瀧安寺と鳳凰閣【6/13】大護摩道場・五所明神社。修験道とは。役小角は龍樹から灌頂を受けたのか弁財天の助けを得たのか。「悟りを開いた人」ならイライラしなければ良さそうなものだが。高校の担任は生徒が忌避したい人は認めるべきではないか。「すでに倒産秘孔をつかれた」みたいな会社がある。
[第984回]
箕面山 瀧安寺(大阪府箕面市)の鳥居をくぐり、山門をくづった正面にあるのが観音堂。観音堂の後ろの左(西)に法筺堂があり、観音堂と法筺堂の後ろに、↓

↑ 右側の石碑には「修験根本道場」と書かれています。


↑ 子どもの頃、これは何だろう? ・・と思ったものでしたが、これは、↓ こういうことをする所のようです。

「大護摩道場(おおごまどうじょう)」で《年に3度、山伏が参集して修法しています。》( 箕面山瀧安寺HP「境内案内図」https://www.ryuanji.org/map )という所のようです。
箕面山瀧安寺HP 「年間行事」https://www.ryuanji.org/schedule 「採燈大護摩供」には、
《 毎年4月・7月・11月に関西一円より山伏が集結し、世界平和をはじめ参拝者の願いを護摩木に添えて不動明王に届けます。渦巻く煙、燃え上がる炎の中、山伏たちの法螺貝が道場に響き渡る様は、箕面山が元は修行のお山であったことを改めて想起させてくれます。
この日は阪急箕面駅前から瀧安寺まで「山伏大行列」が行われます。》
と書かれています。
これって、もしかして、「心頭滅却すれば火もまた涼し」とか言って桝形に組んだ木の上をはだしで渡るとかするのだろうか・・・とか思ったりもしましたが、そういうことではないみたいです。
又、「山伏」と言われる人がやるのなら、その「山伏」のおじさんて普段はどこにいるのだろうか。箕面のそのへんにいる「普通のおじさん」が突如、漫画に登場するような山伏に変って超能力みたいのを発揮するのだろうか・・とか思ったりもしたのでしたが、瀧安寺のホームページによると《関西一円より・・集結》するようで、すべての「山伏」が普段から箕面にいるわけではないようです。
箕面山瀧安寺は今は「本山修験宗」、かつて、天台宗に属していた時もあったようです。箕面には瀧安寺よりも箕面駅に近い場所に聖天宮西江寺がありますが、西江寺は今も高野山真言宗に属しているようですが、西江寺も修験道系ではないかと思われます。
修験道というと、大峰山とか日光とか、もしくは生駒山とかを思い浮かべますが、実は箕面も修験道としては由緒のある土地なのです。
伊矢野 美峰(いやの びほう)監修『目からウロコの 修験道』(2006.3.31.学習研究社)には、
《 修験の開祖は役行者です。日本国六十余峰を開かれ、入峰(にゅうぶ)高祖(こうそ)とも称されます。
役行者の本地(ほんぢ)について述べますと、『行者自記』に「昔、西天(さいてんに居り釈迦如来の心印を受けその名を迦葉尊者(かしょうそんじゃ)と号し、今、東土(とうど)(日本)に住して大日如来の密行(みつぎょう)を修め、その名を役優婆塞(えんのうばそく)と称す」とあって、禅門と密教をともに行じたと説かれています。》
とあります。修験道には禅宗と真言宗・天台宗と似たところがあるように思えるのも、そのあたりからでしょうか。
《 また、経に、「東方に山あり金剛(こんごう)という。彼の山に菩薩あり法起(ほっき)という。千二百人とともなりき。師子座(ししざ)に坐し説法をなす」とあり、葛城(かつらぎ)金剛山(こんごうさん)がこの山で、役行者の秘密の名を法起菩薩と申し上げるのです。行者は、毘盧遮那(びるしゃな)如来の真実の智慧を得、不動三昧(ふどうさんまい)を完成させ諸摩を降伏(ごうぶく)したことにより不動明王の化身とも崇めます。
役行者は、俗姓は賀茂役君(かものえだちのきみ)で、大和の葛城(かつらぎ)、茅原(ちのはら)に御降誕されました。母の御名は白専女(しろもうめ)と申します。役行者が、母胎内に託胎したとき、金剛杵(こんごうしょ)(独鈷 どっこ)の形を示しました。七か月を経て誕生し、頭上に隆起があったので小角(おずぬ)と名づけられたといいます。
・・・・・十九歳で大峰(おおみね)に入峰されたとも伝えられています。三十六歳のときに、箕面(みの)の龍窟にて龍樹菩薩が普現色身三昧(ふげんしきしんさんまい)という三昧(さんまい)の力で出現され、秘密勘頂(かんじょう)を授けられました。このことを「親しく龍樹大士に謁して、南天の鉄塔を当体に開き、遮那(しゃな)(大日)の三密を心田(しんでん)に承(う)く。入峰修行の濫觴(らんしょう)(おこり)けだしもって斯(これ)にあり」と示されています。
ここでは、葛城・金剛山・大峰・箕面という4つの地名が出てきます。「箕面(みの)の龍窟」と書かれているのですが、現在、箕面市は「みのおし」と読み、阪急箕面線「箕面」駅は「みのお」駅と読みますが、地名の由来は箕面(みのお)大滝からきていて、これは滝の姿が蓑(みの)に似ているというところから「蓑(みの)の滝」と読んだところから「みの」が「みのお」になったと聞いています。だから、昔の言い方では「箕面」を「みの」と読んだとしても考えられることでしょう。
しかし、瀧安寺は「日本四弁天のひとつ」と言っており、瀧安寺HP の「起源と歴史」https://www.ryuanji.org/history 「日本最初にして最古の弁財天」には、
《 西暦658年、役行者が箕面滝で修業し、弁財天の導きを受けて悟り宗教家として大成しました。 行者尊は報恩感謝のもとに、自ら弁財天の像を作製し、滝の側に祭祀して箕面寺と称しました。(後に瀧安寺と改称)以後、多くの修行者が入山し、山岳の道場として発展しつつ、最盛期には堂舎が八十余りも存在しました。名高い宗教家に、奈良時代の行基を始め、空海(弘法大師)、聖宝(理源大師)、圓珍(智証大師)、鎌倉時代の法然、日蓮、そして蓮如の諸師達がいます。
しかし、明治以降は時勢の大変動によって当区域のみとなり、大阪府による森林公園の企画下のもと、堂跡には土産店や食堂が建ち並んで今日に至ります。
本尊は七福神の一神である弁財天で、財運の向上、芸能の上達を願い、一方、観音堂の主尊である如意輪観音には除災招福を求め年間を通じ参拝者で賑わっています。》
と書かれています。龍樹菩薩とは高校の「世界史」の教科書にも登場する実在した人物のナーガルジュナのことのようですが、ナーガルジュナが実際に大阪府箕面市まで来たとは考えにくい。ナーガルジュナが他界後に菩薩となってからのお話ということなのでしょう。 伊矢野 美峰(いやの びほう)監修『目からウロコの 修験道』(2006.3.31.学習研究社)では《龍樹菩薩が普現色身三昧(ふげんしきしんさんまい)という三昧(さんまい)の力で出現され、秘密勘頂(かんじょう)を授けられました》というところが、瀧安寺HP では《箕面滝で修業し、弁財天の導きを受けて悟り宗教家として大成しました》とあり、龍樹菩薩なのか弁財天なのか、そのあたりの記述に相違があります・・が、こういったお話には2つ以上の説があるということは「あること」ですし、弁財天の導きで悟りを得て、龍樹菩薩が出現して秘密灌頂を授けられたのかもしれません。
「遠くの神さん、ありがたい」なんて言葉があり、私なども瀧安寺というのは近くにあったことから、特にどうと思っていなかったのですが、「日本四弁天」としてあげられる社寺では、広島県の宮島の厳島神社、滋賀県の琵琶湖の竹生島、神奈川県の江ノ島の江ノ島神社の3つの方が世間一般には有名ですから、世の中には全国的に有名な所2つと自分の所をくっつけて「日本三大◇◇」とか、全国的に有名な所3つと自分の所をくっつけて「日本四大◇◇」とか言ったりすることはよくあることで、その類か? なんて実は思ったりもしたのですが、瀧安寺の場合は、弁財天との由来については、むしろ、箕面山瀧安寺の方が他の3つよりも本来的な由来のものです。

目からウロコの修験道 (わたしの家の宗教シリーズ) - 美峰, 伊矢野
「箕面の滝」と言うと、滝道を進んでいった所にある「箕面大滝」のことを言うと私は思い込んでいたのですが、今回、鳳凰閣と圓満殿(客殿)と鳳凰閣の東、圓満殿の北あたりにある枯山水は箕面のこのあたりを枯山水で描いたものなのですが、そこで係員のおじさんから教えてもらった話によると、「箕面の滝」は雄滝と雌滝の2つがあるそうで、多くの人間が「箕面の滝」と言っているのは雌滝の方で、その少し上流に雄滝があるというのです。神社や寺などで男坂・女坂という坂があると、一般に男坂の方が旧坂で女坂の方がなだらかな坂であるか、もしくは、別経路にある坂の場合は男坂の方が段数が多く女坂の方が段数が少ないということが多いのですが、「箕面の滝」の場合は雌滝の方が落下高度は大きいようです。 役行者が修行をしたという「箕面の滝」は、今日、多くの人間が訪れる「箕面大滝」、雌滝のことだと思っていたのですが、雄滝が雌滝の少し上流にあるということですから、そうなると、役行者が修行したというのはどちらなのか、よくわからなくなってきます。今の「箕面大滝」の付近に役行者が修行をしたという所に由来する箕面寺の形跡があるということですから、雌滝の方なのでしょうか。もしくは、「瀧に打たれる」などと言っても、スーパー銭湯とかにある「打たせ湯」みたいな滝なら打たれてもいいでしょうけれども箕面大滝みたいなでっかいのに打たれたら「死んでまうわ」てもので、「箕面の滝で修行をした」といっても、その付近で修行をしたということかもしれませんね。
そういえば、私が10代の終わりから20代にかけて、うちの父親は「わしは修行を積んで悟りを開いたブッダやねん。わしはゴータマシッダールタやねんぞ、ゴータマシッダールタ。いらいらしてきたっ。わしは悟りを開いたブッダやのにからにイライラいらいらイライラしてきたっ・・てことは、おまえのせいやちゅうことやねんぞ、おまえのせい。ひとのせいにすんなよ、ひとのせいに。人間、ひとのせいにするやつは最低やぞ。人間、ひとのせいにするようになったらおしまいやぞ。わかっとんのかチャンコロ! わしは修行を積んで悟りを開いたゴータマシッダールタや、ゴータマシッダールタ。わしの言うことはブッダのお言葉であり何でもみんながみんなが何でも従わんといかんねん。わしの言うことは何でも何でも従えよ、このチャンコロろすけ! わしは修行を積んで悟りを開いたブッダやぞ、ブッダ」と何度も何度も言いまくっていました。「修行を積んで悟りを開いたブッダ」が何でそんなにイライラいらいらイライラするのか、と思いましたし、「ひとのせいにしたらいかんぞ」と何度も何度もおっしゃいますが、さっきから思いっきりひとのせいにしてるのはあんたと違うのか、とも思ったのですが、「修行を積んで悟りを開いたブッダでゴータマシッダールタ」だそうでした。「修行を積んで悟りを開いたお方」とつきあうのはしんどかった。ほんとに。「わしのことを『普通のおとうさん』などと勘違いしてはいかんぞ、わしのことを。わしはブッダでキリストで孔子で孟子で聖徳太子やねん、わしはあ」と何度も何度も耳鳴りがするくらいに言われてきました。「普通のお父さん」の方がええわあ・・と何度も思いました。「ブッダでキリストで孔子で孟子で聖徳太子のお父さん」とつきあうのは疲れました、ほんとに。横浜市港北区の日吉台学生ハイツにいた時は「修行を積んで悟りを開いたお方」は、毎日毎日、朝から晩まで「イライラつとしたからかけたってん」と言って電話攻撃してこられましたが、なんで「修行を積んで悟りを開いたお方」がそんなにイライラするのかと思いましたが、それら「釈迦で孔子で孟子でキリストで聖徳太子であるお方」でした。本当に疲れました。

シッダールタ(新潮文庫) - ヘルマン・ヘッセ, 高橋 健二

ブッダのことば: スッタニパータ (岩波文庫) - 元, 中村
北野高校の2年の時の担任だった旧姓作野礼子(女。北野高校卒⇒神戸大文学部卒。1970年代後半当時、20代)は「あなたのお父さんほどいいお父さんはないわよ」などと何度も何度も言い「私は両親が離婚したから」「私は父親がいなかったから」と何度も何でも言いまくり自慢しまくるのでしたが、そんなもん、自慢するもんと違うやろということもありますが、そんなにいいなら、とりあえず、あの「イライラっとしたらかけたんねん。いらいらっと、イライラっと、いらいらっと」と言って四六時中かけてくる電話攻撃を、あんた、引き受けてくれないかと思ったものです・・が「イライラっとしたらかけたんねん」という電話攻撃の方はまったく引き受けもせずに勝手なことばっかり言っていました。北野高校は行きたいと思っていった学校でしたので合格発表の時はうれしかったのですが、卒業して10年以上経って冷静に考えることができるようになってみると、あんまりいい学校ではなかったなと思えるようになりました。特に2年の時に旧姓作野礼子に担任持たれたのは災難でした。 うちの父親が「いらいらっとしたらかけたんねん」「いらいらあ~っとしたかけたんねん」と言って電話攻撃していた相手は私の所だけだろうと思っていたら、うちの下の姉の所にも「いらいらっとしたらかけたんねん」という電話攻撃をしていたらしく、「あの『いらいらっとしたらかけたんねん』と言って電話してくる人の電話、あれ、かなわんねえ~え」と私に言うのでした。「『いらいらっとしたらかけたんねん』と言って電話かける人は、それでいくらか『すっとする』のかもしれないけれども、瘤取爺さんの瘤と一緒でかけられた方はその分、ストレス溜まるんやからねえ」と言うのでしたが、その通りでした。旧姓作野礼子は自分はその「いらいらっとしたらかけたんねん」という電話攻撃を受けることなく、それでいて「あなたのお父さんほどいいお父さんはないわよ」だの「私ならあなたのお父さんのようなお父さんがいたらうらやましいわよ」だのと勝手なことばっかり口いっぱい言いまくって、それで「作野先生はええ先生やでえ。さすがは北野高校出てはるだけのことはある。女でも神戸大でてるだけのことあるでえ。ええ先生やでえ」などと「いらいらっとしたらかけたんねん」のおっさんから言ってもらっていたのであり、それに味をしめていたのであり、””まったくつくづく勝手な女シンドローム”” の女だった。どういう育て方をすれば、ああいう我儘・身勝手なバカ女症候群が育つのか、旧姓作野礼子を育てた母親に問いただしてみたいものだ。
庄子薫『バクの飼主めざして』(講談社)では、『赤ずきんちゃん気をつけて』とか『白鳥の歌なんかきこえない』の登場人物の庄子薫ではなく、作家の庄子薫、本名・福田章二が日比谷高校の学生だった時のことが述べられていますが〔本名・福田章二は『赤ずきんちゃん気をつけて』などの小説を書く際に、ペンネームと同名の人物を作者よりも10歳程度若い年齢の日比谷高校を卒業する年に東大闘争で東大の入試がなかった歳の高校生として描いたもので、作者の庄子薫は登場人物の庄子薫よりも10歳程度年上です。〕、「作者の庄子薫」が日比谷高校の学生だった時の日比谷高校では、学年が変わる時、各クラスの担任の教諭の所にその教諭が担任のクラスに行きたいという生徒が応募するということをやっていたらしい。1970年代に私が北野高校に行った時にはそのようなことはおこなわれていなかったが、今から思うと、大学のゼミでも学生の側が入りたいゼミに応募して採否が決められますし、人間には「相性」のようなものというのがありますから、高校のクラスもまた、生徒がこの教諭の担任のクラスに行きたい、この教諭の担任のクラスには行きたくないという希望がいくらかは認められてもいいのではないかと思う。私は1年から2年に進級する時、旧姓作野礼子が担任にはなりたくなかった。それでも、高校がそう決めたのならしかたがないかと思ったが、「どの教諭の担任のクラスに行きたい」という希望までは通らなくても、また、そういうきき方だと「いいと思う教諭」はない場合もありますが、高校の担任については「誰が担任のクラスには行きたくない」という特定の1人を忌避するということは認められた方がいいと思う。誰しも、最初はいいと思わなくてもつきあっていくうちにいい人だと思うように考えが変わることもあれば、最初はいいと思ってもそのうちに良くないと思うようになることもあるけれども、夫婦でも最初にいいと思って結婚してもそのうち良くなくなる場合もあるとしても、やっぱり、最初の時点で良くないと思う人と結婚するべきではなく、最初の時点においてはいいと思う人と結婚できた方がいいはずであり、高校の担任についてもクラス替えの際には、この教諭のクラスに行きたいという希望を完全にきいてしまうと、人気のある教諭と人気のない教諭ができて収拾つかなくなるかもしれないが、この教諭だけは忌避したいという、「忌避したい1人だけは認める」ということはするべきだと思う。もしも、私が高校の1年から2年に進級する時に「誰は忌避したいですか」という質問を受けていたら、おそらく旧姓作野礼子を忌避したい教諭としたのではないかと思う。それで、旧姓作野礼子さんを担任にされるのは誰もが忌避したかというとそんなことはないと思います。私なら忌避したいところでしたが、「ちょっと性格いがんでる系」みたいな女生徒にはけっこう人気があったみたいですから、そういう人が旧姓作野礼子さんのクラスには集まることになったでしょう。・・もっとも、それをやると「似た者同士」が集まっていいような悪いようなで、「似た者同士」がくっついて「共鳴」「増幅」する結果になってその「・・系」が強まったたかもしれませんけれども。・・又、今になって考えると、他にも忌避した方が良さそうな教諭はいっぱいいたけれどもな・・というよりも、今になって考えてみると、高校の教諭というのは、あいつらいなくてもいいのじゃないか。むしろ、いない方がいいのじゃないか・・という人がいっぱいいたような気がします。柴田孝之『東京大学機械的合格法』(実業之日本社)では「能力的にも人間的にも優秀な教師というのは、多くの人間が思っているよりもはるかに少ない」と書かれていましたが、今は私もそう思っています。

バクの飼主めざして - 庄司薫

東京大学機械的合格法―アップグレード版 - 柴田 孝之
YouTube に懲役太郎チャンネルという元ヤクザの男性が公開しているチャンネルがあり〔https://www.youtube.com/channel/UC0e6zo8oX6ISSBjPaSZsjeA/videos 〕、そこで、ゲーム会社が作製したヤクザの男性を登場人物にしたゲームソフトについて、元ヤクザから見て、その内容がヤクザの社会のあり方にあっているか間違っているかを話しているものがありましたが、そこで桐生というヤクザの男性に「おい、桐生、おめえ、みなしごだったんだってなあ」とヤクザの上役が桐生という名前のヤクザさんに話す場面があり、「ヤクザの人というのは、みなしごとか多いのですか」と質問者が言ったのに対して、懲役太郎さんは「いや、違います」と答えています。「ヤクザは『同情されたら負け』だと思っていますから、たとえ、みなしごだった人でも自分はみなしごだったなんてことは絶対に言いません。だから、みなしごだった人でもわかりませんから、だから、ヤクザにみなしごだった人が多いかどうかなんてわからないです。実際にみなしごであってもヤクザは絶対にそんなこと言いませんから」と話していましたが、その点において「私は両親がいなかったから」「私は父親がいなかったから」とギャースカぎゃーすかギャースカ自慢しまくらないとおれないシンドロームの旧姓作野礼子さんとヤクザさんとでは、ヤクザさんの方がよっぽど潔いと思えます・・し、別にヤクザさんでなくても、たとえ、両親が離婚しても父親がいなかったとしても、私が離婚させたわけでもないのに「私は両親が離婚したから」だの「私は父親がいなかったから」だのとギャースカぎゃーすかギャースカ言われても、そんなもん、知るか! まったくつくづくうるさいくだらん迷惑な女でした。「わしは悟りを開いたブッダやねん、ブッダ、ブッダ、ブッダ~あ」というおっさんが「イライラっとしたらかけたんねん」と言って毎日四六時中かけてくる電話攻撃は私に受けさせておいて、「作野先生はええ先生やで、あの人はあ」などと言ってもらう役だけ奪取していた身勝手極まりない・迷惑極まりないバカ女症候群の重症患者を北野高校の校長先生は使用者としてなんとかしてほしかった。
修験道とは何なのか。村上重良『日本の宗教』(1981.3.20.岩波ジュニア新書)には、
《 原始社会以来の山岳信仰は、仏教、道教と結びついて発展し、中世には、山伏の宗教として修験道が成立しました。平安時代には、僧や聖(ひじり)の山岳修行がさかんに行われ、密教では、山岳に籠って修行した僧の加持祈祷は、とくに効験があるとして重んじられました。山岳修行によって、効験をもたらす力を身につけることを修験といい、修行者(験者 げんざ)とよびました。修験者は、山中の大地に身を伏せて、山の霊力を直接、身に受けることから、山伏ともよばれました。
修験道では、役の小角(えんのおづぬ)を開祖と仰ぎ、南大和の大峰山系とよばれる吉野、金峰山(きんぶせん)、大峰から紀伊国の熊野にかけてのけわしい山岳地帯を最高の霊場としました。吉野、金峰山一帯は、原始神道の時代から、水の神、山の神が住む聖地とされ、やがて黄金が埋蔵されている仙郷、浄土として、ひろく信仰されるようになりました。平安前期の895(寛平7)年、真言宗の聖宝(しょうぼう)は、金峰山にわけ入って修行し、山上に寺をつくり、こののちしだいに、この地で修行する者が増えました。・・・》
《 山伏は、僧侶、神職、陰陽師のいずれでもない宗教者で、僧侶より低い身分とされ、当山派〔真言系〕では髪を剃り、本山派〔天台系〕では総髪で、独特のいでたちをしていました。山伏の修行は、宇宙の根源である大日仏とその現れである不動明王と一体となる力を得るためとされ、山伏の姿は、大日仏、不動明王のはたらきを示すものとされます。頭に頭巾、身に鈴懸(すずかけ)をまとって結袈裟(ゆいげさ)をかけ、笈(おい)と肩箱を背に、手に金剛杖と錫杖をもち、法螺貝を吹き鳴らす独特の山伏姿は、中世に定まったもので、こんにちまでつづいています。
室町中期には、十界(じっかい)修行とよばれる、水汲み、相撲、舞い、穀断ち、護摩まどの10種の基本的な修行が定められ、山伏は、これを終えると仏になるとされました。また大峰への峰入り(みねいり)の意義が、教義としてととのえられ、大峰山系の熊野側は、胎蔵界、吉野側は金剛界で、全体が両界曼荼羅をあらわすとされました。・・・
中世の山伏は、農村、歳に霞(縄張り)をつくって、加持祈祷を修め、霊場への参詣の先達をつとめました。山伏は、封建支配の境界を自由に超えて行動し、けわしい山岳の地理にもくわしいことから、みずから武装集団となって活動したり、戦闘のたびに伝令や諜者(ちょうじゃ)として使われました。源平、南北朝、戦国などの戦乱で、山伏はしばしば戦闘に参加し、敗れた武将などが、山伏を頼り、山伏に姿を変えて逃亡した例も少なくありません。江戸時代に入ると、山伏はきびしく統制されて、自由な旅を禁止されたため、その多くは農村、都市に住みついて里山伏になりました。》
と出ています。
《頭に頭巾、身に鈴懸(すずかけ)をまとって結袈裟(ゆいげさ)をかけ、笈(おい)と肩箱を背に、手に金剛杖と錫杖をもち、法螺貝を吹き鳴らす独特の山伏姿》という部分で修験道と似ているのが普化宗(ふけしゅう)です。村上重良『日本の宗教』(1981.3.20. 岩波ジュニア新書)には、
《 江戸時代には、臨済系の普化宗(ふけしゅう)(虚無宗 こむしゅう)もひろがりました。普化宗は、唐の禅僧普化を開祖とし、尺八の吹鳴(すいめい)による禅を伝えています。鎌倉時代に、下総(しもうさ)国小金の一月寺(いちがつでら)と京都の明暗寺(みょうあんじ)の二派にわかれ、室町時代には、尺八をたずさえて行脚する虚無僧(こむそう)がふえました。江戸幕府は普化宗を保護し、虚無僧を武士に限るとともに、自由な旅を許しました。そのため牢人で虚無僧になる者が続出し、江戸中期には、普化宗は18派、140カ寺に発展しましたが、弊害も大きく、幕府は普化宗を禁止して、虚無僧を臨済宗に所属させました。・・》
とあります。

日本の宗教: 日本史・倫理社会の理解に (読みなおす日本史) - 重良, 村上
明治維新のあと、国家神道を国民に植え付けようとした際に修験道は邪魔だとされたようです。伊矢野美峰監修『目からウロコの修験道』(2006.3.31.学習研究社)には、
《 たとえば全国の霊山(れいざん)――羽黒山、日光山(にっこうさん)、三峰山、石鎚山、英彦山(ひこさん)、弥彦山(やひこさん)、白山、立山、もちろん奥駈(おくがけ)で有名な大峯山(おおみねさん)も含め、すべての山は修験の山でありました。寺院や社(やしろ)が立ち並び、読経の声の断えることなく、護摩の炎の上らぬ日はなかったです。
これらの山々は、古代からの信仰を伝え、その上に神々に対する崇拝や、仏教が入り、千年以上の伝統を持った宗教である修験道の霊場として日本独自の宗教を確立させ、伝承し、そしてそれが信仰されていたのです。
しかし明治元年(1868)に、政府は「神仏分離令」を出し、これらの山々から、仏教と修験を排除し、堂を壊し、仏像を焼き、廃仏毀釈を引き起こし、古代から神社のみがあったかのごとくしてしまいました。
山に住み、山を修行の場としていた修験は、もう一つの名である山伏という名称のみを残して、山を追われたのです。
これにより、全国の山々を中心に活動していた修験は、修行の場、生活のよりどころを奪われてしまいました。さらに、明治政府は「修験道禁止令」を出し、修験自体を葬り去ろうとしたのです。修験は、世界観を共有していた天台宗・真言宗のどちらかに入るか、修験を捨てて神主になるか、帰農するかの選択を迫られました。以後、修験者は真言宗の醍醐派の僧として、また天台宗では聖護院派の僧として、また羽黒山や金峰山(きんぶせん)のように天台宗寺院の僧として修験の命脈を保って昭和20年(1945)の敗戦に至るのです。
戦後、明治政府以来の「修験道禁止令」は廃止され、修験の独立が図られ、その活動も活発になってきました。しかし、全国的に国家的に弾圧された修験道は、80年という暗黒時代から立ち直るには多くのものを失ってしまいました。・・・ 》
と書かれています。
《 たとえば全国の霊山(れいざん)――羽黒山、日光山(にっこうさん)、三峰山、石鎚山、英彦山(ひこさん)、弥彦山(やひこさん)、白山、立山、もちろん奥駈(おくがけ)で有名な大峯山(おおみねさん)も含め、すべての山は修験の山でありました。》とありますが、朝日新聞出版から発行されている『ほんとうにあった怖い話(ほん怖 ほんこわ)』に登場する「霊能者」の寺尾玲子さんは埼玉県の三峰神社にしばしば足を運ぶようですが、その三峰山も《すべての山は修験の山でありました》という「修験の山」の中に名前が出ています。寺尾玲子さんも、劇画の中で神道の方の人間だと登場人物の寺尾玲子さんが話している場面がありましたが、もしかすると、神道か修験道かそういった山岳宗教の系統の人なのかもしれませんね。
《 以後、修験者は真言宗の醍醐派の僧として、また天台宗では聖護院派の僧として、また羽黒山や金峰山(きんぶせん)のように天台宗寺院の僧として修験の命脈を保って昭和20年(1945)の敗戦に至るのです。》とありますが、修験道は天台宗系か真言宗系の寺となったところがあって、箕面山 瀧安寺は今は「本山修験宗」となっていますが少し前まで天台宗の寺となっていたように、天台宗系の寺として存続し、瀧安寺よりも箕面駅に近い場所にある聖天宮 西江寺(しょうてんぐう さいこうじ)は今は高野山真言宗に属しているように真言宗系の寺になった、ということだったのでしょう。
《ウィキペディアー本山修験宗》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E5%B1%B1%E4%BF%AE%E9%A8%93%E5%AE%97 には《本山修験宗は神社も包括しており宗教法人格を有する神社も4社属している。》とあり、瀧安寺は寺になっていますが、修験道というのは、寺なのか神社なのかといっても中間的な存在ということになるのでしょうか。
うちの母親などは大峯山は嫌いだと私が子供の頃から言っていました。どこが嫌いかというと、山の絶壁のような所に子供を連れていって「親孝行するかあ~あ?」と脅して、無理矢理「親孝行します~う」と言わせるという、そういうのが嫌いだと言っていたのです。私もそういうのは好きではありません。秋田県の「なまはげ」と似ていますね。鬼の面をかぶったおっさんが出刃包丁みたいなはりぼてを子供につきつけて「親孝行するかあ~あ?」とか言って子供にわんわん泣かせる・・・て趣味の悪い行事、あんなことやっていったい何がいいのか、何がうれしくてあんなことするのかと思います・・・が、水木しげる の本によると、実は「なまはげ」というのは、本来はそういうものではなかったらしいですね。
「なまはげ」というのは「生(なま)の禿げ」・・・のことではなくて「怠け者にできるマメをはぐ」ということらしい。水木しげる『水木しげる妖怪文庫(一)』(1984.7.4.河出文庫)には「あまめはぎ」が掲載されています。
《 あまめはぎ
東北や北陸といった雪国の冬の夜に出る、妖怪とも神のお使いともつかぬものである。秋田地方などでは「なまはげ」というのがいるが、それと似たものであろう。そういうと読者は「ハハーン」と思い当たられるかもしれないが、観光用の見せ物となった「なまはげ」はあまりおもしろくもない。
「なまはげ」という呼び名からはげの一種のように誤解されそうであるが、これは「なまはぎ」のことである。「はぎ」とは、皮を剥ぐの「はぎ」である。「なま」というのは、怠けの「なま」であり、なま白いなどという「なま」でもある。
「あまめはぎ」もこれとほぼ同様である。「あまめ」というのは足などにできるたこのことで、普通のたこは一生懸命に働く人にできるのだが、「あまめ」はいわば「怠けだこ」のことなのだ。その怠けだこを剥ぎ取りに来るのが「あまめはぎ」ということになる。
雪の深い夜、特に農事歴からみて年がわりになる夜に、二匹、三匹と怖ろしい顔をして現れる。そして怠け者、無精者をとって喰う。特に好物なのが「あまめ」なのである。
大変教育的ともいえる妖怪なので、農家ではこれを歓迎した。やって来ると「あまめはぎ」を家に上げ、甘酒などでもてなし、この年も一生懸命に働きます、と誓ったものだという。
子供に対する効果も抜群で、泣く子や親の言うことを聞かぬ子もすぐにおとなしくなったということで、いわば村の「産土神(うぶすながみ)」が、村民全体を監視しているようなものである。
四国にも、なんとかこさぎというのがいて、怠けてコタツにあたっている者をおどすというから、そういう妖怪神みたいなものは、おそらく調べれば全国にいるのだろう。》
と書かれている。

水木しげるの妖怪文庫〈1〉 (河出文庫) - 水木 しげる
だから、秋田県でやっている子供に「親に孝行するかあ」とか言って包丁のレプリカを押しつけて脅して泣かせる「なまはげ」というのは、あれは本来の「なまはげ」ではない。あれは「なまはげ」としては偽物なのだ。子供に包丁のレプリカを押しつけて「親孝行するかあ!」などと脅して何が楽しいのか? 悪趣味極まりない。 ・・大峯山で子供をがけから突き出して「親に孝行するかあ~あ?」などとやって喜ぶ「修験道」というのも、それも修験道としてはイカサマの修験道ではないか・・と思う。
北陸のあたりの「あまめはぎ」・秋田県の「なまめはぎ」は、本来のものは、いずれも「怠け者にできるたこ」を剥ぐ妖怪であり、トルストイの『イワンのばかとその2人の兄弟』の話では、ばかのイワンの妹は盲目であったことから、ひとの手のひらをつかんでせっせと働いたまめがあるかどうかで判断をして、ろくに働いていないと思われる手をしている者には食事を提供しなかったという話になっていたと思う。イワンは3人兄弟の末っ子で、長男は軍人のセミョーン・次男は商人でほてい腹のタラース・・いわば「慶應ボーイ」みたいなもので、ある時、悪魔がこの3人兄弟を罠にかけてやろうとして子供たちを送り込む、悪魔の子は最初、長男で軍人のセミョーンにカラ元気を吹き込み、勢いに乗って侵略戦争を起こさせるが最初は勝っていてもそのうちに、こっぴどく負けてすっからかんになってしまう。次に次男の商人でほてい腹のタラース(別名「慶應ボーイ」)の所に行き、もっと儲けたいと思わせて、そして、一時は儲けてカネをためこんでもそのうちに失敗してすっからかんにしてしまう。最後に、バカのイワンの所に行った悪魔の子は、バカのイワンに「働かなくても頭を使って食べていける方法」とか教えるが、なにしろ、イワンはバカなものだから「頭を使って食べる方法」なんて言われてもできないから、だから、今まで通り、汗水流して働く。こうなったらイワンの農作業の邪魔をしてやれと悪魔の子は思って、イワンが土を耕す鋤をつかんで動きにくいようにするが、バカのイワンはなおさら一生懸命力を振るって鋤を地面につきさすと、悪魔の子は鋤によって地面に突き刺されてしまう。「お願いです。助けてください」と懇願する悪魔の子に対して、イワンはなにしろバカなものだから、悪魔の子に対してもかわいそうに思って許し、「神さまがいつもあなたと一緒におられますように」と悪魔の子に対して祈る。普通の人間にならそう祈ってもらえば祈りはその人間にとって役立つのだが、悪魔の子は「神さまがあなたと共におられますように」と祈られると地の底まで落ちてしまう。このバカだけはどうしようもないと、とうとう、親の大悪魔がイワンを陥れようとしてやってくるが、大悪魔は「体を動かして働かなくても頭を使ってカネが手に入る方法」とか説くが、イワンの友人たちというのはイワンと同様のバカばっかりだったので、バカどもは「頭を使って稼ぐ方法」なんて言われてもできないから、相変わらずせっせと体を動かして働く。このバカどもはどうしようもないと大悪魔は憤る・・・というお話だが、バカのイワンの盲目の妹は、働かない人の手にはまめがないということから、まめのない人には食事を提供しないようにしたのだが、「まめ」にも働く人間にできる「まめ」と働かない人間にできる「まめ」があって、働かない人間にできる「まめ」である「あまめ」が「あまめはぎ」という妖怪にとっては大好物だったというのだ。
《ウィキペディアーあまめはぎ》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%82%E3%81%BE%E3%82%81%E3%81%AF%E3%81%8E には《囲炉裏や火鉢に長くあたっているとできる火だこ(温熱性紅斑)のことをアマメと言い、怠け者の証しとされている。これを剥ぎ取る妖怪がアマメハギである。》 《ウィキペディアーなまはげ》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%AA%E3%81%BE%E3%81%AF%E3%81%92 には《 冬に囲炉裏(いろり)にあたっていると手足に「ナモミ」 「アマ」と呼ばれる低温火傷(温熱性紅斑)ができることがある。“それを剥いで”怠け者を懲らしめ、災いをはらい祝福を与えるという意味での「ナモミ剥ぎ」から「なまはげ」 「アマハゲ」 「アマメハギ」 「ナモミハギ」などと呼ばれるようになった。》と書かれている。『聖書』にある「働かんと欲せざるものは食うこともしてはならない」という文句に通じるものではないか。この文句は身障者とか老人とか子供とかで働けない人は食うな、身障者や働けなくなった老人は殺せとかいう意味ではない。大人で働こうと思えば働けるのに働かないのはいけないという意味で、「あまめはぎ」「なまはげ」も働こうと思えば働ける大人を戒める妖怪だったはずで、それを子供に包丁のレプリカを突きつけて「親に孝行するかあ」などと言って泣かせる悪趣味極まりない・児童虐待以外の何物でもない行事にしてしまっている秋田県の男鹿半島のあたりの「なまはげ」やっている人は、そのあたりをよく考えた方がいいと思う・・・し、同様に、大峯山で子供を山のがけのような所からロープで身体をくくって身を乗り出させて「親に孝行するかあ~あ?」などと言うというニセ修験道はその態度を改めた方がいいと私は思う。そのようなものは害があって益はない。
・・・もっとも、何年前だったか、テレビで秋田県の「なまはげ」について取材した番組で、地元の人に「ちょっと、やって見せてもらうことはできますか」とお願いすると、「いいですよ」と「なまはげ」の衣装を着て「がお~っ」とやると子供がきゃっきゃ言って大喜び。アナウンサーが「◇◇ちゃん、怖くないの?」ときくと、「怖くないよ。だって、パパだもん♪」と子供は話していたということもあった。
私は小学生や中学生の頃、「学生は勉強が仕事ですから」と誰からか聞いてそういうものだと思っていた。ところが、私が大学生になると、うちの父親は「大学というのは勉強する所とは違うねんぞ、勉強する所とは。大学はアルバイトする所やねんぞ、アルバイト」と言い、「アルバイトを嫌がる人間はモラトリアム人間病という病気にかかっている人間です。治療してやらんといかん、治療してやらんと」と言い、私にアルバイト漬けにした。ある夏休みの後、少人数の授業で助教授が夏休みに何をやったかときかれ、「箱根の保養所で泊まり込みで『雑務』のアルバイトを2か月弱やりました」と話すと、「きみ、そんな保養所の下男みたいなものをやっていたら勉強できんだろ」と言われたが、実際、その通りだった。なぜ、私だけが「あるばいとお、アルバイトオ、あるばいとお、アルバイトオ」と言われてアルバイト漬けにされなければならないのか・・と思った。そもそも、小此木啓吾は慶應大学の医学部の学生だった時にそんなにアルバイト漬けしていたか・・というと、あほくさ、内部進学の小此木啓吾、「揺り籠から墓場まで慶應」(小学校:慶應、中学校:慶應、高校:慶應、大学:慶應、勤め先:慶應)のサラブレッド的慶應・「ほんものの慶應」というのか「ほとんどビョーキ」というのかの小此木啓吾がそんなもの、やってるわけないだろうが。あほくさ( 一一) ・・で、なんで、私ならば「あるばいとお、アルバイトオ、あるばいとお、アルバイトオ」とアルバイト漬けにされても「モラトリアム人間病にかかってるから治療してやらんといかん、治療してやらんと。電気ショックやったるべきや、電気ショック♪ ロボトミーやったるべきや、ロボトミー♪」などと言われなければならず、内部進学小此木啓吾はアルバイト漬けには程遠い優雅な生活を送っていてもモラトリアム人間病と「診断」されたりはしない・・というのは、この違いは一体何なんだ・・というと、それは「民族と階級が違う」ということだったようだ。うちの父親は私に「民族の違いを忘れるな」「階級の違いを忘れるな」と毎日毎日、ぼくらは鉄板の上で焼かれて嫌になっちゃうくらいに言い続けたが、言われ続けて、そして言われた側は「民族の恨みを忘れるな(不忘民族恨)」「階級の苦しみを忘れるな(不忘階級苦)」と心の底から思うようになった。

中国の旅 (朝日文庫) - 本多 勝一

毛沢東 (1967年) (角川文庫) - ロバート・ペイン, 宇野 輝雄
「作家で精神科医」の なだ いなだ が『お医者さん』(中公新書)で、「アル中」「アルコール中毒」という「病気」が難しいのは、たとえば、月に5万円を酒代に使う男がいて「アル中」だと言われるが、この男は納得しない。なぜなら、この男が飲みに行く店に、毎月10万円を酒代に使う男がいるにもかかわらず、月に10万円を酒代に費やす男は「アル中」と言われずに月に5万円を酒代に使う時分が「アル中」と言われるというのは不当だと思うわけだ。しかし、月に10万円を酒代に費やす男は年収が相当多くて、月に10万円を酒代に使っても生活に困ることはなく、「体に気をつけてね」と言われるくらいのものであるのに対して、月に5万円を酒代に費やす男はそれほど収入が多くないので月に5万円も酒代に費やしたら生活できなくなってしまう。だから、月に10万円を酒代に使う男は「アル中」と言われずに、月に5万円を酒代に使う男が「アル中」に言われることになる・・という話を述べていたが、それと似ている。小此木啓吾とか、あるいは中学校・高校と同じ学校に行ったうちの親が大好きな「野口くん」は週末に1日、3時間程度の塾の講師をやっていただけで、「川村くん」は1回2時間の家庭教師を週に2回やっていただけだったが、それでも「モラトリアム人間病」とは言われず、又、うちの父親の親友の医者屋のM川(1980年頃当時、50代前半。当時、大阪府豊中市在住)のドバカ息子は父親が「患者」を薬漬け・検査漬け・毒盛りして得たカネで私立金権関西医大に裏口入学して、裏口入学したらしたで父親が「患者」を薬漬けにして得たカネでゴルフ道具を買って父親が「患者」を薬漬けにして得たカネでゴルフやって遊んでいたが、それでもそいつらは「モラトリアム人間病」とは「診断」されず、私は「あるばいとお」「アルバイトオ」「あるばいとお」とアルバイト漬けにされてもそれでも、「こいつ、モラトリアム人間病にかかっとるから、そやから、電気ショックやったらんといかん、電気ショック♪ ロボトミーやったるべきや、ロボトミー♪」と、うちの父親から言われることになるのだった。これは「民族の違い」「階級の違い」というものによるようだった。まさに「民族の恨みを忘れるな(不忘民族恨)」「階級の苦しみを忘れるな(不忘階級苦)」というものだった。
そもそも、小此木啓吾こそ「慶應的精神空間」から外に出ては生きていくことができない「モラトリアム人間病」と違うのか。小此木啓吾こそ、電気ショック療法とかロボトミーとか受けた方が世のため人のためと違うのか。小此木啓吾こそ「入院療法」(=逮捕監禁)・「薬物療法」(=薬漬け・毒盛り・化学的ロボトミー)・「作業療法」(=強制労働・無賃労働・労働搾取)とか「カウンセリング」「心理療法」(=言いくるめ・洗脳)とかの「療法」を受けて「治療」された方が世のためではないのか?!? 「慶應的精神空間」から外に出ると3分以内に戻らないと小此木啓吾の胸のカラータイマーが点滅する。カラータイマーが青から黄色に変わり、黄色の点滅から赤に変わると、小此木啓吾はもはや立ちあがれなくなってしまうのだ。急げ、小此木啓吾、大急ぎで「慶應的精神空間」に戻るのだ・・・〔⇒《YouTube-Ultraman vs Zetton [1966]》https://www.youtube.com/watch?v=S0Wa9hYx0Oo 〕

スタンガン
( ↑ 「電気ショック療法」)
地獄へ落ちろ、小此木啓吾! さっさと死にやがれ、小此木啓吾! と思っていたら、小此木啓吾は2003年9月に野垂れ死にした。
うちの母親は子供の体にロープをくくりつけた上で山の絶壁のような所から身を乗り出させて「親に孝行するかあ~あ!」などと言って脅す「大峯山(おおみねさん)」が好きではないと言っていたが、私も嫌いだ。本来は怠け者にできるマメを剥ぐ妖怪である「なまはげ」を子供に包丁のレプリカを押しつけて「親に孝行するかあ」などと言って泣かせて喜ぶ「なまはげ」という悪趣味極まりないもの、人間の質が悪くなるとこのようなものをやって喜ぶようになるのか( 一一) と思われるようなものに変えてしまったニセ「なまはげ」は嫌いであるのと同じく、大峯山は大嫌いである。
伊矢野美峰監修『目からウロコの修験道』(2006.3.31.学習研究社)には、
《 法と術
昔の修行者は、いろいろな術を用いました。落馬法といって、術をかけると騎乗者が落馬する法もあったそうです。現代では馬に乗る人は少ないですが、交通などで馬が主要な時代には珍重されたのでしょう。
ここで法と術の違いを考えますと、術はもって生まれついた力とでもいいましょうか、その人、一人が用いられるものです。ですから人に教えられたから効くというものではありません。それに対して法は如法(にょほう)修行(教えの如く法に随って修行)すれば、二か三しか持って生まれた力がなくても七か八に至ることができるものです。ですから私心を捨て、如法に修行することが肝要なのです。》
と書かれたところもあります。
私がその会社を離れた後につぶれたという会社が複数あるのですが、あれは私が落馬法ならぬ倒産法という法を用いたことによるもの、いわば、「すでに倒産秘孔をついた。おまえはもう死んでいる」という法を用いたことによるものだったのか・・・? 1社ではなく複数の会社がつぶれたということはそうだったのか?・・・〔⇒《YouTube-北斗の拳:ケンシロウ VS ダイヤモンド (交首破顔拳&お前はもう死んでいる)》https://www.youtube.com/watch?v=gmDYbTPZ0_8 〕・・いや、そういうことではなくて、私はその会社を良くしようと自分を犠牲にして尽くしてきたのであり、自分を犠牲にして会社に尽くす従業員を粗末な扱いにするような会社は「長い目で見るならばハリコの虎」であったのだ。『築地魚河岸三代目』という漫画には、築地の魚市場の仲卸の業者の間でつぶれそうな店があると出現する疫病神のように言われ、「ハイエナ」とあだ名で呼ばれる男性がいた。魚辰の三代目が「ハイエナと言われるのは嫌じゃないですか」と言うと、「それ、なかなかいいよね」と言う。「疫病神みたいに言われてもいいのですか」と言うと「それは嫌だな」と言う。築地のサラブレッドと言われる「新宮」の三代目に「あの方とつきあうと店がつぶれるといううわさがありますが」と尋ねると「うちは今もつきあっていますが、つぶれてませんよ」と言う。「あの人は我々と同じ仲卸の三代目だった人ですが、親から受け継いだ店をつぶしてしまった人なのです。ですが、目利きの能力は確かですから、だから、よその店が売り残したものを買って売るということができるのです」と言い、だから、ハイエナなのかと魚辰三代目は納得するが〔かつ、その人の名字が海江田(かいえだ)だったところから「ハイエナ」とあだ名がついた〕、「それなら、なぜ、つぶれそうな店にはあの人は出現して疫病神のように言われるのでしょう」と尋ねると、「あの人は自分が店をつぶしてしまった経験があるから、だから、人の店を見て危ないと思うと助言してあげようとするのです。疫病神だのというのは、それをきかずに店をつぶした者が言ってることですよ」と。いわば、そっちの方に似ているよな。会社のためを思ってこんなことではだめだと思って言うと気に入らないという会社経営者というのはいるようだ。そして、会社をつぶしてしまうに至るアホウの経営者もいるようだ。人によってはそれを見て、落馬法ならぬ倒産法でも使ったか、もしくは「すでに倒産秘孔をついた。おまえはもう死んでいる」となったと北斗倒産拳でも使ったかと見えるかもしれない・・というよりも、南北朝の争乱の時、南朝のために尽力した楠木正成が最後に湊川で敗死する前、今の大阪府三島郡島本町の桜井駅(さくらいのしゅく)で息子の楠木正行と別れを惜しんだ際に、「正しい意見が通らないようではだめだ」と楠木正成が南朝のためを思って発言したものがことごとく否定されてしまう南朝の負けを予測した言葉を残して湊川に向って敗死したというが、会社のためを思って自分を犠牲にして尽くしてきた従業員を粗末な扱いにして、会社のためを思っての発言に激怒したり無視したりするような経営者の会社というのは「正しい意見が通らないようではだめだ」という会社であり、「ハリコの虎」(「見かけは恐ろしいがその実力はたかが知れている」)の会社であり、そして、「おまえは、もう死んでいる」状態の会社だった・・と考えるべき・・・か。〔⇒《 》
〕考えてみれば、尽くしても尽くしがいのない会社のためにずいぶんと滅私奉公・破私奉公してきたものだ。
「大護摩場」の後ろに、↓


↑ この祠は「五所明神社」と書かれている。
静岡県浜松市のJR「浜松」駅の北西のあたりにも、五社神社という神社があるが、あれと同じなのか違うのか・・・。
《ウィキペディアー五所神社》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E7%A4%BE%E7%A5%9E%E7%A4%BE を見ると、
《 五社神社(ごしゃじんじゃ)とは、日本全国に存在する神社の名称である。》
《 社名は5柱の神を祀るという意味で、何らかの理由により5社を統合した神社や、元々1社に5柱の神が祀られている神社などにつけられている。五所神社、五所社(ごしょじんじゃ)としているものもある。同一の社名であっても分社・勧請などをしたものではなく、祭神は一定でない。》と書かれている。浜松の五社神社の場合は《ウィキペディアー五社神社・諏訪神社》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E7%A4%BE%E7%A5%9E%E7%A4%BE%E3%83%BB%E8%AB%8F%E8%A8%AA%E7%A5%9E%E7%A4%BE によると、《 太玉命、武雷命、斎主命、天児屋根命、姫大神の五柱の神を主祭神とし、ここから「五社神社」という社名になっている。元々は太玉命を祀る神社であったものに、春日大社の祭神四柱を勧請して現在の五柱となったものと見られている。》というものらしいが、箕面山瀧安寺の境内の五所明神社の祭神はまた別でしょう・・けれども、どの神さんが祭神なのかはわからない。
↑ 祠の右下の所に小さい断り書きみたいのがあるが、何と書いてあるかというと、↓

↑ 「浄財は賽銭箱に喜捨ください。盗られます」と書かれている。 で、入れてくれという場所が ↓

今となっては十年以上前、大阪市の住吉大社に行った時、なんだか賽銭箱がいっぱいあるなあ・・と思い、賽銭箱があるからには1円でも5円でも入れていかなきゃいけないのか・・と思って小銭を入れてまわったが、そのうち、あまりにも賽銭箱がいっぱいあって、ここの神社はそんなにお賽銭を何回も入れなきゃいけない神社なのか・・と思ったのだったが、それは意味が違ったと思う。賽銭箱が置いてあれば必ず1円でも5円でも入れなきゃならないというものではなく、そこの神社なり寺なりで主要な所と自分が特にお願いしたい所とくらいにお賽銭は入れればいいことで、それ以外の所は入れても入れなくてもいいのです。 又、今となっては十年以上前、京都の大原の三千院に行った時、三千院のお坊さんが参拝者の人に「御賽銭を入れないと拝んではいけないというものではないのです。御賽銭を入れなくても拝んでいいのです。それで、遠くから来られた方が、もしも後からお賽銭を入れてくるのを忘れたと思ったならば、自分がよく行く近くのお寺に行ってそこの賽銭箱にお賽銭を入れればいいのです」と話されていたのを横で聞いたことがあります。
お寺であれ神社であれ、賽銭箱が置いてある限り1円でも5円でも必ず入れないといけないのかというとそうではないと思います。必ず1円でも5円でも入れなければならないというものではないけれども、賽銭箱を設置しておかないと、祠の前とかに置いていく人があり、せっかくお賽銭のつもりで置いていかれたものを盗られてしまうことがあるということがあり、もうひとつは、そこに置いていかれたという場合、それはお賽銭のつもりで置いていかれたものか、それとも忘れ物・落とし物なのか判断が難しいという場合もあるのではないかと思います。だから、御賽銭であるならばお賽銭箱に入れるようにしてくださいという意味なのだと思います。
YouTube に入ってい番組で、賽銭泥棒について撮影したものを見ましたが、神社だったか寺だったかで、警察官が張り込んでいるところに賽銭泥棒が来て盗んだ後、警察官に追いかけられて走りまわった後、捕まった人に宮司さんだったか住職だったかが「あなた、さっき、逃げようとしてものすごい速さで走り回っていたでしょう。あなたはそれだけの速さで走ることができる体力のある人じゃないですか。ここの御賽銭は90台のお婆ちゃんが入れたものも小さい子供が入れたものもあるんですよ。あれだけ走り回ることができる体力のある人が、そんなお婆ちゃんや子供が入れたようなお賽銭を盗んではだめじゃないですか」と話し、「はい」と答えていたのを視聴しました。実際に、賽銭泥棒をする人というのは、本当にその日の生活費に困って「神さん、助けてください。生活に余裕ができたら返しますから」と盗る人よりも、そうではない人の方が多いのではないか。 YouTube で九州の方の神社だったように思うのですが、賽銭泥棒の男性を宮司さんが捕まえて警察に引き渡した後で、「最初は捕まえても『すいません』と言って返してもらえば、そのまま帰ってもらうつもりでいたのですが逃げられたので追いかけて捕まえるということになってしまった。悲しい結果になってしまいました。盗られる前に声をかければよかった」と宮司さんが話しておられたものがありました。 片方で、あるお寺では住職が賽銭箱というものに鍵をかけたくないと、鍵をかけないかわりに賽銭箱の引き出しを引いた所に封筒に千円札2枚と「賽銭泥棒をされる方へ。このお金はあなたに出世払いで御貸しします。そのかわり、御賽銭には手をつけないでください」と書いたものを入れておいたけれども、それでも賽銭を盗まれたというニュース番組がありました。
たしかに、賽銭箱といったものに頑丈な鍵をとりつけるというのは抵抗を感じますが、しかし、盗れそうだと思うと盗む人でも簡単に盗れないと思えば賽銭泥棒をしないですむという面もあります。九州の神社の宮司さんが「盗られる前に声をかければよかった。悲しい結果になってしまいました」と話されたけれども、そういったことを考えるならば、きっちりと鍵をかけて盗れそうにないようにしておけば、賽銭泥棒をするに至らなかったかもしれないという人もいるかもしれません。そう考えるならば、片方で賽銭箱というものに厳重な鍵をかけるというのは気が進まないという面もあるものの、何らかの縁があって宗教施設に足を踏み入れた人を警察に引き渡すということをしなくてすむようにするには賽銭箱にはきっちりとした鍵を設けるようにした方がいいのかもしれません。
観音堂・法筺堂と大護摩道場との間で西側に登る石段があります。↓

↑ この石段を登っていって右に曲がった先に弁天堂などがあります。
滝安寺は、鳥居から山門・観音堂に至るエリアと、この石段を登っていった右手の弁天堂などがあるエリア、それに観音堂などがある所から瑞雲橋という橋で箕面川を渡った東側(川の左岸)の鳳凰閣・圓満殿などがあるエリアの3つのエリアからなります。 観音堂などがあるエリアは箕面駅から箕面大滝に至る滝道から鳥居を経て入れますが、弁天堂などがあるエリアは観音堂などがあるエリアからは石段を登っていくことになるけれども、弁天堂の後ろの所で滝道に出ることもできます。
※ 箕面山瀧安寺HP https://www.ryuanji.org/
箕面山瀧安寺HP「境内案内図」https://www.ryuanji.org/map
次回https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/498747248.html は石段を登り、弁天堂などがあるエリアに行きます。
(2023.3.25.)
☆ 箕面山瀧安寺と鳳凰閣1~13
1.箕面駅から一の橋まで。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/498565198.html
2.笹川良一「孝養の像」のばかばかしさ。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/498624594.html
3.一の橋より梅屋敷。箕面川がカーブしている所(夫婦橋休憩所)まで https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/498642163.html
4.「森秀次君之像」・野村泊月句碑・昆虫館・延命地蔵?より瀧安寺鳥居までhttps://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/498667552.html
5.山門・手水舎・観音堂・法筺堂。山門の前から見える鳳凰閣・圓満殿 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/498680952.html
6.大護摩道場・五所明神社 〔今回〕
7.弁天堂・大黒堂・行者堂・白龍大明神・箕面山神社・熊野三所権現・妙音天。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/498747248.html8.瑞雲橋を渡り、鳳凰閣・圓満殿(客殿)のエリアへ。圓満殿外観と「岩本坊跡」https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/498792510.html
9.圓満殿(客殿)。松の間・鷲の間・貴人の間。畳敷の踏込式・「敷込袋」の床脇https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/498821055.html
10.圓満殿。「玉座」のある間と床の間・床脇・付書院。龍虎の間。圓満殿から見た箕面川西岸地域。 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/498915742.html
11.屋根上に鳳凰がいる鳳凰閣、2階のみ着色が周囲と調和。西・南・東より見て https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/498951322.html
12.東・南から見た鳳凰閣、鳳凰閣内部、三間続きの和室と格天井。北面全面の床の間。鳳凰閣和室から紅葉とともに見る箕面川西岸側はきれい。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/499187585.html
13.箕面川渓谷を表現した枯山水。箕面川と紅葉。浜口雄幸狙撃と安倍晋三銃撃は意味合いが違う。統一教会・倫理研究所などの迷惑な「宗教右翼」を何とかしてくれ。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/499217764.html
☆ 箕面山 聖天宮 西江寺1~4
1.箕面駅前、「日本最初大聖歓喜天出現霊場」碑から西江寺の西側の坂道まで。正反対の性質の心療内科と「精神科」を同時に掲げる「クリニック」の矛盾。ニーチェなどが学ぶべきだという心理学と小此木啓吾らのエセ心理学とは別物。》https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/499514748.html
2.中ノ坂 を登り西江寺まで。箕面の山の地主神の白髪の翁・大聖歓喜天と役行者との出会い。 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/499547852.html
3.石段を登り、右手に天満天神・吉野・吉竹・金毘羅の祠。登り切った正面に大黒堂。「摂津国神宮寺」が神仏分離で西江寺に名称変更。豊島郡片手村から箕面村へ。外界世俗から密教的世界への障害を守護する威力神として大聖歓喜天が祀られる。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/499567214.html
4.大黒堂前から聖天堂。箕面山荘前への山道。弁財天堂。白龍歓喜天。中ノ坂からの眺望。強制労働の「患者」の労働を搾取して、他方で江崎グリコ(株)から内職代を取得する「医者」「病院」は「一粒で二度おいしい」、そんな「江崎グリコを守れ」と主張する者は正義なのか?https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/499590837.html
☆ 箕面山 瀧安寺と箕面大滝について、
⇒[哲建ルンバ]《瀧安寺と箕面大滝に行ってきました。~建築探訪・建築巡礼 第2回 〔引越掲載〕》https://philoarchi2212.seesaa.net/article/201101article_25.html
☆ 聖天宮 西江寺については
⇒[第476回]《紅葉の箕面 西江寺(さいこうじ)(箕面聖天) と 摂社 天満大自在天神(大阪府箕面市)参拝》https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201611article_5.html
「哲建ルンバ」《箕面山聖天宮西江寺へ行ってきました。~建築探訪・建築巡礼第4回〔引越掲載〕》https://philoarchi2212.seesaa.net/article/201101article_29.html
箕面山 瀧安寺(大阪府箕面市)の鳥居をくぐり、山門をくづった正面にあるのが観音堂。観音堂の後ろの左(西)に法筺堂があり、観音堂と法筺堂の後ろに、↓
↑ 右側の石碑には「修験根本道場」と書かれています。
↑ 子どもの頃、これは何だろう? ・・と思ったものでしたが、これは、↓ こういうことをする所のようです。
「大護摩道場(おおごまどうじょう)」で《年に3度、山伏が参集して修法しています。》( 箕面山瀧安寺HP「境内案内図」https://www.ryuanji.org/map )という所のようです。
箕面山瀧安寺HP 「年間行事」https://www.ryuanji.org/schedule 「採燈大護摩供」には、
《 毎年4月・7月・11月に関西一円より山伏が集結し、世界平和をはじめ参拝者の願いを護摩木に添えて不動明王に届けます。渦巻く煙、燃え上がる炎の中、山伏たちの法螺貝が道場に響き渡る様は、箕面山が元は修行のお山であったことを改めて想起させてくれます。
この日は阪急箕面駅前から瀧安寺まで「山伏大行列」が行われます。》
と書かれています。
これって、もしかして、「心頭滅却すれば火もまた涼し」とか言って桝形に組んだ木の上をはだしで渡るとかするのだろうか・・・とか思ったりもしましたが、そういうことではないみたいです。
又、「山伏」と言われる人がやるのなら、その「山伏」のおじさんて普段はどこにいるのだろうか。箕面のそのへんにいる「普通のおじさん」が突如、漫画に登場するような山伏に変って超能力みたいのを発揮するのだろうか・・とか思ったりもしたのでしたが、瀧安寺のホームページによると《関西一円より・・集結》するようで、すべての「山伏」が普段から箕面にいるわけではないようです。
箕面山瀧安寺は今は「本山修験宗」、かつて、天台宗に属していた時もあったようです。箕面には瀧安寺よりも箕面駅に近い場所に聖天宮西江寺がありますが、西江寺は今も高野山真言宗に属しているようですが、西江寺も修験道系ではないかと思われます。
修験道というと、大峰山とか日光とか、もしくは生駒山とかを思い浮かべますが、実は箕面も修験道としては由緒のある土地なのです。
伊矢野 美峰(いやの びほう)監修『目からウロコの 修験道』(2006.3.31.学習研究社)には、
《 修験の開祖は役行者です。日本国六十余峰を開かれ、入峰(にゅうぶ)高祖(こうそ)とも称されます。
役行者の本地(ほんぢ)について述べますと、『行者自記』に「昔、西天(さいてんに居り釈迦如来の心印を受けその名を迦葉尊者(かしょうそんじゃ)と号し、今、東土(とうど)(日本)に住して大日如来の密行(みつぎょう)を修め、その名を役優婆塞(えんのうばそく)と称す」とあって、禅門と密教をともに行じたと説かれています。》
とあります。修験道には禅宗と真言宗・天台宗と似たところがあるように思えるのも、そのあたりからでしょうか。
《 また、経に、「東方に山あり金剛(こんごう)という。彼の山に菩薩あり法起(ほっき)という。千二百人とともなりき。師子座(ししざ)に坐し説法をなす」とあり、葛城(かつらぎ)金剛山(こんごうさん)がこの山で、役行者の秘密の名を法起菩薩と申し上げるのです。行者は、毘盧遮那(びるしゃな)如来の真実の智慧を得、不動三昧(ふどうさんまい)を完成させ諸摩を降伏(ごうぶく)したことにより不動明王の化身とも崇めます。
役行者は、俗姓は賀茂役君(かものえだちのきみ)で、大和の葛城(かつらぎ)、茅原(ちのはら)に御降誕されました。母の御名は白専女(しろもうめ)と申します。役行者が、母胎内に託胎したとき、金剛杵(こんごうしょ)(独鈷 どっこ)の形を示しました。七か月を経て誕生し、頭上に隆起があったので小角(おずぬ)と名づけられたといいます。
・・・・・十九歳で大峰(おおみね)に入峰されたとも伝えられています。三十六歳のときに、箕面(みの)の龍窟にて龍樹菩薩が普現色身三昧(ふげんしきしんさんまい)という三昧(さんまい)の力で出現され、秘密勘頂(かんじょう)を授けられました。このことを「親しく龍樹大士に謁して、南天の鉄塔を当体に開き、遮那(しゃな)(大日)の三密を心田(しんでん)に承(う)く。入峰修行の濫觴(らんしょう)(おこり)けだしもって斯(これ)にあり」と示されています。
ここでは、葛城・金剛山・大峰・箕面という4つの地名が出てきます。「箕面(みの)の龍窟」と書かれているのですが、現在、箕面市は「みのおし」と読み、阪急箕面線「箕面」駅は「みのお」駅と読みますが、地名の由来は箕面(みのお)大滝からきていて、これは滝の姿が蓑(みの)に似ているというところから「蓑(みの)の滝」と読んだところから「みの」が「みのお」になったと聞いています。だから、昔の言い方では「箕面」を「みの」と読んだとしても考えられることでしょう。
しかし、瀧安寺は「日本四弁天のひとつ」と言っており、瀧安寺HP の「起源と歴史」https://www.ryuanji.org/history 「日本最初にして最古の弁財天」には、
《 西暦658年、役行者が箕面滝で修業し、弁財天の導きを受けて悟り宗教家として大成しました。 行者尊は報恩感謝のもとに、自ら弁財天の像を作製し、滝の側に祭祀して箕面寺と称しました。(後に瀧安寺と改称)以後、多くの修行者が入山し、山岳の道場として発展しつつ、最盛期には堂舎が八十余りも存在しました。名高い宗教家に、奈良時代の行基を始め、空海(弘法大師)、聖宝(理源大師)、圓珍(智証大師)、鎌倉時代の法然、日蓮、そして蓮如の諸師達がいます。
しかし、明治以降は時勢の大変動によって当区域のみとなり、大阪府による森林公園の企画下のもと、堂跡には土産店や食堂が建ち並んで今日に至ります。
本尊は七福神の一神である弁財天で、財運の向上、芸能の上達を願い、一方、観音堂の主尊である如意輪観音には除災招福を求め年間を通じ参拝者で賑わっています。》
と書かれています。龍樹菩薩とは高校の「世界史」の教科書にも登場する実在した人物のナーガルジュナのことのようですが、ナーガルジュナが実際に大阪府箕面市まで来たとは考えにくい。ナーガルジュナが他界後に菩薩となってからのお話ということなのでしょう。 伊矢野 美峰(いやの びほう)監修『目からウロコの 修験道』(2006.3.31.学習研究社)では《龍樹菩薩が普現色身三昧(ふげんしきしんさんまい)という三昧(さんまい)の力で出現され、秘密勘頂(かんじょう)を授けられました》というところが、瀧安寺HP では《箕面滝で修業し、弁財天の導きを受けて悟り宗教家として大成しました》とあり、龍樹菩薩なのか弁財天なのか、そのあたりの記述に相違があります・・が、こういったお話には2つ以上の説があるということは「あること」ですし、弁財天の導きで悟りを得て、龍樹菩薩が出現して秘密灌頂を授けられたのかもしれません。
「遠くの神さん、ありがたい」なんて言葉があり、私なども瀧安寺というのは近くにあったことから、特にどうと思っていなかったのですが、「日本四弁天」としてあげられる社寺では、広島県の宮島の厳島神社、滋賀県の琵琶湖の竹生島、神奈川県の江ノ島の江ノ島神社の3つの方が世間一般には有名ですから、世の中には全国的に有名な所2つと自分の所をくっつけて「日本三大◇◇」とか、全国的に有名な所3つと自分の所をくっつけて「日本四大◇◇」とか言ったりすることはよくあることで、その類か? なんて実は思ったりもしたのですが、瀧安寺の場合は、弁財天との由来については、むしろ、箕面山瀧安寺の方が他の3つよりも本来的な由来のものです。

目からウロコの修験道 (わたしの家の宗教シリーズ) - 美峰, 伊矢野
「箕面の滝」と言うと、滝道を進んでいった所にある「箕面大滝」のことを言うと私は思い込んでいたのですが、今回、鳳凰閣と圓満殿(客殿)と鳳凰閣の東、圓満殿の北あたりにある枯山水は箕面のこのあたりを枯山水で描いたものなのですが、そこで係員のおじさんから教えてもらった話によると、「箕面の滝」は雄滝と雌滝の2つがあるそうで、多くの人間が「箕面の滝」と言っているのは雌滝の方で、その少し上流に雄滝があるというのです。神社や寺などで男坂・女坂という坂があると、一般に男坂の方が旧坂で女坂の方がなだらかな坂であるか、もしくは、別経路にある坂の場合は男坂の方が段数が多く女坂の方が段数が少ないということが多いのですが、「箕面の滝」の場合は雌滝の方が落下高度は大きいようです。 役行者が修行をしたという「箕面の滝」は、今日、多くの人間が訪れる「箕面大滝」、雌滝のことだと思っていたのですが、雄滝が雌滝の少し上流にあるということですから、そうなると、役行者が修行したというのはどちらなのか、よくわからなくなってきます。今の「箕面大滝」の付近に役行者が修行をしたという所に由来する箕面寺の形跡があるということですから、雌滝の方なのでしょうか。もしくは、「瀧に打たれる」などと言っても、スーパー銭湯とかにある「打たせ湯」みたいな滝なら打たれてもいいでしょうけれども箕面大滝みたいなでっかいのに打たれたら「死んでまうわ」てもので、「箕面の滝で修行をした」といっても、その付近で修行をしたということかもしれませんね。
そういえば、私が10代の終わりから20代にかけて、うちの父親は「わしは修行を積んで悟りを開いたブッダやねん。わしはゴータマシッダールタやねんぞ、ゴータマシッダールタ。いらいらしてきたっ。わしは悟りを開いたブッダやのにからにイライラいらいらイライラしてきたっ・・てことは、おまえのせいやちゅうことやねんぞ、おまえのせい。ひとのせいにすんなよ、ひとのせいに。人間、ひとのせいにするやつは最低やぞ。人間、ひとのせいにするようになったらおしまいやぞ。わかっとんのかチャンコロ! わしは修行を積んで悟りを開いたゴータマシッダールタや、ゴータマシッダールタ。わしの言うことはブッダのお言葉であり何でもみんながみんなが何でも従わんといかんねん。わしの言うことは何でも何でも従えよ、このチャンコロろすけ! わしは修行を積んで悟りを開いたブッダやぞ、ブッダ」と何度も何度も言いまくっていました。「修行を積んで悟りを開いたブッダ」が何でそんなにイライラいらいらイライラするのか、と思いましたし、「ひとのせいにしたらいかんぞ」と何度も何度もおっしゃいますが、さっきから思いっきりひとのせいにしてるのはあんたと違うのか、とも思ったのですが、「修行を積んで悟りを開いたブッダでゴータマシッダールタ」だそうでした。「修行を積んで悟りを開いたお方」とつきあうのはしんどかった。ほんとに。「わしのことを『普通のおとうさん』などと勘違いしてはいかんぞ、わしのことを。わしはブッダでキリストで孔子で孟子で聖徳太子やねん、わしはあ」と何度も何度も耳鳴りがするくらいに言われてきました。「普通のお父さん」の方がええわあ・・と何度も思いました。「ブッダでキリストで孔子で孟子で聖徳太子のお父さん」とつきあうのは疲れました、ほんとに。横浜市港北区の日吉台学生ハイツにいた時は「修行を積んで悟りを開いたお方」は、毎日毎日、朝から晩まで「イライラつとしたからかけたってん」と言って電話攻撃してこられましたが、なんで「修行を積んで悟りを開いたお方」がそんなにイライラするのかと思いましたが、それら「釈迦で孔子で孟子でキリストで聖徳太子であるお方」でした。本当に疲れました。

シッダールタ(新潮文庫) - ヘルマン・ヘッセ, 高橋 健二

ブッダのことば: スッタニパータ (岩波文庫) - 元, 中村
北野高校の2年の時の担任だった旧姓作野礼子(女。北野高校卒⇒神戸大文学部卒。1970年代後半当時、20代)は「あなたのお父さんほどいいお父さんはないわよ」などと何度も何度も言い「私は両親が離婚したから」「私は父親がいなかったから」と何度も何でも言いまくり自慢しまくるのでしたが、そんなもん、自慢するもんと違うやろということもありますが、そんなにいいなら、とりあえず、あの「イライラっとしたらかけたんねん。いらいらっと、イライラっと、いらいらっと」と言って四六時中かけてくる電話攻撃を、あんた、引き受けてくれないかと思ったものです・・が「イライラっとしたらかけたんねん」という電話攻撃の方はまったく引き受けもせずに勝手なことばっかり言っていました。北野高校は行きたいと思っていった学校でしたので合格発表の時はうれしかったのですが、卒業して10年以上経って冷静に考えることができるようになってみると、あんまりいい学校ではなかったなと思えるようになりました。特に2年の時に旧姓作野礼子に担任持たれたのは災難でした。 うちの父親が「いらいらっとしたらかけたんねん」「いらいらあ~っとしたかけたんねん」と言って電話攻撃していた相手は私の所だけだろうと思っていたら、うちの下の姉の所にも「いらいらっとしたらかけたんねん」という電話攻撃をしていたらしく、「あの『いらいらっとしたらかけたんねん』と言って電話してくる人の電話、あれ、かなわんねえ~え」と私に言うのでした。「『いらいらっとしたらかけたんねん』と言って電話かける人は、それでいくらか『すっとする』のかもしれないけれども、瘤取爺さんの瘤と一緒でかけられた方はその分、ストレス溜まるんやからねえ」と言うのでしたが、その通りでした。旧姓作野礼子は自分はその「いらいらっとしたらかけたんねん」という電話攻撃を受けることなく、それでいて「あなたのお父さんほどいいお父さんはないわよ」だの「私ならあなたのお父さんのようなお父さんがいたらうらやましいわよ」だのと勝手なことばっかり口いっぱい言いまくって、それで「作野先生はええ先生やでえ。さすがは北野高校出てはるだけのことはある。女でも神戸大でてるだけのことあるでえ。ええ先生やでえ」などと「いらいらっとしたらかけたんねん」のおっさんから言ってもらっていたのであり、それに味をしめていたのであり、””まったくつくづく勝手な女シンドローム”” の女だった。どういう育て方をすれば、ああいう我儘・身勝手なバカ女症候群が育つのか、旧姓作野礼子を育てた母親に問いただしてみたいものだ。
庄子薫『バクの飼主めざして』(講談社)では、『赤ずきんちゃん気をつけて』とか『白鳥の歌なんかきこえない』の登場人物の庄子薫ではなく、作家の庄子薫、本名・福田章二が日比谷高校の学生だった時のことが述べられていますが〔本名・福田章二は『赤ずきんちゃん気をつけて』などの小説を書く際に、ペンネームと同名の人物を作者よりも10歳程度若い年齢の日比谷高校を卒業する年に東大闘争で東大の入試がなかった歳の高校生として描いたもので、作者の庄子薫は登場人物の庄子薫よりも10歳程度年上です。〕、「作者の庄子薫」が日比谷高校の学生だった時の日比谷高校では、学年が変わる時、各クラスの担任の教諭の所にその教諭が担任のクラスに行きたいという生徒が応募するということをやっていたらしい。1970年代に私が北野高校に行った時にはそのようなことはおこなわれていなかったが、今から思うと、大学のゼミでも学生の側が入りたいゼミに応募して採否が決められますし、人間には「相性」のようなものというのがありますから、高校のクラスもまた、生徒がこの教諭の担任のクラスに行きたい、この教諭の担任のクラスには行きたくないという希望がいくらかは認められてもいいのではないかと思う。私は1年から2年に進級する時、旧姓作野礼子が担任にはなりたくなかった。それでも、高校がそう決めたのならしかたがないかと思ったが、「どの教諭の担任のクラスに行きたい」という希望までは通らなくても、また、そういうきき方だと「いいと思う教諭」はない場合もありますが、高校の担任については「誰が担任のクラスには行きたくない」という特定の1人を忌避するということは認められた方がいいと思う。誰しも、最初はいいと思わなくてもつきあっていくうちにいい人だと思うように考えが変わることもあれば、最初はいいと思ってもそのうちに良くないと思うようになることもあるけれども、夫婦でも最初にいいと思って結婚してもそのうち良くなくなる場合もあるとしても、やっぱり、最初の時点で良くないと思う人と結婚するべきではなく、最初の時点においてはいいと思う人と結婚できた方がいいはずであり、高校の担任についてもクラス替えの際には、この教諭のクラスに行きたいという希望を完全にきいてしまうと、人気のある教諭と人気のない教諭ができて収拾つかなくなるかもしれないが、この教諭だけは忌避したいという、「忌避したい1人だけは認める」ということはするべきだと思う。もしも、私が高校の1年から2年に進級する時に「誰は忌避したいですか」という質問を受けていたら、おそらく旧姓作野礼子を忌避したい教諭としたのではないかと思う。それで、旧姓作野礼子さんを担任にされるのは誰もが忌避したかというとそんなことはないと思います。私なら忌避したいところでしたが、「ちょっと性格いがんでる系」みたいな女生徒にはけっこう人気があったみたいですから、そういう人が旧姓作野礼子さんのクラスには集まることになったでしょう。・・もっとも、それをやると「似た者同士」が集まっていいような悪いようなで、「似た者同士」がくっついて「共鳴」「増幅」する結果になってその「・・系」が強まったたかもしれませんけれども。・・又、今になって考えると、他にも忌避した方が良さそうな教諭はいっぱいいたけれどもな・・というよりも、今になって考えてみると、高校の教諭というのは、あいつらいなくてもいいのじゃないか。むしろ、いない方がいいのじゃないか・・という人がいっぱいいたような気がします。柴田孝之『東京大学機械的合格法』(実業之日本社)では「能力的にも人間的にも優秀な教師というのは、多くの人間が思っているよりもはるかに少ない」と書かれていましたが、今は私もそう思っています。

バクの飼主めざして - 庄司薫

東京大学機械的合格法―アップグレード版 - 柴田 孝之
YouTube に懲役太郎チャンネルという元ヤクザの男性が公開しているチャンネルがあり〔https://www.youtube.com/channel/UC0e6zo8oX6ISSBjPaSZsjeA/videos 〕、そこで、ゲーム会社が作製したヤクザの男性を登場人物にしたゲームソフトについて、元ヤクザから見て、その内容がヤクザの社会のあり方にあっているか間違っているかを話しているものがありましたが、そこで桐生というヤクザの男性に「おい、桐生、おめえ、みなしごだったんだってなあ」とヤクザの上役が桐生という名前のヤクザさんに話す場面があり、「ヤクザの人というのは、みなしごとか多いのですか」と質問者が言ったのに対して、懲役太郎さんは「いや、違います」と答えています。「ヤクザは『同情されたら負け』だと思っていますから、たとえ、みなしごだった人でも自分はみなしごだったなんてことは絶対に言いません。だから、みなしごだった人でもわかりませんから、だから、ヤクザにみなしごだった人が多いかどうかなんてわからないです。実際にみなしごであってもヤクザは絶対にそんなこと言いませんから」と話していましたが、その点において「私は両親がいなかったから」「私は父親がいなかったから」とギャースカぎゃーすかギャースカ自慢しまくらないとおれないシンドロームの旧姓作野礼子さんとヤクザさんとでは、ヤクザさんの方がよっぽど潔いと思えます・・し、別にヤクザさんでなくても、たとえ、両親が離婚しても父親がいなかったとしても、私が離婚させたわけでもないのに「私は両親が離婚したから」だの「私は父親がいなかったから」だのとギャースカぎゃーすかギャースカ言われても、そんなもん、知るか! まったくつくづくうるさいくだらん迷惑な女でした。「わしは悟りを開いたブッダやねん、ブッダ、ブッダ、ブッダ~あ」というおっさんが「イライラっとしたらかけたんねん」と言って毎日四六時中かけてくる電話攻撃は私に受けさせておいて、「作野先生はええ先生やで、あの人はあ」などと言ってもらう役だけ奪取していた身勝手極まりない・迷惑極まりないバカ女症候群の重症患者を北野高校の校長先生は使用者としてなんとかしてほしかった。
修験道とは何なのか。村上重良『日本の宗教』(1981.3.20.岩波ジュニア新書)には、
《 原始社会以来の山岳信仰は、仏教、道教と結びついて発展し、中世には、山伏の宗教として修験道が成立しました。平安時代には、僧や聖(ひじり)の山岳修行がさかんに行われ、密教では、山岳に籠って修行した僧の加持祈祷は、とくに効験があるとして重んじられました。山岳修行によって、効験をもたらす力を身につけることを修験といい、修行者(験者 げんざ)とよびました。修験者は、山中の大地に身を伏せて、山の霊力を直接、身に受けることから、山伏ともよばれました。
修験道では、役の小角(えんのおづぬ)を開祖と仰ぎ、南大和の大峰山系とよばれる吉野、金峰山(きんぶせん)、大峰から紀伊国の熊野にかけてのけわしい山岳地帯を最高の霊場としました。吉野、金峰山一帯は、原始神道の時代から、水の神、山の神が住む聖地とされ、やがて黄金が埋蔵されている仙郷、浄土として、ひろく信仰されるようになりました。平安前期の895(寛平7)年、真言宗の聖宝(しょうぼう)は、金峰山にわけ入って修行し、山上に寺をつくり、こののちしだいに、この地で修行する者が増えました。・・・》
《 山伏は、僧侶、神職、陰陽師のいずれでもない宗教者で、僧侶より低い身分とされ、当山派〔真言系〕では髪を剃り、本山派〔天台系〕では総髪で、独特のいでたちをしていました。山伏の修行は、宇宙の根源である大日仏とその現れである不動明王と一体となる力を得るためとされ、山伏の姿は、大日仏、不動明王のはたらきを示すものとされます。頭に頭巾、身に鈴懸(すずかけ)をまとって結袈裟(ゆいげさ)をかけ、笈(おい)と肩箱を背に、手に金剛杖と錫杖をもち、法螺貝を吹き鳴らす独特の山伏姿は、中世に定まったもので、こんにちまでつづいています。
室町中期には、十界(じっかい)修行とよばれる、水汲み、相撲、舞い、穀断ち、護摩まどの10種の基本的な修行が定められ、山伏は、これを終えると仏になるとされました。また大峰への峰入り(みねいり)の意義が、教義としてととのえられ、大峰山系の熊野側は、胎蔵界、吉野側は金剛界で、全体が両界曼荼羅をあらわすとされました。・・・
中世の山伏は、農村、歳に霞(縄張り)をつくって、加持祈祷を修め、霊場への参詣の先達をつとめました。山伏は、封建支配の境界を自由に超えて行動し、けわしい山岳の地理にもくわしいことから、みずから武装集団となって活動したり、戦闘のたびに伝令や諜者(ちょうじゃ)として使われました。源平、南北朝、戦国などの戦乱で、山伏はしばしば戦闘に参加し、敗れた武将などが、山伏を頼り、山伏に姿を変えて逃亡した例も少なくありません。江戸時代に入ると、山伏はきびしく統制されて、自由な旅を禁止されたため、その多くは農村、都市に住みついて里山伏になりました。》
と出ています。
《頭に頭巾、身に鈴懸(すずかけ)をまとって結袈裟(ゆいげさ)をかけ、笈(おい)と肩箱を背に、手に金剛杖と錫杖をもち、法螺貝を吹き鳴らす独特の山伏姿》という部分で修験道と似ているのが普化宗(ふけしゅう)です。村上重良『日本の宗教』(1981.3.20. 岩波ジュニア新書)には、
《 江戸時代には、臨済系の普化宗(ふけしゅう)(虚無宗 こむしゅう)もひろがりました。普化宗は、唐の禅僧普化を開祖とし、尺八の吹鳴(すいめい)による禅を伝えています。鎌倉時代に、下総(しもうさ)国小金の一月寺(いちがつでら)と京都の明暗寺(みょうあんじ)の二派にわかれ、室町時代には、尺八をたずさえて行脚する虚無僧(こむそう)がふえました。江戸幕府は普化宗を保護し、虚無僧を武士に限るとともに、自由な旅を許しました。そのため牢人で虚無僧になる者が続出し、江戸中期には、普化宗は18派、140カ寺に発展しましたが、弊害も大きく、幕府は普化宗を禁止して、虚無僧を臨済宗に所属させました。・・》
とあります。

日本の宗教: 日本史・倫理社会の理解に (読みなおす日本史) - 重良, 村上
明治維新のあと、国家神道を国民に植え付けようとした際に修験道は邪魔だとされたようです。伊矢野美峰監修『目からウロコの修験道』(2006.3.31.学習研究社)には、
《 たとえば全国の霊山(れいざん)――羽黒山、日光山(にっこうさん)、三峰山、石鎚山、英彦山(ひこさん)、弥彦山(やひこさん)、白山、立山、もちろん奥駈(おくがけ)で有名な大峯山(おおみねさん)も含め、すべての山は修験の山でありました。寺院や社(やしろ)が立ち並び、読経の声の断えることなく、護摩の炎の上らぬ日はなかったです。
これらの山々は、古代からの信仰を伝え、その上に神々に対する崇拝や、仏教が入り、千年以上の伝統を持った宗教である修験道の霊場として日本独自の宗教を確立させ、伝承し、そしてそれが信仰されていたのです。
しかし明治元年(1868)に、政府は「神仏分離令」を出し、これらの山々から、仏教と修験を排除し、堂を壊し、仏像を焼き、廃仏毀釈を引き起こし、古代から神社のみがあったかのごとくしてしまいました。
山に住み、山を修行の場としていた修験は、もう一つの名である山伏という名称のみを残して、山を追われたのです。
これにより、全国の山々を中心に活動していた修験は、修行の場、生活のよりどころを奪われてしまいました。さらに、明治政府は「修験道禁止令」を出し、修験自体を葬り去ろうとしたのです。修験は、世界観を共有していた天台宗・真言宗のどちらかに入るか、修験を捨てて神主になるか、帰農するかの選択を迫られました。以後、修験者は真言宗の醍醐派の僧として、また天台宗では聖護院派の僧として、また羽黒山や金峰山(きんぶせん)のように天台宗寺院の僧として修験の命脈を保って昭和20年(1945)の敗戦に至るのです。
戦後、明治政府以来の「修験道禁止令」は廃止され、修験の独立が図られ、その活動も活発になってきました。しかし、全国的に国家的に弾圧された修験道は、80年という暗黒時代から立ち直るには多くのものを失ってしまいました。・・・ 》
と書かれています。
《 たとえば全国の霊山(れいざん)――羽黒山、日光山(にっこうさん)、三峰山、石鎚山、英彦山(ひこさん)、弥彦山(やひこさん)、白山、立山、もちろん奥駈(おくがけ)で有名な大峯山(おおみねさん)も含め、すべての山は修験の山でありました。》とありますが、朝日新聞出版から発行されている『ほんとうにあった怖い話(ほん怖 ほんこわ)』に登場する「霊能者」の寺尾玲子さんは埼玉県の三峰神社にしばしば足を運ぶようですが、その三峰山も《すべての山は修験の山でありました》という「修験の山」の中に名前が出ています。寺尾玲子さんも、劇画の中で神道の方の人間だと登場人物の寺尾玲子さんが話している場面がありましたが、もしかすると、神道か修験道かそういった山岳宗教の系統の人なのかもしれませんね。
《 以後、修験者は真言宗の醍醐派の僧として、また天台宗では聖護院派の僧として、また羽黒山や金峰山(きんぶせん)のように天台宗寺院の僧として修験の命脈を保って昭和20年(1945)の敗戦に至るのです。》とありますが、修験道は天台宗系か真言宗系の寺となったところがあって、箕面山 瀧安寺は今は「本山修験宗」となっていますが少し前まで天台宗の寺となっていたように、天台宗系の寺として存続し、瀧安寺よりも箕面駅に近い場所にある聖天宮 西江寺(しょうてんぐう さいこうじ)は今は高野山真言宗に属しているように真言宗系の寺になった、ということだったのでしょう。
《ウィキペディアー本山修験宗》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E5%B1%B1%E4%BF%AE%E9%A8%93%E5%AE%97 には《本山修験宗は神社も包括しており宗教法人格を有する神社も4社属している。》とあり、瀧安寺は寺になっていますが、修験道というのは、寺なのか神社なのかといっても中間的な存在ということになるのでしょうか。
うちの母親などは大峯山は嫌いだと私が子供の頃から言っていました。どこが嫌いかというと、山の絶壁のような所に子供を連れていって「親孝行するかあ~あ?」と脅して、無理矢理「親孝行します~う」と言わせるという、そういうのが嫌いだと言っていたのです。私もそういうのは好きではありません。秋田県の「なまはげ」と似ていますね。鬼の面をかぶったおっさんが出刃包丁みたいなはりぼてを子供につきつけて「親孝行するかあ~あ?」とか言って子供にわんわん泣かせる・・・て趣味の悪い行事、あんなことやっていったい何がいいのか、何がうれしくてあんなことするのかと思います・・・が、水木しげる の本によると、実は「なまはげ」というのは、本来はそういうものではなかったらしいですね。
「なまはげ」というのは「生(なま)の禿げ」・・・のことではなくて「怠け者にできるマメをはぐ」ということらしい。水木しげる『水木しげる妖怪文庫(一)』(1984.7.4.河出文庫)には「あまめはぎ」が掲載されています。
《 あまめはぎ
東北や北陸といった雪国の冬の夜に出る、妖怪とも神のお使いともつかぬものである。秋田地方などでは「なまはげ」というのがいるが、それと似たものであろう。そういうと読者は「ハハーン」と思い当たられるかもしれないが、観光用の見せ物となった「なまはげ」はあまりおもしろくもない。
「なまはげ」という呼び名からはげの一種のように誤解されそうであるが、これは「なまはぎ」のことである。「はぎ」とは、皮を剥ぐの「はぎ」である。「なま」というのは、怠けの「なま」であり、なま白いなどという「なま」でもある。
「あまめはぎ」もこれとほぼ同様である。「あまめ」というのは足などにできるたこのことで、普通のたこは一生懸命に働く人にできるのだが、「あまめ」はいわば「怠けだこ」のことなのだ。その怠けだこを剥ぎ取りに来るのが「あまめはぎ」ということになる。
雪の深い夜、特に農事歴からみて年がわりになる夜に、二匹、三匹と怖ろしい顔をして現れる。そして怠け者、無精者をとって喰う。特に好物なのが「あまめ」なのである。
大変教育的ともいえる妖怪なので、農家ではこれを歓迎した。やって来ると「あまめはぎ」を家に上げ、甘酒などでもてなし、この年も一生懸命に働きます、と誓ったものだという。
子供に対する効果も抜群で、泣く子や親の言うことを聞かぬ子もすぐにおとなしくなったということで、いわば村の「産土神(うぶすながみ)」が、村民全体を監視しているようなものである。
四国にも、なんとかこさぎというのがいて、怠けてコタツにあたっている者をおどすというから、そういう妖怪神みたいなものは、おそらく調べれば全国にいるのだろう。》
と書かれている。

水木しげるの妖怪文庫〈1〉 (河出文庫) - 水木 しげる
だから、秋田県でやっている子供に「親に孝行するかあ」とか言って包丁のレプリカを押しつけて脅して泣かせる「なまはげ」というのは、あれは本来の「なまはげ」ではない。あれは「なまはげ」としては偽物なのだ。子供に包丁のレプリカを押しつけて「親孝行するかあ!」などと脅して何が楽しいのか? 悪趣味極まりない。 ・・大峯山で子供をがけから突き出して「親に孝行するかあ~あ?」などとやって喜ぶ「修験道」というのも、それも修験道としてはイカサマの修験道ではないか・・と思う。
北陸のあたりの「あまめはぎ」・秋田県の「なまめはぎ」は、本来のものは、いずれも「怠け者にできるたこ」を剥ぐ妖怪であり、トルストイの『イワンのばかとその2人の兄弟』の話では、ばかのイワンの妹は盲目であったことから、ひとの手のひらをつかんでせっせと働いたまめがあるかどうかで判断をして、ろくに働いていないと思われる手をしている者には食事を提供しなかったという話になっていたと思う。イワンは3人兄弟の末っ子で、長男は軍人のセミョーン・次男は商人でほてい腹のタラース・・いわば「慶應ボーイ」みたいなもので、ある時、悪魔がこの3人兄弟を罠にかけてやろうとして子供たちを送り込む、悪魔の子は最初、長男で軍人のセミョーンにカラ元気を吹き込み、勢いに乗って侵略戦争を起こさせるが最初は勝っていてもそのうちに、こっぴどく負けてすっからかんになってしまう。次に次男の商人でほてい腹のタラース(別名「慶應ボーイ」)の所に行き、もっと儲けたいと思わせて、そして、一時は儲けてカネをためこんでもそのうちに失敗してすっからかんにしてしまう。最後に、バカのイワンの所に行った悪魔の子は、バカのイワンに「働かなくても頭を使って食べていける方法」とか教えるが、なにしろ、イワンはバカなものだから「頭を使って食べる方法」なんて言われてもできないから、だから、今まで通り、汗水流して働く。こうなったらイワンの農作業の邪魔をしてやれと悪魔の子は思って、イワンが土を耕す鋤をつかんで動きにくいようにするが、バカのイワンはなおさら一生懸命力を振るって鋤を地面につきさすと、悪魔の子は鋤によって地面に突き刺されてしまう。「お願いです。助けてください」と懇願する悪魔の子に対して、イワンはなにしろバカなものだから、悪魔の子に対してもかわいそうに思って許し、「神さまがいつもあなたと一緒におられますように」と悪魔の子に対して祈る。普通の人間にならそう祈ってもらえば祈りはその人間にとって役立つのだが、悪魔の子は「神さまがあなたと共におられますように」と祈られると地の底まで落ちてしまう。このバカだけはどうしようもないと、とうとう、親の大悪魔がイワンを陥れようとしてやってくるが、大悪魔は「体を動かして働かなくても頭を使ってカネが手に入る方法」とか説くが、イワンの友人たちというのはイワンと同様のバカばっかりだったので、バカどもは「頭を使って稼ぐ方法」なんて言われてもできないから、相変わらずせっせと体を動かして働く。このバカどもはどうしようもないと大悪魔は憤る・・・というお話だが、バカのイワンの盲目の妹は、働かない人の手にはまめがないということから、まめのない人には食事を提供しないようにしたのだが、「まめ」にも働く人間にできる「まめ」と働かない人間にできる「まめ」があって、働かない人間にできる「まめ」である「あまめ」が「あまめはぎ」という妖怪にとっては大好物だったというのだ。
《ウィキペディアーあまめはぎ》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%82%E3%81%BE%E3%82%81%E3%81%AF%E3%81%8E には《囲炉裏や火鉢に長くあたっているとできる火だこ(温熱性紅斑)のことをアマメと言い、怠け者の証しとされている。これを剥ぎ取る妖怪がアマメハギである。》 《ウィキペディアーなまはげ》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%AA%E3%81%BE%E3%81%AF%E3%81%92 には《 冬に囲炉裏(いろり)にあたっていると手足に「ナモミ」 「アマ」と呼ばれる低温火傷(温熱性紅斑)ができることがある。“それを剥いで”怠け者を懲らしめ、災いをはらい祝福を与えるという意味での「ナモミ剥ぎ」から「なまはげ」 「アマハゲ」 「アマメハギ」 「ナモミハギ」などと呼ばれるようになった。》と書かれている。『聖書』にある「働かんと欲せざるものは食うこともしてはならない」という文句に通じるものではないか。この文句は身障者とか老人とか子供とかで働けない人は食うな、身障者や働けなくなった老人は殺せとかいう意味ではない。大人で働こうと思えば働けるのに働かないのはいけないという意味で、「あまめはぎ」「なまはげ」も働こうと思えば働ける大人を戒める妖怪だったはずで、それを子供に包丁のレプリカを突きつけて「親に孝行するかあ」などと言って泣かせる悪趣味極まりない・児童虐待以外の何物でもない行事にしてしまっている秋田県の男鹿半島のあたりの「なまはげ」やっている人は、そのあたりをよく考えた方がいいと思う・・・し、同様に、大峯山で子供を山のがけのような所からロープで身体をくくって身を乗り出させて「親に孝行するかあ~あ?」などと言うというニセ修験道はその態度を改めた方がいいと私は思う。そのようなものは害があって益はない。
・・・もっとも、何年前だったか、テレビで秋田県の「なまはげ」について取材した番組で、地元の人に「ちょっと、やって見せてもらうことはできますか」とお願いすると、「いいですよ」と「なまはげ」の衣装を着て「がお~っ」とやると子供がきゃっきゃ言って大喜び。アナウンサーが「◇◇ちゃん、怖くないの?」ときくと、「怖くないよ。だって、パパだもん♪」と子供は話していたということもあった。
私は小学生や中学生の頃、「学生は勉強が仕事ですから」と誰からか聞いてそういうものだと思っていた。ところが、私が大学生になると、うちの父親は「大学というのは勉強する所とは違うねんぞ、勉強する所とは。大学はアルバイトする所やねんぞ、アルバイト」と言い、「アルバイトを嫌がる人間はモラトリアム人間病という病気にかかっている人間です。治療してやらんといかん、治療してやらんと」と言い、私にアルバイト漬けにした。ある夏休みの後、少人数の授業で助教授が夏休みに何をやったかときかれ、「箱根の保養所で泊まり込みで『雑務』のアルバイトを2か月弱やりました」と話すと、「きみ、そんな保養所の下男みたいなものをやっていたら勉強できんだろ」と言われたが、実際、その通りだった。なぜ、私だけが「あるばいとお、アルバイトオ、あるばいとお、アルバイトオ」と言われてアルバイト漬けにされなければならないのか・・と思った。そもそも、小此木啓吾は慶應大学の医学部の学生だった時にそんなにアルバイト漬けしていたか・・というと、あほくさ、内部進学の小此木啓吾、「揺り籠から墓場まで慶應」(小学校:慶應、中学校:慶應、高校:慶應、大学:慶應、勤め先:慶應)のサラブレッド的慶應・「ほんものの慶應」というのか「ほとんどビョーキ」というのかの小此木啓吾がそんなもの、やってるわけないだろうが。あほくさ( 一一) ・・で、なんで、私ならば「あるばいとお、アルバイトオ、あるばいとお、アルバイトオ」とアルバイト漬けにされても「モラトリアム人間病にかかってるから治療してやらんといかん、治療してやらんと。電気ショックやったるべきや、電気ショック♪ ロボトミーやったるべきや、ロボトミー♪」などと言われなければならず、内部進学小此木啓吾はアルバイト漬けには程遠い優雅な生活を送っていてもモラトリアム人間病と「診断」されたりはしない・・というのは、この違いは一体何なんだ・・というと、それは「民族と階級が違う」ということだったようだ。うちの父親は私に「民族の違いを忘れるな」「階級の違いを忘れるな」と毎日毎日、ぼくらは鉄板の上で焼かれて嫌になっちゃうくらいに言い続けたが、言われ続けて、そして言われた側は「民族の恨みを忘れるな(不忘民族恨)」「階級の苦しみを忘れるな(不忘階級苦)」と心の底から思うようになった。

中国の旅 (朝日文庫) - 本多 勝一

毛沢東 (1967年) (角川文庫) - ロバート・ペイン, 宇野 輝雄
「作家で精神科医」の なだ いなだ が『お医者さん』(中公新書)で、「アル中」「アルコール中毒」という「病気」が難しいのは、たとえば、月に5万円を酒代に使う男がいて「アル中」だと言われるが、この男は納得しない。なぜなら、この男が飲みに行く店に、毎月10万円を酒代に使う男がいるにもかかわらず、月に10万円を酒代に費やす男は「アル中」と言われずに月に5万円を酒代に使う時分が「アル中」と言われるというのは不当だと思うわけだ。しかし、月に10万円を酒代に費やす男は年収が相当多くて、月に10万円を酒代に使っても生活に困ることはなく、「体に気をつけてね」と言われるくらいのものであるのに対して、月に5万円を酒代に費やす男はそれほど収入が多くないので月に5万円も酒代に費やしたら生活できなくなってしまう。だから、月に10万円を酒代に使う男は「アル中」と言われずに、月に5万円を酒代に使う男が「アル中」に言われることになる・・という話を述べていたが、それと似ている。小此木啓吾とか、あるいは中学校・高校と同じ学校に行ったうちの親が大好きな「野口くん」は週末に1日、3時間程度の塾の講師をやっていただけで、「川村くん」は1回2時間の家庭教師を週に2回やっていただけだったが、それでも「モラトリアム人間病」とは言われず、又、うちの父親の親友の医者屋のM川(1980年頃当時、50代前半。当時、大阪府豊中市在住)のドバカ息子は父親が「患者」を薬漬け・検査漬け・毒盛りして得たカネで私立金権関西医大に裏口入学して、裏口入学したらしたで父親が「患者」を薬漬けにして得たカネでゴルフ道具を買って父親が「患者」を薬漬けにして得たカネでゴルフやって遊んでいたが、それでもそいつらは「モラトリアム人間病」とは「診断」されず、私は「あるばいとお」「アルバイトオ」「あるばいとお」とアルバイト漬けにされてもそれでも、「こいつ、モラトリアム人間病にかかっとるから、そやから、電気ショックやったらんといかん、電気ショック♪ ロボトミーやったるべきや、ロボトミー♪」と、うちの父親から言われることになるのだった。これは「民族の違い」「階級の違い」というものによるようだった。まさに「民族の恨みを忘れるな(不忘民族恨)」「階級の苦しみを忘れるな(不忘階級苦)」というものだった。
そもそも、小此木啓吾こそ「慶應的精神空間」から外に出ては生きていくことができない「モラトリアム人間病」と違うのか。小此木啓吾こそ、電気ショック療法とかロボトミーとか受けた方が世のため人のためと違うのか。小此木啓吾こそ「入院療法」(=逮捕監禁)・「薬物療法」(=薬漬け・毒盛り・化学的ロボトミー)・「作業療法」(=強制労働・無賃労働・労働搾取)とか「カウンセリング」「心理療法」(=言いくるめ・洗脳)とかの「療法」を受けて「治療」された方が世のためではないのか?!? 「慶應的精神空間」から外に出ると3分以内に戻らないと小此木啓吾の胸のカラータイマーが点滅する。カラータイマーが青から黄色に変わり、黄色の点滅から赤に変わると、小此木啓吾はもはや立ちあがれなくなってしまうのだ。急げ、小此木啓吾、大急ぎで「慶應的精神空間」に戻るのだ・・・〔⇒《YouTube-Ultraman vs Zetton [1966]》https://www.youtube.com/watch?v=S0Wa9hYx0Oo 〕

スタンガン
( ↑ 「電気ショック療法」)
地獄へ落ちろ、小此木啓吾! さっさと死にやがれ、小此木啓吾! と思っていたら、小此木啓吾は2003年9月に野垂れ死にした。
うちの母親は子供の体にロープをくくりつけた上で山の絶壁のような所から身を乗り出させて「親に孝行するかあ~あ!」などと言って脅す「大峯山(おおみねさん)」が好きではないと言っていたが、私も嫌いだ。本来は怠け者にできるマメを剥ぐ妖怪である「なまはげ」を子供に包丁のレプリカを押しつけて「親に孝行するかあ」などと言って泣かせて喜ぶ「なまはげ」という悪趣味極まりないもの、人間の質が悪くなるとこのようなものをやって喜ぶようになるのか( 一一) と思われるようなものに変えてしまったニセ「なまはげ」は嫌いであるのと同じく、大峯山は大嫌いである。
伊矢野美峰監修『目からウロコの修験道』(2006.3.31.学習研究社)には、
《 法と術
昔の修行者は、いろいろな術を用いました。落馬法といって、術をかけると騎乗者が落馬する法もあったそうです。現代では馬に乗る人は少ないですが、交通などで馬が主要な時代には珍重されたのでしょう。
ここで法と術の違いを考えますと、術はもって生まれついた力とでもいいましょうか、その人、一人が用いられるものです。ですから人に教えられたから効くというものではありません。それに対して法は如法(にょほう)修行(教えの如く法に随って修行)すれば、二か三しか持って生まれた力がなくても七か八に至ることができるものです。ですから私心を捨て、如法に修行することが肝要なのです。》
と書かれたところもあります。
私がその会社を離れた後につぶれたという会社が複数あるのですが、あれは私が落馬法ならぬ倒産法という法を用いたことによるもの、いわば、「すでに倒産秘孔をついた。おまえはもう死んでいる」という法を用いたことによるものだったのか・・・? 1社ではなく複数の会社がつぶれたということはそうだったのか?・・・〔⇒《YouTube-北斗の拳:ケンシロウ VS ダイヤモンド (交首破顔拳&お前はもう死んでいる)》https://www.youtube.com/watch?v=gmDYbTPZ0_8 〕・・いや、そういうことではなくて、私はその会社を良くしようと自分を犠牲にして尽くしてきたのであり、自分を犠牲にして会社に尽くす従業員を粗末な扱いにするような会社は「長い目で見るならばハリコの虎」であったのだ。『築地魚河岸三代目』という漫画には、築地の魚市場の仲卸の業者の間でつぶれそうな店があると出現する疫病神のように言われ、「ハイエナ」とあだ名で呼ばれる男性がいた。魚辰の三代目が「ハイエナと言われるのは嫌じゃないですか」と言うと、「それ、なかなかいいよね」と言う。「疫病神みたいに言われてもいいのですか」と言うと「それは嫌だな」と言う。築地のサラブレッドと言われる「新宮」の三代目に「あの方とつきあうと店がつぶれるといううわさがありますが」と尋ねると「うちは今もつきあっていますが、つぶれてませんよ」と言う。「あの人は我々と同じ仲卸の三代目だった人ですが、親から受け継いだ店をつぶしてしまった人なのです。ですが、目利きの能力は確かですから、だから、よその店が売り残したものを買って売るということができるのです」と言い、だから、ハイエナなのかと魚辰三代目は納得するが〔かつ、その人の名字が海江田(かいえだ)だったところから「ハイエナ」とあだ名がついた〕、「それなら、なぜ、つぶれそうな店にはあの人は出現して疫病神のように言われるのでしょう」と尋ねると、「あの人は自分が店をつぶしてしまった経験があるから、だから、人の店を見て危ないと思うと助言してあげようとするのです。疫病神だのというのは、それをきかずに店をつぶした者が言ってることですよ」と。いわば、そっちの方に似ているよな。会社のためを思ってこんなことではだめだと思って言うと気に入らないという会社経営者というのはいるようだ。そして、会社をつぶしてしまうに至るアホウの経営者もいるようだ。人によってはそれを見て、落馬法ならぬ倒産法でも使ったか、もしくは「すでに倒産秘孔をついた。おまえはもう死んでいる」となったと北斗倒産拳でも使ったかと見えるかもしれない・・というよりも、南北朝の争乱の時、南朝のために尽力した楠木正成が最後に湊川で敗死する前、今の大阪府三島郡島本町の桜井駅(さくらいのしゅく)で息子の楠木正行と別れを惜しんだ際に、「正しい意見が通らないようではだめだ」と楠木正成が南朝のためを思って発言したものがことごとく否定されてしまう南朝の負けを予測した言葉を残して湊川に向って敗死したというが、会社のためを思って自分を犠牲にして尽くしてきた従業員を粗末な扱いにして、会社のためを思っての発言に激怒したり無視したりするような経営者の会社というのは「正しい意見が通らないようではだめだ」という会社であり、「ハリコの虎」(「見かけは恐ろしいがその実力はたかが知れている」)の会社であり、そして、「おまえは、もう死んでいる」状態の会社だった・・と考えるべき・・・か。〔⇒《 》
〕考えてみれば、尽くしても尽くしがいのない会社のためにずいぶんと滅私奉公・破私奉公してきたものだ。
「大護摩場」の後ろに、↓
↑ この祠は「五所明神社」と書かれている。
静岡県浜松市のJR「浜松」駅の北西のあたりにも、五社神社という神社があるが、あれと同じなのか違うのか・・・。
《ウィキペディアー五所神社》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E7%A4%BE%E7%A5%9E%E7%A4%BE を見ると、
《 五社神社(ごしゃじんじゃ)とは、日本全国に存在する神社の名称である。》
《 社名は5柱の神を祀るという意味で、何らかの理由により5社を統合した神社や、元々1社に5柱の神が祀られている神社などにつけられている。五所神社、五所社(ごしょじんじゃ)としているものもある。同一の社名であっても分社・勧請などをしたものではなく、祭神は一定でない。》と書かれている。浜松の五社神社の場合は《ウィキペディアー五社神社・諏訪神社》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E7%A4%BE%E7%A5%9E%E7%A4%BE%E3%83%BB%E8%AB%8F%E8%A8%AA%E7%A5%9E%E7%A4%BE によると、《 太玉命、武雷命、斎主命、天児屋根命、姫大神の五柱の神を主祭神とし、ここから「五社神社」という社名になっている。元々は太玉命を祀る神社であったものに、春日大社の祭神四柱を勧請して現在の五柱となったものと見られている。》というものらしいが、箕面山瀧安寺の境内の五所明神社の祭神はまた別でしょう・・けれども、どの神さんが祭神なのかはわからない。
↑ 祠の右下の所に小さい断り書きみたいのがあるが、何と書いてあるかというと、↓
↑ 「浄財は賽銭箱に喜捨ください。盗られます」と書かれている。 で、入れてくれという場所が ↓
今となっては十年以上前、大阪市の住吉大社に行った時、なんだか賽銭箱がいっぱいあるなあ・・と思い、賽銭箱があるからには1円でも5円でも入れていかなきゃいけないのか・・と思って小銭を入れてまわったが、そのうち、あまりにも賽銭箱がいっぱいあって、ここの神社はそんなにお賽銭を何回も入れなきゃいけない神社なのか・・と思ったのだったが、それは意味が違ったと思う。賽銭箱が置いてあれば必ず1円でも5円でも入れなきゃならないというものではなく、そこの神社なり寺なりで主要な所と自分が特にお願いしたい所とくらいにお賽銭は入れればいいことで、それ以外の所は入れても入れなくてもいいのです。 又、今となっては十年以上前、京都の大原の三千院に行った時、三千院のお坊さんが参拝者の人に「御賽銭を入れないと拝んではいけないというものではないのです。御賽銭を入れなくても拝んでいいのです。それで、遠くから来られた方が、もしも後からお賽銭を入れてくるのを忘れたと思ったならば、自分がよく行く近くのお寺に行ってそこの賽銭箱にお賽銭を入れればいいのです」と話されていたのを横で聞いたことがあります。
お寺であれ神社であれ、賽銭箱が置いてある限り1円でも5円でも必ず入れないといけないのかというとそうではないと思います。必ず1円でも5円でも入れなければならないというものではないけれども、賽銭箱を設置しておかないと、祠の前とかに置いていく人があり、せっかくお賽銭のつもりで置いていかれたものを盗られてしまうことがあるということがあり、もうひとつは、そこに置いていかれたという場合、それはお賽銭のつもりで置いていかれたものか、それとも忘れ物・落とし物なのか判断が難しいという場合もあるのではないかと思います。だから、御賽銭であるならばお賽銭箱に入れるようにしてくださいという意味なのだと思います。
YouTube に入ってい番組で、賽銭泥棒について撮影したものを見ましたが、神社だったか寺だったかで、警察官が張り込んでいるところに賽銭泥棒が来て盗んだ後、警察官に追いかけられて走りまわった後、捕まった人に宮司さんだったか住職だったかが「あなた、さっき、逃げようとしてものすごい速さで走り回っていたでしょう。あなたはそれだけの速さで走ることができる体力のある人じゃないですか。ここの御賽銭は90台のお婆ちゃんが入れたものも小さい子供が入れたものもあるんですよ。あれだけ走り回ることができる体力のある人が、そんなお婆ちゃんや子供が入れたようなお賽銭を盗んではだめじゃないですか」と話し、「はい」と答えていたのを視聴しました。実際に、賽銭泥棒をする人というのは、本当にその日の生活費に困って「神さん、助けてください。生活に余裕ができたら返しますから」と盗る人よりも、そうではない人の方が多いのではないか。 YouTube で九州の方の神社だったように思うのですが、賽銭泥棒の男性を宮司さんが捕まえて警察に引き渡した後で、「最初は捕まえても『すいません』と言って返してもらえば、そのまま帰ってもらうつもりでいたのですが逃げられたので追いかけて捕まえるということになってしまった。悲しい結果になってしまいました。盗られる前に声をかければよかった」と宮司さんが話しておられたものがありました。 片方で、あるお寺では住職が賽銭箱というものに鍵をかけたくないと、鍵をかけないかわりに賽銭箱の引き出しを引いた所に封筒に千円札2枚と「賽銭泥棒をされる方へ。このお金はあなたに出世払いで御貸しします。そのかわり、御賽銭には手をつけないでください」と書いたものを入れておいたけれども、それでも賽銭を盗まれたというニュース番組がありました。
たしかに、賽銭箱といったものに頑丈な鍵をとりつけるというのは抵抗を感じますが、しかし、盗れそうだと思うと盗む人でも簡単に盗れないと思えば賽銭泥棒をしないですむという面もあります。九州の神社の宮司さんが「盗られる前に声をかければよかった。悲しい結果になってしまいました」と話されたけれども、そういったことを考えるならば、きっちりと鍵をかけて盗れそうにないようにしておけば、賽銭泥棒をするに至らなかったかもしれないという人もいるかもしれません。そう考えるならば、片方で賽銭箱というものに厳重な鍵をかけるというのは気が進まないという面もあるものの、何らかの縁があって宗教施設に足を踏み入れた人を警察に引き渡すということをしなくてすむようにするには賽銭箱にはきっちりとした鍵を設けるようにした方がいいのかもしれません。
観音堂・法筺堂と大護摩道場との間で西側に登る石段があります。↓
↑ この石段を登っていって右に曲がった先に弁天堂などがあります。
滝安寺は、鳥居から山門・観音堂に至るエリアと、この石段を登っていった右手の弁天堂などがあるエリア、それに観音堂などがある所から瑞雲橋という橋で箕面川を渡った東側(川の左岸)の鳳凰閣・圓満殿などがあるエリアの3つのエリアからなります。 観音堂などがあるエリアは箕面駅から箕面大滝に至る滝道から鳥居を経て入れますが、弁天堂などがあるエリアは観音堂などがあるエリアからは石段を登っていくことになるけれども、弁天堂の後ろの所で滝道に出ることもできます。
※ 箕面山瀧安寺HP https://www.ryuanji.org/
箕面山瀧安寺HP「境内案内図」https://www.ryuanji.org/map
次回https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/498747248.html は石段を登り、弁天堂などがあるエリアに行きます。
(2023.3.25.)
☆ 箕面山瀧安寺と鳳凰閣1~13
1.箕面駅から一の橋まで。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/498565198.html
2.笹川良一「孝養の像」のばかばかしさ。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/498624594.html
3.一の橋より梅屋敷。箕面川がカーブしている所(夫婦橋休憩所)まで https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/498642163.html
4.「森秀次君之像」・野村泊月句碑・昆虫館・延命地蔵?より瀧安寺鳥居までhttps://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/498667552.html
5.山門・手水舎・観音堂・法筺堂。山門の前から見える鳳凰閣・圓満殿 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/498680952.html
6.大護摩道場・五所明神社 〔今回〕
7.弁天堂・大黒堂・行者堂・白龍大明神・箕面山神社・熊野三所権現・妙音天。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/498747248.html8.瑞雲橋を渡り、鳳凰閣・圓満殿(客殿)のエリアへ。圓満殿外観と「岩本坊跡」https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/498792510.html
9.圓満殿(客殿)。松の間・鷲の間・貴人の間。畳敷の踏込式・「敷込袋」の床脇https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/498821055.html
10.圓満殿。「玉座」のある間と床の間・床脇・付書院。龍虎の間。圓満殿から見た箕面川西岸地域。 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/498915742.html
11.屋根上に鳳凰がいる鳳凰閣、2階のみ着色が周囲と調和。西・南・東より見て https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/498951322.html
12.東・南から見た鳳凰閣、鳳凰閣内部、三間続きの和室と格天井。北面全面の床の間。鳳凰閣和室から紅葉とともに見る箕面川西岸側はきれい。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/499187585.html
13.箕面川渓谷を表現した枯山水。箕面川と紅葉。浜口雄幸狙撃と安倍晋三銃撃は意味合いが違う。統一教会・倫理研究所などの迷惑な「宗教右翼」を何とかしてくれ。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/499217764.html
☆ 箕面山 聖天宮 西江寺1~4
1.箕面駅前、「日本最初大聖歓喜天出現霊場」碑から西江寺の西側の坂道まで。正反対の性質の心療内科と「精神科」を同時に掲げる「クリニック」の矛盾。ニーチェなどが学ぶべきだという心理学と小此木啓吾らのエセ心理学とは別物。》https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/499514748.html
2.中ノ坂 を登り西江寺まで。箕面の山の地主神の白髪の翁・大聖歓喜天と役行者との出会い。 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/499547852.html
3.石段を登り、右手に天満天神・吉野・吉竹・金毘羅の祠。登り切った正面に大黒堂。「摂津国神宮寺」が神仏分離で西江寺に名称変更。豊島郡片手村から箕面村へ。外界世俗から密教的世界への障害を守護する威力神として大聖歓喜天が祀られる。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/499567214.html
4.大黒堂前から聖天堂。箕面山荘前への山道。弁財天堂。白龍歓喜天。中ノ坂からの眺望。強制労働の「患者」の労働を搾取して、他方で江崎グリコ(株)から内職代を取得する「医者」「病院」は「一粒で二度おいしい」、そんな「江崎グリコを守れ」と主張する者は正義なのか?https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/499590837.html
☆ 箕面山 瀧安寺と箕面大滝について、
⇒[哲建ルンバ]《瀧安寺と箕面大滝に行ってきました。~建築探訪・建築巡礼 第2回 〔引越掲載〕》https://philoarchi2212.seesaa.net/article/201101article_25.html
☆ 聖天宮 西江寺については
⇒[第476回]《紅葉の箕面 西江寺(さいこうじ)(箕面聖天) と 摂社 天満大自在天神(大阪府箕面市)参拝》https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201611article_5.html
「哲建ルンバ」《箕面山聖天宮西江寺へ行ってきました。~建築探訪・建築巡礼第4回〔引越掲載〕》https://philoarchi2212.seesaa.net/article/201101article_29.html
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