多賀大社参拝[5/9]拝殿・本殿・翼廊。高宮の旧中山道から多賀道に入る所に一の鳥居があるらしい。ガチンコ派は表門から入る、裏口派は裏門から入れ。
[第963回]
多賀大社参拝の5回目です。

私は「八百長裏口医者屋民族」ではなく「ガチンコ民族」ですから、民族の掟に従い、御神門(表門)から入ります。
ちなみに、東京圏在住関西人には2種類の関西人がおり、それは「糸引き納豆食べる関西人」と「糸引き納豆食べない関西人」の2種類で私は「糸引き納豆食べる関西人」なのだが、「糸引き納豆食べない関西人」にはそれが許せないと思う人がいるらしく、「なんで、あんた、そんなもん、食べるのお? 関西人でしょお? なんで、そんなもん、食べるのお?」と普段は自分の方が東京化しているくせして言うのです。「なんで?」と言われても特別の理由があるわけでもないのですが、「糸引き納豆食べない関西人」からすると「民族の誇りを捨てたのか!」というような問題のようです。まるで宗教の戒律を破ったかのように言うのです・・・が、別に食ってもええやろうが・・と思うのですが「糸引き納豆食べない関西人」としては関西人としてのアイデンティティーを捨てたかのように思えるのかもしれません・・が、そんなもん、どうでもええがなて気がしますが、「基本的には表門から入る」というのは、これは「ガチンコ民族」としてのアイデンティティーであり戒律ですから譲れません。八百長裏口医者屋民族の人は裏口から常に入るようにしてください。
そういえば、1998年、(株)一条工務店 において、栃木県佐野市の展示場に移った時、営業所長の五十嵐が「巨人になれ!」などと私に言ったので、はあ? はあ~あ?・・・と思ったことがありました。「今、何言うた? 今、いったい何を言うたあ~あ?」・・・
「『巨人になれ』やとお? なんで、そんなもんにならんといかんのんじゃい!」 「なんで、そんな汚らわしいもんにならされんといかんのんじゃい! 人間、言っていいことと悪いことがある」
そうやろ。ちゃうか? 糸引き納豆は食えても、それは許せんぞ、それは〔 ⇒《YouTube-六甲おろし 唄:立川清登》https://www.youtube.com/watch?v=yV814_p2fxE 《YouTube-六甲おろし》https://www.youtube.com/watch?v=9g5IiOZNFxc 〕
御神門(表門)をくぐって入った正面、向こうの方に拝殿が見えます。↓



↑ 拝殿。
拝殿と回廊も多賀町指定有形文化財の指定を受けているようです。

↑ 拝殿の後ろに本殿の屋根がわずかに見えます。本殿も多賀町指定有形文化財に指定されています。
※ 多賀大社HP http://www.tagataisya.or.jp/
《ウィキペディアー多賀大社》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%9A%E8%B3%80%E5%A4%A7%E7%A4%BE

( 滋賀県犬神郡多賀町多賀 多賀大社。)
島田裕巳『一生に一度は行きたい日本の神社 100選』(2018.8.12.宝島社 TJ MOOK)には、
《 本殿は風情ある桧皮葺(ひわだぶき)の屋根が特徴だ。本殿から左奥にある奥書院庭園は豊臣秀吉の寄進によって築造されたと伝えられ、桃山時代の作風を伝えるものとして昭和10年(1935年)には国の名勝に指定されている。》
と書かれている・・が、拝殿は見えても本殿は残念ながら屋根の端以外はほとんど見えない。

一生に一度は行きたい日本の神社100選 (TJMOOK) - 島田 裕巳
入口の所に出ていた説明書きには、
《 ・・社殿の造営については、古代から造替または修理がくり返されて現在に至っています。
江戸時代には、寛永(1624年~1644年)の大造営(寛永十年から五年間 1633年~1638年)が行われました。本殿・拝殿・庁屋・摂末社・本地堂・僧坊・書院・鐘楼・三重塔・日向社、さらに当時の末社であった胡宮神社・大瀧神社・千代神社におよぶ大規模なものでした。
しかし、安永2年(1773年)の大火災によって、本社をはじめ諸堂社すべてが焼失してしまいました。
その後、ただちに復興にとりかかり、翌年(1774年)には書院が完成して、最小限ながら必要な建物が再建されました。
文化4年(1808年)には三間社流造の本格的な本殿が再建されました。この本殿は、昭和の造営に際し豊郷町の白山神社に移築されて現存しています。
明治に入ると神仏分離令のより仏教的な建築物は取り除かれました。その景観は、明治28年(1895年)の『大日本帝国淡海多賀大社全図』に見ることができます。
大正から昭和にかけての造営については『多賀大社造営誌』に詳しく記載されています。これによると、明治以降、建物の再建・撤去が無計画になされたため、社殿配置に統一性が欠けておりました。
そこで、大正8年(1919)に明治神宮造営局技師 大江新太郎が境内を(1)神聖 (2)神厳 (3)清厳 (4)清雅 (5)自由区域 の五段階に分けて設計を行い、その計画をもとに壮大な造営事業が勧められました。この事業は、本殿(透塀を含む)・祝詞舎・幣殿(翼廊を含む)・神饌所の4棟を国費で行うことになり、内務省技師 角南 隆が総監督にあたりました。また、国費以外の神社直営工事は、前記の大江新太郎が設計監督となって並行して行われ、昭和8年(1933年)に「昭和の大造営事業」がついに完成しました。これが現在の社殿です。
表門から本殿まで、参道に沿って一直線上に配置された建物は巧妙に計算され、なかでも拝殿から本殿にかけて段々状に重なった桧皮葺やねは、華麗で変化に富んでまとめられており、気品ある神々しさを醸しだしております。
多賀大社は、近代につくられた神社建築の中でも、最も優れた社殿として高く評価されています。
平成18年(2006年)7月1日 多賀町教育委員会 》
と書かれています。
1633~1638年「寛永の大造営」
1773年 大火災で焼失。
1774年 書院完成。最小限必要な建物が再建。
1808年 本殿が再建。
明治(1868年~)になり、 神仏分離令により仏教的な建物が取り除かれる。
大正(1912~1926)から昭和(1926年~)にかけての造営 再建・撤去が無計画になされたため、社殿配置に統一性が欠けた。
1933年(昭和8年) 「昭和の大造営事業」完成 大江新太郎の計画による造営事業。本殿は豊郷町の白山神社へ移築された。
しかし、この記述だと、本殿は1808年に造られたものは「昭和の大造営事業」の際に豊郷町の白山神社へ移築されて、現在の本殿と幣殿はその「昭和の大造営事業」の時に国費で造られたとして、それ以外の個々の建物について、それが「昭和の大造営事業」の際に造られたものなのか、それより前、
(1)1773年の大火災の後で復興されたものか、
(2)明治になって再建・撤去された際のものか、
(3)「昭和の大造営事業」の際のものか、
いずれなのかはっきりとわからない。
「昭和の大造営事業」の際に、1808年に造られた本殿が移築されていったという豊里町の白山神社というのはどこなのか。そもそも、豊里町てどこにあるのか・・地図で見ると、多賀町は町にしてはけっこう広い面積の町で、犬神郡には多賀町の他に多賀町の西側、彦根市との間、東近江市の北側に、犬神郡甲良町(こうらちょう)・愛荘町(あいしょうちょう)と豊郷町(とよさとちょう)があるようなのだ。このうち、豊郷町が一番、面積は狭いようだ。近江鉄道本線が彦根市高宮 の「高宮」駅で多賀線と別れた後、南に2つめの駅が「豊郷(とよさと)」駅で、その付近のようだ。 近江鉄道本線「豊郷(とよさと)」駅の東、犬神郡豊郷町(とよさとちょう)八町(はっちょう)に白山神社がある旨の記載があるが、そこだろうか。


( ↑ 滋賀県犬神郡豊郷町八町 白山神社。)
「豊郷町HP 白山神社」https://www.town.toyosato.shiga.jp/0000000133.html を見ると、豊郷町の白山神社の祭神は岐阜県と石川県の境目付近の白山の神さんではなくて、伊邪那美(いざなみ)のみこと だという。多賀大社のホームページとかを見ると、多賀大社の祭神は伊邪那岐(いざなぎ)と伊邪那美(いざなみ)の二柱となっているが、「豊郷町HP 白山神社」https://www.town.toyosato.shiga.jp/0000000133.html では多賀町多賀の多賀大社で祀られるのが伊邪那岐(いざなぎ)で、豊郷町八町(はっちょう)の白山神社で祀られるのが伊邪那美(いざなみ)だという。

↑ 拝殿の左(西)、「翼廊」なのか「回廊」なのか。これも多賀町指定有形文化財に指定されているようです。
『古事記』には《 その伊邪那岐(いざなぎ)(の)大神は、淡海(あふみ)の多賀(たが)に坐すなり。》 と書かれており、この《淡海(あふみ)の多賀(たが)に坐すなり。》について、岩波文庫の倉野憲司校注では《近江の多賀神社に鎮座されている。 書紀には淡路の幽宮に隠れたとある。》と書かれており、伊邪那岐(いざなぎ)が最後にたどりついた所は『古事記』では滋賀県の多賀大社で、『日本書紀』では淡路島の「幽宮」となっているらしい・・が、多賀大社については、《ウィキペディアー多賀大社》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%9A%E8%B3%80%E5%A4%A7%E7%A4%BE には、
《 『古事記』以前の時代には、一帯を支配した豪族・犬上氏(姓は君)の祖神を祀ったとの説がある。犬上氏は、日本武尊の子の稲依別王の後裔とされ、飛鳥時代の遣隋使・遣唐使として知られる犬上御田鍬にはじまる。この犬上氏は、多賀社がある「犬上郡」の名祖とされる。》
とも書かれている。
滋賀県歴史散歩編集委員会編『滋賀県の歴史散歩 (下)彦根・湖東・湖北・湖西』(2015.5.25.山川出版社)には、
《 ・・織田信長・武田信玄・豊臣秀吉・徳川家康ら、戦国武将の崇敬も集めた。とくに秀吉は、母の病気平癒のため、1588年(天正16)年に米1万石を寄進しており、これによって社殿整備がなされ、参道に太閤橋(太鼓橋)が架けられたという。橋を渡ると築地塀(ついじべい)に挟まれた神門(じんもん)があり、門をくぐると拝殿と幣殿、本殿が雄大に広がる。・・》
と出ている。

滋賀県の歴史散歩〈下〉彦根・湖東・湖北・湖西 - 滋賀県歴史散歩編集委員会

滋賀県の歴史散歩〈上〉大津・湖南・甲賀 - 滋賀県歴史散歩編集委員会
多賀大社の入口の説明書きには、《 ・・築造は江戸初期 寛永15年(1638年)に徳川幕府の助成もあって、大僧正 慈性によって本殿以下諸堂社の造営が行われた。「寛永年間多賀大社絵図井指地図」に「そり橋」も記載されていることから、この大造営の際に築造されたものである。》と書かれており、入口の太鼓橋は、豊臣秀吉が母の病気平癒のため、1588年に米1万石を寄進したものにより社殿整備がされて太鼓橋もかけられたのか、それとも江戸初期 「寛永の大造営」の際に築造されたものなのか、いったい、どっちやねん? ・・・と思えてくるが、2説あるということなのか。
滋賀県歴史散歩編集委員会編『滋賀県の歴史散歩 (下)彦根・湖東・湖北・湖西』(2015.5.25.山川出版社)には、
《 ・・本来は、国道8号(旧中山道)からが正面の参道にあたる。高宮宿の中ほどに一の鳥居が聳える。・・・
高宮からの旧参道は今ではほとんどわからないが、多賀集落に入る手前の水田の中に、2本のケヤキの古木が立っている。・・》
《 (近江鉄道の)高宮駅から北西は300mほど行くと旧中山道に出る。現在は商店街となっている一帯が、旧中山道64番目の宿場 高宮宿である。・・・高宮宿から多賀大社に向かう参詣道である高宮道(多賀道)の入口には、1635(寛永12)年築の高さ11mの多賀大社一の鳥居( 滋賀県有形文化財)が聳え、沿道には1町ごとに石灯籠が立っていた。また、かつては多賀大社まで参拝できない旅人のために賽銭箱がおかれ、高宮宿は多賀大社の門前町としての性格もあった。》
と書かれている。《ウィキペディアー多賀大社》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%9A%E8%B3%80%E5%A4%A7%E7%A4%BE には《彦根市高宮町の高宮郵便局右隣にある。》とある。
※ 高宮郵便局HP https://map.japanpost.jp/p/search/dtl/300146021000/
滋賀銀行 高宮支店 HP https://sasp.mapion.co.jp/b/shigagin/info/158/
日本郵便 高宮郵便局と滋賀銀行 高宮支店の間の交差点付近に1635年(寛永12年)築の 一の鳥居があるらしい。

( ↑ マーカーの場所が高宮郵便局。)
↑ この地図で見ると、現在の国道8号ではなく、それより少し東側を南北に通る道が旧中山道だったようだ。
次回、鐘楼・神輿庫・日向(ひゅうが)神社などへ。
(2022.11.15.)
☆ 多賀大社(滋賀県犬神郡多賀町多賀)参拝。
1.名神高速道路「多賀」サービスエリア。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202211article_1.html
2.「多賀」S. A.より近江鉄道「多賀」駅へ。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202211article_2.html
3.「多賀大社前」駅から絵馬通りを経て多賀大社へ https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202211article_3.html
4.鳥居・太鼓橋・愛宕神社・秋葉神社・御神門(表門)・手水舎・神馬舎。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202211article_4.html
5.拝殿・本殿。旧中山道から多賀道に入る場所に一の鳥居。〔今回〕
6.神輿庫・鐘楼・日向神社。「美人薄命」と「スーパー高耐久性何何」https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202211article_6.html
7.天満神社。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202211article_7.html
8.多賀大社から多賀町役場前・胡宮神社前を通り「多賀」サービスエリアへhttps://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202211article_8.html
9.刈谷P.A.・足柄S.A.・東京料金所P.A.? 「国民を」でなく「国家を守る公務員」自衛隊。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202211article_9.html
多賀大社参拝の5回目です。

私は「八百長裏口医者屋民族」ではなく「ガチンコ民族」ですから、民族の掟に従い、御神門(表門)から入ります。
ちなみに、東京圏在住関西人には2種類の関西人がおり、それは「糸引き納豆食べる関西人」と「糸引き納豆食べない関西人」の2種類で私は「糸引き納豆食べる関西人」なのだが、「糸引き納豆食べない関西人」にはそれが許せないと思う人がいるらしく、「なんで、あんた、そんなもん、食べるのお? 関西人でしょお? なんで、そんなもん、食べるのお?」と普段は自分の方が東京化しているくせして言うのです。「なんで?」と言われても特別の理由があるわけでもないのですが、「糸引き納豆食べない関西人」からすると「民族の誇りを捨てたのか!」というような問題のようです。まるで宗教の戒律を破ったかのように言うのです・・・が、別に食ってもええやろうが・・と思うのですが「糸引き納豆食べない関西人」としては関西人としてのアイデンティティーを捨てたかのように思えるのかもしれません・・が、そんなもん、どうでもええがなて気がしますが、「基本的には表門から入る」というのは、これは「ガチンコ民族」としてのアイデンティティーであり戒律ですから譲れません。八百長裏口医者屋民族の人は裏口から常に入るようにしてください。
そういえば、1998年、(株)一条工務店 において、栃木県佐野市の展示場に移った時、営業所長の五十嵐が「巨人になれ!」などと私に言ったので、はあ? はあ~あ?・・・と思ったことがありました。「今、何言うた? 今、いったい何を言うたあ~あ?」・・・
「『巨人になれ』やとお? なんで、そんなもんにならんといかんのんじゃい!」 「なんで、そんな汚らわしいもんにならされんといかんのんじゃい! 人間、言っていいことと悪いことがある」
そうやろ。ちゃうか? 糸引き納豆は食えても、それは許せんぞ、それは〔 ⇒《YouTube-六甲おろし 唄:立川清登》https://www.youtube.com/watch?v=yV814_p2fxE 《YouTube-六甲おろし》https://www.youtube.com/watch?v=9g5IiOZNFxc 〕
御神門(表門)をくぐって入った正面、向こうの方に拝殿が見えます。↓



↑ 拝殿。
拝殿と回廊も多賀町指定有形文化財の指定を受けているようです。

↑ 拝殿の後ろに本殿の屋根がわずかに見えます。本殿も多賀町指定有形文化財に指定されています。
※ 多賀大社HP http://www.tagataisya.or.jp/
《ウィキペディアー多賀大社》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%9A%E8%B3%80%E5%A4%A7%E7%A4%BE
( 滋賀県犬神郡多賀町多賀 多賀大社。)
島田裕巳『一生に一度は行きたい日本の神社 100選』(2018.8.12.宝島社 TJ MOOK)には、
《 本殿は風情ある桧皮葺(ひわだぶき)の屋根が特徴だ。本殿から左奥にある奥書院庭園は豊臣秀吉の寄進によって築造されたと伝えられ、桃山時代の作風を伝えるものとして昭和10年(1935年)には国の名勝に指定されている。》
と書かれている・・が、拝殿は見えても本殿は残念ながら屋根の端以外はほとんど見えない。

一生に一度は行きたい日本の神社100選 (TJMOOK) - 島田 裕巳
入口の所に出ていた説明書きには、
《 ・・社殿の造営については、古代から造替または修理がくり返されて現在に至っています。
江戸時代には、寛永(1624年~1644年)の大造営(寛永十年から五年間 1633年~1638年)が行われました。本殿・拝殿・庁屋・摂末社・本地堂・僧坊・書院・鐘楼・三重塔・日向社、さらに当時の末社であった胡宮神社・大瀧神社・千代神社におよぶ大規模なものでした。
しかし、安永2年(1773年)の大火災によって、本社をはじめ諸堂社すべてが焼失してしまいました。
その後、ただちに復興にとりかかり、翌年(1774年)には書院が完成して、最小限ながら必要な建物が再建されました。
文化4年(1808年)には三間社流造の本格的な本殿が再建されました。この本殿は、昭和の造営に際し豊郷町の白山神社に移築されて現存しています。
明治に入ると神仏分離令のより仏教的な建築物は取り除かれました。その景観は、明治28年(1895年)の『大日本帝国淡海多賀大社全図』に見ることができます。
大正から昭和にかけての造営については『多賀大社造営誌』に詳しく記載されています。これによると、明治以降、建物の再建・撤去が無計画になされたため、社殿配置に統一性が欠けておりました。
そこで、大正8年(1919)に明治神宮造営局技師 大江新太郎が境内を(1)神聖 (2)神厳 (3)清厳 (4)清雅 (5)自由区域 の五段階に分けて設計を行い、その計画をもとに壮大な造営事業が勧められました。この事業は、本殿(透塀を含む)・祝詞舎・幣殿(翼廊を含む)・神饌所の4棟を国費で行うことになり、内務省技師 角南 隆が総監督にあたりました。また、国費以外の神社直営工事は、前記の大江新太郎が設計監督となって並行して行われ、昭和8年(1933年)に「昭和の大造営事業」がついに完成しました。これが現在の社殿です。
表門から本殿まで、参道に沿って一直線上に配置された建物は巧妙に計算され、なかでも拝殿から本殿にかけて段々状に重なった桧皮葺やねは、華麗で変化に富んでまとめられており、気品ある神々しさを醸しだしております。
多賀大社は、近代につくられた神社建築の中でも、最も優れた社殿として高く評価されています。
平成18年(2006年)7月1日 多賀町教育委員会 》
と書かれています。
1633~1638年「寛永の大造営」
1773年 大火災で焼失。
1774年 書院完成。最小限必要な建物が再建。
1808年 本殿が再建。
明治(1868年~)になり、 神仏分離令により仏教的な建物が取り除かれる。
大正(1912~1926)から昭和(1926年~)にかけての造営 再建・撤去が無計画になされたため、社殿配置に統一性が欠けた。
1933年(昭和8年) 「昭和の大造営事業」完成 大江新太郎の計画による造営事業。本殿は豊郷町の白山神社へ移築された。
しかし、この記述だと、本殿は1808年に造られたものは「昭和の大造営事業」の際に豊郷町の白山神社へ移築されて、現在の本殿と幣殿はその「昭和の大造営事業」の時に国費で造られたとして、それ以外の個々の建物について、それが「昭和の大造営事業」の際に造られたものなのか、それより前、
(1)1773年の大火災の後で復興されたものか、
(2)明治になって再建・撤去された際のものか、
(3)「昭和の大造営事業」の際のものか、
いずれなのかはっきりとわからない。
「昭和の大造営事業」の際に、1808年に造られた本殿が移築されていったという豊里町の白山神社というのはどこなのか。そもそも、豊里町てどこにあるのか・・地図で見ると、多賀町は町にしてはけっこう広い面積の町で、犬神郡には多賀町の他に多賀町の西側、彦根市との間、東近江市の北側に、犬神郡甲良町(こうらちょう)・愛荘町(あいしょうちょう)と豊郷町(とよさとちょう)があるようなのだ。このうち、豊郷町が一番、面積は狭いようだ。近江鉄道本線が彦根市高宮 の「高宮」駅で多賀線と別れた後、南に2つめの駅が「豊郷(とよさと)」駅で、その付近のようだ。 近江鉄道本線「豊郷(とよさと)」駅の東、犬神郡豊郷町(とよさとちょう)八町(はっちょう)に白山神社がある旨の記載があるが、そこだろうか。
( ↑ 滋賀県犬神郡豊郷町八町 白山神社。)
「豊郷町HP 白山神社」https://www.town.toyosato.shiga.jp/0000000133.html を見ると、豊郷町の白山神社の祭神は岐阜県と石川県の境目付近の白山の神さんではなくて、伊邪那美(いざなみ)のみこと だという。多賀大社のホームページとかを見ると、多賀大社の祭神は伊邪那岐(いざなぎ)と伊邪那美(いざなみ)の二柱となっているが、「豊郷町HP 白山神社」https://www.town.toyosato.shiga.jp/0000000133.html では多賀町多賀の多賀大社で祀られるのが伊邪那岐(いざなぎ)で、豊郷町八町(はっちょう)の白山神社で祀られるのが伊邪那美(いざなみ)だという。

↑ 拝殿の左(西)、「翼廊」なのか「回廊」なのか。これも多賀町指定有形文化財に指定されているようです。
『古事記』には《 その伊邪那岐(いざなぎ)(の)大神は、淡海(あふみ)の多賀(たが)に坐すなり。》 と書かれており、この《淡海(あふみ)の多賀(たが)に坐すなり。》について、岩波文庫の倉野憲司校注では《近江の多賀神社に鎮座されている。 書紀には淡路の幽宮に隠れたとある。》と書かれており、伊邪那岐(いざなぎ)が最後にたどりついた所は『古事記』では滋賀県の多賀大社で、『日本書紀』では淡路島の「幽宮」となっているらしい・・が、多賀大社については、《ウィキペディアー多賀大社》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%9A%E8%B3%80%E5%A4%A7%E7%A4%BE には、
《 『古事記』以前の時代には、一帯を支配した豪族・犬上氏(姓は君)の祖神を祀ったとの説がある。犬上氏は、日本武尊の子の稲依別王の後裔とされ、飛鳥時代の遣隋使・遣唐使として知られる犬上御田鍬にはじまる。この犬上氏は、多賀社がある「犬上郡」の名祖とされる。》
とも書かれている。
滋賀県歴史散歩編集委員会編『滋賀県の歴史散歩 (下)彦根・湖東・湖北・湖西』(2015.5.25.山川出版社)には、
《 ・・織田信長・武田信玄・豊臣秀吉・徳川家康ら、戦国武将の崇敬も集めた。とくに秀吉は、母の病気平癒のため、1588年(天正16)年に米1万石を寄進しており、これによって社殿整備がなされ、参道に太閤橋(太鼓橋)が架けられたという。橋を渡ると築地塀(ついじべい)に挟まれた神門(じんもん)があり、門をくぐると拝殿と幣殿、本殿が雄大に広がる。・・》
と出ている。

滋賀県の歴史散歩〈下〉彦根・湖東・湖北・湖西 - 滋賀県歴史散歩編集委員会

滋賀県の歴史散歩〈上〉大津・湖南・甲賀 - 滋賀県歴史散歩編集委員会
多賀大社の入口の説明書きには、《 ・・築造は江戸初期 寛永15年(1638年)に徳川幕府の助成もあって、大僧正 慈性によって本殿以下諸堂社の造営が行われた。「寛永年間多賀大社絵図井指地図」に「そり橋」も記載されていることから、この大造営の際に築造されたものである。》と書かれており、入口の太鼓橋は、豊臣秀吉が母の病気平癒のため、1588年に米1万石を寄進したものにより社殿整備がされて太鼓橋もかけられたのか、それとも江戸初期 「寛永の大造営」の際に築造されたものなのか、いったい、どっちやねん? ・・・と思えてくるが、2説あるということなのか。
滋賀県歴史散歩編集委員会編『滋賀県の歴史散歩 (下)彦根・湖東・湖北・湖西』(2015.5.25.山川出版社)には、
《 ・・本来は、国道8号(旧中山道)からが正面の参道にあたる。高宮宿の中ほどに一の鳥居が聳える。・・・
高宮からの旧参道は今ではほとんどわからないが、多賀集落に入る手前の水田の中に、2本のケヤキの古木が立っている。・・》
《 (近江鉄道の)高宮駅から北西は300mほど行くと旧中山道に出る。現在は商店街となっている一帯が、旧中山道64番目の宿場 高宮宿である。・・・高宮宿から多賀大社に向かう参詣道である高宮道(多賀道)の入口には、1635(寛永12)年築の高さ11mの多賀大社一の鳥居( 滋賀県有形文化財)が聳え、沿道には1町ごとに石灯籠が立っていた。また、かつては多賀大社まで参拝できない旅人のために賽銭箱がおかれ、高宮宿は多賀大社の門前町としての性格もあった。》
と書かれている。《ウィキペディアー多賀大社》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%9A%E8%B3%80%E5%A4%A7%E7%A4%BE には《彦根市高宮町の高宮郵便局右隣にある。》とある。
※ 高宮郵便局HP https://map.japanpost.jp/p/search/dtl/300146021000/
滋賀銀行 高宮支店 HP https://sasp.mapion.co.jp/b/shigagin/info/158/
日本郵便 高宮郵便局と滋賀銀行 高宮支店の間の交差点付近に1635年(寛永12年)築の 一の鳥居があるらしい。
( ↑ マーカーの場所が高宮郵便局。)
↑ この地図で見ると、現在の国道8号ではなく、それより少し東側を南北に通る道が旧中山道だったようだ。
次回、鐘楼・神輿庫・日向(ひゅうが)神社などへ。
(2022.11.15.)
☆ 多賀大社(滋賀県犬神郡多賀町多賀)参拝。
1.名神高速道路「多賀」サービスエリア。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202211article_1.html
2.「多賀」S. A.より近江鉄道「多賀」駅へ。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202211article_2.html
3.「多賀大社前」駅から絵馬通りを経て多賀大社へ https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202211article_3.html
4.鳥居・太鼓橋・愛宕神社・秋葉神社・御神門(表門)・手水舎・神馬舎。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202211article_4.html
5.拝殿・本殿。旧中山道から多賀道に入る場所に一の鳥居。〔今回〕
6.神輿庫・鐘楼・日向神社。「美人薄命」と「スーパー高耐久性何何」https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202211article_6.html
7.天満神社。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202211article_7.html
8.多賀大社から多賀町役場前・胡宮神社前を通り「多賀」サービスエリアへhttps://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202211article_8.html
9.刈谷P.A.・足柄S.A.・東京料金所P.A.? 「国民を」でなく「国家を守る公務員」自衛隊。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202211article_9.html
この記事へのコメント