瀧安寺と鳳凰閣【4/13】「森秀次君之像」・野村泊月句碑・昆虫館・延命地蔵?より瀧安寺鳥居まで

[第982回]
  阪急箕面線「箕面(みのお)」駅から滝道を進み、左に「スパーガーデン」へ登るエレベーター・取水場、右に河鹿荘を通り過ぎ、右手の競艇屋のじいさんが競艇ですって首くくって母親を泣かせた親不孝者の男のカネで建立したのか? という「わしは親孝行やねんぞお」「わしを親孝行なお方と言うてほめろよお」の像を「ちっぽけな野郎だなあ」と心の中で軽蔑しながら通り過ぎ、右手に橋本亭を見て通り過ぎ、聖天宮西江寺(しょうてんぐう さいこうじ)の方から降りてきた道と合流して、一の橋で箕面川を渡り、山側への道と分かれて箕面川沿いの道を進んで、右手に梅屋敷があるところを過ぎて、箕面川がカーブしている所の夫婦橋の所を2022年11月下旬においては夫婦橋を通るルートは箕面駅方面行きで、川沿いに曲がる道が箕面大滝や瀧安寺の方に進む経路なのでそちらを進みます。
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さらに行くと、
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↑ 左手(山側)に「森秀次君の像」
「故 従六位 勲四等 森秀次君之像 浜口雄幸書」と書かれている。
  ここで多くの人間が思うのが「森秀次君」て誰やねん? てことです。
だいたいねえ、銅像というのは全身像にしても胸像にしても、たか~い台座の上にふんぞり返った姿で乗ってる人と、「普通の人間と同じ大きさで」「普通の人間と同じ高さで」「誰もがすぐそばまで行くことができる場所に」像を設けられる人とでは後者の方が価値がある人が多いのです。私が今までに見た後者の方の像というと、1980年代に東京都三田の慶応大学の構内、槙文彦設計の三田新図書館の北側におられた福沢諭吉の胸像、それに2000年前後に見た、栃木県佐野市の佐野市郷土博物館の前に立っておられた義人 田中正造翁の像、それに2000年にロシア連邦のイルクーツク市の公園で見たカール=マルクスの胸像。これらの人は多くの人間が「名前くらい知っている」ことが多い。それに対して、首が痛くなるくらいに上を見あげた位置にふんぞり返って立っている像をたか~い台座の上に設けられる人というのは、「その人、誰やねん?」という人が多い。何年か前、京都大学の時計台記念館の前に行ったところ、記念館の前に人間の背よりも高い台座の上に何体もの胸像が並んでいて、誰やねん、このおっさんどもはと思ってよく見ようとしたが見ようとしても首が痛くなるくらいに高い場所に鎮座しておられるので、そのうち、もういいや・・て気になったが、それらは誰だったのかというと「歴代総長」の像だったらしい。こういうのを「祭り上げの大技」というのか・・と思った。要するに「邪魔だから上の方にあげてる」てやつだ。京都大学は昔から「アカデミックな学風」とか「反骨の学風」とか言ってそれにあこがれる人が多い大学だが、そのわりには首が痛くなるくらいに上をみないといけないような高い台座の上に「歴代総長の胸像」が鎮座しておられた( 一一)
   福沢諭吉の胸像は「『天は人の上に人を造らずと言えり』と『学問のすすめ』で述べた福沢諭吉の像だから、だから、『普通の人間と同じ大きさで』『普通の人間と同じ高さの位置に』『誰もがすぐそばまで行くことができる場所に』設けられている」ということだったが、10年ほど前に慶應大学の三田キャンパスに行ったところ、大きさは変わらないが、「普通の人間が通る通路より高い位置に」「普通の人間がそばまで行くことができない生垣の内側に」移転されてしまっていた。おそらく、福沢諭吉の著作も伝記もよむことなく、自分たちは慶應義塾の内部の人間だから「福沢精神」を身に着けているという信仰を持っている人たちが移動させたのであろう。悲しい・哀しいことだ。さらに、「慶應義塾新聞」だったか無料で配布されている新聞に掲載されていたように記憶しているのだが、日吉には新図書館の前に、図書館に入るには二礼二拍手一礼して通らないと入れない場所に「普通の人間よりも中途半端に大きい」「普通の人間よりちょっとだけ高い位置」に設けられた福沢諭吉像という悪趣味な設け方の像が造られてしまったのだが、「この像に肘をついたり足をかけたりすると留年すると言われています」などと書かれていた。愚かな人間がそんな話を広めようとしているのでしょう。福沢諭吉は子供の頃、兄が家で習字の練習をしていた時に、反故(ほご)という書き損じの紙の上をまたいで通ったところ、兄から「おまえは今、いったい何をした」と激しく怒られたそうで、怒られたので謝ったけれども、何を怒られたのかというと、「おまえは殿様の名前を書いた紙をまたぐとは何事だあ」と怒られたらしかった。殿様の顔を踏みつけにしたとでもいうのならそれは良くないであろうけれども、単に名前を書いた紙でしかないものをまたいだくらいのことで、なんでそこまで怒られなければならないのかと不満だったと福沢諭吉は『福翁自伝』で述べている。別に、福沢諭吉の像に肘をつけとか足をかけろとか言うつもりはないが、たとえ肘をついたとしても足をかけたとしても、だから留年させてやろうとか、福沢諭吉という人はそんなことを思うようなみみっちい人ではないと思うのだ。もしも、あなたの像が造られたとして、あなたの息子なり娘なりがあなたの像に肘をついたとか足をかけたとして、あなたは自分の息子なり娘なりを留年させてやろうとか考えるだろうか。福沢諭吉という人はそんなみみっちいことを考える人ではなかったと私は思うのだ。ところが「我々はおまえら(慶應義塾の)外部の者とは違って福沢精神というものを身につけているんだ」とギャースカぎゃーすかギャースカ言わなきゃおれない症候群の人たち・・というのは、こういうしょーもないことを言いたがるのだ。まったくつくづく、ちっぽけな野郎が多いなあ・・・とあきれる。うんざりする。う○こまみれのザリガニで、うんざり( 一一)
学問のすゝめ (講談社学術文庫) - 福沢 諭吉, 伊藤 正雄
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新訂 福翁自伝 (岩波文庫) - 福沢 諭吉, 富田 正文
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  で、森秀次て誰なんだというと、《ウィキペディアー森秀次》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A3%AE%E7%A7%80%E6%AC%A1 によると、「もり しゅうじ」と読むらしく、1855年11月1日(安政2年9月22日)- 1926年(大正15年)9月9日、「嫌でごわす(1858)とムラビヨフ」アイグン(愛琿)条約の1858年の3年前に生まれて、「幾人見つかる(1923)、関東大震災」関東大震災の1923年の3年後、「ひどく不合理(1925)、治安維持法制定」治安維持法制定の1925年の1年後に70歳で他界した人で、大阪府議会議員・衆議院議員だったらしい。「箕面公園」を自然公園として制度化する際に貢献した人だとか、インターネット上のどこかで見たように思ったのだが、どうも、最初のネタ元らしいものを見つけることができないが、生まれたのは大阪府南部の和泉市だけれども、箕面市の西隣の池田市の森家に養子に迎えられた、箕面市の西隣の池田市の人だったということと、「箕面公園」として整備される際に貢献した人だということでここに像があるらしい。少なくとも「わしは親孝行やねんぞお」「わしを親孝行なお方やと言うてほめろよお」の像よりはまともな像だろう・・けれども、この人は平民の出身で部落差別に対して憤慨したという人だったらしいので、それから考えれば、何も、ふんぞりかえったような姿勢の像にしなくてもよさそうにも思えるのだが、こういう像になっている。
  「故 従六位 勲四等 森秀次君之像 浜口雄幸書」という文字を書いたという浜口雄幸は中学校の「歴史」・高校の「日本史」の教科書にも登場する有名人ですね。風貌から「ライオン宰相」と言われた人で、何をやったかよりも東京駅で右翼の愛国社 構成員から銃撃されて殺された人として有名ですね。
《 浜口雄幸 はまぐち おさち・・・1870~1931 大蔵省から政界に入り蔵相・内相をへて、1929年首相。30年 右翼の襲撃をうけ、負傷しまもなく死去。民政党総裁。》
《 浜口内閣・・・1929~31 民政党内閣。財政緊縮・産業合理化、金解禁を実施。協調外交を方針とし、ロンドン海軍軍縮条約調印。統帥権干犯問題で首相が右翼に狙撃され、負傷。総辞職。》
( 全国歴史教育研究協議会編『新版 日本史用語集』1975. 山川出版社)
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  海軍軍縮会議は1930年1月から日、英、仏、米、伊五ヵ国代表を集めてロンドンで開かれ、日本からは若槻礼次郎前首相、財部 彪(たからべ たけし)海相らが全権として出席した。海軍側では日本の主張を対米補助艦七割、大巡洋艦7割、潜水艦日米とも七万余トンと定め、この兵力が国防上最低限であると宣伝し、ほとんどの新聞もこれを支持していた。会議が開かれると、英米両国はワシントン条約同様に、英、米、日それぞれ五・五・三の比率を主張し、妥協は容易に成立しなかった。日本の要求が通れば、日本は西太平洋の制海権を獲得し、中国政策においても英米より優位にたつものと見たからであった。
  三月になると、日本の要求にかなり譲歩したアメリカとの妥協案が成立して、日本代表団から政府に訓令をあおいできた。この段階になると妥協案を支持する世論がたかまった。海軍省の主流は政府が承認するならやむをえないとしたが、加藤寛治軍令部長、末次信正同次長らは強硬に反対した。しかし閣議はこれをおしきって妥協案を承認した。軍縮にたいする世論の支持と総選挙の成果とに地震をもった浜口雄幸内閣は、ロンドン軍縮条約の調印に踏み切ったのである。
  ところが海軍軍令部では、軍令部長の同意をえないで兵力量を決定する軍縮条約に調印したことは、天皇の統帥権を干犯したものであると非難して、政府攻撃をはじめた(「統帥権干犯」のスローガンは右翼の北一輝が軍人にアピールするように案出したという)。
・・・・
  ・・このロンドン条約問題は、軍部や右翼が軍国主義をあおりたてる絶好の機会となった。ロンドン条約の批准をおわった直後の十一月、浜口首相は、この問題で煽動された右翼の一青年に狙撃され、重傷を負った。
(遠山茂樹・今井清一・藤原彰『昭和史 新版』1959.岩波新書)
昭和史 新版 (岩波新書) - 茂樹, 遠山, 彰, 藤原, 清一, 今井
昭和史 新版 (岩波新書) - 茂樹, 遠山, 彰, 藤原, 清一, 今井
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  浜口内閣はこのように決して軍備をおろそかにはしなかったが、しかも独占資本の利害を第一にした。そのことに軍部は深刻な不満をもった。ことに幣原外交の対中国政策が、前内閣のろこつな武力干渉政策を改めたばかりでなく、1930年ロンドンで開かれた英・米・日・仏・伊五ヵ国の海軍軍縮会議で、政府が英米に妥協し大型巡洋艦の対米七割保有の主張を改めて六割としたことに、海軍軍令部をはじめ軍部は猛反対した。彼らは兵力量を政府がきめるのは天皇の統帥権を犯すと攻撃し、枢密院の大勢もこれに同調した。しかし政府は、一般国民および財界の強い支持をうけて、断然軍部と枢密院に反撃し、この条約を成立させた。兵力量を政府の一存で決定したのは、後にも先にもこのときだけで、金融独占資本の内閣は天皇制の牙城軍部をおさえるかのようであった。これより海軍も陸軍も政党を憎悪した。1930年11月、浜口首相は軍部に煽動された右翼青年に狙撃されて重傷を負い、ついで死亡した。この事件は、軍部の政党と政党内閣にたいする総反攻の先駆であり、新たな中国侵略の前兆であった。
  (井上清『日本の歴史 下』1966.岩波新書 )
日本の歴史〈下〉 (岩波新書 青版 606) - 清, 井上
日本の歴史〈下〉 (岩波新書 青版 606) - 清, 井上
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  「森秀次君之像」を過ぎてさらに歩く。
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  ↓ ↓ ↓
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  ↓ ↓ ↓
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  「野村泊月 句碑」が左側(山側)にあるが、↓
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残念ながら、石碑の方は何が書いてあるのか読めない。
野村 泊月て誰やねん? ・・というと、《ウィキペディアー野村泊月》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8E%E6%9D%91%E6%B3%8A%E6%9C%88 によると、
《 野村 泊月(のむら はくげつ 1882年6月23日 - 1961年2月13日)は、兵庫県出身の俳人。》だそうだ。
「岩魚(いわな)ごっそり(1875)、千島樺太交換条約」千島樺太交換条約の1875年の7年後、「一躍、清(1894)を攻撃す」日清戦争の1894年の12年前に生まれて、東京オリンピック・東海道新幹線開通・名神高速道路開通の1964年の3年前に69歳で他界した人のようです。

  森秀次(もり しゅうじ)さん・野村泊月(のむら はくげつ)さんは申し訳ないけれども、今現在はそれほど知名度が高い人ではない。「誰もが名前くらいは知ってる人」としては、野口英世像がありますが、これは瀧安寺よりも箕面大滝の側にあり、今回はそこまでは行きませんでした。箕面大滝までは箕面駅から片道2㎞少しあるので、そこまで歩くのはちょっとという人の場合、瀧安寺までで戻るか、もう少し行こうということなら、野口英世像まで行って戻るということでもいいかもしれません。
※ 大阪府衛箕面公園散策マップ https://www.mino-park.jp/e28216.html
 箕面市観光協会 ぷらっと箕面さんぽ 箕面・滝道エリア https://minohkankou.net/sights/area/minohtakimichi/


  野村泊月句碑 のすぐ向うに、↓
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箕面公園昆虫館 https://www.mino-konchu.jp/ がある。
子供の頃、1960年代、ここに入館したことがある。子供にとって、特に男の子にとっては昆虫館は興味深いものだったが、箕面滝道でも瀧安寺付近までは駅からも近くて比較的行きやすい場所で、その後も何度も前は通ったが、また入館してみたいと思いながらそれ以来入館することなく今日に至っている。

  昆虫館を過ぎたあたりに、↓
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↑ 「滝道延命・・」と書かれた木札が立っている。お地蔵さんだと思っていたが、「滝道延命」の次に何と書かれているのか、次回、行った時には確認してきたい。

  ここを過ぎると、
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箕面山瀧安寺の鳥居の所に出ます。 一の橋の北側で箕面川沿いの道と分かれて山側に進んだ道とはこのあたりで合流します。
  箕面山瀧安寺(みのおさん りゅうあんじ)は、もともと、役行者(えんのぎょうじゃ。役小角 えんのおづぬ)が箕面大滝で修行をして、弁財天の助けを得て悟りを開いたというお話があり、役行者が箕面大滝のそばで修行を積んだという建物が由来だったが、地震だかで箕面大滝の下のあたりが崩落することがあった際に、瀧安寺はそれよりも下流、箕面駅に近い現在地に移転したというものらしい。
 《ウィキペディアー瀧安寺》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%80%A7%E5%AE%89%E5%AF%BA では、本山修験宗 と書かれていますが、何年か前は天台宗と書かれていたように記憶しています。これは、明治維新の際に修験道というものが認められず、そのため、修験道は天台宗か真言宗に属して、天台宗か真言宗の中で存在したことによるのではないでしょうか。 瀧安寺は弁財天を祀る寺ですが、箕面には瀧安寺よりも箕面駅に近い場所に大聖歓喜天を祀る聖天宮西江寺(しょうてんぐう さいこうじ)がありますが、西江寺も大聖歓喜天を祀る修験道系の寺だったようですが今は高野山真言宗に属しているようですが、瀧安寺は現在は本山修験宗らしい。
  「日本四弁天のひとつ」と瀧安寺では言っているのですが、他の3つはというと、広島県宮島の厳島神社・滋賀県の琵琶湖の竹生島・神奈川県の江ノ島の江ノ島神社と大阪府箕面市の瀧安寺で「日本四弁天」らしいのですが、全国的知名度としては宮島が一番知名度があり、関西では次いで竹生島、東京では江ノ島が知名度が高く、箕面公園の知名度は関西では高くても瀧安寺は他の3つに比べると全国的知名度は低いように思いますが、弁財天との関わりの由来としては、むしろ、箕面山瀧安寺こそ弁財天とゆかりのある寺だと言えるのではないでしょうか。
※ 西江寺については
⇒[第476回]《紅葉の箕面 西江寺(さいこうじ)(箕面聖天) と 摂社 天満大自在天神(大阪府箕面市)参拝》https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201611article_5.html
「哲建ルンバ」《箕面山聖天宮西江寺へ行ってきました。~建築探訪・建築巡礼第4回〔引越掲載〕》https://philoarchi2212.seesaa.net/article/201101article_29.html
※ 瀧安寺と箕面大滝について、
⇒[哲建ルンバ]《瀧安寺と箕面大滝に行ってきました。~建築探訪・建築巡礼 第2回 〔引越掲載〕》https://philoarchi2212.seesaa.net/article/201101article_25.html
※ 箕面山瀧安寺HP https://www.ryuanji.org/
ウィキペディアー瀧安寺 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%80%A7%E5%AE%89%E5%AF%BA
※ 聖天宮 西江寺HP https://www.saikouji-minoh.com/
ウィキペディアー西江寺(箕面市) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E6%B1%9F%E5%AF%BA_(%E7%AE%95%E9%9D%A2%E5%B8%82)
  阪急電鉄と阪急宝塚線・箕面線沿線の寺社で設けている「西国七福神」で瀧安寺は弁財天、西江寺は大黒天の札所になっている。
  本山修験宗とは、《ウィキペディアー本山修験宗》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E5%B1%B1%E4%BF%AE%E9%A8%93%E5%AE%97 を見ると、《天台宗の流れをくむ修験道の一派。聖護院を総本山とする。》と書かれている。聖護院というと八ッ橋・・・を思い浮かべるが、聖護院は京都にある修験宗の寺であり、決して八ッ橋を作っているお菓子のメーカーの名前というわけではない。
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  箕面駅から箕面滝道を歩みながら述べてきましたが、これは寺社の参拝というのは、「寺社の境内にいる間だけが参拝ではなく、自宅の門を出てから自宅に戻って来るまでの間が参拝」という考え方があるということもありますが、寺社の敷地というのはどこまでかというと、最近造られた寺社は別として昔からの寺社の敷地の範囲というのは必ずしも明確ではないところがあり、関裕二氏が修験道というのは、どうも、歴史上、「負ける側」に加担していることが多いと述べていたが、瀧安寺の場合も南北朝の争乱の時は南朝側につき、織田信長が攻めてきた時も反織田信長の側に立ち、幕末においても佐幕側についたらしく、その結果、明治維新後は瀧安寺の範囲はどこまでかという際に狭めに規定されたようなところがあり、役行者が箕面大滝で修行をしたといっても、だから、箕面大滝は役行者の所有物だったのかというとそうではないとしても、それなら瀧安寺の敷地はどこまでなのかといった時、箕面大滝との縁は無視して考えるわけにはいかないし、そもそも、修験道とはどういうものかというと、瀧安寺のホームページの「起源と歴史」https://www.ryuanji.org/history には《 我々、日常生活の中で、正しくない言動や考えをしがちですが、不運の原因となります。それで精霊のこもる山に入って祓い清め、健全な生活をおくろうとするものです。》と書かれているように、もとより、修験道の瀧安寺は箕面公園と一体となってのものですから、瀧安寺の境内とされている区域の外側とも無縁ではないわけです。それゆえ、今回も箕面駅から述べてきました。
  瀧安寺の敷地は幕末の争乱の時に「負ける側」についたことから狭めに規定されたということもあるかもしれませんが、箕面には瀧安寺の他に聖天宮西江寺もあり、西江寺は大聖歓喜天が出現して箕面の山を守ると宣言したといった話もあるわけで、箕面の山とゆかりの寺は瀧安寺だけではないということもあるかもしれません。
  昔、西江寺の方の「お祭り」に行ったところ、天狗だか河童だかが登場して竹の棒みたいので子供の頭を叩いてまわり、子供は逃げまわっていたのでしたが、叩かれると頭が良くなるか風ひかないか何かそういうお話があったみたいですが、子供の立場からすれば怖くて嫌でした。瀧安寺の方はそれはないようで、その点は「平和的」で安心して行けたのですが、西江寺で叩いてまわっていた人だって、そういう役だからやっていたのでしょうけれども、それでも、申し訳ないけれども、ああいうのは私はあんまり好きじゃないですね。
  瀧安寺にしても西江寺にしても明治維新の際に敷地は狭めに設定されて、多くの土地は「箕面公園」とされたようですが、他方で「勝つ側」に加担することで広めに設定された寺社も日本全国にはあるようです。静岡県浜松市北区の深奥山方広寺は「そんな所までこの寺の敷地じゃないだろう」みたいな所まで寺の敷地になっており、東海地域にはけっこう企業がありながら、本山となっている寺というと京都や奈良、もしくは鎌倉とかにある場合が多いことから、京都・奈良・鎌倉とかの本山に企業からもらったカネを上納金として納めるのが嫌だからか、南禅寺派だったものを離脱して臨済宗方広寺派を名乗り、企業からカネもらうことから「カネだけはあり余ってる」みたいで山の中に最近造られた建物や石仏・石碑がドカンと一発あるのですが、浜松市の深奥山方広寺の態度・姿勢というのは「仏つくって魂入れず」みたいな感じでいいとは思えませんね・・というより、あれは「寺」の格好を装っているけれども、実質的に寺ではない、寺とは言えないと私は思っています。

  次回 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/498680952.html 、箕面山瀧安寺を鳥居から山門、観音堂と巡ります。

  (2023.3.21.)

☆ 箕面山瀧安寺と鳳凰閣1~13
1.箕面駅から一の橋まで。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/498565198.html
2.笹川良一「孝養の像」のばかばかしさ。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/498624594.html
3.一の橋より梅屋敷。箕面川がカーブしている所(夫婦橋休憩所)まで https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/498642163.html
4.「森秀次君之像」・野村泊月句碑・昆虫館・延命地蔵?より瀧安寺鳥居まで〔今回〕
5.山門・手水舎・観音堂・法筺堂。山門の前から見える鳳凰閣・圓満殿 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/498680952.html
6.大護摩道場・五所明神社 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/498712914.html
7.弁天堂・大黒堂・行者堂・白龍大明神・箕面山神社・熊野三所権現・妙音天。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/498747248.html
8.瑞雲橋を渡り、鳳凰閣・圓満殿(客殿)のエリアへ。圓満殿外観と「岩本坊跡」https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/498792510.html
9.圓満殿(客殿)。松の間・鷲の間・貴人の間。畳敷の踏込式・「敷込袋」の床脇https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/498821055.html
10.圓満殿。「玉座」のある間と床の間・床脇・付書院。龍虎の間。圓満殿から見た箕面川西岸地域。 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/498915742.html
11.屋根上に鳳凰がいる鳳凰閣、2階のみ着色が周囲と調和。西・南・東より見て https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/498951322.html
12.東・南から見た鳳凰閣、鳳凰閣内部、三間続きの和室と格天井。北面全面の床の間。鳳凰閣和室から紅葉とともに見る箕面川西岸側はきれい。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/499187585.html
13.箕面川渓谷を表現した枯山水。箕面川と紅葉。浜口雄幸狙撃と安倍晋三銃撃は意味合いが違う。統一教会・倫理研究所などの迷惑な「宗教右翼」を何とかしてくれ。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/499217764.html

☆ 箕面山 聖天宮 西江寺1~4
1.箕面駅前、「日本最初大聖歓喜天出現霊場」碑から西江寺の西側の坂道まで。正反対の性質の心療内科と「精神科」を同時に掲げる「クリニック」の矛盾。ニーチェなどが学ぶべきだという心理学と小此木啓吾らのエセ心理学とは別物。》https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/499514748.html
2.中ノ坂 を登り西江寺まで。箕面の山の地主神の白髪の翁・大聖歓喜天と役行者との出会い。 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/499547852.html
3.石段を登り、右手に天満天神・吉野・吉竹・金毘羅の祠。登り切った正面に大黒堂。「摂津国神宮寺」が神仏分離で西江寺に名称変更。豊島郡片手村から箕面村へ。外界世俗から密教的世界への障害を守護する威力神として大聖歓喜天が祀られる。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/499567214.html
4.大黒堂前から聖天堂。箕面山荘前への山道。弁財天堂。白龍歓喜天。中ノ坂からの眺望。強制労働の「患者」の労働を搾取して、他方で江崎グリコ(株)から内職代を取得する「医者」「病院」は「一粒で二度おいしい」、そんな「江崎グリコを守れ」と主張する者は正義なのか?https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/499590837.html

☆ 箕面山 瀧安寺と箕面大滝について、
⇒[哲建ルンバ]《瀧安寺と箕面大滝に行ってきました。~建築探訪・建築巡礼 第2回 〔引越掲載〕》https://philoarchi2212.seesaa.net/article/201101article_25.html 

☆ 聖天宮 西江寺については
⇒[第476回]《紅葉の箕面 西江寺(さいこうじ)(箕面聖天) と 摂社 天満大自在天神(大阪府箕面市)参拝》https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201611article_5.html
「哲建ルンバ」《箕面山聖天宮西江寺へ行ってきました。~建築探訪・建築巡礼第4回〔引越掲載〕》https://philoarchi2212.seesaa.net/article/201101article_29.html   

大阪府の歴史散歩 上 大阪市・豊能・三島 (歴史散歩 27) - 大阪府の歴史散歩編集委員会
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