サンクトペテルブルクと飛騨高山の煥章館。建築における「出会いもの」。

[第2019回]
  『味いちもんめ』という板前さんを描いた漫画に、料理に「出会いもの」と言われるものがあると出ていたのを見た。これは、元々は産地も違うし性質も違うものを一緒に料理してみたら大変おいしかった・・ということで、2つの素材が「出会った」ことでおいしい料理ができたというものを言うらしい。 建築探偵団 としては、たまに建築に「出会いもの」のような経験をすることがある。あるいは、1990年代、(株)一条工務店https://www.ichijo.co.jp/ で福島県いわき市 の営業所に勤めていたが、いわき市という市は私がいた頃の人口は約36万人、2011年3月の福島第一原発事故の時には34万人と出ていて、今ではさらに減って、ウィキペディアーいわき市 を見ると、人口は321,486人 と出ています。36万人から34万人⇒32万人 と9分の1減った、原発事故の時点からだと18分の1減ったというのを多いと考えるか少ないと考えるか。それはさておき、「中核市」に指定された都市で、東北地方では人口で見ると仙台市に次いで2番目だったのですが、かつ、面積では「平成の大合併」でもっと面積の広い市がいくつもできて、かつて2位だった静岡市が清水市と合併して いわき市を抜いただけでなく、今では1位は高山市・2位は浜松市で いわき市は12位になりましたが、私がいわき市にいた1990年代においては いわき市が全国1位の面積だったのですが、そのわりに、知っている人とどこやらで出会うことが多い市だったのです。顔を合わせて、「あ、〇〇さ~ん」と声をかけてもらえればいいのですが、そうではなくて、「この間、〇〇さんを見た、見た」とか言われると、どこで見られたんだ、変なことしてなかったかと不安になりますが、その頃の時点で全国1位の面積の市にしては知っている人とその人と知り合った所とは全然関係がない所で会うことが多く、又、(株)一条工務店の来場客のお宅にお邪魔しても、「あんた、どこに住んでるの?」とか言われて、どこそこのあたりですと言うと、「あ~あ、うちの何々の所の近くだあ」とか言われ、なんだか「友達の友達は皆、友達だ」みたいな市で、東京や大阪とは違って匿名で生きることはできない、それこそ、いわき市の住人が言うておったのだが「ピンク映画なんか見に行ったら、入る所を誰に見られてるやらわからん」というそんな所だったのだが、「出会いもの」みたいにどこで出会うやらわからんので、出会って悪いわけではないのですが、東京や大阪で匿名で生活することに慣れた者には、地方都市では「え?」と思うことがあるようでした・・が、建築探偵団にとって、「え?」と思わぬ「出会いもの」に遭遇することがあります。今回は、サンクトペテルブルク(レニングラード)と岐阜県高山市の煥章館(高山市図書館・近代文学館)が思わぬところで「出会いもの」になった件について述べます。
  煥章館(高山市図書館・近代文学館)(高山市)については、  
[第469回]《 煥章館(高山市図書館・近代文学館)(高山市)と煥章館2階から見た東山-高山シリーズ第4回≪13≫》https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_25.html 
で述べましたので、見ていただければと思います。

  前回、[第2018回]《キーウ他の歴史的建造物を大事にする心と人命を尊重する心は相反するものか共通するものか。湿地帯だったサンクトペテルブルクの建築、及、地盤調査と地盤補強を「要らない」と言ったり必要と言ったりする会社。イルクーツクのペリメニはおいしかった、マクドナルドなど「西側」のチェーン店が撤退してもロシア連邦の飲食店は存続するだろう。ユダヤ自治州の「ユダヤ人」は『聖書』の時代にユダヤ・イスラエル地区に住んでいた人の子孫ではなさそうーロシア軍のウクライナ侵攻に際してB【2/2】 》https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/501457598.html でも述べたが、サンクトペテルブルク は1991年にソビエト連邦が解消されるまではレニングラード (「レーニンの都市」という意味)と言っていてて、さらに「人、悔いなし(1917)、ロシア革命」1917年のロシア革命より前は ペトログラード(「ピョートル大帝の都市」という意味)と言っていて、さらにその前はペテルブルクと言い、ピョートル大帝がスウェーデンとの戦争に勝ったぶんどった所、ネバ川の河口、バルト海に面した所に人工的に造った都市だったもののはずで、ソビエト連邦が解消されたことで「レニングラード」という名前を改めたとしても、だからといってまたもや「ピョートル大帝の都市」にすることもないのではないかとも思ったが、「サンクト(聖なる)」とついているところを見ると、「ピョートル大帝の都市」という意味ではなく「聖なるペテロの都市」という意味の名前にしたということではないでしょうか。ロシア語の「ピョートル」はイギリス語の「ピーター」で『新約聖書』の中の人名では「ペテロ」に該当しますから、「聖なるペテロの都市」という名前にしたのでしょう。
   そのサンクトペテルブルク(旧 レニングラード)ですが、一度、行ってみたいと何十年間思ってきて行けずにいた所でした。内井昭蔵『ロシアビザンチンー黄金の環を訪ねて(建築巡礼19)』(1991.1.30.丸善)では、モスクワと「黄金の環」と言われる コロメンスコエ・ザゴルスク・ペレスラブリザレッキ・ウラディーミル・スーズダリ・ヤロスラブリ・ロストフベリキー とキエフ、それにサンクトペテルブルク(レニングラード)と日本の豊橋ハリストス正教会・函館ハリストス正教会 が取り上げられて述べられていましたが、サンクトペテルブルクはネバ川の河口の湿地帯を受けて造られた土地に人工的に造られた街で、そこにイサク大聖堂とかエルミタージュ美術館など魅力的な建物があり、エルミタージュ美術館は価値のある美術品を所蔵する美術館で、ぜひ一度行ってみたいと長く思ってきた所でしたが、この内井昭蔵『ロシアビザンチンー黄金の環を訪ねて(建築巡礼19)』(1991.1.30.丸善)には、
《 レニングラードの町はヨーロッパの都市の中でも指折りの美しい町であると思う。その美しさは、無数に張り巡らされた運河とそれにかかる橋、十八世紀から十九世紀にかけて造られたバロック様式の建築群、ペテロ・パブロフスク要塞の塔、ネバ川と冬の宮殿と広場、などのつくりだす風景であり、これらは絵になる景観である。更にこれらの風景の背景には、多くの歴史や物語がかくされている。ドストエフスキーの『罪と罰』に出てくるラスコリーニコフの下宿、日露戦争前夜の広瀬武夫とアリアズナ・コパレフスカヤとの恋の物語などは、なんとなく暗いが甘酸っぱいロマンの香りがする。・・・ 》
と書かれている。
ロシアビザンチン―黄金の環を訪ねて (建築巡礼) - 内井 昭蔵
ロシアビザンチン―黄金の環を訪ねて (建築巡礼) - 内井 昭蔵
ドストエフスキー『罪と罰』はともかく、《 日露戦争前夜の広瀬武夫とアリアズナ・コパレフスカヤとの恋の物語》なんて、知らんで、そんなん・・・と思ったのだが、ウィキペディアー広瀬武夫 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%83%E7%80%AC%E6%AD%A6%E5%A4%AB#%E6%A0%84%E5%85%B8 によると、
《 広瀬 武夫(ひろせ たけお、旧字体: 廣瀨武夫、1868年7月16日(慶応4年5月27日) - 1904年(明治37年)3月27日)は、日本の海軍軍人、柔道家。日露戦争でのエピソード(後述)で知られており、特に戦前は軍神として神格化された。・・・
ロシア駐在中に社交界ではロシア海軍省海事技術委員会であり、機雷敷設の専門家であったアナトリー・コワリスキー大佐の娘・アリアズナ・アナトーリエヴナ・コワリスカヤと知り合い、文通などを通じた交友があったことも知られている。武夫の戦死を聞いた彼女は喪に服したといわれる。・・・
生涯独身であり、女性関係はあったものの極めて真面目で、遊廓に出入りすることも社交界で交際することも皆無だった。唯一の女性との関係はアリアズナとの文通であったという。・・・
長い間、アリアズナの父親はロシア海軍のコヴァレフスキー少将とされてきたが、2010年になって日露の研究者により、実際の父親は別の人物であったことが明らかとなった。》
と出ている。
《 1904年(明治37年)より始まった日露戦争において旅順港閉塞作戦に従事する。3月27日、第2回の閉塞作戦において閉塞船福井丸を指揮していたが、敵駆逐艦の魚雷を受けた。撤退時に広瀬は、自爆用の爆薬に点火するため船倉に行った部下の杉野孫七上等兵曹(戦死後兵曹長に昇進)がそのまま戻ってこないことに気付いた。広瀬は杉野を助けるため一人沈み行く福井丸に戻り、船内を3度も捜索したが、彼の姿は見つからなかった。やむを得ず救命ボートに乗り移ろうとした直後、頭部にロシア軍砲弾の直撃を受け戦死した。35歳だった。・・》
と日露戦争中に戦死した人で「軍神」という扱いを受けた人だったらしいが、『ロシアビザンチンー黄金の環を訪ねて(建築巡礼19)』(1991.1.30.丸善)の作者の内井昭蔵さんは1933年、満州事変の1931年の2年後に東京で生まれた人で、ウィキペディアー内井昭蔵https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%85%E4%BA%95%E6%98%AD%E8%94%B5 によると、2002年8月3日に69歳で亡くなったらしく、『ロシアビザンチンー黄金の環をたずねて』(1991.丸善)は58歳の時に発行された本で「終戦」か「敗戦」かの1945年においては12歳、戦前生まれの人で、戦前生まれの人にとっては「軍神」と称えられた人の話というのは「なんとなく暗いが甘酸っぱいロマンの香りがする」かもしれないが、戦後生まれ・「戦後民主主義」と言われる時代に育った私らにとっては知らんで、そんな人・・・てところ・・だけれども、ウィキペディアー広瀬武夫https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%83%E7%80%AC%E6%AD%A6%E5%A4%AB#%E6%A0%84%E5%85%B8 によると、その「軍神」という広瀬武夫さんは《 明治末期に、銅像が国内に3体建立された》らしく、
《 1905年(明治38年)3月、岐阜県高山市の城山公園中佐平に胸像が建てられた。
1910年(明治43年)5月に東京の旧万世橋駅前に銅像(杉野孫七像とあわせての群像)が建てられた。原型製作は渡辺長男、鋳造は岡崎雪声。1947年(昭和22年)に戦犯銅像であることを理由に東京都によって撤去された。銅像のあった場所は現在のJR神田万世橋ビル正面広場に当たり、そこには鉄道レールを用いた白い柱状のオブジェが建っている。
1912年(明治45年)5月に誕生地大分県竹田市に立像が建てられた。
上記の3体のうち、高山市の城山公園に胸像、竹田市の広瀬神社境内に胸像がそれぞれ現存するが、明治に建造されたものは戦時中に供出されており、2体とも復元である。》
というのだが、大分県武田市の立像があるのは、それはこの広瀬武夫さんという人が大分県武田市の生まれだかららしいが、岐阜県高山市の城山公園 に胸像があるというのは、どういう縁でなのかと思ったが、ウィキペディアによると、
広瀬武夫さんという人は《1868年、父広瀬重武、母トク(村田俊行の娘)として豊後竹田(現在の大分県竹田市)に生まれる。幼少時に母親と死別し、祖母に育てられる。竹田の自宅が西南戦争により焼失し、一家で飛騨高山(現在の岐阜県高山市)へ転居した。広瀬の父は岡藩権大属を退官したのち単身赴任で神奈川県などの裁判所を転々とし、飛騨高山の裁判所長になり、広瀬(武夫)は飛騨高山の煥章(かんしょう)小学校(のちの高山市立東小学校)を卒業し、小学校教師を務め、1885年(明治18年)に退職して攻玉社を経て江田島の海軍兵学校に入校、同時期に講道館で柔道も学ぶ。1889年(明治22年)に卒業(15期)。入学時席次は19番、卒業時は80人中64番(49番という説もある)。》
とあり、産まれたのは大分県の武田市だが、父親の広瀬重武が岐阜県高山市の裁判所長になり、広瀬武夫は高山市の煥章(かんしょう)小学校を卒業した人だそうで、その縁で高山市の城山公園に胸像があるということらしい。

  私は岐阜県高山市には何度も行ったことがあり、高山市の「さるぼぼバス」という市内の循環バスに乗って窓から外を見ていたら、由緒ありげな擬洋風建築が目に入り、これは何だろうと思ったら「煥章館(かんしょうかん)(高山市図書館・近代文学館)」だった。「煥章館(かんしょうかん)(高山市図書館・近代文学館)」については、
[第469回]《 煥章館(高山市図書館・近代文学館)(高山市)と煥章館2階から見た東山-高山シリーズ第4回≪13≫》https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201610article_25.html 
で写真入りで掲載したが、今現在の煥章館は図書館および近代文学館 であって小学校ではない。煥章(かんしょう)小学校の後身だという高山市立東小学校は高山市松之木町、高山市でも煥章館(高山市図書館・近代文学館)よりももっと東の方、大雄寺とか雲龍寺とかより東、大八賀神社より西のあたりにある。
   東京の有楽町駅の南あたりに、泰明小学校という小学校があって、たしか、小学生の制服を「アルマーニの制服」にするとか、慶應幼稚舎じゃあろまいし、アホか・・というようなことをやった小学校で、「これがアルマーニか、(ツンツン)」てことを小学生にする人も出現した・・とかインターネットに出ていた小学校だったと思うが、慶應幼稚舎が「アルマーニの制服」とかするならまだわかるが、公立小学校がそんなことやってどないすんねん、頭おかしいのじゃないか・・・と思ったが、都心部の小学校は入校者が少なくなってきたことに対して、何か対策を取らないと・・と思って考えたのが「アルマーニの制服」だとか、そんなことしか思い浮かばんのか・・と思ったが、銀座小学校とか有楽町小学校とかではなく「泰明小学校」なんて名前なんだろうかと思ったものだった。私は小学校の4年の途中で転校したのだが、小学校の前半に行っていた小学校およびそこを卒業した場合に行く中学校はその付近の地名を名前にしていた。4年の途中で引っ越した大阪府北部の市では小学校は東小学校・西小学校・南小学校・北小学校と東西南北を名乗っていて、中学校は第一中学校・第二中学校・第三中学校と第一・第二・・を名乗っていたのに対して、東京の有楽町駅の南、山手線の線路のすぐ東のあたりにある小学校は地名ではなく「泰明」小学校という名前で、なんで、この小学校はこういう名前なのだろうか・・と思ったのだが、明治の初めの頃に設けられた小学校は地名ではなくて、中国の漢語、論語・孟子・大学・中庸とかそういう四書五経みたいな書物にある言葉を学校名につけることがけっこうあったらしい。それで、「泰明」というのがどういう意味かよくわからないが、有楽町駅の南の「これがアルマーニか、(ツンツン)」を制服にしたという公立小学校の名前も「泰明」小学校 という名前だったらしい。ユニクロだって最近は「安い物」というわけではなくて、超高級ではないとしても無茶苦茶安いわけではないが、ユニクロの制服とか無印良品の制服とかならわからないこともないが、「アルマーニの制服」なんてものを小学生に着せようなんて「ほとんどビョーキ」みたいな発想・・というのか「慶應内部進学みたいな発想」する小学校なんか、私が親なら子供を行かせたくないが、そういう所に行かせたいと思う親もいるのかもしれない( 一一) インターネットで見たものによると、「慶應幼稚舎に行かそうとしたが落とされたという人が行く」そうだが、そういうものは私立の学校が作ればいいことで公立で第二慶應幼稚舎なんか作ってどないすんねんと思うが、理解に苦しむ発想をする人がいるようだ。
   それで、岐阜県高山市の高山市立東小学校 は、ウィキペディアー高山市立東小学校https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%B1%B1%E5%B8%82%E7%AB%8B%E6%9D%B1%E5%B0%8F%E5%AD%A6%E6%A0%A1
は、いろいろな経緯を経て現在の状態になっていて、煥章(かんしょう)小学校がそのまま名前だけ変えたということではないらしいが、煥章(かんしょう)小学校も、たぶん、中国の古典の何かにある言葉を校名にしたのではないかな・・・。

  高山市の煥章(かんしょう)館はかつての小学校の建物がそのまま残っているわけではなくて、鉄筋コンクリート造による復元だが、なかなか素敵なデザインのものだ。

  広瀬武夫さんの胸像は《岐阜県高山市の城山公園中佐平に》あるそうだが、私は高山市の城山公園はその北のあたり、照蓮寺のあたりにだけ行ったことがあるが、私が行ったあたりにはなかった。城山公園の北のあたりにだけ行った時、もうちょっと中南部にも行ってみようかという気持ちもあったのだが、なにしろ、「熊 出没注意!」なんて書いた看板が出ていたので、それでやめた。「注意」しろと言われても、だ。やく みつる が道路標識で「落石注意」というものがあるが、上から落ちてくるものを、いったいどう注意しろと言うんだよお・・とどこでだったか書いていたが、それと同様というのか、それ以上というのか、狸とか栗鼠とかならともかく、鹿とか猿くらいならまだしも、熊なんてもの、出没したとして、そこからいったいどう注意しろってんだよお・・・てもので、その時は冬で雪も積もっていた時だったので、もしも、行くにしても、夏場でその時よりももっと人がいっぱいいる時に行くようにしようと考えた。大阪府箕面市の「箕面の猿」は狂暴だと有名だったが、猿にエサをやると罰金という条例ができて、それまでほどは人が普段いる所には出てこなくなったが、たとえ、狂暴でも猿くらいならまだしも、熊なんて、力石徹ならボクシングの練習相手にいいと考えてパンチで倒すかもしれんが、こちらは力石ではないから、やっぱり建築屋は「安全第一」なので退散した。
※ 高山市HP 城山公園 https://www.city.takayama.lg.jp/shisetsu/1004139/1000036/1001575.html
   インターネットで検索すると、《【飛騨高山と広瀬武夫】 日露戦争の軍神が少年時代を過ごした城下町》https://re-try.info/hida-takayama-hirose-takeo/ に、
《 高山市内の中央部にある小高い山、高山城址にある城山公園。
その入り口の前を右手に進み左手にある「照蓮寺」を過ぎると高山市街を見下ろす小さな広場「中佐平」があります

ここに広瀬中佐の胸像があります。》
と出ていました。 夏場なら、それほど熊を心配しなくて良さそうな場所にあるみたいですので、高山城主だった金森長近の像もあるという高山城の城址である城山公園に、高山に行く時には足を運んでみたいと思います。
  高山市の城山公園付近については、
[第746回]高山別院でない方の光曜山照蓮寺。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202002article_11.html
[第747回]護国神社+『まれに見るバカ女との闘い』、雪かきする女性に敬意を表したい。 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202002article_12.html


  さらに、もうひとつ「出会いもの」。 東京に攻玉社高校という私立高校があって、慶應大学でステューデントカウンセラーズというサークルに入っていた時、その攻玉社高校卒の男がいて、周りの人間が「右翼の高校だ」と冗談みたいに言っていたことがあって、私はそうであるのかないのかよく知らなかったのですが、ウィキペディアー広瀬武夫 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%83%E7%80%AC%E6%AD%A6%E5%A4%AB には、
《 広瀬(武夫)は飛騨高山の煥章(かんしょう)小学校(のちの高山市立東小学校)を卒業し、小学校教師を務め、1885年(明治18年)に退職して攻玉社を経て江田島の海軍兵学校に入校、同時期に講道館で柔道も学ぶ。》
  たしかに、「軍神」という広瀬武夫さんは「攻玉社を経て江田島の海軍兵学校に入校」したそうで、「右翼の学校」だと言う人がいるのも、そうなのか・・とも思えてくる。
  ウィキペディアー攻玉社中学校・高等学校 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%94%BB%E7%8E%89%E7%A4%BE%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E3%83%BB%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1 によると、同校は東京都品川区西五反田5丁目、東急目黒線「不動前」駅の南のあたりにあるらしく、
《 江戸時代末期の1863年(文久3)年、当時軍艦操練所翻訳方として江戸幕府に仕えていた近藤真琴(後の明治六大教育家の一人に数えられる)は開国して間もない日本が独立・発展するには外国の学問を謙虚に学ばなければならないと痛感し、江戸藩邸(現在の四谷)に蘭学塾を開設。当初は名を持たなかったが、間もなく「為錯塾」(いさくじゅく)と名付けられた。これは詩経の「他山の石以って錯(やすり)と為すべし」という言葉に由来する。》
《 1869年(明治2年)「攻玉塾」に改称し、築地海軍操練所(のちの海軍兵学校)内に移転。1871年(明治4年)、芝新銭座(現:浜松町)の慶應義塾跡へ移転。1872年(明治5年)、文部省より学制が頒布され、「攻玉社」として、改めて開学。明治初期には慶應義塾、同人社(のち明治20年代に廃校)と併せて「三大義塾」として並び称された。・・》
という学校だったらしい。
《 校訓 誠意・礼譲・質実剛健 》だそうだが、「誠意」はともかく、「礼譲」は漢語調で、「質実剛健」は私立男子校的で、礼譲にしても質実剛健にしても、悪いということはないが、なんか戦前の海軍兵学校とかに通じるものがありそうなにおいがしないこともない。

  江田島というと、内田康夫『江田島殺人事件』で取り上げられている。
江田島殺人事件 (講談社文庫) - 内田康夫
江田島殺人事件 (講談社文庫) - 内田康夫
  内田康夫については、
☆ 内田康夫 追悼
1.旅情と人間関係と推理、刑事をヒーロー扱いしない推理小説、実際にありそうな話 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201804article_12.html
2.「巡査長」「部長刑事」「確保」とは。日本の警察は優秀か無能・有害か。対警察防衛。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201804article_13.html
3.警察がしかるべく仕事をするか?、刑事ヅラ、でっち上げ、誘導尋問、別件逮捕・・ https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201804article_14.html
4.警察に情報提供すべきか?「第一発見者」の恐怖。「善良な市民」とは?https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201804article_15.html
5.誰でも「心不全」「心身耗弱」。内田康夫の問題点。警察に甘い評価もある。  https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201804article_16.html 
 内田康夫の作品で高山が登場するものとしては『風の盆 幻想』があり、
高山シリーズ第5回
[第590回]1.内田康夫『風の盆 幻想』と巡る高山(1)喫茶店「ロスト」を探す https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201710article_5.html
[第591回]2. 同 (2)高山ラーメン https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201710article_6.html 
[第592回]3. 同 (3)「高山の郊外にあるK病院」https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201710article_7.html
[第593回]4. 同 (4)高山市役所 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201710article_8.html
で写真入りで述べたが、『風の盆 幻想』には高山は登場するが広瀬武夫の胸像があるという城山公園は登場しない。
風の盆幻想 (実業之日本社文庫) - 内田 康夫
風の盆幻想 (実業之日本社文庫) - 内田 康夫

  遠藤周作『口笛を吹く時』では、それほど進学校ではなかった時代の灘高校で、付近の女子高の生徒が海軍兵学校卒の男と結婚するみたいだと知って、自分も海軍兵学校に行くと言い出して必死で努力する男の話、特に江田島の海軍兵学校はお勉強だけではなく体力試験もあり、体育に自信がある方ではない人間だったのにそれでも自分も海軍兵学校に行くんだと必死で努力する男の話が載っている。その際、『受験の国語 学燈』(学燈社)を使って学習する話が出ているが、残念ながら私が高校生だった1970年代後半においては発行されていた月刊誌「受験の国語 学燈」は今は廃刊になってしまったらしい。悲しい。
口笛をふく時 (講談社文庫) - 遠藤周作
口笛をふく時 (講談社文庫) - 遠藤周作
都市地図 岐阜県 高山・飛騨市 白川郷 (都市地図 岐阜県 8) - 昭文社 地図 編集部
都市地図 岐阜県 高山・飛騨市 白川郷 (都市地図 岐阜県 8) - 昭文社 地図 編集部
ことりっぷ 飛騨高山・白川郷 - 昭文社 旅行ガイドブック 編集部
ことりっぷ 飛騨高山・白川郷 - 昭文社 旅行ガイドブック 編集部

 (2023.11.19.)




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