「新興宗教」を離脱しても精神構造が変わらないから別の「新興宗教」に入る人。「聖教新聞を購読しろお」と追いかけてくる人。「聖教新聞は絶対に嘘は書かない」と言う「創価学会のおっさん」と「アムウェイは絶対に悪いものは売らない」と言うアムウェイ信者。「私はシルバーだからゴールドかプラチナの人の話を聞いてほしい」と言うアムウェイ男と原理研究会。最初から闘争的・戦闘的だった『法華経』信者と日蓮。池田大作氏の死去に際して。

[第1020回]
  創価学会の会長かと思ったら「名誉会長」だったらしい池田大作が他界した。お葬式の際に口にされる言葉として「いい人に限って亡くなってしまいますね」という言葉があるが、それは亡くなった人について、もっと長生きしてほしい人だったのに・・ということを言っているわけですが、言う相手が年配者である場合には、うかつにこの文句を言うと「長生きしてえらい悪かったなあ」ということにもなるので言い方に注意しなければならない。人によっては、むしろ、「おまえはまだ死なんのか」という意味で言う人もあるかもしれない。 池田大作は95歳だったそうで、一般的には長生きした年齢になる。地方によっては「餅まき」する年齢である。
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(「朝日新聞」2023.11.19.(日) 1面)
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(「日本経済新聞」2023.11.19.(日) 1面)
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(「日本経済新聞」2023.11.19.(日) 5頁)
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(「日刊ゲンダイ」2023.11.22.(水) )
創価学会(新潮新書) - 島田 裕巳
創価学会(新潮新書) - 島田 裕巳
  創価学会というのは、最初は創価教育学会と言って、学校の先生の団体だったというが、だんだんと変質して、学校の先生はあんまり関係なくなったようで、逆に創価学会に入っている人というのは現在の日本ではどちらかと言えば教育水準は高くない方の人に多い団体になった。難儀なのは、その「教育水準が高くない人」が折伏しようと押しかけるような態度をとることが多く、職場でなかったらまだしも逃げることができるのだが、職場に創価学会の人間がいると逃げようとしても、そこに行かないわけにいかないし、又、それを利用して「聖教新聞を購読しろおお」とストーカーになって追いかけてくる・・( 一一) かつ、そういう人はそれを正しいおこないをしていると信念持っているというのが難儀な点だった( 一一)
  2001年、(株)一条工務店https://www.ichijo.co.jp/ の栃木県佐野市の営業所で、「高木のおっさん」(男。2001年j当時、50代なかば。元自衛隊、元トヨタカローラ。創価学会員)が「聖教新聞を購読しろお~お」と言って追いかけてくるので、困った( 一一)  普通、会社はそういう人がいると「高木さん、そういうことはやめてください」と注意するものだが、(株)一条工務店 という会社は保護義務違反の会社であり「保護義務違反の(株)一条工務店」だったので、そういった人を注意せず、注意しないということは「結果として『聖教新聞を購読しろお~お』と叫んで追いかけてくる人とそのような行為を保護していた、というものだった。そこが職場でなければ、そういう人とはつきあいたくないと判断して、その人とはつきあわないようにして、なおかつ、その人と会うことになる場所には行かないようにすることもできるのだが、ところがどっこい、職場の場合はそこに行かないわけにいかない、という点が困ったところで、なおかつ、そういった「新興宗教の信者」の人というのは、そこが職場なので相手はどんなに嫌がってもここに来ないわけにはいかないと思って、その条件をフルに活用して「聖教新聞を購読しろお~お」というのをやるので、それが難儀だ。
  今は昔、1980年代のことだが、慶應大学の教養課程の日吉キャンパス(横浜市港北区)で、学部掲示板の所でレポート課題の内容を書き写そうとすると、原理研究会(=国際勝共連合=統一神霊協会)の人間が寄ってきて話しかけてくるのだったが、原理研(原理研究会)の人間が誘うのがいかんと言う人がいたが私は誘うのは別に誘ったっていいじゃないか、私は入ろうとは思ってないけれども、誘われてそれに入る人は自分自身の判断で入っているのだから好きに入ればいいじゃないかと思っていた。むしろ、原理研がけしからんと言う人がいたが、どういうことを言っているのか聞いてみようかと思っていたくらいだったのだが、だから、レポート課題を書き写したら何を言うのか聞こうと思ったのだが、ところが横から邪魔してきて書き写せないようにするし、さらには掲示板とこちらの間の位置に入ってこようとする。「すいません、ちょっと待ってもらえませんか」と言っても、それでもレポート課題を書き写すのを妨害するのだった。その時、私は今よりもおぼこかった・・と思う。この人たちはこちらがレポート課題を書き写そうとしてここにいるということはわかっているはずなのだから、それほど長時間かかるものでもないのだから、こちらが書き写すのを待って、書き写したら話も聞けるのだから、それを待ってくれればいいのに、なんで、こちらがレポート課題を書き写すのを妨害するんだと思ったのだったが、今から考えてみると、そうではなく、彼らは私がレポート課題を書き写し終えたら帰ってしまうが、レポート課題を書き写すのを妨害して書き写せないようにすれば、その間、そこにいるから無理矢理にでも話を聞かせることができると考えて意図的に妨害していたのだった。まず、原理研究会の人間はそのあたりの「マナーの悪さ」というものを反省してもらいたい・・と思うが、しないだろうな。
  似たものに、1970年代後半、私が高校生だった時、大阪府の阪急の駅の前で、高校からの帰宅時、駅前で部落解放同盟の人が「石川青年は無実だ」と書かれたビラを配っていたので受け取ったところ、その人(男。1970年代後半時、30歳くらい?)は署名板を出して「署名してください」と言うので、「私はこの問題についてよく知らないのです。だから、考えさせてください」と言ったところ、「どうして署名しないのですか。あなたは石川さんが有罪だとでも言うのですか」と言い、「ですから、私はこの問題についてよく知らないので、だから、このチラシを見せてもらって読ませてもらって考えようとしているのです。それからにしてください」と言って帰ろうとしたのですが、ところが私の進路に立ち塞がって通れないようにして、「だから、どうして署名しないのかときいてるのでしょう。無実の石川さんを処罰したくないなら署名するべきでしょ」と言うのですが、「ですから、私はこの問題についてよく知らないから、だから、これを読ませてもらって考えようとしているのです」と言ったのだが、「だから、署名すればいいでしょ。どうして署名しないんですか。署名しない理由は何ですか。あなたは無実の石川さんを処罰したいのですか」と言い、「ですから、そんなこと言ってないでしょ。私はこの問題についてよく知らないから、だから、これを読ませてもらって考えようとしているのです」と言ったが、「だから、署名してくださいと言ってるでしょ。署名しないということは無実の石川さんを処罰したいということですね」と言い、「そんなこと言ってないでしょ」と言っても、「だから、署名してくださいと言ってるでしょ」と言い、よけて帰ろうとするとこちらの進路の前に立って帰らせないようにするのでした。私はきっちりと説明しているのに、どうしてこの人はわかってくれないのかとその時は思ったのでしたが、それから何年か経って、そうではなく、あの男はこちらの前に立ち塞がって帰れないようにすることで無理矢理署名させようとしていたと気づきました。根負けして、その時は署名してしまいましたが、狭山事件については、今では私は何冊か狭山事件に書かれた本を読みましたが、石川さん(私より年上の人で今では「青年」ではありません)を犯人ではないかと考えるのは相当無理があるように思えますが、部落解放同盟の人は石川さんが被差別部落出身の人だったから犯人にしたてられたのだと言うのですが、しかし、片方で石川さんは被差別部落出身の人だったから部落解放同盟などが支持者となって動いてくれたという面もあるはずです。私が石川さんの立場だったら部落解放同盟は動いてくれなかったでしょうし、そのように支持して動いてくれる団体なんかありません。又、部落解放同盟は小学生にも「石川さんは無実だ」といった帽子をかぶらせたりゼッケンとかつけさせたりしていたようですが、実際にどうであったのか自分自身で考えもしないでそのような行動をさせるといったことは、それは石川さんが無実であるからそのような行為が適切かというとそうは言い難いように思えます。そして、部落解放同盟のそういった行動は、むしろ、被差別部落出身者が本当に犯人である場合でも捜査しにくくなることにもなります。なにより、そのビラを読ませてもらって、その上で署名するなら署名しよう、署名はやめておこうと考えたならやめようと考えている人間に対して、進路に立ち塞がって通れないようにすることで無理矢理署名させてやろうというそのやり方というものは、そういうことをする人には今後はその署名してくれと言っている内容がもっともなものである場合でも署名は断固として断るべきだと思うようになりました。それまで、私は部落解放同盟の人に対して特にマイナスの印象は持っていなかったのでしたが、その経験により部落解放同盟の人間と「石川青年は無実だ」というビラを配っている人・幟を立てている人というのは要注意だと思うようになりました。部落解放同盟が集めた「署名」にはこのような「無理矢理書かせた署名」が含まれています。
  それで、「創価学会のおっさん」が「聖教新聞を購読しろお」と職場でやるというのも、職場というものは仕事をする所であり、休憩時間とかに勧誘しても悪いということはないとしても、職場であるからには相手はそこに来ないわけにはいかない場所なのだから、その点を考えて、マナーとして相手が嫌がっているならやめる、誘うくらいは誘ってもいいが強制してはならない、といったそういったマナーはわきまえないといけない、それを理解できない「高木のおっさん」は困った人だなあ・・と思ったのでしたが、後から考えてみると、そうではなくて、↑ に述べた原理研究会(原理研)の人間や部落解放同盟の人間と同じく、職場であるからには相手はどんなに嫌がってもそこに来ないわけにはいかないのだからと意図的にやっていたのではないか。
  ほんと、聖教新聞の押し売りはいやだ。本当にいやだ。かつ、相手がその「聖教新聞の押し売り」をされることを嫌がってると思うと、ま~すますその嫌がることをやってやろうという気持ちになる創価学会員の体質・精神構造というものがいやだ( 一一)
  (株)一条工務店の場合、「中卒高卒優先主義の会社」だったので、その結果としてそういう「聖教新聞を購読しろお~お」といったことを職場でやるべきではない、ひとに勧めるくらいはしてもいいが、相手が嫌がっているならそれ以上はやめた方がいいといったことを理解できない人が多い会社 になっていた。むしろ、(株)一条工務店の一族経営者はそういう人間が好きみたいだった( 一一)  YouTube で大川隆法の息子が、幸福の科学とオウム真理教には似たところがあるけれども、幸福の科学はオウム真理教のように犯罪で何人もが逮捕されて有罪判決を受けるといったことにはならないというのはどうしてでしょうかときかれて、「それは、大川隆法はなんだかんだ言っても東大でてますから、これ以上はやったらまずいとかいう判断ができるのだと思います」と言っていたが、(株)一条工務店にはそういう判断ができない側の人間というのが大変多かったのだ( 一一) ( 一一) ( 一一)
  相手が嫌がっているのに嫌がれば嫌がるほど無理矢理やりたくなる・・という、そういう「無理矢理やるのが好きなタイプ」というのは職場においてはよくない(職場でなくてもよくないのだけれども)ということを理解できない人というのが幅をきかせるようになる。・・「無理矢理やるのが好きなタイプ」「相手が嫌がれば嫌がるほどやりたくなるタイプ」というのは、嫌いなんだよ、そういうおっさん( 一一) と思うのだが、なにしろ、創価学会のおっさんてのは、嫌がる相手を「折伏」するのが正義だと思っておるので、どうしようもない。ほんま、難儀やった( 一一) 聖教新聞の押し売りは嫌いだ( 一一) ほんとに、ほんとに、嫌いだ( 一一)
また、「高木のおっさん」は(株)一条工務店での職種は営業だったのだから、まがりなりにも営業ならば、そういう売り方はだめですよ、人に何かを買ってもらおうと勧めようとするならば、相手が嫌がることをやって、ますます相手が嫌がれば、それ以上にますます嫌がることをやってやろうというそういう姿勢は営業としてはだめですよ・・・と理解して良さそうなものだが、理解しないのが「高木のおっさん」だったのだ。そんな営業あんのけ? ・・と思う人もいるかもしれないが、(株)一条工務店の経営者というのは、どうも、そういう人間が好きみたいだった( 一一)

  (株)一条工務店https://www.ichijo.co.jp/ のその佐野営業所に入社してきたK保(男。2001年当時、30代半ば過ぎ)は前職として自民党系の議員の「秘書」をやっていたことがあったそうで、「政治家の秘書」と言うと、権謀術数を使い「政界のフィクサー」とか「根回し」とか「陰の実力者」とか、そういうことでもやってる人相からしてカタギでなさそう怖そう、いかにも悪いことやってそう、顔で判断するなら絶対悪者!・・というそういう人かと考えがちだが、K保の場合は、政治的意識は「観念的保守」みたいなところで骨とか気概とかあるようなタイプではない男で「革新」とか「改革派」「進歩派」になる可能性はなさそうな男だったが、「とろそう」な印象の男であり、およそ、「政界のフィクサー」だの「闇社会に通じている」だのというようなそんな感じでなかったが、「秘書って何をやってたの?」と尋ねたら、運転手だったそうだ。そのK保から聞いた話だが、定数が2以上の選挙区で自民党の候補者が2名以上出ている場合、選挙終盤になって、どうも当落線上のようだという場合、あと少し票を取らないといけないという時に、自民党の候補者というのはどこの票を取りにいくか? ・・というと、「ガチガチの共産党の支持者」の票なんて自民党の候補者が取れるわけないので、そうなると、取りにいくのは「同じ自民党の候補者の票か、保守系無所属の候補者の票か」ということになる・・らしい。何年前だったか、選挙の時、新聞を見ていたら、何新聞だったか忘れたが、自民党のある候補者が「共産党を当選させることあるとも(同じ自民党の候補者の)▽▽だけは絶対に当選させてなるものかあ~あ!」と選挙事務所で叫んでおったとか・・・。自民党のおっさんてのは・・おもろいな( 一一)  それに対して、「創価学会のおっさん」てのは「自民党のおっさん」とは違うみたいで、選挙終盤になると共産党の候補者の選挙事務所に「聖教新聞を購読しろお」と言って押しかけていくとかいう話を聞いたことがあるのだが、なにしろ、創価学会の場合は「仏敵(ぶってき)」「折伏(しゃくぶく)」しないといけないという思想があるみたいで、なおかつ、誰が「仏敵」かというと自分が気に食わない相手は「仏敵」だから、いつ、「折伏」に来られるやらわからんし、そういう時に一番ポピュラーな文句が「聖教新聞を購読しろお~お」みたいで( 一一) 、それをされると、もともとは創価学会の信者でもなく公明党の支持者でもないが「聖教新聞」というものに特にマイナスの印象を持っていたわけでもなく創価学会や公明党の支持者ではなくても特に嫌っていたわけでもない私のような人間が、それをされたことで「聖教新聞」というものに嫌悪感を持つようになるのだが、そういうことを理解できないのが「高木のおっさん」など「創価学会のおっさん」だったようだ。彼らは聖教新聞の読者を増やしたいのではなくて、嫌がる人間に「聖教新聞を購読しろお~お」とやることに快感を覚えているのではないか、彼らにとってはそれがエクスタシーなのではないかな・・( 一一)
  それと、「高木のおっさん」は選挙があると「〇〇さん、公明党に入れないとだめだよ」「選挙は絶対に公明党に入れるんだよ、ほかの所に入れちゃだめだよ」としつこい しつこい しつこい しつこい しつこい しつこい・・・( 一一) もう、いやっ( 一一)
ジャン=ポール=サルトルはフィリップ=ガヴィ・ピエール=ヴィクトールとの鼎談『反逆は正しい』(人文書院)で、(フランスの)共産党の人間と話すと、サルトルは自分自身が考えたこと思ったことを述べるのに対して、共産党の人間というのは常に「党の見解」を述べるということを指摘していた。その「党の見解」がもっともなものであることもあるとしても、自分で考えずに常に「党の見解」を述べる人間というのは、人間のあり方としていかがなものかとサルトルは考えたようだった・・が、これはフランスの共産党だけではなく日本の共産党の人にもあてはまる場合があるのではないか・・とも思えるのだが、しかし、それにしても、共産党の人の場合はともかくも「党の見解」というものがあってそれを述べるわけだが、それにしても「創価学会のおっさん」の場合はその「党の見解」というものもないのだ。ともかく「〇〇さん、公明党に入れないとだめだよ」「選挙は絶対に公明党に入れるんだよ、ほかの所に入れちゃだめだよ」とそればっかりで しつこい しつこい しつこい・・というのは、それは相手も創価学会員である場合にはそれでも入れてくれるのかもしれないが、相手が創価学会員ではなく特に公明党に敵対しているわけではないが特に公明党の支持者というわけでもないという相手の場合には、それは効果はないし効果がないだけではなく、元々は特に公明党の支持者ではなかったけれども公明党に特にマイナスの印象を持っていたわけでもないという相手を公明党に対して嫌悪感を持たせてしまうことになってしまうもしも、創価学会員でもなく特に公明党の支持者でもないという人に公明党に入れてもらおうとするのならば、「・・という問題について公明党はこういう主張をしています。それを実行したならば・・のような効果があります」といったことを言うべきで、それを言わずに「〇〇さん、公明党に入れないとだめだよ」「選挙は絶対に公明党に入れるんだよ、ほかの所に入れちゃだめだよ」としつこい しつこい しつこいで、「聖教新聞を購読しろお~お」と「折伏」しようというのでは、むしろ、公明党を嫌いにさせてしまう方向にその行為ははたらく・・が、あの「聖教新聞を購読しろお~お」と嫌がる相手にやるのは、あれは「エクスタシー」を感じている、あれやることに快感を覚えているのではないか。そうとしか思えない( 一一)  ほんま、「創価学会のおっさん」はかなわんわあ・・・( 一一) もう、いやっ!

   あの「待てえ~え、聖教新聞を購読しろお~お!」と叫んで追いかけてくる・・というのは、創価学会ではああいうのを奨励しているのかもしれんが、迷惑なのでやめてほしい・・・と思うのだが、「無理矢理やるのが好きなタイプ」の人・「無理矢理させるのが好きなタイプ」の人は相手が嫌がっていると思えば思うほどそれをやりたくなる・相手が嫌がっていると思えば思うほどさせたくなるみたいなのだ・・( 一一) 〔そういうタイプの人は、そういうお店にでも行ってやってもらった方がありがたい。〕 難儀やわあ、もう、ほんと、もういやっ!!!
「無理矢理やるのが好きなタイプ」の人というのは、そういうお店にでも行ってやってもらった方がありがたいのだが、職場で「聖教新聞を購読しろお~ろ!」とやるのだ( 一一)  それをやるのが「創価学会のおっさん」にとっての「信仰」なので、「そういうのはやめてください」なんて、もしも言おうものなら、ま~すますファイトが湧いてくるみたいなのだ。「仏敵(ぶってき)」を「折伏(しゃくぶく)」しなければならないといいう使命感が湧いてくるみたいなのだ( 一一)  難儀やわあ、ほんまあ・・・( 一一)

  「創価学会のおっさん」はなぜ嫌がる人間の後を追いかけまわして「聖教新聞を購読しろお!」てやつをやるのか。 これには日蓮宗・法華宗の特徴がひとつの原因としてあると思われる。
  渡辺照宏『日本の仏教』(1958.1.25.岩波新書)を見ると、
《  この経(法華経)の要旨を述べると、ある日シャーキャムニが三昧(瞑想)に入ると、不思議な現象があらわれた。弟子たちが驚いてその理由をたずねる。そこで仏陀が答えていうには、従来自分が説いてきた小乗の説は実はかりの教えで、本当の教えは、これから述べる大乗である。「シャーキャムニが人間として生まれ、ガヤーの近くの道場で悟りを開いて仏陀になった」と人々は信じているが、実は仏陀は限りない昔から仏陀なのである。不生不滅である。ただ衆生をはげますために、入滅の姿を示すだけである。・・・》
《  『法華経』の要旨はこの一点に尽きる。あとはいろいろの角度から、久遠実成(くおんじつじょう)なる仏陀の徳の賛美、弟子たちが将来仏陀になるという預言、塔を立て仏像を作ることの功徳、この経典を受持・書写・読誦・解説・修行することの功徳などを述べている。こうしたことは他の大乗経典にもあることで、珍しくないが『法華経』の特異性は『法華経』自体の極端な讃美である。『法華経』の本文の中に、この経は「諸経の中の王」だと書いてあるのであるから、常識ではわりきれない。『法華経』という名の経典を讃美するとすれば、それ以前にすでにその名の経典が存在していなければならないはずである。こういう常識を無視した述べ方はこの経の所々に見られる。
  この『法華経』がもっともすぐれた経典である以上は、この経典を受持するものには、報償が約束される。・・・・・
  したがって『法華経』を供養するためには何物も犠牲にして惜しくはない。・・・
  『法華経』を受持するものには功徳が約束されるかわりに、「『法華経』を持するものを、もし悪口・罵詈・誹謗することあらば、大いなる罪報を獲る」わけである。しかしこの経を受持するものは当然、迫害を覚悟しなければならない。

・・・・ 》
《  このような迫害は、すべて未来の出来事として『法華経』に説かれているが、広く宗教文学の例から考えると、これは経典成立当時の事実、または間近い可能性を描写したものと見た方が妥当であろう。つまり現存のような『法華経』が作られたころに、このような迫害の事実があったものと考えられる。そうして見ると、この本文は問わず語りで、この経典の成立の事情を明らかにする。
  すなわち、いつの頃か『法華経』の原型にあたる特殊な信仰形態を持った一つのグループが存在していた。彼らは「この教えを信仰し、宣伝に協力するものは、すべての苦しみを逃れ、病気も治り、火にも焼けず、水にも溺れない」と言って信者を集めた。その信仰の強さを示すために、自分の身体に油をそそいで火をつけるものさえあった。その執拗さに耐えかねた人々が、それを非難すると「法難だ」と叫んで、ますます結束を固くした。そして自分たちで『法華経』という名の経典を作製した。一般の人々、ことに仏教の正統派の僧侶たちは大いに迷惑して国王・大臣・僧侶・一般市民に訴えた。しかしこの狂信グループは「命もいらぬ、教だけが大切だ」と叫んでますます活動を続けた。こうしてグループは発展し、『法華経』も新しい章節を書き加えて現在見るような形が成立した。
  これが、経典そのものから読みとれる『法華経』の成立史である。またもし、この経典自体のうちに見られる社会的特異性が認められるとすれば、『法華経』がインドの正常社会においてではなく、特殊な環境で発生したのかも知れないという可能性さえ出てくる。》
《   すべての大乗経典は、多かれ少なかれ小乗を否定する立場にたつが、『法華経』ほどに排他的、闘争的なものは少ない。『華厳経』は場面を非現実的な場所において、小乗の徒と正面衝突することを避け、『維摩経』は彼らの偏見を嘲弄しながらも相ともに語り、アミダ仏の経典でも、アーナンダやシャーリプトラが主な聞き手になっている。『法華経』の方ははじめから聴衆のうちの五千人が席を立ち、しかもその五千人を「衆中の糟糠[かす]なり」と言って罵っている。非協調的なことははじめから明らかである。
  このような特殊事情のもとに成立した『法華経』も、何世紀かたつうちに、大乗経典として承認されるようになった。特殊グループの聖典が一般教会によって摂取されるのは、宗教史のうえで珍しいことではない。グプタ王朝のはじめ頃までにはその融合が成立したことと思われる。
  しかしインドでは『法華経』を中心とする学派は遂になりたたなかった。この経典は「文芸の作品のうちでは最も手ひどく考へることを拒絶する種類のもの」(和辻哲郎)であるから、インドの仏教哲学者たちは『法華経』をあまり重要視していない。・・》
《  東アジアに来ると事情がまったく変わってきた。五世紀のはじめクマーラジーヴァによって訳された『法華経』ほど、中国や日本で人気のある経典はあるまい。上に述べたような呪術性・狂信性・庶民性が人々の心を捉えたのである。その流行は、大衆的な信仰と、註解的研究との両方にわたる。
  上に述べた『薬王本事品』の故事にならった<焼身>という自殺行為は、南北朝の初期ごろから始まったらしく、451年という記録の例がある。焼身はその後も引続いて行われ、唐の義浄も<焼指・焼臂・焼身>の弊害を説いているが、宋代にいたってもなお行われていた(983年の記録がある)。
  この習慣は日本にも伝わり、973年に死んだ興福寺のある僧侶は「皮をはぎて、指をともした」と言われ、その少し前に「薪を積んで内に入りて自殺」した法華行者がいた。
  中国には『法華経』を読誦した人たちの奇瑞の話も少なくない。『高僧伝』などによると、白馬寺で毎日この経典を読んでいた僧侶が神祠に迎えられて読経し、神から礼物を貰ったとか、山中で誦経していたら虎が来ておとなしく聞いていたとか、いう類の説話がある。また『法華経』を読んでいたものは死後、土葬にしても火葬にしても舌がもとのまま残っていたという話も多い。死んでから「口中に青色蓮華七茎を出した」という例もある。誦経というのは他の経典のこともあるが『法華経』の奇瑞がもっとも多い。<持経者>といえば多くはこの経を信仰読誦するものをいう。このたぐいの説話は日本でも奈良朝以来例が多い。
・・・・ 》
《  教学的な天台学とは別に法華信仰のながれがあった。前に述べた焼身者のほか、持経者とよばれる法華信仰者が奈良朝ごろから鎌倉時代にかけて大ぜいいたことは、記録や物語文学に記されている。それは宗派や教理を超越し、ひたすら『法華経』の霊験を信じた人たちであった。たとえば、十一世紀はじめごろ活躍した祈親上人定誉は法相宗を学び、高野山を再興した人であるが、持経者として著しい。そのほか有名無名の持経者がいて、中世紀を通じて、念仏者と平行的に発達していった。これらの持経者の総決算が、東海の漁村に生まれた情熱漢 日蓮なのである。
  日蓮については上にしばしば触れた。彼の立場を要約すると次の二点になる。
 (一)仏教最高の真理は釈迦牟尼仏の真説である『法華経』である。
 (二)この経典を解説した智顗と最澄は最大の仏教者であり、日蓮自身はそれを末法の世に実行し宣伝する最大の適任者である。そこで『法華経』の偉力を要約した<南無妙法蓮華経>の題目を教える。
  日蓮は『法華経』を文字通りに信じ、そのすべてを結びつけて考え、彼自身をその中心人物と見なした。そこで幕府の官吏や他宗の僧侶たちへ投書したが相手にされない。その間に社会情勢・国際情勢は悪化した。法を思い、国を思う日蓮は、いよいよ焦躁にかられた。そこで競争者への反感が増した。彼は次第に相手を変えた。最初は法然の念仏が主で、これは最後まで彼の敵であった。やがて禅・念仏と並べるようになった。律を攻撃したのは忍性に対する個人的な憎しみであった。忍性は日蓮を佐渡へ流させた張本人と見られていた。佐渡に流されてからは禅・律・念仏の順序になり、やがて念仏・禅・律と変わった。身延に退いてからは多く真言・禅・念仏と言うようになった。・・・・
  真言を当面の敵としたのは蒙古に対する祈禱のライヴァルとしてである。・・・ 》
《  教義としては他愛もないものであったが、日蓮の強烈な人柄と素朴な庶民性とが一部の人々をひきつけた。『法華経』の単純な呪術性・宗派性・闘争性は日蓮においてその本来の意義を発揮した。そういう意味では、智顗や最澄よりも、むしろ日蓮や現代の疑似宗教の人たちの方が『法華経』の原始的な精神をつかんでいるわけである。
   日本で開祖の名を用いた宗派は日蓮宗の他にあまりないが、それだけに個性が強く、排他的である。日本の各宗派のうちで、閉ざされた教団はこれと浄土真宗との二つだけである。したがって、他派との抗争も、宗内の分派活動もともにはげしい。分派は多く急進主義者によって行われた。身延山を本山とする日蓮宗の他、日蓮の直弟子の本拠を本山とする日蓮正宗法華宗などの諸派があり、慶長ごろ不受不施の強硬論を唱えた日奥の一派も再三の圧迫に抗して独立した。幕末ごろ開かれた本門仏立講はじめ、大正・昭和以来の霊友会・立正佼成会等は大衆信者を対象とするいらゆる新興宗教に属し、学校教師の研究団体から出発した創価教育学会は日蓮正宗の外郭団体、創価学会となった。現在、日蓮宗系統の宗派は届出のあるものだけで三十ほどある。日蓮宗の特色はその熱意と実行力とにある。・・・》
と書かれている。
  どうも、『法華経』を他のお経よりも重視するグループの人たちというのは、インドで最初に登場した時点から、排他的・闘争的で他から迫害を受けてそれに耐えてきたらしい。日本においては日蓮はその流れをくみ、教義としては「他愛もないもの」であるが、排他的・闘争的であり、又、内においても分派がおこなわれてきた歴史的経緯があるもので、日蓮宗・法華宗系統の宗派は、日本の仏教の中でも特に闘争的であり、「仏敵」と看做した相手を「折伏」することに熱意を持ち、そもそも、何を争っているのか何を闘っているのかもそのうちわからなくなってしまっても、それでも闘い続ける・・という傾向がある宗派のようだ。浄土宗・浄土真宗で「南無阿弥陀仏」と唱えるのは心にホトケを念じ(「念仏」)その上で口に阿弥陀如来の名を唱える(「称名」)という行為であるが、日蓮宗で「南無妙法蓮華経」と唱えるのは、これは浄土宗・浄土真宗の「南無阿弥陀仏」とは全然意味が違って、『法華経』というお経の名前であり、『法華経』を特に重視したグループは迫害された歴史があり、迫害に耐え闘争する過程でその『法華経』の名前を唱えるだけでも威力が発揮されるという信仰が出てきたらしいが、「南無妙法蓮華経」と唱えるのと似たものとして、「聖教新聞を購読しろお~お!」と叫んで嫌がる人間の後をストーカーとなって追いかけてくる・・という行動が出てきたみたいだ。この「聖教新聞を購読しろお~お」てやつは日蓮宗・法華宗系統の宗派の性質から十分関連性があるものと思われる・・・・が、ストーカーとなって「聖教新聞を購読しろお~お」をやるおっさんはその行為にエクスタシーを感じるかもしれんが、される側は迷惑だ・・。かんべんしてほしいわ、ほんま・・・・( 一一)
日本の仏教 (岩波新書) - 渡辺 照宏
日本の仏教 (岩波新書) - 渡辺 照宏
  職場で「聖教新聞を購読しろお~お」と叫んでストーカーとなって追いかけてくる「創価学会のおっさん」に注意しない(株)一条工務店のその対応は「保護義務違反」と評価され、これは労働契約上の「債務不履行責任」を問われる問題である。


   「宗教」と言っても、さまざまなものがある。カール=マルクスが「宗教はアヘン」と言ったとギャアギャア言わなきゃおれない症候群という人が日本にはけっこう多いのだが、そういう人はたいてい、マルクスが述べた意味を誤解して言っている。うちの父親は「親友」の医者屋のM川(男。1980年頃当時、50代前半。自称「金沢大医学部卒」だが嘘くさい。「患者」を薬漬け・検査漬け・毒盛りして得たカネで息子を私立金権関西医大https://www.kmu.ac.jp/ に裏口入学させたと自慢していたが、おのれもその私立金権関西医大裏口入学卒かそこらではないか。1980年頃当時、大阪府豊中市在住)から「宗教はアヘンじゃとマルクスが言うてお~る」と教えられて、「そうじゃ。『宗教はアヘンじゃ』とマルクスが言うておるとM川先生がおっしゃってお~る。焼き討ちじゃあ、焼き討ちじゃあ、焼~き討ちじゃあ~あ!」と毎日のように叫んでいた。
  うちの父親は「共産党は死刑にしろお」「日教組は刑務所に叩きこめえ」「朝日はアカじゃあ、アカ新聞じゃあ。朝日新聞の記者は全員、死刑であ~る」「ロスケどもをやっつけてや~る」「原発に反対する甘ったれたやつは全員、刑務所に叩きこめえ」と毎日毎日、家で叫んでいるおっさんだった。「戦艦長門の一隻でもあったら、千島なんか取り返してやるんやけどなあ」とか言っていたので、「日本の自衛隊は戦艦長門を超えるものをすでに持っているのと違いますか」と私は言ったのだが、「そんなことあるかあ」と言ってきかなかった。「原発に賛成する者は『甘ったれてる』ということはなくて、なんで原発に反対する者は『甘ったれてる』のですか?」と言っても、「甘ったれとるからじゃ。甘ったれとるから反対しとるんじゃ。死刑じゃ、そういう甘ったれたやつは」とか言ってきかなかった。「そんなもん、海を泳いでる魚なんて誰がとったって自由やのにからに、獲ったらいかんとか言いやがってからに、ソ連はこすいやっちゃ。こすいやつやから、『こすいぎ~ん』」とか言うておった( 一一) 会社員やっている人には「海を泳いでる魚なんて誰がとったって自由や」とか言う人がけっこういるのだが、「漁業権」というものがあって、勝手に誰でも獲っていいというものではないはずだし、又、「海を泳いでる魚」であっても養殖やっている人が放した魚が海に出て泳いでる場合もあるし放流している人がある場合もあるはずだが・・と思うのだが、「こすいやつやから、『こすいぎ~ん』」とか言ってるおっさんには何を言ってもだめだった( 一一)  ・・そういうおっさんだったわりに、「宗教はアヘンじゃとマルクスが言うてお~る」とその部分限定で「教条的マルクス主義者」になるのだった。なんで、その部分限定で「教条的マルクス主義者」になるのか、奇妙なおっさんやった。なおかつ、その「宗教はアヘンであるとM川先生がおっしゃってお~る! 焼き討ちじゃあ、焼き討ちじゃあ。とってちってたあ~あ!」と毎日のように叫んでいたおっさんは、キリスト教の洗礼うけておったのだが、なんかもう、わけわからん( 一一)  ここまでいかないとしても、「クリスチャン」には似たような人がおるのではないかとも思う( 一一) 又、うちの父親が信奉していた「M川教の教祖」のM川という医者屋だが、そんなに「マルクスが言うてお~る」と言うのなら、とりあえず、「患者」を薬漬け・検査づけ・毒盛りして得たカネでおのれの息子を私立金権関西医大に裏口入学させるのはやめたらどうなんだ。裏口入学させているようなヤカラに「マルクス、マルクス」言われてもなあ・・・。なんか、ずいぶんと安っぽいマルクスであった( 一一)
  このおっさん、いったい何なのだろうなあ・・と思ったが、そういうおっさんやった( 一一)  ちなみに、おっさんは「朝日新聞の記者は全員、死刑であ~る」とか言うておったわりに、我が家は私が子供の頃からずっと「朝日新聞」を購読してきたが、それはなぜかというと、たぶん、「巨人はズルイ! 読売は汚い! けしから~ん! 金田はもう、いつもいつも巨人の機嫌ばっかりとりおってからに、こいつはけしから~ん! 長嶋に柴田はちょっとデッドボール受けただけで顔まっかにしてすぐに興奮しよる。アホじゃ、こいつらは。長嶋はまたゲッツー打ちよった、アホじゃ、アホじゃ、長嶋は♪」という、そっちが優先したのではないか・・・と思う。たぶん・・
  それで、「宗教はアヘン」とカール=マルクスは言ったのか・・というと、この件について、蔵原惟人『宗教 その起源と役割』(新日本新書)でわかりやすく説明されているのだが、
(1)カール=マルクスは「宗教はアヘン」という表現を使ったことがあるかというと、『ヘーゲル法哲学批判序説』という書物の中で1回だけ、この表現を使っている。あちらこちらで何度も使っているわけではないが、『ヘーゲル法哲学批判序説』の中で一度だけこの表現を使用している。エンゲルスはこの表現を使ったことはない。レーニンもこの表現を使ったことはない。
(2)「宗教はアヘン」という表現はカール=マルクスだけが使った表現かというと、そうではなく、マルクスが生きた時代のドイツにおいて、けっこう多くの人がこの表現を使っているようで、わかっているだけでも、詩人のハイネ・哲学者のヘーゲルがこの表現を使用している。
(3)「宗教はアヘン」という表現を最初に使ったのは誰かというと、よくわかっていないが、マルクスではない可能性が大きい。
(4)「アヘン」という言葉には「毒薬」という意味と「なぐさめ」という意味の2通りの意味がある。世の中には毒薬のような宗教というものもあるが、マルクスは「毒薬のような宗教」を批判する時にはこの「宗教はアヘン」という表現は使っておらず、キリスト教のような宗教について「なぐさめ」という意味で「宗教はアヘン」という表現を使っている。「宗教は民衆のなぐさめである」という意味で使っている。「毒薬」という意味では使っていない。
(5) そして、高神覚昇『般若心経講義』(角川文庫)では、高神覚昇氏が、マルクスが「宗教はアヘン」と言った時、その場合の宗教とはキリスト教のような宗教のことを想定して言っているのであって、仏教のような宗教を想定して言ったのではないのではないか、と述べているが、これもそうかもしれない。
 だから、カール=マルクスは『ヘーゲル法哲学批判序説』の中で「宗教は民衆のアヘンである」という表現を一度、使っているけれども、それはあくまでも「宗教は民衆のなぐさめである」という意味で使っているのであって、「毒薬である」という意味ではつかっていないはずで、又、もしも、誰もがこの世で幸福の果実をつかうむことができる社会を実現できたならば、「なぐさめ」としての宗教は必要なくなっていくであろうといったことを言っているようだが、しかし、宗教の目的・宗教の性質としては「なぐさめ」という意味はあるだろうけれども、「なぐさめ」以外の意味もあると思われるので、「なぐさめ」を必要としてない誰もがこの世で幸福の果実をつかめる社会を実現できたとしても、だからといって宗教がすべてなくなるということでもないのではないか。 うちの父親が信奉していた「M川教の教祖」のM川だが、「『宗教はアヘンじゃ』とマルクスは言うてお~る」としきりに言うのだったが、↑ の(1)~(5)のようなことを理解した上で言っていたかというと、理解せずに言いまくっていたと思われる。
  何よりも、マルクスさんであれ何さんであれ、何をおっしゃったとしても、その発言がもっともだと思ったならその見解を採用すればいいけれども、もっともだと自分が思わないならば何さんが何をおっしゃっても「だから何なの?」てもので、その見解を採用しなければならないという筋合いがあるものではないはずだった・・が、執拗に「宗教はアヘンじゃとマルクスが言うてお~る」と言いまくり、うちの父親はそう言われて「そうや♪ その通りや♪ 『宗教はアヘンじゃ』とマルクスが言うておるんじゃ。M川先生のおっしゃることっ♪」と言ってありがたがって、その「M川教」という宗教を信仰していたのだった( 一一)  難儀なおっさんやった( 一一)  M川は「宗教はアヘンとマルクスは言うてお~る」と言うことでキリスト教や仏教を排斥して、そして自分自身を崇拝させる「M川教」の信者にならせようとしていたのだが、医者屋とか整体師とかそういった職業の人には新興宗教の教祖になりたがる人というのがいて、又、医者屋に「新興宗教の教祖」を求める人というのも世の中にはいるようだが、困ったものだ( 一一)
ユダヤ人問題に寄せて/ヘーゲル法哲学批判序説 (光文社古典新訳文庫) - マルクス, 中山 元
ユダヤ人問題に寄せて/ヘーゲル法哲学批判序説 (光文社古典新訳文庫) - マルクス, 中山 元
宗教―その起原と役割 (1978年) (新日本新書)
宗教―その起原と役割 (1978年) (新日本新書)
   それで、宗教と言われるものについて、「毒薬である宗教」と「なぐさめとしての宗教」があると分けて考えることができるのではないか。ただし、「毒薬としての宗教」と「なぐさめとしての宗教」だけではなく、「なぐさめ」以外の意味あいを持つ場合もあるが、とりあえず、「毒薬としての宗教」と「なぐさめとしての宗教」に分けて見ることができるのではないか。
   もうひとつ、これは何新聞だったかわすれてしまったが、「価値がある宗教」と「カルトの宗教」の違いはどこにあるのか、といったことが述べられていて、「価値がある宗教」は「モーセの十戒」とか「山上の垂訓」とかのように「殺すべからず」とかそういった基本的な考え方は宗教での教えがあるが、それぞれの信者が人生を生きていくにおいてどうするべきかという個々の問題については、それぞれの信者が自分自身で考えて判断する。それに対して「カルトの宗教」はそうではなくて、それぞれの信者にどうするべきかということを教祖であったりその周囲にいる人間であったりが指示してその指示に従わせる。その点に「価値がある宗教」と「カルトの宗教」の違いを見ることができるのではないか、と書かれていた。
  もうひとつ、宗教というものは抗議抵抗の精神となるものか、それとも権力・体制に迎合する理論となるものか、という問題がある。宗教以外にも、抗議抵抗の精神のものか、それとも権力・体制に迎合する理論となるものか問われる文学といったものもある。中国の文学作品の『水滸伝』は毛沢東の愛読書だったと言われるが、蕭瑜『毛沢東の青春(現題 毛沢東と私は乞食だった)』(サイマル出版会)によると、毛沢東に限らず毛沢東などの世代の人間は青年期に読むことを奨励された本が論語・孟子などの四書五経と言われるような本で、他方で読まれることが多かったがあまり推奨されなかったものが『水滸伝』のほか『三国志』『西遊記』などの講談本だったらしく、毛沢東は抑圧的な父親の家庭で育ったこともあって『論語』などは好まず、『水滸伝』などの方を好んだそうだが、戦後の中華人民共和国においては、『水滸伝』は
「抗議抵抗の文学」と評価されることがあったものの、他方において『水滸伝』の終わりの部分については「敗北主義」だという評価をされたらしいが、たしかに、『水滸伝』には両方の面があるのではないか。
  宗教にの中で、キリスト教はどうなのか。 学習資料「世界史」編集委員会 編集『学習資料「世界史」』(1978.4.1.ほるぷ総連合)には、
《 支配者への服従の論理  パウロは、天国の問題と地上の問題を厳密に区別し、地上の現実の問題では、ローマ帝国による民族支配と階級支配を全く肯定している。パウロにはイエスにみられたような貧民的立場がないのは、彼自身がローマ市民という支配階級の一員であったことにもよる
<  権威  すべての人は、上に建つ権威に従うべきである。なぜなら、神によらない権威はなく、おおよそ存在している権威は、すべて神によって立てられたものだからである。したがって、権威に逆らう者は、神の定めにそむく者である。そむく者は、自分の身にさばきを招くことになる。いったい、支配者たちは、善事をする者には恐怖ではなく、悪事をする者にこそ恐怖である。(ローマ人への手紙、『新約聖書』)>
  キリスト教の二面性  歴史上、キリスト教は一方では支配者の階級支配の論理となり、他方では被抑圧者の反抗の論理となるという二面性をもっている。この二面性は、キリスト教の成立に画期的な役割を果たしたパウロにみとめられる。 彼は一方では、支配者への服従をときながら、他方では、民族差別と階級差別と階級差別を否定し、神の愛の前ではすべての人は平等であるとした。  前者の服従の論理は、中世カトリック教会へ後者の差別の否定の論理はワットタイラーの反乱などにみられるように農民一揆と摂取されていった
(学習資料「世界史」編集委員会 編集『学習資料「世界史」』1978.4.1.ほるぷ総連合 (25)キリスト教 )
  イングランドのウィクリフの改革説を農民にひろめたのは乞食僧(ロラード)だった。その一人、ジョン・ボールは「すべての財物が共有にされ、農奴もなく、紳士もなく、万民が平等になるまで、イギリスには満足なる事態はありえないだろう・・・」(フロワサール年代記より)と述べ、ワット・タイラーの乱(1381)の思想的指導者となった。反乱は鎮圧されたが、イギリスでは農奴制の解体が進み、封建勢力の力は弱まった。》
(学習資料「世界史」編集委員会 編集『学習資料「世界史」』1978.4.1.ほるぷ総連合 (30)宗教改革とヨーロッパ) 》
と出ている。 パウロが「ローマ人への手紙」で述べた《 いったい、支配者たちは、善事をする者には恐怖ではなく、悪事をする者にこそ恐怖である。》は警察が市民の個人情報収集に対して抵抗する人間に対して、「ネトウヨ」がインターネット上の「コメント」に書き込んでいるものと本当によく似ている。「教会に来ている人」にも時々、そういう人がいる。
《 (ジョン・ボールは)1381年にワット・タイラーの乱が起こると反乱軍により獄中から救出される。ロンドン進撃を前に郊外のブラックヒースにて自らの思想を持って農民軍の士気を鼓舞したと言われている。その際の「アダムが耕しイヴが紡いだとき、誰が貴族(ジェントリ・領主)であったのか」という言葉は有名である。
しかし、反乱が鎮圧された後、捕らえられて首吊り・内臓抉り・四つ裂きの刑に処された。》
( ウィキペディアージョン・ボール https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%9C%E3%83%BC%E3%83%AB )
  日本においては、戦後しばらくの時代、左翼運動が起こったり学生運動がおこったりした際に、20歳前後くらいの若い人が左翼思想の影響を受けないようにという目的で大学の近くに設けられたキリスト教会というものがあって、そういう「教会」では「キリスト教」の名目で実際はキリスト教ではなく反共思想を吹き込んでいたケースがあったと思われる。1970年代後半、大阪府高槻市のYMCA予備校高槻校で「主事」というよくわからん職種の藤井という男(当時、40代後半?)は「『聖書』みたいなもん、あんなもん、何ひとつとしていいことなんて書いてないんやから。『聖書』みたいなもん、あんなもん、絶対に読んではいかん。ましてや、そこに書いてあることを実行しようなんて、まかり間違っても絶対に思ってはいかん。『聖書』みたいなもん読まんでも、洗礼うけて献金はらって日曜ごとに教会に行って礼拝に出ておけばそれでええんや。『聖書』なんか絶対に読んではいかん」と自称「敬虔なクリスチャン」として””伝道活動”” を連日おこなっていた・・が、「『聖書』なんか絶対に読んではいかん」と主張する「敬虔なクリスチャン」の「キリスト教」というのは、それはキリスト教なのか?  相当疑問を感じたが、「敬虔なクリスチャン」を自称するYMCA予備校高槻校の事務職員の藤井の「キリスト教」というものは、そういう「キリスト教」だったようだった( 一一) 

  うちの母親はその藤井のことを「あの人はクリスチャンだから絶対に悪い人であるわけがない」などと言い、さらに「藤井さんはクリスチャンはクリスチャンでも、YMCAで主事になっているくらいだから、並みのクリスチャンではない。クリスチャンの中でも相当上のクリスチャンのはずや」などと言って「信仰」していたのだが、「クリスチャン」「教会に行ってる人」にはうちの母親みたいにこういうアホなこと思う人がけっこうあるみたいや( 一一)  YMCA予備校で藤井が「主事」と称していたその「主事」てのは何なのかというと、要するにYMCA予備校の男性の事務職員は全員が「主事」だったらしい。 栃木県佐野市のアパートに読売と日経の販売店のおっさんが拡張に来たことがあって「私が店長ですから」と言うので、そうなのかと思っていたが、私が住んだアパートと同じ町名の所に(株)一条工務店も出展していた総合住宅展示場がその頃はあったのだが、(株)一条工務店の展示場で日経新聞をとったところ、折り込み広告を入れてくれないので「<朝日と日経>とか<毎日と日経>とか2紙を購読する人は折り込み広告は1つでいいから日経の方は折り込み広告は入れていりませんという人があるかと思いますが、うちは総合住宅展示場の広告とか同業他社の広告とか不動産屋の広告とかそういったものも見たいので、日経でも折り込み広告を入れてください」と私は新聞やの集金のおばさんが来た時に行ったのだが「日経新聞には折り込み広告は入れない決まりになってますから」と言うので、「そんなはずないですよ。うちのアパートも浅沼町で、おたくの店から日経新聞を購読していますけれども、うちは折り込み広告を入れて欲しいから入れてくださいとお願いして、折り込み広告を入れてもらっていますよ」と言ったところ、「誰が言いましたか」と言うので「名前は聞かなかったけれども店長さんです」と言うと、「うちの店、全員が店長なんです。うちの店は従業員全員が『私が店長です』と言ってるんです」と言うのだった( 一一)  「私が店長ですから」と言えば客から信頼してもらえると考えたらしい( 一一)
  (株)一条工務店は名刺を発注する際には各展示場に置かれている書式に営業社員が自分で記入してファックスで浜松の本社の総務部に送信すると、その書式に書かれた通りに印刷された名刺が届くことになっていた。私などは嘘を書いて送信するなどということは会社員としてやってはいけないことだと認識していたので、そのようなことはしなかったが、ところが、私のような認識でない従業員がいたようで、役職なんか会社からもらってないのに「主任」と書いた名刺を作って客に配る人とか、資格の欄に日本にありもしないような資格を捏造して記載したものを客に渡す人とか、そういう人がいたようだ。
   1980年代後半、小堀住研(株)に入社して配属された松戸営業一課で、私より前から在籍していたAさん(男。当時、20代後半)が「U課長は実力がある課長だから、いいと思うよ」と私に言ってくれたことがあったのだが、「実力のある課長だから」と言うということは「実力がない課長」というのもいるのか? ・・というと、いたみたいだった( 一一)  1990年、東京支店自由が丘営業課(東京都目黒区の自由が丘展示場)の課長にならせてもらっていた高橋賢一郎(男。当時、30代半ば過ぎ)などは「実力がない課長」の代表格だったのではないか。まず第一に、小堀住研(株)は「営業系」は「4年生大学の法学部・経済学部・商学部卒の人」で「普通自動車第1種免許取得者」というものが「応募条件」だったが、高橋賢一郎はそのどちらも満たしていなかった。なんで、応募条件を2つも満たしていない人を採用したんだ? おかしいのと違うか? 公務員とは違って会社の場合は、これが応募条件ですよということにしていても、その条件を満たしていない人が私を雇ってほしいとアピールしてきた場合に採用担当者もしくは経営者がこの人を採用したいと思ったなら採用するということはあることで、又、「応募条件」として示していたものというのは、あくまでも、こういう条件の人を採用しようと考えていますという見解であって、それは国の法律ではないからその条件を満たさない人を採用しても違法とかいうことではない。しかし、あまりにもその条件を満たしていない人を採用するならば、そこの会社に勤めたいと思ってその条件を満たすべく努力して応募した人としては「なんだ、そりぁ」ということになるし、入社後、うまくいかない場合もある。「応募条件」を満たさない人でも採用されることはあるとしても、「応募条件」を満たしている人に比べて採用にされる基準が厳しいという場合もある。「応募条件」を満たしている人の場合は「特に問題がなければ採用」であるものが、「応募条件」を満たしていない人の場合には「特別に優秀と思われる場合は採用される場合もある」というくらいというケースはけっこうあるのではないか。 高橋賢一郎は「応募条件」を1つではなく2つも満たしていなかったわけだが、それでも採用するくらいに魅力的なものがあったのか?・・というと、どうも、あったように思えないのだが、ともかくも採用された。
  採用と決めた人が何を見て判断したかはわからないが、小堀住研(株)の採用担当者が私のようにきっちりと独立自尊の精神をもって、こういう理由でという理由・論拠を持って採用と決めたとは考えにくいが、ともかくも採用されたわけだが、「4年制大学の法学部・経済学部・商学部卒の人」という条件は満たしていない、又、高橋賢一郎は東京電機大学という私立大学、私は関西の生まれだが、関西人でそんな大学があるということを知ってる人間なんかほとんどない私立大学、かつては東京都千代田区の小川町あたりにあったみたいだが、今は埼玉県のいなかに引っ越したみたいな私立大学のカネのかかる工学部に高橋賢一郎は福島県の会津地方の喜多方市の出身なのにわざわざ東京圏で下宿までして行った人だった。父子家庭で父親はラーメン屋をやっていたらしいが、私などはうちの父親から「東大に行くのならば東京で下宿してでも行けばいいし行くべきで、下宿は嫌やなどと甘ったれたことを言ってはいかんし、東大でなくても慶應か早稲田に行くのなら東京で下宿してでも行く価値はあるけれども、そんなもん、法政やたら明治やたら専修やたら東洋大やたら拓殖やたら何やらわけのわからん私立のアホ大学に行くのに下宿してまで大学に行く必要あらへん。そんなアホ大学に行くやつなんて、自衛隊に入れ、自衛隊に! アホ大学に行くやつなんか、大学に行くな、自衛隊に入れてやるべきや、自衛隊にい!!!」と言っていたし、又、私には「うちは工学部になんか行かすような金持ちとは違います。甘ったれなさんな」と言い、私が「国立大学なら何学部でも学費は一緒のはずや」と言っても、うちの母親は「甘ったれなさんな、あんたはあ。国立大学の百パーセント絶対に通るとは限らんでしょうが。たとえ、0.1%でも落ちる可能性があったら国立大学でも工学部は受けてはいかんでしょうがあ」と言い、私は京大の工学部建築学科に通ったか、東大の理科一類なり理科二類なりに通ったかというとそれはわからないが、どこか国立の大学でということならば、「おそらく通ったであろう」と思われる国立大学があったが、それでも工学部は受けさせてもらえず、日本で一番嫌いな大学の一番行かされたくない学部に暴力と脅迫と強制で行かされた。うちの父親は超一流企業ではないとしても、まがりなりにも「常務さん」だったが、それでも「うちは工学部になんか行かすような金持ちとは違います。甘ったれなさんな」ということだったが、高橋賢一郎は父子家庭の息子で父親はラーメン屋のおやじだったらしいが、どうも、ラーメン屋のおやじというのは儲かるみたいだな。たとえ私立大学でも、早稲田大の理工学部の建築学科にでも行くというのならまだしも、東京電機代かガス代かとかいうわけのわからん私立大学で、電気代と言うから電気関係の学科だけの学校かと思ったら建築学科もあるらしいという、そんな私立大学に、何もわざわざ社会科学系学部よりもずっと学費が高い工学部になんか行く必要あらへんはずやのにからに行った、それも福島県の人間やのにからに東京圏で下宿までして行ったというのは、ラーメン屋というのは相当儲かるらしい・・・。それで、私が新卒入社した時も、立命館大学の工学部建築学科卒で設計とか工事管理よりも営業をやりたいと言って「営業系」に応募して採用されて入社した者がいたので、建築学科卒でも「営業系」の方の仕事をやりたいと言う人には人によって採用を考えてもいいと小堀住研(株)は考えていたかもしれないが、しかし、小堀住研(株)は昔から、我が家が大阪府北部で小堀住研(株)で1969年に竣工で在来木造の家を建てた頃から「小堀住研は大卒しか採らない会社なんですう」と言いまくってきた会社で、たしか、会社案内にだったか「採用実績校」として「神戸大学・新潟大学・同志社大学・関西大学・甲南大学」だか書いてあったと思ったのだが、この場合の「大卒しか採らない会社」という「大卒」というのは「東大・京大以外の十大国立大学(旧帝大系7大学+東京工大・一橋大・神戸大)」か「地方国立大学」か私立大学の場合は「関関同立くらいまで」の「大学卒」のことを言うはずだった。だから、「法学部・経済学部・商学部卒の人」という条件は満たしていなくても「建築学科卒」だが「技術系」ではなく「営業系」で採用されたいと希望する人は「営業系」で採用することはあることから「建築学科卒」でも可とするとしても、「大卒しか採らない会社」として《「東大・京大以外の十大国立大学(旧帝大系7大学+東京工大・一橋大・神戸大)」か「地方国立大学」か私立大学の場合は「関関同立くらいまで」》という条件を大きくはずれているはずだった。 それでも採用したいというくらいに魅力がある人というようには見えないし、また、見た目もデブであって「営業は見た目がいい人間がいい」という基準からもはずれていた。それでも採用したとしても、「普通自動車第一種免許取得者」という条件を満たしていなかった。大学はいったん卒業して会社に勤めると、もう一度、別の大学に行って卒業するというのはけっこう難しいが、普通自動車第一種免許は会社に勤めてから取得する人はおり、高橋賢一郎は応募時に「普通自動車第一種免許取得者」という「応募条件」を満たしていなかったのに「選考進級」のように採用してもらって営業担当者として仕事についたのだから、入社後に大急ぎで普通自動車第一種免許を取得するべきであったはずだが、「選考進級」で採用してもらったにもかかわらず高橋賢一郎は普通自動車第一種免許を取得していなかった。関西の大学では中学校・高校とは違って「1年生」「2年生」・・と言わず「1回生」「2回生」・・と言うことが多いのに対して、慶應大学は「1年生」「2年生」・・という言い方をしていたが、これは、私が知っている大学生に聞いた話では、京大とか関学とかは基本的には留年というのはないらしく4年までは進級できて、単位を取れていなくても4年の終わりに卒業できるかできないかの話らしいのに対して、慶應大はそうではなくて各学年ごとに進級できるかできないかというものがあって各学年ごとに在籍できるのは2年までとなっていた。東京の大学でも早稲田大は京大や関学と一緒で4年までは進級はできるが4年で卒業できるかどうかという問題があって、慶應大で4年で留年して卒業できなくても1年留年して卒業できることはあるが、早稲田大で4年になったけれども、それまでにまったく単位を取得できていなかったならば1年留年しても1年で4年分の単位は取得できないので、それで芸能人で早稲田大に入学したけれども単位をまったく取得することなく4年まで在籍して「中退」する人があるというのは、この理由によるのではないかと思う。東大は入学時は文科1類・文科2類・文科3類・理科1類・理科2類・理科3類で入学して、3年から法学部・経済学部・文学部・教育学部・工学部・理学部・薬学部・農学部・医学部と分かれて卒業するが、東大の場合は在籍できるのは教養課程4年まで・学部4年までで合計8年までらしい。これらを見ると慶應大が一番厳しいようだが、慶應大は進級するのに分野ごとにその学年で履修しないといけない単位数が決められていて、又、必修科目は必ず単位を取得しないといけないことになっていたが、それを満たすことができなかったら必ず留年というわけではなくて、「進級」と「留年」の間に「選考進級」というものがあって、2科目までだったか不足しても「選考進級」として次の学年に進むことができるが、次の学年の時に必ず不足した科目を履修してくださいというものだった。高橋賢一郎が小堀住研(株)に入社したのは「応募条件」を2つも満たさずに入社したものであり、「国立大学か私立大学なら関関同立くらいまでの4年生大学の法学部・経済学部・商学部卒の人」という方の条件は入社後、今更満たすことは難しいとしても、「普通自動車第一種免許」の方はこれは会社に勤めてからでも取得できるものであり、さっさと取得するのが「選考進級」で採用してもらった人間の勤めのはずだったが、この男はそれを取らずにいた。
   小堀住研(株)は営業課長と営業担当者2名の計3名で1営業課としていることが多く、中に営業担当者が3名の計4名の営業課、営業担当者が1名の計2名の営業課というものもあったが、新卒入社の営業社員は業務で自動車には乗らず入社1年目は電車・バスでの営業をやるということになっていて、自動車で行かないと仕事ができない所・作業の場合は営業課長が営業課長のクルマに新人を乗せて行くということになっていた。だから、新卒新人が配属されると営業課長は新人のためにも自分のクルマをつかい運転の労力を払いガソリン等の燃料を使っていたが、そのかわりに課長としての役職手当を受け取っていた。それに対して、自由が丘営業課の課長にならせてもらっていた高橋賢一郎は普通自動車第一種免許を持たず普通乗用車も持たない人間で、「選考進級」で採用されたからには早急に普通自動車第一種免許を取得し、普通乗用車を用意するべきものであったはずであるにもかかわらず取得せず用意せず、それでいて課長にならせてもらって、そして、高橋賢一郎が担当のお客様宅の仕事でクルマで行かないといけない所には課長の役職手当をもらっていない営業担当者のクルマに乗せてもらい、営業担当者に運転してもらって行っていた。ほかの営業社員を乗せるからという意味もあっての役職手当を高橋賢一郎が取得して、そしてクルマの運転も課長の役職手当をもらっていない営業担当者にさせていたのであり、これでは「やらずぶったくり」であり、会社はこのようなことはしてはならないはずだったが、高橋賢一郎は課長の役職手当ももらって、なおかつ、クルマは課長の役職手当をもらっていない営業社員のクルマに乗せてもらい、「ごめんな」とか言うのならまだしも、「俺は課長なんだ。課長が乗せろっつってんだ」とか言って乗せてもらっていた。私もそういう口をきかれて乗せさせられた。おかしいだろ、これは・・・と思うし、東京支店長の高倉は「選考進級」で「営業系」従業員として採用した人はその「選考進級」を解消するまでは営業担当者の上の営業課長にはならせてはならないはずだったが、それをならせていたし、なおかつ「高橋課長は大変優秀な課長だ」などとナマ言っていた( 一一)  高倉は服装などピシッとした格好をしていて、そのあたりを見ると「営業やってきた人」という感じがしたが、つきあえばつきあうほどに「やっぱり、高卒の支店長だなあ」という印象を受けることになった( 一一)
  それで、高橋賢一郎のように「なんで、あのアホが課長なの」というような人が課長になっていたというのは、小堀住研(株)の場合、営業所(展示場)ごとに営業課1チームとして、その長を課長・係長・主任・・とその人の実力に応じて分けるということはせず、一律に「課長」にしていたのだった。なおかつ、「ヒラの上」が課長だったので、その結果、普通なら係長くらいか、普通なら主任くらいか、普通なら副主任くらいか・・という人が「課長」になっていたのだ。だから、高橋のように「え? あの人が課長なの?」というような課長もいたのだ。私が支店長なら高橋賢一郎は営業課長にならせていない。理由は3種類あって、ひとつは人柄が良くないこと、2つは営業としての実力がないこと、3つは「普通自動車第一種免許取得者」という条件を満たしていない「選考進級」であり、「選考進級」で不足していた「普通自動車第一種免許取得者」という条件をとりあえず満たしてもらって、営業課長に昇進するのはそれからにするべきであったからである。「やらずぶったくり」を認めてしまったのでは、従業員の間に不満もたまることになるし、「秩序を乱す」ことにもなる。
  それで、小堀住研(株)は、なぜ「ヒラの上」を一律に「課長」にしていたかというと、営業上、お客様に名刺を渡した時に「主任」とか「係長」よりも「課長」と書かれている方が「一部上場企業の課長」というと評価してもらえるだろうということで「ヒラの上」を一律に「課長」にしていたようだった。もっとも、それがお客様に通じるかどうかは何とも言えないところがあって、私は入社して半年を過ぎたころから、この会社の部長・支店長というのは「普通の会社なら」主任か副主任程度の人がなっているということに気づいた。「作家で精神科医」の なだ いなだ が『娘の学校』(中公文庫)で「どのような賞を受賞しているかで人の値打ちが決まるのではない。どのような人が受賞しているかでその賞の値打ちが決まるのだ」と述べているが、会社の役職もまた、「どのような役職につかせてもらっているかで人の値打ちが決まるのではない。どのような人がその役職についているかでその役職の値打ちが決まるのだ」と言える。それから考えると小堀住研(株)の部長・支店長とか課長とかいうのは、あまり価値がある役職ではないことになった( 一一)
娘の学校 (ちくま文庫 な-2-14) - なだ いなだ
娘の学校 (ちくま文庫 な-2-14) - なだ いなだ
  1990年代、(株)一条工務店の福島県いわき市の営業所を退職した人が訪ねてきてくれたことがあったのだが、新しく勤めた会社の名刺をもらったら「課長」と書かれていたので、「☆☆さん、課長なんですね」と言ったら「うちの会社、従業員全員が『課長』か『部長』かどっちかなんだあ。俺は『課長』だけれども、そこにいるやつ、俺と一緒の時に入社したばっかりでまだ入社して1か月ほどなんだけど、あいつ、何もわかってないけども『部長』なんだ」と言うのだった。そういう会社はけっこうある。
  2000年代、我が家に来た「リフォームのナカヤマ」の営業が「詳しい者を連れてきますから」と言うので、「うちは今はやらないからいいよ」と言ったのだが、しばらくしてインタホンを押して「詳しい者を連れてきましたので」と言うので、連れてきたというのならと思って出たが、実際にはちっとも詳しくなかった( 一一)  「『詳しい者』を連れてきました」と言うことで顔を出させようとしたのであろう( 一一)
  以上、全員が「店長」を名乗る新聞販売店・新卒入社するなり主任ではないのに「主任」と印刷した名刺を作って客に渡す(株)一条工務店の営業・ありもしない資格の名前を名刺に印刷して客に渡す(株)一条工務店の営業・「ヒラの上」はたいして実力がない人でも「課長」「一部上場企業の課長」にする小堀住研(株)・従業員全員が「課長」か「部長」の会社・ちっとも詳しくない人間が「詳しい人」と称する「リフォームのナカヤマ」(今はヤマダ電機(株)に買い取られてヤマダホームズ(株)の一部分)と、そういう例は日本にはいっぱいある。求職活動をすると「うちは一部上場ですからねえ」とか言いたがる会社がいっぱい出会うが、「それが一部上場なのお?」て感じの「一部上場」が多い。YMCA予備校の「主事」というものを、うちの母親は「藤井さんという人はYMCAの主事になっているくらいだから、あの人はクリスチャンはクリスチャンでも並のクリスチャンではない。クリスチャンの中でも相当にえらいクリスチャンのはずや」などと言うのだったが、「『聖書』なんてろくなこと書いてないんだから。『聖書』みたいなもん、あんなもん、絶対に読んではいかん」と日夜、伝道活動に励んでいる男のことを言うのだったが、私はその「主事」というのは、YMCA予備校の事務職員の男性従業員のうちで、比較的年配の人間がYMCA予備校から与えられた役職なのかと思ったのだが、そうではないみたいで、YMCA予備校の高槻校には「京大東大文系クラス」と「理系クラス」と「(単なる)文系クラス」があって、担当する男性事務職員が藤井と隅(すみ)と若い三流私立大学でたばかりですうと顔に書いてある浜野くんの3人がいたが、3人とも「主事」だったようで、「主事」という名称をつけることで高校卒業時に京大や東大を受けて1年後に京大や東大に通りたいと思っている人間に対して三流大学卒の男を尊重させようというあほくさい魂胆だったようだ。サルトル・ガヴィ・ヴィクトールの鼎談『反逆は正しい』(人文書院)ではフィリップ=ガヴィが「尊重させるのは信仰の人間と警察のオハコだ」と語る部分があるが、そうだろう。「尊重させる」ことで受験・大学入試についてわかっていない男の「言うことをきかす」ようにしようとして男性事務職員全員に「主事」という称号をYMCA予備校はつけていたのだった。
反逆は正しい 1―自由についての討論 - 鈴木道彦, ジャン・ポール・サルトル
反逆は正しい 1―自由についての討論 - 鈴木道彦, ジャン・ポール・サルトル
反逆は正しい 2―自由についての討論 - 海老坂武, ジャン・ポール・サルトル
反逆は正しい 2―自由についての討論 - 海老坂武, ジャン・ポール・サルトル
そんなものをうちの母親は「あの人は主事なんだから」などと言っていたが、YMCA予備校の「主事」なんてものは読売新聞の佐野市の販売店の全員店長みたいなもの、いわき市で(株)一条工務店を退職して転職した人が勤めた会社の従業員全員が「部長」か「課長」みたいな、そんなものでしかないものをありがたがってしかたがなかった。うちの親は私が「あんなやつ、何もわかってないよ」と指摘しても、言っても言っても私の言うことはきかない親だったが、よその人間、それもいいかげんな人間の言うことはほんとによくきく親だった。なおかつ、「親というものは息子の言うことはよくきくものだから」と言うのだったが、そういう親もいるかもしれないが、あんた、ちっともそんなことないやないか・・と思ったものだった。「親というものは息子の言うことはよくきくものだ」という「心理学の学説」というものがあると言うのだが、それなら「隣の芝生は緑に見える(よその息子はいいように思える)。The grass is always greener on the other side of the fence. )」という英語の諺もあるし、「預言者、故郷に入れられず」という『新約聖書』「福音書」に基づく言葉もある。「心理学の学説」なるものは、基本的には全体が嘘である。 
権威と権力――いうことをきかせる原理・きく原理 (岩波新書 青版 C-36) - なだ いなだ
権威と権力――いうことをきかせる原理・きく原理 (岩波新書 青版 C-36) - なだ いなだ 
「主事」などという称号をつけることで「言うことをきかす」ようにしようとか考えるヤカラなどというものは、むしろ、「ちっぽけな野郎だなあ」という印象がする。サルトルがノーベル文学賞を辞退したのは2つの意味合いがあるみたいで、ひとつはサルトルはノーベル賞というものを高く評価しておらず、「西側において『アメリカ的自由主義に貢献した人』か東側において『赤い国の抑圧と闘った人』に送られるアメリカ合衆国の影響を受けた政治的意味合いが強い賞」であるという点で、もうひとつは、サルトルは元々、「賞」というものによって規定されたくない、「ノーベル文学賞のサルトル」と規定されたくない、「わたしはわたしだ」という考えがあったようだが、たしかに、何らかの役職名とか名乗ることで営業上、プラスになって契約があがるならそれでもいいじゃないかという考え方もあるかもしれないが、そんなものは「しょせん、その程度のもの」であって「ちっぽけな野郎だなあ」という面もある。YMCA予備校の「主事」も、「ぼくらは洗礼うけてるから」と藤井がしきりに言う「洗礼」というものも、「『聖書』みたいなもん、ろくなこと書いてないんだから、あんなも~ん。『聖書』みたいなもん、読んではいかん」と言いまくる男の「洗礼」など二束三文の洗礼であり、くだらないことこの上ない。
「キリスト教」にもそんな「キリスト教」があり、「敬虔なクリスチャン」にはそんな「敬虔なクリスチャン」がいる。
YMCA予備校高槻校の「主事」の藤井が話すことを聞いて「この男、勉強してないなあ」と思った。マルクスなどの思想についてあまり熱心に学んだ者が会社でどう思われるかという心配はあったが、YMCA予備校の藤井の場合はそうではなくて、夏目漱石でも森鴎外でも「危険思想」と考える男だったのだ( 一一) YMCA予備校はそんなのが「主事」、そんな男が事務職員をやっていて、そういう事務職員がアルバイトで来ていた京都や大阪の私立大学の教授とか大学院生とかに指示して「答え合わせみたいな授業」をさせていたのだった( 一一)  そんな程度の低いのに指示されて言う通りやっていた講師というのは、大学教授であっても大学院生であっても「その程度の人」だったのではないか。
  YMCA予備校の藤井の「キリスト教」もまた、それは実質、キリスト教ではなくて、反共思想だったり、権力・体制迎合主義であり、反反権力・反反体制の主張でしかなかった。
  ここで、宗教について、「その宗教本来のもの」とYMCA予備校の藤井のような「反共・反左翼・反反体制・反反権力のための ””宗教”” (エセ宗教)」という区別・分類というものも見分け方としてあるのではないか。

  宗教の違いについて、
(1)「なぐさめである宗教」と「毒薬である宗教」
(2)「価値がある宗教」と「カルトの宗教」、「基本的な考え方については宗教での教えがあるが、信者が生きていく上で個々の場面でどうするかは信者が自分自身で決める宗教」と「信者が生きていく上でどうするかを教祖なりその周囲の人間が決めて指示する宗教」
(3)「その宗教本来のもの」と「反共・反左翼・反反体制のための””宗教””(エセ宗教)」
と、この(1)(2)(3)の視点でどちらの宗教かということを見て考えることができるのではないか。

   この(1)(2)(3)の基準でどちらの宗教かというのは、それぞれの人が自分自身で考えて判断すればわかると思うのだが、実際にはそうでもないみたいで、「毒薬の宗教」「カルトの宗教」の方のものをありがたがってはまっている人というのもいるし、「反共・反左翼・反反体制のための””宗教””(エセ宗教)」をキリスト教だということにしてありがたがる人というのもいる。
そういえば、1980年代、同じ中学校・高校から慶應大学の経済学部に行ったS本は、創価学会員の女性で魅力的な女性がいて、その女性を目的に創価学会に入ろうか考えたとか言うておったように思ったのだが、いかにもS本らしい。そういう発想をするあたりが「慶應タイプ」みたいだ( 一一)


  「新興宗教」という言葉があって、この言葉は「新興宗教」というのは「毒薬の宗教」の側・「カルトの宗教」の側というイメージがあるのだが、しかし、「新興」だから悪いと決まっているわけでもなく、昔からあるものだから価値があると決まっているわけでもない。宗教学者の村上重良氏は岩波現代文庫から『新宗教』という本を出しているが、「新興宗教」ではなく「新宗教」という題名にしているのは、おそらく、「新興宗教」という名前だとその言い方自体にマイナスのイメージ、否定的イメージがあるので、いい悪いという印象を抜きにして述べようということで「新宗教」という名前を使ったのではないか。

  1960年代後半、小学校の同級生に天理教の「聖職者」というのか何というのか、単なる信者ではなくてお寺で言うところのお坊さん、キリスト教の教会で言うところの牧師・宣教師・司祭といったものをやっている人の息子がいて、よく一緒に遊んだことがあり、年に一度、奈良県の天理教の本部で何というのかバスに乗って本部に行くことがあり、それに連れて行ってもらったことがあったが、プールに入らせてもらったり楽しく遊ばせてもらって帰ってきたのだが、その頃は私は天理教というのはお寺だとばっかり思っていたのだったが、特に勧誘されることもなく楽しく一日を過ごさせてもらって帰ってきた。その友達の家はその地域の天理教の「支部」とでもいうのか、そういうものだったのかもしれないが、別段、危ないような印象もなく、お寺だとばっかり思ってそこで遊ばせてもらっていた。
  時々、「新興宗教」として天理教をオウム真理教などの仲間みたいに言う人がいるのだが、そういった経験から私は天理教をオウム真理教などと同じ仲間に入れるのはやめてもらった方がいいのではないかと思う。村上重良『日本の宗教』(岩波新書)によると、天理教は中山みき さんという女性が江戸時代末期に、男女の平等・谷底(貧民)のせり上がりと山(金持ち)の没落・万民平等を主張して、どんなに迫害されてもその主張を捨てず、「天輪王の命(てんりんのうのみこと)」が助けてくださるという江戸時代末期というその時代から考えると、ものすごい主張をしていたのであり、その後、教団の生き残りのために体制と妥協することもあったようだが、最初に始まった時期における思想は高く評価できるものだったのではないか。
  天理教の場合は開始は江戸時代末期であり、「新興」というのは明治以降と考えるなら「新興」ではないのだが、江戸時代末期以降を「新興」にして「新興宗教」の仲間に入れる人がいるが、オウム真理教と一緒にするのはやめた方がいいように私は思っている。だから、江戸時代以降に始まったものを内容がいい悪い関係なしに言うということなら、「新興宗教」ではなく「新宗教」という用語を使った方がいいと思う。村上重良氏もその考えのもとに、いい悪いという判断はとりあえず横に置いておいて述べるということで『新宗教』という題名をつけているのではないかと思う。
新宗教―その行動と思想 (岩波現代文庫) - 村上 重良
新宗教―その行動と思想 (岩波現代文庫) - 村上 重良

  入っていた「新興宗教」を脱退したものの、その後、またもや別の「新興宗教」に入るという人もいる。
『新約聖書』「福音書」に次ぎのイエスの言葉が載っている。
《 汚れた霊が追い出されて人間から出てゆくと、砂漠をあるき回って休み場所をさがすが見つからない。そこで『出てきた自分の家にもどろう』と言って、かえって見ると、空家になっていて、掃除ができて、飾り付けがしてあった。そこで行って、自分よりも悪い、ほかの七つの汚れた霊を一しょに連れてきて入りこみ、そこに住む。するとその人のあとの有様は、追い出す前よりも もっとひどくなるのである。この悪い時代の人も、それと同様であろう。」》
( 『新約聖書 福音書』「マタイ福音書」第12章 43節ー45節 塚本虎二訳。1963.9.6.岩波文庫)
《 汚れた霊が追い出されて 人間から出てゆくと、砂漠をあるき回って休み場所をさがすが見つからないので、『出てきた自分の家にもどろう』と言って、かえって見ると、家は掃除ができて、飾り付けがしてあった。そこで行って、自分よりも悪い、ほかの汚れた霊を七つも連れてきて入り込み、そこに住む。するとその人のあとの有様は、追い出す前よりも、もっとひどくなるのである。」こう話しておられる時、群衆の中のひとりの女が声を張り上げてイエスに言った。「なんと仕合せでしょう。あなたを宿したお腹、あなたがすった乳房は!」しかしイエスは言われた。「いや、仕合せなのは、神の言葉を聞いてそれを守る人たちである。」》
( 『新約聖書 福音書』「ルカ福音書」第11章 24節ー28節 塚本虎二訳。1963.9.6.岩波文庫)
新約聖書 福音書 (岩波文庫) - 塚本 虎二
新約聖書 福音書 (岩波文庫) - 塚本 虎二
  これと似たような人を見ることがある。問題ありげな新興宗教団体に加入していた人が、その団体の問題に気づいて脱退したとしても、そういう団体に入る人間としてのおのれの精神構造に気づき改めないならば、その団体は脱退しても、その後またもや別の新興宗教団体あるいは新興宗教的団体に加入することになり、結果としてはたいして変わっていない、ということになる人というものが珍しくない。
  千葉市中央区鵜の森街 の新華ハウジング(有)〔建設業〕・ビルダーズジャパン(株)〔不動産業〕(いずれも2013年11月に正式に倒産)・ジャムズグローバルスクエア(株)〔不明業〕の社長だった長谷川新二(男。2010年当時、40代前半)は創価学会の構成員だったらしいが、創価学会はやめた人への攻撃が激しく、それは公明党の国会議員だった人とか有名人に対してだけではなく一般の構成員だった人に対してもそうらしく、それらを見て脱会したそうだった・・・が、ところが、その種の団体はもうやめたのかと思ったらそうではないようで、2010年後半から倫理研究所(=倫理法人会)に加入した( 一一)  又、アムウェイにも加入していたようだった( 一一)  創価学会を脱会したといっても、似たようなところのある団体に加入するのでは、なんか脱会した意味がそれほどないみたいだった。イエスの言葉は正しいようだ。「汚れた霊」が人間から出て行っても、空家になっていて掃除ができて飾り付けがした状態でほかの「汚れた霊」を待つ状態の精神構造になった人は、前よりも悪いかもしれない、ほかの「汚れた霊」が入りこみ、そこに住むことになる( 一一)
  ある新興宗教団体に加入していた人がその団体の問題点に気づいて脱会しても、そういう団体に加入するおのれの精神構造に気づき、おのれのその精神構造を改めることができなければ、また、まったく同じではなくとも似た傾向の団体に加入することになる。


  キリスト教においては、セーレン=キルケゴールは『聖書』を前にして「神の前の単独者」として神と対峙するという姿勢をとるが、そういう姿勢をとる者となるのか、そうではなく、現実に生きている人間の「言うことをきく」ということをやりたがる精神構造の人間として生きるのか。「力を尽くして狭き門から入れ」と自分自身で自分の十字架を背負って生きるという姿勢をとることができるか否か。
  松波信三郎『実存主義』(1962.6.23.岩波新書)には、
《 そのつどみずから決意することの自由に耐えかねて、何ものかに依存したり、何ものかを口実にしたり、何ものかに逃避したり、何ものかに指示を求めたり、何ものかに決定をゆだねることは、すべて自己欺瞞でしかない。ハイデッガーの用語をかりるならば、そういう生き方は、すべて非本来的である。
ところが、「怪しい新興宗教団体」に入りたがる人というのは、この姿勢をなかなか取れないのだ( 一一)

  (株)一条工務店の栃木県佐野市の展示場にいた「高木のおっさん」は「聖教新聞はほかのものとは違って、絶対に嘘は書かないから」と言うのだったが、嘘は書いていないかどうか、「高木のおっさん」はそのつど、検討したのか? そうではあるまい。「聖教新聞はほかのものとは違って、絶対に嘘は書かないから」と創価学会と聖教新聞を「信じている」のであろう。私は何新聞を読んでも、「絶対に信じる」というような見方読み方はしていない。それに対して「創価学会のおっさん」である「高木のおっさん」(男。2001年当時、50代なかば。元自衛隊・元トヨタカローラ。最終学歴:底辺の高校卒)は「絶対に嘘は書かないから」と個々にその記事がどうか自分自身で検討吟味することなく創価学会と聖教新聞を「信じている」のだ( 一一)  「創価学会のおっさん」にとっては創価学会や池田大作を批判的に述べるものが「嘘」で翼賛するものが「本当のこと」なのだろう。ただし、田川建三が『宗教とは何か』(洋新書)で述べていたが、かつて、創価学会系の出版社である潮(うしお)出版社から「月刊 潮(うしお)」への原稿を依頼されたことがあったそうだが、その際、創価学会に対しての批判のようなものを書いて渡したが、創価学会系の出版社が発行している月刊誌からの依頼に創価学会を批判するような文章を書いたのではボツにされるだろうと思ったら、そうではなくて、「月刊 潮(うしお)」の編集部は「我々は、こういった批判にも耳を貸すべきである」として掲載してくれたそうで、その時の「月刊 潮」の編集部の寛容さと幅の広さを高く評価したい旨、田川建三は述べていたが、創価学会系の出版社は必ずしも常に偏狭・敵対的・非妥協的ということでもなく、批判する者にも耳を貸すべきだという姿勢があったらしい。
  この「聖教新聞はほかのものとは違って、絶対に嘘は書かないから」という文句と似た文句を2010年だったか2011年だったか、千葉市中央区鵜の森町 の新華ハウジング(有)〔建設業〕・ビルダーズジャパン(株)〔不動産業〕(いずれも2013年11月に正式に倒産)でも耳にした。 工務店である新華ハウジング(有)に仕事をもらえないかと不動産屋をまわろうということになったのだが、営業のカジロ(男。当時、40代前半)が「一緒に行く」と私に言うので、なんで「一緒に行く」のだろうなと思ったが、自分はこんな感じでやっているというのを親切で見せてくれるのかと思ったら、それが目的ではなく、帰り、私のクルマの助手席に乗ったら、逃げようがないクルマの中で新華ハウジング(有)・ビルダーズジャパン(株)の事務所に着くまでの間、執拗にアムウェイに来いという話だった( 一一) (この男は、今後はうかつに私のクルマに乗せられないなと思ったが)新華ハウジング(有)の会社に到着して、ああ、やっと事務所についた、やっと終わった・・と思ったら、カジロの方はまだ終わったつもりではなかったようで、アムウェイの「研修会」だか「説明会」だかの日時と場所を書いた案内書を新華ハウジング(有)のコピー機でコピーして渡して、「私はまだシルバーの人間なのでうまく言えないところがありますが、研修会に来てもらえばゴールドかプラチナの人から説明を聞いてもらえますから、研修会に来てください。来れますね」と言って行くものだという前提で話をするのだが、「その日は都合がつかないですよ」とか「もう少し考えさせてください」とか言えば、普通の人間ならば、断られているということかな・・と考えるものだが、ところがアムウェイとか倫理研究所(=倫理法人会)とかそういう類の人間はそうは解釈しないのだ。断られても断られても執拗に食いついて離れない、特にそこが職場である場合、普通は職場でそういうことをしてはいかんでしょうがと考えるものだが、逆にそこが職場である限り、相手は嫌でもそこに来ないわけにいかないからそこで執拗に食らいついて研修会だか説明会だかに来させて・・と考えるようだった。もう、かなんわ・・・( 一一)
  それで、この時、カジロが言った文句が「アムウェイはほかとは違って絶対に悪いものは売らないから」と、どこかで聞いたような文句だなあ・・という文句を言ったのだったが、「創価学会のおっさん」である「高木のおっさん」が言った「聖教新聞はほかとは違って絶対に嘘は書かないから」というのとカジロが言った「アムウェイはほかとは違って絶対に悪いものは売らないから」という文句、この2つは極めてよく似た文句だった( 一一)  彼らは「信じている」のだった。キルケゴールのように『聖書』を前にして神と単独者として対峙するのではなく、「信じている」のだった。「高木のおっさん」は「聖教新聞」が書いていることが嘘であるかないか個々に検討するということはせずに「ほかとは違って絶対に嘘は書かないから」と「信じている」のであり、カジロは「アムウェイはほかとは違って悪いものは絶対に売らないから」と「信じている」のだった。マア、マルチ商法というのは「一般より少しいい目の物」を売るというのがマルチ商法の手法らしいので、「絶対に悪いものは売らない」かどうかはともかく、「一般より少しいい目の物」である場合が多いみたいだけれども。
  又、カジロは「私はシルバーの人間だから、あまりうまく話せないのですが、アムウェイの研修会(だったか説明会だったか)に来てもらえばゴールドとかプラチナの人から説明してもらえるから、ぜひ、研修会に来てゴールドかプラチナの人の話を聞いてほしいんです」と言うのだったが、この文句もいつかどこだかで聞いたような文句だった。1980年代、原理研究会(=国際勝共連合=統一神霊教会)の人間がまったくよく似たことを言うておったのだ。「私はシルバーの人間だから、あまりうまく話せないのですが、今度、集まりに来てもらえば、ゴールドの人とかプラチナの人の話を聞けますから、ぜひ集会に来てください」と原理研(原理研究会)の人間も言うておったのだ。アムウェイと原理研究会(原理研)はほんとによく似た言い回しをしている。
  カジロはアムウェイだけでなく倫理研究所(=倫理法人会)にも加入して、そして、早朝に倫理研究所の会合に出て会社に遅刻してくることがあったが、自分は正しいことをしていると信じてやっているので遅刻してきても平気だった。そういうことをさせるのが倫理なのか? そういうことをするのが倫理なのか? そんなリンリでマンマが食えるか? ・・というと食えないから新華ハウジング(有)・ビルダーズジャパン(株)は2013年11月に正式に倒産した。やっぱり、朝、始業時刻に遅刻してきた者は、もう少し、申し訳なさそうにしてはどうかと思ったのだが、倫理研究所(=倫理法人会)の早朝の会に出席してきたということから自分は正しいおこないをしているのだという自信を持って会社には遅刻して出勤していたようだった。かつ、カジロは他の日には終業時刻よりも前にアムウェイの集会に参加するために退社していったが、「信教の自由」は守らないといけないとしても、こういった新興宗教団体および新興宗教的性質を持つの団体に加入している人の採用を嫌がる会社が少なくないというのは、たしかに、わかる。

  倫理研究所(=倫理法人会)というのは、これは戦前戦中の神道系の新興宗教団体の「ひとのみち」が戦後にPL教団(パーフェクトリバティー)と実践倫理宏正会と倫理研究所(=倫理法人会)の3つに分かれて復活したもののひとつで、首相の靖国神社公式参拝を訴えたり、神話から説く「つくる会」作成の「歴史」教科書の採択を働きかけたりしているらしい「宗教右翼」と言われる団体のひとつである。倫理研究所(=倫理法人会)の問題点としては、
(1) あえて宗教団体にはならないようにして「宗教を強制してはいけませんが、倫理研究所は宗教ではなく倫理の団体なのです。倫理を教えてあげてやってあげようと言ってあげているんです。倫理の団体ですから強制していいんです」と勝手な文句を言っているという点があります。「倫理研究所は宗教の団体ではないんです」などと言うけれども、千葉県などのリフォームの会社の(株)ウッディホームの社長のおっさんは「太陽を拝みなさいと倫理研究所は教えてあげてやってあげようと言ってあげているんだあ。社長が太陽を拝みなさいと命令しているのに、おまえはそれに従えないのか」とか言うのですが、「太陽を拝みなさい」というのが「いったいどこが宗教なんですか。宗教のわけないでしょうが」と(株)ウッディホームの社長の細木さんはおっしゃるのだが、聞けば聞くほど「きっちり宗教」でしょうが( 一一) ( 一一) ( 一一)  どこが「宗教ではない」だ。ナマ言うんじゃねえ。
(2) 実践倫理宏正会などは個人の家の郵便箱にポスティングするなどして勧誘しており、勧誘されて入るのも自由、入らないのも自由なのですが、それに対して倫理研究所(=倫理法人会)はそうではなく、個人に勧誘するのではなくて、あまり教養水準が高くない個人経営の中小零細企業の社長などに「宗教ではなく倫理の団体だから従業員に強制していいんです」などと無茶苦茶言ってとりこみ、そういう中小制裁企業のオーナー経営者から「社長が丸山先生のお話を聞かせてもらってきなさいと業務命令してるんだあ」と言って週休日に倫理研究所(=倫理法人会)理事長丸山敏秋の話を聞きに行かせよう、倫理研究所(=倫理法人会)の集会に参加させようとするという点だ。個人に勧誘するのではなく、あまり教養水準が高くない個人経営の中小零細企業の経営者をとりこんで従業員に強制することで会員を増やすという方針をとっており、そのやり方で成り立っている団体であり、倫理研究所(=倫理法人会)はそのやり方によって存在しているという点で存在そのものが「信教の自由の侵害」であり、存在が反社会的な団体です。
  幸福の科学の大川隆法の息子がYouTube でオウム真理教と幸福の科学は似ているところがあるけれども、幸福の科学はオウム真理教のように犯罪として逮捕者が何人も出たりということはないというのはどこが違うのでしょうかと質問されて、「それは大川隆法はなんだかんだ言っても東大でてますから、これ以上やったらまずいといった判断ができるのでしょう」と述べていたが、倫理研究所(=倫理法人会)の理事長の丸山敏秋という男は、いったいどこの五流大学でとるんや・・と思ったら、ウィキペディアー丸山敏秋https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%B8%E5%B1%B1%E6%95%8F%E7%A7%8B#%E7%B5%8C%E6%AD%B4 を見ると「東京教育大学文学部哲学科卒」と掲載されている。東京大学・・ではなくて東京教育大学(現 筑波大学)の文学部哲学科卒らしいが、まがりなりにも国立大学の哲学科卒ならば、宗教団体および準宗教団体の拡張・勧誘の方法として、そのような方法はいけません・・と理事長の丸山敏秋 自身が言うべきものだ。それを言えないようでは、国立大学の哲学科卒だと言っても、あまり意味のない哲学科卒である。
  (株)ウッディホームhttps://www.woodyhome.com/ の社長の細木さんは「(週休日に)倫理研究所の研修会に出て親孝行を丸山敏秋先生に教えてもらいなさい」とかおっしゃるのですが、週休日というのは高齢の母親の世話をしなければならない日なので、その丸山敏秋というひとの親の世話をしないといけない日・時間を奪ってやろうとする不心得者の話なんか聞く余裕はないのです。倫理研究所の理事長の丸山敏秋という男は親孝行の敵です。まったく、ろくな人間じゃねえな、丸山敏秋というヤカラは、どこの五流大学卒なんだと思って、ウィキペディアー丸山敏秋https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%B8%E5%B1%B1%E6%95%8F%E7%A7%8B#%E7%B5%8C%E6%AD%B4 を見ると《  1976年(昭和51年) - 東京教育大学文学部哲学学科卒業 》だそうだ・・、週休日に高齢の親の世話をしないといけないのに、その時間を奪っておのれの話をきかせて「親孝行を教えてあげてやってやろう」だのと言い張るとは、なんとも程度の低い男である。国立大学の哲学科を卒業しても、そんなものか( 一一) 私より年下かと思ったら、ウィキペディアによると少しだけ年上だったようだが、私と年代はそれほど変わらないようだが、ウィキペディアには《 1984年(昭和59年) - 筑波大学大学院哲学思想研究科博士課程修了(文学博士)》と書かれているが、そういえば、1980年代、原理研究会=国際勝共連合=統一神霊協会 が強い右翼色が強い大学というのが、関東地方では筑波大学と慶應と青山学院で、関西では京都産業大だと言われていた。その筑波大学の「大学院哲学思想研究科博士課程修了」だそうだ。私などはうちの父親から「うちは大学院になんか行かすような金持ちとは違います。甘ったれなさんな」と言われたもので、私が慶應大学の学生相談室で大学院について聞いた話から「日本育英会奨学金は高校と大学の場合は学業成績と親の年収とから受給できるかどうか決まるので、うちは親の年収が日本育英会奨学金を受給できる基準を上回っているので受給できませんが、大学院の場合は親の年収は関係なくて学業成績だけで需給できるかどうか判断されますから、だから、大学院に行くのにあなたさまに費用を出していただくつもりはありませんから」と言っても、「そうはいくかい、チャンコロろすけイタコ浪商! おまえが産まれてこなかったら良かったのに産まれたために、おまえを育てるのにカネがかかっておるんじゃ。そやから、大学でたら会社に勤めて働いて、これまでにかかったカネをまどてもらわんといかんのじゃ。誰が大学院になんか行かすか、このチャンコロろすけイタコ浪商めがこのチャンコロ! 産まれてこなかったら良かったのに産まれおってからに」と言われたものだったが、丸山敏秋さんという人は筑波大学の大学院哲学思想研究科を博士課程まで行かせてもらったそうで、「ええなあ」「うらやましいなあ」「ほんまにええなあ」て感じがする。「わしぁ日陰の月見草や」。「ええなあ、長嶋はあ」ではなくて「ええなあ、丸山敏秋はあ」「丸山敏秋はほんまにええなあ」て感じ。〔⇒《YouTube-くたばれ読売で盛り上がった東京音頭》https://www.youtube.com/watch?v=_lGaI9y6XVA 〕 『正法眼蔵随聞記』(岩波文庫)には、栄西の所にその日の生活に困っている親子が来た際に、栄西は仏像を作るために用意されていたカネをこれで食べなさいと渡したという話が載っているが、丸山敏秋は安い給料で長時間労働で休みは週に1日とれるだけの仕事の人間がその週休日に「親孝行」する時間を奪った上で「親孝行というものを教えてあげてやってあげようと言っているんだあ」と言うというアホであり、『正法眼蔵随聞記』に掲載される栄西の考え方とは正反対の姿勢である。
日本会議とは何か: 「憲法改正」に突き進むカルト集団 (合同ブックレット) - 聰, 上杉
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  《 そのつどみずから決意することの自由に耐えかねて、何ものかに依存したり、何ものかを口実にしたり、何ものかに逃避したり、何ものかに指示を求めたり、何ものかに決定をゆだねることは、すべて自己欺瞞でしかない。ハイデッガーの用語をかりるならば、そういう生き方は、すべて非本来的である。》(松波信三郎『実存主義』 岩波新書)という、その「非本来的」な精神構造の人はいるのではないか。
  《 汚れた霊が追い出されて人間から出てゆくと、砂漠をあるき回って休み場所をさがすが見つからない。そこで『出てきた自分の家にもどろう』と言って、かえって見ると、空家になっていて、掃除ができて、飾り付けがしてあった。そこで行って、自分よりも悪い、ほかの七つの汚れた霊を一しょに連れてきて入りこみ、そこに住む。》(『新約聖書 福音書』「マタイ福音書」)というような人はいるのではないか。ある新興宗教団体を脱会しても、精神構造が改まらないならば、別の似たような団体に加入することになる・・というそういう人はいると思う。・・こういうことを言うと、当人はたぶん、怒ると思うけれども。 価値があることを言われて怒るようでは、その精神構造は改まっていないということである。フリードリヒ=ニーチェは『ツァラトゥストラはこう語った』の冒頭に「万人に与える書。何者にも与えぬ書」と書いているが、自分自身の精神構造を改めるという作業は本人がやらなければ、ほかの人間がそれを「与える」ということは無理なものだ。
※ YouTube-ツァラトゥストラはかく語りき  Also sprach Zarathustra アンドレ・プレヴィン(指揮)、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団 https://www.youtube.com/watch?v=9I8u8_-kuSE
・・・それにしても、三流企業に勤めると、「変なおっさん」がいっぱいおるもんだ( 一一)  疲れるわ・・・ほんと・・

  (株)一条工務店https://www.ichijo.co.jp/ では、1998年、静岡県浜松市北区の深奥山方広寺〔「臨済宗方広寺派」を名乗っているが、あんな臨済宗ないで、あんなもん。方広寺派の「大本山」と称しているらしいが、おもろい「大本山」もあったもんだ( 一一)  深奥山方広寺は元々は南禅寺派に所属していたが、実際に行ってみるとわかるが立地からしても山中で本来はいくつもの伽藍が並ぶような場所ではなく、元々は「総本山」とか「大本山」になるような立地の寺ではないし、由緒としても「半僧坊」という民間信仰のようなものを祀っている山岳系の宗教施設であって仏教本来のものではなく「半僧坊」は禅とも本来関係ない存在であり、お寺の総本山とかは曹洞宗の永平寺が福井県にある以外は京都・奈良・鎌倉にあることが多く、それに対して静岡県から愛知県にかけてはそれなりの企業があり、企業の名前入りの石柱とか建てたいという会社があるようで、そういう会社としては寄付金払うことで寺に会社名を刻んだ石柱建てて宣伝したいという思いがあるみたいで、そういう会社としては京都や奈良・鎌倉の寺に愛知県・静岡県の会社の名前入りの石柱建てるよりも地元の寺に建てた方がええと考えるようで、寺は寺でそういった所からもらった みかじめ料・・じゃなくてお布施というのか、そのカネから京都の総本山に上納金払うよりも自分の所でもらっておいた方がええ・・となると自分の所が「派」のトップの「大本山」になった方がええ・・とかいうその程度のことで独立したものではないかな・・( 一一) 豊臣秀吉が大仏を安置する寺として設けたことに由来し「国家安康」「君臣豊楽」の鐘で有名な京都の方広寺(天台宗)とはまったく別。〕で「座禅研修」と称して実際には座禅ではなく堕落ボーズの勝手な講釈を聞かされたて、望まない宗教儀礼に参加させられたが、これは当然のことながら「信教の自由の侵害」と評価されるものである。同社で聞いた話では、静岡県の掛川営業所の所長の近藤正夫(男。当時、50くらい?)が主張したものだということだったが、近藤正夫は同社では「通算契約棟数全国1位」ということになっていたが、(株)一条工務店は静岡県中西部・愛知県はほかの地域よりドカンと一発、安い値段でダンピング販売をしてきたのであり、静岡県中西部・愛知県だけテレビ広告をドカンと一発♪ やりまくってきたのであり、そういった他の地域よりずっと売れやすい売りやすい条件のもとでのみ営業やってきた男であり、近藤正夫の「通算契約棟数全国1位」などというものは、「しょせんは、二軍の首位打者みたいなもの」であり〔元ロッテオリオンズの里崎がYouTube の「里崎チャンネル」https://www.youtube.com/results?search_query=%E9%87%8C%E5%B4%8E%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%8D%E3%83%AB で「二軍の首位打者なんて何の価値もないからね」と言うておったが、そんなものだ〕、掛川営業所よりずっと条件が悪い営業所にばかり配属されてきた者からすれば近藤正夫の「通算契約棟数全国1位」などというものはチャンチャラおかしい・・てものだが、チャンチャラおかしい「通算契約棟数全国1位」であれ、正真正銘の「通算契約棟数全国1位」であっても、近藤正夫に(株)一条工務店の従業員に対して「信教の自由の侵害」をおこなう権利などというものはないのは明らかであり、近藤正夫と深奥山方広寺のこの部分における傲慢な態度は許しがたい。
※ 深奥山方広寺(浜松市北区)については、
[第545回]1. 八百長の通算契約棟数全国1位。遠州地方の営業の我田引水。 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201707article_1.html
[第546回]2. 商品を大事に思う心。住宅営業にとっての知識。 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201707article_2.html
[第547回]3. 払うべきカネを払わない者。掛川の人口は4万人ではない。 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201707article_3.html
[第548回]4. 営業は自分で考えるもの+協力を求めてそれで契約になるのなら。 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201707article_4.html
[第549回]5. うかつに「売れる人」と言うな。営業は大貧民ゲーム。 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201707article_5.html
[第550回]6. 山門。 「もうかってる」会社が人をやめさせてよいのか。 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201707article_6.html
[第551回]7. 弁天堂。 利益を生み出したのは労働。使用者に媚びる俗物寺。 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201707article_7.html
[第552回]8. 椎河龍王。亀背橋。「信教の自由の侵害」を認識できないのは「病」 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201707article_8.html
[第553回]9. 三重塔。 堂宇を増やすのが寺の発展なのか。 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201707article_9.html
[第554回]10. 鐘楼、本堂。 裏口は嫌い。従業員の労働が化けた羅漢? https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201707article_10.html
[第555回]11. 上天台舎利殿、観音堂。 「親に感謝」は「教育勅語」の思想。 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201707article_11.html
[第556回]12. 開山堂、勅使門、半僧坊真殿。 本人が希望しないお守りは害がある。 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201707article_12.html
[第557回]13. 七尊堂(富士浅間・春日・伊勢・稲荷・八幡・梅宮・北野)と稲荷社 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201707article_13.html
[第558回]14. 不良ボーズによる宗教の強制は国民に信仰心を妨げる https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201707article_14.html 
[第559回]15. (株)一条工務店の従業員の給料へつった金が、深奥山方広寺門前のじいさんとその孫の小遣いに化けた。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201707article_15.html
[第973回]仏敵 深奥山方広寺(浜松市)による信教の自由の侵害。お守りは持ちたいと思う者が受けて所持してこそ価値があり、その「お守り」は持ちたくないと思うものを嫌がる者に無理矢理持たせても害こそあれ益にならないーー平山お願い薬師・東光院(千葉市)参拝【4/4】お納め所 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/496722649.html
※ 《一条工務店の白旗山メガソーラー乱開発の説明会 日本共産党嘉飯地区委員会》http://jcp-kahan.info/archives/194 

 (2023.11.24.「安い給料で働く労働者の日」ではなく「勤労感謝の日」の翌日) 

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