金目山 光明寺(平塚市)参拝【1/4】「秦野中井」I.C.より金目山光明寺へ。仁王門・摩尼車、金目川と観音堂。観音橋手前より見える富士山。

[第974回]
  神奈川県の平塚市と秦野市の境目に近い平塚市に、坂東33観音霊場第7番金目山(かなめざん)光明寺(天台宗)があります。2022年12月に参拝してきました。
  光明寺という名前の寺は、鎌倉市の光明寺とか浄土宗に多いという印象を受けていますが、浄土宗以外でも光明寺という寺はあり、平塚市南金目の坂東33観音霊場第7番の光明寺は天台宗です。
  「光明遍照 こうみょうへんじょう」という言葉があり、《四字熟語辞典 光明遍照 こうみょうへんじょう》https://yoji.jitenon.jp/yojik/5389.html によると、『観無量寿経』による言葉で、
《 仏や聖者、仏塔などから輝き出る光が、世界の全てを隅々まで照らし出すこと。
「光明」は仏から発せられる慈悲の光
「遍照」は全てを照らすこと
仏の慈悲は、念仏をする全ての人々を全て救い、決して見捨てないということ。
という意味だそうです。光明寺という名前の寺はけっこうあちらこちらにありますが、この「光明遍照 こうみょうへんじょう」からきた名前でしょうか。《 仏の慈悲は、念仏をする全ての人々を全て救い、決して見捨てないということ。》という意味なら浄土系の宗派の寺の名前になりそうですが、念仏は浄土系の宗派だけがおこなうというわけではなかったはずで、たしか、栂尾高山寺の明恵・高弁が『摧邪輪(ざいじゃりん)』を書いて法然を批判した際にも、法然が念仏を勧めると聞いて、それは大変けっこうなことだと明恵上人は思ったが、法然が専修念仏、只管念仏をおこない他は要らないと否定したと聞いて明恵上人はそれはおかしいと憤慨したというものだったらしい。だから、浄土系以外の宗派で《 仏の慈悲は、念仏をする全ての人々を全て救い、決して見捨てないということ。》という意味の言葉を寺の名前につけていても、おかしなことではないと考えてよいのだろう。

  地図で見ると最寄駅といえば小田急の「鶴巻温泉」「東海大学前」あたりが直線距離では比較的近そうですが、それでもけっこうあるようです。バスの便だと、インターネットで検索すると、小田急「秦野」駅より平塚駅北口行きの神奈川中央交通バスで「金目駅」バス停下車、もしくは平塚駅の北口から秦野駅行きの神奈川中央交通バスで「金目駅」バス停下車で行けるようです。住所は平塚市南金目 ですが、「金目駅」というバス停があるということは、この付近に「金目(かなめ)」という鉄道の駅がかつてあったのだろうか、それとも鉄道の駅ではなくて街道の宿場として「金目の駅(しゅく)」があったのだろうか・・とか考えるが、インターネットで検索しても、出てこない。

  今回は自家用車で行きました。高速道路のインターチェンジとしては小田原厚木道路の「平塚」インターチェンジが下り方向、南向きの入口・出口がありますが、それが一番近い。 次いで、東名高速道路の「秦野中井」インターチェンジが上り下りとも入口・出口があり、これが次いで近い。小田原熱き道路の上り(北向き)だと「平塚」のひとつ南側の「大磯」インターチェンジが比較的近いようです。今回は、東名高速道路の「秦野中井」インターチェンジで降りて、小田原厚木道路の「平塚」インターチェンジから帰りました。
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↑ 小田急「秦野」駅の南口です。

  東名高速道路「秦野中井」インターチェンジを降りると県道71号(秦野二宮線)に出ます。これを左折して北に進みます。「西大竹」という交差点で左折すると「秦野」駅の方に行きますが、そのまま北に進むと「上智大入口」という交差点があり、こんな所に上智大なんてあったかなあ・・と思うと、この交差点を右(東)に行くと上智大の短大があるようです。さらに北に進んで小田急の下をくぐります。
  「上智大入口」を過ぎた後でややこしいのですが、「上大槻入口」という交差点が小田急の線路の北側にあるのですが、これも曲がらずに北に直進し、「河原町」という交差点を右折して県道62号(平塚秦野線)を東に行きます。
  しばらく東に進み、東名高速道路をくぐります。さらに東に進むと右側(南側)に西から東に流れる金目川が右手(南側)に見えます。
  土屋橋という橋が金目川にかかっていますが、「土屋橋」交差点は右折して橋を渡らず、そのまま直進します。「土屋橋」を過ぎると「東海大前」という交差点があり左手(北側)に東海大学に入る入口が見えますが、ここもそのまま直進します。
  さらに東に行くと「南金目(みなみかなめ)」という左(北)に曲がる交差点がありますが、ここも直進します。「南金目」を過ぎてすぐに「観音橋入口」という右(南)に曲がる交差点があり、これを右(右)に曲がります。「観音橋」と言うからには坂東33番観音霊場第7番の金目山光明寺の近くにかかる橋か・・という感じがしますが、そうです。
  「観音橋入口」交差点を右折して南に進むと観音橋という橋が金目川にかかっていますが、県道62号(平塚秦野線)と金目川の間に金目山光明寺があり、金目山光明寺は金目川の側から入ることになりますが、光明寺の西側、県道62号から観音橋に向って道の左手(東側)に金目山光明寺の参詣者用駐車場があります。 道路地図など見ると、金目山光明寺は県道62号(平塚秦野線)のすぐそばのように見えますが、県道62号(平塚秦野線)には接していないので、県道62号(平塚秦野線)を走りながら南側に金目山光明寺があるのを見つけようとしても通り過ぎてしまいます。
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↑ 金目山 光明寺 の参詣者用駐車場です。塀の向こうに見えるお堂は大聖歓喜天を祀る歓喜堂の西面です。
《 参詣者用駐車場につき、無断駐車ご遠慮ください。
開門:午前8時
閉門:午後5時
午後5時以後の車の出入りはできません。
 坂東七番
   金目山 光明寺 》
と書かれています。ここでは「坂東七番 金目山 光明寺」と書かれていますが、別の掲示板には「天台宗 金目観音光明寺」と書かれています。↓
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  この金目山光明寺の参詣者用駐車場の場所は、かつて、金目村役場があった場所らしい。現地の説明書きには、
《 旧金目村役場(金目観音奉賛会館)跡
  昭和9年(1934年)〔「人、苦しみ苛む(1931)満州事変」の1931年の3年後、「戦さ長引く(1937)日中戦争」開始の1937年の3年前。満州事変と日中戦争開始の真ん中の年〕、この地に金目村役場が建設されました。
  その後、昭和32年(1957年)10月1日、平塚市と中郡金目村との合併により、この建物は金目出張所や幼稚園として使用されました。 そして、昭和42年(1967年)〔東京オリンピック・東海道新幹線開通・名神高速道路開通の1964年の3年後、大阪万博(大阪万国博覧会開催)の1970年の3年前、三島由紀夫が自衛隊市ヶ谷駐屯地に押し入って割腹自殺した1970年の3年前、東京オリンピックと大阪万博の真ん中の年〕、金目観音奉賛会に払い下げられた後は、金目観音奉賛会館として利用されていましたが、昭和67年(1987年)〔1985年(昭和60年)阪神タイガース優勝・日本一の年の2年後〕12月末をもって取り壊されました。・・・・
 平成22年(2010年)3月 平塚市教育委員会》
と書かれています。〔 〕の中はブログ作成者によります。・・なんちゅうても、〔1985年(昭和60年)阪神にゃんこズ優勝・日本一〕なんて平塚市教育委員会が書くわけない。・・もしかすると、ひとによっては、なんで阪神にゃんこズ の日本一がそんなに基準になるんや? と思う人もいるかもしれんが、それはなんちゅうても、ヤクルトとか巨人とか西武とかは何度か優勝しているし日本一も何度かあるのに対して、阪神にゃんこズ というのは、めったに優勝しねえんだわ。ましてや、日本一になったのは後にも先にもこの1985年(昭和60年)ただ一度なんだわ。だから、この1985年(昭和60年)は関西人にとっては「聖なる年」として関西人紀元0年として定められ、今年、2023年(令和5年)は関西人紀元38年 となるわけだ。なにしろ、にゃんこズ は2位になることはけっこうあるけれども、な~かなか優勝はしないもんだから・・・、ほんま。〔⇒《YouTube-六甲おろし 唄:立川清登》https://www.youtube.com/watch?v=yV814_p2fxE 〕〔⇒《YouTube-大阪タイガースの歌》https://www.youtube.com/watch?v=To7_HTkQcn0 〕 金目村役場⇒金目観音奉賛会 の建物は関西人紀元2年に12月末をもって取り壊されたということになるようです(^○^)
  参詣者用駐車場の道路を隔てた西側には「HAIR SALON 一心軒」があります。


  金目川を渡る観音橋の手前を金目川に沿って東に行くと光明寺の入口があります。↓
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↑ 金目山光明寺の入口と仁王門です。
左の石柱には「金目山 光明寺」、右の石柱には「坂東第七番」、左手前の石柱には「平塚八景 金目川と観音堂」と書かれており、左の説明書きのボードには「平塚八景 金目川と観音堂」についての説明が書かれています。

  山門の手前に腰くらいの高さの石柱があって上の方に回転する輪がありますが、これは何かというと、
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↑ 「摩尼車(マニぐるま)」らしい。

  金目山 光明寺は、『古寺をめぐる50 東日本の霊場めぐり』(2008.2.5.小学館)の「坂東三十三観音霊場」には、
《 道儀(どうぎ)上人が観音像を祀り、のちに行基がその像を自刻の聖観音像の胎内に納め、「お腹籠り観音」として安産祈願の信仰を集める。本堂は室町時代の再建。》
と書かれており、祀られている観音像は聖観音菩薩、光明寺の宗派は天台宗、住所は平塚市南金目896 と出ている。
週刊 古寺を巡る 50号(2008/2/5) 東日本の霊場めぐり 豊かな自然と歴史をもつ多彩な東国巡礼 (小学館ウイークリーブック) - 小学館
週刊 古寺を巡る 50号(2008/2/5) 東日本の霊場めぐり 豊かな自然と歴史をもつ多彩な東国巡礼 (小学館ウイークリーブック) - 小学館

  「平塚八景」のひとつとして選定されている「金目側と観音堂」だが、観音堂が川のすぐそばにあるわけではない。なぜ、街道の側から入らずに街道とは逆の川の方から入るようになっているのか・・というと、金目川が南、県道62号(平塚秦野線)は北側なので南側から入るようになっているのでしょう。

  たしかに、金目川(かなめがわ)はなかなかきれい。↓
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↑ 観音橋の北側から見た金目川の下流側(東側)。
もっとも、市街地だから川の両側にも住宅は並んでいる。

  [第969回]《SeeSaaブログへの移行の御挨拶と平塚市南金目より見た富士山。》https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/495645900.html にも写真を掲載したが、
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↑ 観音橋(かんのんばし)の南側から見た金目川(かなめがわ)の上流側。

  観音橋の北側から上流側の対岸(南側)を見ると、川の向こうに富士山が見えます。
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( 神奈川県平塚市南金目 の 金目川にかかる観音橋付近より撮影。手前の川が金目川〔かなめがわ〕)
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↑ 富士山の左上の部分に煙があがっているかのように見えるものがありますが、これは残念ながら撮影時にカメラのレンズに汚れがついていたことによるもので、富士山の中腹から煙があがっているわけではない。
  一番下の写真はデジカメの拡大機能を使用して撮影しており、平塚市南金目の観音橋付近から肉眼でも富士山は見えますが、肉眼でここまで大きく見えるというわけではありません。

  「平塚八景」として「金目川と観音堂」が選ばれているのですが、川に近い場所にあるのは光明寺の仁王門で仁王門をくぐって境内に入った正面に観音堂があります。
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↑ 金目山光明寺の観音堂(観世音本堂)(神奈川県登録有形文化財)です。幟には「南無観世音菩薩」と書かれています。
  観音堂と金目川が一緒に写るように写真を撮ろうと努力したのですが、
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↑ 観音橋の南側から観音橋と橋の北側にある金目山 光明寺を見たもので、右手前の門が「仁王門」(平塚市登録有形文化財)、左奥が「観世音本堂」(神奈川県登録有形文化財)、左手前の背の高い黄色に紅葉した木が「大いきょう」ですが、観音橋と観音堂と金目川の堤の草が生えている部分が一緒に写るように写真を撮ることはできましたが、残念ながら金目川の水面と観音堂が一緒に写るように撮ることはできませんでした。
  もしかして「金目川と観音堂」は、「金目川越しに見える観音堂」という意味ではなくて、
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↑ 金目川 と
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↑ 観音堂 でしょうか。

  山と渓谷社 大阪支局編集『歩く旅シリーズ古寺巡礼 坂東三十三ヵ所を歩く』(2003.5.山と渓谷社)によると、
《 ・・『光明寺縁起』によれば、大宝2年(702年)、金目川が相模湾に注ぐ現在の大磯町小磯の浜で、潮汲みの海女が桶に入った金像を我が家に持ち帰ったところ、行脚の僧が訪ねてきて、「これこそ聖徳太子御作の観音像である」と言って立ち去ったという。
  光明寺の草創は海女がその観音像を我が家で祀ったのが始まりとされている。
  後に道儀(どうぎ)上人が一宇を建立し30年後の天平年間(729~49)になり行基(ぎょうぎ)が五尺九寸(1.7メートル)の観音像を刻んで、その胎内に金像を納めたため「お腹籠り観音」となった。光明寺は源頼朝はじめ将軍家が帰依し、寺領を寄進したので大いに栄えたという。》
《 源頼朝夫人の政子が実朝出産のとき安産を祈願した観音さまで、将軍家の帰依も篤く、天台密教道場として栄えてきた。・・》
と書かれており、
《 観音堂明応年間(1492~1501)の建立。開口七間、奥行き八間、宝形造り平塚最古の建造物である。「お腹籠り観音」を宿した聖観世音像は内陣の厨子の中に納められている。》ということで、普段は行っても、その聖観世音像は見ることはできない。
《 棟の両端に鯱がのっている厨子は、入母屋造の一間厨子という室町時代末期の唐様で、国の重要文化財に指定されている。また前立観音像も国の重文に指定され、優し気な表情で参拝者を迎えてくれる。》というが、よくわからなかった。
《 内陣には室町時代の作と伝えられる梵鐘も納められ、南北朝の歴史を証する資料として歴史家の関心を集めている。》

  《 江戸時代の元禄年間(1688~1704)に慶賀(けいが)和尚によって中興され、前を流れる金目川の幾度もの洪水や兵火を里の人たちと守り続けてきたという。》
《 本尊の聖観音開帳は60年に一度で次回は2034年。前立観音は1月18日、8月9・18日に拝礼できる。》ということらしい。
坂東三十三カ所を歩く (歩く旅シリーズ 古寺巡礼) - 順一, 峰, 織美, 入江, 武仁, 芦沢
坂東三十三カ所を歩く (歩く旅シリーズ 古寺巡礼) - 順一, 峰, 織美, 入江, 武仁, 芦沢

  次回https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/498394165.html は、仁王門をくぐり、境内に入ります。

※ 坂東33観音霊場HP 第7番光明寺 https://bandou.gr.jp/temple/%e9%87%91%e7%9b%ae%e5%b1%b1-%e5%85%89%e6%98%8e%e5%af%ba%ef%bc%88%e9%87%91%e7%9b%ae%e8%a6%b3%e9%9f%b3%ef%bc%89/
ウィキペディアー光明寺(平塚市)https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%89%E6%98%8E%E5%AF%BA_(%E5%B9%B3%E5%A1%9A%E5%B8%82)
平塚市HP 光明寺 https://www.city.hiratsuka.kanagawa.jp/kyoiku/page83_00012.html
平塚市HP 光明寺銅鐘 https://www.city.hiratsuka.kanagawa.jp/bunka/page-c_01250.html
 〃 光明寺観音堂(本堂) https://www.city.hiratsuka.kanagawa.jp/bunka/page-c_01252.html
平塚市観光協会HP 平塚八景 金目川と観音堂 https://www.hiratsuka-kankou.com/spot/nanakoku-copy.html

  (2023.3.1.)

☆ 坂東33観音霊場第7番 金目山光明寺(かなめざん こうみょうじ)
1.「秦野中井」I.C.より金目山光明寺へ。仁王門・摩尼車、金目川と観音堂。観音橋手前より見える富士山。〔今回〕
2.仁王門から手水舎・鐘楼・黄色に紅葉した大イチョウ・観世音本堂・観音像と「つりがね最中」https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/498394165.html
3.大聖歓喜天を祀る歓喜堂 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/498407897.html
4.文殊普賢堂・水琴窟・阿弥陀堂。光明寺から「平塚」I.C.より小田原厚木道路へ。自宅を出て戻るまでが巡礼。一日一寺もしくは一日一社が基本。「さんたんたる鮟鱇」になりたくない。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/498427569.html
● [第969回]SeeSaaブログへの移行の御挨拶と平塚市南金目より見た富士山。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/495645900.html

県別マップル 神奈川県道路地図 (県別マップル 14) - 昭文社 地図 編集部
県別マップル 神奈川県道路地図 (県別マップル 14) - 昭文社 地図 編集部

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