平山お願い薬師・鈴得山 東光院 大金剛寺(千葉市緑区)参拝【1/4】石段を登る。十三詣りに関し「十三(じゅうそう)」と「十三湖(じゅうさんこ)」についての小学校教諭の対応。息子を教育できない「中学校の校長先生」。「あんたが今日あるはすべてわしのおかげ」と父親から毎日四六時中耳鳴りするくらい言われてきた者としては「今日あるは すべてご先祖さまのおかげです」と言われても、もうええわ・・という気持になる。

[第970回]2023年の第2回・SeeSaaブログでの第2回
  千葉市緑区平山 の 鈴得山 東光院 大金剛寺、平山お願い薬師 に参拝してきました。
2022年に身内の者で永眠することになった者がいたのですが、まさか昨年のうちに亡くなるとは思っていなかったので、ここしばらく新年に毎年、寺社に1か所参拝に行っていたので、今年は病気平癒の寺社に行こうと考え、東京圏で病気平癒の寺社として思い浮かんだのは、『東京人 2002年12月号 特集:寺見物』(都市出版)に掲載されていた、新井薬師でしたが、新井薬師は東京都の西側で千葉県から行くには初詣での季節においては遠いということと、新井薬師は眼病平癒の寺であり、今回は眼病平癒が目的ではないので、他の所はないかとインターネットで検索したところ、千葉県内においては、成田山新勝寺と千葉市緑区の東光院が出てきて、それで、今回は東光院に行くことにしたのです。
東京人 no.185 2002年12月号【雑誌】 特集:「寺見物」近ごろはやりの散歩術 小特集:ラーメン、恐るべし
東京人 no.185 2002年12月号【雑誌】 特集:「寺見物」近ごろはやりの散歩術 小特集:ラーメン、恐るべし
※ 新井山 梅照院HP https://araiyakushi.or.jp/

  正式名称は 「鈴得山 東光院 大金剛寺」と言うらしく、真言宗豊山派の寺らしい。 鉄道の駅としてはJR総武本線「鎌取」駅が最寄ということになるようですが、他の駅よりも近いとしても近くはありません。
  今回は自動車で行きました。高速道路のインターチェンジとしては東金道路の「大宮」インターチェンジとその東の「高田」インターチェンジの中間付近にあります。私は船橋市の住人なので西から行きますから「大宮」インターチェンジで降りました。「大宮」インターチェンジを出て左折して東金道路をくぐり、信号がある「大宮市民の森」交差点を右折して道なりに進むと左側にローソンがあり、信号がある「平山十字路」交差点に出ます。「平山お願い薬師 あっち」というような看板が出ていたように思います。そこを右折して少し行くと、また「平山お願い薬師 あっち」という感じの看板が出ており、そこを右折して広くない道をゆっくりと道なりに行くと、鈴得山 東光院 大金剛寺(平山お願い薬師)の駐車場が見えてきます。住所としては、千葉市緑区平山町278 になるそうです。
※ 平山お願い薬師 東光院HP https://www.tokoin.com/
 ウィキペディアー東光院(千葉市)https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E5%85%89%E9%99%A2_(%E5%8D%83%E8%91%89%E5%B8%82)
 癌(がん)封じで有名な関東の寺社 ~東光院(千葉県)~ https://geinou-ganhoken.info/2018/09/05/chiba-toukouin-ganfuji/
 猫のあしあと 鈴得山東光院|平山お願い薬師 https://tesshow.jp/chiba/chiba/temple_midori_toko.html

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↑ この右側の石段を登っていった上にお寺があるようです。
  参拝者用駐車場は、↓
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駅からは遠いが、けっこう広い駐車場があって高速道路のインターチェンジからそう遠くないので自家用車で行くには不便ではありません。
 バス停としては「平山坂上」「平山坂下」というバス停がそう遠くない所にあるようで、インターネットで検索すると、千葉中央バス の平山線という路線がJR総武線「鎌取」駅から出ていて、「平山坂上」「平山坂下」を通り「平山十字路」を経て「四谷」というバス停から「平和公園」を一周して、また「四谷」から「平山十字路」「平山坂下」「平山坂上」を通って「鎌取駅」まで戻るようです。
※ 路線バス 平山線 千葉中央バス 路線図 https://mb.jorudan.co.jp/os/bus/1203/line/3433.html

  右上を見あげると、↓
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↑ 樹林の向こうに見えるのは鐘楼のようです。

  千葉県高等学校教育研究会歴史部会議編『千葉県の歴史散歩』(2006.5.31.山川出版社)にも東光院(とうこういん)は掲載されています。
《 バス停から北側の脇道をはいったところに、東光院大金剛寺(だいこんごうじ)(真言宗)がある。東光院は、11世紀に下総を中心に反乱をおこした平忠常(たいらのただつね)が、この辺りの民衆の病気平癒を願って創建したと伝えられている
  この寺の本尊である木造伝七仏(でんしちぶつ)薬師(やくし)坐像 (県指定有形文化財)のうち、中尊(ちゅうそん)は鎌倉時代初めの作とされ、像高107cmの一木割(いちぼくわり)矧(はぎ)造で漆箔(しっぱく)がほどこされている。左右に配された6体の菩薩坐像は、10世紀の後半の作とされる。この七仏薬師は、上野(こうずけ)国花園(はなぞの)の息災寺(そくさいじ)(現、妙見寺 みょうけんじ)の七仏薬師を勧請したものといわれ、33年に1度開帳される秘仏である。次回の開帳は、2013年に予定されている。そのほか、本堂には、元 山門の仁王像であった南北朝時代の作とされる木造天部形(てんぶぎょう)立像(阿形 あぎょう)と平安時代後期の作とされる鎌倉時代の木造兜跋(とばつ)毘沙門天(びしゃもんてん)像(吽形 うんぎょう)や、阿弥陀三尊像の脇侍だったとされる鎌倉時代の木造観世音菩薩立像、室町時代の高さ13センチメートルの銅板押出(おしだし)阿弥陀三尊像などが安置されている。・・》
と書かれている。
千葉県の歴史散歩 - 千葉県高等学校教育研究会歴史部会
千葉県の歴史散歩 - 千葉県高等学校教育研究会歴史部会

《ウィキペディアー東光院(千葉市)》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E5%85%89%E9%99%A2_(%E5%8D%83%E8%91%89%E5%B8%82) によると、
木造伝七仏薬師如来坐像 が千葉県指定有形文化財、
善光寺式観世音立像・木造天部形立像・銅板押出阿弥陀三尊像 の3つが千葉市指定有形文化財に指定されているらしい。
建築物ではそれらに指定されているものはない。

  石段の右手に ↓
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↑ この看板の一番下に「十三詣」と書かれている。内田康夫『十三の冥府』「十三参り」の話が出てくる。《 男女とも数え年13歳でおこなう祝いである。子供の多福・開運を祈り、小学校を卒業して中学校に入学する春に寺社に詣でる形式が一般的。特に京都嵯峨の虚空蔵法輪寺における虚空蔵菩薩への「十三参り」は有名である。虚空蔵菩薩は十三番目に誕生した智恵と福徳を司る菩薩とされる。これに因み別名、知恵詣りまたは智恵もらいとも云う。》( ウィキペディアー十三詣り https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E4%B8%89%E8%A9%A3%E3%82%8A )というものだ。
  1960年代の終わり、私が小学校4年の時、大阪市東住吉区の大阪市立M小学校で担任の教諭が「『面白い地名』というと、どういうものがありますかあ?」と言うので、私は母方の祖父母が阪急神戸線の沿線に住んでいて、そこに行く時に大阪梅田から阪急神戸線の電車に乗ると「十三」と書いて「じゅうそう」と読む駅があって、これは面白い駅名・地名だと思ったということがあったので、それで「十三(じゅうそう)」と言ったのだが、そうするとその女性教諭は「何を言ってるのよ、あんたはあ。十三(じゅうそう)なんて面白くもなんともないじゃないの」と馬鹿にしたように言うのでした。そして、「他に『面白い地名』を言える人~お」と言うと、「大歩危小歩危(おおぼけこぼけ)」「親知らず子知らず」「立売堀(いたちぼり)」と言ったやつがいて、「そうよお。『面白い地名』と言ったら、『大歩危小歩危(おおぼけこぼけ)』とか『親知らず子知らず』とか『立売堀(いたちぼり)』とかそういうものを言うのよお。まったく、何を言ってるのよ、あんたはあ」と言われたのだったが、どうも納得いかなかった。私は数字の「十三」と書いて「じゅうそう」と読むというのは「面白い」と思ったし、どういう経緯でこの地名ができたのだろうかと思ったのだったし、又、なぜ「大歩危小歩危」「親知らず子知らず」「立売堀(いたちぼり)」が「面白い地名」で「十三(じゅうそう)」は「面白くもなんともない」のか、その判断基準もよくわからなかった。
  ・・おそらく、あの教諭の頭には、あらかじめ、「面白い地名」⇒「大歩危小歩危」「親知らず子知らず」「立売堀」とインプットされていたのだろう。「十三(じゅうそう)」という地名はどこからつけられたのか。阪急電車の車内の案内書きに淀川の十三番目の渡しがあった所と書かれていたのを見たことがあるのだが、そうだろうか。もしも、十三番目の渡しから「十三(じゅうそう)」という地名ができたのなら、一番目から十二番目については地名にならなかったのだろうか。栃木県の県庁所在地の宇都宮市は下野の国の一宮の二荒山神社があることから「いちのみや」が「うつのみや」に変化したという説があるが、塙(はなわ)静夫『とちぎの地名を探る』(1996.11.2.随想舎)では、「一宮(いちのみや)」は全国のいくつもの国にひとつずつあるのに、下野の国(栃木県)だけが「うつのみや(宇都宮)」に変化して他の国で「うつのみや」になった所がないというのは不自然だと指摘する。むしろ、「うつ」というのは崩壊地名、地面が崩壊することを「うつ」と言うところからきた地名ではないかと塙静夫氏は言う。その方がありそうにも思える。但し、塙静夫氏は、柳田国男がアイヌ語から地名を解釈するということを「やり過ぎ」ていて、アイヌ語に由来する地名もあるとしても、そうでないものまでアイヌ語にルーツを持っていっているのではないかと言うが、塙静夫氏の同書では、土地の崩壊地名にルーツを推測しているものが相当多く、たしかに土地の崩壊・崩落からつけられた地名は多いとしても、そこにルーツを持っていき過ぎているということはないか、という気もしないでもない・・が、ともかく、全国に「いちのみや」はあるのに下野の国だけ「いちのみや」が「うつのみや」に変化したというのは不自然だという指摘はわかる。同様に、一番目の渡しから十二番目の渡しが地名にならずに十三番目の渡しだけが「十三(じゅうそう)」という地名になったというのも不自然な気がする。特に十三駅の南側を流れる淀川は「新淀川」であり、毛馬の閘門から南に流れる「大川」と今は地図に掲載されている川が元々の淀川であり、十三駅の南を東から西に流れる川は放水路として明治になってから人工的に開削された「新淀川」、《1885年に大洪水が起きたため、治水を目的として開削されました》(淀川と新淀川の違い https://chigai-hikaku.com/?p=30858 )というものであり、そう昔むかしからあるものではなく、そこからも「淀川の十三番目の渡し」説はまるまる信じがたい。むしろ、ひとつの可能性として私は「十三参り」が関係あるということはないか? と思ったりもしているのです。もしくは、『古寺を巡る49 関西・中部の霊場めぐり』(20081.29.小学館)には「おおさか十三仏霊場」「京都十三仏霊場」「大和十三仏霊場」が掲載されており、「おおさか十三仏霊場」のところには
「十三仏」とは、亡くなった人の供養のために行なう13回の忌日法要の本尊となる仏尊のことをいう。 十三仏霊場巡礼とは、その13の本尊仏を拝して、亡き人の冥福を祈る旅である。
  追善法要は、死後49日までは7日ごとに7回、その後は百か日から三十三回忌まで6回と、計13の法要をすることが通例となっている。「十三仏事」と呼ばれるこの法要で、遺族は故人の冥福を祈る。この風習は中国に起源をもち、日本でも一般に広まったと伝えられている。・・》
と書かれている。西洋では「13」という数字は好まれないようだが、中国や日本では元々はそうでもなかったようで、「十三参り」だけではなく、「十三仏」とか「十三仏事」といったものがあったようだ。阪急の神戸線・宝塚線・京都線が分岐する「十三(じゅうそう)」駅の駅名とその付近の地名は、そのあたりにルーツがあるという可能性は考えられないだろうか。そして、こういったことを考えるならば、「十三(じゅうそう)なんて面白くもなんともないでしょう。何を考えてんのよ、あんたはあ」と言われる筋合いはないように思えてくるのだ。
とちぎの地名を探る - 塙 静夫
とちぎの地名を探る - 塙 静夫
十三の冥府(上) (文春文庫) - 内田 康夫
十三の冥府(上) (文春文庫) - 内田 康夫
十三の冥府(下) (文春文庫) - 内田 康夫
十三の冥府(下) (文春文庫) - 内田 康夫
週刊 古寺を巡る 49号(2008/1/29) 関西・中部の霊場めぐり 風光明媚な古都の大寺と故郷の寺 (小学館ウイークリーブック) - 小学館
週刊 古寺を巡る 49号(2008/1/29) 関西・中部の霊場めぐり 風光明媚な古都の大寺と故郷の寺 (小学館ウイークリーブック) - 小学館
  私は1960年代の終わり、小学校4年の時に大阪市東住吉区から大阪府の北摂地区に引越したのだが、小学校5年の時にはM市立N小学校にて、担任のハナ◇◇という男性教諭(当時、40代。大阪府立池田高校卒⇒大阪教育大卒)が「社会科」の授業中に私にあてて、「日本の干拓地というとどういうものがあるか」と質問したので、私は目の前に広げられている「社会科」の教科書には児島湾・八郎潟・有明海と3か所が書かれていたので、それ以外にどういうものがあるかという質問だと思い、それで『力の5000題 社会科』(教学研究社)にいくつか掲載されていたうちのひとつである「十三湖(じゅうさんこ)」と答えたのだったが、ところがハナ◇◇は、「十三湖(じゅうさんこ)やて、なんやそれ。そんな干拓地あるか。おまえは何を言ってるんや」と言ってあざわらい、クラスの生徒に一緒に私を笑うように扇動し、ハナ◇◇が特別扱い生徒と指定していた「野口くん」とともに、もうひとりの特別扱い生徒だった松下がそれに応じて「はははあ~あ♪」と言って大笑いしてみせたのだった。 しかし、私は『力の5000題 社会科』(教学研究社)に掲載されていたものを言ったのであり、もしも、ハナブサが言うように「十三湖(じゅうさんこ)て、いったいそれ何や。そんな干拓地あるわけないやろうが。おまえは何を言ってるんだ」というものならば、『力の5000題 社会科』(教学研究社)が嘘を掲載していたことになる。 十三湖(じゅうさんこ)は青森県の西部にあり、一部が日本海とつながっている汽水湖であるが今も存在している。もしかして、十三湖(じゅうさんこ)の干拓は計画は出たものの実行は中止されたのだろうか、だから、ハナブサは「何を言ってるんだ、おまえは」と言ったということだろうか・・とか考えたりもしたのだったが、内田康夫『十三の冥府』によると、そうではなく、十三湖(じゅうさんこ)の干拓は実行されたらしい。実行されたが今も十三湖(じゅうさんこ)は存在しているというのは、十三湖(じゅうさんこ)の付近は平地が少なく水田が多くないので干拓して水田用地を設けたらしい。しかし、他方で十三湖(じゅうさんこ)で漁業もおこなわれており、特にシジミが汽水湖である十三湖の名産であり、十三湖の3分の1程度を干拓して水田にして、3分の2程度は汽水湖として残したらしい。だから、十三湖の干拓はおこなわれたが今も十三湖は存在しているらしい。日本の干拓地として「十三湖(じゅうさんこ)」というのは間違いではなかったのだ。なんで、私は担任の教諭にクラス全員に笑うようにけしかけられて、特別扱い生徒の松下などに笑われなければならなかったのだろうか。 ・・ハナブサは後に中学校の社会科の教諭に変ったと聞いたので、「ええ~え、あんな人が社会科の先生になるのお~お?」と驚いたが、さらにその後、校長先生になったと聞いたので、「ええ~え、あんな人が校長先生になるのお~お?」と驚いた。
 1993年、(株)一条工務店https://www.ichijo.co.jp/ で福島県いわき市の営業所で設計として勤務していた新卒入社3年目の春田靖(男。当時、20代前半。東洋大工学部建築学科卒)を見て、こいつの親は息子にいったいどういう教育してんだ・・と思い、又、こいつの親は、いったい何やってる人間なんだあ?・・と思ったが、「中学校の校長先生」だと聞いたので、なるほどなあ~あ( 一一)・・と思った( 一一)
(1) 私が福島県いわき市の営業所に赴任した時、営業本部長の天野隆夫から「寮に入ってもらう」と言われて行ったのだったが、ところが、3室と駐車スペース2代分のアパートを借りて「寮」としていて工務課と営業課の従業員は居室1部屋と駐車スペース1台分、設計課の従業員は居室1部屋を使用することになっていたのに、バカ大学卒で新卒入社して3年目の春田靖(男。20代)が2部屋を占拠するとともに、ばかでかい相当高いと思われるオフロードカーに乗って駐車スペース2台分を不当に占拠していたため、私が住む所がなく私のクルマを駐車する場所がなかった。春田と一緒に先から住んでいた工務課の勝又も居室1部屋と駐車スペース1台分を使用できるはずであったのを春田靖が駐車スペース2台分を占拠していたことから勝又(男。20代)のクルマを駐車させることができず路上に駐車していた。(株)一条工務店は営業と工務課(工事担当)の従業員は自家用車持込で業務に従事することになっていて通勤もその乗用車で通勤することになっていたので寮の駐車場もまた必要なものだったが、設計部の従業員は鉄道・バスなど公共交通機関で通勤するということが基本であり、本人が乗用車で通勤したいと希望する場合はだめとは言っていなかったが、それは本人の都合として許容していたという性質のものであり、その場合には居宅の駐車場は自分で用意するものという前提であったはずである。
  それを会社が設計部の従業員には居室1室のみを提供していたにもかかわらず、「2間続きだから」とわけのわからない理由を主張して居室2室を不当に実力行使で占拠し、設計部の従業員は鉄道・バスなど公共交通機関で通勤するということを基本としていた会社で、営業・工務課(工事担当)は自家用車を持ち込んで(株)一条工務店の業務をおこなうということで(株)一条工務店と自家用車の賃貸契約を結び、(株)一条工務店が従業員から借りた自家用車を所有者である従業員に使用させて(株)一条工務店の業務をおこなわせているということになっていたが、春田靖のような設計部の従業員とはそのような契約を(株)一条工務店は結んでおらず、春田靖のばかでかいオフロードカーは(株)一条工務店の業務に使用するクルマではなく、あくまでも春田靖の私用のもの、「日常・レジャー」用のもので、「日常・レジャー」用のクルマを(株)一条工務店が用意した寮の駐車場2台分にとめることにより、(株)一条工務店の業務に使用するということで(株)一条工務店と賃貸契約を結んでいた営業・工務課(工事担当)のクルマをとめることをできなくしていた。
  そもそも、私や工務課の勝又が乗っていたクルマは(株)一条工務店の業務で使用できるような乗用車であったのに対して、春田靖が乗っていたクルマは見るからにレジャー用のオフロードカーであり、客宅に乗っていくには不適切なクルマであり、(株)一条工務店と賃貸契約を結んでいる業務用にも使用するクルマを(株)一条工務店がそのクルマを駐車させるために借りた駐車場に駐車させないようにして、若僧のレジャー用のクルマを不当に駐車しているということからして、「ええ根性している」ということになる。
  私はこれを営業本部長の天野隆夫に話し対処するように言ったのだが天野隆夫は春田靖を増長させて何ら対処しなかった。私が他にアパートを借りてすんだ後、それから何か月か後、他の営業所から転勤してきた営業部の従業員がいたが、その時においても春田靖は不当に占拠をつづけており、そのために転勤してきた従業員が寮に住むことができず、展示場に布団を持ち込んで寝泊りしていた。
  (株)一条工務店のいわき地区の所長の草野次男さん(男。当時、50代)は所長なのに春田靖のこのような不当な行為に何ら注意しなかった。一般的には所長として職務怠慢と評価されるものであるはずだが、(株)一条工務店の総務部長の天野雅弘(男。当時、40代後半くらい?)は「一条工務店では所長は売るのが仕事であって管理したり指導したりするのは所長の仕事とは違いますから」と言っていた。「売るのが仕事」だと言うのならば、それならば所長の役職手当なんぞ要らないではないか。「売るのが仕事」であって「管理したり指導したりするのは仕事とは違う」のなら、なぜ「所長」という肩書をつけているんだ? なんで「所長」の役職手当を受け取っているんだ? ただ取りか? 泥棒か? もしも、所長がその問題について対処する役ではないということならば、誰か他のふさわしい立場の人間が対処しないといけないはずである。ところが、(株)一条工務店は会社のルールに違反して不当に占拠を続けて不当な利益を得続けている春田靖に対して何ら注意しなかった。
  普通に考えて、「バカでも入れる私大」出て新卒入社2年目だか3年目だかの若造に、2部屋と駐車スペース2台分を無料で使わせる会社なんて、そんなおかしな会社が(株)一条工務店以外にいったいどこにあるか?!? まず、営業所長・営業本部長・総務部長はそのあたりについて認識できていないというのは超ド級におかしい! 総務部長の天野雅弘は「一条工務店では所長の仕事は売るのが仕事であって管理したり指導したりするのは所長の仕事とは違いますから」と言うのだったが、それなら誰の仕事なんだ? 会社として誰も対処しないではすまないはずであり、この時点においては天野雅弘は総務部長ではなくて企画室課長だったと思うが企画室課長であれ総務部長であれ、誰も対処しないではすまないという常識を認識できないようではその役職の人間として不適切であると言わざるをえない。営業本部長の天野隆夫は「バカでも入れる私大の建築学科」卒の人間を増長させるのが趣味の男だったが、あまりいい趣味を持っていないと言わざるをえないが、営業本部長ならば春田靖のように会社が認めていないものを不当利得している者にはきっちりと注意してやめさせないといけない。それができないようでは営業本部長だとか「社長の次」だとか言っても価値がない。
(2) 私などは、慶應大学に在学していた時、うちの父親が「いらいらっとしたから仕送り、送るのんやめたってん」と言って送金してこなかった時には1週間ほど水しか飲まずに過ごしたものだった。又、東京と大阪を行き来するのに新幹線代がもったいないと言って、それで国鉄バス「ドリーム号」という夜行バスか東京駅を夜11時半くらいに出た大垣行夜行普通にのって大垣で西明石行きに乗り換えて大阪まで移動したりしたものだった。夜行バス「ドリーム号」で大阪まで帰ると、うちの父親から「夜行バスなんて、おまえがそんなもん、乗ってええんか。もっと安いものに乗りなさい」と言われたものだが、その当時、夜行バス「ドリーム号」よりも安い交通手段は見当たらなかった。 「贅沢しとらんやろうなあ。贅沢すんなよ」と言われて、食事は朝は菓子パン1個と牛乳、昼は生協食堂の140円のカレーライス、夜は300円のカレーライス、毎日毎日、カレー、カレーでそのうち嫌になった。そうするとうちの父親から言われたのだ。「おまえ、140円のカレーライスなんて、そんな贅沢なもん、食ったらいかんやろうが。もっと安いものにしなさい」と。
  春田靖が乗っているクルマはどう考えても新卒入社した人間の1年目・2年目の給料で買えるようなクルマではない。相当高いクルマと思われる。私が慶應大学の日吉キャンパスに通える所で家賃が安い所として捜して、川崎市幸区で月1万2千円のアパートを借りて住み、原付で通っていた時に、神奈川大学の学生が運転していた乗用車と交通事故にあったことがあったのだが、慶應大学の学生だった私は屋根なし背凭れなしの原付に乗っていて神奈川大の学生は屋根あり背凭れあり冷暖房ありの普通乗用車に乗っていた。春田靖はその神奈川大の学生が乗っていた乗用車よりもはるかに高いと思われるオフロードカーに乗っていた。なんで、バカ大学のやつは高級車に乗るんだ!?!? なぜ、バカ大学に行ったやつの親は息子に高級車に乗せるんだ?!?!?
(3) うちの父親は私が高校3年の時、「東大に行くということなら東京で下宿してでも行く価値はあるし、下宿は嫌やなどと甘ったれたこと言うておってはいかんし、東大でなくても慶應か早稲田に行くのなら東京で下宿してでも行く価値はあるし行ったらいいけれども、そんなもん、法政やたら明治やたら専修やたらポン大やたら東洋大やたら、何たらわけのわからん私立大学に行くのに下宿までして行くことあらへん。大阪にもアホ大学はあるんやから家から通える所に行けばええことや。そんなことよりも、法政やたら明治やたら専修やたらポン大やたら東洋大やたらそんなアホ大学に行くようなやつだ大学に行くということが間違ってる。甘ったれとってはいかん。そんなやつ、自衛隊に入れたるべきや。自衛隊に入れ、そんなやつは」と言っていた。「自衛隊に」というのが戦中の学徒動員からきた発想かと思われ、戦中でない時代に自衛隊に入る必要はないのだが、実際、私なども、そう言われて、国立大学か早慶くらいなら行く価値はあるとしてもバカ大学に行くのに下宿までして行くというのはおかしい、バカ大学に行くようなやつは、たとえ「大学」に行くにしても地元の大学に行くべきだと思っていたのだが、春田靖は静岡県の人間だというのに、なんで、東京の東洋大学なんてものに下宿してまで行っているんだ?
  ましてや。私などは「うちは工学部になんか行かすような金持ちとは違います。甘ったれなさんな」とうちの父親から言われ、自分が行きたいと思う大学の行きたいと思う学部に行けるようにと小学校の1年から同級生が遊んでいる時も勉強して努力してきたのであり、それで「国立大学なら何学部でも学費は一緒のはずや」と言ったのだが、うちの母親から「国立大学なら何学部でも学費は一緒であっても、百パーセント絶対に国立大学に通るとは限らんでしょうが。たとえ1パーセントでも0.1%でも落ちる可能性があるからには国立大学でも工学部なんか受けてはいかんでしょうが」と言われたものだった。ところが、春田靖は東洋大学などという私立大学で、しかも、法学部・経済学部・商学部・文学部よりもカネのかかる工学部に下宿までして行った、というのは「いったい何 考えとんねん」て感じであり、春田靖の親というのはよっぽどの金持ちなのか・・となる。
(4) だいたい、「学校の先生の息子」「学校の先生の娘」て、普通、東大とか京大とかに行くものと違うんかい? うちの母親の叔母のだんなは小学校の先生をしていたが、その息子、母のイトコになる人だが天王寺高校から東大の文科二類・経済学部に進学したし、北野高校の物理のF先生の娘は天王寺高校から京大の医学部に現役で通ったし、うちの父親の知り合いで豊中高校の数学の先生をしていた方の息子は北野高校から大阪大学の医学部に現役で通って行ったし、そもそも、「学校の先生」というのは「勉強を教える仕事」なのだから、娘はともかく息子はそれなりの所に行かせることができていいはずであり、息子を東洋大みたいなもんに行かせているような「学校の先生」というのは、その先生、いったい何やってんねん、そんな先生に習ったら成績下がるのと違うかあ~あ・・・ということになる。なんで、「学校の先生の息子」が《「東大」は東大でも「東京大学の東大」ではなく「東洋大学の東大」みたいなもんに行ってんねん?!?》てことになる。なるだろ。違うか? おのれの息子を東大に行かせた先生になら、「あの先生に教えてもらったら、うちの息子も東大に行けるやろうか」とか考えるかもしれんが、「あの先生の息子て東洋大学やてえ。ええ~え、先生の息子やのに東洋大やのお~ん」てことにならないか? 「息子を東洋大学に行かすような先生になんか習ったら成績下がるんやないやろか」と思わないか?
(5) (株)一条工務店の福島県いわき市の営業所に、「佐藤さん」という女性から春田靖に、毎日毎日、四六時中、ひっきりなしに私用の電話がかかってきた。電話は取らないと誰からかわからないし、住宅展示場の電話には匿名での問い合わせの電話もかかってくるから、誰からの電話でも取らないわけにはいかない。展示場には交換手というような従業員はおらず、私は営業の職種の人間は電話は自分にかかってくる予定がなくてもさっさと取るものだと思って取っていたが、私が勤務した展示場の従業員は自分にかかってきたと思われる電話なら取るが、自分にかかってくる予定がない場合には入社が後の私に取らせればいいと思って電話を取らない人が多かった。春田靖は「佐藤さん」がひっきりなしに春田靖に電話してくるということを自覚していたにもかかわらず「電話は営業の職種の人間がとるもの」と勝手に決めつけて「佐藤さん」からの私用電話を毎度毎度、私にとらせていた。会社という所の電話は私用の電話をする所ではない。但し、住宅建築業の営業の場合は夜遅くまで客宅に行って商談するのが仕事であり、私のように単身で転勤していた者には家族が連絡しようとしても自宅にかけてもいないことが多く、そういう場合に職場に電話をするのはやむをえない。うちの母方の祖母が他界した時や、親戚が結婚式に出てほしいと言っているとか、そういう電話だけはうちの母親はしかたなしに展示場の電話にかけてきたが、そうでない電話は職場にかけるのは控えていた。ところが、春田靖はおかまいなしに「佐藤さん」という女性に展示場の電話に毎日毎日、ひっきりなしに私用の電話をさせていたのだった。なおかつ、私用の電話を他の従業員に取りついでもらったならば、「すいません」なり「ありがとうございます」なり「申し訳ありません」なり何なりと言うものであるはずだが、春田靖という男は何度も何度も私に私用の電話を取りついでもらっておきながら、「すいません」も「ありがとうございます」も「申し訳ありません」も、たったの一言として口にしたことがない( 一一)  この男の親は息子にいったいどういう教育をしてきたんだ?!? この男の親はいったい何をやっている人間なんだ?・・というと「学校の先生」だというのだ。「中学校の校長先生」だというのだ( 一一)  いったい、その先生というのは学校でどんな教育やっているんだ?!? その「学校の先生」というのは、いったいどういう教育を受けて育った人間なんだ???  
(6)  そのうち、春田靖は「佐藤さん」とは別の女性と結婚したのだが、ぬけぬけと私に「結婚式の””二次会””に出てください」と言ってきたので、それは出れんだろう、それは出てはいかんだろう・・と思い、「用事で欠席」と伝えた。 私用でも緊急の用事でやむなく職場に電話してきていいのは、配偶者と親・子・兄弟までであり、「佐藤さん」はそのいずれでもなかったはずなのだ。春田靖は、いずれ結婚する相手だからいいと勝手に決めつけていたのかもしれないが、「向こう1か月以内とかに結婚すると決まっている婚約者」ならともかく「佐藤さん」はそうではなかったはずなのだ。そういう女からの電話を「いずれ、結婚する相手」だからいいと勝手に決めつけて私にその女からの電話を何度も何度もとらせてきておいて、他の女性と結婚するから「結婚式の””二次会””に出てください」とは、いったいどの口が言うとんじゃい!!  もしも、出てもらいたいということならば、その前に「結婚相手でもない女からの電話を何度も何度もとらせまして申し訳ありませんでした」と最低一言は謝罪するものだろうが。違うのか? 会社に毎日毎日、朝から晩まで私用電話をかけさせて業務妨害させてきた女とではなく別の女と結婚するからといって、そのおかしな女からの私用電話を何度もとらせた従業員に「申し訳ありませんでした」の一言もなく別の女との結婚式に出てもらえると考える春田靖の認識は異常である。春田靖の親は息子にいったいどういう教育しとるんじゃい!?! 春田靖の親というのは、いったい何やってる人間なんじゃい!!・・というと「中学校の校長先生」だそうなのだ。私が中学校に行く生徒の親の立場ならばそんな親が校長先生やっているような中学校には息子・娘を行かせたくない。
(7) 一度、勤務時間中、春田靖を私のクルマに乗せて工事現場にだったか連れていったことがあったのだが、そうすると春田靖は「・・を今やってますよ」と言って自分が聴きたいらしい音楽番組をひとのクルマのオーディオ設備を勝手にいじってFM放送をつけたのだった。この男も変ったやつだな・・と思ったものだ。春田靖が自分自身のクルマを運転していて自分だけが乗っているのならば自分が聴きたい音楽番組を流してもかまわないだろうが、ひとのクルマに乗せてもらって、その上で運転しているそのクルマの持主が聴きたいわけでもないものを、クルマの運転者・持ち主の許可も得ずに勝手に人のクルマをいじってラジオ放送をつけるとは、「中学校の校長先生」というのはそういう教育を息子にしてきたのか?!? 変わった教育しとるのお、その「中学校の校長先生」というのは( 一一)
(8) (株)一条工務店では営業の職種の人間は「二十四時間、戦えますか」みたいな勤め方を連日してきた。そうやってやっと契約をあげてきた。それに対して新卒入社で入って設計部に配属された人間というのはお殿様みたいなものだった。(株)一条工務店という会社の経営者は「バカでも入れる私大の建築学科」卒の人間を増長させるのが趣味だった。1997年に新卒入社した長谷川恭子(女。当時20代。日本大学家政学部卒)は入社していわき市の営業所に配属されても、11月くらいまで仕事は何もせずに二級建築士の試験勉強だけさせてもらって合格した。営業本部長の天野隆夫からインテリアコーディネーターの資格を取ってくれと言われて、会社の上役から取ってくれと言われたからには取らなければと思って私は取得したが、私は(株)一条工務店の過酷な営業の仕事をこなしながら、ある程度以上の契約を取得しながら学習時間をなんとか取って努力して工夫してやっと合格したのだが長谷川恭子は仕事しないで二級建築士のお勉強だけして合格させてもらった。まるで「巨人みたいなやつ」「長嶋みたいなやつ」て感じやった。〔⇒《YouTube-くたばれ読売で盛り上がった東京音頭》https://www.youtube.com/watch?v=_lGaI9y6XVA 〕私などは資格取得のための学校に行きたいとたとえ思ったとしても、(株)一条工務店の営業の仕事をこなすためには行けなかった。ところが、春田靖は当たり前みたいに日建学院に通って一級建築士を取得した。松本は私なら客の仕事を優先していたところを「ぼく、その日は日建学院」「その日も日建学院」と言って日建学院に通ったが合格しなかった。(株)一条工務店では「お客様アンケート」というものを契約客に引き渡し時に書いてもらっていたが、そこには「一条工務店の設計担当者は客の仕事よりも建築士の試験勉強の方に熱心で不愉快だ」というものがあった。会社は従業員に対して公平であるべきだが(株)一条工務店はちっとも公平ではなかった。(株)一条工務店の経営者は「バカでも入れる私大の建築学科」卒の新卒従業員を増長させ甘やかせるのが趣味だった。
(9) 私などは、(株)一条工務店の工事現場に行って、もしも職人が何人かで重い物を運ぼうとして苦労していたら手伝ったものだし建築会社の従業員ならば自分の職種が何であれそうするものだと思っていたのだが、ところが春田靖は「バカでも入れる私大の建築学科」卒で設計の職種についた者は「新卒入社したその日からお殿様」であり、設計は他の従業員が自分の眼の前で重い物を運ぼうとして苦労していても設計はシャープペンシルより重いものは持ってはならない、という戒律を持ってそれを守っていた。
  なおかつ、春田より後から入社して設計に配属された松本や長谷川恭子に自分のそのやり口を教えていた。最近、女性で建築の仕事に従事する人が増えてきているが、女性が建築の仕事に従事していけないということはないが、しかし、西岡常一棟梁の本によると福山・尾道といった広島県東部では地域では女性でも重い物でも持って大工仕事をする人があるらしいが、ところが最近、女性で建築の仕事につく人には、男性ならば自分の職種にかかわらず建築現場では他の従業員に協力して何なりするものだと指導されるところを、女性は物なんか持たない、「男がやるもんでしょ」みたいな認識の人間が建築業界では増えてきている。これはおかしい。男性でも体の大きい人もおれば小さい人もおり、力が強い人もおれば力が強くない人もおり、体が小さい人・力が弱い人が身体が大きい人・力が強い人と同じだけ持てなくてもしかたがないのと同じく、女性が男性と同じだけの物を持てなくてもしかたがないとしても、「女性は男性が重い物を持っていても、黙って見物するのが当然」と認識する女が多く、それを「男女同権」「男女平等」と考えているバカ女症候群が増殖しているのだが、たとえ、女性でもお客さんではなくて従業員ならば何なとするもんでっしゃろ・・ということを理解できない春田靖や長谷川恭子のような人間というのは害がある。春田靖は自分が建築現場に行っても「設計はシャープペンシルより重い物は持ってはならない」という戒律を強固に守るが、それを自分だけではなく長谷川恭子にも教えて守らせていたが、なおかつ、そういう春田靖の姿勢を営業本部長の天野隆夫が支持しバックアップし後ろ盾になっていたが、そのような頭のおかしい天野隆夫は(株)一条工務店にとって害がある人間であるということは決して否定できないことである。女性でも建築の仕事につきたいと思う人を採用するのは悪くはないが、女性は男性が重い物を苦労して運んでいても黙って見物するのが当たり前と思っている長谷川恭子のようなタイプの女性を採用するのはいかがなものか・・と思うが、こういうことを口にすると(株)一条工務店という会社では営業本部長の天野隆夫から呼びつけにされて「エスバイエルに行け、おまえはあ!」と言われることになる。エスバイエル(株)なんかまったく何の関係もないのにである。
  長谷川恭子は私と一緒に契約客の打ち合わせをおこなった後、私が展示場の戸締りをしていたら、すでにいなくなっていて、どこに行ったのかと思ったら、戸締りを私にさせておいて事務所で松本と二人ではしゃいでいた。これも春田靖の影響がそこに出ていたと考えることもできる。新卒入社1年目の人間が経験のある営業社員に展示場の戸締りをさせておいて、おのれは松本と事務所ではしゃいでいるというのは、その態度は何だ・・・というものだが、設計として長谷川恭子の先輩にあたる春田靖の影響と思われる。なおかつ、春田靖や長谷川恭子のそのような態度を営業本部長の天野隆夫が支持して増幅・増長させていた。(株)一条工務店の営業本部長の天野隆夫は仕事の邪魔であり会社の敵であった。
(10) それだけではなく、夏場になると春田靖は「〇日から設計は休みますから、その前は仕事を入れないでください」などと要求してきたのだ。おまえなあ・・・。営業の人間はなかなか休めないんだよ。営業の人間はなかなか休めずに働いてなんとか契約もらってきているんだよ。設計は休めるだけいいと思え。それを、休みだけではなく、「その前は仕事を入れないでください」とは、おまえ、いったい、どれだけ、殿様商売なんだ( 一一) ( 一一) ( 一一)  そういうことを十歳以上年上の人間に当たり前みたいに要求してくる男というのが春田靖だった。父親が「中学校の校長先生」だったから、みんなが「先生」「先生」と持ち上げるのを見て、それと同じことを自分もやっていいと認識するようになったのか。そういう教育を父親から受けてきたのか。
(11) それだけではないのだ。日本女子大の家政学部なんてのは「家庭の主婦養成所」か「家政婦さん養成所」みたいなものかと思っていたら、日本女子大の家政学部に住居学科というのがあって、住居学科を卒業すると二級建築士の受験資格を取得できるらしい。・・なおかつ、(株)一条工務店は「バカでも入れる私大の建築学科卒」の人間を増長させるのが趣味の経営者の会社なので、「家政婦さん養成所」とちゃうんかいみたいな私立女子大の「家政婦さん養成所」学部卒の女でも、自分は特権階級として入社したみたいな意識を持つようになるようだった。 1997年12月、私が担当の契約客宅の設計担当を入社1年目の「家政婦さん養成所」学部卒の長谷川恭子にさせて契約客と打合せをしていたら、長谷川が変なこと言いだしたのだ。私は設計担当と一緒にお客様と打合せをする際には、少々早めに設計のいる展示場に行って設計担当者のそばに座って何か伝えておくべきことがあるようなら聞くようにしていた。それは決して暇だからそうしていたのではなく必要なことだったからそうしていたのだった。ところが、長谷川恭子は営業担当の私に無断で変なこと言いだしたのだった。おまえ、それはいかんだろう・・・と思ったし、それは先輩社員として新人に言わなければならないことだった。しかし、お客様の前で言うのは控えて、むしろ、お客様には「新人ですけれども、よろしくお願いします」というように私は一貫してそういう態度をとってきたが、契約客が帰られた後で長谷川にそれを話そうとしたところ、展示場の事務所に春田靖が来ていて、長谷川は春田靖の後ろに隠れ、春田靖は私にそれを言わさないようにしようと妨害したのだった( 一一)  春田靖という男は春田靖自身にしても長谷川恭子にしても「バカでも入れる私大の建築学科卒の設計は新卒入社した時からお殿様」であり、「バカでも入れる私大の建築学科卒」の人間は特権階級であり、何をやっても他職種の人間から苦情を言われる筋合いはない、それで仕事がうまくいかなければ解約されるのは営業であって設計ではないという認識を確固として持っている男だった。なおかつ、そういう身勝手な姿勢を断固として支持していたのが営業本部長の天野隆夫だった。
  2009年、野村克也が楽天イーグルスの監督最後の年、リンデンという外国人選手が起用法に不服を言ったということで野村が「『子を見れば親がわかる』という言葉を知らんか」などと暴言を吐いたが、リンデンはその試合の日に怪我をしていて、それで1日休ませてほしいと言って試合に出なかったが、しかし、無理をすれば出れないほどの怪我ではなかったので、それで「試合後半になって僅差でリードされているような場面でリンデンが代打で出れば逆転できるというような時には出てもいいけれども、5点差6点差という場面ではかんべんしてほしいと、試合前にコーチに話して了承をえていたそうで、それなのに、試合後半になってまさにその5点差だったか6点差だったかで負けている場面で代打に出された。試合前にコーチに話して了承を得ていたにもかかわらず、それはかんべんしてほしいと言っていたまさにその起用をされたということに不満を持ち、試合後に橋上コーチに「クレージー」と言ったのであり、又、「クレージー」という言葉は「きちがい」と罵ったのではなく「どう考えてもおかしい」という意味であり、リンデンはその後も楽天でプレーしたいので野村に和解しに行ったが、ところが野村はその相手に対して、監督・コーチの方が試合前にリンデンから言われて承諾していたことを無視して、怪我をしているので1日休ませてほしいと言っていた選手に大量点差でリードされていた場面で代打に出したことについて野村の方が謝ることなく、「眼を見れば謝ってないのがわかる」と言い、「子を見れば親がわかる」などと言ってリンデンの親まで侮辱した。そのあたりについて、野村はヤクルトの時はいい監督だと思ったし、野村が出している本にはけっこういいことを書いていると思うのだが、しかし、阪神の監督になってからは勝てないことを選手やそれまでの監督のせいにする発言ばかりで南海以来のファンとしては悲しく思った。選手の親までも侮辱する暴言を平気で口にして自分は悪くないみたいに思っていたあたり、この人も歳いったな、この人も監督としてはもうそろそろ終わりかな、という感じがした。又、野村と同年代などの元選手について述べることについても「おまえはそんなにえらいのか」と言われたりしていたが実際、そういう面があった。・・・が、この「子を見れば親がわかる」という文句は(株)一条工務店の第一設計部の春田靖についてはあてはまるように思えた。おまえの親はおまえに勤務先でそういう行為をさせるような、そんな教育をする親か・・・という親だったようだ。
  毛沢東『人民内部の問題を正しく処理する方法について』には、何事も「人民内部の問題は、批判・自己批判・説得・討論・学習といった民主的な方法で解決しないといけない」と書かれているが、私もまた子供の頃からそう思ってきた。福沢諭吉は『福翁自伝』(岩波文庫)で、福沢諭吉は人に手をあげるというようなことはいけないことだとずっと思ってきたが、大学になる前の慶應義塾において、どうしようもない塾生がいて、深夜まで深酒して帰ってきたので福沢は、おまえはけしからん、きょうはそこで正座しておれと言ったが、しばらくして見ると、そこで居眠りをしておる、けしからんと思い、ポカンと一発殴ってしまったということがあったが、その一回だけ手を出してしまったが、たとえ、けしからんやつに対してであっても、それは大変申し訳なかったと書いているのだが、私もまた福沢諭吉と同様に、たとえ、けしからんやつに対してであっても手をあげるということはおこなうべきことではないと子供の頃から長年にわたって思ってきた。しかし、会社という所に勤めてみると、犬養毅は5・15事件の時に「話せばわかる」と言ったというが、話してもわからない人、話したのではわからない人というのが現実にいるということに気づいた。(株)一条工務店には話したのではわからない人というのがずいぶんといた。そういう場合、上役から注意してもらうようにするという方法があり、上役は対処しないといけないのだが、ところがどっこい、(株)一条工務店という会社は「保護義務違反の一条工務店」であり、(株)一条工務店という会社においては、””設計はヘボでもお殿様””、 ””「バカでも入れる私大の建築学科」卒の人間は新卒入社したその日からお殿様 ””であり、営業本部長の天野隆夫は逆に「設計にはどんなことでも服従しろ」などと私に言うのだった。これは明らかに人権侵害である。営業本部長が会社のためにならない行為をはたらいている人間に加担しているのであり、営業本部長こそが会社の敵、営業本部長の天野隆夫こそが(株)一条工務店の敵 だったのである。
  春田靖について(1)から(10)に述べたことは例示であり列挙しようとするとまだあるのだが、こういったことを息子にさせている親というのは、いったい息子にどういう教育をしてきたんだ? こういうことを息子にさせる親というのは、いったいどういう仕事をしている人間なんだ? ・・・というと「中学校の校長先生」らしいのだ( 一一)  柴田孝之『東京大学機械的合格法』(実業之日本社)で作者の柴田孝之は「能力的にも人間的にも優秀な教師というのは多くの人間が考えているよりもはるかに少ない」と書いているが、私も今はそう思っている。
  私が行った大阪府の北摂地区のM市立N小学校の教諭ハナブサ(男。当時、40代。大阪府立池田高校卒⇒大阪教育大卒)は、
(ア)実際に日本の干拓地のひとつであった「十三湖(じゅうさんこ)」を小学校教諭のくせして自分が知らなかったことから、児島湾・八郎潟・有明海という小学校の「社会科」の教科書に掲載されていた3つ以外に何があるかという質問かと思って「十三湖(じゅうさんこ)」と答えた私に対して「十三湖(じゅうさんこ)やてそりぁいったい何や、それ。そんな干拓地があるかい。はははあ」と笑ってみせて、クラスの生徒にも一緒になって笑うようにけしかけ、特別扱い生徒だった松下などがそれに同調したのだったが、
(イ)体育の授業の時には、体育をすると汗をかいたりするので、そのために体操服を着るのであり体操服の下にシャツは着ないものだと言ったのだが、それはもっともなことだけれども、その上で女子生徒の服をつかんでめくりあげて、体操服の下にシャツを着ているかどうか見たのだが、小学生なんて子供であって女ではないと思っていたかもしれないが、小学校でも5年生・6年制の女子生徒にそういうことを男性教諭がやってはいけないのだ・・・が、それを理解できないおっさんだった。
(ウ)私は私が特に悪いわけではなく他の生徒が悪い問題なのに、ハナブサに思いっきり頭を殴られて1週間ほど頭ががんがん傷んだということもあった。あれは間違いなく傷害罪に該当し違法・有責な行為であるはずだ。ハナブサはその後においても謝ることなく「戦前なら、もっと殴ってやったのに」などと言っていたが、他方においてハナブサは日教組の組合員であり、「戦前なら」教員のストライキなんて認められなかったはずだが、平気で日教組のストライキに加わっていた。「俺らは明日はストライキだから学校に来ないけれども、おまえらは当然のことながら休みじゃないんやで。当然のことながら、俺らが来なくても学校に来て教室で自習するんやで」などと言ってストライキに加わっていたが、それは「当然のこと」だろうか。そうではあるまい。大学の先生がストライキをして講義を休み、大学生に「俺らは明日はストライキをやるから休みやけれども、おまえらは当然のことながら学校に来て教室で自習するんやで」と言ったら学生は学校に来るか? 来ないだろ。 プロ野球選手会がストライキをやった時、その日のチケットを購入していた客に向って「俺らは明日はストライキをやるけれども、おまえらは当然のことながら球場に来て客席で応援するんやで」と言ったら客は来るか? 来ないだろ。 保育園の保育士さんがストライキをやったとして、園児と親に対して「俺らはストライキをして休むけれども、園児は保育園に来てそこで自分で保育するんやで」と言ったら保育園の園児は自分で保育園に来て一日そこで過ごすか? 親はそんな保育園に園児だけ行かすか? むしろ、保育士さんが休みでいないなら、保育園の園児はその保育園にはその日は行かない方がいいのではないか。小学校の先生は先生はストライキをやって休むけれども、生徒は小学校に来て自習しろと要求する権利があるのか? ストライキをやって先生がいない時に何か事故があったら誰が責任とるんだ? そういうことを考えるならば、むしろ、小学校の先生がストライキをやるのならば、その日は小学校は休みで生徒は学校に来るなと言う方がいいということはないか? なんで「当然のことながら」なのだ? そう思いませんか。「戦前ならもっと殴ってやったのに」とハナブサは何度も何人もに言っていたが、「戦前なら」どうかにかかわらず、戦後においてはそれは傷害罪に該当する犯罪であった。私が親なら黙っていないし黙っているべきものではないと判断するがうちの親は「学校の先生」に何も言えない親だった。ハナブサから特別扱い生徒にされていた「野口くん」と松下の2人は、お母さんがスピーカーだから教諭がおそれて生徒の機嫌を取っていると言われていた。
(エ)ハナブサから特別扱い生徒に指定されていた松下は教室で隣の席の生徒めがけて彫刻刀を投げつけて腕につきささったということもあったが、ハナブサは注意も何もしないだけでなく、「まっちゃん」「まっちゃん」と言って持ち上げていた( 一一) 「野口くん」というぺったんこの顔した男は、小学校の時からそういう特別扱い生徒として扱われることに慣れた人間だったので、高校の頃・高校卒業したころでも似た感じであり、おそらく一生、そういう人間として人生を送ることだろう。
(オ) ハナブサは4年の時も、クラスに精神薄弱かと思われる生徒がいて、ハナブサが特別扱い生徒にしていた松下がその少々精神薄弱かと思われる生徒に、朝の掃除の時に校庭に毒キノコと思われるものがはえていたのを取って「これ、食え」と言って食わせたということがあったが、その時もハナブサは食わせた人間は何ら批判することなく、「食え」と言って食わされた人間ばっかり「何、考えてんねん」とボロカスに言っていた。その食わされた生徒のお母さんは子供にそういうことをされて泣いていたそうだ。
(カ)さらにハナブサは4年の時、学級員の選挙の時、「自分で学級委員やりたいという者がおったら立候補してもええねんで」と言い、それを聞いてM本が「それじゃ、立候補しようか」と言ったところ、ハナブサは「Mちんが学級委員やてえ。はははあ。何考えてんねん」などと言ってあざわらい、M下などハナブサが特別扱い生徒にしていた生徒とか、特別扱い生徒とまでいかないにしてもハナブサが学級委員に選ばせようと考える生徒を学級委員に選ぶように誘導した。私はM本は学級委員になって悪いとは思っていなかった。大阪市東住吉区の大阪市立M小学校にいた小学校1年の時には担任の I 教諭としては学級委員にはこういう生徒が選ばれるかと思う生徒があったらしいが、実際に選挙したところ、選ばれたのは I 教諭が思っていた生徒とは別の生徒だったが、それでも生徒が選挙で選んだ者である以上、その生徒が学級委員なんだということで接していたし、そうすべきものだと思うが、ハナブサの場合はそうではなく、「Mちんが学級委員やてえ。はははあ・・、何考えてんねん」などと言ってM本が学級委員になることを妨げ、ハナブサがならそうとする者に投票するように誘導した。
そういう教師がM市立N小学校のその頃4クラスあった学年の学年主任だった。そして、そのうち、『力の5000題 社会科』(教学研究社)にも掲載されていた日本の干拓地として「十三湖(じゅうさんこ)」というものを知らず、単に知らなかっただけではなく、自主的に学習してそれを述べた生徒に対して「十三湖(じゅうさんこ)て、それぁいったい何や。そんな干拓地あるわけないやろ。何、考えてんねん、おまえ。はははあ・・」と笑い、クラスの生徒に一緒に笑うようにけしかけた男が、中学校の「社会科」の先生になったらしく、さらにそのうち、校長先生になったらしい( 一一) 「中学校の校長先生」というのはそういう人のなる仕事ということなのだろうか( 一一)
  そういう教諭のハナブサから小学校5年・6年の時に、隣の席の生徒に彫刻刀を投げつけて腕に突き刺した松下とともに特別扱い生徒として指定されていたのが「野口くん」という水木しげるの『ゲゲゲの鬼太郎』に出てくる一反木綿か塗り壁みたいなぺったんこの顔した男で、うちの親は二人とも私が嫌いで、その「野口くん」というシェイクハンドラケットみたいな顔した男が大好きだったのだ。その上でうちの母親は「親というものは、自分の息子のことをいいように いいように思うもんやから」と何度も何度も言うのだったが、たしかにそういう親も世の中にはあるだろうけれども、あんた、ちっともそんなことないやんけ。あんた、「野口くん」がええといつでも言いまくってきたやろうが、と思ったものだった。
 「十三湖」は「じゅうさんこ」と読むが、「十三湊」という港があり、こちらは「とさみなと」と読むらしい。おそらくだが、「十三湖(じゅうさんこ)」「十三湊(とさみなと)」の方は「十三参り」とか「十三仏」「十三仏事」からきた名前ではなく「トサ」という音からきたものではないか。「トサ」は「土砂(どしゃ)」が砂洲となって伸びて日本海との間にわずかに通じる汽水湖ができたということで、「土砂(どしゃ)」が変化して「としゃ」と濁点がなくなって、さらに「としゃ」が「とさ」になり、一番簡単な漢字として「十三」があてられたのではないか。高知県の「土佐(とさ)」も桂浜付近が「土砂(どしゃ)」が砂洲になっているということで「土砂(どしゃ)」が「としゃ」⇒「とさ」となり、それに「土佐」という漢字をあてた、ということはないだろうか。
   柴田孝之『東京大学機械的合格法』(実業之日本社)で作者の柴田孝之は「能力的にも人間的にも優秀な教師というのは多くの人間が考えているよりもはるかに少ない」と書いているが、私も今はそう思っている。高校生までの私は「学校の先生」というものを高く評価しすぎていた、買いかぶっていた、それが大きな失敗だった。
東京大学機械的合格法―アップグレード版 - 柴田 孝之
東京大学機械的合格法―アップグレード版 - 柴田 孝之
  私は営業本部長で松戸営業所長だった天野隆夫から「寮に入ってもらう」と言われて、それで、30過ぎてまで寮などという所に入らなければならないのかと思いながらも、自分のクルマに布団など積んでいわきに行ったのだが、春田靖が会社のルールに違反して不当に2部屋と駐車スペース2台分を占拠していたため、春田靖が不当利得を得ていたことにより、住む場所がなく、本来なら私のクルマを駐車するはずの場所にとめることができなかった。この件については天野隆夫に対処するように言ったがまともに対処しなかった。これは人権侵害である。今日に至るまでこの件について天野隆夫から謝罪の言葉がないが、「子を見れば親がわかる」という考え方をするならば天野隆夫の親というのはろくな人間ではない、ということになる。

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↑ 石碑には「七仏 薬師如来 鈴得山 東光院」と彫られている。
その左の古い石碑は何が書かれているのかわからない。

  石段を登り始めて右手に弁財天が祀られているが、今回は病気平癒の祈願の寺としての訪問なので弁財天さん参拝は次に来る時にさせていただくことにした。

  石段を登っていくと右手に ↓
DSC01899.JPG
↑ 《 当山にお参り下さいましてありがとうございます。
 ここには千年の法燈を伝える七仏薬師(しちぶつやくし)さまがおられます。(医薬の王)
 諸願成就を祈願すれば何事もかなえてくれるところから
「平山お願い薬師」
といわれます。
私達は御仏に守られ生かされているご恩を感じ お薬師さまにご縁を結んでお帰りください。
   合掌
   東光院 》
と書かれています。
  それはいいのですが、その上には ↓
DSC01900.JPG
↑ 「今日あるはすべてご先祖さまのおかげです」
と書かれているのですが・・・( 一一)
これは、ええわ。これはもうええわ( 一一)
  なにしろ、私の場合、うちの父親から「今日あるはすべてわしのおかげ、わしのおかげです、わし、わし、わし、わし、わし、わし、わしい~い!!!」と四六時中言われてきた。もう、耳にタコできた🐙🐙🐙
「朕思うに我が皇祖こ~そ~はあ、わしに孝に、わしに孝に、わしに孝に、わしに、わしに、わしにわしに、わ、し、にいい~い♪ いっらいっらしてきたあ~あ! いっらいっらしてきたあ~あ!
わしに孝に、わしに孝に、わしに、わしに、わしにわしにわしにいい~い!!!
戸締り用心、火の用心、マッチ一本、火事の元、いっらいっらしてきたああ~あ!!!」
と毎日毎日、ぼくらは鉄板の上で焼かれて嫌になっちゃうくらいに言われ続けてきた。今もその文句が耳元でわんわんうなっている。
もう、ええわ、もうそれは( 一一)
「朕思うに我が皇祖こ~そ~はあ、わしに孝に、わしに孝に、わしに孝に、わしに孝に、わしに、わしに、わしにわしに、わ、し、にい~い♪
いっらいっらしてきたあ~あ。いっらいっらしてきたあ~あ!
いらいらイライラいら、コッコー♪
コッコー、こっこー、イラこっこー!!!」
と言って、そう言った直後に、
「わし、これまでに、あんたに『わしに孝行せえ』なんてことは、たったの一言として口にしたことないやろお。いくらなんでも、このくらいはわかってもらわんといかん」
と言うのだった。しかし、「わし、これまでに、あんたに『わしに孝行せえ』なんてことは、たったの一言として口にしたことないやろお」とおっしゃられても、あんた、今、言うたやろうが。あんた、まさに今、言うたばっかりやろうが。あんた、さっきから言いまくっておるやろうが。あんた、毎日毎日、ぼくらは鉄板の上で焼かれて嫌になっちゃうくらいに四六時中、言いまくってきたやろうが・・と思ったのだったが〔⇒《YouTube-およげ!たいやきくん》https://www.youtube.com/watch?v=1uP9nw4S3Qc 〕、ところが、「わからんかあ。おまえは、そんなことすらもわからんカスカス人間なんかあ」とおっしゃるのだった。そう言われても、あんた、毎日毎日ぼくらは鉄板の上で焼かれて嫌になっちゃうくらいに四六時中言いまくってきたやろうが。今も言うたばっかりやろうが・・と思ったのだったが、それでも「わし、これまでに、あんたに『わしに孝行せえ』なんてことは、たったの一言として口にしたことないやろお。いくらなんでも、このくらいはわかってもらわんといかん」と言ってきかないのだった。「さあ~あ」言うと、「はああん。おまえはそんなことすらもわからんカスカス人間なんか、このチャンコロろすけイタコは」と言うのだった。「難儀やなあ、もう、このチャンコロはあ~あ。これは病気やわ、わし、今まで『わしに親孝行せえ』なんてことは、たったの一言として口にしたことないのんにからに、このチャンコロ、わかりよれへん。これは病気やわ。クスリ飲ませてやらんといかん。それもちょっとではいかん、大量にクスリ飲ませてやらんといかん。いや、クスリではあかん。電気ショックかロボトミーかやったらんといかん。電気ショックかロボトミーやってこのチャンコロがこういう口をきけんようにしてやらんといかん」
とおっしゃるのだった。怖いわあ~あ・・・ほんまに怖いわあ~あ・・。
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  井上清『現代日本女性史』(1962.5.21. 三一新書)には、
《 近頃の教育は、親孝行を教えない、けしからん、と非難する親がある。そのばあいの「孝行」とは、昔のように、親の威令に、子が無条件に服従することを意味しているが、もはや、このような孝行を子にもとめる、おしつける、経済的な土台がなくなっている、民主的な親子関係における、子の親にたいする尊敬や愛情という真の人間的な孝行は、いまの教育の方が、戦前よりも、はるかによく教えている。
と述べられているが、まさにその通りであると私も思う。 それがわからない白痴が少なからずいて困ったものである。
現代日本女性史 (1962年) (三一新書) - 井上 清
現代日本女性史 (1962年) (三一新書) - 井上 清

  うちの父親は毎日毎日、「わしに服従、なんんでも服従、絶対服従、服従服従♪」とか言うておったが、
そういうことを毎日毎日言われると、言われた側では、むしろ、
造反有理(造反には理由がある、反逆は正しく抑圧は間違っている)」
とよりきっちりと認識するようになる。
「自ら虫けらとなる者は後で踏みつけられても文句は言えない」
と認識するようになる。

「起て、奴隷となるな、我が人民。
われらの血肉で新たな万里の長城を
起て! 起て! 起て!」

(「中華人民共和国 国家「起来 チーライ」 )
⇒《YouTube-中国国歌》https://www.youtube.com/watch?v=PoebTDqEByg

DSC01901.JPG
↑ 石段を登りきった所の門の向こうに本堂が見える。

  ここで一区切りとし、次回、本堂に参拝します。

  (2022.1.5.)  

☆ 平山お願い薬師 鈴得山 東光院 大金剛寺(千葉市緑区) 参拝
1.石段を登る。十三詣りに関し「十三(じゅうそう)」と「十三湖(じゅうさんこ)」についての小学校教諭の対応。息子を教育できない「中学校の校長先生」。「あんたが今日あるはすべてわしのおかげ」と父親から毎日四六時中耳鳴りするくらい言われてきた者としては「今日あるは すべてご先祖さまのおかげです」と言われても、もうええわ・・という気持になる。 〔今回〕
2.本堂へ。薬師仏とつながる縄。病気平癒のお線香。大師堂。・・と「男盛」のおっさん? ならぬ「笑勉小坊主」https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/496197038.html
3.鐘楼・大日如来堂・平岡神社。鐘楼・大日如来堂・平岡神社。マルクスは「宗教はなぐさめ」と言っても「宗教は毒薬」とは言っていない・・ということを理解しない迷惑な医者屋(裏口タイプ)https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/496711070.html
4.お納め所。仏敵 深奥山方広寺(浜松市)による信教の自由の侵害。お守りは持ちたいと思う者が受けて所持してこそ価値があり、その「お守り」は持ちたくないと思うものを嫌がる者に無理矢理持たせても害こそあれ益にならない https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/496722649.html

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