2023年、宅地建物取引士 更新講習【4/4】「車内痴漢」は重大犯罪で「社内痴漢」は支店長の人権か。強制猥褻犯と闘うためのカウンセリングか、強制猥褻に精神適応させるのがカウンセリングか。「若き血」歌ってうわ~っとなって「塾風わが内にて生くるあり」となった人が独立自尊・自我が確立されているなのか、逆てことないか。強制猥褻に精神適応させるのがカウンセリングマインドか。息子はひり出した者に所有権があるか、種を植えた者に所有権があるか。親と子と教職員の教育相談室・子どもの人権連事務局。3種の入学基準があった高校。

[第1004回]
  もう、ここに来ることはないかもしれないと思い、郷愁のようなものを感じながら 日本教育会館を去りました。まあ、日本教育会館がなくなるわけではないし、地下の食堂街はこのビルに入っている機関に用事があって来た者でなくても利用できますし、東京メトロ半蔵門線・都営新宿線・三田線「神保町」駅と東京メトロ東西線「竹橋」駅の真ん中くらいの場所ですから、来てもいいのですが、宅地建物取引士の更新講習に来るのは今回が最後になるかもしれません。
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↑ (左)日本教育会館。 (右)共立女子大学。
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↑ 日本教育会館。

  日本教育会館の1階ロビーに、↓ などが「ご自由にお取りください」として置かれていた。
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↑ 「親と子と教職員の教育相談室」というもので、無料で「電話・来室による相談を行っています。」というもので、《 ・・1980年に日本教職員組と国民教育文化総合研究所、財団法人日本教育会館が共同で設立しました。 》というものらしい。
  これは、「相談」て誰が相談するんだ? ・・というと、子ども・保護者・教職員の3者の相談を受けつけるらしい。
  「子ども」の相談の内容例として、「家族のことで悩んでいる」「進路のことで親に反対されている」など書かれているが、高校および高校卒業した頃の私は、そういう相談を受けつけてくれる機関があったら相談したかった・・が、適切な相手がなかった。
「朕思うに我が皇祖こ~そ~はあ、わしに孝に、わしに孝に、わしにわしにわしになんじゃ、いらいらあ~あ。戸締り用心、火の用心、マッチ一本、火事の元、とってちってたあ~あ♪ すべてをすべてをわしのために、すべてをすべてをわしのために。わしのっ、ためにっ、わしのっ、ために。犠牲になる、犠牲になる、わしのために犠牲になる♪ 犠牲の精神、犠牲の精神、わしのために犠牲になる♪ すべてをすべてを犠牲にする! わしのために犠牲にする! てってこっこ、てっててって、らったらったらったら♪ 撃ちてしやまん、一億火の玉、欲しがりません、勝つまでは! いっらいっらしてきたあ~あ! わしほど精神的にしっかりした人間はおらんねんぞ、わしほど~お! いっらいっらっしてきたあ~あ!」と毎日毎日、言われ続けてきた。 うちの母親は「親というものは、子供が大学に行く時に、行きたいと思う大学の行きたいと思う学部に行って、やりたい勉強をやってつきたい仕事につけるようにと思えばこそ、無理矢理にでも勉強させようとするものなんや」と私が小学生や中学生の時に言い続けてきた。そうであるにもかかわらず、実際に大学に進学する時になると、「わしのために、わしのために。てってこっこてっててって、らったらったらったら♪」に加担した。 又、高校の先生というものは生徒の側につくものだと私は思いこんでいたが、特に比較的年齢の若い教諭は・特にその高校の卒業生の教諭は意識の上で高校生に近いであろうから生徒の側の存在だろうと期待したが、違った。そうではなくて、1970年代後半、特に北野高校の2年の時の担任だった旧姓S野礼子(女。当時、20代。北野高校卒⇒神戸大文学部卒)は、高校の教諭たるもの、親に加担して生徒を攻撃するのが処世術だと考えていた女だった。あの女は高校生にとって害がある。
又、浪人して行ったYMCA予備校高槻校の藤井という事務職員は予備校生に「ぼくらはあくまでもきみらの親からカネもらっているのであって、きみらからは1円としてカネもらってないんだからな。だから、ぼくらはきみらの親のために働く筋合いはあるけれども、きみらのために働く筋合いはまったくないんやから、勘違いしたらいかんぞ」とクラスの全員を前にして発言したが、そういう男だった。たとえ、予備校の受講費を親が出していたとしても、親は息子なり娘なりのために役だってもらおうと思ってYMCA予備校にカネを払っているのであって、「きみらのために働く筋合いはまったくない」などと公言する男にカネはらった覚えはないはずで、私が親の立場ならば、この野郎、何を言いやがる と思うところだが、ところが、うちの親はそういう藤井の発言を聞いて喜んだのだ。「そうや♪ その通りや♪ あくまで、親のために働くもんであって、おまえのために働く筋合いはまったくないんや。ええ~えこと言いはる♪ さすがは専門家や♪」とうちの父親は言って喜んだのだった。それなら、私は小学校の1年から同級生が遊んでいる時も勉強し続けてきた意味はないことになるではないか・・と思ったが、うちの親は「てってこっこ、てっててって、らったらったらったら♪ 撃ちてしやまん、一億火の玉、戸締り用心、火の用心。わしに孝行しよう♪ 朕思うに我が皇祖こ~そ~はあ、わしに孝に、わしに孝に、わしにわしにわしになんじゃいらいらあ~あ♪」という親だった。
  こういった相談機関があればなあと思ったし、もしかするとあったのかもしれないが、どこにあって、どう相談すればいいかわからなかった。又、YMCA予備校の事務職員はひどすぎると思い、卒業した北野高校の教諭に相談に行ったが、3年の時の担任だったO谷郁三(男。当時、40代)は逃げてしまい、2年の時の担任だった旧姓S野礼子は「きみらのために働く筋合いはない」と公言するやつに加担した。北野高校は行きたいと思って行った高校だったので合格発表の時はうれしかったのだが、卒業して10年以上経って冷静に考えることができるようになって考えると、どう考えてもいい学校ではなかった。特に、北野高校の教諭はあいつら、ろくなもんじゃなかった。柴田孝之が『東京大学機械的合格法』(実業之日本社)で「能力的にも優秀で人間的にも優れた教師というのは、実は多くの人間が思っているよりもはるかに少ない」と書いていたが、今は私もその通りだと思う。
  又、その高校の卒業生なら、高校生の気持ちがわかるのではないかという期待は裏切られた。ひとつには、今は私などが行っていたころと違っているところもあるかもしれないが、北野高校は私が行った頃は入学基準が3つあって、異なる入試基準で入った生徒がいた。まず、大阪府の公立高校は内申書と入学試験の日の試験の成績を合算して合否を決めていて、内申書の成績は学校ごとの相対評価なので出身中学校の学力レベルが高い所の卒業生と低い所の卒業生なら、低い所の卒業生は内申書の成績が良い点数がつきやすく、その結果、入試当日の試験の成績は低くても合格できることになる。豊能地区と淀川地区なら一般的に豊能地区の中学校の方が学力レベルは高く、私が卒業した中学校は豊能地区の中学校の中でも学力水準は高い方の中学校だったので、たとえば、1年の時に同じクラスだった淀川区の三国のあたりの中学校卒のB所(男)なんかと比べると、当然のことながら私は入試の点数はB所なんかよりもずっと高い点数で入学している。〔併願で受けた私立高校もB所は私が受けて通った金蘭千里高校は受けても落ちるので受けず桃山学院を受けていた。〕豊能地区の学力レベルが高い中学校出身者とたとえばB所が卒業した中学校の卒業生なんかとは入学試験での合格最低点が異なったのだ。又、公立高校の男女共学は男でも女でも関係なく合格最低点を上回る点数を取った者は合格で入学できるという大学型の男女共学ではなく、男女比がそれほど大きく変わらないようにという小学校型の男女共学で、そのために、男は大阪府で最難関の高校だったが女は受ければ通る学校・試験会場まで行って氏名と受験番号さえ書けば誰でも通る高校だった。 私などが入学した頃は北野高校の学区は大阪府の豊能地区と淀川地区から行けたが、豊能地区の中学校では男なら通らないような成績の女子生徒が男は大阪府で最難関の高校に男ならその学区の3番手校くらいでも行けないと思われる人が女なら行けるから北野高校に行くというようなことは、あんまり良くないと考える親が多く中学校の先生もいいと言わなかったが、淀川地区の中学校では行けばいいと考える親が多く中学校の先生も行かせたらしく、その結果、男は豊能地区出身者と淀川地区出身者の両方がいたが、女は淀川地区出身者の割合が大きく、そういう人とは入学時から意識が違った。戦後、日本の公立の学校では戦前の「男女、7歳だったか5歳だったかにして席を同じくせず」という孔子の考えよりも、そうではなくて学校では男女が一緒にすごすようにした方が互いに理解力のある人間に育つことができるという考えをとるようになったが、自分が住んでいる地域の中学校出身の女生徒は少なくて、他地域出身の女生徒が多い高校というのは、男女共学の学校であっても、男女は学校では一緒に過ごした方がいいという考え方の趣旨を満たさないように思われた。
  知り合いで灘高校から東大に行った人がいて、その人から聞いた話では、灘高校は私立なので、どう考えても裏口やな・・という人がいたらしく、灘高校から東大に何人も合格してもそういう人は東大に合格したりはしないらしかったが、それと似たようなもので、男なら入れない高校に女だから入ったという人が男で豊能地区から合格して行った者と同じというわけにはいかないようだったが、しかし、人によって「うまく合った」人というのがいて、そういう人は神戸大あたりに行くことがあったようだ。旧姓S野礼子はそれだったようで、そういう人と男で豊能地区出身の人間とは同じ名前の高校出身と言っても、実質、別の高校出身みたいなものだった。大阪桐蔭高校は進学コースとスポーツコースがあって、同じ名前の高校に実質別の高校があるみたいな感じらしいが、北野高校の場合は入学すると同じクラスになったが、淀川地区の中学校出身で女だから北野高校に入学できて、「うまく合った」ことから神戸大あたりに行ったというような人は、豊能地区の中学校出身の男で北野高校に進学した人間とは同じ名前の高校の卒業といっても実質別の高校の出身者だったようだ。
  私は、自分自身がこういった相談に乗ってもらって力になってくれる人がいたら・・と思いながら、そういう相手に恵まれなかったので、それで自分自身が大学の文学部心理学科か教育学部教育心理学科に行って、自分自身がそういう研究をしてそういうことをやる人間になろうということを考えた。ところが、浪人してしまって行ったYMCA予備校高槻校(大阪府高槻市)(今はYMCA予備校は淘汰され、大阪府に5校〔豊中・高槻・土佐堀・阿倍野・堺〕・横浜市に2校〔菊名・関内〕あったYMCA予備校はすべてつぶれてなくなった)の事務職員の藤井は「京大とかの教育学部は高校とか中学校の教師になる学部と違うから」と言い、私が高校や中学校の教師になりたいのではなくて、そういう問題の研究をする人間になることを考えているから、だから、大阪教育大とか神戸大教育学部とかいった教員養成所の教育学部ではなくて、京大の文学部・教育学部とか東大の文科三類とか、そうでなくても、旧帝大系国立大学の教育学部のように教育学・教育心理学などの研究者を養成する学部に行きたいのだと言っても言っても、「だから、そこは教師になる学部と違うから」と中学校の教師になりたいと言っているのではないと言っても言ってもきかなかったのだ。YMCA予備校というのはそういう存在であり、受験生・予備校生にとって害がある予備校だったが、それをうちの親に言っても言っても、うちの父親は「専門家の言うこと、専門家の言うこと。専門家です、専門家」と言って、ろくな大学でてない藤井を「専門家」と信奉してきかず、うちの母親は「あの人はクリスチャンだから、絶対に悪い人ではない。あの人はYMCAで主事になっているくらいだから、クリスチャンはクリスチャンでも並みのクリスチャンではない。特別にえらいクリスチャンのはずや」と言って、「『聖書』みたいなもん、あんなもん、ええことなんて何ひとつとして書いてないんやから、あんなも~ん! 『聖書』なんて、あんなもん、ろくなこと書いてないんや。あんなもん、読んではいかん。たとえ、読むにしても歳いってから読んで『はあん、そんなもんか』と思えばいいことであって、特に若い頃に読んではいかん。ましてや、そこに書いてあることを実行しようなんて、まかり間違っても絶対に考えてはいかん。『聖書』みたいなもん、読まんでも、洗礼うけて献金はらった上で、日曜ごとに教会に行って礼拝に出ておけばそれでええんや。『聖書』みたいなもん、絶対に読んではいかん! あんなもん、ろくなこと書いてないんだから、あんなも~ん!」と毎日毎日、伝道活動をおこなっていた男を称賛し信奉し信仰していたのだった。そういう藤井みたいな人間のことをキリスト教会では「敬虔なクリスチャン」と言うらしいのだ( 一一)  だから、私は「クリスチャン」が嫌いなのだ。洗礼と献金と礼拝は「敬虔なクリスチャン」にとっての免罪符なのだ。
  「親というものは、息子が大学に行く時に、行きたいと思う大学の行きたいと思う学部に行って、やりたいと思う勉強をしてつきたいと思う仕事につけるようにと思えばこそ、無理矢理にでも勉強させようとするものなんや」とうちの母親が小学生・中学生の時の私に言った文句はまるまる嘘だった。うちの父親は「すべてをすべてをわしのために、わしのために」「親こっこっこ、親こっこっこ、戸締り用心、火の用心、すべてをすべてをわしのために」と毎日毎日、呪文を唱え、そして、すべてをすべてを奪い取った。「大学生」だった時にはうちの父親は夏休みになると「あんた、明日からうちの会社の工場でアルバイトやることに、決めてきたっ♪」と言い、「そんなもの、やったら勉強できません」と言うと、「アルバイトを嫌がる人間はモラトリアム人間病という病気です。慶應大学の小此木啓吾先生というエライえらいエライえら~いという先生がそうおっしゃってる」と言い、うちの母親は「五流大学に行った子は、小学校から高校まで勉強させてもらえんかったから五流大学に行ったんやから、大学に行ったらアルバイトなんかせんと勉強させてあげんといかんでしょうがあ。それに対して、あんたは小学校から高校まで勉強させてもらったんでしょうが。あんたは小学校から高校まで勉強してきたんだから、大学に行ったら勉強せんとアルバイトせんといかんでようがあ。甘ったれなさんな」と言うのだった。それなら、小学校から高校まで勉強したら損みたいだ。なんで。私だけ、こんなことしなければならないんだと思い、同じ大学や同じ高校の人間がアルバイトなんかしないで勉強させてもらっているのがうらやましかった。
  うちの父親の親友の医者屋のM川(男。1980年頃当時、50代前半。当時、大阪府豊中市在住。自称「金沢大医学部卒」だが嘘くさい。「患者」を薬漬けにして得たカネでドバカ息子を私立金権関西医大に裏口入学させたというのを自慢にしていたが、M川自身も私立金権関西医大卒か、そうでなかったとしても「かわいいキンタマ」あたり卒ではないか。〔「かわいいキンタマ」とは、崎医大+知医大+沢医大+埼医大=かわいいキンタマ・・らしい)は、ドバカ息子を私立金権関西医大 に裏口入学させた上で、ドバカ息子は大学生の時にはアルバイトなんぞせずに、やはり、M川が「患者」を薬漬け・検査漬け・毒盛りやって得たカネでゴルフバッグ買って、ゴルフやって遊んでおったらしい。そういうのを「思考が柔軟」と「心理学」では言うらしかった。 うちの父親が言うには、うちの父親とその親友である医者屋のM川やそのドバカ息子は「ドイツ人」の民族で、うちの父親は「慶應の階級」、M川やその息子は「医者の階級」であり、いずれも人を支配いなければならない・命令しなければならないと「天の神さま」から決められた民族で階級らしく、それに対して私は「チャンコロの民族」で「浪商の階級」らしく、「チャンコロの民族」「浪商の階級」と「天の神さま」から決められて私はこの世に産まれてきたらしかった。だから、「チャンコロの民族」で「浪商の階級」である私は「常に人から号令かけられることに快感を感じる人間」だそうで、うちの父親とかその親友の医者屋のM川は「人に号令かけなければならない民族で階級」と「天の神さま」から決められてこの世に産まれてきた人間だそうだった。もう、そんな人生、まっぴらだ・・とそのうち思うようになったが、うちの父親は「わしは実はメサイヤやってんで。専門家の言うこと。知ってたか」と言うのだった。「わしはメサイヤやねん。万民がその誕生を待ち望んで、そして、この世に生まれてきたメサイヤやねん。わしはあ」とおっしゃるのだった。「メサイヤ」らしかった( 一一)〔⇒《YouTube-Handel: Messiah, For unto us a child is born (Sir Colin Davis, Tenebrae, LSO) 》https://www.youtube.com/watch?v=MS3vpAWW2Zc  〕 「それに対して、あんたあは『天の神さま』が生まれてくることを決してお許しになっておらぬのにからに、神にたてついて生まれてきた悪の人間やねんぞ。わかっとんのか、このチャンコロろすけイタコ! おまえは生まれてこなかったら良かったのに『天の神さま』の御意志にたてついて生まれてきた悪の人間やねんぞ。反省しろ、この浪商めが、産まれてこなかったら良かったのに産まれてきおってからに、この浪商めが!」とおっしゃるのだった。キリスト教の「天の神さま」というやつが私は嫌いだ。そんなに「産まれてこなかったら良かった人間」なら産まなきゃよいではないか、なんで産んだんだ・・と思ったが、それを口に出して言うと「心理学」から「外罰的性格」と「診断」されることになる。産まれてからのことはさておき、「産まれた」ということについては、それは産まれてきた人間の問題ではなくて産んだ者の方の問題ではないのか・・と思っていたが、「心理学」によるとそうではないらしいのだ。そういうことを言うと「心理学」から「外罰的性格」と「診断」されることになる。「診断」されると次に「治療」されることになる可能性が小さくない、「電気ショック療法」とか ↓
スタンガン
スタンガン
( ↑ 「電気ショック療法」)
「ロボトミー」とかされる危険があるから、だから、「産まれてからのことはともかく、『産まれた』というのは産まれた者の問題ではなくて産んだ者の問題と違うのですか」などとは決して口に出してはいけないのだ。言うと「外罰的性格」と「心理学」から「診断」されることになる。
  こういった「教育相談機関」もくせもので、「ドイツ人の民族」で「医者の階級」とか「ドイツ人の民族」で「慶應の階級」の相談機関であって、「チャンコロの民族」で「浪商の階級」らしい私などをどうやって支配し統制し「言うことをきかす」ことができるかという相談機関である場合がある。そういう所にうかつに行くということは、敵方の機関に招きよせられたようなものであるから、そこで「人間による人間の加工」とかされる危険があると考えるべきであろう。
告発する!狂人は誰か―顛狂院の内と外から (1977年) - ロイ・メドヴェーデフ, 石堂 清倫
告発する!狂人は誰か―顛狂院の内と外から (1977年) - ロイ・メドヴェーデフ, 石堂 清倫
  うちの父親は「人間は産まれる時点において、それぞれの民族と階級が産まれながらにして『天の神さま』というお方に決められて産まれてくるものなんや」と言うのだった。
私はどうかというと「おまえはロスケじゃ!」⇒《YouTube-"Song of the Volga Boatmen" (ヴォルガの舟歌)- Leonid Kharitonov & Russian Red Army Choir》https://www.youtube.com/watch?v=88gLWwq5G5M
「おまえはイタコじゃ」⇒《ニコニコ動画-ヴォメロの洗濯女》https://www.nicovideo.jp/watch/sm12444943
「おまえはニグロじゃ」⇒《YouTube-Nobody Knows the Trouble I've Seen(我が悩み知るはイエスさまのみ) sung by Chor Leoni》https://www.youtube.com/watch?v=wCQyqnldBQQ
⇒《YouTube-Soon Ah Will be Done/I Wanna Die Easy - Craig Hella Johnson-Monica Oquendo soloist》https://www.youtube.com/watch?v=j5UNiCDzPKU
「おまえはプエルトリコじゃ」⇒《YouTube-ウエストサイド物語~アメリカ(America)》https://www.youtube.com/watch?v=qFw6yyZD_i4
ということだそうで、
「わしとM川先生はドイツ人やねんぞお」⇒《YouTube-ワーグナー:ワルキューレの騎行 / カラヤン/ ベルリンフィル Wagner: Ride of The Valkyrie / Karajan /Bph》https://www.youtube.com/watch?v=ZOTdIhaGEuw
「M川先生は医者の階級で、わしはおまえとは違って慶應の階級やねんぞお」⇒《YouTube-[決勝戦]まるで地鳴り 揺れるスタンド 若き血大合唱 甲子園に響き渡る 慶応高校 2023夏の甲子園》https://www.youtube.com/watch?v=1JTgKAnuJ40
・・私は「おまえはチャンコロじゃ」ということらしい⇒《YouTube-中華人民共和国国歌「義勇軍行進曲(March of the Volunteers)」》https://www.youtube.com/watch?v=7wvyITD2stg
・・毎日毎日、私の眼を指でつきさすようにして、うちの父親は「わしは慶應でドイツ人やねんぞお。それに対して、おまえは浪商でチャンコロなんじゃ。民族の違いを忘れるな! 階級の違いを忘れるな!」と毎日毎日叫び続けてきた。毎日毎日、そう言われ続けて、そして、慶應とドイツ人が嫌いになった。まあ、慶應はそれより前から嫌いだったけれども・・。
私は「ろすけ」だそうだ。⇒《YouTube-Dschinghis Khan - Moskau (Live 1979 HD) 》https://www.youtube.com/watch?v=EPdn9_h2dCY
「『天の神さま、産まれてきてはならないわたくしめが産まれてきて申し訳ございません』と言ってお祈りしなさい」と言って「お祈り」させられたが、その「天の神さま」とかいうやつ、ひねりつぶしてやりたい。
  ・・まあ、うちの父親(ドイツ人の民族で慶應の階級)やその親友の医者屋のM川(ドイツ人の民族で医者の階級)の民族であるドイツ人の哲学者フリードリヒ=ニーチェの『ツァラトゥストラはこう語った』によると、その「天の神さま」というやつは、それを知らずに拝んで信奉している人が今もいるが、実はすでに死んでいるそうだ。
ツァラトゥストラはこう言った (講談社学術文庫) - フリードリヒ・ニーチェ, 森 一郎
ツァラトゥストラはこう言った (講談社学術文庫) - フリードリヒ・ニーチェ, 森 一郎
※ 《YouTube-ツァラトゥストラはかく語りき  Also sprach Zarathustra アンドレ・プレヴィン(指揮)、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団 》https://www.youtube.com/watch?v=9I8u8_-kuSE&t=79s

 今回は、「神保町」駅から都営新宿線に乗って「小川町」駅で降りて北に歩き、JR「お茶の水」駅からJR総武線各停に乗って帰った。
( 私は有名人でも何でもないので私と会ってもしかたがないが、これらの経路はたまたまその経路をその時、選んだだけなので、他の時は他の経路を取るので、この経路を通る人が合ってもお会いすることはあまりないと思う。)
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↑ 都営新宿線。 この写真は「小川町」駅で撮影したと思う。

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  ↑ これは都営新宿線「小川町」と接続している東京メトロ千代田線「新御茶ノ水」駅の改札外の通路の壁に貼られていたものだ。
「痴漢は重大な犯罪です」
と書かれているのだが、それは間違いではない、それは間違っていないのだが・・・。
 「車内痴漢」は「重大な犯罪」だが、「社内痴漢」は認めないといけないものなのか?
どう思いますか?

  1990年1月の終わりだったか、小堀住研(株) で千葉支店の支店長にならせてもらっていた渡邊士直(男。当時、40代。最終学歴:熊本県の底辺の高校卒)と富士銀行から出向で来て常務取締役・東部営業本部長に特に住宅建築業についての能力があるわけでもないのにならせてもらっていた増田和二(男。当時、60代?)と松戸営業課長の石井の3人にビルの一室に連れ込まれて3人で取り囲まれ、そして、渡邊士直から「俺は会社の女の尻を撫でまわしたし、今後も間違いなく絶対に会社の女の尻を撫でまわすけれども、これは俺が中島(昭午)社長(男。当時、50代くらい? 最終学歴:滋賀県立長浜北高校卒)から「渡邊は会社の女である限り、いつでも誰でも好きな時に好きなだけ、尻を撫でまわしてよいと許可された俺の大事な人権なんじゃ。俺が女性社員の尻を撫でまわすのをいかんと言うやつは、これは俺の大事な人権を侵害する者であって、そういう人権侵害をおこなう者は中島社長が絶対にお許しにはならんのじゃあ。土下座いろ、ごらあ。俺が女性社員の尻を撫でまわすのをいかんと言うようなヤツは会社として絶対に許さんのじゃ。ゴラア! 土下座して謝れ、ゴラア! 土下座して頭を床にすりつけて『渡邊支店長様が女性社員の尻を撫でまわされたのをいかんなどと言いまして申し訳ございませんでした。今後は絶対に支店長様が女性社員に尻を撫でまわすのをいかんなどとは申しませんので、どうかお許しくださいませ』と言うて泣いて謝れ、ごらあ! 業務命令がきけんのか、ゴラア。支店長様が土下座しろと業務命令しとるんじゃあ、土下座して謝れと言うておるんじゃ、ゴラア! 業務命令がきけんのかあ!業務命令がきけんやつは懲戒解雇じゃ、会社やめろ、ゴラア! それが中島社長様のお考えなんじゃ。小堀住研では支店長はいつでも誰でも好きな時に好きなだけ女性社員の尻を撫でまわしてよいと中島社長様がお決めになったんじゃ。女性社員の尻を撫でまわすのは俺が中島社長から認められた俺の大事な人権なんじゃ。ゴラア、土下座して謝らんか、『支店長様の大事な人権を侵害いたしまして申し訳ございませんでした。今後は支店長様の女性社員の尻を撫でまわすという大事な人権を侵害するようなことは決して申しませんので、どうかお許しくださいませ』と言わんか、ゴラア。土下座して謝れと業務命令しておるのに業務命令がきけんのかあ~あ!」とえんえんと何時間もかけて3人で取り囲まれて怒鳴りつけられたが、これは日本国の刑法において暴行罪の構成要件に該当し、違法・有責な行為である。又、監禁罪に該当する可能性も考えられる。
  千葉支店支店長にならせてもらっていた渡邊士直(男。当時、40代)は社長(2代目)で初代社長の小堀林衛(この少し前に他界)の「甥っ子」と言っていたけれども実際は「メカケの子」説と「メカケの娘の婿」節があった中島昭午から「女性社員の尻を撫でまわしてよい」と認められた、「中島社長から認められた俺の人権なんじゃ」と言うのだった。中島昭午が「メカケの子」なのか「メカケの娘の婿」なのか、どちらにしても「メカケ」「メカケの子」の思考があったようで、自分が指定した従業員には「渡邊は会社の女性社員である以上、誰でもいつでも好きな時に好きなだけ尻を撫でまわしてよい」と許可したと渡邊は言うのだったが、「天プラばっかりの高卒昭午」と従業員の間で言われていた中島昭午は自分にそのような「許可」をする権利・権限があると思っていたらしく、又、渡邊士直は渡邊が「女性社員の尻を撫でまわす」というのは中島昭午に「許可」された自分の「大事な人権」だと主張しており、富士銀行から出向できていた増田和二もそれに同調して暴行罪に加担していたのだったが、当然のことながら、中島昭午にそのような「許可」をする権利も権限もないのでありたとえ、中島がそのような「許可」をしたとしても、民法第90条、「公序良俗違反の法律行為」としてただちにに無効であり、そもそも、従業員と会社との間は労働契約が結ばれ、従業員は会社のために働く義務があり、会社は従業員に給料を払う義務があるとともに、会社・使用者は渡邊士直のような「社内痴漢」を取り締まる義務があるわけで、特に代表取締役の中島昭午にはその義務があるのであり、当然のことながら、中島に「渡邊は会社の女性社員である限り、誰でもいつでも好きな時に好きなだけ尻を撫でまわしてよい」と認める権利などというものは存在しないとともに、そのような権利・権限があると勘違いている社長の中島昭午をもまた取り締まる義務があることになり、又、渡邊士直に加担していた常務取締役・東部営業本部長の増田和二をも取り締まる義務があるはずだった。それから、富士銀行もまた、増田和二を小堀住研(株)に出向させて常務取締役・東部営業本部長にならせていたのであるから、富士銀行の代表者もまた代表者として、増田和二が小堀住研(株)で働いた暴行罪について責任を取らないといけないはずであったい、又、増田和二が渡邊士直の「社内痴漢」行為に加担したこと、および、私に対する暴行罪・強要罪について、富士銀行(現 みずほ銀行)および富士銀行代表者もまた責任を取らないといけないはずだった
  又、小堀住研(株)および富士銀行は、増田和二・渡邊士直・石井の3名が私を密室に軟禁した上で、長時間にわたって「渡邊は会社の女である限り、いつでも誰でも好きな時に好きなだけ、尻を撫でまわしてよいと許可された俺の大事な人権なんじゃ。俺が女性社員の尻を撫でまわすのをいかんと言うやつは、これは俺の大事な人権を侵害する者であって、そういう人権侵害をおこなう者は中島社長が絶対にお許しにはならんのじゃあ。土下座いろ、ごらあ。俺が女性社員の尻を撫でまわすのをいかんと言うようなヤツは会社として絶対に許さんのじゃ。ゴラア! 土下座して謝れ、ゴラア! 土下座して頭を床にすりつけて『渡邊支店長様が女性社員の尻を撫でまわされたのをいかんなどと言いまして申し訳ございませんでした。今後は絶対に支店長様が女性社員に尻を撫でまわすのをいかんなどとは申しませんので、どうかお許しくださいませ』と言うて泣いて謝れ、ごらあ! 業務命令がきけんのか、ゴラア。支店長様が土下座しろと業務命令しとるんじゃあ、土下座して謝れと言うておるんじゃ、ゴラア! 業務命令がきけんのかあ!業務命令がきけんやつは懲戒解雇じゃ、会社やめろ、ゴラア! それが中島社長様のお考えなんじゃ。小堀住研では支店長はいつでも誰でも好きな時に好きなだけ女性社員の尻を撫でまわしてよいと中島社長様がお決めになったんじゃ。女性社員の尻を撫でまわすのは俺が中島社長から認められた俺の大事な人権なんじゃ。ゴラア、土下座して謝らんか、『支店長様の大事な人権を侵害いたしまして申し訳ございませんでした。今後は支店長様の女性社員の尻を撫でまわすという大事な人権を侵害するようなことは決して申しませんので、どうかお許しくださいませ』と言わんか、ゴラア。土下座して謝れと業務命令しておるのに業務命令がきけんのかあ~あ!」とえんえんと何時間もかけて3人で取り囲まれて怒鳴りつけられたが、これは暴行罪・監禁罪・強要罪の構成要件に該当し違法・有責な行為であり、増田和二・渡邊士直・石井の3名とともに、小堀住研(株)の代表者代表取締役 中島昭午(ニックネーム「天ぷらばっかりの高卒昭午」)と富士銀行の代表者である頭取の男もまた使用者責任があると考え、処罰されなければならないはずであった。
  ところが、その犯罪行為が「会社ちゅうところ」では、まかり通ってしまっているところがあったのだ。「(車内)痴漢は重大な犯罪です」というのなれば、「社内痴漢」もまた重大な犯罪であり、渡邊士直のように「これは俺が中島社長から認められた俺の人権なんじゃ。俺が女性社員の尻を撫でまわすのをいかんと言う者は、中島社長がお認めになった俺の大事な人権を侵害する者で、人権侵害は絶対に許すわけにはいかんのじゃ」とか言って、そして、小堀住研(株)では、それがまかり通ってしまっていたのだった( 一一)  「車内痴漢」は、それは良くないであろうけれども、しかし、渡邊士直のように「男性がさわりたいと思うお尻をしているというのは、大変いいことだねえ」などと言いながら、何人もの従業員がいる眼の前で撫でまわすというのと、「こっそり」とか「おずおずと」電車の中で女性の尻をさわる人とでは、どっちがより過激かというと、渡邊士直の方が過激であり、それを「お認めになっておる」という中島昭午や加担していた増田和二や富士銀行頭取の方がよっぽど過激であり、よっぽど「重大な犯罪です」ということであったはずである。 増田和二のような不良社員を他社に出向させて、他社で反会社的行為を働かせていた富士銀行の頭取にはそれなりに責任を取ってもらわないといけないはずである。「痴漢は重大な犯罪です」と、このポスター、みずほ銀行の頭取室の前にこそ、貼るべきではないか!?!  それから、中島昭午が卒業した滋賀県立長浜北高校は、いったいどういう教育しとるのか!?!  長浜北高校の校長室の前にもまた、この「痴漢は重大な犯罪です」というポスターを貼って、長浜北高校の校長はそれを見て、おのれらの教育がそれでいいのか、よく検討し反省する必要があるのではないか。
※ みずほ銀行HP https://www.mizuhobank.co.jp/index.html
※ 滋賀県立長浜北高校HP http://www.nagahamakita-h.shiga-ec.ed.jp/
セクシュアル・ハラスメント (有斐閣選書 156) - 瑞穂, 福島, 裕子, 中下, まり子, 鈴木, 雅臣, 金子, 理知子, 池田
セクシュアル・ハラスメント (有斐閣選書 156) - 瑞穂, 福島, 裕子, 中下, まり子, 鈴木, 雅臣, 金子, 理知子, 池田
企業と人権 (日本労働法学会誌) - 日本労働法学会
企業と人権 (日本労働法学会誌) - 日本労働法学会
  1990年7月、小堀住研(株)の人事部長の高田は「支店長が女性社員の尻を撫でまわしたなんて、いっこうにかまわんことのはずや! なんでいかんねん、そんなもん。支店長なら女性社員の尻は撫でまわしてよいはずや! むしろ、それをいかんと言う者の方が会社として許せん! それは中島社長が最も嫌われる行為や。支店長が女性社員の尻を撫でまわすのがいかんなどと言うというのは、これは会社といて絶対に許すわけにいかん行為や。絶対に許してはいか~ん!」と言って顔を紅潮させてブルブルふるえながら叫んだのだった。
  小堀住研(株)は「小堀住研は大卒しか採らない会社なんです」と何十年も前から言いまくり(実際は高卒のおっさんがいっぱいいたけれども)、又、「うちは一部上場ですから」と言い、「技術の小堀、設計の小堀、デザインの小堀」と言いまくっていたけれども、その「一部上場企業」で「従業員数千人以上」の会社でその時点で「戸建住宅建築業界、施工棟数全国8位の会社」だったはずだが、高田のようななんとも程度の低い男が人事部長になっていた( 一一) 「支店長が女性社員の尻を撫でまわしたなんて、いっこうにかまわんことのはずや! なんでいかんねん、そんなもん。支店長なら女性社員の尻は撫でまわしてよいはずや! むしろ、それをいかんと言う者の方が会社として許せん! それは中島社長が最も嫌われる行為や。支店長が女性社員の尻を撫でまわすのがいかんなどと言うというのは、これは会社といて絶対に許すわけにいかん行為や。絶対に許してはいか~ん!」と言って顔を紅潮させてブルブルふるえながら叫ぶような、そんな男が人事部長になっているとは夢にも思っていなかったが、現実はそういう品性の悪い知能程度の低い男が人事部長だった( 一一)

  慶應大学にステューデントカウンセラーズというカウンセリングの「サークル」があったのだが、その合宿で、「寸劇」と称してエロ劇を下級生に強制するということをしていた。1982年、私は大学生として、そのような行為はやめるべきで、そのような「寸劇」はやめるべきだと警告したのだが、ところが、名嶋という程度の低い男が「寸劇やめるくらいなら、合宿での研修の時間をなくして寸劇するべきだ」と主張し、又、名嶋の仲間の田名(たな)という琉球銀行だか那覇銀行だかの頭取の息子らしい男が同調していた。問題はそこで終わりではない。その前年というと1981年(昭和56年)だが、二瓶という男はその「寸劇」を利用して、その年、1年の女子部員の尻を撫でたというのだ。当然のことながら、二瓶は大学生としてペナルティーを課されないといけないはずだ。ところが、この「ステューデントカウンセラーズ」という「カウンセリング」の団体と称していたカルト的な傾向を持つ「サークル」の部員の多数派は内部進学の人間を中心として、強制猥褻罪犯人の二瓶の方に加担して、その後も同様の「寸劇」をおこなっていたのだ。なおかつ、この団体の「合宿」には慶應大学の文学部心理学科の教授が同行することもあったが、教授はそれを容認していたのだ。そういう態度のことを「慶大生らしい思考の柔軟さ」とか「自我が確立されている」とか彼らは言うようだったが、そのような不真面目・不逞な態度を「思考の柔軟さ」などと称するのは不適切であり、「自我が確立されている」とは、これは「心理学者」とか「カウンセラー」「精神分析家」「精神科医」といった連中が「診断」に使う用語であり、自分にとって都合がいいものが「自我が確立されている」で、自分に都合が悪いものは「自我が確立されていないから、だから、そういうことを言うということですね」と「診断」し、事情によっては「治療」をおこなうというものだ。
  直接の被害者の女性部員は「休部」した後、・・・そして、ここが大いに問題なのだが、加害者の二瓶に「二瓶さん、心配かけて申し訳ございませんでした」と謝ったのだ。はあ? なんだ、それは!!! ・・と私は驚いたのだが、ところが、それが「慶應タイプ」の「常識」で、それが「慶應タイプ」にとっては「自我が確立されている」という態度で、それが「慶應タイプ」にとっては「独立自尊」らしく、それが「慶應タイプ」にとっては「福沢精神」らしいのだ。
  彼ら慶應大学「ステューデントカウンセラーズ」の主流派の連中は、そういう態度・そういう言動が「カウンセリングマインド」と主張いていたし、又、慶應大学の「学生相談室」の「カウンセラー」でもある慶應大学の「心理学」担当の教授・助教授のクズどももまた、そういう態度を「カウンセリングマインド」と呼んでいたが、違うだろ、それは!
  トマス=サズ『「精神医学」という狂気の思想』(新泉社)では、「大学の目的は『最高の自我とは自我を持たぬことだと学生を騙して信じさせる昼間病院』となることか」と述べられているが、まさにそれだ。「カウンセリングの研究」をおこなうサークルであるはずなのに、その団体で「合宿」というものを企画して、その合宿に参加した者は拒否しにくい状況を設定した上でエロ劇に参加させて、そこで強制猥褻行為を働く、それに同調する態度を「慶大生らしい協調性」とか言いまくる。違うだろ、そんなものが協調性ではないだろ。そうではなく、そういう時にこそ、「おい、やめておけ!」と言うのが協調性であり、独立自尊であるのではないのか!!!  こういったニセ福沢精神を身につけた人間というものが慶應大学の学生には多く、特に内部進学の人間や田名のように父親も「慶應の経済」という人間には大変多い。そして、こういうことを言うと、「おまえは協調性がないなあ」とか言われる。もしくは「おまえ、東大の学生みたいなこと言うなあ。慶應の学生なら慶大生らしくしろ」とか言われることになる。又、「自我が確立されていないから、だから、そういうことを言うということですね」とか「カウンセラー」「心理学者」から「診断」されることになり、場合によっては「治療」される可能性が出てくる。怖いわあ・・ほんま・・
  それで、だ。「痴漢は重大な犯罪です」と大きく書かれたポスターが貼りだされているのだが、「社内痴漢」は「重大な犯罪」だが慶應大学のステューデントカウンセラーズの「合宿」でやったら「思考の柔軟さ」とか「協調性」とか「カウンセリングマインド」という評価になるのか? ・・おかしいだろ。二瓶や名嶋に同調していた田名の父親は那覇銀行だか琉球銀行だか沖縄銀行だかの頭取だったらしいが、その銀行でも同様のことをやっているのか??? 同様にそのような犯罪行為を「協調性」だの「自我が確立されている」だの「思考の柔軟さ」だの「カウンセリングマインド」だのと言っているのか?
※ 田名の父親が頭取になっていた銀行が沖縄銀行なのか那覇銀行なのか琉球銀行なのか、記憶が曖昧になってしまったが、インターネットで検索すると、
沖縄銀行 https://www.okinawa-bank.co.jp/
琉球銀行 https://www.ryugin.co.jp/
というもののホームページはみつかったが、那覇銀行というのはみつからないので那覇銀行はないのかもしれない。そうなると、沖縄銀行か琉球銀行かどちらかということになる。その銀行の頭取は息子の教育がいいのか悪いのか? おそらく、その男もまた「慶應の経済」卒だという頭取の男もまた、同様に女性の新入部員に強制猥褻行為を働くことを「協調性」とか「思考が柔軟」とか「福沢精神」とか言いまくるタイプの男だったのではないか。・・その銀行、そんな人間を頭取にしていて大丈夫か?

  慶應という学校の人間に、そういった強制猥褻犯を擁護する人間が多いというのは、これはその学校の体質に由来するものだ。2023年、高校野球の神奈川県大会の横浜高校との決勝戦で「微妙な判定」で逆転勝ちした慶應義塾高校の野球部が、その後、出場した全国大会で優勝までしたようだが、それには理由があって、元々、慶應義塾高校というのは私が卒業したような公立高校の倍以上の定員がいる高校で、しかも、男子校であり(女子校は慶應女子高というものがあって別の高校になっている)、男子高校生の数で見ると私が卒業したような公立高校の4倍以上の男子学生がいることになる。男子生徒が公立共学校の4倍以上もいたら、スポーツの能力が優れた男子生徒もまた4倍以上いたとして不思議ではないことになる。
  しかも、中学校からの内部進学がいて、それら内部進学の生徒には「清原の息子」とか有名スポーツ選手の息子で「幼稚舎から慶應」の人間がおり、普通に考えたら・・「清原の息子」には悪いが、言っちゃ悪いが「清原の息子」てあんまり勉強できそうな印象はないがスポーツはできそうて感じがするし〔「なんやねん。清原の息子のくせして補欠か~い」なんて高校生に言うわけにもいかないだろうけれども、父親から考えると「スポーツの強い学校でレギュラー」くらいは当たり前やろ・・という印象を受ける〕、やっぱり、「清原の息子」であれ他の運動選手の息子であれプロスポーツ選手の息子なんてのは私や私の息子なんかよりもスポーツはできそうと考えてよいのではないか。
  そして、「スポーツ入学」というのが慶應大学だけでなく慶應義塾高校にもあるらしいのだ。1960年代に夏の大阪府の大会で優勝して全国優勝もした明星高校は、私ら小学生の頃は「野球の強い学校」という印象だったが、片方で野球などでのスポーツ入学でとっていても、他方で公立進学校を落ちた者を併願受験でとって、併願でとった生徒は地方国立大学あたりに進学していて、私の中学校の同級生でも地方国立大学に明星高校から進学した人がいた。しかし、明星高校の場合は、併願入試で入った生徒と専願入試で入った生徒とスポーツ入学の生徒がいて、スポーツ入学の生徒と併願入試で入った生徒は同じ高校に行っていても別みたいな感じだったらしい、いわば、ヤンマーディーゼルに釜本が「従業員」としていて、釜本はサッカーばっかりやっていたわけではなくてヤンマーディーゼルの普通の仕事も少しはやっていたらしいが、しかし、一般の従業員と同じように仕事していたわけでもないらしかったが、そんなものみたい。
  インターネットで見たものによると明星高校はスポーツができる生徒を別口で採るのはやめたらしい。「野球の強い学校」というのは、私立高校の場合、「東大か甲子園」と言って、東大の合格者を出すということと野球部が都道府県の大会で優勝して甲子園大会に出る、できれば甲子園の全国大会で優勝するというのが高校の知名度を上げる方法なので私立高校の経営者は「東大か甲子園」を企業努力として達成しようとすると言われてきたが、「野球の強い学校」というのは「お勉強のできないやつの学校」という印象を与えることになる場合もある。
  慶應大学はかつては小泉信三塾長が「大学は学問をおこなう所であり、学問をおこなって、その上でスポーツもやるというのならやればいいが、スポーツをやって学問をやらないというのでは、それでは本末転倒だ」という見解のもとにスポーツ入学では新入生を採らないようにしていて江川ですら落とされたのであり、それゆえに東京六大学野球では80年代前半まで、慶應大は、毎回、東大と最下位争いをしていたが、その後、「推薦入学」でスポーツができる学生を一般入試とは別口で採るようになって急激に強くなったが、慶應義塾高校もスポーツができる生徒を一般入試よりも低い合格最低点で採るということをやっていたらしいが、「日刊ゲンダイ」の記事によると、今回、急に強くなったのは「スポーツができる生徒を一般入試よりも低い合格最低点で入学させる」というそのスポーツ選手向けの合格最低点をこれまでよりも下げたらしく、そのためにスポーツができる生徒がより多く入学するようになったことが影響しているらしい。一般入試よりも低い合格最低点で入学できて、なおかつ、慶應義塾高校に行けば基本的には全員が慶應大学に内部進学で行けて(「上位3割に入れば早稲田大学に内部進学で行ける」という「提携校」の早稲田摂稜高校などとは違って、慶應義塾高校というのは慶應義塾の「直営校」なので「医学部に行きたい」とかそういうことを言わなければ基本的には全員が慶應大学に進学できる)、大学に行ったら行ったで、内部進学の人間というのは慶應義塾カーストでは「外部の連中」「外部の者」よりも上のカーストであり、「外部のやつらを教育してやらんといかんからなあ」とか言いまくる存在であり、大学だけ慶應大に行くと「なんか、あほくさいなあ」と感じるところだが、その逆を内部進学の人間は感じているはずであり、だから、「野球の強い私立高校」に行ってレギュラーになって全国大会に出ても、プロからドラフトで指名してもらえるか、法政とか明治とか亜細亜大とかにスポーツ入学で行けるか社会人野球のチームを持つ会社に行けるか・・というものだが、慶應義塾高校にスポーツ推薦入学で行けば慶應大学にに内部進学で行けて、大学卒業時にプロ野球の球団から指名してもらえなくても「慶大卒」になることができるわけだから、「野球ができて、学校の勉強もどん底ではない」というくらいの生徒にとっては慶應義塾高校というのはけっこう魅力のある高校かもしれない。
  それで・・「バ~カき血に吠える者、病気もてるやつら~あ♪ 低能~のかお~り、ぷんぷ~んと臭~う。・・低能~、低能~、カネの亡者(もうじゃ)、低能~お♪」とか歌うために甲子園球場に行ったおっさん・・、それも慶應義塾高校卒ではなくて、慶應大学卒だけれども高校は慶應義塾高校卒でないのに行ったおっさんがいた、というのだが・・・、その気持ちはわからんこともない。ヤフーだかに書いてあったのは、早稲田実業高校が甲子園大会で勝ち進んだとしても、早稲田大学卒だが高校は早稲田実業高校卒でない人というのは「まあ、どっちかというと何かの縁だから勝った方がいいかな」くらいに思う人もいるかもしれない・・くらいのもので、自分は慶應大学卒であっても慶應義塾高校卒でもないのに慶應義塾高校の応援に行きたがるおっさんみたいな人はあまりなく、日大三高とか日大一高とかが甲子園大会で勝ち進んでも日大卒でも高校は日大系の高校卒でない人というのは「ああ、そう」みたいなもので特別に甲子園球場に応援に行きたがったりする人というのはあまりないのだが、ところが、慶應大学卒のおっさんの場合は、自分は慶應義塾高校卒ではないのに矢鱈と盛り上がって甲子園球場に応援に行きたがる・・て、「この人、何なのだろう・・(^^)/ 」と思う者が周りに続出・・・というのだが。 しかし、それならば、阪神タイガースが優勝した時に戎橋付近で六甲おろし 歌ってるおっさん、戎橋から道頓堀に飛び込むおっさんて、阪神電鉄(株)の従業員か、阪急阪神ホールディングスの株もっとるのか・・というと、違うわけだ。違っても、だ。阪神は関西人の命、阪神は関西人の魂なのだ。なんでも、1985年の日本シリーズの時、西武系の近江鉄道(株)は従業員に甲子園球場に西武の応援に行けなどと言ったという話があるが、許せん! どう考えてもそれは人権侵害だ。信教の自由の侵害であろう。阪神タイガースは関西人にとってはもはや先祖伝来の宗教なのだ。「そんなもん、道頓堀なんか飛び込んだら死んでまうぞ」なんて言っても「阪神の優勝と引き換えなら死んでもかまわん」とか思っとるのだ。「何考えとんねん、アホか、そんなことしたら死ぬぞ」なんて言うても「だから、誰が賢い言うた。アホでかまわん言うとるやろ。阪神のためならアホでもバカでもなったるわい」とか思っておるのだ。〔⇒《YouTube-六甲おろし 唄:立川清登》https://www.youtube.com/watch?v=yV814_p2fxE 〕・・「トランス状態」というのか「躁状態」というのか、そういう状況なのだ・・。 まあ、慶應義塾高校の「応援」に甲子園球場に慶應義塾高校卒でもないのに行ったおっさんてのは、「六甲おろし」歌える所ならどこでもええみたいな阪神ファンのおっさんと同じで、「若き血」歌えるなら慶應大学でなくて慶應義塾高校でもかまわん・・みたいな人がけっこういたかもしれん・・・と思う(^^)/
  実際のところ、私なども大阪に住んでいた時は特別に阪神ファンでもなかったのだが、ところが東京圏で住むと、東京もん でアンチ関西・アンチ大阪・アンチ阪神のおっさんがいるし、同埼玉県人ねーちゃんというのがいてむかつく・・ことから、愛国心に目覚めて阪神ファンになった。特に、今回の優勝は「18年ぶり」と言っても前回の優勝の2005年から今回の2018年までの間は最下位とかはなくてAクラスがけっこう多かったのではないかと思うのだが、1985年の優勝日本一から2003年の優勝までの間は、この間は「ほとんどCクラス」であり、そうなると「東京もんのおっさん」が喜ぶのだ。この野郎、そのうち、いてもうたるぞお・・・とか思いながらも、それでも翌年も阪神はCクラスを続けるのだった。1980年代後半だったか1990年代前半だったか、「ワッハハ プロ野球」だったか「隔週刊 パロ野球ニュース」だったか、竹書房だか文化書院だか発行の漫画雑誌に中山ラマダという漫画家が描いていた漫画で、プロ野球の公式戦終盤になって「今年の優勝はどのチームになるか、街の声をひろってみました」というテレビの企画で、アナウンサーが「今年のセリーグの優勝はどこだと思いますか」と尋ねると、ズバリ、「阪神!」と。「はあ~あ? なんで阪神なんですかあ~あ。阪神は残り全勝しても優勝できませんよお~お。阪神は5位のチームとも10ゲームほども離されてまうよお~お。いったいどうして阪神なんですかあ~あ?」と、東京もん のアナウンサーがいかにもうれしい、いかにもおもろいて感じで言うと、「じゃかましいわい! 阪神はなあ、阪神は、阪神は全敗したって優勝するんじゃあ。阪神はなあ、阪神は最下位でも、阪神はたとえ最下位でもそれでも阪神は優勝するんじゃあ、このボケえ~え!」と叫ぶという、中山ラマダがそういう漫画を描いていたが、まさにそんな感じ(^^)/  又、1997年、阪神の監督に1985年に優勝した時の監督の吉田が就任しての開幕戦、阪神と巨人の対戦で巨人が勝った後、勝利投手インタビューでアナウンサーが勝ち投手の齋藤(巨人)に「きょうは勝ちましたが、今年の阪神はこれまでとは違ったでしょうか」「阪神の監督が吉田監督にかわって、今年は少してごわいといった感じはあったでしょうか」と一生懸命、話をふって、阪神ファンのためにも「そうですね。きょうは勝てましたけれども、今年の阪神はてごわそうな印象がありましたね」とか、「ちょっと去年までとは違う感じがありますね」とかいった言葉を言ってもらおうと努力するのに、言っても言っても齋藤は「いや、そんなことないですよ」「全然」「ちっとも」「ちっともそんなことないですよ」と言いまくるので、こいつ、いったい何なんだ・・と思ったものだった。その点、王はたいしたもんだなあ・・と思ったのは、2003年、18年ぶりに優勝した阪神とダイエーホークスが日本シリーズで対戦して、セリーグの公式戦では圧倒的に強かった阪神はダイエーホークスに3勝4敗で敗れたが、勝利監督インタビューでダイエーの監督の王は最初に何を言ったかというと「阪神には申し訳なかったけれどもね」と、王はそう言ったのだ。さらに、WBCで日本チームの監督を王がやった時、韓国チームがその年は相当強くて、最後の最後まで日本チームと優勝を争い、最後の試合に勝った方が優勝という試合で日本チームが勝って優勝した後、王は何を言ったかというと「韓国チームはピッチャーが大変良かった。又、守備も良かった。だから、なかなか、点を取れなかった」とそう言ったのだ。負けたチームのファンや負けたチームの国の人間の気持ちを考えて、即座にそういうことを言えるというのは、王はたいしたもんだなあ・・と思った・・・し、暴言ばっかりはいてる自民党の政治家は王の爪の垢を煎じて飲めえ・・とも思った。〔・・まあ、もしかすると、王は阪神ファンに襲撃されるのん、いややったんかもしれんけども・・〕、それにしても、プロ野球の選手や監督というのは自分のチームのファンだけでなく相手チームのファンのおかげでメシ食えているところもあるわけで、相手チームのファンの気持ちも考えて発言できるというのは、たいしたもんだと思った。それに対して、齋藤はアナウンサーが「今日は勝てましたが、今年の阪神は去年までとは少し違うかもしれません」とか、お愛想でもいいから一言、言うてくれと言っているのに、それを「全然」「ちっとも」「まったくそんなことありません」と言いまくるというのは、斎藤雅樹てやつ、こいつ、阪神と関西人に恨みあるのか・・・て感じやった。ほんま、感じの悪いやつやなてもので、王以外の巨人の選手・監督・コーチというのはその時斎藤雅樹みたいなそういう人間が大変多い。だから、関西人と阪神ファンにとっては、広島とか中日とかヤクルトというのはライバル(rival)(好敵手)であるのに対して、巨人というのはエネミー(enemy)(敵)であり〔「敵」というより「仇」であり〕、石でも投げつけてやりたいくらいの存在だったのだ。1985年から長年のCクラスを経て2003年に阪神が優勝した時、涙を流しながら「ようやった。ようやったぞお」とつぶやいておったおっさん にとって、それはもう心の叫びだったのだ。憎き斎藤雅樹 らを打ち負かしたのだ。悪い巨人・ずるい巨人・汚い巨人、悪の代名詞の巨人を倒して優勝したのだ。長年に渡って、「はあん、なんで阪神が優勝するんですかあ。阪神は最下位ですよお。残り全勝してもAクラスにもなりませんよお~お」と東京もんのアナウンサーがうれしそうに言うてきおった、東京もんと埼玉県人の無礼な態度に対して「耐えがたきを耐え、忍び難きを忍び」「雨ニモ負ケス、風ニモ負ケス」「臥薪嘗胆」「韓信の股くぐり」「堪忍は無事長久のもと、怒りは敵と思へ」と思って耐えてきた、その思いが出たのだ。「阪神ファンて、こんなに阪神は弱いのに、なんで、阪神ファンやめないんですかあ」とか言う東京もんに対して阪神ファンはずっと思ってきたのだ。「我が子のできが悪かったらよその子の味方すんのんかい、おのれは。おのれはよその子のできが良くて我が子のできが悪かったらよその子を応援すんのんかい、このクソどあほ、いてもうたろか」と、阪神ファンはずっと思って耐えてきたのだ。東京もんと埼玉県人と巨人の選手の関西人と阪神ファンに対する無礼な態度に対して、怒りの気持ちを心の奥底に忍ばせてずっと耐えてきたのだった。「ようやった、ようやったぞお」と言うて涙を流しておったおっさんというのは、まさに本音、まさに魂の叫びだったのだ。〔⇒《YouTube-大阪タイガースの歌 【六甲颪】》https://www.youtube.com/watch?v=1rXn3kg-sn4&t=94s 〕
  それで、「慶應大学卒」と記載した履歴書を提出して会社に入社すると得するかというと、私なんか、あんまり得したことはない。むしろ、親の仇みたいに思ってる高卒のおっさん・中卒のおっさんから相当ひどい目に合わされてきた。そう思うと、「若き血」が流れる所に行って、一緒に歌ってくるか・・・という気持になりかねない。 グランドで野球やってるやつが慶應大学体育会野球部であるか慶應義塾高校野球部であるかなんて、そんなことはたいした問題ではない。この際、甲子園球場に行って「若き血」を歌ってくるか。グランドで野球やってるやつが慶應大学体育会野球部の人間か慶應義塾高校野球部の人間か、もしくは阪神タイガースの選手かなんてたいした問題ではないのだ。「清原の息子」が所属しているのが慶應義塾高校野球部かPL学園野球部かもたいした問題ではないのだ。
  実際、建築業界に勤めると「バカでも入れる私大の建築学科」卒の人間がえらそうにしおってからに、何なんだ、こいつらは・・と思うことは日常のことだ。蹴っ飛ばしたろかと思うが、心の中で「蹴っ飛ばしたろか」と思うのは自由だが実際に蹴っ飛ばすわけにもいかんと思って我慢しているといくらでもズに乗りよる。「慶應大学卒」の履歴書だして入社した者が「バカでも入れる私大卒」のやつとか「無試験よ~こ~の建築専門学校卒」のやつとガチンコで喧嘩するのも大人げない〔「無試験よ~こ~」とは「無試験」と「具志堅用高(ぐしけんようこう)」を重ねたものだ〕・・と思って我慢していると、無制限に我慢させられる。そういう経験を毎日毎年させられてきた者としては、慶應義塾高校の「応援」にでも行って「若き血」歌ってくるか・・・とか思う気持は、その気持ちは、わかる♪ 

  それで、片方でグランドで慶應義塾高校野球部でも何でもいいからスタンドに行って「若き血」を歌ってきたろか・・と思うおっさんの気持ちはわからんことない・・のだけれども、YouTube で慶應義塾高校の「応援席」を見て、「やっぱり違うな」と思ったのだ。
  なんというのか、阪神ファンのおっさんが「六甲おろし」を歌うのとは意味が違うし、中卒・高卒や「建築専門学校卒」や「バカでも入れる美大の建築学科」「バカでも入れる私大の建築学科」卒の男・女がふんぞりかえって「学校でてますから」とか言いよるのを見て不快感を覚えるというのと、慶應義塾高校の「応援席」にいる人間とは違うわ・・・。あれは、やっぱり、ファシズムの応援席だ。慶應義塾高校の「応援席」というのは、あれはナチスと一緒だ。
  サルトルは自分自身の思想のあり方との関係で問題があると思った相手とは、たとえ、それまで親しくしていた相手とでも縁を切ることがあったというのだが、それと逆なのだ、あいつらは( 一一)
言葉 - J.‐P. サルトル, Sartre,Jean‐Paul, 直, 澤田
言葉 - J.‐P. サルトル, Sartre,Jean‐Paul, 直, 澤田
実存主義とは何か - Sartre, Jean Paul, 伊吹 武彦, 海老坂 武, 石崎 晴己
実存主義とは何か - Sartre, Jean Paul, 伊吹 武彦, 海老坂 武, 石崎 晴己
  私なんかは、同じ高校の出身者・同じ中学校の出身者とか、同じ地域の出身者を見ると、懐かしさを感じたり親しみを感じたりすることはあり、他の条件がまったく同じなら(といっても「他の条件がまったく同じ」ということはなかなかないが)その人の側につきたくなってみたりすることだってないわけではないが、もしくは、たとえ、一時的にいた場所でもそこの出身の人を見ると懐かしさを感じることだってあるけれども、しかし、それだけでその人の味方とか、その人の側ということはない。異なる学校の出身の人でももっともなことを言う人は支持するし、自分と似た経歴の人でも支持できない人は支持できない。それに対して、慶應の内部進学の人間というのは「内と外」という思考が強固にあって、自分たち「内」は「外」の人間を支配しなければならない、自分たち「内」の人間は「外」の人間に命令し「教育」しなければならないという意識があり、彼らはそう教育されてきているのである。彼らにとって一番の真理は「慶應内部進学は正しい」、これである。「慶應内部進学は間違っていても正しい」と、彼らはそう思っており、彼らにとってはそれが1万年後も変らない宇宙の真理なのだ。だから、落ちぶれたりといえども、このあたりの思考においてサルトルと同じ方の思考の者としては、彼ら慶應内部進学の人および、それらの人と似た思考をするに至った「外部の者」(慶應大学に大学だけ行った人のことを内部進学の人は「(慶應義塾の)外部の者」と言う)とは、私は思想的に相いれないわ・・・。彼らと調和しようとしても、それは無理だ。彼ら、「もはや、我、生くるにあらず、『塾風』我が内にて生くるあり」という人、「学問は塾風の婢」の人、「一木一草に塾風が宿る」という環境がここちEという人〔⇒《YouTube-ワコール ソフィブラここちE CM 80年代》https://www.youtube.com/watch?v=6olufVuCQgE 〕、「小学校・中学校・高校・大学・勤め先と慶應」で慶應大学を定年で退官した後に慶應大学よりも定年の年齢が高い私立大学の教員になったら「何かと慶應に帰りたがる」と評判悪かったらしい小此木啓吾みたいな人、そういうのを「人間を知っている」とか「社会を知っている」と言う人、それが「独立自尊」で、それが「自我が確立されている」で、それが「受験勉強の悪影響を受けていない」で、それが「思考が柔軟」で、それが「企業はそういう人間を喜ぶ」で、それが「ギャルにもてもて」だと主張する人、心の底からそうだと思っている人・・・とは、サルトルのような姿勢が「自我が確立されている」で「独立自尊」だと思ってきた者、たとえ、自分と同じ高校や中学校の出身者でも支持できない人は支持できないし、他校出身の人でももっともなことを言える人は支持してよいと考える者としては、やっぱり、同じ場所にはおれんわ・・( 一一)  そして、「ぱあんぱあか、ぱあんぱあか、ぱんぱかぱんぱん、ぱんぱんぱん・・、わ~かき血に吠える者、病気もてるやつら~♪」というのは、「内と外」という思考が強固にあって、「内」の人間は「外」の人間を「教育してやらんといかんからなあ」と常に口にしている連中、そういう思考の人間のことを「思考が柔軟」とか「協調性がある」とか「福沢精神を身につけている」とか考える人たちとは、合わんし、無理して一緒にいてもお互いにいいことないわ・・・。
  1982年だか、慶應大学に「プロレス研究会」という反社会的勢力の団体があって、彼らは早稲田大学の「スーパーフリー」と似た団体で、女子大生を騙して集めて強制猥褻行為を働いていた。私はそういったことを知らずに1回だけ、彼らの集まりに顔を出してしまったが、そういった彼らの行為を目撃したことから、その場で止めることはできなかったが、彼らとは縁を切った。
  それに対して、慶應の内部進学の人間は違うのだ。慶應の内部進学の人間の思考は「慶應内部進学は常に絶対に正しい。慶應内部進学と逆側・慶應内部進学を批判する者が間違いであり悪であり、慶應内部進学を批判する者が『自我が確立されていない』であり『独立自尊の精神がない』であり、『受験勉強の悪影響です』である」という思考であり、強制猥褻犯であろうが何であろうが慶應内部進学である者の味方であり、慶應内部進学は慶應内部進学の味方」というものなのだ。そういう思考・そういう行動のことを「団結が強くていいですね」などと言う者がいるが、それは違うだろ。それを「協調性」とか言う者がいるが違うだろ。サルトルは「団結心」がないのか? サルトルは「協調性」がないのか? そうではないだろう。サルトルはアメリカ合衆国のベトナムに対する態度・フランスのアルジェリアに対する態度に同調することはできない、ベトナムやアルジェリアの人たちに対しての「協調性」「団結」から考えて、それは認められないと考えたのだ。
  サルトルがノーベル文学賞を辞退したのはどういう理由なのか。理由はひとつではないみたいで、
(1)サルトルは、もともとノーベル賞に限らず「賞」というものを高く評価しておらず、何何賞を受賞した作家だからという評価を受けたくないという意識があったらしい。
(2)ノーベル賞というものは、アメリカ合衆国の政治的意向を強く受けた賞で、東側の国の「赤い国における抑圧と闘った人」か西側の国におけるアメリカ合衆国的自由主義に貢献した人か、いずれかに与えられる賞であり、サルトルは一時、「共産党の同伴者」と見られていた時期があったが、後にフランス共産党ともソビエト連邦とも距離を置くようになったが、その「距離を置くようになった」部分を評価しての授賞ならば、他方において「西側」の国においても問題点はあるのであり、ソ連やフランス共産党と「距離を置くようになった」ことに対しての「賞」は受けたくない、ということがあったのではないか。
  サルトルは「私は『ノーベル賞作家』といったものによって規定されない。私は私だ」と言ったらしいのだが、そうは言っても、そうであっても別にくれるというものならもらったっていいじゃないかという考え方もあるとは思うが、サルトルは受けたくなかったらしい。それで・・、「私は・・・といったものによって規定されない。私は私だ」とは言っても、世の中、生きていくにおいて、何何大学何学部卒とか、何という資格を持ってますとか、どういう賞を受賞しましたとか、そういったものを履歴書に記載してこそ採用してもらえるのであって、「私は私だ」と言うのでは評価してもらえない、メシの種になりにくいということは現実にあると思うのだがしかし、やっぱり、「私は私だ」という姿勢というものは人間、人生を生きていくにおいて必要ではないのか・・と思うのだが、ところが「慶應タイプ」、特に慶應内部進学の人というのは「慶應から離れて生きることができない人」というのが多いようで、慶應内部進学は正しい、次いで私立大学系私立高校卒で慶應大卒が正しい、その次に・・というそういう「内と外」の思考から離れることができないという人ばかりで、それらの人は自分たちのそういう体質・性質のことを「独立自尊の精神を持っている」とか「自我が確立されている」とか「受験勉強の悪影響を受けていない」とか「思考が柔軟」とか「人間を知っている」「社会を知っている」とか言いまくるのだが、それって、逆と違うのか・・と思うのだが、「逆と違うのですか」とか言おうものなら「自我が確立されていないから、だから、わざわざ無理して逆らっているということですね」とか「受験勉強の悪影響だと思います」とか「思考の硬さが気にかかります」とか「独立自尊の精神がないから、そういうことを言うということですね」とか「モラトリアム人間病にかかっているから、だから、そういったことを言うということですね」とか何とかかんとかくんとかすんとか「診断」しまくることになるが、「小此木啓吾の””精神分析学””」というのは要するにそれ、内部進学独善主義を「精神分析学用語」なるもので表現し、それでも足らない時は「モラトリアム人間病」とか「ピーターパンシンドローム」とか「ウェンディジレンマ」とか何とかかんとかいった「病名」・「精神医学」的レッテルを発明して気に食わないやつにぺったんこぺったんこと貼りつけてやればいい♪ てものだが、慶應大学の文学部心理学科とかには、その類、「小此木啓吾の小型」「小此木啓吾のエピゴウネン」みたいなのがいた( 一一)  彼らに逆らうと「病名」つけられるおそれがあるから要注意だ。その類の人間とはできるだけ関わらない方がいい。
   女子大生を騙して集めて強制猥褻行為を働いている慶應大学プロレス研究会のような連中を批判するということは「おまえはそんなにエライのか」とか「おまえにそういったことを言う資格はあるのか」とか言い出す人が出てくる可能性がある・・というより、言うやつは間違いなくいると思うが、「おまえはそんなにエライのか」というと、そんなにエライとは思っていない。どう思っているかというと「せいぜい『並み』か『並みの下』くらい」と思っている。うちの父親は私に「あんたは、もしかすると、わしのことを『普通の人間』とか思っておったかもしれんけども、実は違ってんでえ」と言い、「普通の人間と違うのですか?」と言うと、「実はわしは普通の人間とは違ってん」とおっさんは言い、「それじゃ、どういう人間なのですか?」と尋ねると、「実は、わしはスーパーマンやってん。知ってたか」と言うのだったが、知らんかった。パーマンかと思ってた( 一一)  世の中には「お父さんはスーパーマンのお方ですから」とか言っておだてて喜ばせることで自分の「言うことをきく」ようにさせようとする者というのがいるもので、うちの父親なんてのは、すぐにそういう作戦に乗せられてしまう、いわば「パーマン」だった・・・が、それに対して私はというと、元から自分で「わしはスーパーマンやねん」なんて思ってないし、「せいぜい『並み』か『並みの下』くらい」と思っているから、まあ、ひとつにはそういうことにしておいた方が世の中、生きていくのに楽だということもあるのだけれども、世の中、生きていくのにそういうことにしておいた方が楽だということだけではなくて、実際にそう思っているのであり、「おまえはそんなにエライのか」なんて言われても、特別にエライとは別に思ってまへんでえ、せいぜい「並み」か「並みの下」くらいと思ってますでえ、と言うしかないのだ。 「おまえにそういったことを言う資格はあるのか」というと、これは、ある。間違いなく、ある。なんでか・・というと、だって、私は「慶應タイプ」みたいに、プロレス研究会の連中みたいに女子大生を騙して集めて強制猥褻行為を働くとか、そんなことしてないもん。そんなことしたことはないから。だから、「おまえにそういったことを言う資格はあるのか」と言われるなら、あるよ、言う資格は。「慶應タイプ」とは違って。
告発の行方 (字幕版) - ジョディ・フォスター, ケリー・マクギリス, バーニー・コールソン, レオ・ロッシ, アン・ハーン, カーメン・アルジェンツィアノ, スティーヴ・アンティン, トム・オブライエン, ピーター・ヴァン・ノーデン, ウディ・ブラウン, トム・トーパー, ジョナサン・カプラン, スタンリー・ジャッフェ, シェリー・ランシング
  「思考が柔軟な慶應ボーイ」とか称している「実業家」などというものは、彼らプロレス研究会の者どもの親のような人間のカスみたいな人間ばかりである。夏目漱石『吾輩は猫である』に登場する「くしゃみ先生」という夏目漱石自身がモデルと言われてきた登場人物は「実業家」というものを胡散臭い存在と見ていたようだが、実際、「慶應タイプ」の人間を見ると胡散臭い存在であるのは間違いない。
  「たとえ、全世界を手に入れることができたとしても、自分自身を失ってしまったなら、何の価値があるでしょうか」というイエスの言葉が『新約聖書』の「福音書」に出ている。女子大生を騙して集めて強制猥褻行為をおこなっている団体 プロレス研究会の人間に同調すれば、その構成員は大企業の「えらい人」の息子だったり、オーナー経営者の息子だったり、病院長の息子だったりするようだから、もしかすると、彼らに媚びでも売っておけば「ええこと」あったかもしれないけれども、しかし、『新約聖書』「福音書」には「悪魔のこころみ」なる話が掲載されており、悪魔はエルサレムの丘の上にイエスを連れていった上で「私を拝みなさい。そうすれば全世界をあなたにあげよう」と言うが、イエスは「退け、悪魔。主なる神ヤハウエ以外の者を拝んではならないと聖書に書いてある」と述べる。プロレス研究会とかスーパーフリーとかそういった団体を運営している連中の親が「社会的有力者」であったとしても、万能の主ヤハウエに勝るとでも思っているのか・・というものであろう。まさに「退け、悪魔」といったものである。 プロレス研究会の構成員だった経済学部の占野(しめの)という男が(株)リクルートが発行していた就職情報誌「リクルート」に写真と実名入りで「慶應大学プロレス研究会 慶應大学経済学部 占野(しめの)君」として掲載されていたので、へえ~え、(株)リクルートて、あんな反社会的勢力の団体の人間を「リクルート」に写真入りで掲載するのか・・と思ったが、私は(株)リクルートの本社まで行って、「女子大生を騙して集めて強制猥褻行為を働いている団体である慶應大学プロレス研究会の占野(しめの)という男の写真と氏名を『リクルート』に掲載されていましたが、それは彼らがそういったことをやっている団体だと認識した上で掲載されたのか、それとも、知らなかったから掲載されたのか、どちらですか」と質問したところ、(株)リクルートの担当者の返事は「知っていて掲載したのではありません。知らなかったから掲載したのです」というものだった。
  1982年、その時、慶應大学プロレス研究会の「代表」やっていた男は4年の真殿(まどの)という男だった。おそらく、私なんかよりずっと「いい会社」に勤めて、私なんかよりも出世させてもらって、私なんかよりもずっと高い給料もらって、私なんかより幸せな人生を送ったことだろう。きっと、そういう連中は子孫繁栄することだろう。そういう連中の子もまた慶應に行って同じようなことをやるのだろう。そういう態度を「塾風」「福沢精神」と言い、「独立自尊」と「慶應タイプ」は言い、「自我が確立されている」と「心理学」は「診断」するのです。いくらなんでも、そんな反社会的勢力に加担したり協力したり同調したりするわけにはいかない・・と考えて、彼らを阻止することまでできなくても彼らと同調しないよう、彼らを避けるようにする者は「慶應心理学」から「自我が確立されていないから、そういうように考えるということですね」とか「アイデンティティーを持っていないから、そう思うということです」とか何とかかんとかぐじゃぐじゃ「診断」されることになります。「自我が確立されている人間なら、そのような反社会的勢力に加担したり同調したりすることはできないはずだ」と考える人間は「慶應心理学」から「自我が確立されていないから、そのように考えるわけですね」と「診断」され、そのような反社会的勢力やそいつらに加担したり同調したり協力したりする者どもが「自我が確立されている」と「慶應心理学」から「診断」されます。それが「心理学」なのです( 一一)  毛沢東は『敵によって反対されるのは良いことであって悪いことではない』において、「敵によって反対されるのは良いことであって悪いことではない。なぜなら、もしも敵によって称賛されるなら、それは我々の行動が敵と同様に腐敗していることを意味し、敵によって反対されるなら、それは我々の行動が敵とは一線を画していることを意味しているからである。だから、敵からありとあらゆる卑劣な悪口雑言罵詈讒謗中庸を浴びせられるなら、むしろ、それは『大変けっこうだ』と考えるべきである」と述べているが、この視点で考えるならば、「心理学」「精神医学」「精神分析学」からありとあらゆる悪口雑言罵詈讒謗を浴びせられるなら、それは、むしろ「大変けっこうだ」と考えるべきかもしれない。なぜなら、「心理学」「精神医学」「精神分析学」から悪口雑言罵詈讒謗を浴びせられるなら、それは「心理学」「精神医学」「精神分析学」と同様に腐敗していないことを示しているからである

  慶應大学プロレス研究会の桐原という男は女子学生に強制猥褻行為を働いていた男だったが、「幼稚舎から慶應」の男で、そうなると、慶應義塾では「大学だけ慶應」に行った者は「カースト」が上のお方に対してはひれ伏して服従しないといけないことになり、内部進学団結主義は彼らの仲間である強制猥褻犯罪者を保護するのが「協調性」で「独立自尊」で「自我が確立されている」ということになるのだったが、又、「企業はそういう人間を喜ぶ」ということだったはずなのだが、聞いたところによると、父親は東急電鉄のエライさんらしく、息子が「慶應の経済」を卒業する時、東急電鉄グループが電通に頼んでいた広告を、年何千万円と博報堂にまわすから博報堂で採用してくれと頼んだところ、博報堂では「誠に申し訳ございませんが、弊社ではこの方は採用できかねます」と丁重にお断りの返事をされたらしい。慶應義塾の「常識」によると「そういう人間を企業は喜ぶ」はずだったのだが、違ったのか? 変なの。さらに、慶應大学医学部の小此木啓吾助教授は「う~ん、この人は典型的なピーターパンシンドロームだあ」とか「診断」したというのだが、ええかげんなもんや、「ピーターパンシンドローム」か何かしらんが、いずれも「揺り籠から小学校・中学校・高校を経由して大学まで慶應」だけあって小此木啓吾と桐原はよう似てるやないか( 一一)
  小此木啓吾も「ピーターパンシンドローム」で「モラトリアム人間病」と違うのか。「揺り籠から墓場まで慶應」小此木啓吾こそ「ピーターパンシンドローム」で「モラトリアム人間病」とちがうのか・・て感じがするのだが。小此木啓吾こそ、「慶應的精神空間」から外に出ることに抵抗をして、「慶應的精神空間」から””外界””に出ることを拒否した「モラトリアム」の人生を送った典型的モラトリアム人間病の重症患者だったのではないか。小此木啓吾こそ、「入院療法」で逮捕監禁した上で、緊縛療法でベッドにくくりつけ、「薬物療法」で毒盛りおこなって人間としての機能を奪い、「電気ショック療法」とかやって攻撃し、真人間になるようにシベリア送りにでもして「作業療法」で強制労働・無賃労働につかせ、「心理療法」「カウンセリング」で言いくるめ、洗脳して、「ロボトミー」で殺すか植物人間にしてやった方が小此木啓吾本人のためだったのではないか。
  それにしても、「東急電鉄のエライさん」て嫌なやつだな。江崎グリコとかなら買わなきゃいいのだが、東急電鉄なんてのは乗らないでおいてやろうと思っても、乗らないというわけにいかない。たとえば渋谷から慶應大学の教養課程がある日吉まで行こうとすると、東急東横線に乗らずに行こうとすると、ものすごい遠回りになり、しかたなしに東急電鉄に乗ることになってしまう。会社でも、自分の所は販売先が会社であって一般消費者に売るような会社ではないから、だから、一般国民に嫌われても怖いものなしじゃ、わあっはっは・・とか思っておるような会社があるようだが、電鉄会社というのは一般市民が販売先だが、その一般市民は東急沿線に住んでいたら東急電鉄に乗らないようにしてやろうと思ってもそうはいかない。
  さらには、2000年代、東急ホームの求人を朝日新聞の求人欄だったかで見て応募いたのだが、不採用にされた。東急ホームは東急電鉄の系列会社で、ツーバイフォー工法にて東京圏で建てていた会社だったが、息子が慶應大学プロレス研究会で反社会的行為を働いていた、息子がそういうことをやっていても父親は「何が悪いねん」と思うておる男だったようで、そういう男が役員になっている会社の電車なんか乗りたくない・・が電鉄会社の場合はその沿線に住んでいたり、その沿線に用事がある者は乗らずにすますのは困難であり、だから、強制猥褻犯は天下無敵・・だったが、それとともに東急ホームは、ツーバイフォー工法で建てる会社の中でも、ツーバイフォー工法は北米から伝わった構法であるけれども、北欧でもツーバイフォー工法で建てている地域はあるようで、それゆえ、日本のツーバイフォー工法で建てる会社は、
(1)アメリカ合衆国型ツーバイフォー住宅
(2)カナダ型ツーバイフォー住宅
(3)北欧型ツーバイフォー住宅
(4)北米から日本に伝わったツーバイフォー工法の住宅だが日本的にかなり順応させたツーバイフォー住宅
があり、東急ホーム はこのうちの(1)アメリカ合衆国型ツーバイフォー住宅 を建てていた会社で、東急電鉄の沿線だけではなく千葉県でも施工していた会社で幕張の総合住宅展示場にも住宅展示場を出店していたが、住宅展示場を見に行ってみると、『華氏911』なんて映画も作成されたが、ジョージ=W=ブッシュがイラクが「大量破壊兵器」を保有しているとインネンつけて攻撃したが、イラクは「大量破壊兵器」なんか持っていなかったが、それでもジョージ=W=ブッシュは「知らんぷり劇場」やったという、そういう時期に東急ホーム は自社の住宅展示場の周囲にアメリカ合衆国の星条旗をありとあらゆる所にかけまくっていたのだった・・・が、
ラムゼー・クラークの湾岸戦争―いま戦争はこうして作られる - ラムゼー クラーク, Clark,Ramsey, 信也, 中平
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華氏 911 コレクターズ・エディション [DVD] - ドキュメンタリー映画, マイケル・ムーア
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ロシア連邦軍によるウクライナへの「特別軍軍事作戦」と称する軍事的侵略がおこなわれたとしても私はロシア民謡は好きだし、ロシアのツルゲーネフの『はつ恋』『父と子』は名作だと思っているし、ボロディンのオペラ『イーゴリ公』も名作だと思っており、それと同様にアメリカ合衆国型のツーバイフォー工法住宅がいかんと言うつもりはなかったが、しかし、それにしても、ジョージ=W=ブッシュにイラク攻撃は明らかに侵略であり、その時期に住宅展示場の周囲に「これでもかあ」てくらいにアメリカ合衆国の星条旗をかかげる会社(東急ホーム)というのは、どういう神経なのか、いわば、慶應内部進学は公立の学校卒の女には強制猥褻はたらくくらい、どうってことない、それがどうした、公立の学校に行ってるやつ、公立の学校卒業したやつなんてのは慶應内部進学からすれば「ドジン」であり、いわば、植民地の白人支配者のような立場である慶應内部進学がなんで””ドジン”” に気を使わなきゃならんのだ・・みたいな意識を、おそらく、自分の慶應内部進学ではないかと思われる、その「東急電鉄のエライ人」が持つ精神構造と共通するものだったのではないか。
・・その東急ホーム に不愉快なことに不採用にされたのだが、私を不採用にするならこの会社はいったい誰を採用にするのか・・ともその時は思ったが、不採用にされて良かったかもしれんと思っている。自分自身が軽蔑している会社に応募して採用されても、入社後、あまり良い結果にならなかった可能性が考えられるから、それを考えるならば、自分が軽蔑しているような会社で不採用にされたのは、むしろ、良かったのかもしれない。『新約聖書』の「福音書」には「あなたがたがわたしゆえに人々から罵られあしざまに言われるならば、喜び喜べ。あなた方より前の預言者もまたそうされたのである」というイエスの言葉が書かれており、又、毛沢東は『敵によって反対されるのは良いことであって悪いことではない』において「もしも、我々の行動が敵から反対され、ありとあらゆる悪口雑言を浴びせられるなら、それは『大変けっこうだ』と考えるべきだ。なぜなら、もしも、我々の行動が敵から称賛されるならば、我々の行動が敵と同様に腐敗していることを意味し、我々の行動が敵からありとあらゆる攻撃を受け、悪口雑言を浴びせられるならば、それは我々の行動が敵とは一線を画していることを意味しているからである」と述べているが、息子が女子大生を騙して集めて強制猥褻行為を働いているのを称賛しているかどうかはわからんが許容している父親が役員・「えらい人」やっている会社の子会社で、ジョージ=W=ブッシュのイラク侵略の最中にアメリカ合衆国の国旗を展示場の周りに「これでもかあ」というくらいに掲げまくっていた会社から不採用にされたということは、これは「大変けっこうだ」と考えるべきものだったかもしれない。
  「痴漢は重大な犯罪です」と新御茶ノ水駅の改札外にポスターが貼られていたが、「車内痴漢」は犯罪でも東急電鉄のエライ人の息子が強制猥褻やる分にはかまわんのか・・・というと、違うように思うのだが、ところが慶應義塾という学校ではそれがまかり通ってしまう。何しろ、慶應は内部進学の人の学校、慶應義塾高校付属大学 みたいな大学であり、2年ほど前だったか「週刊現代」に慶應幼稚舎特集というものが掲載されていて、ある「幼稚舎から大学まで慶應」の人が「慶應という学校は大学だけ行けばいい学校だ。小学校から高校までは行く必要がない学校だ」と述べていたものが載っていたのだが、「幼稚舎から慶應」の人でもそういったことを考える人がいるんだと驚いたものだった。私が思っていたことと逆のことを思う人がいるんだと思ったのだ。私はそうではなく「慶應という学校は最低でも高校から慶應に行かないと行く意味がない学校だ。(「<慶應義塾高校+慶應女子高校>付属大学」に)大学だけ行くのなら行く必要がない学校だ」と私は思うに至ったので、なんだか私と逆のことを思う人というのがいるんだな・・と思ったものだった。
  それにしても、私が思ったこと、
(1)「車内痴漢」は「重大な犯罪」だというのなら、「社内痴漢」はもっと「重大な犯罪」ではないのか。「車内痴漢」はいかんが「社内痴漢」はまかり通るというのは、それはおかしいのではないか?
(2)「(電車内における)痴漢は重大な犯罪です」と駅にでっかいポスターを貼りながら、他方で電鉄会社の「エライ人」の息子が女子大生を騙して集めて強制猥褻行為を働いている・・というのは、それはいいのか? それはいいというのは、それはおかしくないか?

という2点だった・・・が、私なんかがこんな所で言ってもどうもならないのだろう。やってる人からすれば、痛くもかゆくもない、そのうち、小此木啓吾の「弟子」とかにでも命じて「診断」の上で何か手頃な「病名」でもつけて「治療」と称して廃人化でもさせてやれとか、そんなところかもしれない。
  Look if you like, but you will have to leave.
(「見るのがすきならば見よ。しかし、いずれあなたは跳ばないといけなくなる」≒「見る前に跳べ」)
(ウィスタン=ヒュー=オーデン という人の詩の一節のようだ)
という文句の詩を作った人もいたが〔私はこの英文の詩を高校3年の時に「(月刊)受験の英語」(聖文社)で読んだが〕、いずれは「会社のえらい人」およびその息子に服従しないといけないのに、それをあえてこんな所でぐだぐだつべこべ言っているやつというのは「モラトリアム人間病」であり、「治療」したらんといかん・・とか思われる可能性が考えられる。怖いこわい怖いこわい・・・

  「カウンセリング」とか「心理学」というものは、自分自身ができる限り「本来的自分」として生きることができるように助力するもの・・と私は思っていたのだったが、しかし、慶應大学のステューデントカウンセラーズの多数派の連中のように、研修のための合宿だと称して、そうだと思って参加した者に強制的にエロ劇をさせて、そこで女性部員の尻を撫でるといったことをする上級生の部員がおり、そういったあり方に対して抗議したり抵抗を感じたりする者には「モラトリアム人間病」だと罵り、そういった行為を働く者はいいのかというと「思考が柔軟な慶大生」とか言って肯定し、そういう行為を正当化し、そして、そのような状況に「精神適応」させようとする。特に慶應内部進学の人間というのは、彼らは元からそんな人間であり、「外部のやつらを教育してやらんといかんからなあ」などと言って、「精神適応」させようとするのだが、それがそもそも間違っているはずだ。一部の人間(この場合、慶應内部進学)が他の一部の人間を自分たちに隷属する存在となるように加工(「人間による人間の加工」)をおこなおうとする動き、それを何と言うかというと、ファシズムと言うのであるが、慶應内部進学はそれをおこなっているのであり、彼ら慶應内部進学がその思想・観念を捨てるのは極めて難しいことだが、彼らがそれを捨てることなく「カウンセリング」「心理学」をおこなうならば、彼らの「カウンセリング」「心理学」はファシズム「カウンセリング」であり、ファシズム「心理学」であることになる。なおかつ、トマス=サズが『「精神医学」という神話』(岩崎学術研究社)において「彼ら「精神科医」と称する者は自分たちがやっていることを事実を事実として認める謙虚さに欠ける」と述べているが、実際のところ、慶應大学ステューデントカウンセラーズの主流派の者どもや慶応大学文学部心理学科の人間、および慶應内部進学心理学の者どもは「自分たちがやっていることを事実を事実として認める謙虚さに欠ける」ものだった。
  ジャン=ポール=サルトルは「自己飼育」に基づく社会ではなく「自主権」に基づく社会を築くべきだと述べ、又、ジョレス=メドヴェージェフ・ロイ・メドヴェージェフ『告発する! 狂人は誰か』(三一書房)では「『精神適応』よりも民主主義だ」と述べられている。二瓶のような者は大学に行く必要ないのではないか。義務教育は小学校と中学校であって高校は義務教育ではないのだから、二瓶のような者は高校に行ったのは余計ではないか。ところが、慶應大学のステューデントカウンセラーズの多数派の者どもや慶応大学文学部心理学科の学生は、二瓶のような人間、強制猥褻罪犯人を擁護して、それに「精神適応」させるのが「カウンセリング」であり「心理学」だと考えていたのだ。
  書店に行くと「自己啓発」と書かれたコーナーがあるが、ここで言う「自己啓発」とは「自己飼育」のことを指す場合が多い。 そして、こういったことに気づく人間に貼りつけるべく、日本を「自己飼育」に基づく社会にしようと考える者のテカとしての「心理学」「精神医学」である小此木啓吾が発明した「精神医学」的レッテルが「モラトリアム人間」というものだ。「自己飼育」に抵抗を感じる者を「モラトリアム人間」と「診断」し、嬉々といて「自己飼育」に励む者を「自我が確立されている」「アイデンティティーを持っている」とか特殊用語を使って「診断」することで、「自主権に基づく社会ー民主主義の傾向が強い社会」から「自己飼育に基づく社会ーファシズムの傾向が強い社会」に転換しようとしているのである。
  もしも、彼ら慶應大学ステューデントカウンセラーズの主流派の者どもや慶応大学文学部心理学科の者どもの「カウンセリング」がカウンセリングであるならば、私がカウンセリングだと思ったものやカール=ロジャーズが「カウンセリング」と考えたものはカウンセリングではないことになる。 これはカウンセリングだけではなく「精神分析」もそうだ。小此木啓吾や小此木の信奉者が「精神分析」「精神分析学」と主張するものが精神分析・精神分析学ならば、フロイトの精神分析・精神分析学は精神分析ではないことになる。「小此木啓吾の精神分析」が精神分析ならば、フロイトの精神分析は、むしろ、反精神分析ということになる。

  「痴漢は重大な犯罪です」と言うのならば、慶應大学のステューデントカウンセラーズの二瓶は犯罪者であるはずであり、なぜ、逮捕・送検・起訴されない?  電車の中でおずおずと・こそっとさわるような者に「痴漢は重大な犯罪です」と言って取り締まるのならば、二瓶などはもっと取り締まる必要があるのではないのか。
  トマス=サズは『「精神医学」という狂気の思想』(新泉社)で、「大学の目的は、最高の自我とは自我を持たぬことだと学生を騙して信じさせる昼間病院となることか」と述べているが、慶應大学の「学生相談室」とその所属の「カウンセラー」「心理学者」はすでにトマス=サズが指摘しているような状態になっていた。

  こういった私が実際に慶應大学で体験したことを踏まえて考えるならば、慶應義塾高校の野球部が甲子園の全国大会で勝ち進んで、「若き血」という歌をスタンドで歌う人たちがいっぱいいたのを見ると、やっぱり、その「若き血」という歌は<慶應義塾高校・慶應女子高校>の歌であり、慶應の内部進学独善主義の歌だったんだなという印象を強く持つ。

  「車内痴漢」は良くないというのはわかるのだが、それに関して、
1.実際に「新御茶ノ水」駅に乗り入れしていた東京メトロ千代田線・JR常磐緩行線を使用して通勤したことがある者として、せめて、ぎりぎりでもいいから、努力すれば隣に立っている人と密着しなくても乗車できる程度に電車の状態をなんとかしてもらえないか・・と思う。私がこの路線で通勤していた1980年代の終わり頃と今も同じかどうかわからないが、「痴漢は重大な犯罪です」と言われても「この状態でいったいどうしろってんだよ」という状態であったことが少なくない。せめて、隣にいる人間と努力すれば体を接することなく立っておれるというくらいにしてもらえば、それなら「痴漢は重大な犯罪です」というのもわかるのだが、「この状態でいったいどうしろってんだよ」という状態においては、「痴漢は重大な犯罪です」と言われても、だから何なんだということになる。
2.電車の中で「こそっと」「おずおずと」さわる男を厳しく取り締まるのならば、小堀住研(株)の渡邊士直が「俺は中島社長から渡邊は会社の女である限り、誰でもいつでも好きな時に好きなだけ、尻を撫でまわしてよいと許可されておるんじゃ。女性社員の尻を撫でまわすのは中島社長から俺が認められた、俺の大事な人権なんじゃ。人権侵害はいかんだろうが。俺が女性社員の尻を撫でまわすのをいかんと言って俺の人権を侵害する者は絶対に許してはいかんというのが中島社長のお考えなんじゃ」と言って居直る男とその男に「女性社員の尻を撫でまわす権利」なるものを「人権」だと言って認める社長というものを何とかしてくれ・・・と言いたい。
  「カウンセリングの研修のための合宿」だと言って参加させた上で、強瀬猥褻行為を働き、その者を擁護し、それに「精神適応」させるのが「カウンセリング」という思考・思想の慶應大学ステューデントカウンセラーズの主流派の者どもや慶応大学の「心理学者」どもを何とかしてくれ。
  又、女子大生を騙して集めて強制猥褻行為を働く慶應大学プロレス研究会 の連中を何とかしてくれ。彼らのような人間を「企業はそういう人間を喜ぶ」だの何だの言ってる「慶應タイプ」の連中を何とかしてくれ・・・
・・・と言いたい。
  「(車内)痴漢は重大な犯罪です」というのが間違いだとは言わない。しかし、この1・2の2つをも考えるべきだ。
「痴漢は重大な犯罪です」と言いまくって電車の中で「おずおずと」「こそっと」さわる人を厳しく取り締まるのならば、それよりむしろ「女性社員の尻を撫でまわすのは俺が中島社長から認められた俺の大事な人権なんじゃ」とか「人権」の主張をしている男とそういう「人権」を認めようとする社長もまた、なんとかしてくれ。
・・そう思わないですか?
  とりあえず、このポスター、同じものを滋賀県立長浜北高校の校長室の前と みずほ銀行の頭取室の前にも貼ってもらいたいのだが、そう思いませんか?


  今回、神保町からJR「御茶ノ水」駅の西側に行ったのだが、時間がある時に神保町から小川町を経て御茶ノ水駅付近まで、ぞろぞろ歩くのはいいが、そうではなく、特定の用事があって移動するには神保町から御茶ノ水駅の西側あたりというのは行きにくいと知った。
  JR中央線の「御茶の水」駅の西隣の「水道橋」駅に「神保町」駅に行くには歩きたくなければ都営三田線で1駅乗ればいいのだが、ところが、都営新宿線「小川町」駅は「御茶の水」駅の西側、遠藤周作『松葉杖の男』に登場する東京医科歯科大学病院の南の「御茶の水橋」から南下する道の延長にはなくて、JR「お茶の水」駅の東側、湯島の聖堂 と ニコライ聖堂を結ぶというところから「聖橋(ひじりばし)」と名づけられた橋から南下する、西・北に進むと東大本郷キャンパスの西側に出る本郷通りを南下した所にあり、本郷通りを「小川町」から「御茶ノ水」駅まで1駅という電車がない。「小川町」の西側の南北の本郷通りの地下を東京メトロ千代田線が走っていて、「新御茶ノ水て駅、ふか~い所に駅がありますもんで、なが~いエスカレーターに乗ると下から上まで行く間に水がお茶になっているという」という地下鉄漫才のおっさんの別タイプ地下鉄ネタで知られる「新御茶ノ水」駅があるのだが〔新御茶ノ水駅でエスカレーターに乗ると、これのことなんだと毎度思うのだ〕、そこから千代田線に乗るにはいいが、「小川町」からJR中央線「御茶ノ水」駅の西側まで行く電車がない。よくよく捜すと、「小川町」の東側に東京メトロ丸の内線「淡路町」駅があって、そこから1駅乗ると神田川の北側にある丸の内線「御茶ノ水」駅に行くことができる・・が、どうも、1駅乗るために電車賃を使うことに抵抗を感じるが、歩いても面白みはない東京の街にしては、このあたりは歩くのが悪くない所なのだが、ぞろぞろ歩くことを楽しむのではなく移動すること自体が目的の場合には小川町からJR「御茶ノ水」駅の西側までけっこうある。
  ニコライ堂は北側に入口があるが、本郷通りから見たニコライ堂もなかなかいい・・・のだけれども、今回、そこまで行くより手前で西に曲がって進んだが、右側に東京YWCA会館があって、そこを過ぎると、JR「御茶ノ水」駅の西側、御茶ノ水橋から南下してくる道にぶつかる。私は小学校1~2年の時にYMCAの体操教室に通わされたことがあり、YMCAには親しみを感じていた人間だったのだが、1978年に大阪府高槻市のYMCA予備校高槻校に行ってYMCAというものに対しての印象が急激に悪化した。 中でもYMCA予備校の事務職員の藤井が「『聖書』みたいなもん、あんなもん、ええことなんて何ひとつとして書いてないんやから、あんなもん、絶対に読んではいかん。『聖書』みたいなもん、あんなもん、読まんでも、洗礼うけて献金はらっておけばそれでええねん。洗礼うけて献金はらって、それで日曜ごとに礼拝に教会に行っておけば『聖書』みたいなもん、あんなもん、読むことないねん。『聖書』みたいなもん、あんなもん、読んではいかん。たとえ読むにしても歳いってから読んで『はあん、そんなもんか』と思えばええことであって、若いうちに読むようなことは絶対にしてはいかん。ましてや、そこに書いてあることを実行しようなんて、まかり間違っても絶対に考えてはいかん」と毎日のように「伝道活動」を熱心におこなっていたのだが、私はそれを聞いて、「この人、なんで、洗礼うけたんだろ」と最初は思った。『聖書』というものは一冊の本であり、それを読んで、すばらしいものだと思う人もあるかもしれないが、藤井のように「『聖書』みたいなもん、あんなもん、ええことなんて何ひとつとして書いてないんやから」と思う人もいるかもしれないが、それはしかたがないことだと思うが、「『聖書』みたいなもん、あんなもん、ええことなんて何ひとつとして書いてないんやから」と思った人が、なんで洗礼うけて「敬虔なクリスチャン」とかいうものになるのか、そこがわからんかった。
  最初は「この人、そんなこと思っているのに、なんで洗礼なんか受けたんだ」と思ったのだが、藤井さんからすると、それこそが「正しい信仰のあり方」だったのではないか。そういう「『聖書』みたいなもん、読まんでも、洗礼うけて献金はらて、日曜ごとに礼拝に出ておけばそれでええねん」というその「信仰」により「洗礼うけて献金はらっとけば」その結果として藤井さんはYMCA予備校で仕事にありつき、さらにうちの母親みたいな人間から「あの人はクリスチャンだから絶対に悪い人であるわけがない」とか言って、予備校職員としては大学受験・大学入試について無茶苦茶なことばっかり言いまくっている男が称賛してもらえるという御利益にあずかることができたのだ。「キリスト教」というのは藤井さんにとってはたいした御利益宗教だった( 一一)
  大学入試について無茶苦茶ばっかり言いまくる男、「YMCA予備校の高槻の主事て、嫌なやつらしいなあ」という評判がたったりしていた男をうちの父親は「専門家の言うこと、専門家の言うこと、専門家です専門家。せ~んもお~んくゎあ~あ♪」と言いまくり、うちの母親は「あの人はクリスチャンだから絶対に悪い人ではない」「あの人はクリスチャンはクリスチャンでも、YMCAで主事になっているくらいだから、並みのクリスチャンではなくて特別にえらいクリスチャンのはずや」と言ってきかなかったが迷惑な話だった。「YMCA予備校で主事になってるくらいだから」と言うその「主事」て何なんだというと、YMCA予備校では事務職員にハクをつけて「言うことをきかす」ために「主事(しゅじ)」という称号をつけていたのだったが、亜拓大東帝国あたり卒の学歴詐称男に称号をつければ値打ちが出るとYMCA予備校は考えたようだが〔営業の人間の名刺に、ハクづけのために入社したばっかりの人間なのに全員に「課長」とか「部長」とか書かれている会社とかあるが、それと似たようなもので〕、内容のない男に肩書だけつけても「だめなものはだめ」だった。『聖書』を否定する「キリスト教」というのは、それはキリスト教なのか?・・とも思ったが、そして、なが~く藤井のことを変なやつだなあと思い続けてきて、『格言の花束』だったかそういう題名の本に「文学者」だか「哲学者」だか「詩人」だかいう肩書の人の言葉、「不信仰とは、信じているとか信じていないとかいうことではなく、信じていない宗教に帰依しているということである」と書かれていたのを見て、まさにこれだ、これこそがYMCAの藤井だ! とわかった・・が、次に、実は「教会」という所には藤井みたいな人というのは時々いるてことないかな・・とも思ったのだ。なんせ、「『聖書』みたいなもん、読まんでも」「ましてや『聖書』に書かれてることなんて実行しようなんて考えんでも」、「洗礼うけて献金はらって、日曜ごとに教会に行って礼拝に出ておけば」、そうするとYMCA予備校で仕事にありつけるし、うちの母親のような人間から「あの人はクリスチャンだから絶対に悪い人であるわけがない」とか言って信仰してもらえるのだから、御利益宗教として「コストと利益を比較考量して」考えると、十分、利益はコストを上回ると考えられる・・・が、それこそが「キリスト教」でそういう人こそ「クリスチャン」だと考えるべきなのか、そんなクリスチャンあるか! と憤慨する人の方をクリスチャンと言うべきなのか。そのあたりが問題だ・・・が、YMCA予備校高槻校とそこの事務職員の藤井のおかげで、YMCAとYWCAというものに対して「胡散臭いもの」という印象を感じるようになった。今なら、「主事」とかわけのわからん称号つけてるおっさん見ると、「ああ、この人はそういう称号つけることで『言うことをきかす』ということをしたいしたい症候群の人なんだな( 一一) 」と思うのだが、高校卒業したばかりの頃の私は「なんだ、こいつ」とずいぶんと不快感を覚えたものだった・・が、うちの親というのは、特に父親は長く会社員やってきたのに、「専門家の言うこと、専門家です専門家。専門家やがな専門家。せえ~んもお~んくわぁああ~あ♪」などと言って、私が「あんなやつ、専門家と違います」と言っても言ってもきかなかったのだが、「わしは世の中のことというものを何でも何でも知ってる人間やねん」とか言いまくる男だったが、そのわりに「世の中のこと」というものを知らん男やった( 一一)  変てこな称号つけることで人に「言うことをきかす」ようにしようとか考える浅はかなおっさん も、学歴詐称男も、そんなもの、世の中にはゴマンといる・・ということを50代にもなってわからんかったのか・・と思うが、わからんおっさんやったようだ( 一一)

  YMCA会館の南側の道を西に行って御茶ノ水橋から南下する道とぶつかった向こう側(西側)の左(南側)には、
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↑ 明治大学
  その右(北)に、↓
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↑ 明治大学百周年記念大学会館。
  今では高層オフィスビル みたいになってしまったが、1980年代は、この場所の明治大学は、東大の本郷キャンパス・駒場キャンパスや早稲田大の本部キャンパス・戸山町の文学部キャンパス、慶應大の港区三田の三田キャンパス、横浜市港北区日吉の教養課程の日吉キャンパスのように、広い敷地の中に建物がいくつか建っているという、そういう「キャンパス」だった・・が、いつしか、高層オフィスビルみたいな建物に変ってしまった。都心部で教室が不足しているような場合に近所のビルを購入して補助的なものとして使用するとかはかまわないとは思うが、敷地があってその中にいくつかの建物が建つという大学キャンパスの存在を捨ててオフィスビルみたいにしてしまうというのは、オフィスビルみたいになってしまうというのは、なんだか悲しい。
  1980年代、この南北の道を歩いて通ったところ、その明治大学のキャンパスで、こしにひもをまわして何人かのおにいさんが笛を吹きながら「ピッ、ピッ・・・、ピッ、ピッ」と、あれはデモの練習だったのかやっていたのを見かけたことがあった。へえ~え、明治大学って、こういうことをする人がいるんだあ・・・と思って感動したことがあった。それをいいとか悪いとか言う人がいるけれども、「原理研と浄霊ばっかりの慶應」に比べると「はるかに健康的」て感じがした・・・のだったが、ところが、それから何年か後、明治大学のこの駿河台キャンパスは高層オフィスビルみたいな建物に変えられてしまい、「ピッ、ピッ・・・、ピッ、ピッ」と「電車ごっこみたいの」をやろうとしてもやる場所がなくなってしまった。はたして、それがいいのか・・・と思ったが、そういうのを「正常化」とか思っている人がいるのかもしれない。何が「正常」なのか、どういうものが「正常化」なのか、そこが問題なのだが、「電車ごっこ」させないようにするのが「正常化」だと思っていた人がいたのかもしれない。
  別に「電車ごっこ」やらなくてもいいけれども、かつての敷地の中に建物がいくつか建つというキャンパス様式の大学の方が、大学らしい・・という感じがして、オフィスビルみたいになってしまった明治大学の建物を見ると、どうも悲しい。
  (株)一条工務店にいた「木南さん」(仮名)はネトウヨみたいな人で、こういうことをうかつに言うと「やりたかったんでしょ」とか言い出す人だったが、だから、そういうのはあんまりやりたいと思わない方の人間だったんだと言ってもきかない人で、「木南あん」(仮名)は名前からして楠木正成みたいな名前の人であり、話すこともネトウヨみたいなところのある人であったから、だから、そういう人にはいちいちうるさいから、こういう話はしない方がいいかもしれない。「聖なるものをイヌにやるな。真珠をブタに投げてやるな」というイエスの言葉が『新約聖書』の「福音書」にも書かれている。

  明治大学の東側から北を見ると、↓
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↑ この左側のカド、ここにかつては明治大学の生協があって、道路から直接入れた。
私は自分が在籍しているわけでもない大学の構内をのぞくのがけっこう好きだったので、明治大学の生協も立ち寄ってみたことがあったのだが、「明治大学の生協というのは、大学生協は大学生協でも慶應大学の生協とは違う」て感じがした。なんか、「骨がある」みたいな感じ、ふにゃふにゃした感じの「慶應大学の生協」とは雰囲気が違う。
  その後、勤めた会社にいた明治大学卒の人にそれを話してみたところ、「そりぁ、明治の生協はブントがやってるもの」ということだった。「ブント」て何なのだろうと思ったのだが、「ブント(Bunt)」はドイツ語で同盟を意味し、《ウィキペディアー共産主者同盟》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%B1%E7%94%A3%E4%B8%BB%E7%BE%A9%E8%80%85%E5%90%8C%E7%9B%9F によると《共産主義者同盟(きょうさんしゅぎしゃどうめい、略称:共産同、ブント)は、1958年に結成された日本の新左翼党派。》らしい。「ブント同盟」なんて書かれたものを見たことがあるが、それだと日本語にすると「同盟同盟」になってしまう。 明治大の生協は「ブントがやってる」のならば、慶應大の生協というのは、あれはもしかして、西武セゾングループでもやっていたのだろうか・・・て感じやった。
  「ブント同盟」では日本語にすると「同盟同盟」になってしまうが、ホームセンターに行くと、OSB(オリエンテッド ストランドボード)(配向性ストランドボード)というものが売られていて、そこに「OSBボード」なんて書いてあることがあるが、「OSB」の「B」は「オリエンテッド ストランドボード」の「ボード」であり、「OSBボード」と書いてしまうと「ボードボード」になってしまう。リース屋のオリックスが阪急ブレーブスを買収して「オリックス ブルーウェーブ」という真弓明信と一緒で「どっちが名字でどっちが名前やねん」て名前にして、さらに「オリックス バファローズ」になったが、英語の「バファロー」も「オーリクス」もどちらも「牛」であり、牛の種類は違うとはいえ、日本語にすると「オーリクス バファローズ」は「牛 牛」になる。ちなみに、錦糸町駅の南側に、JRAビルがあり、へえ~え、日本赤軍てこんなビル持ってるのかあ・・・と思ったが、錦糸町駅の南側にあるビルのJRA は日本赤軍ではなくて中央競馬会だったようだ。
※ JRA Japan Racing Association 日本中央競馬会。
JRA  Japanese Red Army 日本赤軍。

  その「明治大の生協」も、それから何年か後、ふと気づくとなくなっていて、富士銀行の支店がここにできた・・が、それからさらに後、富士銀行の支店もなくなり、今は、↓
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↑ 雑居ビルになって、地下には「ナポリの下町食堂」なる店が入っていた。

  「ナポリの下町食堂」という名前に引かれて入ってみたのだが、入ってみると、実際のナポリの下町食堂で食事をしたことがある者から見ると、あんまり「下町食堂」ではなかった。店の雰囲気は、むしろ、ある程度高級店のような雰囲気としつらえで、それはそれで悪いということはないけれども「ナポリの下町食堂」という名称とは少々合わないように思えた。
  なおかつ、「やや高級店」ならそれならそれで悪くはないけれども、なかなか、注文をとりに来ない。「ナポリの下町食堂」という名称はメニューがピザとパスタに野菜のサラダがあって、それ以外のメニューはないというところから、そういう名前にしていたようだが、それでピザを注文して食べたのだが、まだ、1切れ残っていて口に入れようとしていた時にやってきて「お皿、おさげしていいですか」と言うので、こちらが食べおわったらさげたいということだろうと思って「はい、どうぞ」と言うと、まだ、ピザ1切れがこちらの手にあるのにお皿をさげてっしまった。ありぁ・・・。
  店のしつらえや雰囲気の作り方から考えると「ナポリの下町食堂」ではなく、「ミラノのやや高級店」みたいな雰囲気だったが、それはそれで悪いということはないが、下町食堂であれ「やや高級店」であれ、食べ終わった皿をさげるのはいいが、超高級店ではないとしても安い方でもない店で、注文とりに来るのは遅くて皿をさげるのは「まだ、食うとるがな」という皿をさげてしまうというのは、それは飲食店としていかがなものか・・・と思ったが、どうだろうか。


  この少し北に、↓
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( ↑ 「御茶ノ水クリスチャンセンタービル」)
↑ 「御茶ノ水 クリスチャンセンター」というキリスト教関係の施設が入るビルがある。
このビルの2階に「CLCクリスチャン文書センター」というキリスト教書店があったのだが、何年か前に売り場面積が半分になってしまい、さらに、CLCクリスチャン文書センターはなくなってしまい、新宿の南口のビルの2階にあった「いのちのことば社」が経営していたらしい「オアシス」というキリスト教書店が閉鎖されて、この御茶ノ水の「CLCクリスチャン文書センター」がそのまま「いぬき」で「オアシス」の御茶ノ水の店になった。
  東京のキリスト教書店としては、1980年代においては、渋谷にライフセンター渋谷店、池袋にライフセンター池袋店があり、この御茶ノ水のビルの2階に「CLCクリスチャン文書センター」があったのだが、それから何十年か後、(株)一条工務店で福島県・栃木県・山梨県と転勤させられて、そして、東京圏に戻ってきて、渋谷のクリスチャン文書センターに行ってみようと思って近くに行ってみたが、ない。
  どうやら、クリスチャン文書センター渋谷店とクリスチャン文書センター池袋店が閉店して、かわりにその2つが合併したみたいに、その2店よりも売り場面積が広い店として新宿の南口の西側のビルの2階に「オアシス」という店ができたようだった。
  オアシス 新宿店はライフセンター渋谷店よりも売り場面積が広い店で、ライフセンター渋谷店は雑居ビルの4階だったかそのくらいの階にあったような気がするのに対して、オアシスは2階にあったが、新宿とはいえ、あまり立地のいい場所ではない印象があったが、なくなってしまった。 渋谷ライフセンター・池袋ライフセンター・御茶ノ水CLCクリスチャン文書センターと3店あった、キリスト教書店が、新宿オアシスと御茶ノ水CLCクリスチャン文書センターの2店になり、さらに御茶ノ水の店1店だけになってしまった。キリスト教書店としては、他に銀座に教文館があるけれども、キリスト教書店の数が減っていくのは悲しい。
※ オアシス 御茶ノ水店 https://www.wlpm.or.jp/shop/ochanomizu/
教文館 (銀座)https://www.kyobunkwan.co.jp/

  それから、KGKキリスト者学生会KGK て何の略なのだろう・・と真剣に考えたのだが、KGKキリスト者学生会 HP https://www.kgkjapan.org/ を見て、どういう意味なのだろうと考えて考えたが・・・、たぶん、
Kirisutosha Gakusei Kai (リスト者 生 )の略じゃないか・・・。

  日本教育会館の1階ロビーに、「ご自由にお持ちください」として置かれていたもので、↓
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↑ 「いんふぉめーしょん 子どもの人権連 2022.5.30. No.171」(2022年5月30日発行。  発行&編集人:子どもの人権連事務局。)
もらって帰り、見せてもらった。
  「子どもの人権連事務局」というのが、日本教育会館の6階にあるらしい。
  そういえば、うちの母親は私に「あんたの体はあんたが産んだのとは違うやろ。親が産んだからには、あんたの体の所有権は産んだ者にあるはずや」と言っていた。「あんたの体の所有権は親にある以上、あんたの身体が働いて給料もらったら、その給料は全額、親のもののはずや」と言っていた。「牛でも馬でもそうやろ。牛や馬が働いて何か収穫したら、その権利は牛や馬の所有者のものやろ。それと一緒であんたが働きに行って給料もらったなら、その給料は全額あんたの所有者である親の者やろうが」と言うのだったが、それなら、働いたら損みたいや、と思った。又、ひり出した者に所有権があるということは、なんか、俺って う〇こ みたいやなあ・・・と思った。
   うちの父親の方は少々、認識が違ったようで、「産んだ者に所有権があるのとは違うんやぞ」と言っていた。「女に産んでもらったなんぞと思うてはならぬぞ、チャンコロ」と言うのだった。「女に産んでもらった」のでないのなら、誰が産んだんだ? おっさんが産んだのか? それなら、どこから出したんだ? ち〇ぽ の先の穴から出したのか? さぞかし、痛かったやろうなあ。 それとも、尻の穴から出したのか? まさに、う〇こ そのものやんけ・・・( 一一)
  うちの父親は「女は単なる畑じゃ」と言うのだ。「女は単なる畑であって、畑に種を植えてやってあげていただいてくださってもらってあげていただいてもらってやってやってあげてやってもらってくださっていただいてもらったお方のおかげで、種が畑から芽を出すことができたんや。そんで、種が畑から芽を出したなら、それを育てるのは畑の役目じゃ。甘ったれとってはいかんぞ、甘ったれとっては」と言うのだった。1989年、小堀住研(株)に勤めていた時、千葉県の松戸市役所に法規制を調べるために行った際、
「子育てをしない男を父親とは言わない。 厚生省」
と書かれたでっかいポスターが貼られていたが、世の中、いろいろな考え方があるみたいだな、と思った。うちの父親とか、うちの父親の親友の医者屋のM川(男。1980年頃当時、50代前半。自称「金沢大医学部卒」だが嘘くさい。ドバカ息子を私立金権関西医大に裏口入学させたというのを自慢にしていたが、M川も私立金権関西医大裏口入学卒か、そうでなかったとしても「かわいいキンタマ」(崎医大+知医大+沢医大+埼医大=「かわいいキンタマ」)くらい卒か。当時、大阪府豊中市在住)は厚生省(⇒厚生労働省)とは正反対の考えで、「甘ったれとってはいかんぞ、子供は女が育てるもんなんじゃ。そんで、女が育てて大きくなって実がなるようになったら、種を畑に植えた者に権利があるんじゃ。甘ったれとってはいかん、甘ったれとっては」と二人で言っていた。厚生省⇒厚生労働省のこのポスターを作った人というのは、うちの父親とかうちの父親が「聖人やでえ、あの人はあ。あの人は名医やでえ。あの人は神様のようなお方」と言っていた医者屋のM川からすると「甘ったれとる」という「診断」になるらしかった。「なにしろ、わしは医者なもんじゃからな。医者というのは普通の人間とは違う特別にえらいエライえらい人間なもんじゃから、医者の言うことはいついかなる時も絶対に正しいんじゃ」と言うておった。
  それで、うちの父親とかうちの父親の親友の医者屋のM川の見解によると、
「女は単なる畑であって、畑が芽を出したのとは違うんじゃ。種を畑に植えてくださっていただいてもらってあげていただいてくださってもらってやってやってもらってくださった、えっらいエッライえっらいエッライお方のおかげで種が畑から芽を出したんや。そんで、畑から種が芽を出したなら、育てるのは畑の役目じゃ。甘ったれとってはいかん、甘ったれておっては」ということで、そして、
「そんでもって、芽が伸びて実がなるようになったら、その実は種を植えた者に権利があるんじゃ」とM川先生はおしゃるのだった。
「茄子でも胡瓜でもそうやろ。実がなったら種を植えた者に権利があるんじゃ。畑に権利があるのとは違うんじゃ。ましてや、茄子や胡瓜に権利があるのとは違うんじゃ。すべて、種を植えた者に権利があるんじゃ。甘ったれとってはいかんぞ、甘ったれとっては」とうちの父親とその親友の医者屋のM川は言うのだった。
だから、う〇こ説をとっても、茄子胡瓜説をとっても、どちらの説に従っても、う〇こ や 茄子胡瓜には自分自身の身体と心について権利はないのだった。だから、「種を植えた者」は茄子・胡瓜を自分が好きなように加工する「当然の権利」を保有しており、う〇こ説を取るならば「ひり出した者」に所有権はあるので、所有権のある者にはう〇こ は何でも絶対に服従しなければならないらしかった。
  茄子胡瓜説によっても、う〇こ説によっても、どっちにしても私にとっては産まれてきた価値はまったくないことになった。北野高校の2年の時の担任だった旧姓S野礼子(女。1970年代後半当時、20代)は「私は両親が離婚したから」「私は父親がいなかったから」と、この2つを最大の自慢にする女だったが、茄子胡瓜の立場からすると、「父親がいなかった」ならば、それは自分自身の心と身体に対して所有権を主張する者が2人ではなく1人、1人少ないということであり、その点で「父親がいなかった」息子・娘というのは得なはずだった。
  う〇こ説によっても、茄子胡瓜説によっても、私には自分自身の心と身体に対して所有権はなく、私の心と身体は私以外の者に「所有権という権利」があるらしかったので、それなら産まれてくる価値はないではないか・・と思ったのだが、そうするとうちの父親は「産まれてこなかったらよかった人間を産んでやあってやって、やあってやって、やあってやっていただいてもらってくださってあげてやってやってもらっていただいてくださってもらってあげてやってやってやったったんじゃ。感謝しろお!」と。「『産まれてこなかったらよかった人間』なんて、産まなかったらよかったのと違うのですか」と言ったことがあったが、
「『産まなかったらよかった』とは何じゃ、この罰当たり目が。『産まれてこなかったらよかった人間』であるおまえを産んでからに、育ててやってあげてやってもらっていただいてくださってもらってあげてやったやってもらってあげてやっていただいてくださっていただいてやってやっていただいたお方である親に感謝、親に感謝、感謝、感謝、感謝。わしに感謝、わしに感謝、わしにわしにわしにわしに。朕思うに我が皇祖こ~そ~はあ、わしに孝に、わしに孝に、わしに孝に、わしにわしにわしにわしに。すべてをすべてをわしのために。すべてをすべてをわしのために。 てってこっこ、てっててって、らったらったらったら♪ てってこっこ、てっててって、らったらったらったら♪ 撃ちてしやまん、一億火の玉、欲しがりません、勝つまでは。とってちってたあ~あ! 戸締り用心、火の用心、マッチ一本、火事の元、いっらいっらしてきたああ~あ! ど~んが~ん、どんがらがった、ちゃちゃちゃちゃちゃああ~あん♪〔⇒《YouTube-<軍歌>軍艦行進曲(軍艦マーチ)》https://www.youtube.com/watch?v=mTwUiUCO7l0&t=23s 〕」
と、そうおしゃるのだった。
  「わしに孝行せえよお、わしに孝行せえよお。わしにわしにわしにわしに。わしに孝行せんと、バチあたるぞバチあたるぞバチあたるぞあたるぞあたるぞ。まんまんまんまんまんまんまんまん。アーメン。ち~ん」と、うちの父親は、毎日毎日、私の顔を見ながら「金沢の拝み屋さん」からもらってきた呪具の前で呪詛の文句を唱えていた。そういう人のことをキリスト教会では「クリスチャン」と言う。
  大阪府箕面市の阪急「箕面(みのお)」駅から箕面大滝に至る滝道の途中の道端に、船舶振興会会長・元A級戦犯の笹川良一が造ったという「わいは親孝行やねんぞお。わしのように親孝行せえよお。親孝行せんとバチあたるぞバチあたるぞバチあたるぞ、まんまんまんま~ん」の像というのがあるのだが、あの像、カケヤでも持って行って叩き壊してやりたい。

  関西系・コミカル系女性プロレスラー の「救世忍者 乱丸」さんが、YouTube で「乱丸プロレスチャンネル」https://www.youtube.com/results?search_query=%E4%B9%B1%E4%B8%B8 というのを公開していて、なかなか面白い。 時々、見せてもらっているのだが、問題点として、いつだったか、慶應大学プロレス研究会とのコラボ などというものが動画にあったように思ったのだが、慶應大学プロレス研究会 というのは、女子大生を騙して集めて強制猥褻行為を働いている反社会的勢力 であり、そのような反社会的勢力との「コラボ」はいかがなものか、と思う。

  (2023.9.17.)

☆ 2023年、宅地建物取引士 更新講習を受講して
1.宅地建物取引主任者を宅地建物取引士にするのはプラスかマイナスか。
立場も弱く・権限もなく・給料も安い宅地建物取引士にいったいどう責任とれと言うのか。
今回からのビデオ放映による講習は自宅インターネット講習と特に差はないか。
福沢諭吉が学問とともに価値があるとした「士族の精神」という考え方はわかるが、「立場の弱い浪人者みたいな士族」である不動産屋における宅地建物取引士に法律事務所における弁護士・病院における医師と同等の責任を問うのは酷ではないか。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/500641313.html
2.遠方から来る者が遅刻せず来るのに地元の者が遅刻してはいかんという認識が欠落した遠州人・
地元の者は遠方から来る者より先に行くのがマナーと認識しない腰巾着所長の営業所の営業・
先輩社員に「遅刻しないで来てください」と言って自分が遅刻してくる男と注意しない営業本部長、
よその会社に他の従業員と一緒に行くのに遅刻してくる女・講習に他にも同じ会社から受講する者がいるのに遅刻してくる女、遅れてきて一緒に行く者に「すいません」と言わない女。
「うなぎ 今荘」・中央工学校碑。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/500670519.html
3.宅建士、独学で通る者と資格試験予備校に行った方がいい人。
建築学科・不動産学部・慶應商学部は建築士・宅建士・簿記〇級試験と直結しない。
ズッコイ二級建築士。
従業員に資格試験受験奨励しても学歴と下剋上にはならない。
資格取得はその人の属性と取り組み安さを考慮して。
身の程わきまえない実質パートおばさん縁故従業員の出過ぎた言動を注意できない社長と社長の嫁。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/500699310.html
4.親と子と教職員の教育相談室・子どもの人権連事務局。
三種の異なる入学基準があった高校。
「車内痴漢」は重大犯罪で「社内痴漢」は支店長の人権か。
強制猥褻犯と闘うためのカウンセリングか、強制猥褻に精神適応させるのがカウンセリングか。
「若き血」歌ってうわ~っとなって「塾風わが内にて生くるあり」となった人が独立自尊・自我が確立されているなのか、逆てことないか。
強制猥褻に精神適応させるのがカウンセリングマインドか。
息子はひり出した者に所有権があるか、種を植えた者に所有権があるか。〔今回〕 

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