ロストフナドヌーとロストフベリキー、グムと赤の広場、ドン川・ドニプロ川・ドニステル川・ドナウ川の違い。「聖なる戦い」はウクライナ侵攻のロシア軍にはそぐわない。やっぱり私は「モスクワ郊外の夕べ」が好きだ。音楽技術・身体能力・文学哲学的要素の3つで成り立つ声楽とそれを否定するアマチュア合唱団と学校の「コーラス部」。「ロシア人以外の諸民族の牢獄」は「ロシア革命によっても克服できなかった」を「社会主義だと民族差別が起こる」と捻じ曲げる「慶應タイプ」―ロシア軍によるウクライナ侵攻に際し建築屋的感想B【1/2】
[第1017回]
ロシア連邦軍によるウクライナ侵攻にさいしての「建築屋的感想」をこのブログでも、
[第912回]《 ロシア軍のウクライナ侵攻に際して建築屋的感想【1】ポーランド色が強いリヴィウ、カルパチア山脈よりハンガリー側に国境があるウクライナとハンガリーの国境。【2】ドイツ人建築家ブルーノ=タウトの生誕地のケーニヒスベルク(カリーニングラード)はロシア連邦領になっている。アール=ヌーボーの画家ミュシャはポーランド人で「スラブ人」の意識がある。》https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202204article_1.html
[第913回]《ロシア軍のウクライナ侵攻に際して建築屋的感想【3】ロシア連邦から日本へ輸入される木材。【4】自然保護されるか。【5】ロシアの建築は魅力的だが行けなくなってしまった。天然木と造林木では事情が違うことすら理解できない国産材使用木造住宅建築会社の従業員。 》https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202204article_2.html
[第918回]《 ロシア軍ウクライナ侵攻により採用取消された在日ロシア人と「リフォームのナカヤマ」に採用取消された何年か前の私の話。後の就職席にまで誹謗中傷を加える卑劣6な者。》https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202204article_9.html
で述べたが、今回、何点か述べたいと思う。
【1】 ロストフ=ベリキー と ロストフ=ナドヌー
丸善から出版されている「建築巡礼」シリーズは魅力的であるが、そのうちの 内井 昭蔵『ロシアビザンチンー黄金の環を訪ねて(建築巡礼19)』(1991.1.30.丸善)は、ウラル山脈より西側のロシアの建築、特に「黄金の環」と言われる地域とレニングラード、それにウクライナのキエフの建築と日本の正教会の建築について述べられている。
それで、だ。
《(2023年)6月23日には部隊を引き連れて一部のロシア軍基地を掌握、首都モスクワへ進軍するという行動を起こすに至った。これに対しプーチンは処罰を下すと厳しい姿勢で臨んだがベラルーシのルカシェンコ大統領の介入もあり進軍は中止、プリゴジンはベラルーシへ事実上亡命しプーチンも処罰を行わないと方針を転換した。その後、プリゴジンの行方は一時不明となったが6月27日になってベラルーシのマチュリシチ空軍基地に到着した。》(ウィキペディアーエフゲニー・プリゴジン )という「プリゴジンの乱」なるものが発生した。その後、
《 2023年8月23日、モスクワ北西部のトベリ州で墜落したビジネスジェットの乗客名簿にプリゴジンの名前があり、乗客乗員10名は全員死亡したと報道された。ワグネルに近いテレグラムチャンネル「グレーゾーン」は、地対空ミサイルが発射された痕跡があると報道している。
同事故の直後、ロシア国防省およびロシア大統領府(クレムリン)からはコメントは出なかったが、アメリカのバイデン大統領は「実際に何が起きたか分からないが、驚かない」とし、「ロシアで起きることで、プーチンが関与していな29いことはあまりないようだ」という考えを示した。
同年8月27日、ロシア当局は遺体のDNA鑑定を行いプリゴジンの死亡が確認されたと発表。同年8月29日、警戒態勢が敷かれる中、出身地のサンクトペテルブルクで密葬が執り行われ、同市北東の郊外にある墓地に埋葬された》(ウィキペディアーエフゲニー・プリゴジン https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%95%E3%82%B2%E3%83%8B%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%97%E3%83%AA%E3%82%B4%E3%82%B8%E3%83%B3
)
ということだが、「プリゴジンの乱」は な~んかこう「竜頭蛇尾」みたいな感じだった。ルカシェンコが仲介して《進軍は中止》した上で《プーチンも処罰を行わないと方針を転換した》ということだったが、その「ルカシェンコ大統領の介入」というものがモスクワめざして進軍している最中においては効果があっても「進軍は中止」した後ではたしてプーチンに対してどれだけの「重み」があるか・・と考えるなら、いったん、「乱」を起こしたならば、そのまま進むか敗北するかしかないのではないか・・という感じがしたが、「めざせ、モスクワ」の「進軍は中止」して、そして、ベラルーシに亡命ならルカシェンコ大統領による仲介によって《処罰を行わない》とするかわりに「進軍は中止」したからには、ベラルーシにいるからには命は保たれるか・・と思っていたら、無警戒にロシア連邦内に戻って、そして、「飛行機事故」によって殺されたみたい・・ということは、このプリゴジンというおっさんは、一見、「百戦錬磨」みたいに見えて、実はけっこう見通しが甘かったということなのか・・・?
それで、実は「飛行機事故で死亡した」ということになっているプリゴジンは替え玉であって、本物のプリゴジンはどこかでひっそりと隠れて生きているということはないのか・・という説について、東京大学のなんとか研究所の小泉なんとかさんが「死んでると思います。もしも、生きていたならば、あの人、ひっそりと黙って生活できる人じゃないと思うんですよ。絶対に、おとなしく黙ってられる性格じゃないと思います」と言っていたが、そんな感じがする。
※ ウィキペディアーエフゲニー・プリゴジン https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%95%E3%82%B2%E3%83%8B%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%97%E3%83%AA%E3%82%B4%E3%82%B8%E3%83%B3
それで、プリゴジンとワグネルが制圧したロシア連邦南部の都市の名前が「ロストフ」だったのだが、え? ロストフ・・? と思ったのだ。そこにロシア連邦軍の基地なのか何だのかがあって、そこをワグネルが制圧したということで、又、プリゴジンがそこを離れる時に群衆がプリゴジンに対して熱狂的な支持を示すような態度をとったとして放映されていたのだったが、「ロストフ」というと、内井 昭蔵『ロシアビザンチンー黄金の環を訪ねて(建築巡礼19)』(1991.1.30.丸善)にも登場したウスペンスキー大聖堂とかがある都市?・・かと思ったが、違った。
ロシア連邦には「ロストフ」という名前の都市が2つあって、今回、プリゴジンとワグネルが一時制圧したというアゾフ海の北東、ドン川の河口、ロシア連邦のロストフ州にある「ロストフ」は「ロストフ ナドヌー」。1917年のロシア革命の時にアメリカ合衆国に亡命したドン・コサック合唱団の「ドン」はロストフ=ナドヌー 付近でアゾフ海の北東部のタガンロク湾にそそぐドン川の付近のコサックという意味での名前のはずだ。
※ YouTube-ステンカ・ラジーン - ドン・コサック男聲合唱團 https://www.youtube.com/watch?v=y_CTvJyJhcM

( ↑ 緑の丸で囲った市がロストフ州の ロストフ ナドヌー。)(『グローバルマップル 世界地図帳』2023.9.1.昭文社)
それで、内井 昭蔵『ロシアビザンチンー黄金の環を訪ねて(建築巡礼19)』(1991.1.30.丸善)で、モスクワを囲む環のように存在する、コロメンスコエ・ザゴルスク・ペレスラブリ=ザレッスキー・ウラディーミル・スーズダリ・ヤロスラブリとロストフ=ベリキー という「黄金の環」と言われる都市のひとつの「ロストフ」は「ロストフ=ベリキー」だった。
「黄金の環」というのは「モスクワとその近郊のロシア正教の古都」を言うらしい。
《ウィキペディアーロストフ・ナ・ドヌ》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%95%E3%83%BB%E3%83%8A%E3%83%BB%E3%83%89%E3%83%8C によると、
《 町の本来の名前である「ロストフ」に付加された「ナ・ドヌ」とは、ロシア語で「ドン川にある」という意味で、ヤロスラヴリ州にある同名のロストフの町(ロストフ・ヤロスラフスキー、大ロストフとも)と区別するためである。ヤロスラヴリのロストフは歴史の長い古都だが、ドン川のロストフのほうが大き862町であり世界的にも有名で、単にロストフと呼ぶ場合はロストフ・ナ・ドヌを指す場合が多い。》
ということらしい。225
「ロストフ=ヴェリキー」は、ウィキペディアーロストフ https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%95 に、
《 ロシアのヤロスラヴリ州にある古都。モスクワから北東へ225km、ヤロスラヴリの南西53キロ、ネロ湖のそばに栄えたロシア最古級の町で、いわゆる「黄金の環」を構成する都市の一つ。年代記では862年が初出。
ドン川沿いの大都市ロストフ(ロストフ・ナ・ドヌ)と区別するために、ロストフ・ヴェリーキー(Ростов Великий, 大ロストフ)、或いはロストフ・ヤロスラフスキーと呼ばれることもある。鉄道駅はロストフ・ヤロスラフスキー駅と呼ばれ、モスクワからヤロスラヴリ方面行きの多くの列車が停車する。》
と出ている。

( ↑ 緑の丸で囲った市がヤロースラブリ州の ロストフ ヴェリキー もしくは、ロストフ ヤロスラフスキー。)(『グローバルマップル 世界地図帳』2023.9.1.昭文社)

ロシアビザンチン―黄金の環を訪ねて (建築巡礼) - 内井 昭蔵
内井 昭蔵『ロシアビザンチンー黄金の環を訪ねて(建築巡礼19)』(1991.1.30.丸善)に掲載されている「黄金の環」と言われる都市の建築は魅力的で、ロストフ=ヴェリキー とか ヤロスラブリ とか、一度、行ってみた~い・・と思って行けずにすでに20年以上経つが、ますます行きにくくなってしまった。悲しい。
「ロストフ=ヴェリキー」は、
《 ロストフ・ベリキー
ヤロスラブリから車でロストフへ向かう。ヤロスラブリ出発は午後遅くなってしまった。めざすは、クレムリンとウスペンスキー大聖堂(十六世紀)。ウスペンスキー大聖堂はクレムリンに隣接し、その隣には大きな鐘楼(1680年)がある。この鐘楼は壁式のもので、十三の鐘がありそれぞれことなった音色を出す。一番大きい鐘はフヨードル・テレンチェフ作である。この鐘の音はロシア全土に鳴り響いたといわれる。
薄暗くなった頃、車はクレムリンの前に着く。巨大で黒々として堂々たるキューポールが立つ様子は威圧的である。
ロストフ(=ヴェリキー)はモスクワからヤロスラブリ街道を使うとおよそ200キロメートルである。近くにネロ湖がある。
町は862年に起り、十世紀には有数の都市に成長したが十三世紀から度重なるタタールの軛で町は壊滅し、1670年に一気にクレムリンが築かれ再び活気を取り戻した。クレムリンの壁は厚いれんがで二階造となっている。この二階部分が回廊のように連続して周囲を巡り、各聖堂や僧院に通っていて、いかにも要塞づくりである。
・・・ 》(内井 昭蔵『ロシアビザンチンー黄金の環を訪ねて(建築巡礼19)』1991.1.30.丸善)
同書には、ロストフ=ヴェリキーの建築ではウスペンスキー大聖堂と「クレムリン」の写真が掲載されている。
「クレムリン」というとモスクワのクレムリンを思い浮かべるが、ロストフ=ヴェリキーにも「クレムリン」があるようだが、「クレムリン」て何なんだ?・・・
《 (モスクワのクレムリンに)ソビエト連邦時代にはソ連共産党の中枢が設置されたことから、ソ連共産党の別名としても用いられた。
現在もロシア連邦の大統領府や大統領官邸が設置されているため、ロシア政府の代名詞として用いられる。》(ウィキペディアークレムリン https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AC%E3%83%A0%E3%83%AA%E3%83%B3 )けれども、
「JTB クレムリン(Kremlin)の観光情報」https://www.jtb.co.jp/kaigai_guide/e.europe-russia-c.asia/russian_federation/MOW/119279/index.html によると、
《 クレムリンとは本来城塞を意味するロシア語。ロシア各地に数多く残っているが、一番有名なのがモスクワクレムリン。》だそうだ。「一番有名なのはモスクワ クレムリン」だけれども、モスクワのクレムリンだけではなくて、他にも何か所かに「クレムリン」はあるらしい。

グローバルマップル 世界地図帳 - 昭文社 地図 編集部
【2】ドナウ川・プルート川・ドニエストル川(ドニステル川)・ドニプロ川(ドニエプル川)・ドン川・ヴォルガ川。
ウクライナからロシア連邦南部にかけての川の名前がどうも、似た名前で混乱するのだが、ドナウ川とドニエストル川(ドニプロ川)が別なのはわかるが、ドニエストル川(ドニプロ川)と同じ「ド」で始まる名前の川で、ドニエストル川(ドニプロ川)より東にドン川があり、ドニエストル川(ドニプロ川)よりも西にドニステル川(ドニエストル川)があり、ややこしい。知名度の高い川ではヴォルガ川がこの近くを流れているが、ヴォルガ川はドン川よりさらに東。そのあたりを整理してみよう。
(1)ドナウ川
ヨハン=シュトラウス2世の『美しく青きドナウ』のドナウ川・・といっても、ヨハン=シュトラウス2世はオーストリアのウィーンあたりのドナウ川を思い描いて作曲したのではないか。地図で確認すると、ドナウ川はドイツ連邦共和国の南西部から流れ出し、オーストリアの首都ウィーンを流れて、スロバキアの首都プラチスラバスキンを流れ、スロバキアとハンガリーの国境を東に流れてハンガリーの首都ブダペスト付近を南下してセルビアに入り、セルビアの首都(かつては、ユーゴスラビアの首都)ベオグラード付近を東に進んで、セルビアとルーマニアの国境を流れ、さらにルーマニアとブルガリアの国境を東に流れて、もう少しで黒海というあたりで北に曲がり、ルーマニア国内の湿地を通ってモルドバ・ウクライナとルーマニアの3国の国境付近でルーマニアとモルドバの国境を流れてきたプルート川と合流して三角州を作り黒海にそそぐ。ずいぶんといろいろな国を流れてきたもので、『美しく青きドナウ』という曲から考えてオーストリア付近の川かと思いそうだが、ウィーン付近だけの川ではない。 今回、ウクライナが穀物を船に積んでドナウ川を利用して輸出しようとしたものをロシア軍が攻撃したというのは、ドナウ川では下流の方、ウクライナとルーマニアの国境付近のウクライナ側の街イズマイールだったか。
ドナウ川にちなむ音楽として『美しく青きドナウ』ともうひとつ『ドナウ川のさざなみ』という曲のがあるが、私はかつて、この曲もヨハン=シュトラウス2世の作曲かと勘違いしていたのだが、そうではなく、これは《 ルーマニアの作曲家ヨシフ・イヴァノヴィチが1880に作曲したワルツ。》(ウィキペディアードナウ川のさざなみ https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%83%8A%E3%82%A6%E5%B7%9D%E3%81%AE%E3%81%95%E3%81%96%E3%81%AA%E3%81%BF )。
※ YouTube-美しく青きドナウ https://www.youtube.com/watch?v=1nWbuwLshrk
※ YouTube-ドナウ河のさざなみ https://www.youtube.com/watch?v=ermFrBxaMbo
(2)プルート川
モルドバとルーマニアの国境を流れてきて、モルドバとウクライナとルーマニアの国境付近でドナウ川と合流する川は、プルート川と言うらしい。
(3)ドニステル川(ドニエストル川)
モルドバとウクライナの国境近くを流れてウクライナに入って黒海にそそぐ。ウクライナに入ったあたりにドニエストル潟という湖というのか潟というのかがあるらしい。モルドバとウクライナの国境きっちりを流れているわけではなくて、ドニステル川(ドニエストル川)のウクライナ側のモルドバ領に「沿ドニエストル共和国」というものをロシア連邦が軍隊を派遣して作ったが、多くの国は「沿ドニエストル共和国」を承認しておらず、日本も承認していない。『ゴルゴ13』にも「沿ドニエストル共和国」に関しての話があったが、その川がドニエステル川(ドニエストル川)と言うらしい。
(4)ドニプロ川(ドニエプル川)
「ドニエプル川の嵐」という歌というのか曲があったのだが、その「ドニエプル川」という地名はロシア語によるものだということで、ウクライナ語では「ドニプロ川」と言うということで最近は「ドニプロ川」という表記され表現されることが多くなった。
カホフカダムが爆破されて水害が発生した川がドニプロ川(ドニエプル川)だが、上流をさかのぼるとどこに行くかと地図を見ると、ウクライナ東部に「ドニプロ」という市があり、そこから北西にさかのぼるとキエフ(キーウ)に至り、さらにさかのぼるとベラルーシ領内に入る。ベラルーシ北東部から流れ出している川のようだ。
※ YouTube-"Реве та стогне Дніпр широкий" Наталія Гудзій 広きドニエプルに吹き荒ぶ嵐 ナターシャ・グジー https://www.youtube.com/watch?v=rSMfYp82j4s
(5)ドン川
「プリゴジンの乱」の際に、ワグネルが占拠したというロシア連邦南部の市が「ロストフ ナドヌー」で、ロストフ ナドヌーでアゾフ海(黒海のケルチ海峡から北側)の北東部のタガンロク湾にそそぐ川がドン川だが、1917年のロシア革命の際にアメリカ合衆国に亡命したドン・コサック合唱団の名前の「ドン・コサック」というのは、このドン川流域地域のコサックという意味だったはずだ。
(6)ヴォルガ川
「母なるヴォルガを下りて」「ヴオルガの舟歌」など、その川にちなむ歌があるヴォルガ川もこのあたりを流れていたように思ったが、ヴォルガ川はドン川の少し東を流れているが黒海ではなくカスピ海にそそいでいる。
ヴォルガ川はロシア連邦とカザフスタンの境界付近のロシア連邦側の市のアストラハンでカスピ海にそそいでいるが、上流をさかのぼるとどこに行くのかと地図を見ると、ヴォルゴグラード(ヴォルガ川の街)〔←スターリングラード(スターリンの街)←ツアーリッチ(ツアー[皇帝]の街)〕からさらに上流は《 モスクワとサンクトペテルブルクの中間にあるヴァルダイ丘陵の海抜225mを源流とし》(ウィキペディアーヴォルガ川https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A9%E3%83%AB%E3%82%AC%E5%B7%9D )ているようだ。
ウクライナでの戦争に関しての報道番組で東京大学なんとか研究所の小泉なんとかさんが、アゾフ海の北からロシア連邦内で川と運河を「ハシゴ」すればバルト海までたどりつくと話していたが、ドン川とヴォルガ川が運河で結ばれていて、黒海とカスピ海を行き来できて、又、ヴオルガ川の上流でその支流はサンクトペテルブルクあたりでバルト海にそそぐ川とも運河で結ばれているのではないか。どのくらいの大きさの船が航海できる川と運河なのかという問題があるが、小泉なんとかさんの話では「運河をハシゴすれば」ロシア軍はバルト海から戦艦をアゾフ海~黒海まで運航してくることは可能だということだが、トルコ共和国が戦争中の国の戦艦はボスポラス海峡・ダータネルス海峡は通過させないということで地中海から黒海へ戦艦が入ることを阻止しているとしても、ロシア軍はバルト海から川と運河を「ハシゴ」してアゾフ海~黒海に運行してくることが可能だというのだが、それならばトルコ共和国がボスポラス海峡・ダータネルス海峡を通行させないのと同様にケルチ海峡を封鎖することができれば、そこから黒海に出ることができなくなる、ということになる。
「ヴォルガの舟歌」はヴォルガ川の舟曳き人夫の歌だということで、日本では「仕事の歌」という名前で広まっている「ドビヌーシカ」は「こん棒」という意味で、ヴォルガ川の舟曳き人夫が舟を曳く際に使用した樫の木のこん棒のことだが、もしも、労働争議が実力行使に至った時には労働者側の武器となったものだそうな。そういった歌があるヴォルガ川だが、今回のロシア連邦軍のウクライナ侵攻はロシア連邦は侵略者と闘う側ではなく、侵略する側の立場ではないか。ウクライナ東部においてキーウ付近のウクライナ人とは異なる政治をおこないたいと考えた人がいたのかもしれないが、そういうことがあったとしても、今回のロシア連邦軍の攻撃は、やはり侵略者の側の行為ではないのだろうか。
「聖なる戦い」という歌があって、ロシア連邦においてこの歌が流されているのをニュース番組で見たが、この「聖なる戦い」という歌は第二次世界大戦の時にドイツ軍がソ連に攻め込んできた時に、攻め込んできたドイツ軍と戦う歌として作られたものではなかったかと思う。今回、攻め込んでいるのはロシア軍の方であって、この歌はそぐわないように思えるのだが、いかがなものだろうか。「ドネツク人民共和国」「ルガンスク人民共和国」という地域へウクライナが自爆型ドローンで「攻撃した」という話があるらしいが、そういった理屈によって軍隊を派遣してロシア連邦領を広げていくというのは、やはり、侵略者の論理ではないのだろうか。又、「『ネオナチ』の抑圧から『ロシア系ウクライナ人』を救う」ということならば「ロシア語を話すウクライナ人」居住地域へ爆撃をおこなうというのは理屈に合わないのではないか。「ロシア系ウクライナ人」とは「ロシア軍に協力するウクライナ人」のことなのか?
プーチンが「ウクライナ領内の『ネオナチ』」との戦いと言っているようだが、もしかして、この地域の人は「ネオナチ」という言葉をけなし言葉として日本におけるよりも比較的軽く使ってしまっているということはないか。「軽いけなし言葉」ならば、「軽いけなし言葉」から軍隊を派遣して攻撃するというようなことは許されないはずだが、「軽いけなし言葉」を重大に解釈して軍事行動に至ったということはないのだろうか。やはり、今回、『聖なる戦い』の歌をロシア軍の側が使うことには違和感を覚える。
又、どうも、最近、「人民共和国」という名称に胡散臭いものを感じるようになってきた。
※ 「母なるヴォルガを下りて」⇒YouTube-母なるヴォルガを下りて - アレクサンドル・スヴェシニコフ指揮ソ連国立アカデミー・ロシア合唱団 https://www.youtube.com/watch?v=Of7JoCJ2Vpw
「ヴォルガの舟歌」⇒YouTube-ロシア語】ヴォルガの舟歌 (Эй, ухнем) (日本語字幕) https://www.youtube.com/watch?v=b4jxCRfHwd4
「ドビヌーシカ」⇒YouTube-【ロシア語】仕事の歌 (Дубинушка) (日本語字幕) https://www.youtube.com/watch?v=rk0C1GputJ8
「聖なる戦い」⇒YouTube-【和訳付き】聖なる戦い (ソ連音楽) "Священная война " - カタカナ読み付き https://www.youtube.com/watch?v=-QFveH_V6Q0
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《 『聖なる戦い(ロシア語: Священная война)は1941年、ナチス・ドイツによるソ連侵攻の際に作られた赤軍の軍歌。ヴァシリー・レベジェフ=クマチ (Лебедев-Кумач, Василий Иванович)作詞、アレクサンドル・アレクサンドロフ作曲。1941年626月26日にアレクサンドロフが芸術監督を務めていたアレクサンドロフ・アンサンブル(ロシア語: Александров, Александр Васильевич)により初演され、以後、同団体の重要なレパートリーの一つとなっている。
( ウィキペディアー聖なる戦い https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%96%E3%81%AA%E3%82%8B%E6%88%A6%E3%81%84 )
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西から ドナウ川・ドニエストル川(ドニステル川)・ドニプロ川(ドニエプル川)・ドン川と、黒海にそそぐ大きな川に「ド」で始まる川が4つもあってややこしいのだが、これで、何とか整理できたか。
ドニプロ川(ドニエプル川)についての「広きドニエプルの嵐」という題名の歌というのか曲については、私は音楽之友社から発行されている「合唱サークル名曲選」の『赤軍合唱団レパートリー集』(1967.12.20.音楽之友社)に掲載されていたもので最初に知った。「ウクライナ民謡」と書かれていて、「合唱団白樺訳」として訳詩が書かれていた。
「吠え狂うドニエプル河
はやてさかまきぬ
高き木々地に伏して
波は海のごと」と。
いい曲だと思ったが、学校のコーラス部とかアマチュア合唱団とかでこういうものを歌う人というのは、私は疑問を感じている・・というよりも否定的認識を持っている。「言葉は言霊(ことだま)、歌は祈り」という観点から考えた時、学校のコーラス部とかアマチュア合唱団とかやっている人というのは、そういう認識が欠落している人が多いのではないか。
声楽というものは、音楽技術と体力と文学哲学との3つから成ると私は思っている。 体力という点についてだが、1970年代前半、「オーケストラがやってきた」というテレビ番組で、岡村喬生(たかお)が「いい声が出るように、水泳をやっています」と話していたのを聞いた。又、2000年頃だったか、佐藤しのぶ が「いい声を出すように体を作ってサイボーグみたいなもの」とどこでだったか述べていた。ところが、野球とかサッカーとかやる人というのは、たとえ、プロではなくアマチュアであっても野球やサッカーをやるために体力をつけようとするし、水泳とかやる人は水泳をやる結果、筋肉がついていい体つきになることもあれば女性の場合は筋肉がついてほしくないところにもついたりすることもあるようだが、それでもやりたいと思うからには体力づくりとしてその競技に即した体力・運動能力をつけようとするものだが、ところが、学校のコーラス部とかアマチュア合唱団とかやる人というのは「スポーツやるのが嫌いだからコーラスやってる」という人が多く、そうでない場合でも「スポーツやるならコーラス部ではなく他の運動部やるわ」という人が多い。だから、この点で声楽というのは体を楽器として作って音を出すという意味合いにおいて、学校のコーラス部とかアマチュア合唱団とかやる人というのは非本来的なのだ。
又、ソニーの会長・・前の会長かもしれないが、東京芸大卒で声楽をやっていた人らしいのだが、ゲルハルト=ヒュッシュに師事していたそうなのだが、ヒュッシュから「シューベルトの『冬の旅』を歌いたいと思ったら、まず、冬のドイツに行ってください。冬のドイツのあのどんよりとした空を知らずには『冬の旅』は歌えません」と言われたというのだ。ハンス=ホッターは自分の声域を考えると、シューベルトの歌曲集でも『冬の旅』はいいが、『美しき水車やの娘』は合わないと考えて歌わなかったとか、ハンス・ホッターはミュンヘン大学の哲学科卒で「哲学的」「思索的」な歌い方とか言われたが、《 ミュンヘンのホッターのもとにはさまざまな歌手が勉強に訪れ、クリスタ・ルートヴィヒが女性が『冬の旅』を歌う事について尋ねた際には「良いと思うよ。私は『女の愛と生涯』を歌おうとは思わないけど」と語った。》(ウィキペディアーハンス・ホッター https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%9B%E3%83%83%E3%82%BF%E3%83%BC )というように、男性の想いを歌った歌曲集である『冬の旅』を「女性が『冬の旅』を歌う」ということはいいかどうか、価値があるか無意味か、そういったことを考えていたわけだが、本来、歌というものはそういうものだと思うのだ。北野高校の音楽のN先生はそのあたりについて考えがある人だったようで、北野高校のホームページだったかで、オーソレミオだったかはイタリア語の辞書をどんなにひいて調べても方言が多くて意味がわからないところがあり、自分が歌詞の意味がわからないものを生徒に歌わせるわけにはいかないので音楽の授業では取り上げなかった、と述べておられた。オーソレミオだったかイタリアの他の歌だったか記憶があいまいになってしまった。高見順の詩で「猫」という詩があるのだが、「馴らされた屈辱を べろでなめ落として」という文句があるのだが、これは、単に動物の猫のことを歌った詩ではなくて、高見順は転向作家であり、転向させられたことを「馴らされた屈辱」と言い、それを「ベロでなめ落として」と歌っているのであり、「馴らされた」としても、あくまで「馴らされた」猫であってイヌではないのだが、それを混声合唱組曲に大中恩(おおなか めぐみ)が作曲していたのだが、そういう「馴らされた屈辱」を「ベロでなめ落として」と「馴らされた」とはいえ「イヌではなく猫」が歌った詩を、なんで「人畜無害作曲家」の大中 恩が作曲するのだ? ・・・とか、歌うにしろ歌わないにしろ、そういったことを考えた上で歌ったり歌わなかったりするのが音楽・声楽というもののはずなのだが、ところが、学校のコーラス部とかアマチュア合唱団とかやる人というのは、そういうことを考えたくないという人が大変多いのだ。むしろ、こういうことを言うとおばさんたち・及びおばさん型の中学生・高校生に怒られる可能性が小さくない。
さらに、アマチュア合唱団ではなく「職場合唱団」になると、さらに問題があって、1980年代、一時、東京でアマチュア合唱団に入っていた時があったのだが、「なんか違う」という印象を強く持ったが、そこに千葉大しか通らんくせしてからに医学部になんか行かせてもらって医者になっていた山口くんて男がいたのだが、その山口くんが言うには「大和銀行の合唱団はコンクールに入選することが多い」そうで、その理由として「大和銀行合唱団は人事部長が指揮者やってるから、だから、みんな合唱団に入るから強いんだ」と山口くんは言って、大和銀行(現 りそな銀行https://www.resonabank.co.jp/ )の合唱団を称賛していたので、逆に私はその話を聞いて「引いてしまった」どころか「あきれてしまった」のだった。私にとっては音楽というものは大事なものであり、魂の叫びであり、「詩人が泣き叫ぶと、いい歌だ、もっと歌えと言う。詩人たるものたまったものではない」と、中原中也だったか誰だったかがどこかで書いていたのだが、詩というものはそういうものであり、音楽・歌というものもそういうものだったはずなのだが、大和銀行の合唱団に入る人間というのは合唱団に入ったら指揮者やってる人事部長から喜ばれて出世させてもらえると思ってそれを目的に合唱団に入るそうで、その結果として、大和銀行合唱団はコンクールで上位に入選することが多いそうだ・・・が、そんな歌などというものは、声楽・音楽としては二束三文であろう。 また、千葉大しか行かれへんくせしてからに医学部に行くような男というのは、なんか、考え方が不純というのか、心がけがよくないという感じがした( 一一) 山口くんのお姉さんは音楽を職業としていたようだが、その音楽を職業とする女性というのは弟の山口くんが言っていたような「大和銀行は人事部長が合唱団の指揮者やってるから合唱団に入る人間が多いから入選することが多い」とか、そういうものをプラスに評価するようなそんな「音楽」やって生活している女なのか。それなら、たいした音楽家ではない! ということだな。
大和銀行の人事部長の男というのは、それでも人事部長なのか、よく反省する必要がある。人事部長というものは従業員が働きやすい環境を整えるのが仕事のはずであり、より働きやすいように職場の環境を整えることで結果として生産性も上昇して会社の利益にもつながるようにするのが人事部長の仕事であるはずなのに、逆におのれのくだらない「趣味」のために従業員を苦しめているわけである。私なら、そんな人事部長に好かれたいとは思わない。たとえ、一時的にそんな人事部長が力を持つことがあったとしても、そのような者は「長い目で見るならばハリコの虎」であって「やがて打倒されるであろう」ものであり、あんまり懇意にしたいとは思わない男である。

現代労務管理概論 (1973年) (有斐閣双書)
「大和銀行(現 りそな銀行)の人事部長、反省せよ!」
又、そのアマチュア合唱団にいた男および女を見ると、タバコを吸う者が大変多かったのだが、『美味しんぼ』では「美食倶楽部」の主幹の海原雄山は、タバコを吸うと落ち着くと一本タバコを吸った若手の板前の良三に「出ていけえ!」と怒鳴りつけたが、喫煙は味覚を鈍らせることになり、他の仕事ならともかく板前はタバコは吸ってはならない、それを吸うような者は「美食倶楽部」から出て行けということだったらしい。たとえ、プロではなく趣味でスポーツをやる人でも、野球をやったりテニスをやったりする人というのは、野球やテニスをやる上でマイナスになるようなことはやりたくないと考え慎む人が多いのに対して、アマチュア合唱団に入っている人というのはタバコは声楽に良くないはずなのだが平気でタバコを吸う女および男が大変多い。
さらに言えば、2008年、東海住宅(株)〔本社:千葉県八千代市〕https://www.10kai.co.jp/ の花見川ショールーム(千葉市花見川区)に勤務していた時だが、店長だった大友ゆうこりん(仮名)(女。当時、50代)は「女性は土日と祝日は遅刻してきていいと会長が認めている」と称して、仕事の性質から最も忙しいはずの土日と祝日は始業時刻午前10時00分の会社で毎回午前10時40分頃に出勤し、午前9時30分頃に出勤した私が「オープンハウス」の準備と掃除をしてなんとか「オープンハウス」をおこなえるように用意したというころにやってきて、そして、玄関の下駄箱の上を雑巾でひと拭きだけして「私がここまでやった」と宣言するという、何の冗談や、面白くもない冗談やるなや・・ということをやると、自分が店長だということで来客1件目を準備・掃除をしない女がまず接客して、その客の子供のもりを私にさせたり、お茶を入れて出させたりして協力してもらった上で、自分の接客が住むと「それじゃ、私は出かけてくるからね」と言って、もしも2件目の来客があったとして私が接客してもそれに協力はしなくて当然という態度をとり、そして、夕方になると、終業時刻は午後7時00分の会社で午後5時過ぎになったら「それじゃ、私は先に帰るからね。女が働くのは大変なんだからねえ。あと、片づけておいてよ」と宣言して終業時刻より前に帰ってしまう。大友ゆうこりん(仮名)は「そういうことをしたことがある」ではなく「毎回、そうしていた」のだった。「女が働くのは大変なんだからねえ」と言われても、もしも、旦那が病気で働けないとかで働きながら子供を育てなければならないとかいうことなら大変かもしれないが、大友ゆうこりん(仮名)の場合は、子供があるとはいってもすでに結婚して子供がある子供であり、世話しなければならない子供ではなくて役に立つ年齢の子供がいたわけで、何が大変だと言いたいのかわからない。「働く」ということが大変だというのなら男だって「働く」のは大変なことだ。そして、私は戸建住宅建築業の営業を長くやってきた人間、ベテランに属する人間であり、私の認識では「準備と片付けをせざる者、接客するべからず」というのが基本であるはずだが、ところが東海住宅(株)https://www.10kai.co.jp/ の80代の会長と「ゆうこりん」はその逆で「女は遅刻してきて男性社員に掃除と準備としつらえをしてもらって先に接客し、帰りも先に帰って片付けと営業所への運搬は男性社員にさせるのが当たり前でしょおおお」という主張で、正反対の考え方だった・・が、このあたりを見ると、80代の爺さんはあかんなあ・・( 一一) て感じがしてきた( 一一)
「ゆうこりん」はそうやって「女は遅刻してきていいと会長が認めている」と主張し、どうも、東海住宅(株)https://www.10kai.co.jp/ の80代の爺さんの会長にとっては50代の下品なおばはんが「女」に見えるようでそういう「女の特権」を認めるらしいのだが、会長が「女の特権」を認めたのなら、その負担はその会長が払えば良さそうなものだったが、そうではなく、おばさんと同じ営業所にいる男性従業員に負担を押しつけるのだった。それでは会長の役割を果たしてないことになるだろうが・・と思えるのだが、それがオーナーの会長だったのだ。
・・ここまでは、最近、職場でよくあるオバハン帝国主義である。「オバハン帝国主義の職場侵略に対し、日本国の男性労働者、団結せよ!」とでもいったところだが、それだけではなくて、大友ゆうこりん(仮名)は、朝、遅刻してきてひとに準備と掃除・しつらえをさせた女は、帰りもまた「あと、片づけておいてよ」とか言って終業時刻より前に帰り、そして何をやっておったかというと、アマチュア合唱団やっておったらしいのだ( 一一) アマチュア合唱団やるおばさんというのは、こういう人がけっこう多いみたいなのだ。私ら、そんなものやりたいと、たとえ思ってもやる時間なんかないのに、私などにサービス残業させまくって、そして、おばさんはアマチュア合唱団やっておったらしいのだ。「声楽の先生にボイストレーニングで教えてもらって・・」とか、私に準備と掃除、片づけをすべて押しつけて、私が掃除して準備して並べてした所にやってきて接客して、夕方になったら片付けも運搬も私に押しつけて終業時刻より前に帰ったおばさん帝国主義は、そうやって空けた時間でアマチュア合唱団やっておったらしいのだ( 一一) なんというのか、「おばさん通れば道理引っ込む」というのか、「そこのけ、そこのけ、オバサン通る」というのか、「泣く子もオバサンには勝てない」というのかなんというのか、かつて、毛沢東主席は「すべての帝国主義と反動派は張り子の虎である。見かけは恐ろしいがその実力はたかがしれており、やがて打倒される。ヒトラーは張り子の虎ではなかったか。日本軍国主義は張り子の虎ではなかったか。アメリカ帝国主義は今も存在し、原子爆弾という恐ろしい武器を持っているが、これもまた張り子の虎であって、やがて打倒される」と述べたのだが、おばはん帝国主義という帝国主義だけは、これだけは張り子の虎ではなく牙を持った恐ろしい本物の虎であって、な~かなか打倒されない。おばはんには原子爆弾も人民義勇軍も歯が立たない( 一一)
だから、私はアマチュア合唱団が嫌いなのだ( 一一) ほんとうに嫌いなのだ( 一一) おばはん合唱団はつくづく嫌いなのだ( 一一)
「ヨーロッパに幽霊が出る――共産主義という幽霊である」ではなく、「日本に妖怪が出る――オバハン帝国主義という妖怪である」
「万国の労働者、団結せよ」ではなく、「女性の社会進出」ではなく「オバハン帝国主義の職場侵略」との闘いに「日本国の男性労働者、団結せよ」と訴えたい。実際、「西側」はジャベリン砲でもレオパルト2でもAタクムスでもオバハンを撃墜するために私に供与してほしいわ、ほんま・・・
なお、中谷彰という人が『オヤジにならない60のビジネスマナー』(PHP文庫)という本で「オヤジとは、その年代のその性別の人のことではなく、オヤジと言われるようなことをする人のこと」で、「若い人にもオヤジはいますし、女性にもオヤジはいます」と述べているが、ここで「オバハン」と述べているのもまた、「その年代のその性別の人」のことではなくて「オバハンと言われるようなことをする人」のことである。

オヤジにならない60のビジネスマナー お客様・女性・部下に愛される具体例 (PHP文庫) - 中谷彰宏
又、戦後、一時期、「うたごえ運動」というものが起こった時期があったのだが、革命歌とか労働歌とかを歌う人がいたようだが、それを抑えつけるのを目的で「人畜無害の合唱曲」というものが意図的に作曲されて、その「人畜無害の合唱曲」によるコンクールなどというものをNHKなどが中心になって実施したようだが、そうなると今度はその「人畜無害の合唱曲」を好むおばさん、もしくは””「人畜無害の合唱曲」好き女子48”” みたいな高校生・中学生というのが出現したようで、そういう人というのはその「人畜無害の合唱曲」が好きで、逆に骨のある歌は好まない、むしろ斥ける傾向を持つようになったようだ。そうした「人畜無害の合唱曲」からも芸術的価値があるものが出てくる場合もあるとしても、それでも「しょせんは人畜無害という檻に入れられた音楽」であり、その制約から逃れられないものは「しょせんはその程度のもの」であるのだが、私のように、こういったことに気づいている者はまだいいのだが、気づいていない人間というのが実は少なくない。「気づいてたまるか」という人もいる。

現代日本女性史 (1962年) (三一新書) - 井上 清
【3】 「グム」と「赤の広場」
何か月か前、モスクワのクレムリンがドローンによる攻撃を受けた、ということがあって、それはウクライナ軍によるものなのか、それともロシア国内における反プーチン派によるものなのか、それとも、プーチン政権によって「ウクライナによって攻撃を受けた」とアピールするためのものだったのか・・と言われて、結局、そのどれだったのかわからないままに月日が経った。
その際、東京大学なんとか研究所の小泉なんとかさんが、「クレムリンの近くにグムというのがあるんですけれども」と話していたのを聞き、「グム」も登場したのか・・と思った。
私が「グム」というものを最初に知ったのは、鈴木恂(まこと)『光の街路ー都市の遊歩空間(建築巡礼2)』(1989.1.31.丸善)でだった。パリ・ロンドン・ミラノ・ナポリ・モスクワ の「光の街路」が述べられていたが、私はここで取り上げられている「光の街路」からは、ロンドンの「ロイヤル・オペラ・アーケード」とミラノの「ガレリア・ヴィットリオ・エマニュエレ2世」(「ヴィットリオ=エマニュエーレ2世のガッレリーア」)、ナポリの「ガレリア・ウンベルト1世」(「ウンベルト1世のガッレリーア」)に実際に見学に足を運んだが、モスクワでは「グム」が取り上げられていたのだが、ぜひ、モスクワの「グム」に行ってみたいと思って、これもそう思ってから20年以上経つが行けずにいたが、ますます行きにくくなってしまった。

光の街路―都市の遊歩空間 (建築巡礼) - 鈴木 恂
「グム(GUM)」とは何なのか。
《 グム GUM 1888-1893
・・・
赤の広場に囲みがあるとすれば、それは次の四つの建築によるといえようか。まずクレムリンに沿った赤い城壁。何本かの塔とレーニン廟と観閲壇を含めたいわゆる正面の壁である。次に南端にあって、異様な形と極彩色の屋根をもって独立して建っている聖ワシリー寺院(1555ー61)である。北には赤レンガの国立歴史博物館(1878ー83)のごつごつとした建築がある。そして東は、かなり無性格な横に伸びた建築物が並ぶ。がそれらは囲む要素とはいえ、あまりに散漫で、低く、不統一な建築なのである。つまり、700メートル×130メートル、9万平方メートルに及ぶ赤の広場の空気が、ようやく拡散しないでいる程度の突起物でしかなく、それは非常に囲みが浅く、陰影のない広場に見えるのである。
しかし、赤の広場の東に横たわるその無性格な建物が、国立百貨店と呼ばれるグムであることを知ってからは、多少その考えを修正することになった。実際そこに入ってみると、赤の広場が広場であるためには、メーデーの時はいざ知らず、グムの存在が欠くべからざるものであることが分かる。ミラノのように広場とガレリアが視線でオープンに結びつけられてはいないが、広場はここでもそれのみでは成立してはいないのだ。赤の広場が広場であるために、建築的、ガレリア的な光の街路が無表情なファサードの後に隠れていて、その強靭な塊りが層を成して、背後から広場を包んでいるのである。》
( 鈴木恂(まこと)『光の街路ー都市の遊歩空間(建築巡礼2)』1989.1.31.丸善)
「クレムリン」がある「赤の広場」の東側にある国立百貨店の建物が「グム」だということらしい。
《 赤の広場は、その成立からしてみると市場広場といえる。15世紀末にクレムリンに城壁が築かれてから、その壁沿いにフォラムのように発達したのが露店市場(ベリーキ・トルク)であったといわれている。それが整備され広場になるときに、市場が集約されて、天蓋をもつグムになる。
1888年に、広場と市場をどのように繋ぐかのコンペがあった。そこで広場に威厳を与える立面を建て、それとは対照的に内部に奥深い大街路をもつというペテルスブルグの建築家A・ポメランツェフの案が一位を得た。こうして広場からは閉じた建物として、内部からは赤の広場を見渡せるような、いかにも寒い国の内と外の関係にありそうな繋がり方が出来上がったのである。》
( 鈴木恂(まこと)『光の街路ー都市の遊歩空間(建築巡礼2)』1989.1.31.丸善)
というものらしい。
鈴木恂(まこと)『光の街路ー都市の遊歩空間(建築巡礼2)』(1989.1.31.丸善)に掲載されている「グム」の内部の写真を見て、ぜひ一度、実際にそこに行って実物を見てみたいと思って20年以上になるのだが、ますます、行きにくくなってしまった。悲しい。
モスクワには「グム」のほかに、もうひとつ、「光の街路」があるらしい。
《 グムよりずっと短いが、モスクワにはもうひとつの光の街路がある。ボリショイ劇場の東、ペトロスカ通りとネグリンナヤ通りを結ぶ二列の街路だ。ペトルスキイ・パサージュと入口に書かれているので、まさに街路といってよいのであろうが、ここも一般にはツム百貨店と呼ばれている。
設計はグムの設計者A・ポメランツェフとショーショフの協同なので、断面形状は似ている。屋根のヴォールトの構造も、グムと同じくテンション材を多用して見事に細い鉄材で組まれているのが美しい。・・》
というものらしい。こちらも、ぜひ一度、見学に行ってみたいと長く思ってきたのだが、ますます行きにくくなってきたのは誠に残念だ。
「グム」は「GUM」で、「ツム」は「TUM」らしい。
モスクワの「赤の広場」だが、『地球の歩き方 ロシア ウクライナ、ベラルーシ、コーカサスの国々』(1999.6.11.改訂第7版第1刷。 ダイヤモンド社)に掲載されている「クレムリン周辺」の地図を見ると、「赤の広場(Красная плошалЬ クラ―スナヤ プローシャチ)」は、南東から北西にかけての長方形の広場で、南西側にクレムリン・南側に聖ワシリー聖堂・北側に国立歴史博物館があって、東側にグム百貨店があるようだ。
「赤の広場」というのは、なぜ、「赤の広場」と言うのだろうか。私は小学生の頃から、うちの母親から「親というものは、息子が大学に行く時に、行きたい大学の行きたい学部に行って、やりたい勉強をしてつきたい仕事につけるようにと思えばこそ、無理矢理にでも勉強させようとするものなんや」と言われて、そうなのかと思って、それで小学校の1年から同級生が遊んでいる時にも勉強し続けたのだったが、ところが大学に行く頃・高校を卒業する頃・卒業した頃になると、うちの父親は「京大はアカやから行ってはいか~ん」「マスコミに勤めるなら産経新聞がええ。朝日はアカやから勤めてはいか~ん。毎日もアカやから勤めてはいか~ん」「学校の先生は全員、アカやから学校の先生はなってはいか~ん」とかなんとかかんとか言いまくるようになった。結局、いいものなんか、ほとんどなかった。騙された。「親というものは、息子が大学に行く時に、行きたい大学の行きたい学部に行って、やりたい勉強をしてつきたい仕事につけるようにと思えばこそ、無理矢理にでも勉強させようとするものなんや」と母親から言われて、そうかと思って努力したが、実際に大学に行く時になると、そうではなかった。うちの父親は毎日毎日ぼくらは鉄板の上で焼かれて嫌になっちゃうくらに叫び続けた。「朕思うに我が皇祖こ~そ~はあ、わしに孝に、わしに孝に、わしに孝に、わしに孝に。わしにじゃわしにじゃわしになんじゃイライラ~あ! すべてをすべてをわしのために、すべてをすべてをわしのために。犠牲になる、犠牲になる、わしのために犠牲になる。犠牲の精神、犠牲の精神、会社のために、わしのために、すべてをすべてを犠牲にする、わしのために犠牲にする、会社のために犠牲にする、わしのために犠牲にする♪」と叫び続けた。結局、努力の果実はすべて「わしのために」と「会社のために」奪い取れれることになった。北野高校の2年の時の担任だった旧姓作野礼子(女。1970年代後半当時、20代。北野高校卒⇒神戸大卒)が「あなたのお父さんのようないいお父さんがいたら、私だったらものすごいうれしいわよ」などと何度も何度も言うのだったが、もしも、うちの父親がいたならば、神戸大の文学部みたいなもん、絶対に行かせてもらえなかったはずだ。あのバカ女症候群、よく言ってくれると思う。「私は父親がいなかったんだからねえ」「私は両親が離婚したんだからねえ」と言いまくり、「作野先生はご両親が離婚されてお父さんがいなかっただけあって、苦労してこられただけに人間がしっかりしておられるわあ」とみんなよってほめなきゃならん、自分は誰からもそう言ってほめられる権利があり、父親がいた息子というのは「作野先生はご両親が離婚されてお父さんがいなかっただけあって、苦労してこられただけに人間がしっかりしておられるわあ」と称賛する義務があると認識していたようだったが、そんな義務も権利もないと思うぞ。私にとっては「父親がいる」ということは、小学生の時から「親というものは、息子が大学に行く時に、行きたい大学の行きたい学部に行って、やりたい勉強をしてつきたい仕事につけるようにと思えばこそ、無理矢理にでも勉強させようとするものなんや」と言われて、そうなのかと思って、それで小学校の1年から同級生が遊んでいる時にも勉強し続けたその努力の果実を「朕思うに我が皇祖こ~そ~はあ、わしに孝に、わしに孝に、わしに孝に、わしにじゃわしにじゃわしになんじゃイライラ~あ、すべてをすべてをわしのために、わしのっためにっ♪ わしのっために、わしのためにわしのために、すべてをすべてをわしのために♪」「すべてをすべてをわしのために」「わしのために、犠牲にな~る! とってちってたあ~あ♪」によって、すべての努力の果実を奪い取られるということを意味していた。それでも、そのおっさんの給料から生活費を出してもらって成人したのだから、その点については、おっさんが毎日毎日「親に感謝、親に感謝、親に感謝感謝感謝、わしに感謝、わしに感謝、感謝、感謝、感謝、感謝! 戸締り用心、火の用心、マッチ一本、火事の元~お、わしに孝行しよ~お! ああもうイッライッラしてきたあ~あ!」と言われなくても、「か~んしゃ~あ、か~んしゃ♪ 朝にも感謝、昼にも感謝、か~んしゃ~あ、か~んしゃ♪ 夜にもかん~しゃ~あ♪ わしに感謝、わしに感謝、わしに感謝、感謝、感謝」と歌われなくても、それは感謝すべきであろうと思ってきたが、しかし、経済的・金銭的な面において「父親がある」というのは常に「父親がない」娘よりも有利かというと決してそうではない。もしも、「父親がなかった」ならば私は日本育英会奨学金を受給して自分が行きたいと思う大学に行くことができた。それに対して「父親がある」かつその父親の年収が日本育英会奨学金を受給できる基準よりも高かったことから、「なんでも、カネ出すものが決める権利があるんじゃ。甘ったれるな、このチャンコロろすけイタコめが。甘ったれるなあ~あ!」ということになり、世界で一番嫌いな大学の首をもがれても行かされたくないと5歳から思ってきた大学学部に暴力と強制と脅迫で行かされることになった。もしも、旧姓作野礼子が「私は父親がなかったんだからねえ!」「私は両親が離婚したんだからねえ!」と自慢しまくるように、私も「父親がなかった」ならば、そうすれば、日本育英会奨学金を受給して行きたい大学の行きたい学部に行ってやりたい勉強をやってつきたい仕事につくか、そうでなかったら自治医大とかタダの大学に行くかできたことだろう。《「父親がいなかった」ことなかった》から、私は「京大はアカやから行ってはいか~ん!」「朝日新聞はアカやから勤めてはいか~ん、毎日新聞もアカやから勤めてはいかん。マスコミなら産経かNHKでなかったら勤めてはいか~ん!」「学校の先生は全員、アカやから学校の先生はなってはいか~ん!」等等等と言われて、結局、努力の果実はすべて奪い取られることになったのだった。「あなたのお父さんのような立派なお父さんがいたら、私だったらものすごくうれしいわよ」と旧姓作野礼子は言いまくり、それを聞いてうちの父親は「作野先生はさすがは北野高校の先生だけあるでえ、さすがやあ。女でも北野高校でてるだけのことあるでえ、女でも神戸大でておられるだけのことあるでえ。作野先生もおっしゃっておるように、わ~しほどええお父さんはおらんねんぞ、わ~しほどお~お。あ~イライラ~あ!」と言いまくるのだったが、そんなにいいと思うのなら、あのおっさん、旧姓作野礼子にあげるから、引き取ってほしかった。私は「父親がいた」ことによって日本育英会奨学金を受給できなくなったのだ。「父親がいた」ことで「京大は受けてはいか~ん」「朝日新聞は勤めてはいけません、毎日もアカやから勤めてはいかん。産経新聞がええ、産経が。産経新聞がものごっついええ」「学校の先生は全員、アカやから、学校の先生はなってはいか~ん!」だのなんだのかんだの言われて、結局、いいものなんかなくなったのだった。この点においては、「父親がいなかった」「両親が離婚した」息子・娘というのが、私は心の底からもんのすごくうらやましかった。旧姓作野礼子がものすごくうらやましかった!!! 私は「父親がいなかった」「両親が離婚した」という娘・息子が心の底からうらやましかった。・・北野高校は行きたいと思って行った学校だったので合格発表の時はうれしかったが、卒業して10年以上経って落ち着いて考えてみると(マインドコントロールが解けてみると)、どう考えてもいい学校ではなかった。もっとも、それならどこに行けばよかったかというと、絶対にここがいいと思える所というのは思い当たらないのだけれども、どう考えてもいい学校ではなかった。特に、2年の時に「私は父親がいなかったんだからねえ」「私は両親が離婚したんだからねえ」というのを自慢しまくりのバカ女症候群に担任を持たれたというのはつくづく災難やった。そもそも、「私は父親がいなかったんだからねえ」「私は両親が離婚したんだからねえ」と言われても、その離婚の原因を私が作ったとでもいうのなら、「どうも、えらいすんまへんでしたなあ」の一言くらい言った方がいいだろうけれども、違うだろうが。私が旧姓作野礼子さんの「両親が離婚した」原因を作ったわけでもないのに「私は両親が離婚したんだからねえ」だの言われたって、知らんがな、そんなもん( 一一)
・・・それで、モスクワの「赤の広場」というのは、その「京大はアカじゃ」「朝日新聞はアカじゃ」「毎日新聞もアカじゃ」「学校の先生は全員、アカじゃ」とか、それから「原発に反対するやつはアカやから反対しとるんじゃ。原発に反対する甘ったれたアカは全員、死刑にしろお~お! とってちってたあ~あ!」とかうちの父親は言うておったのだが、その《「アカ」の広場》という意味なのか? それとも、周囲に外観が赤色の建物が多いから「赤の広場」なのか?
これについて、『地球の歩き方 ロシア ウクライナ、ベラルーシ、コーカサスの国々』(1999.6.11.改訂第7版第1刷。 ダイヤモンド社)に説明が書かれている。モスクワの「赤の広場」というのは、「京大はアカじゃ」「朝日新聞はアカじゃ」「毎日新聞もアカじゃ」「学校の先生は全員、アカじゃ」「原発に反対するやつはアカじゃ」というその「『アカ』の広場」という意味ではないらしく、又、周囲に赤系統の色の建物はあることはあるけれども、すべてが赤系統の色合いの建物というわけでもないようで、赤色の建物で囲まれた広場という意味でもないらしい。
《 クレムリンの北東の赤い城壁と、赤レンガ造りの国立歴史博物館、グム百貨店、ねぎ坊主のワシリー聖堂に囲まれた赤の広場( Красная плошалЬ クラ―スナヤ プローシャチ) 。その広さは73,000㎡に及ぶ。
以前は5月1日には労働者の祭典メーデー、11月7日には社会主義政権の誕生を祝う革命記念日の式典が開かれた。現在は、共産主義者のデモがあるだけになった。
あの広場に行ってまず思うのは、クレムリンの城壁と国立歴史博物館を除いて赤いところはなく、どうしてこれが「赤の」広場と呼ばれるのかということ。以前はメーデー、革命記念日には、赤を基調とした垂幕が国立歴史博物館やグム百貨店の壁面に下がり、人々も赤の小旗大旗を手に手に歩いた。だから、広場は赤一色になった。でもそのほかの日はそんなこともない。ではなぜ「赤の」広場なのか?
それはКрасная(クラ―スナヤ)というロシア語は、古語では「美しい」を表す形容詞だったからだ。今でこそ「赤の広場」と訳すけれども、本来これは「美しい広場」と訳されるべきものなのだ。
クラースナヤ・プローシャチ(赤の広場)と称されるようになったのは、17世紀になってからのこと。15世紀頃、土塁で囲まれたキタイ・ゴーラットと呼ばれる地区には多くの商人が集まり、露店を開いて活発な商業活動を展開していた。雑然としていた地区を17世紀に整理し、美しく模様替えしたところから、赤の広場の名称が歴史に登場する。今のような形(長さ695m、平均幅130mになったのは19世紀末のことである。》
と書かれている。そういうことらしい。別に「京大はアカやから行ってはいか~ん」「朝日新聞はアカやから勤めてはいか~ん」「毎日新聞もアカやから勤めてはいか~ん」「学校の先生は全員、アカやから学校の先生はなってはいか~ん」とか「原発に反対する者はアカやから反対しとるんじゃ」とか、うちの父親が毎日、叫んでおったような「撃ちてしやまん」「一億火の玉」「欲しがりません、勝つまでは」「わしに孝行しよう」「戸締り用心、火の用心、マッチ一本、火事の元。世界は一家、人類は皆兄弟(八紘一宇)」とかそういう「アカ」とは関係ないみたい。Красная плошалЬ(クラ―スナヤ プローシャチ)「美しい広場」からきたものらしい。
モスクワというと思い浮かぶのは「モスクワの味、パルナス」と「モスクワ郊外の夕べ」という歌だ。
「パルナス」は私が子供の頃は、よく知られた洋菓子店だったが、最近、あまり聞かないと思ったら、ウィキペディアーパルナス製菓https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%AB%E3%83%8A%E3%82%B9%E8%A3%BD%E8%8F%93 「モスクワの味 パルナス」の《 パルナス製菓株式会社(パルナスせいか)は、かつて近畿地方を中心に洋菓子製造・販売を行っていた食品メーカー。本社は大阪市北区で、後に大阪府豊中市上津島2丁目に移転した。2000年(平成12年)に事業を停止し、2002年(平成14年)に企業清算して解散した。》らしい。悲しい
《 (パルナス製菓(株)の創業者の)古角松男の実弟である古角伍一(1994年死去)がパルナス製菓から独立する形で1974年(昭和49年)に兵庫県尼崎市に開店した喫茶店・製パン店。2021年(令和3年)現在、伍一の長男である古角武司(こかど たけし)が社長を務めるパルナス商事株式会社が運営[17]。店名の「モンパルナス」はフランス語でパルナス山を意味する。》という「モンパルナス」という喫茶店・製パン店が尼崎市にあるというが、パルナス製菓(株)は今はなくなったらしい。「モンパルナス」だとモスクワではなくパリの地名だ。
「モスクワ郊外の夕べ」は、モスクワ青年友好祭なるものがおこなわれた時に、ソロビヨフ=セドイという人が作曲した歌で、最初は会場がレニングラード(現在のサンクトペテルブルク)の予定だったので「レニングラードの夕べ」という題名だったものが会場がモスクワに変更されたことから「モスクワ郊外の夕べ」に変わったものらしい。フルシチョフが書記長の時代、「雪解け」というのか「東西融和」を模索していたフルシチョフの時代のもので、ロシアの歌というと「地主はええなあ、うらやましいなあ。イギリス人はええなあ、ほんまにええなあ。わしぁ貧乏やからな。ええなあ、うらやましいなあ、ほんまにええなあ」という「日陰の月見草」みたいな歌ばっかりかと思っていたら、そうではないんだ・・という例がこの「モスクワ郊外の夕べ」だったのだ。スターリンの後のフルシチョフ、ブレジネフの後、アンドロポフ・チェルネンコの「中継ぎ」を挟んだ後のゴルバチョフの「ペレストロイカ」は融和路線を模索していたが、その後、社会主義をやめてソビエト連邦もやめたはずのロシア連邦で、今また、強硬路線というのか、ウクライナへの軍事侵攻が起こった。「モスクワ郊外の夕べ」はいい歌だと思う。「モスクワ郊外」にも行ってみたいと思いながら、行けずにきたが、ますます行きにくくなったのは悲しい。
※ YouTube-【ロシア語】モスクワ郊外の夕べ (Подмосковные вечера) (日本語字幕) https://www.youtube.com/watch?v=tDXDjNBjq6c

ロシア民謡集 モスクワ郊外の夕べ - 岸本力
ロシア人のノーベル賞受賞者のじいさんが「『プーチンのロシア』が真のロシアではない。『トルストイのロシア』『チャイコフスキーのロシア』が真のロシアなんだ」と話していたが、こういったいい歌を作る人たちなのに、なんで、野蛮な軍事攻撃をしているのかと思う。悲しい。最も、東京大学なんとか研究所の小泉さんは「ロシア文学とかそういったものを専門としている人と話すと、なぜ、ロシアはこんなことをするのか・・といったことを言う人が多いのですが、ロシアの軍事を専門にしている者からすると、ロシアという国は元々、時々、変なことする国で、やりそうなことという感じがする」だったか、報道番組で話していたが、そうかもしれない・・が、やっぱり、「モスクワ郊外の夕べ」が好きな者としては、ロシア軍によるウクライナ侵攻は悲しい。
クリストファー=ヒル『レーニンとロシア革命』(岩波新書)によると、「人、悔いなし(1917)、ロシア革命」1917年のロシア革命より前、ロマノフ朝のツアー制のロシア帝国では「ロシア人以外の諸民族の牢獄」と言われていたらしい。それを、1917年のロシア革命により「等しい権限を持つ15の連邦共和国からなるソビエト連邦」が成立して、その「ロシア人以外の諸民族の牢獄」という状態を解消しようとした。しかし、その後もソビエト連邦において必ずしも「ロシア人中心主義」は改めることはできなかった、とも言われるが、しかし、この「ロシア人以外の諸民族の牢獄」という状態というものは、社会主義革命によって生まれたものではなく、ロシア革命より前に「ロシア人以外の諸民族の牢獄」であったものをロシア革命により解消しようと努力した人がいたが、その効果はまったくなかったわけではないとしても、すべて理想的には必ずしもならなかったというもので、社会主義革命によって「諸民族の牢獄」になったというわけではない・・のだが、「慶應タイプ」「思考が柔軟な慶應ボーイ」と称する人たちは「社会主義だとソ連のように民族差別が起こるから」とか言うのだが、そういう発言は正しくない・・はずなのだが、「慶應タイプ」というのは、そういうことを意図的に発言することで「企業はそういう人間を喜ぶ」とか「そういう人間が社会で役に立つ」とか考えているようで、いわば、彼ら「慶應タイプ」は特高警察みたいな人間であり、彼らに油断して本音で学問的な話をすると、彼ら「慶應タイプ」が考える「慶應リベラル」、要するにソビエト連邦において「ロシア人中心主義」「ロシア人以外の諸民族の牢獄」という状況が解消されていないのは「社会主義によってそうなった」と決めつけることによって、自分は「リベラル」なのだと主張し、そういう人間を「企業は喜ぶ」と決めつけ、そういう態度を「スマート」「受験勉強の悪影響を受けていない」「独立自尊の精神がある」「自我が確立されている」「ギャルにもてもて」と主張するという、なんで、そんな態度が「リベラル」なんだ?!? どこが「リベラル」なんだというそういう連中から、「おい、おまえ、はそういう『ラディカル』な人間だということか」とか「おまえのような””共産党””は」と「共産党」呼ばわりされることになる。慶應という学校はそういう「思考が柔軟な慶大生」「慶應リベラル」と称する特高警察みたいなやつが幅をきかせているなんとも怖い学校である。
慶應という学校はそういう学校である。そういう状態を「福沢精神」とか「独立自尊」とか「慶應タイプ」は主張するのだが、いったい、それのどこが福沢精神なんだ、いったい、そのどこが独立自尊なんだ・・と思うが、こういうことを言うと「ラディカル」とか「共産党」とかそれこそ私のように共産党なんて入れてほしいと思ってもはいつくばってお願いしても入れてもらえないだろうと思われる人間でもレッテル貼られてしまう・「診断」されてしまう危険があるから、怖いこわい怖いこわい・・・。「慶應タイプ」と関わるのは危険だから彼らと関わるのは要注意である。
かつての慶應の塾長であった小泉信三は『共産主義批判の常識』(講談社学術文庫)の「序文」で、「批判は論拠をあげて論理的におこなわないといけない」と述べており、又、日本共産党の議長だった野坂参三は慶應大学経済学部の学生だった時には小泉信三のゼミにいたらしく、小泉信三は野坂参三を慶應においておこうとしたというのだが、小泉信三に「野坂参三はあなたとは考え方が違うのではないか」と言ったところ、「たとえ、考え方が違う人でも優秀な者は優秀だと認めるべきだ」と小泉信三は話したそうで、又、戦後、革新政党が議席を伸ばしたことについて、『共産主義批判の常識』(講談社学術文庫)の「序文」で自分は社会主義といったものとは考え方が異なる者だが、革新政党が議席を伸ばすことについて、わかるところがある、彼らには「気概」とでもいったものがあるのに対して、「保守」を名乗る政党の者にそういったものが見られず、聞いていても耳を塞ぎたくなるような下品なことしか言えない人間がいると言い、小泉信三は社会主義といった動きには否定する側の立場の人間であったが、しかし、そういう下品なことしか言えないようなそんな人間を支持するつもりはなく、そんな人間が落選したっていいんだ、と小泉信三は考えていたらしい。このあたりの小泉信三の姿勢・態度というものは「慶應タイプ」「慶應ボーイ」とは正反対のものである。アンドレ=ジッドは最初は社会主義とソビエト連邦に好意的に見ていたが、だからこそ招かれてロシア革命後のソ連に訪問したが、ところが行って見ると「どうも、違う」と感じ、そして『ソビエト紀行』(光文社古典文庫)を書いたが、そこでは「今のソビエト連邦では、もしもレーニンが生きていたならば、レーニンでさえも収容所に入れられたりシベリア送りにされたりする危険がある」と述べるに至ったが、今もそうかどうかはわからないが、1980年代の慶應大学では、福沢諭吉や小泉信三でさえも、「ラディカル」とか””共産党””とか罵られ「レッテル」を貼られる危険があった。そんな福沢諭吉や小泉信三でさえも「ラディカル」だとか「共産党」だとか罵られレッテルを貼られる危険があり、何とか症候群・何々シンドロームとか「診断」されて「治療」される危険すらあるような大学というものを「リベラル」とか「独立自尊」と言いたい人がいたようだが、そういうのは私は「リベラル」とか「独立自尊」とかいうものとは違うように思った・・が、こういうことを言うとまたもや「ラディカルなやつ」だとか「共産党の人間」とか言われる危険がある大学だったから、だから、慶應の学生とはうかつに口きけないなあ・・と思うようになった。特に「内部進学観念的反共主義」の人間とは、うかつに口をきくのは危険・・と思うに至ったが、ところが、うちの父親はそういう人間が好きだったのだ( 一一)

レーニンとロシヤ革命 (1955年) (岩波新書) - クリストファー・ヒル, 岡 稔
プーチンはあくまでも「等しい権限を持つ15の連邦共和国」のひとつであるロシア社会主義共和国が、1991年にソビエト連邦が解消されて、「等しい権限を持つ15の連邦共和国」がそれぞれ独立したうちの1つであるロシア連邦共和国の大統領であるはずで、プーチンは決してほかの14の共和国の大統領でも書記長でも何でもないはずなのだが、どうも、そのあたりについて認識できておらず、ロシア連邦共和国の大統領は今でも15の共和国全体の長だと思っているのではないのか・・と思えるフシがあるのだが、わかってないのか、それとも、わかっていないわけではないが、わかっていないふりをしているのか。
もうひとつ、ロシア連邦共和国以外の14の共和国がロシア連邦共和国から離れていくならば、それはロシア連邦共和国に魅力がないからであり、離れないようにするにはより魅力があるようにするべきであって、軍事侵攻して「言うことをきかせる」ようにしようというやり方はそれは「長い目で見るならば張り子の虎」であり、それは「帝国主義と反動派」がやることではなかったのか。そのあたりについての思考が欠落していないか。
又、かつて、「ハンガリー動乱」(1956年)「プラハの春」(1968年)といった時、ソビエト連邦は戦車隊を派遣して「鎮圧」したわけだが、それについて、ブレジネフは「社会主義国全体の利益は一国の利益に優先する」という「ブレジネフ ドクトリン」なるものを発言したわけだが、たしかに、小さい一国だけで社会主義を実現するのは困難で、理想的な社会主義の社会を作ろうとしたならば、世界全体とまでいかなくても世界の多くの国が社会主義の経済体制の国として存在してこそ成り立つものではあるだろうから、「社会主義国全体の利益は一国の利益に優先する」という「ブレジネフ ドクトリン」というものはまったく見当はずれということでもないのかもしれないが、しかし、そうであったとしても、今現在はロシア連邦は社会主義はやめたはずであり、「社会主義国全体の利益は一国の利益に優先する」という「ブレジネフ ドクトリン」を今も適用させようとしても、それはまず理論としてあてはまらないはずなのだが、プーチンはKGB⇒FSB 出身ということで、これは日本で言うなら公安調査庁のようなもので、日本では公安調査庁は国家公務員1種試験合格者の勤め先としては財務省とかと比べると人気が低い方で、私が法務省にアルバイトで勤めていた時に守衛さんから教えてもらった話では、国家公務員のキャリアでも財務省とかは東大法学部卒でないとだめだが、法務省の場合は国家公務員1種ではなく司法試験合格で検事として採用された人が法務省の「キャリア」の扱いになり、司法試験合格者は国家公務員1種試験合格者ほどいっぱいいるわけではないので他の官庁と違って「東大法学部卒」ではなく「東大法学部卒もしくは京大法学部卒」ということになるが、公安調査庁とかはそれほど人気がないので東大法学部卒ではなく慶応大卒とかでも出世できる・・ということだったが、報道番組で舛添が言うておったのだがロシア連邦ではそうではなくて、KGB⇒FSB というのはロシア連邦では「エリート中のエリート」の評価だというのだが、「エリート中のエリート」にしては、このあたり、わかってないのかなあ・・・とどうも不思議に感じる。
次回https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/501457598.html は、キーウ他の歴史的建造物を大事にする心と人命を尊重する心は相反するものか共通するものか。湿地帯だったサンクトペテルブルクの建築、及、地盤調査と地盤補強を「要らない」と言ったり必要と言ったりする会社。イルクーツクのペリメニはおいしかった、マクドナルドなど「西側」のチェーン店が撤退してもロシア連邦の飲食店は存続するだろう。ユダヤ自治州の「ユダヤ人」は『聖書』の時代にユダヤ・イスラエル地区に住んでいた人の子孫ではなさそうーロシア軍のウクライナ侵攻に際してB【2/2】
(2023.11.14.)
☆ ロシア軍のウクライナ侵攻に際し建築屋的感想B
1.ロストフナドヌーとロストフベリキー、グムと赤の広場、ドン川・ドニプロ川・ドニステル川・ドナウ川の違い―ロシア軍によるウクライナ侵攻に際し建築屋的感想B【1/2】〔今回〕
2.キーウ他の歴史的建造物を大事にする心と人命を尊重する心は相反するものか共通するものか。湿地帯だったサンクトペテルブルクの建築、及、地盤調査と地盤補強を「要らない」と言ったり必要と言ったりする会社。イルクーツクのペリメニはおいしかった、マクドナルドなど「西側」のチェーン店が撤退してもロシア連邦の飲食店は存続するだろう。ユダヤ自治州の「ユダヤ人」は『聖書』の時代にユダヤ・イスラエル地区に住んでいた人の子孫ではなさそうーロシア軍のウクライナ侵攻に際してB【2/2】https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/501457598.html
☆ ロシア軍のウクライナ侵攻に際して建築屋的感想A
[第912回]《 ロシア軍のウクライナ侵攻に際して建築屋的感想【1】ポーランド色が強いリヴィウ、カルパチア山脈よりハンガリー側に国境があるウクライナとハンガリーの国境。【2】ドイツ人建築家ブルーノ=タウトの生誕地のケーニヒスベルク(カリーニングラード)はロシア連邦領になっている。アール=ヌーボーの画家ミュシャはポーランド人で「スラブ人」の意識がある。》https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202204article_1.html
[第913回]《ロシア軍のウクライナ侵攻に際して建築屋的感想【3】ロシア連邦から日本へ輸入される木材。【4】自然保護されるか。【5】ロシアの建築は魅力的だが行けなくなってしまった。天然木と造林木では事情が違うことすら理解できない国産材使用木造住宅建築会社の従業員。 》https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202204article_2.html
[第918回]《 ロシア軍ウクライナ侵攻により採用取消された在日ロシア人と「リフォームのナカヤマ」に採用取消された何年か前の私の話。後の就職席にまで誹謗中傷を加える卑劣な者。》https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202204article_9.html

物語 ウクライナの歴史―ヨーロッパ最後の大国 (中公新書) - 黒川 祐次

「シベリアに独立を!」――諸民族の祖国(パトリ)をとりもどす (岩波現代全書) - 田中 克彦
ロシア連邦軍によるウクライナ侵攻にさいしての「建築屋的感想」をこのブログでも、
[第912回]《 ロシア軍のウクライナ侵攻に際して建築屋的感想【1】ポーランド色が強いリヴィウ、カルパチア山脈よりハンガリー側に国境があるウクライナとハンガリーの国境。【2】ドイツ人建築家ブルーノ=タウトの生誕地のケーニヒスベルク(カリーニングラード)はロシア連邦領になっている。アール=ヌーボーの画家ミュシャはポーランド人で「スラブ人」の意識がある。》https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202204article_1.html
[第913回]《ロシア軍のウクライナ侵攻に際して建築屋的感想【3】ロシア連邦から日本へ輸入される木材。【4】自然保護されるか。【5】ロシアの建築は魅力的だが行けなくなってしまった。天然木と造林木では事情が違うことすら理解できない国産材使用木造住宅建築会社の従業員。 》https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202204article_2.html
[第918回]《 ロシア軍ウクライナ侵攻により採用取消された在日ロシア人と「リフォームのナカヤマ」に採用取消された何年か前の私の話。後の就職席にまで誹謗中傷を加える卑劣6な者。》https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202204article_9.html
で述べたが、今回、何点か述べたいと思う。
【1】 ロストフ=ベリキー と ロストフ=ナドヌー
丸善から出版されている「建築巡礼」シリーズは魅力的であるが、そのうちの 内井 昭蔵『ロシアビザンチンー黄金の環を訪ねて(建築巡礼19)』(1991.1.30.丸善)は、ウラル山脈より西側のロシアの建築、特に「黄金の環」と言われる地域とレニングラード、それにウクライナのキエフの建築と日本の正教会の建築について述べられている。
それで、だ。
《(2023年)6月23日には部隊を引き連れて一部のロシア軍基地を掌握、首都モスクワへ進軍するという行動を起こすに至った。これに対しプーチンは処罰を下すと厳しい姿勢で臨んだがベラルーシのルカシェンコ大統領の介入もあり進軍は中止、プリゴジンはベラルーシへ事実上亡命しプーチンも処罰を行わないと方針を転換した。その後、プリゴジンの行方は一時不明となったが6月27日になってベラルーシのマチュリシチ空軍基地に到着した。》(ウィキペディアーエフゲニー・プリゴジン )という「プリゴジンの乱」なるものが発生した。その後、
《 2023年8月23日、モスクワ北西部のトベリ州で墜落したビジネスジェットの乗客名簿にプリゴジンの名前があり、乗客乗員10名は全員死亡したと報道された。ワグネルに近いテレグラムチャンネル「グレーゾーン」は、地対空ミサイルが発射された痕跡があると報道している。
同事故の直後、ロシア国防省およびロシア大統領府(クレムリン)からはコメントは出なかったが、アメリカのバイデン大統領は「実際に何が起きたか分からないが、驚かない」とし、「ロシアで起きることで、プーチンが関与していな29いことはあまりないようだ」という考えを示した。
同年8月27日、ロシア当局は遺体のDNA鑑定を行いプリゴジンの死亡が確認されたと発表。同年8月29日、警戒態勢が敷かれる中、出身地のサンクトペテルブルクで密葬が執り行われ、同市北東の郊外にある墓地に埋葬された》(ウィキペディアーエフゲニー・プリゴジン https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%95%E3%82%B2%E3%83%8B%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%97%E3%83%AA%E3%82%B4%E3%82%B8%E3%83%B3
)
ということだが、「プリゴジンの乱」は な~んかこう「竜頭蛇尾」みたいな感じだった。ルカシェンコが仲介して《進軍は中止》した上で《プーチンも処罰を行わないと方針を転換した》ということだったが、その「ルカシェンコ大統領の介入」というものがモスクワめざして進軍している最中においては効果があっても「進軍は中止」した後ではたしてプーチンに対してどれだけの「重み」があるか・・と考えるなら、いったん、「乱」を起こしたならば、そのまま進むか敗北するかしかないのではないか・・という感じがしたが、「めざせ、モスクワ」の「進軍は中止」して、そして、ベラルーシに亡命ならルカシェンコ大統領による仲介によって《処罰を行わない》とするかわりに「進軍は中止」したからには、ベラルーシにいるからには命は保たれるか・・と思っていたら、無警戒にロシア連邦内に戻って、そして、「飛行機事故」によって殺されたみたい・・ということは、このプリゴジンというおっさんは、一見、「百戦錬磨」みたいに見えて、実はけっこう見通しが甘かったということなのか・・・?
それで、実は「飛行機事故で死亡した」ということになっているプリゴジンは替え玉であって、本物のプリゴジンはどこかでひっそりと隠れて生きているということはないのか・・という説について、東京大学のなんとか研究所の小泉なんとかさんが「死んでると思います。もしも、生きていたならば、あの人、ひっそりと黙って生活できる人じゃないと思うんですよ。絶対に、おとなしく黙ってられる性格じゃないと思います」と言っていたが、そんな感じがする。
※ ウィキペディアーエフゲニー・プリゴジン https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%95%E3%82%B2%E3%83%8B%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%97%E3%83%AA%E3%82%B4%E3%82%B8%E3%83%B3
それで、プリゴジンとワグネルが制圧したロシア連邦南部の都市の名前が「ロストフ」だったのだが、え? ロストフ・・? と思ったのだ。そこにロシア連邦軍の基地なのか何だのかがあって、そこをワグネルが制圧したということで、又、プリゴジンがそこを離れる時に群衆がプリゴジンに対して熱狂的な支持を示すような態度をとったとして放映されていたのだったが、「ロストフ」というと、内井 昭蔵『ロシアビザンチンー黄金の環を訪ねて(建築巡礼19)』(1991.1.30.丸善)にも登場したウスペンスキー大聖堂とかがある都市?・・かと思ったが、違った。
ロシア連邦には「ロストフ」という名前の都市が2つあって、今回、プリゴジンとワグネルが一時制圧したというアゾフ海の北東、ドン川の河口、ロシア連邦のロストフ州にある「ロストフ」は「ロストフ ナドヌー」。1917年のロシア革命の時にアメリカ合衆国に亡命したドン・コサック合唱団の「ドン」はロストフ=ナドヌー 付近でアゾフ海の北東部のタガンロク湾にそそぐドン川の付近のコサックという意味での名前のはずだ。
※ YouTube-ステンカ・ラジーン - ドン・コサック男聲合唱團 https://www.youtube.com/watch?v=y_CTvJyJhcM
( ↑ 緑の丸で囲った市がロストフ州の ロストフ ナドヌー。)(『グローバルマップル 世界地図帳』2023.9.1.昭文社)
それで、内井 昭蔵『ロシアビザンチンー黄金の環を訪ねて(建築巡礼19)』(1991.1.30.丸善)で、モスクワを囲む環のように存在する、コロメンスコエ・ザゴルスク・ペレスラブリ=ザレッスキー・ウラディーミル・スーズダリ・ヤロスラブリとロストフ=ベリキー という「黄金の環」と言われる都市のひとつの「ロストフ」は「ロストフ=ベリキー」だった。
「黄金の環」というのは「モスクワとその近郊のロシア正教の古都」を言うらしい。
《ウィキペディアーロストフ・ナ・ドヌ》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%95%E3%83%BB%E3%83%8A%E3%83%BB%E3%83%89%E3%83%8C によると、
《 町の本来の名前である「ロストフ」に付加された「ナ・ドヌ」とは、ロシア語で「ドン川にある」という意味で、ヤロスラヴリ州にある同名のロストフの町(ロストフ・ヤロスラフスキー、大ロストフとも)と区別するためである。ヤロスラヴリのロストフは歴史の長い古都だが、ドン川のロストフのほうが大き862町であり世界的にも有名で、単にロストフと呼ぶ場合はロストフ・ナ・ドヌを指す場合が多い。》
ということらしい。225
「ロストフ=ヴェリキー」は、ウィキペディアーロストフ https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%95 に、
《 ロシアのヤロスラヴリ州にある古都。モスクワから北東へ225km、ヤロスラヴリの南西53キロ、ネロ湖のそばに栄えたロシア最古級の町で、いわゆる「黄金の環」を構成する都市の一つ。年代記では862年が初出。
ドン川沿いの大都市ロストフ(ロストフ・ナ・ドヌ)と区別するために、ロストフ・ヴェリーキー(Ростов Великий, 大ロストフ)、或いはロストフ・ヤロスラフスキーと呼ばれることもある。鉄道駅はロストフ・ヤロスラフスキー駅と呼ばれ、モスクワからヤロスラヴリ方面行きの多くの列車が停車する。》
と出ている。
( ↑ 緑の丸で囲った市がヤロースラブリ州の ロストフ ヴェリキー もしくは、ロストフ ヤロスラフスキー。)(『グローバルマップル 世界地図帳』2023.9.1.昭文社)

ロシアビザンチン―黄金の環を訪ねて (建築巡礼) - 内井 昭蔵
内井 昭蔵『ロシアビザンチンー黄金の環を訪ねて(建築巡礼19)』(1991.1.30.丸善)に掲載されている「黄金の環」と言われる都市の建築は魅力的で、ロストフ=ヴェリキー とか ヤロスラブリ とか、一度、行ってみた~い・・と思って行けずにすでに20年以上経つが、ますます行きにくくなってしまった。悲しい。
「ロストフ=ヴェリキー」は、
《 ロストフ・ベリキー
ヤロスラブリから車でロストフへ向かう。ヤロスラブリ出発は午後遅くなってしまった。めざすは、クレムリンとウスペンスキー大聖堂(十六世紀)。ウスペンスキー大聖堂はクレムリンに隣接し、その隣には大きな鐘楼(1680年)がある。この鐘楼は壁式のもので、十三の鐘がありそれぞれことなった音色を出す。一番大きい鐘はフヨードル・テレンチェフ作である。この鐘の音はロシア全土に鳴り響いたといわれる。
薄暗くなった頃、車はクレムリンの前に着く。巨大で黒々として堂々たるキューポールが立つ様子は威圧的である。
ロストフ(=ヴェリキー)はモスクワからヤロスラブリ街道を使うとおよそ200キロメートルである。近くにネロ湖がある。
町は862年に起り、十世紀には有数の都市に成長したが十三世紀から度重なるタタールの軛で町は壊滅し、1670年に一気にクレムリンが築かれ再び活気を取り戻した。クレムリンの壁は厚いれんがで二階造となっている。この二階部分が回廊のように連続して周囲を巡り、各聖堂や僧院に通っていて、いかにも要塞づくりである。
・・・ 》(内井 昭蔵『ロシアビザンチンー黄金の環を訪ねて(建築巡礼19)』1991.1.30.丸善)
同書には、ロストフ=ヴェリキーの建築ではウスペンスキー大聖堂と「クレムリン」の写真が掲載されている。
「クレムリン」というとモスクワのクレムリンを思い浮かべるが、ロストフ=ヴェリキーにも「クレムリン」があるようだが、「クレムリン」て何なんだ?・・・
《 (モスクワのクレムリンに)ソビエト連邦時代にはソ連共産党の中枢が設置されたことから、ソ連共産党の別名としても用いられた。
現在もロシア連邦の大統領府や大統領官邸が設置されているため、ロシア政府の代名詞として用いられる。》(ウィキペディアークレムリン https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AC%E3%83%A0%E3%83%AA%E3%83%B3 )けれども、
「JTB クレムリン(Kremlin)の観光情報」https://www.jtb.co.jp/kaigai_guide/e.europe-russia-c.asia/russian_federation/MOW/119279/index.html によると、
《 クレムリンとは本来城塞を意味するロシア語。ロシア各地に数多く残っているが、一番有名なのがモスクワクレムリン。》だそうだ。「一番有名なのはモスクワ クレムリン」だけれども、モスクワのクレムリンだけではなくて、他にも何か所かに「クレムリン」はあるらしい。

グローバルマップル 世界地図帳 - 昭文社 地図 編集部
【2】ドナウ川・プルート川・ドニエストル川(ドニステル川)・ドニプロ川(ドニエプル川)・ドン川・ヴォルガ川。
ウクライナからロシア連邦南部にかけての川の名前がどうも、似た名前で混乱するのだが、ドナウ川とドニエストル川(ドニプロ川)が別なのはわかるが、ドニエストル川(ドニプロ川)と同じ「ド」で始まる名前の川で、ドニエストル川(ドニプロ川)より東にドン川があり、ドニエストル川(ドニプロ川)よりも西にドニステル川(ドニエストル川)があり、ややこしい。知名度の高い川ではヴォルガ川がこの近くを流れているが、ヴォルガ川はドン川よりさらに東。そのあたりを整理してみよう。
(1)ドナウ川
ヨハン=シュトラウス2世の『美しく青きドナウ』のドナウ川・・といっても、ヨハン=シュトラウス2世はオーストリアのウィーンあたりのドナウ川を思い描いて作曲したのではないか。地図で確認すると、ドナウ川はドイツ連邦共和国の南西部から流れ出し、オーストリアの首都ウィーンを流れて、スロバキアの首都プラチスラバスキンを流れ、スロバキアとハンガリーの国境を東に流れてハンガリーの首都ブダペスト付近を南下してセルビアに入り、セルビアの首都(かつては、ユーゴスラビアの首都)ベオグラード付近を東に進んで、セルビアとルーマニアの国境を流れ、さらにルーマニアとブルガリアの国境を東に流れて、もう少しで黒海というあたりで北に曲がり、ルーマニア国内の湿地を通ってモルドバ・ウクライナとルーマニアの3国の国境付近でルーマニアとモルドバの国境を流れてきたプルート川と合流して三角州を作り黒海にそそぐ。ずいぶんといろいろな国を流れてきたもので、『美しく青きドナウ』という曲から考えてオーストリア付近の川かと思いそうだが、ウィーン付近だけの川ではない。 今回、ウクライナが穀物を船に積んでドナウ川を利用して輸出しようとしたものをロシア軍が攻撃したというのは、ドナウ川では下流の方、ウクライナとルーマニアの国境付近のウクライナ側の街イズマイールだったか。
ドナウ川にちなむ音楽として『美しく青きドナウ』ともうひとつ『ドナウ川のさざなみ』という曲のがあるが、私はかつて、この曲もヨハン=シュトラウス2世の作曲かと勘違いしていたのだが、そうではなく、これは《 ルーマニアの作曲家ヨシフ・イヴァノヴィチが1880に作曲したワルツ。》(ウィキペディアードナウ川のさざなみ https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%83%8A%E3%82%A6%E5%B7%9D%E3%81%AE%E3%81%95%E3%81%96%E3%81%AA%E3%81%BF )。
※ YouTube-美しく青きドナウ https://www.youtube.com/watch?v=1nWbuwLshrk
※ YouTube-ドナウ河のさざなみ https://www.youtube.com/watch?v=ermFrBxaMbo
(2)プルート川
モルドバとルーマニアの国境を流れてきて、モルドバとウクライナとルーマニアの国境付近でドナウ川と合流する川は、プルート川と言うらしい。
(3)ドニステル川(ドニエストル川)
モルドバとウクライナの国境近くを流れてウクライナに入って黒海にそそぐ。ウクライナに入ったあたりにドニエストル潟という湖というのか潟というのかがあるらしい。モルドバとウクライナの国境きっちりを流れているわけではなくて、ドニステル川(ドニエストル川)のウクライナ側のモルドバ領に「沿ドニエストル共和国」というものをロシア連邦が軍隊を派遣して作ったが、多くの国は「沿ドニエストル共和国」を承認しておらず、日本も承認していない。『ゴルゴ13』にも「沿ドニエストル共和国」に関しての話があったが、その川がドニエステル川(ドニエストル川)と言うらしい。
(4)ドニプロ川(ドニエプル川)
「ドニエプル川の嵐」という歌というのか曲があったのだが、その「ドニエプル川」という地名はロシア語によるものだということで、ウクライナ語では「ドニプロ川」と言うということで最近は「ドニプロ川」という表記され表現されることが多くなった。
カホフカダムが爆破されて水害が発生した川がドニプロ川(ドニエプル川)だが、上流をさかのぼるとどこに行くかと地図を見ると、ウクライナ東部に「ドニプロ」という市があり、そこから北西にさかのぼるとキエフ(キーウ)に至り、さらにさかのぼるとベラルーシ領内に入る。ベラルーシ北東部から流れ出している川のようだ。
※ YouTube-"Реве та стогне Дніпр широкий" Наталія Гудзій 広きドニエプルに吹き荒ぶ嵐 ナターシャ・グジー https://www.youtube.com/watch?v=rSMfYp82j4s
(5)ドン川
「プリゴジンの乱」の際に、ワグネルが占拠したというロシア連邦南部の市が「ロストフ ナドヌー」で、ロストフ ナドヌーでアゾフ海(黒海のケルチ海峡から北側)の北東部のタガンロク湾にそそぐ川がドン川だが、1917年のロシア革命の際にアメリカ合衆国に亡命したドン・コサック合唱団の名前の「ドン・コサック」というのは、このドン川流域地域のコサックという意味だったはずだ。
(6)ヴォルガ川
「母なるヴォルガを下りて」「ヴオルガの舟歌」など、その川にちなむ歌があるヴォルガ川もこのあたりを流れていたように思ったが、ヴォルガ川はドン川の少し東を流れているが黒海ではなくカスピ海にそそいでいる。
ヴォルガ川はロシア連邦とカザフスタンの境界付近のロシア連邦側の市のアストラハンでカスピ海にそそいでいるが、上流をさかのぼるとどこに行くのかと地図を見ると、ヴォルゴグラード(ヴォルガ川の街)〔←スターリングラード(スターリンの街)←ツアーリッチ(ツアー[皇帝]の街)〕からさらに上流は《 モスクワとサンクトペテルブルクの中間にあるヴァルダイ丘陵の海抜225mを源流とし》(ウィキペディアーヴォルガ川https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A9%E3%83%AB%E3%82%AC%E5%B7%9D )ているようだ。
ウクライナでの戦争に関しての報道番組で東京大学なんとか研究所の小泉なんとかさんが、アゾフ海の北からロシア連邦内で川と運河を「ハシゴ」すればバルト海までたどりつくと話していたが、ドン川とヴォルガ川が運河で結ばれていて、黒海とカスピ海を行き来できて、又、ヴオルガ川の上流でその支流はサンクトペテルブルクあたりでバルト海にそそぐ川とも運河で結ばれているのではないか。どのくらいの大きさの船が航海できる川と運河なのかという問題があるが、小泉なんとかさんの話では「運河をハシゴすれば」ロシア軍はバルト海から戦艦をアゾフ海~黒海まで運航してくることは可能だということだが、トルコ共和国が戦争中の国の戦艦はボスポラス海峡・ダータネルス海峡は通過させないということで地中海から黒海へ戦艦が入ることを阻止しているとしても、ロシア軍はバルト海から川と運河を「ハシゴ」してアゾフ海~黒海に運行してくることが可能だというのだが、それならばトルコ共和国がボスポラス海峡・ダータネルス海峡を通行させないのと同様にケルチ海峡を封鎖することができれば、そこから黒海に出ることができなくなる、ということになる。
「ヴォルガの舟歌」はヴォルガ川の舟曳き人夫の歌だということで、日本では「仕事の歌」という名前で広まっている「ドビヌーシカ」は「こん棒」という意味で、ヴォルガ川の舟曳き人夫が舟を曳く際に使用した樫の木のこん棒のことだが、もしも、労働争議が実力行使に至った時には労働者側の武器となったものだそうな。そういった歌があるヴォルガ川だが、今回のロシア連邦軍のウクライナ侵攻はロシア連邦は侵略者と闘う側ではなく、侵略する側の立場ではないか。ウクライナ東部においてキーウ付近のウクライナ人とは異なる政治をおこないたいと考えた人がいたのかもしれないが、そういうことがあったとしても、今回のロシア連邦軍の攻撃は、やはり侵略者の側の行為ではないのだろうか。
「聖なる戦い」という歌があって、ロシア連邦においてこの歌が流されているのをニュース番組で見たが、この「聖なる戦い」という歌は第二次世界大戦の時にドイツ軍がソ連に攻め込んできた時に、攻め込んできたドイツ軍と戦う歌として作られたものではなかったかと思う。今回、攻め込んでいるのはロシア軍の方であって、この歌はそぐわないように思えるのだが、いかがなものだろうか。「ドネツク人民共和国」「ルガンスク人民共和国」という地域へウクライナが自爆型ドローンで「攻撃した」という話があるらしいが、そういった理屈によって軍隊を派遣してロシア連邦領を広げていくというのは、やはり、侵略者の論理ではないのだろうか。又、「『ネオナチ』の抑圧から『ロシア系ウクライナ人』を救う」ということならば「ロシア語を話すウクライナ人」居住地域へ爆撃をおこなうというのは理屈に合わないのではないか。「ロシア系ウクライナ人」とは「ロシア軍に協力するウクライナ人」のことなのか?
プーチンが「ウクライナ領内の『ネオナチ』」との戦いと言っているようだが、もしかして、この地域の人は「ネオナチ」という言葉をけなし言葉として日本におけるよりも比較的軽く使ってしまっているということはないか。「軽いけなし言葉」ならば、「軽いけなし言葉」から軍隊を派遣して攻撃するというようなことは許されないはずだが、「軽いけなし言葉」を重大に解釈して軍事行動に至ったということはないのだろうか。やはり、今回、『聖なる戦い』の歌をロシア軍の側が使うことには違和感を覚える。
又、どうも、最近、「人民共和国」という名称に胡散臭いものを感じるようになってきた。
※ 「母なるヴォルガを下りて」⇒YouTube-母なるヴォルガを下りて - アレクサンドル・スヴェシニコフ指揮ソ連国立アカデミー・ロシア合唱団 https://www.youtube.com/watch?v=Of7JoCJ2Vpw
「ヴォルガの舟歌」⇒YouTube-ロシア語】ヴォルガの舟歌 (Эй, ухнем) (日本語字幕) https://www.youtube.com/watch?v=b4jxCRfHwd4
「ドビヌーシカ」⇒YouTube-【ロシア語】仕事の歌 (Дубинушка) (日本語字幕) https://www.youtube.com/watch?v=rk0C1GputJ8
「聖なる戦い」⇒YouTube-【和訳付き】聖なる戦い (ソ連音楽) "Священная война " - カタカナ読み付き https://www.youtube.com/watch?v=-QFveH_V6Q0
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《 『聖なる戦い(ロシア語: Священная война)は1941年、ナチス・ドイツによるソ連侵攻の際に作られた赤軍の軍歌。ヴァシリー・レベジェフ=クマチ (Лебедев-Кумач, Василий Иванович)作詞、アレクサンドル・アレクサンドロフ作曲。1941年626月26日にアレクサンドロフが芸術監督を務めていたアレクサンドロフ・アンサンブル(ロシア語: Александров, Александр Васильевич)により初演され、以後、同団体の重要なレパートリーの一つとなっている。
( ウィキペディアー聖なる戦い https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%96%E3%81%AA%E3%82%8B%E6%88%A6%E3%81%84 )
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西から ドナウ川・ドニエストル川(ドニステル川)・ドニプロ川(ドニエプル川)・ドン川と、黒海にそそぐ大きな川に「ド」で始まる川が4つもあってややこしいのだが、これで、何とか整理できたか。
ドニプロ川(ドニエプル川)についての「広きドニエプルの嵐」という題名の歌というのか曲については、私は音楽之友社から発行されている「合唱サークル名曲選」の『赤軍合唱団レパートリー集』(1967.12.20.音楽之友社)に掲載されていたもので最初に知った。「ウクライナ民謡」と書かれていて、「合唱団白樺訳」として訳詩が書かれていた。
「吠え狂うドニエプル河
はやてさかまきぬ
高き木々地に伏して
波は海のごと」と。
いい曲だと思ったが、学校のコーラス部とかアマチュア合唱団とかでこういうものを歌う人というのは、私は疑問を感じている・・というよりも否定的認識を持っている。「言葉は言霊(ことだま)、歌は祈り」という観点から考えた時、学校のコーラス部とかアマチュア合唱団とかやっている人というのは、そういう認識が欠落している人が多いのではないか。
声楽というものは、音楽技術と体力と文学哲学との3つから成ると私は思っている。 体力という点についてだが、1970年代前半、「オーケストラがやってきた」というテレビ番組で、岡村喬生(たかお)が「いい声が出るように、水泳をやっています」と話していたのを聞いた。又、2000年頃だったか、佐藤しのぶ が「いい声を出すように体を作ってサイボーグみたいなもの」とどこでだったか述べていた。ところが、野球とかサッカーとかやる人というのは、たとえ、プロではなくアマチュアであっても野球やサッカーをやるために体力をつけようとするし、水泳とかやる人は水泳をやる結果、筋肉がついていい体つきになることもあれば女性の場合は筋肉がついてほしくないところにもついたりすることもあるようだが、それでもやりたいと思うからには体力づくりとしてその競技に即した体力・運動能力をつけようとするものだが、ところが、学校のコーラス部とかアマチュア合唱団とかやる人というのは「スポーツやるのが嫌いだからコーラスやってる」という人が多く、そうでない場合でも「スポーツやるならコーラス部ではなく他の運動部やるわ」という人が多い。だから、この点で声楽というのは体を楽器として作って音を出すという意味合いにおいて、学校のコーラス部とかアマチュア合唱団とかやる人というのは非本来的なのだ。
又、ソニーの会長・・前の会長かもしれないが、東京芸大卒で声楽をやっていた人らしいのだが、ゲルハルト=ヒュッシュに師事していたそうなのだが、ヒュッシュから「シューベルトの『冬の旅』を歌いたいと思ったら、まず、冬のドイツに行ってください。冬のドイツのあのどんよりとした空を知らずには『冬の旅』は歌えません」と言われたというのだ。ハンス=ホッターは自分の声域を考えると、シューベルトの歌曲集でも『冬の旅』はいいが、『美しき水車やの娘』は合わないと考えて歌わなかったとか、ハンス・ホッターはミュンヘン大学の哲学科卒で「哲学的」「思索的」な歌い方とか言われたが、《 ミュンヘンのホッターのもとにはさまざまな歌手が勉強に訪れ、クリスタ・ルートヴィヒが女性が『冬の旅』を歌う事について尋ねた際には「良いと思うよ。私は『女の愛と生涯』を歌おうとは思わないけど」と語った。》(ウィキペディアーハンス・ホッター https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%9B%E3%83%83%E3%82%BF%E3%83%BC )というように、男性の想いを歌った歌曲集である『冬の旅』を「女性が『冬の旅』を歌う」ということはいいかどうか、価値があるか無意味か、そういったことを考えていたわけだが、本来、歌というものはそういうものだと思うのだ。北野高校の音楽のN先生はそのあたりについて考えがある人だったようで、北野高校のホームページだったかで、オーソレミオだったかはイタリア語の辞書をどんなにひいて調べても方言が多くて意味がわからないところがあり、自分が歌詞の意味がわからないものを生徒に歌わせるわけにはいかないので音楽の授業では取り上げなかった、と述べておられた。オーソレミオだったかイタリアの他の歌だったか記憶があいまいになってしまった。高見順の詩で「猫」という詩があるのだが、「馴らされた屈辱を べろでなめ落として」という文句があるのだが、これは、単に動物の猫のことを歌った詩ではなくて、高見順は転向作家であり、転向させられたことを「馴らされた屈辱」と言い、それを「ベロでなめ落として」と歌っているのであり、「馴らされた」としても、あくまで「馴らされた」猫であってイヌではないのだが、それを混声合唱組曲に大中恩(おおなか めぐみ)が作曲していたのだが、そういう「馴らされた屈辱」を「ベロでなめ落として」と「馴らされた」とはいえ「イヌではなく猫」が歌った詩を、なんで「人畜無害作曲家」の大中 恩が作曲するのだ? ・・・とか、歌うにしろ歌わないにしろ、そういったことを考えた上で歌ったり歌わなかったりするのが音楽・声楽というもののはずなのだが、ところが、学校のコーラス部とかアマチュア合唱団とかやる人というのは、そういうことを考えたくないという人が大変多いのだ。むしろ、こういうことを言うとおばさんたち・及びおばさん型の中学生・高校生に怒られる可能性が小さくない。
さらに、アマチュア合唱団ではなく「職場合唱団」になると、さらに問題があって、1980年代、一時、東京でアマチュア合唱団に入っていた時があったのだが、「なんか違う」という印象を強く持ったが、そこに千葉大しか通らんくせしてからに医学部になんか行かせてもらって医者になっていた山口くんて男がいたのだが、その山口くんが言うには「大和銀行の合唱団はコンクールに入選することが多い」そうで、その理由として「大和銀行合唱団は人事部長が指揮者やってるから、だから、みんな合唱団に入るから強いんだ」と山口くんは言って、大和銀行(現 りそな銀行https://www.resonabank.co.jp/ )の合唱団を称賛していたので、逆に私はその話を聞いて「引いてしまった」どころか「あきれてしまった」のだった。私にとっては音楽というものは大事なものであり、魂の叫びであり、「詩人が泣き叫ぶと、いい歌だ、もっと歌えと言う。詩人たるものたまったものではない」と、中原中也だったか誰だったかがどこかで書いていたのだが、詩というものはそういうものであり、音楽・歌というものもそういうものだったはずなのだが、大和銀行の合唱団に入る人間というのは合唱団に入ったら指揮者やってる人事部長から喜ばれて出世させてもらえると思ってそれを目的に合唱団に入るそうで、その結果として、大和銀行合唱団はコンクールで上位に入選することが多いそうだ・・・が、そんな歌などというものは、声楽・音楽としては二束三文であろう。 また、千葉大しか行かれへんくせしてからに医学部に行くような男というのは、なんか、考え方が不純というのか、心がけがよくないという感じがした( 一一) 山口くんのお姉さんは音楽を職業としていたようだが、その音楽を職業とする女性というのは弟の山口くんが言っていたような「大和銀行は人事部長が合唱団の指揮者やってるから合唱団に入る人間が多いから入選することが多い」とか、そういうものをプラスに評価するようなそんな「音楽」やって生活している女なのか。それなら、たいした音楽家ではない! ということだな。
大和銀行の人事部長の男というのは、それでも人事部長なのか、よく反省する必要がある。人事部長というものは従業員が働きやすい環境を整えるのが仕事のはずであり、より働きやすいように職場の環境を整えることで結果として生産性も上昇して会社の利益にもつながるようにするのが人事部長の仕事であるはずなのに、逆におのれのくだらない「趣味」のために従業員を苦しめているわけである。私なら、そんな人事部長に好かれたいとは思わない。たとえ、一時的にそんな人事部長が力を持つことがあったとしても、そのような者は「長い目で見るならばハリコの虎」であって「やがて打倒されるであろう」ものであり、あんまり懇意にしたいとは思わない男である。

現代労務管理概論 (1973年) (有斐閣双書)
「大和銀行(現 りそな銀行)の人事部長、反省せよ!」
又、そのアマチュア合唱団にいた男および女を見ると、タバコを吸う者が大変多かったのだが、『美味しんぼ』では「美食倶楽部」の主幹の海原雄山は、タバコを吸うと落ち着くと一本タバコを吸った若手の板前の良三に「出ていけえ!」と怒鳴りつけたが、喫煙は味覚を鈍らせることになり、他の仕事ならともかく板前はタバコは吸ってはならない、それを吸うような者は「美食倶楽部」から出て行けということだったらしい。たとえ、プロではなく趣味でスポーツをやる人でも、野球をやったりテニスをやったりする人というのは、野球やテニスをやる上でマイナスになるようなことはやりたくないと考え慎む人が多いのに対して、アマチュア合唱団に入っている人というのはタバコは声楽に良くないはずなのだが平気でタバコを吸う女および男が大変多い。
さらに言えば、2008年、東海住宅(株)〔本社:千葉県八千代市〕https://www.10kai.co.jp/ の花見川ショールーム(千葉市花見川区)に勤務していた時だが、店長だった大友ゆうこりん(仮名)(女。当時、50代)は「女性は土日と祝日は遅刻してきていいと会長が認めている」と称して、仕事の性質から最も忙しいはずの土日と祝日は始業時刻午前10時00分の会社で毎回午前10時40分頃に出勤し、午前9時30分頃に出勤した私が「オープンハウス」の準備と掃除をしてなんとか「オープンハウス」をおこなえるように用意したというころにやってきて、そして、玄関の下駄箱の上を雑巾でひと拭きだけして「私がここまでやった」と宣言するという、何の冗談や、面白くもない冗談やるなや・・ということをやると、自分が店長だということで来客1件目を準備・掃除をしない女がまず接客して、その客の子供のもりを私にさせたり、お茶を入れて出させたりして協力してもらった上で、自分の接客が住むと「それじゃ、私は出かけてくるからね」と言って、もしも2件目の来客があったとして私が接客してもそれに協力はしなくて当然という態度をとり、そして、夕方になると、終業時刻は午後7時00分の会社で午後5時過ぎになったら「それじゃ、私は先に帰るからね。女が働くのは大変なんだからねえ。あと、片づけておいてよ」と宣言して終業時刻より前に帰ってしまう。大友ゆうこりん(仮名)は「そういうことをしたことがある」ではなく「毎回、そうしていた」のだった。「女が働くのは大変なんだからねえ」と言われても、もしも、旦那が病気で働けないとかで働きながら子供を育てなければならないとかいうことなら大変かもしれないが、大友ゆうこりん(仮名)の場合は、子供があるとはいってもすでに結婚して子供がある子供であり、世話しなければならない子供ではなくて役に立つ年齢の子供がいたわけで、何が大変だと言いたいのかわからない。「働く」ということが大変だというのなら男だって「働く」のは大変なことだ。そして、私は戸建住宅建築業の営業を長くやってきた人間、ベテランに属する人間であり、私の認識では「準備と片付けをせざる者、接客するべからず」というのが基本であるはずだが、ところが東海住宅(株)https://www.10kai.co.jp/ の80代の会長と「ゆうこりん」はその逆で「女は遅刻してきて男性社員に掃除と準備としつらえをしてもらって先に接客し、帰りも先に帰って片付けと営業所への運搬は男性社員にさせるのが当たり前でしょおおお」という主張で、正反対の考え方だった・・が、このあたりを見ると、80代の爺さんはあかんなあ・・( 一一) て感じがしてきた( 一一)
「ゆうこりん」はそうやって「女は遅刻してきていいと会長が認めている」と主張し、どうも、東海住宅(株)https://www.10kai.co.jp/ の80代の爺さんの会長にとっては50代の下品なおばはんが「女」に見えるようでそういう「女の特権」を認めるらしいのだが、会長が「女の特権」を認めたのなら、その負担はその会長が払えば良さそうなものだったが、そうではなく、おばさんと同じ営業所にいる男性従業員に負担を押しつけるのだった。それでは会長の役割を果たしてないことになるだろうが・・と思えるのだが、それがオーナーの会長だったのだ。
・・ここまでは、最近、職場でよくあるオバハン帝国主義である。「オバハン帝国主義の職場侵略に対し、日本国の男性労働者、団結せよ!」とでもいったところだが、それだけではなくて、大友ゆうこりん(仮名)は、朝、遅刻してきてひとに準備と掃除・しつらえをさせた女は、帰りもまた「あと、片づけておいてよ」とか言って終業時刻より前に帰り、そして何をやっておったかというと、アマチュア合唱団やっておったらしいのだ( 一一) アマチュア合唱団やるおばさんというのは、こういう人がけっこう多いみたいなのだ。私ら、そんなものやりたいと、たとえ思ってもやる時間なんかないのに、私などにサービス残業させまくって、そして、おばさんはアマチュア合唱団やっておったらしいのだ。「声楽の先生にボイストレーニングで教えてもらって・・」とか、私に準備と掃除、片づけをすべて押しつけて、私が掃除して準備して並べてした所にやってきて接客して、夕方になったら片付けも運搬も私に押しつけて終業時刻より前に帰ったおばさん帝国主義は、そうやって空けた時間でアマチュア合唱団やっておったらしいのだ( 一一) なんというのか、「おばさん通れば道理引っ込む」というのか、「そこのけ、そこのけ、オバサン通る」というのか、「泣く子もオバサンには勝てない」というのかなんというのか、かつて、毛沢東主席は「すべての帝国主義と反動派は張り子の虎である。見かけは恐ろしいがその実力はたかがしれており、やがて打倒される。ヒトラーは張り子の虎ではなかったか。日本軍国主義は張り子の虎ではなかったか。アメリカ帝国主義は今も存在し、原子爆弾という恐ろしい武器を持っているが、これもまた張り子の虎であって、やがて打倒される」と述べたのだが、おばはん帝国主義という帝国主義だけは、これだけは張り子の虎ではなく牙を持った恐ろしい本物の虎であって、な~かなか打倒されない。おばはんには原子爆弾も人民義勇軍も歯が立たない( 一一)
だから、私はアマチュア合唱団が嫌いなのだ( 一一) ほんとうに嫌いなのだ( 一一) おばはん合唱団はつくづく嫌いなのだ( 一一)
「ヨーロッパに幽霊が出る――共産主義という幽霊である」ではなく、「日本に妖怪が出る――オバハン帝国主義という妖怪である」
「万国の労働者、団結せよ」ではなく、「女性の社会進出」ではなく「オバハン帝国主義の職場侵略」との闘いに「日本国の男性労働者、団結せよ」と訴えたい。実際、「西側」はジャベリン砲でもレオパルト2でもAタクムスでもオバハンを撃墜するために私に供与してほしいわ、ほんま・・・
なお、中谷彰という人が『オヤジにならない60のビジネスマナー』(PHP文庫)という本で「オヤジとは、その年代のその性別の人のことではなく、オヤジと言われるようなことをする人のこと」で、「若い人にもオヤジはいますし、女性にもオヤジはいます」と述べているが、ここで「オバハン」と述べているのもまた、「その年代のその性別の人」のことではなくて「オバハンと言われるようなことをする人」のことである。

オヤジにならない60のビジネスマナー お客様・女性・部下に愛される具体例 (PHP文庫) - 中谷彰宏
又、戦後、一時期、「うたごえ運動」というものが起こった時期があったのだが、革命歌とか労働歌とかを歌う人がいたようだが、それを抑えつけるのを目的で「人畜無害の合唱曲」というものが意図的に作曲されて、その「人畜無害の合唱曲」によるコンクールなどというものをNHKなどが中心になって実施したようだが、そうなると今度はその「人畜無害の合唱曲」を好むおばさん、もしくは””「人畜無害の合唱曲」好き女子48”” みたいな高校生・中学生というのが出現したようで、そういう人というのはその「人畜無害の合唱曲」が好きで、逆に骨のある歌は好まない、むしろ斥ける傾向を持つようになったようだ。そうした「人畜無害の合唱曲」からも芸術的価値があるものが出てくる場合もあるとしても、それでも「しょせんは人畜無害という檻に入れられた音楽」であり、その制約から逃れられないものは「しょせんはその程度のもの」であるのだが、私のように、こういったことに気づいている者はまだいいのだが、気づいていない人間というのが実は少なくない。「気づいてたまるか」という人もいる。

現代日本女性史 (1962年) (三一新書) - 井上 清
【3】 「グム」と「赤の広場」
何か月か前、モスクワのクレムリンがドローンによる攻撃を受けた、ということがあって、それはウクライナ軍によるものなのか、それともロシア国内における反プーチン派によるものなのか、それとも、プーチン政権によって「ウクライナによって攻撃を受けた」とアピールするためのものだったのか・・と言われて、結局、そのどれだったのかわからないままに月日が経った。
その際、東京大学なんとか研究所の小泉なんとかさんが、「クレムリンの近くにグムというのがあるんですけれども」と話していたのを聞き、「グム」も登場したのか・・と思った。
私が「グム」というものを最初に知ったのは、鈴木恂(まこと)『光の街路ー都市の遊歩空間(建築巡礼2)』(1989.1.31.丸善)でだった。パリ・ロンドン・ミラノ・ナポリ・モスクワ の「光の街路」が述べられていたが、私はここで取り上げられている「光の街路」からは、ロンドンの「ロイヤル・オペラ・アーケード」とミラノの「ガレリア・ヴィットリオ・エマニュエレ2世」(「ヴィットリオ=エマニュエーレ2世のガッレリーア」)、ナポリの「ガレリア・ウンベルト1世」(「ウンベルト1世のガッレリーア」)に実際に見学に足を運んだが、モスクワでは「グム」が取り上げられていたのだが、ぜひ、モスクワの「グム」に行ってみたいと思って、これもそう思ってから20年以上経つが行けずにいたが、ますます行きにくくなってしまった。

光の街路―都市の遊歩空間 (建築巡礼) - 鈴木 恂
「グム(GUM)」とは何なのか。
《 グム GUM 1888-1893
・・・
赤の広場に囲みがあるとすれば、それは次の四つの建築によるといえようか。まずクレムリンに沿った赤い城壁。何本かの塔とレーニン廟と観閲壇を含めたいわゆる正面の壁である。次に南端にあって、異様な形と極彩色の屋根をもって独立して建っている聖ワシリー寺院(1555ー61)である。北には赤レンガの国立歴史博物館(1878ー83)のごつごつとした建築がある。そして東は、かなり無性格な横に伸びた建築物が並ぶ。がそれらは囲む要素とはいえ、あまりに散漫で、低く、不統一な建築なのである。つまり、700メートル×130メートル、9万平方メートルに及ぶ赤の広場の空気が、ようやく拡散しないでいる程度の突起物でしかなく、それは非常に囲みが浅く、陰影のない広場に見えるのである。
しかし、赤の広場の東に横たわるその無性格な建物が、国立百貨店と呼ばれるグムであることを知ってからは、多少その考えを修正することになった。実際そこに入ってみると、赤の広場が広場であるためには、メーデーの時はいざ知らず、グムの存在が欠くべからざるものであることが分かる。ミラノのように広場とガレリアが視線でオープンに結びつけられてはいないが、広場はここでもそれのみでは成立してはいないのだ。赤の広場が広場であるために、建築的、ガレリア的な光の街路が無表情なファサードの後に隠れていて、その強靭な塊りが層を成して、背後から広場を包んでいるのである。》
( 鈴木恂(まこと)『光の街路ー都市の遊歩空間(建築巡礼2)』1989.1.31.丸善)
「クレムリン」がある「赤の広場」の東側にある国立百貨店の建物が「グム」だということらしい。
《 赤の広場は、その成立からしてみると市場広場といえる。15世紀末にクレムリンに城壁が築かれてから、その壁沿いにフォラムのように発達したのが露店市場(ベリーキ・トルク)であったといわれている。それが整備され広場になるときに、市場が集約されて、天蓋をもつグムになる。
1888年に、広場と市場をどのように繋ぐかのコンペがあった。そこで広場に威厳を与える立面を建て、それとは対照的に内部に奥深い大街路をもつというペテルスブルグの建築家A・ポメランツェフの案が一位を得た。こうして広場からは閉じた建物として、内部からは赤の広場を見渡せるような、いかにも寒い国の内と外の関係にありそうな繋がり方が出来上がったのである。》
( 鈴木恂(まこと)『光の街路ー都市の遊歩空間(建築巡礼2)』1989.1.31.丸善)
というものらしい。
鈴木恂(まこと)『光の街路ー都市の遊歩空間(建築巡礼2)』(1989.1.31.丸善)に掲載されている「グム」の内部の写真を見て、ぜひ一度、実際にそこに行って実物を見てみたいと思って20年以上になるのだが、ますます、行きにくくなってしまった。悲しい。
モスクワには「グム」のほかに、もうひとつ、「光の街路」があるらしい。
《 グムよりずっと短いが、モスクワにはもうひとつの光の街路がある。ボリショイ劇場の東、ペトロスカ通りとネグリンナヤ通りを結ぶ二列の街路だ。ペトルスキイ・パサージュと入口に書かれているので、まさに街路といってよいのであろうが、ここも一般にはツム百貨店と呼ばれている。
設計はグムの設計者A・ポメランツェフとショーショフの協同なので、断面形状は似ている。屋根のヴォールトの構造も、グムと同じくテンション材を多用して見事に細い鉄材で組まれているのが美しい。・・》
というものらしい。こちらも、ぜひ一度、見学に行ってみたいと長く思ってきたのだが、ますます行きにくくなってきたのは誠に残念だ。
「グム」は「GUM」で、「ツム」は「TUM」らしい。
モスクワの「赤の広場」だが、『地球の歩き方 ロシア ウクライナ、ベラルーシ、コーカサスの国々』(1999.6.11.改訂第7版第1刷。 ダイヤモンド社)に掲載されている「クレムリン周辺」の地図を見ると、「赤の広場(Красная плошалЬ クラ―スナヤ プローシャチ)」は、南東から北西にかけての長方形の広場で、南西側にクレムリン・南側に聖ワシリー聖堂・北側に国立歴史博物館があって、東側にグム百貨店があるようだ。
「赤の広場」というのは、なぜ、「赤の広場」と言うのだろうか。私は小学生の頃から、うちの母親から「親というものは、息子が大学に行く時に、行きたい大学の行きたい学部に行って、やりたい勉強をしてつきたい仕事につけるようにと思えばこそ、無理矢理にでも勉強させようとするものなんや」と言われて、そうなのかと思って、それで小学校の1年から同級生が遊んでいる時にも勉強し続けたのだったが、ところが大学に行く頃・高校を卒業する頃・卒業した頃になると、うちの父親は「京大はアカやから行ってはいか~ん」「マスコミに勤めるなら産経新聞がええ。朝日はアカやから勤めてはいか~ん。毎日もアカやから勤めてはいか~ん」「学校の先生は全員、アカやから学校の先生はなってはいか~ん」とかなんとかかんとか言いまくるようになった。結局、いいものなんか、ほとんどなかった。騙された。「親というものは、息子が大学に行く時に、行きたい大学の行きたい学部に行って、やりたい勉強をしてつきたい仕事につけるようにと思えばこそ、無理矢理にでも勉強させようとするものなんや」と母親から言われて、そうかと思って努力したが、実際に大学に行く時になると、そうではなかった。うちの父親は毎日毎日ぼくらは鉄板の上で焼かれて嫌になっちゃうくらに叫び続けた。「朕思うに我が皇祖こ~そ~はあ、わしに孝に、わしに孝に、わしに孝に、わしに孝に。わしにじゃわしにじゃわしになんじゃイライラ~あ! すべてをすべてをわしのために、すべてをすべてをわしのために。犠牲になる、犠牲になる、わしのために犠牲になる。犠牲の精神、犠牲の精神、会社のために、わしのために、すべてをすべてを犠牲にする、わしのために犠牲にする、会社のために犠牲にする、わしのために犠牲にする♪」と叫び続けた。結局、努力の果実はすべて「わしのために」と「会社のために」奪い取れれることになった。北野高校の2年の時の担任だった旧姓作野礼子(女。1970年代後半当時、20代。北野高校卒⇒神戸大卒)が「あなたのお父さんのようないいお父さんがいたら、私だったらものすごいうれしいわよ」などと何度も何度も言うのだったが、もしも、うちの父親がいたならば、神戸大の文学部みたいなもん、絶対に行かせてもらえなかったはずだ。あのバカ女症候群、よく言ってくれると思う。「私は父親がいなかったんだからねえ」「私は両親が離婚したんだからねえ」と言いまくり、「作野先生はご両親が離婚されてお父さんがいなかっただけあって、苦労してこられただけに人間がしっかりしておられるわあ」とみんなよってほめなきゃならん、自分は誰からもそう言ってほめられる権利があり、父親がいた息子というのは「作野先生はご両親が離婚されてお父さんがいなかっただけあって、苦労してこられただけに人間がしっかりしておられるわあ」と称賛する義務があると認識していたようだったが、そんな義務も権利もないと思うぞ。私にとっては「父親がいる」ということは、小学生の時から「親というものは、息子が大学に行く時に、行きたい大学の行きたい学部に行って、やりたい勉強をしてつきたい仕事につけるようにと思えばこそ、無理矢理にでも勉強させようとするものなんや」と言われて、そうなのかと思って、それで小学校の1年から同級生が遊んでいる時にも勉強し続けたその努力の果実を「朕思うに我が皇祖こ~そ~はあ、わしに孝に、わしに孝に、わしに孝に、わしにじゃわしにじゃわしになんじゃイライラ~あ、すべてをすべてをわしのために、わしのっためにっ♪ わしのっために、わしのためにわしのために、すべてをすべてをわしのために♪」「すべてをすべてをわしのために」「わしのために、犠牲にな~る! とってちってたあ~あ♪」によって、すべての努力の果実を奪い取られるということを意味していた。それでも、そのおっさんの給料から生活費を出してもらって成人したのだから、その点については、おっさんが毎日毎日「親に感謝、親に感謝、親に感謝感謝感謝、わしに感謝、わしに感謝、感謝、感謝、感謝、感謝! 戸締り用心、火の用心、マッチ一本、火事の元~お、わしに孝行しよ~お! ああもうイッライッラしてきたあ~あ!」と言われなくても、「か~んしゃ~あ、か~んしゃ♪ 朝にも感謝、昼にも感謝、か~んしゃ~あ、か~んしゃ♪ 夜にもかん~しゃ~あ♪ わしに感謝、わしに感謝、わしに感謝、感謝、感謝」と歌われなくても、それは感謝すべきであろうと思ってきたが、しかし、経済的・金銭的な面において「父親がある」というのは常に「父親がない」娘よりも有利かというと決してそうではない。もしも、「父親がなかった」ならば私は日本育英会奨学金を受給して自分が行きたいと思う大学に行くことができた。それに対して「父親がある」かつその父親の年収が日本育英会奨学金を受給できる基準よりも高かったことから、「なんでも、カネ出すものが決める権利があるんじゃ。甘ったれるな、このチャンコロろすけイタコめが。甘ったれるなあ~あ!」ということになり、世界で一番嫌いな大学の首をもがれても行かされたくないと5歳から思ってきた大学学部に暴力と強制と脅迫で行かされることになった。もしも、旧姓作野礼子が「私は父親がなかったんだからねえ!」「私は両親が離婚したんだからねえ!」と自慢しまくるように、私も「父親がなかった」ならば、そうすれば、日本育英会奨学金を受給して行きたい大学の行きたい学部に行ってやりたい勉強をやってつきたい仕事につくか、そうでなかったら自治医大とかタダの大学に行くかできたことだろう。《「父親がいなかった」ことなかった》から、私は「京大はアカやから行ってはいか~ん!」「朝日新聞はアカやから勤めてはいか~ん、毎日新聞もアカやから勤めてはいかん。マスコミなら産経かNHKでなかったら勤めてはいか~ん!」「学校の先生は全員、アカやから学校の先生はなってはいか~ん!」等等等と言われて、結局、努力の果実はすべて奪い取られることになったのだった。「あなたのお父さんのような立派なお父さんがいたら、私だったらものすごくうれしいわよ」と旧姓作野礼子は言いまくり、それを聞いてうちの父親は「作野先生はさすがは北野高校の先生だけあるでえ、さすがやあ。女でも北野高校でてるだけのことあるでえ、女でも神戸大でておられるだけのことあるでえ。作野先生もおっしゃっておるように、わ~しほどええお父さんはおらんねんぞ、わ~しほどお~お。あ~イライラ~あ!」と言いまくるのだったが、そんなにいいと思うのなら、あのおっさん、旧姓作野礼子にあげるから、引き取ってほしかった。私は「父親がいた」ことによって日本育英会奨学金を受給できなくなったのだ。「父親がいた」ことで「京大は受けてはいか~ん」「朝日新聞は勤めてはいけません、毎日もアカやから勤めてはいかん。産経新聞がええ、産経が。産経新聞がものごっついええ」「学校の先生は全員、アカやから、学校の先生はなってはいか~ん!」だのなんだのかんだの言われて、結局、いいものなんかなくなったのだった。この点においては、「父親がいなかった」「両親が離婚した」息子・娘というのが、私は心の底からもんのすごくうらやましかった。旧姓作野礼子がものすごくうらやましかった!!! 私は「父親がいなかった」「両親が離婚した」という娘・息子が心の底からうらやましかった。・・北野高校は行きたいと思って行った学校だったので合格発表の時はうれしかったが、卒業して10年以上経って落ち着いて考えてみると(マインドコントロールが解けてみると)、どう考えてもいい学校ではなかった。もっとも、それならどこに行けばよかったかというと、絶対にここがいいと思える所というのは思い当たらないのだけれども、どう考えてもいい学校ではなかった。特に、2年の時に「私は父親がいなかったんだからねえ」「私は両親が離婚したんだからねえ」というのを自慢しまくりのバカ女症候群に担任を持たれたというのはつくづく災難やった。そもそも、「私は父親がいなかったんだからねえ」「私は両親が離婚したんだからねえ」と言われても、その離婚の原因を私が作ったとでもいうのなら、「どうも、えらいすんまへんでしたなあ」の一言くらい言った方がいいだろうけれども、違うだろうが。私が旧姓作野礼子さんの「両親が離婚した」原因を作ったわけでもないのに「私は両親が離婚したんだからねえ」だの言われたって、知らんがな、そんなもん( 一一)
・・・それで、モスクワの「赤の広場」というのは、その「京大はアカじゃ」「朝日新聞はアカじゃ」「毎日新聞もアカじゃ」「学校の先生は全員、アカじゃ」とか、それから「原発に反対するやつはアカやから反対しとるんじゃ。原発に反対する甘ったれたアカは全員、死刑にしろお~お! とってちってたあ~あ!」とかうちの父親は言うておったのだが、その《「アカ」の広場》という意味なのか? それとも、周囲に外観が赤色の建物が多いから「赤の広場」なのか?
これについて、『地球の歩き方 ロシア ウクライナ、ベラルーシ、コーカサスの国々』(1999.6.11.改訂第7版第1刷。 ダイヤモンド社)に説明が書かれている。モスクワの「赤の広場」というのは、「京大はアカじゃ」「朝日新聞はアカじゃ」「毎日新聞もアカじゃ」「学校の先生は全員、アカじゃ」「原発に反対するやつはアカじゃ」というその「『アカ』の広場」という意味ではないらしく、又、周囲に赤系統の色の建物はあることはあるけれども、すべてが赤系統の色合いの建物というわけでもないようで、赤色の建物で囲まれた広場という意味でもないらしい。
《 クレムリンの北東の赤い城壁と、赤レンガ造りの国立歴史博物館、グム百貨店、ねぎ坊主のワシリー聖堂に囲まれた赤の広場( Красная плошалЬ クラ―スナヤ プローシャチ) 。その広さは73,000㎡に及ぶ。
以前は5月1日には労働者の祭典メーデー、11月7日には社会主義政権の誕生を祝う革命記念日の式典が開かれた。現在は、共産主義者のデモがあるだけになった。
あの広場に行ってまず思うのは、クレムリンの城壁と国立歴史博物館を除いて赤いところはなく、どうしてこれが「赤の」広場と呼ばれるのかということ。以前はメーデー、革命記念日には、赤を基調とした垂幕が国立歴史博物館やグム百貨店の壁面に下がり、人々も赤の小旗大旗を手に手に歩いた。だから、広場は赤一色になった。でもそのほかの日はそんなこともない。ではなぜ「赤の」広場なのか?
それはКрасная(クラ―スナヤ)というロシア語は、古語では「美しい」を表す形容詞だったからだ。今でこそ「赤の広場」と訳すけれども、本来これは「美しい広場」と訳されるべきものなのだ。
クラースナヤ・プローシャチ(赤の広場)と称されるようになったのは、17世紀になってからのこと。15世紀頃、土塁で囲まれたキタイ・ゴーラットと呼ばれる地区には多くの商人が集まり、露店を開いて活発な商業活動を展開していた。雑然としていた地区を17世紀に整理し、美しく模様替えしたところから、赤の広場の名称が歴史に登場する。今のような形(長さ695m、平均幅130mになったのは19世紀末のことである。》
と書かれている。そういうことらしい。別に「京大はアカやから行ってはいか~ん」「朝日新聞はアカやから勤めてはいか~ん」「毎日新聞もアカやから勤めてはいか~ん」「学校の先生は全員、アカやから学校の先生はなってはいか~ん」とか「原発に反対する者はアカやから反対しとるんじゃ」とか、うちの父親が毎日、叫んでおったような「撃ちてしやまん」「一億火の玉」「欲しがりません、勝つまでは」「わしに孝行しよう」「戸締り用心、火の用心、マッチ一本、火事の元。世界は一家、人類は皆兄弟(八紘一宇)」とかそういう「アカ」とは関係ないみたい。Красная плошалЬ(クラ―スナヤ プローシャチ)「美しい広場」からきたものらしい。
モスクワというと思い浮かぶのは「モスクワの味、パルナス」と「モスクワ郊外の夕べ」という歌だ。
「パルナス」は私が子供の頃は、よく知られた洋菓子店だったが、最近、あまり聞かないと思ったら、ウィキペディアーパルナス製菓https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%AB%E3%83%8A%E3%82%B9%E8%A3%BD%E8%8F%93 「モスクワの味 パルナス」の《 パルナス製菓株式会社(パルナスせいか)は、かつて近畿地方を中心に洋菓子製造・販売を行っていた食品メーカー。本社は大阪市北区で、後に大阪府豊中市上津島2丁目に移転した。2000年(平成12年)に事業を停止し、2002年(平成14年)に企業清算して解散した。》らしい。悲しい

《 (パルナス製菓(株)の創業者の)古角松男の実弟である古角伍一(1994年死去)がパルナス製菓から独立する形で1974年(昭和49年)に兵庫県尼崎市に開店した喫茶店・製パン店。2021年(令和3年)現在、伍一の長男である古角武司(こかど たけし)が社長を務めるパルナス商事株式会社が運営[17]。店名の「モンパルナス」はフランス語でパルナス山を意味する。》という「モンパルナス」という喫茶店・製パン店が尼崎市にあるというが、パルナス製菓(株)は今はなくなったらしい。「モンパルナス」だとモスクワではなくパリの地名だ。
「モスクワ郊外の夕べ」は、モスクワ青年友好祭なるものがおこなわれた時に、ソロビヨフ=セドイという人が作曲した歌で、最初は会場がレニングラード(現在のサンクトペテルブルク)の予定だったので「レニングラードの夕べ」という題名だったものが会場がモスクワに変更されたことから「モスクワ郊外の夕べ」に変わったものらしい。フルシチョフが書記長の時代、「雪解け」というのか「東西融和」を模索していたフルシチョフの時代のもので、ロシアの歌というと「地主はええなあ、うらやましいなあ。イギリス人はええなあ、ほんまにええなあ。わしぁ貧乏やからな。ええなあ、うらやましいなあ、ほんまにええなあ」という「日陰の月見草」みたいな歌ばっかりかと思っていたら、そうではないんだ・・という例がこの「モスクワ郊外の夕べ」だったのだ。スターリンの後のフルシチョフ、ブレジネフの後、アンドロポフ・チェルネンコの「中継ぎ」を挟んだ後のゴルバチョフの「ペレストロイカ」は融和路線を模索していたが、その後、社会主義をやめてソビエト連邦もやめたはずのロシア連邦で、今また、強硬路線というのか、ウクライナへの軍事侵攻が起こった。「モスクワ郊外の夕べ」はいい歌だと思う。「モスクワ郊外」にも行ってみたいと思いながら、行けずにきたが、ますます行きにくくなったのは悲しい。
※ YouTube-【ロシア語】モスクワ郊外の夕べ (Подмосковные вечера) (日本語字幕) https://www.youtube.com/watch?v=tDXDjNBjq6c

ロシア民謡集 モスクワ郊外の夕べ - 岸本力
ロシア人のノーベル賞受賞者のじいさんが「『プーチンのロシア』が真のロシアではない。『トルストイのロシア』『チャイコフスキーのロシア』が真のロシアなんだ」と話していたが、こういったいい歌を作る人たちなのに、なんで、野蛮な軍事攻撃をしているのかと思う。悲しい。最も、東京大学なんとか研究所の小泉さんは「ロシア文学とかそういったものを専門としている人と話すと、なぜ、ロシアはこんなことをするのか・・といったことを言う人が多いのですが、ロシアの軍事を専門にしている者からすると、ロシアという国は元々、時々、変なことする国で、やりそうなことという感じがする」だったか、報道番組で話していたが、そうかもしれない・・が、やっぱり、「モスクワ郊外の夕べ」が好きな者としては、ロシア軍によるウクライナ侵攻は悲しい。
クリストファー=ヒル『レーニンとロシア革命』(岩波新書)によると、「人、悔いなし(1917)、ロシア革命」1917年のロシア革命より前、ロマノフ朝のツアー制のロシア帝国では「ロシア人以外の諸民族の牢獄」と言われていたらしい。それを、1917年のロシア革命により「等しい権限を持つ15の連邦共和国からなるソビエト連邦」が成立して、その「ロシア人以外の諸民族の牢獄」という状態を解消しようとした。しかし、その後もソビエト連邦において必ずしも「ロシア人中心主義」は改めることはできなかった、とも言われるが、しかし、この「ロシア人以外の諸民族の牢獄」という状態というものは、社会主義革命によって生まれたものではなく、ロシア革命より前に「ロシア人以外の諸民族の牢獄」であったものをロシア革命により解消しようと努力した人がいたが、その効果はまったくなかったわけではないとしても、すべて理想的には必ずしもならなかったというもので、社会主義革命によって「諸民族の牢獄」になったというわけではない・・のだが、「慶應タイプ」「思考が柔軟な慶應ボーイ」と称する人たちは「社会主義だとソ連のように民族差別が起こるから」とか言うのだが、そういう発言は正しくない・・はずなのだが、「慶應タイプ」というのは、そういうことを意図的に発言することで「企業はそういう人間を喜ぶ」とか「そういう人間が社会で役に立つ」とか考えているようで、いわば、彼ら「慶應タイプ」は特高警察みたいな人間であり、彼らに油断して本音で学問的な話をすると、彼ら「慶應タイプ」が考える「慶應リベラル」、要するにソビエト連邦において「ロシア人中心主義」「ロシア人以外の諸民族の牢獄」という状況が解消されていないのは「社会主義によってそうなった」と決めつけることによって、自分は「リベラル」なのだと主張し、そういう人間を「企業は喜ぶ」と決めつけ、そういう態度を「スマート」「受験勉強の悪影響を受けていない」「独立自尊の精神がある」「自我が確立されている」「ギャルにもてもて」と主張するという、なんで、そんな態度が「リベラル」なんだ?!? どこが「リベラル」なんだというそういう連中から、「おい、おまえ、はそういう『ラディカル』な人間だということか」とか「おまえのような””共産党””は」と「共産党」呼ばわりされることになる。慶應という学校はそういう「思考が柔軟な慶大生」「慶應リベラル」と称する特高警察みたいなやつが幅をきかせているなんとも怖い学校である。
慶應という学校はそういう学校である。そういう状態を「福沢精神」とか「独立自尊」とか「慶應タイプ」は主張するのだが、いったい、それのどこが福沢精神なんだ、いったい、そのどこが独立自尊なんだ・・と思うが、こういうことを言うと「ラディカル」とか「共産党」とかそれこそ私のように共産党なんて入れてほしいと思ってもはいつくばってお願いしても入れてもらえないだろうと思われる人間でもレッテル貼られてしまう・「診断」されてしまう危険があるから、怖いこわい怖いこわい・・・。「慶應タイプ」と関わるのは危険だから彼らと関わるのは要注意である。
かつての慶應の塾長であった小泉信三は『共産主義批判の常識』(講談社学術文庫)の「序文」で、「批判は論拠をあげて論理的におこなわないといけない」と述べており、又、日本共産党の議長だった野坂参三は慶應大学経済学部の学生だった時には小泉信三のゼミにいたらしく、小泉信三は野坂参三を慶應においておこうとしたというのだが、小泉信三に「野坂参三はあなたとは考え方が違うのではないか」と言ったところ、「たとえ、考え方が違う人でも優秀な者は優秀だと認めるべきだ」と小泉信三は話したそうで、又、戦後、革新政党が議席を伸ばしたことについて、『共産主義批判の常識』(講談社学術文庫)の「序文」で自分は社会主義といったものとは考え方が異なる者だが、革新政党が議席を伸ばすことについて、わかるところがある、彼らには「気概」とでもいったものがあるのに対して、「保守」を名乗る政党の者にそういったものが見られず、聞いていても耳を塞ぎたくなるような下品なことしか言えない人間がいると言い、小泉信三は社会主義といった動きには否定する側の立場の人間であったが、しかし、そういう下品なことしか言えないようなそんな人間を支持するつもりはなく、そんな人間が落選したっていいんだ、と小泉信三は考えていたらしい。このあたりの小泉信三の姿勢・態度というものは「慶應タイプ」「慶應ボーイ」とは正反対のものである。アンドレ=ジッドは最初は社会主義とソビエト連邦に好意的に見ていたが、だからこそ招かれてロシア革命後のソ連に訪問したが、ところが行って見ると「どうも、違う」と感じ、そして『ソビエト紀行』(光文社古典文庫)を書いたが、そこでは「今のソビエト連邦では、もしもレーニンが生きていたならば、レーニンでさえも収容所に入れられたりシベリア送りにされたりする危険がある」と述べるに至ったが、今もそうかどうかはわからないが、1980年代の慶應大学では、福沢諭吉や小泉信三でさえも、「ラディカル」とか””共産党””とか罵られ「レッテル」を貼られる危険があった。そんな福沢諭吉や小泉信三でさえも「ラディカル」だとか「共産党」だとか罵られレッテルを貼られる危険があり、何とか症候群・何々シンドロームとか「診断」されて「治療」される危険すらあるような大学というものを「リベラル」とか「独立自尊」と言いたい人がいたようだが、そういうのは私は「リベラル」とか「独立自尊」とかいうものとは違うように思った・・が、こういうことを言うとまたもや「ラディカルなやつ」だとか「共産党の人間」とか言われる危険がある大学だったから、だから、慶應の学生とはうかつに口きけないなあ・・と思うようになった。特に「内部進学観念的反共主義」の人間とは、うかつに口をきくのは危険・・と思うに至ったが、ところが、うちの父親はそういう人間が好きだったのだ( 一一)

レーニンとロシヤ革命 (1955年) (岩波新書) - クリストファー・ヒル, 岡 稔
プーチンはあくまでも「等しい権限を持つ15の連邦共和国」のひとつであるロシア社会主義共和国が、1991年にソビエト連邦が解消されて、「等しい権限を持つ15の連邦共和国」がそれぞれ独立したうちの1つであるロシア連邦共和国の大統領であるはずで、プーチンは決してほかの14の共和国の大統領でも書記長でも何でもないはずなのだが、どうも、そのあたりについて認識できておらず、ロシア連邦共和国の大統領は今でも15の共和国全体の長だと思っているのではないのか・・と思えるフシがあるのだが、わかってないのか、それとも、わかっていないわけではないが、わかっていないふりをしているのか。
もうひとつ、ロシア連邦共和国以外の14の共和国がロシア連邦共和国から離れていくならば、それはロシア連邦共和国に魅力がないからであり、離れないようにするにはより魅力があるようにするべきであって、軍事侵攻して「言うことをきかせる」ようにしようというやり方はそれは「長い目で見るならば張り子の虎」であり、それは「帝国主義と反動派」がやることではなかったのか。そのあたりについての思考が欠落していないか。
又、かつて、「ハンガリー動乱」(1956年)「プラハの春」(1968年)といった時、ソビエト連邦は戦車隊を派遣して「鎮圧」したわけだが、それについて、ブレジネフは「社会主義国全体の利益は一国の利益に優先する」という「ブレジネフ ドクトリン」なるものを発言したわけだが、たしかに、小さい一国だけで社会主義を実現するのは困難で、理想的な社会主義の社会を作ろうとしたならば、世界全体とまでいかなくても世界の多くの国が社会主義の経済体制の国として存在してこそ成り立つものではあるだろうから、「社会主義国全体の利益は一国の利益に優先する」という「ブレジネフ ドクトリン」というものはまったく見当はずれということでもないのかもしれないが、しかし、そうであったとしても、今現在はロシア連邦は社会主義はやめたはずであり、「社会主義国全体の利益は一国の利益に優先する」という「ブレジネフ ドクトリン」を今も適用させようとしても、それはまず理論としてあてはまらないはずなのだが、プーチンはKGB⇒FSB 出身ということで、これは日本で言うなら公安調査庁のようなもので、日本では公安調査庁は国家公務員1種試験合格者の勤め先としては財務省とかと比べると人気が低い方で、私が法務省にアルバイトで勤めていた時に守衛さんから教えてもらった話では、国家公務員のキャリアでも財務省とかは東大法学部卒でないとだめだが、法務省の場合は国家公務員1種ではなく司法試験合格で検事として採用された人が法務省の「キャリア」の扱いになり、司法試験合格者は国家公務員1種試験合格者ほどいっぱいいるわけではないので他の官庁と違って「東大法学部卒」ではなく「東大法学部卒もしくは京大法学部卒」ということになるが、公安調査庁とかはそれほど人気がないので東大法学部卒ではなく慶応大卒とかでも出世できる・・ということだったが、報道番組で舛添が言うておったのだがロシア連邦ではそうではなくて、KGB⇒FSB というのはロシア連邦では「エリート中のエリート」の評価だというのだが、「エリート中のエリート」にしては、このあたり、わかってないのかなあ・・・とどうも不思議に感じる。
次回https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/501457598.html は、キーウ他の歴史的建造物を大事にする心と人命を尊重する心は相反するものか共通するものか。湿地帯だったサンクトペテルブルクの建築、及、地盤調査と地盤補強を「要らない」と言ったり必要と言ったりする会社。イルクーツクのペリメニはおいしかった、マクドナルドなど「西側」のチェーン店が撤退してもロシア連邦の飲食店は存続するだろう。ユダヤ自治州の「ユダヤ人」は『聖書』の時代にユダヤ・イスラエル地区に住んでいた人の子孫ではなさそうーロシア軍のウクライナ侵攻に際してB【2/2】
(2023.11.14.)
☆ ロシア軍のウクライナ侵攻に際し建築屋的感想B
1.ロストフナドヌーとロストフベリキー、グムと赤の広場、ドン川・ドニプロ川・ドニステル川・ドナウ川の違い―ロシア軍によるウクライナ侵攻に際し建築屋的感想B【1/2】〔今回〕
2.キーウ他の歴史的建造物を大事にする心と人命を尊重する心は相反するものか共通するものか。湿地帯だったサンクトペテルブルクの建築、及、地盤調査と地盤補強を「要らない」と言ったり必要と言ったりする会社。イルクーツクのペリメニはおいしかった、マクドナルドなど「西側」のチェーン店が撤退してもロシア連邦の飲食店は存続するだろう。ユダヤ自治州の「ユダヤ人」は『聖書』の時代にユダヤ・イスラエル地区に住んでいた人の子孫ではなさそうーロシア軍のウクライナ侵攻に際してB【2/2】https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/501457598.html
☆ ロシア軍のウクライナ侵攻に際して建築屋的感想A
[第912回]《 ロシア軍のウクライナ侵攻に際して建築屋的感想【1】ポーランド色が強いリヴィウ、カルパチア山脈よりハンガリー側に国境があるウクライナとハンガリーの国境。【2】ドイツ人建築家ブルーノ=タウトの生誕地のケーニヒスベルク(カリーニングラード)はロシア連邦領になっている。アール=ヌーボーの画家ミュシャはポーランド人で「スラブ人」の意識がある。》https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202204article_1.html
[第913回]《ロシア軍のウクライナ侵攻に際して建築屋的感想【3】ロシア連邦から日本へ輸入される木材。【4】自然保護されるか。【5】ロシアの建築は魅力的だが行けなくなってしまった。天然木と造林木では事情が違うことすら理解できない国産材使用木造住宅建築会社の従業員。 》https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202204article_2.html
[第918回]《 ロシア軍ウクライナ侵攻により採用取消された在日ロシア人と「リフォームのナカヤマ」に採用取消された何年か前の私の話。後の就職席にまで誹謗中傷を加える卑劣な者。》https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202204article_9.html

物語 ウクライナの歴史―ヨーロッパ最後の大国 (中公新書) - 黒川 祐次

「シベリアに独立を!」――諸民族の祖国(パトリ)をとりもどす (岩波現代全書) - 田中 克彦
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