平井諏訪神社(江戸川区)ー燈明寺(平井聖天)参拝と合わせて【6/10】江戸川区一の社殿、区登録有形文化財の稲荷社は彫刻がきれい。平井富士塚。

[第1012回]
 東京都江戸川区平井 の 燈明寺の南西側の隣に諏訪神社があります。すぐ隣にあるので、燈明寺と諏訪神社はどちらかがどちらかの「別当寺」「神宮寺」とか、「地主神社」か、そういった関係なのか・・とも思いましたがどうなのか。
 諏訪神社の南西、これは隣接ではなく少しだけ離れていますが妙高寺という日蓮宗の寺があるようですが、これは特に、諏訪神社とどちらがどちらの何ということでもないみたいです・・が、燈明寺と諏訪神社は「隣にあるだけ」なのかどうか・・・。
※ ウィキペディアー諏訪神社(江戸川区)https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AB%8F%E8%A8%AA%E7%A5%9E%E7%A4%BE_(%E6%B1%9F%E6%88%B8%E5%B7%9D%E5%8C%BA)
東京神社庁 江戸川区 諏訪神社 http://www.tokyo-jinjacho.or.jp/edogawa/5583/
猫のあしあと 平井諏訪神社 https://tesshow.jp/edogawa/shrine_hirai_suwa.html
古今御朱印研究所 諏訪神社 https://goshuin.net/suwa-hirai/
※ ウィキペディアー妙高寺(江戸川区平井)https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A6%99%E5%85%89%E5%AF%BA_(%E6%B1%9F%E6%88%B8%E5%B7%9D%E5%8C%BA%E5%B9%B3%E4%BA%95)
※ ウィキペディアー燈明寺(江戸川区)https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%87%88%E6%98%8E%E5%AF%BA_(%E6%B1%9F%E6%88%B8%E5%B7%9D%E5%8C%BA)

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↑ 鳥居の右の石柱に「諏訪神社」と書かれている。
  諏訪神社でいただいた由緒書きによると、
《 「創建」 平井諏訪神社の御祭神は、出雲の大国主神の御子「建御名方神(たけみなかたのかみ)」が奉斎されています。勇壮な御柱祭で有名な信濃国の一の宮諏訪大社の分社で、享保年間(1716~1735)に平井聖天燈明寺の恵祐法印(えゆう ほういん)が、生国である信州の諏訪大明神の神霊をその寺の境内末社としてこの地に勧請したのが当社の創建とされます。 明治5年(1872年)[廃藩置県の1年後、明六社設立の1年前]に下平井村の村社に列せられ、昭和8年(1933年)[満州事変の2年後、5・15事件の1年後]に四所神社(春日明神)を合祀しました。》
とあるので、燈明寺とは「単に隣にあるだけ」ではなくて、燈明寺のお坊さんが生国の信州の諏訪大社の神霊を勧請したことによる神社ということらしい。
  建御名方(たけみなかた)というと、武勇の神ということになっているけれども『古事記』によると高天原からやってきた武御雷(たけみかづち)と武闘派対決やって一瞬にして敗れ去った・・という、プロレスならもうちょっと見せ場を作らんかい、テリー=ファンクでも最終的に負けるにしても、それなりに見せ場作るやろうが・・てものだがプロレスではないしテリー=ファンクでもないので瞬殺で負けてしまったのもしかたがない・・か。
  大国主のもうひとりの息子の事代主の方は武術は全然だめてことから早々と降参・・したように見せて、あとあとまで、うじうじ、いじいじ、うじうじ、いじいじ・・と呪いをかけて復讐を画策したとかいうが、武闘派の建御名方(タケミナカタ)は早々と敗れ去って、そして、信州の諏訪まで逃げていった上で、諏訪盆地から外へは出ませんから許してくださいと命乞いして助けてもろうたとか・・そのあたりは、どうも、武闘派・武断派のわりに、なんというのか、テリー=ファンクみたい・・というのか、なんというのか・・だが、関裕二氏の本を読むと、出雲から日本海沿いに北上して、信濃川河口から川をさかのぼって諏訪湖に至るルート沿いに建御名方(タケミナカタ)を祀る神社が配置されていて、そのあたりから考えて、建御名方(タケミナカタ)にはモデルがあって、高天原の勢力が攻めてきて、それに対抗した出雲の勢力が戦いながらも日本海沿いに北上して、信濃川の河口から内陸に入って、最後、諏訪湖のあたりにたどり着いたのではないのか、という話はありそうにも思える。タケミナカタのモデルとなった勢力は一瞬にして敗れ去ったのではなく、戦いながらも日本海沿いに敗走して信濃川河口から内陸部に入り諏訪湖までだとりついた・・ということはありそうにも思える。
  そうなると、ヤマタノオロチというのは「コシのヤマタノオロチ」と言われていたが、この「コシ」とはどこのことなのか、井上光貞『日本の歴史 1 神話から歴史へ』(中公文庫)では、越前・越中・越後(福井県・石川県・富山県・新潟県)の「コシの国」だとすると、その時代においては出雲からあまりにも遠すぎるので越前・越中・越後の「コシの国」のことではないだろうと推測しているが、タケミナカタ(のモデルとなった勢力)が出雲から日本海沿いに北上して信濃川の河口から内陸部に入って諏訪湖まで行ったというのが実際にあったことならば、「コシの国」から来るヤマタノオロチのモデルとなった者の「コシの国」は越前・越中・越後の「コシの国」(福井県・石川県・富山県・新潟県)であるという可能性もないとは言えないかもしれない。
古事記 (岩波文庫) - 倉野 憲司
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信濃が語る古代氏族と天皇 善光寺と諏訪大社の謎(祥伝社新書) - 関裕二
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日本の歴史〈1〉神話から歴史へ (中公文庫) - 光貞, 井上
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  鳥居をくぐってすぐ左に江戸川区教育委員会による説明書きが立っています。
《 境内中央の社殿は、昭和42年(1967年)に明治百年を記念して建てられ(昭和44年〔1969年〕完成)その旧本殿が境内北隅に移築されています。》
とある。
  諏訪神社でいただいた由緒書きには、
《 昭和四十二年(1967年)8月から、明治百年を記念して氏子の浄財を以て現在の社殿、神楽殿、前神楽庫等を造営しました。社殿の規模は江戸川区一と評されています。》
と書かれていますが、「江戸川区一」というだけあって、けっこう大きな社殿です。
  1967年(昭和42年)というと、1964年(昭和39年)の東京オリンピック・東海道新幹線開通・名神高速道路開通の3年後、1970年(昭和45年)の大阪万博(大阪万国博覧会)の3年前、東京オリンピックと大阪万博の中間の年から初めて、大阪万博の前年の1969年に完成したらしい。

  旧社殿の方は
《 天保十四年(1843年)の再建で、外壁彫刻が江戸後期の神社建築の過飾的な特色をよく伝えています。》
と入口左の説明書きには書かれており、「江戸川区登録有形文化財」に指定されているそうです。
  由緒書きによると、江戸川区登録有形文化財の指定を受けたのは、昭和58年(1983年)・・というと、阪神タイガース優勝・日本一の昭和60年・1985年の2年前・・といっても東京の人間にとっては「そんな年、どうでもええ」かもしれんが、関西人にとっては「聖なる年」であるから、関西人にとっては1985年(昭和60年)の2年前というのはわかりやすい。・・なにしろ、阪神にゃんこ というのは2位とかはけっこうなっているけれども、優勝は数えるほどしかない、藤本定義監督「おじいちゃん」の時に2回、1985年に吉田監督の時に日本一になったら、その後は2003年に星野の時に1回、2005年、岡田が監督の時に1回と、それだけ。日本シリーズでも勝って日本一というのは、2023年は可能性がありそうだが、これまではこの1985年(昭和60年)しかないのだ。
  その「聖なる年」の2年前に旧社殿は江戸川区登録有形文化財の指定を受けたらしい。

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↑ 平井諏訪神社 1967~1969年に建てられた、「江戸川区一と評されている」という 新社殿
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↑ 新社殿神楽殿(左)
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↑ 神楽殿。
  祭神はタケミナカタ(建御名方)だけれども、春日明神が合祀されているというのは、タケミナカタと春日大社はどう関係あるのか・・というと、タケミナカタと春日大社の関係からではなくて、
《 明治5年(1872年)に下平井村の村社に列せられ、昭和8年(1933年)に四所神社(春日明神)を合祀しました。》と由緒書に書かれており、近所の四所神社で祀られていた春日明神を合祀した、というご近所さんのつながりによるものらしい。
  鳥居をくぐってすぐ左の説明書きを見ると、
《 本殿には当社創建以前より下平井村の氏神であった旧平井三丁目鎮座の四所神社(春日明神)を昭和8年(1933年)に合祀し、その例祭日である1月11日に四所神社祭が斎行されている。》
と書かれている。平井諏訪神社がある場所は平井6丁目17-36ですが、四所神社があったという平井3丁目は現在の住居表示ではJR総武線「平井」駅のすぐ南のあたりですが、そのどこかはわかりません。
  1933年(昭和8年)というと、「人、苦しみ苛む(1931)満州事変」満州事変の1931年の2年後、「ひどく醜い(1932)、5・15事件」の1932年の1年後。・・そういえば、5・15事件の時に犬養毅が「話せばわかる」と言ったというのが私なんか子供の頃には民主主義の象徴的発言のように言われたもので、「そうかあ」「なるほどお」とか思ったものだったが、しかし、職場には「話せばわかる」なんて通じないオバハンとか棲息しているし、又、「鳴かぬなら鳴かせてみせよう、ホトトギス」なんて思って努力して苦労しても通じないじいさん・・てのも棲息しているので、そこが職場でなかったなら、そういう人とはつきあわないようにするということができるのだけれども、職場の場合はそういかないので苦労する。「殴られないとわからん人」というのが現実にいるのだけれども、だからといって「殴る役」させられるのは嫌だな・・と思い、俺はその役やるのん嫌やから、誰かその役やらんかなあ・・とか思っていると誰もが同じことを思っていたりとか・・・😞

  新社殿の右側を奥に進むと、末社の稲荷神社があります。↓
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摂社と末社はどう違うのか・・、長屋住まいの神さんが末社で戸建の祠におられる神さんが摂社か・・というと、そうでもないみたいで、ここは戸建ての祠におられて、しかも、畏れ多くも「江戸川区指定登録有形文化財」の祠におられますが、鳥居をくぐってすぐ左の説明書きには
《 旧本殿が、末社稲荷神社(白崎稲荷、伝十郎稲荷)として奉斎されている。》
と書かれており、「東京都神社庁 平井諏訪神社」http://www.tokyo-jinjacho.or.jp/edogawa/5583/ にも「末社」のところに稲荷神社は書かれています。
  ↓ ↓ ↓ ↓
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  《 天保十四年(1843年)の再建で、外壁彫刻が江戸後期の神社建築の過飾的な特色をよく伝えています》という江戸川区指定登録有形文化財の指定を受けている 旧本殿の建物であるけれども、規模はそう大きくない建物で、全体を見ても特別の形状でもないのですが、よく見ると「江戸後期の神社建築の過飾敵な特色」というのか、彫刻による装飾が並ではない。↓
稲荷神社の脇にも説明書きがあり、
《 建築様式は一間社流れ造で、外部に施された彩色の装飾彫刻は江戸時代後期の神社建築の特色をよく表しています。なかでも、向拝(こうはい)紅梁に巻きつく龍や木鼻(きばな)に施された籠彫りの唐獅子などに精緻な彫刻技術を見ることができます。》
と書かれています。
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(写真はクリックすると大きくなりますから、大きくして見てください。↑ ↓ )
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 ↑ 平井諏訪神社の旧社殿は拝殿と本殿があったが、この稲荷神社の社殿として使われている祠は本殿の方で、拝殿の方は《 拝殿は松江1-1-7に鎮座する稲荷神社(赤稲荷)の社殿として移築されています。 平成27年(2015年)5月 江戸川区教育委員会》と出ています。 地図で見ると、「赤稲荷」は江戸川区役所の前を南に行ったあたり、首都高速道路小松川線の下の北側にあるようです。

  諏訪神社の社殿に向かって左側に、「平井の富士塚」があります。↓
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  平井諏訪神社でいただいた由緒書きには、末社として、浅間神社・水神社・八幡神社・小御嶽神社(こみたけじんじゃ)があると記載されており、摂社なのか末社なのか、御本社の右奥に旧本殿が移築された稲荷神社がありますが、末社としての浅間神社がこの「平井の富士塚」のようで、鳥居を入ってすぐ左の説明書き板に記載の境内地図によると、水神社・八幡神社・小御嶽神社もここで祀られているようです。
   富士塚の手前に江戸川区教育委員会による説明書きがあり、
《 富士塚は富士信仰の団体である富士講の人たちが富士山の容姿をかたちどって築きあげた小高い塚です。富士山に登ったのと同じ霊験が得られるようにと願って築かれました。》
と書かれています。
《  平井の富士塚は、大正9年(1920)ごろ、旧下平井村の丸星講(まるぼしこう)の人たちによって造られました。登山道が二つに分かれ、一本は頂上に、もう一本は中腹の小御嶽神社に通じています。
頂上の石祠には、大正9年(1920)の造立銘があり、小御嶽神社の前には、丸富の講紋と、「小御嶽神社」と刻まれた石祠があります。塚の高さは約1.5メートルです。
  境内の絵馬堂の内壁には、丸富講が大正2年(1913)に奉納した絵馬があります。
   平成14年(2002年)1月 江戸川区教育委員会 》
と書かれています・・・が、そうなっているのかどうかはよくわからなかった。もう一度、行けることがあったらよく見てきたいと思う。
末社の小御嶽神社はこの「平井の富士塚」の中腹にあるらしい。

  タケミナカタ(建御名方)は『古事記』ではタケミカヅチ(建御雷)に武闘派対決で敗れて諏訪湖まで逃げていったことになっているが、戸部民夫『日本の神様がわかる本』(2005.1.5. PHP研究所)には、
《 『古事記』ではオオクニヌシ命の息子とされ、豪腕の持ち主として「国譲り」のときに最後まで抵抗。アマテラス大神(おおみかみ)が派遣した武神・タケミカヅチ命と対決して敗れ、信濃国に逃れて諏訪湖のほとりに隠棲した。
  これに対して、諏訪地方に伝わる縁起譚である『諏訪大明神絵詞』(延文元年=1356成立)には、タケミナカタ神がこの地に来て、先住の地主神(じぬしかみ)や諏訪湖の竜神などの神々を征服して鎮座したとある。》
とある。 戸部民夫は《 敗者のイメージは神話的な創作であって、この神の原像は、諏訪地方で古くから信仰されていた地方神と考えられている。》と述べるが、関裕二氏は、出雲で高天原の勢力との戦いに敗れたタケミナカタの勢力は、その後も戦いながら敗走して日本海沿いに北上し、信濃川の河口から信濃川沿いに上流に進み、最後、諏訪湖のほとり、諏訪盆地にたどりついたのではないか。そこで諏訪盆地に元から存在した勢力と対決して住み着いたのではないか、と推測している。諏訪神社には上諏訪神社と下諏訪神社があるが、これも、もしかすると、他からやってきたタケミナカタの勢力を祀る神社と地元の勢力の神の神社だったということはないか、という可能性を考える。
  戸部民夫『日本の神様がわかる本』(2005.1.5. PHP研究所)には、
《 諏訪大社にはかつて風の平穏を祈る風祝(かぜはふり)が置かれていた。タケミナカタ神は、もともと山の神・水源の神(田の神)・風の神として狩猟や農耕生産を見守ってきた神である。
  武神という華やかな性格を一面にもつものの、本質的には農業神的な性格が中心の神様といえる。・・》
と書かれている。
[完全保存版]日本の神様がわかる本あの神様の性格・あの神社のご利益が一目瞭然 - 戸部 民夫
[完全保存版]日本の神様がわかる本あの神様の性格・あの神社のご利益が一目瞭然 - 戸部 民夫
  三橋健(みつはし たけし)『図説 あらすじでわかる! 日本の神々と神社』(2010.5.15.青春出版社 青春新書)にも、
《 古来より武勇の神、軍神として仰がれ、神功皇后が三韓へ赴いた際や坂上田村麻呂の東国平定に神威をあらわしたとされる。鎌倉時代以降は源頼朝をはじめ、北条、足利、武田、徳川などの武家が武運や国家安泰を祈願した。
  もとは山の神、風の神、水源の神でもあり、狩猟や農耕の守護神ともいわれる。
  一方、后神の八坂刀売神(やさかとめのかみ)は神話には登場せず、神名の「八坂」は坂の多いさまを意味することから、山が多い諏訪の土着の神ともいわれる。》
と書かれている。

  《 諏訪大社は、諏訪湖の南北に二社ずつ都合四社より構成されるという特殊な形態で、祭祀も特徴的である。分社は全国に一万有余社を数え、「お諏訪さま」と親しまれている。》(三橋健(みつはし たけし)『図説 あらすじでわかる! 日本の神々と神社』2010.5.15.青春出版社 青春新書)
《 諏訪大社は諏訪湖を挟んで上社(かみしゃ)(本宮 ほんみや・前宮 まえみや)下社(しもしゃ)(春宮 はるみや・秋宮 あきみや)に分かれており、タケミナカタの妃であるヤサカトメも祭神として祀られている。・・・》(日本の神社研究会『日本の神社百選 一度は訪れたい古代史の舞台ガイド』(2018.5.24.宝島社新書)
 と、諏訪大社は、上社と下社の2社、あるいは上社本宮・上社前宮・下社春宮・下社秋宮の4社に分かれている。
  伊勢神宮は内宮と外宮からなり、内宮は皇祖神アマテラスを祀り、外宮は食事係の神の豊受の大神を祀っていて、内宮と外宮は同格と言われているけれども、皇祖神と食事係の神さんが同格というのも、なんか変な話だ。村上重良『国家神道』(岩波新書)では、大和朝廷が伊勢地方に進出した際に、伊勢地方の民と調和してやっていくために、大和朝廷の神を内宮で祀り、伊勢地方の民の神を外宮で祀り、大和朝廷の神と伊勢地方の民の神が同格ということにしたのではないか、と推測している。諏訪大社に上社と下社があるというのも、それと似たような性格があるということはないか。
  ひとつの可能性としてだが、元々は《山の神・風の神・水源の神》で《狩猟や農耕の守護神》だった神を祀っていたこの地の土着の民の所に、「高天原」の勢力に追われた出雲のタケミナカタの勢力が戦いながら敗走してたどりつき、この地の民と戦って住み着いたが、その後も、外来のタケミナカタの勢力とそれより前からの勢力とが時に融合しながらも時に争って並存してきた、その両勢力が上社と下社・・とかいうことは可能性としてありうることかもしれない。神社としても、元からの《山の神・風の神・水源の神》で《狩猟や農耕の守護神》と外来のタケミナカタの勢力の《武勇の神、軍神》としての性格とが融合しながらも、両者の神が時に対立もするという状態で続いてきた・・ということは可能性としてありそうとも思える。
  伊勢神宮の場合、内宮と外宮という2つとともに、伊勢湾を隔てて、熱田神宮と伊勢神宮という対置というものもある。伊勢湾という海を挟んで北に熱田神宮、南西に伊勢神宮があって、南西の伊勢神宮には内宮と外宮がある。諏訪大社は諏訪湖という湖を挟んで北に下社があって、秋宮と春宮がある。諏訪湖の南東に上社があり、諏訪湖に近い位置に本宮、諏訪湖から東側、遠い方に前宮がある。下社と上社それぞれに2つあるが、片方は春と秋で、片方は前宮と本宮。伊勢湾を隔てて、熱田神宮と伊勢神宮があって伊勢神宮には内宮と外宮があるという配置と、諏訪湖を隔てて下社と上社があって、下社には秋宮と春宮、上社には本宮と前宮があるという配置は、なんか似ているようにも思えるのだが、どうだろうか。
図説 神道の聖地を訪ねる! 日本の神々と神社 (青春文庫 み- 23) - 三橋健
図説 神道の聖地を訪ねる! 日本の神々と神社 (青春文庫 み- 23) - 三橋健
カラー版 日本の神社100選 一度は訪れたい古代史の舞台ガイド (宝島社新書) - 日本の神社研究会
カラー版 日本の神社100選 一度は訪れたい古代史の舞台ガイド (宝島社新書) - 日本の神社研究会
国家神道 (岩波新書) - 村上 重良
国家神道 (岩波新書) - 村上 重良

  島根県には須我(スガ)神社があり、千葉市中央区には蘇我(ソガ)神社がある。スサノオのみこと の「スサ」「スガ」「ソガ」、それに諏訪大社の「スワ」は共通した言葉で、海や湖の砂浜を意味する言葉・・ということはないか・・・。ありそうに思うが・・。

  次回 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/501232436.html は、平井橋から墨田区側に旧中川を渡ります。

  (2023.10.24.)

☆ 燈明寺(平井聖天)〔東京都江戸川区平井〕参拝
1.平井駅から蔵前橋通りを横断し、諏訪神社の前を通って燈明寺へ。計画性のないチムニー(株)「ファーストグルメ」平井店。「(一条工務店の某営業のように)郵便物を盗むことは犯罪行為です 小石川警察署・・」。「無責任の体系」のチムニー(株)の面接。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/500980727.html
2.門をくぐり正面に聖天堂、右手に金堂。門の内側右に弘法大師像? 左に水子地蔵。「子供」を大義名分にかかげれば何でもまかり通ると考える「子供」帝国主義の女とその夫に殺されたわが子の恨みをはらしていただくよう、水子地蔵様に祈願してきました。反社会的勢力雇用均等室を叩き潰せ! https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/501018586.html
3.門から入り、左に鐘楼、正面に聖天堂・右に本堂。「裏でなく 正門で入ろう 大学は」。八百長医者屋民族の嘘。この人間がこう言ったら実態はこんな感じかと推測するか、言った通りと推測するか。父親がなかったから父親がいるとどんなに大変か理解できないバカ女症候群。 
4.「歓喜堂」「聖天堂」。RC造の1階の上の「歓喜堂」「聖天堂」。聖天堂から見た鐘楼・本堂。大聖歓喜天・ガネーシャとは。冠をつけている方が観音で足を踏まれている方が歓喜天なのか、両方が大聖歓喜天なのか。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/501111583.html
5.不動明王を祀る本堂。不動明王とは。真言宗の新義と古義の経緯とは。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/501141339.html
6.平井諏訪神社。江戸川区一の社殿、区登録有形文化財の稲荷社は彫刻がきれい。平井富士塚。〔今回〕
7.旧中川にかかる平井橋・荒川放水路で分断された中川・高校教諭は親に苦しむ生徒に助力するものと違うのか・「両親が離婚した」娘はみんなでほめなきゃならんのか・「両親が離婚した」らエライのか・「京大でも通りました」と母親が言ってまわる阪大生には何かしてあげるべきなのか・クロマティ高校卒の男は浪人する権利があるのか・あまりにも「一番」追いかける人は、結局、何がやりたいのか?・おばさんの似顔絵入りウチワと30代の女がおっさんに「握手しましょ」はどっちが「利益供与」か https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/501232436.html
8.同僚を営業本部長に讒言する男とそれをきく営業本部長、会社のルールを破って人の追客中客を強奪して放置する所長とそれに加担する営業本部長、自社が損する嘘をつきまくる営業、「研修」で得意がって嘘教える男、〇日に見積書を持って来てくれと頼んでその日はパジャマで奥にいる人、「下位互換」の会社は立場が弱い、「失投」が来る浜松・掛川・名古屋の営業と「一流投手の会心の球」しか来ない東京・松戸営業所。吾嬬町とは。大正民家園 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/501276979.html
9.墨田区立花の白髭神社。自分が店員に腹立つことがあっても、会社が提携している店と勝手に喧嘩していいものではないであろう。いったん、もめても修復すべく働きかけるのが「営業力」、往復40分歩かせて交通費をけちる会社の判断は間違い。小村井交差点https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/501343357.html
10.亀戸線「小村井」~「亀戸」駅。自分が勤務する新展示場開設に尽力してくれた相手に「すいません」言わない営業・構造安全基準が甘い設計会社・気持ちが落ち着く方法17 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/501359257.html 

街の達人 東京23区 便利情報地図 (でっか字 道路地図 | マップル) - 昭文社 地図 編集部
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