箕面山 聖天宮 西江寺参拝【3/4】石段を登り、右手に天満天神・吉野・吉竹・金毘羅の祠。登り切った正面に大黒堂。「摂津国神宮寺」が神仏分離で西江寺に名称変更。豊島郡片手村から簑面村へ。外界世俗から密教的世界への障害を守護する威力神として大聖歓喜天が祀られる。

[第994回]
  箕面山 聖天宮 西江寺(しょうてんぐう さいこうじ)参拝の3回目です。
  中ノ坂を北に登ってくると東に 西江寺へ登る入口があり、鳥居が2つあって、南側の鳥居には「聖天宮」、北側の鳥居には「歓喜天」と書かれた額がかかっています。↓
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↑ 南側の鳥居。「聖天宮」と書かれた額がかかっている。
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↑ 北側の鳥居。「歓喜天」と書かれた額がかかっている。

  北側の鳥居の方に登る石段の手前には、石柱が左右に建っていて、↓
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↑ 左の石柱には「日本最初 歓喜天出現 霊場 聖天宮」と書かれており、
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↑ 右の石柱には「元摂津国神宮寺 聖武天皇勅願所 真言宗 西江寺」と書かれています。《ウィキペディアー西江寺(箕面市)》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E6%B1%9F%E5%AF%BA_(%E7%AE%95%E9%9D%A2%E5%B8%82) には《西江寺(さいこうじ)は、大阪府箕面市箕面公園にある高野山真言宗の寺院。》と書かれており、現在は真言宗の中では高野山真言宗に属しているようです。《ウィキペディアー高野山真言宗》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E9%87%8E%E5%B1%B1%E7%9C%9F%E8%A8%80%E5%AE%97 によると、高野山真言宗は、和歌山県の高野山の金剛峯寺が総本山で、高野山の寳壽院 が大本山、遺跡本山(ゆいせきほんざん)が京都の高雄山神護寺と大阪府河内長野市の観心寺で、他に私が訪ねたことがある寺では大阪市北区の太融寺が準別格本山になっているらしい。
  この「元摂津国神宮寺」というのは、どういうことか。
  「神宮寺」とは、《ウィキペディアー神宮寺》 には《 神宮寺(じんぐうじ)とは、日本で神仏習合思想に基づき、神社に附属して建てられた仏教寺院や仏堂。別当寺、神護寺、神願寺、神供寺、神宮院、宮寺、神宮禅院ともいう。
別当寺は、神社の管理権を掌握する場合の呼称と考えられる。宮寺は、神宮寺を意味するほかに、石清水八幡宮寺や鶴岡八幡宮寺のように、神祇の祭祀を目的とし、境内には神社のほか仏教施設や山内寺院が立ち並び、運営は仏教僧・寺院主体が行った、神仏習合の社寺複合施設または組織をいうこともある。・・》と書かれている。西江寺は役行者(えんのぎょうじゃ。役小角 えんのおづぬ)が大聖歓喜天の化身だという白髪の翁の姿をした箕面山の地主神と出会った所ということで、寺とはいえ神社と寺とどちらとも言い難いような寺というのか、修験道系というのかの寺だと思うのだが、《神社に付属して建てられた仏教寺院》なのかというと、その神社が見当たらない。
  《ウィキペディアー西江寺(箕面市)》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E6%B1%9F%E5%AF%BA_(%E7%AE%95%E9%9D%A2%E5%B8%82) には、
《 ある日、光の中から老翁に化身した大聖歓喜天が現れ、役小角はこの箕面山を日本最初の歓喜天霊場としたという。
 かつては、摂津国神宮寺と称していたが、明治時代末期に聖天宮西江寺と改称した。
 本堂には役行者作と伝承する大聖歓喜天像が祀られている。
 また、室町時代中期に作られたと伝えられる大黒天も祀られている。》
と書かれている。
  現地の説明書きには、
《  略縁起
 当山は斉明天皇4年(西暦658)、役の行者 小角 の開基なり。
 寺伝に行者(役行者 えんのぎょうじゃ。〔役小角 えんのおづぬ〕)この地を開くべく 五香の滝に参籠し稀代の苦行せられること幾歳月 山嶽鳴動して大光明輝き 光彩の中に 大聖歓喜天 出現せられ 当山を日本最初の霊場とし 万民の諸願を成就せんがため ここに姿を現したと伝う
境内に安置する対談石その時 行者が歓喜天に拝答した伝説を有す。
この地は摂津 豊島郡片手村と称しが これより簑面村 と称す。 神亀 天平年間より聖武天皇の勅願を受け 両部神道として摂津国神宮寺 と称したが、織田信長の兵火等 再々の盛衰を重ね 明治19年(1886年〔千島樺太交換条約「岩魚ごっそり(1875)」の11年後、日清戦争「一躍、清(1894)を攻撃す」の8年前〕)神仏分離により聖天宮 西江寺と改称し、宮寺として現在に至る。
  箕面山 聖天宮 西江寺 》
《 聖天宮 と 西江寺
  聖地箕面の玄関にあたる中ノ坂の上に聖天宮があります。それは箕面寺を核にした密教的宗教世界、また寺院で営まれる各種法会の平穏無事と院内安穏を図るために、外界世俗からの障害危難を克服守護する威力神の「歓喜天」を祀ったことに由来します。したがって、こうした聖地の一角に所在している箕面地区では、地域の守護鎮守の神として歓喜天を祀っています。
  摂津の国の神宮寺と称された西江寺には、大黒天立像(室町時代)や、木喰以空上人作と伝えられる◇◇籠等、貴重な文化財が◇されています。
  箕面市教育委員会 》
と書かれています。

  《ウィキペディアー箕面滝》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AE%95%E9%9D%A2%E6%BB%9D には、
《 古くは修験道の道場であった。「箕面」の名は、木々の間から流れ落ちる姿がに似ていることから付けられた、もしくは周辺に「尾」のつく地名が多いことから水尾から転じたとも言われている。・・》
と書かれている。
  箕面大滝は《 日本の滝百選の一つに選定されている。》そうで、日本の滝百選に選ばれている滝では、栃木県の日光の「自殺の名所」ともされる華厳の滝の方が豪快な印象を受ける滝だけれども、又、静岡県裾野市の五龍の滝もなかなかの景観で、「なんで、日本の滝百選に入ってへんねん」と私は思うのだが、大阪府箕面市の「箕面の滝」こそ「最も滝という感じの滝」だと私は思っています。
※ ウィキペディアー日本の滝百選 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E6%BB%9D%E7%99%BE%E9%81%B8
  箕面大滝 の写真は、[哲建ルンバ]《瀧安寺と箕面大滝に行ってきました。~建築探訪・建築巡礼 第2回 〔引越掲載〕》https://philoarchi2212.seesaa.net/article/201101article_25.html に掲載しているのでご覧ください。又、静岡県裾野市の五龍の滝は、
☆ 旧 植松家住宅 と 五竜の滝(静岡県裾野市)
1.裾野I.C.から裾野市中央公園。怖い吊橋。裾野市石脇から移築された旧植松家住宅。 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202112article_5.html
2.植松家、引戸の入口、大黒柱と架構、ヒロマと囲炉裏。農家では天井高は高い方がいいが武家ではそうと決まっていないことを理解できない一条オリジナル。「剣道やってる」がエライと信じて疑わない「アタマがラグビー」。「男のくせに音楽をやるなんて女々しい奴だ」と言う人間と「音楽をやって何が悪いか」と言う人間はどちらが「根性ある」か。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202112article_6.html
3.座敷、格子、ムカイ。3種類の外壁。格子は当然、縦残。江戸時代中期民家は「閉鎖的」か。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202112article_7.html
4.茅葺の屋根、竹の垂木?、外壁ラインから外に出た物入れ。弁護士を頼んだ為に競売に入れなかった経験。弁護士は役に立たない。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202112article_9.html 
5.五竜の滝〔黄瀬川の3つの雄滝と深良川の2つの雌滝〕と吊橋(「五竜のかけはし」)。樹林から見た旧 植松家住宅。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202112article_12.html
に掲載していますので、ご覧ください。
  華厳の滝 は、内田康夫『日光殺人事件』(光文社文庫)にも登場します。
《 華厳の滝周辺の売店には、藤村操(ふじむらみさお)の肖像と華厳の滝、それに「巌頭之感(がんとうのかん)」の原文をひとまとめにした、キャビネ判程度の写真を売っている。黄色く変色した写真をそのまま印刷したものだが、一枚百円、よほどの物好きでもなければ買う気の起きそうにない代物(しろもの)だ。
  だいたい、いまどき「藤村操」という名前を聞いても、四十歳代以下では、知っている人は、ほとんど皆無に近いだろう。
  若いギャルなんかには、まちがいなく「だれ、それ? タレント?」などと訊かれるに決まっている。
  まして「巌頭之感」だなどといったところで、チンプンカンプンにちがいない。
  しかし、この二つの名詞は日光・中禅寺湖の歴史とは、切っても切れない重要なものなのである。
  明治三十六年(1903年 日清戦争「一躍、清(1894)を攻撃す」の1年前)五月、第一高等学校生徒、藤村操は「巌頭之感」という辞世の詩を大木の幹に書いて、華厳の滝に身を投げた。まだ十八歳の若さであった。

  巌頭之感
 悠々たる哉(かな)天壌(てんじょう)、遼々(りょうりょう)たる哉古今、五尺の小躯(しょうく)を以て此(この)大をはからむとす。ホレーショの哲学、竟に(ついに)何等のオーソリチィーを値するものぞ。万有の真相は唯だ(ただ)一言にして悉(つく)す。曰く「不可解」。我この恨(うらみ)を懐い(いだいて)煩悶終に(ついに)死を決するに至る。既に巌頭に立つに及んで胸中何等の不安あるなし。
 始めて知る、大なる悲観は、大なる楽観に一致するぞ。

これが「巌頭之感」の全文である。のちに「人生不可解」という名文句で語り伝えられることになった。十八歳といえば、高校三年生かそこらである。現代の若者と比較しても意味がないことかもしれないけれど、公平に見て、どうも昔の人のほうが偉かったような気がする。
  この藤村操が、記録に残る「華厳の滝自殺者」の第一号で、以来、華厳の滝は、熱海錦ヶ浦や三原山とともに、自殺の名所として名を馳せることになる。
  ・・・・》
《 良子が華厳の滝の自殺事件に遭遇した回数は、オーバーな言い方をすれば、もう数えきれないほどである。
  華厳の滝での自殺方法は二通りある。一つは滝の真上から、滝の流れそのものに飛び込んでしまうタイプ。もう一つは上の観瀑台の手すりを越えて、崖下に飛び込むタイプである。かの藤村操は前者のほうだが、最近は滝の上まで行く者はごく少なくなった。理由は、そこまで辿り着くためには、猛烈なブッシュを掻き分け掻き分けして行かなければならないからである。
  その点、上の観瀑台からの飛び込みは安直で楽(?)だ。
  どっちにしても、飛び込んだら最後、絶対に助からない。何しろ百メートルほどの落差がある。助からないどころか、下手をすると死体が発見されない可能性だってあるのだから、死後、ねんごろに弔ってもらいたいと願うひとは、なるべく華厳の滝は避けたほうがよろしい。
・・・》
《 シャッターを引き上げ、ついでに掃除を始めようとして、何気なく見上げた視線の先に、落下してくる人間の姿が見えた。
「やったーっ・・・」
良子は思わず叫んでいた。
  一瞬のことだが、服装から見て、自殺者は男らしいと思った。・・・》
《 華厳の滝で発見された白骨死体が、どうやら次郎叔父のものらしいという連絡が入ったことを、添田から聞かされたとき、朝子はそれほど意外な感じはしなかった。
(やはりー)
 そう思った。・・・》
と、内田康夫は推理小説作家だから、どうしても、内田康夫の小説には自殺か他殺の話が出てくるのはしかたがないとしても、華厳の滝というのは上から見ただけでも豪快な感じでなかなかの景観であり、別に自殺しに行くのでなくても見学に行っていいと思う。私は二荒山神社の中宮祠に行った際に、日光駅に行くバスの停留所が華厳の滝の上の横あたりだったので、バスの待ち時間に上から見下ろしたことがあるが、華厳の滝は自殺しに行くのでなくても、なかなかの景観であっていい・・が「自殺の名所」と聞くと、まさか「誘われる」なんて・・、ないだろうな・・と思いながらも、ちょっと、怖そう~お・・・
日光殺人事件 「浅見光彦」シリーズ (角川文庫) - 内田 康夫
日光殺人事件 「浅見光彦」シリーズ (角川文庫) - 内田 康夫
聖天宮 西江寺は内田康夫の小説には登場しませんが、「箕面」という場所は怪人21面相事件を踏まえて書かれた『白鳥殺人事件』(祥伝社文庫)で最後の方であくまで「別に箕面でなくてもどこでもいいのだけれども、箕面という設定」という脇役のような場所で登場します。
白鳥殺人事件~〈日本の旅情×傑作トリック〉セレクション~ 浅見光彦シリーズ (光文社文庫) - 内田 康夫
白鳥殺人事件~〈日本の旅情×傑作トリック〉セレクション~ 浅見光彦シリーズ (光文社文庫) - 内田 康夫
《 大阪府箕面市――は、昭和22年までは豊能郡箕面村と呼ばれたところだ。その後、町になり、昭和31年に町村合併をして市に昇格した。
  「箕面」の名は、名称・箕面山によって、古く平安朝からよく知られている。山から落ちる川が箕面滝となって、かつては修験者たちの研鑽の場所でもあった。滝を挟むようにして建つ箕面寺(瀧安寺 りゅうあんじ)、勝尾寺の両寺は奈良時代の創建とされ、事実、歴史書にしばしばその名が登場する。
  箕面の風光を賞(め)でる人々は多く、文人墨客が訪れ、付近に居を構える者も少なくなかった。箕面の地は、そもそも、そういう文化人たちによって拓かれたと言ってもいいかもしれない。》
と紹介され、そして、
《 松永の「別荘」は、その箕面の山裾にあった。農家の藁屋根を瓦葺きに変えたような、素朴な平屋だが、イチイの垣根を巡らせた敷地は、かなり広い。
  建物の中央部分にあたる十六畳の部屋に、席亭の松永を中心にして、四人の男があつまっていた。それぞれの膝の前には、小さな卓が置かれ、下書き用の紙と、清書用の短冊、墨汁の壺と筆などが並んでいる。あたかも、兼題を苦吟している最中のように見えるが、一座の関心はほかのところにあった。
「遅いな・・・」
・・ 》と。
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(↑ 内田康夫『浅見光彦ミステリースペシャル傑作選21』2021.3.31.実業之日本社↓ 所収
内田康夫原作・沢音千尋 作画『白鳥殺人事件』 )
浅見光彦ミステリースペシャル傑作選21 (マンサンコミックス) - 内田 康夫, 沢音 千尋, たのまゆうむ/他
浅見光彦ミステリースペシャル傑作選21 (マンサンコミックス) - 内田 康夫, 沢音 千尋, たのまゆうむ/他

  現在、「箕面市箕面〇丁目」と言っている阪急「箕面」駅周辺は、いくつかの村が合併して箕面町になる前は平尾村(ひらおむら)で、今も箕面駅の北東のあたりに「平尾会館」があるが、農具の蓑・簑(みの)に似ていることから「蓑・簑(みの)の滝」と言われて、それが「みのお の滝」になり、「みのお」に「箕面」という字が充てられた・・・というものかと思っていたが、それ以外に、
水尾(みずお)」が「みのお」に変化して「みのお」に「箕面」の字が充てられたという説もあるということか・・。

  現在は大阪府の北部、北摂地区で「◇◇郡☆☆町」は豊能郡能勢町・豊能郡豊能町と三島郡島本町の3つだけになったが、豊能町は1970年頃、私が小学生だった頃は東能勢村(ひがしのせむら)だった。その後、能勢電鉄の沿線に「光風台」「新光風台」「ときわ台」「東ときわ台」といった分譲地ができたからか、「村」から「町」に昇格し、「町」になる時に「東能勢村」から「豊能町」と名称を変更した。やっぱり、「豊能郡東能勢町」では「豊能郡能勢町」のサブみたいな名前、「能勢町」より下みたいな名前だから「豊能郡豊能町」の方がいいと思って「豊能町」に名称変更したのか・・。
  私は子供の頃、なぜ、「能勢郡」ではなく「豊能郡」なのだろう?・・と思ったことがあった。能勢町・東能勢村なのだから「能勢郡」でいいのではないのか、「豊」はなぜ頭についているのだろう・・と。箕面市の南西側に「豊中市」があるが、「豊◇の中部」という意味だろうか・・。 現在の箕面市は何十年か前に、箕面町・萱野村・止々呂美村と豊川村が合併して「箕面市」になったらしい。「豊中」「豊川」という地名がある・・ということは「豊」という名前がこの付近にあったのか。
  市立 北豊島(きたてしま)中学校という学校が箕面市の西隣の池田市にあり、そのうち、大阪府立 豊島(てしま)高校https://teshima-hs.ed.jp/ が豊中市の北東部、北大阪急行電鉄「千里中央」駅の北西側にできた。どうやら、このあたりに「豊島(てしま)」という地名があったようだが、池田市に「北豊島中学校」があって、豊中市に「豊島高校」ができたということは「豊島(てしま)」というのは、けっこう広い範囲の地名のようだ・・と思っていたら、どうも、豊島郡(てしまぐん)だったものが能勢郡(のせぐん)と合併して、それで「豊島」の「豊」と「能勢」の「能」をくっつけて「豊能郡」になったらしい。《 この地は摂津 豊島郡片手村と称しが これより簑面村 と称す。》と書かれているところを見ると、箕面町は元々は「豊島郡」の方に属していた、ということのようだ。
  「片手村」というのは、どういう由来での名前かわからないが、役行者(役小角)が「簑の滝」で修行をして悟りを開いた・・というところから、「簑面村」になり、それが「箕面町」につながった・・ということか。

  「両部神道」とは、村上重良『日本の宗教』(1981.第一刷発行。2009.改版。岩波ジュニア新書 )には、
《 平安中期には、神仏習合がさらに進んで、神と仏の関係について本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)が説かれるようになりました。日本の神々には、それぞれ本地仏があり、インドの仏、菩薩が日本に迹(あと)を垂れ、権(かり)(仮り)に現れたもの(権現 ごんげん)が、日本の神々であるとする説です。・・・・
  本地垂迹説の普及とともに、神社ではその本体である仏を、神宮寺、別当寺をつくって祀ることが一般化しました。神社の祭りには、僧侶が参加して読経(どきょう)し、有力な神社では、仏教の不殺生戒(ふせっしょうかい)に基づく放生会(ほうじょうえ)が営まれました。神社の儀礼にも、仏教儀式がさかんにとりいれられました。神社建築でも、寺院の建築様式の影響を受けた春日造り、流れ造り、八幡造り、日吉(ひえ)造り、権現造りなどの様式が生まれました。
  神が人間になぞらえて考えられ、人間と同じように喜怒哀楽の感情をもち、仏の慈悲そのままに、人間を愛し救う存在とされるようになったのも、おもに仏教の影響によるものです。神仏習合神がつぎつぎに登場し、インドの神が、日本の神と一体のものとして祀られるようになりました。
  平安後期には、本地垂迹説に基づく神仏習合の神道説が成立しました。天台系の山王一実神道(さんのういちじつしんとう)真言系の両部神道は、その代表的なもので、神道教義の展開をうながしました。山王一実神道では、釈迦仏を比叡山の鎮守神 日吉山王(ひえさんのう)の本地仏とし、「山王」を神秘的に解釈しました。 「山王」の文字は、縦の三と横の一、横の三と縦の一から成っていることから、天台教学の三諦円融、一念三千などをあらわしているとしたのです。また、天照大神(あまてらすおおみかみ)、八幡大菩薩などの日本の30の神々が、一ヵ月30日をそれぞれ受けもち、順番に法華経を守護するという法華三十番神説(さんじゅうばんしんせつ)がつくられ、のちに法華神道に発展しました。
  両部神道は、真言教学で日本の神々を解釈した総合的な神道説で、陰陽道もとりいれていました。両部神道では、クニトコタチノミコト、クニサツチノミコト、トヨクモヌノミコトの三神を、仏の法、報、応の三身とし、その一体となったものが大日仏であるとします。伊勢神宮の内宮と外宮は、胎蔵界と金剛界の両部で、ともに大日仏のあらわれであり、一体であるとします。両部神道の名は、もともとこの二種の曼荼羅の意味でしたが、やがて仏教と神道の両部をあわせた神仏習合神道を広くさすようになりました。両部神道は、山王一実神道にくらべると、神道説の展開にはるかに大きな影響をあたえ、中世には習合神道説の主流となって御流(ごりゅう)三輪(みわ)などの多くの分流が出ました。
・・・・ 》
と書かれています。
日本の宗教: 日本史・倫理社会の理解に (読みなおす日本史) - 重良, 村上
日本の宗教: 日本史・倫理社会の理解に (読みなおす日本史) - 重良, 村上
  瀧安寺はかつて天台宗に属していた時期がありましたが、今は聖護院を総本山とする本山修験宗に属していますが、《本山修験宗(ほんざんしゅげんしゅう)は、天台宗の流れをくむ修験道の一派。》(ウィキペディアー本山修験宗 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E5%B1%B1%E4%BF%AE%E9%A8%93%E5%AE%97 )であるのに対して、西江寺は《 この地は摂津 豊島郡片手村と称しが これより簑面村 と称す。 神亀 天平年間より聖武天皇の勅願を受け 両部神道として摂津国神宮寺 と称したが、織田信長の兵火等 再々の盛衰を重ね 明治19年(1886年)神仏分離により聖天宮 西江寺と改称し、宮寺として現在に至る。》と「(真言系の)両部神道として摂津国神宮寺と称した」寺であっただけに、今も真言宗で高野山真言宗に属している。
  「摂津国神宮寺」という名前を明治の神仏分離で変更したという「西江寺」「さいこうじ」という名前はどこから出てきたのだろう。「(京都より)西行 さいこう」、その「西行寺(さいこうじ)」が「西江寺(さいこうじ)」になったのか。「(京都から)西へ(行く西国街道の北のあたりに位置する)寺」で「西へ寺」が「西江寺 にしへてら」⇒「西江寺 さいこうじ」だろうか・・。

  瀧安寺は元々は役行者(役小角)が箕面大滝の下で修行を積み、弁財天の助けを得て悟りを開いたという、その箕面大滝の下のあたりの庵がルーツで、箕面寺と言っていた(簑の滝の寺 ?)が、箕面大滝の下のあたりが地震で崩落することがあった際に、それよりも下流の現在地に移転し、又、南北朝の争乱の際には南朝側につき、後醍醐天皇から「瀧安寺」という寺号を受けた・・という寺らしいが、西江寺の方は箕面の山の地主神である白髪の翁が役行者(役小角)と出会ったが、その翁は大聖歓喜天の化身であった・・というのだが、西江寺は箕面の山の入り口のような位置にあるのですが、箕面市教育委員会の説明看板には《 聖地箕面の玄関にあたる中ノ坂の上に聖天宮があります。それは箕面寺を核にした密教的宗教世界、また寺院で営まれる各種法会の平穏無事と院内安穏を図るために、外界世俗からの障害危難を克服守護する威力神の「歓喜天」を祀ったことに由来します。》と書かれているように、箕面の山の入口の位置で《密教的世界、または寺院で営まれる各種法会の平穏無事と院内安穏を図るために》「外界世俗からの障害危難を克服守護する威力神」としての大聖歓喜天(聖天)を祀った・・・ということならば、位置としてその理屈に合いますし、又、瀧安寺では弁財天を祀り、西江寺では大聖歓喜天を祀っているということも理屈が通ります。

  石柱に「元摂津国神宮寺」と書かれているのは、元 摂津の国の《神仏習合思想に基づき、神社に附属して建てられた仏教寺院や仏堂》であったという意味ではなく、1886年に神仏分離として 聖天宮 西江寺(しょうてんぐう さいこうじ)と改称しましたが、元は「摂津国神宮寺」という名前の寺だった・・という意味のようです。

  この石段を登り、鳥居をくぐると、石段の中ほどの位置の左右に祠があります。右側(南側)の祠は、↓
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↑(左)天満大自在天神
(中)吉野大明神・吉竹大明神
(右)金毘羅大権現
   この祠の手前(北側)に ↓
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↑ 下の2文字は草と土に埋もれてよく見えませんが、「日本最初 大聖歓喜天出現之霊場」と彫られているようです。

  天満大自在天神・吉野大明神・吉竹大明神・金毘羅大権現の祠に向って右手(西側)に ↓
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↑ お地蔵さま かと思えるのですが、何体かあってよくわかりません。

  右手(南側)に天満大自在天神・吉野大明神・吉竹大明神・金毘羅大権現が祀られている所の左手(北側)にも祠があるのですが、そちらは帰りに述べることとして、ここでは石段をそのまま登ることとします。

  
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  ↑ 石段を登りきった正面にある建物が、「(阪急宝塚線箕面線沿線)西国七福神」の大黒天とされている 室町時代作という大黒天像が祀られているという大黒堂で、右側(南側)は授与所とつながっており、大黒堂の右側で御朱印をいただけます。御朱印は大聖歓喜天と大黒天とがあるようですが、私は今回は聖天さん参拝できましたので、大聖歓喜天の方を書いていただきました。
※ 西国七福神 集印めぐり https://www.hankyu.co.jp/area_info/brochure/7ifuku/
ウィキペディアー西国七福神 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%9B%BD%E4%B8%83%E7%A6%8F%E7%A5%9E

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↑ 右側には
「出世 大黒天尊  大聖 不動明王  十一面観世音」
左側には
「摂北 第三十一番 箕面山西江寺」
と書かれているのはわかるのですが、その左の句は達筆すぎて何と書いてあるのかよくわからない。
  「摂北 第31番」とは・・。インターネットで検索してみると、「摂北33カ所観音霊場」というものがあるというのが見つかった。
《ニッポンの霊場 摂北三十三ヶ所観音霊場》https://nippon-reijo.jimdofree.com/%E6%8E%B2%E8%BC%89%E9%9C%8A%E5%A0%B4%E3%81%AE%E4%B8%80%E8%A6%A7/%E8%A6%B3%E9%9F%B3%E9%9C%8A%E5%A0%B4/%E6%91%82%E5%8C%97%E4%B8%89%E5%8D%81%E4%B8%89%E8%A6%B3%E9%9F%B3%E9%9C%8A%E5%A0%B4/
によると、「摂北33カ所観音霊場」は《旧摂津国、大阪府の北部エリアと兵庫県の一部から成る観音霊場。》で《開創者とされる円海尊者とは、第11番久安寺の塔頭である宝積院の住職。》だそうで、《霊場会などもなく、現在は活動をしていない霊場である。》らしいが《ただ、霊場札所を示す石碑が残っていたり、案内板が出ていたりする札所も複数あるので、参拝自体は可能。》だそうだ。
  兵庫県宝塚市の中山寺が第1番で、第11番が池田市の伏尾町の久安寺、箕面市の聖天宮 西江寺は聖天堂に祀られる大聖歓喜天が本尊だが、大黒堂に大黒天とともに祀られている十一面観世音菩薩 が「摂北33カ所観音霊場 第31番」らしく、同じ箕面市の瀧安寺は弁天堂の弁財天が本尊だが瀧安寺の観音堂に祀られる如意輪観世音菩薩が第32番、勝尾寺十一面千手観世音菩薩 が第33番らしい。
  西江寺の大黒堂におられるという観音さまと勝尾寺の観音さまは十一面観世音菩薩だそうで、高橋良和 指導・加藤 直 画『教育まんが かんのんさま』(大道社)所収の高橋良和「観音さまのおはなし」には、
《 十一面観音 この観音さまは、頭の上の方に顔が十一あるのです。これは人間の欲望に十一あるので、それを取り除いて、十一の極楽に生れるようお救いくださるという意味であります。
  ・・》と書かれています。
瀧安寺の観音さまは如意輪観世音菩薩で、
《 如意輪観音 人間の苦を救うのはもちろんですが、出世の功徳(くどく)をもっている観音さまで、普通一面六臂(ぴ)の姿が多いです。顔が一つで、腕が六つもあるということです。それぞれの腕には、一つ一つの働きがあり、右足は立て膝で、左の足裏を踏んでいます。このような姿は、如意輪観音さまだけであります。・・・》と書かれています。
教育まんが かんのんさま - 高橋良和
教育まんが かんのんさま - 高橋良和

  大黒天を祀る大黒堂の前を左に(北に)曲がり、石段を北に登ると大聖歓喜天(聖天)を祀る聖天堂(本堂)があります・・・が、それは次回に述べることとします。

※ 聖天宮 西江寺HPhttps://www.saikouji-minoh.com/
箕面市観光協会 聖天宮 西江寺 https://minohkankou.net/sights/area/saikouji/
ウィキペディアー西江寺(箕面市) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E6%B1%9F%E5%AF%BA_(%E7%AE%95%E9%9D%A2%E5%B8%82)
箕面山七日市 聖天宮 西江寺 https://nanokaichi.com/saikoji/

 (2023.6.4.)


☆ 箕面山 聖天宮 西江寺
1.箕面駅前、「日本最初大聖歓喜天出現霊場」碑から西江寺の西側の坂道まで。正反対の性質の心療内科と「精神科」を同時に掲げる「クリニック」の矛盾。ニーチェなどが学ぶべきだと言う心理学と小此木啓吾らのエセ心理学とは別物。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/499514748.html
2.中ノ坂 を登り西江寺まで。箕面の山の地主神の白髪の翁・大聖歓喜天と役行者との出会い。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/499547852.html
3.石段を登り、右手に天満天神・吉野・吉竹・金毘羅の祠。登り切った正面に大黒堂。「摂津国神宮寺」が神仏分離で西江寺に名称変更。豊島郡片手村から箕面村へ。外界世俗から密教的世界への障害を守護する威力神として大聖歓喜天が祀られる。〔今回〕
4.大黒堂前から聖天堂。箕面山荘前への山道。弁財天堂。白龍歓喜天。中ノ坂からの眺望。強制労働の「患者」の労働を搾取して、他方で江崎グリコ(株)から内職代を取得する「医者」「病院」は「一粒で二度おいしい」、そんな「江崎グリコを守れ」と主張する者は正義なのか?https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/499590837.html

☆ 箕面山瀧安寺と鳳凰閣
1.箕面駅から一の橋まで。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/498565198.html
2.笹川良一「孝養の像」のばかばかしさ。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/498624594.html
3.一の橋より梅屋敷。箕面川がカーブしている所(夫婦橋休憩所)まで https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/498642163.html
4.「森秀次君之像」・野村泊月句碑・昆虫館・延命地蔵?より瀧安寺鳥居まで https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/498667552.html
5.山門・手水舎・観音堂・法筺堂。山門の前から見える鳳凰閣・圓満殿 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/498680952.html
6.大護摩道場・五所明神社 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/498712914.html
7.弁天堂・大黒堂・行者堂・白龍大明神・箕面山神社・熊野三所権現・妙音天。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/498747248.html
8.瑞雲橋を渡り、鳳凰閣・圓満殿のエリアへ。円満殿外観と「岩本坊跡」https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/498792510.html
9.圓満殿。松の間・鷲の間・貴人の間。畳敷きの踏込式・「敷込袋」・落とし掛けのみの床脇 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/498821055.html
10.圓満殿。「玉座」のある間と床の間・床脇・付書院。龍虎の間。圓満殿から見た箕面川西岸地域 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/498915742.html
11.屋根上に鳳凰がいる鳳凰閣、2階のみ著色が周囲と調和。西・南・東より見て。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/498951322.html
12.東・南から見た鳳凰閣、鳳凰閣内部、三間続きの和室と格天井。北面全面の床の間。鳳凰閣和室から紅葉とともに見る箕面川西岸側はきれい。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/499187585.html
13.箕面川渓谷を表現した枯山水。箕面川と紅葉。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/499217764.html

※ 箕面山 瀧安寺と箕面大滝について、
⇒[哲建ルンバ]《瀧安寺と箕面大滝に行ってきました。~建築探訪・建築巡礼 第2回 〔引越掲載〕》https://philoarchi2212.seesaa.net/article/201101article_25.html 

※ 聖天宮 西江寺については
⇒[第476回]《紅葉の箕面 西江寺(さいこうじ)(箕面聖天) と 摂社 天満大自在天神(大阪府箕面市)参拝》https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201611article_5.html
「哲建ルンバ」《箕面山聖天宮西江寺へ行ってきました。~建築探訪・建築巡礼第4回〔引越掲載〕》https://philoarchi2212.seesaa.net/article/201101article_29.html 

※ 金目山 光明寺(神奈川県平塚市) の歓喜堂については、
⇒[第976回]《金目山 光明寺(平塚市)参拝【3/4】大聖歓喜天を祀る歓喜堂。》https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/498407897.html
※ 飛騨国分寺(岐阜県高山市)については、
⇒[第360回]《飛騨国分寺と三重塔、「和風ドーマー」、ホテルの二重サッシ、飛騨牛中華そば―高山シリーズ第3回(9)》https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201510article_10.html 

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