御上神社HP http://www.mikami-jinja.jp/
御上(みかみ)神社は、「それがあったか」と思いだした・・が、建部大社よりも日吉大社・多賀大社・竹生島神社の方が知名度は上のように思ったが建部大社が近江の国一宮 として通っているらしい。
  竹生島神社は関西人には有名なのだが、東京もんの間では江の島神社の方が知名度は高いらしい。大阪府箕面市の箕面山 瀧安寺は役小角(えんのおづぬ、役行者 えんのぎょうじゃ)が箕面大滝で修行をして弁財天の助けを得て悟りを開いたという箕面大滝の近くに役小角(役行者)が設けたという庵が元で、大滝の下のあたりの地盤が地震なのか何なのかの時に崩落してことから、阪急「箕面」駅から箕面大滝に至る滝道の途中の場所に移転したというもので、たしかに弁財天に関係のある寺だが、「日本四弁天のひとつ」と言っていて他の3つはというと広島県の安芸の宮島、厳島神社、滋賀県の琵琶湖に浮かぶ竹生島の竹生島神社、それに神奈川県藤沢市の江の島の江島神社だというのだが、由来からすれば箕面山瀧安寺こそ弁財天ゆかりの寺社と思えるのだが知名度としては他の3つの方が有名で、市販されている本では箕面山瀧安寺を除外してその他の3つ、厳島神社・竹生島神社・江島神社の3つを「日本三弁天」と書いているものがある。さらには、2000年前後頃、(株)一条工務店https://www.ichijo.co.jp/ の栃木県佐野市の営業所にいた時、群馬県館林市と栃木県佐野市の境目付近の館林市のあたりに行くことがあった際、滋賀県の竹生島神社の末社らしい竹生島神社があり、そこの案内板には「江の島・宮島とともに日本三弁天のひとつ」と書かれていたので、全国的には知名度が一番高いのは広島県の宮島・厳島神社で、関西人にとっては滋賀県の竹生島の竹生島神社は有名だが、群馬県の人間、関東の人間にとっては全国的知名度が高い広島県の厳島神社と関東にある神奈川県の江島神社は知られているが滋賀県の竹生島神社はそれほど知られていないらしい、と知った。竹生島くらい知っておけよお~お・・と私は思ったが、関東人でも知っている人は知っているかもしれないが、知らない人は少なくないらしい。関東人は佐野厄除け大師の方がよく知っているみたいだった。
  だから、知名度について言うならば、どの地域の人間にとってか、ということもあるだろう。しかし、やっぱり、全国的に見ても、関西人にとってと考えても、建部大社がいかんとは言わんが日吉大社は「日本史年表」とかいう中学校・高校の「歴史」「日本史」の「副読本」や中学校の「美術」の「日本美術史」の本にも出ているというのは大きい、と思うのだ。多賀大社は私の場合は最初に知ったのは1960年代の終わり、小学校4年の時、彦根駅から乗った観光バスで連れて行ってもらったことからだったが、なにしろ、近江鉄道多賀線の終着駅に「多賀大社前」駅というのがある、ということはけっこう大きくて有名な神社なのではないか、という気持になるのだった。・・もっとも、「駅名になってる」というのは、即ち大きいとは限らない。「世界三大がっかり」として、デンマーク・コペンハーゲンの人魚姫の像、ベルギー・ブリュッセルのしょんべん小僧の像、シンガポールのマーライオンがあげられる・・と『地球の歩き方』(ダイヤモンド社)に書かれていたのだが、これは有名なわりに実際に行ってみたらたいしたことないというものを3つあげているということだが、もうひとつ、千葉県鎌ケ谷市の「鎌ヶ谷大仏」てのを加えて「世界四大がっかり」に選定したいと私は常々思っているのだ。鎌ヶ谷大仏さんがいかんと言うつもりは毛頭ない。毛頭ないのだけれども、新京成電鉄に「鎌ヶ谷大仏」という駅があることから、誰もが奈良の大仏ほど大きくはないとしても鎌倉の大仏くらいの大仏さまがいらっしゃるのだろう・・と思ってしまうようで、私もうちの母親を連れて鎌ヶ谷大仏の付近に行って捜したことがあるのだが、「ないなあ。たしか、このあたりのはずなのだけれどもなあ」と思ってビルの3階か4階くらいの高さのあたりを見回して、ふと視線を自分の頭と同じくらいの所に落したところ・・、「あった」「いらっしゃった」・・が、「ええ~え、これえ~え」て感じだったのだ。悪いと言うつもりはないが、「だって、ちっちゃいんだもん♪」。 クルマで鎌ヶ谷大仏の前の道を通っていたら、鎌ヶ谷大仏の前ににーちゃん・ねーちゃんがいて「ええ~え、これえ~え?」て感じの顔で鎌ヶ谷大仏さんを見ておったのを見かけたこともある。鎌ヶ谷大仏さんは決して悪くないのだけれども、駅名になっているくらいだから鎌倉の大仏くらいの大きさの大仏さんがおられるのだろう・・と多くの人間は思ってしまって訪ねると・・「ええ、これえ?」と思ってしまうのだ。だから、「駅名になってる」というのは、必ずしもあてにならない・・が、多賀大社の場合は「駅名になってる」だけではなく、それなりの規模の敷地と社殿がある神社ではある。

  それで、多賀大社はどういう神さんが祀られているのかというと、伊邪那岐(いざなぎ)・伊邪那美(いざなみ)の2柱だ。 伊邪那岐(いざなぎ)・伊邪那美(いざなみ)を祀る神社というと、戸部民夫『日本の神様がわかる本』(2005.1.5.PHP研究所)には、滋賀県の多賀大社が「代表的神社」としてあげられ、その他に「神社ガイド」として伊邪那岐(いざなぎ)・伊邪那美(いざなみ)を祀る神社として、兵庫県津名郡一宮町、現在は兵庫県淡路市 の伊弉諾(いざなぎ)神宮、三重県熊野市の花窟(はなのいわや)神社、宮崎県阿波岐原町、現在は宮崎市阿波岐原町の江田神社、それに茨城県つくば市の筑波山神社と沖縄県那覇市の波上宮(なみのうえぐう)の名前が出ている。
  『古事記』『日本書紀』の記述に登場する地名と結びつきがありそうなのは滋賀県の多賀神社と兵庫県の淡路島の伊邪那岐神宮だ。伊邪那岐・伊邪那美の男女の2柱は日本の国土を作ったと記紀ではされている神で、最初に産んだ「水蛭子(ひるこ)」と「淡島」は《 子の例(たぐい)には入れざりき。》(『古事記』岩波文庫)ということで、その次に産んだのが《 ・・生める子は、淡道(あわじ)の穂の狭別(さわけの)島。次に伊予の二名島を生みき。・・・》ということで、「淡道(あわじ)の穂の狭別(さわけの)島」は倉野憲司校注によると《伊予の二名(ふたなの)島》は「四国」らしい。兵庫県淡路市の伊邪那岐神宮がある淡路島は、伊邪那岐・伊邪那美が「水蛭子(ひるこ)」と「淡島」を別にすれば最初に造った国土であると『古事記』には書かれているというところに縁がありそうに思えてくる。
  滋賀県の多賀はどうかというと、最後の方、《 故(ゆえ)、その伊邪那岐大神は、淡海(あふみ)の多賀に坐すなり。》という文章がある。倉野憲司の校注には《近江の多賀神社に鎮座されている。書紀には淡路の幽宮に隠れたとある。》と書かれている。『古事記』の中でも、「上つ巻」神代の話、「中つ巻」神武天皇以降、多くは実在しなかったと考えられている天皇の時代の話、「下つ巻」その話の真偽は別として仁徳天皇以後、実在の可能性が大きいとされる天皇の時代の話・・のうちの「上の巻」、神代の話の地名というのは信頼できるものなのか、という問題もあるとしても、《その伊邪那岐大神は、淡海(あふみ)の多賀に坐すなり。》という文章が『古事記』にあるということは、滋賀県の多賀大社もしくはこの付近というのは『古事記』の伊邪那岐・伊邪那美の話と何らかの関係があるということなのだろうか。
  兵庫県の淡路島の淡路市の伊邪那岐神宮の方は神社の名称に地名が入っていないことと、『日本書紀』に書かれているというのは《淡路の幽宮に隠れた》とあるそうで、淡路島という地名はあっても淡路島のどこと示す地名はないようなので、多賀大社に比べると、淡路島の伊邪那岐神宮はその場所だと信頼していいのかどうか、疑問は残る。
  日本の神社研究会『日本の神社100選 一度は訪れたい古代史の舞台ガイド』(2018.5.24.宝島社新書)には滋賀県の多賀大社は掲載されておらず、宮崎市の江田神社、三重県熊野市の花屈(はなのいわや)神社、兵庫県淡路市の伊弉諾(いざなぎ)神宮の3社が掲載されているのだが、同書によると、宮崎市の江田神社付近には《江田神社から徒歩5分ほどのところには、イザナギが黄泉(よみ)の国から帰った際に禊(みそぎ)を行った地とされる「みそぎ池」がある。》そうで、三重県熊野市の花屈(はなのいわや)神社は《『日本書紀』には、火の神カグツチを生んだ後に亡くなったイザナミは、紀伊国熊野の有馬村に葬られたと記されている。近隣の人たちは屈(いわや)に花を供えたり、歌舞によってイザナミの神霊を祀った。これが「花の窟」の名の由来である。・・》 《 熊野灘に面して立つ高さ約45メートルの巨岩がイザナミの御神体として崇められ、古代の磐座(いわくら)信仰を色濃く残している。花窟神社から約1・3キロ離れた場所にはイザナミがカグツチを産んだ地とされる産田(うぶた)神社があり、ここにも磐座が残る。》 《 (花の窟は)イザナミの墓所とされる巨岩。火の神カグツチは怒ったイザナギに切り殺されたとされ、花の窟の向にはカグツチを祀る王子の窟がある。》と書かれている。
  淡路島の伊邪那岐神宮はというと、《 多くの神々を生んだイザナギは、子のアマテラスなどに国の統治を任せたのちに自身は淡路島に構えた幽宮(かくりのみや)に鎮まった。これが伊弉諾神宮の紀元とされており、記紀神話に記された神社の中ではもっとも歴史が古い。・・・1954年には名称が伊弉諾神社から伊弉諾神宮に改称された。淡路島は、イザナギとイザナミが最初につくった日本の国土で、出雲と同じ型で作られた銅鐸が発見されるなど、古代において重要な祭祀の地だった。》 《 社伝によるとイザナギ終焉の地に神陵(墓)が築かれ、明治時代以降、その真上に本殿が遷座された。》と書かれている。
  しかし、『古事記』『日本書紀』に書かれている内容の場所について「ここや!」と指定された場所というものを、はたして、どこまで信頼できるものか。特に、第二次世界大戦の最中とか、戦前戦中の軍国主義の時代においては、純粋に考古学的研究・古代史の研究として調査されたものによるのではなく、軍国主義をあおるために国民を精神支配するために『古事記』『日本書紀』に登場するお話の場所を実際にそこかどうかわからないにもかかわらず、そこだということにしてしまったものとかが日本にはいっぱいあるのだ。だから、これらも、イザナギ・イザナミは少なくともそのまま実在した人間ではないとしても、そこに出てくる話と何らかの関係があるような行為をおこなった人間がいたという可能性ならないとは言えないとしても、それについて、ここがそれだと言われるものというのは、いったい、どれだけ信用できるものか、あまり信用できないものが少なくないように思える。もっとも、後の人間が創作したものや、元は別のものだったものを結びつけたものであったとしても、戦前戦中にデッチあげられたようなイカサマとは違って、長くその地域の人たちから尊重されてきたものは、それはそれで大事にすべきものではあるのだろうけれども、そのままは信用できないものが多いと思う。
  明治維新以降、明治維新政府は、
(1)「建武中興15社」として、南北朝の争乱の時に南朝側についた者を神とする神社が設けられ〔湊川神社(楠木正成を祀る)・四条畷神社(楠木正行を祀る)・阿倍野神社(北畠顕家を祀る)・鎌倉宮(大塔宮護良親王を祀る)・藤島神社(新田義貞を祀る)など〕、
(2)天皇を祀る神社が新たに設けられ〔樫原神宮(神武天皇を祀る)・平安神宮(桓武天皇を祀る)・近江神宮(天智天皇を祀る)・吉野神宮(後醍醐天皇を祀る)・明治神宮(明治天皇を祀る)〕、
(3)戊辰戦争で「官軍」(討幕派)の側について戦った戦死者を祀った(佐幕側の戦死者は祀らない)東京招魂社を基に靖国神社が設立したが、
それらによって国民の精神を支配しようとする政策が実施されたわけで、淡路島の伊弉諾神宮が《社伝によるとイザナギ終焉の地に神陵(墓)が築かれ》という部分については、それをそのまま信じていいかどうかはさておき、誰かの墳墓だったことは考えられるとして、《明治時代以降、その真上に本殿が遷座された》という方は、おそらく、明治維新以降の国民の精神を天皇制のもとに統制しようという動きの一環だったのではないか。
※ 宮崎市 江田神社 https://eda-jinnja7.webnode.jp/
三重県熊野市 花屈神社 https://hananoiwaya.com/hananoiwaya/iwaya_index.html
兵庫県淡路市 伊弉諾神宮 https://kuniumi-awaji.jp/heritage/21izanagi/
[完全保存版]日本の神様がわかる本あの神様の性格・あの神社のご利益が一目瞭然 - 戸部 民夫
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古事記 (岩波文庫) - 倉野 憲司
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カラー版 日本の神社100選 一度は訪れたい古代史の舞台ガイド (宝島社新書) - 日本の神社研究会
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国家神道 (岩波新書) - 村上 重良
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  最初の起源が何であれ、多賀大社の場合は、
《 お多賀さまは、日本商業史に大きな足跡を刻んだ近江商人の篤い崇敬を受けてきた。関東、東北方面へ長い行商に出た商人たちは出発に際して、必ず旅の安全と商売繁盛を祈願した。
  イザナギ命・イザナミ命は、いわば諸神の生みの親である。それゆえに行く先々でさまざまな神の守護を受けられるとされたのである。》
( 戸部民夫『日本の神様がわかる本』2005.1.5.PHP研究所)
という神社だったようだ。

 《 そんな由緒ある多賀大社は、室町以降、人気が高まり「お伊勢七庶(しちしょ)(数が多いこと)熊野へ三度、お多賀さまへは月参り」の里謡(りよう)も生まれた。
  さらに江戸時代には、多賀講の信仰が全国に広がり、「お伊勢参らばお多賀へまいれ、お伊勢お多賀の子でござる」と謡われ、伊勢参りとともに多賀参りも盛んに行われた。》
( 戸部民夫『日本の神様がわかる本』2005.1.5.PHP研究所)
とある。 「お伊勢お多賀の子でござる」というのは、アマテラスはスサノオとともにイザナギ・イザナミの子と『古事記』に書かれていることからだろう。

  だから、順番はともかく、日吉大社・竹生島神社・建部大社・御上(みかみ)神社とともに滋賀県を代表する神社だということは間違いではないだろう。
日吉大社・・「歴史」「日本史」・「美術」の「日本美術史」のサブテキストに登場する。
多賀大社・・『古事記』に登場する。駅名になってる。
御上神社・・松浦昭次『宮大工 千年の知恵』(祥伝社黄金文庫)に登場する。
《 御上神社の本殿も入母屋の三間社で、正面に一間の向拝がついています。それだけを見れば、大笹原神社に似ていることになりますが、建立年代は苗村神社西本殿と同じ頃で、大笹原神社よりも100年ぐらい古い時代に建てられたものです。・・
  ところで、御上神社の本殿の屋根の上には、苗村神社や大笹原神社にはないものがあります。堅魚木(かつおぎ)(読みは同じで勝男木とか鰹木とも書きます)と千木(ちぎ)です。どれも神社にだけあるものです。・・》(松浦昭次〔まつうら しょうじ〕『宮大工と歩く千年の古寺』2007.9.5.祥伝社黄金文庫)
建部大社・・上記の3つには該当しないが、「近江の国一宮」らしい。
※ 多賀大社HP http://www.tagataisya.or.jp/
ウィキペディアー多賀大社 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%9A%E8%B3%80%E5%A4%A7%E7%A4%BE


( ↑ 滋賀県犬神郡多賀町多賀  多賀大社。)

  (2022.11.13.)

☆ 多賀大社(滋賀県犬神郡多賀町多賀)参拝。
1.名神高速道路「多賀」サービスエリア。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202211article_1.html
2.「多賀」S. A.より近江鉄道「多賀大社前」駅へ。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202211article_2.html
3.「多賀大社前」駅から絵馬通りを経て多賀大社へ。〔今回〕
4.鳥居・太鼓橋・愛宕神社・秋葉神社・御神門(表門)・手水舎・神馬舎。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202211article_4.html
5.拝殿・本殿。旧中山道から多賀道に入る場所に一の鳥居があるらしい。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202211article_5.html
6.神輿庫・鐘楼・日向神社。「美人薄命」と「スーパー高耐久性何何」https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202211article_6.html
7.天満神社。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202211article_7.html
8.多賀大社から多賀町役場前・胡宮神社前を通り「多賀」サービスエリアへhttps://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202211article_8.html
9.刈谷P.A.・足柄S.A.・東京料金所P.A.? 「国民を」でなく「国家を守る公務員」自衛隊。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202211article_9.html 

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