瀧安寺と鳳凰閣【10/13】圓満殿。「玉座」のある間と床の間・床脇・付書院。龍虎の間。圓満殿から見た箕面川西岸地域。

[第988回]
  前回は、箕面山 瀧安寺の圓満殿(客殿)の玄関を入って左側(北側)、「松の間」「鷲の間」「貴人の間」と「貴人の間」の床の間・床脇と天井について述べました。
  今回は、玄関の左手、南から北に並ぶ「松の間」「鷲の間」「貴人の間」の西側の部屋を巡ります。

  西側に進むと右手(北側)の奥に、↓
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↑(上) 「玉座」のある部屋。 (下)その手前、「龍虎の間」
  
  現地の説明書きに、
《 圓満殿(客殿)
西暦1699年(江戸期元禄12年)に行なわれた開祖役行者(えんのぎょうじゃ)の一千年御遠忌(ごおんき)法要に際し、全国から集まる修験者を迎えるため、撤去された本坊と一体で建築された。
十二の部屋から成り、三十数枚の襖絵で間仕切られている。
それら襖絵は後宇多天皇の御門画史(ごもんがし)(皇族専属の画史のこと)であった蘭交皋斎玉寶(らんこうさいぎょくほう)の筆とされている。狩野派の画史とされているが詳細は不明。ただし後宇多天皇は鎌倉期の天皇であり、客殿の建築時期とは約500年以上の差が開いてしまう。
明治期の修験道廃止令により、瀧安寺史の伝承は絶え、謎のまま残ってしまったが、後宇多天皇の第二皇子 後醍醐天皇と瀧安寺とはご法縁があり、一概に俗信とは言えない。》
と書かれている。たしかに、きれいな襖絵だと思います。
  関裕二氏の本には修験道というのは、どうも「負ける側」に加担することが多いと書かれていたが、瀧安寺は後醍醐天皇と縁があったらしく、南北朝の争乱の時にも南朝側についたらしく、その後、織田信長が攻めてきた時にも反織田の側についたらしく、幕末においても佐幕側についたとかで、古くからある寺のわりに「瀧安寺の敷地」としてはそう広い敷地になっていないというのも、寺社の敷地というのはいったいどこまでなのかというのは明確ではなく、どうも「負ける側」についた寺社は狭めにされて、「勝つ側」につくと広めにしてもらえるみたいなところがあったのではないかという感じがするのだが、関裕二氏の本にも書かれていたが、天皇家の争乱があった場合、どうも、葛城・吉野・金剛といった大和の国の南方を頼って行くことが多いようで、又、大和の国の南方は全国の修験道とつながりがあったのではないかと思われるというのだが、瀧安寺にもそのようなところがあったのだろうか・・・。

  大阪府の歴史散歩編集委員会編『大阪府の歴史散歩 上 大阪市|豊能|三島』(2007.9.18.山川出版社)には、
《  ・・・観音堂の石段をのぼると弁財天本堂がみえる。後水尾(ごみずのお)上皇の勅令により、1656(明暦2)年に建立されたもので、日本四弁天に数えられる本尊の弁財天尊像は、60年に1度公開される。 滝道に面した鳳凰閣(国登録有形文化財)は、昭和時代初期に建てられた重厚な建物である。
  瀧安寺は、役小角が滝の下に堂を建て、弁財天尊像を彫刻して安置し、後白河法皇が編纂した『梁塵秘抄(りょうじんひしょう)』には、「聖のすみかは何処何処ぞ、箕面勝尾(かちお)よ、播磨なる書写(しょしゃ)の山、出雲の鰐淵(わにぶち)日の御碕(みさき)、南は熊野の那智とかや」と歌われ、修験道の行者の中心寺院として知られていた。
  もと36坊の講堂が滝道に並び、行基・空海・円珍・日蓮・法然・蓮如らの各宗派の高僧も訪れ、また天皇の祈祷所でもあった。 後醍醐天皇が隠岐(現、島根県)へ流されたとき、その帰還祈祷を護良(もりよし)親王が当寺に依頼し、その後、御醍醐天皇から瀧安寺という寺号を下賜されたのが寺名の由来である。・・》
と書かれている。但し、鳳凰閣については「重厚な」建物という理解は私は少々違うように思っている。
『梁塵秘抄』に「箕面よ勝尾(かちお)よ、播磨なる書写の山、出雲の鰐淵や日の御碕、南は熊野の那智とかや」とあるという「播磨の書写の山」は姫路市の書写山円教寺、「出雲の」「日の御碕」は島根半島の北西の角の日御碕神社、「熊野の那智」は和歌山県の三重県に近い付近の和歌山県の熊野三所権現、「那智」と言うからには熊野本宮大社・熊野速玉大社・熊野那智大社の那智大社か、それとも那智大社を代表させて三社を言っているのか。
 「出雲の鰐淵」とは・・と、インターネットで検索すると、島根県出雲市別所町に鰐淵寺(がくえんじ)という寺があるようです。
 「箕面よ勝尾(かちお)よ」の部分ですが、「箕面よ」の方について、「蓑(みの)の滝」⇒「箕面の滝」ということならば、「箕面の滝」の下に役行者がお堂を建てて修行をしたそのお堂が滝の下のあたりが地震で崩壊したことから南の方に場所を移転したという瀧安寺かと思われるのですが、「勝尾(かちお)よ」の方ですと、「箕面の滝」の上を北東の方にしばらく歩いたあたりにある勝尾寺(かつおうじ)か? とも思えます。「箕面よ勝尾よ」というのは「箕面の勝尾」ではなく「箕面」と「勝尾」は別だと考えるならば、瀧安寺という寺名は後醍醐天皇の命名だということですから、『梁塵秘抄』や後白河法皇の時代にはまだ「瀧安寺」という名前はついていなかったことから考えて、「箕面よ」が滝安寺で、「勝尾よ」が勝尾寺のことだと考えることもできるかもしれません。
※ 箕面山 瀧安寺HP https://www.ryuanji.org/
ウィキペディアー瀧安寺 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%80%A7%E5%AE%89%E5%AF%BA
箕面公園公式サイト https://www.mino-park.jp/
箕面さんぽマップ(箕面市役所箕面営業室発行) https://minohkankou.net/pdf/pdf1.pdf
※ 勝尾寺HP https://katsuo-ji-temple.or.jp/
ウィキペディアー勝尾寺 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8B%9D%E5%B0%BE%E5%AF%BA
※ 書写山円教寺HP http://www.shosha.or.jp/
ウィキペディアー円教寺(姫路市)https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%93%E6%95%99%E5%AF%BA_(%E5%A7%AB%E8%B7%AF%E5%B8%82)
※ ウィキペディアー鰐淵寺(がくえんじ) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B0%90%E6%B7%B5%E5%AF%BA
出雲観光協会 鰐淵寺 https://www.izumo-kankou.gr.jp/683
※ ウィキペディアー日御碕神社 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E5%BE%A1%E7%A2%95%E7%A5%9E%E7%A4%BE
出雲市 市民文化部 日御碕神社 https://www.city.izumo.shimane.jp/www/contents/1443239781602/index.html
※ ウィキペディアー熊野権現 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%86%8A%E9%87%8E%E6%A8%A9%E7%8F%BE
熊野那智大社 HP https://kumanonachitaisha.or.jp/
ウィキペディアー熊野那智大社 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%86%8A%E9%87%8E%E9%82%A3%E6%99%BA%E5%A4%A7%E7%A4%BE
ウィキペディアー青岸渡寺https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%92%E5%B2%B8%E6%B8%A1%E5%AF%BA
大阪府の歴史散歩 上 大阪市・豊能・三島 (歴史散歩 27) - 大阪府の歴史散歩編集委員会
大阪府の歴史散歩 上 大阪市・豊能・三島 (歴史散歩 27) - 大阪府の歴史散歩編集委員会
  このうち、私が一度以上、実際に行ったことがあるのは、箕面山瀧安寺・勝尾寺、書写山円教寺で、書写山円教寺は小学校4年の時に姫路城を見学して、その後、姫路駅の観光案内所で、姫路城の他に姫路にはどういう所があるかと尋ねて教えてもらって行ったのが書写山円教寺でした。日御碕神社には1970年代前半、私が小学校6年の時に出雲大社まで行き、日御碕まで足を運んだものの日御碕神社には訪問することなく帰ったことがありました。又、1960年代、小学校の前半まで阪和線の沿線に住んでいて特急「くろしお」号(新宮行と紀勢線経由名古屋行き)が走っているのを見て、あの電車に乗ったら串本・新宮といったあたりに行くらしいが、新宮てどんな所なのだろう、一度、行ってみたいとずっと思って暮らしてきましたが、なかなか足を運ぶ縁がありません。できたら、鰐淵寺・日御碕神社と那智大社にも足を運んでみたいようにも思うのですが、なかなか、すべての所に行くということは難しいですね。


  ↑ 「玉座」は天皇が座る場所らしい。 「遠くの神さん、ありがたい」とか「預言者、故郷に入れられず」などという言葉があり、瀧安寺も近くにあるお寺だったので、特別のもののように思ってこなかったのだが、けっこう古い時代から天皇家とつながりがあった寺だったのかもしれませんね。

  上に掲載した2つの写真を順番を見比べていただくと、天上の造りが異なることがわかります。「玉座」がある方の部屋は格天井で、その手前の部屋は棹縁天井になっており、「玉座」のある部屋の方が格上の仕上げの天井とされています。棹縁天井の「棹」は玉座の方に向かないように、玉座の部屋と「棹」が並行になるように施工されています。

  床の間 の右に床脇、左に付書院が設けられています。
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↑ 『新感覚の和風住宅』(1985.2.1.講談社)掲載の小林盛太「和風住宅の構成とディテール 和風のよさを見なそう」の「床脇棚のいろいろ」であげられている60の床脇棚の種類では、ここの床脇は上に天袋があり違い棚があって地袋はないという「違(ちがい)」という形式のもののようです。
新感覚の和風住宅 (Home life) - 講談社
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  それで・・、床の間 の左側に付書院を設ける場合、付書院は床の間のすぐ左からその手前までに設けるものなのか、それとも、床の間のすぐ左には付書院は設けず、床の間の手前の左側に設けるべきものなのか、どちらが正しいのか・・と私はずいぶんと悩んだのでしたが、『新感覚の和風住宅』(1985.2.1.講談社)・『新感覚の木造住宅』(1989.11.20.講談社)・『やすらぎの「新和風」特選』(1993.9.30.ニューハウス出版)などに掲載されているハウスメーカーの住宅の和室の写真を見ても、歴史的建造物・有名建造物を見学に行って見ても、両方のやり方があるようで、どちらが正解とかどちらが間違いということはないようです。ここでは、床の間のすぐ横には付書院は設けず、床の間の手前の左側に付書院を設けるやり方で作られています。↓
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新感覚の木造住宅―日本の気候・風土に最もふさわしい健康的な住まい (HOME LIFE) - 講談社
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やすらぎの「新和風」特選―伝統的・民家調・現代風のデザインを楽しむ (ホームメイク) - ニューハウス出版
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   で、付書院の裏側はどうなっているのか。その和室の左側は屋外だという場合ならば、付書院の部分だけ外に出っ張っているか、もしくは付書院の部分だけ出窓のように突き出ているかでしょうけれども、その和室の左側が廊下である場合、その和室の左側にも和室がある場合はどうなるのか、どうするのか。 瀧安寺 圓満殿のここではこの和室の左側(西側)にも和室がありますが、↓
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↑ 付書院の部分だけ出っ張るようになっています。
こういうことを気にするのは、やっぱり、建築屋に長く勤めてきた者、建築探偵団だからかもしれません。そうでない人なら特に気にしないかもしれませんけれども。

  ↑ 「玉座」がある部屋は部屋の中までは入れないのですぐ近くから見ることはできませんが、「貴人の間」の床の間とは違って、床柱は下部の手前がけずってあるのが見え、部屋の構造柱と同じものをそのまま使っているわけではないように見えます。
  部屋の東面には長押がまわっていますが、北面にある床の間の右側(東側)の床脇の部分には長押はまわっていません。床脇の上にあるのは「長押(なげし)」ではなく「落とし掛け」・・ですが、そもそも、「長押(なげし)」と「落とし掛け」はどう違うのか・・というと、長押が床脇の上までまわっている場合は、長押よりも下で長押よりも細い(短い)木が左右方向に取りつけられているのが「落とし掛け」として、長押が床脇の上にまわっていない場合は、それは「落とし掛け」なのか「長押」なのか・・。もともと、「長押」はルーツとしては構造材だったが「落とし掛け」は最初から装飾材だとしても、今では「長押」も装飾材ですから、長押の下にあるなら「落とし掛け」として、長押がまわっていない場合は「長押」ではなく「落とし掛け」と言うべきなのか、言い方なんてどっちでもいいのか。
  それで、長押の場合は床柱の手前で止める施工をする場合と、床柱の前まで長押を持ってくる施工をする場合とがあるのですが、落とし掛けの場合はたいてい床柱の手前で止めて、落とし掛けは床の間の上のものも床脇の上のものも床柱の側面に取り付けるはずなのです。・・ところが、この部屋では落とし掛け・・なのだろうと思われる木が床柱の一部手前まできているように見えます。「玉座」がある部屋は内部まで入れないので至近から見ることができないのでよくわからないところもあるのですが、写真を拡大してみると、この部屋の床柱は丸みを帯びているようにも見え、もしも角柱ならば柱の側面に落とし掛けが取り付けられたところが、丸柱なので前から見ると一部前面に来ているように見える・・ということか。
  ・・・圓満殿と鳳凰閣は今も年中公開されるわけではないけれども、時々、公開されるようで、今度は2023年の4月終わりから5月前半にかけて公開されるようで、その後も公開されることがあるのではないかと思うので、また見に行って確認してみたいと思います。

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↑ 「玉座」がある部屋の手前の和室は「龍虎の間」と言うらしい。

  これらの部屋の前、南側は外から見ると ↓
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  圓満殿の西側の面は外から見ると ↓
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↑ この写真の撮影は2022年11月下旬。公開が遅くなってしまいましたが、改めて写真を見ると、建物と背後の紅葉が調和してきれいですね。

  圓満殿の西側から箕面川の向こう側、箕面川の西岸の方を見ると、南側から順に、↓
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↑ 右の方の手前の建物は「山門」、その右奥の建物は「受付所(うけつけしょ)」。
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↑ 下の赤い橋は「瑞雲橋」、右の建物は「観音堂」
  これまで、箕面川の左岸(東岸)側は非公開だったので、西岸側から東岸側を見ることはあっても、東岸側から西岸側を見たことはなかったのですが、東岸側から見た西岸側もいいですね。東岸側から見た西岸側の紅葉もきれいです。
  ↑ 塀の「ひかえ」はあった方がいいと言う人と、あってもなくても関係ないと言う人があるのですが、私は関係ないことはないように思います・・けれどもね・・。

  次回https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/498951322.html は、鳳凰閣の方に進みます。

  (2023.4.7.)

☆ 箕面山瀧安寺と鳳凰閣
1.箕面駅から一の橋まで。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/498565198.html
2.笹川良一「孝養の像」のばかばかしさ。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/498624594.html
3.一の橋より梅屋敷。箕面川がカーブしている所(夫婦橋休憩所)まで https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/498642163.html
4.「森秀次君之像」・野村泊月句碑・昆虫館・延命地蔵?より瀧安寺鳥居まで https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/498667552.html
5.山門・手水舎・観音堂・法筺堂。山門の前から見える鳳凰閣・圓満殿 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/498680952.html
6.大護摩道場・五所明神社 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/498712914.html
7.弁天堂・大黒堂・行者堂・白龍大明神・箕面山神社・熊野三所権現・妙音天。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/498747248.html
8.瑞雲橋を渡り、鳳凰閣・圓満殿のエリアへ。円満殿外観と「岩本坊跡」https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/498792510.html
9.圓満殿。松の間・鷲の間・貴人の間。畳敷きの踏込式・「敷込袋」・落とし掛けのみの床脇 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/498821055.html
10.圓満殿。「玉座」のある間と床の間・床脇・付書院。龍虎の間。圓満殿から見た箕面川西岸地域〔今回〕
11.屋根上に鳳凰がいる鳳凰閣、2階のみ着色が周囲と調和。西・南・東より見て https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/498951322.html
12.東・南から見た鳳凰閣、鳳凰閣内部、三間続きの和室と格天井。北面全面の床の間。鳳凰閣和室から紅葉とともに見る箕面川西岸側はきれい。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/499187585.html
13.箕面川渓谷を表現した枯山水。箕面川と紅葉。浜口雄幸狙撃と安倍晋三銃撃は意味合いが違う。統一教会・倫理研究所などの迷惑な「宗教右翼」を何とかしてくれ。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/499217764.html

☆箕面山聖天宮西江寺1~4
1.箕面駅前、「日本最初大聖歓喜天出現霊場」碑から西江寺の西側の坂道まで。正反対の性質の心療内科と「精神科」を同時に掲げる「クリニック」の矛盾。ニーチェなどが学ぶべきだという心理学と小此木啓吾らのエセ心理学とは別物。》https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/499514748.html
2.中ノ坂 を登り西江寺まで。箕面の山の地主神の白髪の翁・大聖歓喜天と役行者との出会い。 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/499547852.html
3.石段を登り、右手に天満天神・吉野・吉竹・金毘羅の祠。登り切った正面に大黒堂。「摂津国神宮寺」が神仏分離で西江寺に名称変更。豊島郡片手村から箕面村へ。外界世俗から密教的世界への障害を守護する威力神として大聖歓喜天が祀られる。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/499567214.html
4.大黒堂前から聖天堂。箕面山荘前への山道。弁財天堂。白龍歓喜天。中ノ坂からの眺望。強制労働の「患者」の労働を搾取して、他方で江崎グリコ(株)から内職代を取得する「医者」「病院」は「一粒で二度おいしい」、そんな「江崎グリコを守れ」と主張する者は正義なのか?https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/499590837.html

☆ 箕面山 瀧安寺と箕面大滝について、
⇒[哲建ルンバ]《瀧安寺と箕面大滝に行ってきました。~建築探訪・建築巡礼 第2回 〔引越掲載〕》https://philoarchi2212.seesaa.net/article/201101article_25.html 

☆ 聖天宮 西江寺については
⇒[第476回]《紅葉の箕面 西江寺(さいこうじ)(箕面聖天) と 摂社 天満大自在天神(大阪府箕面市)参拝》https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201611article_5.html
「哲建ルンバ」《箕面山聖天宮西江寺へ行ってきました。~建築探訪・建築巡礼第4回〔引越掲載〕》https://philoarchi2212.seesaa.net/article/201101article_29.html 

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