北野天満宮参拝3【2/11】「上七軒通」交差点よりゼロホーム展示場。北野天満宮大鳥居、影向松、伴氏社、鳥居から楼門。「アタマが浜松」的一条工務店東京展示場は厳しかった。「伴」「大伴」氏が藤原に斥けられた後に菅原道真の件が。藤原色がいくらか薄い天皇は「反藤原」ではなく「いくらか非藤原」を目指したか。藤原氏傍流は藤原北家に常に加担していなかったか。
[第1033回]冤罪を晴らす神さま・菅原道真・怨念を晴らすお百度詣り 第67念-2
京都市地下鉄烏丸線「今出川」駅を降りて「上京区総合庁舎前」バス停から京都市バスに乗って「千本今出川」バス停で降り、そこから西に向かうと浄土院「茶くれん寺」があって、さらに西に進むと七紋松通・上七軒通に分岐する「上七軒」交差点にたどりつきました。

↑ 「上七軒」交差点から見た上七軒通り。
今出川通りをさらに西に行くと北野天満宮の大鳥居の所に出るのですが、上七軒通りを進んでも北野天満宮の東門の前に行くはずなので今回は上七軒通りを進んでみようかとも考えたのですが、やはり、上七軒通りというのは《 京都にある最古の花街で五花街の一つ。夕方になると10軒ほどある茶屋からお座敷に向かう舞妓さんに出会える。》(『週刊日本の神社6 北野天満宮』2014.3.25.デアゴスティーニ)という通りらしいので、これは私のような日陰の月見草が近づいてはならない通りであろうと思われたので、上七軒通りを通らずに今出川通りを西に進むことにしました。
1980年代の初め、うちの父親が大阪の宗右衛門町の「高級料亭」に連れていってやると言ってきかず、「行きたくありません」と何度も何度も言ってもきいてもらえず、根負けして一緒に行ったところ、「ええか、わかっとるか。わかっとるか、ええか。この店はなあ、わしいのようなドイツ人で英雄で慶應の人間しか立ち入ってはならん店やねんぞ。おまえのようなチャンコロで浪商の人間は本来、一歩でも立ち入ることは許されん店やねんぞ。ええか、わかっとるか。わかっとるか、ええか」と言うのだった。「もしも、おまえのようなチャンコロがまかりまちがって、この店で食事をしようなどと考えて入ろうとでもしようものなら『出ていってちょうだいんかあ』と言われてつまみだされるぞお~お。そういう店やねんぞ、この店は。この店はわしいのようなエッライえっらいエッライえっらい特別に特別にエライというお方だけが入ることを許されておる店やねんぞ」とおっしゃるのだった。入りたくないんだけどねえ、そんな店なんか。だから、行きたくありませんと何度も何度も言ったのでしょうが。それなのに無理矢理来させたのはあんたやろうが・・と思ったものだったが、「宗右衛門町の高級料亭」というのは、そういう「ドイツ人で慶應で英雄のお方」だけが立ち入ることを許されるお店らしかった。「ああ、ええ気持ちになった、ええ気持ちになった」と帰り道道、おっさんはおっしゃるのだったが、あんまり感じよくなかった。又、そういう店の仲居さんというのは、おっさんがそういうことを言うと「あいのて」入れるみたいなのだが、なんで、こっちはそのおばさんにそんな「あいのて」入れられなきゃならんのかと思ったものだった。『美味しんぼ』とか『味いちもんめ』とかに登場する料亭にはその種の仲居のおばさんが出てくるが、感じわるいなあ・・と見ると思う。その時の経験からするならば、上七軒通りでは《10軒ほどある茶屋からお座敷に向かう舞妓さんに出会える》などと言われても、別に出会いたくないよ、そんなもの( 一一) て感じだ。 なにしろ「わしぁ日陰の月見草や」てものだ。最近、その宗右衛門町の高級料亭のHは宗右衛門町の高級料亭街の店と別に、難波(なんば)の普通の地下街に支店を出したらしいのを見たという話を聞いたのだが、そんな「普通の地下街」に店を出すのであれば、入口にきっちりと「当店は『ドイツ人で英雄で慶應のお方』専門の店です。『チャンコロで浪商の人間』が入ろうとするとつまみ出しますので入らないでください」と、きっちりと入口に大きく掲示しておいてもらいたいものだが、そういう掲示はなかったらしい。一度、時間がある時にその「高級料亭」に行って、そういう「普通の地下街」に店を出すならそういう掲示をきっちりと入口に出すか、そうでなかったら「普通の地下街」に店を出さないでもらいたいと忠告・警告してきたいと思っている。
そういう店の仲居さんとか板前とかて、おまえらいったい何様なんだ・・て感じがする。「わしはエライ人やねんぞお」て態度のひひじじいみたいなおっさんが相手だとへこへこへこへこして、相手が一般人民大衆であると「出て行ってちょうだいんかあ」と言ってつまみだす・・とは感じの悪い連中である。そんな店なんぞ、頼まれても入りたくないわ。『美味しんぼ』はなかなか鋭い指摘がされていて面白いのだが、『美味しんぼ』に登場する「料亭」だの「名店」だのなんて、およそ、入りたいとは思わない。「この店は、おまえは入ってはならない店やねんで。わかってますのんかあ」と言われる店のようだな、と思うと、そんなけったくその悪い店なんぞ入りたいとはとうてい思わないし、悪いことやってカネ稼いでそういう店に食べに行くような会社経営者とかプロスポーツ選手とかそういう類のと関わりたくないし、そういうおっさんどもに媚びを売るのを得意とする板前や仲居とも関わりたくない。・・なにしろ「わしぁ日陰の月見草」やからな・・。
「舞妓さん」なんて、そんな不健康そうで退廃的な印象のもの、反動的・反人民的なものになんぞ「会える」と言われても、別に会いたくもないわ・・。
それで、悪いことやって得たカネで女を呼ぶというような通り、プロレタリアートには不似合いな通りは避けて・・「なにしろ、わしぁ日陰の月見草・・」、そこをさらに今出川通りを西に行くと、

↑ 「ゼロホーム 住宅展示場」。
インターネットで検索すると、同社のホームページhttps://zerohome.jp/ によると、「ゼロホーム」というのは会社名としては、株式会社ゼロ・コーポレーション というらしく、自社のみでの住宅展示場を何店か持っていて、↑ は今出川展示場らしい。1981年創立だそうで、住宅展示場は京都市に2店、滋賀県に2店(草津・守山)、兵庫県に2店(尼崎・伊丹)持っているらしい。
今出川展示場の建物は京都の街中にある展示場らしく、間口が狭く奥行きが深いという京都など昔ながらの街の敷地で建てる場合を想定した建物になっている。地元の会社ですからそういった所に配慮ができますというアピールなのかもしれない。そう大きな会社ではないようだが、そういったアピールをすることで地元の人に評価してもらおうという努力の姿勢は評価できるのではないか。 1992年に(株)一条工務店https://www.ichijo.co.jp/ の東京展示場に私が勤務した時などは、(株)一条工務店の「オリジナル営業」・「(株)一条工務店の遠州人」は「浜松でいいものは東京でも大阪でもいいに決まってるんだ。こんな常識もわからんのか」などと非常識なことを言っていた。1993年5月に「研修」だといって浜松まで行かされた時には名古屋南営業所の所長だという近藤路夫(男。当時、50くらい?)から「東京でも大阪でも、20坪の敷地でも30坪の延べ床面積の家でも、二間続きの和室は絶対に必要なんだ。東京でも大阪でも、たとえ20坪の敷地の家でも30坪の延べ床面積の家でも八寸角の大黒柱は絶対にいいんだ。こんな常識もわからんのかあ!」と言って怒鳴りつけられた。この話を東京圏在住の友人知人何人かに話したところ、全員から「その人、アタマおかしいのと違うのお?」「その人、酔っ払いか何かなのお?」と言われたのだった・・が、1992~1993年頃の(株)一条工務店の「一条オリジナル」従業員・「(株)一条工務店の遠州人」というのは、そんな人間ばっかりだった。東京都江東区潮見の東京展示場(今はない)は「三世代が住める家」というキャッチフレーズを書いていたが、それを見て入場した来場者からは「これが二世帯住宅なのお~お?」と言われた。(株)一条工務店が言う「二世帯住宅」は、その頃、旭化成とかが主唱していた「都市型二世帯住宅」「新しいタイプの二世帯住宅」のことではなくて、「お母さんとお嫁さんが一緒に調理できるシステムキッチン」とか「親戚中が集まった時にも対応できる二間続きの和室、補助席にもなるリビングのベイウインドウ」とそういうものを言っていたのであり、「やっぱり、お宅は浜松ねえ」と来場者から言われた。 近藤路夫が「展示場で勤務して何か困ることはあるか」と言うので、私は「たいていの住宅会社は地方では地方に合った間取りの展示場、都市圏では都市圏向けの展示場を建てているのですが、一条工務店だけが東京でも浜松向けの展示場を建てていて来場者から『やっぱり、お宅は浜松ねえ』と言われるのですが、どうすればいいでしょうか」と質問したところ、「何か困ることがあったら言ってくれ」と言った近藤路夫は「そういうことを言うからいかんのだあ、おまえはあ! 浜松でいいものは東京でも大阪でも全国どこでもいいに決まってるんだあ。おまえはそんなことすらもわからんのかあ~あ!!!」と言って怒鳴りつけられた・・・が、わかってたまるか。都市圏に合う間取りと地方に合う間取りは違う。そもそも「アタマが浜松」「浜松の中のカエル」が非浜松の人間を相手に「研修」の議長役なのか講師役なのかに出てくるのが間違っていた・・はずだったが、「(株)一条工務店の遠州人」というのはどいつもこいつもフランスもそんな人間ばっかり、「アタマが浜松」「浜松の中のカエル」ばっかりだった( 一一) 彼ら「一条オリジナル」「(株)一条工務店の遠州人」は「『空の一部分の広さは浜松の広さと同じだ』と言うならそれは正しいが『空の広さは浜松の広さと同じだ』と言うのなら、それは間違っている」というと激怒するのだった。「浜松でいいものは日本全国、東京でも大阪でも絶対にいいんだ。八寸角の大黒柱は東京でも大阪でも敷地面積20坪の家でも絶対にいいんだ。敷地面積20坪の家でも二間続きの和室は絶対に必要なんだ。このくらいの常識すらもわからんのかあ~あ!」と言って「遠州人」「一条オリジナル」は激怒するのだった。又、彼ら「一条オリジナル」は「二世帯住宅と言いましても、一条工務店が建てているような地方の農家が三世代で一緒に住むという二世帯住宅ではなくて、最近は東京圏や関西圏では旭化成などが主唱して大手ハウスメーカーが建てだした、たとえば同じ敷地で建てるけれども1階と2階で親子が別に住んで入口が別になっていて、何かあった時にはすぐに行けるという『二世帯住宅』とか、キッチンとお風呂・トイレは2つずつあって親世帯・子世帯で別のものを使用し玄関も2つあるけれども内部でつながっている所もあって、行き来したいと思えばできるという二世帯住宅とかそういった『都市型の二世帯住宅』『新しいタイプの二世帯住宅』というものを都市圏の人で考える人があるんですよ」と私などが言うと、「そんなおかしな家があるかあ! キッチンを2つ設けて親と別に食事をするなどというそういうケシカランことを言うバカ嫁は言ってきかせてやらんといか~ん!!!」とか言ってお怒りになるのでした。「浜松ではそういう家を建てる人は多くなくても、東京圏や関西圏では、最近、そういう家を建てようという人がけっこうあるんですよ」などとうかつに言おうものなら、「そういう非常識なことをおまえが言うからいかんのだあ~あ! バカ嫁は言ってきかせてやらんといか~ん!!!」とお怒りになるので、もう参った、「一条オリジナル」「(株)一条工務店の遠州人」とは関わらない方が良さそうだった・・し、(株)一条工務店では「都市型二世帯住宅」の契約を取得するのはあきらめた方がいいのかな・・と思うようになった。福沢諭吉は「『いなかもの』という言葉には2通りの意味がある。『田舎の生まれ』とか『田舎の住人』とか『田舎の出身』という意味での『いなかもの』はこれは別に悪いことはない。しかし、『精神面がイナカモノ』というのはこれは良くない」と語ったというのだが、遠州地方に遠州地方の人間が好む家を建てるというのは、これは何も悪いことはないが、しかし、遠州地方とはその地域の環境も異なり住人の生活も違えば好みも違うという地域に、な~にがなんでも「浜松の家」を押しつけてやらないと気がすまないという「遠州好み」〔この場合、「遠州好み」とは「千利休が好んだ」という意味の「利休好み」、「古田織部が好んだ」という意味の「織部好み」と同様に「小堀遠州が好んだ」という意味での「遠州好み」という意味ではなく、「日本全国、都会か地方かにかかわらず、ともかく遠州地方の好み・遠州人の好みを全国の人間に押しつけないとおれないというイナカモンの発想」という意味での「遠州好み」である〕というのは、これは福沢諭吉が言った「精神面がイナカモノ」の発想・思考であり、良くない・・はずだが、ところが、私は最初、(株)一条工務店に入社してすぐの頃、こんなことは普通のこと、あたりまえのことと思っていて、わかっていない人に教えてあげたら喜んでもらえるだろうと思っていたのだったが、ところが「遠州人」(この場合、「(株)一条工務店の遠州人」のことで「遠州人一般」がどうかとは別)はそうではなく、「浜松でいいものは東京でも大阪でも日本全国どこでもいいに決まってるんだ。こんな常識もわからんのか」と言って激怒するのだった( 一一) が「遠州人」(この場合、「(株)一条工務店の遠州人」のことで「遠州人一般」がどうかとは別)とつきあうのは実際問題として、しんどい( 一一)
そういう「アタマが浜松」の人が経営する会社・「ほとんどビョーキ」的浜松人間の会社( 一一) と違って、この地域で売るにはどうすればいいか、すべて成功かどうかはさておき「どうすれば売れるか」を考えた展示場を作って出展している、という点は評価できそうに思えた。
私は1998年~2001年にかけて栃木県佐野市に住んだが、その頃、「ギョーザの街」というのは栃木県宇都宮市が「街おこし」として考えついたものとして宇都宮はそれを「売り」にしていたのだった・・が、その後、「ウナギと言えば浜松」で売っていたはずの浜松が「浜松ギョーザ」を売りにして「餃子の街」という宇都宮が「街おこし」として考えたことを横取りしようと画策し「それって、なんか、ずっこいんちゃう」て感じしたが、「餃子消費量日本一」を浜松が宇都宮から奪い取ったとか言っていたら、インターネットで見ると、そのうち宮崎市も「餃子の街」を「売り」にしだして、一時は宮崎市に「餃子消費量日本一」を奪われた浜松市は「負けるもんかあ」と浜松市民は頑張って一生懸命餃子を食って「餃子消費量日本一」の座を奪還した・・とか、今もこの「餃子三羽烏」というのか「餃子トライアングル」というのかの3市の市民は「餃子消費量日本一」を奪還すべく愛郷心から一生懸命餃子を食いまくっている・・・らしい・・・が、(株)一条工務店の「一条オリジナル」「一条工務店の遠州人」を嫌というほど見せられてきた者としては、「浜松餃子」なんて食うと、一口かじると同時に「ひとつの家にキッチンを2つ欲しいなどというバカ嫁は言ってきかせてやらんといか~ん!」とか餃子が叫びそうで、なんか、「浜松餃子」って怖い・・・( 一一) ( 一一) ( 一一)
かつて、静岡県浜松市に本社があった富士ハウス という戸建住宅建築業の会社があって〔今は倒産してなくなった〕、(株)一条工務店と富士ハウス(株)はどちらも浜松に本社を持つ在来木造の会社で、(株)一条工務店は赤・白・緑の3色でまんなかの白の部分に「一条工務店」と書いたロゴを使っていたのに対して富士ハウスは赤・白・青の3色で真ん中の白の部分に「富士ハウス」と書いたロゴを使っていたところも似ていて、(株)一条工務店の研修では「東京あたりの人は知らないでしょうけれども浜松に富士ハウスという一条工務店の真似ばっかりやってるやらしい会社があるんですけれども・・」と教えられたのだったが、長く(株)一条工務店にいる人からは「逆だよ。一条工務店が富士ハウスの真似したんだよ」と聞いた。特に、昔は在来木造は機械プレカットではなく手加工で建てる方が普通だったが、機械プレカットで建てるというのは富士ハウスの方が先にやっていて(株)一条工務店の方が真似したのに、それを(株)一条工務店は研修で「富士ハウスは一条の真似ばっかりやってる」と教えていた・・て、従業員にそういうことを吹き込むのってなんかどこやらの独裁国家みたい・・て感じもするが、(株)一条工務店は何かと嘘が多い会社だが、まあ、特許でもない限り同業他社がやっていることでいいものがあったら取り入れて悪いということはないわけだが、「餃子の街」として売り出そうという案を宇都宮が考えたのを横取りみたいに「餃子の街 浜松」と言い出すというのは、宇都宮とは関係なく元から浜松の人間はけっこう餃子が好きで食べてたと言う人もあるようだが、一条工務店が富士ハウスの真似をしたのか富士ハウスが一条工務店の真似したのか今もってよくわからんが、3色のロゴについては(株)一条工務店の赤・白・緑のロゴは富士ハウスの赤・白・青のロゴの真似ではなくて創価学会の赤・黄・青の3色の旗の真似だと言う人もあったが〔⇒《ウィキペディアー創価学会》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%B5%E4%BE%A1%E5%AD%A6%E4%BC%9A 〕、よそが「餃子の街」として売り出した作戦を横取りして「餃子消費量日本一」と言い出すというのは、やっぱり、なんかずっこい印象がある。
・・ゼロホームの今出川展示場には時間があれば立ち寄ってみたかったが、今回は北野天満宮参拝に来たので、かつ、時間がそれほどなかったので立ち寄ることはできなかった。

住のマーケティング - 日経流通新聞

T.レビット マーケティング論 - セオドア・レビット, 有賀裕子
ゼロ・ホーム 今出川展示場の前をさらに西に行くと、


↑ 北野天満宮 大鳥居。
大鳥居の額には「天満宮」、右の時計塔には「天神信仰発祥の社 全国天満宮総本社」、大きな幟には「節分祭」と書かれています。
いつ見ても、この大鳥居はいい。
何度来ても、この大鳥居を見ると「ついに北野天満宮に来た~あ」という感じがする。リヒャルト=ワグナーのオペラ『タンホイザー』の「巡礼の合唱」あたりがバックミュージックとして響いてくる。〔⇒《YouTube-ワーグナー 巡礼の合唱 「タンホイザー」 より The Robert Shaw Chorale》https://www.youtube.com/watch?v=rZWmnpM0Is4 〕
フリードリヒ=ニーチェは『ツァラトゥストラはこう語った』でリヒャルト=ワグナーを悪趣味だと述べていたと思うのだが、最初に『ツァラトゥストラはこう語った』を読んだ時にはそうであるのかないのかよくわからなかったが、そのうち、そうかもしれないと思うようになった・・が、この「巡礼の合唱」は好きだ。北野天満宮に来てこの大鳥居を見た時に感じるものに対してのバックミュージックとしては、ワグナーのオペラ『タンホイザー』の「巡礼の合唱」が思い浮かぶ。
大鳥居をくぐって入ってすぐ右手に ↓

↑ 影向松(ようごうのまつ)。
現地の説明書きには、
《 影向松(ようごうのまつ)
初雪の日、御祭神この松に影向(降臨)ありて 歌を詠み給うと古くより伝えられ
毎年、三冬(初冬から節分)の初雪の日、大前にて初雪祭を斎行する
この松は明治期まで宇多天皇と御祭神との御神縁により仁和寺の御寄進によって代々植え替えられてきたと伝わる 》
『週刊日本の神社6 北野天満宮』(2014.3.25.デアゴスティーニ)には、
《 初雪が降ると天神さまがこの松に降りてきて、雪見の歌を詠むと伝えられる。》
と書かれている。

参道を進むと左手に


↑ 伴氏社(ともうじしゃ)
現地の説明書きには、
《 末社 伴氏社(ともうじしゃ)
御祭神 菅原道真の母君
御神徳 子どもの成長と学業成就を守護
例祭日 一月十四日
菅原道真公の母君が大友氏の出身であることより伴氏社と称する。かつては、石造りの五輪塔が置かれていたが明治維新の神仏分離令により、当社南隣の東向観音寺に移された。
暖かい愛情と厳しい母君を祀るこの神社は、わが子の健やかな成長と大成を願うお母様方の篤い信仰を集めている。
神前の石鳥居は鎌倉時代の作で、国の重要美術品に指定されており、台座に刻まれた珍しい蓮弁により有名である。》
『週刊日本の神社6 北野天満宮』(2014.3.25.デアゴスティーニ)には、
《 伴氏社(ともうじしゃ)
伴氏(ともうじ)出身で、道真公の母君を祭神とする末社。子供の成長と学業成就を願う母からの信仰があつい。》
と書かれている。
![日本の神社 6号 (北野天満宮) [分冊百科]](https://m.media-amazon.com/images/I/61Ex6HuZKZL._SL500_.jpg)
日本の神社 6号 (北野天満宮) [分冊百科]
菅原道真は父方の先祖は、『古事記』の天穂日命(あめのほひのみこと)から相撲の祖と言われる野見宿禰(のみのすくね)を経て、殉死をやめるための方法として埴輪を設けることを提案して作った土師(はじ)氏に至り、《桓武天皇の祖母が土師氏だったことで復活し、菅原の姓を下賜された。》(関裕二「古代の英雄・野見宿禰と菅原氏の悲劇」 〔『週刊日本の神社6 北野天満宮』(2014.3.25.デアゴスティーニ)所収。〕とある。
天穂日命(あめのほひのみこと)⇒野見宿禰(のみのすくね)⇒土師氏⇒菅原氏
といっても、天穂日命(あめのほひのみこと)や野見宿禰(のみのすくね)は神話の世界の人で存在もわからないが、こういう話になっている。逆に菅原道真の子孫で有名人というと、『更級日記』の作者の「菅原孝標の女(すがわらのたかすえのむすめ)」は菅原道真の6世の孫らしい。「むすめ」と読んでほしいなら「娘」と書けばよさそうなものなのに、高校の「古文」ではなぜか「女」と書いて「むすめ」と読ませるのだが、なんでかわからんが昔から「菅原孝標の女」と書いて「菅原孝標のおんな」とか「菅原孝標のすけ」とかではなく「むすめ」と読まされている。さらに後の子孫となると、前田利家が菅原道真の子孫と名乗っていたらしいが、そのあたりまでいくと、実際にそうであったのかなかったのかわからない。
母親は伴氏の出だったということで、そして、「伴(とも)」と「大伴(おおとも)」は同じなのか違うのかというと、応天門の変などで登場する伴善男の「伴(とも)」は「大伴(おおとも)」で奈良時代からの名門で、歌人として百人一首にも登場する大伴家持の大伴氏だったらしい。なぜ、「大伴(おおとも)」が「伴(とも)」になったかというと、《ウィキペディアー伴善男(とものよしお)》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%B4%E5%96%84%E7%94%B7 には、
《 なお、大伴氏は弘仁14年(823年)の淳和天皇(大伴親王)の即位に伴い、避諱のために伴氏と改姓している。》
と出ており、大伴親王と同じ名前というのはいかんと藤原氏に因縁つけられて「大」をとりあげられて「大伴(おおとも)」から「伴(とも)」にされたという説もどこかで読んだ記憶がある。どこだったか、そのうち思い出すと思う。
北野天満宮は、もともとは菅原道真の怨霊を祀る神社であり、太宰府天満宮は墓所であるのに対して北野天満宮は怨霊神としての菅原道真を祀る神社であった。北野天満宮の本殿の後ろの末社の十二社の中には、橘逸勢(たちばなのはやなり)・文屋宮田麻呂(ふんやのみやたまろ)・藤太夫吉子(とうだゆうきっし、藤原吉子)・伊予親王・崇道天皇 (早良親王)と、平安時代に恨みをのんで死亡した人たちが祭神として祀られている。
伴氏社(ともうじしゃ)は今は「子どもの成長と学業成就を守護」が「御神徳」だとされていて、菅原道真の母が祭神とされているとしても、又、道真の母を祀るという趣旨もあったとしても、それだけではなく、藤原氏に斥けられた「大伴(おおとも)」「伴(とも)」一族の怨念を祀るという性格も、もしかしてあった・・ということも可能性としてはありうるということはないか。
※ ウィキペディアー大伴家持 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%BC%B4%E5%AE%B6%E6%8C%81
ウィキペディアー伴善男 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%B4%E5%96%84%E7%94%B7
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ついで称徳天皇が死ぬと、藤原百川(ももかわ)が政権をとり、自派につごうのよい天皇(光仁〔こうにん〕天皇)を立て、道鏡を下野国に流すとともに、道鏡の専制期に禁止されていた開墾をふたたび自由にし、貴族の勢力争い、それとむすびついた、皇位をめぐる皇族たちの血で血を洗う闘争がくり返され、そのうちに藤原氏の勢力が決定的に強くなる。
藤原氏は、大伴氏ら古来の名門貴族や寺院の勢力を弱めようとして、784年(桓武天皇の延暦3年)、都を奈良から山城國の長岡(いまの京都市西郊)にうつし、ついでいまの京都の地に、平城京と同じ形の、それよりも大規模な新都を計画して、平安京と名づけ、造営が完成しないうちに、794年(延暦13)、そこにうつった。これよりおよそ400年ほど、平安京が貴族の政治・文化の中心地であったので、その時期を平安時代とよぶが、都が変わったからとて、社会経済や政治の体制が一変したのではない。いわゆる奈良時代、8世紀の後期から、いわゆる平安時代の前期、10世紀 の中ごろまでの180年ほどは、律令の公地公民制が解体し、その政治構造が変容する、過渡的な一時期である。
(井上清『日本の歴史 上』1963.9.25. 岩波新書)
大伴家持 おおとものやかもち 718?~785 越中守をはじめ中央・地方の諸官を歴任。万葉歌人中、479首の最多数の歌を残し編者の一人に擬せられる。繊細幽寂な歌風。 のち藤原種継暗殺に関係したという。
(全国歴史教育研究協議会編『新版 日本史用語集』1966.第一版、1975.新版。山川出版社)
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伴善男 とものよしお 809~68 大納言。左大臣 源 信 みなもとのまこと 勢力を争い、その失脚をはかり、応天門の変をおこし、伊豆に流された。
応天門の変 866年、大納言 伴善男が左大臣 源 信 みなもとのまこと の失脚をねらって大極殿前の応天門に放火、藤原良房により処断。紀 豊城とよき・紀 夏井らも関連して、それぞれ流罪。
(全国歴史教育研究協議会編『新版 日本史用語集』1966.第一版、1975.新版。山川出版社)
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この間にも都の貴族たちの勢力争いはたえなかったが、彼らは奈良朝の貴族のように、叛乱をくわだてる独自の武力や、地方の豪族とのつながりはなく、もっぱら宮廷内の陰謀をくりかえした。その中で、藤原氏一門の四家系のうちの北家(ほくけ)が、着実に勢力をのばした。藤原良房は、858年(天安2)その外孫 清和天皇が9歳で皇位につくと、その摂政になった。皇族以外のもので摂政になったのは、これがはじめてである。ついで良房の養嗣子 基経(もとつね)は、陽成(ようぜい)天皇の摂政となり、天皇が成人すると、事実上の摂政と同じ権力をもつ「関白」という地位を新設して、みずからそれになった。
しかし、まだ藤原氏北家の独裁は、不動のものではなかった。基経の死後、宇多天皇は関白を置かず、菅原道真(845-903)を重く用いて藤原氏に対抗させた。つぎの醍醐天皇も同様に関白をおかず、律令による政治の復興につとめた。そのまたつぎの朱雀・村上の二代の天皇も、同様に律令制復興の努力をつづけた。それゆえ宮廷歴史家は、醍醐帝のときの年号「延喜(えんぎ)」(901ー22年)と村上帝のときの年号「天歴(てんりゃく)」(947-56年)をとって、その間の政治を「延喜天暦の治」と讃美するが、かの純友・将門の乱が、ほかならぬこの間におこったことが、何よりもよく、古代天皇制の再興はできないことを示していた。・・・
(井上清『日本の歴史 上』1963.9.25. 岩波新書)
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日本の歴史 上 (岩波新書 青版 500) - 井上 清
私が中学生や高校生だった1970年代においては中学校の「歴史」・高校の「日本史」においても、「蒸し米(645)ふかして大化の改新」と、中大兄(天智天皇)と中臣鎌足(藤原鎌足)らによる蘇我入鹿暗殺事件とその後の改革は「大化の改新」として一体のものとされていたが、教科書に書かれているものというのは、まず間違いないと思われているものでその学会では通説・定説として定着しているものが書かれているのかと思ったらそうでもないみたいで、最近では中大兄と中臣鎌足らによる蘇我入鹿暗殺事件は乙巳の変(いっしのへん)として大化の改新と同じではないという扱いにされてきているらしい。その乙巳の変(いっしのへん)で突然、登場した中臣鎌足とは何者だったのかという点について、関裕二氏は百済から日本に来ていた百済の皇子の豊璋(ほうしょう)が中の下くらいの位置の豪族だった中臣氏の息子ということにして中臣鎌足になり、「藤原」という苗字をもらって藤原鎌足になると、元々の中臣氏は中臣の姓で鎌足の子孫は藤原を名乗った・・ということではないかと推測したようだが、ありえそうに思えることだが今となっては断定できるものでもない。
※ ウィキペディアー扶余豊璋 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%89%B6%E4%BD%99%E8%B1%8A%E7%92%8B
「藤原氏」は藤原鎌足の時に突然、登場してきた氏族で、最初は中臣鎌足を名乗っていたが「藤原」を名乗るようになり、「中臣」は消えたのかというとそうではなくて、「藤原」と別に「中臣」は存在続けたらしい。「中臣」は大和朝廷の氏族の中ではそれほど有力な方の氏族ではなかったらしく、ほかに有力な氏族がいくつか存在したが、だんだんと藤原の力が増していったようだが、奈良時代の終わりころ、大和朝廷の古来からの名門氏族でまだ力を持っていたのが「大伴」だったらしいが、
(1) 長岡京・平安京遷都に際してその大伴家の大伴家持が藤原種継暗殺に関して斥けられ、その後、
(2) 大伴親王と名前が同じだということから「大伴」はいかんと「大」を取り除かれて「伴」氏にされてしまうということがあり、さらにその後、
(3) 大伴氏の勢力を盛り返そうとした伴善男は応天門の変 に際して、「紀」氏とともに藤原良房に斥けられた。
(4) その藤原良房の養嗣子だという藤原基経の息子の藤原時平 に対して、母親は藤原氏の出ではなく皇族だった宇多天皇と菅原道真が対抗馬として出現したが、藤原時平らに排斥された・・ということだったようだ。
大伴氏は菅原道真の少し前にも、この(1)~(3)の事件があったわけで、北野天満宮造営にともない「伴氏」を祀る祠も設けられた・・ということはありそうにも思える。
森谷尅久他執筆・京都商工会議所編『改訂版 京都・観光文化検定 公式テキストブック』(2005初版。 2007.10.8.8版 淡交社)には、
《 伴氏社(ともうじしゃ)(上京区御前通今小路上ル馬喰町)
祭神は伴氏。北野天満宮の境内末社。
石造五輪塔の忌命塔(きみょうとう)跡地を社として、菅原道真の母である伴氏を祀る。社前の鳥居は鎌倉時代に建てられ、京都三珍鳥居の一つ。》
と書かれている。《祭神は伴氏》と書かれており、「伴(とも)」「大伴(おおとも)」一族を祭神として祀っているともとれる書き方だが、《菅原道真の母である伴氏を祀る。》という書き方もされており、「菅原道真の母」を「伴氏」として祀っているともとれる・・が、実際にはどちらともとれるのではないか。
ウィキペディアー菅原道真 を見ても、
《 父母 父:菅原是善 母:伴真成の娘 》
と書かれており、母親はあくまで「伴真成の娘」であってはっきりとした名前は書かれておらず、平安時代頃は女性の名前ははっきりと記録されていない場合が多く『更級日記』の作者にしても「菅原孝標の女(むすめ)」とされていてどういう名前だったのかわからないわけで、「祭神は伴氏」としても、「伴(とも)」「大伴(おおとも)」氏の一族が祭神なのか、それとも菅原道真の母を「伴氏」と言ったのか、どちらとも言えないが、私は《道真の母を含めて「伴(とも)」「大伴(おおとも)」氏の一族》ではないのかな・・という感じがする。
三田誠広『菅原道真 見果てぬ夢』(河出書房新社)など見ると、
(1) 母親が藤原氏の出でない天皇が即位すると、藤原氏以外の者と組んで反藤原の態度を取り始めると言われたが、しかし、「母親が藤原氏でない天皇」と言っても、それまでに何度も縁組しているわけで何代か前に遡れば藤原氏とつながりがあるのではないか・・と思ったのだが、「母親が藤原氏でない天皇」が即位した場合、「反藤原」ではなく「非藤原」というのか、藤原氏に完全に支配され操られる状態を嫌って「反藤原」ではないとしても「非藤原」の姿勢を取ろうとした、もしくは藤原にがんじがらめにされた状態を緩めようとしたということがあったようで、母親は藤原氏ではなく皇族だったらしい宇多天皇もその傾向があったらしいが、宇多天皇の時に菅原道真が右大臣になったとはいえ、藤原時平も左大臣になっていたのであって、藤原氏を完全に排斥までしていないし完全に排斥しようとまでしていたわけではなく、あくまで、いくらか「非藤原」の方向に持っていこうとしたものらしかった。
(2) しかし、菅原道真というのは、あくまでも「お勉強しい」の家系であり、藤原氏と対抗するような力なんてなかったのではないのか・・とも思ったのだが、実際、藤原氏と対抗する力があったわけではなく、時平の父親の基経とは道真は対等の立場ではなく、基経に世話になっていたような立場だったらしい。 しかし、「藤原氏」と言っても四家あって、隆盛を誇っていたのはあくまでも北家の主流派であって、藤原氏でも北家でない藤原氏はそれほど隆盛を誇っていたわけでもなく、「得する立場」にあったわけでもなかったらしい。だから、藤原時平と「宇多天皇+菅原道真」の対立があった時、藤原氏でも「宇多天皇+菅原道真」の側についていた藤原氏が存在したらしい。だからこそ、菅原道真は藤原時平らと対抗できたようだ。

菅原道真 見果てぬ夢 - 三田 誠広
参道を進むと、

(↑ 写真はクリックすると大きくなります。)
↑ この鳥居の向こうに楼門が見え、楼門には「文道太祖(ぶんどうのたいそ) 風月本主(ふうげつのほんしゅ)」と書かれた額がかかっているのが見える。
右手に牛の像がありますが、↓

↑ 「撫牛(なでうし) 抗ウイルス・抗菌加工を施しています」と書かれていますが、「抗ウイルス・抗菌加工」てどないやるんやろ・・。
大鳥居の後ろ、中鳥居(?)を2つくぐって進むとその先に楼門(ろうもん) ↓

↑ 「文道太祖(ぶんどうのたいそ) 風月本主(ふうげつのほんしゅ)」と書かれた額がかかっています。
次回https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/502321338.html 、楼門から三光門、文子天満宮、紅梅殿と太鼓橋。
(2024.2.9.)
☆ 北野天満宮(京都市上京区)参拝3
1.烏丸線「今出川」駅より「千本今出川」交差点、浄土院、「上七軒」交差点。わかりにくい京都市地下鉄烏丸線の駅名。京都で下宿すると安いと曲解している連中。「女性社員の尻を『次はこういう撫で方したらどないでっか』と言いなさい」と言う父親は「いいお父さん」か? そういう父親を「ものすごいすばらしいお父さん」と称賛する高校教諭は「ええ先生」か? https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/502287883.html
2.「上七軒通」交差点より、ゼロホーム展示場。「アタマが浜松」的一条工務店東京展示場は厳しかった。北野天満宮大鳥居、影向松、伴氏社、鳥居から楼門。「伴」「大伴」氏が藤原に斥けられた後に菅原道真の件が。藤原色がいくらか薄い天皇は「反藤原」ではなく「いくらか非藤原」を目指したか。藤原氏傍流は藤原北家に常に加担していなかったか。 〔今回〕
3.楼門の延長には文子天満宮。三光門。太鼓橋と紅梅殿。秀頼による北野天満宮造営は豊臣の財力を消費させるためだったのか。「学業成就・合格祈願の神様」は「あとづけ」で冤罪を晴らす神・怨念を晴らす神が本来であろう。模擬試験の「判定」に「人事を尽くして天命を待て」という文言は余計。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/502321338.html
4.三光門。大宰府にたどりついた梅に対し摂津で力尽きた松。紅梅と白梅。「闘うきみの歌を闘わないやつが笑うだろう」の中島みゆき はいいとして、自分は人生・生活において犠牲になってないのに「犠牲の精神を教えたい」とぬかす川相は許せん。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/502330050.html
5.三光門から拝殿・幣殿・本殿・西回廊・東回廊。本殿の背後の御后三柱。拝殿前の梅と松。社殿の東面には思い入れ。「京のぶぶづけ」の話を「大阪の人間は」と言うアホ慶大生。「ぶぶづけでもどないだすう」と言われても帰らないであろうバカ慶大生。管理費は入居者を管理するための費用と考えていた日吉台学生ハイツの管理者。元自衛隊は「企業からの問い合わせ」に何言いよるやらわからん。自衛隊に武器を持たせて大丈夫か? 母と一緒に巡った京都の社寺と「とってちってたあ」にされた息子の末路。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/502336739.html
6.本殿後ろの「十二社」の橘逸勢社・藤太夫社・文太夫社・淳仁天皇社。崇徳院が白峰神宮で早良親王が崇道神社。上御霊神社・下御霊神社の祭神と「十二社」の祭神で共通する人が何人か。狭山事件に関して署名を求める人は強制はしないでもらいたい。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/502348932.html
7.本殿後ろの「十二社」の太宰少弐社・櫻葉社・吉備大臣社・崇道天皇社。長屋と戸建の老松社。地主神社相殿の敦美親王・齊世親王・源英明。北門と西陣名技碑・松本伍作氏顕彰碑。自分がやったことを相手がやるだろうという思考を持つ場合はある。自分も黄色人種なのにアメリカ合衆国に行ってワスプになったつもりで「けったいなやつが多い」とか言うおっさん。「心理学」は怖い。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/502356418.html
8.平野神社(京都市北区平野宮本町)参拝ー中門・拝殿・本殿。平野通・西大路通。クスノキは舟に使え。「本当はもっと売れるのだけれど、わざと売らないようにしてるの」という営業は「本当にもっと」売ればいいじゃんhttps://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/502364358.html
9.わら天神(敷地神社)【上】鳥居から西進し北に曲がった正面に社殿。北山の神と穂穂手見命の母の木花佐久夜毘売。ブス建築は耐久性があると奇妙なことを教える営業本部長 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/502384324.html
10.わら天神・敷地神社【中】本殿、綾杉明神、大山祇神社。高耐久性ブス建築は魅力的か?「言い方にもよる」ということを理解できない一条浜松流本舗。勝ちは静岡県愛知県の者の勝ち・負けは東京都神奈川県の者の負けとしたがる一条オリジナル遠州人。木質系建築業の不良経営者を懲らしめる神・大山祇神 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/502460487.html
11.わら天神・敷地神社【下】六勝神社・八幡社。他社と他社従業員との労働契約に不当な口出し介入する現 三菱UFJリサーチ&コンサルティング。後進国の外資系企業 (株)一条工務店。父親がある人間は「父親がいなかった」娘より得しているとは限らない、ということも理解できないアホ高校教諭。無駄になった京都の街を歩いた子供の頃の経験https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/502436497.html
★ 冤罪を晴らす神さま・菅原道真・怨念を晴らすお百度参り
京都府
北野天満宮(京都市上京区)
1 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201302article_2.html
2 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201302article_3.html
3 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201302article_4.html
4 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201302article_5.html
5 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201302article_6.html
北野天満宮2
1.北野天満宮への経路。阪急西院ビルhttps://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202105article_4.html
2.阪急「嵐山」・京福「嵐山」から「北野白梅町」 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202105article_5.html
3.JR「円町」から京都市営バスで「北野天満宮前」 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202105article_6.html
4.大鳥居から楼門、三光門から御本社、文子天満宮 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202105article_7.html
5.東門、北門、地主社、伴氏社。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202105article_8.html
年中「緊急事態宣言」では緊急事態ではなく、それが普通になる。「緊急事態」「蔓延防止」とGoToトラベル・イートを交互に出したら、むしろ一時期に集中することになる。「不要不急の」という表現は戦中にも使われた表現。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202105article_9.html
就業時間中に松戸新田駅から40分もハイキングやる「銀行から来た総務のおっさん」と銀行から「融資」でなく「出資」を受けると会社はつぶれる例。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202105article_10.html
北野天満宮参拝3
1.烏丸線「今出川」駅より「千本今出川」交差点、浄土院、「上七軒」交差点。わかりにくい京都市地下鉄烏丸線の駅名。京都で下宿すると安いと曲解している連中。「女性社員の尻を『次はこういう撫で方したらどないでっか』と言いなさい」と言う父親は「いいお父さん」か? そういう父親を「ものすごいすばらしいお父さん」と称賛する高校教諭は「ええ先生」か? https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/502287883.html
2.「上七軒通」交差点より、ゼロホーム展示場。「アタマが浜松」的一条工務店東京展示場は厳しかった。北野天満宮大鳥居、影向松、伴氏社、鳥居から楼門。「伴」「大伴」氏が藤原に斥けられた後に菅原道真の件が。藤原色がいくらか薄い天皇は「反藤原」ではなく「いくらか非藤原」を目指したか。藤原氏傍流は藤原北家に常に加担していなかったか。 〔今回〕
3.楼門の延長には文子天満宮。三光門。太鼓橋と紅梅殿。秀頼による北野天満宮造営は豊臣の財力を消費させるためだったのか。「学業成就・合格祈願の神様」は「あとづけ」で冤罪を晴らす神・怨念を晴らす神が本来であろう。模擬試験の「判定」に「人事を尽くして天命を待て」という文言は余計。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/502321338.html
4.三光門。大宰府にたどりついた梅に対し摂津で力尽きた松。紅梅と白梅。「闘うきみの歌を闘わないやつが笑うだろう」の中島みゆき はいいとして、自分は人生・生活において犠牲になってないのに「犠牲の精神を教えたい」とぬかす川相は許せん。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/502330050.html
5.三光門から拝殿・幣殿・本殿・西回廊・東回廊。本殿の背後の御后三柱。拝殿前の梅と松。社殿の東面には思い入れ。「京のぶぶづけ」の話を「大阪の人間は」と言うアホ慶大生。「ぶぶづけでもどないだすう」と言われても帰らないであろうバカ慶大生。管理費は入居者を管理するための費用と考えていた日吉台学生ハイツの管理者。元自衛隊は「企業からの問い合わせ」に何言いよるやらわからん。自衛隊に武器を持たせて大丈夫か? 母と一緒に巡った京都の社寺と「とってちってたあ」にされた息子の末路。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/502336739.html
6.本殿後ろの「十二社」の橘逸勢社・藤太夫社・文太夫社・淳仁天皇社。崇徳院が白峰神宮で早良親王が崇道神社。上御霊神社・下御霊神社の祭神と「十二社」の祭神で共通する人が何人か。狭山事件に関して署名を求める人は強制はしないでもらいたい。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/502348932.html
7.本殿後ろの「十二社」の太宰少弐社・櫻葉社・吉備大臣社・崇道天皇社。長屋と戸建の老松社。地主神社相殿の敦美親王・齊世親王・源英明。北門と西陣名技碑・松本伍作氏顕彰碑。自分がやったことを相手がやるだろうという思考を持つ場合はある。自分も黄色人種なのにアメリカ合衆国に行ってワスプになったつもりで「けったいなやつが多い」とか言うおっさん。「心理学」は怖い。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/502356418.html
8.平野神社(京都市北区平野宮本町)参拝ー中門・拝殿・本殿。平野通・西大路通。クスノキは舟に使え。「本当はもっと売れるのだけれど、わざと売らないようにしてるの」という営業は「本当にもっと」売ればいいじゃんhttps://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/502364358.html
9.わら天神(敷地神社)【上】鳥居から西進し北に曲がった正面に社殿。北山の神と穂穂手見命の母の木花佐久夜毘売。ブス建築は耐久性があると奇妙なことを教える営業本部長 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/502384324.html
10.わら天神・敷地神社【中】本殿、綾杉明神、大山祇神社。高耐久性ブス建築は魅力的か?「言い方にもよる」ということを理解できない一条浜松流本舗。勝ちは静岡県愛知県の者の勝ち・負けは東京都神奈川県の者の負けとしたがる一条オリジナル遠州人。木質系建築業の不良経営者を懲らしめる神・大山祇神 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/502460487.html
11.わら天神・敷地神社【下】六勝神社・八幡社。他社と他社従業員との労働契約に不当な口出し介入する現 三菱UFJリサーチ&コンサルティング。後進国の外資系企業 (株)一条工務店。父親がある人間は「父親がいなかった」娘より得しているとは限らない、ということも理解できないアホ高校教諭。無駄になった京都の街を歩いた子供の頃の経験https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/502436497.html
高台寺天満宮(京都市東山区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201511article_7.html
曼殊院天満宮(京都市上京区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201608article_4.html
長岡天満宮(長岡京市)
1.八条ヶ池 他 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201703article_10.html
2.拝殿・祝詞舎・本殿・手水舎他 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201703article_11.html
3.春日社八幡宮社・紅梅殿・白梅殿・社務所(連歌所) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201703article_12.html
4.梅園、長岡稲荷、錦景園 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201704article_1.html
赤根天満宮(長岡京市)
1.光明寺道から南、大峯山禊所、天神社鳥居へ。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/500055705.html
2.鳥居から北に歩み、覆い屋と社殿へ。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/500082490.html
埼玉県
さいたま市岩槻区本宿の「天神宮」「北野天満神社」
1.本宿の天神宮まで。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202110article_7.html
2.鳥居から拝殿、本殿。摂社、本殿。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202110article_8.html
3.「幟竿」と記念碑https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202110article_9.html
千葉県
葛飾天満宮(市川市) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201301article_4.html
白幡天神社(市川市)
1.https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201511article_1.html
2.https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201511article_2.html
3.https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201511article_3.html
市川市北方町4丁目の天神社 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201608article_2.html
意富比神社 末社天神社(船橋市) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201302article_10.html
船橋市東船橋の「天神社」 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201311article_1.html
下飯山満神明神社 摂社天神社(船橋市) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201503article_4.html
白井市河原子の天満宮 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201303article_5.html
子守神社 摂社天神社(千葉市花見川区)https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201605article_3.html
千葉神社 摂社千葉天神 と 鵜の森町の「神札」(千葉市中央区)
(上)https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201305article_2.html
(下)https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201305article_3.html
北總天満宮(千葉市中央区)https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201308article_1.html
新町天満宮(千葉市中央区)
【上】 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201703article_6.html
【下】 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201703article_7.html
大網白里市駒込の天満宮 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202012article_1.html
大網白里市大竹の天満宮 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202012article_2.html
平群天神社(南房総市 平久里中)
1.富楽里、道の駅おおつの里。平群天神社への道。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202101article_2.html
2.伊予ヶ岳・夫婦クスノキ・天神縁起絵巻・鳥居から拝殿へ。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202101article_3.html
3.天神社社殿、木製打上花火筒、朝日山神照寺、民俗資料館跡? https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202101article_4.html
岩井市部天満神社(南房総市市部)。拝殿・幣殿・本殿https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202101article_5.html
東京都
亀戸天神社(江東区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201301article_7.html
亀戸天神社 2回目 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201505article_1.html
湯島天神社(文京区)
上 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201602article_10.html
中 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201602article_11.html
下 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201602article_12.html
北野神社(文京区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201303article_2.html
平河天満宮(千代田区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201210article_3.html
西向天神社(新宿区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201502article_1.html
根津美術館 庭園内 渡唐天神祠(「飛梅祠」)(港区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201603article_3.html
若林天満宮・若林北野神社(世田谷区)https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201312article_5.html
平塚神社 摂社菅原神社〔平塚天神社〕(北区)https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201807article_10.html
谷保天満宮(国立市)
1.谷保駅から鳥居。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201903article_1.html
2.鳥居から坂を下り、拝殿・本殿と鶏https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201903article_2.html
3.五社、三郎殿、厳島神社、左右に2体ずついる狛犬、座牛 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201903article_3.html
4.神楽殿・筆塚https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201903article_4.html
5.梅林、稲荷社、第六天神社 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201903article_5.html
本町田 菅原神社(町田市本町田)
上 赤い鳥居・井手の澤の谷地・弁天社・御本社・牛の絵。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202102article_2.html
中 御本社・参集殿・神楽殿。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202102article_4.html
下 愛宕社・藤木稲荷・井手の澤古戦場碑。枝が垂れ下がる梅の木。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202102article_5.html
町田天満宮(町田市原町田)https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202102article_1.html
神奈川県
下平間天満天神社(川崎市幸区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202003article_14.html
幸区東古市場の天満天神社(川崎市幸区)と御幸公園
1.下平間交差点・古市場交差点を経て天満天神社https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202003article_15.html
2.二度の移転で現在地に来た天満天神社と入口脇の梅https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202003article_16.html
3.御幸公園。植樹された梅林。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202003article_17.html
三渓園天満宮(横浜市中区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201303article_8.html
岡村天満宮(横浜市磯子区)
1.蒔田駅付近から岡村天満宮前交差点 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202202article_5.html
2.鳥居から石段を登り「壁画」前まで。梅の花 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202202article_6.html
3.牛の像。梅の花。社殿。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202202article_7.html
4.拝殿・幣殿・本殿。本殿裏の梅、本殿東側の道。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202203article_1.html
5.神輿庫・神楽殿・幼稚園・幻の新社殿計画地。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202203article_2.html
6.白笹稲荷社・針塚 他 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202203article_3.html
7.岡村公園梅園 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202203article_4.html
永谷天満宮(横浜市港南区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201309article_1.html
荏柄天神社(鎌倉市) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201401article_7.html
北野神社(鎌倉市山崎)https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201504article_2.html
静岡県
(旧駿河地域)
富士市岩淵の天満天神宮 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202110article_6.html
(旧遠江地域)
谷崎天神社(静岡県周智郡森町)
1.遠州森町スマートインターチェンジから谷崎公民館。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202112article_1.html
2.鳥居・手水・牛の像・拝殿・幣殿・本殿。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202112article_2.html
3.拝殿内の牛の像。鷽、亀石。梅園。三末社https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202112article_3.html
4.天竜浜名湖鉄道「遠江一宮」駅https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202112article_4.html
深奥山 方広寺 七尊堂(浜松市北区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201707article_13.html
浜松市西区雄踏町宇布見 の 中村家住宅北側の天神社 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202104article_7.html

学問の神さま―わかりやすい天神信仰

裁判官はなぜ誤るのか (岩波新書 新赤版 809) - 秋山 賢三

冤罪はこうして作られる (講談社現代新書) - 小田中 聰樹

絶望の裁判所 (講談社現代新書) - 瀬木比呂志

日本文化史 第2版 (岩波新書 黄版 187) - 家永 三郎
京都市地下鉄烏丸線「今出川」駅を降りて「上京区総合庁舎前」バス停から京都市バスに乗って「千本今出川」バス停で降り、そこから西に向かうと浄土院「茶くれん寺」があって、さらに西に進むと七紋松通・上七軒通に分岐する「上七軒」交差点にたどりつきました。
↑ 「上七軒」交差点から見た上七軒通り。
今出川通りをさらに西に行くと北野天満宮の大鳥居の所に出るのですが、上七軒通りを進んでも北野天満宮の東門の前に行くはずなので今回は上七軒通りを進んでみようかとも考えたのですが、やはり、上七軒通りというのは《 京都にある最古の花街で五花街の一つ。夕方になると10軒ほどある茶屋からお座敷に向かう舞妓さんに出会える。》(『週刊日本の神社6 北野天満宮』2014.3.25.デアゴスティーニ)という通りらしいので、これは私のような日陰の月見草が近づいてはならない通りであろうと思われたので、上七軒通りを通らずに今出川通りを西に進むことにしました。
1980年代の初め、うちの父親が大阪の宗右衛門町の「高級料亭」に連れていってやると言ってきかず、「行きたくありません」と何度も何度も言ってもきいてもらえず、根負けして一緒に行ったところ、「ええか、わかっとるか。わかっとるか、ええか。この店はなあ、わしいのようなドイツ人で英雄で慶應の人間しか立ち入ってはならん店やねんぞ。おまえのようなチャンコロで浪商の人間は本来、一歩でも立ち入ることは許されん店やねんぞ。ええか、わかっとるか。わかっとるか、ええか」と言うのだった。「もしも、おまえのようなチャンコロがまかりまちがって、この店で食事をしようなどと考えて入ろうとでもしようものなら『出ていってちょうだいんかあ』と言われてつまみだされるぞお~お。そういう店やねんぞ、この店は。この店はわしいのようなエッライえっらいエッライえっらい特別に特別にエライというお方だけが入ることを許されておる店やねんぞ」とおっしゃるのだった。入りたくないんだけどねえ、そんな店なんか。だから、行きたくありませんと何度も何度も言ったのでしょうが。それなのに無理矢理来させたのはあんたやろうが・・と思ったものだったが、「宗右衛門町の高級料亭」というのは、そういう「ドイツ人で慶應で英雄のお方」だけが立ち入ることを許されるお店らしかった。「ああ、ええ気持ちになった、ええ気持ちになった」と帰り道道、おっさんはおっしゃるのだったが、あんまり感じよくなかった。又、そういう店の仲居さんというのは、おっさんがそういうことを言うと「あいのて」入れるみたいなのだが、なんで、こっちはそのおばさんにそんな「あいのて」入れられなきゃならんのかと思ったものだった。『美味しんぼ』とか『味いちもんめ』とかに登場する料亭にはその種の仲居のおばさんが出てくるが、感じわるいなあ・・と見ると思う。その時の経験からするならば、上七軒通りでは《10軒ほどある茶屋からお座敷に向かう舞妓さんに出会える》などと言われても、別に出会いたくないよ、そんなもの( 一一) て感じだ。 なにしろ「わしぁ日陰の月見草や」てものだ。最近、その宗右衛門町の高級料亭のHは宗右衛門町の高級料亭街の店と別に、難波(なんば)の普通の地下街に支店を出したらしいのを見たという話を聞いたのだが、そんな「普通の地下街」に店を出すのであれば、入口にきっちりと「当店は『ドイツ人で英雄で慶應のお方』専門の店です。『チャンコロで浪商の人間』が入ろうとするとつまみ出しますので入らないでください」と、きっちりと入口に大きく掲示しておいてもらいたいものだが、そういう掲示はなかったらしい。一度、時間がある時にその「高級料亭」に行って、そういう「普通の地下街」に店を出すならそういう掲示をきっちりと入口に出すか、そうでなかったら「普通の地下街」に店を出さないでもらいたいと忠告・警告してきたいと思っている。
そういう店の仲居さんとか板前とかて、おまえらいったい何様なんだ・・て感じがする。「わしはエライ人やねんぞお」て態度のひひじじいみたいなおっさんが相手だとへこへこへこへこして、相手が一般人民大衆であると「出て行ってちょうだいんかあ」と言ってつまみだす・・とは感じの悪い連中である。そんな店なんぞ、頼まれても入りたくないわ。『美味しんぼ』はなかなか鋭い指摘がされていて面白いのだが、『美味しんぼ』に登場する「料亭」だの「名店」だのなんて、およそ、入りたいとは思わない。「この店は、おまえは入ってはならない店やねんで。わかってますのんかあ」と言われる店のようだな、と思うと、そんなけったくその悪い店なんぞ入りたいとはとうてい思わないし、悪いことやってカネ稼いでそういう店に食べに行くような会社経営者とかプロスポーツ選手とかそういう類のと関わりたくないし、そういうおっさんどもに媚びを売るのを得意とする板前や仲居とも関わりたくない。・・なにしろ「わしぁ日陰の月見草」やからな・・。
「舞妓さん」なんて、そんな不健康そうで退廃的な印象のもの、反動的・反人民的なものになんぞ「会える」と言われても、別に会いたくもないわ・・。
それで、悪いことやって得たカネで女を呼ぶというような通り、プロレタリアートには不似合いな通りは避けて・・「なにしろ、わしぁ日陰の月見草・・」、そこをさらに今出川通りを西に行くと、
↑ 「ゼロホーム 住宅展示場」。
インターネットで検索すると、同社のホームページhttps://zerohome.jp/ によると、「ゼロホーム」というのは会社名としては、株式会社ゼロ・コーポレーション というらしく、自社のみでの住宅展示場を何店か持っていて、↑ は今出川展示場らしい。1981年創立だそうで、住宅展示場は京都市に2店、滋賀県に2店(草津・守山)、兵庫県に2店(尼崎・伊丹)持っているらしい。
今出川展示場の建物は京都の街中にある展示場らしく、間口が狭く奥行きが深いという京都など昔ながらの街の敷地で建てる場合を想定した建物になっている。地元の会社ですからそういった所に配慮ができますというアピールなのかもしれない。そう大きな会社ではないようだが、そういったアピールをすることで地元の人に評価してもらおうという努力の姿勢は評価できるのではないか。 1992年に(株)一条工務店https://www.ichijo.co.jp/ の東京展示場に私が勤務した時などは、(株)一条工務店の「オリジナル営業」・「(株)一条工務店の遠州人」は「浜松でいいものは東京でも大阪でもいいに決まってるんだ。こんな常識もわからんのか」などと非常識なことを言っていた。1993年5月に「研修」だといって浜松まで行かされた時には名古屋南営業所の所長だという近藤路夫(男。当時、50くらい?)から「東京でも大阪でも、20坪の敷地でも30坪の延べ床面積の家でも、二間続きの和室は絶対に必要なんだ。東京でも大阪でも、たとえ20坪の敷地の家でも30坪の延べ床面積の家でも八寸角の大黒柱は絶対にいいんだ。こんな常識もわからんのかあ!」と言って怒鳴りつけられた。この話を東京圏在住の友人知人何人かに話したところ、全員から「その人、アタマおかしいのと違うのお?」「その人、酔っ払いか何かなのお?」と言われたのだった・・が、1992~1993年頃の(株)一条工務店の「一条オリジナル」従業員・「(株)一条工務店の遠州人」というのは、そんな人間ばっかりだった。東京都江東区潮見の東京展示場(今はない)は「三世代が住める家」というキャッチフレーズを書いていたが、それを見て入場した来場者からは「これが二世帯住宅なのお~お?」と言われた。(株)一条工務店が言う「二世帯住宅」は、その頃、旭化成とかが主唱していた「都市型二世帯住宅」「新しいタイプの二世帯住宅」のことではなくて、「お母さんとお嫁さんが一緒に調理できるシステムキッチン」とか「親戚中が集まった時にも対応できる二間続きの和室、補助席にもなるリビングのベイウインドウ」とそういうものを言っていたのであり、「やっぱり、お宅は浜松ねえ」と来場者から言われた。 近藤路夫が「展示場で勤務して何か困ることはあるか」と言うので、私は「たいていの住宅会社は地方では地方に合った間取りの展示場、都市圏では都市圏向けの展示場を建てているのですが、一条工務店だけが東京でも浜松向けの展示場を建てていて来場者から『やっぱり、お宅は浜松ねえ』と言われるのですが、どうすればいいでしょうか」と質問したところ、「何か困ることがあったら言ってくれ」と言った近藤路夫は「そういうことを言うからいかんのだあ、おまえはあ! 浜松でいいものは東京でも大阪でも全国どこでもいいに決まってるんだあ。おまえはそんなことすらもわからんのかあ~あ!!!」と言って怒鳴りつけられた・・・が、わかってたまるか。都市圏に合う間取りと地方に合う間取りは違う。そもそも「アタマが浜松」「浜松の中のカエル」が非浜松の人間を相手に「研修」の議長役なのか講師役なのかに出てくるのが間違っていた・・はずだったが、「(株)一条工務店の遠州人」というのはどいつもこいつもフランスもそんな人間ばっかり、「アタマが浜松」「浜松の中のカエル」ばっかりだった( 一一) 彼ら「一条オリジナル」「(株)一条工務店の遠州人」は「『空の一部分の広さは浜松の広さと同じだ』と言うならそれは正しいが『空の広さは浜松の広さと同じだ』と言うのなら、それは間違っている」というと激怒するのだった。「浜松でいいものは日本全国、東京でも大阪でも絶対にいいんだ。八寸角の大黒柱は東京でも大阪でも敷地面積20坪の家でも絶対にいいんだ。敷地面積20坪の家でも二間続きの和室は絶対に必要なんだ。このくらいの常識すらもわからんのかあ~あ!」と言って「遠州人」「一条オリジナル」は激怒するのだった。又、彼ら「一条オリジナル」は「二世帯住宅と言いましても、一条工務店が建てているような地方の農家が三世代で一緒に住むという二世帯住宅ではなくて、最近は東京圏や関西圏では旭化成などが主唱して大手ハウスメーカーが建てだした、たとえば同じ敷地で建てるけれども1階と2階で親子が別に住んで入口が別になっていて、何かあった時にはすぐに行けるという『二世帯住宅』とか、キッチンとお風呂・トイレは2つずつあって親世帯・子世帯で別のものを使用し玄関も2つあるけれども内部でつながっている所もあって、行き来したいと思えばできるという二世帯住宅とかそういった『都市型の二世帯住宅』『新しいタイプの二世帯住宅』というものを都市圏の人で考える人があるんですよ」と私などが言うと、「そんなおかしな家があるかあ! キッチンを2つ設けて親と別に食事をするなどというそういうケシカランことを言うバカ嫁は言ってきかせてやらんといか~ん!!!」とか言ってお怒りになるのでした。「浜松ではそういう家を建てる人は多くなくても、東京圏や関西圏では、最近、そういう家を建てようという人がけっこうあるんですよ」などとうかつに言おうものなら、「そういう非常識なことをおまえが言うからいかんのだあ~あ! バカ嫁は言ってきかせてやらんといか~ん!!!」とお怒りになるので、もう参った、「一条オリジナル」「(株)一条工務店の遠州人」とは関わらない方が良さそうだった・・し、(株)一条工務店では「都市型二世帯住宅」の契約を取得するのはあきらめた方がいいのかな・・と思うようになった。福沢諭吉は「『いなかもの』という言葉には2通りの意味がある。『田舎の生まれ』とか『田舎の住人』とか『田舎の出身』という意味での『いなかもの』はこれは別に悪いことはない。しかし、『精神面がイナカモノ』というのはこれは良くない」と語ったというのだが、遠州地方に遠州地方の人間が好む家を建てるというのは、これは何も悪いことはないが、しかし、遠州地方とはその地域の環境も異なり住人の生活も違えば好みも違うという地域に、な~にがなんでも「浜松の家」を押しつけてやらないと気がすまないという「遠州好み」〔この場合、「遠州好み」とは「千利休が好んだ」という意味の「利休好み」、「古田織部が好んだ」という意味の「織部好み」と同様に「小堀遠州が好んだ」という意味での「遠州好み」という意味ではなく、「日本全国、都会か地方かにかかわらず、ともかく遠州地方の好み・遠州人の好みを全国の人間に押しつけないとおれないというイナカモンの発想」という意味での「遠州好み」である〕というのは、これは福沢諭吉が言った「精神面がイナカモノ」の発想・思考であり、良くない・・はずだが、ところが、私は最初、(株)一条工務店に入社してすぐの頃、こんなことは普通のこと、あたりまえのことと思っていて、わかっていない人に教えてあげたら喜んでもらえるだろうと思っていたのだったが、ところが「遠州人」(この場合、「(株)一条工務店の遠州人」のことで「遠州人一般」がどうかとは別)はそうではなく、「浜松でいいものは東京でも大阪でも日本全国どこでもいいに決まってるんだ。こんな常識もわからんのか」と言って激怒するのだった( 一一) が「遠州人」(この場合、「(株)一条工務店の遠州人」のことで「遠州人一般」がどうかとは別)とつきあうのは実際問題として、しんどい( 一一)
そういう「アタマが浜松」の人が経営する会社・「ほとんどビョーキ」的浜松人間の会社( 一一) と違って、この地域で売るにはどうすればいいか、すべて成功かどうかはさておき「どうすれば売れるか」を考えた展示場を作って出展している、という点は評価できそうに思えた。
私は1998年~2001年にかけて栃木県佐野市に住んだが、その頃、「ギョーザの街」というのは栃木県宇都宮市が「街おこし」として考えついたものとして宇都宮はそれを「売り」にしていたのだった・・が、その後、「ウナギと言えば浜松」で売っていたはずの浜松が「浜松ギョーザ」を売りにして「餃子の街」という宇都宮が「街おこし」として考えたことを横取りしようと画策し「それって、なんか、ずっこいんちゃう」て感じしたが、「餃子消費量日本一」を浜松が宇都宮から奪い取ったとか言っていたら、インターネットで見ると、そのうち宮崎市も「餃子の街」を「売り」にしだして、一時は宮崎市に「餃子消費量日本一」を奪われた浜松市は「負けるもんかあ」と浜松市民は頑張って一生懸命餃子を食って「餃子消費量日本一」の座を奪還した・・とか、今もこの「餃子三羽烏」というのか「餃子トライアングル」というのかの3市の市民は「餃子消費量日本一」を奪還すべく愛郷心から一生懸命餃子を食いまくっている・・・らしい・・・が、(株)一条工務店の「一条オリジナル」「一条工務店の遠州人」を嫌というほど見せられてきた者としては、「浜松餃子」なんて食うと、一口かじると同時に「ひとつの家にキッチンを2つ欲しいなどというバカ嫁は言ってきかせてやらんといか~ん!」とか餃子が叫びそうで、なんか、「浜松餃子」って怖い・・・( 一一) ( 一一) ( 一一)
かつて、静岡県浜松市に本社があった富士ハウス という戸建住宅建築業の会社があって〔今は倒産してなくなった〕、(株)一条工務店と富士ハウス(株)はどちらも浜松に本社を持つ在来木造の会社で、(株)一条工務店は赤・白・緑の3色でまんなかの白の部分に「一条工務店」と書いたロゴを使っていたのに対して富士ハウスは赤・白・青の3色で真ん中の白の部分に「富士ハウス」と書いたロゴを使っていたところも似ていて、(株)一条工務店の研修では「東京あたりの人は知らないでしょうけれども浜松に富士ハウスという一条工務店の真似ばっかりやってるやらしい会社があるんですけれども・・」と教えられたのだったが、長く(株)一条工務店にいる人からは「逆だよ。一条工務店が富士ハウスの真似したんだよ」と聞いた。特に、昔は在来木造は機械プレカットではなく手加工で建てる方が普通だったが、機械プレカットで建てるというのは富士ハウスの方が先にやっていて(株)一条工務店の方が真似したのに、それを(株)一条工務店は研修で「富士ハウスは一条の真似ばっかりやってる」と教えていた・・て、従業員にそういうことを吹き込むのってなんかどこやらの独裁国家みたい・・て感じもするが、(株)一条工務店は何かと嘘が多い会社だが、まあ、特許でもない限り同業他社がやっていることでいいものがあったら取り入れて悪いということはないわけだが、「餃子の街」として売り出そうという案を宇都宮が考えたのを横取りみたいに「餃子の街 浜松」と言い出すというのは、宇都宮とは関係なく元から浜松の人間はけっこう餃子が好きで食べてたと言う人もあるようだが、一条工務店が富士ハウスの真似をしたのか富士ハウスが一条工務店の真似したのか今もってよくわからんが、3色のロゴについては(株)一条工務店の赤・白・緑のロゴは富士ハウスの赤・白・青のロゴの真似ではなくて創価学会の赤・黄・青の3色の旗の真似だと言う人もあったが〔⇒《ウィキペディアー創価学会》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%B5%E4%BE%A1%E5%AD%A6%E4%BC%9A 〕、よそが「餃子の街」として売り出した作戦を横取りして「餃子消費量日本一」と言い出すというのは、やっぱり、なんかずっこい印象がある。
・・ゼロホームの今出川展示場には時間があれば立ち寄ってみたかったが、今回は北野天満宮参拝に来たので、かつ、時間がそれほどなかったので立ち寄ることはできなかった。

住のマーケティング - 日経流通新聞

T.レビット マーケティング論 - セオドア・レビット, 有賀裕子
ゼロ・ホーム 今出川展示場の前をさらに西に行くと、
↑ 北野天満宮 大鳥居。
大鳥居の額には「天満宮」、右の時計塔には「天神信仰発祥の社 全国天満宮総本社」、大きな幟には「節分祭」と書かれています。
いつ見ても、この大鳥居はいい。
何度来ても、この大鳥居を見ると「ついに北野天満宮に来た~あ」という感じがする。リヒャルト=ワグナーのオペラ『タンホイザー』の「巡礼の合唱」あたりがバックミュージックとして響いてくる。〔⇒《YouTube-ワーグナー 巡礼の合唱 「タンホイザー」 より The Robert Shaw Chorale》https://www.youtube.com/watch?v=rZWmnpM0Is4 〕
フリードリヒ=ニーチェは『ツァラトゥストラはこう語った』でリヒャルト=ワグナーを悪趣味だと述べていたと思うのだが、最初に『ツァラトゥストラはこう語った』を読んだ時にはそうであるのかないのかよくわからなかったが、そのうち、そうかもしれないと思うようになった・・が、この「巡礼の合唱」は好きだ。北野天満宮に来てこの大鳥居を見た時に感じるものに対してのバックミュージックとしては、ワグナーのオペラ『タンホイザー』の「巡礼の合唱」が思い浮かぶ。
大鳥居をくぐって入ってすぐ右手に ↓
↑ 影向松(ようごうのまつ)。
現地の説明書きには、
《 影向松(ようごうのまつ)
初雪の日、御祭神この松に影向(降臨)ありて 歌を詠み給うと古くより伝えられ
毎年、三冬(初冬から節分)の初雪の日、大前にて初雪祭を斎行する
この松は明治期まで宇多天皇と御祭神との御神縁により仁和寺の御寄進によって代々植え替えられてきたと伝わる 》
『週刊日本の神社6 北野天満宮』(2014.3.25.デアゴスティーニ)には、
《 初雪が降ると天神さまがこの松に降りてきて、雪見の歌を詠むと伝えられる。》
と書かれている。
参道を進むと左手に
↑ 伴氏社(ともうじしゃ)
現地の説明書きには、
《 末社 伴氏社(ともうじしゃ)
御祭神 菅原道真の母君
御神徳 子どもの成長と学業成就を守護
例祭日 一月十四日
菅原道真公の母君が大友氏の出身であることより伴氏社と称する。かつては、石造りの五輪塔が置かれていたが明治維新の神仏分離令により、当社南隣の東向観音寺に移された。
暖かい愛情と厳しい母君を祀るこの神社は、わが子の健やかな成長と大成を願うお母様方の篤い信仰を集めている。
神前の石鳥居は鎌倉時代の作で、国の重要美術品に指定されており、台座に刻まれた珍しい蓮弁により有名である。》
『週刊日本の神社6 北野天満宮』(2014.3.25.デアゴスティーニ)には、
《 伴氏社(ともうじしゃ)
伴氏(ともうじ)出身で、道真公の母君を祭神とする末社。子供の成長と学業成就を願う母からの信仰があつい。》
と書かれている。
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日本の神社 6号 (北野天満宮) [分冊百科]
菅原道真は父方の先祖は、『古事記』の天穂日命(あめのほひのみこと)から相撲の祖と言われる野見宿禰(のみのすくね)を経て、殉死をやめるための方法として埴輪を設けることを提案して作った土師(はじ)氏に至り、《桓武天皇の祖母が土師氏だったことで復活し、菅原の姓を下賜された。》(関裕二「古代の英雄・野見宿禰と菅原氏の悲劇」 〔『週刊日本の神社6 北野天満宮』(2014.3.25.デアゴスティーニ)所収。〕とある。
天穂日命(あめのほひのみこと)⇒野見宿禰(のみのすくね)⇒土師氏⇒菅原氏
といっても、天穂日命(あめのほひのみこと)や野見宿禰(のみのすくね)は神話の世界の人で存在もわからないが、こういう話になっている。逆に菅原道真の子孫で有名人というと、『更級日記』の作者の「菅原孝標の女(すがわらのたかすえのむすめ)」は菅原道真の6世の孫らしい。「むすめ」と読んでほしいなら「娘」と書けばよさそうなものなのに、高校の「古文」ではなぜか「女」と書いて「むすめ」と読ませるのだが、なんでかわからんが昔から「菅原孝標の女」と書いて「菅原孝標のおんな」とか「菅原孝標のすけ」とかではなく「むすめ」と読まされている。さらに後の子孫となると、前田利家が菅原道真の子孫と名乗っていたらしいが、そのあたりまでいくと、実際にそうであったのかなかったのかわからない。
母親は伴氏の出だったということで、そして、「伴(とも)」と「大伴(おおとも)」は同じなのか違うのかというと、応天門の変などで登場する伴善男の「伴(とも)」は「大伴(おおとも)」で奈良時代からの名門で、歌人として百人一首にも登場する大伴家持の大伴氏だったらしい。なぜ、「大伴(おおとも)」が「伴(とも)」になったかというと、《ウィキペディアー伴善男(とものよしお)》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%B4%E5%96%84%E7%94%B7 には、
《 なお、大伴氏は弘仁14年(823年)の淳和天皇(大伴親王)の即位に伴い、避諱のために伴氏と改姓している。》
と出ており、大伴親王と同じ名前というのはいかんと藤原氏に因縁つけられて「大」をとりあげられて「大伴(おおとも)」から「伴(とも)」にされたという説もどこかで読んだ記憶がある。どこだったか、そのうち思い出すと思う。
北野天満宮は、もともとは菅原道真の怨霊を祀る神社であり、太宰府天満宮は墓所であるのに対して北野天満宮は怨霊神としての菅原道真を祀る神社であった。北野天満宮の本殿の後ろの末社の十二社の中には、橘逸勢(たちばなのはやなり)・文屋宮田麻呂(ふんやのみやたまろ)・藤太夫吉子(とうだゆうきっし、藤原吉子)・伊予親王・崇道天皇 (早良親王)と、平安時代に恨みをのんで死亡した人たちが祭神として祀られている。
伴氏社(ともうじしゃ)は今は「子どもの成長と学業成就を守護」が「御神徳」だとされていて、菅原道真の母が祭神とされているとしても、又、道真の母を祀るという趣旨もあったとしても、それだけではなく、藤原氏に斥けられた「大伴(おおとも)」「伴(とも)」一族の怨念を祀るという性格も、もしかしてあった・・ということも可能性としてはありうるということはないか。
※ ウィキペディアー大伴家持 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%BC%B4%E5%AE%B6%E6%8C%81
ウィキペディアー伴善男 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%B4%E5%96%84%E7%94%B7
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ついで称徳天皇が死ぬと、藤原百川(ももかわ)が政権をとり、自派につごうのよい天皇(光仁〔こうにん〕天皇)を立て、道鏡を下野国に流すとともに、道鏡の専制期に禁止されていた開墾をふたたび自由にし、貴族の勢力争い、それとむすびついた、皇位をめぐる皇族たちの血で血を洗う闘争がくり返され、そのうちに藤原氏の勢力が決定的に強くなる。
藤原氏は、大伴氏ら古来の名門貴族や寺院の勢力を弱めようとして、784年(桓武天皇の延暦3年)、都を奈良から山城國の長岡(いまの京都市西郊)にうつし、ついでいまの京都の地に、平城京と同じ形の、それよりも大規模な新都を計画して、平安京と名づけ、造営が完成しないうちに、794年(延暦13)、そこにうつった。これよりおよそ400年ほど、平安京が貴族の政治・文化の中心地であったので、その時期を平安時代とよぶが、都が変わったからとて、社会経済や政治の体制が一変したのではない。いわゆる奈良時代、8世紀の後期から、いわゆる平安時代の前期、10世紀 の中ごろまでの180年ほどは、律令の公地公民制が解体し、その政治構造が変容する、過渡的な一時期である。
(井上清『日本の歴史 上』1963.9.25. 岩波新書)
大伴家持 おおとものやかもち 718?~785 越中守をはじめ中央・地方の諸官を歴任。万葉歌人中、479首の最多数の歌を残し編者の一人に擬せられる。繊細幽寂な歌風。 のち藤原種継暗殺に関係したという。
(全国歴史教育研究協議会編『新版 日本史用語集』1966.第一版、1975.新版。山川出版社)
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伴善男 とものよしお 809~68 大納言。左大臣 源 信 みなもとのまこと 勢力を争い、その失脚をはかり、応天門の変をおこし、伊豆に流された。
応天門の変 866年、大納言 伴善男が左大臣 源 信 みなもとのまこと の失脚をねらって大極殿前の応天門に放火、藤原良房により処断。紀 豊城とよき・紀 夏井らも関連して、それぞれ流罪。
(全国歴史教育研究協議会編『新版 日本史用語集』1966.第一版、1975.新版。山川出版社)
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この間にも都の貴族たちの勢力争いはたえなかったが、彼らは奈良朝の貴族のように、叛乱をくわだてる独自の武力や、地方の豪族とのつながりはなく、もっぱら宮廷内の陰謀をくりかえした。その中で、藤原氏一門の四家系のうちの北家(ほくけ)が、着実に勢力をのばした。藤原良房は、858年(天安2)その外孫 清和天皇が9歳で皇位につくと、その摂政になった。皇族以外のもので摂政になったのは、これがはじめてである。ついで良房の養嗣子 基経(もとつね)は、陽成(ようぜい)天皇の摂政となり、天皇が成人すると、事実上の摂政と同じ権力をもつ「関白」という地位を新設して、みずからそれになった。
しかし、まだ藤原氏北家の独裁は、不動のものではなかった。基経の死後、宇多天皇は関白を置かず、菅原道真(845-903)を重く用いて藤原氏に対抗させた。つぎの醍醐天皇も同様に関白をおかず、律令による政治の復興につとめた。そのまたつぎの朱雀・村上の二代の天皇も、同様に律令制復興の努力をつづけた。それゆえ宮廷歴史家は、醍醐帝のときの年号「延喜(えんぎ)」(901ー22年)と村上帝のときの年号「天歴(てんりゃく)」(947-56年)をとって、その間の政治を「延喜天暦の治」と讃美するが、かの純友・将門の乱が、ほかならぬこの間におこったことが、何よりもよく、古代天皇制の再興はできないことを示していた。・・・
(井上清『日本の歴史 上』1963.9.25. 岩波新書)
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日本の歴史 上 (岩波新書 青版 500) - 井上 清
私が中学生や高校生だった1970年代においては中学校の「歴史」・高校の「日本史」においても、「蒸し米(645)ふかして大化の改新」と、中大兄(天智天皇)と中臣鎌足(藤原鎌足)らによる蘇我入鹿暗殺事件とその後の改革は「大化の改新」として一体のものとされていたが、教科書に書かれているものというのは、まず間違いないと思われているものでその学会では通説・定説として定着しているものが書かれているのかと思ったらそうでもないみたいで、最近では中大兄と中臣鎌足らによる蘇我入鹿暗殺事件は乙巳の変(いっしのへん)として大化の改新と同じではないという扱いにされてきているらしい。その乙巳の変(いっしのへん)で突然、登場した中臣鎌足とは何者だったのかという点について、関裕二氏は百済から日本に来ていた百済の皇子の豊璋(ほうしょう)が中の下くらいの位置の豪族だった中臣氏の息子ということにして中臣鎌足になり、「藤原」という苗字をもらって藤原鎌足になると、元々の中臣氏は中臣の姓で鎌足の子孫は藤原を名乗った・・ということではないかと推測したようだが、ありえそうに思えることだが今となっては断定できるものでもない。
※ ウィキペディアー扶余豊璋 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%89%B6%E4%BD%99%E8%B1%8A%E7%92%8B
「藤原氏」は藤原鎌足の時に突然、登場してきた氏族で、最初は中臣鎌足を名乗っていたが「藤原」を名乗るようになり、「中臣」は消えたのかというとそうではなくて、「藤原」と別に「中臣」は存在続けたらしい。「中臣」は大和朝廷の氏族の中ではそれほど有力な方の氏族ではなかったらしく、ほかに有力な氏族がいくつか存在したが、だんだんと藤原の力が増していったようだが、奈良時代の終わりころ、大和朝廷の古来からの名門氏族でまだ力を持っていたのが「大伴」だったらしいが、
(1) 長岡京・平安京遷都に際してその大伴家の大伴家持が藤原種継暗殺に関して斥けられ、その後、
(2) 大伴親王と名前が同じだということから「大伴」はいかんと「大」を取り除かれて「伴」氏にされてしまうということがあり、さらにその後、
(3) 大伴氏の勢力を盛り返そうとした伴善男は応天門の変 に際して、「紀」氏とともに藤原良房に斥けられた。
(4) その藤原良房の養嗣子だという藤原基経の息子の藤原時平 に対して、母親は藤原氏の出ではなく皇族だった宇多天皇と菅原道真が対抗馬として出現したが、藤原時平らに排斥された・・ということだったようだ。
大伴氏は菅原道真の少し前にも、この(1)~(3)の事件があったわけで、北野天満宮造営にともない「伴氏」を祀る祠も設けられた・・ということはありそうにも思える。
森谷尅久他執筆・京都商工会議所編『改訂版 京都・観光文化検定 公式テキストブック』(2005初版。 2007.10.8.8版 淡交社)には、
《 伴氏社(ともうじしゃ)(上京区御前通今小路上ル馬喰町)
祭神は伴氏。北野天満宮の境内末社。
石造五輪塔の忌命塔(きみょうとう)跡地を社として、菅原道真の母である伴氏を祀る。社前の鳥居は鎌倉時代に建てられ、京都三珍鳥居の一つ。》
と書かれている。《祭神は伴氏》と書かれており、「伴(とも)」「大伴(おおとも)」一族を祭神として祀っているともとれる書き方だが、《菅原道真の母である伴氏を祀る。》という書き方もされており、「菅原道真の母」を「伴氏」として祀っているともとれる・・が、実際にはどちらともとれるのではないか。
ウィキペディアー菅原道真 を見ても、
《 父母 父:菅原是善 母:伴真成の娘 》
と書かれており、母親はあくまで「伴真成の娘」であってはっきりとした名前は書かれておらず、平安時代頃は女性の名前ははっきりと記録されていない場合が多く『更級日記』の作者にしても「菅原孝標の女(むすめ)」とされていてどういう名前だったのかわからないわけで、「祭神は伴氏」としても、「伴(とも)」「大伴(おおとも)」氏の一族が祭神なのか、それとも菅原道真の母を「伴氏」と言ったのか、どちらとも言えないが、私は《道真の母を含めて「伴(とも)」「大伴(おおとも)」氏の一族》ではないのかな・・という感じがする。
三田誠広『菅原道真 見果てぬ夢』(河出書房新社)など見ると、
(1) 母親が藤原氏の出でない天皇が即位すると、藤原氏以外の者と組んで反藤原の態度を取り始めると言われたが、しかし、「母親が藤原氏でない天皇」と言っても、それまでに何度も縁組しているわけで何代か前に遡れば藤原氏とつながりがあるのではないか・・と思ったのだが、「母親が藤原氏でない天皇」が即位した場合、「反藤原」ではなく「非藤原」というのか、藤原氏に完全に支配され操られる状態を嫌って「反藤原」ではないとしても「非藤原」の姿勢を取ろうとした、もしくは藤原にがんじがらめにされた状態を緩めようとしたということがあったようで、母親は藤原氏ではなく皇族だったらしい宇多天皇もその傾向があったらしいが、宇多天皇の時に菅原道真が右大臣になったとはいえ、藤原時平も左大臣になっていたのであって、藤原氏を完全に排斥までしていないし完全に排斥しようとまでしていたわけではなく、あくまで、いくらか「非藤原」の方向に持っていこうとしたものらしかった。
(2) しかし、菅原道真というのは、あくまでも「お勉強しい」の家系であり、藤原氏と対抗するような力なんてなかったのではないのか・・とも思ったのだが、実際、藤原氏と対抗する力があったわけではなく、時平の父親の基経とは道真は対等の立場ではなく、基経に世話になっていたような立場だったらしい。 しかし、「藤原氏」と言っても四家あって、隆盛を誇っていたのはあくまでも北家の主流派であって、藤原氏でも北家でない藤原氏はそれほど隆盛を誇っていたわけでもなく、「得する立場」にあったわけでもなかったらしい。だから、藤原時平と「宇多天皇+菅原道真」の対立があった時、藤原氏でも「宇多天皇+菅原道真」の側についていた藤原氏が存在したらしい。だからこそ、菅原道真は藤原時平らと対抗できたようだ。

菅原道真 見果てぬ夢 - 三田 誠広
参道を進むと、
(↑ 写真はクリックすると大きくなります。)
↑ この鳥居の向こうに楼門が見え、楼門には「文道太祖(ぶんどうのたいそ) 風月本主(ふうげつのほんしゅ)」と書かれた額がかかっているのが見える。
右手に牛の像がありますが、↓
↑ 「撫牛(なでうし) 抗ウイルス・抗菌加工を施しています」と書かれていますが、「抗ウイルス・抗菌加工」てどないやるんやろ・・。
大鳥居の後ろ、中鳥居(?)を2つくぐって進むとその先に楼門(ろうもん) ↓
↑ 「文道太祖(ぶんどうのたいそ) 風月本主(ふうげつのほんしゅ)」と書かれた額がかかっています。
次回https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/502321338.html 、楼門から三光門、文子天満宮、紅梅殿と太鼓橋。
(2024.2.9.)
☆ 北野天満宮(京都市上京区)参拝3
1.烏丸線「今出川」駅より「千本今出川」交差点、浄土院、「上七軒」交差点。わかりにくい京都市地下鉄烏丸線の駅名。京都で下宿すると安いと曲解している連中。「女性社員の尻を『次はこういう撫で方したらどないでっか』と言いなさい」と言う父親は「いいお父さん」か? そういう父親を「ものすごいすばらしいお父さん」と称賛する高校教諭は「ええ先生」か? https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/502287883.html
2.「上七軒通」交差点より、ゼロホーム展示場。「アタマが浜松」的一条工務店東京展示場は厳しかった。北野天満宮大鳥居、影向松、伴氏社、鳥居から楼門。「伴」「大伴」氏が藤原に斥けられた後に菅原道真の件が。藤原色がいくらか薄い天皇は「反藤原」ではなく「いくらか非藤原」を目指したか。藤原氏傍流は藤原北家に常に加担していなかったか。 〔今回〕
3.楼門の延長には文子天満宮。三光門。太鼓橋と紅梅殿。秀頼による北野天満宮造営は豊臣の財力を消費させるためだったのか。「学業成就・合格祈願の神様」は「あとづけ」で冤罪を晴らす神・怨念を晴らす神が本来であろう。模擬試験の「判定」に「人事を尽くして天命を待て」という文言は余計。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/502321338.html
4.三光門。大宰府にたどりついた梅に対し摂津で力尽きた松。紅梅と白梅。「闘うきみの歌を闘わないやつが笑うだろう」の中島みゆき はいいとして、自分は人生・生活において犠牲になってないのに「犠牲の精神を教えたい」とぬかす川相は許せん。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/502330050.html
5.三光門から拝殿・幣殿・本殿・西回廊・東回廊。本殿の背後の御后三柱。拝殿前の梅と松。社殿の東面には思い入れ。「京のぶぶづけ」の話を「大阪の人間は」と言うアホ慶大生。「ぶぶづけでもどないだすう」と言われても帰らないであろうバカ慶大生。管理費は入居者を管理するための費用と考えていた日吉台学生ハイツの管理者。元自衛隊は「企業からの問い合わせ」に何言いよるやらわからん。自衛隊に武器を持たせて大丈夫か? 母と一緒に巡った京都の社寺と「とってちってたあ」にされた息子の末路。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/502336739.html
6.本殿後ろの「十二社」の橘逸勢社・藤太夫社・文太夫社・淳仁天皇社。崇徳院が白峰神宮で早良親王が崇道神社。上御霊神社・下御霊神社の祭神と「十二社」の祭神で共通する人が何人か。狭山事件に関して署名を求める人は強制はしないでもらいたい。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/502348932.html
7.本殿後ろの「十二社」の太宰少弐社・櫻葉社・吉備大臣社・崇道天皇社。長屋と戸建の老松社。地主神社相殿の敦美親王・齊世親王・源英明。北門と西陣名技碑・松本伍作氏顕彰碑。自分がやったことを相手がやるだろうという思考を持つ場合はある。自分も黄色人種なのにアメリカ合衆国に行ってワスプになったつもりで「けったいなやつが多い」とか言うおっさん。「心理学」は怖い。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/502356418.html
8.平野神社(京都市北区平野宮本町)参拝ー中門・拝殿・本殿。平野通・西大路通。クスノキは舟に使え。「本当はもっと売れるのだけれど、わざと売らないようにしてるの」という営業は「本当にもっと」売ればいいじゃんhttps://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/502364358.html
9.わら天神(敷地神社)【上】鳥居から西進し北に曲がった正面に社殿。北山の神と穂穂手見命の母の木花佐久夜毘売。ブス建築は耐久性があると奇妙なことを教える営業本部長 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/502384324.html
10.わら天神・敷地神社【中】本殿、綾杉明神、大山祇神社。高耐久性ブス建築は魅力的か?「言い方にもよる」ということを理解できない一条浜松流本舗。勝ちは静岡県愛知県の者の勝ち・負けは東京都神奈川県の者の負けとしたがる一条オリジナル遠州人。木質系建築業の不良経営者を懲らしめる神・大山祇神 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/502460487.html
11.わら天神・敷地神社【下】六勝神社・八幡社。他社と他社従業員との労働契約に不当な口出し介入する現 三菱UFJリサーチ&コンサルティング。後進国の外資系企業 (株)一条工務店。父親がある人間は「父親がいなかった」娘より得しているとは限らない、ということも理解できないアホ高校教諭。無駄になった京都の街を歩いた子供の頃の経験https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/502436497.html
★ 冤罪を晴らす神さま・菅原道真・怨念を晴らすお百度参り
京都府
北野天満宮(京都市上京区)
1 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201302article_2.html
2 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201302article_3.html
3 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201302article_4.html
4 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201302article_5.html
5 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201302article_6.html
北野天満宮2
1.北野天満宮への経路。阪急西院ビルhttps://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202105article_4.html
2.阪急「嵐山」・京福「嵐山」から「北野白梅町」 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202105article_5.html
3.JR「円町」から京都市営バスで「北野天満宮前」 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202105article_6.html
4.大鳥居から楼門、三光門から御本社、文子天満宮 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202105article_7.html
5.東門、北門、地主社、伴氏社。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202105article_8.html
年中「緊急事態宣言」では緊急事態ではなく、それが普通になる。「緊急事態」「蔓延防止」とGoToトラベル・イートを交互に出したら、むしろ一時期に集中することになる。「不要不急の」という表現は戦中にも使われた表現。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202105article_9.html
就業時間中に松戸新田駅から40分もハイキングやる「銀行から来た総務のおっさん」と銀行から「融資」でなく「出資」を受けると会社はつぶれる例。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202105article_10.html
北野天満宮参拝3
1.烏丸線「今出川」駅より「千本今出川」交差点、浄土院、「上七軒」交差点。わかりにくい京都市地下鉄烏丸線の駅名。京都で下宿すると安いと曲解している連中。「女性社員の尻を『次はこういう撫で方したらどないでっか』と言いなさい」と言う父親は「いいお父さん」か? そういう父親を「ものすごいすばらしいお父さん」と称賛する高校教諭は「ええ先生」か? https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/502287883.html
2.「上七軒通」交差点より、ゼロホーム展示場。「アタマが浜松」的一条工務店東京展示場は厳しかった。北野天満宮大鳥居、影向松、伴氏社、鳥居から楼門。「伴」「大伴」氏が藤原に斥けられた後に菅原道真の件が。藤原色がいくらか薄い天皇は「反藤原」ではなく「いくらか非藤原」を目指したか。藤原氏傍流は藤原北家に常に加担していなかったか。 〔今回〕
3.楼門の延長には文子天満宮。三光門。太鼓橋と紅梅殿。秀頼による北野天満宮造営は豊臣の財力を消費させるためだったのか。「学業成就・合格祈願の神様」は「あとづけ」で冤罪を晴らす神・怨念を晴らす神が本来であろう。模擬試験の「判定」に「人事を尽くして天命を待て」という文言は余計。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/502321338.html
4.三光門。大宰府にたどりついた梅に対し摂津で力尽きた松。紅梅と白梅。「闘うきみの歌を闘わないやつが笑うだろう」の中島みゆき はいいとして、自分は人生・生活において犠牲になってないのに「犠牲の精神を教えたい」とぬかす川相は許せん。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/502330050.html
5.三光門から拝殿・幣殿・本殿・西回廊・東回廊。本殿の背後の御后三柱。拝殿前の梅と松。社殿の東面には思い入れ。「京のぶぶづけ」の話を「大阪の人間は」と言うアホ慶大生。「ぶぶづけでもどないだすう」と言われても帰らないであろうバカ慶大生。管理費は入居者を管理するための費用と考えていた日吉台学生ハイツの管理者。元自衛隊は「企業からの問い合わせ」に何言いよるやらわからん。自衛隊に武器を持たせて大丈夫か? 母と一緒に巡った京都の社寺と「とってちってたあ」にされた息子の末路。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/502336739.html
6.本殿後ろの「十二社」の橘逸勢社・藤太夫社・文太夫社・淳仁天皇社。崇徳院が白峰神宮で早良親王が崇道神社。上御霊神社・下御霊神社の祭神と「十二社」の祭神で共通する人が何人か。狭山事件に関して署名を求める人は強制はしないでもらいたい。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/502348932.html
7.本殿後ろの「十二社」の太宰少弐社・櫻葉社・吉備大臣社・崇道天皇社。長屋と戸建の老松社。地主神社相殿の敦美親王・齊世親王・源英明。北門と西陣名技碑・松本伍作氏顕彰碑。自分がやったことを相手がやるだろうという思考を持つ場合はある。自分も黄色人種なのにアメリカ合衆国に行ってワスプになったつもりで「けったいなやつが多い」とか言うおっさん。「心理学」は怖い。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/502356418.html
8.平野神社(京都市北区平野宮本町)参拝ー中門・拝殿・本殿。平野通・西大路通。クスノキは舟に使え。「本当はもっと売れるのだけれど、わざと売らないようにしてるの」という営業は「本当にもっと」売ればいいじゃんhttps://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/502364358.html
9.わら天神(敷地神社)【上】鳥居から西進し北に曲がった正面に社殿。北山の神と穂穂手見命の母の木花佐久夜毘売。ブス建築は耐久性があると奇妙なことを教える営業本部長 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/502384324.html
10.わら天神・敷地神社【中】本殿、綾杉明神、大山祇神社。高耐久性ブス建築は魅力的か?「言い方にもよる」ということを理解できない一条浜松流本舗。勝ちは静岡県愛知県の者の勝ち・負けは東京都神奈川県の者の負けとしたがる一条オリジナル遠州人。木質系建築業の不良経営者を懲らしめる神・大山祇神 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/502460487.html
11.わら天神・敷地神社【下】六勝神社・八幡社。他社と他社従業員との労働契約に不当な口出し介入する現 三菱UFJリサーチ&コンサルティング。後進国の外資系企業 (株)一条工務店。父親がある人間は「父親がいなかった」娘より得しているとは限らない、ということも理解できないアホ高校教諭。無駄になった京都の街を歩いた子供の頃の経験https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/502436497.html
高台寺天満宮(京都市東山区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201511article_7.html
曼殊院天満宮(京都市上京区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201608article_4.html
長岡天満宮(長岡京市)
1.八条ヶ池 他 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201703article_10.html
2.拝殿・祝詞舎・本殿・手水舎他 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201703article_11.html
3.春日社八幡宮社・紅梅殿・白梅殿・社務所(連歌所) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201703article_12.html
4.梅園、長岡稲荷、錦景園 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201704article_1.html
赤根天満宮(長岡京市)
1.光明寺道から南、大峯山禊所、天神社鳥居へ。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/500055705.html
2.鳥居から北に歩み、覆い屋と社殿へ。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/500082490.html
埼玉県
さいたま市岩槻区本宿の「天神宮」「北野天満神社」
1.本宿の天神宮まで。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202110article_7.html
2.鳥居から拝殿、本殿。摂社、本殿。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202110article_8.html
3.「幟竿」と記念碑https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202110article_9.html
千葉県
葛飾天満宮(市川市) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201301article_4.html
白幡天神社(市川市)
1.https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201511article_1.html
2.https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201511article_2.html
3.https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201511article_3.html
市川市北方町4丁目の天神社 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201608article_2.html
意富比神社 末社天神社(船橋市) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201302article_10.html
船橋市東船橋の「天神社」 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201311article_1.html
下飯山満神明神社 摂社天神社(船橋市) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201503article_4.html
白井市河原子の天満宮 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201303article_5.html
子守神社 摂社天神社(千葉市花見川区)https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201605article_3.html
千葉神社 摂社千葉天神 と 鵜の森町の「神札」(千葉市中央区)
(上)https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201305article_2.html
(下)https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201305article_3.html
北總天満宮(千葉市中央区)https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201308article_1.html
新町天満宮(千葉市中央区)
【上】 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201703article_6.html
【下】 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201703article_7.html
大網白里市駒込の天満宮 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202012article_1.html
大網白里市大竹の天満宮 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202012article_2.html
平群天神社(南房総市 平久里中)
1.富楽里、道の駅おおつの里。平群天神社への道。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202101article_2.html
2.伊予ヶ岳・夫婦クスノキ・天神縁起絵巻・鳥居から拝殿へ。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202101article_3.html
3.天神社社殿、木製打上花火筒、朝日山神照寺、民俗資料館跡? https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202101article_4.html
岩井市部天満神社(南房総市市部)。拝殿・幣殿・本殿https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202101article_5.html
東京都
亀戸天神社(江東区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201301article_7.html
亀戸天神社 2回目 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201505article_1.html
湯島天神社(文京区)
上 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201602article_10.html
中 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201602article_11.html
下 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201602article_12.html
北野神社(文京区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201303article_2.html
平河天満宮(千代田区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201210article_3.html
西向天神社(新宿区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201502article_1.html
根津美術館 庭園内 渡唐天神祠(「飛梅祠」)(港区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201603article_3.html
若林天満宮・若林北野神社(世田谷区)https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201312article_5.html
平塚神社 摂社菅原神社〔平塚天神社〕(北区)https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201807article_10.html
谷保天満宮(国立市)
1.谷保駅から鳥居。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201903article_1.html
2.鳥居から坂を下り、拝殿・本殿と鶏https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201903article_2.html
3.五社、三郎殿、厳島神社、左右に2体ずついる狛犬、座牛 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201903article_3.html
4.神楽殿・筆塚https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201903article_4.html
5.梅林、稲荷社、第六天神社 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201903article_5.html
本町田 菅原神社(町田市本町田)
上 赤い鳥居・井手の澤の谷地・弁天社・御本社・牛の絵。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202102article_2.html
中 御本社・参集殿・神楽殿。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202102article_4.html
下 愛宕社・藤木稲荷・井手の澤古戦場碑。枝が垂れ下がる梅の木。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202102article_5.html
町田天満宮(町田市原町田)https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202102article_1.html
神奈川県
下平間天満天神社(川崎市幸区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202003article_14.html
幸区東古市場の天満天神社(川崎市幸区)と御幸公園
1.下平間交差点・古市場交差点を経て天満天神社https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202003article_15.html
2.二度の移転で現在地に来た天満天神社と入口脇の梅https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202003article_16.html
3.御幸公園。植樹された梅林。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202003article_17.html
三渓園天満宮(横浜市中区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201303article_8.html
岡村天満宮(横浜市磯子区)
1.蒔田駅付近から岡村天満宮前交差点 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202202article_5.html
2.鳥居から石段を登り「壁画」前まで。梅の花 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202202article_6.html
3.牛の像。梅の花。社殿。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202202article_7.html
4.拝殿・幣殿・本殿。本殿裏の梅、本殿東側の道。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202203article_1.html
5.神輿庫・神楽殿・幼稚園・幻の新社殿計画地。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202203article_2.html
6.白笹稲荷社・針塚 他 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202203article_3.html
7.岡村公園梅園 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202203article_4.html
永谷天満宮(横浜市港南区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201309article_1.html
荏柄天神社(鎌倉市) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201401article_7.html
北野神社(鎌倉市山崎)https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201504article_2.html
静岡県
(旧駿河地域)
富士市岩淵の天満天神宮 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202110article_6.html
(旧遠江地域)
谷崎天神社(静岡県周智郡森町)
1.遠州森町スマートインターチェンジから谷崎公民館。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202112article_1.html
2.鳥居・手水・牛の像・拝殿・幣殿・本殿。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202112article_2.html
3.拝殿内の牛の像。鷽、亀石。梅園。三末社https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202112article_3.html
4.天竜浜名湖鉄道「遠江一宮」駅https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202112article_4.html
深奥山 方広寺 七尊堂(浜松市北区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201707article_13.html
浜松市西区雄踏町宇布見 の 中村家住宅北側の天神社 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202104article_7.html

学問の神さま―わかりやすい天神信仰

裁判官はなぜ誤るのか (岩波新書 新赤版 809) - 秋山 賢三

冤罪はこうして作られる (講談社現代新書) - 小田中 聰樹

絶望の裁判所 (講談社現代新書) - 瀬木比呂志

日本文化史 第2版 (岩波新書 黄版 187) - 家永 三郎
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