旧中川にかかる平井橋・荒川放水路で分断された中川・高校教諭は親に苦しむ生徒に助力するものと違うのか・「両親が離婚した」娘はみんなでほめなきゃならんのか・「両親が離婚した」らエライのか・「京大でも通りました」と母親が言ってまわる阪大生には何かしてあげるべきなのか・クロマティ高校卒の男は浪人する権利があるのか・あまりにも「一番」追いかける人は、結局、何がやりたいのか?・おばさんの似顔絵入りウチワと30代の女の「握手しましょ」はどっちが「利益供与」か―燈明寺・諏訪神社から【7/10】
[第1013回]
江戸川区平井 の燈明寺と諏訪神社の前の道を南西に行って右折すると、「旧中川」を渡る平井橋に出ます。↓

「中川」は、今ではいくつかに分断されています。埼玉県吉川市と越谷市・三郷市と草加市の間を南下してきた中川は東京都に入ると、水元公園の西のあたりで葛飾区と足立区の間を南下し、葛飾区で京成電鉄の「青砥(あおと)」と「高砂」の間で鉄橋の下を流れてすぐの所で、南西に行く「中川」とまっすぐに南下する「新中川」に分かれますが、まっすぐな経路の「新中川」は、洪水防止のために人工的に造られた放水路で、「中川」の方が元からの中川だったのではないか。その「中川」は「青砥」付近より下流はけっこう幅の広い川ですが、くねくねと曲がっています。
1980年代後半、交通誘導のガードマンのアルバイトをやったことがあり、その頃、千葉県の行政区画だと流山市、最寄り駅だと常磐線の「南柏」が最寄り駅の所に住んでいたが、常磐線の「綾瀬」から総武線の「新小岩」行きのバスに乗って途中のバス停で降りた所の近所のマンションの工事に行ってくれと言われて、それも、特に早朝から始まる工事現場だったので、前日に新帝国警備保障(株)の松戸支社に停まった上で行き、帰りも、同じルートでバスで返りましたが、ずいぶんとかかりました。
たしか、そのルートだったように思うのですが、もしかすると、それよりひとつ東側のルートだったかもしれません。今となってはどこだったか正確にはわからなくなってしまいましたが、その時、帰りに通った道でバスの窓から見た中川は、曲がりくねりながら流れる太い工場地帯の中の川でした。
そのマンション工事のガードマンをしていた時、近所の戸建住宅の家の、まだ幼稚園にも行っていないような女の子が来て「☆☆がいないよお」と言って泣きそうな顔して言うのでしたが、まだ、きっちりと言葉も話せないくらいで、誰を捜しているのかもよくわからず、対応に困り「どうしたんだろうねえ」とか言っていたのですが、そのうち、「いたあ♪」と言って大喜びで報告に来ました。2つほど年上の姉がいたらしく、その姉が道の角を曲がったあたりにいたらしかったのですが、「よかったね」と言うと、うれしそうに「うん」と言ったのはいいけれども、しばらくすると戻ってきて「☆☆がいたよお~お」と言い、「こっち来てえ」言って一緒に来てもらおうとするので、俺は関係ないだろうが・・と思い、ガードマンは持ち場を離れるわけにはいかないんだよと思ったのでしたが、「こっち来てよお」と言ってズボンのすそをつかみ、手をつかもうとして一生懸命飛び上がるのでしたが、せっかく、来てくれと言ってくれるのでしたが、ガードマンが持ち場を離れて子供の相手をするわけにもいかないので、どうもできませんでした。帰る際、黙って帰ってしまうと、また「いないよ、いないよ」とか言うかなと思ったりもしましたが、子供に挨拶して帰るのも変な話なので黙って帰りましたが、まあ、好かれてもあまり意味のない年代の女性によく好かれるものでした。
普通、交通誘導のガードマンは昼の勤務は午前8時00分から午後5時00分までなのですが、その工事現場は特別に通常より2時間だったか早く開始ということで、少々無理をして行ったのでしたが、もうひとり、その工事現場に来ていた人から「正社員の人なんですか」ときかれ、「いや、アルバイトです」と言うと、「アルバイトなのに、なんで、こんな早くから始まる現場に遠くから来たんです?」と言われました。うちの父親は私が子供のころから、「会社のためなら死んでも働く、死ぬほど働く、会社のために犠牲になる、会社のために犠牲になって死ぬほど働く、会社のために死んでも働く、会社のために不可能なことでもする、会社のために」と家で叫びまくっていた男でしたので、いつの間にか、その影響を受けてしまっていたようで、「正社員」として勤めてからも、職場で、日本ではそうするものなのかと思ってやったら、ふと気づくとそんなことやっているのは自分ひとりだけだった〔⇒《YouTube-24時間戦えますか?》https://www.youtube.com/watch?v=VHYFDipo5Kc 〕、ということが何度もありました。ぼくはもしかして、あほと違うかいなあ、あほと違うかいなあ・・と思ったら、やっぱりあほやった・・という経験を何度もしてきました。
その「中川」は南西の方向に流れていって「荒川」のあたりに行くのですが、「荒川」とは合流せず、「荒川」の東側に並行して南に流れている荒川より川幅が細い川になります。それも名称は「中川」ですが、曲がりくねっていた中川が荒川の手前で荒川と並行する直線の川になる所で、北から荒川と並行して流れてきた綾瀬川と合流します。 JR総武線の窓から外を見ていると、荒川とその東側の荒川より細い川の間に細長い州があって、その上に高架で首都高速道路が走っているのが見え、クルマを運転してそこを走ると、走行面の下がどうなっているかなんてわからないのだけれども、総武線の窓から見ると、あれ、大丈夫か・・地震が来て揺れた時にひっくり返らないか、たとえ高架がひっくり返らなくても、上のクルマが振り落とされて川に落下したりしないか・・・と不安を感じますが、最初に見た時から今日に至るまで、地震で揺れて上のクルマが川に落下したということは、今までにはないみたいです。その川が「中川」です。
それで、青砥あたりから曲がりくねって流れてきて、荒川の手前まで「中川」は流れてきたけれども、その延長上のような所から南西に流れる「旧中川」という川もあるのです。これは、現在は埼玉県の三郷市と八潮市の間を流れてきた中川の水が流れているのではなく、荒川の水が、木下川水門・木下川排水機場という所から「旧中川」に流れてきています。
なぜ、そうなったかというと、現在、平井の東、新小岩の西を北から南に流れている太い「荒川」は、実は正確には「荒川放水路」で人工的に造ったものらしく、埼玉県の秩父のあたりにも「荒川」という川があるので、その荒川が平井の東、新小岩の西のあたりまで流れてきているのだろう・・として、「は~るの~、うらあらあの~、す~み~だ~が~わ~♪」の隅田川というのはどこから流れてきているのだろうか・・・と思ったものでしたが、どうも、元々は埼玉県の秩父山渓から流れだした荒川は、東京都に入った下流では隅田川という名称に名前を変えて東京湾まで流れていたらしく〔琵琶湖から流れ出した瀬田川は滋賀県内では瀬田川だが、京都府に入ると宇治川になり、京都府と大阪府の境目あたりで北から流れてきた桂川と南から流れてきた木津川と合流して淀川と名乗るように、上流では荒川と言っている川を下流で隅田川と言っていたらしい〕、大雨・台風などの際の洪水被害を防ぐために、バイパスとして「荒川放水路」を人工的に造ったらしく、最初は上流が「荒川」で、下流は「隅田川」と「荒川放水路」だったらしいが、そのうち、「荒川放水路」は長くて言いにくいので、下流も単に「荒川」という言い方が広がった、ということらしい。 その「荒川放水路」が人工的に直線で設けられた際に、元から流れていた「中川」の水路を分断したらしい。鉄道なら立体交差とかできるでしょうし、道路なら立体交差も交差点で横切ることもできるでしょうけれども、川の場合はそうはいかないので、中川が「荒川放水路」にぶつかる所から「荒川放水路」の東側を「荒川放水路」と並行して南に流れて江東区東砂と江戸川区西葛西の間で、その「しきり」がなくなって合流して「荒川」となって東京湾に至るようになったらしい。 しかし、そうなると、「荒川放水路」より西にあった方の「中川」は水が流れてこなくなるのだが、そこに「木下川水門」「木下川排水機場」で「荒川放水路」から水を入れて「旧中川」という名前にして川が存続している・・・ということらしい。
そういうことからか、「中川」というから、かつて、新小岩から綾瀬まで走っていたバスで平和橋からだったか本奥戸橋からだったか見た「中川」とか京成電鉄の「青砥」のあたりの中川とは、現在の平井橋の所のあたりの「旧中川」はずいぶんと感じが違う。↓

↑ 平井橋より「旧中川」の上流側を見る。

↑ 平井橋より「旧中川」の下流側を見る。
都市部の川は下流側に行くほど、「工場地帯の川」「散策するような川ではない川」になっていくという印象があるのですが、「荒川放水路」で分断された下流側の「旧中川」は、上流側の「中川」が「工場地帯の川」「散策するような川ではない川」であるのとは対照的で、遊歩道もあって、静かな流れの「うららかな川」「川辺を散策したくなる川」です。「旧中川」はこの下流はどこに行くか地図で見ると、江東区大島の南で小名木川と合流し、その南、江東区東砂の東で「荒川放水路」に再び合流するようです。
平井橋を渡った所から平井橋の方を見ると、↓

↑ 平井橋を渡ってすぐの交差点が「平井橋西」交差点と言うらしく、平井橋の右(下流側)の建物は交番。平井橋交番と言うらしい。その隣
の建物は公衆便所。 交番と公衆便所はそっくりだという説があるけれども、私がその話を最初に聞いたのは、1980年代、朝日新聞の販売店で新聞配達の仕事をしていた時に、新聞の配達をやっていて大小便をしたくなった時にどうするかという話が配達員の人の間で出て、夕刊の時はまだしも、スーパーとかホームセンターとか、あるいは市役所・公営図書館・公民館・公営体育館とかいった公営施設とかそういった所で借りられることがあるが、朝刊の配達の時間には、そういった施設は閉まっていることが多いので借りられない。24時間、空いている所として、なおかつ、どこにでもあるものとして「交番」というものがあるのだが、ところが、交番に行ってトイレを貸してほしいと言っても、交番は絶対に貸してくれないというのだ。「なんで、貸してくれへんねん。おまえのもんと違うやろうが。貸しても減るもんと違うやろ。警察は市民の緊急事態のために存在するんやろ。市民が緊急事態で困ってるのに貸さんとは、それでも公僕か」とか、あんまりそういうことをしつこく言って、公務執行妨害とか言われても困るのであきらめるらしいが、交番はトイレを貸してほしいと言っても、まず貸してくれないらしい。
その際、ある男性が「交番はトイレを貸してと頼んでも貸してくれないけど、なんでか、知ってる?」と言い、「なんでなんですか」と言うと、「だって、便所じゃないもん。公衆便所とそっくりだけど」と言うのでした。それで、それまで、たいして気にしてなかったけれども、そうなのか? ・・と思って、その後、交番と公衆便所があると見比べるようになったが、言われてみると、似ていると言えば似ているようにも思える建物がけっこうある・・が、その建物にもより、又、よくよく見ると違いはある。
1.公衆便所は男女別に入口が2つあることが多いが交番はそうではない。
2.公衆便所は外から見られないように窓は高い位置に、かつ、外から侵入されないように横長の窓であることが多いのに対して、交番は窓については普通の形状の窓であることが多い。
3.交番は独立した建物の場合は2階建てであることが多いのに対して、公衆便所は独立した建物の場合は平屋が多い。
4.又、交番は市民から襲撃された場合に防御できるように頑丈な造りで、交番によっては窓の内側に鉄格子が入っていたりするが、公衆便所を襲撃する人はあまりないので、公衆便所はそんなに頑丈な造りではない。
5.交番には市民を監視するために周囲の道に向けて監視カメラがついていることがしばしばある。
・・このような違いがある。
こういうことを思って見ると、交番と公衆便所が隣り合わせに建っている所がけっこうある。交番というのは、トイレを貸してほしいと言われることがあって、なおかつ、無暗に交番の業務と関係のない人を入れたくないという事情があるので、それで、交番にトイレを貸してほしいと言う人が来た時には「そこにあります」と言って公衆便所の方を使ってもらえるように、意図的に隣に造っているのかもしれない。
・・で、ここも、平井橋交番の隣にあるのが公衆便所。↑ ↓

↑ 左が平井橋交番で、右が公衆便所。
この「旧中川」を境にして、左岸側が江戸川区、右岸側が墨田区で、もう少し下流に行くと右岸側は江東区になるのだが、江戸川区と墨田区・江東区の境は川幅が広い荒川ではなく、平井のあたりだけ荒川より西に江戸川区が突き出しているが、どうしてだろうと思っていたが、荒川は後から人工的に設けた「荒川放水路」で、このあたりでは、人工的に後から設けた「荒川放水路」ができる前に、自然に存在した中川(現在では下流側は「旧中川」)を境にして、中川より東を江戸川区・中川より西を墨田区・江東区としたようだ。
この平井橋を渡る手前、燈明寺や諏訪神社がある側、JR総武線「平井」駅がある側で、なつかしいと言えばなつかしいものを見た。↓

↑ 松島みどり さんの選挙ポスターを最初に見たのは亀戸の付近だったように思う。墨田区あたりで自民党から選挙に出るということでのもので、その時は小泉純一郎が総理大臣だった・・・が、この人はどういう意味で「なつかしい」人だったかというと、1970年代なかば、たしか、私が北野高校に入学した年にこの人は卒業した人で、同じ時期には北野高校には通学していなかったはずだが、文化祭で講演に誰かに来てもらおうという話が出た時に、呼びたい人の希望をきくと、卒業生では手塚治虫(漫画家)とか森繁久弥(俳優)とか野間宏(作家)とか、そういった有名人の名前が出ることが多かったのだが、「松島みどり」なんて名前が出ていたので、「松島みどり て、いったい誰なの?」と同じクラスの人間に尋ねたところ、「前の自治会長らしい」ということだった。
この人は、北野高校を卒業した後、京大・阪大には何人も合格者を出している北野高校を卒業した後、1浪で東大の文科一類だったかに合格して行った人で、「現役で東大合格」と聞いていたのだったが、どうも実際は「1浪で東大に合格」だったらしい。北野高校に在学中、自治会長をやっていたらしく、どうも、そういうのが好きな人だったらしい。東大に合格して入学するとチアリーダーとかいうのをやって「週刊文春」のグラビアに載ったり、まあ、悪いとは言わんが、そんな感じで目立つのがけっこう好きな方の人だったみたい。私はこの人と同じ時に北野高校に通学していた年はないが、妹さんがいて、妹さんも自治会の副委員長だかをやっていて、おられたのを知っている。
後になって考えてみると、「京大・阪大には何人も合格者を出している高校だが東大の合格者はそれほど多くない高校から東大現役合格」と聞いていたので、そうなのかと思っていた者からすると、「実は1浪でしたあ」というのは、なんか騙されたような感覚がある。「東大現役合格かと思ったら、なんや、浪人しとったんかい」・・( 一一) しかも、ウィキペディアー松島みどりhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B3%B6%E3%81%BF%E3%81%A9%E3%82%8A を見ると「東京大学経済学部卒業」と書いてあり、「””東大文一現役合格””みたいに聞いてそうかと思うておったら、なんや、浪人した上で文一(文科一類)やのうて、それよりいくらか易しい文二(文科二類)かい」・・・( 一一) 私がこの人から直接騙されたとかいうことでもないが、なんか、伝わっていた話と違うやんけ・・・( 一一)
1970年代後半、私が1浪だった時に、北野高校に行った際に、2年の時に担任だった旧姓作野礼子(女。当時、20代。北野高校卒⇒神戸大文学部卒)から「私なんかは家が貧乏だったから、浪人なんか、とんでもなかったわよ」とか言ってずいぶんと責められたものだった。私が高校3年の時には、うちの母親から「現役で大学に通ったら思いあがった人間になって女を泣かせる男になるから、こいつ、絶対に落としてやるんや、こいつう」と言われ、夜、私が家で学習していると、後ろからやってきて服の襟のあたりをつかんで「こいつ、落ちろお、こいうつう!」と言って背後にひっくり返し、洗面所にあった分電盤で私が使用していた部屋の電気のブレーカーを落として照明がつかないようにして学習できなくし、又、高校から帰るとインタホンのソケットを抜いてならなくして、門灯も消し、雨戸はすべて閉めて玄関扉の鍵もかけて中に入れないようにして学習できないように妨害したものだった。うちの父親は、私が北野高校に入学した時に、1年の時の担任のO田先生が「北野高校の場合は、運動部に在籍した生徒とそうでない生徒とを比較して、進学成績に差はない」と話されたのを聞いたこともあり、最初、野球部に入ったのだったが、うちの父親が「野球部とかサッカー部とかラグビー部とかにいて東大とか京大とか阪大とかに通ったという人間は全員が浪人です。うちは浪人なんかさせるつもりはありません」と言うので、「そんなことないようですよ。北野高校の場合は野球部とかラグビー部とかサッカー部とかにいて現役で東大とか京大とか阪大とかに現役で何人も通っているようですよ」と言っても言っても「絶対にそんなことありません。そいつらは全員が浪人です」と言ってきかず、そのうち、「野球部の監督に怒鳴り込んだる」とか言い出して、本当にやりそうだったので、しかたなしに退部したということがあったが、その父親が私が高校3年になると、なんと「浪人した人間の方が社会で役に立つ。あんた、浪人しなさい」などと言いだした( 一一) よく言うよなあ・・と思ったし、「浪人した人間の方が社会で役に立つ」とはどういうことなんだ・・と理解に苦しんだし、又、うちの母親が「現役で大学に行った人間は甘ったれてるから、浪人した人間の方がいい」と言うのだったが、なんで、努力して現役で大学に通った人間が「甘ったれてる」で、現役で大学に合格できるように学習しなかった人間が「甘ったれてる」ではなく「甘ったれてない」「苦労を知っている」ということになるのか、逆と違うのかと理解に苦しんだが、「そうは思いませんけれども」と言っても理解してもらえなかった。そして、「こいつ、ずえったいに落としたるう、こいつう~う」と言って、私が机に向かって学習していると、ホウキとかを持ってきて「こいつめえ。落ちろ、こいつう、落ちろお~お!」と叫んで背後からボコボコ殴りつけたものだった。よその家でもこういうことをやっているのだろうか? ・・と思ったが、どうも、こういうことをされるのは私だけ、こういうことをしている親はうちの親だけのように思えた。北野高校の教諭は、まがりなりにも高校の先生ならこういう親に苦しんでいる生徒のために力になってくれてもいいのではないのか・・と思ったが、まったく力になってくれなかった。むしろ、2年の時の担任だった旧姓作野礼子などは「こいつう。落ちろお~お」とやる親に加担していた。なぜ、私だけ、こんなことされなければならないんだ・・とも思ったが、どうもならなかった。そのくらいのことがあっても北野高校の生徒ならなんとかするものだ・・とか言う人があるようだが、私もなんとかしようと思ったのだったが、それでもこたえた。大きく影響を受けるかそれほどでないかという違いはあるかもしれないが、ああいうことをされてこたえない人というのがいるかというと、いないと思う。
そして、東大を受けて落ちた。落ちると今度はうちの母親は「おまえが大学に通ったら離婚しようと思ってたのに、おまえが浪人したせいで離婚できんようにされた。こいつのせいや、こいつが悪いんや」と言い出し、それを聞いてうちの父親は「そうや、その通りや。すべて、おまえが悪いねんぞ、すべて、おまえのせいやねんぞ」と言い出した。離婚するとかしないとか、ひとが高校3年の時に騒ぎ出したかと思ったら、そんなやり方で「大団円」にするという方法があったのか、やられた・・。
別に離婚したかったら離婚すればいいではないか。離婚するならしてもいいし、離婚したくなければしなくてもいいが、どっちにしても私を理由にして離婚するとか離婚しないとかいうことにしないでほしかったが、うちの親は常に私を口実にして離婚を回避するのだった。北野高校の2年の時の担任だった旧姓作野礼子は「私は両親が離婚したから!」「私は父親がいなかったから!」というのが最大の自慢の女だったが〔 なんや、けったいなこと自慢するやっちゃ( 一一) 〕、「作野先生は両親が離婚されただけあって苦労してきておられるわあ」「お父さんがおられないだけに、しっかりしておられるわあ」と言ってみんなからほめてもらう権利があると思いこんでいたようで、思い込むだけでなく積極的にそのようにほめるように要求してくる女だった・・・が、そんなこと言ってほめてあげなければならない義務が周囲の人間誰もにあるのか? ・・というと、そんな義務みたいなもん、ないと思うぞ。ちょっと、厚かましいんちゃう? このバカ女症候群、ちょっと何とかしてもらいたかった。

バカ女は死ね!! - バカ女駆除協会
だいたい、この旧姓作野礼子さんは1975年4月の入学式に、その年の1年のクラスの担任をもっていたにもかかわらず、入学式の日に有給休暇とって海外旅行に行きやがったが、有休休暇というものは「取得理由」というものがないと取ってはいけないというものではなく、(株)エイブル〔⇒《YouTube-セカハン 「エイブル」》https://www.youtube.com/watch?v=k2bVz-RwNAw 〕 には「有給休暇申請書」という書式があって、そこには「有給休暇をとる理由」という欄があったが、「有給休暇をとる理由」は「有給休暇」でよいのであって、「これこれ、こういう用事がございまして・・」とか記入しなければとってはいけないという性質のものではない・・・のですが、他方において、使用者の側はいついかなる時でも労働者・従業員から有給休暇をとりたいと言われればとらさないといけないというものでもなく、その業務の都合から取得されたのでは業務に支障がでるような場合にほかの時にしてもらえないかと言ってもいいことになっているはずであり、「有給休暇の取得理由」を述べた方がいい場合としては、「繁忙期であるにもかかわらず有給休暇を取得したいという理由」として「子供が交通事故にあった」とか「親が危篤である」とか「自分自身が出勤が困難な病気にかかった」とか「隣家で火災が発生して自分の家も延焼を受けた」とか「刑事事件の目撃者として裁判所に出頭を求められている」とか、そういうケースについては「理由」を述べた方がいいでしょうけれども、そうでなければ「有給休暇を取得する理由」は「有給休暇」でいいのですが、北野高校の教諭というのは日曜祝日は休みで、春休みと夏休みはそれぞれ2か月ほど休みがあって、冬休みも2週間休みがあって、勤務時間も夏時間は1限目が午前8時10分からで、午後は6限目は午後2時40分まで、冬時間だと1限目は午前8時30分から始まって、6限目は午後3時00分までで、6限目終わったらさっさと帰っておるし、1限目に授業をもっていなければ2限目から出勤しておるし、その上でまだ入学式の日に有給休暇とって海外旅行に行くとは、いったい、どんなけ働くのが嫌なんじゃい・・・て感じやったが、生徒には教諭との顔合わせという意味もあって入学式をやりますと言い、親にもそう話して、それで親は有給休暇を使って勤め先を休んで入学式に出ているのに、来てくださいと言った側の教諭が有給休暇とって「海外旅行に行ってお休みです」とは、それはなんじゃい! ・・てもので、北野高校の校長先生は管理者として「何も入学式の日に海外旅行に行かなくても、ほかの時に行けばいいのと違うのですか」と言って有給休暇はほかの時に取るように求めてよかったのではないのか。最近、入学式・卒業式などが「君が代」「日の丸」礼賛式にされてしまっているケースが少なくないようで、もしも、そういうものに対して順法闘争として有給休暇をとって休んで参加しないということなら、そういうことならわからんこともないが、旧姓作野礼子さんの場合はそういうものではなく、単に4月の8日だったか、その頃は海外旅行に行く代金が安いから入学式の日に行ったというだけのことであり、何より「みんなのために闘う」とかそういうタイプではない人であり、普段から休みの多い仕事なのに、まだ、入学式の日に、生徒やその親には来てくださいと言ってこさせておいて、おのれは海外旅行に行くとは、よくやるよなあ・・・( 一一) そんな入学式ならば、生徒の方も有給休暇とって、「そうだ♪ 京都行こう」〔⇒《YouTube-女ひとり デューク・エイセス》https://www.youtube.com/watch?v=we3rlwx0lUQ 〕とか、「そうだ♪ 奈良に行こう♪」とか・・別に和歌山でも城崎温泉でもいいけども、「そうだ♪ 城崎温泉行こう」と行ってやってもよかったのではないか・・という気がする。・・しませんか?
※ YouTube-城崎温泉の外湯を分かりやすくご案内!【湯めぐり】https://www.youtube.com/watch?v=NrJPLQsEeLI

城の崎にて・小僧の神様 (角川文庫) - 志賀 直哉
教諭が海外旅行に行って出てこない入学式に、なんで生徒は出なきゃならないんだよ?!? 教諭が有給休暇とって海外旅行に行って出てこない入学式に、なんで生徒の親は有給休暇使って勤め先を休んで出なきゃならないんだよ?!? あるいは、生徒の親が有給休暇使って勤め先を休んで出る入学式を、なんで教諭が有給休暇とって海外旅行に行って休むんだよ。 そう思いませんか?

城崎(きのさき)殺人事件 (光文社文庫) - 内田 康夫
「私は両親が離婚したんだからねえ」とかおっしゃるのだが、もしも、その離婚の原因を私が作ったとでもいうのなら、「えらいすんまへんでしたなあ」とでも一言くらいは謝った方がいいと思うが、別に私が旧姓作野礼子さんの両親が離婚する原因を作ったのとは違うだろうが。「ち~が~う~だ~ろ! このボケ~え!」てものだ。 又、旧姓作野礼子さんは「私は両親が離婚したから」と言い、「両親が離婚した」娘というのは両親が離婚していない息子・娘よりもえらいのだ、ほめてもらう権利があるのだと言いたいらしかったが、「両親が離婚した」ら何かえらいのか? 「両親が離婚した」から自分は苦労してきたんだ、「作野先生は両親が離婚されたから苦労してきておられるから、それだけ、しっかりしておられてえらいわあ~あ」とみんなよってほめてもらう権利がある、誰もがほめなければならない義務を持っていると心の底から信じていたらしかったが、しかし、私の経験を踏まえて言わせていただくならば、「離婚した夫婦」の娘と「離婚できない夫婦」の息子というのは、どっちが大変かは、これはいちがいに言えないと思うのだ。
もうひとつ、「離婚する」と言い出すというのは、これは「刀を抜く」ような行為だと思うのだ。刀を抜いたならば、その抜いた刀で相手に切りかかるか、それとも、切りかからずに抜いた刀を鞘に納めるか、どちらかしなければならないのだが、鞘に納めるには、いったん抜いた刀を、その刀で切りかからずに鞘に納めるための口実が何か必要になる。うちの親の場合、常にその口実に私を使ってきた、私はその口実に使われてきたのだった。離婚するなら離婚していいし、離婚したくなければしなくてもいいけれども、どっちにしても私を口実に使うのはやめてほしかったが、なにしろ、うちの親は「親には息子に対しては所有権という権利がある」と考えていたので、「所有権がある」者はその「物」に対してどのようにでも好きにする権利があるらしかった。旧姓作野礼子さんは「私は両親が離婚したんだからねえ」と叫びまくり、「作野先生はご両親が離婚されただけあって苦労してきてられるから」とか「作野先生はお父さんがいないから苦労してきてられるから、だから、しっかりしてられるわあ」とか誰もがそう言って称賛する義務があると思っているらしかったが、旧姓作野礼子さんは「両親が離婚した」娘だけあって、「離婚する」と言いまくりながら離婚できない夫婦の息子というものが、どれだけ大変かなんてちっとも理解しないバカ女症候群の女だった。「病識がない」ところが難儀やった( 一一) 「電気ショック療法」でもやってやれば「ちょっとはよくなる」かもしれんかったが、もしくは「薬物療法」として「蚊取り線香、粉にして蕎麦にふりかけ」食わせれば、あるいは「精神外科療法」として「通天閣から突き落と」せば「ちょっとはよくなる」かもしれんかったか〔⇒《YouTube-アホの坂田》https://www.youtube.com/watch?v=nyNnvSRNgY4 〕。もしくは「シベリア送り」にして「作業療法」として強制労働につかせれば、少しは「真人間になる」ことができたかもしれんが〔⇒《YouTube-流刑人 - アレクサンドル・スヴェシニコフ指揮ソ連国立アカデミー・ロシア合唱団》https://www.youtube.com/watch?v=B7drh7esOiE 〕、海外旅行でもそういう所には行かないみたいやった( 一一)
・・今から思うと、あのバカ女症候群、「入院療法」として座敷牢に入れてやりたいところだった。
うちの父親は私が高校3年の時に「浪人した人間の方が社会で役に立つから、あんた、浪人しなさい」などと、何とか現役で大学に通りたいと思って努力している高校3年生に向かって言ったというのは、それはどこから出てきたのか。うちの父親の場合「社会で」というのは実際は「会社で」を意味しているのであり、又、よく「(大学を出て)社会に出る」という表現がされることがあるが、それは実際は「会社に入る」を意味していることが多く、むしろ、「会社に入る」ことで社会を見る視野が失われ、会社しか見れない人間になってしまう人が多く、「会社に入る」ことで「社会に出る」という面はむしろ減退しているのではないかと思える人が少なくないのだけれども〔うちの父親なんかはまさにそれだったが〕、それを「社会に出る」と表現されることが多いが、うちの父親が言う「社会で」というのは、せいぜい「会社で」であり、それも、会社一般のことではなくてうちの父親の勤め先の会社でのことであることが多かった。どうも、うちの父親にとって一番のお気に入りの部下の人が「1浪で国士館大学卒」だったらしく、そこから「浪人した人間の方が社会で役に立つ」と言い出したらしく、決して東大とか京大とか卒業した人間を厳密に比較してのことではなかったはずだ。その程度のおっさんやった。だいたい、国士舘大学なんて受けたら通るはず、試験会場まで行って氏名と受験番号さえ書けば通るはずで、いったいどうやったら落ちるなんてできんねん、「1浪で国士館大卒」て器用なことする人やな・・と思うけれども、「そういう人間が社会で役に立つ」とおっしゃるのだった( 一一)
私が高校3年生の息子の父親ならば、何とか現役で大学に行きたいと思って努力している息子に向かって「浪人した人間の方が社会で役に立つ。あんた、浪人しなさい」などと、そんなことはかわいそうで言えない・・が、平気で言うのがうちの父親やった。そして、自分がそういうことを言って、そして浪人したからには「浪人した人間の方が社会で役に立つ」ということなのだから、別に浪人していいということになる理屈のはずだったが、今度は「あんたが浪人したおかげで、◇◇大学の受験料が〇万円、交通費が・・円、ホテル代が・・円、受験料を送るための封筒代が◇円、切手代が☆円、・・が・・円、電卓、でんたく、電卓、でんたく、デンタックウのおデンタック♪ デンタックウのおデンタック♪ わしはあんたのおかげで、これだけ損させられた」と言って電卓で計算した。そういうことを言うのなら「浪人した人間の方が社会で役に立つ。あんた、浪人しなさい」などと言うべきではないだろうが、と思ったが、私が高校3年の時には「浪人した人間の方が社会で役に立つ。あんた、浪人しなさい」と何度も言った男は私が浪人すると「あんたが浪人したおかげで、◇◇大学の受験料が〇万円、交通費が・・円、ホテル代が・・円、受験料を送るための封筒代が◇円、切手代が☆円、・・が・・円、電卓、でんたく、電卓、でんたく、デンタックウのおデンタック♪ デンタックウのおデンタック♪ わしはあんたのおかげで、これだけ損させられた」と毎日毎日ぼくらは鉄板の上で焼かれて嫌になっちゃうくらいに言いまくるのだった。
さらに、我が家の近所に、私と同じ小学校・同じ中学校から同じ北野高校に行って、阪大(大阪大学)の法学部に現役で通った川村という男がいて、この男のお母さんが「ちょっと変わった人」で「うちの息子は京大でも通りました」と近所の人間に言ってまわるのだったが、「京大でも通りました」のなら、それなら実際に京大を受けて通って京大に行けばよいではないか。誤解せんといてほしいんやけども、「すいませんけれども、京大は受けんといてもらえまへんかあ。阪大にしてもらえまへんでっしゃろか」なんて、わし、一言でも頼んでへんで。「京大でも通りました」のなら京大を受けて通って行けばよいだろうが。違うのか?!? 「阪大なら絶対に通りますと北野高校の先生が言われました」とか言ってまわるのだったが、普通、「北野高校の先生」はそんなこと、言えへんで。
「川村くんは現役で大学に行きましたのに、なんで、あんたは現役で行けしませんのんか」とうちの父親は言うのだったが、うちの父親は私が高校3年の時には「浪人した人間の方が社会で役に立つ。あんた、浪人しなさい」などと言ったはずで、かつ、「東大とか京大とかに行くためには、浪人は嫌やなどと甘ったれたこと言うておってはいかん」とかも言っていたはずだった。それが浪人したらそういう口をききだしたのだった。その「川村くん」だが、彼が高校3年の時に模擬試験などでどんな成績を取っていたか知らんが、「阪大なら絶対に通る」などということは、それは絶対にない。なぜなら、阪大はそんなに無茶苦茶やさしくないからだ。ある程度以上の所を受けるからには「絶対に通る」などというものは、ない! 模擬試験などで相当いい成績を取っていた者であっても、これは反比例のグラフのようなもので、反比例のグラフではX軸の数値が大きくなるとY軸の数値は限りなく0に近づく、Y軸の数値が大きくなるとX軸の数値は限りなく0に近づくが、どこまで行っても0にはならない。これと似たもので、ある程度以上の難易度の所を受ける限り「絶対に通る」などというものは「絶対に」ない。さすがに、京大・阪大くらいに行こうという者が亜拓大東帝国とかを受けるならば、あほくさいから氏名と受験番号だけ書いて白紙で提出してくるとかしなければ、おそらく通るだろうけれども、逆にそういう所に通っても行く気にならないのではないか。だから、百パーセント満足できるかどうかはさておき、行く気持ちになれる可能性がある所を受ける限り、「絶対に通る」などということは「絶対に」ない。
又、2023年、阪神タイガースの監督に就任した岡田が「優勝」という言葉を口にせずにかわりに「あれ」と言ったが、これは阪神タイガースというチームは昔から優勝争いには無茶苦茶弱いチームで、9月頭くらいまで優勝あらそいに加わっていても、優勝できそう♪ とか思い出すと、次に「優勝なんてしちゃっていいのだろうか?」とか思い出すという伝統があるからということもあるが、そうでなかったとしても、優勝できるかどうかなんてものは、最後の最後までわからんのだからということがあったと思う。たとえ、模擬試験などで相当高得点をとっていた生徒であったとしても、「絶対に通る」などと勝手に思っていたならば、その意識というのは、それは「落ちる側の要素」だと私は思っている。もしも、私が「北野高校の先生」だったら、「阪大なら絶対に通ります」などとは「絶対に」言わない。彼が模擬試験などで相当いい成績を取っていて、模擬試験の成績から考えるならば「京大でも十分ねらえるのではないか」と思える成績だったとしても、まず一番に阪大は同じ学部ならば京大よりもいくらか入りやすい・・としても、「無茶苦茶入りやすい」わけではないのであり、京大に行きたいと思って勉強してきたけれども、少々厳しいかもしれないと思って試験直前に阪大に受験先を修正して阪大を受けて通って行ったという人はいるけれども、京大を目指してきて阪大に受験先を変更したとしても、その阪大を落ちる可能性だってあるわけで、これは「あること」であり、「絶対に」通るなどということは「絶対に」ない!
「北野高校の先生」でも体育の先生とかで3年の担任を持っている人もいたわけで、もしも、「川村くん」の3年の時の担任の先生が「絶対に通ります」などと本当に言ったなら、その人は「体育の先生」だったのか、それとも大学入試にある科目を担当している教諭だけれども自分自身は京大・阪大・東大とかを出ていないだけでなく受けたこともない、そうではない方の「大学」卒の先生だったかではないか、と思う。私が「北野高校の先生」であったならどんなに優秀な生徒にでも「絶対に通ります」などとは「絶対に」言わない。「最後の最後まで何があるかわからない」と言ってあげますし、「最後の最後まで何があるかわからない」と認識して受けるならば、その意識は「通る側の要素」であり、「絶対に通る」などと勝手に思っているならば、その意識は何パーセントかでも「落ちる側の要素」である、と思う。岡田だって最後の最後、優勝が決まるまで「あれ」と言い続けて「優勝」とは口にしなかっただろう。・・まあ、阪神にゃんこ は「優勝」と口にすると、「そんなものしてはいけない」とか思い出す伝統があるからということもあったとは思うが。
「浪人すると人生を知る」とかなんとかかんとか言う人がいるが、私は自分が浪人した時、そういうことを言われるのが嫌だった。遠藤周作が『わが青春に悔いあり』で述べていたが、「浪人の経験」というものは基本的には2浪以上のことであり、1年浪人して大学に入ったような手合いが「浪人も人生経験としていいものさ」とか高校生に語ったりするのを見ると笑止である、チャンチャラおかしいと述べていたが私もそう思う。

わが青春に悔いあり―狐狸庵閑話 (角川文庫 緑 245-12) - 遠藤 周作
うちの母親は「現役で通った人よりも浪人した人の方が苦労を経験しているからいい」とかいう話を仕入れてきたのだが、どうも、うちの母の知り合いで夫が「一橋大現役合格卒」という人がいたらしく、その人が「現役で通った人よりも浪人した人の方が男の人はいいよ」というようなことをうちの母親に言ったらしいのだが、それは片方で「謙遜している」ように見せて、部分的に「夫についてのぐち」であるとともに、何より「うちの夫は現役で一橋大卒なんですよ」と言いたい・・てことだったのではないか、と思う。それはちょっとだけ「夫についてのグチ」で大部分は「のろけ」と「ちょっと自慢」みたいなものであり、言わせてあげればいいじゃん・・で終わり・・にしておけばいいのだが、ところがうちの親はそういうものにいちいち反応するのだった( 一一)
それで、遠藤周作が言うように、2浪以上の浪人をすると、そこで何かを経験するということはあると思う。だから2浪以上するのがいいとは思わないけれども、何かを学ぶというものはあるだろう。それに対して、たとえば、慶應大学に「愛塾」奨励空手会という自分たちが主張する「愛塾」が愛塾であってそれとは異なる愛塾は認めないという空手使いの右翼団体があって、そこにいた慶応大文学部の千葉クロマティ高校卒の富永という私より1つ年下だった男なんぞは、本人もこの点は正直に言っていたが、元から高校卒業する時点では慶応大なんか通るような人間ではなく、浪人して「慶應の経済」と「慶應の文学部」の試験科目だけ学習して、「1浪で慶應の経済」に行ければラッキーだが「1浪で慶應の文学部」でもいいと考えて、そして「見事、目標達成♪ ラッキー♪」てものだったわけで、富永とかこの類の人間は「落ちる経験」だの「失敗の経験」だのなんかまったくしていない。千葉クロマティ高校卒の富永なんかは「大成功」だったのだ。私なんかは「どこでもよかったら」なんて言ってもどこでもいいわけないのだけれども、絶対にどこに行きたいとか言わなければどこか行ける所はあったわけで、慶應大なら高校卒業する時に受けていたら通ったような気がするのだが、受けていないからにはわからないとしても、それでも通ったのではないのかという気がしているが、国立大学でもどこか旧帝大系国立大学のどこかというくらいなら、どこか通ったのではないかという気がするが、富永なんかは「1浪で慶應の経済」「1浪で慶應の文学部」の入試科目だけしか学習していないから国立大学にはまず通らない人間で、彼なんかは「失敗の経験」だのなんてまったくしていない。慶應大学にはそういう富永みたいなやつというのがわんさといたが、うちの母親はそういう人間、「富永みたいなやつ」が大好きで私のような人間が嫌いだったのだが、私は「富永みたいなやつ」とは違って、高校卒業する時点で何としても東大に行きたいとか言わなかったら、「どこでもよかったら」なんて言ってもどこでもいいわけないのだけれども、どこか行ける所はあったが、それでも東大に行きたいと思って受けて結果として浪人した。「富永みたいなやつ」「慶應タイプ」とは違うのだ・・が、うちの母親などはその「富永みたいなやつ」みたいなのが好きみたいだった( 一一) 私が小学生の時、中学生の時、クラスで2番の成績だったりすると「なんで1番と違いますのん」とうちの母親は怒ったのだったが、小学校から高校まであんまり勉強しないで、高校卒業時点ではろくな大学行けない成績で高校卒業したあと、浪人してその浪人の間に「1浪で慶應の経済」「1浪で慶應の文学部」の入試科目だけ学習して、「1浪で慶應の経済」に行ったやつとか、「1浪で慶應の経済」は落ちたが「1浪で慶應の文学部」はぎりぎり通って行った「富永みたいなやつ」とか、うちの親はそういうのが大好きだったらしいが、そういう人なんて「失敗の経験」だの「現役で通った人間とは違う苦労」だのなんて、そんなもん、やってへんで。何をしょーもないこと言うとんねん・・・と思うが、そういうことを言いたがる人というのがいるようだ( 一一)
遠藤周作は「浪人の経験」とかいうのは基本的には「2浪以上」の場合であって1年の浪人みたいなもの、「浪人の経験」だのというものには入らないと述べているし私もそう思うのだが、「1年の浪人の経験」でも経験するものがまったくないわけではない。北野高校の3年の時の担任だった大谷郁三(男。1970年代後半当時、40代)は遠山啓(ひらく)『競争原理を超えてーひとりひとりをいかす教育』(太郎次郎社)とかを引用して「序列主義、というのは嫌な言葉ですね」とか「どの大学に行ったかで人の値打ちが決まるという考え方は、それは学問のあり方としておかしいですね」とか、そういったことを矢鱈と口にする男で、それらの発言自体は間違いではないであろうけれども、しかし、北野高校で私と同じ学年だった生徒でも現役ですんなりと大学に行った人間は彼の本性に気づかずに、彼はそういった学問の本来のあり方を追い求め、学校というものが差別につながったり人間の序列づけにつながったりしてはいけないと考えるヒューマニストか・・と勘違いして卒業してその後もそう信じている人間がいたが、実は、あの男はそんな人間ではないのだ。浪人してわかった。大学入試は通った方がいいか落ちた方がいいかというと通った方がいいに決まっている。浪人して経験するものというものもあるかもしれないが、そうであっても現役で通って行った方がいい。しかし、落ちた人間といえども、別に人を殺したわけでもないのだ。ところが、この大谷郁三という男は人が浪人すると、
《 現役で通って大学に行った人間=「ええもん」、
大学入試に落ちて浪人している人間=「わるもん」》
という意識でおり、そういう言い方をするのであり、そう考えている人間だったのだ。大学入試は通った方がいいか落ちた方がいいかというと、通るために受けるのだから通った方がいいに決まっているし、さっさと現役で通って行った方がいいけれども、落ちたとしても別に人を殺したわけでもないのだが、そのあたりを大谷は理解できない人間だった。遠藤周作が述べているように、「浪人の経験」とかいうものは基本的には2浪以上のもののことで、1年の浪人をして大学に行ったような手合いが高校生に「浪人の経験もいいものさ」とか勝手な口をきいているのを見ることがあるが、つくづく笑止であると私も思うのだが、たとえ、「1年の浪人の経験」であっても、北野高校で3年の時に大谷に担任を持たれた者は、この男が浪人した人間に対してとった態度というものを見て、「序列主義というのは言葉からして嫌な言葉ですね」とか「学問によって人が差別されるというのは学問のあり方としておかしい」とか「けっこうなお話」を言いまくりたがる症候群のこの男がとった言動と比べて違和感を覚える経験をしたはずだ。
さらに言うと。私が1浪の時の6月だったと思うが、大谷に相談に乗ってもらいたいと思って北野高校に行ったことがあったのだが、大谷がいる社会科系の教諭の準備室に行くと、大谷は「おう、来たか」といい、「ちょっと待ってくれな」と言うので、何かやっていることがあるのだろうと思って待つと、ずいぶんと待たせた上で「出ようか」と言うので、どこに出るのかと思い、他の部屋に行って話そうというのかと思ったら、ずいぶんと速く歩いて校門から外に出るので、どこか喫茶店にでも入って話をしようということなのかと思ったら、そのまま速足で歩いて十三駅まで行き、どこまで行くんだと思ったら、阪急「十三(じゅうそう)」駅の改札口で「じゃあな」と言って定期券で中に入って帰ってしまった。・・あれはいったい何だ??? 「序列主義というのは、言葉からして嫌な言葉ですね」だの「大学によって人が差別されるというのは、これはあってはならないことです」とか何とかかんとか言いまくってきた男のその態度に驚いた。ものすごいショックを受けたが、その時は、ものすごいこたえた・・・が、それから十年以上経ってみると、「いい経験」かどうかはわからんが、ひとつの経験をさせてもらったと思うようになった。私は大谷に特別に嫌われるようなことをしていないように思っていたし、3月に落ちた後、報告に行った時には大谷は「また、来いや」と私に言ったはずで、又、高校3年の1月頃には教室でクラス全員に「卒業してからも、いくら来てもらってもけっこうですが」と大谷は話したはずだったのだが、あれはいったい何なのか・・と思ったが、私だけにではなかったようで、たとえば、YMCA予備校高槻校に来ていた北野高校の3年で同じクラスだった男も「大谷、なんでか最近、冷たいねん」とか言っていたので私にだけではなかったようだったが、あれは何だろうか・・と思ったが、大谷郁三という男は要するにそういう男だったようだ。現役ですんなり大学に通って行った人間には、大谷郁三という男がそういう男だということを卒業して5年も10年も経っても知らない、「序列主義というのは言葉からして嫌な言葉ですね」「学問の目的は人を差別することであってはならないはずなんです」とか何とかかんとか「けっこうなお話」しまくる男症候群の男が、浪人した人間に対してやることというのは、そういうことだったのだが、たとえ1年でも浪人した人間はそういうものを見たのに対して、現役でさっさと通って大学に進んだ者は知らずに人生を進んでいる・・という面はあり、その点では1年の浪人でも「浪人の経験」というもの、「浪人で学んだもの」というものはあったのかもしれない。
「浪人の経験」というと、私が高校3年の時、「現役で大学に通ったら思いあがった人間になって女を泣かす男になるから、こいつ、絶対に落としてやらんといかん」と言って、私が家で学習していると服をつかんで背後にひっくり返し、「こいつ、落ちろお~お! 落ちろ、こいつう~う!」と言ってホウキとかでボコボコ殴りつけたうちの母親は・・・ちなみにうちの母親は「私は血圧が」「私は心臓が」とか言いまくっていたのでそれを見て弱弱しそうに感じる人もいたようだが、ところが、椅子に座って机に向かっている私を服をつかんで背後にひっくり返したり、ホウキで私をボコボコ殴りつけたりする時は、けっこう力強いですからね、特に息子というのは、いくらやっつけても反撃してきませんから、その点、自信もってやっつけますからね・・・、私が浪人すると「浪人にこづかいは要らんでしょう」と言って、鉛筆や消しゴムなどを買う費用を渡してくれなくなった。小学校・中学校の同級生で「バカでも通る私立大学」に通らないやつが「今、浪人で大変やね~ん」とか勝手な口をきいて、けっこう高額のおこづかいをもらってけっこうな生活しているのを見ることがあったが、特別高いおこづかいなんて別に要らないけれども、大学受験生から鉛筆や消しゴムを奪うのはやめてほしかった・・が、それをやるのがうちの親だった。鉛筆や消しゴムなどを買うお金を奪われるのはきつかった。
北野高校という高校は行きたいと思って行った高校だったので合格発表の時はうれしかったが、卒業して10年以上経って冷静に考えることができるようになってみると、「あんまりいい学校ではなかった」と思うようになった。特に、北野高校の教諭やっていた連中、あいつら、無能のくせして、なんであんなにえらそうにしているんだ・・と思うようになった。無能だからえらそうな態度をとって権威ぶっていたのかもしれないが。柴田孝之は『東京大学機械的合格法』(実業之日本社)で「能力的にも優秀で、人間的にも優れた教師というのは、実は多くの人間が思っているよりもはるかに少ない」と述べていたが、私もそう思う。

東京大学機械的合格法―アップグレード版 - 柴田 孝之
北野高校は行きたいと思って行った学校だったので合格発表の時はうれしかったのだが、卒業して10年以上経ち、冷静に考えることができるようになってみると〔マインドコントロールがとけてみると〕、あんまりいい学校ではなかったな・・と思うようになった。1970年代後半、1浪の時の6月に2年の時の担任だった旧姓作野礼子から「私なんかは浪人なんか絶対にさせてもらえなかったわよ」とか言ってずいぶんと責められたものだったが、我が家でも「女の子なら浪人はしない方がいいけれども、男は『浪人は嫌や』などと甘ったれたこと言うておってはいかん」とかうちの父親は言っていたのだ。うちの姉は「浪人なんかさせてもらえなかった」。
後で考えてみると、あの女、なんで、あそこまで私を苛めないと気がすまないのかと思う。あの女がいた、ということから考えて北野高校という高校はどう考えてもいい高校ではない。 何より、慶應大学なんか行ってみなさい。たとえば、「愛塾」奨励空手会という空手使いの右翼団体にいた千葉クロマティ高校卒の富永(男。私より1つ年下)なんかは、高校卒業時においてはろくな大学通らない人間だったのであり、そうでありながら、ふんぞりかえって浪人して、そして、浪人中に「1浪で慶應の経済」と「1浪で慶應の文学部」の入試科目である「数学1・2B」と「英語」だけをぎりぎり合格できるかどうかというレベルにまでだけ学習して、それで「1浪で慶應の経済」には落ちたが「1浪で慶應の文学部」には通って「1浪で慶應の文学部」に行きよったのだ。そして、「俺なんかは、きっちりと1浪で通った」とそう言いよったのだ。「きっちりと1浪で通った」などという日本語があるとは思わなかった。びっくりした。1浪で大学に行った人間というのは、北野高校のクラブのOBでも「恥ずかしながら、1年の笠張りののち、なんとか☆☆大学▽学部に合格して入学いたしました」と、北野高校の卒業生の場合は1浪で大学に通って行ったというのは「恥ずかしながら」とつけて挨拶するものだった。富永みたいに「俺なんかは、きっちりと1浪で通った」などと「きっちりと1浪で通った」などと言う人間は北野高校の卒業生にはいなかった。ところが、「富永みたいなやつ」、千葉クロマティ高校卒の男にとっては「きっちりと1浪で通った」というのが普通の日本語であり「ちょっと自慢」であるのだった。そんなやつが世の中にはわんさといるのであり、富永なんぞは「ちょっと自慢」というよりもふんぞりかえっていたのであり、そういう「富永みたいなやつ」が世の中にはわんさといるということから考えるならば、なんで私だけ、そこまで旧姓作野礼子から責められなければならないんだ?!? 北野高校に行くと損みたいだ。 旧姓作野礼子は自分が担任を持った生徒に対してはそういうことを言って責めて、「いったい、どうすればいいのだろうか」と悩ませるのだったが、クロマティ高校卒の「富永みたいなやつ」には何も言わないのだった。自分の勤め先の高校の卒業生にはそうやって責めて苛めて、クロマティ高校卒の富永とかがふんぞり返って1浪していることについては、まったく責めないのだ。おかしいと思わないか? これでは北野高校に行ったら損みたいだ。そう思いませんか?
もうひとつ、「いったいどうすればいいの?」という問題がある。 野村じいさんが筑紫哲也との対談『功なき者をいかす』(カッパブックス)でだったと思うのだが買いていたのだが、野村がまだ南海ホークスに入ってすぐの頃、東映との試合で東映の監督だった水原がコーチすボックスに入っていた時に、レギュラー捕手が「キザ、キザ」とかやじったのを見て、南海の監督の鶴岡が「こらあ。相手の監督をやじるとは何事だあ」と言って怒ったというのだ。選手が相手チームの人間をやじっていいのは、相手の選手であって相手チームの人間でも監督やコーチはやじってはいけないと鶴岡は言ったというのだ。野村は監督やコーチは選手とは立場が違うのであり、選手が監督やコーチをやじるようなことはしてはいけない、と野村は解釈したらしかったが、別の意味もあるのではないかと思う。
選手は相手チームの人間からやじられたとしても、投手ならば相手チームの野手から何か腹立つことを言われたならば、「この野郎」と思って言った人間を見事に打ち取ってやればいいのである。「悔しかったら打ってみろ」というものだ。やじられた選手が野手で相手チームの投手からやじられたならば、次に打席に立った時にその相手からヒット打ってやればいいではないか。なんだかんだ言ってもその俺に打たれただろうが・・てものだ。ある週刊誌に載っていた話だが、張本は在日韓国人で時に相当悪質な野次をスタンドから受けることもあったらしいが、そのたびに張本はそれをファイトに変えて、「そうら、またヒット打ってやった」「またヒット打ってやったぞ」とヒットを打ちまくり首位打者のタイトルを何度も獲得したという・・が、監督やコーチは試合に出ないから、そういうことができない。野手が「こんちくしょう」と思った気持ちでヒット打ったり、投手が相手打者を打ち取ったりできるならいいが、それをやろうとしてもできない立場の人間はやじってはいけない、という意味もあるのではないか。
高校生である時に悪い点数を取った時に「もうちょっと頑張りなさいよ」と言われたなら、「こんちくしょう」という気持ちで次回、もっといい成績を取るということだってできるだろう。しかし、すでに浪人してしまった人間に「私なんかは浪人したいと思ってもさせてもらえなかったのよ」とか言って「浪人してしまった」ということを責めまくっても、もう、浪人していない状態に戻すことはできないのだから、それをいったいどうすればいいの? 私が北野高校の教諭であったなら、高校生にならば「できる限り、現役で大学に行くようにした方がいい」と言ってあげるけれども、浪人してしまった人間に、よくも浪人しやがってからにとそれを責めたりはしない。責められても、もう、その点についてはどうもできないのだから、もうどうもできない部分について責めても苛めているだけであって、どうもできないではないか。それをやりたがる女が北野高校の2年の時の担任だった旧姓作野礼子(女。当時、20代。北野高校卒⇒神戸大文学部卒)だった。
私なんかは、神戸大の文学部なんか、たとえ行きたいと思っても絶対に行かせてもらえなかったし、受けさせてもらえなかった。旧姓作野礼子は何をウルトラ甘ったれて・ウルトラ増長して神戸大の文学部なんか受けて行っているんだ!?!
もしも、私が北野高校の教諭であったなら、高校生には「大学は、できる限り現役で行った方がいい。『浪人した方がいい経験をできるぞお~お』とか言って現役で合格できる可能性がある人間を浪人させてやろうとするヤカラがいるが、そんなやつの話に乗らない方がいい」と教えてあげますが、すでに浪人してしまった人に対しては、「浪人なんかしてからに」と責めても、「私なんか浪人なんかさせてもらえなかったわよ」だの何だの言っても、もう、今さら浪人しなかったことにはできない者にそんなこと言っても苛めているだけでしかないのであり、私が北野高校の教諭ならばそんなことは言わない・・が、言うのが旧姓作野礼子であり、かつ、旧姓作野礼子も誰にでも言うのではなく、そういうことを言って苛める相手とそういうことは言わない相手があるみたいだった。
私は旧姓作野礼子からそういうことを言われて、それで、いったいどうすれば、それを補うことができるだろうか・・と真剣に考え、真剣に悩んだ。そういう時に私がその時の私の親だったならば、「そういうアホな教師は相手にするな」と教えてあげるところだが、うちの親はそういうことを言える親ではなかった。
『あしたのジョー』では、少年院のボクシング大会で、矢吹丈を「1分以内に倒す」と宣言した力石徹は、その「1分以内に倒す」という宣言が達成できなかったことにより、「これを補うために、この矢吹を半殺しに叩きのめしてやる」とか言い出すのだったが、「なんだかんだ言っても、公約は達成できなかったのは事実も事実。まったくデタラメうそっぱちのカシアス=クレイ。ほら吹きクレイ」と矢吹から罵られて頭に血が上る・・・が、「私だったら浪人なんかさせてもらえなかったのに、あんたは浪人なんかして」と旧姓作野礼子に責められて、どうすればいいのだろうか・・と考え、次回の入試では東大の入試に1番で通るとか、そうすれば挽回できるだろうか・・とか考えた・・・が、そんなことを考えたのは、1浪の時の私にとってマイナスになった。
その試験が1番で通るかどうかが求められる試験ならば「1番で通る」というのを目指せばいいが、そうではなくて「合格最低点を上回るかどうか」だけが問われる試験であるならば、合格最低点を上回ることができるかどうかだけが大事であり、それ以上、高得点をとっても、それがいったいなんぼのもんや!?!・・・てものだ。 むしろ、1989年に藤田元司が巨人の監督に二度目になった際、「読売新聞」のスポーツ欄で「ボロ勝ち、競り負けは弱いチームのやること」と述べていたが、その通りで、ボロ勝ちする必要はないのであり、「1番で通る」などとアホなこと思っていると、そんなアホなこと考えるということが落ちる原因になる。
あのバカ女症候群、私にいったいどういう恨みがあったのだろうか。北野高校は行きたいと思って行った学校だったから合格発表の時はうれしかったが、あの女がいた、あの女に2年の時に担任をもたれたという点において北野高校という学校は最低・最悪・最凶の学校だった。
ヨーロッパに「Touch Wood(タッチ ウッド)(木にさわってよ)」という日本の鬼ごっこ に似た遊びがあるという。「あまり調子のいいことを口にすると、悪魔が罠にかける」という言い伝えがあり、その際、木でできた物に触れると悪魔の罠からまぬかれると言われ、そこからできた遊びらしい。 「絶対に通る」なんて、いっちどういう論拠があるのか知らんが、そんなことは口にするべきことではないと思うが、たとえ、口にしなくても、そんなこと思っていたならば、その意識はその分だけ「落ちる側の要素」であり、そして「悪魔が罠にかける」ことにつながるものであろう。
しかし、それにしても「川村くん」のお母さんというのも、よくやってくれるよなあ・・と思う。阪大を受けて合格して行った人間には、入学してしばらくして、「もしかして、京大を受けていても通ったかもしれん」とか思い出す人がいるかもしれないし、又、実際問題として、阪急に乗って通学すると、同じ中学校から同じ高校に行った同じ学年の人間で京大に行った人間と顔を合わすことだってあると思うし、「京大でも通ったかな」とか思うことがあっても不思議ではない・・・けれども、阪大を受けることにしたのは自分だろうが。違うのか? 誰かに「京大を受けたらおまえの誰それを殺す」とか脅迫でも受けたのか? 違うだろ。うちの父親は私に「京大はアカやから受けてはいか~ん」とか言いよったのだが、そういうことを誰かから言われたのか? 少なくとも俺は「川村くん」にそんなこと言ったことはないぞ。うちの母親はそれほど社交的な方でもないと思っていたのだが、ところがそういう話はよく仕入れてくるのだった。せめて、息子が浪人中くらいおとなしくしておれないものかと思ったが、「川村くん」の母親からそういう話を聞かされてきて、そして、「いちいち反応する」のだった。しょーもないおばはんがしょーもないこと言いよったとしても、「ああ、そうですか」ということにしておけば、それでおしまいなのだが、いちいち反応するから、だから、余計になんだかんだしょーもないおばはんは言いよるのだ・・・が、うちの親はそういう親だった。そういう親とのつきあい方に困っていた息子に対して、北野高校の教諭は高校の先生ならば少しは協力してくれてもいいのではないかと思ったが少しも協力してくれなかった。今になって思うと、彼らにはそういう能力はなかったのだ。アホだったのだ。あいつらは。

家族関係を考える (講談社現代新書) - 河合隼雄
北野高校は行きたいと思って受けて行った高校だったので合格発表の時はうれしかったが、卒業して10年以上経ってみると、そんなにいい学校ではなかったな・・と思うようになった。特に、北野高校の教諭どもは、あいつら、無能のくせして、なんであんなにえらそうにしているんだ・・・と思うようになった。
〔・・無能のくせして「言うことをきかす」ようにしたいと思うから権威ぶろうとしてえらそうにしていたのかもしれないが。・・実際、世の中にはそういう人はいる。山科けいすけ『C級サラリーマン講座』には、会社の受付に「社長はおるか」と板垣退助みたいな髭をはやした和服を着た年配のおっさんが来てえらそうな口をきくので、「どちら様でしょうか」と受付ねーちゃんが言うと、「たわけ! さっさととりつがんか。この痴れ者!」と怒られるので、よっぽど「エライ人」かと思って、「はひ~い」と応接室に通したところ、社長が会うと「この壺、〇十万円で買ってちょうだ~い♪」とか言い出しよった。「なんで、こんなやつ通したんだ
」と言うと、「だってえ・・」と。そういう4コマ漫画があったが、その壺売りのおっさんと変わらんような人間はけっこういるが、北野高校の教諭がバカのくせしてえらそうにしていたのもその類かもしれん( 一一) 〕

権威と権力――いうことをきかせる原理・きく原理 (岩波新書 青版 C-36) - なだ いなだ
私が1浪の時、北野高校の2年の時の担任だった旧姓作野礼子(女。1970年代後半当時、20代)から「私なんかは浪人なんか絶対にさせてもらえなかったんだからねえ」と言って、ずいぶんと責められたのだったが、それなら、あなたは高校3年の時に「こいつ、現役で大学に通ったら思いあがった人間になって女を泣かせよるから、こいつ、絶対に落としてやらんといか~ん」と言って、机に向かって椅子に座っているところを背後から服をつかまれて後ろにひっくり返されて「落ちろ、こいつう~う!」と母親からされましたか? 高校3年の時に自宅に帰って学習しようとすると、インタホンのソケットを抜いて入口の鍵はすべて閉めて窓の雨戸はすべて閉めて入れないようにされるとかされましたか? 高校1年に入った時には「うちは浪人させるつもりなんかありません」と言われたにもかかわらず、3年になったら「浪人した人間の方が社会で役に立つ。あんた、浪人しなさい」などと父親から言われましたか? ・・というと、おそらく旧姓作野礼子さんはされていないと思うのだ。なにより、旧姓作野礼子さんは「私は両親が離婚したんだからねえ」「私は父親がいなかったんだからねえ」とそれを最大の自慢にされていたのだから、「父親がいなかった」からにはいない父親から、高校3年になったら「浪人した人間の方が社会で役に立つ。あんた、浪人しなさい」などと言われたなどということはありえないはずだった。
それで、「フライデー」に掲載されていた記事によると、松島みどり さんは『東大入試合格作戦』というエール出版社から発行されている本に合格体験記を書いていたらしいのだが、そこには「私は文教地区として有名な豊中市の中でも学力水準が高いなんとか小学校でオール5でした」とか書いておったそうで、その後、大阪教育大付属中学校池田校舎に行った上で府立北野高校に進んだそうだが、浪人して東大の文科二類に合格できたらしいが、その際、早稲田大学には落ちたそうで「私は早稲田大学に落ちた時、絶対に東大に通ってこの早稲田大学という大学を軽蔑してやるんだと心に誓った」とか書いておった・・らしいのだが、そういう「合格体験記」というものは書くにしても、私なんかが何を書いても特にどうということもないけれども、もしも、将来、議員になったり大臣になったりする人の場合は、何十年も経ってから「フライデー」に探し出されて、こいつ、こんなこと書いてやがる、嫌な女やなあ・・・ということになってしまうから、だから、議員になったり大臣になったりするような人はうかつなことは書かないように気をつけた方がいい・・と思う。
※ [第409回]《 アクビ の松嶋みどり と職場の「新人類」家庭の教育の悪い女 。及、生命保険屋の異星人女は帰れ!》https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201604article_10.html
〔 国会でなくても、ほかに人がいる所で、ついアクビが出そうになった時には、男でも手で口をおおい、できるだけ人に見られないように下の方を向くなりして、できるだけアクビをしていることが人にわからないようにするもので、それを平気で堂々とアクビやっているというあたりは、「東大行っても出ても、あんまり育ちがよくないねえ」という感じがする。そういう印象をひとに与えないようにするには、人間、アクビが出そうになることもあるかもしれないが、できるだけ人から見えない方向で、手で口を覆って、アクビが出ていることが極力わからないようにするもので、そういう姿勢が身についていない・・というあたりは「東大でたって、そのあたりについては、育ちがいいとは言えない人」と見られてもしかたがない( 一一) 北野高校の生徒および卒業生で、元自治会長で、京大・阪大には合格者が多い高校だが東大にはそれほど合格者を出していない高校から東大合格で、東大に入ったらチアガールとかやって「週刊文春」のグラビアに出るなどして目立ち、そういうところから「英雄」みたいに言う人がいたが・・・、勝手に崇拝する人がいてもそれはその人の勝手だが、そこまでのものでもないように思う。〕
もっと歳をいってから資格試験の合格体験記を書く人の場合は「ちょっと、ええかっこしたい」とかいうことはそれほどないと思うのだが、大学入試の「合格体験記」の場合は、「ちょっと自慢」みたいなことを書きたくなる人もいるようで、又、合格した直後は「気持ちがハイになっている」ようなところもあって、必ずしも冷静に分析できずに書いていることもあるのではないかと思う。
若い頃に自分ではいい文章を書いているつもりでいて、10年くらい、もしくはそれ以上経って考えてみると、それほどいい文章でもなかったかなと思う場合もある。「合格体験記」ではないが、1970年代後半、「受験の国語 学燈」という月刊誌が学燈社から出ていて、この本は遠藤周作『口笛を吹くとき』にも登場人物の高校生(まだ、それほどの受験校ではなかった時代の灘高校の生徒)が利用している話としても出ていたのだが、悲しいことに今は廃刊になってしまったらしいが、この「受験の国語 学燈」に懸賞作文というものがあって、毎月、募集されていて、私は3回応募して、2回、佳作に選んでもらったが、優秀作と準優秀作は文章をこの雑誌に掲載され、佳作は在籍高校・卒業高校の名前と氏名だけ掲載されたのだが、私は結局、高校名と氏名は2回掲載してもらったが文章は一度も掲載してもらうことができなくて残念に思ったのだった・・・が、それから10年以上経って考えてみると、むしろ、文章は掲載されなくてよかったかもしれん・・ような気もするようになった。庄司薫が『バクの飼い主めざして』だったかで、昔の自分の日記など見つけて読んでみると「ギャッ」と叫び声あげてひっくりかえることがある・・・と書いていたが、10代くらいの頃にいい文章を書いているつもりで公表してしまうと、それから十年以上経ってから、その文章が発掘された時に「ギャッ」と声あげて恥ずかしさにひっくりかえってしまう・・なんてこともないとはいえない。「受験の国語 学燈」の懸賞作文に応募して佳作に選んでもらったものも選んでもらえなかったものも、その時はいい文章を書いたつもりでいたが、後になってみると、それほどいい文章ではなかったかもしれない・・とか思ったりもする・・が、それでも、その時は一生懸命書いたのだった。

バクの飼主めざして - 庄司薫
北野高校の体育の教諭でH石先生という年配の男性がいて、けっこう年配だったからか口の中でモゴモゴ話すような話し方の人だったのだが、「漢文」担当の藤尾教諭(男。当時、40代)はH石教諭が「色鉛筆」を「エロインピツ」と「イ」と「エ」を入れ替えて話すのは、H石教諭が栃木県の出身だったので栃木県のなまり・方言らしいと言っていたが、私は2000年前後頃、(株)一条工務店https://www.ichijo.co.jp/ で栃木県佐野市の営業所に勤務し、佐野市に3年半ほど住み、足利市・佐野市・栃木市といった栃木県南西部だけでなく、県庁所在地の宇都宮市付近とかにも行ったが、「色鉛筆」を「エロインピツ」と発音する人は栃木県で出会うことはなかったので、H石教諭が「色鉛筆」を「エロインピツ」と「イ」と「エ」を入れ替えて発音するのは「栃木県のなまり」だと藤尾教諭が言っていたのは、あれは違うのではないか・・とも思える。
H石教諭と似た感じで、私と同じ小学校・同じ中学校から同じ府立北野高校に行って、慶應大経済学部に行って、その後、兵庫県庁に勤めたとか言っていたS本彰という男は、この男は「なまたまご(生卵)」を「なまなまこ」と発音する男だったが、この男も「栃木県の出身」だったのかというと、栃木県に3年半住んだ間に栃木県の住人で「なまたまご」を「なまなまこ」と発音する人と出会うことはなかったので、栃木県出身とかいうことではないとお思う。たぶん。
このS本 彰が、やめておけばいいのに『早慶入試合格作戦』(エール社)などという本に「合格体験記」を書きよったのだが、私は買わなかったけれども書店の棚にあるのを、この男の文章だけ斜め読みで読んだが、「なんか、恥ずかしいこと書いておるのお」という感じやった・・が、ところが当人は名文を書いたつもりだったらしく、「あれ、ええ文章やと思えへんか」と私に言うので「別に思えへん」と思った通りのことを正直に言ったのだが、私が「こいつ、なんか恥ずかしいこと書いとるなあ」と思ったことを当人はそうは思わずに「ええ文章や」とか思っておったらしい。
だいたい、北野高校というのは、その頃も「基本的には京大に進学する高校」であり、京大でなく東大に行ったとかならそういう『合格作戦』に「体験記」を書いてもいいかもしれないけれども、「神戸大まで落ちて慶応大に行きましたあ」なんて話を書くなんてのは、普通は「ちょっと恥ずかしい」てもので、やりたくないものだろう・・と思ったが、それをやる男だった。
慶應大学に「経済新人会」という、なんというのか「中年おやじの交友会」みたいなサークルがあって、この男は慶應大学に入学早々、そんなものに入りよったから、『早慶入試合格作戦』(エール社)に書く内容も「なんか、恥ずかしいこと書いとるのお」てものというのも、頭の中身がそこに出た、教養水準の低さがそこに出たというものだと思う。こういうやつを改善するには、とりあえず、サルトルの本でも10冊くらい読ませれば、ちょっとは良くなるのではないか・・・とも思うが、この類の人間は・・⇒読まない。
北野高校のような元旧姓中学校の公立伝統校には「バンカラ」とでもいった伝統があり、「リベラル」な伝統があったのだが、それと逆が慶應内部進学で、この2つは正反対だった。どのくらい正反対かというと、北野高校の1年の時の「体育」で「剣道」の授業の時に、日本刀の話で体育の教諭から「昔、北野高校の生徒で熱田神宮に草薙剣を盗みに行ったやつがおった」という話を聞かせてもらったことがあったのだが、「本校の卒業生には連合赤軍もおれば大泥棒もおる」と聞いたのだが、別に熱田神宮に草薙剣を盗みにいかなくてもいいし、連合赤軍やらなくてもいいけれども、そのへんでしょーもないもん万引きするくらいなら、熱田神宮にあるという草薙剣ちゅうやつを、いっちょ、盗み出して見分してこましたろか・・の方がええのとちゃうか・・・て感じがした・・のだが、そうは言っても窃盗は犯罪ですから称賛するようなものではない・・かと思っていたら、1980年代、新聞によると慶應義塾高校の生徒が東京都内の女子高に忍び込んで女子高生のブルマーを盗もうとして捕まりよった・・・という事件があり新聞に載っていた。なんか、「聞いてるだけであほくそなってくるやろ」て感じやった・・・が、ところが、この「熱田神宮に草薙剣」と「女子高にブルマ」とでは、私なんかは「熱田神宮に草薙剣」盗みにいこうなんてたとえ考えたとしても実際には熱田神宮の本殿のまわりの塀には鉄条網が張り巡らされていて監視カメラもあって、境内には警備事務所があって簡単に盗み出せるようなものではないのだけれども、「女子高にブルマ」とどっちがいいかと言うと「熱田神宮に草薙剣」の方がええのとちゃうか・・という感覚があるのだが、又、たとえ、女の物を盗むにしても「女子高にブルマ」やなんて、そんなもの盗むのではなくて、もしも女の物を盗むのなら、それならそれで「女の心を盗め」・・・とか、ちょっとキザかもしれなんが、『ルパン三世 カリオストロの城』みたいなもんで、盗めても盗めなくてもその方がええのとちゃうか・・とか考えるのだが、ところが、慶應義塾高校の生徒とか慶應義塾高校卒の人間とかはそうではなくて、「熱田神宮に草薙剣」なんて話を聞くと「変なやつがいるんだなあ」とか言ってバカにするのだが、他方で「女子高にブルマ」にはラポールを感じよるみたいだったのだ( 一一) 慶應内部進学のお方たちというのはそういう人たちなのだ。「熱田神宮に草薙剣」と「女子高にブルマ」となら、ためらうことなく「女子高にブルマ」を選ぶのが「慶應タイプ」なのだ( 一一) 「女子高にブルマ盗みに行く」やなんて、情けのうなってくるわ、聞いてるだけであほくそなってくるやろ・・とは「慶應タイプ」は考えないみたいなのだ。「女子高にブルマ盗みに行く」やなんて、江崎の社長を自宅浴室から拉致した上で「グリコ、つぶしたる」の方が「ワルでもええ、怪人21面相のように育ってくれたら」・・・とかいうようには「慶應タイプ」は考えないらしいのだ。そういう「女子高にブルマ」型思考のことを彼ら「慶應タイプ」は「独立自尊」とか「自我が確立されている」とか「スマート」とか「受験勉強の悪影響を受けていない」とか「福沢精神」とか「アイデンティティーを持っている」とかおっしゃるみたいなのだ。・・それで、阪本彰というやつは北野高校を卒業したけれども、人間のタイプとしては「北野タイプ」ではなくて北野高校の高校生の時から「慶應タイプ」であり、「熱田神宮の草薙剣」とか「江崎の社長を自宅浴室から拉致した上で『グリコ、つぶしたる』」とかは絶対にしない人間で、「女子高にブルマ」ならやりかねないタイプの男だった・・と思う。「女子高にブルマ」も彼はやってないかもしれないが、もしも、「熱田神宮に草薙剣」と「女子高にブルマ」とどっちか選ぶとすると、ためらうことなく「女子高にブルマ」の方の男であり、決して「熱田神宮に草薙剣」とか「江崎の社長を自宅浴室から拉致した上で『グリコ、つぶしたる』」とかなんて選ばないタイプの男だった( 一一) 「週刊プレイボーイ」とか「平凡パンチ」とかは読んでもサルトルの本なんて読まないタイプの男、それを「スマート」とか「思考が柔軟」とか「自我が確立されている」とか「企業はそういう人間を喜ぶ」とか言うタイプの男、「慶應タイプ」の男であり、経済新人会みたいな「中年おやじの交友会」に入るタイプの男だった。中谷彰という人が『オヤジにならない60のビジネスマナー』(PHP研究所)という本を書いているのだが、そこで中谷彰さんは「『オヤジ』というのは『その年代のその性別の人のこと』ではなくて『オヤジと言われるようなことをする人』のことで、若い人にも『オヤジ』はいるし、女性にも『オヤジ』はいる」と述べていたが、その通りだと私は思うが、これは「オヤジ」だけでなく「オバハン」とか「オバタリアン」とかもそうだと思うのだ。そう思うと、北野高校の同じ学年の生徒とかにも「KOB48」〔「高校生の時からオバタリアン女子48(フォーティーエイト)」〕みたいな人というのもいた・・ように思うが〔そういうのを自慢にしていた人もいたが、自慢するもんとは違うように思うが〕、S本彰なんぞは「高校生の時から””オヤジ””」「小学生の時から中年オヤジ」だった。「小学生の時から、アタマが中年オヤジ」の男だった。
1980年代、私が慶應大学に在籍した時、慶早戦支援委員会なる団体にいたK原という内部進学の男が、つきあっていたという女性を階段から突き落としたり、顔を殴って鼻の骨を骨折させたりするということをしよったらしかった。殴るなら殴るで女を殴るのではなくて、空手家かボクサーみたいな男でも殴ればよさそうなものだが、慶應内部進学タイプの男が殴るのは女性だそうだった。それで、鼻の骨を骨折させられておいて、「私がついていてあげないとあの人は」とか女が言うておったというのだから、「どっちもどっち」症候群というのか、「両方ともアホ」なのだから「ほっとけ」と思ったのだが、ところが、その男を「許せん」と思う女子学生もいたらしかった。「あの男、どうしてやろうかしら」とか言うので、「ほっとけばいいでしょ」と私は言ったのだが、その際に、大阪教育大付属高校卒のNが「ああいう男には、本多勝一の本を読ませてやるといいんだ」と言ったので、「読むわけないでしょうが。慶應内部進学が本多勝一の本なんか読むわけないでしょう」と私は言ったのだった・・・が、そんなものだ。阪本が「週刊プレイボーイ」や「平凡パンチ」とかは読んでもサルトルの本なんか読まないのと同じく慶應内部進学のK原とかそういう「慶應タイプ」が本多勝一の本なんか読むわけないのだった。女を殴って鼻の骨を骨折させたりはするが、江崎の社長を自宅浴室から拉致して「グリコ、つぶしたる」とか、そういうことはできないし、やらないのが「慶應タイプ」であり、そういう態度・そういう思考・そういう精神のことを「福沢精神をみにつけている」とか「独立自尊の精神がある」とか「思考が柔軟」とか「受験勉強の悪影響を受けていない」とか「自我が確立されている」とか「慶應心理学」では言うのです。「慶應心理学」は「慶應内部進学心理学」で内部進学の人の思想信条世界観を「心理学用語」「精神医学用語」「精神分析学用語」等々といったイカサマでねったらもったらねったらもったら表現しているだけだ。慶應大学医学部助教授の小此木圭吾がその女性を階段から突き飛ばしたり顔を殴って鼻の骨を骨折させたりしたK原という男を「う~ん、この人は典型的なピーターパンシンドロームだあ」とか「診断」したとかいうのだが、どっちも「幼稚舎から慶應」だけあって小此木啓吾とK原はよく似ている。小此木啓吾は実は自分もよく似ている・・という点について自覚がない・「病識がない」ようだが、実際、よく似ている・・と思う。「よう似とるやんけ」と思う。
怪人21面相は江崎グリコから身代金を取りにいかせるために、淀川の河川敷で「デート」していたアベックの元自衛隊の男を一瞬のうちに制圧して女を人質にとって男に受け取りに行かせたが、身代金奪取に失敗したとわかると女の方はクルマで京阪電鉄の駅まで送り届け、「電車賃持ってるか」と尋ねて「持ってない」と答えると、千円札を2枚渡して「これでお友達の所に帰り」と言って釈放したというが、なんか、「命は取らない。女をかどわかさない。盗られて生活できなくなる者からは盗らない」という池波正太郎の『鬼平犯科帳』に出てくる「つとめ(盗み)の3箇条」を守る「本格の盗賊」みたい・・というのか、もしくは「殴らない、怒鳴らない。捕虜を虐待しない。婦人をからかわない。人民からは糸一本・針一本取らない。敵から奪ったものは必ず分配するか全体のものとする。借りたものは必ず返す。壊したものは必ず直すか弁償する」という人民義勇軍「三大規律・八項注意」かといった感じであるが、それに対して、慶應内部進学の男の場合は、殴る場合は男ではなく女を殴る・・という、なんかそのあたりが「慶應タイプ」は怪人21面相とは逆であり、そのあたりを見ると「ワルでもええ。怪人21面相のように育ってくれたら」という文句が、そうかも・・・とも思えてくる。

冒険と日本人 (集英社文庫) - 本多 勝一
1980年代、まだ S本 彰 が慶應大学の学生だった時、何を話していた時だったか、私に「おまえ、弱肉強食て知っとる?」などと言ってきたので、へ~え、こいつ、自分を「強食」だと思っているのか・・と驚いたことがあった。
慶應大学の「近代思想史」という講義でN教授が「わたしのゼミの人で『自分はヒトラーとかナチズムのようなものは何も悪くないと思う』と言った人がいたので、わたしは『あなた、いいですか。もしも《ヒトラーとかナチズムのようなものが悪くない》と言うならば、それは、自分がヒトラーの親衛隊とかになるということがかまわないという意味ではなく、自分がユダヤ人としてガス室に送られて殺されることがかまわないという意味ですよ。わかってますか』と話したのです」と話されたことがあった。それを聞いて、ああ、やっぱり慶應というのは『自分はヒトラーとかナチズムのようなものは何も悪くないと思う』とかそういうことを言う人間・思ってる人間が多い大学だなあ・・と思ったものでした。
時々、「東大に行ったら思いあがった人間になる」とか言う人がいたのですが、そして、うちの母親は私が高校3年の時に「こいつ、東大に通ったら思いあがった人間になって女を泣かせよる。こいつ、絶対に落としてやらんといかん」と言い、私が夜、家の部屋で学習していると「こいつ、な~にがなんでも落としてやらんといかん」と言って、椅子に座って机に向かっているところを後ろから服をつかんで背後にひっくり返し、部屋の電気を洗面所にあったブレーカーを落として照明をつかなくして学習できなくし、「こいつめえ、落ちろお~お!」と叫んでホウキでボコボコ殴りつける、そんな状態では家では学習はできないと思って高校の図書室で学習して帰ると、玄関・勝手口とも扉に鍵をかけて・雨戸をすべて閉めてインタホンのソケットを抜いて鳴らないようにして入れないようにした上で、困った、またやられた・・と思って外で時間をつぶしていると、その間に高校に電話かけて「息子が帰ってきませんね~ん」と言う、さらにクラス名簿で上から順番に電話かけて「息子が帰ってきませんね~ん」と言う・・と、自分が締め出して家に入れないから外で待っておるんだろうが・・というのにそういうことをやった。そういうことをされた。私が父親ならば妻に「そういうことはやらないでやってもらえないか」と言うところだが、うちの父親は絶対に言わない男だった。そして、北野高校の2年の時の担任だった旧姓作野礼子(女。当時、20代)が「あなたのお父さんやお母さんほどいい親はどこにもないわよ。私は両親が離婚したんだからねえ。私は父親がいなかったんだからねえ」と言うのだったが、そう言われて、そう言われるからには、よその親はもっとそのようなことをやっているのだろうか・・と考えたが、しかし、どう考えても、大部分のよその親はそんなことやってないように思えた。うちだけのように思えた。もしかすると、世界中探せば、1件や2件あるかもしれないが、そんなことしない親の方が多いように思えた。
東大でも「ともかく、最難関に行きたい」とかいう意識で東大文科一類に行って「権力への意志」とかいうのを発揮しようみたいな人にはそういう人もいるかもしれない。あるいは大学入試では高得点を取ったが人間として学んでおくべきものを学べていないのに理科三類に合格して「東大卒の医者」になって自分は「人体実験する側の民族・階級」とか思って実行したようなヤカラもいるかもしれない。いるだろう。しかし、たとえば、阿部次郎『合本=三太郎の日記』(角川選書)とかそういった本の作者とかが「東大に行った人間だから、思いあがった人間になって女を泣かせよる」かというと、違うように思えたのだ。阿部次郎は東大の文学部だったが、森鴎外などは東大の医学部だったはずだが医者ではなく文学者になったが森鴎外『青年』とかを読むと、「東大に行ったから思いあがった人間になって女を泣かせよる」とかそんな人間には思えなかった。むしろ、慶應の方が「女たらしの大学」という印象があったし、特に「慶應の経済」というのは特に「女たらしの大学」のイメージが強かったし、「『慶應タイプの女たらし』になりたいなりたい症候群」みたいな男というのが、実際、慶應大学にはいっぱいいた。慶應大学のプロレス研究会は女子大生を集めて強制わいせつ行為をおこなっていた、私はそれを目撃している。必要なら証言してもいい。人間はひとりひとり異なるし、東大の学生や出身者が誰もがすばらしい人間ばかりとは思っていないが、どう考えても、東大の学生よりも慶応の学生の方が「女を泣かせよる」ような人間は多いと思えた・・し、又、「自分はヒトラーとかナチズムのようなものは何も悪くないと思う」とか言い出す人間、そんなこと思っている人間は多いように思えた。「慶應リベラル」などという言葉があったが、「よく言うわ」と思った。北野高校のような元旧姓中学校の公立伝統校には「リベラル」な伝統があり、卒業生にも自民党の議員になった人もあれば共産党の議員になった人もあり、連合赤軍になった人もいたが、自民党の人がいても共産党の人がいても、その人はその人であって私は私であり、別にいたっていいじゃないか・・と私も思っていたし、そういう姿勢を「リベラル」と言うのだと思っていたのだが、ところが慶應では「リベラル」という言葉をそういう意味では理解せず、そうではなく「反共右翼」「政権迎合」を「リベラル」と言い、そういうのは違うのではないかと認識する人間は「ラディカル」もしくは「共産党」と慶應では言われるのです。ですから、私みたいに、もしも共産党に入りたいと思ってもはいつくばって頼んでもたぶん入れてもらえないだろうと思えるような人間でも「慶應タイプ」からすると「共産党」なのです。阪本などもその「慶應タイプ」だったのであり、慶應大学に行って「慶應タイプ」になったのではなく阪本の場合は北野高校の生徒だった時から「北野タイプ」ではなく「慶應タイプ」だったのです。
「わたしのゼミの人で『自分はヒトラーとかナチズムのようなものは何も悪くないと思う』と言った人がいたので、わたしは『あなた、いいですか。もしも《ヒトラーとかナチズムのようなものが悪くない》と言うならば、それは、自分がヒトラーの親衛隊とかになるということがかまわないという意味ではなく、自分がユダヤ人としてガス室に送られて殺されることがかまわないという意味ですよ。わかってますか』と話したのです」と話された「近代思想史」のN教授などは、慶應の先生としては良心的な方の人で「リベラル」な方の人だったと思いますが、慶應大学の教授・助教授でも「内部進学で慶應大学卒の人」・「大学から慶應で慶應大学卒の人」・「他大学卒の人」の3種類の人がおられ、たとえば、『国家神道』(岩波新書)・『日本の宗教』(岩波ジュニア新書)などの著者の村上重良氏などは慶應大学講師だったけれども卒業した大学は東大の宗教学宗教史学科卒で、原発の問題点を指摘してきた藤田祐幸助教授なども、あんまり慶應て感じではないなと思っていたら卒業した大学は都立大学で、「慶應にもそういう先生だっておられるでしょ」とか言う人があるが、そういう人はたいてい他大学卒の人で、「ほとんどビョーキ」みたいな人とか、「小此木啓吾、おまえはいったい何様だ」の小此木啓吾症候群などは「ゆりかごから墓場まで慶應」(小学校:慶應、中学校:慶應、高校:慶應、大学:慶應、勤め先:慶應)であり ””「慶應的精神空間」から外に出れない症候群””の人であり、講義の最中に気に食わないことがあったらひきつけ起こして叫ぶようなタイプの人というのはたいてい「内部進学で慶應大卒」だ。最初、わからなかったが、しばらく、この大学に在籍してわかるようになった。初対面ではわからなくても、何回か話をしていると、「ははあ~ん。こいつ、『内部進学で慶應』だなあ」とわかる。そういう人には心を許して話をしてはいけない。いつ、爆発するかわからない・・というより、こちらとしては何もないのに爆発したと思っているけれども、もしかすると知らないうちに地雷を踏んでいたのかもしれない。ひきつけ起こして叫びだすとかならまだいい方で、内部進学の人の思想信条世界観をもとに「診断」とかされる危険があるから、怖いこわいこわい怖い!!! だから、そういう人とはできるだけ関わらないようにした方がいい。そういう人間に限って「外部のやつらを教育してやらんといかんからなあ」とか言い出すのだが、なんで、おまえらなんかに「教育」されんといかんのじゃ。ビョーキ移るからヤダ!!!!
阪本が「おまえ、弱肉強食て知っとるか」とか言ってきたので、「はあ~あ?」と思った。まず第一に「おまえは自分が強食の側と思っておるのか」とあきれた。「東大に行ったら思いあがった人間になる」とかうちの母親はどこで吹き込まれてきたのか、そういうことを言ってしかたがなかったし、「こいつ、な~荷が何でも落としてやらんといか~ん!」と言って、同じことをもう一度書き込んでもしかたがないので省略するが↑上記のようなことを何度も何度も繰り返したが、むしろ、「自分はヒトラーとかナチズムのようなものは何も悪くないと思う」とか言い出す人・思っている人、それの別表現である「おまえ、弱肉強食て知っとるか」という思想を持っている人間は慶應の人間の方に多い。これは事実だ。私は慶應の縁で慶應大卒の人にお世話になったこともあり、慶應の内部進学の人にお世話になったこともあるので、あまりボロクソに言いたくないところもあるけれども、申し訳ないけれども、これは事実だ。「多い」であって、「すべての人が」ということではないのであろうとは思いたいが、しかし「多い」というのは事実であり否定しようがない。
うちの父親も「慶應の経済」と「神戸の経済」が大好きな男で、私はその正反対で「慶應の経済」と「神戸の経済」が日本の大学の中で嫌いな方の1番目と2番目だった・・が、阪本は「神戸の経済」を落ちて「慶應の経済」に通って大喜びではしゃいで『早慶入試合格作戦』(エール出版社)なんてものに「なんや、恥ずかしいこと書いとるのお」てことを「合格体験記」と称して書いて公開するくらいだから、「慶應タイプ」だったわけで、うちの父親なんかは「わしは慶應やねんぞお、わしは慶應。おまえとは違うねんぞ、おまえとは。わしは慶應でドイツ人やねんぞお。おまえは浪商でチャンコロなんじゃ。民族の違いを忘れるな! 階級の違いを忘れるな!」と毎日毎日ぼくらは鉄板の上で焼かれて嫌になっちゃくくらいに、私の眼を指で突き刺すようにして叫び続けてきたが、うちの父親と阪本はそのあたりについて、よく似ている。私は毎日毎日「民族の違いを忘れるな。階級の違いを忘れるな」と言われ続けて、そして「民族の恨みを忘れるな(不忘民族恨)。階級の苦しみを忘れるな(不忘階級苦)」と思うようになったが、阪本なんぞは死ぬまでそんなことは思わないであろう。「民族の違いを忘れるな! 階級の違いを忘れるな!」と叫ぶ側の人間である。
北野高校の先生でも大学入試について、ある程度以上わかっている人とわかっていない人がおられたように思う。2浪の時の12月だったか1月だったか、北野高校に行く用事があって行った際、たまたま、「進学指導の係」だった物理のF教諭と話すことがあり、その際に「東大の理科でも理科三類は相当難しいようですけれども、理科二類ならなんとか入れないか、理科二類に入って教養課程の2年間、必死で勉強して医学部医学科に入るということはできないか、と考えたりするのです」と話したところ、F先生はこう言われたのだ。「それな~あ・・・。それ、考える者がいるようだけれども、理科二類から医学部医学科に10人行けることになっているけれども、理科二類に入って医学部医学科に行く10人に入るというの、けっこう難しいみたいやで。目指して悪いということはないけれども、その場合、もしも、医学部医学科に行けなかったらどうするのか、ということを考えて行かないといけないで」と話してもらった。高校3年の12月に東京の代々木ゼミナールで「東大模試」を受けたのだが、その際、代々木ゼミナールの1階に「代ゼミ通信」だったかいうものが「ご自由にお持ちください」というように置かれていて、そこに「代ゼミで浪人した上で東大に合格した皆さん」の座談会が掲載されていたのだが、そこでは文科一類に通った人が「東大の文科一類に入ると、周囲が『現役で司法試験に合格するぞお』とかいう人間ばっかりなので、その影響を受けて自分もそうしなければならないみたいな雰囲気になります」と話していたが、理科二類に入った人は「理科二類の場合、入学直後は『絶対、(理科二類から10人行ける)医学部医学科に行くぞお』と思ってる人間がいっぱいいるのですが、夏ごろになったら『農学部でいいやあ』となったり(笑)」と話していたが、そんな感じで東大の理科二類は「理科二類から医学部医学科に行ける10人に入るんだあ」と思って入学する人間はいっぱいいて、自分こそがその10人に入るんだとか思っているかもしれないけれども、ライバルのレベルが低ければその10人に入れるかもしれないが、ライバルも東大の理科二類の学生であって、自分は必至で努力するんだと思ってもライバルだって必死で努力するわけであり、その競争に勝つ場合もあるかもしれないが、勝てない場合もある・・ということを認識しておくべきだ・・・が、進学校の生徒というのは、それをなかなか理解できないのだ。理屈で理解しても、実感としてなかなか理解できないし、片方で「絶対、その10人に入るぞ」という気持ちと「その10人には入れなかったら」ということを考える気持ちを両方同時に持つというのは難しいというところもある。私が親ならば、最終的にどうするかは別として、親として息子のそういう気持ちを理解するのが親だと思う・・・が、理解しないのがうちの親で、その親を「あなたのお父さんほどいいお父さんはないわよ。私は父親がいなかったんだからねえ」と言いまくるのが北野高校の2年の時の担任だった旧姓作野礼子バカ女症候群だった。
「私の場合、医者になりたいということではなく、精神医学・心身医学といったものの研究をしたいので、もしも、医学部医学科に進めない場合は生物学・生理学などの方面に進みたいと思っています」と話したところ、「それなら、いいと思う」と言ってもらったということがあった。実際のところ、進学校の高校に行った人間にとっては、地方国立大学なら医学部でも通るかもしれないと思っても、同じ高校の生徒が東大に行ったり京大に行ったりしているのに自分が地方国立大学に行くというのは抵抗を感じるものだ。私の場合は人間の心のあり方というものを「研究する仕事につきたい」と思っていたので、地方国立大学に行くよりも研究者になれる大学に行った方がいいという考えがあったが、そうでない人でも地方国立大学と東大の理科一類・理科二類、京大の工学部・理学部が難易度が同じくらいと考えるならば、東大・京大の方に行きたいと思う人がいるみたいで、そういうのを北野高校の2年の時の担任だった旧姓作野礼子は「地方国立大学でいいじゃないの」とか勝手なことをお気軽な言い方で言うのだったが、それは無責任で思いやりがない態度である。千葉クロマティ高校卒の富永とかならば、それまでたいして勉強してきてないのだから《「1浪で慶應の経済」を落ちて「1浪で慶應の文学部」》なら御の字も御の字であるが、実際、進学校にいて小学校1年から同級生が遊んでいる時もずっと勉強してきた者からすれば、地方国立大学なんて・・と思う方が自然だ。だが、だから、東大とか京大に間違いなく通るということでもない。そこで、どうするか。それが思案のしどころであり、「そこでいいじゃないの」とか勝手なこと言って地方国立大学に行かそうとするようなバカ女症候群は害がある。舟木先生はその点については進学校の高校生および卒業生の気持ちを理解できる人だったようだ。それが正解かどうかはわからない。そもそも、理科二類は理科三類よりは易しいとしても、それでも東大であり、「理科三類よりやさしい」理科二類を受けて、教養課程の2年間必死で勉強して医学部医学科に行けるか行けないか・・・とかいう前に、その理科二類を落ちることだってある。私が父親だったら、そこまでやった息子なら、最終的に通るかどうかにかかわらず、本人が納得できるように、その後の人生を生きていけるようにしてやりたいと思うところだ・・・が、うちの父親はそうではなくて「そんなもん、せんでもええんじゃ、チャンコロろすけ! すべてをすべてをわしのために、すべてをすべてをわしのために!」と叫びまくっていた。北野高校の2年の時の担任だった旧姓作野礼子バカ女症候群がその男を「あなたのお父さんほどいいお父さんはないわよ。私は父親がいなかったんだからねえ」と言いまくった。そう言ってもらってうちの父親は「作野先生もおっしゃってるように、わ~しほどええお父さんはおらんねんぞお、わしほどお。わしほどすばらしいお父さんはおらんねんぞお、このチャンコロろすけイタコめがあ!」と毎日毎日叫びまくった。
たとえ、進学校の高校に行った人間でも、そこに行きたいと思っても、そこに行けると思っても、それでも行けない場合はある。つらいことだが、そういうことはある。それを「いい経験」と言う人もおれば、「落ちた人間はひがみ根性がある」とか言って否定する人もいる。勝手なこと言うとるやつはほっとけ・・と思うが、会社に応募する場合は、その「勝手なこと言うとるやつ」が採用担当者である場合がけっこうあり、不愉快な思いをすることがある。
PL学園から巨人に入った桑田投手は高校時代、「負ける」ということはほとんどなかった。高校1年の夏は全国優勝していて、1年から2年になる春の選抜大会は準優勝で負けたのは決勝戦だけ、2年の夏の大会も準優勝で負けたのは決勝戦だけ、2年から3年になる春の選抜大会はベスト4で準決勝で負けただけ、夏の大会は全国優勝で1つも負けていない。ところが、プロ野球の世界に入ると、勝つ時もあれば負ける時も出てきた。何だったか忘れたが週刊誌に桑田投手のお父さんが書いていたものを読んだのだが、息子が野球の全国大会で活躍して有名になってから家族の生活が変わった、という。「それまで、まったく関わりがなかったような人が寄ってくるようになった」らしい。そして、桑田が巨人に入って試合で投げるようになると、お母さんが変わったそうだ。机の上に新聞のスポーツ欄を広げて、「おかしい。この新聞は間違っている」とつぶやく。その新聞には息子が投げて負けた試合が掲載されていたが、「おかしい」「この新聞は間違っている」といっても、実際、負けたのだからしかたがないのだけれども、それでも、常に勝ち続けてきた息子が負けたということが、お母さんは信じられなかったらしい。小学校の1年から同級生が遊んでいる時もずっと勉強してきて進学校の高校に行った者は、大学入試においても入学後においても「負ける」ことがあってはならない・・と思っているかもしれないけれども、大学に行く頃からはそうはいかないのであり、「負ける」時もあると認識するべきで、むしろ、それを認識できる者こそが、その後、成果を出せるのではないか。
阪本は「京大に進学する高校」である北野高校に行っておきながら「神戸大の経済」まで落ちて「慶應の経済」に行っておいて、それでまだ「弱肉強食」の「強食」「勝ち組」のつもりでいるらしかった。兵庫県庁はそんな男を採用したのだから、兵庫県庁なんて「そんなもの」なのだろう。けっこう「いいところ」で雇ってもらったのではないか。
だから、「東大に行ったら思いあがった人間になる」とか言う人がいるが、東大に行かなくても思いあがった人間はいるよ。そして、「自分はヒトラーとかナチズムのようなものは何も悪くないと思う」とか言う人・思っている人は東大の学生より慶應の学生の方に多かったと思うし、「女たらし」が多い大学というと慶應と早稲田が日本の大学で双璧だと思うし、東大の学生や出身者と話すと「大学の名前しか考えないような女性は嫌なんだ」と言う人が多いのに対して、慶應の学生で阪本の友人だった井上という男(桃山学院高校卒)は「慶應の名前さえ出せば女なんか、いくらても手にはいる。今度、電車に乗って女子大生がいたら慶應の学生証を出して『この紋所が目に入らぬかあ』と水戸黄門の印籠みたいにやってやろうか」などと得意がって言っていたので、程度の低いやつだなあ、知的水準の低い男だなあ、自分は小学校の1年から真面目に努力して勉強してきたのに、こんな程度の低い男と同じ大学になんか行かされたくないなあ・・と思ったものだったが、慶應大の学生には「慶應の名前さえ出せば女なんか、いくらても手にはいる。今度、電車に乗って女子大生がいたら慶應の学生証を出して『この紋所が目に入らぬかあ』と水戸黄門の印籠みたいにやってやろうか」などと平気で口にする白痴が大変多く、また、そういう男がいいと思うらしい「似たもの同士」のバカ女というのも世の中にはいるらしい。大学の名前が書かれたトレーナーというのが大学生協で売っていて、「ぴあ」という雑誌に「はみだしゆうとぴあ」という読者投稿欄があって、そこに「学内でしか恥ずかしくて着れないのが日大のトレーナー。やたらと学外で着たがるのが早稲田のトレーナー」と書いてあったのを見たことがあるが、大学の名前が大きく記入されたトレーナーを「矢鱈と学外で着たがる」学生が多い大学が早稲田と慶應だったのだ。「ブランド」というものは、元々、アメリカの牧場で牧場主が自分が飼っている牛などに飼い主の名前の焼き印を押したものが「ブランド」だったらしい。だから、大学の名前を「ブランド」として記入したトレーナーを着ているやつというのは、焼き印押されて喜んでるアホだと言うことができるかもしれない。ジャン=ポール=サルトルがノーベル文学賞を辞退したのはなぜか、これは理由はひとつではないらしい。サルトルはノーベル賞という賞をあまり高く評価していなかったらしく、ノーベル賞は「アメリカ合衆国の政治的意向を強く受けた賞」で「西側においてアメリカ的自由主義に貢献した人」か「東側において『赤い国』の抑圧と闘った人」に送られる政治的意味合いが強い賞であると考えていて、特にサルトルは一時期「共産党の同伴者」と見られていたことがあったが、後に「少し距離を置く」ようになったが、ソビエト連邦には問題点もあり、フランス共産党にも評価できない部分はあるとしても、しかし、西側の国がこの上なくすばらしいということでもなく、アメリカ合衆国のベトナムに対する態度・フランスのアルジェリアに対する態度などには賛成できかねるものであり、「共産党の同伴者」と見られていた者が「少し距離を置く」ようになったことに対して賞を与えられるということなら、そのような賞は受けたくないという意識があったのではないかと思われるが、それより前に、サルトルは「賞」というものそのものに対してあまり高く評価しておらず、「私は『ノーベル賞作家』といったものによって規定されない。私は私だ」と言ったというのだが、これはノーベル賞に限ったことではなく、何何賞という賞を受賞することで「何何賞作家の誰それ」という評価のしかたをされて、その「何何賞作家の誰それ」とされるということを喜ばなかったということがあるようだ。もっとも、ノーベル賞を受賞すればけっこうな金額をもらえるらしいし、生活のために「もらっとけ」という考え方もあるだろうし、又、「何物によっても規定されない。私は私だ」というのは間違いではないとしても、そういったものをすべて辞退・拒否して生きていけるのかという問題もあるとは思うが、だから、まったく受けていけないということはないとしても、あまりにもそういったものを集めまくる人・そればっかりを売りにする人というのは、その「賞」によって自分というものを失う人ではないか。そのサルトルと逆の男が阪本の友人の井上という桃山学院高校卒の男とその連れだった。そんな男をいいと思うような女もその同類だろう。ちっぽけな野郎だなあ・・と思ったし、今も思う。たぶん、私なんかより「いいところ」に勤めて私なんかより高い給料をとっていただろうから、女性にとっては私なんかと結婚するよりも井上と結婚する方が「女のしあわせ」というものをつかめたのではないか・・と思うけれども、そうであろうけれども「サルトルとは逆の男」である。慶應の学生にはそういう人間が大変多い。慶應と早稲田という2つの大学は日本の大学の中でその類のアホ男が多い大学の双璧である。・・ただし、川崎市幸区のアパートに住んでいた時、貧相なアパートばっかりの地域において、「KYOTO INDUSTRY UNIVERSITY」(京都産業大学)と大きく書かれたトレーナーを着たおばさんを見たのだが、おそらく、あのおばさんの息子が神奈川県川崎市の住人なのに、京都産業大学みたいなもんしか行けない息子なのに、わざわざ京都で下宿までさせて京都産大みたいなもんに行かせて、そして、母親はそれを喜んでいた、そんなものを「ちょっと自慢」みたいに思っていた、ということだろう。「KYOTO INDUSTRY UNIVERSITY(京都産業大学)」と胸と背中にでっかく書かれたトレーナー着て堂々と外を歩く人のことを考えれば、「KEIO UNIVERSITY(慶應大学)」「WASEDA UNIVERSITY(早稲田大学)」と書かれたトレーナー着て学外を歩きたがる症候群の方がマシかもしれん・・・が、慶應の名前入りのトレーナー着ているやつを見ると「強姦摩の大学」と書かれた服を着ているやつに見えてしかたがなかった( 一一)
阪本もまた「サルトルとは逆」の人間であり、こういう阪本とか井上とかいった「おまえは、大学の名前しか取り柄ないのか」みたいな人間のことを「心理学」では「自我が確立されている」とか「独立自尊の精神を持っている」とか「診断」するらしく、「ああいうのは嫌だな」と思う人間は「自我が確立されていないから、だから、わざわざ無理して逆らっているということですね」とか「心理学者」から「診断」されることになる。「慶應心理学」「慶應心理学者」はそういうものである。「診断」されると次に「治療」される危険があり、怖いこわい怖いこわい怖いこわい怖いこわい・・。
慶應義塾高校はスポーツ入学で入る際に「スポーツの成績+学力」で判断していたその「学力」の部分をこれまでより低くてもいいことにしたらしく、その結果、2023年、矢鱈と強くなって慶應義塾高校の野球部が夏の大会で全国優勝までした。その際、ヤフーニュースだったかに載っていたのだが、早稲田実業が全国大会に出ても、日大三高が全国大会に出ても、早稲田大卒だが高校は早稲田系の高校ではない人とか、日大卒だが高校は日大系でない高校の人が「俺も応援に行くんだが」と必死にその内部進学の高校を応援するなんてことはないが、慶應義塾高校が甲子園大会に出ると、慶應大学卒であっても高校は慶應系の高校ではないおっさんが「時間があけば俺も応援に行くんだが」とか言って必死になってる、この人、いったい何なの?・・ておっさんが職場にけっこういる・・・という記事が出ているのを見たが、その気持ちはわかる♪ その気持ちはわかる・・けれども、他方において、もしも、そこに行ってその集団の中に入ってしまったならば、「大学の名前以外にとりえがない男」の仲間になってしまう、「電車に乗って女子大生がいたら、慶應の学生証を出して『この紋所が目に入らぬかあ』とやってやろうか」という男の仲間になってしまう・・・と思うと、あんなのの仲間にはなりたくないな・・・と思う。そいつらの方が私なんかよりもずっと「いいところ」に勤めて、ずっと高い収入を得ていて、女性は私なんかと結婚するよりもそういう男と結婚した方がずっと「女の幸せ」というものをつかめるであろう・・と思うけれども。先に言っとく。それでも、やっぱり、あんなのの仲間にはなりたくない、ああいう人間の同類にはなりたくない・・と思う。サルトルの仲間になりたいか、阪本や井上の仲間になりたいかというと、サルトルの仲間の方がいい・・と思う。阪本も井上もサルトルがどうかなんて考えたこともない人間であろうし、そういうブタ人間のことを「思考が柔軟な慶大生」とか「企業はそういう人間を喜ぶ」とか「ギャルにもてもて」とか思ってる人間である。そういう人間を「慶應ボーイ」と言い、そういう態度を「独立自尊」とか「福沢精神」とか「自我が確立されている」とか「慶應心理学」は「診断」するのである。
私が高校3年の時に「こいつ、現役で東大に通ったら思いあがった人間になって女を泣かせよるから、こいつやっつけてやらんといかん。何が何でもこいつ、落としてやらんといか~ん!」と言って、私が家で机に向かって椅子に座って学習していたら、後ろから服をつかんで「こいつ、落ちろお~お!」と叫び声をあげて背後にひっくり返し、私が使っていた部屋の電気のブレーカーを落として照明がつかないようにして学習できなくなるようにして、「こいつ、落ちろお、落ちろお、落ちろお~お!」と叫んでホウキで私をボコボコなぐりつけたうちの母親に、慶應大学の学生だった「阪本の友達の井上」とその連れの話をしてやったのだ。やっぱり、東大の学生より慶應の学生の方が思いあがっている人が多いでしょ。東大の学生よりも慶應の学生や出身者の方が「女を泣かせる」可能性が大きい人間が多いでしょ・・と。そうすると、うちの母親はこう言った。「へ~え、そ~お。わたし、そういう人、好き。わたし、そういう人、ものすごく好き。だ~い好き~い。べろべろべろ~お。べ~ろべ~ろべ~え、べろべろお~お♪」と。・・・母親というものは「そういうもの」なのだろうか。そして、うちの母親は例によって言うのだった。「親というものは、よその息子よりも自分の息子のことをいいようにいいように思うもんやから」と。母親というものは「そういうもの」なのか・・と考えたりもしたが、どう考えても、よその母親はうちの母親みたいなそんな感じではないように思えたが、うちの母親は「そういうもの」だった、うちの母親は「慶應の名前さえ出せば女なんか、いくらても手にはいる。今度、電車に乗って女子大生がいたら慶應の学生証を出して『この紋所が目に入らぬかあ』と水戸黄門の印籠みたいにやってやろうか」などと平気で口にする「井上みたいなやつ」が「だ~いすき~い♪」らしかったが、私はそういう男が嫌いだったし、今もそんな男は嫌いだ。きっと私なんかよりずっと「いいところ」に勤めて、私なんかよりずっと給料高いだろうから、女性にとっては私なんかと結婚するよりもそういう慶應タイプのブタ人間と結婚する方が「女の幸せ」というものをつかめるであろうけれども、それでもやっぱり、私は「今度、電車に乗って女子大生がいたら慶應の学生証を出して『この紋所が目に入らぬかあ』と水戸黄門の印籠みたいにやってやろうか」などというそんな男は嫌いだ。もしも、そういうことを本当にやったとして、それが通じるのか通じないのか私は知らないが、通じても通じなくても、そんな男は私は嫌いだ・・が、うちの母親は私が嫌いでそういう男が「だ~いすき~い♪」だそうだった。〔⇒《YouTube-かあさんの歌(歌詞付) Song of the mother》https://www.youtube.com/watch?v=mUFcgZdNLU8 〕
1980年代、横浜市港北区の東急東横線「日吉」駅の西側の食堂で食事をしていたら、そこに制服を着た慶應義塾高校の生徒が何人かいたのだが、そいつらが先に店を出て店の女性のおばさんと言ったらかわいそうだがおねえちゃんと言うには歳いってるくらいの女性店員が器をかたづけようとして、テーブルの上に10円玉があるのを見て、「10円置いてある。届けてあげよう。10円でもお金だから」と言って走って後を追いかけたら、しばらくして、ふうふう言いながら戻ってきて、「10円なんか要りませんと言って受取りやれへん」と言って心外そうに言うのを近くに座っていたので聞いた。慶應の内部進学だなあ・・と思った。そういうのを「スマート」とか彼らは思っているのだ。私はそういうやつが嫌いだ。せっかく、店の人間が走って後を追いかけて届けてくれたのに、それを高校生が「要りません」とは何だ。自分で生活費を稼いでいない高校生が「10円なんか要りません」とはその態度は何だ!
さらに、その後、東京都港区三田の慶應大学三田キャンパスの中の大学生協で、三田の大学生協には近くにある慶應女子高の生徒がしばしば来て買い物していたが、大学生協というのは8口 8000円を入学時に預けて、卒業時に無利息で返してもらうということで利用できることになっていたのだが、日吉の大学生協を慶應義塾高校の男子生徒が使っていて、三田の大学生協を近くの慶應女子高のかわいくない女子生徒が利用していたのだが、あいつら、その供託金というのか何金というのか忘れたが預けているのか疑問だったが利用していたのだが、ある時、そのかわいくないのばっかりの慶應女子高の生徒何人か連れのひとりが財布から小銭を出そうとして50円玉だったかを床に落とし、それがコロコロと転がっていって棚の下に入ったところ、そのかわいくない女は即座に「見捨てよう」と宣言、有言実行なのか実行有言なのか、口にして「見捨てる」ということをした。なんだ、こいつら!・・と思った。自分で生活費を稼いでいない高校生が「見捨てよう」とは何だ! 私がうちの父親から無理矢理行かされた、うちの父親の勤め先の工場のアルバイトなら、50円もらうのに何十分働かないといけないと思ってるんだ・・なんてこと言っても、慶應の内部進学のバカ女の財布に入っているカネは工場労働者として汗かいて働いて得たカネではなくて、そいつらは社長の娘か大企業の重役の娘か医者屋の娘かそういう類のものであって、労基法違反で従業員にサービス残業させて得たカネだったり「患者」を薬漬け・検査漬け・毒盛りやって得たカネだったり、そういう類のカネであって決して汗水流して得たカネではないから、そいつら慶應女子高女にとっては50円くらい「見捨てよう」と見捨てたとしても、そんなもの、またもや労働者にサービス残業させるか「患者」を薬漬け・毒盛りやれば、いっくらでも稼げるカネだから、どうってことないのだろうけれども、それでもやっぱり、高校生がなんだ、こいつらは! ・・と思った。 そういう慶應義塾高校とか慶應女子高校とかのやつを「スマート」とか「独立自尊の精神がある」とか「自我が確立されている」とか「慶應心理学」は「診断」するようであり、それゆえ、慶應の内部進学の人間は「外部のやつらを教育してやらんといかんからなあ」などとのぼせあがった口をきくのだったが、そういうやつも私は嫌いだ。
うちの姉が「あんたはやっぱり、結婚相手は4大でてる女の子でないと嫌やろ?」と言うので、「そんなことないよお」と言ったのだが、「あんたは4年生でてる子でないとあかんから」などと言うので、私が「そんなことない」と言っても「4年でてる子でないとあんたはあかんから」と決めてしまうのなら、それなら尋ねなきゃいいだろうがと思ったことがあった。うちの父親は私が夏休みになると「あんた、明日からうちの工場にアルバイトに行くことに、決めてきたっ!」と言って勝手に決めてしまうのだったが、その上で「うちの会社の工場にいるような中卒の女の子は、ああいうのはやめときや」と言うので、「いや、いい子だと思うよ」と言うと、「あかん、ああいうのは」とうちの父親は言うので、私は「いや、悪くないと思うよ。それよりも、慶應の内部進学の女。慶應女子高女。ああいう女だけは首をもがれても嫌やな、ああいうのだけは」と言うと、「なんでやねん。ええやないか。ものいごっついええでえ」とおっさんが言うので、「い~や~で~す~う。首をもがれても絶対に嫌です、ああいうのだけは。天地がひっくり返ってもい~や~で~す」と言うと、「何を言うとるんじゃ、何を。甘ったれるなあ! わしがええと言うておるねんぞ、このわしが。えっらいエッライえっらいエッライ神様であるこのわしが『ものごっついええ』と言うてますねんでえ」とおっしゃるので、「私が『ものごっついいや~あ!』と言うてますねん」と言っても、「ええかげんにせんか、このチャンコロろすけイタコ浪商! おまえがええと思うかどうかは、まったく何の関係もないねんぞ、まったく何の関係も。どういう女と結婚するかというのは、それは、おまえが決めたらあかんねんぞ、おまえが決めたら。そういうことは、これは大事なことやねんぞ、大事なこと。そういう大事なことは、わし~いとかM川先生〔うちの父親の親友の医者屋。1980年頃当時、50代前半。大阪府豊中市在住。いかにも胡散臭い男〕が決めることやねんぞ。おまえが決めようなどと甘ったれたことを考えてはならぬぞチャンコロろすけイタコ!」とおっしゃるのだった。「それなら、お嫁さんなんか要りませんわ。結婚なんてしない方がいいですわ」と言ったところ、「そうかあ。それやったら、なんというてもわしはものごっつい寛容で、ものごっつい人格者で、ものごっつい理解力のあるお父さんなもんやから、それならそれでもええでえ。あんたが結婚はしとうない、独身で人生送る方がええというのなら、わしはものごっつい寛容でものごっつい人格者でものごっつい理解力のあるえっらいえっらいエッライえっらいお父さんなもんやから、認めてやってやってやってやらんこともないでえ」と、そうおっしゃるのだった。うちの父親はそういうおっさんやった。北野高校の2年の時の担任だった旧姓作野礼子(女。1970年代後半当時、20代)が「あなたのお父さんほどいいお父さんはないわよ。私は父親がいなかったんだからねえ!」と何度も言うのだったが、そして、そう言われてうちの父親は「作野先生もおっしゃるように、わしほどエライえらいエライおとうさんは、なかなかないねんで」とおっしゃるのだった・・・が、私にとっては「父親がある」というのは、世界でもっとも嫌いな類の女を結婚させたがる男がいるということを意味する。・・まあ、慶應女子高女などというのは、あいつらにとっては、公立高校出身者というのは””ドジン”” であり、「ゆりかごから墓場まで慶應」⇒「慶應内部進学」⇒「私立大学系私立高校卒」⇒「私立高校卒」⇒「公立高校卒だが親戚で何人も慶応大卒がいる」⇒「公立高校卒で東大・京大・阪大卒の人間は親戚にいるが慶應卒の人間なんていない」 ・・という「慶應義塾カースト」が強固にあいつらの頭の中・心の中には存在し、慶應内部進学の人間というのは植民地の白人支配者のようなもので、公立高校卒の人間というのは植民地のドジンであり、白人支配者の女がドジンの男と結婚するなどということは絶対にありえないことであり、もしも、どこかでまかりまちがって何かそんな話が出てくることがあったとしても、「向こうが断ってくれる」から、その点はまず心配はなかった・・・が、北野高校の旧姓作野礼子先生様が「あなたのお父さんほどいいお父さんはないわよお」と言いまくるお父さんというのは、そういうおっさんやった。・・それにしても、東京都港区三田の慶應大学三田キャンパスの近所には、なぜか、女子高校や女子短大がいっぱいあったのだが、その中で慶應女子高女というのは抜きんでて「かわいくない」のだ。いったい、どうやれば、ああいうかわいいくない女に育てることができるのか。最近は、女子高校生のスカート丈がずいぶんと短くなったが、私が高校生や高校卒業してしばらくは、高校生の女の子の制服のスカート丈は「膝下まで」が普通で、慶應女子高だけが「膝上」でかわりにハイソックスだったのだが、スカート丈が短くてもかわいくないものはかわいくないのだった。本当にかわいくない。まったくつくづくかわいくない。天より高くかわいくない。地の底より深くかわいくない。イスカンダルより遠くかわいくない女どもだった。本当に本当にかわいくない。あいつらもう、けっちゃんぱっちゃんくわっちゃんにしてやりたい・・というくらいかわいくない連中やった。〔⇒《YouTube-宇宙戦艦ヤマト2199 ① / ささきいさお・ほか》https://www.youtube.com/watch?v=DJGlWwZtsMo 〕
人の落とし物を拾って自分のものにしてしまったなら、それは占有離脱物横領罪になってしまうらしい。私は子供の頃、「放置自転車」なんかは、実際に誰かが乗って利用しているものを乗って行ってはいかんだろうけれども、なが~いこと放置されているものというのは、それは捨てられているのだから、むしろ、乗って利用しても「資源の有効利用」「地球にやさしい」というものではないのか・・と思ったことがあったのだが、新帝国警備保障(株)で交通誘導のガードマンの仕事をアルバイトでやった時に研修で、夜勤の仕事をした場合に始発の電車が出る時刻より前に仕事が終わった時など、駅前に「放置自転車」があったからそれに乗って帰るといったことは絶対にしてはいけません、占有離脱物横領罪になってしまいますと言われて、そうなんだと思ったことがあった。実際のところ、「置いてある」のか「捨ててある」のかの判断は難しいから、だから、「捨ててある」と思ったとしても、そうだと断定できないということになるのだろう。
実際には10円とか50円とか100円とかが落ちていたとしても、それを拾って自分の財布に入れても、いちいち、とがめて警察に言う人は多くないであろうけれども、理屈としては占有離脱物横領罪になるらしい・・・が、だ。慶應女子高女が落とした場合については違うと思うのだ。あいつらは落とすと同時に「見捨てよう」と宣言するのだから、その時点でその小銭は所有者がなくなった物だから、領土でも他国の領土に軍隊を派遣して占領して領有を宣言したのでいけないが、もともと、領有している国がなく居住している人がいない島がもしもあった場合に、それを新たに発見して領有するのは悪くないのと同じで、慶應女子高女が落とした小銭というのは「見捨てよう」と落とすと同時に所有権は放棄されるのだから、拾って利用させてもらって悪いことは何もない・・・はずだと思う。何より、元々、慶應の内部進学のやつが持っているカネなどというものは、社長が従業員に労基法違反で時間外無賃労働させて得たカネだったり、医者屋が不適切な薬漬け・検査漬け・毒盛りやって得たカネだったりするものであって、決して汗水流して得たカネではないのであるから、むしろ、あいつらのカネを人民の側が奪還したとしても、もともと、それはあいつらのカネであったわけではないのであり、あいつらこそ不当に所持していたのであるから、それを奪還した者は「人民の英雄」「労働者の英雄」とでもいった称号を付与されて称賛されるべきものではないか。そう思わんか? 三田に行って、慶應女子高女のかわいくないのを見ると、理屈よりも実感としてそう思うようになる。本当にかわいくない、あいつらは。
2002年のことだが、東京都千代田区霞が関の東京弁護士会・東京第二弁護士会がやっている法律相談で、「労働問題の労働者側をやる弁護士」という女性弁護士が「会社を相手に裁判やる人というのは例外なく人間性に問題がある人なの。会社という所は人間性がいい人とは争わないの。会社を相手に裁判やっている、ということは人間性に問題がある人間だということなの。だから、人間性を直さないといけないの」と発言。なんだ、こいつは、これが「労働問題の労働者側をやる弁護士」か、とあきれたが、同時に「こいつ、慶應女子高だな」とわかった。・・ただし、そのバカ女の氏名はその時は記憶したが今となっては忘れてしまったし、今ではインターネット上に経歴が出ていたりするし、弁護士の場合所属法律事務所のホームページに卒業した大学だけでなく高校も記載している者がおり、特に慶應内部進学の人間なんかは必ず慶應女子高とか書きよるからわかる場合が多いのだが、この女については調べなかったので「こいつ、慶應女子高だな」とわかったと言っても実際にそうであると断定まではできない・・けれども、もしも違ったとしても「アタマが慶應女子高」であるのは間違いない。
アメリカ合衆国の映画『ジェロニモ』では、白人に協力する原住民(「インディアン」)がおり、「彼はインディアンなのに、なんで我々に協力しているんだ」と白人の登場人物が言う場面があったが、最後、ジェロニモが降伏した後、それまでは白人の支配下で働いていた原住民からも銃を取り上げて、ジェロニモら白人と闘ってきた者と一緒に「居留地」に送られることになった際に、その男が言う文句が「アイ アム ア グッドインディアン(I am a good Indeian.)」だった。護送される列車の中でその男が最後にジェロニモに言う。「私もあんたと一緒に闘うべきだった」と。実際に学歴が「慶應女子高女」であるかどうかにかかわらず、人格が慶應女子高のその””「労働問題の労働者側」をやる弁護士””という女が言う所の「人間性がいい人」というのは映画『ジェロニモ』に登場するアメリカ大陸の原住民のうちの白人に加担する「グッド インディアン」みたいな人のことであろう。〔⇒《YouTube-Geronimo(ジェロニモ): An American Legend (1993) ORIGINAL TRAILER [HD 1080p]》https://www.youtube.com/watch?v=v4alqybzcic 〕
労働法の上では「スト破り(スキャップ)」という言葉があり「イエロードッグ コントラクト(黄犬契約)」という言葉がある。「黄犬契約」という言葉は「臆病もののイヌには黄色い縞がある」とかいう話から出た言葉というが、「スト破り(スキャップ)」とか「黄犬契約」の「黄犬」とかそういった者をその「アタマが慶應女子高」の弁護士女は「人間性がいい人」と言っていたようで、そういう思想世界観の女だったようだ。後から「しまった、あんなやつに『相談料』払う必要なかった」と思ったが、それからもう20年ほど経ってしまった。
YouTube で、元中日ドラゴンズ・元西武ライオンズ・元阪神タイガースの田尾が「田尾チャンネル」https://www.youtube.com/results?search_query=%E7%94%B0%E5%B0%BE%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%8D%E3%83%AB
で、中日から西武にトレードに出された時のことを話していたが、「今、もしも誰とでも対談ができるなら対談してみたい人」として、もう亡くなった人では中日から出された時のオーナーと話したいと述べていて、「どうして私はそこまで嫌われなければならなかったんですか」ときいてみたい、と話していた。「その時、選手会の会長になっていて、選手会として球団に対して、このようにしてもらえませんか、ということを伝えただけなのに、なんで、あそこまで嫌われなければならないのか、選手会長なんかするもんじゃないなあと思った」と述べていたが、プロ野球選手に限ったことではなく、もしも、その「アタマが慶應女子高」女の弁護士が言うように「『労働問題の労働者側』をやる人というのは、法律的にはその人が言っていることが正しい場合が多いのだけれども、人間性に問題があるから会社から嫌われるの」というのであれば、それなら、特別のことを言ったわけでもないのに、なんで、あそこまで嫌われなければならないんだ・・ということになる。袴田事件の袴田さんの再審の問題が最近、ニュースに出ているけれども、この「アタマが慶應女子高」女のこの「労働問題の労働者側をやる弁護士」の思考によるならば、「冤罪事件の被告人の人というのは、たいてい、法律的にはその人の方が正しいの。でも、人間性に問題があるから、だから警察や検察から冤罪きせられるの。人間性に問題がない人なら警察や検察は冤罪きせたりしないの」とか言い出すのではないか。まったくつくづくとんでもない女である。「慶應女子高女」というのは反社会的勢力である。
その時の「労働問題の労働者側をやる弁護士」と称するバカ女を見て「こいつ、慶應女子高だな」と思ったが、実際にその女が慶應女子高かどうかはわからないが、慶應女子高女にはそういう人間が大変多いのは事実であり、慶應の内部進学の学校に行くとそういう思想信条世界観を観念的に叩き込まれることになる。遠山啓(ひらく)は『競争原理を超えて』(太郎次郎社)で、小学校から中学校にかけて「術」的なものを学び、中学校から高校にかけて「学」的なものを学び、その「学」から「観」を身に着けるというようにすべきだが、「観」はあくまでも身に着けた「学」から自然とできてくるものであって、この際に絶対にやってはいけないのは「観」の注入教育である、と述べていたが、遠山啓が「絶対にやってはいけない」という「『観』の注入教育」をやっているのが慶應の内部進学の学校である。そういう「『観』の注入教育」をされてきたような人間の精神構造のことを「慶應心理学」は「思考が柔軟」とか「独立自尊の精神がある」とか「受験勉強の悪影響を受けていない」とか「自我が確立されている」とか「診断」するのです。「心理学」というのは「そういうもの」なのです。毛沢東は「敵によって反対されるのはいいことであって悪いことではない。なぜなら、もしも敵から称賛されるなら、我々の行動が敵と同様に腐敗していることを意味し、敵からありとあらゆる悪口雑言を浴びせられるなら、それは我々の行動が敵とは一線を画しているからである。だから、敵によって悪口雑言罵詈讒謗を浴びせられるなら、それは『たいへんけっこうだ』と言うべきだ」と『敵によって反対されるのはよいことであって悪いことではない』で述べているが、慶應女子高女の弁護士が「人間性がいい人」と言うのは「敵から称賛される人間」のことであり、そういう慶應女子高のアホ弁護士から悪口雑言を浴びせられるなら「それは大変けっこうだ」と言うべきことかもしれない・・・が、あのバカ女に「相談料」をだまし取られたのが残念だ。あいつ、アホが勝手なことばっかり言っていただけで法律相談なんかやってないではないか。慶應女子高女というのはそういうものだ。「慶應女子高女および『アタマが慶應女子高』から悪口雑言を浴びせられるなら、それは大変けっこうだ」と考えるべきであろう。もしも、そのアホ弁護士の女の卒業した高校が慶應女子高でなかったとしても、その女が「アタマが慶應女子高」であったのは間違いないし、慶應女子高女にそういう人間が多いのも間違いないし、慶應の内部進学の学校に行くとそんな人間にされてしまうというのも間違いないのであり、そいつらが慶應大学で「外部のやつら〔大学だけ慶應に行った人間を慶應の内部進学の人間は『(慶應義塾の)外部の人間』と言う〕を教育してやらんといかんからなあ」などと傲慢な口をききまくっているというのもまた事実なのである。agricultre をagricultre と発音せず、agricultre と発音するやつが「外部のやつらを教育してやらんといかんからなあ」などと言いまくるのだ。なんで、おまえなんかに教育されんといかんのじゃ、ビョーキ移るからやめてくれ・・と思うが、そう言うと「受験勉強の悪影響だと思います」とか「自我が確立されていないから、だから、無理矢理逆らってそういうことを言うということですね」とか「慶應心理学」から「診断」されるということになります。「診断」されると次に「治療」される危険がありますから、もう怖いこわい怖いこわい怖いこわい怖いこわい、「心理学」は本当に怖い。
それで、松島みどり さんは、選挙の際に選挙のチラシを厚紙でウチワとして使えるようにしたというのが「利益供与」だとして問題になったことがあり、又、国会で席でアクビしたとか問題になったが、アクビするとかいうあたりは、それは歳いってから議員になった人の哀しいところかもしれない。 結局、この人は何をしたかったの? ・・というと、大学も東大に行ったように、ともかく「一番」を目指したかっただけか? ハルク=ホーガンみたいなものか?〔⇒《YouTube-一番 ハルク・ホーガン(Itch Ban / Hulk Hogan)》https://www.youtube.com/watch?v=BJigJNkwqEo 〕
遠山啓(ひらく)『競争原理を超えてーひとりひとりをいかす教育』(太郎次郎社)では、本当に優秀な人とは、ひととの競争で勝つことを目標とせず、ひとが何と言おうが、ひととの競争に勝とうが負けようが関係なく自分がこれをやりたい、これをやるんだということに努力する人であるはずだ」と述べられているが、たしかにそういうところはあると思うのだ。本多勝一『冒険と日本人』(集英社文庫)でドラム缶による筏で太平洋を横断しようとして失敗した金子健太郎さんという人が、途中で内臓を悪くして救助されたことで失敗して袋叩きにあった金子さんが「今度は万全の準備をして、たとえ一人でも反対の人がいたらやらないようにします」といったことを話したのに対して、本多勝一は「あなた、たとえ一人でも反対する人がいたらやらないなんて、そんなこと言ってたら、いつまで経っても何もできませんよ」と語るが、これまども似ているところがあるかと思うが、本当に有益なことをやる人は、たとえ人が反対しようが自分がこれが価値があると思えばやるんだという姿勢で努力するものという面があるのではないか。 ところが、「一番」を求めるばかりの人というのは、まったく無能ということではないとしても、結局、あんた、何をやりたかったの? ・・という結果になることがある。東大卒の人にはそういう人が多いと言う人もいるけれども、私はそうでもないと思っていた。東大以外の大学卒の人でもそういう人はおり、たしかに、どこの大学がいいか考えてではなく「一番」を求めることから東大に行ったような人には「一番」を求める姿勢が強く、何をやりたいか、自分がやりたいと思うもののために努力するのではなく、人との比較で「一番」になりたいという意識から、ともかく「一番」のようなものを求めるばかりという人はいるかもしれないが、しかし、「だから、東大の人は嫌いなんだ」とか言う人というのは、そんなに厳密に東大卒の人とそれ以外の大学卒の人と比較した上で、東大卒の人に「一番」ばっかり追いかける人が多いと科学的に統計とって調べたのか・・というと、違うと思うのだ。東大に敵意を持っている人で「東大に行ったら、自分がやりたいことをやるのではなく、一番を追いかけるような人間になる」とか言う人がいるが、「東大に行ったらそういう人になる」とか言う人もいるが、東大に行かなくてもそういう人はいる。しかし、そういう人というのはいるし、東大卒の人にそういう人はいるかもしれない。
私は子供の頃、手塚治虫の『鉄腕アトム』などが好きだったが、その手塚治虫と同じ北野高校に行けたというのはうれしかった。しかし、手塚治虫は自分では「負けず嫌い」と言っているけれども、人によっては「嫉妬深い」と言う人もあるようで、ほかの人間が手塚治虫と異なる分野で実績を残していると、「俺だって描ける」と自分がそれまでやってきた分野と異なるものでも手を出してやろうとする傾向がある人だった、というのだ。ウィキペディアー手塚治虫https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%89%8B%E5%A1%9A%E6%B2%BB%E8%99%AB#%E4%BD%9C%E9%A2%A8%E3%81%A8%E5%8A%9F%E7%B8%BE を見ると、手塚治虫は1928年11月生まれ、1989年2月に他界。比較的早くから漫画家として評価されるようになったから、けっこう歳いっているような感じがしたが、実際はまだ60歳で他界してしまったらしい。 うちの母親のいとこの夫が北野高校で手塚治虫と同級生だったそうで、『鉄腕アトム』に登場する「ヒゲおやじ」だったか「お茶の水博士」だったかどっちかのモデルだそうだが、「北野高校の時、授業中に漫画ばっかり描いておった」とかその同級生のおっさんが言っていたというのだが、『ブラックジャック』なんて医者をモデルにした話を描いているが「授業中に漫画ばっかり描いていた」にしては阪大の医学部になんか行けたのか・・というと、手塚治虫は「大阪帝国大学附属医学専門部」卒らしく、これは医学部とは別で、戦中に医者が必要とされた時に医学部とは別に医師の仕事をできる人間を養成するために設けられたもので、医学部より入りやすかったもののようだ。そういう所の出身だけに「にせ医者」「無免許の医者」という『ブラックジャック』なんて話を思い浮かんだのかもしれない。『鉄腕アトム』は子供の頃、好きだったが、『ブラックジャック』になると、医者というものが特別エライ存在みたいに描いており、「医者て何さまなの?」みたいなところがあり、その点に手塚治虫は気づいていないと思われるところがあり、その部分については好感を持てない。
妖怪の話や社会の風刺の話を漫画に描いた水木しげる は手塚治虫より年上だったが、社会や人間の風刺の漫画などは好む人は好み、高い評価をする人もあるけれども、万人受けするものではなく、そのため、世間でヒットしたのは水木しげる が描いた『墓場の鬼太郎』から「おどろおどろしさ」をかなり軽減した『ゲゲゲの鬼太郎』がテレビアニメなどでヒットした時で、手塚治虫の作品がヒットするよりずっと後で、そのため、水木しげる は年齢は手塚治虫より年上だったが手塚治虫は水木しげるに対して格下のような態度だったとか、どこかで読んだ。水木しげる は妖怪の話に関心を持ち、人から受け入れられようが受け入れられまいが、妖怪の漫画を描き、そのために得た収入の多くで妖怪についての本を買って勉強して、その方向に突き進んだが、手塚治虫には『どろろ』という妖怪を扱った漫画があるが、『どろろ』はなかなかよくできていると思うし、おもしろい話だけれども、もしかすると、それは「負けず嫌い」もしくは「嫉妬深い」性格から、水木しげる が妖怪を描いた漫画でヒットすると、自分だって描けると手塚治虫は若い頃から妖怪について勉強してきたわけでもないのに描いた・・というものだったのかもしれない。私は手塚治虫の作品では『ブラックジャック』はあまり好きではないが、今、見ても、まだ小学校に行く前にテレビで見た『鉄腕アトム』などは子供向けの漫画としてよくできていると思うし、『アドルフに次ぐ』なども『鉄腕アトム』などの子供向けと違って大人向けのものとしてよくできていると思うのだが、ほかの人間がやっていると自分だって・・という、そういうところというのは、あんまりいいとは思わない。北野高校で「授業中に漫画ばっかり描いていた」というのは、それはほめることではないとしても、ほかの人間がどうであるかにかかわらず自分は漫画の道に進みたいということで突き進んだのかもしれないが、漫画家として大成してからは「負けず嫌い」なのか「嫉妬深い」のかで、ほかの人間が自分と異なる分野で成功すると「自分だって」と手を出すようなところが出てきた・・ということみたいで、そのあたりについては、あんまりいいとは思えない。それでも『どろろ』はなかなかよくできていて、手塚治虫の漫画の中では『どろろ』は好きなものの方であるけれども。
それで、松島みどり さんて、1浪で東大に行って卒業して朝日新聞社に就職したのはいいが、その後、すでにけっこう年齢をいってから自民党の公募に応募して東京都の墨田区のあたりで衆議院議員の選挙に出て当選したらしい・・・が、議員になって悪いということはないし、大臣になって悪いということもないが、しかし、結局、この人は何をやりたかったの? ・・・みたいなものを感じた。
最初に松島みどり さんが選挙に出た時、たしか、亀戸のあたりで選挙ポスターを見て、「あの人じゃないか」と思い、なつかしい思いがしたのだった・・が、同時に、そこに書かれているものを見ると、小泉純一郎の政権が言っていることを追認しているだけであり、自分自身の見解というものが見えられない。「東大出たって、そんなもの」なのか? ・・という感じがして、がっかりした。
もしも、自分自身の考え、自分自身の見解がある人間であるならば、たとえ、政権担当政党から議員に立候補するとしても、各政策については一致しないものがひとつやふたつ出ておかしくないはずだが、ところが、松島みどり さんが最初に選挙に出た時のポスターを見ると、小泉ええかっこしい内閣の主張をそのまま追認するだけのものでしかなかった。がっかりした。
いずれかの政党から選挙に出るからには、常にすべてのものについて、その時のその政党の主張、政権担当政党からならば、その時の総理・総裁の主張と一致していないといけないというものではないと思うのだ。金大中『民主救国への道』(新教出版社)では「多様性の中から調和を見出していくのが民主主義」と金大中氏は述べているが、その通り「多様性の中から調和を見出していく」というのが民主主義のあり方であり、決して、自分の考えを持たない人間が政治的主導者に従うのが民主主義というものではないはずだ。
小泉純一郎は最初に政権についた時、「自民党は改革政党になった」と発言し、それに対しては「一瞬、ちょっとだけ」期待したが、そのうち、自分の側の主張は「構造改革」と言い、自分に反対する者は右も左も「抵抗勢力」と罵るという態度に出たので、それはちょっと違うのではないか・・と思うようになった。
松浪新三郎『実存主義』(1962.6.22.岩波新書)には、
《 そのつどみずから選択しみずから決意することの自由に耐えかねて、何ものかに依存したり、何ものかを口実にしたり、何ものかに逃避したり、何ものかに指示を求めたり、何ものかに決定をゆだめることは、すべて自己欺瞞でしかない。ハイデッガーの用語をかりるならば、そういう生きかたは、すべて非本来的である。・・》
と述べられているが、この姿勢を持つ者ならば、どのような政党に加入しても、どのような政党から選挙に出ても、自分自身の考えがある限り、すべてについてその政党の主張と一致するということにはなりにくい。 すべてについて一致しないならば、どの政党からも議員に立候補できないかというと、そうではないと思うのだ。「多様性の中から調和を見出していく」ということができるならば、たとえ、個々の問題について主張が一致しないものがあったとしても、それでも一緒にやっていけることはある。そういった判断をして松島さんは自民党から立候補したのか、それとも、単に政権担当政党だったから、自分の考えなどなく、政権担当政党から出た方が得だというだけのことで、政権担当政党の総理・総裁の言うことを何でも追認して議員になり大臣になりたかったのか。そのあたりが問題だが、どうも、あまり評価できるものではなさそうで残念だ。

実存主義 (岩波新書) - 松浪 信三郎
選挙のチラシを厚紙で作ってウチワにしてしまったというのは「うかつだった」というものだろう。丸川珠代もいいおばさんになったが最初に選挙に出た時はまだ30代で、新聞だったか週刊誌だったかの記事によると、「握手しましょ」とか言っておっさんの手を握ってまわっておったそうで、おっさんは喜んどった・・というのだが、松島みどりのおばさんの似顔絵入りウチワなんてもらうよりも、30代の女が「握手しましょ」とか言っておっさんの手を握ってまわり、おっさんが喜んどる という方が「利益供与」と違うのか・・・て気もしないでもない・・・。そう思いませんか?
・・おばさんなら、要らんけどな・・・。
松島みどり さんは政治家になるにはワンテンポ遅かった・・のではないかな。国会の最中にテレビに映っているところでアクビをしていたとか、そういうのも、けっこう高齢になってから議員になったことから、体力的にきつい・・ということもあるのではないかな。
平井橋を渡ってすぐの「平井橋西」交差点を左折して、すぐ右折する通りの「立花通り」を進むと、東武亀戸線「東あずま(ひがし あずま)」駅に行く。燈明寺・諏訪神社はJR総部本線「平井」駅が最も近いが、平井橋を渡って東武亀戸線「東あずま」駅にも遠くない・・と地図を見て思えたので、帰りは「東あずま」駅から帰ろうと思って来たのだが、地図を持ってくるのを忘れてしまい、付近に案内図も見当たらず、適当に歩けばどこかに行くだろう、街中だからクマと遭遇するとかいうようなことはないだろう・・と思って歩いたら、東武亀戸線「東あずま」ではなく、その北の「小村井(おむらい)」駅にたどりつき、そこから帰ることになった。
又、「旧中川」の北西側、平井橋を渡って右折したあたりに「大正民家園」なるものがあるのが地図に出ていたので寄ってみたいと思ったが、その地図を忘れてしまい、適当に歩いたらそのあたりに行くかと思ったらたどりつけなかったので、それは次回にまわすことにしてあきらめた。
そのあたりを次回https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/501276979.html 、述べたいと思う。
(2023.10.28.)
☆ 燈明寺(平井聖天)〔東京都江戸川区平井〕参拝
1.平井駅から蔵前橋通りを横断し、諏訪神社の前を通って燈明寺へ。計画性のないチムニー(株)「ファーストグルメ」平井店。「(一条工務店の某営業のように)郵便物を盗むことは犯罪行為です 小石川警察署・・」。「無責任の体系」のチムニー(株)の面接。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/500980727.html
2.門をくぐり正面に聖天堂、右手に金堂。門の内側右に弘法大師像? 左に水子地蔵。「子供」を大義名分にかかげれば何でもまかり通ると考える「子供」帝国主義の女とその夫に殺されたわが子の恨みをはらしていただくよう、水子地蔵様に祈願してきました。反社会的勢力雇用均等室を叩き潰せ! https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/501018586.html
3.門から入り、左に鐘楼、正面に聖天堂・右に本堂。「裏でなく 正門で入ろう 大学は」。八百長医者屋民族の嘘。この人間がこう言ったら実態はこんな感じかと推測するか、言った通りと推測するか。父親がなかったから父親がいるとどんなに大変か理解できないバカ女症候群。
4.「歓喜堂」「聖天堂」。RC造の1階の上の「歓喜堂」「聖天堂」。聖天堂から見た鐘楼・本堂。大聖歓喜天・ガネーシャとは。冠をつけている方が観音で足を踏まれている方が歓喜天なのか、両方が大聖歓喜天なのか。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/501111583.html
5.不動明王を祀る本堂。不動明王とは。真言宗の新義と古義の経緯とは。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/501141339.html
6.平井諏訪神社。江戸川区一の社殿、区登録有形文化財の稲荷社は彫刻がきれい。平井富士塚。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/501193898.html
7.旧中川にかかる平井橋・荒川放水路で分断された中川・高校教諭は親に苦しむ生徒に助力するものと違うのか・「両親が離婚した」娘はみんなでほめなきゃならんのか・「両親が離婚した」らエライのか・「京大でも通りました」と母親が言ってまわる阪大生には何かしてあげるべきなのか・クロマティ高校卒の男は浪人する権利があるのか・あまりにも「一番」追いかける人は、結局、何がやりたいのか?・おばさんの似顔絵入りウチワと30代の女の「握手しましょ」はどっちが「利益供与」か〔今回〕
8.同僚を営業本部長に讒言する男とそれをきく営業本部長、会社のルールを破って人の追客中客を強奪して放置する所長とそれに加担する営業本部長、自社が損する嘘をつきまくる営業、「研修」で得意がって嘘教える男、〇日に見積書を持って来てくれと頼んでその日はパジャマで奥にいる人、「下位互換」の会社は立場が弱い、「失投」が来る浜松・掛川・名古屋の営業と「一流投手の会心の球」しか来ない東京・松戸営業所。吾嬬町とは。大正民家園 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/501276979.html
9.墨田区立花の白髭神社。自分が店員に腹立つことがあっても、会社が提携している店と勝手に喧嘩していいものではないであろう。いったん、もめても修復すべく働きかけるのが「営業力」、往復40分歩かせて交通費をけちる会社の判断は間違い。小村井交差点https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/501343357.html
10.亀戸線「小村井」~「亀戸」駅。自分が勤務する新展示場開設に尽力してくれた相手に「すいません」言わない営業・構造安全基準が甘い設計会社・気持ちが落ち着く方法17 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/501359257.html
江戸川区平井 の燈明寺と諏訪神社の前の道を南西に行って右折すると、「旧中川」を渡る平井橋に出ます。↓
「中川」は、今ではいくつかに分断されています。埼玉県吉川市と越谷市・三郷市と草加市の間を南下してきた中川は東京都に入ると、水元公園の西のあたりで葛飾区と足立区の間を南下し、葛飾区で京成電鉄の「青砥(あおと)」と「高砂」の間で鉄橋の下を流れてすぐの所で、南西に行く「中川」とまっすぐに南下する「新中川」に分かれますが、まっすぐな経路の「新中川」は、洪水防止のために人工的に造られた放水路で、「中川」の方が元からの中川だったのではないか。その「中川」は「青砥」付近より下流はけっこう幅の広い川ですが、くねくねと曲がっています。
1980年代後半、交通誘導のガードマンのアルバイトをやったことがあり、その頃、千葉県の行政区画だと流山市、最寄り駅だと常磐線の「南柏」が最寄り駅の所に住んでいたが、常磐線の「綾瀬」から総武線の「新小岩」行きのバスに乗って途中のバス停で降りた所の近所のマンションの工事に行ってくれと言われて、それも、特に早朝から始まる工事現場だったので、前日に新帝国警備保障(株)の松戸支社に停まった上で行き、帰りも、同じルートでバスで返りましたが、ずいぶんとかかりました。
たしか、そのルートだったように思うのですが、もしかすると、それよりひとつ東側のルートだったかもしれません。今となってはどこだったか正確にはわからなくなってしまいましたが、その時、帰りに通った道でバスの窓から見た中川は、曲がりくねりながら流れる太い工場地帯の中の川でした。
そのマンション工事のガードマンをしていた時、近所の戸建住宅の家の、まだ幼稚園にも行っていないような女の子が来て「☆☆がいないよお」と言って泣きそうな顔して言うのでしたが、まだ、きっちりと言葉も話せないくらいで、誰を捜しているのかもよくわからず、対応に困り「どうしたんだろうねえ」とか言っていたのですが、そのうち、「いたあ♪」と言って大喜びで報告に来ました。2つほど年上の姉がいたらしく、その姉が道の角を曲がったあたりにいたらしかったのですが、「よかったね」と言うと、うれしそうに「うん」と言ったのはいいけれども、しばらくすると戻ってきて「☆☆がいたよお~お」と言い、「こっち来てえ」言って一緒に来てもらおうとするので、俺は関係ないだろうが・・と思い、ガードマンは持ち場を離れるわけにはいかないんだよと思ったのでしたが、「こっち来てよお」と言ってズボンのすそをつかみ、手をつかもうとして一生懸命飛び上がるのでしたが、せっかく、来てくれと言ってくれるのでしたが、ガードマンが持ち場を離れて子供の相手をするわけにもいかないので、どうもできませんでした。帰る際、黙って帰ってしまうと、また「いないよ、いないよ」とか言うかなと思ったりもしましたが、子供に挨拶して帰るのも変な話なので黙って帰りましたが、まあ、好かれてもあまり意味のない年代の女性によく好かれるものでした。
普通、交通誘導のガードマンは昼の勤務は午前8時00分から午後5時00分までなのですが、その工事現場は特別に通常より2時間だったか早く開始ということで、少々無理をして行ったのでしたが、もうひとり、その工事現場に来ていた人から「正社員の人なんですか」ときかれ、「いや、アルバイトです」と言うと、「アルバイトなのに、なんで、こんな早くから始まる現場に遠くから来たんです?」と言われました。うちの父親は私が子供のころから、「会社のためなら死んでも働く、死ぬほど働く、会社のために犠牲になる、会社のために犠牲になって死ぬほど働く、会社のために死んでも働く、会社のために不可能なことでもする、会社のために」と家で叫びまくっていた男でしたので、いつの間にか、その影響を受けてしまっていたようで、「正社員」として勤めてからも、職場で、日本ではそうするものなのかと思ってやったら、ふと気づくとそんなことやっているのは自分ひとりだけだった〔⇒《YouTube-24時間戦えますか?》https://www.youtube.com/watch?v=VHYFDipo5Kc 〕、ということが何度もありました。ぼくはもしかして、あほと違うかいなあ、あほと違うかいなあ・・と思ったら、やっぱりあほやった・・という経験を何度もしてきました。
その「中川」は南西の方向に流れていって「荒川」のあたりに行くのですが、「荒川」とは合流せず、「荒川」の東側に並行して南に流れている荒川より川幅が細い川になります。それも名称は「中川」ですが、曲がりくねっていた中川が荒川の手前で荒川と並行する直線の川になる所で、北から荒川と並行して流れてきた綾瀬川と合流します。 JR総武線の窓から外を見ていると、荒川とその東側の荒川より細い川の間に細長い州があって、その上に高架で首都高速道路が走っているのが見え、クルマを運転してそこを走ると、走行面の下がどうなっているかなんてわからないのだけれども、総武線の窓から見ると、あれ、大丈夫か・・地震が来て揺れた時にひっくり返らないか、たとえ高架がひっくり返らなくても、上のクルマが振り落とされて川に落下したりしないか・・・と不安を感じますが、最初に見た時から今日に至るまで、地震で揺れて上のクルマが川に落下したということは、今までにはないみたいです。その川が「中川」です。
それで、青砥あたりから曲がりくねって流れてきて、荒川の手前まで「中川」は流れてきたけれども、その延長上のような所から南西に流れる「旧中川」という川もあるのです。これは、現在は埼玉県の三郷市と八潮市の間を流れてきた中川の水が流れているのではなく、荒川の水が、木下川水門・木下川排水機場という所から「旧中川」に流れてきています。
なぜ、そうなったかというと、現在、平井の東、新小岩の西を北から南に流れている太い「荒川」は、実は正確には「荒川放水路」で人工的に造ったものらしく、埼玉県の秩父のあたりにも「荒川」という川があるので、その荒川が平井の東、新小岩の西のあたりまで流れてきているのだろう・・として、「は~るの~、うらあらあの~、す~み~だ~が~わ~♪」の隅田川というのはどこから流れてきているのだろうか・・・と思ったものでしたが、どうも、元々は埼玉県の秩父山渓から流れだした荒川は、東京都に入った下流では隅田川という名称に名前を変えて東京湾まで流れていたらしく〔琵琶湖から流れ出した瀬田川は滋賀県内では瀬田川だが、京都府に入ると宇治川になり、京都府と大阪府の境目あたりで北から流れてきた桂川と南から流れてきた木津川と合流して淀川と名乗るように、上流では荒川と言っている川を下流で隅田川と言っていたらしい〕、大雨・台風などの際の洪水被害を防ぐために、バイパスとして「荒川放水路」を人工的に造ったらしく、最初は上流が「荒川」で、下流は「隅田川」と「荒川放水路」だったらしいが、そのうち、「荒川放水路」は長くて言いにくいので、下流も単に「荒川」という言い方が広がった、ということらしい。 その「荒川放水路」が人工的に直線で設けられた際に、元から流れていた「中川」の水路を分断したらしい。鉄道なら立体交差とかできるでしょうし、道路なら立体交差も交差点で横切ることもできるでしょうけれども、川の場合はそうはいかないので、中川が「荒川放水路」にぶつかる所から「荒川放水路」の東側を「荒川放水路」と並行して南に流れて江東区東砂と江戸川区西葛西の間で、その「しきり」がなくなって合流して「荒川」となって東京湾に至るようになったらしい。 しかし、そうなると、「荒川放水路」より西にあった方の「中川」は水が流れてこなくなるのだが、そこに「木下川水門」「木下川排水機場」で「荒川放水路」から水を入れて「旧中川」という名前にして川が存続している・・・ということらしい。
そういうことからか、「中川」というから、かつて、新小岩から綾瀬まで走っていたバスで平和橋からだったか本奥戸橋からだったか見た「中川」とか京成電鉄の「青砥」のあたりの中川とは、現在の平井橋の所のあたりの「旧中川」はずいぶんと感じが違う。↓
↑ 平井橋より「旧中川」の上流側を見る。
↑ 平井橋より「旧中川」の下流側を見る。
都市部の川は下流側に行くほど、「工場地帯の川」「散策するような川ではない川」になっていくという印象があるのですが、「荒川放水路」で分断された下流側の「旧中川」は、上流側の「中川」が「工場地帯の川」「散策するような川ではない川」であるのとは対照的で、遊歩道もあって、静かな流れの「うららかな川」「川辺を散策したくなる川」です。「旧中川」はこの下流はどこに行くか地図で見ると、江東区大島の南で小名木川と合流し、その南、江東区東砂の東で「荒川放水路」に再び合流するようです。
平井橋を渡った所から平井橋の方を見ると、↓
↑ 平井橋を渡ってすぐの交差点が「平井橋西」交差点と言うらしく、平井橋の右(下流側)の建物は交番。平井橋交番と言うらしい。その隣
の建物は公衆便所。 交番と公衆便所はそっくりだという説があるけれども、私がその話を最初に聞いたのは、1980年代、朝日新聞の販売店で新聞配達の仕事をしていた時に、新聞の配達をやっていて大小便をしたくなった時にどうするかという話が配達員の人の間で出て、夕刊の時はまだしも、スーパーとかホームセンターとか、あるいは市役所・公営図書館・公民館・公営体育館とかいった公営施設とかそういった所で借りられることがあるが、朝刊の配達の時間には、そういった施設は閉まっていることが多いので借りられない。24時間、空いている所として、なおかつ、どこにでもあるものとして「交番」というものがあるのだが、ところが、交番に行ってトイレを貸してほしいと言っても、交番は絶対に貸してくれないというのだ。「なんで、貸してくれへんねん。おまえのもんと違うやろうが。貸しても減るもんと違うやろ。警察は市民の緊急事態のために存在するんやろ。市民が緊急事態で困ってるのに貸さんとは、それでも公僕か」とか、あんまりそういうことをしつこく言って、公務執行妨害とか言われても困るのであきらめるらしいが、交番はトイレを貸してほしいと言っても、まず貸してくれないらしい。
その際、ある男性が「交番はトイレを貸してと頼んでも貸してくれないけど、なんでか、知ってる?」と言い、「なんでなんですか」と言うと、「だって、便所じゃないもん。公衆便所とそっくりだけど」と言うのでした。それで、それまで、たいして気にしてなかったけれども、そうなのか? ・・と思って、その後、交番と公衆便所があると見比べるようになったが、言われてみると、似ていると言えば似ているようにも思える建物がけっこうある・・が、その建物にもより、又、よくよく見ると違いはある。
1.公衆便所は男女別に入口が2つあることが多いが交番はそうではない。
2.公衆便所は外から見られないように窓は高い位置に、かつ、外から侵入されないように横長の窓であることが多いのに対して、交番は窓については普通の形状の窓であることが多い。
3.交番は独立した建物の場合は2階建てであることが多いのに対して、公衆便所は独立した建物の場合は平屋が多い。
4.又、交番は市民から襲撃された場合に防御できるように頑丈な造りで、交番によっては窓の内側に鉄格子が入っていたりするが、公衆便所を襲撃する人はあまりないので、公衆便所はそんなに頑丈な造りではない。
5.交番には市民を監視するために周囲の道に向けて監視カメラがついていることがしばしばある。
・・このような違いがある。
こういうことを思って見ると、交番と公衆便所が隣り合わせに建っている所がけっこうある。交番というのは、トイレを貸してほしいと言われることがあって、なおかつ、無暗に交番の業務と関係のない人を入れたくないという事情があるので、それで、交番にトイレを貸してほしいと言う人が来た時には「そこにあります」と言って公衆便所の方を使ってもらえるように、意図的に隣に造っているのかもしれない。
・・で、ここも、平井橋交番の隣にあるのが公衆便所。↑ ↓
↑ 左が平井橋交番で、右が公衆便所。
この「旧中川」を境にして、左岸側が江戸川区、右岸側が墨田区で、もう少し下流に行くと右岸側は江東区になるのだが、江戸川区と墨田区・江東区の境は川幅が広い荒川ではなく、平井のあたりだけ荒川より西に江戸川区が突き出しているが、どうしてだろうと思っていたが、荒川は後から人工的に設けた「荒川放水路」で、このあたりでは、人工的に後から設けた「荒川放水路」ができる前に、自然に存在した中川(現在では下流側は「旧中川」)を境にして、中川より東を江戸川区・中川より西を墨田区・江東区としたようだ。
この平井橋を渡る手前、燈明寺や諏訪神社がある側、JR総武線「平井」駅がある側で、なつかしいと言えばなつかしいものを見た。↓
↑ 松島みどり さんの選挙ポスターを最初に見たのは亀戸の付近だったように思う。墨田区あたりで自民党から選挙に出るということでのもので、その時は小泉純一郎が総理大臣だった・・・が、この人はどういう意味で「なつかしい」人だったかというと、1970年代なかば、たしか、私が北野高校に入学した年にこの人は卒業した人で、同じ時期には北野高校には通学していなかったはずだが、文化祭で講演に誰かに来てもらおうという話が出た時に、呼びたい人の希望をきくと、卒業生では手塚治虫(漫画家)とか森繁久弥(俳優)とか野間宏(作家)とか、そういった有名人の名前が出ることが多かったのだが、「松島みどり」なんて名前が出ていたので、「松島みどり て、いったい誰なの?」と同じクラスの人間に尋ねたところ、「前の自治会長らしい」ということだった。
この人は、北野高校を卒業した後、京大・阪大には何人も合格者を出している北野高校を卒業した後、1浪で東大の文科一類だったかに合格して行った人で、「現役で東大合格」と聞いていたのだったが、どうも実際は「1浪で東大に合格」だったらしい。北野高校に在学中、自治会長をやっていたらしく、どうも、そういうのが好きな人だったらしい。東大に合格して入学するとチアリーダーとかいうのをやって「週刊文春」のグラビアに載ったり、まあ、悪いとは言わんが、そんな感じで目立つのがけっこう好きな方の人だったみたい。私はこの人と同じ時に北野高校に通学していた年はないが、妹さんがいて、妹さんも自治会の副委員長だかをやっていて、おられたのを知っている。
後になって考えてみると、「京大・阪大には何人も合格者を出している高校だが東大の合格者はそれほど多くない高校から東大現役合格」と聞いていたので、そうなのかと思っていた者からすると、「実は1浪でしたあ」というのは、なんか騙されたような感覚がある。「東大現役合格かと思ったら、なんや、浪人しとったんかい」・・( 一一) しかも、ウィキペディアー松島みどりhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B3%B6%E3%81%BF%E3%81%A9%E3%82%8A を見ると「東京大学経済学部卒業」と書いてあり、「””東大文一現役合格””みたいに聞いてそうかと思うておったら、なんや、浪人した上で文一(文科一類)やのうて、それよりいくらか易しい文二(文科二類)かい」・・・( 一一) 私がこの人から直接騙されたとかいうことでもないが、なんか、伝わっていた話と違うやんけ・・・( 一一)
1970年代後半、私が1浪だった時に、北野高校に行った際に、2年の時に担任だった旧姓作野礼子(女。当時、20代。北野高校卒⇒神戸大文学部卒)から「私なんかは家が貧乏だったから、浪人なんか、とんでもなかったわよ」とか言ってずいぶんと責められたものだった。私が高校3年の時には、うちの母親から「現役で大学に通ったら思いあがった人間になって女を泣かせる男になるから、こいつ、絶対に落としてやるんや、こいつう」と言われ、夜、私が家で学習していると、後ろからやってきて服の襟のあたりをつかんで「こいつ、落ちろお、こいうつう!」と言って背後にひっくり返し、洗面所にあった分電盤で私が使用していた部屋の電気のブレーカーを落として照明がつかないようにして学習できなくし、又、高校から帰るとインタホンのソケットを抜いてならなくして、門灯も消し、雨戸はすべて閉めて玄関扉の鍵もかけて中に入れないようにして学習できないように妨害したものだった。うちの父親は、私が北野高校に入学した時に、1年の時の担任のO田先生が「北野高校の場合は、運動部に在籍した生徒とそうでない生徒とを比較して、進学成績に差はない」と話されたのを聞いたこともあり、最初、野球部に入ったのだったが、うちの父親が「野球部とかサッカー部とかラグビー部とかにいて東大とか京大とか阪大とかに通ったという人間は全員が浪人です。うちは浪人なんかさせるつもりはありません」と言うので、「そんなことないようですよ。北野高校の場合は野球部とかラグビー部とかサッカー部とかにいて現役で東大とか京大とか阪大とかに現役で何人も通っているようですよ」と言っても言っても「絶対にそんなことありません。そいつらは全員が浪人です」と言ってきかず、そのうち、「野球部の監督に怒鳴り込んだる」とか言い出して、本当にやりそうだったので、しかたなしに退部したということがあったが、その父親が私が高校3年になると、なんと「浪人した人間の方が社会で役に立つ。あんた、浪人しなさい」などと言いだした( 一一) よく言うよなあ・・と思ったし、「浪人した人間の方が社会で役に立つ」とはどういうことなんだ・・と理解に苦しんだし、又、うちの母親が「現役で大学に行った人間は甘ったれてるから、浪人した人間の方がいい」と言うのだったが、なんで、努力して現役で大学に通った人間が「甘ったれてる」で、現役で大学に合格できるように学習しなかった人間が「甘ったれてる」ではなく「甘ったれてない」「苦労を知っている」ということになるのか、逆と違うのかと理解に苦しんだが、「そうは思いませんけれども」と言っても理解してもらえなかった。そして、「こいつ、ずえったいに落としたるう、こいつう~う」と言って、私が机に向かって学習していると、ホウキとかを持ってきて「こいつめえ。落ちろ、こいつう、落ちろお~お!」と叫んで背後からボコボコ殴りつけたものだった。よその家でもこういうことをやっているのだろうか? ・・と思ったが、どうも、こういうことをされるのは私だけ、こういうことをしている親はうちの親だけのように思えた。北野高校の教諭は、まがりなりにも高校の先生ならこういう親に苦しんでいる生徒のために力になってくれてもいいのではないのか・・と思ったが、まったく力になってくれなかった。むしろ、2年の時の担任だった旧姓作野礼子などは「こいつう。落ちろお~お」とやる親に加担していた。なぜ、私だけ、こんなことされなければならないんだ・・とも思ったが、どうもならなかった。そのくらいのことがあっても北野高校の生徒ならなんとかするものだ・・とか言う人があるようだが、私もなんとかしようと思ったのだったが、それでもこたえた。大きく影響を受けるかそれほどでないかという違いはあるかもしれないが、ああいうことをされてこたえない人というのがいるかというと、いないと思う。
そして、東大を受けて落ちた。落ちると今度はうちの母親は「おまえが大学に通ったら離婚しようと思ってたのに、おまえが浪人したせいで離婚できんようにされた。こいつのせいや、こいつが悪いんや」と言い出し、それを聞いてうちの父親は「そうや、その通りや。すべて、おまえが悪いねんぞ、すべて、おまえのせいやねんぞ」と言い出した。離婚するとかしないとか、ひとが高校3年の時に騒ぎ出したかと思ったら、そんなやり方で「大団円」にするという方法があったのか、やられた・・。
別に離婚したかったら離婚すればいいではないか。離婚するならしてもいいし、離婚したくなければしなくてもいいが、どっちにしても私を理由にして離婚するとか離婚しないとかいうことにしないでほしかったが、うちの親は常に私を口実にして離婚を回避するのだった。北野高校の2年の時の担任だった旧姓作野礼子は「私は両親が離婚したから!」「私は父親がいなかったから!」というのが最大の自慢の女だったが〔 なんや、けったいなこと自慢するやっちゃ( 一一) 〕、「作野先生は両親が離婚されただけあって苦労してきておられるわあ」「お父さんがおられないだけに、しっかりしておられるわあ」と言ってみんなからほめてもらう権利があると思いこんでいたようで、思い込むだけでなく積極的にそのようにほめるように要求してくる女だった・・・が、そんなこと言ってほめてあげなければならない義務が周囲の人間誰もにあるのか? ・・というと、そんな義務みたいなもん、ないと思うぞ。ちょっと、厚かましいんちゃう? このバカ女症候群、ちょっと何とかしてもらいたかった。

バカ女は死ね!! - バカ女駆除協会
だいたい、この旧姓作野礼子さんは1975年4月の入学式に、その年の1年のクラスの担任をもっていたにもかかわらず、入学式の日に有給休暇とって海外旅行に行きやがったが、有休休暇というものは「取得理由」というものがないと取ってはいけないというものではなく、(株)エイブル〔⇒《YouTube-セカハン 「エイブル」》https://www.youtube.com/watch?v=k2bVz-RwNAw 〕 には「有給休暇申請書」という書式があって、そこには「有給休暇をとる理由」という欄があったが、「有給休暇をとる理由」は「有給休暇」でよいのであって、「これこれ、こういう用事がございまして・・」とか記入しなければとってはいけないという性質のものではない・・・のですが、他方において、使用者の側はいついかなる時でも労働者・従業員から有給休暇をとりたいと言われればとらさないといけないというものでもなく、その業務の都合から取得されたのでは業務に支障がでるような場合にほかの時にしてもらえないかと言ってもいいことになっているはずであり、「有給休暇の取得理由」を述べた方がいい場合としては、「繁忙期であるにもかかわらず有給休暇を取得したいという理由」として「子供が交通事故にあった」とか「親が危篤である」とか「自分自身が出勤が困難な病気にかかった」とか「隣家で火災が発生して自分の家も延焼を受けた」とか「刑事事件の目撃者として裁判所に出頭を求められている」とか、そういうケースについては「理由」を述べた方がいいでしょうけれども、そうでなければ「有給休暇を取得する理由」は「有給休暇」でいいのですが、北野高校の教諭というのは日曜祝日は休みで、春休みと夏休みはそれぞれ2か月ほど休みがあって、冬休みも2週間休みがあって、勤務時間も夏時間は1限目が午前8時10分からで、午後は6限目は午後2時40分まで、冬時間だと1限目は午前8時30分から始まって、6限目は午後3時00分までで、6限目終わったらさっさと帰っておるし、1限目に授業をもっていなければ2限目から出勤しておるし、その上でまだ入学式の日に有給休暇とって海外旅行に行くとは、いったい、どんなけ働くのが嫌なんじゃい・・・て感じやったが、生徒には教諭との顔合わせという意味もあって入学式をやりますと言い、親にもそう話して、それで親は有給休暇を使って勤め先を休んで入学式に出ているのに、来てくださいと言った側の教諭が有給休暇とって「海外旅行に行ってお休みです」とは、それはなんじゃい! ・・てもので、北野高校の校長先生は管理者として「何も入学式の日に海外旅行に行かなくても、ほかの時に行けばいいのと違うのですか」と言って有給休暇はほかの時に取るように求めてよかったのではないのか。最近、入学式・卒業式などが「君が代」「日の丸」礼賛式にされてしまっているケースが少なくないようで、もしも、そういうものに対して順法闘争として有給休暇をとって休んで参加しないということなら、そういうことならわからんこともないが、旧姓作野礼子さんの場合はそういうものではなく、単に4月の8日だったか、その頃は海外旅行に行く代金が安いから入学式の日に行ったというだけのことであり、何より「みんなのために闘う」とかそういうタイプではない人であり、普段から休みの多い仕事なのに、まだ、入学式の日に、生徒やその親には来てくださいと言ってこさせておいて、おのれは海外旅行に行くとは、よくやるよなあ・・・( 一一) そんな入学式ならば、生徒の方も有給休暇とって、「そうだ♪ 京都行こう」〔⇒《YouTube-女ひとり デューク・エイセス》https://www.youtube.com/watch?v=we3rlwx0lUQ 〕とか、「そうだ♪ 奈良に行こう♪」とか・・別に和歌山でも城崎温泉でもいいけども、「そうだ♪ 城崎温泉行こう」と行ってやってもよかったのではないか・・という気がする。・・しませんか?
※ YouTube-城崎温泉の外湯を分かりやすくご案内!【湯めぐり】https://www.youtube.com/watch?v=NrJPLQsEeLI

城の崎にて・小僧の神様 (角川文庫) - 志賀 直哉
教諭が海外旅行に行って出てこない入学式に、なんで生徒は出なきゃならないんだよ?!? 教諭が有給休暇とって海外旅行に行って出てこない入学式に、なんで生徒の親は有給休暇使って勤め先を休んで出なきゃならないんだよ?!? あるいは、生徒の親が有給休暇使って勤め先を休んで出る入学式を、なんで教諭が有給休暇とって海外旅行に行って休むんだよ。 そう思いませんか?

城崎(きのさき)殺人事件 (光文社文庫) - 内田 康夫
「私は両親が離婚したんだからねえ」とかおっしゃるのだが、もしも、その離婚の原因を私が作ったとでもいうのなら、「えらいすんまへんでしたなあ」とでも一言くらいは謝った方がいいと思うが、別に私が旧姓作野礼子さんの両親が離婚する原因を作ったのとは違うだろうが。「ち~が~う~だ~ろ! このボケ~え!」てものだ。 又、旧姓作野礼子さんは「私は両親が離婚したから」と言い、「両親が離婚した」娘というのは両親が離婚していない息子・娘よりもえらいのだ、ほめてもらう権利があるのだと言いたいらしかったが、「両親が離婚した」ら何かえらいのか? 「両親が離婚した」から自分は苦労してきたんだ、「作野先生は両親が離婚されたから苦労してきておられるから、それだけ、しっかりしておられてえらいわあ~あ」とみんなよってほめてもらう権利がある、誰もがほめなければならない義務を持っていると心の底から信じていたらしかったが、しかし、私の経験を踏まえて言わせていただくならば、「離婚した夫婦」の娘と「離婚できない夫婦」の息子というのは、どっちが大変かは、これはいちがいに言えないと思うのだ。
もうひとつ、「離婚する」と言い出すというのは、これは「刀を抜く」ような行為だと思うのだ。刀を抜いたならば、その抜いた刀で相手に切りかかるか、それとも、切りかからずに抜いた刀を鞘に納めるか、どちらかしなければならないのだが、鞘に納めるには、いったん抜いた刀を、その刀で切りかからずに鞘に納めるための口実が何か必要になる。うちの親の場合、常にその口実に私を使ってきた、私はその口実に使われてきたのだった。離婚するなら離婚していいし、離婚したくなければしなくてもいいけれども、どっちにしても私を口実に使うのはやめてほしかったが、なにしろ、うちの親は「親には息子に対しては所有権という権利がある」と考えていたので、「所有権がある」者はその「物」に対してどのようにでも好きにする権利があるらしかった。旧姓作野礼子さんは「私は両親が離婚したんだからねえ」と叫びまくり、「作野先生はご両親が離婚されただけあって苦労してきてられるから」とか「作野先生はお父さんがいないから苦労してきてられるから、だから、しっかりしてられるわあ」とか誰もがそう言って称賛する義務があると思っているらしかったが、旧姓作野礼子さんは「両親が離婚した」娘だけあって、「離婚する」と言いまくりながら離婚できない夫婦の息子というものが、どれだけ大変かなんてちっとも理解しないバカ女症候群の女だった。「病識がない」ところが難儀やった( 一一) 「電気ショック療法」でもやってやれば「ちょっとはよくなる」かもしれんかったが、もしくは「薬物療法」として「蚊取り線香、粉にして蕎麦にふりかけ」食わせれば、あるいは「精神外科療法」として「通天閣から突き落と」せば「ちょっとはよくなる」かもしれんかったか〔⇒《YouTube-アホの坂田》https://www.youtube.com/watch?v=nyNnvSRNgY4 〕。もしくは「シベリア送り」にして「作業療法」として強制労働につかせれば、少しは「真人間になる」ことができたかもしれんが〔⇒《YouTube-流刑人 - アレクサンドル・スヴェシニコフ指揮ソ連国立アカデミー・ロシア合唱団》https://www.youtube.com/watch?v=B7drh7esOiE 〕、海外旅行でもそういう所には行かないみたいやった( 一一)
・・今から思うと、あのバカ女症候群、「入院療法」として座敷牢に入れてやりたいところだった。
うちの父親は私が高校3年の時に「浪人した人間の方が社会で役に立つから、あんた、浪人しなさい」などと、何とか現役で大学に通りたいと思って努力している高校3年生に向かって言ったというのは、それはどこから出てきたのか。うちの父親の場合「社会で」というのは実際は「会社で」を意味しているのであり、又、よく「(大学を出て)社会に出る」という表現がされることがあるが、それは実際は「会社に入る」を意味していることが多く、むしろ、「会社に入る」ことで社会を見る視野が失われ、会社しか見れない人間になってしまう人が多く、「会社に入る」ことで「社会に出る」という面はむしろ減退しているのではないかと思える人が少なくないのだけれども〔うちの父親なんかはまさにそれだったが〕、それを「社会に出る」と表現されることが多いが、うちの父親が言う「社会で」というのは、せいぜい「会社で」であり、それも、会社一般のことではなくてうちの父親の勤め先の会社でのことであることが多かった。どうも、うちの父親にとって一番のお気に入りの部下の人が「1浪で国士館大学卒」だったらしく、そこから「浪人した人間の方が社会で役に立つ」と言い出したらしく、決して東大とか京大とか卒業した人間を厳密に比較してのことではなかったはずだ。その程度のおっさんやった。だいたい、国士舘大学なんて受けたら通るはず、試験会場まで行って氏名と受験番号さえ書けば通るはずで、いったいどうやったら落ちるなんてできんねん、「1浪で国士館大卒」て器用なことする人やな・・と思うけれども、「そういう人間が社会で役に立つ」とおっしゃるのだった( 一一)
私が高校3年生の息子の父親ならば、何とか現役で大学に行きたいと思って努力している息子に向かって「浪人した人間の方が社会で役に立つ。あんた、浪人しなさい」などと、そんなことはかわいそうで言えない・・が、平気で言うのがうちの父親やった。そして、自分がそういうことを言って、そして浪人したからには「浪人した人間の方が社会で役に立つ」ということなのだから、別に浪人していいということになる理屈のはずだったが、今度は「あんたが浪人したおかげで、◇◇大学の受験料が〇万円、交通費が・・円、ホテル代が・・円、受験料を送るための封筒代が◇円、切手代が☆円、・・が・・円、電卓、でんたく、電卓、でんたく、デンタックウのおデンタック♪ デンタックウのおデンタック♪ わしはあんたのおかげで、これだけ損させられた」と言って電卓で計算した。そういうことを言うのなら「浪人した人間の方が社会で役に立つ。あんた、浪人しなさい」などと言うべきではないだろうが、と思ったが、私が高校3年の時には「浪人した人間の方が社会で役に立つ。あんた、浪人しなさい」と何度も言った男は私が浪人すると「あんたが浪人したおかげで、◇◇大学の受験料が〇万円、交通費が・・円、ホテル代が・・円、受験料を送るための封筒代が◇円、切手代が☆円、・・が・・円、電卓、でんたく、電卓、でんたく、デンタックウのおデンタック♪ デンタックウのおデンタック♪ わしはあんたのおかげで、これだけ損させられた」と毎日毎日ぼくらは鉄板の上で焼かれて嫌になっちゃうくらいに言いまくるのだった。
さらに、我が家の近所に、私と同じ小学校・同じ中学校から同じ北野高校に行って、阪大(大阪大学)の法学部に現役で通った川村という男がいて、この男のお母さんが「ちょっと変わった人」で「うちの息子は京大でも通りました」と近所の人間に言ってまわるのだったが、「京大でも通りました」のなら、それなら実際に京大を受けて通って京大に行けばよいではないか。誤解せんといてほしいんやけども、「すいませんけれども、京大は受けんといてもらえまへんかあ。阪大にしてもらえまへんでっしゃろか」なんて、わし、一言でも頼んでへんで。「京大でも通りました」のなら京大を受けて通って行けばよいだろうが。違うのか?!? 「阪大なら絶対に通りますと北野高校の先生が言われました」とか言ってまわるのだったが、普通、「北野高校の先生」はそんなこと、言えへんで。
「川村くんは現役で大学に行きましたのに、なんで、あんたは現役で行けしませんのんか」とうちの父親は言うのだったが、うちの父親は私が高校3年の時には「浪人した人間の方が社会で役に立つ。あんた、浪人しなさい」などと言ったはずで、かつ、「東大とか京大とかに行くためには、浪人は嫌やなどと甘ったれたこと言うておってはいかん」とかも言っていたはずだった。それが浪人したらそういう口をききだしたのだった。その「川村くん」だが、彼が高校3年の時に模擬試験などでどんな成績を取っていたか知らんが、「阪大なら絶対に通る」などということは、それは絶対にない。なぜなら、阪大はそんなに無茶苦茶やさしくないからだ。ある程度以上の所を受けるからには「絶対に通る」などというものは、ない! 模擬試験などで相当いい成績を取っていた者であっても、これは反比例のグラフのようなもので、反比例のグラフではX軸の数値が大きくなるとY軸の数値は限りなく0に近づく、Y軸の数値が大きくなるとX軸の数値は限りなく0に近づくが、どこまで行っても0にはならない。これと似たもので、ある程度以上の難易度の所を受ける限り「絶対に通る」などというものは「絶対に」ない。さすがに、京大・阪大くらいに行こうという者が亜拓大東帝国とかを受けるならば、あほくさいから氏名と受験番号だけ書いて白紙で提出してくるとかしなければ、おそらく通るだろうけれども、逆にそういう所に通っても行く気にならないのではないか。だから、百パーセント満足できるかどうかはさておき、行く気持ちになれる可能性がある所を受ける限り、「絶対に通る」などということは「絶対に」ない。
又、2023年、阪神タイガースの監督に就任した岡田が「優勝」という言葉を口にせずにかわりに「あれ」と言ったが、これは阪神タイガースというチームは昔から優勝争いには無茶苦茶弱いチームで、9月頭くらいまで優勝あらそいに加わっていても、優勝できそう♪ とか思い出すと、次に「優勝なんてしちゃっていいのだろうか?」とか思い出すという伝統があるからということもあるが、そうでなかったとしても、優勝できるかどうかなんてものは、最後の最後までわからんのだからということがあったと思う。たとえ、模擬試験などで相当高得点をとっていた生徒であったとしても、「絶対に通る」などと勝手に思っていたならば、その意識というのは、それは「落ちる側の要素」だと私は思っている。もしも、私が「北野高校の先生」だったら、「阪大なら絶対に通ります」などとは「絶対に」言わない。彼が模擬試験などで相当いい成績を取っていて、模擬試験の成績から考えるならば「京大でも十分ねらえるのではないか」と思える成績だったとしても、まず一番に阪大は同じ学部ならば京大よりもいくらか入りやすい・・としても、「無茶苦茶入りやすい」わけではないのであり、京大に行きたいと思って勉強してきたけれども、少々厳しいかもしれないと思って試験直前に阪大に受験先を修正して阪大を受けて通って行ったという人はいるけれども、京大を目指してきて阪大に受験先を変更したとしても、その阪大を落ちる可能性だってあるわけで、これは「あること」であり、「絶対に」通るなどということは「絶対に」ない!
「北野高校の先生」でも体育の先生とかで3年の担任を持っている人もいたわけで、もしも、「川村くん」の3年の時の担任の先生が「絶対に通ります」などと本当に言ったなら、その人は「体育の先生」だったのか、それとも大学入試にある科目を担当している教諭だけれども自分自身は京大・阪大・東大とかを出ていないだけでなく受けたこともない、そうではない方の「大学」卒の先生だったかではないか、と思う。私が「北野高校の先生」であったならどんなに優秀な生徒にでも「絶対に通ります」などとは「絶対に」言わない。「最後の最後まで何があるかわからない」と言ってあげますし、「最後の最後まで何があるかわからない」と認識して受けるならば、その意識は「通る側の要素」であり、「絶対に通る」などと勝手に思っているならば、その意識は何パーセントかでも「落ちる側の要素」である、と思う。岡田だって最後の最後、優勝が決まるまで「あれ」と言い続けて「優勝」とは口にしなかっただろう。・・まあ、阪神にゃんこ は「優勝」と口にすると、「そんなものしてはいけない」とか思い出す伝統があるからということもあったとは思うが。
「浪人すると人生を知る」とかなんとかかんとか言う人がいるが、私は自分が浪人した時、そういうことを言われるのが嫌だった。遠藤周作が『わが青春に悔いあり』で述べていたが、「浪人の経験」というものは基本的には2浪以上のことであり、1年浪人して大学に入ったような手合いが「浪人も人生経験としていいものさ」とか高校生に語ったりするのを見ると笑止である、チャンチャラおかしいと述べていたが私もそう思う。

わが青春に悔いあり―狐狸庵閑話 (角川文庫 緑 245-12) - 遠藤 周作
うちの母親は「現役で通った人よりも浪人した人の方が苦労を経験しているからいい」とかいう話を仕入れてきたのだが、どうも、うちの母の知り合いで夫が「一橋大現役合格卒」という人がいたらしく、その人が「現役で通った人よりも浪人した人の方が男の人はいいよ」というようなことをうちの母親に言ったらしいのだが、それは片方で「謙遜している」ように見せて、部分的に「夫についてのぐち」であるとともに、何より「うちの夫は現役で一橋大卒なんですよ」と言いたい・・てことだったのではないか、と思う。それはちょっとだけ「夫についてのグチ」で大部分は「のろけ」と「ちょっと自慢」みたいなものであり、言わせてあげればいいじゃん・・で終わり・・にしておけばいいのだが、ところがうちの親はそういうものにいちいち反応するのだった( 一一)
それで、遠藤周作が言うように、2浪以上の浪人をすると、そこで何かを経験するということはあると思う。だから2浪以上するのがいいとは思わないけれども、何かを学ぶというものはあるだろう。それに対して、たとえば、慶應大学に「愛塾」奨励空手会という自分たちが主張する「愛塾」が愛塾であってそれとは異なる愛塾は認めないという空手使いの右翼団体があって、そこにいた慶応大文学部の千葉クロマティ高校卒の富永という私より1つ年下だった男なんぞは、本人もこの点は正直に言っていたが、元から高校卒業する時点では慶応大なんか通るような人間ではなく、浪人して「慶應の経済」と「慶應の文学部」の試験科目だけ学習して、「1浪で慶應の経済」に行ければラッキーだが「1浪で慶應の文学部」でもいいと考えて、そして「見事、目標達成♪ ラッキー♪」てものだったわけで、富永とかこの類の人間は「落ちる経験」だの「失敗の経験」だのなんかまったくしていない。千葉クロマティ高校卒の富永なんかは「大成功」だったのだ。私なんかは「どこでもよかったら」なんて言ってもどこでもいいわけないのだけれども、絶対にどこに行きたいとか言わなければどこか行ける所はあったわけで、慶應大なら高校卒業する時に受けていたら通ったような気がするのだが、受けていないからにはわからないとしても、それでも通ったのではないのかという気がしているが、国立大学でもどこか旧帝大系国立大学のどこかというくらいなら、どこか通ったのではないかという気がするが、富永なんかは「1浪で慶應の経済」「1浪で慶應の文学部」の入試科目だけしか学習していないから国立大学にはまず通らない人間で、彼なんかは「失敗の経験」だのなんてまったくしていない。慶應大学にはそういう富永みたいなやつというのがわんさといたが、うちの母親はそういう人間、「富永みたいなやつ」が大好きで私のような人間が嫌いだったのだが、私は「富永みたいなやつ」とは違って、高校卒業する時点で何としても東大に行きたいとか言わなかったら、「どこでもよかったら」なんて言ってもどこでもいいわけないのだけれども、どこか行ける所はあったが、それでも東大に行きたいと思って受けて結果として浪人した。「富永みたいなやつ」「慶應タイプ」とは違うのだ・・が、うちの母親などはその「富永みたいなやつ」みたいなのが好きみたいだった( 一一) 私が小学生の時、中学生の時、クラスで2番の成績だったりすると「なんで1番と違いますのん」とうちの母親は怒ったのだったが、小学校から高校まであんまり勉強しないで、高校卒業時点ではろくな大学行けない成績で高校卒業したあと、浪人してその浪人の間に「1浪で慶應の経済」「1浪で慶應の文学部」の入試科目だけ学習して、「1浪で慶應の経済」に行ったやつとか、「1浪で慶應の経済」は落ちたが「1浪で慶應の文学部」はぎりぎり通って行った「富永みたいなやつ」とか、うちの親はそういうのが大好きだったらしいが、そういう人なんて「失敗の経験」だの「現役で通った人間とは違う苦労」だのなんて、そんなもん、やってへんで。何をしょーもないこと言うとんねん・・・と思うが、そういうことを言いたがる人というのがいるようだ( 一一)
遠藤周作は「浪人の経験」とかいうのは基本的には「2浪以上」の場合であって1年の浪人みたいなもの、「浪人の経験」だのというものには入らないと述べているし私もそう思うのだが、「1年の浪人の経験」でも経験するものがまったくないわけではない。北野高校の3年の時の担任だった大谷郁三(男。1970年代後半当時、40代)は遠山啓(ひらく)『競争原理を超えてーひとりひとりをいかす教育』(太郎次郎社)とかを引用して「序列主義、というのは嫌な言葉ですね」とか「どの大学に行ったかで人の値打ちが決まるという考え方は、それは学問のあり方としておかしいですね」とか、そういったことを矢鱈と口にする男で、それらの発言自体は間違いではないであろうけれども、しかし、北野高校で私と同じ学年だった生徒でも現役ですんなりと大学に行った人間は彼の本性に気づかずに、彼はそういった学問の本来のあり方を追い求め、学校というものが差別につながったり人間の序列づけにつながったりしてはいけないと考えるヒューマニストか・・と勘違いして卒業してその後もそう信じている人間がいたが、実は、あの男はそんな人間ではないのだ。浪人してわかった。大学入試は通った方がいいか落ちた方がいいかというと通った方がいいに決まっている。浪人して経験するものというものもあるかもしれないが、そうであっても現役で通って行った方がいい。しかし、落ちた人間といえども、別に人を殺したわけでもないのだ。ところが、この大谷郁三という男は人が浪人すると、
《 現役で通って大学に行った人間=「ええもん」、
大学入試に落ちて浪人している人間=「わるもん」》
という意識でおり、そういう言い方をするのであり、そう考えている人間だったのだ。大学入試は通った方がいいか落ちた方がいいかというと、通るために受けるのだから通った方がいいに決まっているし、さっさと現役で通って行った方がいいけれども、落ちたとしても別に人を殺したわけでもないのだが、そのあたりを大谷は理解できない人間だった。遠藤周作が述べているように、「浪人の経験」とかいうものは基本的には2浪以上のもののことで、1年の浪人をして大学に行ったような手合いが高校生に「浪人の経験もいいものさ」とか勝手な口をきいているのを見ることがあるが、つくづく笑止であると私も思うのだが、たとえ、「1年の浪人の経験」であっても、北野高校で3年の時に大谷に担任を持たれた者は、この男が浪人した人間に対してとった態度というものを見て、「序列主義というのは言葉からして嫌な言葉ですね」とか「学問によって人が差別されるというのは学問のあり方としておかしい」とか「けっこうなお話」を言いまくりたがる症候群のこの男がとった言動と比べて違和感を覚える経験をしたはずだ。
さらに言うと。私が1浪の時の6月だったと思うが、大谷に相談に乗ってもらいたいと思って北野高校に行ったことがあったのだが、大谷がいる社会科系の教諭の準備室に行くと、大谷は「おう、来たか」といい、「ちょっと待ってくれな」と言うので、何かやっていることがあるのだろうと思って待つと、ずいぶんと待たせた上で「出ようか」と言うので、どこに出るのかと思い、他の部屋に行って話そうというのかと思ったら、ずいぶんと速く歩いて校門から外に出るので、どこか喫茶店にでも入って話をしようということなのかと思ったら、そのまま速足で歩いて十三駅まで行き、どこまで行くんだと思ったら、阪急「十三(じゅうそう)」駅の改札口で「じゃあな」と言って定期券で中に入って帰ってしまった。・・あれはいったい何だ??? 「序列主義というのは、言葉からして嫌な言葉ですね」だの「大学によって人が差別されるというのは、これはあってはならないことです」とか何とかかんとか言いまくってきた男のその態度に驚いた。ものすごいショックを受けたが、その時は、ものすごいこたえた・・・が、それから十年以上経ってみると、「いい経験」かどうかはわからんが、ひとつの経験をさせてもらったと思うようになった。私は大谷に特別に嫌われるようなことをしていないように思っていたし、3月に落ちた後、報告に行った時には大谷は「また、来いや」と私に言ったはずで、又、高校3年の1月頃には教室でクラス全員に「卒業してからも、いくら来てもらってもけっこうですが」と大谷は話したはずだったのだが、あれはいったい何なのか・・と思ったが、私だけにではなかったようで、たとえば、YMCA予備校高槻校に来ていた北野高校の3年で同じクラスだった男も「大谷、なんでか最近、冷たいねん」とか言っていたので私にだけではなかったようだったが、あれは何だろうか・・と思ったが、大谷郁三という男は要するにそういう男だったようだ。現役ですんなり大学に通って行った人間には、大谷郁三という男がそういう男だということを卒業して5年も10年も経っても知らない、「序列主義というのは言葉からして嫌な言葉ですね」「学問の目的は人を差別することであってはならないはずなんです」とか何とかかんとか「けっこうなお話」しまくる男症候群の男が、浪人した人間に対してやることというのは、そういうことだったのだが、たとえ1年でも浪人した人間はそういうものを見たのに対して、現役でさっさと通って大学に進んだ者は知らずに人生を進んでいる・・という面はあり、その点では1年の浪人でも「浪人の経験」というもの、「浪人で学んだもの」というものはあったのかもしれない。
「浪人の経験」というと、私が高校3年の時、「現役で大学に通ったら思いあがった人間になって女を泣かす男になるから、こいつ、絶対に落としてやらんといかん」と言って、私が家で学習していると服をつかんで背後にひっくり返し、「こいつ、落ちろお~お! 落ちろ、こいつう~う!」と言ってホウキとかでボコボコ殴りつけたうちの母親は・・・ちなみにうちの母親は「私は血圧が」「私は心臓が」とか言いまくっていたのでそれを見て弱弱しそうに感じる人もいたようだが、ところが、椅子に座って机に向かっている私を服をつかんで背後にひっくり返したり、ホウキで私をボコボコ殴りつけたりする時は、けっこう力強いですからね、特に息子というのは、いくらやっつけても反撃してきませんから、その点、自信もってやっつけますからね・・・、私が浪人すると「浪人にこづかいは要らんでしょう」と言って、鉛筆や消しゴムなどを買う費用を渡してくれなくなった。小学校・中学校の同級生で「バカでも通る私立大学」に通らないやつが「今、浪人で大変やね~ん」とか勝手な口をきいて、けっこう高額のおこづかいをもらってけっこうな生活しているのを見ることがあったが、特別高いおこづかいなんて別に要らないけれども、大学受験生から鉛筆や消しゴムを奪うのはやめてほしかった・・が、それをやるのがうちの親だった。鉛筆や消しゴムなどを買うお金を奪われるのはきつかった。
北野高校という高校は行きたいと思って行った高校だったので合格発表の時はうれしかったが、卒業して10年以上経って冷静に考えることができるようになってみると、「あんまりいい学校ではなかった」と思うようになった。特に、北野高校の教諭やっていた連中、あいつら、無能のくせして、なんであんなにえらそうにしているんだ・・と思うようになった。無能だからえらそうな態度をとって権威ぶっていたのかもしれないが。柴田孝之は『東京大学機械的合格法』(実業之日本社)で「能力的にも優秀で、人間的にも優れた教師というのは、実は多くの人間が思っているよりもはるかに少ない」と述べていたが、私もそう思う。

東京大学機械的合格法―アップグレード版 - 柴田 孝之
北野高校は行きたいと思って行った学校だったので合格発表の時はうれしかったのだが、卒業して10年以上経ち、冷静に考えることができるようになってみると〔マインドコントロールがとけてみると〕、あんまりいい学校ではなかったな・・と思うようになった。1970年代後半、1浪の時の6月に2年の時の担任だった旧姓作野礼子から「私なんかは浪人なんか絶対にさせてもらえなかったわよ」とか言ってずいぶんと責められたものだったが、我が家でも「女の子なら浪人はしない方がいいけれども、男は『浪人は嫌や』などと甘ったれたこと言うておってはいかん」とかうちの父親は言っていたのだ。うちの姉は「浪人なんかさせてもらえなかった」。
後で考えてみると、あの女、なんで、あそこまで私を苛めないと気がすまないのかと思う。あの女がいた、ということから考えて北野高校という高校はどう考えてもいい高校ではない。 何より、慶應大学なんか行ってみなさい。たとえば、「愛塾」奨励空手会という空手使いの右翼団体にいた千葉クロマティ高校卒の富永(男。私より1つ年下)なんかは、高校卒業時においてはろくな大学通らない人間だったのであり、そうでありながら、ふんぞりかえって浪人して、そして、浪人中に「1浪で慶應の経済」と「1浪で慶應の文学部」の入試科目である「数学1・2B」と「英語」だけをぎりぎり合格できるかどうかというレベルにまでだけ学習して、それで「1浪で慶應の経済」には落ちたが「1浪で慶應の文学部」には通って「1浪で慶應の文学部」に行きよったのだ。そして、「俺なんかは、きっちりと1浪で通った」とそう言いよったのだ。「きっちりと1浪で通った」などという日本語があるとは思わなかった。びっくりした。1浪で大学に行った人間というのは、北野高校のクラブのOBでも「恥ずかしながら、1年の笠張りののち、なんとか☆☆大学▽学部に合格して入学いたしました」と、北野高校の卒業生の場合は1浪で大学に通って行ったというのは「恥ずかしながら」とつけて挨拶するものだった。富永みたいに「俺なんかは、きっちりと1浪で通った」などと「きっちりと1浪で通った」などと言う人間は北野高校の卒業生にはいなかった。ところが、「富永みたいなやつ」、千葉クロマティ高校卒の男にとっては「きっちりと1浪で通った」というのが普通の日本語であり「ちょっと自慢」であるのだった。そんなやつが世の中にはわんさといるのであり、富永なんぞは「ちょっと自慢」というよりもふんぞりかえっていたのであり、そういう「富永みたいなやつ」が世の中にはわんさといるということから考えるならば、なんで私だけ、そこまで旧姓作野礼子から責められなければならないんだ?!? 北野高校に行くと損みたいだ。 旧姓作野礼子は自分が担任を持った生徒に対してはそういうことを言って責めて、「いったい、どうすればいいのだろうか」と悩ませるのだったが、クロマティ高校卒の「富永みたいなやつ」には何も言わないのだった。自分の勤め先の高校の卒業生にはそうやって責めて苛めて、クロマティ高校卒の富永とかがふんぞり返って1浪していることについては、まったく責めないのだ。おかしいと思わないか? これでは北野高校に行ったら損みたいだ。そう思いませんか?
もうひとつ、「いったいどうすればいいの?」という問題がある。 野村じいさんが筑紫哲也との対談『功なき者をいかす』(カッパブックス)でだったと思うのだが買いていたのだが、野村がまだ南海ホークスに入ってすぐの頃、東映との試合で東映の監督だった水原がコーチすボックスに入っていた時に、レギュラー捕手が「キザ、キザ」とかやじったのを見て、南海の監督の鶴岡が「こらあ。相手の監督をやじるとは何事だあ」と言って怒ったというのだ。選手が相手チームの人間をやじっていいのは、相手の選手であって相手チームの人間でも監督やコーチはやじってはいけないと鶴岡は言ったというのだ。野村は監督やコーチは選手とは立場が違うのであり、選手が監督やコーチをやじるようなことはしてはいけない、と野村は解釈したらしかったが、別の意味もあるのではないかと思う。
選手は相手チームの人間からやじられたとしても、投手ならば相手チームの野手から何か腹立つことを言われたならば、「この野郎」と思って言った人間を見事に打ち取ってやればいいのである。「悔しかったら打ってみろ」というものだ。やじられた選手が野手で相手チームの投手からやじられたならば、次に打席に立った時にその相手からヒット打ってやればいいではないか。なんだかんだ言ってもその俺に打たれただろうが・・てものだ。ある週刊誌に載っていた話だが、張本は在日韓国人で時に相当悪質な野次をスタンドから受けることもあったらしいが、そのたびに張本はそれをファイトに変えて、「そうら、またヒット打ってやった」「またヒット打ってやったぞ」とヒットを打ちまくり首位打者のタイトルを何度も獲得したという・・が、監督やコーチは試合に出ないから、そういうことができない。野手が「こんちくしょう」と思った気持ちでヒット打ったり、投手が相手打者を打ち取ったりできるならいいが、それをやろうとしてもできない立場の人間はやじってはいけない、という意味もあるのではないか。
高校生である時に悪い点数を取った時に「もうちょっと頑張りなさいよ」と言われたなら、「こんちくしょう」という気持ちで次回、もっといい成績を取るということだってできるだろう。しかし、すでに浪人してしまった人間に「私なんかは浪人したいと思ってもさせてもらえなかったのよ」とか言って「浪人してしまった」ということを責めまくっても、もう、浪人していない状態に戻すことはできないのだから、それをいったいどうすればいいの? 私が北野高校の教諭であったなら、高校生にならば「できる限り、現役で大学に行くようにした方がいい」と言ってあげるけれども、浪人してしまった人間に、よくも浪人しやがってからにとそれを責めたりはしない。責められても、もう、その点についてはどうもできないのだから、もうどうもできない部分について責めても苛めているだけであって、どうもできないではないか。それをやりたがる女が北野高校の2年の時の担任だった旧姓作野礼子(女。当時、20代。北野高校卒⇒神戸大文学部卒)だった。
私なんかは、神戸大の文学部なんか、たとえ行きたいと思っても絶対に行かせてもらえなかったし、受けさせてもらえなかった。旧姓作野礼子は何をウルトラ甘ったれて・ウルトラ増長して神戸大の文学部なんか受けて行っているんだ!?!
もしも、私が北野高校の教諭であったなら、高校生には「大学は、できる限り現役で行った方がいい。『浪人した方がいい経験をできるぞお~お』とか言って現役で合格できる可能性がある人間を浪人させてやろうとするヤカラがいるが、そんなやつの話に乗らない方がいい」と教えてあげますが、すでに浪人してしまった人に対しては、「浪人なんかしてからに」と責めても、「私なんか浪人なんかさせてもらえなかったわよ」だの何だの言っても、もう、今さら浪人しなかったことにはできない者にそんなこと言っても苛めているだけでしかないのであり、私が北野高校の教諭ならばそんなことは言わない・・が、言うのが旧姓作野礼子であり、かつ、旧姓作野礼子も誰にでも言うのではなく、そういうことを言って苛める相手とそういうことは言わない相手があるみたいだった。
私は旧姓作野礼子からそういうことを言われて、それで、いったいどうすれば、それを補うことができるだろうか・・と真剣に考え、真剣に悩んだ。そういう時に私がその時の私の親だったならば、「そういうアホな教師は相手にするな」と教えてあげるところだが、うちの親はそういうことを言える親ではなかった。
『あしたのジョー』では、少年院のボクシング大会で、矢吹丈を「1分以内に倒す」と宣言した力石徹は、その「1分以内に倒す」という宣言が達成できなかったことにより、「これを補うために、この矢吹を半殺しに叩きのめしてやる」とか言い出すのだったが、「なんだかんだ言っても、公約は達成できなかったのは事実も事実。まったくデタラメうそっぱちのカシアス=クレイ。ほら吹きクレイ」と矢吹から罵られて頭に血が上る・・・が、「私だったら浪人なんかさせてもらえなかったのに、あんたは浪人なんかして」と旧姓作野礼子に責められて、どうすればいいのだろうか・・と考え、次回の入試では東大の入試に1番で通るとか、そうすれば挽回できるだろうか・・とか考えた・・・が、そんなことを考えたのは、1浪の時の私にとってマイナスになった。
その試験が1番で通るかどうかが求められる試験ならば「1番で通る」というのを目指せばいいが、そうではなくて「合格最低点を上回るかどうか」だけが問われる試験であるならば、合格最低点を上回ることができるかどうかだけが大事であり、それ以上、高得点をとっても、それがいったいなんぼのもんや!?!・・・てものだ。 むしろ、1989年に藤田元司が巨人の監督に二度目になった際、「読売新聞」のスポーツ欄で「ボロ勝ち、競り負けは弱いチームのやること」と述べていたが、その通りで、ボロ勝ちする必要はないのであり、「1番で通る」などとアホなこと思っていると、そんなアホなこと考えるということが落ちる原因になる。
あのバカ女症候群、私にいったいどういう恨みがあったのだろうか。北野高校は行きたいと思って行った学校だったから合格発表の時はうれしかったが、あの女がいた、あの女に2年の時に担任をもたれたという点において北野高校という学校は最低・最悪・最凶の学校だった。
ヨーロッパに「Touch Wood(タッチ ウッド)(木にさわってよ)」という日本の鬼ごっこ に似た遊びがあるという。「あまり調子のいいことを口にすると、悪魔が罠にかける」という言い伝えがあり、その際、木でできた物に触れると悪魔の罠からまぬかれると言われ、そこからできた遊びらしい。 「絶対に通る」なんて、いっちどういう論拠があるのか知らんが、そんなことは口にするべきことではないと思うが、たとえ、口にしなくても、そんなこと思っていたならば、その意識はその分だけ「落ちる側の要素」であり、そして「悪魔が罠にかける」ことにつながるものであろう。
しかし、それにしても「川村くん」のお母さんというのも、よくやってくれるよなあ・・と思う。阪大を受けて合格して行った人間には、入学してしばらくして、「もしかして、京大を受けていても通ったかもしれん」とか思い出す人がいるかもしれないし、又、実際問題として、阪急に乗って通学すると、同じ中学校から同じ高校に行った同じ学年の人間で京大に行った人間と顔を合わすことだってあると思うし、「京大でも通ったかな」とか思うことがあっても不思議ではない・・・けれども、阪大を受けることにしたのは自分だろうが。違うのか? 誰かに「京大を受けたらおまえの誰それを殺す」とか脅迫でも受けたのか? 違うだろ。うちの父親は私に「京大はアカやから受けてはいか~ん」とか言いよったのだが、そういうことを誰かから言われたのか? 少なくとも俺は「川村くん」にそんなこと言ったことはないぞ。うちの母親はそれほど社交的な方でもないと思っていたのだが、ところがそういう話はよく仕入れてくるのだった。せめて、息子が浪人中くらいおとなしくしておれないものかと思ったが、「川村くん」の母親からそういう話を聞かされてきて、そして、「いちいち反応する」のだった。しょーもないおばはんがしょーもないこと言いよったとしても、「ああ、そうですか」ということにしておけば、それでおしまいなのだが、いちいち反応するから、だから、余計になんだかんだしょーもないおばはんは言いよるのだ・・・が、うちの親はそういう親だった。そういう親とのつきあい方に困っていた息子に対して、北野高校の教諭は高校の先生ならば少しは協力してくれてもいいのではないかと思ったが少しも協力してくれなかった。今になって思うと、彼らにはそういう能力はなかったのだ。アホだったのだ。あいつらは。

家族関係を考える (講談社現代新書) - 河合隼雄
北野高校は行きたいと思って受けて行った高校だったので合格発表の時はうれしかったが、卒業して10年以上経ってみると、そんなにいい学校ではなかったな・・と思うようになった。特に、北野高校の教諭どもは、あいつら、無能のくせして、なんであんなにえらそうにしているんだ・・・と思うようになった。
〔・・無能のくせして「言うことをきかす」ようにしたいと思うから権威ぶろうとしてえらそうにしていたのかもしれないが。・・実際、世の中にはそういう人はいる。山科けいすけ『C級サラリーマン講座』には、会社の受付に「社長はおるか」と板垣退助みたいな髭をはやした和服を着た年配のおっさんが来てえらそうな口をきくので、「どちら様でしょうか」と受付ねーちゃんが言うと、「たわけ! さっさととりつがんか。この痴れ者!」と怒られるので、よっぽど「エライ人」かと思って、「はひ~い」と応接室に通したところ、社長が会うと「この壺、〇十万円で買ってちょうだ~い♪」とか言い出しよった。「なんで、こんなやつ通したんだ


権威と権力――いうことをきかせる原理・きく原理 (岩波新書 青版 C-36) - なだ いなだ
私が1浪の時、北野高校の2年の時の担任だった旧姓作野礼子(女。1970年代後半当時、20代)から「私なんかは浪人なんか絶対にさせてもらえなかったんだからねえ」と言って、ずいぶんと責められたのだったが、それなら、あなたは高校3年の時に「こいつ、現役で大学に通ったら思いあがった人間になって女を泣かせよるから、こいつ、絶対に落としてやらんといか~ん」と言って、机に向かって椅子に座っているところを背後から服をつかまれて後ろにひっくり返されて「落ちろ、こいつう~う!」と母親からされましたか? 高校3年の時に自宅に帰って学習しようとすると、インタホンのソケットを抜いて入口の鍵はすべて閉めて窓の雨戸はすべて閉めて入れないようにされるとかされましたか? 高校1年に入った時には「うちは浪人させるつもりなんかありません」と言われたにもかかわらず、3年になったら「浪人した人間の方が社会で役に立つ。あんた、浪人しなさい」などと父親から言われましたか? ・・というと、おそらく旧姓作野礼子さんはされていないと思うのだ。なにより、旧姓作野礼子さんは「私は両親が離婚したんだからねえ」「私は父親がいなかったんだからねえ」とそれを最大の自慢にされていたのだから、「父親がいなかった」からにはいない父親から、高校3年になったら「浪人した人間の方が社会で役に立つ。あんた、浪人しなさい」などと言われたなどということはありえないはずだった。
それで、「フライデー」に掲載されていた記事によると、松島みどり さんは『東大入試合格作戦』というエール出版社から発行されている本に合格体験記を書いていたらしいのだが、そこには「私は文教地区として有名な豊中市の中でも学力水準が高いなんとか小学校でオール5でした」とか書いておったそうで、その後、大阪教育大付属中学校池田校舎に行った上で府立北野高校に進んだそうだが、浪人して東大の文科二類に合格できたらしいが、その際、早稲田大学には落ちたそうで「私は早稲田大学に落ちた時、絶対に東大に通ってこの早稲田大学という大学を軽蔑してやるんだと心に誓った」とか書いておった・・らしいのだが、そういう「合格体験記」というものは書くにしても、私なんかが何を書いても特にどうということもないけれども、もしも、将来、議員になったり大臣になったりする人の場合は、何十年も経ってから「フライデー」に探し出されて、こいつ、こんなこと書いてやがる、嫌な女やなあ・・・ということになってしまうから、だから、議員になったり大臣になったりするような人はうかつなことは書かないように気をつけた方がいい・・と思う。
※ [第409回]《 アクビ の松嶋みどり と職場の「新人類」家庭の教育の悪い女 。及、生命保険屋の異星人女は帰れ!》https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201604article_10.html
〔 国会でなくても、ほかに人がいる所で、ついアクビが出そうになった時には、男でも手で口をおおい、できるだけ人に見られないように下の方を向くなりして、できるだけアクビをしていることが人にわからないようにするもので、それを平気で堂々とアクビやっているというあたりは、「東大行っても出ても、あんまり育ちがよくないねえ」という感じがする。そういう印象をひとに与えないようにするには、人間、アクビが出そうになることもあるかもしれないが、できるだけ人から見えない方向で、手で口を覆って、アクビが出ていることが極力わからないようにするもので、そういう姿勢が身についていない・・というあたりは「東大でたって、そのあたりについては、育ちがいいとは言えない人」と見られてもしかたがない( 一一) 北野高校の生徒および卒業生で、元自治会長で、京大・阪大には合格者が多い高校だが東大にはそれほど合格者を出していない高校から東大合格で、東大に入ったらチアガールとかやって「週刊文春」のグラビアに出るなどして目立ち、そういうところから「英雄」みたいに言う人がいたが・・・、勝手に崇拝する人がいてもそれはその人の勝手だが、そこまでのものでもないように思う。〕
もっと歳をいってから資格試験の合格体験記を書く人の場合は「ちょっと、ええかっこしたい」とかいうことはそれほどないと思うのだが、大学入試の「合格体験記」の場合は、「ちょっと自慢」みたいなことを書きたくなる人もいるようで、又、合格した直後は「気持ちがハイになっている」ようなところもあって、必ずしも冷静に分析できずに書いていることもあるのではないかと思う。
若い頃に自分ではいい文章を書いているつもりでいて、10年くらい、もしくはそれ以上経って考えてみると、それほどいい文章でもなかったかなと思う場合もある。「合格体験記」ではないが、1970年代後半、「受験の国語 学燈」という月刊誌が学燈社から出ていて、この本は遠藤周作『口笛を吹くとき』にも登場人物の高校生(まだ、それほどの受験校ではなかった時代の灘高校の生徒)が利用している話としても出ていたのだが、悲しいことに今は廃刊になってしまったらしいが、この「受験の国語 学燈」に懸賞作文というものがあって、毎月、募集されていて、私は3回応募して、2回、佳作に選んでもらったが、優秀作と準優秀作は文章をこの雑誌に掲載され、佳作は在籍高校・卒業高校の名前と氏名だけ掲載されたのだが、私は結局、高校名と氏名は2回掲載してもらったが文章は一度も掲載してもらうことができなくて残念に思ったのだった・・・が、それから10年以上経って考えてみると、むしろ、文章は掲載されなくてよかったかもしれん・・ような気もするようになった。庄司薫が『バクの飼い主めざして』だったかで、昔の自分の日記など見つけて読んでみると「ギャッ」と叫び声あげてひっくりかえることがある・・・と書いていたが、10代くらいの頃にいい文章を書いているつもりで公表してしまうと、それから十年以上経ってから、その文章が発掘された時に「ギャッ」と声あげて恥ずかしさにひっくりかえってしまう・・なんてこともないとはいえない。「受験の国語 学燈」の懸賞作文に応募して佳作に選んでもらったものも選んでもらえなかったものも、その時はいい文章を書いたつもりでいたが、後になってみると、それほどいい文章ではなかったかもしれない・・とか思ったりもする・・が、それでも、その時は一生懸命書いたのだった。

バクの飼主めざして - 庄司薫
北野高校の体育の教諭でH石先生という年配の男性がいて、けっこう年配だったからか口の中でモゴモゴ話すような話し方の人だったのだが、「漢文」担当の藤尾教諭(男。当時、40代)はH石教諭が「色鉛筆」を「エロインピツ」と「イ」と「エ」を入れ替えて話すのは、H石教諭が栃木県の出身だったので栃木県のなまり・方言らしいと言っていたが、私は2000年前後頃、(株)一条工務店https://www.ichijo.co.jp/ で栃木県佐野市の営業所に勤務し、佐野市に3年半ほど住み、足利市・佐野市・栃木市といった栃木県南西部だけでなく、県庁所在地の宇都宮市付近とかにも行ったが、「色鉛筆」を「エロインピツ」と発音する人は栃木県で出会うことはなかったので、H石教諭が「色鉛筆」を「エロインピツ」と「イ」と「エ」を入れ替えて発音するのは「栃木県のなまり」だと藤尾教諭が言っていたのは、あれは違うのではないか・・とも思える。
H石教諭と似た感じで、私と同じ小学校・同じ中学校から同じ府立北野高校に行って、慶應大経済学部に行って、その後、兵庫県庁に勤めたとか言っていたS本彰という男は、この男は「なまたまご(生卵)」を「なまなまこ」と発音する男だったが、この男も「栃木県の出身」だったのかというと、栃木県に3年半住んだ間に栃木県の住人で「なまたまご」を「なまなまこ」と発音する人と出会うことはなかったので、栃木県出身とかいうことではないとお思う。たぶん。
このS本 彰が、やめておけばいいのに『早慶入試合格作戦』(エール社)などという本に「合格体験記」を書きよったのだが、私は買わなかったけれども書店の棚にあるのを、この男の文章だけ斜め読みで読んだが、「なんか、恥ずかしいこと書いておるのお」という感じやった・・が、ところが当人は名文を書いたつもりだったらしく、「あれ、ええ文章やと思えへんか」と私に言うので「別に思えへん」と思った通りのことを正直に言ったのだが、私が「こいつ、なんか恥ずかしいこと書いとるなあ」と思ったことを当人はそうは思わずに「ええ文章や」とか思っておったらしい。
だいたい、北野高校というのは、その頃も「基本的には京大に進学する高校」であり、京大でなく東大に行ったとかならそういう『合格作戦』に「体験記」を書いてもいいかもしれないけれども、「神戸大まで落ちて慶応大に行きましたあ」なんて話を書くなんてのは、普通は「ちょっと恥ずかしい」てもので、やりたくないものだろう・・と思ったが、それをやる男だった。
慶應大学に「経済新人会」という、なんというのか「中年おやじの交友会」みたいなサークルがあって、この男は慶應大学に入学早々、そんなものに入りよったから、『早慶入試合格作戦』(エール社)に書く内容も「なんか、恥ずかしいこと書いとるのお」てものというのも、頭の中身がそこに出た、教養水準の低さがそこに出たというものだと思う。こういうやつを改善するには、とりあえず、サルトルの本でも10冊くらい読ませれば、ちょっとは良くなるのではないか・・・とも思うが、この類の人間は・・⇒読まない。
北野高校のような元旧姓中学校の公立伝統校には「バンカラ」とでもいった伝統があり、「リベラル」な伝統があったのだが、それと逆が慶應内部進学で、この2つは正反対だった。どのくらい正反対かというと、北野高校の1年の時の「体育」で「剣道」の授業の時に、日本刀の話で体育の教諭から「昔、北野高校の生徒で熱田神宮に草薙剣を盗みに行ったやつがおった」という話を聞かせてもらったことがあったのだが、「本校の卒業生には連合赤軍もおれば大泥棒もおる」と聞いたのだが、別に熱田神宮に草薙剣を盗みにいかなくてもいいし、連合赤軍やらなくてもいいけれども、そのへんでしょーもないもん万引きするくらいなら、熱田神宮にあるという草薙剣ちゅうやつを、いっちょ、盗み出して見分してこましたろか・・の方がええのとちゃうか・・・て感じがした・・のだが、そうは言っても窃盗は犯罪ですから称賛するようなものではない・・かと思っていたら、1980年代、新聞によると慶應義塾高校の生徒が東京都内の女子高に忍び込んで女子高生のブルマーを盗もうとして捕まりよった・・・という事件があり新聞に載っていた。なんか、「聞いてるだけであほくそなってくるやろ」て感じやった・・・が、ところが、この「熱田神宮に草薙剣」と「女子高にブルマ」とでは、私なんかは「熱田神宮に草薙剣」盗みにいこうなんてたとえ考えたとしても実際には熱田神宮の本殿のまわりの塀には鉄条網が張り巡らされていて監視カメラもあって、境内には警備事務所があって簡単に盗み出せるようなものではないのだけれども、「女子高にブルマ」とどっちがいいかと言うと「熱田神宮に草薙剣」の方がええのとちゃうか・・という感覚があるのだが、又、たとえ、女の物を盗むにしても「女子高にブルマ」やなんて、そんなもの盗むのではなくて、もしも女の物を盗むのなら、それならそれで「女の心を盗め」・・・とか、ちょっとキザかもしれなんが、『ルパン三世 カリオストロの城』みたいなもんで、盗めても盗めなくてもその方がええのとちゃうか・・とか考えるのだが、ところが、慶應義塾高校の生徒とか慶應義塾高校卒の人間とかはそうではなくて、「熱田神宮に草薙剣」なんて話を聞くと「変なやつがいるんだなあ」とか言ってバカにするのだが、他方で「女子高にブルマ」にはラポールを感じよるみたいだったのだ( 一一) 慶應内部進学のお方たちというのはそういう人たちなのだ。「熱田神宮に草薙剣」と「女子高にブルマ」となら、ためらうことなく「女子高にブルマ」を選ぶのが「慶應タイプ」なのだ( 一一) 「女子高にブルマ盗みに行く」やなんて、情けのうなってくるわ、聞いてるだけであほくそなってくるやろ・・とは「慶應タイプ」は考えないみたいなのだ。「女子高にブルマ盗みに行く」やなんて、江崎の社長を自宅浴室から拉致した上で「グリコ、つぶしたる」の方が「ワルでもええ、怪人21面相のように育ってくれたら」・・・とかいうようには「慶應タイプ」は考えないらしいのだ。そういう「女子高にブルマ」型思考のことを彼ら「慶應タイプ」は「独立自尊」とか「自我が確立されている」とか「スマート」とか「受験勉強の悪影響を受けていない」とか「福沢精神」とか「アイデンティティーを持っている」とかおっしゃるみたいなのだ。・・それで、阪本彰というやつは北野高校を卒業したけれども、人間のタイプとしては「北野タイプ」ではなくて北野高校の高校生の時から「慶應タイプ」であり、「熱田神宮の草薙剣」とか「江崎の社長を自宅浴室から拉致した上で『グリコ、つぶしたる』」とかは絶対にしない人間で、「女子高にブルマ」ならやりかねないタイプの男だった・・と思う。「女子高にブルマ」も彼はやってないかもしれないが、もしも、「熱田神宮に草薙剣」と「女子高にブルマ」とどっちか選ぶとすると、ためらうことなく「女子高にブルマ」の方の男であり、決して「熱田神宮に草薙剣」とか「江崎の社長を自宅浴室から拉致した上で『グリコ、つぶしたる』」とかなんて選ばないタイプの男だった( 一一) 「週刊プレイボーイ」とか「平凡パンチ」とかは読んでもサルトルの本なんて読まないタイプの男、それを「スマート」とか「思考が柔軟」とか「自我が確立されている」とか「企業はそういう人間を喜ぶ」とか言うタイプの男、「慶應タイプ」の男であり、経済新人会みたいな「中年おやじの交友会」に入るタイプの男だった。中谷彰という人が『オヤジにならない60のビジネスマナー』(PHP研究所)という本を書いているのだが、そこで中谷彰さんは「『オヤジ』というのは『その年代のその性別の人のこと』ではなくて『オヤジと言われるようなことをする人』のことで、若い人にも『オヤジ』はいるし、女性にも『オヤジ』はいる」と述べていたが、その通りだと私は思うが、これは「オヤジ」だけでなく「オバハン」とか「オバタリアン」とかもそうだと思うのだ。そう思うと、北野高校の同じ学年の生徒とかにも「KOB48」〔「高校生の時からオバタリアン女子48(フォーティーエイト)」〕みたいな人というのもいた・・ように思うが〔そういうのを自慢にしていた人もいたが、自慢するもんとは違うように思うが〕、S本彰なんぞは「高校生の時から””オヤジ””」「小学生の時から中年オヤジ」だった。「小学生の時から、アタマが中年オヤジ」の男だった。
1980年代、私が慶應大学に在籍した時、慶早戦支援委員会なる団体にいたK原という内部進学の男が、つきあっていたという女性を階段から突き落としたり、顔を殴って鼻の骨を骨折させたりするということをしよったらしかった。殴るなら殴るで女を殴るのではなくて、空手家かボクサーみたいな男でも殴ればよさそうなものだが、慶應内部進学タイプの男が殴るのは女性だそうだった。それで、鼻の骨を骨折させられておいて、「私がついていてあげないとあの人は」とか女が言うておったというのだから、「どっちもどっち」症候群というのか、「両方ともアホ」なのだから「ほっとけ」と思ったのだが、ところが、その男を「許せん」と思う女子学生もいたらしかった。「あの男、どうしてやろうかしら」とか言うので、「ほっとけばいいでしょ」と私は言ったのだが、その際に、大阪教育大付属高校卒のNが「ああいう男には、本多勝一の本を読ませてやるといいんだ」と言ったので、「読むわけないでしょうが。慶應内部進学が本多勝一の本なんか読むわけないでしょう」と私は言ったのだった・・・が、そんなものだ。阪本が「週刊プレイボーイ」や「平凡パンチ」とかは読んでもサルトルの本なんか読まないのと同じく慶應内部進学のK原とかそういう「慶應タイプ」が本多勝一の本なんか読むわけないのだった。女を殴って鼻の骨を骨折させたりはするが、江崎の社長を自宅浴室から拉致して「グリコ、つぶしたる」とか、そういうことはできないし、やらないのが「慶應タイプ」であり、そういう態度・そういう思考・そういう精神のことを「福沢精神をみにつけている」とか「独立自尊の精神がある」とか「思考が柔軟」とか「受験勉強の悪影響を受けていない」とか「自我が確立されている」とか「慶應心理学」では言うのです。「慶應心理学」は「慶應内部進学心理学」で内部進学の人の思想信条世界観を「心理学用語」「精神医学用語」「精神分析学用語」等々といったイカサマでねったらもったらねったらもったら表現しているだけだ。慶應大学医学部助教授の小此木圭吾がその女性を階段から突き飛ばしたり顔を殴って鼻の骨を骨折させたりしたK原という男を「う~ん、この人は典型的なピーターパンシンドロームだあ」とか「診断」したとかいうのだが、どっちも「幼稚舎から慶應」だけあって小此木啓吾とK原はよく似ている。小此木啓吾は実は自分もよく似ている・・という点について自覚がない・「病識がない」ようだが、実際、よく似ている・・と思う。「よう似とるやんけ」と思う。
怪人21面相は江崎グリコから身代金を取りにいかせるために、淀川の河川敷で「デート」していたアベックの元自衛隊の男を一瞬のうちに制圧して女を人質にとって男に受け取りに行かせたが、身代金奪取に失敗したとわかると女の方はクルマで京阪電鉄の駅まで送り届け、「電車賃持ってるか」と尋ねて「持ってない」と答えると、千円札を2枚渡して「これでお友達の所に帰り」と言って釈放したというが、なんか、「命は取らない。女をかどわかさない。盗られて生活できなくなる者からは盗らない」という池波正太郎の『鬼平犯科帳』に出てくる「つとめ(盗み)の3箇条」を守る「本格の盗賊」みたい・・というのか、もしくは「殴らない、怒鳴らない。捕虜を虐待しない。婦人をからかわない。人民からは糸一本・針一本取らない。敵から奪ったものは必ず分配するか全体のものとする。借りたものは必ず返す。壊したものは必ず直すか弁償する」という人民義勇軍「三大規律・八項注意」かといった感じであるが、それに対して、慶應内部進学の男の場合は、殴る場合は男ではなく女を殴る・・という、なんかそのあたりが「慶應タイプ」は怪人21面相とは逆であり、そのあたりを見ると「ワルでもええ。怪人21面相のように育ってくれたら」という文句が、そうかも・・・とも思えてくる。

冒険と日本人 (集英社文庫) - 本多 勝一
1980年代、まだ S本 彰 が慶應大学の学生だった時、何を話していた時だったか、私に「おまえ、弱肉強食て知っとる?」などと言ってきたので、へ~え、こいつ、自分を「強食」だと思っているのか・・と驚いたことがあった。
慶應大学の「近代思想史」という講義でN教授が「わたしのゼミの人で『自分はヒトラーとかナチズムのようなものは何も悪くないと思う』と言った人がいたので、わたしは『あなた、いいですか。もしも《ヒトラーとかナチズムのようなものが悪くない》と言うならば、それは、自分がヒトラーの親衛隊とかになるということがかまわないという意味ではなく、自分がユダヤ人としてガス室に送られて殺されることがかまわないという意味ですよ。わかってますか』と話したのです」と話されたことがあった。それを聞いて、ああ、やっぱり慶應というのは『自分はヒトラーとかナチズムのようなものは何も悪くないと思う』とかそういうことを言う人間・思ってる人間が多い大学だなあ・・と思ったものでした。
時々、「東大に行ったら思いあがった人間になる」とか言う人がいたのですが、そして、うちの母親は私が高校3年の時に「こいつ、東大に通ったら思いあがった人間になって女を泣かせよる。こいつ、絶対に落としてやらんといかん」と言い、私が夜、家の部屋で学習していると「こいつ、な~にがなんでも落としてやらんといかん」と言って、椅子に座って机に向かっているところを後ろから服をつかんで背後にひっくり返し、部屋の電気を洗面所にあったブレーカーを落として照明をつかなくして学習できなくし、「こいつめえ、落ちろお~お!」と叫んでホウキでボコボコ殴りつける、そんな状態では家では学習はできないと思って高校の図書室で学習して帰ると、玄関・勝手口とも扉に鍵をかけて・雨戸をすべて閉めてインタホンのソケットを抜いて鳴らないようにして入れないようにした上で、困った、またやられた・・と思って外で時間をつぶしていると、その間に高校に電話かけて「息子が帰ってきませんね~ん」と言う、さらにクラス名簿で上から順番に電話かけて「息子が帰ってきませんね~ん」と言う・・と、自分が締め出して家に入れないから外で待っておるんだろうが・・というのにそういうことをやった。そういうことをされた。私が父親ならば妻に「そういうことはやらないでやってもらえないか」と言うところだが、うちの父親は絶対に言わない男だった。そして、北野高校の2年の時の担任だった旧姓作野礼子(女。当時、20代)が「あなたのお父さんやお母さんほどいい親はどこにもないわよ。私は両親が離婚したんだからねえ。私は父親がいなかったんだからねえ」と言うのだったが、そう言われて、そう言われるからには、よその親はもっとそのようなことをやっているのだろうか・・と考えたが、しかし、どう考えても、大部分のよその親はそんなことやってないように思えた。うちだけのように思えた。もしかすると、世界中探せば、1件や2件あるかもしれないが、そんなことしない親の方が多いように思えた。
東大でも「ともかく、最難関に行きたい」とかいう意識で東大文科一類に行って「権力への意志」とかいうのを発揮しようみたいな人にはそういう人もいるかもしれない。あるいは大学入試では高得点を取ったが人間として学んでおくべきものを学べていないのに理科三類に合格して「東大卒の医者」になって自分は「人体実験する側の民族・階級」とか思って実行したようなヤカラもいるかもしれない。いるだろう。しかし、たとえば、阿部次郎『合本=三太郎の日記』(角川選書)とかそういった本の作者とかが「東大に行った人間だから、思いあがった人間になって女を泣かせよる」かというと、違うように思えたのだ。阿部次郎は東大の文学部だったが、森鴎外などは東大の医学部だったはずだが医者ではなく文学者になったが森鴎外『青年』とかを読むと、「東大に行ったから思いあがった人間になって女を泣かせよる」とかそんな人間には思えなかった。むしろ、慶應の方が「女たらしの大学」という印象があったし、特に「慶應の経済」というのは特に「女たらしの大学」のイメージが強かったし、「『慶應タイプの女たらし』になりたいなりたい症候群」みたいな男というのが、実際、慶應大学にはいっぱいいた。慶應大学のプロレス研究会は女子大生を集めて強制わいせつ行為をおこなっていた、私はそれを目撃している。必要なら証言してもいい。人間はひとりひとり異なるし、東大の学生や出身者が誰もがすばらしい人間ばかりとは思っていないが、どう考えても、東大の学生よりも慶応の学生の方が「女を泣かせよる」ような人間は多いと思えた・・し、又、「自分はヒトラーとかナチズムのようなものは何も悪くないと思う」とか言い出す人間、そんなこと思っている人間は多いように思えた。「慶應リベラル」などという言葉があったが、「よく言うわ」と思った。北野高校のような元旧姓中学校の公立伝統校には「リベラル」な伝統があり、卒業生にも自民党の議員になった人もあれば共産党の議員になった人もあり、連合赤軍になった人もいたが、自民党の人がいても共産党の人がいても、その人はその人であって私は私であり、別にいたっていいじゃないか・・と私も思っていたし、そういう姿勢を「リベラル」と言うのだと思っていたのだが、ところが慶應では「リベラル」という言葉をそういう意味では理解せず、そうではなく「反共右翼」「政権迎合」を「リベラル」と言い、そういうのは違うのではないかと認識する人間は「ラディカル」もしくは「共産党」と慶應では言われるのです。ですから、私みたいに、もしも共産党に入りたいと思ってもはいつくばって頼んでもたぶん入れてもらえないだろうと思えるような人間でも「慶應タイプ」からすると「共産党」なのです。阪本などもその「慶應タイプ」だったのであり、慶應大学に行って「慶應タイプ」になったのではなく阪本の場合は北野高校の生徒だった時から「北野タイプ」ではなく「慶應タイプ」だったのです。
「わたしのゼミの人で『自分はヒトラーとかナチズムのようなものは何も悪くないと思う』と言った人がいたので、わたしは『あなた、いいですか。もしも《ヒトラーとかナチズムのようなものが悪くない》と言うならば、それは、自分がヒトラーの親衛隊とかになるということがかまわないという意味ではなく、自分がユダヤ人としてガス室に送られて殺されることがかまわないという意味ですよ。わかってますか』と話したのです」と話された「近代思想史」のN教授などは、慶應の先生としては良心的な方の人で「リベラル」な方の人だったと思いますが、慶應大学の教授・助教授でも「内部進学で慶應大学卒の人」・「大学から慶應で慶應大学卒の人」・「他大学卒の人」の3種類の人がおられ、たとえば、『国家神道』(岩波新書)・『日本の宗教』(岩波ジュニア新書)などの著者の村上重良氏などは慶應大学講師だったけれども卒業した大学は東大の宗教学宗教史学科卒で、原発の問題点を指摘してきた藤田祐幸助教授なども、あんまり慶應て感じではないなと思っていたら卒業した大学は都立大学で、「慶應にもそういう先生だっておられるでしょ」とか言う人があるが、そういう人はたいてい他大学卒の人で、「ほとんどビョーキ」みたいな人とか、「小此木啓吾、おまえはいったい何様だ」の小此木啓吾症候群などは「ゆりかごから墓場まで慶應」(小学校:慶應、中学校:慶應、高校:慶應、大学:慶應、勤め先:慶應)であり ””「慶應的精神空間」から外に出れない症候群””の人であり、講義の最中に気に食わないことがあったらひきつけ起こして叫ぶようなタイプの人というのはたいてい「内部進学で慶應大卒」だ。最初、わからなかったが、しばらく、この大学に在籍してわかるようになった。初対面ではわからなくても、何回か話をしていると、「ははあ~ん。こいつ、『内部進学で慶應』だなあ」とわかる。そういう人には心を許して話をしてはいけない。いつ、爆発するかわからない・・というより、こちらとしては何もないのに爆発したと思っているけれども、もしかすると知らないうちに地雷を踏んでいたのかもしれない。ひきつけ起こして叫びだすとかならまだいい方で、内部進学の人の思想信条世界観をもとに「診断」とかされる危険があるから、怖いこわいこわい怖い!!! だから、そういう人とはできるだけ関わらないようにした方がいい。そういう人間に限って「外部のやつらを教育してやらんといかんからなあ」とか言い出すのだが、なんで、おまえらなんかに「教育」されんといかんのじゃ。ビョーキ移るからヤダ!!!!
阪本が「おまえ、弱肉強食て知っとるか」とか言ってきたので、「はあ~あ?」と思った。まず第一に「おまえは自分が強食の側と思っておるのか」とあきれた。「東大に行ったら思いあがった人間になる」とかうちの母親はどこで吹き込まれてきたのか、そういうことを言ってしかたがなかったし、「こいつ、な~荷が何でも落としてやらんといか~ん!」と言って、同じことをもう一度書き込んでもしかたがないので省略するが↑上記のようなことを何度も何度も繰り返したが、むしろ、「自分はヒトラーとかナチズムのようなものは何も悪くないと思う」とか言い出す人・思っている人、それの別表現である「おまえ、弱肉強食て知っとるか」という思想を持っている人間は慶應の人間の方に多い。これは事実だ。私は慶應の縁で慶應大卒の人にお世話になったこともあり、慶應の内部進学の人にお世話になったこともあるので、あまりボロクソに言いたくないところもあるけれども、申し訳ないけれども、これは事実だ。「多い」であって、「すべての人が」ということではないのであろうとは思いたいが、しかし「多い」というのは事実であり否定しようがない。
うちの父親も「慶應の経済」と「神戸の経済」が大好きな男で、私はその正反対で「慶應の経済」と「神戸の経済」が日本の大学の中で嫌いな方の1番目と2番目だった・・が、阪本は「神戸の経済」を落ちて「慶應の経済」に通って大喜びではしゃいで『早慶入試合格作戦』(エール出版社)なんてものに「なんや、恥ずかしいこと書いとるのお」てことを「合格体験記」と称して書いて公開するくらいだから、「慶應タイプ」だったわけで、うちの父親なんかは「わしは慶應やねんぞお、わしは慶應。おまえとは違うねんぞ、おまえとは。わしは慶應でドイツ人やねんぞお。おまえは浪商でチャンコロなんじゃ。民族の違いを忘れるな! 階級の違いを忘れるな!」と毎日毎日ぼくらは鉄板の上で焼かれて嫌になっちゃくくらいに、私の眼を指で突き刺すようにして叫び続けてきたが、うちの父親と阪本はそのあたりについて、よく似ている。私は毎日毎日「民族の違いを忘れるな。階級の違いを忘れるな」と言われ続けて、そして「民族の恨みを忘れるな(不忘民族恨)。階級の苦しみを忘れるな(不忘階級苦)」と思うようになったが、阪本なんぞは死ぬまでそんなことは思わないであろう。「民族の違いを忘れるな! 階級の違いを忘れるな!」と叫ぶ側の人間である。
北野高校の先生でも大学入試について、ある程度以上わかっている人とわかっていない人がおられたように思う。2浪の時の12月だったか1月だったか、北野高校に行く用事があって行った際、たまたま、「進学指導の係」だった物理のF教諭と話すことがあり、その際に「東大の理科でも理科三類は相当難しいようですけれども、理科二類ならなんとか入れないか、理科二類に入って教養課程の2年間、必死で勉強して医学部医学科に入るということはできないか、と考えたりするのです」と話したところ、F先生はこう言われたのだ。「それな~あ・・・。それ、考える者がいるようだけれども、理科二類から医学部医学科に10人行けることになっているけれども、理科二類に入って医学部医学科に行く10人に入るというの、けっこう難しいみたいやで。目指して悪いということはないけれども、その場合、もしも、医学部医学科に行けなかったらどうするのか、ということを考えて行かないといけないで」と話してもらった。高校3年の12月に東京の代々木ゼミナールで「東大模試」を受けたのだが、その際、代々木ゼミナールの1階に「代ゼミ通信」だったかいうものが「ご自由にお持ちください」というように置かれていて、そこに「代ゼミで浪人した上で東大に合格した皆さん」の座談会が掲載されていたのだが、そこでは文科一類に通った人が「東大の文科一類に入ると、周囲が『現役で司法試験に合格するぞお』とかいう人間ばっかりなので、その影響を受けて自分もそうしなければならないみたいな雰囲気になります」と話していたが、理科二類に入った人は「理科二類の場合、入学直後は『絶対、(理科二類から10人行ける)医学部医学科に行くぞお』と思ってる人間がいっぱいいるのですが、夏ごろになったら『農学部でいいやあ』となったり(笑)」と話していたが、そんな感じで東大の理科二類は「理科二類から医学部医学科に行ける10人に入るんだあ」と思って入学する人間はいっぱいいて、自分こそがその10人に入るんだとか思っているかもしれないけれども、ライバルのレベルが低ければその10人に入れるかもしれないが、ライバルも東大の理科二類の学生であって、自分は必至で努力するんだと思ってもライバルだって必死で努力するわけであり、その競争に勝つ場合もあるかもしれないが、勝てない場合もある・・ということを認識しておくべきだ・・・が、進学校の生徒というのは、それをなかなか理解できないのだ。理屈で理解しても、実感としてなかなか理解できないし、片方で「絶対、その10人に入るぞ」という気持ちと「その10人には入れなかったら」ということを考える気持ちを両方同時に持つというのは難しいというところもある。私が親ならば、最終的にどうするかは別として、親として息子のそういう気持ちを理解するのが親だと思う・・・が、理解しないのがうちの親で、その親を「あなたのお父さんほどいいお父さんはないわよ。私は父親がいなかったんだからねえ」と言いまくるのが北野高校の2年の時の担任だった旧姓作野礼子バカ女症候群だった。
「私の場合、医者になりたいということではなく、精神医学・心身医学といったものの研究をしたいので、もしも、医学部医学科に進めない場合は生物学・生理学などの方面に進みたいと思っています」と話したところ、「それなら、いいと思う」と言ってもらったということがあった。実際のところ、進学校の高校に行った人間にとっては、地方国立大学なら医学部でも通るかもしれないと思っても、同じ高校の生徒が東大に行ったり京大に行ったりしているのに自分が地方国立大学に行くというのは抵抗を感じるものだ。私の場合は人間の心のあり方というものを「研究する仕事につきたい」と思っていたので、地方国立大学に行くよりも研究者になれる大学に行った方がいいという考えがあったが、そうでない人でも地方国立大学と東大の理科一類・理科二類、京大の工学部・理学部が難易度が同じくらいと考えるならば、東大・京大の方に行きたいと思う人がいるみたいで、そういうのを北野高校の2年の時の担任だった旧姓作野礼子は「地方国立大学でいいじゃないの」とか勝手なことをお気軽な言い方で言うのだったが、それは無責任で思いやりがない態度である。千葉クロマティ高校卒の富永とかならば、それまでたいして勉強してきてないのだから《「1浪で慶應の経済」を落ちて「1浪で慶應の文学部」》なら御の字も御の字であるが、実際、進学校にいて小学校1年から同級生が遊んでいる時もずっと勉強してきた者からすれば、地方国立大学なんて・・と思う方が自然だ。だが、だから、東大とか京大に間違いなく通るということでもない。そこで、どうするか。それが思案のしどころであり、「そこでいいじゃないの」とか勝手なこと言って地方国立大学に行かそうとするようなバカ女症候群は害がある。舟木先生はその点については進学校の高校生および卒業生の気持ちを理解できる人だったようだ。それが正解かどうかはわからない。そもそも、理科二類は理科三類よりは易しいとしても、それでも東大であり、「理科三類よりやさしい」理科二類を受けて、教養課程の2年間必死で勉強して医学部医学科に行けるか行けないか・・・とかいう前に、その理科二類を落ちることだってある。私が父親だったら、そこまでやった息子なら、最終的に通るかどうかにかかわらず、本人が納得できるように、その後の人生を生きていけるようにしてやりたいと思うところだ・・・が、うちの父親はそうではなくて「そんなもん、せんでもええんじゃ、チャンコロろすけ! すべてをすべてをわしのために、すべてをすべてをわしのために!」と叫びまくっていた。北野高校の2年の時の担任だった旧姓作野礼子バカ女症候群がその男を「あなたのお父さんほどいいお父さんはないわよ。私は父親がいなかったんだからねえ」と言いまくった。そう言ってもらってうちの父親は「作野先生もおっしゃってるように、わ~しほどええお父さんはおらんねんぞお、わしほどお。わしほどすばらしいお父さんはおらんねんぞお、このチャンコロろすけイタコめがあ!」と毎日毎日叫びまくった。
たとえ、進学校の高校に行った人間でも、そこに行きたいと思っても、そこに行けると思っても、それでも行けない場合はある。つらいことだが、そういうことはある。それを「いい経験」と言う人もおれば、「落ちた人間はひがみ根性がある」とか言って否定する人もいる。勝手なこと言うとるやつはほっとけ・・と思うが、会社に応募する場合は、その「勝手なこと言うとるやつ」が採用担当者である場合がけっこうあり、不愉快な思いをすることがある。
PL学園から巨人に入った桑田投手は高校時代、「負ける」ということはほとんどなかった。高校1年の夏は全国優勝していて、1年から2年になる春の選抜大会は準優勝で負けたのは決勝戦だけ、2年の夏の大会も準優勝で負けたのは決勝戦だけ、2年から3年になる春の選抜大会はベスト4で準決勝で負けただけ、夏の大会は全国優勝で1つも負けていない。ところが、プロ野球の世界に入ると、勝つ時もあれば負ける時も出てきた。何だったか忘れたが週刊誌に桑田投手のお父さんが書いていたものを読んだのだが、息子が野球の全国大会で活躍して有名になってから家族の生活が変わった、という。「それまで、まったく関わりがなかったような人が寄ってくるようになった」らしい。そして、桑田が巨人に入って試合で投げるようになると、お母さんが変わったそうだ。机の上に新聞のスポーツ欄を広げて、「おかしい。この新聞は間違っている」とつぶやく。その新聞には息子が投げて負けた試合が掲載されていたが、「おかしい」「この新聞は間違っている」といっても、実際、負けたのだからしかたがないのだけれども、それでも、常に勝ち続けてきた息子が負けたということが、お母さんは信じられなかったらしい。小学校の1年から同級生が遊んでいる時もずっと勉強してきて進学校の高校に行った者は、大学入試においても入学後においても「負ける」ことがあってはならない・・と思っているかもしれないけれども、大学に行く頃からはそうはいかないのであり、「負ける」時もあると認識するべきで、むしろ、それを認識できる者こそが、その後、成果を出せるのではないか。
阪本は「京大に進学する高校」である北野高校に行っておきながら「神戸大の経済」まで落ちて「慶應の経済」に行っておいて、それでまだ「弱肉強食」の「強食」「勝ち組」のつもりでいるらしかった。兵庫県庁はそんな男を採用したのだから、兵庫県庁なんて「そんなもの」なのだろう。けっこう「いいところ」で雇ってもらったのではないか。
だから、「東大に行ったら思いあがった人間になる」とか言う人がいるが、東大に行かなくても思いあがった人間はいるよ。そして、「自分はヒトラーとかナチズムのようなものは何も悪くないと思う」とか言う人・思っている人は東大の学生より慶應の学生の方に多かったと思うし、「女たらし」が多い大学というと慶應と早稲田が日本の大学で双璧だと思うし、東大の学生や出身者と話すと「大学の名前しか考えないような女性は嫌なんだ」と言う人が多いのに対して、慶應の学生で阪本の友人だった井上という男(桃山学院高校卒)は「慶應の名前さえ出せば女なんか、いくらても手にはいる。今度、電車に乗って女子大生がいたら慶應の学生証を出して『この紋所が目に入らぬかあ』と水戸黄門の印籠みたいにやってやろうか」などと得意がって言っていたので、程度の低いやつだなあ、知的水準の低い男だなあ、自分は小学校の1年から真面目に努力して勉強してきたのに、こんな程度の低い男と同じ大学になんか行かされたくないなあ・・と思ったものだったが、慶應大の学生には「慶應の名前さえ出せば女なんか、いくらても手にはいる。今度、電車に乗って女子大生がいたら慶應の学生証を出して『この紋所が目に入らぬかあ』と水戸黄門の印籠みたいにやってやろうか」などと平気で口にする白痴が大変多く、また、そういう男がいいと思うらしい「似たもの同士」のバカ女というのも世の中にはいるらしい。大学の名前が書かれたトレーナーというのが大学生協で売っていて、「ぴあ」という雑誌に「はみだしゆうとぴあ」という読者投稿欄があって、そこに「学内でしか恥ずかしくて着れないのが日大のトレーナー。やたらと学外で着たがるのが早稲田のトレーナー」と書いてあったのを見たことがあるが、大学の名前が大きく記入されたトレーナーを「矢鱈と学外で着たがる」学生が多い大学が早稲田と慶應だったのだ。「ブランド」というものは、元々、アメリカの牧場で牧場主が自分が飼っている牛などに飼い主の名前の焼き印を押したものが「ブランド」だったらしい。だから、大学の名前を「ブランド」として記入したトレーナーを着ているやつというのは、焼き印押されて喜んでるアホだと言うことができるかもしれない。ジャン=ポール=サルトルがノーベル文学賞を辞退したのはなぜか、これは理由はひとつではないらしい。サルトルはノーベル賞という賞をあまり高く評価していなかったらしく、ノーベル賞は「アメリカ合衆国の政治的意向を強く受けた賞」で「西側においてアメリカ的自由主義に貢献した人」か「東側において『赤い国』の抑圧と闘った人」に送られる政治的意味合いが強い賞であると考えていて、特にサルトルは一時期「共産党の同伴者」と見られていたことがあったが、後に「少し距離を置く」ようになったが、ソビエト連邦には問題点もあり、フランス共産党にも評価できない部分はあるとしても、しかし、西側の国がこの上なくすばらしいということでもなく、アメリカ合衆国のベトナムに対する態度・フランスのアルジェリアに対する態度などには賛成できかねるものであり、「共産党の同伴者」と見られていた者が「少し距離を置く」ようになったことに対して賞を与えられるということなら、そのような賞は受けたくないという意識があったのではないかと思われるが、それより前に、サルトルは「賞」というものそのものに対してあまり高く評価しておらず、「私は『ノーベル賞作家』といったものによって規定されない。私は私だ」と言ったというのだが、これはノーベル賞に限ったことではなく、何何賞という賞を受賞することで「何何賞作家の誰それ」という評価のしかたをされて、その「何何賞作家の誰それ」とされるということを喜ばなかったということがあるようだ。もっとも、ノーベル賞を受賞すればけっこうな金額をもらえるらしいし、生活のために「もらっとけ」という考え方もあるだろうし、又、「何物によっても規定されない。私は私だ」というのは間違いではないとしても、そういったものをすべて辞退・拒否して生きていけるのかという問題もあるとは思うが、だから、まったく受けていけないということはないとしても、あまりにもそういったものを集めまくる人・そればっかりを売りにする人というのは、その「賞」によって自分というものを失う人ではないか。そのサルトルと逆の男が阪本の友人の井上という桃山学院高校卒の男とその連れだった。そんな男をいいと思うような女もその同類だろう。ちっぽけな野郎だなあ・・と思ったし、今も思う。たぶん、私なんかより「いいところ」に勤めて私なんかより高い給料をとっていただろうから、女性にとっては私なんかと結婚するよりも井上と結婚する方が「女のしあわせ」というものをつかめたのではないか・・と思うけれども、そうであろうけれども「サルトルとは逆の男」である。慶應の学生にはそういう人間が大変多い。慶應と早稲田という2つの大学は日本の大学の中でその類のアホ男が多い大学の双璧である。・・ただし、川崎市幸区のアパートに住んでいた時、貧相なアパートばっかりの地域において、「KYOTO INDUSTRY UNIVERSITY」(京都産業大学)と大きく書かれたトレーナーを着たおばさんを見たのだが、おそらく、あのおばさんの息子が神奈川県川崎市の住人なのに、京都産業大学みたいなもんしか行けない息子なのに、わざわざ京都で下宿までさせて京都産大みたいなもんに行かせて、そして、母親はそれを喜んでいた、そんなものを「ちょっと自慢」みたいに思っていた、ということだろう。「KYOTO INDUSTRY UNIVERSITY(京都産業大学)」と胸と背中にでっかく書かれたトレーナー着て堂々と外を歩く人のことを考えれば、「KEIO UNIVERSITY(慶應大学)」「WASEDA UNIVERSITY(早稲田大学)」と書かれたトレーナー着て学外を歩きたがる症候群の方がマシかもしれん・・・が、慶應の名前入りのトレーナー着ているやつを見ると「強姦摩の大学」と書かれた服を着ているやつに見えてしかたがなかった( 一一)
阪本もまた「サルトルとは逆」の人間であり、こういう阪本とか井上とかいった「おまえは、大学の名前しか取り柄ないのか」みたいな人間のことを「心理学」では「自我が確立されている」とか「独立自尊の精神を持っている」とか「診断」するらしく、「ああいうのは嫌だな」と思う人間は「自我が確立されていないから、だから、わざわざ無理して逆らっているということですね」とか「心理学者」から「診断」されることになる。「慶應心理学」「慶應心理学者」はそういうものである。「診断」されると次に「治療」される危険があり、怖いこわい怖いこわい怖いこわい怖いこわい・・。
慶應義塾高校はスポーツ入学で入る際に「スポーツの成績+学力」で判断していたその「学力」の部分をこれまでより低くてもいいことにしたらしく、その結果、2023年、矢鱈と強くなって慶應義塾高校の野球部が夏の大会で全国優勝までした。その際、ヤフーニュースだったかに載っていたのだが、早稲田実業が全国大会に出ても、日大三高が全国大会に出ても、早稲田大卒だが高校は早稲田系の高校ではない人とか、日大卒だが高校は日大系でない高校の人が「俺も応援に行くんだが」と必死にその内部進学の高校を応援するなんてことはないが、慶應義塾高校が甲子園大会に出ると、慶應大学卒であっても高校は慶應系の高校ではないおっさんが「時間があけば俺も応援に行くんだが」とか言って必死になってる、この人、いったい何なの?・・ておっさんが職場にけっこういる・・・という記事が出ているのを見たが、その気持ちはわかる♪ その気持ちはわかる・・けれども、他方において、もしも、そこに行ってその集団の中に入ってしまったならば、「大学の名前以外にとりえがない男」の仲間になってしまう、「電車に乗って女子大生がいたら、慶應の学生証を出して『この紋所が目に入らぬかあ』とやってやろうか」という男の仲間になってしまう・・・と思うと、あんなのの仲間にはなりたくないな・・・と思う。そいつらの方が私なんかよりもずっと「いいところ」に勤めて、ずっと高い収入を得ていて、女性は私なんかと結婚するよりもそういう男と結婚した方がずっと「女の幸せ」というものをつかめるであろう・・と思うけれども。先に言っとく。それでも、やっぱり、あんなのの仲間にはなりたくない、ああいう人間の同類にはなりたくない・・と思う。サルトルの仲間になりたいか、阪本や井上の仲間になりたいかというと、サルトルの仲間の方がいい・・と思う。阪本も井上もサルトルがどうかなんて考えたこともない人間であろうし、そういうブタ人間のことを「思考が柔軟な慶大生」とか「企業はそういう人間を喜ぶ」とか「ギャルにもてもて」とか思ってる人間である。そういう人間を「慶應ボーイ」と言い、そういう態度を「独立自尊」とか「福沢精神」とか「自我が確立されている」とか「慶應心理学」は「診断」するのである。
私が高校3年の時に「こいつ、現役で東大に通ったら思いあがった人間になって女を泣かせよるから、こいつやっつけてやらんといかん。何が何でもこいつ、落としてやらんといか~ん!」と言って、私が家で机に向かって椅子に座って学習していたら、後ろから服をつかんで「こいつ、落ちろお~お!」と叫び声をあげて背後にひっくり返し、私が使っていた部屋の電気のブレーカーを落として照明がつかないようにして学習できなくなるようにして、「こいつ、落ちろお、落ちろお、落ちろお~お!」と叫んでホウキで私をボコボコなぐりつけたうちの母親に、慶應大学の学生だった「阪本の友達の井上」とその連れの話をしてやったのだ。やっぱり、東大の学生より慶應の学生の方が思いあがっている人が多いでしょ。東大の学生よりも慶應の学生や出身者の方が「女を泣かせる」可能性が大きい人間が多いでしょ・・と。そうすると、うちの母親はこう言った。「へ~え、そ~お。わたし、そういう人、好き。わたし、そういう人、ものすごく好き。だ~い好き~い。べろべろべろ~お。べ~ろべ~ろべ~え、べろべろお~お♪」と。・・・母親というものは「そういうもの」なのだろうか。そして、うちの母親は例によって言うのだった。「親というものは、よその息子よりも自分の息子のことをいいようにいいように思うもんやから」と。母親というものは「そういうもの」なのか・・と考えたりもしたが、どう考えても、よその母親はうちの母親みたいなそんな感じではないように思えたが、うちの母親は「そういうもの」だった、うちの母親は「慶應の名前さえ出せば女なんか、いくらても手にはいる。今度、電車に乗って女子大生がいたら慶應の学生証を出して『この紋所が目に入らぬかあ』と水戸黄門の印籠みたいにやってやろうか」などと平気で口にする「井上みたいなやつ」が「だ~いすき~い♪」らしかったが、私はそういう男が嫌いだったし、今もそんな男は嫌いだ。きっと私なんかよりずっと「いいところ」に勤めて、私なんかよりずっと給料高いだろうから、女性にとっては私なんかと結婚するよりもそういう慶應タイプのブタ人間と結婚する方が「女の幸せ」というものをつかめるであろうけれども、それでもやっぱり、私は「今度、電車に乗って女子大生がいたら慶應の学生証を出して『この紋所が目に入らぬかあ』と水戸黄門の印籠みたいにやってやろうか」などというそんな男は嫌いだ。もしも、そういうことを本当にやったとして、それが通じるのか通じないのか私は知らないが、通じても通じなくても、そんな男は私は嫌いだ・・が、うちの母親は私が嫌いでそういう男が「だ~いすき~い♪」だそうだった。〔⇒《YouTube-かあさんの歌(歌詞付) Song of the mother》https://www.youtube.com/watch?v=mUFcgZdNLU8 〕
1980年代、横浜市港北区の東急東横線「日吉」駅の西側の食堂で食事をしていたら、そこに制服を着た慶應義塾高校の生徒が何人かいたのだが、そいつらが先に店を出て店の女性のおばさんと言ったらかわいそうだがおねえちゃんと言うには歳いってるくらいの女性店員が器をかたづけようとして、テーブルの上に10円玉があるのを見て、「10円置いてある。届けてあげよう。10円でもお金だから」と言って走って後を追いかけたら、しばらくして、ふうふう言いながら戻ってきて、「10円なんか要りませんと言って受取りやれへん」と言って心外そうに言うのを近くに座っていたので聞いた。慶應の内部進学だなあ・・と思った。そういうのを「スマート」とか彼らは思っているのだ。私はそういうやつが嫌いだ。せっかく、店の人間が走って後を追いかけて届けてくれたのに、それを高校生が「要りません」とは何だ。自分で生活費を稼いでいない高校生が「10円なんか要りません」とはその態度は何だ!
さらに、その後、東京都港区三田の慶應大学三田キャンパスの中の大学生協で、三田の大学生協には近くにある慶應女子高の生徒がしばしば来て買い物していたが、大学生協というのは8口 8000円を入学時に預けて、卒業時に無利息で返してもらうということで利用できることになっていたのだが、日吉の大学生協を慶應義塾高校の男子生徒が使っていて、三田の大学生協を近くの慶應女子高のかわいくない女子生徒が利用していたのだが、あいつら、その供託金というのか何金というのか忘れたが預けているのか疑問だったが利用していたのだが、ある時、そのかわいくないのばっかりの慶應女子高の生徒何人か連れのひとりが財布から小銭を出そうとして50円玉だったかを床に落とし、それがコロコロと転がっていって棚の下に入ったところ、そのかわいくない女は即座に「見捨てよう」と宣言、有言実行なのか実行有言なのか、口にして「見捨てる」ということをした。なんだ、こいつら!・・と思った。自分で生活費を稼いでいない高校生が「見捨てよう」とは何だ! 私がうちの父親から無理矢理行かされた、うちの父親の勤め先の工場のアルバイトなら、50円もらうのに何十分働かないといけないと思ってるんだ・・なんてこと言っても、慶應の内部進学のバカ女の財布に入っているカネは工場労働者として汗かいて働いて得たカネではなくて、そいつらは社長の娘か大企業の重役の娘か医者屋の娘かそういう類のものであって、労基法違反で従業員にサービス残業させて得たカネだったり「患者」を薬漬け・検査漬け・毒盛りやって得たカネだったり、そういう類のカネであって決して汗水流して得たカネではないから、そいつら慶應女子高女にとっては50円くらい「見捨てよう」と見捨てたとしても、そんなもの、またもや労働者にサービス残業させるか「患者」を薬漬け・毒盛りやれば、いっくらでも稼げるカネだから、どうってことないのだろうけれども、それでもやっぱり、高校生がなんだ、こいつらは! ・・と思った。 そういう慶應義塾高校とか慶應女子高校とかのやつを「スマート」とか「独立自尊の精神がある」とか「自我が確立されている」とか「慶應心理学」は「診断」するようであり、それゆえ、慶應の内部進学の人間は「外部のやつらを教育してやらんといかんからなあ」などとのぼせあがった口をきくのだったが、そういうやつも私は嫌いだ。
うちの姉が「あんたはやっぱり、結婚相手は4大でてる女の子でないと嫌やろ?」と言うので、「そんなことないよお」と言ったのだが、「あんたは4年生でてる子でないとあかんから」などと言うので、私が「そんなことない」と言っても「4年でてる子でないとあんたはあかんから」と決めてしまうのなら、それなら尋ねなきゃいいだろうがと思ったことがあった。うちの父親は私が夏休みになると「あんた、明日からうちの工場にアルバイトに行くことに、決めてきたっ!」と言って勝手に決めてしまうのだったが、その上で「うちの会社の工場にいるような中卒の女の子は、ああいうのはやめときや」と言うので、「いや、いい子だと思うよ」と言うと、「あかん、ああいうのは」とうちの父親は言うので、私は「いや、悪くないと思うよ。それよりも、慶應の内部進学の女。慶應女子高女。ああいう女だけは首をもがれても嫌やな、ああいうのだけは」と言うと、「なんでやねん。ええやないか。ものいごっついええでえ」とおっさんが言うので、「い~や~で~す~う。首をもがれても絶対に嫌です、ああいうのだけは。天地がひっくり返ってもい~や~で~す」と言うと、「何を言うとるんじゃ、何を。甘ったれるなあ! わしがええと言うておるねんぞ、このわしが。えっらいエッライえっらいエッライ神様であるこのわしが『ものごっついええ』と言うてますねんでえ」とおっしゃるので、「私が『ものごっついいや~あ!』と言うてますねん」と言っても、「ええかげんにせんか、このチャンコロろすけイタコ浪商! おまえがええと思うかどうかは、まったく何の関係もないねんぞ、まったく何の関係も。どういう女と結婚するかというのは、それは、おまえが決めたらあかんねんぞ、おまえが決めたら。そういうことは、これは大事なことやねんぞ、大事なこと。そういう大事なことは、わし~いとかM川先生〔うちの父親の親友の医者屋。1980年頃当時、50代前半。大阪府豊中市在住。いかにも胡散臭い男〕が決めることやねんぞ。おまえが決めようなどと甘ったれたことを考えてはならぬぞチャンコロろすけイタコ!」とおっしゃるのだった。「それなら、お嫁さんなんか要りませんわ。結婚なんてしない方がいいですわ」と言ったところ、「そうかあ。それやったら、なんというてもわしはものごっつい寛容で、ものごっつい人格者で、ものごっつい理解力のあるお父さんなもんやから、それならそれでもええでえ。あんたが結婚はしとうない、独身で人生送る方がええというのなら、わしはものごっつい寛容でものごっつい人格者でものごっつい理解力のあるえっらいえっらいエッライえっらいお父さんなもんやから、認めてやってやってやってやらんこともないでえ」と、そうおっしゃるのだった。うちの父親はそういうおっさんやった。北野高校の2年の時の担任だった旧姓作野礼子(女。1970年代後半当時、20代)が「あなたのお父さんほどいいお父さんはないわよ。私は父親がいなかったんだからねえ!」と何度も言うのだったが、そして、そう言われてうちの父親は「作野先生もおっしゃるように、わしほどエライえらいエライおとうさんは、なかなかないねんで」とおっしゃるのだった・・・が、私にとっては「父親がある」というのは、世界でもっとも嫌いな類の女を結婚させたがる男がいるということを意味する。・・まあ、慶應女子高女などというのは、あいつらにとっては、公立高校出身者というのは””ドジン”” であり、「ゆりかごから墓場まで慶應」⇒「慶應内部進学」⇒「私立大学系私立高校卒」⇒「私立高校卒」⇒「公立高校卒だが親戚で何人も慶応大卒がいる」⇒「公立高校卒で東大・京大・阪大卒の人間は親戚にいるが慶應卒の人間なんていない」 ・・という「慶應義塾カースト」が強固にあいつらの頭の中・心の中には存在し、慶應内部進学の人間というのは植民地の白人支配者のようなもので、公立高校卒の人間というのは植民地のドジンであり、白人支配者の女がドジンの男と結婚するなどということは絶対にありえないことであり、もしも、どこかでまかりまちがって何かそんな話が出てくることがあったとしても、「向こうが断ってくれる」から、その点はまず心配はなかった・・・が、北野高校の旧姓作野礼子先生様が「あなたのお父さんほどいいお父さんはないわよお」と言いまくるお父さんというのは、そういうおっさんやった。・・それにしても、東京都港区三田の慶應大学三田キャンパスの近所には、なぜか、女子高校や女子短大がいっぱいあったのだが、その中で慶應女子高女というのは抜きんでて「かわいくない」のだ。いったい、どうやれば、ああいうかわいいくない女に育てることができるのか。最近は、女子高校生のスカート丈がずいぶんと短くなったが、私が高校生や高校卒業してしばらくは、高校生の女の子の制服のスカート丈は「膝下まで」が普通で、慶應女子高だけが「膝上」でかわりにハイソックスだったのだが、スカート丈が短くてもかわいくないものはかわいくないのだった。本当にかわいくない。まったくつくづくかわいくない。天より高くかわいくない。地の底より深くかわいくない。イスカンダルより遠くかわいくない女どもだった。本当に本当にかわいくない。あいつらもう、けっちゃんぱっちゃんくわっちゃんにしてやりたい・・というくらいかわいくない連中やった。〔⇒《YouTube-宇宙戦艦ヤマト2199 ① / ささきいさお・ほか》https://www.youtube.com/watch?v=DJGlWwZtsMo 〕
人の落とし物を拾って自分のものにしてしまったなら、それは占有離脱物横領罪になってしまうらしい。私は子供の頃、「放置自転車」なんかは、実際に誰かが乗って利用しているものを乗って行ってはいかんだろうけれども、なが~いこと放置されているものというのは、それは捨てられているのだから、むしろ、乗って利用しても「資源の有効利用」「地球にやさしい」というものではないのか・・と思ったことがあったのだが、新帝国警備保障(株)で交通誘導のガードマンの仕事をアルバイトでやった時に研修で、夜勤の仕事をした場合に始発の電車が出る時刻より前に仕事が終わった時など、駅前に「放置自転車」があったからそれに乗って帰るといったことは絶対にしてはいけません、占有離脱物横領罪になってしまいますと言われて、そうなんだと思ったことがあった。実際のところ、「置いてある」のか「捨ててある」のかの判断は難しいから、だから、「捨ててある」と思ったとしても、そうだと断定できないということになるのだろう。
実際には10円とか50円とか100円とかが落ちていたとしても、それを拾って自分の財布に入れても、いちいち、とがめて警察に言う人は多くないであろうけれども、理屈としては占有離脱物横領罪になるらしい・・・が、だ。慶應女子高女が落とした場合については違うと思うのだ。あいつらは落とすと同時に「見捨てよう」と宣言するのだから、その時点でその小銭は所有者がなくなった物だから、領土でも他国の領土に軍隊を派遣して占領して領有を宣言したのでいけないが、もともと、領有している国がなく居住している人がいない島がもしもあった場合に、それを新たに発見して領有するのは悪くないのと同じで、慶應女子高女が落とした小銭というのは「見捨てよう」と落とすと同時に所有権は放棄されるのだから、拾って利用させてもらって悪いことは何もない・・・はずだと思う。何より、元々、慶應の内部進学のやつが持っているカネなどというものは、社長が従業員に労基法違反で時間外無賃労働させて得たカネだったり、医者屋が不適切な薬漬け・検査漬け・毒盛りやって得たカネだったりするものであって、決して汗水流して得たカネではないのであるから、むしろ、あいつらのカネを人民の側が奪還したとしても、もともと、それはあいつらのカネであったわけではないのであり、あいつらこそ不当に所持していたのであるから、それを奪還した者は「人民の英雄」「労働者の英雄」とでもいった称号を付与されて称賛されるべきものではないか。そう思わんか? 三田に行って、慶應女子高女のかわいくないのを見ると、理屈よりも実感としてそう思うようになる。本当にかわいくない、あいつらは。
2002年のことだが、東京都千代田区霞が関の東京弁護士会・東京第二弁護士会がやっている法律相談で、「労働問題の労働者側をやる弁護士」という女性弁護士が「会社を相手に裁判やる人というのは例外なく人間性に問題がある人なの。会社という所は人間性がいい人とは争わないの。会社を相手に裁判やっている、ということは人間性に問題がある人間だということなの。だから、人間性を直さないといけないの」と発言。なんだ、こいつは、これが「労働問題の労働者側をやる弁護士」か、とあきれたが、同時に「こいつ、慶應女子高だな」とわかった。・・ただし、そのバカ女の氏名はその時は記憶したが今となっては忘れてしまったし、今ではインターネット上に経歴が出ていたりするし、弁護士の場合所属法律事務所のホームページに卒業した大学だけでなく高校も記載している者がおり、特に慶應内部進学の人間なんかは必ず慶應女子高とか書きよるからわかる場合が多いのだが、この女については調べなかったので「こいつ、慶應女子高だな」とわかったと言っても実際にそうであると断定まではできない・・けれども、もしも違ったとしても「アタマが慶應女子高」であるのは間違いない。
アメリカ合衆国の映画『ジェロニモ』では、白人に協力する原住民(「インディアン」)がおり、「彼はインディアンなのに、なんで我々に協力しているんだ」と白人の登場人物が言う場面があったが、最後、ジェロニモが降伏した後、それまでは白人の支配下で働いていた原住民からも銃を取り上げて、ジェロニモら白人と闘ってきた者と一緒に「居留地」に送られることになった際に、その男が言う文句が「アイ アム ア グッドインディアン(I am a good Indeian.)」だった。護送される列車の中でその男が最後にジェロニモに言う。「私もあんたと一緒に闘うべきだった」と。実際に学歴が「慶應女子高女」であるかどうかにかかわらず、人格が慶應女子高のその””「労働問題の労働者側」をやる弁護士””という女が言う所の「人間性がいい人」というのは映画『ジェロニモ』に登場するアメリカ大陸の原住民のうちの白人に加担する「グッド インディアン」みたいな人のことであろう。〔⇒《YouTube-Geronimo(ジェロニモ): An American Legend (1993) ORIGINAL TRAILER [HD 1080p]》https://www.youtube.com/watch?v=v4alqybzcic 〕
労働法の上では「スト破り(スキャップ)」という言葉があり「イエロードッグ コントラクト(黄犬契約)」という言葉がある。「黄犬契約」という言葉は「臆病もののイヌには黄色い縞がある」とかいう話から出た言葉というが、「スト破り(スキャップ)」とか「黄犬契約」の「黄犬」とかそういった者をその「アタマが慶應女子高」の弁護士女は「人間性がいい人」と言っていたようで、そういう思想世界観の女だったようだ。後から「しまった、あんなやつに『相談料』払う必要なかった」と思ったが、それからもう20年ほど経ってしまった。
YouTube で、元中日ドラゴンズ・元西武ライオンズ・元阪神タイガースの田尾が「田尾チャンネル」https://www.youtube.com/results?search_query=%E7%94%B0%E5%B0%BE%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%8D%E3%83%AB
で、中日から西武にトレードに出された時のことを話していたが、「今、もしも誰とでも対談ができるなら対談してみたい人」として、もう亡くなった人では中日から出された時のオーナーと話したいと述べていて、「どうして私はそこまで嫌われなければならなかったんですか」ときいてみたい、と話していた。「その時、選手会の会長になっていて、選手会として球団に対して、このようにしてもらえませんか、ということを伝えただけなのに、なんで、あそこまで嫌われなければならないのか、選手会長なんかするもんじゃないなあと思った」と述べていたが、プロ野球選手に限ったことではなく、もしも、その「アタマが慶應女子高」女の弁護士が言うように「『労働問題の労働者側』をやる人というのは、法律的にはその人が言っていることが正しい場合が多いのだけれども、人間性に問題があるから会社から嫌われるの」というのであれば、それなら、特別のことを言ったわけでもないのに、なんで、あそこまで嫌われなければならないんだ・・ということになる。袴田事件の袴田さんの再審の問題が最近、ニュースに出ているけれども、この「アタマが慶應女子高」女のこの「労働問題の労働者側をやる弁護士」の思考によるならば、「冤罪事件の被告人の人というのは、たいてい、法律的にはその人の方が正しいの。でも、人間性に問題があるから、だから警察や検察から冤罪きせられるの。人間性に問題がない人なら警察や検察は冤罪きせたりしないの」とか言い出すのではないか。まったくつくづくとんでもない女である。「慶應女子高女」というのは反社会的勢力である。
その時の「労働問題の労働者側をやる弁護士」と称するバカ女を見て「こいつ、慶應女子高だな」と思ったが、実際にその女が慶應女子高かどうかはわからないが、慶應女子高女にはそういう人間が大変多いのは事実であり、慶應の内部進学の学校に行くとそういう思想信条世界観を観念的に叩き込まれることになる。遠山啓(ひらく)は『競争原理を超えて』(太郎次郎社)で、小学校から中学校にかけて「術」的なものを学び、中学校から高校にかけて「学」的なものを学び、その「学」から「観」を身に着けるというようにすべきだが、「観」はあくまでも身に着けた「学」から自然とできてくるものであって、この際に絶対にやってはいけないのは「観」の注入教育である、と述べていたが、遠山啓が「絶対にやってはいけない」という「『観』の注入教育」をやっているのが慶應の内部進学の学校である。そういう「『観』の注入教育」をされてきたような人間の精神構造のことを「慶應心理学」は「思考が柔軟」とか「独立自尊の精神がある」とか「受験勉強の悪影響を受けていない」とか「自我が確立されている」とか「診断」するのです。「心理学」というのは「そういうもの」なのです。毛沢東は「敵によって反対されるのはいいことであって悪いことではない。なぜなら、もしも敵から称賛されるなら、我々の行動が敵と同様に腐敗していることを意味し、敵からありとあらゆる悪口雑言を浴びせられるなら、それは我々の行動が敵とは一線を画しているからである。だから、敵によって悪口雑言罵詈讒謗を浴びせられるなら、それは『たいへんけっこうだ』と言うべきだ」と『敵によって反対されるのはよいことであって悪いことではない』で述べているが、慶應女子高女の弁護士が「人間性がいい人」と言うのは「敵から称賛される人間」のことであり、そういう慶應女子高のアホ弁護士から悪口雑言を浴びせられるなら「それは大変けっこうだ」と言うべきことかもしれない・・・が、あのバカ女に「相談料」をだまし取られたのが残念だ。あいつ、アホが勝手なことばっかり言っていただけで法律相談なんかやってないではないか。慶應女子高女というのはそういうものだ。「慶應女子高女および『アタマが慶應女子高』から悪口雑言を浴びせられるなら、それは大変けっこうだ」と考えるべきであろう。もしも、そのアホ弁護士の女の卒業した高校が慶應女子高でなかったとしても、その女が「アタマが慶應女子高」であったのは間違いないし、慶應女子高女にそういう人間が多いのも間違いないし、慶應の内部進学の学校に行くとそんな人間にされてしまうというのも間違いないのであり、そいつらが慶應大学で「外部のやつら〔大学だけ慶應に行った人間を慶應の内部進学の人間は『(慶應義塾の)外部の人間』と言う〕を教育してやらんといかんからなあ」などと傲慢な口をききまくっているというのもまた事実なのである。agricultre をagricultre と発音せず、agricultre と発音するやつが「外部のやつらを教育してやらんといかんからなあ」などと言いまくるのだ。なんで、おまえなんかに教育されんといかんのじゃ、ビョーキ移るからやめてくれ・・と思うが、そう言うと「受験勉強の悪影響だと思います」とか「自我が確立されていないから、だから、無理矢理逆らってそういうことを言うということですね」とか「慶應心理学」から「診断」されるということになります。「診断」されると次に「治療」される危険がありますから、もう怖いこわい怖いこわい怖いこわい怖いこわい、「心理学」は本当に怖い。
それで、松島みどり さんは、選挙の際に選挙のチラシを厚紙でウチワとして使えるようにしたというのが「利益供与」だとして問題になったことがあり、又、国会で席でアクビしたとか問題になったが、アクビするとかいうあたりは、それは歳いってから議員になった人の哀しいところかもしれない。 結局、この人は何をしたかったの? ・・というと、大学も東大に行ったように、ともかく「一番」を目指したかっただけか? ハルク=ホーガンみたいなものか?〔⇒《YouTube-一番 ハルク・ホーガン(Itch Ban / Hulk Hogan)》https://www.youtube.com/watch?v=BJigJNkwqEo 〕
遠山啓(ひらく)『競争原理を超えてーひとりひとりをいかす教育』(太郎次郎社)では、本当に優秀な人とは、ひととの競争で勝つことを目標とせず、ひとが何と言おうが、ひととの競争に勝とうが負けようが関係なく自分がこれをやりたい、これをやるんだということに努力する人であるはずだ」と述べられているが、たしかにそういうところはあると思うのだ。本多勝一『冒険と日本人』(集英社文庫)でドラム缶による筏で太平洋を横断しようとして失敗した金子健太郎さんという人が、途中で内臓を悪くして救助されたことで失敗して袋叩きにあった金子さんが「今度は万全の準備をして、たとえ一人でも反対の人がいたらやらないようにします」といったことを話したのに対して、本多勝一は「あなた、たとえ一人でも反対する人がいたらやらないなんて、そんなこと言ってたら、いつまで経っても何もできませんよ」と語るが、これまども似ているところがあるかと思うが、本当に有益なことをやる人は、たとえ人が反対しようが自分がこれが価値があると思えばやるんだという姿勢で努力するものという面があるのではないか。 ところが、「一番」を求めるばかりの人というのは、まったく無能ということではないとしても、結局、あんた、何をやりたかったの? ・・という結果になることがある。東大卒の人にはそういう人が多いと言う人もいるけれども、私はそうでもないと思っていた。東大以外の大学卒の人でもそういう人はおり、たしかに、どこの大学がいいか考えてではなく「一番」を求めることから東大に行ったような人には「一番」を求める姿勢が強く、何をやりたいか、自分がやりたいと思うもののために努力するのではなく、人との比較で「一番」になりたいという意識から、ともかく「一番」のようなものを求めるばかりという人はいるかもしれないが、しかし、「だから、東大の人は嫌いなんだ」とか言う人というのは、そんなに厳密に東大卒の人とそれ以外の大学卒の人と比較した上で、東大卒の人に「一番」ばっかり追いかける人が多いと科学的に統計とって調べたのか・・というと、違うと思うのだ。東大に敵意を持っている人で「東大に行ったら、自分がやりたいことをやるのではなく、一番を追いかけるような人間になる」とか言う人がいるが、「東大に行ったらそういう人になる」とか言う人もいるが、東大に行かなくてもそういう人はいる。しかし、そういう人というのはいるし、東大卒の人にそういう人はいるかもしれない。
私は子供の頃、手塚治虫の『鉄腕アトム』などが好きだったが、その手塚治虫と同じ北野高校に行けたというのはうれしかった。しかし、手塚治虫は自分では「負けず嫌い」と言っているけれども、人によっては「嫉妬深い」と言う人もあるようで、ほかの人間が手塚治虫と異なる分野で実績を残していると、「俺だって描ける」と自分がそれまでやってきた分野と異なるものでも手を出してやろうとする傾向がある人だった、というのだ。ウィキペディアー手塚治虫https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%89%8B%E5%A1%9A%E6%B2%BB%E8%99%AB#%E4%BD%9C%E9%A2%A8%E3%81%A8%E5%8A%9F%E7%B8%BE を見ると、手塚治虫は1928年11月生まれ、1989年2月に他界。比較的早くから漫画家として評価されるようになったから、けっこう歳いっているような感じがしたが、実際はまだ60歳で他界してしまったらしい。 うちの母親のいとこの夫が北野高校で手塚治虫と同級生だったそうで、『鉄腕アトム』に登場する「ヒゲおやじ」だったか「お茶の水博士」だったかどっちかのモデルだそうだが、「北野高校の時、授業中に漫画ばっかり描いておった」とかその同級生のおっさんが言っていたというのだが、『ブラックジャック』なんて医者をモデルにした話を描いているが「授業中に漫画ばっかり描いていた」にしては阪大の医学部になんか行けたのか・・というと、手塚治虫は「大阪帝国大学附属医学専門部」卒らしく、これは医学部とは別で、戦中に医者が必要とされた時に医学部とは別に医師の仕事をできる人間を養成するために設けられたもので、医学部より入りやすかったもののようだ。そういう所の出身だけに「にせ医者」「無免許の医者」という『ブラックジャック』なんて話を思い浮かんだのかもしれない。『鉄腕アトム』は子供の頃、好きだったが、『ブラックジャック』になると、医者というものが特別エライ存在みたいに描いており、「医者て何さまなの?」みたいなところがあり、その点に手塚治虫は気づいていないと思われるところがあり、その部分については好感を持てない。
妖怪の話や社会の風刺の話を漫画に描いた水木しげる は手塚治虫より年上だったが、社会や人間の風刺の漫画などは好む人は好み、高い評価をする人もあるけれども、万人受けするものではなく、そのため、世間でヒットしたのは水木しげる が描いた『墓場の鬼太郎』から「おどろおどろしさ」をかなり軽減した『ゲゲゲの鬼太郎』がテレビアニメなどでヒットした時で、手塚治虫の作品がヒットするよりずっと後で、そのため、水木しげる は年齢は手塚治虫より年上だったが手塚治虫は水木しげるに対して格下のような態度だったとか、どこかで読んだ。水木しげる は妖怪の話に関心を持ち、人から受け入れられようが受け入れられまいが、妖怪の漫画を描き、そのために得た収入の多くで妖怪についての本を買って勉強して、その方向に突き進んだが、手塚治虫には『どろろ』という妖怪を扱った漫画があるが、『どろろ』はなかなかよくできていると思うし、おもしろい話だけれども、もしかすると、それは「負けず嫌い」もしくは「嫉妬深い」性格から、水木しげる が妖怪を描いた漫画でヒットすると、自分だって描けると手塚治虫は若い頃から妖怪について勉強してきたわけでもないのに描いた・・というものだったのかもしれない。私は手塚治虫の作品では『ブラックジャック』はあまり好きではないが、今、見ても、まだ小学校に行く前にテレビで見た『鉄腕アトム』などは子供向けの漫画としてよくできていると思うし、『アドルフに次ぐ』なども『鉄腕アトム』などの子供向けと違って大人向けのものとしてよくできていると思うのだが、ほかの人間がやっていると自分だって・・という、そういうところというのは、あんまりいいとは思わない。北野高校で「授業中に漫画ばっかり描いていた」というのは、それはほめることではないとしても、ほかの人間がどうであるかにかかわらず自分は漫画の道に進みたいということで突き進んだのかもしれないが、漫画家として大成してからは「負けず嫌い」なのか「嫉妬深い」のかで、ほかの人間が自分と異なる分野で成功すると「自分だって」と手を出すようなところが出てきた・・ということみたいで、そのあたりについては、あんまりいいとは思えない。それでも『どろろ』はなかなかよくできていて、手塚治虫の漫画の中では『どろろ』は好きなものの方であるけれども。
それで、松島みどり さんて、1浪で東大に行って卒業して朝日新聞社に就職したのはいいが、その後、すでにけっこう年齢をいってから自民党の公募に応募して東京都の墨田区のあたりで衆議院議員の選挙に出て当選したらしい・・・が、議員になって悪いということはないし、大臣になって悪いということもないが、しかし、結局、この人は何をやりたかったの? ・・・みたいなものを感じた。
最初に松島みどり さんが選挙に出た時、たしか、亀戸のあたりで選挙ポスターを見て、「あの人じゃないか」と思い、なつかしい思いがしたのだった・・が、同時に、そこに書かれているものを見ると、小泉純一郎の政権が言っていることを追認しているだけであり、自分自身の見解というものが見えられない。「東大出たって、そんなもの」なのか? ・・という感じがして、がっかりした。
もしも、自分自身の考え、自分自身の見解がある人間であるならば、たとえ、政権担当政党から議員に立候補するとしても、各政策については一致しないものがひとつやふたつ出ておかしくないはずだが、ところが、松島みどり さんが最初に選挙に出た時のポスターを見ると、小泉ええかっこしい内閣の主張をそのまま追認するだけのものでしかなかった。がっかりした。
いずれかの政党から選挙に出るからには、常にすべてのものについて、その時のその政党の主張、政権担当政党からならば、その時の総理・総裁の主張と一致していないといけないというものではないと思うのだ。金大中『民主救国への道』(新教出版社)では「多様性の中から調和を見出していくのが民主主義」と金大中氏は述べているが、その通り「多様性の中から調和を見出していく」というのが民主主義のあり方であり、決して、自分の考えを持たない人間が政治的主導者に従うのが民主主義というものではないはずだ。
小泉純一郎は最初に政権についた時、「自民党は改革政党になった」と発言し、それに対しては「一瞬、ちょっとだけ」期待したが、そのうち、自分の側の主張は「構造改革」と言い、自分に反対する者は右も左も「抵抗勢力」と罵るという態度に出たので、それはちょっと違うのではないか・・と思うようになった。
松浪新三郎『実存主義』(1962.6.22.岩波新書)には、
《 そのつどみずから選択しみずから決意することの自由に耐えかねて、何ものかに依存したり、何ものかを口実にしたり、何ものかに逃避したり、何ものかに指示を求めたり、何ものかに決定をゆだめることは、すべて自己欺瞞でしかない。ハイデッガーの用語をかりるならば、そういう生きかたは、すべて非本来的である。・・》
と述べられているが、この姿勢を持つ者ならば、どのような政党に加入しても、どのような政党から選挙に出ても、自分自身の考えがある限り、すべてについてその政党の主張と一致するということにはなりにくい。 すべてについて一致しないならば、どの政党からも議員に立候補できないかというと、そうではないと思うのだ。「多様性の中から調和を見出していく」ということができるならば、たとえ、個々の問題について主張が一致しないものがあったとしても、それでも一緒にやっていけることはある。そういった判断をして松島さんは自民党から立候補したのか、それとも、単に政権担当政党だったから、自分の考えなどなく、政権担当政党から出た方が得だというだけのことで、政権担当政党の総理・総裁の言うことを何でも追認して議員になり大臣になりたかったのか。そのあたりが問題だが、どうも、あまり評価できるものではなさそうで残念だ。

実存主義 (岩波新書) - 松浪 信三郎
選挙のチラシを厚紙で作ってウチワにしてしまったというのは「うかつだった」というものだろう。丸川珠代もいいおばさんになったが最初に選挙に出た時はまだ30代で、新聞だったか週刊誌だったかの記事によると、「握手しましょ」とか言っておっさんの手を握ってまわっておったそうで、おっさんは喜んどった・・というのだが、松島みどりのおばさんの似顔絵入りウチワなんてもらうよりも、30代の女が「握手しましょ」とか言っておっさんの手を握ってまわり、おっさんが喜んどる という方が「利益供与」と違うのか・・・て気もしないでもない・・・。そう思いませんか?
・・おばさんなら、要らんけどな・・・。
松島みどり さんは政治家になるにはワンテンポ遅かった・・のではないかな。国会の最中にテレビに映っているところでアクビをしていたとか、そういうのも、けっこう高齢になってから議員になったことから、体力的にきつい・・ということもあるのではないかな。
平井橋を渡ってすぐの「平井橋西」交差点を左折して、すぐ右折する通りの「立花通り」を進むと、東武亀戸線「東あずま(ひがし あずま)」駅に行く。燈明寺・諏訪神社はJR総部本線「平井」駅が最も近いが、平井橋を渡って東武亀戸線「東あずま」駅にも遠くない・・と地図を見て思えたので、帰りは「東あずま」駅から帰ろうと思って来たのだが、地図を持ってくるのを忘れてしまい、付近に案内図も見当たらず、適当に歩けばどこかに行くだろう、街中だからクマと遭遇するとかいうようなことはないだろう・・と思って歩いたら、東武亀戸線「東あずま」ではなく、その北の「小村井(おむらい)」駅にたどりつき、そこから帰ることになった。
又、「旧中川」の北西側、平井橋を渡って右折したあたりに「大正民家園」なるものがあるのが地図に出ていたので寄ってみたいと思ったが、その地図を忘れてしまい、適当に歩いたらそのあたりに行くかと思ったらたどりつけなかったので、それは次回にまわすことにしてあきらめた。
そのあたりを次回https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/501276979.html 、述べたいと思う。
(2023.10.28.)
☆ 燈明寺(平井聖天)〔東京都江戸川区平井〕参拝
1.平井駅から蔵前橋通りを横断し、諏訪神社の前を通って燈明寺へ。計画性のないチムニー(株)「ファーストグルメ」平井店。「(一条工務店の某営業のように)郵便物を盗むことは犯罪行為です 小石川警察署・・」。「無責任の体系」のチムニー(株)の面接。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/500980727.html
2.門をくぐり正面に聖天堂、右手に金堂。門の内側右に弘法大師像? 左に水子地蔵。「子供」を大義名分にかかげれば何でもまかり通ると考える「子供」帝国主義の女とその夫に殺されたわが子の恨みをはらしていただくよう、水子地蔵様に祈願してきました。反社会的勢力雇用均等室を叩き潰せ! https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/501018586.html
3.門から入り、左に鐘楼、正面に聖天堂・右に本堂。「裏でなく 正門で入ろう 大学は」。八百長医者屋民族の嘘。この人間がこう言ったら実態はこんな感じかと推測するか、言った通りと推測するか。父親がなかったから父親がいるとどんなに大変か理解できないバカ女症候群。
4.「歓喜堂」「聖天堂」。RC造の1階の上の「歓喜堂」「聖天堂」。聖天堂から見た鐘楼・本堂。大聖歓喜天・ガネーシャとは。冠をつけている方が観音で足を踏まれている方が歓喜天なのか、両方が大聖歓喜天なのか。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/501111583.html
5.不動明王を祀る本堂。不動明王とは。真言宗の新義と古義の経緯とは。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/501141339.html
6.平井諏訪神社。江戸川区一の社殿、区登録有形文化財の稲荷社は彫刻がきれい。平井富士塚。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/501193898.html
7.旧中川にかかる平井橋・荒川放水路で分断された中川・高校教諭は親に苦しむ生徒に助力するものと違うのか・「両親が離婚した」娘はみんなでほめなきゃならんのか・「両親が離婚した」らエライのか・「京大でも通りました」と母親が言ってまわる阪大生には何かしてあげるべきなのか・クロマティ高校卒の男は浪人する権利があるのか・あまりにも「一番」追いかける人は、結局、何がやりたいのか?・おばさんの似顔絵入りウチワと30代の女の「握手しましょ」はどっちが「利益供与」か〔今回〕
8.同僚を営業本部長に讒言する男とそれをきく営業本部長、会社のルールを破って人の追客中客を強奪して放置する所長とそれに加担する営業本部長、自社が損する嘘をつきまくる営業、「研修」で得意がって嘘教える男、〇日に見積書を持って来てくれと頼んでその日はパジャマで奥にいる人、「下位互換」の会社は立場が弱い、「失投」が来る浜松・掛川・名古屋の営業と「一流投手の会心の球」しか来ない東京・松戸営業所。吾嬬町とは。大正民家園 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/501276979.html
9.墨田区立花の白髭神社。自分が店員に腹立つことがあっても、会社が提携している店と勝手に喧嘩していいものではないであろう。いったん、もめても修復すべく働きかけるのが「営業力」、往復40分歩かせて交通費をけちる会社の判断は間違い。小村井交差点https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/501343357.html
10.亀戸線「小村井」~「亀戸」駅。自分が勤務する新展示場開設に尽力してくれた相手に「すいません」言わない営業・構造安全基準が甘い設計会社・気持ちが落ち着く方法17 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/501359257.html
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