仏敵 深奥山方広寺(浜松市)による信教の自由の侵害。お守りは持ちたいと思う者が受けて所持してこそ価値があり、その「お守り」は持ちたくないと思うものを嫌がる者に無理矢理持たせても害こそあれ益にならないーー平山お願い薬師・東光院(千葉市)参拝【4/4】お納め所

[第973回]
  千葉市緑区平山町 の 平山お願い薬師・鈴得山 東光院 大金剛寺 で、本堂に向って右手前に授与所 ↓ があってお守りなどいただくことができます。「いただく」と言ってもタダでもらうのではなく、お金を払って購入するのですが、寺社では「いただく」という表現をします。
  授与所のさらに右手前に御朱印を「いただく」ことができる場所があります。これも300円支払って「いただく」ことになります。
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  授与所の手前に「お納め所」があります。↑ お守りなどは未来永劫に効果があるのではなく、1年くらい身に着けたなら、受けた寺社に返納しに行き、その後は新たにお守りを「いただいて」身に着けるというもので、又、1年以上身に着けたお守りは効果が薄くなったとはいえ、まったく意味のないものではないので、それこそ、ゴミ箱に捨てるようなことをすべきものではなく、「お納め所」にお返しする・・というのが本来だという話がインターネット上などにも出ています。
  もっとも、なかなかそうできずに、私なども過去に「いただいた」お守りを身につけなくなったものを返しに行くということをせずに、そのまま引き出しにしまっていたりしています。

  それで、です。「平成の大合併」で静岡県浜松市は無茶苦茶面積の広い市になりました。「平成の大合併」の前においては市では全国一、面積が広かった福島県いわき市は今では12位になり、全国1位の面積の市は岐阜県高山市で香川県とか大阪府よりも広い面積の市になりましたが、静岡県浜松市はその次の2位になりました。静岡県では「平成の大合併」の前においては福島県いわき市に次いで2位だった静岡市は「平成の大合併」において清水市と合併して今は栃木県日光市・北海道北見市に次いで5位になったようです。〔ウィキペディアー日本の市の面積一覧 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E5%B8%82%E3%81%AE%E9%9D%A2%E7%A9%8D%E4%B8%80%E8%A6%A7〕このままいくと、静岡県の旧遠江地区はすべてが浜松市・旧駿河地区の御殿場付近以外はすべてが静岡市になるのではないか・・・という感じすらします。いいのかどうか、どうも、私などには「浜松」というと、名前からして浜に近い場所という印象があり、秋葉神社があるあたりとかを浜松市なんて言われても「嘘だろう」「いくらなんでも」て感じがしてきます。
  その「平成の大合併」で今では浜松市北区になった浜松市北区引佐(いなさ)町奥山という山の上の方に 深奥山方広寺という臨済宗に属する寺があります。大阪冬の陣・夏の陣の前に徳川家康が鐘の銘に難癖つけたということで有名な京都の方広寺とはまったく別で宗派も別です。何周かというと臨済宗ですが、臨済宗は栄西が設けた京都の建仁寺の建仁寺派とか、鎌倉の建長寺の建長寺派・国宝の円覚寺舎利殿が有名で夏目漱石が塔頭に坐禅に行った時の話を『門』に描いた円覚寺の円覚寺派とか「派」があるのですが、浜松市北区の深奥山方広寺は何派なのかというと、もともとは京都の南禅寺の南禅寺派だったのが、何年か前に南禅寺派を離脱して「一本独鈷(いっぽんどっこ)」となって「方広寺派」を名乗るようになったという寺らしい。山の中で地形としては伽藍がいっぱい作られるような場所ではなく、もともとは「半僧坊」と言って、半分が僧で半分が妖怪というのかそういう存在のものを祀ったお堂があり、それが元ではないかと思われます。鎌倉の建長寺にはその半僧坊を勧請したお堂が山の上の方にあります。
  なんで、そんな山の中の寺が「一本独鈷(いっぽんどっこ)」になるのか・・というと、深奥山方広寺に実際に行ってみるとわかりますが、愛知県から静岡県にかけての企業の名前の入った石碑がいい~っぱい並んでいるのですが、愛知県・静岡県というのは、東京や関西よりは少ないかもしれないけれども、それなりの企業がある地域であり、そういう企業から「みかじめ料」・・じゃなくて「お布施」をいただくと、「何何派」に所属していると「一次団体」・・じゃなくて総本山に「上納金」を納めないといけない・・が、愛知県・静岡県にある寺からすると、愛知県・静岡県の企業からもらった「みかじめ料」から京都の総本山に「上納金」を納めるよりも、自分の所が総本山になった方が自分の所でカネを留めおくことができて得やんけ・・・というところから、京都の総本山から破門・絶縁されたわけではないのだろうけれども、離脱・独立して臨済宗方広寺派を名乗るようになった・・らしい。「やっぱり、何やかんや言うてもカネや」というものなのか、その後、愛知県・静岡県地域の企業からカネをいっぱいもらうもんやから、「カネだけはあり余ってる」状態になったのか、山奥の渓谷みたいな建物を立てにくい立地の場所に、何やらかにやら、お堂が建てられ、要らんような大仰な橋もつくり、さらにはライトアップするための照明塔まで設けています。
  『正法眼蔵隋聞記』を読むと、栄西に弟子が京都の建仁寺は鴨川に近い場所にあり、もしも、鴨川が洪水を起こすことがあると建仁寺は被害を被る危険がある。もっと自然災害に合いにくい場所に寺を移してはどうかと言ったところ、栄西は伽藍はいつかは滅びるであろう、しかし、それがいかほどのものか、大事なものは禅の心であって伽藍ではないと語ったというのですが、どうも、浜松市北区引佐町奥山の深奥山方広寺はその栄西の発言とは正反対のことをやっているように思えます。
正法眼蔵随聞記 (岩波文庫) - 懐奘, 哲郎, 和辻
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 1998年(平成10年)、(株)一条工務店https://www.ichijo.co.jp/ で「坐禅研修」と称して、深奥山方広寺の「研修所」にバスで連れていかれて、何日間か、坐禅とは関係のない話を聞かされ、明らかに「信教の自由」の侵害である行為をされた。又、「坐禅研修」だという話だったので、こういうものは会社が従業員に受けさせるような性質のものではないけれども、私は元々、心身医学を専門に学びたいと考えていた人間で坐禅などについてもある程度以上学び実行してきた者であったので、坐禅というものについては肯定的に考えていたのだったが、ところが、行ってみると、
(1)坐禅とは関係のない話を無理矢理聞かされる。
(2)「エニアグラム」というイカサマと思われる「心理学」を受けさせられた。私は多くの「心理学」「精神医学」はイカサマと考えており、「エニアグラム」というものはこの時に初めて接したが、これはイカサマであると判断したが、そのような「心理学」のひとつと称するものを受けさせられるというのは人権侵害であり、そのような「心理学」を受けさせられるのならば、最初から断ったが、騙されて受けさせられた。
  「心理学」関係のものを受けるか否かは、それは本人が判断するべきことであり、本人が望まないものを強制的に受けさせるというのは、それは許されないことであり、又、本人が望まないものを強制的に受けさせようとする者は傲慢であり、その人間の精神こそホトケの心に反するものである。
(3)深奥山方広寺の坊主は坐禅についての理解を十分にできておらず、深奥山方広寺の坊主が「指導」するような坐禅は本来の坐禅ではなく坐禅としては偽物である。
  この点で、(株)一条工務店が私およびその他の従業員に不当に受けさせた深奥山方広寺の「研修所」における「坐禅研修」というものは、これは明らかに「信教の自由の侵害」であるとともに、本人が望まない「心理学」を受けさせたという点においても人権侵害であり、それは「心理学」の問題点がそこにも出ていたと考えるべきものであった。
  そのような反社会的なおこないを実行していた静岡県浜松市北区引佐町奥山の深奥山方広寺は反社会的勢力と考えるべきであろう。
セルフ・コントロールと禅 (NHKブックス 399) - 池見 酉次郎, 弟子丸 泰仙
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現代精神医学解体の論理 - 森山公夫
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頭脳支配 (1971年) (三一新書) - 高杉 晋吾
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  「(1)坐禅とは関係のない話を聞かされる」という点についてですが、お寺では「法話」といって、人生を生きていくのに役立つかもしれないようなお話をお坊さんがすることがあるのですが、ろくでもない話をする坊主の場合、それはその坊主が「修行が足らん」という場合がありますが、深奥山方広寺の場合は寺の姿勢にも問題があると思われます。
  数年前、京都市の東本願寺(正式名称は、真宗大谷派本山 真宗本廟)に行った際に、何時より御影堂で・・だったと思うのですが法話がされますということを聞き、誰でも参加して聞けるということだったので聞かせてもらったということがありました。その際、話者は「香川県から来ました◇◇と言います」と自己紹介されたのですが、見たところ、お坊さんのように思えたのですが、「香川県の〇寺の住職をしております◇◇と言います」ではなく「香川県から来ました◇◇と言います」という自己紹介をされたというのは、もしかすると、浄土真宗の場合は他の宗派に比べて一般の門徒と僧職との差が小さいと言われ、もとより、親鸞は僧籍を剥奪された立場で「僧にもあらず俗にもあらず」と自らを言った人で「禿をもって姓とす」と『歎異抄』にも述べられていますから、だから、そのような話し方をされたのかもしれません。
歎異抄 (岩波文庫) - 金子 大栄
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  その時に話されたのは、ある運動選手が怪我をしてしまい、試合に出れなくなってしまったが、その際に「どうして怪我してしまったのだろう」と考えるのではなく、「せっかく怪我をしたのだから」とその機会に自分のあり方というものを考えようではないかと考えた、という話をされたと記憶しています。特別にものすごい話かどうかはともかく、いい話を聞かせてもらったと思って帰ってきました。
  それに対して、深奥山方広寺の「研修所」の「所長」だというムカイくんの話はおごり高ぶったもので、なんで、私らはこの人のこんな話を聞かされなければならないのか、なんで、こんな話をカネももらっていないのに聞いてあげなければならないのか、というものでした。
  深奥山方広寺は臨済宗で、臨済宗というのは鎌倉時代からして武家である鎌倉幕府や殿様に指示してもらって繁栄した宗派であるから、だから、権力・体制の手先になりやすいという傾向があるのか? とも思いましたが、私はこれまでにも、鎌倉の建長寺・円覚寺や京都の建仁寺その他、臨済宗の寺には何度も訪問させてもらってきましたが、それらのお寺で接したお寺の関係者の方は深奥山方広寺のムカイくんのようなおごり高ぶったような態度ではなかったように思います。
  ムカイくんは「京都セラミックの会長の稲森和夫会長はこのようにおっしゃっております」などと言うのですが、バカでねえの( 一一)
  京都セラ(株)https://www.kyocera.co.jp/ の会長で2022年の8月30日に90歳で他界した稲盛和夫という男が何を言ったとしても、そんな話を(株)一条工務店の従業員が聞いてあげなければならない筋合いはないのです。京セラ(株)の従業員ならば、会長や社長がどんなにくだらない話をしたとしても、法律上は職務と関係のない話を聞いてあげなければならないという義務はないとしても、その会社から給料もらっていると思えば、(株)一条工務店の従業員が(株)一条工務店から受け取っている給料よりもずっと多い給料をもらっていると思えば、少しくらいなら社長や会長のお話というものも逆らわずに聞いてあげた方がいいか、と思って我慢して聞くということもあるでしょう。しかし、(株)一条工務店 の従業員は稲盛和夫さんからも京セラ(株)からも1円ももらってないのです。1円ももらってない人間が、なんで、そんなくだらない話を聞いてあげなければならないのか、ということです。そうでしょ。
  京セラ(株)からも稲盛和夫さんからも1円ももらってないとともに、深奥山方広寺からもムカイくんからも1円ももらってないのです。深奥山方広寺からもムカイくんからも1円ももらってないのに、なんで、(株)一条工務店の従業員はそういうくだらない話を我慢して聞いてあげなければならないのですか?  ムカイくんは、自分は「京都セラミックの会長の稲盛さんはこのようにおっしゃいました」などと言って勝手なことを(株)一条工務店の従業員に無理矢理、強制的に聞かせる権利があるみたいに思っていたようですが、そんな権利なんかありません。ムカイくんは思い上がりも甚だしい。ムカイくんは、何よりも、仏教についてもう少し、真面目に学習した方がいいでしょう。おのれが未熟で傲慢でまともに仏教について学習できていないから、だから、そのような傲慢な態度をとるようになるのです。
  京セラ(株)の会長が何を言っても、我々には関係ありません。京セラ(株)は自社の会長がそのような影響を与えて他社の従業員に迷惑をかけているということを自覚・認識して、今後は京セラ(株)の取締役になっている人間は稲盛のような傲慢な態度・姿勢は慎むようにするべきです。

  稲盛和夫が何を言っても、そのようなものは、(株)一条工務店の従業員には関係ないし、仏教とも関係ないのです。 稲盛和夫は《 幼少時に郷里の鹿児島で祖母の隠れ念仏を行う姿を見て宗教に関心を持ち、1997年に臨済宗円福寺の西片擔雪の下で在家得度(法名:大和)。雲水と共に修行を重ねた。円福寺本堂と庫裏の建て替えに寄進したり、京都市と京都仏教会とを仲介したりするなど、居士としての活動も行なった。》( ウィキペディアー稲盛和夫 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A8%B2%E7%9B%9B%E5%92%8C%E5%A4%AB )らしいけれども、稲盛和夫の言うことをへえこら聞いている人というのは、京セラ(株)の従業員か取引先か何かで、京セラ(株)の会長に機嫌を取っておきたいと思ってへえこら聞いているだけであり、稲盛が《臨済宗円福寺の西片擔雪の下で在家得度(法名:大和)。雲水と共に修行を重ねた》からへえこら聞いているのではないのです。もしかすると、臨済宗の寺の人間は稲盛が《円福寺本堂と庫裏の建て替えに寄進したり》したということから、「長いものには巻かれろ、札束には切られろよお」ということで、へえこらしている者がいるかもしれませんが、私は稲盛から1円もカネもらっていないし、京セラ(株)からも1円ももらったことはない。むしろ、自分で最初に購入したカメラは、京セラ(株)の配下に入った「ヤシカ」の製品で、私がカネ払ってあげたくらいである。なんで、カネ払った者がカネもらった者の講釈を聞いてあげなければならないのだ? アホか。
  京セラ(株)の管理職とかで会長の機嫌をとっておけば得するだろうと思ってへえこら話を聞く人がいたのかどうか知りませんが、それならば話はまったくわからないこともないが、(株)一条工務店の従業員はそんな話を聞いてあげなければならない筋合いはないし、聞かされる義務もないのです。深奥山方広寺のムカイくんはその程度のことも理解できないというのは社会人として問題があります。
  山科けいすけ という人の『C級サラリーマン講座』という4コマ漫画で、
(1コマ目)会長が「わしは出家することにする」と発言。
(2コマ目)従業員何人もが「やったあ♪」と大喜び、
ところが、
(3コマ目)それまで、背広上下をして出勤していた会長が、頭髪を剃った上で坊主の袈裟を着て会社に出勤してきただけで、会長はやめなかった・・
(4コマ目)従業員誰もが「なんだ、これはあ」とがっかりする。
・・というものがあったが、このモデルは京セラ(株)の稲盛和夫だと思うぞ( 一一)
そんなアホなおっさんをありがたがって崇拝しているボーズというのは、アホまるだしでしかない。
「修行が足らん」からムカイくんは『C級サラリーマン講座』でバカにされるおっさんを崇拝するようになるのである。
C級さらりーまん講座(1) (コミックス単行本) - 山科けいすけ
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会長が「わしは出家することに決めた」と言いだし、それを聞いて従業員何人もが会長が会社をやめると思って大喜びしたところ、翌日になると背広上下ではなく袈裟着て出社してきただけだった、それを見て従業員何人もががっかりした、しょぼんとした・・という話が『C級サラリーマン講座』の何巻に掲載されていたかは忘れてしまったが、あの会長のモデルは京セラ(株)の稲盛和夫だと思いますよ。従業員の正直な気持ち、一般国民の正直な気持ちというのはそういうものです。それを理解できない稲盛和夫はたとえビジネスにおいて優秀な部分もあったとしても、そのあたりにおいて人の気持ちというものを理解できない無神経で無教養な人間であった、そのあたりにおいて人間として質の悪い人間と言わざるをえません。又、それを理解できないボーズはホトケの心を持つことができていない「修行が足らん」人間であり、「冷水摩擦でもさせてやりたい」人間であり、ひとに坐禅させようなどと思い上がったことを考えるのではなく、おのれ自身が坐禅でも滝行でもした方がいい人間だということです。深奥山方広寺とムカイくんは、とりあえず冷水摩擦でもした方が本人のためです。
  だいたい、「出家する」と言うからには会社の会長とかそういう役職は辞任するものではないかと思うのだが、「出家」しても単に服装が背広上下から坊主が着る袈裟にかわるだけというのは、そういうのを「出家」と言うのか? ・・という疑問もあるが、「財界人」にはそういう変なおっさんというのがいるようだ。

  カール=マルクス『経済学・哲学手稿』(藤野渉訳。大月書店 国民文庫)には、
《 国民経済学者はわれわれに言う。——すべてのものは労働で買われる。そして資本は集積された労働にほかならない、と。だが同時に彼はわれわれに言う――労働者はすべてのものを買いうるどころか、彼自身と彼の人間性とを売らなければならない、と。・・》
《 資本はこうして労働とその生産物とに対する支配力である。資本家がこの力(ゲヴァルト)を占有するのは彼の人格的ないし人間的諸性質のためではなくて、彼が資本の所有者である限りにおいてである。彼の資本の買う力、これにはなにものも抵抗しえない、それが彼の力である。》
と書かれているが、まさにその通りであろう。京セラ(株)の稲盛がえらそうな口をきけるのは、それは《彼の人格的ないし人間的諸性質のためではなくて、彼が資本の所有者である限りにおいて》なのである。深奥山方広寺のムカイくんは京セラ(株)の稲盛をヨイショよいしょヨイショした発言をしていたが、ムカイくんは、もしくは深奥山方広寺は京セラ(株)からか稲盛からか何か利益をもらっていたということか?
深奥山方広寺もしくはムカイくんが京セラ(株)からか稲盛からか何らかの利益をもらっていたのならば、ムカイくんが利益を与えてくれた相手をヨイショするのはわかるが、(株)一条工務店も(株)一条工務店の従業員も京セラ(株)からも稲盛からも利益をもらっていたわけではないのであるから、そのようなくだらない話を強制的に聞かされる筋合いはないし、ムカイくんはそのような話を無理矢理に(株)一条工務店の従業員に聞かそうとするのは筋違い(「筋交い すじかい」ではなく「筋違い すじちがい」)であろう。
経済学・哲学草稿 (光文社古典新訳文庫) - マルクス, 長谷川宏
経済学・哲学草稿 (光文社古典新訳文庫) - マルクス, 長谷川宏

  「(2)「エニアグラム」というイカサマと思われる「心理学」を受けさせられた。」という点。 ムカイくんは、社会常識が不足している。だから、「心理学」とか「心理テスト」といったものは本人が望まない限り受けさせるべきものではないという常識中の常識を理解・認識できないのです。「エニアグラム」というのはイカサマでしょう。「血液型診断」みたいなものです。「そうかいなあ」と思ってみると、「もしかすると、あたってるかも~」という程度のものです。「もしかすると、あたってるかも~」くらいの気持ちでとらえるならばそう悪くないかもしれないけれども、あまり絶対的なものととらえると害があります。
  又、「心理学」をやっている「指導者」という人には現実にその人が病的な印象の人というのがおられます。深奥山方広寺で「エニアグラム」を担当した人もまた、少々、その傾向を感じました。
  私は「心理学」だの「エニアグラム」だのといったそんなものを受けさせられるのであれば、間違いなく参加をお断りしたのです。ところが、「坐禅研修」だというから、たとえ、坐禅であっても、そういうものは個人が自分の意思で禅宗の寺に行ってやってみたいと思ってやるのならやっていいと思いますが、会社が従業員に強制するものではないし強制してはならないものですが、それでも、坐禅そのものは価値があるものと思っていたので、それで、あえて、自分が勤めている会社がやるというものに逆らわない方がいいかと思って我慢して参加してあげたのです。しかし、坐禅だけではなく、「エニアグラム」などという怪しい「心理学」系統をやりだしたので、それで、最初、来ていたはずの(株)一条工務店の浜松の本社の総務部だったか企画部だったかの世話係の男性従業員を捜して、「話が違うではないか」「このようなものを受けさせられるとは聞いていないぞ。このようなものは中止するか、さもなくば、参加を希望しない従業員には今すぐ、退去していいと話してもらいたい」と言おうと思ったのですが、どんなに捜しても最初来ていたはずの本社の男性従業員は見当たらなかったのです。一般従業員が知らないうちに帰ってしまっていたようです。それで、私は浜松市倉松町4040 にあった本社に電話をして、担当者に話が違うではないかと苦情を言い、今すぐ深奥山方広寺に来て、深奥山方広寺の担当者に「エニアグラム」を中止させるようにしろと要求しようとしたのですが、ところが、その頃、1998年においては携帯電話は持っている人もいたけれども持っていない人間の方が多いというくらいの時期で私は携帯電話を持っておらず、深奥山方広寺で公衆電話を捜したものの、どんなに捜しても公衆電話は見つからず、本社に電話をして苦情を言うということができなかった。「その人が病的」「その人が考え方を間違えている」という人が「心理学」「精神医学」と称しておかしなことをしているものが多いのです。深奥山方広寺で「エニアグラム」を担当していた男性も、この人はどうかな・・と感じるところがあったのです。そういったものを感じ取ることができない(株)一条工務店の担当者の若造は愚かです。
  又、どういう場所なのかもよくわからずにバスで山の中に連れていかれたのですが、実際には深奥山方広寺は山の奥というのか山の上にあるけれども、本数は多くないがJR「浜松」駅から路線バスも出ており、付近にみやげもの屋もあって無料駐車場もあり、今では新東名高速道路の「浜松いなさ」インターチェンジが比較的近くにできたという場所であるのですが、寺でも京都の西本願寺・東本願寺・東寺・建仁寺・清水寺・知恩院などや東京の増上寺・寛永寺・浅草寺、大阪の北御堂・南御堂や四天王寺などのように街中にある寺ならともかく、山の中で「研修所」の中にも寺の敷地内にも公衆電話がないという「世間と半隔絶した場所」に連れていかれて怪しげな「心理学」もしくは「心理学もどき」を受けさせられるというのは従業員としては恐怖です。(株)一条工務店と深奥山方広寺にそういうものを受けさせられたということについて、強く不快感を覚えます。

  一番不快で、一番、人を馬鹿にした行為は、「お守りを自分で半僧坊さまに祈願して作ることにします」などとムカイくんが言いだして強制的に「お守り」を作らされたというものだ。「お守り」というものは持ちたいと考えた者が自分で寺社で購入して持ってこそ意味があるもので、持ちたいと望まない者に無理矢理持たせたとしても、それは害こそあれ益にならないものです。但し、これから大学なり高校なりを受験する孫のためにおじいちゃん・おばあちゃんが北野天満宮に行ってお守りをもらってきて孫に渡すとかは、その孫が嫌がっていない限りは神社の祭神の守護とともにおじいちゃん・おばあちゃんの思いもそのお守りにこもることになり、より強いお守りになるということはあるかもしれません。そういうものはいいと思うのです。しかし、好ましくないお守りというものもあります。
  1970年代の終わり頃、私が浪人中、うちの父親が会社の部下のMさんから石川県金沢市の拝み屋さんの女性を紹介されたことがあったのです。普通、会社の上役に気に入ってもらおうと何かするにしても「拝み屋さん」なんてものを紹介すべきではないと思うのですが、Mさんはうちの父親に紹介したのです。私がうちの父親の立場なら、「拝み屋さん」なんて紹介されても、「そういうのはけっこうです」と丁重にお断りします。ところが、うちの父親というのは、そういう類の人のエジキになるのが趣味なのです( 一一) 往生しまっせ、ほんま~。
  それで、うちの父親は金沢まではるばる行きよったのです。アホや( 一一)
  遠藤周作が『狐狸庵閑話』(講談社遠藤周作文庫)に書いていた話ですが、遠藤周作は文化学院の講師をしていたことがあったらしく、そこに占い師の藤田コト姫が生徒として来ていたことがあったらしい。若き日の藤田コト姫は授業にあまり出席しないので、それで講師の遠藤周作さんは講師として藤田コト姫の自宅に「今少し授業に出席するよう」言いに行ったらしいのです。ところが、案内の者が間違えて遠藤周作を藤田コト姫への相談者の部屋に通してしまい、そのうち、順番がまわってきたそうで、コト姫は「お名前は?」と自分が行っている学校の講師に向って言い、言われた遠藤周作はそのまま「遠藤周作」と答え、コト姫が「御職業は?」などと言うので「作家で教師」と堂々と答えたが、コト姫は「あら、先生でしたの」とでも言うかと思ったらそうではなくて、遠藤周作の顔をまじまじと見て、「作品が売れないのね。かわいそうに」と言い、「お名前が悪いのですよ。お名前を変えるといいですよ。お名前を変えるときっと売れるようになりますよ」・・とそう言ったそうな。遠藤周作は自分の作品が売れているのかどうかわからんが、売れていても売れていなくても自分の名前は悪いと思っていないから変えるつもりはない、と書いていた。遠藤周作は最初から藤田コト姫の所に相談に行ったのではなかったが、占い師に相談に行った人で「お名前を変えるといいですよ」と言われる人はあるのだろう。しかし、その際だが、「占い師」の仁義として、というのか、マナーとしてというのか、相談者に相談者自身の名前を変えるといいですよと言うのはかまわないが、相談者以外の人間の名前を変えさせろというのは、それは占い師として言ってはならないこと、やってはならないことだと私は思う。そんな「占い師」は占いというものがいいか悪いかと別の問題として、それは占い師としての仁義に反する行為、占い師としてのマナーに反する行為であると判断する。その点だけで、その占い師は劣悪・悪質な占い師であると考えるべきであると私なら考える・・・のだが、そう考えないのがうちの父親だったのだ( 一一)
  うちの父親はその占い師のおばさんにこう言われよったのだ。「お父さん(うちの父親)のお名前は大変すばらしいお名前で、これ以上ないという強運のお名前ですから、変える必要はまったくありません。むしろ、変えるべきではありません」と。そう言われたなら、私なら、「そうですか。それは良かった」と言って帰ります。占い師としてはそれで帰られては仕事にならない・儲けにならないはずです。その占い師のおばさんはどうしたか? ・・どうしたと思いますか。
  「お父さん(うちの父親)のお名前は大変すばらしいお名前で、これ以上ないという強運の名前です。変えてはいけません」と言ってアホなおっさんを喜ばせよったのです( 一一)  そして、持ち上げられたおっさんに対して、「まず、奥さんの名前は漢字に変えて下に『子』をつけてください」と言い、そして、上の姉は「下の『子』以外の名前を漢字からひらがなに変えてください」、下の姉には「下の『子』以外の名前をカタカナに変えてください」と言いよったのです。すでに成人して結婚して、上の姉には子供まであるのに、そういう人間の名前を変えさせろと本人にではなくその父親に言う占い師というのはいかがなものか。どう考えても良心的ではありません。藤田コト姫が遠藤周作に言ったように、本人に「お名前が悪いのですよ」と言い、「お名前を変えるときっといいことがありますよ」というのは言ってもいいと思うのです。言われて、自分の名前を変えようと思っても戸籍上の名前を変えるというのは、これは同姓同名の人間が凶悪犯罪を犯したとかそういうケース以外は簡単には認められないので、最近、ヤフーニュースに出ていたのは親から「王子様(おうじさま)」という名前をつけられた人が成人して名前を変えたいと言って認められたらしいが、そういうケースでなければ戸籍上の名前を変えることは認められないのですが、通称として戸籍上の名前と異なる名前を名乗るということはできますから、そうする人はあるようで、占い師さんから言われて、「名前を変えるといいことがあるかもしれない」と思って、そこから新たな人生を生きていくというのなら、それはそれでいいのかもしれません。しかし、相談者の名前は「変える必要はありませんし、変えるべきではありません。これ以上、いいお名前はありません」などと言ってヨイショして、その上で家族の名前を片っ端から変えさせろというのは、それはその家族自身が相談に来たというのでなければ言ってはならないことのはずですそれをやる占い師というのは占い師としても良心的な人間ではないでしょう。
  うちの母親には、もともとは母親の親が名前をつけることを仕事にしている人に頼んでつけてもらった変体仮名で表記の名前を、その名前は良くないと言って漢字に変えた上で下に「子」をつけさせろと言い、上の姉には下の「子」の部分以外の漢字を平仮名に変えろと言い、下の姉には下の「子」の部分以外の漢字をカタカナに変えろと言って、そして、きわめつけは私。「この人の名前はこれは絶対にいけません。この人の名前を天津丼(てんしんどん)に変えてください。そうしないとうまくいきません。変わった名前だと言って本人が嫌がられるかもしれませんが、絶対に天津丼(てんしんどん)に名前を変えないといけません」と、そう言いよったのです( 一一)
  「一番、いけないのはこの人です。この人の名前を変えさせないと必ず、この一家に災厄がふりかかります。たとえ、本人がどんなに嫌がっても、絶対に何がなんでもこの人の名前を天津丼(てんしんどん)に変えさせてください。これは仏様がそうおっしゃっているのです。仏様のおっしゃることは絶対にきかないといけません。この人が諸悪の根源です。何が何でもこの人の名前を天津丼(てんしんどん)に変えさせてください」・・・と、そう言いよったのです( 一一)
  普通、「ええかげんにせえよお、ええかげんに」と思うのではないか。
どんぶり職人 天津飯の素 1食 220g 12693
どんぶり職人 天津飯の素 1食 220g 12693
  ところが、うちの父親は私が何を言っても絶対にききませんが、占い屋さんとか怪しい人間の言うことはようききよるのです( 一一)
  そう言われて帰ってきて、「きょうから、あんたの名前は天津丼(てんしんどん)に変えることにするわあ~あ♪」と、そう言いよったのです。すでに19歳で、もうすぐ20歳の誕生日を迎えるという人間に向って。そして、紙に「命名 天津丼」と書いて壁に貼りよったのです。さらに、「改名屈 天津丼」と紙に書いて〔「改名届」ではなく「改名屈」と書いて〕、「これを北野高校の事務室に持って行ってきなさい」と私に命令しよったのです。それに逆らうと「心理学」からなんとか病だから無理して逆らっているんだとか「診断」されます。人から心を奪う「心理学」人から名前を奪う「占い屋」「拝み屋」の胡散くさいもの2つのコラボです。
  それで、しかたなしに、その「改名屈」と書いた紙を北野高校の事務室に持って行きましたが、北野高校の事務職員の方は「こういうものは、もしも、出すならば市役所に出すべきもので、卒業した高校に持ってこられてもどうもできません」と。そして、さらに言われたのは「これ、『かいめいとどけ』と書いたつもりでしょうけれども『かいめいくつ』になってます」と。
  うちの父親はそれだけではなく、「これから、あんたの知っている人の家を一軒一軒訪ねて、その上で『これからは私のことを天津丼(てんしんどん)と呼んでください』と言ってまわりなさい」と、そう言うのです( 一一)
  それで、こう言うのです。「(占い師の)T原先生がおっしゃるには、わしは人間としてもすばらしい人間であるし、名前も最高、このうえない人間やね~ん」と。なんか、アホがめでたいのお・・て感じがします。アホがめでたいのお・・て感じが。
  私は自分の姓名というのはあんまり好きではなかったのですが、それでも、自分の親が考えてつけた名前なのだから大事にしようと思ってきたのですが、ところが、その名前をつけたおっさんが「これから、あんたの名前は、て~んし~んどお~ん♪ 天津丼、てんしんどん、テンシンドン、て~んし~んど~ん♪」と言いよるのです( 一一)
  そして、それだけではなく、その占い屋のT原さんはお守りを渡して、「これを息子さんに持たせてください」と言ってうちの父親に持ち帰らせたのです。うちの父親は私に「これ、あんた、いつも身から離さずに持ちなさい」と言うのですが、そういうことはやめてほしいのですよね。占い屋さんが「お守り」を相談者に「これを常に身に着けてください」と言って渡して、それなら持つようにしようと相談者が考えて持つのなら悪くないでしょうけれども、その占い師に相談もしていない人間に「持たせなさい」と言って無理矢理持たせようとするというのは、それは占い師としては邪道の占い師のやることです。
・・・で、どうしたかといいますと、「逆らうとうるさいから」しばらく、その「お守り」を持っていましたが、そんなものを持つことでかえって良くないことがあるみたいですし、「ふざけんな!」と思って、それで、意図的にぐしゃっと握りつぶして足で踏みつけた上でゴミ箱に捨てて燃えるゴミにだしました。「退け、悪魔!」てものです。
  ですから、その私の名前を「天津丼(てんしんどん)」に変えろと言ったおばさんだけでなく、本人が望まない「お守り」を無理矢理・強制的に持たせようとする人間というのは嫌いなんですよ。
  だいたい、うちの父親はキリスト教の教会で「洗礼」受けた「敬虔なクリスチャン」のはずなのですが、「敬虔なクリスチャン」の特徴として「聖書は読まない」人でしたが、毎日、勤め先の会社の取引先の箱屋のおっさんに作ってもらった透明な箱に、その金沢の拝み屋さんからもらってきた祭具を入れて、朝晩、それに両手を合わせて、顔は私の方を向いて「親孝行せええよお、わしに親孝行せええよお、せえよお。わしに親孝行せんと、バチあたるぞ、バチあたるぞ。親孝行せんとバチあたるぞあたるぞあたるぞあたるぞお~お♪ ま~んまんまんまんまん、ま~んまんまんまんまん。ま~んまんまんまんまん。チーン♪ あーめん」と呪文を唱えたのでしたが、あれはキリスト教なのか仏教なのかそれ以外なのか、今もよくわからないのですが、「敬虔なクリスチャン」という人というのは、どうもわけのわからんことをします。
  「わしは人間としてもすばらしいだけでなく、名前もこの上もなくすばらしい人間やね~ん♪」とかいって喜んでいましたが、なんか、アホがめでたいのお・・て感じがしました( 一一) 「わしは人格がすばらしいだけでなくて名前も最高の名前やね~ん。どんがらがった、ちゃちゃちゃちゃ、どんがらがった、ちゃちゃちゃちゃ・・♪」とか毎日言っていました( 一一)  「おまえが諸悪の根源やねんぞ、おまえが諸悪の根源!」と、毎日言われてきましたが、占い屋さんとしては、うちの父親を見て、この人は息子を「諸悪の根源」と「診断」してあげると喜ぶ人なんだと読み取ったのでしょう。マア、うちの父親をほめる人間にろくな人間いません。むしろ、毛沢東は『敵によって反対されるのは良いことであって悪いことではない』という文章において「敵によって反対されるのは良いことであって悪いことではない。なぜなら、敵によって称賛されるなら、我々の行動が敵と同様に腐敗していることを意味し、敵によって反対されるありとあらゆる悪口を言われて攻撃されるなら、我々の行動が敵とは一線を画していることを意味しているからである。故に、敵によって反対されるなら、それは大変けっこうだと言うべきものである」と述べていたが、この金沢の占い屋のT原さんから「この人が諸悪の根源です」と罵られ、「名前を天津丼(てんしんどん)に変えさせなさい」と言われたならば、それは「大変けっこうだ」と言うべきものであったのかもしれない。
ヒガシマル醤油 ちょっとどんぶり 天津飯2P×5個
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  うちの父親はその金沢の「T原先生」という拝み屋さんから、この人は自分の名前を変えろと言われたら嫌がる人だが「息子の名前を天津丼に変えなさい」と言われたら、「これから、あんたの名前は天津丼にするわあ♪」と喜んで天津丼にしようとする人だと、人間性を見抜かれていたのです。「てんしんどん、天津丼、テン、しん、ドン♪ 喜べチャンコロ、喜べチャンコロ、喜べ喜べ、てん、シン、どん♪」と。「先生」という称号も「小学校の先生」「中学校の先生」といった元から「先生」という職業についている人を「先生」と言うのはいいが、そういう職業についているわけでもないのに「先生」と呼ばれたがる人・「先生」を名乗りたい人というのはくせ者である『新約聖書』の「福音書」には「あなたがたは先生と呼ばれない方が良い」というイエスの言葉が出ているが、そのイエスの言葉の逆をやりたがる人というのが医者屋とか拝み屋さんとかにはけっこういる。
  ちなみに、私は中華料理の天津丼は嫌いではないけどね。中華料理の天津丼は嫌いではないが息子の名前を天津丼にしようとする男というのは好きではない( 一一)

  お守りというものは、そのお守りを持ちたいと思う人がそう思って購入してみにつけた時から効力をもつもので、持ちたくないと思っている者に無理矢理持たせてもプラスになるものはない。むしろ、害がある。浜松市北区引佐町奥山の深奥山方広寺とムカイくんは、その根本的なところ・初歩的なところ・基礎の基礎・基本の「き」が理解できていない。
  その「研修」というのは、「所長」だというムカイくんと若いなりたてと思われる坊さんと、高齢の坊さん・・のように見えたけれども、帰り道、参道脇の土産物店の店先に孫抱いて立っていたので、後から考えてみると、もしかすると、歳をいって禿げていた人に衣を着せてアルバイトに雇っていたのか? ・・というじいさんの3人と「心理学」だと称する「エニアグラム」の係の男性とでやっていたのだが、その年配の人に、「私はこういったお守りというものは、あまり気が進まないのです。私の家の宗教とこちらとは宗派も違いますし、こういったお守りというものは粗略な扱いをするべきものではなく、1年ほどすればお返しにくるものでしょうけれども、私は家もこの近所ではないので返しにくることはできないと思いますし、しますので、こういうものは遠慮させていただきたいと思います」とはっきりと言ったのです。
  ところが、「私の家の宗教とこちらとは宗派も違いますし」と言っても「宗派が違ってもかまいません」と言うのです。だから、私は「私はそういうのは嫌なのです」と言ったのですが、それでも、「かまいませんから」と言うのです。そのボーズなのかボーズの服装を着た禿げのじいさんのアルバイト・パートなのかは「かまいません」かもしれないけれども、こちらはかまうのです。・・わからんかなあ、ほんまにもう・・( 一一)
  「こういったお守りというものは粗略な扱いをするべきものではなく、1年ほどすればお返しにくるものでしょうけれども、私は家もこの近所ではないので返しにくることはできないと思いますし」と言うと、「そういう時は近所のお寺に持っていけばいいですから」と言うのです。「ですから、持ちたくないと言っているんです」と言っても、「近所のお寺に持って行けばいいですから」と言ってきかないのです。押売りですよ、押売り。深奥山方広寺がやっていることは、「お守り」の押売りです、押売り!!!
  私が嫌だとはっきりと言っているのに、浜松市の深奥山方広寺はそれを無理矢理、お守りを作らせようとするのですから、これは法律上は強要罪に該当するはずです。

  「深奥山方広寺」と書くのですが、「深い」ではなく「不快」と書いた方が実状に合っているのではないでしょうか。「深奥山方広寺」と書くよりも「不快(な)奥山方広寺」と書く方が適切ではないか。
  そして、深奥山方広寺のボーズなのか「ボーズもどきのハゲ」なのかは「こういったお守りというものは粗略な扱いをするべきものではなく、1年ほどすればお返しにくるものでしょうけれども、私は家もこの近所ではないので返しにくることはできないと思いますし」と私が実際にはそういうこともあるとしても、それよりも持ちたくないから断っているにもかかわらず、「そういう時は近所のお寺に持っていけばいいですから」と言ったのですが、平山お願い薬師・鈴得山 東光院 大金剛寺(真言宗 豊山派)の場合はどうかというと、↓ を見てくださいよ。
DSC01910.JPG
↑ 「古いお守り、お札 お納め所」
「 お納め所
古い御守・札守・縁起物等
当山授与品に限ります。
 他寺社のものは申し出下さい。
正月飾りお断り 」
「他寺社お守り 正月飾り お断り」
「お 焚き上げ料」
と書かれています。
  そりぁそうですよね。「当山授与品に限ります」「他寺社お守り 正月飾り お断り」と明記されていますが、お寺だって、自分の所で買ってもらったものなら引き取るとしても、よその寺社で買われたものを渡されて処理だけさせられたのではたまりませんよね。廃品回収業者でも、リサイクルして売れるような物でなければ費用を取って回収するのですから、自分の所で購入したわけでもないものを回収だけさせられたのではたまったものではありませんよね。
  但し、「他寺社のものは申し出下さい」とも書かれています。 お守りを持つのは1年で、それ以上持っても効力は薄らいでいくと書かれたものを見ますが、1年というのは「おおむね」であって、持つ人の気持ちで3年と思うなら3年でもいいと思うのです。ともかく、永久に効果があるというものではないということで、かつ、効果が薄くなっていくといっても全く意味のないものではないから粗末に扱うべきものではなく、受けた所にお返しに訪ねるのがいいが、1年後にそこに行けないのであれば2年後でも3年後であっても悪いことはないのでしょう。しかし、もしも、相当遠い場所の寺社で取得したお守りなどで、どうしても返しに行くことが困難というような場合には、「申し出」てもらえば、個々に対処しないということもないという意味かな・・と思いますが、その場合は、いくばくかのお布施かお賽銭をお払いするのがマナーか・・・ということになるでしょうか。
  それで、平山お願い薬師・鈴得山 東光院 大金剛寺でも、基本的には「当山授与品に限ります」としており、自分の所で渡したお守りなどについては引き取るけれども、他の寺社のものはその寺社に返してくださいとしているわけです。それが基本でしょう。だから、お守りを購入する場合にも、そういう時のことも考えて購入するのが本来のはずで、私が浜松市北区引佐町奥山の深奥山方広寺で「私は自宅もこの近くではありませんから、1年後などにお返しに来ようと思っても来ることはできませんので、遠慮させていただきたい」と言ったのは、お守りというものの性質から考えてもっともなことのはずなのです。それに対して、深奥山方広寺のボーズが言った「その場合は近所のお寺に持って行ってもらえばいいですから」という認識は正しくないはずです。本来は1年後、厳密に1年後でなくても1年半後でも2年後でもいいとしても、受け取った寺社に再度行って、「1年間、守ってもらいましてありがとうございました」という気持でお返しするというのが本来のものであり、どうしても、受けた寺社に行くことができない時に「近所のお寺に持っていく」という方法はあるとしても、最初から「近所のお寺に持っていけばいい」という気持で持つものではないのではないか。特に、お寺の人間が「近くのお寺に持っていけばいいですから」とそういうことを言ってはいけないのではないのか。違いますか。
  ・・ですから、浜松市北区引佐町奥山の深奥山方広寺というのは、あれは、実質、寺ではないのです。寺みたいな格好していますが、あれは寺ではなく、単にカネ集めやっている施設であってそれ以外の何物でもないのです。そんな「寺もどき」の「お守り」などというものは害がある。
  深奥山方広寺で無理矢理作らされた「お守り」もどきも、それも、早めにゴミ箱に捨てて「燃えるゴミ」に出しましたからね。深奥山方広寺の「お守り」などというものは、ゴミ箱に捨てて焼却場で燃やすのが妥当の品物です。カスですよ、カス。
もっとも、あれって「燃えるゴミ」なのだろうか。ダイオキシンとか発生しないだろうか。その点が心配ではある。

  静岡県浜松市北区引佐町奥山の深奥山方広寺とその「信教の自由の侵害」については、
☆ 深奥山方広寺(浜松市)と「信教の自由」を侵害する者
1. 八百長の通算契約棟数全国1位。遠州地方の営業の我田引水。 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201707article_1.html
2. 商品を大事に思う心。住宅営業にとっての知識。 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201707article_2.html
3. 払うべきカネを払わない者。掛川の人口は4万人ではない。 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201707article_3.html
4. 営業は自分で考えるもの+協力を求めてそれで契約になるのなら。 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201707article_4.html
5. うかつに「売れる人」と言うな。営業は大貧民ゲーム。 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201707article_5.html
6. 山門。 「もうかってる」会社が人をやめさせてよいのか。 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201707article_6.html
7. 弁天堂。 利益を生み出したのは労働。使用者に媚びる俗物寺。 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201707article_7.html
8. 椎河龍王。亀背橋。「信教の自由の侵害」を認識できないのは「病」 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201707article_8.html
9. 三重塔。 堂宇を増やすのが寺の発展なのか。 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201707article_9.html
10. 鐘楼、本堂。 裏口は嫌い。従業員の労働が化けた羅漢? https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201707article_10.html
11. 上天台舎利殿、観音堂。 「親に感謝」は「教育勅語」の思想。 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201707article_11.html
12. 開山堂、勅使門、半僧坊真殿。 本人が希望しないお守りは害がある。 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201707article_12.html
13. 七尊堂(富士浅間・春日・伊勢・稲荷・八幡・梅宮・北野)と稲荷社 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201707article_13.html
14. 不良ボーズによる宗教の強制は国民に信仰心を妨げる https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201707article_14.html 
15. (株)一条工務店の従業員の給料へつった金が、深奥山方広寺門前のじいさんとその孫の小遣いに化けた http://shinkahousingt.at.webry.info/201707/article_15.html
[第732回]『ゴルゴ13』と考える「信教の自由」。「信教の自由」を侵害する深奥山方広寺は宗教失格。「信教の自由」を侵害する営業は三流の営業。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202001article_4.html
※ 《一条工務店の白旗山メガソーラー乱開発の説明会 日本共産党嘉飯地区委員会》http://jcp-kahan.info/archives/194 

  滅びよ、深奥山方広寺。 おまえが栄えることは永遠にないように。消えてなくなれ、深奥山方広寺。人とホトケにあだなす深奥山方広寺は永遠に消え失せよ。 宗教とホトケを汚す反社会的勢力 深奥山方広寺は永遠に消えてなくなれ。

  (株)一条工務店https://www.ichijo.co.jp/ が静岡県浜松市北区引佐町奥山 の 深奥山方広寺という質の悪い寺もどきと結託して「信教の自由」を侵害する反社会的行為を働いたのは、静岡県掛川市の掛川営業所の所長にならせてもらっていた近藤正夫がおこなったものだと従業員の間では言われていた。私だってこの会社で事実に反する話を広められたことがあり、それを会社に言っても「保護義務違反の(株)一条工務店」は何ら対処しませんでしたから、掛川営業所の所長の近藤正夫がおこなったという話は、そのまま受け取るのが適切かどうかはわからないが、しかし、私は近藤正夫から「あんたには坐禅研修には絶対に無理矢理にでも参加させてやるからなあ」と脅しのように言われて参加させられたのです。
   私は福島県いわき市の営業所に在籍した時、営業所に「静岡県にいる近藤正夫」から「あなたの営業成績が悪かったのはなぜですか」などという書面が届いたので、私の前年の営業棟数は私が所属した営業所では私が一番多かったし、いわき地区の営業の中でも上の方であったわけで、消費税が上がった直後の住宅建築業の会社としては苦しい時期に条件が悪い営業所でそれだけの契約を取得するのは相当大変であり、相当大変なことをこなしてきた者に向って無礼にもほどがあるので、それで私の方から「これはいったい何ですか」と抗議の電話をかけて、「私は、私が在籍している展示場にいる営業の中では最も多くの契約を取得したし、いわき市と福島県浜通り地区にいる営業の中でも上の方の営業成績を残しているはずで、営業成績不振者と言われる筋合いはないはずです。」と無礼者の近藤正夫に言ったのです。ところが、近藤正夫は「いや、不振者だ。最低でも年間10棟は売ってもらわないと不振者だ」と言うので、「何を言ってるんですか。それならば、過去に年間全国1位の営業成績を残したこともある、いわき地区の草野所長だって10棟なんて売っていませんから不振者になるじゃないですか」と言うと、「だから、草野所長の成績不振者だ」と近藤正夫は言うのです。はあ? それで私は「それなら、いったい何棟売れば不振者ではないことになるのですか」と言ったところ、近藤正夫は「10棟以上だ」と言うので、「今、消費税が上がった直後で戸建住宅建築業の会社の営業は契約をいただくのが難しい状況であって、10棟以上契約もらった人なんて、全国で何人もいないでしょう。それなら、少なくとも(株)一条工務店の営業の過半数以上が成績不振者になってしまうでしょう」と言ったのですが、そうすると近藤正夫は「私は昨年、10棟の契約をあげた」と言うのです。こいつ、絶対、アホや・・と思いました。
  「私は今までからこの人のことを『特別に賢い』とは思っていなかったけれども、ここまでアホとは思わんかった」ではなく、「私はこの人はもうちょっとマシな人かと思っていたが、なんだ、ただの遠州地方という井戸の中のカエルでしかなく、なおかつ、我田引水、自分の営業所だけ得するように細工した上で、自分の営業所が他の営業所よりも契約棟数が多くなるようにして契約とって「私は〇棟売った」と主張する人間のカスだった・・・がっかりした。

  普通に考えて、野球の得点とラグビーの得点を比較しても意味はないのです。ところが、「(株)一条工務店の遠州人」は静岡県中西部・愛知県(浜松・掛川・名古屋)では他の地域よりもずっと安い値段でダンピング販売をおこない、又、静岡県中西部・愛知県のみテレビ広告をドカンと一発♪ やりまくり、テレビ番組のスポンサーもやり、又、「見せるための工場」も浜松に設け、耐火性能実験・耐震性能実験も浜松でパフォーマンスやって、静岡県中西部・愛知県(浜松・掛川・名古屋)の営業が他の地域の営業よりも多く契約を取れるように細工していたのです。なおかつ、私が最初に入社した東京展示場(東京都江東区潮見)では営業所長はグラフには「所長 <天野隆夫>」と記載されていて、普段は浜松にいる人で自分自身は20代の頃に浜松で社長の義理の弟としての特別扱いの営業をちょろっとやっただけの営業経験しかない「浜松・掛川・名古屋のまわしもの」が名目上、所長になっていた展示場で、掛川展示場の場合は自分自身がそこで営業をしている近藤正夫が営業所長になっていたわけで、「浜松・掛川・名古屋のまわしもの」が名目上、所長ということになっていた展示場と、掛川展示場のように実際にそこで自分自身も営業をしている人が所長になっていた展示場ではどこが違ったかというと、掛川展示場などでは、営業ひとりあたりの契約棟数を減らさないために在籍する営業社員の数が多くなり過ぎないように配慮して営業社員の数が制限されていたのに対して、1992年に私が入社した頃の東京展示場では自分自身はそこで営業をしない人が所長だったので、「これでもかあ」というくらいにその地域で(株)一条工務店で建ててくれる人が少ない展示場に営業社員の数ばっかりいっぱい入れるということをされてしまったのだった。ただでさえ、東京都・神奈川県では「セゾン275S1」というタイプを施工面積という(株)一条工務店が独自に考えた延べ床面積よりも広くなり、結果として「坪単価」で見ると安いみたいに見える単位で坪55万円で売らされていたものを、浜松・掛川ではなんと坪48万円でウルトラのダンピング販売名古屋市の名古屋南営業所・八事(やごと)営業所では坪49万5千円でウルトラのダンピング販売をしていたのであり〔「八事(やごと)」と言われても名古屋圏の住人でない人はどんな所か知らない人が多かったが、最近、「六代目山口組組長の自宅がある所」として知られてきた。YouTube にも出ているが「六代目山口組組長の自宅」以外にもかなりの豪邸が多く建っている。・・なんで、そんな金持ちの多く住んでいる所の展示場で東京都・神奈川県で坪55万円のものを坪49万5千円でダンピング販売しなきゃならんのだ? 浜松・掛川・名古屋の営業はそうやって自分たちの所が箱根の関より東、鈴鹿の席・不破の関より西の地域よりうんとこさ有利な条件を設置して自分たちが「売っている」ように見せてきた。汚いやつらである。「(静岡県・愛知県の人間が他の地域よりも得することならどんなことでも)やらまいか」という「やらまいか精神」を彼らは持っているようだ( 一一) 〕、浜松・掛川・名古屋の営業は東京の営業には「一条工務店は昔から『いいものを作れば売れる』という考えでテレビ広告などはまったくしない会社としてやってきた会社です」と嘘を教えて、その上で浜松・掛川・名古屋においては””ドカンと一発♪””テレビ広告やりまくって売ってきたのであり、東京都では束石は「ピンコロ」という小さい束石で施工していたのに対して、浜松・掛川・名古屋では「でっかいマンホールの蓋もたいな束石」での施工を勝手にサービスしていたのだった。近藤正夫ら静岡県中西部・愛知県の営業は他の地域よりもうんとこさ安い値段でダンピング販売をしていたのであり、他の地域ではやっていないテレビ広告を””ドカンと一発””やることで売っていたのであるから、近藤正夫は当然のことながら、そのくらいのことは理解できているはずで、静岡県中西部・愛知県の契約棟数はその数字に4分の1くらいかけたものを他地域の営業の契約棟数と比較するとか、そのくらいのことはしなければならないはずだということくらいは理解できているだろうと思ったら、近藤正夫はその程度のことも理解できていないアホだった。
  又、消費税アップの後、戸建住宅建築業の会社は全国的に苦戦していたとはいえ、その苦戦の状態は地域によっても差があって、1998年の途中に福島県いわき市から栃木県佐野市の営業所に転勤してみると、栃木県の営業は「あまり実力があるとは思えない人」でも福島県浜通り地区の営業に比べて前年の契約棟数はあげていたのを見ても、消費税アップの後の苦しい状況というのは全国的にあっても、その程度は地域によって差があった、1996年後半から1998年前半にかけては栃木県と福島県なら福島県の方がダメージは大きかった、ということを私は実感したのだが、「遠州地方という井戸の中のカエル」の近藤正夫はそれも理解できなかったようだ。
  私は近藤正夫の電話での発言にがっかりした。なぜ、がっかりしたかというと、私は近藤正夫という人を、それまで、(株)一条工務店に比較的古くからいる営業社員の中では比較的高く評価していたからだ。彼が中途採用社員の新入社員研修で話したものや、私より後で入社した人が新入社員研修の時に近藤正夫が講師役で来てこういうことを話したと聞いたものについては、なかなかもっともなものがあったことから、私はこの人は自分たちの所が「ラグビーの得点」やっているということくらいは理解できている人で、「ラグビーの得点と野球の得点を比較してもしかたがない」ということくらいは理解できている人だろうと期待していたのだったが、その程度のことも理解できない「タダのアホ」だった。がっかりした。「あなたが10棟契約を取得したというのは掛川営業所ででしょ」とその時に私が言ったか言わなかったか、言ったように思うのですがその点については記憶があやふやになってしまったが、近藤正夫という人は言われなくてもそのくらいのことは理解できている人だろうと買いかぶっていたが、言われても理解できない人だった( 一一) ラグビーで10点得点した人間が野球で4点か5点得点した者に対して「4点か5点なら不振者だ。私はラグビーで10点取った」などと言っても言う者が間違っている。ラグビーなら10点ではなくもっと取らなければならないはずだ。ラグビーで10点取った者が野球で4点か5点取った者に向って「4点か5点なら不振者だ。私はラグビーで10点取った」などと馬鹿馬鹿しいことを言う人間なんかおらんだろうと思うかもしれないが(株)一条工務店にはいるのだ。近藤正夫はその一人だったのだ。ラグビーの得点やっているような営業所(展示場)にいる近藤正夫は野球の得点やっている営業所(展示場)にいる営業の最低でも倍以上は得点して当然であり、それを倍の得点をできていないにもかかわらず「私は10棟取った」などとアホなことを自慢している近藤正夫こそ「営業成績不振者」と言うべきであろう。(株)一条工務店という会社は「一条工務店は展示場による条件の差が甚だしい」と言われていた会社で、近藤正夫は自分がいる掛川展示場を他の展示場(営業所)よりも条件がいいように画策した上で営業やっていたという卑怯者だったのである。卑怯者が条件が悪い展示場で苦労して営業活動をしている者に勝手なことを言ってきたのだった。(株)一条工務店の経営者はそういう卑怯者には注意すべきであるはずだが、それを言えないのが(株)一条工務店の経営者だった。
  近藤正夫は前職は自営業で、自営業としてやっていた会社をつぶしてしまった後で(株)一条工務店に入社して掛川展示場である程度以上の契約を獲得したと本人が話していたのだが、その後、福岡県で(株)一条工務店・(株)一条メガソーラーが自然環境破壊のソーラー発電計画をおこなった際に担当していたのが近藤正夫だったらしい。その程度の自営業者だったようだ( 一一)
  その時の電話で、近藤正夫は私の方は丁重に穏やかに話をしているのに私にずいぶんと興奮した口調で「あんたには、坐禅研修にも、たとえ嫌だと言っても絶対に強制的に無理矢理にでも参加させてやるからなあ。覚えておけよお」などと発言したのだ。なんだ、その口のきき方は( 一一)  私はそう言われて「無理矢理に」「強制的に」深奥山方広寺の「坐禅研修」という「信教の自由の侵害」に参加させられたのであり、(株)一条工務店と近藤正夫から好まないものに強要されて参加させられたのである。(株)一条工務店の実質的責任者の「初代社長」の大澄賢次郎とその時点での名目上の「代表者 代表取締役 山本庄一」と実際に深奥山方広寺と結託して「坐禅研修」と称する「信教の自由の侵害」を行う策動をおこなった近藤正夫の3名は強要罪に該当すると考えるべきであろう。

  多くの人間はいい部分と好ましくない部分を合わせ持って生きている。私が近藤正夫について比較的高く評価していたものというのは、それは理由・論拠があって高く評価していたものなので、彼が「信教の自由の侵害」をおこなうその部分において人間として質が悪い人間であっても、又、メガソーラー発電で自然環境破壊をおこなう人間であっても、そこは評価できないものの、比較的高く評価できると判断した部分については評価が変わるわけでもない。その部分についても述べるつもりであったが、字数もけっこう多くなったので、それは別の稿で述べることにして今回はここまでにしたい。
  「静岡県浜松市北区引佐町奥山の深奥山方広寺」という表現をしたのは、単に「方広寺」と書くと多くの人は京都市の方広寺を思い浮かべると思うので、単に方広寺とのみ書いて述べると京都市の方広寺が迷惑すると思うので、それで「静岡県浜松市引佐町奥山の深奥山方広寺」という表現をした。
 「静岡県浜松市北区引佐町奥山の深奥山方広寺」は臨済宗で、「臨済宗方広寺派」を今現在は名乗っており、《ウィキペディアー方広寺(浜松市)》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B9%E5%BA%83%E5%AF%BA_(%E6%B5%9C%E6%9D%BE%E5%B8%82) によると、あんな堕落した寺が「大本山」だそうだ( 一一)
  それに対して、「国家安康」「君臣豊楽」という銘の鐘で知られる京都市の方広寺は山号はなく、《ウィキペディアー方広寺》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B9%E5%BA%83%E5%AF%BA によると、今は天台宗らしい。

  「静岡県浜松市北区引佐町奥山の深奥山方広寺」はジャフ(JAF)会員の人は会員証を見せてもらえば拝観料割引・・などということをやっていたが、拝観料というものは、本来、「何何の会員の人には割引」なんてことをやるべき性質のものとは違うと思うのだ。・・そのあたりも、深奥山方広寺の考え方は宗教者としておかしい。
  深奥山方広寺に訪問した時、清涼飲料水の自動販売機で購入したものは、購入してから見ると人体に好ましくないとされる添加物が使用されているのが記載されていたので、カネを出して購入したけれども、健康第一を考えて、その場に廃棄してきた。「いいものを置く」という姿勢も浜松市北区の深奥山方広寺は欠けていたようだ。

  (株)一条工務店は「創価学会の会社」などと従業員の間で言われていたが、浜松市北区の深奥山方広寺は日蓮宗ではなく臨済宗である。

  三流以下企業に勤めると、何かと往生しまっせえ、ほんま~あ・・・・・。(株)一条工務店は私が離れた後、最近はなんだか調子がいいみたいで、東京圏においても知名度は上がり、人によっては「天下の一条さん」などと言う人がいるのだが、人間にとって人権の中でも大事なものである「信教の自由」を堕落ボーズと結託して侵害するあんな程度の低い会社を「天下の」とは笑止である。

  (2023.1.14.)

☆ 平岡お願い薬師・鈴得山 東光院 大金剛寺(真言宗豊山派)(千葉市緑区平山町)参拝
1.石段を登る。十三詣りに関し「十三(じゅうそう)」と「十三湖(じゅうさんこ)」についての小学校教諭の対応。息子を教育できない「中学校の校長先生」。「あんたが今日あるはすべてわしのおかげ」と父親から毎日四六時中耳鳴りするくらい言われてきた者としては「今日あるは すべてご先祖さまのおかげです」と言われても、もうええわ・・という気持になる。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/495669372.html
2.本堂へ。薬師仏とつながる縄。病気平癒のお線香。大師堂。・・と「男盛」のおっさん? ならぬ「笑勉小坊」https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/496197038.html 
3.鐘楼・大日如来堂・平岡神社。鐘楼・大日如来堂・平岡神社。マルクスは「宗教はなぐさめ」と言っても「宗教は毒薬」とは言っていない・・ということを理解しない迷惑な医者屋(裏口タイプ)https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/496711070.html
4.お納め所。仏敵 深奥山方広寺(浜松市)による信教の自由の侵害。お守りは持ちたいと思う者が受けて所持してこそ価値があり、その「お守り」は持ちたくないと思うものを嫌がる者に無理矢理持たせても害こそあれ益にならない〔今回〕

憲法講話 (岩波新書) - 宮沢 俊義
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