多田神社(川西市)【4/7】随身門から拝殿・本殿へ。多田源氏とは清和源氏の摂津源氏。16世紀初期の拝殿・本殿・随身門。

[第1028回]
 兵庫県川西市の多田神社 参拝の4回目です。
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↑ 隋神門(重要文化財)をくぐって神域に入ります。
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↑ 手水舎はありますが、コロナウイルスの関係でか水はありません。

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↑ 多田神社 拝殿(重要文化財)。

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↑ 拝殿 右(東側)側面。

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↑ 多田神社 本殿(重要文化財)。左手前は拝殿。
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↑ 本殿。
本殿には千木(ちぎ)・鰹木(かつおぎ)が載っていますが、拝殿には千木・鰹木はありません。

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↑ 本殿の千木と鰹木。
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↑ 本殿の屋根の紋。

  ウィキペディアー多田神社https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%9A%E7%94%B0%E7%A5%9E%E7%A4%BE を見ると、
拝殿は《 拝殿(重要文化財) - 寛文7年(1667年)に徳川家綱によって再建。桁行七間・梁間三間の入母屋造で、正面・背面に向拝三間を付し、屋根は檜皮葺。》
本殿は《 本殿(重要文化財) - 寛文7年(1667年)に徳川家綱によって再建。桁行五間・梁間三間の入母屋造で、向拝三間を付し、屋根は檜皮葺。》
重要文化財に指定されている建築は拝殿と本殿と隋神門の3つで、
随神門は《 随神門(重要文化財) - 寛文7年(1667年)に徳川家綱によって再建。八脚門。三間一戸の八脚門。切妻造で、屋根は本瓦葺。》

  南大門・東門・西門の3つは兵庫県指定登録文化財に指定されているそうで、
《 東門(兵庫県指定有形文化財) - 徳川家綱により再建。江戸時代初期の造営。切妻造で、屋根は本瓦葺。
西門(兵庫県指定有形文化財) - 徳川家綱により再建。江戸時代初期の造営。切妻造で、屋根は本瓦葺。
南大門(兵庫県指定有形文化財) - 延宝4年(1676年)再建。旧多田院の仁王門。桁行三間・梁間二間の切妻造で、屋根は本瓦葺。》
  又、摂末社の厳島神社と六所宮 も兵庫県指定有形文化財の指定を受けているそうだ。
《 厳島神社(兵庫県指定有形文化財) - 祭神:市杵嶋姫命。江戸時代初期の造営。一間社流造で、屋根は檜皮葺。旧多田院の弁財天社。
六所宮(兵庫県指定有形文化財) - 伊勢神宮、賀茂神社、稲荷神社、春日神社、住吉神社、熊野神社の神を祀る。江戸時代初期の造営。三間社流造で、中央間に軒唐破風を付し、屋根は檜皮葺。旧多田院の鎮守社。多田荘72ケ村の総社。》

 明治維新後の建物だが宝物殿は、
《 宝物殿(国登録有形文化財) - 1929年(昭和4年)再建。源家宝刀の鬼切丸を所蔵している。》
と国登録有形文化財の指定を受けているらしい。
  又、多田院として国指定史跡 に指定されているらしい。

  多田神社は、
《 六孫王神社(京都府京都市南区)、壺井八幡宮(大阪府羽曳野市)とともに「源氏三神社」の1つ前身は「多田院法華三昧寺」と号した天台宗のち真言律宗の寺院であり、境内は現在でも「多田院」の名称で国の史跡に指定されている。初期清和源氏の本拠地であった旧摂津国多田に鎮座する源氏一門の祖廟であり「清和源氏発祥の地」とも呼ばれる。》

《 当神社は、天禄元年(970)に創建され多田院とも、また、多田大権現社とも言われ、明治の神仏分離令により多田神社になりました。
  御祭神は、第五十六代清和天皇の曽孫 贈正一位鎮守府将軍 源満仲 公をはじめ、頼光、頼信、頼義、義家の五光をお祀りしています。源氏発祥の地である多田は、源満仲 公が摂津国一の宮の住吉大神の御神託を受けてこの地に館を構え、荘園開発及び武士団を構築しました。子孫である清和源氏一門は繁栄を重ね、鎌倉・室町・江戸と約700年に亘る武家社会の担い手となったのであります。
  五公が国家の重臣として尽くされた功績は我が国史上鮮やかに輝いています。
  当社は、武運長久の勅願社として、又 家運隆昌、勝運厄除の守護神として崇敬されている神社であります。》
と現地の説明書きに書かれています。

  全国歴史教育研究協議会編『新版 日本史用語集』(1966初版、1975新版、1978新版15刷 山川出版社)には、
《 源 満仲 みなもとのみつなか  913~97 源経基みなもとのつねもと の長子。諸国の受領を歴任。969年 安和の変で源高明を密告し藤原氏に接近、勢力を伸張。摂津多田荘に土着し多田源氏と称した。》
《 安和の変 あんなのへん  969年。左大臣 源高明を藤原氏が失脚させた事件。源満仲らが源高明を、その女の夫の為平親王擁立の陰謀ありと密告。大宰府に左遷。以後藤原氏全盛。》

《 源 頼光 みなもとのよりみつ  ?~1021 満仲の長子。藤原兼家・道長に仕え、富裕を誇った。大江山酒呑童子退治の伝説で有名。》

《 源 頼信  968~1048 満仲の子。道長に仕え、甲斐守のとき 平忠常の乱を平定、東国に源氏勢力進出。河内守で土着し、河内源氏となる。》
《 平忠常の乱 忠常は高望の曽孫。上総介・武蔵国押領使となり、1028年、反乱をおこして房総を占領したが、追捕使 源 頼信に降伏。以後関東の平氏衰退。》

《 源 頼義   988~1075 1051年、前九年の役に子 義家とともに陸奥守、鎮守府将軍として討伐。清原武則の援をえて平定。》
《 前九年の役 1051~62 陸奥の土豪安倍頼時が国司に反抗、朝廷の命で源頼義・義家が清原氏の援をえて平定。源氏の東国における勢力確立の緒となる。》

《 源 義家 1039~1106 八幡太郎という。前九年の役に従軍。1083年陸奥守、鎮守府将軍となり、後三年の役を平定。私財で賞を与え、関東の武士の信望を高めた。》
《 後三年の役 1083~87 清原氏の相続争いに陸奥守として赴任した源義家が介入。藤原清衡を援けて清原氏を滅ぼす。源氏の信望が東国に高まり武家の棟梁の地位を確立。》
と出ている。 源頼義・義家の親子が前九年・後三年の役を通して東国に勢力を伸ばした・・・というのが一番有名で、次いで、源頼光による大江山の鬼退治が有名か。

  それで、「源氏」と「平氏」はどう違うのか、どちらも天皇の子孫で、なおかつ、「源氏」と言っても一番有名なのは清和天皇の子孫の「清和源氏」だが、清和源氏のほかにも「源氏」は存在し、「平氏」の方も桓武平氏が一番有名だが平氏も桓武平氏だけではないので、地方の土豪で実際にはそうではない可能性がある者も「源氏」や「平氏」の子孫と名乗ったりしていることもあったらしいが、そういうものは別としても、「源氏」と言っても別の天皇の子孫であることがあるようだ。それなら、どちらも天皇の子孫なのに「源氏」を名乗る者と「平氏」を名乗る者があったのはどういうことかというと、関裕二氏の本によると、天皇の子の代で皇籍離脱した者が「源氏」で、天皇の孫の代で皇籍離脱した者が「平氏」だったという。
  兵庫県川西市多田神社は「源家祖廟」と書いてもらった御朱印にも書かれていたように、「源氏」の祖を祀る神社だが、「多田源氏」とは「源氏」の中でもどの位置づけの源氏なのか。源頼義・義家というと中学校の「歴史」・高校の「日本史」にも登場する有名人だが、「多田源氏」とは「清和源氏」とは違うのか。
  ウィキペディアー源氏の人物一覧 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E6%B0%8F%E3%81%AE%E4%BA%BA%E7%89%A9%E4%B8%80%E8%A6%A7 を見ると、どうも、「多田源氏」というのは「清和源氏」の一部の「摂津源氏」の一部らしい。だから、「多田源氏」は「清和源氏」と別ということではなく、「清和源氏」の一部ということのようだ。

  ウィキペディアー源為義https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E7%82%BA%E7%BE%A9 、
ウィキペディアー源義朝 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E7%BE%A9%E6%9C%9D 
ウィキペディアー源頼朝 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E9%A0%BC%E6%9C%9D#%E7%B3%BB%E8%AD%9C
を見ると、源義家の孫が源為義で、源為義の息子が源義朝で、義朝の子が源頼朝や義経だったらしい。
  ウィキペディアー源氏の人物一覧https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E6%B0%8F%E3%81%AE%E4%BA%BA%E7%89%A9%E4%B8%80%E8%A6%A7#%E5%AE%87%E5%A4%9A%E6%BA%90%E6%B0%8F を見ると、為義・義朝・頼朝は「清和源氏」の中でも「河内源氏」に属するらしく、「多田源氏」は「摂津源氏」に属し、いずれも「清和源氏」だけれども、そのあたりで少し違うみたい。
  ウィキペディアー多田源氏 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%9A%E7%94%B0%E6%BA%90%E6%B0%8F を見ると、
《 多田源氏(ただげんじ)は、清和源氏において源満仲(多田満仲)に始まる摂津国多田庄を本拠とした系統を指した呼称。》
《 清和源氏における「多田源氏」が指す一族の解釈は必ずしも定まったものではなく、今日に至るまで以下のような用い方が流布しているがいずれも誤りではないといえる。
1.多田庄を本拠とした源満仲を中心とする初期清和源氏全般を指して用いる場合。
2.満仲の嫡子として多田庄を継承した頼光の後裔「摂津源氏」と同義で用いる場合。
但し、近年ではより厳密な定義として、上記摂津源氏の中でも特に多田庄を相続した系統のみを指して「多田源氏」と呼ぶ用い方もなされている。》
と書かれており、
《 保元の乱では惣領の座を巡って激しく争った頼盛・頼憲兄弟が後白河天皇方と崇徳上皇方とに分かれて戦い、上皇方に与した頼憲とその嫡子盛綱が処刑されている。》
《 平氏政権下となると行綱が鹿ケ谷の陰謀に加わりその謀議を密告したことで知られるが、この陰謀で行綱が藤原成親によって反平家の大将に据えられたのも多田荘の武力を背景とした行綱の力量を見込んでのことであった。その後の治承・寿永の乱では行綱が摂津武士を率いて源氏方の一翼として活躍したが、東国武士の棟梁となり清和源氏の嫡流を自認した源頼朝によって多田荘を奪われると多田源氏は没落した。
その後の多田荘は多田源氏の庶流や累代の家人たちによって構成される多田院御家人によって在地支配がなされ、多田源氏直系の子孫は多田氏能勢氏などとなったとされるが、その詳しい動向は明確でなくなっている。》
と書かれており、「多田源氏」は「清和源氏」の一部らしいが、「清和源氏の嫡流」を主張した源頼朝 に多田荘を奪われて以降は没落し、「多田氏」「能勢氏」になったとも言われるらしいが明確ではないということらしい。
※ ウィキペディアー治承寿永の乱
《 治承・寿永の乱(じしょう・じゅえいのらん)は、平安時代末期の治承4年(1180年)から元暦2年(1185年)にかけての6年間にわたる国内各地の内乱であり、平清盛を中心とする伊勢平氏正盛流に対する反乱である。反平家勢力の中には祖を同じとする板東平氏も多分に含まれており遠戚間の対立、嫉妬に契機を発した抗争でもある。日宋貿易で得られた富を中央政府側で独占し、その財と権力で栄華を極め、傍若無人に振る舞った平家に他勢力が不満を募らせたことが反乱を招いた。このことから、平家の繁栄と没落を描いた叙述書、平家物語冒頭の「驕れる者も久しからず」という一文は「財や地位、権力を盾に威張る者は平家のようにいずれ滅びる」という意味の諺にもなっている。
後白河法皇の皇子以仁王の挙兵を契機に起こり、反乱勢力同士の対立がありつつも、最終的には平氏政権は打倒された。源頼朝を中心とした主に坂東平氏から構成される武士集団が平氏政権勢力打倒の中心的役割をつとめ、新たな武力政権である関東政権(鎌倉幕府)の樹立に至った。
一般的には 「源平合戦(げんぺいかっせん)」 「源平争乱(げんぺいそうらん)」 「源平の戦い(げんぺいのたたかい)」 などの呼称が用いられることがあるが、こうした呼称を用いることは適当でないとする議論がある。
また、奥州合戦終結までを治承寿永の乱に含めるという見解もある。》
※ ウィキペディアー奥州合戦 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%A5%E5%B7%9E%E5%90%88%E6%88%A6
《 奥州合戦(おうしゅうかっせん)は、文治5年(1189年)7月から9月にかけて、鎌倉政権と奥州藤原氏との間で東北地方にて行われた一連の戦いの総称である。この戦役により、源頼朝による武士政権が確立した。また治承4年(1180年)に始まる内乱時代(治承・寿永の乱)の最後にあたる戦争でもある。》
《 泰衡は義経の首を差し出す事で平泉の平和を図ったが、頼朝は逆に家人の義経を許可なく討伐したことを理由として、7月19日に自ら鎌倉を出陣し、大軍を以って奥州追討に向かった。奥州への対応を巡って朝廷と幕府の見解は分かれたが、頼朝は大庭景義の「戦陣では天子の詔は聞かない」「泰衡は家人であり誅罰に勅許は不要である」との進言を受けて、宣旨なしでの出兵を決断した。》


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( ↑ クリックすると大きくなるので大きくして見てください。)
↑ 多田神社境内に掲示されていた源氏の家系図であるが、これを見ると、源満仲の子の頼光の子孫が「多田源氏」で、やはり満仲の子の頼信の子孫が「河内源氏」で、義信の子の頼義の子の義家の子孫が「河内源氏」で、その子孫に為義ー義朝ー頼朝 がいたようで、義家の子の義国の子の義重の子孫が新田、義国の子の義康の子の子孫が足利ということらしく、「多田源氏」の方の子孫では土岐氏の子孫の明智氏に明智光秀がいる・・ということらしいが、明智光秀までいくと、はたして「ほんまかいやあ」という気もしないこともない。

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↑ 隅の方に存在するこの祠は何なのか・・、どうもよくわからない。

  次回https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/502254600.html は、随身門の右手前(東南東)に配置される多田院天満宮を参拝します。  

  (2024.2.2.)

☆ 多田神社(兵庫県川西市)参拝。
1.妙見口駅から多田駅。多田駅前。能勢電鉄を川西池田駅に接続するのが嫌だから川西能勢口駅から大阪梅田まで直通特急を走らせ、かわりに箕面線の直通電車を廃止したか。息子のために配慮する親を持った古田敦也はうらやましい。多田駅付近にある多田神社と多太神社。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/502188429.html
2.多田駅から塩川・多田公民館・多田小学校を経て多田神社。裏口入学て自慢するものなのか? 医者の常識は一般人の非常識。ガチンコ民族は裏口からでなく正門から入ろう。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/502195962.html
3.石段を登り南大門から鳥居を経て随神門。南大門の前の猪名川。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/502225436.html
4.随身門から拝殿・本殿へ。多田源氏とは清和源氏の摂津源氏。16世紀初期の拝殿・本殿・随身門。〔今回〕
5.多田院天満宮参拝ー冤罪を晴らす神様・怨念を晴らす神さま・菅原道真https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/502254600.html
6.国登録有形文化財の宝物殿。東門。多田神社の清涼飲料水自販機は三ツ矢サイダー。川西市の平野鉱泉が三ツ矢サイダー発祥地。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/502256373.html
7.西門・厳島神社・田尻稲荷神社・六所宮・社務所。イチキシマヒメは美人と言われても会ったことないもの、わからん。週刊誌・スポーツ新聞記事では女性は誰でも「美人」。自分で「社長を退任した」人がなぜ表に出てくるのか。進学校に「うまく合った」人が神戸大に行く学習法と「高校入学時の学年順位から考えると京大に行ける成績」だった者が京大に行く学習法・東大に行く学習法は質が違う。「いい意味でのプライドがある人間」に対して「簡単にあきらめる人」はそれが原因で試験に通らない。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/502273265.html
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