瀧安寺と鳳凰閣【5/13】鳥居をくぐり、山門・手水舎・観音堂・法筺堂。山門の前から見える鳳凰閣・圓満殿。如意輪観音とは。『水滸伝』登場人物がいる会社。
[第983回]
箕面駅より「スパーガーデン」のエレベーター・取水場・河鹿荘・「わしは親孝行やねんぞお」「わしみたいに親孝行せえよお」「大きなお世話じゃ」の像・西江寺の方から来た道と合流し一の橋、
一の橋より川沿いの道と山側の道が分岐し、梅屋敷を経て夫婦橋、
夫婦橋より「森秀次君之像」・「野村泊月句碑」・昆虫館・延命地蔵?を過ぎて瀧安寺の鳥居に至ります。

鳥居をくぐり右手(東側)を見ると、箕面川の向こうに

↑ 鳳凰閣と圓満殿(客殿)が見えます。

↑ 武田五一(1872ー1938)設計の国登録有形文化財指定の鳳凰閣 です。
2階の屋根の上にいるのが鳳凰なのでしょうか。この建物がいいと思うのは、周囲の景観に溶け込むこみ調和することを配慮して作られていること、特に鳳凰閣の2階の部分にだけ朱塗りの部分を設けてアクセントとしているが、全体を朱塗りにしてしまうよりも2階の部分に限定した方が、むしろ、周囲の景観に調和することが考えられている。それも、紅葉の季節には周囲にも「紅色」の葉があることから、あえて全体を朱塗りにしない方が調和することが配慮されているという点があげられると思います。
※ ウィキペディアー武田五一 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E7%94%B0%E4%BA%94%E4%B8%80
武田五一設計の建物では、重要文化財に指定されているものが1つ、国登録有形文化財に指定されているものが11あり、その11のうちの1つで、1917年のものらしい。 1917年というと「人、悔いなし(1917)、ロシア革命」ロシア革命があった年ですね。
武田五一設計の建物では、私が実際に足を運んで見たことがあるものとしては、同志社女子大学ジェームズ館・栄光館、円山公園(京都市)などがあります。肥後橋とか渡辺橋は間違いなくそこを通ったか前まで行ったことがあるはずですが、他の用事で言っているので、どういうものだったか記憶がはっきりしません。天王寺公園音楽堂も子供の頃にその付近に行ったことがあるはずですが記憶がはっきりしない。圓教寺(円教寺、えんぎょうじ)摩尼殿の圓教寺とは兵庫県姫路市の書写山円教寺のことで、書写山円教寺には1960年代後半、小学校4年の時に行ったので小学生でも4年になれば、けっこう関心を持って見ていたはずなのですが残念ながらどういうものだったか記憶がはっきりしません。同志社女子大のジェームズ館・栄光館は「そんなもんか」くらいの印象でしたが、箕面市の瀧安時の鳳凰閣は、これは大きさは大きくありませんが、なかなかよくできていると思います。大きいものがいいというわけではないのです。ブルーノ=タウトが『建築とは何か』(鹿島出版会)の中で、高層建築の愚かさとして、「巨大さ」ということが何よりも大きな意味合いを持っているような建築というものは、建築としては評価できない旨を述べていますが、実際そうでしょう。小さくてもいいものはいいのです。ブルーノ=タウトが群馬県高崎市にいた時に住んでいたという洗心亭が達磨寺の境内にあり、2000年前後の頃、見に行ったのですが、大きくないし、特に豪華でもない建物ですが、たしかにブルーノ=タウトが好みそうな建物でした。

建築とは何か (SD選書 95) - ブルーノ・タウト, 篠田 英雄
『京都・大阪・神戸 名建築ガイドマップ』(2011.10.31. エクスナレッジ)の著者の円満字洋介さんは武田五一がけっこう好きみたいですが、この本には箕面界隈についての著述はないようです。「建築家」と称する人や建築学科教授といった人には、もちろん人にもよるのですが、どうも、「建築家」とか建築学科教授とかいった人が「名建築」と指定したものが名建築だとしてしまう傾向があり、そういう権威主義的な態度というのは私はあまりいいとは思っていません。この本の題名は、もちろん、あくまで円満字洋介さんが自分が名建築だと考えたものを述べていますという題名であり、他の人が他のものを「名建築」と思っても、もしくは円満字さんが「名建築」と判断したものを名建築と思わなかったとしても、それをいけないとは言っていないのですが、円満字さんがどうかにかかわらず、どうも、「建築家」業界の人というのは「建築家」とか建築学科教授といった人、および、そのエピゴウネンになりたい症候群の人には、そういった権威主義的態度の人が多いように思えて、その点はいいとは私は思えません。

権威と権力――いうことをきかせる原理・きく原理 (岩波新書 青版 C-36) - なだ いなだ

権威主義的人間―現代人の心にひそむファシズム (有斐閣選書 (697)) - 曽良中 清司
《 鳳凰閣は国の有形文化財に登録されており、著名な建築家、武田五一氏によって設計されました。平成30年(2018年)9月の台風21号により甚大な被害を受けました。》と瀧安寺HP の「境内案内図」https://www.ryuanji.org/map の「鳳凰閣」には書かれていますが、2018年の台風の時に被害を受けたというニュース記事を見たときには私もショックを受けましたが、その後、修復されたようです。
大阪府の歴史散歩編集委員会編『大阪府の歴史散歩 上(大阪市・豊能・三島)』(2007.9.18.山川出版社)には、
《 滝道に面した鳳凰閣(国登録有形文化財)は、昭和時代初期に建てられた重厚な建物である。》と書かれているが、私は「重厚な」という印象はない。 「昭和時代初期」という元号をもとにした表現のしかただと、「戦前の昭和」も「戦後しばらくの昭和」も「平成に近い昭和」も「昭和」としてひとくくりにされてしまうという欠点がある。井上清『日本の歴史 上・中・下』(岩波新書)では、基本的には「○世紀」の前半・中期・後半といった表現を使い、「昭和初期」というような表現は避けているが、これは何でも天皇を中心として動いているわけではないのに元号をもとに「昭和初期」といった表現をしてしまうと、天皇を中心として動いているものでないものまで天皇をもとに時代を規定することになってしまうからです。山川出版社は歴史についての書物を多く出版している出版社で、大阪府の歴史散歩編集委員会編『大阪府の歴史散歩 上(大阪市・豊能・三島)』(2007.9.18.山川出版社)は大阪府の府立高校・市立高校の先生9人と大学・短大の先生2人とで執筆された本のようですが、歴史を扱う教員ならば、そのあたりの認識があってもよさそうに思えます。1917年というとロシア革命の年で、第一次世界大戦の最中です。「20世紀前半」とか「戦前、第一次世界大戦の頃」くらいの表現の方がいいのではないかと思います。最近、インターネット上でも「昭和」という言葉を「戦前の昭和」も「戦後しばらくの昭和」も「平成に近い昭和」もいっしょくたにして「昭和」と表現したものを見かけますが、適切な規定の仕方ではないでしょう。


↑ 鳳凰閣の右側(南側)に配置される圓満殿(客殿)です。 箕面川の対岸から(西側から)見ると建物が2つあるかのようにも見えますが、そうではなく、右側は圓満殿(客殿)の玄関の部分です。
瀧安寺HP の「境内案内図」https://www.ryuanji.org/map の「客殿」には《 西暦1699年(江戸期元禄12年)に行われた開祖役行者の1千年御遠忌に際し、全国から集まる修験者を迎えるため、本坊とともに建設されました。庫裏と合わせて円満殿とよばれています。》と出ています。 玄関部分が圓満殿と別のようになっているのは、もしかすると、玄関部分の右手にあった庫裏と玄関部分の左手の圓満殿との中央に玄関を設けて両方に内部で行き来できるようになっていたのでしょうか。
鳥居をくぐって右手は公園のようになっています。この場合、「公園」というのは国立公園・国定公園・県立自然公園のような意味合いでの「公園」ではなくて、遊具が置かれていて子供が遊べるようになっている「公園」です。
鳥居をくぐり直進すると、「山門」に至ります。↓

瀧安寺HP「境内案内図」https://www.ryuanji.org/map
「山門」には
《 文化六年(一八〇九年)に、京都御所より移築。総﨔造り。》
と書かれています。
大阪府の歴史散歩編集委員会編『大阪府の歴史散歩 上(大阪市・豊能・三島)』(2007.9.18.山川出版社)には、
《 この山門は、光格天皇が1809(文化6)年に京都御所から移築したものである。 》
と書かれている。

↑ 「瀧安寺」と書かれている。

《 山門をくぐると観音堂がある。本尊の木造如意輪観音像(国重要文化財)を中心に、弘法大師空海・智証大師円珍、念仏聖として有名な千観上人の諸像がならぶ。》と大阪府の歴史散歩編集委員会編『大阪府の歴史散歩 上(大阪市・豊能・三島)』(2007.9.18.山川出版社)には書かれており、山門の向こうに見えるのはその観音堂だが、瀧安寺HP の「境内案内図」https://www.ryuanji.org/map では石段の上に位置している弁天堂を「本堂 弁天堂」と記載しており、石段の下のエリアに観音堂があり、石段の上のエリアの突き当りに弁天堂があり、役小角が箕面滝で修行をして弁財天の助けを得て悟りを開いたというお話からすれば弁天堂の方が主ということになるが、寺として天台宗に所属していた時期もあり、そこから考えれば如意輪観音像を祀る観音堂が本堂という扱いになったのか。 瀧安寺HP の「起源と歴史」https://www.ryuanji.org/history の「日本最初にして最古の弁財天」には《 本尊は七福神の一神である弁財天で、財運の向上、芸能の上達を願い、一方、観音堂の主尊である如意輪観音には除災招福を求め年間を通じ参拝者で賑わっています。》と書かれており、瀧安寺としては基本的には観音堂の後ろの石段を登った上のエリアに配置されている弁天堂で祀られる弁財天が本尊ということなのでしょう。ほかの寺でも、かなり独立したと思われるお堂が2つ以上併存している寺がありますが、瀧安寺は石段の上のエリアのお堂と石段のすぐ下の大護摩道場とが修験道色が強い区域で、その手前の山門をくぐったあたりは観音堂を中心とした仏教の色彩が強い区域のようです。
※ 瀧安寺HP https://www.ryuanji.org/
瀧安寺HP 境内案内図 https://www.ryuanji.org/map

大阪府の歴史散歩 上 大阪市・豊能・三島 (歴史散歩 27) - 大阪府の歴史散歩編集委員会

↑ 手水舎と右側はお地蔵さんのようだ。


↑ 観音堂。

↑ (左)阿弥陀如来 (中央)如意輪観音
(右)智証大師 弘法大師 千観上人
と額に書かれています。
《 平成十四年度(2002年度)再建。主尊は如意輪観音。回向壇には阿弥陀如来を、祖師壇には平安期に当寺でご修行された空海、圓珍、千観の三上人を安置しています。》(瀧安寺HP「境内案内図」https://www.ryuanji.org/map )
《 本尊の木造如意輪観音坐像(国重要文化財)を中心に、弘法大師空海、智証(ちしょう)大師円珍(えんちん)、念仏聖(ひじり)として有名な千観上人(せんかんしょうにん)の諸像が並ぶ。》
( 大阪府の歴史散歩編集委員会編『大阪府の歴史散歩 上(大阪市・豊能・三島)』2007.9.18.山川出版社)
「回向壇」とは何だろう。「回向(えこう)」とは、《コトバンク 回向》https://kotobank.jp/word/%E5%9B%9E%E5%90%91-36336 「回向(読み)えこう 日本大百科全書(ニッポニカ) 「回向」の意味・わかりやすい解説」には、
《 仏教において、自己が仏道を修めた善い行為や功徳(くどく)を、すべての人々の悟りのために振り向けることをいう。
一般に、サンスクリット語パリナーマナーpariāmanāの訳とし、廻向とも書く。
大乗仏教では善行の結果が悟り(正覚(しょうがく))に向けられるためには、衆生(しゅじょう)に功徳を施し、ともに仏になることが強調された。
とくに浄土教では、念仏を唱え、浄土に思いを巡らして、往生を願うことを意味した。
回向には二つあり、自分の功徳を人々に振り向けて、ともに極楽浄土に往生しようと願うのを往相(おうそう)回向といい、ひとたび極楽浄土に生まれたものが、ふたたびこの世に還(かえ)って、人々を教化し、浄土を願うように振り向けることを還相(げんそう)回向という。
また、施しなどの回向が自分の亡き親属血縁に及ぶことを記した経典の記述などがあり、仏事法要を営んだ結果、その功徳が死者のその後の安穏(あんのん)をもたらし、仏道に向かわしめることをいうようになった。[石上善應]》
と書かれている。
白木利幸 監修:古川順弘・幣旗愛子・星飛雄馬編集『西国三十三所 観音巡礼の本』(2008.8.15.学習研究社) 白木利幸「さまざまな観音」には、
《 中国の天台大師智頭(ちず)(6世紀)は『魔訶止観(まかしかん)』のなかで、『請(しょう)観音経』の六字章陀羅尼(ろくじしょうだらに)を6つの観音にたとえ、それぞれを六道(ろくどう)(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天)に配した。そしてこの考えにもとづいて、日本では平安時代のなかば、六道救済の六観音が成立した。
この六観音のうち聖(しょう)観音・十一面観音・千手観音・馬頭観音・如意輪観音までは異説がないが、残る一尊を真言宗では准胝(じゅんてい)観音、天台宗では不空羂索(ふくうけんじゃく)観音とする。現在では双方を含めて七観音ということもある。》
とあり、如意輪(にょいりん)観音とは、
《 求める珍宝を思うままに出す如意宝珠と、煩悩を砕き破る法輪の働きを象徴した観音。六道の衆生(しゅじょう)の苦を抜き、利益(りやく)を与えることを本誓(ほんぜい)とするという。
奈良時代に造立されたのは二臂半跏(はんか)踏み下げ像で、西国第7番岡寺や第13番石山寺の本尊がこの様式をとる。https://blog.seesaa.jp/cms/upload/regist/input
平安初期に密教が伝来して以降は六臂坐像が主流となり、第1番青岸渡寺(せいがんとじ)、第14番園城寺(おんじょうじ)(三井寺 みいでら)、第27番圓教寺(えんきょうじ)などはこれに属す。
なお、第18番頂法寺(ちょうほうじ)については、江戸時代の資料では、お前立ち像は六臂で、秘仏本尊は二臂だとしている。》
と書かれている。
「八面六臂(はちめんろっぴ)」という言葉があるが、《goo 辞書 八面六臂 の意味・使い方》https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E5%85%AB%E9%9D%A2%E5%85%AD%E8%87%82/ の「八面六臂の解説 - 学研 四字熟語辞典 はちめんろっぴ【八面六臂】」には、
《 八つの顔と六本の腕(ひじ)で、一人で数人分もの活躍をすること。また、いろいろな方面できわだった活躍をすること。》
と書かれている。
六臂とは腕が六本、二臂とは腕が二本という意味のようだ。
『水滸伝』には「八臂哪吒(はっぴなた) 項 充(こう じゅう)」なる人物が登場するが、《飛刀の名手で背に24本の飛刀を挿んでいたことに由来する。また、哪吒とは民間で信仰されていた毘沙門天の子で、戦闘時6本の腕と、3つの頭を現す童神であるが、さらに2本の腕を加えた八臂と呼ばれた。》(《ウィキペディアー項 充(こう じゅう)》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A0%85%E5%85%85 )とあり、「八臂(はっぴ)」は8本の腕を意味するようだ。
「半跏踏み下げ像」とは、《仏像の坐り方について》http://www.taradou.com/?mode=f62 には
《 半跏踏み下げ像 半跏踏み下げ像とは台座に坐って右足を下ろし、右足の甲を左足の腿に乗せた形です。弥勒菩薩の座り方として有名で、如意輪観音にもみられます。この座法で右手を頬に当て、思いにふけっているような像を半跏思惟像(はんかしゆいぞう)といいます。》
と書かれています。
指導/高橋良和・画/加藤直『教育まんが かんのんさま』(大道社)に所収の高橋良和「観音さまのおはなし」には、
《 観音というお名前のほかに、観世音(かんぜおん)と申すこともありますし、あるいは観自在菩薩(かんじざいぼさつ)と申したり、もっとむずかしい御名だと、施無畏者(せむいしゃ)・大悲大慈王(だいひだいじおう)・救世菩薩(ぐせぼさつ)・普門菩薩(ふもんぼさつ)・蓮華手(れんげしゅ)など、いうのがあります。
こうしたお名前、その昔インドのことばを中国で訳したときのお名前でありますから、それをいろいろと中国のことばで訳したもので、時代や、その訳した人の解釈の異なりで、このように変わったのだといえます。
・・・
観音さまのことを観音菩薩(ぼさつ)と申しますが、菩薩という方は、仏さまにおなりにならない方をいうので、いつもわたくしたちのまわりにいて、苦しんでいる人間をすくってあげようと、手をさしのべてくださっている方なのであります。
そこで観音ということばですが、音を観ると書きます。また観世音ということばをよくみますと、世音(せおん)を観ると解釈されます。この世音というのは、世のなかの声、いいかえますと、人間の苦しみ、なやみなどという、世のなかの出来ごとをよく観るということで、この場合の観るという意味は、よく感じるとか、よく聴くということの意味になります。
でありますから、世のなかの苦しみをとり除くために、あたたかいお慈悲を垂れてくださるということなので、その苦しみをとり去る働きが、観音菩薩の働きであるといえましょう。
・・・ 》
《 観音さまは、大衆と結びつく働きから、ほかの仏さまや、菩薩さまのように、一つの名前では信仰する人が承知しなかったのです。
そこでいろいろな名前がつけられました。どれくらいその名前があるのかを記してみますと、
◇ 聖観音 この観音さまは、正観音ともいいます。・・・・
◇ 十一面観音
◇ 千手観音
◇ 馬頭観音 観音さまはみなやさしい顔でありますのに、この馬頭観音はこわい顔をしています。・・
◇ 如意輪観音 人間の苦を救うのはもちろんですが、出世の功徳をもっている観音さまで、普通一面六臂(ぴ)の姿が多いのです。顔が一つで、腕が六つあるということです。 それぞれの腕には、一つ一つの働きがあり、右足は立て膝で、左の足裏を踏んでいます。 このような姿は、如意輪観音さまだけであります。 この観音さまで名高いのは、大阪の観心寺、奈良の室生寺などがあります。観音さまの身体は金色で、髪は宝珠(たま)でかざっているのが特徴です。
◇ 不空羂索観音(ふくうけんざくかんのん)
◇ 准胝観音(じゅんていかんのん)
このほかに三十三観音さまといわれますが、これは観音さまが三十三の姿になってあらわれ、救済されることをあらわしたもので、西国三十三所という、観音さまの霊場ができたのもそれがためです。》
と書かれています。

教育まんが かんのんさま - 高橋良和
そういえば、白土三平の漫画に「観音の術」なる術を使う忍び(しのび)が登場する劇画があった。「くノ一の術」というものを使う忍びが対決する。男はいかなる剣術者であれ忍びであれ相手が女であると、つい油断をしてしまうので女の姿に化けて近づいて倒すというヤマトタケルみたいな術を使う者がいた。「女」という文字を「く」「ノ」「一」という3つに分けて「くノ一の術」として、それを得意とする術者の対決に勝った者は「俺の『くノ一の術』は天下無敵、最強よ」と誇るが、「くノ一の術」でも内容が異なり、女をたらしこんで意のままに動かしてねらう相手を殺させるという「たらしこみの術」という意味の「くの一の術」を使う忍びが登場し、「くぐつにした女がやられれば、また新たな女をつかまえて使えばよいだけのこと。男が女に化けるなんぞ、愚の骨頂よ。俺の『くノ一の術』こそ、天下無敵よ」と誇るが、そのうち、「よし、手ごろな女がおったわ。今度はあの娘をくぐつとして使ってやろう」と近づくが、その娘に「おまえの名は何と言う?」と尋ねると、「音(おと)」と答えるが、音が「これ」と男に食べさせた蜜柑はほかの蜜柑よりもおいしく、女をくぐつとしてあやつる「くノ一の術」を使う男は、その蜜柑なしでは生きていけなくなる。「蜜柑をくれえ」と音(おと)に頼むが、「その蜜柑ではだめでしょ。私の持っている蜜柑でないと。おまえが欲しいのはこれでしょ」と言って大麻(マリファナ)を注入した蜜柑を食べさせ、「これが欲しかったら私の言うことをおきき」と言って命令し、「さあ、あの男を殺しておいで」と言って使う。音が渡すマリファナ入りの蜜柑がないと我慢ができないマリファナ中毒にされた男は「音(おと)」の命令にはどんなものでも服従するようになる。「おまえの母親は何と言う?」と尋ねると、音は答える。「観音(かんのん)」と。「音(おと)」は母親の「観音」の一文字をとって「音」とした名前だった。「母さんは、今、出かけていないから、今は私が観音よ。さあ、行って◇◇を殺しておいで。観音さまの命令よ」と言うとマリファナ中毒にされた男は出かけていき、「観音さまの命令」と言って命令された相手を殺す。・・これが「観音の術」だった。「けしの花はなぜ赤い。悪魔が化粧して赤うござる」と「音」はつぶやく・・という。女をたらしこんでくぐつとして使う「くノ一の術」を得意とした男は、今度はこの娘をたらしこんで使ってやろうと思った「音」から逆に「観音の術」を使われて使役されることになる。これが「観音の術」だったという・・。女をたらしこんで自分のためにくぐつとして使う「くノ一の術」を使う男は、大麻を使って男を意のままに使役する「観音の術」を使う女に勝てなかった・・。
『必殺仕置長屋』という漫画が「時代劇コミック 斬」に連載中で、そこには「菩薩」という名前の飲み屋の女性が登場する・・が、この女性は別に何らかの術を使うわけではない。
※ 《ウィキペディアー必殺仕置長屋》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%85%E6%AE%BA%E4%BB%95%E7%BD%AE%E9%95%B7%E5%B1%8B
瀧安寺は「日本四弁天のひとつ」で、「西国七福神」の弁財天 になっていますが、「西国33観音霊場」には入っていません。箕面市では勝尾寺が「西国33観音霊場」の第23番札所になっており、勝尾寺の本尊は十一面千手観音のようです。

観音巡礼の本―西国三十三所 日本最古の霊場1000年の聖域を歩く (NEW SIGHT MOOK Books Esoterica エソテリ)
観音堂の後ろ(北側)に、


↑ 「法筺堂」と書かれている。
「法筺堂」とはどういう意味だろうか。
観音堂・法筺堂のさらに北側に、大護摩道場があり、その後ろに 五所明神社 があります。次回 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/498712914.html はそのあたりから・・。
『水滸伝』にはさまざまな人物が出てきます。横山光輝の漫画版『水滸伝』では「英雄豪傑」などと表現しますが、「英雄」とか「豪傑」とは言い難い人間も少なからずでてきますし、「気持ちはわからんこともない」としてもその対応についてはあまりほめられたものではない人も出てきます。 (株)一条工務店https://www.ichijo.co.jp/ の「初代社長」の大澄賢次郎さんは『水滸伝』が好きだったそうで、(株)一条工務店の各展示場には潮出版社から発行されていた単行本の横山光輝版の漫画による『水滸伝』全巻が置かれていました。
たしかに(株)一条工務店には『水滸伝』の登場人物のような人間がいました。「初代社長」の大澄賢次郎さんはやっぱり「梁山泊」の初代首領の王倫(おうりん)でしょう。なにかとみみっちい王倫。自分より有能な人間が入ってきて活躍の場を与えて活躍されて自分の座を脅かされないかと心配する王倫。「初代社長」の息子は3代目首領の宋江そのまんまですね。「刃物で女を刺し殺し、官憲に追われ逃げる」と、まさに宋江です。 2代目社長の山本庄一は「梁山泊」の2代目首領の晁蓋(ちょうがい)。実質的に動かしているのは宋江でお飾りの首領・影武者の晁蓋。 3代目社長・4代目社長は銀行から「呼んできた人」で、元から(株)一条工務店に入社して実力をつけた人間を社長にならせて実権握られたくないと思ったのか、これはやっぱり、「梁山泊」で3代目首領に宋江がついた時に副首領になった盧俊義(ろしゅんぎ)です。元からいた人間を首領にならせたくないから、影武者の首領にならせるためにわざわざよそから引っ張ってきた盧俊義(ろしゅんぎ)。こんな感じで、なるほど、こいつは誰それだな・・と考えながら読むと『水滸伝』もなかなか面白い(^^♪ 超音速『水滸伝の108人がよくわかる本』では「こんなのが首領でいいのか」なんて宋江は言われていますが、そんなのが社長になってる会社というのは、実は日本にはけっこういるかも・・・。何人もの人間を死なせておきながら、最後、自分だけ宋朝に助けてもらおうとする宋江・・て、勝手なやつやな・・て感じもしますが、案外、そんな社長の会社は日本にけっこうあるかも・・。
戦後、大陸の中華人民共和国では『水滸伝』は「抗議抵抗の文学」とプラスの評価を受けることもあったらしいが、他方で『水滸伝』の最後・結末の部分については「敗北主義」とマイナスの評価を受けているようだ。たしかにそうだ。そのあたりについて、横山光輝はどう考えただろうか・・なんていっても、「忍者漫画を描いた漫画家」でもけっこう骨のある漫画家の白土三平とは違って「人畜無害の横山光輝」というか「体制迎合主義の横山光輝」にそのあたりについての批判・見解を期待しても無理でしょうね。
『水滸伝』は「毛沢東の愛読書」だったという話もあるけれども、シャオユ(蕭喩)『毛沢東の青春』(サイマル出版会。現題は『毛沢東と私は乞食だった』だが、毛沢東も蕭喩も乞食の生まれだったわけではなく、大学生の時にヒッチハイクによる旅行のようなことをした時の話を書いているもので、『毛沢東と私は乞食だった』という題名にしてしまうと毛沢東は乞食の子として生まれたのかと誤解されるおそれがあり、本の内容から考えると『毛沢東の青春』あたりが妥当ということでサイマル出版会は『毛沢東の青春』としたようだ。毛沢東の父親は米の取引をおこなっていた商人で、毛沢東の家庭は財閥の息子だった蒋介石などと比べれば金持ちではないけれども、そう貧乏だったわけではなく、『毛沢東と私は乞食だった』という題名は誤解を招くおそれがあると訳者・出版社は考えたのではないか。)では、毛沢東などが生きた時代の学生は、『論語』『孟子』など四書五経と言われるような本を読むのが奨励されていて、他方で「講談本」として『水滸伝』『三国志演義』『西遊記』などが学生の間で読まれたけれども、後者はあまり奨励されなかったが毛沢東は逆に後者の方を好んで読んだらしい。福沢諭吉は「実学」「虚学」という言葉で孔子・孟子などの「忠」「孝」といった道徳を説くような文学・哲学は「虚学」で役に立たないもので、西洋近代思想こそ「実学」として学ぶべきものだと言ったようで、最近、韓国の人が福沢諭吉は『脱亜論』で韓国は学ぶものがない国だと言ったと言って怒っているようだが、しかし、福沢諭吉の『脱亜論』には2通りの意味があり、「忠」「孝」といった「孔子の道徳」などを大事にしているような韓国は「学ぶものがない国」だして、そんなものを学んでいてはだめだと言い、西洋の近代思想こそを「実学」として学ぶべきなのだと考えたのであり、『脱亜論』は欧米に後れをとらずにアジアの国を日本が進出して支配すべきだという主張を述べているが、それは後半の方の『脱亜論』であり、前半の方の『脱亜論』は孔子・孟子などの「忠」「孝」などの道徳は社会を進歩させるものではなく停滞させるものであり、そのような「虚学」を学んでいてはだめだと考え、アジアのそのような国と一緒に進歩していこうという余裕はない、日本だけで西洋に遅れないように近代思想を学ぶべきだという主張だった。「韓国は学ぶものはない国だ」と福沢諭吉が言ったというのは、それは「忠」「孝」だのといった「孔子の道徳」などというものを大事にしているようなそんな国は「学ぶものがない国だ」と言ったということだ。毛沢東ら中国の進歩的青年もまた、四書五経のようなものには好感を持たず、中国の古典と言われる本でも『水滸伝』『三国志演義』『西遊記』などの方を好んだということだったらしい。それが、戦後の毛沢東らによる「孔子批判」につながっている。案外、そのあたりで福沢諭吉と毛沢東には共通点があるように思える。)
・・それにしても、王倫とか宋江とか晁蓋とか盧俊義とか『水滸伝』の登場人物みたいのがいる会社の「初代社長」が各展示場に漫画版『水滸伝』を用意して従業員にも読むように奨励していたというのは、これはなかなかおもしろいな(^○^)
※ ウィキペディアー水滸伝百八星一覧表 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B4%E6%BB%B8%E4%BC%9D%E7%99%BE%E5%85%AB%E6%98%9F%E4%B8%80%E8%A6%A7%E8%A1%A8

水滸伝の108人がよくわかる本 (ぶんか社文庫 ち 2-1) - 超音速

毛沢東の青春―その秘められた日々 (1976年)
※ 瀧安寺HP https://www.ryuanji.org/
勝尾寺HP https://katsuo-ji-temple.or.jp/
西江寺HP https://www.saikouji-minoh.com/
(2023.3.22.)
☆ 箕面山瀧安寺と鳳凰閣1~13
1.箕面駅から一の橋まで。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/498565198.html
2.笹川良一「孝養の像」のばかばかしさ。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/498624594.html
3.一の橋より梅屋敷。箕面川がカーブしている所(夫婦橋休憩所)まで https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/498642163.html
4.「森秀次君之像」・野村泊月句碑・昆虫館・延命地蔵?より瀧安寺鳥居までhttps://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/498667552.html
5.山門・手水舎・観音堂・法筺堂。山門の前から見える鳳凰閣・圓満殿 〔今回〕
6.大護摩道場・五所明神社 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/498712914.html
7.弁天堂・大黒堂・行者堂・白龍大明神・箕面山神社・熊野三所権現・妙音天。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/498747248.html
8.瑞雲橋を渡り、鳳凰閣・圓満殿(客殿)のエリアへ。圓満殿外観と「岩本坊跡」https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/498792510.html
9.圓満殿(客殿)。松の間・鷲の間・貴人の間。畳敷の踏込式・「敷込袋」の床脇https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/498821055.html
10.圓満殿。「玉座」のある間と床の間・床脇・付書院。龍虎の間。圓満殿から見た箕面川西岸地域。 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/498915742.html
11.屋根上に鳳凰がいる鳳凰閣、2階のみ着色が周囲と調和。西・南・東より見て https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/498951322.html
12.東・南から見た鳳凰閣、鳳凰閣内部、三間続きの和室と格天井。北面全面の床の間。鳳凰閣和室から紅葉とともに見る箕面川西岸側はきれい。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/499187585.html
13.箕面川渓谷を表現した枯山水。箕面川と紅葉。浜口雄幸狙撃と安倍晋三銃撃は意味合いが違う。統一教会・倫理研究所などの迷惑な「宗教右翼」を何とかしてくれ。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/499217764.html
☆ 箕面山 聖天宮 西江寺1~4
1.[第992回]《箕面山 聖天宮 西江寺参拝【1/ 】箕面駅前、「日本最初大聖歓喜天出現霊場」碑から西江寺の西側の坂道まで。正反対の性質の心療内科と「精神科」を同時に掲げる「クリニック」の矛盾。ニーチェなどが学ぶべきだという心理学と小此木啓吾らのエセ心理学とは別物。》https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/499514748.html
2.[第993回]箕面山 聖天宮 西江寺 参拝【2/ 】中ノ坂 を登り西江寺まで。箕面の山の地主神の白髪の翁・大聖歓喜天と役行者との出会い。 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/499547852.html
3.石段を登り、右手に天満天神・吉野・吉竹・金毘羅の祠。登り切った正面に大黒堂。「摂津国神宮寺」が神仏分離で西江寺に名称変更。豊島郡片手村から箕面村へ。外界世俗から密教的世界への障害を守護する威力神として大聖歓喜天が祀られる。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/499567214.html
4.大黒堂前から聖天堂。箕面山荘前への山道。弁財天堂。白龍歓喜天。中ノ坂からの眺望。強制労働の「患者」の労働を搾取して、他方で江崎グリコ(株)から内職代を取得する「医者」「病院」は「一粒で二度おいしい」、そんな「江崎グリコを守れ」と主張する者は正義なのか?https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/499590837.html
☆ 箕面山 瀧安寺と箕面大滝について、
⇒[哲建ルンバ]《瀧安寺と箕面大滝に行ってきました。~建築探訪・建築巡礼 第2回 〔引越掲載〕》https://philoarchi2212.seesaa.net/article/201101article_25.html
☆ 聖天宮 西江寺については
⇒[第476回]《紅葉の箕面 西江寺(さいこうじ)(箕面聖天) と 摂社 天満大自在天神(大阪府箕面市)参拝》https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201611article_5.html
「哲建ルンバ」《箕面山聖天宮西江寺へ行ってきました。~建築探訪・建築巡礼第4回〔引越掲載〕》https://philoarchi2212.seesaa.net/article/201101article_29.html
箕面駅より「スパーガーデン」のエレベーター・取水場・河鹿荘・「わしは親孝行やねんぞお」「わしみたいに親孝行せえよお」「大きなお世話じゃ」の像・西江寺の方から来た道と合流し一の橋、
一の橋より川沿いの道と山側の道が分岐し、梅屋敷を経て夫婦橋、
夫婦橋より「森秀次君之像」・「野村泊月句碑」・昆虫館・延命地蔵?を過ぎて瀧安寺の鳥居に至ります。
鳥居をくぐり右手(東側)を見ると、箕面川の向こうに
↑ 鳳凰閣と圓満殿(客殿)が見えます。
↑ 武田五一(1872ー1938)設計の国登録有形文化財指定の鳳凰閣 です。
2階の屋根の上にいるのが鳳凰なのでしょうか。この建物がいいと思うのは、周囲の景観に溶け込むこみ調和することを配慮して作られていること、特に鳳凰閣の2階の部分にだけ朱塗りの部分を設けてアクセントとしているが、全体を朱塗りにしてしまうよりも2階の部分に限定した方が、むしろ、周囲の景観に調和することが考えられている。それも、紅葉の季節には周囲にも「紅色」の葉があることから、あえて全体を朱塗りにしない方が調和することが配慮されているという点があげられると思います。
※ ウィキペディアー武田五一 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E7%94%B0%E4%BA%94%E4%B8%80
武田五一設計の建物では、重要文化財に指定されているものが1つ、国登録有形文化財に指定されているものが11あり、その11のうちの1つで、1917年のものらしい。 1917年というと「人、悔いなし(1917)、ロシア革命」ロシア革命があった年ですね。
武田五一設計の建物では、私が実際に足を運んで見たことがあるものとしては、同志社女子大学ジェームズ館・栄光館、円山公園(京都市)などがあります。肥後橋とか渡辺橋は間違いなくそこを通ったか前まで行ったことがあるはずですが、他の用事で言っているので、どういうものだったか記憶がはっきりしません。天王寺公園音楽堂も子供の頃にその付近に行ったことがあるはずですが記憶がはっきりしない。圓教寺(円教寺、えんぎょうじ)摩尼殿の圓教寺とは兵庫県姫路市の書写山円教寺のことで、書写山円教寺には1960年代後半、小学校4年の時に行ったので小学生でも4年になれば、けっこう関心を持って見ていたはずなのですが残念ながらどういうものだったか記憶がはっきりしません。同志社女子大のジェームズ館・栄光館は「そんなもんか」くらいの印象でしたが、箕面市の瀧安時の鳳凰閣は、これは大きさは大きくありませんが、なかなかよくできていると思います。大きいものがいいというわけではないのです。ブルーノ=タウトが『建築とは何か』(鹿島出版会)の中で、高層建築の愚かさとして、「巨大さ」ということが何よりも大きな意味合いを持っているような建築というものは、建築としては評価できない旨を述べていますが、実際そうでしょう。小さくてもいいものはいいのです。ブルーノ=タウトが群馬県高崎市にいた時に住んでいたという洗心亭が達磨寺の境内にあり、2000年前後の頃、見に行ったのですが、大きくないし、特に豪華でもない建物ですが、たしかにブルーノ=タウトが好みそうな建物でした。

建築とは何か (SD選書 95) - ブルーノ・タウト, 篠田 英雄
『京都・大阪・神戸 名建築ガイドマップ』(2011.10.31. エクスナレッジ)の著者の円満字洋介さんは武田五一がけっこう好きみたいですが、この本には箕面界隈についての著述はないようです。「建築家」と称する人や建築学科教授といった人には、もちろん人にもよるのですが、どうも、「建築家」とか建築学科教授とかいった人が「名建築」と指定したものが名建築だとしてしまう傾向があり、そういう権威主義的な態度というのは私はあまりいいとは思っていません。この本の題名は、もちろん、あくまで円満字洋介さんが自分が名建築だと考えたものを述べていますという題名であり、他の人が他のものを「名建築」と思っても、もしくは円満字さんが「名建築」と判断したものを名建築と思わなかったとしても、それをいけないとは言っていないのですが、円満字さんがどうかにかかわらず、どうも、「建築家」業界の人というのは「建築家」とか建築学科教授といった人、および、そのエピゴウネンになりたい症候群の人には、そういった権威主義的態度の人が多いように思えて、その点はいいとは私は思えません。

権威と権力――いうことをきかせる原理・きく原理 (岩波新書 青版 C-36) - なだ いなだ

権威主義的人間―現代人の心にひそむファシズム (有斐閣選書 (697)) - 曽良中 清司
《 鳳凰閣は国の有形文化財に登録されており、著名な建築家、武田五一氏によって設計されました。平成30年(2018年)9月の台風21号により甚大な被害を受けました。》と瀧安寺HP の「境内案内図」https://www.ryuanji.org/map の「鳳凰閣」には書かれていますが、2018年の台風の時に被害を受けたというニュース記事を見たときには私もショックを受けましたが、その後、修復されたようです。
大阪府の歴史散歩編集委員会編『大阪府の歴史散歩 上(大阪市・豊能・三島)』(2007.9.18.山川出版社)には、
《 滝道に面した鳳凰閣(国登録有形文化財)は、昭和時代初期に建てられた重厚な建物である。》と書かれているが、私は「重厚な」という印象はない。 「昭和時代初期」という元号をもとにした表現のしかただと、「戦前の昭和」も「戦後しばらくの昭和」も「平成に近い昭和」も「昭和」としてひとくくりにされてしまうという欠点がある。井上清『日本の歴史 上・中・下』(岩波新書)では、基本的には「○世紀」の前半・中期・後半といった表現を使い、「昭和初期」というような表現は避けているが、これは何でも天皇を中心として動いているわけではないのに元号をもとに「昭和初期」といった表現をしてしまうと、天皇を中心として動いているものでないものまで天皇をもとに時代を規定することになってしまうからです。山川出版社は歴史についての書物を多く出版している出版社で、大阪府の歴史散歩編集委員会編『大阪府の歴史散歩 上(大阪市・豊能・三島)』(2007.9.18.山川出版社)は大阪府の府立高校・市立高校の先生9人と大学・短大の先生2人とで執筆された本のようですが、歴史を扱う教員ならば、そのあたりの認識があってもよさそうに思えます。1917年というとロシア革命の年で、第一次世界大戦の最中です。「20世紀前半」とか「戦前、第一次世界大戦の頃」くらいの表現の方がいいのではないかと思います。最近、インターネット上でも「昭和」という言葉を「戦前の昭和」も「戦後しばらくの昭和」も「平成に近い昭和」もいっしょくたにして「昭和」と表現したものを見かけますが、適切な規定の仕方ではないでしょう。
↑ 鳳凰閣の右側(南側)に配置される圓満殿(客殿)です。 箕面川の対岸から(西側から)見ると建物が2つあるかのようにも見えますが、そうではなく、右側は圓満殿(客殿)の玄関の部分です。
瀧安寺HP の「境内案内図」https://www.ryuanji.org/map の「客殿」には《 西暦1699年(江戸期元禄12年)に行われた開祖役行者の1千年御遠忌に際し、全国から集まる修験者を迎えるため、本坊とともに建設されました。庫裏と合わせて円満殿とよばれています。》と出ています。 玄関部分が圓満殿と別のようになっているのは、もしかすると、玄関部分の右手にあった庫裏と玄関部分の左手の圓満殿との中央に玄関を設けて両方に内部で行き来できるようになっていたのでしょうか。
鳥居をくぐって右手は公園のようになっています。この場合、「公園」というのは国立公園・国定公園・県立自然公園のような意味合いでの「公園」ではなくて、遊具が置かれていて子供が遊べるようになっている「公園」です。
鳥居をくぐり直進すると、「山門」に至ります。↓
瀧安寺HP「境内案内図」https://www.ryuanji.org/map
「山門」には
《 文化六年(一八〇九年)に、京都御所より移築。総﨔造り。》
と書かれています。
大阪府の歴史散歩編集委員会編『大阪府の歴史散歩 上(大阪市・豊能・三島)』(2007.9.18.山川出版社)には、
《 この山門は、光格天皇が1809(文化6)年に京都御所から移築したものである。 》
と書かれている。
↑ 「瀧安寺」と書かれている。
《 山門をくぐると観音堂がある。本尊の木造如意輪観音像(国重要文化財)を中心に、弘法大師空海・智証大師円珍、念仏聖として有名な千観上人の諸像がならぶ。》と大阪府の歴史散歩編集委員会編『大阪府の歴史散歩 上(大阪市・豊能・三島)』(2007.9.18.山川出版社)には書かれており、山門の向こうに見えるのはその観音堂だが、瀧安寺HP の「境内案内図」https://www.ryuanji.org/map では石段の上に位置している弁天堂を「本堂 弁天堂」と記載しており、石段の下のエリアに観音堂があり、石段の上のエリアの突き当りに弁天堂があり、役小角が箕面滝で修行をして弁財天の助けを得て悟りを開いたというお話からすれば弁天堂の方が主ということになるが、寺として天台宗に所属していた時期もあり、そこから考えれば如意輪観音像を祀る観音堂が本堂という扱いになったのか。 瀧安寺HP の「起源と歴史」https://www.ryuanji.org/history の「日本最初にして最古の弁財天」には《 本尊は七福神の一神である弁財天で、財運の向上、芸能の上達を願い、一方、観音堂の主尊である如意輪観音には除災招福を求め年間を通じ参拝者で賑わっています。》と書かれており、瀧安寺としては基本的には観音堂の後ろの石段を登った上のエリアに配置されている弁天堂で祀られる弁財天が本尊ということなのでしょう。ほかの寺でも、かなり独立したと思われるお堂が2つ以上併存している寺がありますが、瀧安寺は石段の上のエリアのお堂と石段のすぐ下の大護摩道場とが修験道色が強い区域で、その手前の山門をくぐったあたりは観音堂を中心とした仏教の色彩が強い区域のようです。
※ 瀧安寺HP https://www.ryuanji.org/
瀧安寺HP 境内案内図 https://www.ryuanji.org/map

大阪府の歴史散歩 上 大阪市・豊能・三島 (歴史散歩 27) - 大阪府の歴史散歩編集委員会
↑ 手水舎と右側はお地蔵さんのようだ。
↑ 観音堂。
↑ (左)阿弥陀如来 (中央)如意輪観音
(右)智証大師 弘法大師 千観上人
と額に書かれています。
《 平成十四年度(2002年度)再建。主尊は如意輪観音。回向壇には阿弥陀如来を、祖師壇には平安期に当寺でご修行された空海、圓珍、千観の三上人を安置しています。》(瀧安寺HP「境内案内図」https://www.ryuanji.org/map )
《 本尊の木造如意輪観音坐像(国重要文化財)を中心に、弘法大師空海、智証(ちしょう)大師円珍(えんちん)、念仏聖(ひじり)として有名な千観上人(せんかんしょうにん)の諸像が並ぶ。》
( 大阪府の歴史散歩編集委員会編『大阪府の歴史散歩 上(大阪市・豊能・三島)』2007.9.18.山川出版社)
「回向壇」とは何だろう。「回向(えこう)」とは、《コトバンク 回向》https://kotobank.jp/word/%E5%9B%9E%E5%90%91-36336 「回向(読み)えこう 日本大百科全書(ニッポニカ) 「回向」の意味・わかりやすい解説」には、
《 仏教において、自己が仏道を修めた善い行為や功徳(くどく)を、すべての人々の悟りのために振り向けることをいう。
一般に、サンスクリット語パリナーマナーpariāmanāの訳とし、廻向とも書く。
大乗仏教では善行の結果が悟り(正覚(しょうがく))に向けられるためには、衆生(しゅじょう)に功徳を施し、ともに仏になることが強調された。
とくに浄土教では、念仏を唱え、浄土に思いを巡らして、往生を願うことを意味した。
回向には二つあり、自分の功徳を人々に振り向けて、ともに極楽浄土に往生しようと願うのを往相(おうそう)回向といい、ひとたび極楽浄土に生まれたものが、ふたたびこの世に還(かえ)って、人々を教化し、浄土を願うように振り向けることを還相(げんそう)回向という。
また、施しなどの回向が自分の亡き親属血縁に及ぶことを記した経典の記述などがあり、仏事法要を営んだ結果、その功徳が死者のその後の安穏(あんのん)をもたらし、仏道に向かわしめることをいうようになった。[石上善應]》
と書かれている。
白木利幸 監修:古川順弘・幣旗愛子・星飛雄馬編集『西国三十三所 観音巡礼の本』(2008.8.15.学習研究社) 白木利幸「さまざまな観音」には、
《 中国の天台大師智頭(ちず)(6世紀)は『魔訶止観(まかしかん)』のなかで、『請(しょう)観音経』の六字章陀羅尼(ろくじしょうだらに)を6つの観音にたとえ、それぞれを六道(ろくどう)(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天)に配した。そしてこの考えにもとづいて、日本では平安時代のなかば、六道救済の六観音が成立した。
この六観音のうち聖(しょう)観音・十一面観音・千手観音・馬頭観音・如意輪観音までは異説がないが、残る一尊を真言宗では准胝(じゅんてい)観音、天台宗では不空羂索(ふくうけんじゃく)観音とする。現在では双方を含めて七観音ということもある。》
とあり、如意輪(にょいりん)観音とは、
《 求める珍宝を思うままに出す如意宝珠と、煩悩を砕き破る法輪の働きを象徴した観音。六道の衆生(しゅじょう)の苦を抜き、利益(りやく)を与えることを本誓(ほんぜい)とするという。
奈良時代に造立されたのは二臂半跏(はんか)踏み下げ像で、西国第7番岡寺や第13番石山寺の本尊がこの様式をとる。https://blog.seesaa.jp/cms/upload/regist/input
平安初期に密教が伝来して以降は六臂坐像が主流となり、第1番青岸渡寺(せいがんとじ)、第14番園城寺(おんじょうじ)(三井寺 みいでら)、第27番圓教寺(えんきょうじ)などはこれに属す。
なお、第18番頂法寺(ちょうほうじ)については、江戸時代の資料では、お前立ち像は六臂で、秘仏本尊は二臂だとしている。》
と書かれている。
「八面六臂(はちめんろっぴ)」という言葉があるが、《goo 辞書 八面六臂 の意味・使い方》https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E5%85%AB%E9%9D%A2%E5%85%AD%E8%87%82/ の「八面六臂の解説 - 学研 四字熟語辞典 はちめんろっぴ【八面六臂】」には、
《 八つの顔と六本の腕(ひじ)で、一人で数人分もの活躍をすること。また、いろいろな方面できわだった活躍をすること。》
と書かれている。
六臂とは腕が六本、二臂とは腕が二本という意味のようだ。
『水滸伝』には「八臂哪吒(はっぴなた) 項 充(こう じゅう)」なる人物が登場するが、《飛刀の名手で背に24本の飛刀を挿んでいたことに由来する。また、哪吒とは民間で信仰されていた毘沙門天の子で、戦闘時6本の腕と、3つの頭を現す童神であるが、さらに2本の腕を加えた八臂と呼ばれた。》(《ウィキペディアー項 充(こう じゅう)》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A0%85%E5%85%85 )とあり、「八臂(はっぴ)」は8本の腕を意味するようだ。
「半跏踏み下げ像」とは、《仏像の坐り方について》http://www.taradou.com/?mode=f62 には
《 半跏踏み下げ像 半跏踏み下げ像とは台座に坐って右足を下ろし、右足の甲を左足の腿に乗せた形です。弥勒菩薩の座り方として有名で、如意輪観音にもみられます。この座法で右手を頬に当て、思いにふけっているような像を半跏思惟像(はんかしゆいぞう)といいます。》
と書かれています。
指導/高橋良和・画/加藤直『教育まんが かんのんさま』(大道社)に所収の高橋良和「観音さまのおはなし」には、
《 観音というお名前のほかに、観世音(かんぜおん)と申すこともありますし、あるいは観自在菩薩(かんじざいぼさつ)と申したり、もっとむずかしい御名だと、施無畏者(せむいしゃ)・大悲大慈王(だいひだいじおう)・救世菩薩(ぐせぼさつ)・普門菩薩(ふもんぼさつ)・蓮華手(れんげしゅ)など、いうのがあります。
こうしたお名前、その昔インドのことばを中国で訳したときのお名前でありますから、それをいろいろと中国のことばで訳したもので、時代や、その訳した人の解釈の異なりで、このように変わったのだといえます。
・・・
観音さまのことを観音菩薩(ぼさつ)と申しますが、菩薩という方は、仏さまにおなりにならない方をいうので、いつもわたくしたちのまわりにいて、苦しんでいる人間をすくってあげようと、手をさしのべてくださっている方なのであります。
そこで観音ということばですが、音を観ると書きます。また観世音ということばをよくみますと、世音(せおん)を観ると解釈されます。この世音というのは、世のなかの声、いいかえますと、人間の苦しみ、なやみなどという、世のなかの出来ごとをよく観るということで、この場合の観るという意味は、よく感じるとか、よく聴くということの意味になります。
でありますから、世のなかの苦しみをとり除くために、あたたかいお慈悲を垂れてくださるということなので、その苦しみをとり去る働きが、観音菩薩の働きであるといえましょう。
・・・ 》
《 観音さまは、大衆と結びつく働きから、ほかの仏さまや、菩薩さまのように、一つの名前では信仰する人が承知しなかったのです。
そこでいろいろな名前がつけられました。どれくらいその名前があるのかを記してみますと、
◇ 聖観音 この観音さまは、正観音ともいいます。・・・・
◇ 十一面観音
◇ 千手観音
◇ 馬頭観音 観音さまはみなやさしい顔でありますのに、この馬頭観音はこわい顔をしています。・・
◇ 如意輪観音 人間の苦を救うのはもちろんですが、出世の功徳をもっている観音さまで、普通一面六臂(ぴ)の姿が多いのです。顔が一つで、腕が六つあるということです。 それぞれの腕には、一つ一つの働きがあり、右足は立て膝で、左の足裏を踏んでいます。 このような姿は、如意輪観音さまだけであります。 この観音さまで名高いのは、大阪の観心寺、奈良の室生寺などがあります。観音さまの身体は金色で、髪は宝珠(たま)でかざっているのが特徴です。
◇ 不空羂索観音(ふくうけんざくかんのん)
◇ 准胝観音(じゅんていかんのん)
このほかに三十三観音さまといわれますが、これは観音さまが三十三の姿になってあらわれ、救済されることをあらわしたもので、西国三十三所という、観音さまの霊場ができたのもそれがためです。》
と書かれています。

教育まんが かんのんさま - 高橋良和
そういえば、白土三平の漫画に「観音の術」なる術を使う忍び(しのび)が登場する劇画があった。「くノ一の術」というものを使う忍びが対決する。男はいかなる剣術者であれ忍びであれ相手が女であると、つい油断をしてしまうので女の姿に化けて近づいて倒すというヤマトタケルみたいな術を使う者がいた。「女」という文字を「く」「ノ」「一」という3つに分けて「くノ一の術」として、それを得意とする術者の対決に勝った者は「俺の『くノ一の術』は天下無敵、最強よ」と誇るが、「くノ一の術」でも内容が異なり、女をたらしこんで意のままに動かしてねらう相手を殺させるという「たらしこみの術」という意味の「くの一の術」を使う忍びが登場し、「くぐつにした女がやられれば、また新たな女をつかまえて使えばよいだけのこと。男が女に化けるなんぞ、愚の骨頂よ。俺の『くノ一の術』こそ、天下無敵よ」と誇るが、そのうち、「よし、手ごろな女がおったわ。今度はあの娘をくぐつとして使ってやろう」と近づくが、その娘に「おまえの名は何と言う?」と尋ねると、「音(おと)」と答えるが、音が「これ」と男に食べさせた蜜柑はほかの蜜柑よりもおいしく、女をくぐつとしてあやつる「くノ一の術」を使う男は、その蜜柑なしでは生きていけなくなる。「蜜柑をくれえ」と音(おと)に頼むが、「その蜜柑ではだめでしょ。私の持っている蜜柑でないと。おまえが欲しいのはこれでしょ」と言って大麻(マリファナ)を注入した蜜柑を食べさせ、「これが欲しかったら私の言うことをおきき」と言って命令し、「さあ、あの男を殺しておいで」と言って使う。音が渡すマリファナ入りの蜜柑がないと我慢ができないマリファナ中毒にされた男は「音(おと)」の命令にはどんなものでも服従するようになる。「おまえの母親は何と言う?」と尋ねると、音は答える。「観音(かんのん)」と。「音(おと)」は母親の「観音」の一文字をとって「音」とした名前だった。「母さんは、今、出かけていないから、今は私が観音よ。さあ、行って◇◇を殺しておいで。観音さまの命令よ」と言うとマリファナ中毒にされた男は出かけていき、「観音さまの命令」と言って命令された相手を殺す。・・これが「観音の術」だった。「けしの花はなぜ赤い。悪魔が化粧して赤うござる」と「音」はつぶやく・・という。女をたらしこんでくぐつとして使う「くノ一の術」を得意とした男は、今度はこの娘をたらしこんで使ってやろうと思った「音」から逆に「観音の術」を使われて使役されることになる。これが「観音の術」だったという・・。女をたらしこんで自分のためにくぐつとして使う「くノ一の術」を使う男は、大麻を使って男を意のままに使役する「観音の術」を使う女に勝てなかった・・。
『必殺仕置長屋』という漫画が「時代劇コミック 斬」に連載中で、そこには「菩薩」という名前の飲み屋の女性が登場する・・が、この女性は別に何らかの術を使うわけではない。
※ 《ウィキペディアー必殺仕置長屋》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%85%E6%AE%BA%E4%BB%95%E7%BD%AE%E9%95%B7%E5%B1%8B
瀧安寺は「日本四弁天のひとつ」で、「西国七福神」の弁財天 になっていますが、「西国33観音霊場」には入っていません。箕面市では勝尾寺が「西国33観音霊場」の第23番札所になっており、勝尾寺の本尊は十一面千手観音のようです。

観音巡礼の本―西国三十三所 日本最古の霊場1000年の聖域を歩く (NEW SIGHT MOOK Books Esoterica エソテリ)
観音堂の後ろ(北側)に、
↑ 「法筺堂」と書かれている。
「法筺堂」とはどういう意味だろうか。
観音堂・法筺堂のさらに北側に、大護摩道場があり、その後ろに 五所明神社 があります。次回 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/498712914.html はそのあたりから・・。
『水滸伝』にはさまざまな人物が出てきます。横山光輝の漫画版『水滸伝』では「英雄豪傑」などと表現しますが、「英雄」とか「豪傑」とは言い難い人間も少なからずでてきますし、「気持ちはわからんこともない」としてもその対応についてはあまりほめられたものではない人も出てきます。 (株)一条工務店https://www.ichijo.co.jp/ の「初代社長」の大澄賢次郎さんは『水滸伝』が好きだったそうで、(株)一条工務店の各展示場には潮出版社から発行されていた単行本の横山光輝版の漫画による『水滸伝』全巻が置かれていました。
たしかに(株)一条工務店には『水滸伝』の登場人物のような人間がいました。「初代社長」の大澄賢次郎さんはやっぱり「梁山泊」の初代首領の王倫(おうりん)でしょう。なにかとみみっちい王倫。自分より有能な人間が入ってきて活躍の場を与えて活躍されて自分の座を脅かされないかと心配する王倫。「初代社長」の息子は3代目首領の宋江そのまんまですね。「刃物で女を刺し殺し、官憲に追われ逃げる」と、まさに宋江です。 2代目社長の山本庄一は「梁山泊」の2代目首領の晁蓋(ちょうがい)。実質的に動かしているのは宋江でお飾りの首領・影武者の晁蓋。 3代目社長・4代目社長は銀行から「呼んできた人」で、元から(株)一条工務店に入社して実力をつけた人間を社長にならせて実権握られたくないと思ったのか、これはやっぱり、「梁山泊」で3代目首領に宋江がついた時に副首領になった盧俊義(ろしゅんぎ)です。元からいた人間を首領にならせたくないから、影武者の首領にならせるためにわざわざよそから引っ張ってきた盧俊義(ろしゅんぎ)。こんな感じで、なるほど、こいつは誰それだな・・と考えながら読むと『水滸伝』もなかなか面白い(^^♪ 超音速『水滸伝の108人がよくわかる本』では「こんなのが首領でいいのか」なんて宋江は言われていますが、そんなのが社長になってる会社というのは、実は日本にはけっこういるかも・・・。何人もの人間を死なせておきながら、最後、自分だけ宋朝に助けてもらおうとする宋江・・て、勝手なやつやな・・て感じもしますが、案外、そんな社長の会社は日本にけっこうあるかも・・。
戦後、大陸の中華人民共和国では『水滸伝』は「抗議抵抗の文学」とプラスの評価を受けることもあったらしいが、他方で『水滸伝』の最後・結末の部分については「敗北主義」とマイナスの評価を受けているようだ。たしかにそうだ。そのあたりについて、横山光輝はどう考えただろうか・・なんていっても、「忍者漫画を描いた漫画家」でもけっこう骨のある漫画家の白土三平とは違って「人畜無害の横山光輝」というか「体制迎合主義の横山光輝」にそのあたりについての批判・見解を期待しても無理でしょうね。
『水滸伝』は「毛沢東の愛読書」だったという話もあるけれども、シャオユ(蕭喩)『毛沢東の青春』(サイマル出版会。現題は『毛沢東と私は乞食だった』だが、毛沢東も蕭喩も乞食の生まれだったわけではなく、大学生の時にヒッチハイクによる旅行のようなことをした時の話を書いているもので、『毛沢東と私は乞食だった』という題名にしてしまうと毛沢東は乞食の子として生まれたのかと誤解されるおそれがあり、本の内容から考えると『毛沢東の青春』あたりが妥当ということでサイマル出版会は『毛沢東の青春』としたようだ。毛沢東の父親は米の取引をおこなっていた商人で、毛沢東の家庭は財閥の息子だった蒋介石などと比べれば金持ちではないけれども、そう貧乏だったわけではなく、『毛沢東と私は乞食だった』という題名は誤解を招くおそれがあると訳者・出版社は考えたのではないか。)では、毛沢東などが生きた時代の学生は、『論語』『孟子』など四書五経と言われるような本を読むのが奨励されていて、他方で「講談本」として『水滸伝』『三国志演義』『西遊記』などが学生の間で読まれたけれども、後者はあまり奨励されなかったが毛沢東は逆に後者の方を好んで読んだらしい。福沢諭吉は「実学」「虚学」という言葉で孔子・孟子などの「忠」「孝」といった道徳を説くような文学・哲学は「虚学」で役に立たないもので、西洋近代思想こそ「実学」として学ぶべきものだと言ったようで、最近、韓国の人が福沢諭吉は『脱亜論』で韓国は学ぶものがない国だと言ったと言って怒っているようだが、しかし、福沢諭吉の『脱亜論』には2通りの意味があり、「忠」「孝」といった「孔子の道徳」などを大事にしているような韓国は「学ぶものがない国」だして、そんなものを学んでいてはだめだと言い、西洋の近代思想こそを「実学」として学ぶべきなのだと考えたのであり、『脱亜論』は欧米に後れをとらずにアジアの国を日本が進出して支配すべきだという主張を述べているが、それは後半の方の『脱亜論』であり、前半の方の『脱亜論』は孔子・孟子などの「忠」「孝」などの道徳は社会を進歩させるものではなく停滞させるものであり、そのような「虚学」を学んでいてはだめだと考え、アジアのそのような国と一緒に進歩していこうという余裕はない、日本だけで西洋に遅れないように近代思想を学ぶべきだという主張だった。「韓国は学ぶものはない国だ」と福沢諭吉が言ったというのは、それは「忠」「孝」だのといった「孔子の道徳」などというものを大事にしているようなそんな国は「学ぶものがない国だ」と言ったということだ。毛沢東ら中国の進歩的青年もまた、四書五経のようなものには好感を持たず、中国の古典と言われる本でも『水滸伝』『三国志演義』『西遊記』などの方を好んだということだったらしい。それが、戦後の毛沢東らによる「孔子批判」につながっている。案外、そのあたりで福沢諭吉と毛沢東には共通点があるように思える。)
・・それにしても、王倫とか宋江とか晁蓋とか盧俊義とか『水滸伝』の登場人物みたいのがいる会社の「初代社長」が各展示場に漫画版『水滸伝』を用意して従業員にも読むように奨励していたというのは、これはなかなかおもしろいな(^○^)
※ ウィキペディアー水滸伝百八星一覧表 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B4%E6%BB%B8%E4%BC%9D%E7%99%BE%E5%85%AB%E6%98%9F%E4%B8%80%E8%A6%A7%E8%A1%A8

水滸伝の108人がよくわかる本 (ぶんか社文庫 ち 2-1) - 超音速

毛沢東の青春―その秘められた日々 (1976年)
※ 瀧安寺HP https://www.ryuanji.org/
勝尾寺HP https://katsuo-ji-temple.or.jp/
西江寺HP https://www.saikouji-minoh.com/
(2023.3.22.)
☆ 箕面山瀧安寺と鳳凰閣1~13
1.箕面駅から一の橋まで。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/498565198.html
2.笹川良一「孝養の像」のばかばかしさ。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/498624594.html
3.一の橋より梅屋敷。箕面川がカーブしている所(夫婦橋休憩所)まで https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/498642163.html
4.「森秀次君之像」・野村泊月句碑・昆虫館・延命地蔵?より瀧安寺鳥居までhttps://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/498667552.html
5.山門・手水舎・観音堂・法筺堂。山門の前から見える鳳凰閣・圓満殿 〔今回〕
6.大護摩道場・五所明神社 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/498712914.html
7.弁天堂・大黒堂・行者堂・白龍大明神・箕面山神社・熊野三所権現・妙音天。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/498747248.html
8.瑞雲橋を渡り、鳳凰閣・圓満殿(客殿)のエリアへ。圓満殿外観と「岩本坊跡」https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/498792510.html
9.圓満殿(客殿)。松の間・鷲の間・貴人の間。畳敷の踏込式・「敷込袋」の床脇https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/498821055.html
10.圓満殿。「玉座」のある間と床の間・床脇・付書院。龍虎の間。圓満殿から見た箕面川西岸地域。 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/498915742.html
11.屋根上に鳳凰がいる鳳凰閣、2階のみ着色が周囲と調和。西・南・東より見て https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/498951322.html
12.東・南から見た鳳凰閣、鳳凰閣内部、三間続きの和室と格天井。北面全面の床の間。鳳凰閣和室から紅葉とともに見る箕面川西岸側はきれい。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/499187585.html
13.箕面川渓谷を表現した枯山水。箕面川と紅葉。浜口雄幸狙撃と安倍晋三銃撃は意味合いが違う。統一教会・倫理研究所などの迷惑な「宗教右翼」を何とかしてくれ。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/499217764.html
☆ 箕面山 聖天宮 西江寺1~4
1.[第992回]《箕面山 聖天宮 西江寺参拝【1/ 】箕面駅前、「日本最初大聖歓喜天出現霊場」碑から西江寺の西側の坂道まで。正反対の性質の心療内科と「精神科」を同時に掲げる「クリニック」の矛盾。ニーチェなどが学ぶべきだという心理学と小此木啓吾らのエセ心理学とは別物。》https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/499514748.html
2.[第993回]箕面山 聖天宮 西江寺 参拝【2/ 】中ノ坂 を登り西江寺まで。箕面の山の地主神の白髪の翁・大聖歓喜天と役行者との出会い。 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/499547852.html
3.石段を登り、右手に天満天神・吉野・吉竹・金毘羅の祠。登り切った正面に大黒堂。「摂津国神宮寺」が神仏分離で西江寺に名称変更。豊島郡片手村から箕面村へ。外界世俗から密教的世界への障害を守護する威力神として大聖歓喜天が祀られる。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/499567214.html
4.大黒堂前から聖天堂。箕面山荘前への山道。弁財天堂。白龍歓喜天。中ノ坂からの眺望。強制労働の「患者」の労働を搾取して、他方で江崎グリコ(株)から内職代を取得する「医者」「病院」は「一粒で二度おいしい」、そんな「江崎グリコを守れ」と主張する者は正義なのか?https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/499590837.html
☆ 箕面山 瀧安寺と箕面大滝について、
⇒[哲建ルンバ]《瀧安寺と箕面大滝に行ってきました。~建築探訪・建築巡礼 第2回 〔引越掲載〕》https://philoarchi2212.seesaa.net/article/201101article_25.html
☆ 聖天宮 西江寺については
⇒[第476回]《紅葉の箕面 西江寺(さいこうじ)(箕面聖天) と 摂社 天満大自在天神(大阪府箕面市)参拝》https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201611article_5.html
「哲建ルンバ」《箕面山聖天宮西江寺へ行ってきました。~建築探訪・建築巡礼第4回〔引越掲載〕》https://philoarchi2212.seesaa.net/article/201101article_29.html
この記事へのコメント