多田神社【7/7】高麗門の西門・厳島神社・田尻稲荷神社・六所宮・社務所。イチキシマヒメは美人と言われても会ったことないもの、わからん。週刊誌・スポーツ新聞記事では女性は誰でも「美人」。自分で「社長を退任した」人がなぜ表に出てくるのか。進学校に「うまく合った」人が神戸大に行く学習法と「高校入学時の学年順位から考えると京大に行ける成績」だった者が京大に行く学習法・東大に行く学習法は質が違う。「いい意味でのプライドがある人間」に対して「簡単にあきらめる人」はそれが原因で試験に通らない。

[第1031回]
  兵庫県川西市多田院 の多田神社参拝の7回目です。
南大門から随身門を結ぶ南北のラインより東側に多田院天満宮・宝物殿・東門がありますが、そのラインより西側に、随身門の左手前(南西)に社務所があり、その西に摂社で兵庫県指定有形文化財の六所宮・厳島神社と田尻稲荷神社があり、その西に兵庫県指定文化財の西門があります。↓
DSC03393.JPG
( ↑ 写真はクリックすると大きくなります。)
DSC03429.JPG
↑ 何社か神社に訪問すると、社務所の建物って、社務所という雰囲気があると感じるようになりますね。
DSC03428.JPG
↑ 自然石を使った手水があるのですが、コロナウイルスの問題からか閉じられています。

  この西に六所宮・厳島神社・田尻稲荷神社があってその西に西門があり、南大門から入って南大門と随身門の間、社務所の南側から行くこともできるのですが、今回は西門も見たいと思い、又、門というものは内側から見てもいいけれども、外から中に入るのが基本なので、ここではいったん南大門から外に出て、その上で西側にまわって西門から再度入ることにしました。
DSC03437.JPG
↑ 西門です。兵庫県指定有形文化財の指定を受けているそうです。
《 西門(兵庫県指定有形文化財) - 徳川家綱により再建。江戸時代初期の造営。切妻造で、屋根は本瓦葺。》
《 西門(建造物) - 1968年(昭和43年)3月29日指定。》(ウィキペディアー多田神社 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%9A%E7%94%B0%E7%A5%9E%E7%A4%BE )
  西門の右側の柱には、
《 西門 柱間3.6メートル 
屋根切妻造 本瓦葺
文化財保護条例第4条第1項の規定により
昭和43年(1968年)3月29日付指定せらる
建立年代寛文7年 征夷大将軍 正二位 右大臣 源家綱公御社殿御再興と共に造られたもので木割の大きい雄大な高麗門である
主柱の架構が鳥居様であり、控え柱上の屋根妻が正面から見えているのは高麗門としては珍しい扱いである
江戸時代における多田院再興の遺構として重要なものである 》
と書かれた木札が貼られている。
  「寛文」はウィキペディアー寛文https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%9B%E6%96%87 によると《1661年から1673年までの期間》で、「寛文7年」とは1667年で《東大寺二月堂が修二会における失火で失われる》ということがこの年にあったらしく、又、『忠臣蔵』の登場人物、江戸城の通称「松の廊下」で吉良上野介に切りかかった浅野長矩(あさの ながのり)が生まれた年らしい。
  「源 家綱 公」とは江戸幕府の4代将軍の徳川家綱のことのようだ。
  「高麗門」とは、ウィキペディアー高麗門 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E9%BA%97%E9%96%80 には、
《 高麗門は、文禄・慶長の役が行われた1592年から1598年の間に造られ始めた城門である。鏡柱と控柱を一つの大きな屋根に収める構造の薬医門を簡略化したもので、屋根を小ぶりにして守備側の死角を減らす工夫が施された。江戸時代以降には、城郭に限らず神社仏閣や町の出入り口を仕切る木戸門などとして多く築造された。》
《 柱の構造は、鏡柱2本と内側の控柱2本から構成されている4本の柱は直立しており、2本の鏡柱上に冠木を渡して小さな切妻屋根を被せ、鏡柱と内側の控え柱の間にも小さな切妻屋根を被せる。》
と出ている。そう言われて見ると、たしかにそうなっている。

  西門から入って北側に厳島神社、その東に田尻稲荷神社、南側に六所宮がありますが、それぞれの摂社の入口の位置を考えると、南大門から入って社務所の南側の位置から進んだ方がいいのかもしれません。
DSC03440.JPG
DSC03441.JPG
↑ 「北摂七福神 弁才天」と右手前の札には書かれていますが、額には「厳島神社」と書かれています。
  戸部民夫『日本の神様がわかる本』(2005.1.5.PHP研究所)の「宗像三神」のところには、
《 宗像三神は、タギリヒメ命、イチキシマヒメ命、タキツヒメ命の総称で宗像三姉妹とも呼ばれる。美人の誉れ高いこの女神たちは、日本の代表的な海の神として強力な霊威を発揮している実力はである。》
《 神話では、アマテラス大神(おおみかみ)とスサノオ尊(のみこと)が誓約(うけひ)したとき、大神がスサノオ尊んっびお剣を嚙み砕いて吹き出した霧から三女神が生まれた
  そのあと大神から北九州の玄界灘に降って海の回護神(かいごしん)となるように命じられたという。》
《 宗像三神のなかでも、とりわけ美人とされて人気があるイチキシマヒメ命は、神仏習合で仏教の弁才天と同神とされ、妖艶な「弁天様」として広く一般に信仰されている。
  本来、インドのヒンドゥー教の河の神である弁天様は、財宝・美・音楽・芸能などをつかさどり、日本では水の神、農業神としてもい広く祀られている。神仏混交の時代には、宗像・厳島系神社の多くが弁才天として祀るという現象も起きた。・・・》
と書かれている。
  「美人の誉れ高いこの女神たち」「とりわけ美人とされて人気があるイチキシマヒメ命」と言われても、会ったことないから実際に美人かどうかはわからない。そもそも、週刊誌とかスポーツ新聞とかでは女性は誰でも「美人」という接頭語がつけられる、谷亮子以外は・・(^O^)
1996年8月に(株)一条工務店https://www.ichijo.co.jp/ の初代社長のバカ息子で損害保険の代理店の業務を扱う関連会社の(株)日信 の社長になっていた大澄隆史(男。当時、20代)が浜松市在住のピアノ講師をしていた女性を刃物で100か所以上刺して殺し、東京からクルマで浜松まで往復して自分は東京にいたから犯人ではないとしらばっくれたが高速道路の出入り口のカメラにばっちり写っていたことから逮捕され懲役20年の実刑判決を受けたということがあったが、消費税がもうすぐ上がる、上がってからでは契約をとりにくくなる、今、契約とらなくていつ取るんだと従業員は必死のパッチで働いているまさにその時、《「初代社長の息子」で関連会社》の社長は何してくれるんだよ・・てものだったが、その時も「危険な20代」というタイトルとともに「浜松市の美人ピアノ講師殺人事件」と書かれていたと記憶している。こういう際、実際に美人であったかどうかの検討はされていない。ともかく、週刊誌やスポーツ新聞の記事において女性は谷亮子以外は全員、「美人」なのだ。
  (株)一条工務店の「初代社長」の大澄賢二郎は中国の小説『水滸伝』が好きで、そこに登場する山賊の砦「梁山泊(りょうざんぱく)」から「梁山泊の精神」と言っていたのだが、その「梁山泊」の初代首領が王倫(おうりん)、2代目首領が晁蓋(ちょうがい)で2代目副首領で3代目首領になるのが宋江(そうこう)、「呼保義(こほうぎ) 宋江」と言い、「ひとが雨を欲しがっている時に雨を降らせてくれるような存在」という意味で「及時雨(きゅうじう)の宋江」と言うのだが、これがどういう男かというと、反体制勢力だった梁山泊から誘いの手紙をもらったものの、それを無警戒に机の上に載せていたところ、メカケの女に読まれてしまって脅され、怒って女を刃物で切り殺し、役人だった男が殺人を犯したのではそのままではすまないと山賊で反体制勢力の砦の梁山泊に入ることにする・・という、なんというのか「ひとが雨を欲しがっている時に雨を降らせてくれる男」とか何とか言うわりには冷静さがないというのか、こんなのが首領でいいのか・・という「カッとなって刃物で女を刺し殺し、官憲に追われ逃げる」という男で、まさに(株)一条工務店の「初代社長」の大澄賢二郎のバカ息子で関連会社の(株)日信の社長だった大澄隆史とそっくり( 一一)  まさに「梁山泊の精神」であり、まさに『水滸伝』の世界
  そして、東京に住んでいたらしく、静岡県浜松市に本社があった会社で、損害保険の代理店の業務の関連会社(株)日信の社長になっていたにもかかわらず、本社のある浜松近辺ではなく東京に住んでいたそうで、その東京からクルマで高速道路をぶっとばして浜松まで行って女を刺し殺して、またもや高速道路をぶっとばして東京まで帰ってきた・・・というあたりは、豊臣秀吉の「中国大返し」みたいなもの( 一一) 豊臣秀吉はこの「大返し」という、相手がまさかまだ戻ってこないだろうと思っているところに急遽戻ってくるというのを得意技にしていたようで、本能寺の変の後、明智光秀に対して岡山県あたりで毛利と戦っていたはずの羽柴秀吉ひきいた織田連合軍があっという間に大阪まで戻ってきて山崎の戦いで勝利し、そして、賤ケ岳の戦いでは越前から近江まで出てきた柴田勝家の軍勢に対して、それに呼応して立ち上がった岐阜城の織田信孝、伊勢長嶋の滝川一益と三方を相手として、岐阜の織田信孝を攻めに行ったと思いきや、大垣付近からあっという間に引き返して、琵琶湖北岸の余呉湖付近まで戻ってきて、柴田軍に属していた前田利家が突如として戦線離脱して秀吉側に寝返ったことと合わせ、賤ケ岳の戦いで柴田勝家を破ったとか、そういう「大返し」を得意としていたようだが、(株)一条工務店の「初代社長」のバカ息子もまた、東京からクルマで高速道路をぶっ飛ばして浜松まで行き、浜松で女性を刃物で刺し殺して、またもや東京まで高速道路をぶっとばして戻ってくるというあたりはまさに羽柴秀吉を思わせる「大返し(おおがえし)」、””大澄隆史の浜松大返し”” とでも言ったもの、まさに『太閤記』の世界、「浜松大返し」である。
  そして、被害女性だが職業はピアノ講師・・と、いかにも浜松。浜松というとヤマハ・カワイといった楽器メーカーの土地、特にピアノ。新東名高速道路の「浜松」サービスエリアにはピアノの鍵盤を思わせるデザインが屋根についている。なんと申しましょうか、
「『水滸伝』(梁山泊の精神)+『太閤記』(浜松大返し)+浜松のピアノ」
と3拍子そろった歴史に残る事件・・・をバカ息子が犯しよった( 一一)  しかも、従業員は「もうすぐ消費税が上がる。消費税が上がった後は契約もらおうと思っても相当難しい。消費税が上がる前にな~んとしても契約してもらわないと・・」と必死のパッチで働いているまさにその時、「社長の息子」で「関連会社の社長」は何やってくれるんだよお
(株)一条工務店の総務部長の天野雅弘とかは少しでも営業成績が上がらない従業員がいると「赤字社員だ」とか罵っていたが〔他方、おのれら「一族」やその取り巻きの従業員は必ず「アホでも契約とれる」くらいの条件がいい展示場に配属されるように「根回し、かきまわし」を怠らなかったが( 一一) 〕、誰よりも「赤字社員」は「社長の息子」だった( 一一)
  私は「週刊朝日」と「アサヒ芸能」に記事が出ていたのを確認したが、ほかにも出ていて、テレビのワイドショーなどでもしばしば出ていたと聞いた。それらの記事にも「浜松の美人ピアノ講師殺人事件」とタイトルに書かれていたのだったが、記者は被害者の女性が実際に美人だったかどうか確認して判断した上で書いていたわけではないはずだ。過去に同棲していたこともある女性を刃物で刺し殺すとは、労基法違反で従業員をこき使い、安全対策不備で建築現場で作業員を殺し、脱税で多額の追徴金を払わされるという行為もおこなった「初代社長」大澄賢二郎のドバカ息子だけあって「この親にしてこの子あり」というものだった( 一一)
  (株)一条工務店の「初代社長」のドバカ息子が「浜松のピアノ講師の女性」を「刃物で女性を刺し殺し、官憲に追われ逃げる」という「梁山泊の精神」を発揮して「浜松大返し」で東京に戻ってきたという事件で懲役20年の実刑判決を受けた後、「初代社長」の大澄賢二郎は「社長を退任しました」と会社の「通達」に書かれてきて、「初代社長」の「竹馬の友」だという業務推進室室長の山本正一が社長に就任したが、その後も山本正一の名前で送られてくる「通達」は「業務推進室 山本正一」という名前によるもので「社長 山本正一」とは書かれていなかった。 そして、2011年3月、東日本大震災と福島第一原発事故が発生した後、(株)一条工務店は会社の役職は「退任しました」ということだったはずの「初代社長」の大澄賢二郎が主唱したとして「お世話になった浜松に恩返しをしたい」と言って、「防潮堤の費用」という名目で300億円の寄付を浜松市にすると言い出し、1995年には脱税で名古屋の国税局から100億円の追徴金をとられた会社・1993年9月には福島県いわき市草木台 の工事現場にて、安全対策不備により屋根屋が墜落して頭部打撲により死なせるということをした会社、「日ごろから労働者側からの相談が大変多い」と労働基準監督署から言われている札付きの会社から「300億円の寄付金」をもらえるということで、浜松市長で慶應大ア法学部卒の鈴木康友は大喜び、東日本大震災の直後に静岡県産茶葉の放射線量検査を拒否した静岡県知事の川勝平太が大絶賛したということがあったが、何よりも、ドバカ息子が女性を刺し殺したという件について、たとえ息子が人を殺したとしてもあくまでも「息子が」であり、社長自身が退任しなければならないものなのか・・という点があるのだが、「初代社長」の大澄賢二郎は「社長を退任しました」ということにして、おのれはその後も社長でも会長でも相談役でもないのに大株主だとして会社の経営に口出すけれども「表には出ない」というペナルティーを自分自身に課した・・ということであったはずであるにもかかわらず、この時点ではまだ息子の懲役の刑期は終わっていないはずなのに「初代社長」が主唱したとして「お世話になった浜松市に恩返しをしたい」と言ったとか言って表に出てきた、そして、インターネット上にはおそらく(株)一条工務店の会社がやらせたのであろうと思われるが「大澄賢二郎は男でござる」などと出ていた・・が、「男でござる」と言うのならば、ドバカ息子が人を殺した件に際して自分は「社長を退任」して表にでないというペナルティーを自分自身で課したのであるならば、少なくとも息子の懲役の刑期が終わるまでは表に出てくるべきではないのではないか。それをバカ息子の懲役の刑期が終わってもいない時に「大澄賢二郎は男でござる」・・・て、アホか。それに同調する浜松市長で慶應大ア法学部卒の鈴木康友と絶賛していた静岡県知事の川勝平太、それに浜松近辺の会社の会長だか社長だかで同調していたバカども、恥を知れ!!!
  『旧約聖書』の「レビ記」だったかに(記憶が曖昧なので、もしかすると『旧約聖書』でも他の書だったかもしれない)「父のゆえに子を裁いてはならない。子の故に親を裁いてはならない」という言葉があったと思うが、たとえ、息子が人を殺したとしても、(株)一条工務店の「初代社長」のバカ息子のようなバカに息子を育てたという点については親に責任があるとはいえ、それ理由にその親を裁くというわけにもいかないであろうし、通り魔殺人とかの犯人の親とか兄弟が実質、白い目で見られるということはあっても、当人は犯人ではない人を裁くというわけにもいかないはずで、一般には殺人犯の親であってもその人自身が犯罪を犯したのでない場合には職場で懲戒処分を受けなければならないことにはならないはずであるが、しかし、社長の場合は同じではなく、ろくに働いていない息子を何ら功績を残したわけでもないのに関連会社の社長にならせたその結果、会社の評判を下げることにつながる犯罪をバカ息子が犯して従業員に迷惑をかけたという点において「初代社長」には責任がある。それをどう考えるかという問題だが、実際には「初代社長」の大澄賢二郎は自分自身で「社長を退任した」のだが、「社長を退任した」上で会長になったのか、相談役になったのかというとそれもならなかったようなのだが、それにも関わらず、その後も会社に出てきて「ヒラかその上」くらいの人間に直接に「〇日までに◇棟は売ってもらわないと困る」とか発言したりしていたということだが、それは本来はおかしい。
  会社はだれのものかというと資本制経済のもとでは株主のものである。だから、株主の権利がなくなる時は会社がなくなる時であり、会社が存続しているなら株主の権利も存続しているはずである・・ということは日本航空の「株主の権利を百パーセント減資」などということにしてそれでいて会社は存続するというのはおかしいし、そんなことをしてさらに「再上場」なんてのは、バカにしてんのか・・てものだ。(もう、日本航空乗らない。)その一方、会社は株主のものであるとしても、株主であれば、その会社の従業員にああせえこうせえと何でも言えるのか、できるならば1単位株取得した上で「株主様じゃあ」と言って社長に命令してやりたい気もしないことないのだけれども、1単位ではだめで、それなら50%を上回るだけ持ったら直接従業員に業務命令できるのか、98%まで持ったら直接従業員に業務命令していいのか・・というと、何パーセント持ってもそれはだめで、株主が命令できるのは株主総会において取締役会に対して命令できるということであり、取締役会はそれを聞いた上で代表取締役が代表して会社を運営し、会社の職制を通じて会社を運営するというもので、たとえ、50%を上回る株を持っていても、たとえ98%の株を持っていても、たとえ百パーセントの株を持っていても会社の役職を持たない者が「ヒラとかヒラのひとつ上」とかの従業員に直接命令することは認められない。これは会社というもののしくみでありルールである。
  たとえ、大株主であっても、大株主が発言できるのは株主総会において取締役会に対して命令できるということであり、取締役会を代表して代表取締役が会社を運営するのであり、たとえ、大株主であっても一般の「ヒラかその上」くらいの従業員に社長でも会長でも相談役でもない人が直接命令するということは許されない・・・はずであるが、ところが(株)一条工務店の「初代社長」の大澄賢二郎は「初代社長」という存在しない役職の元にその認められないことををやっていたらしい。バカ息子が人を殺した事件をきっかけとして、「社長」は他の人間にならせて責任はその「影武者」に取らせるようにして、自分は「社長を退任した」にもかかわらず「ヒラかその上」くらいの従業員に向かって依然として命令していたようで「命令はする・責任は取らない」というその者にとっては都合がいいが実に卑怯な立場を手に入れた・・ということだったようだ・・・が、そうであってもたてまえ上であっても「社長を退任する」ことによって自分は直接表には出ないということを自分で自分にペナルティーとして課したのであるから、そうである以上はバカ息子の懲役の刑期が終わるまではたとえたてまえであっても自分で自分に課したペナルティーは自分で守るべきではないか・・・と思われるが、そんなもの守る意思は毛頭ない・・というのが(株)一条工務店の「初代社長」の大澄賢二郎だったようだ( 一一) それに同調する浜松付近の会社の社長・会長どもは、それに同調するようではおのれも、おのれの会社も同類だと見られる危険がある行為をしている・・ということに自覚はなかったのだろうか・・と思うが、なかったのかもしれない。
  ロシア連邦の「ワグネル」の代表プリゴジン氏の乗った飛行機が墜落して死亡した、殺されたのではないか・・と報じられたが、もしかして「死亡した」ということにして実際は密かにどこかに潜伏して生きているという可能性はないか・・という点について、YouTube に入っていた報道番組で東大なんとか研究所の准教授の小泉なんとかさんが「それはないと思います」と言い、「下世話な話ですが、あの人、生きているのに『死んだふり』して黙って潜伏しているなんて、できる人じゃないと思うんですよ。生きていたら、必ず表に出てなんだかんだ言う人だと思うのです。それを出てこないということは死んでいると考えるのが妥当じゃないか」と話していたが、そういうことはありそうに思える・・が、(株)一条工務店の「初代社長」の大澄賢二郎もまた、ドバカ息子が人を殺して刑務所に入った件にかこつけて、おのれは「社長を退任した」ことにして、それでも会社に出てきて、労働基準法と同様に会社法も守る意思はないという男で、「ヒラかその上」くらいの従業員にああせえこうせえと命令するという男だったが、それでも「はっきりと自分が表には出ない」というペナルティーを自分で自分に課したはずだったが、「はっきりと自分が表には出ない」ということをできる人かできない人かというと、プリゴジンと一緒で「はっきりと自分が表には出ない」ということはできない人だったみたい( 一一) もう、バカ息子が人を殺したという事件は世間の人間は忘れていると勝手に思っていたかもしれないが、覚えている者は覚えている。「殴った者は忘れても、殴られた者は忘れない」としても、「殺した者は忘れても、殺された者は『死人に口なし』」と思っているかもしれないが、覚えている者は覚えている。浜松市南区中田島町の遠州灘海浜公園(風車公園)の南西、「中田島砂丘前」交差点に向いたカドの位置に「一条堤」と書かれた浜松市商工会議所が設けたという横書きの石碑があるが、しょんべん ひっかけるにはちょうどいい高さだ。
  浜松市は1995年に脱税で名古屋の国税局から100億円の追徴金をとられた会社から、2011年に300億円の寄付を浜松市が受け取っていいのか? ・・ということを浜松市長で慶應大ア法学部卒の鈴木康友はまったく考えなかったのだろうか? 考えた上でそれでも受け取るべきだと考えたのか、「な~んも考えとれへん」かったのか、どちらか?
「日ごろから従業員側から(労働基準監督署へ)の相談が大変多い」という札付き会社から行政が寄付を受け取るということをして良いのか? ということを浜松市長の鈴木康友は考えた上で寄付を受け取ったのか、「な~んも考えとれへん」かったのか?
※ 《YouTube-めざせモスクワ【和訳歌詞付き】》https://www.youtube.com/watch?v=Yfh6azHw7Fk
伊藤真の会社法入門---講義再現版 伊藤真の法律入門シリーズ - 伊藤 真
伊藤真の会社法入門---講義再現版 伊藤真の法律入門シリーズ - 伊藤 真

  そんなもんで、イチキシマヒメ=弁才天 が「美人だった」と言われても、実際に美人だったかブスだったかなんてものは、「わからない」と言うしかない。
  ウィキペディアー弁才天 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%81%E6%89%8D%E5%A4%A9 には、
《 弁才天(べんざいてん、梵、巴: Sarasvatī、巴: Sarassatī[2])は、仏教の守護神である天部の一つ。ヒンドゥー教の女神であるサラスヴァティーが、仏教に取り込まれた呼び名である。神仏習合によって神道にも取り込まれ、様々な日本的変容を遂げた。
  日本の弁才天は、吉祥天その他の様々な神の一面を吸収し、インドや中国で伝えられるそれらとは微妙に異なる特質をもち、本地垂迹では日本神話に登場する宗像三女神の一柱である市杵嶋姫命(いちきしまひめ)と同一視されることが多い。「七福神」の一員として宝船に乗り、縁起物にもなっている。・・・》
と述べられている。
《 「サラスヴァティー」の漢訳は「弁才天」あるいは「辯才天」であるが、日本では財宝神としての側面に信仰が集まり、「弁財天」や「辨財天」と表記する場合も多い。》らしく、「弁財天」と「財」の字を使う場合は財宝神としての性格が強く、「弁才天」と「才」の字を使う場合は音楽・芸能の才能の神としての性格を強くとらえているとか言うらしいが、実際にはそれほど区別していないようにも思う。
  弁才天=イチキシマヒメ=サラスバティ―  と習合したらしく、明治の神仏分離以降、神社ではイチキシマヒメ・寺では弁才天として祀っているという場合もあるみたいだが、神社でも「弁才天」と書いている所はけっこうあるように思う。困るのは寺で「弁才天」を祀る祠がある場合、「二礼二拍手一礼」すべきかどうか迷うことだ・・が、多田神社は明治の神仏分離の際に神社の方を選んだ所なので二礼二拍手一礼して悪いことはないのではないかな。
[完全保存版]日本の神様がわかる本あの神様の性格・あの神社のご利益が一目瞭然 - 戸部 民夫
[完全保存版]日本の神様がわかる本あの神様の性格・あの神社のご利益が一目瞭然 - 戸部 民夫
水滸伝の108人がよくわかる本 (ぶんか社文庫 ち 2-1) - 超音速
水滸伝の108人がよくわかる本 (ぶんか社文庫 ち 2-1) - 超音速
  弁才天を祀る寺社というと、神奈川県藤沢市の江の島神社・滋賀県の竹生島・広島県の宮島の厳島神社が有名だが、大阪府箕面市の瀧安寺では瀧安寺と江の島・竹生島・厳島神社で「日本四弁天」と言っている。由緒を考えると、役小角が箕面の大滝で修行をして弁才天の助けをえて悟りを開いたという箕面山 瀧安寺こそ本来の弁才天の話がある寺社であろう。

  「北摂七福神」とは、
《七福神めぐり資料集 北摂の七福神》http://rokumeibunko.com/shichifukujin/28hyogo/hokusetsu.html によると、多田神社境内摂社の厳島神社の弁才天のほかは、
恵比須・・川西市山下町 山下恵比須神社
大黒天・・川西市黒川奥山 能勢妙見(大国神社)
毘沙門天・・川西市満願寺町 満願寺
福禄寿・・川西市平野 多太神社
寿老人・・川西市東畦野(うねの) 頼光寺
布袋尊・・川西市新田(しんでん) 法泉寺
らしい。 布袋尊の法泉寺は「多田」駅から多田神社までの道の途中にあった多田小学校の少し北あたりの位置にあるようだ。
  (阪急沿線)西国七福神めぐりhttps://www.hankyu.co.jp/area_info/brochure/7ifuku/index.html 
恵比須・・呉服神社 最寄駅「池田」
大黒天・・西江寺 最寄駅「箕面」
毘沙門天・・東光院・萩の寺 最寄駅「曽根」
弁才天・・瀧安寺 最寄駅「箕面」
福禄寿・・圓満寺 最寄駅「蛍池」
寿老人・・中山寺 最寄駅「中山観音」
布袋尊・・清荒神 清澄寺 最寄駅「清荒神」
というのもあるが、「北摂七福神」とは別で、北摂七福神はすべて川西市内の寺社のようです。

DSC03442.JPG
↑ 田尻稲荷神社
赤い鳥居がいくつも連なるというのは、稲荷社の特徴のようだ。

  そして、厳島神社・田尻稲荷神社より南側に六所宮がある。↓
DSC03433.JPG
↑ 「惣社 六所宮」と額に書かれている。
 ↓ ↓ ↓
DSC03431.JPG
DSC03432.JPG
  「六所」とは、住吉大明神・稲荷大明神・天照光大神・賀茂大明神・春日大明神・熊野権現の6社を指すそうで、
《 旧多田院の鎮守社としてまた多田荘七十二ヶ村の惣社として鎌倉期に創建された神社である。
  現在の御社殿は室町後期に再建された三間社造りの極彩色で建築様式・組物・蓑塚・懸魚などの細部修法は非常に貴重で、斯かる事由により昭和43年(1968年)に県の重要文化財に指定を受けている。》
と現地の説明書きに書かれている。 ウィキペディアー多田神社https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%9A%E7%94%B0%E7%A5%9E%E7%A4%BE には、
《 六所宮(兵庫県指定有形文化財) - 伊勢神宮、賀茂神社、稲荷神社、春日神社、住吉神社、熊野神社の神を祀る。江戸時代初期の造営。三間社流造で、中央間に軒唐破風を付し、屋根は檜皮葺。旧多田院の鎮守社。多田荘72ケ村の総社。》
と出ている。建物を正面から見ると三所宮みたいな感じがしないでもないのだが六所宮らしい。
 現地の説明書きには「室町後期に再建された・・」と書かれていて、ウィキペディアには「江戸時代初期の造営」と出ているが、どういうことだろうか。

  川西市というと、遠藤周作『黄色い人』(『白い人・黄色い人』新潮文庫 所収)に、宝塚市の仁川の付近のカトリックの教会の付近から「川西の軍需工場」が爆撃を受けているのが見えたという話が出ていた。「川西の軍需工場」て、どのあたりにあったのだろうか・・と思ったがよくわからない。川西航空機という会社があったようで、「川西の軍需工場」というのは「川西市の軍需工場」なのか「川西航空機の工場」なのかもよくわからない。
白い人・黄色い人 (新潮文庫) - 周作, 遠藤
白い人・黄色い人 (新潮文庫) - 周作, 遠藤
『白い人・黄色い人』として新潮文庫その他で発行されているけれども、『白い人・黄色い人』という題名ではなくて、『白い人』という題名の小説と『黄色い人』という題名の小説、それに『アデンまで』と『学生』という短編の小説が1冊の本に収録されている。
  私は遠藤周作『黄色い人』は1970年代なかば、高校1年の時に読んだ。中学生の時に読んだ亀井勝一郎『青春論』(角川文庫)に、これから高校などに入学する人には、その学校に行っている間に誰か文学者1人の作品をすべて読むということをやってもらいたいといったことが書かれていたことと、北野高校の1年の初め、「現代国語」の授業で「現代国語」の教諭だった旧姓S野礼子(女。当時、20代。北野高校卒⇒神戸大文学部卒)が「現代国語の勉強には問題集なんかやっても役に立ちませんから、まず、日本の明治以降の作家1人を選んで、その作家の作品をすべて読むということをやってください。これは3年になってなんとかしようとしてもどうもできませんから1年の時からやってください」と話したことから、そうしなければならないものだろうと思って、それで、「現代国語」の1年の教科書に作品が掲載されていた文学者のうち、『聖書の中の女性たち』から「ヴェロニカ」が掲載されていた遠藤周作を選んで読破しようとしたのだったが、
聖書のなかの女性たち (講談社文庫) - 遠藤周作
聖書のなかの女性たち (講談社文庫) - 遠藤周作
青春論 (角川ソフィア文庫) - 亀井 勝一郎
青春論 (角川ソフィア文庫) - 亀井 勝一郎
遠藤周作の作品すべてまでは読めなかったが相当多くのものを読み、『黄色い人』は高校1年の秋くらいに読んだ。それが悪いということはないと思うが、大学入試を終えてみると、大学入試に成功するためという点から見るならばそこまでやらなくても良かったのではないか・・とも思えた。又、「現代国語は問題集なんかやっても意味ないです」ということはないと思うようになった。結局、2年も浪人してしまったが、特に2浪目には学燈社から発行されていた『現代国語 難問をとけるようになる本』だったかいう題名の問題集を前から順番に完全にやったところ、模擬試験で採点されたものを「どこが悪かったか」「なぜ間違えたか」「どうしたら間違えなかったか」といったことを考えながら吟味・検討したということと合わせ、「国語」とくに「現代国語」については相当点数アップをはかることができて、共通一次試験は「国語」は200点満点で187点、「現代国語」で1問、「古文」で1問、「なんでこんなものを間違えてしまったのだろう」というケアレスミスで6点と7点のものを間違えたというもので、それ以外については楽勝。間違えたものも、「わからなかった」のではなくて「なんで、こんなものを間違えてしまったのだろうか」という間違いで、東大の二次試験においても他の科目は別として「国語」については東大の受験生の中でも悪くない方の成績を取れたと思っている。決して「現代国語は問題集なんかやっても意味はない」ということはない。この点において旧姓作野礼子は間違っている。旧姓作野礼子さんが北野高校に入学した頃、および私が北野高校に入学した頃、北野高校は男は大阪府で一番難関の高校だったけれども、小学校型の男女共学で男女比がそれほど差がないように合格者を決めることになっていたことから女は受けさえすれば、試験会場(北野高校)まで行って氏名と受験番号さえ書けば誰でも通る高校だった。「男なら不合格になっているところを女だから合格した人」というのはけっこう多くて、そういう人が男は大阪府で最難関の高校に合格できた男と同じように京大とかに行けるかというとそうではないのだけれども、人によって「うまく合う」人というのがいて、そういう人で神戸大とかに行くことがあったようだ。しかし、「男なら合格できなかったところだけれども女だから合格できた人」で「うまく合った」人が神戸大あたりに進学したとしても、「入学試験の学年順位そのまま3年まで行ったとして、もしもその順位のまま合否が決まるならば京大に行ける成績」で入学した人間がきっちりと京大に現役で行く学習法、もしくは「入学試験の学年順位そのまま3年まで行ったとして、もしもその順位のまま合否が決まるならば京大に行ける成績で入学した人間」が京大ではなく東大に受かる学習法と「男なら合格できなかったところだけれども女だから合格できた人」で「うまく合った」人が神戸大あたりに進学する学習法は違うと思うのだ。
  基本的な考え方として、「普通にやったら百点満点で60点とれる人」は「必死でやったら百点満点で70点とれる」ことになる。その時、合格最低点が65点であったなら合格、おめでとう♪ ということになるが、合格最低点が75点であったならば、「必死でやった」にもかかわらず不合格になる。どうするか? ひとつの選択肢はそこはあきらめて合格最低点が65点のところを受けることにするというものだ。しかし、「普通にやったら60点とれる人」が必死にやって70点とったという時に合格最低点が75点のところを簡単にあきらめることができるか? ・・というと、簡単にあきらめられない場合が多い。そうなると、「野球はアタマでやるもんや」と野村じいさんが言っていたが「受験はアタマでやるもんや」と言っても当たり前じゃないかと言われるかもしれないが、「単に必死で学習する」だけではなく、工夫してやる、「弱者の戦術」としての「戦力の集中」として、何をやって何をやらないか、「試験に勝つ」ためには何はやらなくてもいいか・・といったことを考えてやる、「試験に出る」部分を「出る順」に「傾向と対策」をそういう名前の本を使うという意味ではなく自分自身で「傾向と対策」を考えて、そして、たとえ多数派がやっていることでも自分が要らないと思えば要らないと判断し、多数派がやっていないものでも自分が必要がと思えばやるという「あえて少数派になる勇気」を持てるかどうか。又、大学入試について試験対策をやって合格をめざすというのは邪道とか外道とか言って非難する人がいるが、私が浪人中、うちの父親の「親友」だという女川という医者屋〔男。1970年代終わり頃当時:50代前半。自称「金沢大医学部卒」だが嘘くさい。「患者」を薬漬け・検査漬け・毒盛りして得たカネでドバカ息子を私立金権関西医大に裏口入学させたというのを自慢しまくっていたので、女川自身も私立金権関西医大卒か、そうでなくても「かわいいキンタマ」(川崎医大+愛知医大+金沢医大+埼玉医大=かわいいキンタマ)かそこらだろう。「金沢」という地名が出てきたということは「金沢大学医学部」ではなくて「金沢医大」卒かもしれない。そんなところだろう( 一一) 当時、大阪府豊中市在住〕からその類のこと、それ以上悪質なことを相当言われたのだが、片方で私立6年生受験校出身の人を見ると「6年間、受験対策だけやってきたのか」という感じで東大にすんなり通った人間でも1浪した上で東大受験は回避して一橋大を受けてそれも落ちて慶應大には通って慶應大に入学したというような””や~い、落ちこぼれ~、悔しかったら東大に通ってみろお~お””であっても、どちらの人間でも大学入試においてはそれなりの点数をとったのであったとしても、その割に中身がないという人が多いという印象を私は受けており、又、私が高校を卒業した1970年代後半においては関西の予備校というと京都では近畿予備校と東京発祥の駿台予備校の京都校、大阪ではYMCA予備校、兵庫県側では神戸市の御影にあった大道学園といったところがその地域で学力がある生徒の行く予備校だったが、インターネットで見るとYMCA予備校は大阪府に5校と横浜市に2校あったがすべてなくなり、大道学園も今はなくなり、近畿予備校は今も存在するがかつては京大受験の予備校だったのが今では私立医大受験生向けの予備校としてなんとか存在しているという状態になったらしいが、その神戸市の大道学園は場所が神戸市の御影だったこともあって灘高校卒の受験生などがけっこう来ていたらしかったが、北野高校で同級生だった者で大道学園に行った男が「あんな『予備校に6年間行ってるみたいな学校』というのはどうかと思うなあ」と言っていたことがあったが、たとえ、東大に行けたとしてもそういうのがいいかどうかというと、少なくとも百パーセント肯定はできかねるのだが、その一方で、たとえ、部分的に邪道・外道であったとしても、八百長裏口の医者屋が「患者」を薬漬け・検査漬け・毒盛りして得たカネでドバカ息子を私立金権関西医大 に裏口入学させた・・というものから考えるならば、「ID野球 弱者の戦術」を駆使して合格したとして、それがいったい何が悪いんじゃい!?! だいたい、通るか落ちるかにかかわらずガチンコの人間が、なんで八百長裏口医者屋野郎に文句言われんといかんのんじゃい。とりあえず、人に文句言いたかったら裏口入学やめろ、この八百長裏口野郎!!!〔⇒《YouTube-くたばれ読売で盛り上がった東京音頭》https://www.youtube.com/watch?v=_lGaI9y6XVA 〕
アブない大学病院―これじゃ患者はたまらない! (ワニの本 874) - 寺岡 元邦
アブない大学病院―これじゃ患者はたまらない! (ワニの本 874) - 寺岡 元邦
医界、腐蝕の構図 (1984年) - 保阪 正康
医界、腐蝕の構図 (1984年) - 保阪 正康
  1985年に中日ドラゴンズがリーグ優勝した時、投手の小松辰雄が最多勝のタイトルを取得したけれども、終盤、最多勝のタイトル争いには監督の星野仙一はほかの投手が好投して勝ちそうになったゲームであえて好投している投手を降板させて小松を登板させて勝ち星をつけて最多勝のタイトルを取らせた・・がそういうタイトルの取らせ方はいいのか・・と批判を受けたが、星野は「いったい何が悪いんじゃい。これまで盛り立ててくれたのは誰やと思うとるんや。小松が盛り立てて優勝させてくれたんやないか。そこまでやってくれた選手にタイトル取らせていったい何が悪いんじゃい!」と言ったというのだが、受験対策だけで大学に行く・行かそうとするというのがいいとは思わないが、小学校から高校まで真面目に努力してきた者が行きたいと思う大学学部に合格するために、高校の後半にその科目そのものの学習ではなく受験対策に力を入れてそれで合格したとして、「いったい何が悪いんじゃい」てもの、「裏口入学する者、裏口入学させる者」になんで文句言われんといかんのんじゃい! てものだ。この認識は浪人してしまったこと、「落ちた経験」から確固たるものになった。「裏口入学する者、させる者が悪くなくて、なんで小学校から高校まで真面目に努力して勉強してきた者が行きたい大学学部に行くために試験問題についての対策をやって合格していかんのんじゃい。裏口野郎が生意気な口きくな、ボケ~え!」てものだったが、ところが我が家ではうちの父親はその八百長裏口医者屋人間の「言うことをきく」男だった( 一一) ( 一一) ( 一一)
難儀なおっさんやった( 一一) その「難儀なおっさん」を北野高校の2年の時の担任だった旧姓作野礼子が「あなたのお父さんほどもんのすごいいいお父さんはなかなかないわよ」と言って持ち上げて、そう言われておっさんは「北野高校のエライえらいエライ先生である作野先生もおっしゃっておるように、わしほどもんのすごいエライえらいエライええお父さんはこの世にめったにないねんでえ」と心の底から信じて言いまくるのだったが、あの旧姓作野礼子バカ女症候群も迷惑な女やった。「私は両親が離婚したんだからねえ」「私は父親がいなかったんだからねえ」と「そんなもん、自慢するもんかあ~あ?」ということを自慢しまくる女だったが、「父親がいなかった」だけあって、「父親というもの」を実際よりいいもののように妄想もっていたみたいだった。あのバカ女症候群にはほんま迷惑した( 一一) あ~しんど( 一一)
  1990年代、(株)一条工務店で福島県いわき市の営業所に勤務していた時、同じ営業所にいた「木南さん(仮名)」(男。当時、40代前半)がインテリアコーディネーターの試験について「あれは出題範囲が広いですし、広いから浅いというものでもなくて、けっこう深い問題も出ますから、だから、あれは通りませんよ」などと言うので、ずいぶんとあっさりした人だな・・と思ったことがあった。又、この人は「お勉強好き」の人で住宅建築業の会社に勤めても、住宅・建築についてよくお勉強する人で、また「物知りおじさん」と従業員の間で言われていて、「困った時の木南さん(仮名)」とも言われていて、これはどうするべきか、これはどういう意味かとわからないことがあった時に尋ねるとたいてい答えてくれる人で、何よりも本人が自分で「なかなか、便利でしょお~お」とか言っていたのだったが、その割に住宅・建築・インテリア・不動産関係の資格は何一つ取得しておらず、又、卒業した大学も「聞いたことない私立大学」であり、「お勉強好きのおじさん」のわりに「聞いたことない私立大学」しか通らないし、住宅・建築・インテリア・不動産関係の資格試験もどれも通らないというのはどうしてだろうか・・と思っていたがその理由がわかった。興味に合わせて学ぶということはできても「試験に通る」「試験に勝つ」ための学習というものができない人だったのだ。百点満点で70点が合格点だったとして、まったく何もわからない状態から60点とれる状態まで学習する学習法と60点から65点とれる人が70点を上回る点数をとれるようにする学習法は同じではない。野村じいさんは南海ホークスでレギュラーの捕手として試合に出してもらえるようになった時、打率は2割5分程度しか打てなかった。2割5分ではまた他の選手にレギュラーを奪われるかもしれない。2割5分の打者は「並みの打者」だが3割打つ野手は「一流打者」と評価される。3割打てばレギュラーを奪われる可能性は小さいが、どうすれば3割打てるかということを考えた。2割5分の打者と3割の打者はどこが違うか。百回打席に立って25回、ヒットを打つ選手が2割5分の打者で、百回打席に立って30回、ヒットを打つ打者が「3割バッター」だ。ピッチャーが投げる球すべてをヒット打たないといけないとか、百回打席に立って百回ヒットを打たないといけないと考えると大変だが、「あと5本多くヒットを打てばいい」と考えるなら、工夫すればなんとかなるのではないかと思えた。そこで、ピッチャーのくせを見たり、配給のパターンを考えたり、そして、試合に出れるようになった頃の野村はカーブが苦手でカーブを打つ練習を相当やっても打てなかったが、そこで、プロ野球の投手は3球はストライクを投げないと打者を三振にとることはできない、3球ともカーブであることは少ない・・となると、いっそのこと、カーブは打たないようにしてそれ以外の球種の球を打つようにすればいいのではないかと考えた・・とか、そういった工夫をして3割打てるようになった・・らしい。 落合は1982年に三冠王を取ったものの本塁打数は31本で、前年の1981年に門田(南海)とソレイタ(日本ハム)が本塁打王とった時の本数が44本、翌年の1983年にやはり門田が本塁打王とった時の本数は40本、1984年にブーマー(阪急)が三冠王とった時の本塁打数は37本で、落合が1回目に三冠王をとった1982年はパリーグの長距離打者の本塁打数が少なかったから取れたような本塁打王で三冠王を取れたのはラッキーだったようなところもあった。その後、1984年に阪急のブーマーが三冠王を取った後、自分も三冠王をとりたいと考え、打率は落合の得意分野だったが本塁打数を増やすにはどうすればいいかということを考えて、それまでレフト線のホームランかファウルかという打球でファウルになっていたものをホームランにできれば、ライト線でホームランかファウルかという打球でファウルになっていたものをホームランにすることができれば、その分だけホームランの本数が増える、どうすればレフト線・ライト線のホームランかファウルかという打球でファウルになっていたものをホームランにできるか・・ということを考えたそうで、引退後、どの動画だったか忘れたが「普通、ホームランを増やそうとすると飛距離を伸ばそうとするでしょ。私はそうではなくてレフト線・ライト線の打球でホームランかファウルかというくらいでファウルになっていた打球をホームランにできないかと考えた」と話していた。野村じいさんが、どうも右打者には理論派が多く左打者には感覚派が多い気がすると述べて、理論派の代表が野村・落合で感覚派の代表が門田・張本だと書いていたが、たしかに落合の話を聞くと「理論派」という感じがする〔もっとも、右打者には理論派が多く左打者には感覚派が多いという理屈からいくならば、野村じいさんが「何も考えてない」打者だという右打者の長嶋はどうなんだ・・ということにもなるが(^O^) 〕。その結果、1985年に52本、1986年に50本のホームランを打って三冠王を取った・・そうだ。自分の能力・実力で努力したならこのくらいの成績を残すことができるとして、百点満点で70点が合格最低点の試験で、「あと何点」とれば合格できるが、その「あと何点」が足らないという場合、その「あと何点」をアップさせるための学習法というのは、0点の人間が百点満点で60点とれるようになるまでの学習法と60点から70点を超える点数、71点でもいいができれば75点くらい取れるようにするための学習法というのは学習法が違うと思うのだ。資格試験の場合、通るか落ちるかだけだが、大学の入学試験の場合は、その大学学部なら合格最低点に少し足らないように思えるということならば、それなら、それより一回り合格しやすい大学学部を受けるようにするという選択肢もあることになる・・が、あきらめられるのかどうか。あきらめられるのならば、一回り合格しやすい大学学部を受ければいい。ただし、「一回り」くらい下ならば、あくまでも「どちらかと言えば合格しやすい」くらいだから、一回り易しい所を受けたつもりでそこを落ちてしまう危険も存在する。一回りではなく「う~んと下」というのは旧帝大系国立大学くらいをめざしてきた人間にとっては耐え難いはずだ。そこが難しい。我が家の近所に住んでいて私と同じ中学校から同じ北野高校に進学して、大阪大法学部に現役で行った「K村くん」のお母さんというのが「うちの息子は京大でも通りました」「北野高校の先生から阪大なら絶対に通ると言われました」と近所にぎゃーすかぎゃーすか言ってまわるという人で、うちの母親はそれを聞いても無視しておけばよさそうなものだったが無視できない女で、「川村くんは現役で通ったのにあんたはなんで現役で通りませんのん」と言って怒るのだったが、もしも「京大でも通りました」のならば実際に京大を受けて通って京大に行けば良かったのであり、私は「川村くん」に「すんまへんけども、お願いですから京大は受けんといてもらえまへんかあ」なんて頼んだことは一度もないのであり、京大を受けて行けば良かったのであり、それを京大を受けずに阪大を受けて阪大に行ったのは自分だろうが・・てものだった。京大を受けることにしようか阪大を受けることにしようか迷った上で阪大を受けて合格して行った人には、入学してしばらくして「京大でも通ったのではないだろうか」とか思い出す人もいるかもしれないが、そうであっても阪大を受けることにしたのは自分であって、「京大でも通りました」だの「阪大なら絶対に通ると北野高校の先生が言われました」だのとギャースカぎゃーすかギャースカ近所中に言って回るというのはブサイク・ブザマでありやめたほうがいい・・と思うがやめないのが「川村くん」のお母さんだった( 一一) うるいさいおばはんやった。ほんまにうるさいおばはんやった( 一一) そもそも「北野高校の先生」は、たとえ、その生徒が模擬試験などで相当いい成績をとっていたとしても「絶対に通る」なんて普通は言えへんで。「北野高校の先生」でも「体育の先生」で3年の担任を持っていた人もいたかもしれないし、たとえ「大学入試にある科目」を担当している人でも「あんまりいい大学でない大学」卒の人もいたはずで自分自身が大学入試において京大・阪大とか東大とかを受けた経験のない人もいたはずだし、「大学入試にある科目」を担当していても大学入試についてもうひとつわかってない人もいたということは考えられるけれども、もしも私が「北野高校の先生」になっていたならば、たとえ、相当いい成績を模擬試験などで取っていた生徒に対してであれ「絶対に通ります」なんて絶対に言えへんでえ。むしろ、私が北野高校の先生で3年の担任を受け持っていたならば、逆に「最後の最後まで何があるかわからん」と言ってあげると思いますね。「最後の最後まで何があるかわからない」と認識して受けるならば、その姿勢はその分だけ「通る要素」があるということであり、勝手に「絶対に通ります」などと思っていたのならば、その分だけ「落ちる方の要素」だと思うからです。それで、だ。京大を目指していた人で、最後の最後、模擬試験の成績が京大を受けたら通るか落ちるかわからん・・というくらいの成績の場合に、これ以上、浪人したくないと考えて目標を阪大に変更する人がおり、そうして阪大に合格して行った人もいるようだけれども、難しいのは京大を目指していた人が阪大に目標を変えたとしても、それでも「絶対に通る」というわけではなくて目標修正して受けたところを落ちてしまう可能性だってあるという点がなんとも難しい。YMCA予備校高槻校の「京大東大文系クラス」担当の事務職員の藤井という男(1970年代後半の後半当時、40代後半か50くらい?)が「浪人したからには合格した人8人・落ちた人2人くらいの成績はとらないと受けてはいかん」などと言ううのだったが、今だからこそ言うが「アホか」てものだ。京大とか東大とかに行こうと考えた場合、模擬試験では「合格した人5人・落ちた人5人」というくらいの成績というのが合格最低点付近ということになるはずで、「合格した人8人・落ちた人2人」なんてそんな成績、簡単にとれると思うか? 結果としてとる人というのはいるかもしれないが、受験のための勉強をする上においては「ともかく、通ればええんや」という姿勢でやるべきであり、「合格した人8人・落ちた人2人」なんてそんな成績とらんでもよろしい。YMCA予備校の藤井という男はつくづく能力的にもアホで人間的にも腐った男だった。
  落合は1981~1984年まで本塁打数は、33・32・25・33本で、1982年はパリーグのほかの選手の本塁打数が少なかったから三冠王をとれたが、落合にとっては本塁打部門が三冠王をとるためには大きな関門だった・・が、1985年は52本と前年よりも19本多い本塁打を打って三冠王をとった。「どうすれば本塁打を増やせるか」ということを考えた結果だったようだ。入学試験においても資格試験においても、何がなんでもそこに通りたい・その試験に通りたいと考えたならば、その「あと何点」をアップさせるにはどうすればいいか、ということを考える思考というものが必要だ。
  それに対して、(株)一条工務店の福島県いわき市で同じ営業所にいた「木南さん(仮名)」は「インテリアコーディネーターの1次試験(学科試験)というのは、あれは出題範囲が広いですし、広いから浅いかというとそうではなくてけっこう深い問題もでますから、だから、あれは通りませんよ」などと、「なんや、えらいあっさりしとるのお」ということを言うのだった。何の雑誌で読んだか忘れたが、1960年代後半、阪神・江夏のストレートに三振してベンチに戻った巨人の長嶋が「あれは打てんわあ」と口にしたところ、監督の川上が「きみには江夏のストレートを打つだけの給料を払っているはずだ」と言ったそうで、その後、1970年前後頃、やはり長嶋が大洋ホエールズの平松のシュートに三振してベンチに戻り「あれは打てんわあ」とつぶやいたところ、やはり、監督の川上が「きみには平松のシュートを打つだけの給料をはらっているはずだ」と言ったというのだが、「木南さん(仮名)」にはそういう難しいものをなんとかしようという気概はまったくなかったようだった。「そりぁ何しろ、私、江夏のストレートとか平松のシュートとかを打つだけの給料なんか、もらってませんから」と言うかもしれなかったが、そういう人だった。だから、大学も「聞いたことないような私立大学」にしか行けないし、住宅建築業の会社に勤めて「物知りおじさん」と言われていても住宅・建築・インテリア・不動産関係の資格はひとつも取得できない人だったのだ。「あと何点」を上げるにはどうすればいいか・・なんて考える思考がない人だったのだ。「公立の逆襲」だかいうタイトルの雑誌で、会社の採用担当者が「大学だけでなく、どこの高校出身かというのを見ますね。私立受験校出身の人は一流大学に行っていても、高校が私立の受験校で合格するためのシステムがあってそれに乗っかったから合格しただけという人がいるのに対して、公立伝統校出身者には本当の実力がある人がおり、いい意味でのプライドがあります」と語っていた人がいたが、この「いい意味でのプライド」というのは、たとえ「江夏のストレート」とか「平松のシュート」とかを打つだけの給料をもらっていなくても、「江夏のストレート」であれ「平松のシュート」であれ俺は打てないですますことはできないんだという意識、俺は絶対に成果を出すんだ、俺はできませんではすますことはできないんだというプライドのことだと思うのだ。『あしたのジョー』の矢吹丈は「俺は相手が強ければ強いほど燃える男なんだ」と言っていたが「木南さん(仮名)」は簡単に「あれは、通りませんよ」などと口にする・・そんなことだから通らないんだよお!!!
  もしも、「普通にやったら60点とれる人」が20点か30点しか取れなかったとしたら、それは「普通にやる」ことができない環境があったか、そうでなければ努力の方向を間違えていたか、といったことが原因だろう。「普通にやる」ことができない状態であったからかなり悪い点数しか取れなかったのならば、「普通にやる」ことができるように環境を改善することが必要になる。たとえ、20点しか取れなかったとしても「普通にやったら60点とれる人」で「必死にやったら70点とれる人」が20点とった場合と、普通にやって20点の人が20点とったという場合では対処のしかたが違う。
  旧姓作野礼子さんは男だったら北野高校には合格できていないものを女だったから合格・入学できて、そして、そういう人の中には「うまく合った」という人がいて結果として神戸大くらいに行く人がいたのだけれども、そういう人の学習法と「高校の入学試験の時の学年順位から考えて、その学年順位のまま3年まで行ったとして、かつ、その順位のまま合否が決まるとするならば京大に行ける成績」の者が京大にきっちりと現役で行く学習法、あるいは「高校の入学試験の時の学年順位から考えて、その学年順位のまま3年まで行ったとして、かつ、その順位のまま合否が決まるならば京大に行けるという成績」だった者が東大に行く学習法とは学習法が違うし、それを理解できない女は自分と同じようなタイプの女だけを相手にするようにしてほしいものだった。この点で、旧姓作野礼子さんの《「現代国語」の学習法》は「高校の入学試験の時の学年順位から考えて、その学年順位のまま3年まで行ったとして、かつ、その順位のまま合否が決まるとするならば京大に行ける成績」の者が京大にきっちりと現役で行くため、もしくは「高校の入学試験の時の学年順位から考えて、その学年順位のまま3年まで行ったとして、かつ、その順位のまま合否が決まるならば京大に行けるという成績」だった者が京大ではなく東大に行くためということを考えると、あてはまらないものがあったと思うし、それを自覚できていない人・「精神医学」用語で表現するなら「病識がない人」というのは高校教諭として困った人だったが、困ったことに「自分は成功した」「自分はえらい」と思っているバカ女症候群にわからせるのは相当難しいことだった。又、会社員とかの仕事ならば、高校進学・大学進学においては完全に成功した人であっても、職場においてはそのまま成功するとは限らないわけで、職場において「失敗の経験」というものを体験し、それを乗り越えることで学ぶものがあるのではないかと思うのだが、ところが「高校の先生」とかそういう仕事についた人の場合は大学入試において「勝ち逃げ」したならば、そのまま定年まで「勝ち逃げ」できてしまう、自分が担任をもった生徒とかがうまくいかなかったとしても「勝ちは我が勝ち、負けは生徒の負け」ということにすることができてしまう・・・という問題があり、旧姓作野礼子さんなども、おそらく定年まで「勝ち逃げ」した上で、いつまで経っても自分の弱点・欠点に気づくことなく人生を送り終えることだろう。「『失敗』と書いて『成長』と読む」と野村じいさんも書いていたし、「人間は成功からは学ばんもんなんや」と書いていたが、女だから北野高校に合格・入学できて「うまく合った」ことから神戸大の文学部に進学できて高校の教諭になった・・というそれだけの人、しかも、「高校の教諭」のような仕事についたなら「勝ち逃げ」できてしまう、「初日に勝ったことで15日間勝ったみたいに勘違いする相撲取りみたいな人」として人生を送ることができてしまうのだ。「初日に勝った」のは大いにけっこうなことだが、だからといって二日目も勝つとは決まっていないのだが、「初日に勝った」ことで定年まで「勝ち逃げ」できてしまうというのが「高校の先生」のような仕事についた人の問題点・・・だと思う。・・・北野高校は行きたいと思って行った高校だったので合格発表の時はうれしかったが、卒業して何年か経って考えてみると、決してそういい学校ではなかった。特に、「うまく合った」ことで神戸大文学部に入れたことから自分はエライ、自分は勝ち組・・みたいに思い、「高校の教師」という職業についたことから定年まで「勝ち逃げ」できるという人に2年の時に担任を持たれたのは災難やった。
  大学入試で何点とれるかは、その科目そのものの学習とその試験問題についての対策との両方によって決まる・・・はずだが、「勝ち逃げ」で定年まで親方日の丸の仕事を続ける人にはそのあたりについても定年まで理解はできないであろう・・というより死ぬまで理解はできないであろう。
※ ウィキペディアー落合博満 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%90%BD%E5%90%88%E5%8D%9A%E6%BA%80
ウィキペディアー小松辰雄 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%9D%BE%E8%BE%B0%E9%9B%84

  柴田孝之『東京大学機械的合格法』(実業之日本社)で柴田は「能力的にも人間的にも優秀な教師というのは、実は多くの人間が思っているよりもはるかに少ない」と述べていたが、北野高校を卒業して十年以上経って、その通りだと思うようになった。又、柴田は「たとえ伝統校であっても進学成績が低下している高校の場合、そうなる原因が存在している場合がある」とも述べていたが、私が行った1970年代後半頃の北野高校もそれに当てはまったのではないか・・という気がする。私が北野高校に入学する少し前に学区が小さくなって、それまでなら合格・入学できなかった成績の人が入学するようになったことから「まったく、できの悪い学年やなあ」とか言いまくっていた教諭がいたが、そういう口をきく男には大阪桐蔭高校と履正社学園の経営者の爪の垢を飲ませてやりたいように思う。たとえ、それまでより学区が小さくなってそれまでより入学時の学力が低い生徒が入ってきたとしても、それでも大阪府では最も難関の高校であったはずであり〔たとえば北野高校の1年の時に同じクラスだった淀川区の三国のあたりの中学校卒のB所(男)とかは学区が小さくなって合格最低点が下がったことから北野高校に入れた人間だが、私などは学区が小さくなって合格最低点が低くならなくても合格できた可能性が大きかったはずだし〕、言っちゃ悪いが私が高校生だった頃は履正社学園というのは福島商業高校と言っておよそ大学に進学するような人はいない高校であったはずが、今では年によって京大や阪大に合格する生徒が出る高校になったし、大阪桐蔭高校なんてのは私が高校生だった頃はなかった、大阪産業大学付属高校大東校舎が前身とかいうけれども、そういう高校もあったことすら知らなかった高校で、それが今ではスポーツクラスの野球部は毎年のように全国大会に出場し、進学クラスの生徒は京大や阪大に毎年、何十人と通る高校になったのだ。「できの悪い学年やなあ」などと言ってすべて生徒のせいにする教諭、たとえ、それまでより「できの悪い学年」であっても、それでも何とかしてやろうという気概がない生徒のせいにするしか能がない教諭というのは「たとえ伝統校であっても進学成績が低下する高校にはそうなる理由が存在する」というケースに該当すると思われる。そんな教諭を評価し、そんな教諭に期待した私がバカだった。
  北野高校在学時に遠藤周作の著書は相当読み、考えてみれば大学の文学部国文学課の卒業論文を書けるくらいに学んだと思う・・が、大学入試対策としては、それだけ学んだならそれだけの成績を取れても良さそうなものだが、そこまでいかなかったというのは、それは入試対策として考えれば必要ないものを相当やっていたということが理由のひとつとしてあったと思う。私が高校の教諭であったなら、自分が担任を持つ生徒とか自分がその科目を教える生徒とかにはそのあたりの話をしてあげたいと思うのだが、旧姓作野礼子にはそういう能力はないし、そういう能力がない者を能力があるかのように誤解していた、能力がないやつに期待してしまった、という点において私の失敗があった。
東京大学機械的合格法―難関大学を突破する超合理的勉強術 - 柴田 孝之
東京大学機械的合格法―難関大学を突破する超合理的勉強術 - 柴田 孝之

 (2024.2.5.今日の夜からあすの午前にかけて東京から千葉にかけて雪が降り積もる可能性があると天気予報が言っているが、嫌だな。特にクルマのタイヤにチェーン巻くのがめんどくさくて嫌だな・・と思って、↓
ANT spirit 20本入り タイヤチェーン 車用 オートバイ用 タイヤチェーン車用 タイヤチェーン 非金属【 2024アップグレード版/厚くする/二重歯】簡単に 取り付け 緊急タイヤ チェーン 車 雪道 冬 氷滑り止め アイスバーン 凍結 スリップ 事故 悪路対応 バイク/トレーラー/atv/トラック/suvに適用 (オレンジ)
ANT spirit 20本入り タイヤチェーン 車用 オートバイ用 タイヤチェーン車用 タイヤチェーン 非金属【 2024アップグレード版/厚くする/二重歯】簡単に 取り付け 緊急タイヤ チェーン 車 雪道 冬 氷滑り止め アイスバーン 凍結 スリップ 事故 悪路対応 バイク/トレーラー/atv/トラック/suvに適用 (オレンジ)
を購入したのだが、はたして役立つか・・・)

☆ 多田神社(兵庫県川西市)参拝。
1.妙見口駅から多田駅。多田駅前。能勢電鉄を川西池田駅に接続するのが嫌だから川西能勢口駅から大阪梅田まで直通特急を走らせ、かわりに箕面線の直通電車を廃止したか。息子のために配慮する親を持った古田敦也はうらやましい。多田駅付近にある多田神社と多太神社。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/502188429.html
2.多田駅から塩川・多田公民館・多田小学校を経て多田神社。裏口入学て自慢するものなのか? 医者の常識は一般人の非常識。ガチンコ民族は裏口からでなく正門から入ろう。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/502195962.html
3.石段を登り南大門から鳥居を経て随神門。南大門の前の猪名川。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/502225436.html
4.随身門から拝殿・本殿へ。多田源氏とは清和源氏の摂津源氏。16世紀初期の拝殿・本殿・随身門。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/502245833.html
5.多田院天満宮参拝ー冤罪を晴らす神様・怨念を晴らす神さま・菅原道真https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/502254600.html
6.国登録有形文化財の宝物殿。東門。多田神社の清涼飲料水自販機は三ツ矢サイダー。川西市の平野鉱泉が三ツ矢サイダー発祥地。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/502256373.html
7.西門・厳島神社・田尻稲荷神社・六所宮・社務所。イチキシマヒメは美人と言われても会ったことないもの、わからん。週刊誌・スポーツ新聞記事では女性は誰でも「美人」。自分で「社長を退任した」人がなぜ表に出てくるのか。進学校に「うまく合った」人が神戸大に行く学習法と「高校入学時の学年順位から考えると京大に行ける成績」だった者が京大に行く学習法・東大に行く学習法は質が違う。「いい意味でのプライドがある人間」に対して「簡単にあきらめる人」はそれが原因で試験に通らない。〔今回〕

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック