燈明寺(平井聖天)【5/10】不動明王を祀る本堂。不動明王とは。真言宗の新義と古義の経緯とは。
[第1011回]
燈明寺(明雅山 明王院 燈明寺)(江戸川区平井)参拝の5回目です。
門をくぐって進んで「聖天堂」「歓喜堂」に向かって右手にあるのが「本堂」のようです。↓
門の正面には大聖歓喜天を祀る「聖天堂」「歓喜堂」の方がありますが、ここは真言宗の寺で、大聖歓喜天を祀る「聖天堂」「歓喜堂」ではなく、右側の不動明王を祀るお堂が本堂のようです。


《 その後、安政の地震(1855)で堂宇を損傷、関東大震災(1923)では本堂全壊という災禍にあいましたが、当時の関 澄道(せき ちょうどう)貫主(かんす)(二十六世)によって京都宇治平等院風の三屋根造り(みつやねづくり)の優雅な本堂が建立されました。》
と門を入ってすぐ左に出ている江戸川区教育委員会による説明書きに書かれているのが、↑ のお堂かと思われますが、1階部分は鉄筋コンクリート造でできていて、その上に木造のお堂が載っており、関東大震災の後から、この状態に造られたものか、木造の部分だけが造られて後に1階部分が造られて、その上に載せられたものかはわかりません。 江戸時代ではなく、関東大震災の後ということは、関東大震災は「幾人、見つかる(1923)」1923年、大正12年のことで、現在は玄関と玄関ホール部分のみが愛知県犬山市の明治村に移築されているフランク=ロイド=ライト設計による日比谷の旧 帝国ホテルの建物は、たしか、関東大震災の直前に竣工したはずでしたから、本堂が建立されたのは、すでに鉄筋コンクリート造の建物を造ることはできた時代のものですから、1階部分の鉄筋コンクリート造の部分から、関東大震災の後に造られたものかもしれません。 でっかい1階分の大きさの基礎の上に木造のお堂が載っているような感じです。

↑ 本堂。右手前より。

↑ 本堂。左手前より。
門の外、平井駅に近い側から見ると、↓

↑ 門より右側にお堂が2つあるかのように見えますが、これは、本堂の手前部分を後ろ部分で、2つあるお堂が見えていたわけではないようです。

↑ 本堂の後ろの部分。
訪問時は、1階部分について、補修工事なのか工事をおこなっており、「聖天堂」「歓喜堂」の方は正面の階段を登ってお堂の前まで行けましたが、本堂は地盤面から手を合わせるしかありません。

↑ これが、「聖天堂」「歓喜堂」の前から見た本堂です。迫力のある建物です。

↑ 本堂の木造部分の正面。

↑ 火燈窓。
燈明寺は「平井聖天」として「江戸川区指定史跡」と指定され、「歓喜堂」「聖天堂」に祀られる大聖歓喜天の方は「平井聖天」と言われ、妻沼聖天(埼玉県熊谷市)・待乳山聖天(東京都台東区)とともに「関東三聖天」とされるということですが、本堂の方は立派なお堂がありますが、燈明寺の不動明王さんは『古寺を巡る50 東日本の霊場めぐり』(2008.2・6.小学館)に掲載されている「関東三十六不動霊場」を見ても、そこには入っていないようです。平井ではJR総武線を隔てた南側にある最勝寺・目黄不動が関東三十六不動霊場の第19番になっているらしい。
※ ウィキペディアー最勝寺(江戸川区)https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%80%E5%8B%9D%E5%AF%BA_(%E6%B1%9F%E6%88%B8%E5%B7%9D%E5%8C%BA)
ウィキペディアー燈明寺https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%87%88%E6%98%8E%E5%AF%BA_(%E6%B1%9F%E6%88%B8%E5%B7%9D%E5%8C%BA) によると、燈明寺は「南葛八十八ヶ所霊場 51番・65番」とされているらしいが、
「猫のあしあと 南葛八十八ヶ所霊場の案内」https://tesshow.jp/daishi_nankatsu.html に一覧が出ていますが、本尊はさまざまですが、「八十八ヵ所」とは、もともと空海ゆかりの四国の寺88寺を言ったものから始まったものだったはずで、そこからか真言宗豊山派と真言宗智山派の寺が多く「新義真言宗」の寺もありますが、「南葛八十八ヶ所霊場 51番・65番」の場合は天台宗・浄土宗・臨済宗の寺もあれば神社も含まれています。
村上重良『日本の宗教』(1981.第1刷。 2009.改版。岩波ジュニア新書)には、
《 (江戸時代)さまざまな現世利益神が祀られ、民衆の信仰を集めるとともに、それぞれの神の効験の種類もさだまっていきました。とくに流行した現世利益神には、稲荷、観音、地蔵、金毘羅、不動はじめ、恵比寿、大黒天、弁天などの福神があります。
・・・
不動も、つよい霊威をもつ現世利益神として信仰されました。不動は、インドの神で、密教にとりいれられて、大日仏の使者または化身とされました。日本では、真言宗をはじめ修験道でも重んじられ、不動が独立して信仰の対象となりました。不動は、怒りの相をそなえた青年の姿をしており、手に剣と索(つな)をもっています。不動の霊場の中でも、とくに下総国の真言宗新勝寺は、成田山の不動として江戸の町民の間でひろく信仰されました。江戸では出開帳(でかいちょう)が人気をよび、成田詣でもさかんになりました。》
とある。
不動明王というと「護摩」という印象があります。 渡辺照宏『日本の仏教』(1,958.1.25.岩波新書)には、
《 仏教の呪術として著しいものは護摩(ごま)(梵語ホーマ Homa)である。もとインドのバラモンの法で、神々を供養し、幸福を求める方法であったが、密教にとりいれられて、わが国にも伝えられた。平安朝の盛んな頃には五大明王をまつり、五檀をもうけて僧侶たちに修法(しゅほう)させた。
「 程近うならせ給ふ儘に、御祈りども数を尽くしたり。五大尊の御修法を行はせ給ふ。様様其法に随ひての姿(なり)有様ども、然(さ)は斯うこそはと見えたり。観音院の僧正、二十人の伴僧、とりどりにてご加持参り給ふ・・・・心誉阿闍梨は軍荼利(ぐんだり)の洪なるべし。赤衣(あかぎぬ)著たり。斎祇(さいぎ)阿闍梨は大威徳を敬ひて腰を屈めたり。仁和寺の僧正は孔雀経の御修法を行ひ給ひ。疾く疾くと参り更(かは)れば、夜も明けはてぬ」(『栄花物語』初花)
平安朝の貴族は自分の娘が天皇の男子を生むことに運命を賭けていたので、こうして、豪華な呪術を営んだのであった。
一般には不動明王の一尊をまつる護摩が多く行われることとなり、鎌倉時代以後には、真言、天台以外の宗派でもこれにならうものが少なくなかった。江戸時代以後は民衆の宗教として親しまれ、ことに江戸町民の信仰の対象として千葉成田の新勝寺が有名になった。 ・・》
と出ている。

日本の宗教: 日本史・倫理社会の理解に (読みなおす日本史) - 重良, 村上

日本の仏教 (岩波新書) - 渡辺 照宏
不動明王とは、もともと、どういう存在だったのか。
ウィキペディアー不動明王https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8D%E5%8B%95%E6%98%8E%E7%8E%8B には、
《 不動明王(ふどうみょうおう、梵: अचलनाथ acalanātha)は、仏教の信仰対象であり、密教特有の尊格である明王の一尊。大日如来の化身とも言われる。また、五大明王の中心となる明王でもある。
真言宗をはじめ、天台宗、禅宗、日蓮宗等の日本仏教の諸派および修験道で幅広く信仰されている。大日如来、降三世明王、軍荼利明王、大威徳明王、金剛夜叉明王、金剛愛染明王らと共に祀られる。》
《 梵名の「アチャラ」は「動かない」、「ナータ」は「守護者」を意味し、全体としては「揺るぎなき守護者」の意味である。》
《 ・・・不動明王は大日如来の教令輪身とされる。煩悩を抱える最も救い難い衆生をも力ずくで救うために、忿怒の姿をしている。》
と出ている。 「力ずくでも救う」という、なんかその「無理矢理やるのがええねん」てのは、どうも、その部分はあんまり好きではない。うちの父親が何かと「無理矢理やるのがええと思うねん、無理矢理、むりやり、無理矢理、無理矢理♪」と始終、口にしていた男で、ああいうのは私はあんまり好きではない。「無理矢理やるのが好きなタイプ」「いやがることをさせるのが好きなタイプ」のおっさんというのは、そういうお店にでも行ってもらった方が「みんなのため」ではないのかという気がする。
又、「力ずくでも救う」て、その態度、まるで「小此木啓吾、おまえはそんなにえらいのか」みたいなやつ・・て感じがして、その部分については、あまりいい感じがしない。
《 眷属
不動明王は、八大童子と呼ばれる眷属を従えた形で造像される場合もある。ただし、実際には八大童子のうちの2名、矜羯羅童子(こんがらどうじ)と制吒迦童子(せいたかどうじ)を両脇に従えた三尊の形式で絵画や彫像に表されることが多い(不動明王二童子像または不動三尊像と言う)。・・・この他に三十六童子、四十八使者と呼ばれるものがある。》( ウィキペディアー不動明王https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8D%E5%8B%95%E6%98%8E%E7%8E%8B )
観音霊場は33観音霊場、弘法大師は八十八ヵ所だが、不動明王は『古寺を巡る50 東日本の霊場めぐり』(2008.小学館)に掲載の「関東三十六不動霊場」でも、36不動であるのは「三十六童子」からきているらしく、
《 関東三十六不動霊場は、神奈川県、東京都、埼玉県、千葉県の1都3県にまたがる。不動明王の眷属である三十六童子にちなみ、36か所からなる。よって、巡礼すれば各札所(ふだしょ)の不動尊の加護とともに、三十六童子のご利益も授かるといわれる。・・・・》(『古寺を巡る50 東日本の霊場めぐり』2008.小学館)ということらしい。
関西にも不動明王を祀る寺は少なくないが、不動霊場というと関東の方がよく聞くような気がしたが、《 古来、不動信仰がさかんであった関東だが、・・》と書かれている。
私がとりあえず思い浮かぶ不動さんというと、大阪府南部、富田林市の滝谷不動。幼稚園だったか小学校だったかの遠足で行った。似た名前の滝不動が千葉県船橋市にあるが、船橋市ではけっこう有名なはずだが「関東三十六不動霊場」には入っていない。ほかに訪ねたことがあるお不動さんというと、千葉県成田市の成田山新勝寺・・とかかな・・。
※ 滝谷不動明王寺HP https://takidanifudouson.or.jp/
滝谷不動では「日本三不動の一」と言っているらしい。
※ 船橋市 御滝不動尊HP https://otakifudouson.net/
「鎌ヶ谷大仏」とともに「滝不動」も新京成電鉄の駅名になっている。
※ 成田山新勝寺HP https://www.naritasan.or.jp/
※ 『仏教』『日本の仏教』『お経の話』(岩波新書)の著者の渡辺照宏さんのゆかりの寺、深川不動堂は、
成田山東京別院 深川不動堂HP http://www.fukagawafudou.gr.jp/
デビルマン(不動 明)・・は、あんまり関係ない・・かな。
真言宗には「古義」と「新義」に分かれるらしく、平井の燈明寺は「新義」の方の真言宗で、ウィキペディアー燈明寺https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%87%88%E6%98%8E%E5%AF%BA_(%E6%B1%9F%E6%88%B8%E5%B7%9D%E5%8C%BA) には広い意味での「新義」の真言宗の中の狭い意味での「新義真言宗」に属していたらしいが、門前の掲示によると真言宗豊山派(総本山は奈良県の長谷寺、大本山は東京都文京区の護国寺)に移ったらしい。
真言宗の寺として有名な所というと、東寺(教王護国寺)と高野山・・のほかに、香川県の善通寺あたり・・のほかにもいっぱいあって、真言宗の中に宗派もいっぱいあるみたいだが、 ウィキペディアー真言宗 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E8%A8%80%E5%AE%97 を見ると、まず、東寺と高野山との間で本末争いがあったらしい。
《 空海の死後、真言宗は、高野山と京都の各本山を中心に、国家鎮護の仏教おつぃて、朝廷、貴族に支えられて繁栄をつづけました。真言宗の僧は勅命で購読師(こうどくじ)に任じられ、諸国で布教しました。真言宗では、師から弟子へ修法がひそかに伝授されますが、平安中期には、この相承(そうじょう)のこまかい差異から、益信(やくしん)(827ー906)の広沢流と聖宝(しょうほう)(832ー909)の小野流が現れ、のちさらにこまかく分かれて、野沢(やたく)十二流とよばれました。》
( 村上重良『日本の宗教』1981.第1刷。 2009.改版。岩波ジュニア新書)
《 11世紀末、覚鑁(興教大師)は、大伝法院を創建、教学の振興のために大伝法会の復興を行った。東寺の支配から高野山の独立を図り、東寺長者が金剛峯寺の座主を兼職する慣例を廃止し、金剛峯寺座主に任ぜられたが、金剛峯寺方(本寺方)の反発を受け失敗した。その後、座主を辞して根来山(和歌山県)に隠棲した。これより、金剛峯寺方(本寺方)と覚鑁の流れを汲む大伝法院方(院方)との間で長い派閥抗争が続いた。両派は、古義(古義真言宗)・新義(新義真言宗)に分かれていった。のちに両派は教義的にも、一密成仏や法身説法などについて違いが生じることとなる。
1290年(正応3年)には、頼瑜が大伝法院を根来山に移し、大日如来の加持法身説(新義)を唱えて、新義真言宗の教義の基礎を確立した。》(ウィキペディアー真言宗 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E8%A8%80%E5%AE%97 )
という。
《 13世紀末に古義真言宗と新義真言宗に別れ、さらにそこから多種多様な教義が展開して現在に至っているのが特徴である。
古義派
大日如来の本地法身説の教学(古義)による。現実世界の一事一物が法身(真理そのものを仏の身体とみなす)の大日如来の説法であると説いている。
新義派
覚鑁(興教大師)を派祖とし、大日如来の加持身説の教学(新義)による。現実世界の一事一物は、加持身の大日如来の説法であると説いている。 》(ウィキペディアー真言宗 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E8%A8%80%E5%AE%97 )
ということらしいが、実際のところ、真言宗と天台宗の違いもよくわからん、なんとなく、不動明王に護摩たいてナントカかんとかソワカ~ とか唱えるのは真言宗かな・・くらいしかわからん者からすると、古義と新義の違いと言われても実際のところ、よくわからん。
どちらかというと、真言宗の方が天台宗よりも、より密教という印象が強いように思ったのだが、実際、真言宗は最初から密教としての宗派だったのに対して、天台宗は法華経を重視する天台教学の宗派だったのが、真言宗の影響も受けて密教を重視するようになったらしく、真言宗の方が密教のイメージが強いというのも、そのあたりからくるのでしょう。
《 密教は、チベットに伝えられてチベット仏教が成立し、また東南アジアにも広がりました。中国には、七世紀なかばの唐のはじめに、インドから密教僧が来て、大日経などの経典を訳し、密教の修法(しゅほう)を伝えました。密教では、護摩経をはじめとする呪術的な加持祈祷が大きな要素を占めており、事相(じそう)とよばれます。 密教の発達とともに、災いを除く息災(そくさい)、ご利益をあたえる増益(ぞうやく)、敵をたおす調伏(ちょうぶく)などを目的とする加持祈祷が広く求められるようになり、事相だけがひとり歩きする傾向が現れました。そのため、加持祈祷の神秘的な力のもとになる、大日仏を中心とする世界についての理論(教相)を重んじ、事相と教相が並びそなわった密教こそ、正統の密教(純密)であるとして、事相にかたよった密教(雑密 ぞうみつ、左道〔さどう〕密教)をしりぞけるようになりました。中国に伝えられた密教は、正統派の密教で、大日仏にはじまる相承の系譜を中国にもたらし、恵果を真言第七祖としました。》
永久保貴一さんの漫画の『ほん怖 霊験修法曼荼羅』『ほん怖 阿闍梨蒼雲 霊幻怪異始末』に登場する秋月慈童さんや阿闍梨蒼雲さんも、おそらく、真言宗の人でしょう。
ウィキペディアー新義真言宗https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E7%BE%A9%E7%9C%9F%E8%A8%80%E5%AE%97 によると、
《 (「新義真言宗」とは、)広義では、根来寺を本山とする新義真言宗、智積院を本山とする真言宗智山派、長谷寺を本山とする真言宗豊山派、室生寺を本山とする真言宗室生寺派などを含むが、狭義では真言宗十八本山の一つで、根来寺を総本山とする『新義真言宗』を指す。》らしい。
村上重良『日本の宗教』(1981.第1刷。 2009.改版。岩波ジュニア新書)を見ると、
《 真言宗は、平安末期まで高野山と京都の教王護国寺、醍醐寺などの各本山を中心に栄えましたが、鎌倉時代には、念仏の流行に対抗して、民衆に高野山浄土の来世信仰をひろめ、光明真言陀羅尼(こうみょうしんごんだらに)や宝筐院(ほうきょういん)陀羅尼による死後の救済のための修法を普及しました。真言宗の民衆化とともに、墓として宝筐院陀羅尼をおさめた宝筐院塔を建てる風習がひろがりました。
高野山では、平安末期に覚鑁(かくばん)(1095ー1143)が出て、山内に大伝法院をつくり、民衆への布教につとめましたが、金剛峯寺と対立して、紀伊国の根来(ねごろ)にうつりました。鎌倉中期に、高野山で学僧として聞こえた頼瑜(らいゆ)(1226ー1304)は、大伝法院をさかんにしました。金剛峯寺は、大伝法院に圧迫を加えたため、1286(弘安9)年、頼瑜は大伝法院を根来に移し、高野山からわかれて新義真言宗をひらきました。
新義真言宗の教義は、それまでの古義の真言宗とあまり大きな違いはなく、その開宗は、高野山内の二大勢力の争いがもたらした分裂の結果といえます。新義真言宗の本拠となった根来寺は、中世末まで、三万といわれる僧兵を擁して栄えましたが、豊臣秀吉によって滅ぼされました。根来寺の能化(のうげ)(長老)であった玄宥(げんゆう)は、京都に大伝法院内の智積院を再興しました。この流れが真言宗智山派です。また玄宥とならぶ能化(のうげ)であった専誉(せんよ)は、大和国の長谷寺を再興して、新義真言宗の本山としました。この流れは、長谷寺の寺号が豊山神楽院であることから真言宗豊山派といいます。江戸時代以降、智山派と豊山派は新義真言宗を二分する勢力となりました。》( 村上重良『日本の宗教』1981.第1刷。 2009.改版。岩波ジュニア新書)と出ています。
《 中世後期の戦国時代に入り、根来寺は規模が拡大し僧兵集団「根来衆」による武力強化が著しく、不穏分子と判断した豊臣秀吉は1585年(天正13年)春、遂に大軍で根来山を攻撃、寺は多宝塔、大師堂以外は完全に破壊され多くの僧侶は処刑された。寺宝はおろか、かつて「教学の山・根来」とまで称された多くの新義文献も灰燼に帰し、新義真言宗は事実上壊滅状態となった。しかし混乱の中、一部の僧侶は奈良の長谷寺や高野山に避難し難を逃れた。関ヶ原の戦いのあと、高野山に逃れた一派は徳川家康から豊臣秀吉ゆかりの寺を与えられ、京都東山に智積院を再興することになる。結果、豊臣秀吉の宗教政策は総本山根来寺を智山派・豊山派に二分し、勢力を分散させ一大宗教都市根来を衰退させることとなった。江戸時代には復興が許されたものの分散させられた僧侶は根来に戻ることは少なかった。》(ウィキペディアー新義真言宗https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E7%BE%A9%E7%9C%9F%E8%A8%80%E5%AE%97 )
《 明治政府の宗教政策により、他の真言宗宗派と1879年(明治12年)に合同する。1886年(明治191900年(明治33年)9月、新義真言宗智山派(智積院)・新義真言宗豊山派(長谷寺)が真言宗より独立し、新義真言宗智山派及び新義真言宗豊山派の能化が3年交代により大伝法院座主を勤めることとなった。智豊交互に勤める風習は、戦国時代、玄誉 - 日秀 - 頼玄 - 玄宥 - 専誉あたりから見られるものである。第二次大戦後、1953年(昭和28年)、宗教法人法の改正により根来寺を総本山とする新義真言宗が創設されるにいたり現在に至っている。》(ウィキペディアー新義真言宗https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E7%BE%A9%E7%9C%9F%E8%A8%80%E5%AE%97 )
ということらしい。
真如苑も「真」とつくだけに真言宗系らしいが、「古義」の系統なのか「新義」の系統なのかはよう知らん。
『週刊朝日百科 [改定版]仏教を歩く No.1 空海』(2013.2.24.朝日新聞出版)によると、高野山の売店では「般若湯」なる名前の地酒が販売されているそうな・・・(^^)/

仏教を歩くNo1創刊 空海 (週刊朝日百科)
「燈明寺」という名前のお寺は江戸川区平井の燈明寺だけではなく、ほかにもあるようで、インターネットで検索すると、
1.東京都台東区北上野 燈明寺(天台宗)
ウィキペディアー燈明寺(台東区)https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%87%88%E6%98%8E%E5%AF%BA_(%E5%8F%B0%E6%9D%B1%E5%8C%BA)#%E6%AD%B4%E5%8F%B2
2.京都府木津川市 燈明寺(日蓮宗)
ウィキペディアー燈明寺(京都府木津川市) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%87%88%E6%98%8E%E5%AF%BA_(%E6%9C%A8%E6%B4%A5%E5%B7%9D%E5%B8%82)
《 現在の京都府木津川市兎並(うなみ)寺山(旧相楽郡加茂町)にあった日蓮宗の寺院。現在は廃寺同様であるが、宗教法人は存続している。》
木津川市の旧燈明寺本堂(重要文化財)と旧燈明寺三重塔(重要文化財) は、横浜市磯子区 の三渓園に移築されている。
なんとか三渓という商売に成功してカネを貯めた人が、全国の寺社などから建築物を買い集めて横浜市磯子区に移築して作ったのが三渓園で、信仰の対象であったお寺や神社の建物をカネにあかせて買い集めるなんて、なんちゅうブタ商人や・・という印象も持たないこともないのだけれども、廃寺になって、このままでは朽ち果ててしまうだけというものを購入して移築して保存したというものが多いとも言われるらしい。
三渓園HP https://www.sankeien.or.jp/
3.寺ではないが、「燈明寺畷新田義貞戦歿伝説地」(福井県福井市新田塚町)。 新田義貞が藤島の戦いで戦死したと伝えられる所。
ウィキペディアー燈明寺畷新田義貞戦歿伝説地 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%87%88%E6%98%8E%E5%AF%BA%E7%95%B7%E6%96%B0%E7%94%B0%E7%BE%A9%E8%B2%9E%E6%88%A6%E6%AD%BF%E4%BC%9D%E8%AA%AC%E5%9C%B0#%E6%B3%A8%E9%87%88
《 明治維新後の1870年(明治3年)、新田塚の近くに新田義貞を祀る祠堂が建てられ、1876年(明治9年)には藤島神社と号した。》
藤島神社は明治維新の後、国民の精神を明治維新政府がコントロールするために、天皇を祀る神社として樫原神宮・平安神宮・近江神宮・明治神宮などを建て、南北朝の争乱の際に南朝側についた「南朝の遺臣」を祀る神社として湊川神社・四条畷神社・阿倍野神社・鎌倉宮など「建武中興15社」を建てた、そのうちのひとつ。
ウィキペディアー藤島神社 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%B3%B6%E7%A5%9E%E7%A4%BE
※ ウィキペディアー燈明寺(江戸川区)https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%87%88%E6%98%8E%E5%AF%BA_(%E6%B1%9F%E6%88%B8%E5%B7%9D%E5%8C%BA)
次回https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/501193898.html は、燈明寺の隣の 平井諏訪神社に行きます。
(2023.10.20.)
☆ 燈明寺(平井聖天)〔東京都江戸川区平井〕参拝
1.平井駅から蔵前橋通りを横断し、諏訪神社の前を通って燈明寺へ。計画性のないチムニー(株)「ファーストグルメ」平井店。「(一条工務店の某営業のように)郵便物を盗むことは犯罪行為です 小石川警察署・・」。「無責任の体系」のチムニー(株)の面接。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/500980727.html
2.門をくぐり正面に聖天堂、右手に金堂。門の内側右に弘法大師像? 左に水子地蔵。「子供」を大義名分にかかげれば何でもまかり通ると考える「子供」帝国主義の女とその夫に殺されたわが子の恨みをはらしていただくよう、水子地蔵様に祈願してきました。反社会的勢力雇用均等室を叩き潰せ! https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/501018586.html
3.門から入り、左に鐘楼、正面に聖天堂・右に本堂。「裏でなく 正門で入ろう 大学は」。八百長医者屋民族の嘘。この人間がこう言ったら実態はこんな感じかと推測するか、言った通りと推測するか。父親がなかったから父親がいるとどんなに大変か理解できないバカ女症候群。
4.「歓喜堂」「聖天堂」。RC造の1階の上の「歓喜堂」「聖天堂」。聖天堂から見た鐘楼・本堂。大聖歓喜天・ガネーシャとは。冠をつけている方が観音で足を踏まれている方が歓喜天なのか、両方が大聖歓喜天なのか。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/501111583.html
5.不動明王を祀る本堂。不動明王とは。真言宗の新義と古義の経緯とは。〔今回〕
6.平井諏訪神社。江戸川区一の社殿、区登録有形文化財の稲荷社は彫刻がきれい。平井富士塚。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/501193898.html
7.旧中川にかかる平井橋・荒川放水路で分断された中川・高校教諭は親に苦しむ生徒に助力するものと違うのか・「両親が離婚した」娘はみんなでほめなきゃならんのか・「両親が離婚した」らエライのか・「京大でも通りました」と母親が言ってまわる阪大生には何かしてあげるべきなのか・クロマティ高校卒の男は浪人する権利があるのか・あまりにも「一番」追いかける人は、結局、何がやりたいのか?・おばさんの似顔絵入りウチワと30代の女の「握手しましょ」はどっちが「利益供与」か https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/501232436.html
8.同僚を営業本部長に讒言する男とそれをきく営業本部長、会社のルールを破って人の追客中客を強奪して放置する所長とそれに加担する営業本部長、自社が損する嘘をつきまくる営業、「研修」で得意がって嘘教える男、〇日に見積書を持って来てくれと頼んでその日はパジャマで奥にいる人、「下位互換」の会社は立場が弱い、「失投」が来る浜松・掛川・名古屋の営業と「一流投手の会心の球」しか来ない東京・松戸営業所。吾嬬町とは。大正民家園 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/501276979.html
9.墨田区立花の白髭神社。自分が店員に腹立つことがあっても、会社が提携している店と勝手に喧嘩していいものではないであろう。いったん、もめても修復すべく働きかけるのが「営業力」、往復40分歩かせて交通費をけちる会社の判断は間違い。小村井交差点https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/501343357.html
10.亀戸線「小村井」~「亀戸」駅。自分が勤務する新展示場開設に尽力してくれた相手に「すいません」言わない営業・構造安全基準が甘い設計会社・気持ちが落ち着く方法17 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/501359257.html
★ 大聖歓喜天を祀る寺とお堂。
☆ 箕面山 聖天宮 西江寺(大阪府箕面市)参拝 1~4
1.箕面駅前、「日本最初大聖歓喜天出現霊場」碑から西江寺の西側の坂道まで。正反対の性質の心療内科と「精神科」を同時に掲げる「クリニック」の矛盾。ニーチェなどが学ぶべきだと言う心理学と小此木啓吾らのエセ心理学とは別物。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/499514748.html
2.中ノ坂 を登り西江寺まで。箕面の山の地主神の白髪の翁・大聖歓喜天と役行者との出会い。 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/499547852.html
3.石段を登り、右手に天満天神・吉野・吉竹・金毘羅の祠。登り切った正面に大黒堂。「摂津国神宮寺」が神仏分離で西江寺に名称変更。豊島郡片手村から簑面村へ。外界世俗から密教的世界への障害を守護する威力神として大聖歓喜天が祀られる。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/499567214.html
4.大黒堂前から聖天堂。箕面山荘前への山道。弁財天堂。白龍歓喜天。中ノ坂からの眺望。強制労働の「患者」の労働を搾取して、他方で江崎グリコ(株)から内職代を取得する「医者」「病院」は「一粒で二度おいしい」、そんな「江崎グリコを守れ」と主張する者は正義なのか?https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/499590837.html
☆ 聖天宮 西江寺(大阪府箕面市)について
⇒[第476回]《紅葉の箕面 西江寺(さいこうじ)(箕面聖天) と 摂社 天満大自在天神(大阪府箕面市)参拝》https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201611article_5.html
「哲建ルンバ」《箕面山聖天宮西江寺へ行ってきました。~建築探訪・建築巡礼第4回〔引越掲載〕》https://philoarchi2212.seesaa.net/article/201101article_29.html
☆ 金目山 光明寺(神奈川県平塚市) の歓喜堂については、
⇒[第976回]《金目山 光明寺(平塚市)参拝【3/4】大聖歓喜天を祀る歓喜堂。》https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/498407897.html
☆ 飛騨国分寺(岐阜県高山市)については、
⇒[第360回]《飛騨国分寺と三重塔、「和風ドーマー」、ホテルの二重サッシ、飛騨牛中華そば―高山シリーズ第3回(9)》https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201510article_10.html
飛騨国分寺では本堂の中の「一室」で大聖歓喜天が祀られています。

仏教 第2版 (岩波新書) - 渡辺 照宏

世界の宗教 (岩波ジュニア新書) - 村上 重良

日本文化史 第2版 (岩波新書 黄版 187) - 家永 三郎
燈明寺(明雅山 明王院 燈明寺)(江戸川区平井)参拝の5回目です。
門をくぐって進んで「聖天堂」「歓喜堂」に向かって右手にあるのが「本堂」のようです。↓
門の正面には大聖歓喜天を祀る「聖天堂」「歓喜堂」の方がありますが、ここは真言宗の寺で、大聖歓喜天を祀る「聖天堂」「歓喜堂」ではなく、右側の不動明王を祀るお堂が本堂のようです。
《 その後、安政の地震(1855)で堂宇を損傷、関東大震災(1923)では本堂全壊という災禍にあいましたが、当時の関 澄道(せき ちょうどう)貫主(かんす)(二十六世)によって京都宇治平等院風の三屋根造り(みつやねづくり)の優雅な本堂が建立されました。》
と門を入ってすぐ左に出ている江戸川区教育委員会による説明書きに書かれているのが、↑ のお堂かと思われますが、1階部分は鉄筋コンクリート造でできていて、その上に木造のお堂が載っており、関東大震災の後から、この状態に造られたものか、木造の部分だけが造られて後に1階部分が造られて、その上に載せられたものかはわかりません。 江戸時代ではなく、関東大震災の後ということは、関東大震災は「幾人、見つかる(1923)」1923年、大正12年のことで、現在は玄関と玄関ホール部分のみが愛知県犬山市の明治村に移築されているフランク=ロイド=ライト設計による日比谷の旧 帝国ホテルの建物は、たしか、関東大震災の直前に竣工したはずでしたから、本堂が建立されたのは、すでに鉄筋コンクリート造の建物を造ることはできた時代のものですから、1階部分の鉄筋コンクリート造の部分から、関東大震災の後に造られたものかもしれません。 でっかい1階分の大きさの基礎の上に木造のお堂が載っているような感じです。
↑ 本堂。右手前より。
↑ 本堂。左手前より。
門の外、平井駅に近い側から見ると、↓
↑ 門より右側にお堂が2つあるかのように見えますが、これは、本堂の手前部分を後ろ部分で、2つあるお堂が見えていたわけではないようです。
↑ 本堂の後ろの部分。
訪問時は、1階部分について、補修工事なのか工事をおこなっており、「聖天堂」「歓喜堂」の方は正面の階段を登ってお堂の前まで行けましたが、本堂は地盤面から手を合わせるしかありません。
↑ これが、「聖天堂」「歓喜堂」の前から見た本堂です。迫力のある建物です。
↑ 本堂の木造部分の正面。
↑ 火燈窓。
燈明寺は「平井聖天」として「江戸川区指定史跡」と指定され、「歓喜堂」「聖天堂」に祀られる大聖歓喜天の方は「平井聖天」と言われ、妻沼聖天(埼玉県熊谷市)・待乳山聖天(東京都台東区)とともに「関東三聖天」とされるということですが、本堂の方は立派なお堂がありますが、燈明寺の不動明王さんは『古寺を巡る50 東日本の霊場めぐり』(2008.2・6.小学館)に掲載されている「関東三十六不動霊場」を見ても、そこには入っていないようです。平井ではJR総武線を隔てた南側にある最勝寺・目黄不動が関東三十六不動霊場の第19番になっているらしい。
※ ウィキペディアー最勝寺(江戸川区)https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%80%E5%8B%9D%E5%AF%BA_(%E6%B1%9F%E6%88%B8%E5%B7%9D%E5%8C%BA)
ウィキペディアー燈明寺https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%87%88%E6%98%8E%E5%AF%BA_(%E6%B1%9F%E6%88%B8%E5%B7%9D%E5%8C%BA) によると、燈明寺は「南葛八十八ヶ所霊場 51番・65番」とされているらしいが、
「猫のあしあと 南葛八十八ヶ所霊場の案内」https://tesshow.jp/daishi_nankatsu.html に一覧が出ていますが、本尊はさまざまですが、「八十八ヵ所」とは、もともと空海ゆかりの四国の寺88寺を言ったものから始まったものだったはずで、そこからか真言宗豊山派と真言宗智山派の寺が多く「新義真言宗」の寺もありますが、「南葛八十八ヶ所霊場 51番・65番」の場合は天台宗・浄土宗・臨済宗の寺もあれば神社も含まれています。
村上重良『日本の宗教』(1981.第1刷。 2009.改版。岩波ジュニア新書)には、
《 (江戸時代)さまざまな現世利益神が祀られ、民衆の信仰を集めるとともに、それぞれの神の効験の種類もさだまっていきました。とくに流行した現世利益神には、稲荷、観音、地蔵、金毘羅、不動はじめ、恵比寿、大黒天、弁天などの福神があります。
・・・
不動も、つよい霊威をもつ現世利益神として信仰されました。不動は、インドの神で、密教にとりいれられて、大日仏の使者または化身とされました。日本では、真言宗をはじめ修験道でも重んじられ、不動が独立して信仰の対象となりました。不動は、怒りの相をそなえた青年の姿をしており、手に剣と索(つな)をもっています。不動の霊場の中でも、とくに下総国の真言宗新勝寺は、成田山の不動として江戸の町民の間でひろく信仰されました。江戸では出開帳(でかいちょう)が人気をよび、成田詣でもさかんになりました。》
とある。
不動明王というと「護摩」という印象があります。 渡辺照宏『日本の仏教』(1,958.1.25.岩波新書)には、
《 仏教の呪術として著しいものは護摩(ごま)(梵語ホーマ Homa)である。もとインドのバラモンの法で、神々を供養し、幸福を求める方法であったが、密教にとりいれられて、わが国にも伝えられた。平安朝の盛んな頃には五大明王をまつり、五檀をもうけて僧侶たちに修法(しゅほう)させた。
「 程近うならせ給ふ儘に、御祈りども数を尽くしたり。五大尊の御修法を行はせ給ふ。様様其法に随ひての姿(なり)有様ども、然(さ)は斯うこそはと見えたり。観音院の僧正、二十人の伴僧、とりどりにてご加持参り給ふ・・・・心誉阿闍梨は軍荼利(ぐんだり)の洪なるべし。赤衣(あかぎぬ)著たり。斎祇(さいぎ)阿闍梨は大威徳を敬ひて腰を屈めたり。仁和寺の僧正は孔雀経の御修法を行ひ給ひ。疾く疾くと参り更(かは)れば、夜も明けはてぬ」(『栄花物語』初花)
平安朝の貴族は自分の娘が天皇の男子を生むことに運命を賭けていたので、こうして、豪華な呪術を営んだのであった。
一般には不動明王の一尊をまつる護摩が多く行われることとなり、鎌倉時代以後には、真言、天台以外の宗派でもこれにならうものが少なくなかった。江戸時代以後は民衆の宗教として親しまれ、ことに江戸町民の信仰の対象として千葉成田の新勝寺が有名になった。 ・・》
と出ている。

日本の宗教: 日本史・倫理社会の理解に (読みなおす日本史) - 重良, 村上

日本の仏教 (岩波新書) - 渡辺 照宏
不動明王とは、もともと、どういう存在だったのか。
ウィキペディアー不動明王https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8D%E5%8B%95%E6%98%8E%E7%8E%8B には、
《 不動明王(ふどうみょうおう、梵: अचलनाथ acalanātha)は、仏教の信仰対象であり、密教特有の尊格である明王の一尊。大日如来の化身とも言われる。また、五大明王の中心となる明王でもある。
真言宗をはじめ、天台宗、禅宗、日蓮宗等の日本仏教の諸派および修験道で幅広く信仰されている。大日如来、降三世明王、軍荼利明王、大威徳明王、金剛夜叉明王、金剛愛染明王らと共に祀られる。》
《 梵名の「アチャラ」は「動かない」、「ナータ」は「守護者」を意味し、全体としては「揺るぎなき守護者」の意味である。》
《 ・・・不動明王は大日如来の教令輪身とされる。煩悩を抱える最も救い難い衆生をも力ずくで救うために、忿怒の姿をしている。》
と出ている。 「力ずくでも救う」という、なんかその「無理矢理やるのがええねん」てのは、どうも、その部分はあんまり好きではない。うちの父親が何かと「無理矢理やるのがええと思うねん、無理矢理、むりやり、無理矢理、無理矢理♪」と始終、口にしていた男で、ああいうのは私はあんまり好きではない。「無理矢理やるのが好きなタイプ」「いやがることをさせるのが好きなタイプ」のおっさんというのは、そういうお店にでも行ってもらった方が「みんなのため」ではないのかという気がする。
又、「力ずくでも救う」て、その態度、まるで「小此木啓吾、おまえはそんなにえらいのか」みたいなやつ・・て感じがして、その部分については、あまりいい感じがしない。
《 眷属
不動明王は、八大童子と呼ばれる眷属を従えた形で造像される場合もある。ただし、実際には八大童子のうちの2名、矜羯羅童子(こんがらどうじ)と制吒迦童子(せいたかどうじ)を両脇に従えた三尊の形式で絵画や彫像に表されることが多い(不動明王二童子像または不動三尊像と言う)。・・・この他に三十六童子、四十八使者と呼ばれるものがある。》( ウィキペディアー不動明王https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8D%E5%8B%95%E6%98%8E%E7%8E%8B )
観音霊場は33観音霊場、弘法大師は八十八ヵ所だが、不動明王は『古寺を巡る50 東日本の霊場めぐり』(2008.小学館)に掲載の「関東三十六不動霊場」でも、36不動であるのは「三十六童子」からきているらしく、
《 関東三十六不動霊場は、神奈川県、東京都、埼玉県、千葉県の1都3県にまたがる。不動明王の眷属である三十六童子にちなみ、36か所からなる。よって、巡礼すれば各札所(ふだしょ)の不動尊の加護とともに、三十六童子のご利益も授かるといわれる。・・・・》(『古寺を巡る50 東日本の霊場めぐり』2008.小学館)ということらしい。
関西にも不動明王を祀る寺は少なくないが、不動霊場というと関東の方がよく聞くような気がしたが、《 古来、不動信仰がさかんであった関東だが、・・》と書かれている。
私がとりあえず思い浮かぶ不動さんというと、大阪府南部、富田林市の滝谷不動。幼稚園だったか小学校だったかの遠足で行った。似た名前の滝不動が千葉県船橋市にあるが、船橋市ではけっこう有名なはずだが「関東三十六不動霊場」には入っていない。ほかに訪ねたことがあるお不動さんというと、千葉県成田市の成田山新勝寺・・とかかな・・。
※ 滝谷不動明王寺HP https://takidanifudouson.or.jp/
滝谷不動では「日本三不動の一」と言っているらしい。
※ 船橋市 御滝不動尊HP https://otakifudouson.net/
「鎌ヶ谷大仏」とともに「滝不動」も新京成電鉄の駅名になっている。
※ 成田山新勝寺HP https://www.naritasan.or.jp/
※ 『仏教』『日本の仏教』『お経の話』(岩波新書)の著者の渡辺照宏さんのゆかりの寺、深川不動堂は、
成田山東京別院 深川不動堂HP http://www.fukagawafudou.gr.jp/
デビルマン(不動 明)・・は、あんまり関係ない・・かな。
真言宗には「古義」と「新義」に分かれるらしく、平井の燈明寺は「新義」の方の真言宗で、ウィキペディアー燈明寺https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%87%88%E6%98%8E%E5%AF%BA_(%E6%B1%9F%E6%88%B8%E5%B7%9D%E5%8C%BA) には広い意味での「新義」の真言宗の中の狭い意味での「新義真言宗」に属していたらしいが、門前の掲示によると真言宗豊山派(総本山は奈良県の長谷寺、大本山は東京都文京区の護国寺)に移ったらしい。
真言宗の寺として有名な所というと、東寺(教王護国寺)と高野山・・のほかに、香川県の善通寺あたり・・のほかにもいっぱいあって、真言宗の中に宗派もいっぱいあるみたいだが、 ウィキペディアー真言宗 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E8%A8%80%E5%AE%97 を見ると、まず、東寺と高野山との間で本末争いがあったらしい。
《 空海の死後、真言宗は、高野山と京都の各本山を中心に、国家鎮護の仏教おつぃて、朝廷、貴族に支えられて繁栄をつづけました。真言宗の僧は勅命で購読師(こうどくじ)に任じられ、諸国で布教しました。真言宗では、師から弟子へ修法がひそかに伝授されますが、平安中期には、この相承(そうじょう)のこまかい差異から、益信(やくしん)(827ー906)の広沢流と聖宝(しょうほう)(832ー909)の小野流が現れ、のちさらにこまかく分かれて、野沢(やたく)十二流とよばれました。》
( 村上重良『日本の宗教』1981.第1刷。 2009.改版。岩波ジュニア新書)
《 11世紀末、覚鑁(興教大師)は、大伝法院を創建、教学の振興のために大伝法会の復興を行った。東寺の支配から高野山の独立を図り、東寺長者が金剛峯寺の座主を兼職する慣例を廃止し、金剛峯寺座主に任ぜられたが、金剛峯寺方(本寺方)の反発を受け失敗した。その後、座主を辞して根来山(和歌山県)に隠棲した。これより、金剛峯寺方(本寺方)と覚鑁の流れを汲む大伝法院方(院方)との間で長い派閥抗争が続いた。両派は、古義(古義真言宗)・新義(新義真言宗)に分かれていった。のちに両派は教義的にも、一密成仏や法身説法などについて違いが生じることとなる。
1290年(正応3年)には、頼瑜が大伝法院を根来山に移し、大日如来の加持法身説(新義)を唱えて、新義真言宗の教義の基礎を確立した。》(ウィキペディアー真言宗 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E8%A8%80%E5%AE%97 )
という。
《 13世紀末に古義真言宗と新義真言宗に別れ、さらにそこから多種多様な教義が展開して現在に至っているのが特徴である。
古義派
大日如来の本地法身説の教学(古義)による。現実世界の一事一物が法身(真理そのものを仏の身体とみなす)の大日如来の説法であると説いている。
新義派
覚鑁(興教大師)を派祖とし、大日如来の加持身説の教学(新義)による。現実世界の一事一物は、加持身の大日如来の説法であると説いている。 》(ウィキペディアー真言宗 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E8%A8%80%E5%AE%97 )
ということらしいが、実際のところ、真言宗と天台宗の違いもよくわからん、なんとなく、不動明王に護摩たいてナントカかんとかソワカ~ とか唱えるのは真言宗かな・・くらいしかわからん者からすると、古義と新義の違いと言われても実際のところ、よくわからん。
どちらかというと、真言宗の方が天台宗よりも、より密教という印象が強いように思ったのだが、実際、真言宗は最初から密教としての宗派だったのに対して、天台宗は法華経を重視する天台教学の宗派だったのが、真言宗の影響も受けて密教を重視するようになったらしく、真言宗の方が密教のイメージが強いというのも、そのあたりからくるのでしょう。
《 密教は、チベットに伝えられてチベット仏教が成立し、また東南アジアにも広がりました。中国には、七世紀なかばの唐のはじめに、インドから密教僧が来て、大日経などの経典を訳し、密教の修法(しゅほう)を伝えました。密教では、護摩経をはじめとする呪術的な加持祈祷が大きな要素を占めており、事相(じそう)とよばれます。 密教の発達とともに、災いを除く息災(そくさい)、ご利益をあたえる増益(ぞうやく)、敵をたおす調伏(ちょうぶく)などを目的とする加持祈祷が広く求められるようになり、事相だけがひとり歩きする傾向が現れました。そのため、加持祈祷の神秘的な力のもとになる、大日仏を中心とする世界についての理論(教相)を重んじ、事相と教相が並びそなわった密教こそ、正統の密教(純密)であるとして、事相にかたよった密教(雑密 ぞうみつ、左道〔さどう〕密教)をしりぞけるようになりました。中国に伝えられた密教は、正統派の密教で、大日仏にはじまる相承の系譜を中国にもたらし、恵果を真言第七祖としました。》
永久保貴一さんの漫画の『ほん怖 霊験修法曼荼羅』『ほん怖 阿闍梨蒼雲 霊幻怪異始末』に登場する秋月慈童さんや阿闍梨蒼雲さんも、おそらく、真言宗の人でしょう。
ウィキペディアー新義真言宗https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E7%BE%A9%E7%9C%9F%E8%A8%80%E5%AE%97 によると、
《 (「新義真言宗」とは、)広義では、根来寺を本山とする新義真言宗、智積院を本山とする真言宗智山派、長谷寺を本山とする真言宗豊山派、室生寺を本山とする真言宗室生寺派などを含むが、狭義では真言宗十八本山の一つで、根来寺を総本山とする『新義真言宗』を指す。》らしい。
村上重良『日本の宗教』(1981.第1刷。 2009.改版。岩波ジュニア新書)を見ると、
《 真言宗は、平安末期まで高野山と京都の教王護国寺、醍醐寺などの各本山を中心に栄えましたが、鎌倉時代には、念仏の流行に対抗して、民衆に高野山浄土の来世信仰をひろめ、光明真言陀羅尼(こうみょうしんごんだらに)や宝筐院(ほうきょういん)陀羅尼による死後の救済のための修法を普及しました。真言宗の民衆化とともに、墓として宝筐院陀羅尼をおさめた宝筐院塔を建てる風習がひろがりました。
高野山では、平安末期に覚鑁(かくばん)(1095ー1143)が出て、山内に大伝法院をつくり、民衆への布教につとめましたが、金剛峯寺と対立して、紀伊国の根来(ねごろ)にうつりました。鎌倉中期に、高野山で学僧として聞こえた頼瑜(らいゆ)(1226ー1304)は、大伝法院をさかんにしました。金剛峯寺は、大伝法院に圧迫を加えたため、1286(弘安9)年、頼瑜は大伝法院を根来に移し、高野山からわかれて新義真言宗をひらきました。
新義真言宗の教義は、それまでの古義の真言宗とあまり大きな違いはなく、その開宗は、高野山内の二大勢力の争いがもたらした分裂の結果といえます。新義真言宗の本拠となった根来寺は、中世末まで、三万といわれる僧兵を擁して栄えましたが、豊臣秀吉によって滅ぼされました。根来寺の能化(のうげ)(長老)であった玄宥(げんゆう)は、京都に大伝法院内の智積院を再興しました。この流れが真言宗智山派です。また玄宥とならぶ能化(のうげ)であった専誉(せんよ)は、大和国の長谷寺を再興して、新義真言宗の本山としました。この流れは、長谷寺の寺号が豊山神楽院であることから真言宗豊山派といいます。江戸時代以降、智山派と豊山派は新義真言宗を二分する勢力となりました。》( 村上重良『日本の宗教』1981.第1刷。 2009.改版。岩波ジュニア新書)と出ています。
《 中世後期の戦国時代に入り、根来寺は規模が拡大し僧兵集団「根来衆」による武力強化が著しく、不穏分子と判断した豊臣秀吉は1585年(天正13年)春、遂に大軍で根来山を攻撃、寺は多宝塔、大師堂以外は完全に破壊され多くの僧侶は処刑された。寺宝はおろか、かつて「教学の山・根来」とまで称された多くの新義文献も灰燼に帰し、新義真言宗は事実上壊滅状態となった。しかし混乱の中、一部の僧侶は奈良の長谷寺や高野山に避難し難を逃れた。関ヶ原の戦いのあと、高野山に逃れた一派は徳川家康から豊臣秀吉ゆかりの寺を与えられ、京都東山に智積院を再興することになる。結果、豊臣秀吉の宗教政策は総本山根来寺を智山派・豊山派に二分し、勢力を分散させ一大宗教都市根来を衰退させることとなった。江戸時代には復興が許されたものの分散させられた僧侶は根来に戻ることは少なかった。》(ウィキペディアー新義真言宗https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E7%BE%A9%E7%9C%9F%E8%A8%80%E5%AE%97 )
《 明治政府の宗教政策により、他の真言宗宗派と1879年(明治12年)に合同する。1886年(明治191900年(明治33年)9月、新義真言宗智山派(智積院)・新義真言宗豊山派(長谷寺)が真言宗より独立し、新義真言宗智山派及び新義真言宗豊山派の能化が3年交代により大伝法院座主を勤めることとなった。智豊交互に勤める風習は、戦国時代、玄誉 - 日秀 - 頼玄 - 玄宥 - 専誉あたりから見られるものである。第二次大戦後、1953年(昭和28年)、宗教法人法の改正により根来寺を総本山とする新義真言宗が創設されるにいたり現在に至っている。》(ウィキペディアー新義真言宗https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E7%BE%A9%E7%9C%9F%E8%A8%80%E5%AE%97 )
ということらしい。
真如苑も「真」とつくだけに真言宗系らしいが、「古義」の系統なのか「新義」の系統なのかはよう知らん。
『週刊朝日百科 [改定版]仏教を歩く No.1 空海』(2013.2.24.朝日新聞出版)によると、高野山の売店では「般若湯」なる名前の地酒が販売されているそうな・・・(^^)/

仏教を歩くNo1創刊 空海 (週刊朝日百科)
「燈明寺」という名前のお寺は江戸川区平井の燈明寺だけではなく、ほかにもあるようで、インターネットで検索すると、
1.東京都台東区北上野 燈明寺(天台宗)
ウィキペディアー燈明寺(台東区)https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%87%88%E6%98%8E%E5%AF%BA_(%E5%8F%B0%E6%9D%B1%E5%8C%BA)#%E6%AD%B4%E5%8F%B2
2.京都府木津川市 燈明寺(日蓮宗)
ウィキペディアー燈明寺(京都府木津川市) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%87%88%E6%98%8E%E5%AF%BA_(%E6%9C%A8%E6%B4%A5%E5%B7%9D%E5%B8%82)
《 現在の京都府木津川市兎並(うなみ)寺山(旧相楽郡加茂町)にあった日蓮宗の寺院。現在は廃寺同様であるが、宗教法人は存続している。》
木津川市の旧燈明寺本堂(重要文化財)と旧燈明寺三重塔(重要文化財) は、横浜市磯子区 の三渓園に移築されている。
なんとか三渓という商売に成功してカネを貯めた人が、全国の寺社などから建築物を買い集めて横浜市磯子区に移築して作ったのが三渓園で、信仰の対象であったお寺や神社の建物をカネにあかせて買い集めるなんて、なんちゅうブタ商人や・・という印象も持たないこともないのだけれども、廃寺になって、このままでは朽ち果ててしまうだけというものを購入して移築して保存したというものが多いとも言われるらしい。
三渓園HP https://www.sankeien.or.jp/
3.寺ではないが、「燈明寺畷新田義貞戦歿伝説地」(福井県福井市新田塚町)。 新田義貞が藤島の戦いで戦死したと伝えられる所。
ウィキペディアー燈明寺畷新田義貞戦歿伝説地 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%87%88%E6%98%8E%E5%AF%BA%E7%95%B7%E6%96%B0%E7%94%B0%E7%BE%A9%E8%B2%9E%E6%88%A6%E6%AD%BF%E4%BC%9D%E8%AA%AC%E5%9C%B0#%E6%B3%A8%E9%87%88
《 明治維新後の1870年(明治3年)、新田塚の近くに新田義貞を祀る祠堂が建てられ、1876年(明治9年)には藤島神社と号した。》
藤島神社は明治維新の後、国民の精神を明治維新政府がコントロールするために、天皇を祀る神社として樫原神宮・平安神宮・近江神宮・明治神宮などを建て、南北朝の争乱の際に南朝側についた「南朝の遺臣」を祀る神社として湊川神社・四条畷神社・阿倍野神社・鎌倉宮など「建武中興15社」を建てた、そのうちのひとつ。
ウィキペディアー藤島神社 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%B3%B6%E7%A5%9E%E7%A4%BE
※ ウィキペディアー燈明寺(江戸川区)https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%87%88%E6%98%8E%E5%AF%BA_(%E6%B1%9F%E6%88%B8%E5%B7%9D%E5%8C%BA)
次回https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/501193898.html は、燈明寺の隣の 平井諏訪神社に行きます。
(2023.10.20.)
☆ 燈明寺(平井聖天)〔東京都江戸川区平井〕参拝
1.平井駅から蔵前橋通りを横断し、諏訪神社の前を通って燈明寺へ。計画性のないチムニー(株)「ファーストグルメ」平井店。「(一条工務店の某営業のように)郵便物を盗むことは犯罪行為です 小石川警察署・・」。「無責任の体系」のチムニー(株)の面接。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/500980727.html
2.門をくぐり正面に聖天堂、右手に金堂。門の内側右に弘法大師像? 左に水子地蔵。「子供」を大義名分にかかげれば何でもまかり通ると考える「子供」帝国主義の女とその夫に殺されたわが子の恨みをはらしていただくよう、水子地蔵様に祈願してきました。反社会的勢力雇用均等室を叩き潰せ! https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/501018586.html
3.門から入り、左に鐘楼、正面に聖天堂・右に本堂。「裏でなく 正門で入ろう 大学は」。八百長医者屋民族の嘘。この人間がこう言ったら実態はこんな感じかと推測するか、言った通りと推測するか。父親がなかったから父親がいるとどんなに大変か理解できないバカ女症候群。
4.「歓喜堂」「聖天堂」。RC造の1階の上の「歓喜堂」「聖天堂」。聖天堂から見た鐘楼・本堂。大聖歓喜天・ガネーシャとは。冠をつけている方が観音で足を踏まれている方が歓喜天なのか、両方が大聖歓喜天なのか。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/501111583.html
5.不動明王を祀る本堂。不動明王とは。真言宗の新義と古義の経緯とは。〔今回〕
6.平井諏訪神社。江戸川区一の社殿、区登録有形文化財の稲荷社は彫刻がきれい。平井富士塚。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/501193898.html
7.旧中川にかかる平井橋・荒川放水路で分断された中川・高校教諭は親に苦しむ生徒に助力するものと違うのか・「両親が離婚した」娘はみんなでほめなきゃならんのか・「両親が離婚した」らエライのか・「京大でも通りました」と母親が言ってまわる阪大生には何かしてあげるべきなのか・クロマティ高校卒の男は浪人する権利があるのか・あまりにも「一番」追いかける人は、結局、何がやりたいのか?・おばさんの似顔絵入りウチワと30代の女の「握手しましょ」はどっちが「利益供与」か https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/501232436.html
8.同僚を営業本部長に讒言する男とそれをきく営業本部長、会社のルールを破って人の追客中客を強奪して放置する所長とそれに加担する営業本部長、自社が損する嘘をつきまくる営業、「研修」で得意がって嘘教える男、〇日に見積書を持って来てくれと頼んでその日はパジャマで奥にいる人、「下位互換」の会社は立場が弱い、「失投」が来る浜松・掛川・名古屋の営業と「一流投手の会心の球」しか来ない東京・松戸営業所。吾嬬町とは。大正民家園 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/501276979.html
9.墨田区立花の白髭神社。自分が店員に腹立つことがあっても、会社が提携している店と勝手に喧嘩していいものではないであろう。いったん、もめても修復すべく働きかけるのが「営業力」、往復40分歩かせて交通費をけちる会社の判断は間違い。小村井交差点https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/501343357.html
10.亀戸線「小村井」~「亀戸」駅。自分が勤務する新展示場開設に尽力してくれた相手に「すいません」言わない営業・構造安全基準が甘い設計会社・気持ちが落ち着く方法17 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/501359257.html
★ 大聖歓喜天を祀る寺とお堂。
☆ 箕面山 聖天宮 西江寺(大阪府箕面市)参拝 1~4
1.箕面駅前、「日本最初大聖歓喜天出現霊場」碑から西江寺の西側の坂道まで。正反対の性質の心療内科と「精神科」を同時に掲げる「クリニック」の矛盾。ニーチェなどが学ぶべきだと言う心理学と小此木啓吾らのエセ心理学とは別物。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/499514748.html
2.中ノ坂 を登り西江寺まで。箕面の山の地主神の白髪の翁・大聖歓喜天と役行者との出会い。 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/499547852.html
3.石段を登り、右手に天満天神・吉野・吉竹・金毘羅の祠。登り切った正面に大黒堂。「摂津国神宮寺」が神仏分離で西江寺に名称変更。豊島郡片手村から簑面村へ。外界世俗から密教的世界への障害を守護する威力神として大聖歓喜天が祀られる。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/499567214.html
4.大黒堂前から聖天堂。箕面山荘前への山道。弁財天堂。白龍歓喜天。中ノ坂からの眺望。強制労働の「患者」の労働を搾取して、他方で江崎グリコ(株)から内職代を取得する「医者」「病院」は「一粒で二度おいしい」、そんな「江崎グリコを守れ」と主張する者は正義なのか?https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/499590837.html
☆ 聖天宮 西江寺(大阪府箕面市)について
⇒[第476回]《紅葉の箕面 西江寺(さいこうじ)(箕面聖天) と 摂社 天満大自在天神(大阪府箕面市)参拝》https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201611article_5.html
「哲建ルンバ」《箕面山聖天宮西江寺へ行ってきました。~建築探訪・建築巡礼第4回〔引越掲載〕》https://philoarchi2212.seesaa.net/article/201101article_29.html
☆ 金目山 光明寺(神奈川県平塚市) の歓喜堂については、
⇒[第976回]《金目山 光明寺(平塚市)参拝【3/4】大聖歓喜天を祀る歓喜堂。》https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/498407897.html
☆ 飛騨国分寺(岐阜県高山市)については、
⇒[第360回]《飛騨国分寺と三重塔、「和風ドーマー」、ホテルの二重サッシ、飛騨牛中華そば―高山シリーズ第3回(9)》https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201510article_10.html
飛騨国分寺では本堂の中の「一室」で大聖歓喜天が祀られています。

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