北野天満宮3【6/11】本殿後ろの「十二社」の橘逸勢社・藤太夫社・文太夫社・淳仁天皇社。崇徳院が白峰神宮で早良親王が崇道神社。上御霊神社・下御霊神社の祭神と「十二社」の祭神で共通する人が何人か。狭山事件に関して署名を求める人は強制はしないでもらいたい。
[第2037回]冤罪を晴らす神さま・菅原道真・怨念を晴らすお百度参り 第67念-6
北野天満宮 の本殿の後ろ(北側)に 「十二社」と言われる長屋造りの祠があり、その右(東)に戸建の祠で老松社と地主神社があります。長屋造の祠は拝殿・本殿の西側にも「八社」があり、その南に 神明社・文子社があって、さらにその南に「四社」、さらにその南に「七社」があり、その南にも長屋造の祠の神さんはおられます。拝殿・本殿の西側には長屋造りの社殿があるのに対して東側にはないのはどうしてかわかりませんが、そうなっています。
今回は、本殿の北側の長屋造りの社殿「十二社」の中から、「怨霊神」の神さま などについてふれたいと思います。
↑ 本殿の後ろ側(北側)の「十二社」。
この写真を見て気づいたのですが、この祠の屋根は「流れ造り風」ですね。
現地には「◇◇社」という名称は書かれていても、祭神が誰なのかよくわからない社がありますが、『週刊日本の神社6 北野天満宮』( デアゴスティーニ)の「北野天満宮の摂社・末社」に摂社・末社の名称と祭神と「御神徳」が書かれているので、照らし合わせてみるとよくわかります。
日本の神社 6号 (北野天満宮) [分冊百科]
さて、菅原道真さん以外の怨霊神さんというと、京都では上御霊神社・下御霊神社が思い浮かびますね。
『週刊日本の神社6 北野天満宮』(2014.3.25.デアゴスティーニ)には「名社をめぐる」として、御霊(ごりょう)神社(上御霊〔ごりょう〕神社)が掲載されています。
《 優雅なイメージとは裏腹に、奈良・平安時代は災害や疫病が相次いだ。異変は政争で憤死した人々の祟りだとされ、事態を重く見た桓武天皇が、平安遷都と同時に悲業の御霊(みたま)を供養したのが御霊(ごりょう)神社の発祥。その第1号が、ここ上御霊(かみごりょう)神社である。
最初の祭神は桓武天皇の実弟・早良(さわら)親王。彼は長岡京の造営責任者・藤原種継(ふじわらたねつぐ)を暗殺したとされ、断食で無実を訴えるなかで没している。
依頼、悲業の死を遂げた人々が祭神に加えられ、貞観(じょうがん)5年(863)には6柱に。同年、怨霊を慰める祭事「御霊会(ごりょうえ)」が初めて平安京の神泉苑で営まれ、祭神にはこの6柱が当てられたという。さらに後年、火雷神(からいしん)と学者の吉備真備も合祀された。
現在では「八所御霊(はっしょごりょう)」と呼ばれる計8柱を静かに祀っている。》
《 御祭神 崇道(すどう)天皇(早良親王 さわらしんのう)、他戸(おさべ)親王、井上大皇后(いのうえおおひきさき)、藤原大夫人(ふじわらだいぶじん)(藤原吉子命 ふじわらのよしこのみこと)、文太夫(文屋宮田麿命 ふんやのみやたまろのみこと)、橘大夫(たちばなのたいぶ)(橘逸勢命 たちばなのはやなりのみこと)、火雷神、吉備大神(きびのおとど)(吉備真備命 きびのまきびのみこと)》
と書かれている。鉄道の駅では京都市地下鉄烏丸線「鞍馬口」駅からすぐらしい。
「御霊」とは「おんりょう」を「ごりょう」と読んだ? ・・かと思ったが「おんりょう」なら「怨霊」だから「霊」に敬語として「御」をつけたということか。
森谷尅久 他執筆・京都商工会議所編『改訂版 京都 観光文化検定 公式テキストブック』(2005.初版。 2007.8版。淡交社 )には、
《 上御霊神社(かみごりょうじんじゃ)(上京区上御霊堅町)
祭神は早良親王(崇道天皇)、井上(いのえ)内親王、他戸(おさべ)親王、藤原吉子(ふじわらのよしこ)、橘逸勢(たちばなのはやなり)、文屋宮田麿(ふんやのみやたまろ)、吉備真備をはじめ十三柱。 正しくは御霊神社。 平安遷都以前よりこの地に勢力をもった出雲氏の氏寺である上出雲寺の鎮守社であったとも伝えるが、式内大社の出雲井於(いずもいのへ)神社にあてる説もある。また、桓武天皇が平安遷都の時に早良親王らの怨霊を鎮めるために創祠したともされ、その後に御霊信仰が高まるにつれて広く信仰を集めた。境内はかつて御霊杜(ごりょうのもり)と呼ばれ、応仁の乱の戦端が開かれたところとしても知られる。社伝によると宝暦5年(1755)に賢所御殿(かしこどころごてん)を賜って、本殿とされたとい。社前で売る唐板(からいた)の煎餅には疫病除けのご利益があるとされ、明治維新まで皇は皇子が誕生するたびに当社へ参詣し、これを土産にしたという。》
と書かれている。 祭神の読み方は本によって微妙に違う。『週刊日本の神社6 北野天満宮』(2014.3.25.デアゴスティーニ)でが8柱と出ているが、森谷尅久 他執筆・京都商工会議所編『改訂版 京都 観光文化検定 公式テキストブック』(2005.初版。 2007.8版。淡交社 )では13柱と書かれている。はて、どちらが正しいのか。
京都府神社庁の上御霊神社 のホームページhttp://www.kyoto-jinjacho.or.jp/shrine/02/004/index.html を見ると、祭神は、
《 [本殿八座]
・崇道天皇(スドウテンノウ)
光仁天皇第二皇子
早良親王
・井上大皇后(イノエノオオヒキサキ)
聖武天皇第一皇女
光仁天皇ノ皇后
・他戸親王(オサベシンノウ)
光仁天皇第四皇子
・藤原大夫人(フジワラノタイフジン)
藤原吉子命
・橘大夫(タチバナノタイブ)
橘逸勢命
・文大夫(ブンノタイブ)
文屋宮田麿命
・火雷神(カライシン)
以上六所ノ荒魂
・吉備大臣(キビノオトト)
吉備真備命
[相殿五座]
三社明神(サンシャミョウジン)四座
和光明神(ワコウミョウジン)一座 》
と出ており、[相殿五座]三社明神四座・和光明神一座 を加えると13柱で、[本殿八座]では8柱 ということのようだ。
京都には下御霊神社もある。
《 下御霊(しもごりょう)神社(中京区寺町通丸太町下ル下御霊前町)
祭神は早良親王以下の八所御霊(はっしょごりょう)。相殿に霊元(れいげん)天皇。貞観5年(863)の神泉苑御霊会の祭神を下出雲路の地に祀った後、天正18年(1590)に豊臣秀吉が現在地に移転した。》
と書かれている。
新版 京都・観光文化検定試験公式テキストブック - , 森谷 尅久, 京都商工会議所
下御霊神社のホームページ https://shimogoryo.main.jp/ の「御祭神」
《 ◆ 本 殿 八 座 ◆
吉備聖霊きびのしょうりょう
吉備真備きびのまきびではなく六座の和魂にぎみたま
崇道天皇すどうてんのう
桓武天皇皇太弟 早良親王さわらしんのう
伊豫親王いよしんのう
桓武天皇皇子、贈一品
藤原大夫人ふじわらのだいふじん
伊豫親王御母、贈従二位藤原吉子命
藤 大 夫とうだいぶ
藤原廣嗣ふじわらのひろつぐ命
橘 大 夫きつだいぶ
贈従四位下橘逸勢たちばなのはやなり命
文 大 夫ぶんだいぶ
文屋宮田麻呂ぶんやのみやたまろ命
火雷天神からいのてんじん
菅原道真公ではなく六座の荒魂あらみたま
◆ 相 殿 一 座 ◆
天中柱皇神あめのなかはしらのすめがみ
霊元天皇。 》
と書かれており、微妙に上御霊神社と違う。
下御霊神社の方が上御霊神社より南にあり、鉄道の駅では京阪鴨東線「神宮丸太町」駅から西に行き、鴨川を丸太町橋で渡ってすぐの所にあるようです。 かつては上御霊神社も下御霊神社も鉄道の駅からは遠い場所にありましたが、京都市地下鉄烏丸線や京阪鴨東線が通って、どちらも行きやすくなりました。
これら、実在した人物で、御霊神社(上御霊神社)・下御霊神社の御祭神のうち、北野天満宮の本殿の後ろの「十二社」でも祀られている御祭神が何柱かおられる。それが、橘逸勢・藤大夫吉子(とうだゆう きっし)・文屋宮田麿(ふんやのみやたまろ)・藤原広嗣(ふじわらのひろつぐ)・伊予親王の5柱。それに御霊神社の祭神ではないらしいが吉備真備だ。
上御霊神社と下御霊神社で共通する祭神は、
早良親王(崇道天皇)
藤原吉子
橘逸勢
文屋宮田麿
の4柱。
上御霊神社のみ
井上内親王
他戸親王
の2柱。
下御霊神社のみ
伊予親王
藤原広嗣
の2柱で、
よくわからないのが吉備真備。 下御霊神社では「吉備聖霊(きびのしょうりょう)」が祀られているのですが、下御霊神社HP の「御祭神」https://shimogoryo.main.jp/%e5%be%a1%e7%a5%ad%e7%a5%9e/ には、
《 吉備真備との説がありますが真備公は大変成功された方であり御霊には当てはまりません。
当社では六座の御霊の和魂と解釈しております。》
と書かれており、実際、吉備真備はどういう人生を送ったかというと、《ウィキペディアー吉備真備》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E5%82%99%E7%9C%9F%E5%82%99 など見ても、決して不遇な人生を送ったわけでも、恨みをのんで死んだわけでもなく、怨霊となるような立場ではないように思えます。
「火雷神」「火雷天神(からいのてんじん)」は、火雷天神⇒天神⇒菅原道真 かというと、下御霊神社HPの「御祭神」https://shimogoryo.main.jp/%e5%be%a1%e7%a5%ad%e7%a5%9e/ には《菅原道真公ではなく六座の荒魂(あらのみたま)》 《 よく菅原道真公と解釈されがちですが、道真公が天神として祀られるのは当社が鎮座された後になり時代が合いません。当社では六座の御霊の荒魂と解釈しております。》
「日本三大怨霊」と言われるのが、菅原道真・平将門・崇徳院ですが、菅原道真を祀る天神・天満・北野・菅原系神社は西日本の方が多いけれども全国にあり、「北野」とつく神社には京都の北野天満宮から勧請した神社が多く、「菅原」とつく神社は菅原氏の祖先を祀る神社である場合があり、「天神」は元は天候の神様だったものが菅原道真と融合した神社である場合があるようです。菅原道真は「西日本を中心として全国」であるのに対して、平将門は「東京を中心として関東」で菅原道真に比べると全国的ではない。崇徳院はというと、京都と香川県で菅原道真ほど全国的ではない。
この三大怨霊の方々は上御霊神社・下御霊神社とも祀られていないようですが、菅原道真は北野天満宮に来ているわけですから、ここで祀られているのは間違いないことで、平将門というと東京のJR「お茶の水」駅の北の湯島霊堂のその北にある神田明神と大手町の首塚ですね。 そして、崇徳院というと香川県の白峰神宮。京都市にも烏丸線「今出川」駅から北野天満宮へのバスの途中、堀川通りと今出川通りが交わる「堀川今出川」交差点の北西のあたりに京都の白峰神宮があるようですが、『歩く京都地図 京都散歩 2024』(2023.4.20.成美堂出版)に掲載されている京都の白峰神宮を見ると、その土地がかつて蹴鞠の宗家 飛鳥井家の屋敷があった所から摂社の精大明神が「サッカーの神さん」として祀られているという、そちらの方がとりあげられており、崇徳院からすれば不快感を覚えるものではないか、という感じがしています。
※ 白峰神宮(香川県)HP https://shiraminejingu.or.jp/
香川県神社庁 白峰宮 https://kagawakenjinjacho.or.jp/shrine/%e7%99%bd%e5%b3%b0%e5%ae%ae/
崇徳院(崇徳天皇・上皇)と崇道天皇(早良親王)とは名前が似ていることから混同しがちですが、早良親王の方が古い時代の人で、長岡京建設の際に藤原種継暗殺事件に関して皇太子を廃された人で、崇徳院(崇徳上皇)は保元の乱の敗者、鳥羽天皇の息子だったはずだが、鳥羽天皇は自分の子供ではなく祖父の子ではないかと疑っていたといい、それゆえ、崇徳天皇ではなく後白河天皇を後継にしようとして、源氏・平家がそれぞれについて保元の乱になったが、香川県に流されて「三大怨霊の一人」になった人。
《 藤原種継 ふじわらのたねつぐ 737~85 式家藤原宇合うまかい の孫。784年 造長岡宮使になり その造営にあたる。785年 監督中暗殺。暗殺事件に早良親王 さわらしんのう は皇太子を廃され、大伴継人や大伴・佐伯の旧族が処刑される。》
《 崇徳上皇 すとくじょうこう 1119~64 在位1123~41。父鳥羽法皇の長期院政のため、実権なく不満、父法王の死の直後、保元の乱に失敗して讃岐に配流。後白河天皇の兄。》
( 全国歴史教育協議会編『新版 日本史用語集』1966.第1版。1975.新版。 山川出版社)
崇道天皇(早良親王)と崇徳院(崇徳上皇)はまったく別人なのだが、名前が似ていることから間違える人がけっこうあるようで、内田康夫『崇徳伝説殺人事件』(1999ハルキ文庫。2004.角川文庫)でも、崇徳院を祀る白峰神宮と崇道天皇(早良親王)を祀る崇道神社 を間違えて、そこから・・という話が出ています。
崇徳伝説殺人事件 「浅見光彦」シリーズ (角川文庫) - 内田 康夫
崇道神社は『崇徳伝説殺人事件』でも、訪れる人はそれほどないと書かれており、『歩く地図 京都散歩 2024』(2023.成美堂出版)にも載ってないだろうなあ・・と思って調べたら・・・、ごく簡単にだけれども載ってたわ。
《 早良親王を祀る崇導神社。社殿へ続く参道で紅葉が見られる。》
と書かれている。叡山電鉄叡山線「三宅八幡」駅と「八瀬叡山口」駅との中間よりも「三宅八幡」駅に近い場所にあるようです。「サッカーの神様」になってしまった白峰神宮よりいいかもしれませんね。
※ ウィキペディアー崇道神社 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B4%87%E9%81%93%E7%A5%9E%E7%A4%BE#%E7%A5%AD%E7%A5%9E
歩く地図 京都散歩 2024 (SEIBIDO MOOK) - 成美堂出版編集部
北野天満宮の摂社末社には崇徳院や平将門は祀られていないようです。
森谷尅久 他執筆・京都商工会議所編『改訂版 京都 観光文化検定 公式テキストブック』(2005.初版。 2007.8版。淡交社 )には、
《 白峰神宮(しらみねじんぐう)(上京区今出川通堀川東入飛鳥井町)
祭神は崇徳天皇、淳仁天皇。慶應4年(1868)に明治天皇が讃岐の白峰から崇徳天皇の神霊を、のちには淡路の天王森(てんのうのもり)から淳仁天皇の神霊を皇室鎮護の神として当地に移して創建された。この地には蹴鞠・和歌の宗家である飛鳥井(あすかい)家の邸宅があり、末社の地主(じぬし)社に蹴鞠道の神である精大明神(せいだいみょうじん)を祀る。他の末社に伴緒社(とものおやしろ)があり、源為義・為朝を祭神とする。》と出ています。源為義・源為朝は保元の乱で崇徳院の側についた源氏、敗者の側の人ですね。
淳仁天皇は京都の白峰神宮だけでなく、香川県の白峰宮でも崇徳院とともに祀られているようですが、北野天満宮の本殿の後ろの「十二社」でも淳仁天皇者として祀られています。菅原道真・平将門・崇徳院や早良親王に比べると知名度・認知度は低い人ですが、どういう人なのかというと、
《 淳仁天皇 じゅんにんてんのう 733~65 在位758~64。藤原仲麻呂に擁されて即位。万年通宝など鋳造。仲麻呂の乱で廃され淡路に流される。淡路廃帝ともいう。》
( 全国歴史教育協議会編『新版 日本史用語集』1966.第1版。1975.新版。 山川出版社)
ウィキペディアー淳仁天皇https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B7%B3%E4%BB%81%E5%A4%A9%E7%9A%87#%E7%B3%BB%E5%9B%B3 によると《天武天皇の皇子・舎人親王の七男》らしいが井上清『日本の歴史 上』(岩波新書)によると、孝謙天皇から寵愛された藤原仲麿の親類でもあるらしい。孝謙天皇が称徳天皇として重祚する間の天皇のようですね。
「淡路の天王の森」とは、淡路島の兵庫県南あわじ市、昔からの馴染みの地名だと「福良」のあたりに淳仁天皇陵があるらしい。⇒淳仁天皇陵・当麻陵https://www.awajishima-kanko.jp/manual/detail.html?bid=36
さて、北野天満宮の末社の「十二社」を見ていきましょう。
( 写真はクリックすると大きくなります。)
右から3番目が橘逸勢社(たちばなのはやなりしゃ)。
橘逸勢(たちばなのはやなり)というと、何で有名かというと、空海(弘法大師)・嵯峨天皇とともにお習字がうまいということで「三筆」のひとりとされる人として有名ですね。菅原道真も空海(弘法大師)と小野道風とともに「書の三聖」と言われるらしいけれども、菅原道真の書は残っていないらしく、「学問の神様」だから、国語の先生なら習字だってうまいのじゃないかな・・というところか。
※ 筆塚 https://www.edu-tens.net/syoHP/enzaHP/tiiki/hudeduka.html
橘逸勢というと「三筆の一人」として有名だけれども、習字の先生というだけではない。
《 橘逸勢 たちばなのはやなり ?~842 伴健岑(とものこわみね)と共に承和の変を企て、藤原良房に罰せられて伊豆に流される。三筆の一人。》
《 伴健岑 とものこわみね 9C 橘逸勢とともに承和の変を企て、藤原良房により隠岐に流される。伴とは大伴氏のこと。》
《 承和の変 しょうわのへん 842年、藤原良房が皇太子 恒貞 つねさだ 親王派の伴健岑・橘逸勢らを謀反を企てたとして讃岐・伊豆に配流。皇太子は廃され、道康親王(良房の妹の子、のち文徳天皇)が皇太子となる。》
伴善男の応天門の変の少し前にも、この承和の変 があって、「伴」「大伴」の一族の伴 健岑とともに橘逸勢が流されていたようで、この「十二社」では「三筆」の人としてではなく、承和の変で藤原氏に流された人として橘逸勢が祀られているようです。
ー・-・-・-・-・-・-・-・-
橘逸勢は能筆家として有名だ。書の名人として空海・嵯峨天皇とともに、「三筆」の1人に数えられている。速成は西暦804年、空海らとともに遣唐使として中国の唐に渡っている。唐では書を学び、唐の人たちからは「秀才」と呼ばれ賞賛されていたようである。三筆と称され有名な速成だが、現存している書は非常に少ない。
・・・・・ 速成は唐からの帰国後、従五位に任ぜられ、西暦840年には但馬権守(たじまごんのかみ)に就任している。老いてからは静かに暮らしていたようだが、西暦842年に世を揺るがす政変が怒る。世に言う「承和の変(じょうわのへん)」である。
西暦842年、嵯峨上皇が亡くなった2日後に橘逸勢は伴健岑(とものこわみね)らとともに謀反の罪で捕縛される。いわゆる承和の変である。藤原北家の藤原良房が画策した疑獄事件との説が有力で、藤原氏による他紙排斥の始まりとされている事件だ。
速成はきつい拷問にあったが、罪を認めなかった。しかし、最終的に伊豆への配流が決まり、護送中に遠江国板筑(ほうづき)(静岡県浜松市)で没した。護送中、速成の娘が泣きながら父の後についてきたという。速成が亡くなると尼となって妙冲(みょうちゅう)と名乗り、父の遺体を背負って都へ帰ったと伝えられるが、現在でも浜松市には速成の墓が残されており、妙冲の庵跡に建てられたという橘神社がある。
こうして陰謀に巻き込まれ憤死した逸勢は、死後怨霊になった。『江談抄(ごうだんしょう)』や『古今著聞集』によれば、橘逸勢の書いた安嘉門の額の字が髪を逆さに生える童子が靴を履いている形に見え、その門の前を通る人が踏み伏せられることがあったので、誰かが密かにその額まで登ってその字を擦り消したという怨霊譚が伝えられている。また、橘逸勢の書いた額には霊が宿り、人に害をなしたといわれ、世の人々に恐れられていた。
西暦850年に、もとの官位より2階級上の正五位下の位を追贈されており、西暦863年に行われた怨霊鎮魂の儀式「御霊会(ごりょうえ)」で橘逸勢は早良親王らとともに御霊として祀られている。
( 智的発見!探検隊 編著『本当は怖い 日本の怨霊』2012。5.10.イースト・プレス)
本当は怖い日本の怨霊 - 知的発見!探検隊
ー・-・-・-・-・-・-・-・-
右から4番目が 藤大夫社 で、祀られているのは藤大夫吉子(とうだゆうきっし)。
橘逸勢は「三筆」のひとりとして有名人ですが、藤大夫吉子(とうだゆうきっし)とは誰なんだ・・というと、ウィキペディアー藤原吉子 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%90%89%E5%AD%90 には、
《 藤原 吉子(ふじわら の よしこ、ふじわら の きっし、? - 大同2年11月12日(ユリウス暦807年12月14日))は、奈良時代後期から平安時代初期にかけての桓武天皇の夫人。父は藤原南家藤原是公(これきみ)。伊予親王の母。母親は不明であるが、是公の妾で尚侍となった橘真都我が母親で彼女の縁で後宮に入ったとする説もある。》
《 783年(延暦2年)に伊予親王を生む。
807年(大同2年)藤原北家の出身である藤原宗成によって謀反の嫌疑がかけられ、伊予親王とともに川原寺(弘福寺)に幽閉されて飲食を絶たれた(伊予親王の変を参照)。母子は自害したが、その後、祟りを怖れた朝廷によって復位・贈位がなされた(819年に復位、839年に贈従二位)。上御霊神社や下御霊神社などに祀られ、藤原大夫人と尊称される。》
と出ている。 「伊予親王の変」は、ウィキペディアー伊予親王の変 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E4%BA%88%E8%A6%AA%E7%8E%8B%E3%81%AE%E5%A4%89 によると、
《 伊予親王の変(いよしんのうのへん)は、大同2年(807年)に起こった政変。藤原吉子・伊予親王母子が処罰され2人は自殺したが、後に無罪が認められた。》
《 桓武天皇の第三皇子である伊予親王は父桓武の生前深い寵愛を受けていた一方、外伯父(母吉子の兄)の藤原雄友は大納言として右大臣・藤原内麻呂に次ぐ台閣の次席の位置にあり、政治的にも有力な地位にあった。実際に、平城朝においても、大同元年(806年)から中務卿兼大宰帥を務めて、皇族の重鎮となっていた。兄の平城天皇とも良好な関係を保っており、大同2年(807年)5月には、神泉苑に行幸した平城天皇に対して献物を行い、終日宴会にも参加している。
ところが、同年10月に藤原宗成が伊予親王に謀反を勧めているという情報を藤原雄友が察知し、これを右大臣・藤原内麻呂に報告する。一方、伊予親王も宗成に唆された経緯を平城天皇に報告する。そこで朝廷が宗成を尋問した所、宗成は伊予親王こそ謀反の首謀者だと自白した。この自白を聞いた平城天皇は激怒し、左近衛中将・安倍兄雄と左兵衛督・巨勢野足に命じて、藤原吉子・伊予親王母子を捕縛し川原寺に幽閉した。二人は身の潔白を主張したが聞き入れられず、11月12日にそろって毒を飲んで心中したという。》
という事件だったらしい。 平城(へいぜい)天皇は桓武天皇の次、「三筆」のひとりの嵯峨天皇の前の天皇で、《桓武天皇の第一皇子。母は皇后の藤原乙牟漏。同母弟に嵯峨天皇》(ウィキペディアー平城天皇https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%9F%8E%E5%A4%A9%E7%9A%87 )で、伊予親王は兄の平城天皇と弟の嵯峨天皇とは母親が違ったらしい。ウィキペディアによると「へいせい」ではなく「へいぜい」と「せ」に濁点がつくらしい。
「藤原大夫人」は「尊称」らしく、「藤大夫」も「尊称」なのだろう。「吉子」を「きっし」と読むのか「よしこ」と読むのかもはっきりしないようだ。
菅原道真と対立した藤原時平は藤原氏でも北家で、菅原道真より前の時代においても、藤原氏の中でも藤原南家の是公(これきみ)の娘である藤原吉子とその息子の伊予親王が、藤原北家の藤原完成に伊予親王の変で退けられたということがあったようで、単に「学者の家の息子」だった菅原道真が母親が藤原氏ではない宇多天皇と組んだとしても、「藤原氏」に対抗できるのか・・と思ったが、私は菅原道真について書かれた本を何冊か読んだが、藤原氏でも北家以外の藤原氏には北家の支配に対して不満を持っていた者がいて、北家の藤原時平と対抗したのは「宇多天皇+菅原道真」だけだったわけでもなく、北家以外の藤原氏で「宇多天皇+菅原道真」の側についていた藤原氏もあった、もしくは北家の藤原時平に対抗する勢力の構成員だった藤原氏は存在したらしい。
藤原吉子(藤大夫)は上御霊神社と下御霊神社の両方で祀られているようだが、伊予親王は下御霊神社の祭神になっているが上御霊神社の祭神にはなっていないらしい。
北野天満宮の本殿の後ろの「十二社」では、右から10番目、左から3番目に、櫻葉社 があり、伊予親王が祀られている。
ー・-・-・-・-・-・-
伊予親王は桓武天皇の第3皇子として生まれた。母は藤原南家の藤原吉子である。吉子は皇后であった藤原式家の藤原乙漏(ふじわらのおとむろ)に次いで第2夫人の座にあった。伊予親王は皇后・乙牟漏の2人の皇子、安殿親王(あてのしんのう)(後の平城天皇)・神野親王(後の嵯峨天皇)に次ぐ有力な皇子であった。
伊予親王は父の桓武天皇に非常に愛されていたようだ。桓武天皇は狩の途中などに伊予親王の別荘にたびたび立ち寄っている。記録に残るだけでも10回近く訪れていたようで、桓武天皇が皇親の家宅にここまで足繁く立ち寄った例はなく、伊予親王への偏愛ぶりがうかがえる。この偏愛ぶりをほかの皇子がどのように見ていたのだろうか。西暦806年、安殿親王は即位し平城天皇になった。翌年、事態は急変する。
西暦807年、伊予親王を藤原宗成(ふじわらむねなり)(北家)が誘い謀反を企てていると右大臣 藤原内麻呂(北家)に告げた者がいた。藤原吉子の兄、つまり伊予親王の伯父にあたる藤原雄友(ふじわらのおとも)(南家)である。これにより宗成は捕縛され流罪、伊予親王・吉子母子も捕縛され、密告した雄友も捕縛され官位を奪われ流罪になった。
捕縛された伊予親王・吉子母子は川原寺(奈良県)に幽閉された。母子は飲食を絶ち、無罪を訴え続けたが、聞き入れられず、ついに毒を飲んで自殺する。世の人々はその死を悼んだという。
この事件には謎が多い。雄友などは結局流罪になっており、何のために密告したのかわからない上に、密告を受け上告した内麻呂も同族の宗成が流罪になっている。誰も得していないように見えるのだが、これは対立関係にあった藤原式家の藤原仲成(ふじわらのなかなり)・薬子(くすこ)兄妹の策略であったとする説が有力である。
平城天皇はこの後 病気を患い、伊予親王・吉子母子の死から2年後に弟に天皇位を譲り奈良に引きこもってしまう。さらに譲位された嵯峨天皇もすぐに体調を崩してしまう。これは母子の祟りであると世の人は噂し、嵯峨天皇もたびたび母子鎮魂の儀式を執り行っている。のちに母子の無罪は認められ、伊予親王も元の親王の号に復され、吉子も夫人の位に復されている。これにはやはり2人の祟りがあったからと記されている。
( 智的発見!探検隊 編著『本当は怖い 日本の怨霊』2012。5.10.イースト・プレス)
ー・-・-・-・-・-・-
「十二社」の右から5番目、藤大夫社の左隣は文太夫社(ぶんたゆうしゃ)↑ で、祭神は文屋宮田麿(ぶんやのみやたまろ)。
実際のところ、世間一般にはそれほど有名人ではなく、文屋宮田麿(ぶんやのみやたまろ)て誰なんだ・・・と思うのだが、ウィキペディアー文屋宮田麿 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E5%AE%A4%E5%AE%AE%E7%94%B0%E9%BA%BB%E5%91%82 によると、文屋宮田麿(ぶんやのみやたまろ)は「新聞屋(文屋)の宮田さんところのボンボン(麿)」・・ではなくて、
《 仁明朝の承和6年(839年)従五位上に叙せられ、翌承和7年(840年)4月に筑前守に任ぜられたが、承和8年(841年)正月までに官職を解かれた。
この間、承和7年12月(841年1月)に新羅人・張宝高が特産品の朝廷への献上を目的に使人を大宰府に派遣してきたが、他国の臣による安易な貢進は受け入れられないとして献上品の馬の鞍を返却するように朝廷から命じられている。この際、宮田麻呂は張宝高に絁を贈って唐の物産を得ようとしたとみられるが、同年11月の張宝高の死去により失敗した。そのため、承和8年(841年)に渡来した新羅の廻易使・李忠がもたらした貨物について、李忠は張宝高の使人であることを理由に、宮田麻呂が没収しようとする。しかし承和9年(842年)になって、宮田麻呂による貨物の没収が朝廷に発覚し、大宰府官人の手で貨物は李忠に返還させられた。
承和10年(843年)宮田麻呂は散位従五位上の官位にあったが、従者の陽侯氏雄から謀反を図っているとの告発を受けて、左衛門府に禁獄され、次いで、朝廷から勅使として派遣された、左中弁・良岑木蓮、右中弁・伴成益、少納言・清滝河根、左兵衛大尉・藤原直道らによって平安京と難波の邸宅から武器が押収される。参議・滋野貞主、左衛門佐・藤原岳雄による訊問の結果、宮田麻呂は謀反の罪を負って斬刑に当たるところ、位階を一等降された上で伊豆国への流罪となった。同様に子息の忠基(佐渡国)・安恒(土佐国)、従者の和邇部福長(越後国)・井於枚麿(出雲国)、僧侶・神叡(出雲国)も流罪となった。なお、陽侯氏雄は告発を賞されて、特別に大初位下・筑前権少目に叙任されている[。
この謀反に問われた事情は必ずしも明らかではないが、
承和9年(842年)に発生し同族の参議・文室秋津も連座した承和の変の影響とする説、
前述の新羅との貿易トラブルに関係するもの、さらには、
藤原北家が瀬戸内海交易活動の独占を図る中で、国際交易にまで活動範囲を広げていた宮田麻呂を脅威に感じて抹殺した事件とする説
もある。》
文屋宮田麿は上御霊神社・下御霊神社の両方で祀られている。
文太夫社の左隣、「十二社」の右から6番目、左から7番目が、淳仁天皇社 で、祭神は淳仁天皇。
淳仁天皇てどういう天皇だったか思い出せず、写真は撮り損なったが、女帝の孝謙天皇と孝謙天皇が重祚した称徳天皇との間の天皇で、藤原仲麿の親類で藤原仲麿から擁されて孝謙天皇から譲位されたが、道鏡の台頭とともに藤原仲麿が力を失い、藤原仲麻呂の乱で仲麻呂が廃死し、淳仁天皇は廃されて孝謙天皇が重祚して称徳天皇になった。
全国歴史教育研究協議会編『新版 日本史用語集』(1966.第1版。 1975.新版 山川出版社)には、
《 藤原仲麻呂(恵美押勝 えみのおしかつ) 706~64 光明皇后の信を得、紫微令(皇后宮長官)に任ず。淳仁天皇から恵美押勝の名を賜い、大師(太政大臣)となり全盛。養老律令の施行、唐式官名の採用を行う。》
《 藤原仲麻呂(恵美押勝)の乱 764年、太政大臣 藤原仲麻呂が孝謙天皇の寵臣 道鏡を除かんと乱を起こし近江で敗死した。》
と出ています。藤原仲麻呂(恵美押勝)は ウィキペディアー藤原仲麻呂 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E4%BB%B2%E9%BA%BB%E5%91%82 によると、《左大臣 藤原武智麻呂の次男》で、藤原武智麻呂は《藤原不比等の長男。藤原南家の祖。》(ウィキペディアー藤原武智麻呂 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E6%AD%A6%E6%99%BA%E9%BA%BB%E5%91%82 )らしい。
井上清『日本の歴史 上』(岩波新書)には、
《 756年には女帝 孝謙天皇にちょう愛せられた藤原仲麿が、橘諸兄を失脚させ、翌年、皇太子も自家の親類の王にとりかえた。これにたいして諸兄の子 奈良麿は、大仏造営に苦しむ人民の不満が社会をおおうているのを好機として、仲麿一派を倒し、天皇もとり代えようと、大規模な叛乱を準備したが、未然に逮捕されて死刑にされた。朝廷はこのさい、民心を得る必要を痛感し、畿内諸国の郡司・里長を集め、奈良麿の陰謀をつげ、彼らの忠誠をもとめた。朝廷が郡司・里長までも集めたのは、空前のことである。さらに雑徭は30日以内に半減し、本年の調庸は免除し、これまでの公私の出挙の利息も全免した。つまり、人民の抵抗は、権力者たちの勢力争いを通じて、負担の大はばな軽減をかちとったわけである。
やがて女帝の愛は、仲麿から、身元もよくわからない河内国出身の僧の道鏡にうつった。落ち目になった仲麿は、764年に叛乱をおこしたが、たちまち鎮定された。先に仲麿の希望により孝謙から位をゆずられていた淳仁(じゅんにん)天皇(仲麿の親類)も、廃位されて淡路島に流され、孝謙がふたたび皇位についた(称徳天皇)。その下で道鏡は太政大臣になり、「法王」になり、さらに宇佐神宮の神託をうけたと称して、女帝から皇位を譲りうけようとした。皇族外に皇位がうつることは、天皇を軸としてつくられている貴族の秩序の根本がゆらぐことであるので、さすがの貴族たちも、結束してこれに反対し、和気清麿を正式の使者として宇佐につかわし、皇位は皇族以外の者に譲ってはならないとの神託であったとして、道鏡を失脚させた(770年)。・・ 》
( 井上清『日本の歴史 上』1963.9.25.岩波新書)
日本の歴史 上 (岩波新書 青版 500) - 井上 清
俗な言い方をすると、藤原仲麿に擁されて天皇になったが、デカ〇ン道鏡が力を持つと退けられた・・・てこと・・か・・。孝謙天皇・称徳天皇は関裕二氏の本によると、藤原氏にがんじがらめにされる天皇なんか要らないという気持ちになって天皇家でない者である道鏡に天皇を譲ろうとした・・という説が述べられているが、『日本の歴史 上』では女帝の愛が藤原仲麿にあった時に仲麿の親類の淳仁天皇が天皇を譲られて即位したが、女帝の愛がデカ〇ン道鏡に移ったことから仲麿とともにその親類の淳仁天皇も退けられて女帝が再び称徳天皇として即位した・・てこと・・か。そうなのかな・・・。
井上清『日本の歴史 上』(岩波新書)は、女帝 孝謙天皇・称徳天皇の愛が藤原仲麻呂から道鏡に移り、その道鏡が力を持って女帝はわけのわからん男の道鏡の言いなりになって天皇にまでならせようとした・・ような書き方だが、関裕二氏は、孝謙天皇・称徳天皇は天武天皇の子孫である聖武天皇の娘で、天智天皇(中大兄)と結んで乙巳の変 (いっしのへん)で蘇我入鹿を暗殺した藤原鎌足の子孫の藤原氏にがんじがらめにされ支配された天皇の状態に幻滅し、天皇家の一族でない道鏡を天皇にすることで「藤原氏に支配される天皇」というものを消してしまおうと考えたのではないか。「藤原氏に支配される天皇」というものをこの世から消してしまおうと考えた改革者・冒険家だったのではないかという見方をしていたようだが、あり得る話であろう。
孝謙天皇・称徳天皇が道鏡を天皇にしようとして和気清麻呂らに阻止された事件の後、称徳天皇が死去した後には道鏡は下野国に流された・・というが、それだけではなくて、天武天皇の子孫の聖武天皇の娘であった称徳天皇の後、天皇になったのは光仁天皇から桓武天皇と天智天皇の子孫だった。天智と天武は兄弟だったとされ、天武が弟とされてきたが実際は天武の方が年上だったという説もあるらしく、天智が他界した後、天智天皇の息子の大友皇子が跡を継ぐということになり、叔父の天武はいったん退いたにもかかわらず、追討の軍を差し向けられ、ここまでの話なら先代の息子の方が有利そうなのだが、壬申の乱は決してそうではなくて、大友皇子からすれば叔父の天武の側が圧勝したわけだった。その後、天武の嫁で天智の娘のウノノササラ・持統天皇と持統の息子の草壁皇子の嫁の元明天皇をはさんで、天武の子孫の聖武天皇が即位し、聖武天皇の娘の孝謙天皇・称徳天皇が天皇になったが、称徳天皇の死後は、天武の娘の孝謙・称徳天皇や天武の子孫が天皇になることはなく、乙巳の変 (いっしのへん)で中臣鎌足(藤原鎌足)とともに蘇我入鹿を暗殺した中大兄(天智天皇)の子孫が天皇になっていくことになるわけだが、ひとりひとりがどうだったかにかかわらず、全体として見ると、道鏡の事件というのは「藤原氏に支配される天皇」を嫌い「藤原氏に支配される天皇」なら天皇家と関係のない道鏡を天皇にすることで事実上、天皇というものを廃止してしまうことも考えた「天武天皇の子孫」の孝謙・称徳天皇を退けて「天智天皇の子孫」を天皇にして藤原氏が支配する・・という構図が実現する過程だった・・と見ることができるのかもしれない。
--・-・-・-・-・-・-
大炊王(天皇になる前の淳仁天皇の名)は天武天皇の皇子・舎人親王の七男として誕生する。3歳で父が没したこともあって天皇の孫でありながら注目されることもなかった。天平宝字(てんぴょうほうじ)元年(西暦757年)に、聖武天皇の遺言で立太子した道祖王(どうそおう)に代わって、新女帝の孝謙天皇と藤原仲麻呂の強い推挙により、大炊王が立太子した。そして翌年、孝謙天皇より譲位を受けて淳仁天皇となった。しかし政治力のほとんどを藤原仲麻呂が持ち、その仲麻呂の後見人の光明皇后(光明子)が影響力を発揮していた。
その光明皇后が亡くなった。藤原仲麻呂の後ろ盾が失われたことになる。老練な政治家、吉備真備がこの好機を逃すはずがなかった。吉備真備の外交工作が密かに行われ、藤原仲麻呂が新羅出兵をすることとなったのである。
新羅出兵が近づいたとき、藤原仲麻呂は突如クーデターを起こす。天平宝字(てんぴょうほうじ)8年(西暦764年)9月11日、孝謙帝は退位して高野上皇になっていたが、行動を起こしたのだった。しかし、それを察知していた吉備真備の準備した軍勢との激戦の内に、高野上皇から藤原仲麻呂は逆臣として指弾されてしまう。
一転して藤原仲麻呂は反乱軍となった。この鮮やかなタイミングの駆け引きの裏には当然、吉備真備の周到な読みと準備があったのだろう。漢氏(あやし)、秦氏(はたし)ら渡来豪族の国際派は、みな高野上皇の側についた。藤原仲麻呂は、宇治から近江を通り、東国へ逃れようと琵琶湖へ出たが、遂に追い詰められ湖上で妻子4人と一味郎党34人が捕らえられ、湖畔で斬られることとなった。
もはや仲麻呂の率いる軍勢もなく、淳仁天皇は母と3,4人の家来を連れて逃れようとしたが捕まってしまう。そして天皇の位も剥奪され淡路流配の身となった。「淡路廃帝」と呼ばれた淳仁天皇は、「幽憤に勝(た)えず、垣根を越えて逃げたが、明日、印中に薨(みまか)りぬ」と記されている。天平神護元年(西暦765年)10月23日、没するのである。死因は不明で、暗殺の疑いも濃い。まだ33歳の若さだった。この幽憤はやがて怨霊と化して、長らく天皇家を悩ます存在になる。
市から1105年後、明治天皇が大炊王に淳仁天皇を追号し、47代天皇に復させたのだった。
( 智的発見!探検隊 編著『本当は怖い 日本の怨霊』2012。5.10.イースト・プレス)
ー・-・-・-・-・-・-
北野天満宮の本殿の後ろの「十二社」の左側、太宰少弐社(祭神:藤原広嗣)・櫻葉社(祭神:伊予親王)・吉備大神社(祭神:吉備真備)・崇道天皇社(祭神:崇道天皇〔早良親王〕)などについても述べたいと思うのですが、字数がけっこう多くなったので、次回https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/502356418.html にまわし、今回はここまでとします。
狭山裁判〈上〉 (1977年) - 野間 宏
狭山裁判〈下〉 (1976年) (岩波新書) - 野間 宏
狭山事件の真実 (岩波現代文庫) (岩波現代文庫 社会 202) - 鎌田 慧
狭山事件は1960年代前半、私が幼稚園に入園するより前、狭山は大阪府の大阪狭山市ではなく埼玉県狭山市にて、当時、高校生だった女性が殺された事件で、「石川青年」と当時は言われたが石川さんは私より年上だから今は青年ではないが、石川さんが犯人だとされて逮捕され起訴され有罪にされた事件だったが、部落解放同盟が「石川さんは無実だ」とアピールした・・というもので、私は何冊かの本を読みました。それらを読んだ限りでは、石川さんを犯人と考えるのは難しい・・だけでなく、石川さんを犯人ではないかと疑うことも難しいと思われました。
しかし、私が何冊かの本を読んだ上では石川さんはまず犯人ではないと思われるし、石川さんを犯人と考えることに無理があるというよりも、犯人ではないかと疑うことに無理があると思われるのだが、その一方で、1970年代後半のことだが、私が阪急電鉄に乗って高校から家に帰ろうとして自宅の最寄り駅で降りたところ、駅前で「石川さんは無実だ」というビラというのかチラシというのかを配っていた人があり、何気なしに受け取ったところ、「署名してください」と言って署名板をつきつけられ、「私はこの事件についてよく知らないのです。ですから、これ(受け取ったビラ・チラシ)をまず読ませてもらってどういうことなのか考えたいのです」と言ったところ、「それなら署名してください。あなたは石川さんが無実じゃないと言うのですか」と言うので、「そんなことは言ってませんが、私はどういう事件なのかよく知らないのです。知らない者が署名するのはおかしいでしょ。どういうことなのか、私はまず理解したいので、それからにさせてください」と言うと、「だから署名してくださいと言っているのにどうして署名しないんですか。署名しないということは、あなたは無実の石川さんを有罪にしたいということですか」と言うのです。「そんなことは言ってませんが、私はこの事件についてよく知らないので、とりあえず、これを読ませてもらって考えて、署名するかしないかはそれからにさせてもらいたいんです」と言って帰ろうとすると進行方向に立ち塞がって帰らせてくれないのです。困った人だなあと思い、何度も何度も説明したのでしたが、しかし、「署名しないということは、あなたは無実の石川さんを有罪にしたいということなんですか」と言って「そうでないなら、なんで署名しないんですか」と前に立ち塞がって帰らせてくれないのです。
その時は、私がこれだけきっちりと説明しているのに、どうしてこの人はわかってくれないのかと思ったのでしたが、後から考えてみると、あれが部落解放同盟のやり方だったのではないか。大阪市淀川区の「元部落」という地域の近くの人から聞いた話では、その地域では部落解放同盟は署名を求める際には、私が阪急の駅の駅前でされたくらいのものではなく、「ゴラア、署名せんかあ~あ」と言って強制的に署名させるという話でした。
1980年代、慶應大学の教養課程の日吉キャンパス内で、学部掲示板の前でレポート課題の内容について書き写そうとしていると、原理研究会(原理研)=国際勝共連合=国際統一神霊教会 の人が寄ってきて話しかけるのでしたが、慶應大学の学生で原理研究会(原理研)=国際勝共連合=国際統一神霊教会 の人間が誘うのがいかんと言う人がいましたが、私は別に話しかけても誘ってもかまわないじゃないか、誘われても行かない加入しないだけのことで、誘うのは別に誘ったっていいじゃないかと思っていたのでしたが、ところが、学部掲示板の前でレポート課題を書き写そうとしている者に、それを妨害しようとするように話しかけてくるのです。なんで、この人たちはこちらがレポート課題を書き写そうとするのを妨害するんだ、こちらは書き写した後で話を聞いてもいいと思っているのに、それなのにどうしてレポート課題を書き写すのを妨害するんだ・・・と思ったのでしたが、そうではなくて、彼ら原理研究会(原理研)=国際勝共連合=国際統一神霊教会 の人間は、レポート課題を書き写そうとしている者にそれを妨害すれば妨害している限り、その人間はそこから帰らないので勧誘できる、書き写させてしまえば帰ってしまうと考えて、意図的に書き写せないように妨害していたのでした。 困った人たち・・というよりも、どうも、それが原理研究会(原理研)=国際勝共連合=国際統一神霊教会のやり方だったみだいです。
それと同様に、1970年代後半、阪急の駅の改札口を出てすぐの所で、「石川さんは無実だ」と書かれたビラというのかチラシというのかを配っていた人は、私の方は「私はこれを読ませてもらって、それでどういうことだったのか考えたいのです。署名はその上でするかしないか決めたいと思います」ときっちりと説明しているのだから、「わかりました。よろしくお願いします」と言って引き下がるのが当然と私は思っていたのでしたが、そうではなく、ビラ・チラシを配っているように見せて受け取らせると、その前に立ち塞がって帰れないようにした上で署名を要求し、署名するまで帰らせないようにして署名を集める・・というのが、それが部落解放同盟のやり方だったみたいです。
私は狭山事件についての本を何冊か読んだ限りでは、石川さんを犯人と考えるのは無理があるだけでなく、石川さんを犯人ではないかと疑うことに無理があると思えましたが、しかし、そうであっても、あのような署名の求め方は良くないと思いますし、そういう署名の求め方をしている部落解放同盟という団体のあり方にも疑問を感じます。その時、私は根負けして署名してしまいましたが、あれは間違っていた。断っても断っても前に立ち塞がって署名するまで帰らせないようにする人に対しては、その内容がどうかにかかわらず署名するべきではなかった。それでも署名しないと帰らせないという態度をとるならば、駅員なり交番なりに助けを求めるべきだったと思います。「石川さんは無実だ」として部落解放同盟が集めた「署名」にはそうした本人の意思を無視して強制的に書かせた署名が含まれています。ああいうのはいいとは思えません・・が、どうも、部落解放同盟の人はそういうやり方をするのはその時だけではないのではないか。
そして、部落解放同盟の人は「石川青年は無実だ」というゼッケンを小学生につけさせて登校させていたとか、そういうこともあったようですが、その小学生は狭山事件について理解した上でそのゼッケンをつけていたのか? そこが問題です。狭山事件について書かれた本を何冊か読んだ限りでは石川さんはまず犯人ではないと思われるのですが、しかし、何冊かの本を読んで自ら考えた結果として、警察・検察・裁判所の石川さんに対しての態度はひどいと判断してゼッケンなり何なりつけてアピールするのならいいのですが、ゼッケンをつけさせられていた小学生というのは、大部分は狭山事件についてよく知らないでつけていたのではありませんか。そういう活動のあり方というのはいいとは言えないのではないか。
「何何さんは無実だ」という署名を集めるという行動についても疑問を感じるのです。もしも、署名が大量に集まったら、実際に犯人である人でも無実・無罪になるのですか? 署名が集まらなかったら無実・無罪の人でも有罪になるのですか? 石川さんの場合、部落解放同盟というけっこう大きな組織・団体が署名を集めましたから、それなりの数が集まったと考えられますが、もしも、ちっとも集まらなかったら無実の人でも有罪になってしまうのか? 署名でも集めようと考える人の気持ちもわからないこともないのですが、署名が集まらなくても無実・無罪のものは無実・無罪だし、署名がいっぱい集まっても、だから無実ということになるわけでもないはずなのです。私が石川さんの立場だったら、誰も署名なんて集めてくれないでしょう。そうなると無実でも有罪になるということなら、それはおかしい。
もうひとつ、これは私が読んだ本に書かれていたのですが、石川さんは無実であったとしても、それでもどこかに犯人はいたわけで、犯罪の性質から考えて、まったく関係のない遠方から犯人がやってきてその犯罪をおこなったのではなく、やはり、その地域か周辺にいた誰かがやった可能性が大きいと考えられるわけで、石川さんは知らなかったとしても石川さんとどこかで何らかの接点があった人が犯人グループの構成員にいたということは可能性としては絶対ないとまでは言えないし、犯人がその地域のどこかにいた可能性が大きいということを考えると、その犯人が「元部落出身」ではない人間の可能性もあるけれども「元部落出身」の人にいた可能性だって絶対ないわけではないわけです。ところが、部落解放同盟は石川さんのその事件の時の行動と供述から考えて石川さんは犯人ではないと訴えるのならいいのですが、そうではなくて、これは部落差別だと「元部落出身」の人を犯人ではないかと疑ったら「部落差別」だ、けしからん、疑うなら「元部落出身」でない人間を疑えと言うのであれば、それはおかしい。たとえ、そう言っているつもりはなかったとしても、現実に石川さんの事件を「部落差別」ととらえて活動するということは、犯罪があったら犯人は「元部落出身」でない者を疑えと事実上、圧力を加えているわけで、これも適切とは言い難いのではありませんか。
又、狭山事件で石川さんが犯人でないのに犯人だとされたのは部落差別によるものと部落解放同盟の人はアピールしていたようですが、しかし、警察・検察・裁判所が不適切な対応をとるのは別に「元部落」出身の人に対してだけではない。そうでない人間に対しても警察・検察・裁判所の対応は相当ひどい。
又、私は「人相が悪い」とか「怪しい格好をしている」とかいう人は疑われやすいが、そうでない人間は疑われにくいのではないかと10代の頃は思っていたのでしたが、それも違うみたいです。かつて、カンボジアのポルポト政権では「眼鏡をかけている」という人間は逮捕されたということがあったらしいが、なんで、「眼鏡をかけている」と逮捕されるのかというと、ポルポト政権は、
眼鏡をかけている⇒インテリである⇒反体制派でポルポト政権に対して批判的な人間だ ・・という論理というのか非論理というのかによるものだったと言われるようです。 日本の警察もこれと似たところがあるように思います。見た目がゴロツキ・不良・ワル・ヤンキー・暴走族みたいな人と比べれば自分は大丈夫だろう・・なんて思ってはだめ。そうではないのです。むしろ、警察官みたいなものになる人というのは、ゴロツキ・不良・ワル・ヤンキー・暴走族の仲間なのです。むしろ、そういう相手にはラポールを感じよるみたいで、逆に、警察官は知識人・インテリだと思うと反感もちよるみたいで、知識人・インテリ⇒反体制・過激派・「アカ」・警察の敵・・・とかパブロフの犬みたいに反応しよるみたいです。だから、いくらなんでもあんな人相の悪いいかにも怪しそうな人間よりは自分は警察から目をつけられないだろう・・なんて考えるのは甘すぎる。違います。そして、警察がインネンつけるのは「元部落」の人に対してだけではないし、警察官なんて「運動バカ」みたいな人間がなってる仕事だが、検察官・裁判官は一流大学を出て司法試験という法律についての難しい試験に通ってなっているインテリだからおかしなことはしないだろう・・なんて考えるなら、あまりにも甘い! なにより、私は高校生くらいの頃、「検事」と「検察官」は同じ意味だと思っていたのですが、実はそうではなくて検察官には「検事」と「副検事」があって、私は最初、「検事」は検察官の別名で「副検事」というのはそれぞれの検察庁で上から二番目の役職の人のことか・・と思ったのでしたが違います。そうではなくて、「検察官」には司法試験に通って検察官やっている「検事」と司法試験に通っていないのになじかは知らねど検察官やってる「副検事」がいて 〔⇒《YouTube-ローレライ (歌詞つき) 鮫島有美子 Die Loreley sung by Yumiko Samejima》https://www.youtube.com/watch?v=zbJy_EuY-mE 〕、「副検事」は「一流大学」なんて出ていませんし司法試験にも通ってません! いわば、国営裏口入学みたいのが「副検事」です。なんじゃそりぁあ~あ・・と思いますが、そういうのがけっこういるのです。検察官というのは旧帝大系国立大学とかそういう一流大学を出て一般的教養学識を身につけたインテリで司法試験という法律についての難しい試験に通った人なんだ・・という先入観を持って検察庁に行くと、「ええ~え、この人があ~あ」という「私は一流大学なんて天地がひっくり返っても出てません」と顔に書いてある人がいるのですが、検察庁には書記官・事務官もいますが、「私は一流大学なんて天地がひっくり返っても出てません」と顔に書いてあるやつ、ええ~え、こんな人が検察官なの~お・・てやつが「副検事」です。なんで、そんな国営裏口入学みたいなやつを認めてるんだ、おかしいじゃないか・・と思うのですが、バカのくせして態度ばっかりでかいのを司法試験にぎりぎりも通っていないのに、なんでそんなやつに「副検事」などというややこしい名称で「検察官」させているのかと思うのですが、現実にそういう国営裏口入学みたいなやつが検察庁にはいるのです。 裁判官も簡易裁判所の判事は「かんぱん」と言われ、裁判所の書記官を長くやった人が司法試験に通っていないにもかかわらずやっているらしく、司法試験に通って裁判官やっている人からは「かんぱん」と呼ばれてバカにされているとか聞きます・・が「副検事」の仲間かもしれませんね。警察官は高卒か私立五流大学卒の運動バカみたいのがなってるのだろうけれども検察官とか裁判官は一流大学を出た一般的な教養があるインテリで司法試験という法律についての難しい試験に通った人なのだからおかしなことしないだろうなんて期待しても、「副検事」や「かんぱん」は「一流大学」なんて出ていないし司法試験にも通ってません。イカサマちゃうんかい・・て感じがしますが、それが現実の日本の司法なのです。・・で、「副検事」ではない司法試験に合格してなっている「検事」、地方裁判所以上の司法試験に合格した人が裁判官やってる裁判所ならまともか・・と期待すると期待が裏切られることは十分考えられます。小学生の頃、「物は使えば減る。しかし、頭は使えば使うほど増える」と小学校の先生だったかうちの親だったかから教えられた記憶があるのですが、小学校の先生にはこういうことを言う人が多いように思いますし、実際、基礎的な学力がある人はそれより高度なものを学ぼうとする場合に学びやすいということはあると思いますが、裁判官とか弁護士についてはこれはあてはまらない。司法試験という難しい試験に通るために頭の大部分を使ってしまって、それ以外のものについては世間一般の人間よりはるかにアホと違うか、超ド級のアホと違うか・・・みたいな人がいるように思います。又、弁護士は依頼者と約束すると必ず約束の時刻に遅刻しますが、遅刻してきた者はとりあえず「すいません」と言うものではないのかと私は思うのですが、弁護士の辞書には「すいません」という言葉はないようで、かわりに「弁護士は忙しいですから」と言うのですが、忙しいから午後2時30分から打ち合わせはできないなら午後3時から打ち合わせとすれば良かったはずで、自分が午後2時30分からでお願いしますと言って決めておいて、その時刻に遅刻して「弁護士は忙しいですから」て、それは違うのではないか。遅刻してきた弁護士が「すいません」と言うことなく「弁護士は忙しいですから」などと言いますが、その言い方では依頼者は暇人みたいですが、依頼者だって暇じゃねえんだよお!!! 何よりも裁判所の法廷に遅刻してくる弁護士というのは、いったい何に忙しいのか?
そんなもので、狭山事件については、私は狭山事件について述べられた何冊かの本を読んだ限りでは、石川さんはまず犯人ではないと思われるし、石川さんを犯人ではないかと疑うことに無理があるという印象を受けていますが、しかし、他方で無理矢理署名を求めたり、狭山事件についてほとんど知らないであろうと思われる小学生にゼッケンつけさせたりといったことについては、これは石川さんが無実であったとしても、そういうやり方はこれは良くないと思っています。
又、「石川さんが元部落出身者だから犯人にされたんだ」といったことを部落解放同盟の人は言うようですが、警察・検察・裁判所がおかしいのは「元部落出身者」に対してだけではないし、又、石川さんは大変気の毒だったとは思いますが、石川さんは「元部落の出身者」だったことから部落解放同盟が石川さんを救えという活動をしてくれたのであり、「元部落の出身者」でなかったならば、そういう協力をしてくれる人・団体なんかなかなかありません。私だったら誰もそんな協力なんかしてくれませんよ。だから、狭山市のその地域においては「元部落出身者」に対して最初から疑いの目で見る人がいたといったことがあったのかもしれないけれども、他方で「元部落出身」の人だったから部落解放同盟が応援してくれた、そうでない者なら誰も応援してくれなかった・・ということも考えられると思います。
(2024.2.15.)
☆ 北野天満宮(京都市上京区)参拝3
1.烏丸線「今出川」駅より「千本今出川」交差点、浄土院、「上七軒」交差点。わかりにくい京都市地下鉄烏丸線の駅名。京都で下宿すると安いと曲解している連中。「女性社員の尻を『次はこういう撫で方したらどないでっか』と言いなさい」と言う父親は「いいお父さん」か? そういう父親を「ものすごいすばらしいお父さん」と称賛する高校教諭は「ええ先生」か? https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/502287883.html
2.「上七軒通」交差点より、ゼロホーム展示場。「アタマが浜松」的一条工務店東京展示場は厳しかった。北野天満宮大鳥居、影向松、伴氏社、鳥居から楼門。「伴」「大伴」氏が藤原に斥けられた後に菅原道真の件が。藤原色がいくらか薄い天皇は「反藤原」ではなく「いくらか非藤原」を目指したか。藤原氏傍流は藤原北家に常に加担していなかったか。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/502306592.html
3.楼門の延長には文子天満宮。三光門。太鼓橋と紅梅殿。秀頼による北野天満宮造営は豊臣の財力を消費させるためだったのか。「学業成就・合格祈願の神様」は「あとづけ」で冤罪を晴らす神・怨念を晴らす神が本来であろう。模擬試験の「判定」に「人事を尽くして天命を待て」という文言は余計。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/502321338.html
4.三光門。大宰府にたどりついた梅に対し摂津で力尽きた松。紅梅と白梅。「闘うきみの歌を闘わないやつが笑うだろう」の中島みゆき はいいとして、自分は人生・生活において犠牲になってないのに「犠牲の精神を教えたい」とぬかす川相は許せん。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/502330050.html
5.三光門から拝殿・幣殿・本殿・西回廊・東回廊。本殿の背後の御后三柱。拝殿前の梅と松。社殿の東面には思い入れ。「京のぶぶづけ」の話を「大阪の人間は」と言うアホ慶大生。「ぶぶづけでもどないだすう」と言われても帰らないであろうバカ慶大生。管理費は入居者を管理するための費用と考えていた日吉台学生ハイツの管理者。元自衛隊は「企業からの問い合わせ」に何言いよるやらわからん。自衛隊に武器を持たせて大丈夫か? 母と一緒に巡った京都の社寺と「とってちってたあ」にされた息子の末路。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/502336739.html
6.本殿後ろの「十二社」の橘逸勢社・藤太夫社・文太夫社・淳仁天皇社。崇徳院が白峰神宮で早良親王が崇道神社。上御霊神社・下御霊神社の祭神と「十二社」の祭神で共通する人が何人か。狭山事件に関して署名を求める人は強制はしないでもらいたい。〔今回〕
7.本殿後ろの「十二社」の太宰少弐社・櫻葉社・吉備大臣社・崇道天皇社。長屋と戸建の老松社。地主神社相殿の敦美親王・齊世親王・源英明。北門と西陣名技碑・松本伍作氏顕彰碑。自分がやったことを相手がやるだろうという思考を持つ場合はある。自分も黄色人種なのにアメリカ合衆国に行ってワスプになったつもりで「けったいなやつが多い」とか言うおっさん。「心理学」は怖い。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/502356418.html
8.平野神社(京都市北区平野宮本町)参拝ー中門・拝殿・本殿。平野通・西大路通。クスノキは舟に使え。「本当はもっと売れるのだけれど、わざと売らないようにしてるの」という営業は「本当にもっと」売ればいいじゃんhttps://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/502364358.html
9.わら天神(敷地神社)【上】鳥居から西進し北に曲がった正面に社殿。北山の神と穂穂手見命の母の木花佐久夜毘売。ブス建築は耐久性があると奇妙なことを教える営業本部長 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/502384324.html
10.わら天神・敷地神社【中】本殿、綾杉明神、大山祇神社。高耐久性ブス建築は魅力的か?「言い方にもよる」ということを理解できない一条浜松流本舗。勝ちは静岡県愛知県の者の勝ち・負けは東京都神奈川県の者の負けとしたがる一条オリジナル遠州人。木質系建築業の不良経営者を懲らしめる神・大山祇神 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/502460487.html
11.わら天神・敷地神社【下】
★ 冤罪を晴らす神さま・菅原道真・怨念を晴らすお百度参り
京都府
北野天満宮(京都市上京区)
1 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201302article_2.html
2 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201302article_3.html
3 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201302article_4.html
4 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201302article_5.html
5 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201302article_6.html
北野天満宮2
1.北野天満宮への経路。阪急西院ビルhttps://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202105article_4.html
2.阪急「嵐山」・京福「嵐山」から「北野白梅町」 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202105article_5.html
3.JR「円町」から京都市営バスで「北野天満宮前」 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202105article_6.html
4.大鳥居から楼門、三光門から御本社、文子天満宮 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202105article_7.html
5.東門、北門、地主社、伴氏社。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202105article_8.html
年中「緊急事態宣言」では緊急事態ではなく、それが普通になる。「緊急事態」「蔓延防止」とGoToトラベル・イートを交互に出したら、むしろ一時期に集中することになる。「不要不急の」という表現は戦中にも使われた表現。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202105article_9.html
就業時間中に松戸新田駅から40分もハイキングやる「銀行から来た総務のおっさん」と銀行から「融資」でなく「出資」を受けると会社はつぶれる例。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202105article_10.html
北野天満宮参拝3
1.烏丸線「今出川」駅より「千本今出川」交差点、浄土院、「上七軒」交差点。わかりにくい京都市地下鉄烏丸線の駅名。京都で下宿すると安いと曲解している連中。「女性社員の尻を『次はこういう撫で方したらどないでっか』と言いなさい」と言う父親は「いいお父さん」か? そういう父親を「ものすごいすばらしいお父さん」と称賛する高校教諭は「ええ先生」か? https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/502287883.html
2.「上七軒通」交差点より、ゼロホーム展示場。「アタマが浜松」的一条工務店東京展示場は厳しかった。北野天満宮大鳥居、影向松、伴氏社、鳥居から楼門。「伴」「大伴」氏が藤原に斥けられた後に菅原道真の件が。藤原色がいくらか薄い天皇は「反藤原」ではなく「いくらか非藤原」を目指したか。藤原氏傍流は藤原北家に常に加担していなかったか。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/502306592.html
3.楼門の延長には文子天満宮。三光門。太鼓橋と紅梅殿。秀頼による北野天満宮造営は豊臣の財力を消費させるためだったのか。「学業成就・合格祈願の神様」は「あとづけ」で冤罪を晴らす神・怨念を晴らす神が本来であろう。模擬試験の「判定」に「人事を尽くして天命を待て」という文言は余計。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/502321338.html
4.三光門。大宰府にたどりついた梅に対し摂津で力尽きた松。紅梅と白梅。「闘うきみの歌を闘わないやつが笑うだろう」の中島みゆき はいいとして、自分は人生・生活において犠牲になってないのに「犠牲の精神を教えたい」とぬかす川相は許せん。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/502330050.html
5.三光門から拝殿・幣殿・本殿・西回廊・東回廊。本殿の背後の御后三柱。拝殿前の梅と松。社殿の東面には思い入れ。「京のぶぶづけ」の話を「大阪の人間は」と言うアホ慶大生。「ぶぶづけでもどないだすう」と言われても帰らないであろうバカ慶大生。管理費は入居者を管理するための費用と考えていた日吉台学生ハイツの管理者。元自衛隊は「企業からの問い合わせ」に何言いよるやらわからん。自衛隊に武器を持たせて大丈夫か? 母と一緒に巡った京都の社寺と「とってちってたあ」にされた息子の末路。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/502336739.html
6.本殿後ろの「十二社」の橘逸勢社・藤太夫社・文太夫社・淳仁天皇社。崇徳院が白峰神宮で早良親王が崇道神社。上御霊神社・下御霊神社の祭神と「十二社」の祭神で共通する人が何人か。狭山事件に関して署名を求める人は強制はしないでもらいたい。〔今回〕
7.本殿後ろの「十二社」の太宰少弐社・櫻葉社・吉備大臣社・崇道天皇社。長屋と戸建の老松社。地主神社相殿の敦美親王・齊世親王・源英明。北門と西陣名技碑・松本伍作氏顕彰碑。自分がやったことを相手がやるだろうという思考を持つ場合はある。自分も黄色人種なのにアメリカ合衆国に行ってワスプになったつもりで「けったいなやつが多い」とか言うおっさん。「心理学」は怖い。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/502356418.html
8.平野神社(京都市北区平野宮本町)参拝ー中門・拝殿・本殿。平野通・西大路通。クスノキは舟に使え。「本当はもっと売れるのだけれど、わざと売らないようにしてるの」という営業は「本当にもっと」売ればいいじゃんhttps://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/502364358.html
9.わら天神(敷地神社)【上】鳥居から西進し北に曲がった正面に社殿。北山の神と穂穂手見命の母の木花佐久夜毘売。ブス建築は耐久性があると奇妙なことを教える営業本部長 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/502384324.html
10.わら天神・敷地神社【中】本殿、綾杉明神、大山祇神社。高耐久性ブス建築は魅力的か?「言い方にもよる」ということを理解できない一条浜松流本舗。勝ちは静岡県愛知県の者の勝ち・負けは東京都神奈川県の者の負けとしたがる一条オリジナル遠州人。木質系建築業の不良経営者を懲らしめる神・大山祇神 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/502460487.html
11.わら天神・敷地神社【下】六勝神社・八幡社。他社と他社従業員との労働契約に不当な口出し介入する現 三菱UFJリサーチ&コンサルティング。後進国の外資系企業 (株)一条工務店。父親がある人間は「父親がいなかった」娘より得しているとは限らない、ということも理解できないアホ高校教諭。無駄になった京都の街を歩いた子供の頃の経験https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/502436497.html
高台寺天満宮(京都市東山区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201511article_7.html
曼殊院天満宮(京都市上京区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201608article_4.html
長岡天満宮(長岡京市)
1.八条ヶ池 他 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201703article_10.html
2.拝殿・祝詞舎・本殿・手水舎他 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201703article_11.html
3.春日社八幡宮社・紅梅殿・白梅殿・社務所(連歌所) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201703article_12.html
4.梅園、長岡稲荷、錦景園 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201704article_1.html
赤根天満宮(長岡京市)
1.光明寺道から南、大峯山禊所、天神社鳥居へ。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/500055705.html
2.鳥居から北に歩み、覆い屋と社殿へ。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/500082490.html
埼玉県
さいたま市岩槻区本宿の「天神宮」「北野天満神社」
1.本宿の天神宮まで。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202110article_7.html
2.鳥居から拝殿、本殿。摂社、本殿。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202110article_8.html
3.「幟竿」と記念碑https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202110article_9.html
千葉県
葛飾天満宮(市川市) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201301article_4.html
白幡天神社(市川市)
1.https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201511article_1.html
2.https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201511article_2.html
3.https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201511article_3.html
市川市北方町4丁目の天神社 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201608article_2.html
意富比神社 末社天神社(船橋市) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201302article_10.html
船橋市東船橋の「天神社」 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201311article_1.html
下飯山満神明神社 摂社天神社(船橋市) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201503article_4.html
白井市河原子の天満宮 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201303article_5.html
子守神社 摂社天神社(千葉市花見川区)https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201605article_3.html
千葉神社 摂社千葉天神 と 鵜の森町の「神札」(千葉市中央区)
(上)https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201305article_2.html
(下)https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201305article_3.html
北總天満宮(千葉市中央区)https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201308article_1.html
新町天満宮(千葉市中央区)
【上】 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201703article_6.html
【下】 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201703article_7.html
大網白里市駒込の天満宮 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202012article_1.html
大網白里市大竹の天満宮 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202012article_2.html
平群天神社(南房総市 平久里中)
1.富楽里、道の駅おおつの里。平群天神社への道。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202101article_2.html
2.伊予ヶ岳・夫婦クスノキ・天神縁起絵巻・鳥居から拝殿へ。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202101article_3.html
3.天神社社殿、木製打上花火筒、朝日山神照寺、民俗資料館跡? https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202101article_4.html
岩井市部天満神社(南房総市市部)。拝殿・幣殿・本殿https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202101article_5.html
東京都
亀戸天神社(江東区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201301article_7.html
亀戸天神社 2回目 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201505article_1.html
湯島天神社(文京区)
上 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201602article_10.html
中 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201602article_11.html
下 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201602article_12.html
北野神社(文京区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201303article_2.html
平河天満宮(千代田区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201210article_3.html
西向天神社(新宿区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201502article_1.html
根津美術館 庭園内 渡唐天神祠(「飛梅祠」)(港区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201603article_3.html
若林天満宮・若林北野神社(世田谷区)https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201312article_5.html
平塚神社 摂社菅原神社〔平塚天神社〕(北区)https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201807article_10.html
谷保天満宮(国立市)
1.谷保駅から鳥居。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201903article_1.html
2.鳥居から坂を下り、拝殿・本殿と鶏https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201903article_2.html
3.五社、三郎殿、厳島神社、左右に2体ずついる狛犬、座牛 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201903article_3.html
4.神楽殿・筆塚https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201903article_4.html
5.梅林、稲荷社、第六天神社 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201903article_5.html
本町田 菅原神社(町田市本町田)
上 赤い鳥居・井手の澤の谷地・弁天社・御本社・牛の絵。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202102article_2.html
中 御本社・参集殿・神楽殿。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202102article_4.html
下 愛宕社・藤木稲荷・井手の澤古戦場碑。枝が垂れ下がる梅の木。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202102article_5.html
町田天満宮(町田市原町田)https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202102article_1.html
神奈川県
下平間天満天神社(川崎市幸区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202003article_14.html
幸区東古市場の天満天神社(川崎市幸区)と御幸公園
1.下平間交差点・古市場交差点を経て天満天神社https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202003article_15.html
2.二度の移転で現在地に来た天満天神社と入口脇の梅https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202003article_16.html
3.御幸公園。植樹された梅林。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202003article_17.html
三渓園天満宮(横浜市中区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201303article_8.html
岡村天満宮(横浜市磯子区)
1.蒔田駅付近から岡村天満宮前交差点 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202202article_5.html
2.鳥居から石段を登り「壁画」前まで。梅の花 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202202article_6.html
3.牛の像。梅の花。社殿。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202202article_7.html
4.拝殿・幣殿・本殿。本殿裏の梅、本殿東側の道。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202203article_1.html
5.神輿庫・神楽殿・幼稚園・幻の新社殿計画地。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202203article_2.html
6.白笹稲荷社・針塚 他 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202203article_3.html
7.岡村公園梅園 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202203article_4.html
永谷天満宮(横浜市港南区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201309article_1.html
荏柄天神社(鎌倉市) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201401article_7.html
北野神社(鎌倉市山崎)https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201504article_2.html
静岡県
(旧駿河地域)
富士市岩淵の天満天神宮 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202110article_6.html
(旧遠江地域)
谷崎天神社(静岡県周智郡森町)
1.遠州森町スマートインターチェンジから谷崎公民館。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202112article_1.html
2.鳥居・手水・牛の像・拝殿・幣殿・本殿。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202112article_2.html
3.拝殿内の牛の像。鷽、亀石。梅園。三末社https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202112article_3.html
4.天竜浜名湖鉄道「遠江一宮」駅https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202112article_4.html
深奥山 方広寺 七尊堂(浜松市北区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201707article_13.html
浜松市西区雄踏町宇布見 の 中村家住宅北側の天神社 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202104article_7.html
北野天満宮 の本殿の後ろ(北側)に 「十二社」と言われる長屋造りの祠があり、その右(東)に戸建の祠で老松社と地主神社があります。長屋造の祠は拝殿・本殿の西側にも「八社」があり、その南に 神明社・文子社があって、さらにその南に「四社」、さらにその南に「七社」があり、その南にも長屋造の祠の神さんはおられます。拝殿・本殿の西側には長屋造りの社殿があるのに対して東側にはないのはどうしてかわかりませんが、そうなっています。
今回は、本殿の北側の長屋造りの社殿「十二社」の中から、「怨霊神」の神さま などについてふれたいと思います。
↑ 本殿の後ろ側(北側)の「十二社」。
この写真を見て気づいたのですが、この祠の屋根は「流れ造り風」ですね。
現地には「◇◇社」という名称は書かれていても、祭神が誰なのかよくわからない社がありますが、『週刊日本の神社6 北野天満宮』( デアゴスティーニ)の「北野天満宮の摂社・末社」に摂社・末社の名称と祭神と「御神徳」が書かれているので、照らし合わせてみるとよくわかります。
日本の神社 6号 (北野天満宮) [分冊百科]
さて、菅原道真さん以外の怨霊神さんというと、京都では上御霊神社・下御霊神社が思い浮かびますね。
『週刊日本の神社6 北野天満宮』(2014.3.25.デアゴスティーニ)には「名社をめぐる」として、御霊(ごりょう)神社(上御霊〔ごりょう〕神社)が掲載されています。
《 優雅なイメージとは裏腹に、奈良・平安時代は災害や疫病が相次いだ。異変は政争で憤死した人々の祟りだとされ、事態を重く見た桓武天皇が、平安遷都と同時に悲業の御霊(みたま)を供養したのが御霊(ごりょう)神社の発祥。その第1号が、ここ上御霊(かみごりょう)神社である。
最初の祭神は桓武天皇の実弟・早良(さわら)親王。彼は長岡京の造営責任者・藤原種継(ふじわらたねつぐ)を暗殺したとされ、断食で無実を訴えるなかで没している。
依頼、悲業の死を遂げた人々が祭神に加えられ、貞観(じょうがん)5年(863)には6柱に。同年、怨霊を慰める祭事「御霊会(ごりょうえ)」が初めて平安京の神泉苑で営まれ、祭神にはこの6柱が当てられたという。さらに後年、火雷神(からいしん)と学者の吉備真備も合祀された。
現在では「八所御霊(はっしょごりょう)」と呼ばれる計8柱を静かに祀っている。》
《 御祭神 崇道(すどう)天皇(早良親王 さわらしんのう)、他戸(おさべ)親王、井上大皇后(いのうえおおひきさき)、藤原大夫人(ふじわらだいぶじん)(藤原吉子命 ふじわらのよしこのみこと)、文太夫(文屋宮田麿命 ふんやのみやたまろのみこと)、橘大夫(たちばなのたいぶ)(橘逸勢命 たちばなのはやなりのみこと)、火雷神、吉備大神(きびのおとど)(吉備真備命 きびのまきびのみこと)》
と書かれている。鉄道の駅では京都市地下鉄烏丸線「鞍馬口」駅からすぐらしい。
「御霊」とは「おんりょう」を「ごりょう」と読んだ? ・・かと思ったが「おんりょう」なら「怨霊」だから「霊」に敬語として「御」をつけたということか。
森谷尅久 他執筆・京都商工会議所編『改訂版 京都 観光文化検定 公式テキストブック』(2005.初版。 2007.8版。淡交社 )には、
《 上御霊神社(かみごりょうじんじゃ)(上京区上御霊堅町)
祭神は早良親王(崇道天皇)、井上(いのえ)内親王、他戸(おさべ)親王、藤原吉子(ふじわらのよしこ)、橘逸勢(たちばなのはやなり)、文屋宮田麿(ふんやのみやたまろ)、吉備真備をはじめ十三柱。 正しくは御霊神社。 平安遷都以前よりこの地に勢力をもった出雲氏の氏寺である上出雲寺の鎮守社であったとも伝えるが、式内大社の出雲井於(いずもいのへ)神社にあてる説もある。また、桓武天皇が平安遷都の時に早良親王らの怨霊を鎮めるために創祠したともされ、その後に御霊信仰が高まるにつれて広く信仰を集めた。境内はかつて御霊杜(ごりょうのもり)と呼ばれ、応仁の乱の戦端が開かれたところとしても知られる。社伝によると宝暦5年(1755)に賢所御殿(かしこどころごてん)を賜って、本殿とされたとい。社前で売る唐板(からいた)の煎餅には疫病除けのご利益があるとされ、明治維新まで皇は皇子が誕生するたびに当社へ参詣し、これを土産にしたという。》
と書かれている。 祭神の読み方は本によって微妙に違う。『週刊日本の神社6 北野天満宮』(2014.3.25.デアゴスティーニ)でが8柱と出ているが、森谷尅久 他執筆・京都商工会議所編『改訂版 京都 観光文化検定 公式テキストブック』(2005.初版。 2007.8版。淡交社 )では13柱と書かれている。はて、どちらが正しいのか。
京都府神社庁の上御霊神社 のホームページhttp://www.kyoto-jinjacho.or.jp/shrine/02/004/index.html を見ると、祭神は、
《 [本殿八座]
・崇道天皇(スドウテンノウ)
光仁天皇第二皇子
早良親王
・井上大皇后(イノエノオオヒキサキ)
聖武天皇第一皇女
光仁天皇ノ皇后
・他戸親王(オサベシンノウ)
光仁天皇第四皇子
・藤原大夫人(フジワラノタイフジン)
藤原吉子命
・橘大夫(タチバナノタイブ)
橘逸勢命
・文大夫(ブンノタイブ)
文屋宮田麿命
・火雷神(カライシン)
以上六所ノ荒魂
・吉備大臣(キビノオトト)
吉備真備命
[相殿五座]
三社明神(サンシャミョウジン)四座
和光明神(ワコウミョウジン)一座 》
と出ており、[相殿五座]三社明神四座・和光明神一座 を加えると13柱で、[本殿八座]では8柱 ということのようだ。
京都には下御霊神社もある。
《 下御霊(しもごりょう)神社(中京区寺町通丸太町下ル下御霊前町)
祭神は早良親王以下の八所御霊(はっしょごりょう)。相殿に霊元(れいげん)天皇。貞観5年(863)の神泉苑御霊会の祭神を下出雲路の地に祀った後、天正18年(1590)に豊臣秀吉が現在地に移転した。》
と書かれている。
新版 京都・観光文化検定試験公式テキストブック - , 森谷 尅久, 京都商工会議所
下御霊神社のホームページ https://shimogoryo.main.jp/ の「御祭神」
《 ◆ 本 殿 八 座 ◆
吉備聖霊きびのしょうりょう
吉備真備きびのまきびではなく六座の和魂にぎみたま
崇道天皇すどうてんのう
桓武天皇皇太弟 早良親王さわらしんのう
伊豫親王いよしんのう
桓武天皇皇子、贈一品
藤原大夫人ふじわらのだいふじん
伊豫親王御母、贈従二位藤原吉子命
藤 大 夫とうだいぶ
藤原廣嗣ふじわらのひろつぐ命
橘 大 夫きつだいぶ
贈従四位下橘逸勢たちばなのはやなり命
文 大 夫ぶんだいぶ
文屋宮田麻呂ぶんやのみやたまろ命
火雷天神からいのてんじん
菅原道真公ではなく六座の荒魂あらみたま
◆ 相 殿 一 座 ◆
天中柱皇神あめのなかはしらのすめがみ
霊元天皇。 》
と書かれており、微妙に上御霊神社と違う。
下御霊神社の方が上御霊神社より南にあり、鉄道の駅では京阪鴨東線「神宮丸太町」駅から西に行き、鴨川を丸太町橋で渡ってすぐの所にあるようです。 かつては上御霊神社も下御霊神社も鉄道の駅からは遠い場所にありましたが、京都市地下鉄烏丸線や京阪鴨東線が通って、どちらも行きやすくなりました。
これら、実在した人物で、御霊神社(上御霊神社)・下御霊神社の御祭神のうち、北野天満宮の本殿の後ろの「十二社」でも祀られている御祭神が何柱かおられる。それが、橘逸勢・藤大夫吉子(とうだゆう きっし)・文屋宮田麿(ふんやのみやたまろ)・藤原広嗣(ふじわらのひろつぐ)・伊予親王の5柱。それに御霊神社の祭神ではないらしいが吉備真備だ。
上御霊神社と下御霊神社で共通する祭神は、
早良親王(崇道天皇)
藤原吉子
橘逸勢
文屋宮田麿
の4柱。
上御霊神社のみ
井上内親王
他戸親王
の2柱。
下御霊神社のみ
伊予親王
藤原広嗣
の2柱で、
よくわからないのが吉備真備。 下御霊神社では「吉備聖霊(きびのしょうりょう)」が祀られているのですが、下御霊神社HP の「御祭神」https://shimogoryo.main.jp/%e5%be%a1%e7%a5%ad%e7%a5%9e/ には、
《 吉備真備との説がありますが真備公は大変成功された方であり御霊には当てはまりません。
当社では六座の御霊の和魂と解釈しております。》
と書かれており、実際、吉備真備はどういう人生を送ったかというと、《ウィキペディアー吉備真備》https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E5%82%99%E7%9C%9F%E5%82%99 など見ても、決して不遇な人生を送ったわけでも、恨みをのんで死んだわけでもなく、怨霊となるような立場ではないように思えます。
「火雷神」「火雷天神(からいのてんじん)」は、火雷天神⇒天神⇒菅原道真 かというと、下御霊神社HPの「御祭神」https://shimogoryo.main.jp/%e5%be%a1%e7%a5%ad%e7%a5%9e/ には《菅原道真公ではなく六座の荒魂(あらのみたま)》 《 よく菅原道真公と解釈されがちですが、道真公が天神として祀られるのは当社が鎮座された後になり時代が合いません。当社では六座の御霊の荒魂と解釈しております。》
「日本三大怨霊」と言われるのが、菅原道真・平将門・崇徳院ですが、菅原道真を祀る天神・天満・北野・菅原系神社は西日本の方が多いけれども全国にあり、「北野」とつく神社には京都の北野天満宮から勧請した神社が多く、「菅原」とつく神社は菅原氏の祖先を祀る神社である場合があり、「天神」は元は天候の神様だったものが菅原道真と融合した神社である場合があるようです。菅原道真は「西日本を中心として全国」であるのに対して、平将門は「東京を中心として関東」で菅原道真に比べると全国的ではない。崇徳院はというと、京都と香川県で菅原道真ほど全国的ではない。
この三大怨霊の方々は上御霊神社・下御霊神社とも祀られていないようですが、菅原道真は北野天満宮に来ているわけですから、ここで祀られているのは間違いないことで、平将門というと東京のJR「お茶の水」駅の北の湯島霊堂のその北にある神田明神と大手町の首塚ですね。 そして、崇徳院というと香川県の白峰神宮。京都市にも烏丸線「今出川」駅から北野天満宮へのバスの途中、堀川通りと今出川通りが交わる「堀川今出川」交差点の北西のあたりに京都の白峰神宮があるようですが、『歩く京都地図 京都散歩 2024』(2023.4.20.成美堂出版)に掲載されている京都の白峰神宮を見ると、その土地がかつて蹴鞠の宗家 飛鳥井家の屋敷があった所から摂社の精大明神が「サッカーの神さん」として祀られているという、そちらの方がとりあげられており、崇徳院からすれば不快感を覚えるものではないか、という感じがしています。
※ 白峰神宮(香川県)HP https://shiraminejingu.or.jp/
香川県神社庁 白峰宮 https://kagawakenjinjacho.or.jp/shrine/%e7%99%bd%e5%b3%b0%e5%ae%ae/
崇徳院(崇徳天皇・上皇)と崇道天皇(早良親王)とは名前が似ていることから混同しがちですが、早良親王の方が古い時代の人で、長岡京建設の際に藤原種継暗殺事件に関して皇太子を廃された人で、崇徳院(崇徳上皇)は保元の乱の敗者、鳥羽天皇の息子だったはずだが、鳥羽天皇は自分の子供ではなく祖父の子ではないかと疑っていたといい、それゆえ、崇徳天皇ではなく後白河天皇を後継にしようとして、源氏・平家がそれぞれについて保元の乱になったが、香川県に流されて「三大怨霊の一人」になった人。
《 藤原種継 ふじわらのたねつぐ 737~85 式家藤原宇合うまかい の孫。784年 造長岡宮使になり その造営にあたる。785年 監督中暗殺。暗殺事件に早良親王 さわらしんのう は皇太子を廃され、大伴継人や大伴・佐伯の旧族が処刑される。》
《 崇徳上皇 すとくじょうこう 1119~64 在位1123~41。父鳥羽法皇の長期院政のため、実権なく不満、父法王の死の直後、保元の乱に失敗して讃岐に配流。後白河天皇の兄。》
( 全国歴史教育協議会編『新版 日本史用語集』1966.第1版。1975.新版。 山川出版社)
崇道天皇(早良親王)と崇徳院(崇徳上皇)はまったく別人なのだが、名前が似ていることから間違える人がけっこうあるようで、内田康夫『崇徳伝説殺人事件』(1999ハルキ文庫。2004.角川文庫)でも、崇徳院を祀る白峰神宮と崇道天皇(早良親王)を祀る崇道神社 を間違えて、そこから・・という話が出ています。
崇徳伝説殺人事件 「浅見光彦」シリーズ (角川文庫) - 内田 康夫
崇道神社は『崇徳伝説殺人事件』でも、訪れる人はそれほどないと書かれており、『歩く地図 京都散歩 2024』(2023.成美堂出版)にも載ってないだろうなあ・・と思って調べたら・・・、ごく簡単にだけれども載ってたわ。
《 早良親王を祀る崇導神社。社殿へ続く参道で紅葉が見られる。》
と書かれている。叡山電鉄叡山線「三宅八幡」駅と「八瀬叡山口」駅との中間よりも「三宅八幡」駅に近い場所にあるようです。「サッカーの神様」になってしまった白峰神宮よりいいかもしれませんね。
※ ウィキペディアー崇道神社 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B4%87%E9%81%93%E7%A5%9E%E7%A4%BE#%E7%A5%AD%E7%A5%9E
歩く地図 京都散歩 2024 (SEIBIDO MOOK) - 成美堂出版編集部
北野天満宮の摂社末社には崇徳院や平将門は祀られていないようです。
森谷尅久 他執筆・京都商工会議所編『改訂版 京都 観光文化検定 公式テキストブック』(2005.初版。 2007.8版。淡交社 )には、
《 白峰神宮(しらみねじんぐう)(上京区今出川通堀川東入飛鳥井町)
祭神は崇徳天皇、淳仁天皇。慶應4年(1868)に明治天皇が讃岐の白峰から崇徳天皇の神霊を、のちには淡路の天王森(てんのうのもり)から淳仁天皇の神霊を皇室鎮護の神として当地に移して創建された。この地には蹴鞠・和歌の宗家である飛鳥井(あすかい)家の邸宅があり、末社の地主(じぬし)社に蹴鞠道の神である精大明神(せいだいみょうじん)を祀る。他の末社に伴緒社(とものおやしろ)があり、源為義・為朝を祭神とする。》と出ています。源為義・源為朝は保元の乱で崇徳院の側についた源氏、敗者の側の人ですね。
淳仁天皇は京都の白峰神宮だけでなく、香川県の白峰宮でも崇徳院とともに祀られているようですが、北野天満宮の本殿の後ろの「十二社」でも淳仁天皇者として祀られています。菅原道真・平将門・崇徳院や早良親王に比べると知名度・認知度は低い人ですが、どういう人なのかというと、
《 淳仁天皇 じゅんにんてんのう 733~65 在位758~64。藤原仲麻呂に擁されて即位。万年通宝など鋳造。仲麻呂の乱で廃され淡路に流される。淡路廃帝ともいう。》
( 全国歴史教育協議会編『新版 日本史用語集』1966.第1版。1975.新版。 山川出版社)
ウィキペディアー淳仁天皇https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B7%B3%E4%BB%81%E5%A4%A9%E7%9A%87#%E7%B3%BB%E5%9B%B3 によると《天武天皇の皇子・舎人親王の七男》らしいが井上清『日本の歴史 上』(岩波新書)によると、孝謙天皇から寵愛された藤原仲麿の親類でもあるらしい。孝謙天皇が称徳天皇として重祚する間の天皇のようですね。
「淡路の天王の森」とは、淡路島の兵庫県南あわじ市、昔からの馴染みの地名だと「福良」のあたりに淳仁天皇陵があるらしい。⇒淳仁天皇陵・当麻陵https://www.awajishima-kanko.jp/manual/detail.html?bid=36
さて、北野天満宮の末社の「十二社」を見ていきましょう。
( 写真はクリックすると大きくなります。)
右から3番目が橘逸勢社(たちばなのはやなりしゃ)。
橘逸勢(たちばなのはやなり)というと、何で有名かというと、空海(弘法大師)・嵯峨天皇とともにお習字がうまいということで「三筆」のひとりとされる人として有名ですね。菅原道真も空海(弘法大師)と小野道風とともに「書の三聖」と言われるらしいけれども、菅原道真の書は残っていないらしく、「学問の神様」だから、国語の先生なら習字だってうまいのじゃないかな・・というところか。
※ 筆塚 https://www.edu-tens.net/syoHP/enzaHP/tiiki/hudeduka.html
橘逸勢というと「三筆の一人」として有名だけれども、習字の先生というだけではない。
《 橘逸勢 たちばなのはやなり ?~842 伴健岑(とものこわみね)と共に承和の変を企て、藤原良房に罰せられて伊豆に流される。三筆の一人。》
《 伴健岑 とものこわみね 9C 橘逸勢とともに承和の変を企て、藤原良房により隠岐に流される。伴とは大伴氏のこと。》
《 承和の変 しょうわのへん 842年、藤原良房が皇太子 恒貞 つねさだ 親王派の伴健岑・橘逸勢らを謀反を企てたとして讃岐・伊豆に配流。皇太子は廃され、道康親王(良房の妹の子、のち文徳天皇)が皇太子となる。》
伴善男の応天門の変の少し前にも、この承和の変 があって、「伴」「大伴」の一族の伴 健岑とともに橘逸勢が流されていたようで、この「十二社」では「三筆」の人としてではなく、承和の変で藤原氏に流された人として橘逸勢が祀られているようです。
ー・-・-・-・-・-・-・-・-
橘逸勢は能筆家として有名だ。書の名人として空海・嵯峨天皇とともに、「三筆」の1人に数えられている。速成は西暦804年、空海らとともに遣唐使として中国の唐に渡っている。唐では書を学び、唐の人たちからは「秀才」と呼ばれ賞賛されていたようである。三筆と称され有名な速成だが、現存している書は非常に少ない。
・・・・・ 速成は唐からの帰国後、従五位に任ぜられ、西暦840年には但馬権守(たじまごんのかみ)に就任している。老いてからは静かに暮らしていたようだが、西暦842年に世を揺るがす政変が怒る。世に言う「承和の変(じょうわのへん)」である。
西暦842年、嵯峨上皇が亡くなった2日後に橘逸勢は伴健岑(とものこわみね)らとともに謀反の罪で捕縛される。いわゆる承和の変である。藤原北家の藤原良房が画策した疑獄事件との説が有力で、藤原氏による他紙排斥の始まりとされている事件だ。
速成はきつい拷問にあったが、罪を認めなかった。しかし、最終的に伊豆への配流が決まり、護送中に遠江国板筑(ほうづき)(静岡県浜松市)で没した。護送中、速成の娘が泣きながら父の後についてきたという。速成が亡くなると尼となって妙冲(みょうちゅう)と名乗り、父の遺体を背負って都へ帰ったと伝えられるが、現在でも浜松市には速成の墓が残されており、妙冲の庵跡に建てられたという橘神社がある。
こうして陰謀に巻き込まれ憤死した逸勢は、死後怨霊になった。『江談抄(ごうだんしょう)』や『古今著聞集』によれば、橘逸勢の書いた安嘉門の額の字が髪を逆さに生える童子が靴を履いている形に見え、その門の前を通る人が踏み伏せられることがあったので、誰かが密かにその額まで登ってその字を擦り消したという怨霊譚が伝えられている。また、橘逸勢の書いた額には霊が宿り、人に害をなしたといわれ、世の人々に恐れられていた。
西暦850年に、もとの官位より2階級上の正五位下の位を追贈されており、西暦863年に行われた怨霊鎮魂の儀式「御霊会(ごりょうえ)」で橘逸勢は早良親王らとともに御霊として祀られている。
( 智的発見!探検隊 編著『本当は怖い 日本の怨霊』2012。5.10.イースト・プレス)
本当は怖い日本の怨霊 - 知的発見!探検隊
ー・-・-・-・-・-・-・-・-
右から4番目が 藤大夫社 で、祀られているのは藤大夫吉子(とうだゆうきっし)。
橘逸勢は「三筆」のひとりとして有名人ですが、藤大夫吉子(とうだゆうきっし)とは誰なんだ・・というと、ウィキペディアー藤原吉子 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%90%89%E5%AD%90 には、
《 藤原 吉子(ふじわら の よしこ、ふじわら の きっし、? - 大同2年11月12日(ユリウス暦807年12月14日))は、奈良時代後期から平安時代初期にかけての桓武天皇の夫人。父は藤原南家藤原是公(これきみ)。伊予親王の母。母親は不明であるが、是公の妾で尚侍となった橘真都我が母親で彼女の縁で後宮に入ったとする説もある。》
《 783年(延暦2年)に伊予親王を生む。
807年(大同2年)藤原北家の出身である藤原宗成によって謀反の嫌疑がかけられ、伊予親王とともに川原寺(弘福寺)に幽閉されて飲食を絶たれた(伊予親王の変を参照)。母子は自害したが、その後、祟りを怖れた朝廷によって復位・贈位がなされた(819年に復位、839年に贈従二位)。上御霊神社や下御霊神社などに祀られ、藤原大夫人と尊称される。》
と出ている。 「伊予親王の変」は、ウィキペディアー伊予親王の変 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E4%BA%88%E8%A6%AA%E7%8E%8B%E3%81%AE%E5%A4%89 によると、
《 伊予親王の変(いよしんのうのへん)は、大同2年(807年)に起こった政変。藤原吉子・伊予親王母子が処罰され2人は自殺したが、後に無罪が認められた。》
《 桓武天皇の第三皇子である伊予親王は父桓武の生前深い寵愛を受けていた一方、外伯父(母吉子の兄)の藤原雄友は大納言として右大臣・藤原内麻呂に次ぐ台閣の次席の位置にあり、政治的にも有力な地位にあった。実際に、平城朝においても、大同元年(806年)から中務卿兼大宰帥を務めて、皇族の重鎮となっていた。兄の平城天皇とも良好な関係を保っており、大同2年(807年)5月には、神泉苑に行幸した平城天皇に対して献物を行い、終日宴会にも参加している。
ところが、同年10月に藤原宗成が伊予親王に謀反を勧めているという情報を藤原雄友が察知し、これを右大臣・藤原内麻呂に報告する。一方、伊予親王も宗成に唆された経緯を平城天皇に報告する。そこで朝廷が宗成を尋問した所、宗成は伊予親王こそ謀反の首謀者だと自白した。この自白を聞いた平城天皇は激怒し、左近衛中将・安倍兄雄と左兵衛督・巨勢野足に命じて、藤原吉子・伊予親王母子を捕縛し川原寺に幽閉した。二人は身の潔白を主張したが聞き入れられず、11月12日にそろって毒を飲んで心中したという。》
という事件だったらしい。 平城(へいぜい)天皇は桓武天皇の次、「三筆」のひとりの嵯峨天皇の前の天皇で、《桓武天皇の第一皇子。母は皇后の藤原乙牟漏。同母弟に嵯峨天皇》(ウィキペディアー平城天皇https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%9F%8E%E5%A4%A9%E7%9A%87 )で、伊予親王は兄の平城天皇と弟の嵯峨天皇とは母親が違ったらしい。ウィキペディアによると「へいせい」ではなく「へいぜい」と「せ」に濁点がつくらしい。
「藤原大夫人」は「尊称」らしく、「藤大夫」も「尊称」なのだろう。「吉子」を「きっし」と読むのか「よしこ」と読むのかもはっきりしないようだ。
菅原道真と対立した藤原時平は藤原氏でも北家で、菅原道真より前の時代においても、藤原氏の中でも藤原南家の是公(これきみ)の娘である藤原吉子とその息子の伊予親王が、藤原北家の藤原完成に伊予親王の変で退けられたということがあったようで、単に「学者の家の息子」だった菅原道真が母親が藤原氏ではない宇多天皇と組んだとしても、「藤原氏」に対抗できるのか・・と思ったが、私は菅原道真について書かれた本を何冊か読んだが、藤原氏でも北家以外の藤原氏には北家の支配に対して不満を持っていた者がいて、北家の藤原時平と対抗したのは「宇多天皇+菅原道真」だけだったわけでもなく、北家以外の藤原氏で「宇多天皇+菅原道真」の側についていた藤原氏もあった、もしくは北家の藤原時平に対抗する勢力の構成員だった藤原氏は存在したらしい。
藤原吉子(藤大夫)は上御霊神社と下御霊神社の両方で祀られているようだが、伊予親王は下御霊神社の祭神になっているが上御霊神社の祭神にはなっていないらしい。
北野天満宮の本殿の後ろの「十二社」では、右から10番目、左から3番目に、櫻葉社 があり、伊予親王が祀られている。
ー・-・-・-・-・-・-
伊予親王は桓武天皇の第3皇子として生まれた。母は藤原南家の藤原吉子である。吉子は皇后であった藤原式家の藤原乙漏(ふじわらのおとむろ)に次いで第2夫人の座にあった。伊予親王は皇后・乙牟漏の2人の皇子、安殿親王(あてのしんのう)(後の平城天皇)・神野親王(後の嵯峨天皇)に次ぐ有力な皇子であった。
伊予親王は父の桓武天皇に非常に愛されていたようだ。桓武天皇は狩の途中などに伊予親王の別荘にたびたび立ち寄っている。記録に残るだけでも10回近く訪れていたようで、桓武天皇が皇親の家宅にここまで足繁く立ち寄った例はなく、伊予親王への偏愛ぶりがうかがえる。この偏愛ぶりをほかの皇子がどのように見ていたのだろうか。西暦806年、安殿親王は即位し平城天皇になった。翌年、事態は急変する。
西暦807年、伊予親王を藤原宗成(ふじわらむねなり)(北家)が誘い謀反を企てていると右大臣 藤原内麻呂(北家)に告げた者がいた。藤原吉子の兄、つまり伊予親王の伯父にあたる藤原雄友(ふじわらのおとも)(南家)である。これにより宗成は捕縛され流罪、伊予親王・吉子母子も捕縛され、密告した雄友も捕縛され官位を奪われ流罪になった。
捕縛された伊予親王・吉子母子は川原寺(奈良県)に幽閉された。母子は飲食を絶ち、無罪を訴え続けたが、聞き入れられず、ついに毒を飲んで自殺する。世の人々はその死を悼んだという。
この事件には謎が多い。雄友などは結局流罪になっており、何のために密告したのかわからない上に、密告を受け上告した内麻呂も同族の宗成が流罪になっている。誰も得していないように見えるのだが、これは対立関係にあった藤原式家の藤原仲成(ふじわらのなかなり)・薬子(くすこ)兄妹の策略であったとする説が有力である。
平城天皇はこの後 病気を患い、伊予親王・吉子母子の死から2年後に弟に天皇位を譲り奈良に引きこもってしまう。さらに譲位された嵯峨天皇もすぐに体調を崩してしまう。これは母子の祟りであると世の人は噂し、嵯峨天皇もたびたび母子鎮魂の儀式を執り行っている。のちに母子の無罪は認められ、伊予親王も元の親王の号に復され、吉子も夫人の位に復されている。これにはやはり2人の祟りがあったからと記されている。
( 智的発見!探検隊 編著『本当は怖い 日本の怨霊』2012。5.10.イースト・プレス)
ー・-・-・-・-・-・-
「十二社」の右から5番目、藤大夫社の左隣は文太夫社(ぶんたゆうしゃ)↑ で、祭神は文屋宮田麿(ぶんやのみやたまろ)。
実際のところ、世間一般にはそれほど有名人ではなく、文屋宮田麿(ぶんやのみやたまろ)て誰なんだ・・・と思うのだが、ウィキペディアー文屋宮田麿 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E5%AE%A4%E5%AE%AE%E7%94%B0%E9%BA%BB%E5%91%82 によると、文屋宮田麿(ぶんやのみやたまろ)は「新聞屋(文屋)の宮田さんところのボンボン(麿)」・・ではなくて、
《 仁明朝の承和6年(839年)従五位上に叙せられ、翌承和7年(840年)4月に筑前守に任ぜられたが、承和8年(841年)正月までに官職を解かれた。
この間、承和7年12月(841年1月)に新羅人・張宝高が特産品の朝廷への献上を目的に使人を大宰府に派遣してきたが、他国の臣による安易な貢進は受け入れられないとして献上品の馬の鞍を返却するように朝廷から命じられている。この際、宮田麻呂は張宝高に絁を贈って唐の物産を得ようとしたとみられるが、同年11月の張宝高の死去により失敗した。そのため、承和8年(841年)に渡来した新羅の廻易使・李忠がもたらした貨物について、李忠は張宝高の使人であることを理由に、宮田麻呂が没収しようとする。しかし承和9年(842年)になって、宮田麻呂による貨物の没収が朝廷に発覚し、大宰府官人の手で貨物は李忠に返還させられた。
承和10年(843年)宮田麻呂は散位従五位上の官位にあったが、従者の陽侯氏雄から謀反を図っているとの告発を受けて、左衛門府に禁獄され、次いで、朝廷から勅使として派遣された、左中弁・良岑木蓮、右中弁・伴成益、少納言・清滝河根、左兵衛大尉・藤原直道らによって平安京と難波の邸宅から武器が押収される。参議・滋野貞主、左衛門佐・藤原岳雄による訊問の結果、宮田麻呂は謀反の罪を負って斬刑に当たるところ、位階を一等降された上で伊豆国への流罪となった。同様に子息の忠基(佐渡国)・安恒(土佐国)、従者の和邇部福長(越後国)・井於枚麿(出雲国)、僧侶・神叡(出雲国)も流罪となった。なお、陽侯氏雄は告発を賞されて、特別に大初位下・筑前権少目に叙任されている[。
この謀反に問われた事情は必ずしも明らかではないが、
承和9年(842年)に発生し同族の参議・文室秋津も連座した承和の変の影響とする説、
前述の新羅との貿易トラブルに関係するもの、さらには、
藤原北家が瀬戸内海交易活動の独占を図る中で、国際交易にまで活動範囲を広げていた宮田麻呂を脅威に感じて抹殺した事件とする説
もある。》
文屋宮田麿は上御霊神社・下御霊神社の両方で祀られている。
文太夫社の左隣、「十二社」の右から6番目、左から7番目が、淳仁天皇社 で、祭神は淳仁天皇。
淳仁天皇てどういう天皇だったか思い出せず、写真は撮り損なったが、女帝の孝謙天皇と孝謙天皇が重祚した称徳天皇との間の天皇で、藤原仲麿の親類で藤原仲麿から擁されて孝謙天皇から譲位されたが、道鏡の台頭とともに藤原仲麿が力を失い、藤原仲麻呂の乱で仲麻呂が廃死し、淳仁天皇は廃されて孝謙天皇が重祚して称徳天皇になった。
全国歴史教育研究協議会編『新版 日本史用語集』(1966.第1版。 1975.新版 山川出版社)には、
《 藤原仲麻呂(恵美押勝 えみのおしかつ) 706~64 光明皇后の信を得、紫微令(皇后宮長官)に任ず。淳仁天皇から恵美押勝の名を賜い、大師(太政大臣)となり全盛。養老律令の施行、唐式官名の採用を行う。》
《 藤原仲麻呂(恵美押勝)の乱 764年、太政大臣 藤原仲麻呂が孝謙天皇の寵臣 道鏡を除かんと乱を起こし近江で敗死した。》
と出ています。藤原仲麻呂(恵美押勝)は ウィキペディアー藤原仲麻呂 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E4%BB%B2%E9%BA%BB%E5%91%82 によると、《左大臣 藤原武智麻呂の次男》で、藤原武智麻呂は《藤原不比等の長男。藤原南家の祖。》(ウィキペディアー藤原武智麻呂 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E6%AD%A6%E6%99%BA%E9%BA%BB%E5%91%82 )らしい。
井上清『日本の歴史 上』(岩波新書)には、
《 756年には女帝 孝謙天皇にちょう愛せられた藤原仲麿が、橘諸兄を失脚させ、翌年、皇太子も自家の親類の王にとりかえた。これにたいして諸兄の子 奈良麿は、大仏造営に苦しむ人民の不満が社会をおおうているのを好機として、仲麿一派を倒し、天皇もとり代えようと、大規模な叛乱を準備したが、未然に逮捕されて死刑にされた。朝廷はこのさい、民心を得る必要を痛感し、畿内諸国の郡司・里長を集め、奈良麿の陰謀をつげ、彼らの忠誠をもとめた。朝廷が郡司・里長までも集めたのは、空前のことである。さらに雑徭は30日以内に半減し、本年の調庸は免除し、これまでの公私の出挙の利息も全免した。つまり、人民の抵抗は、権力者たちの勢力争いを通じて、負担の大はばな軽減をかちとったわけである。
やがて女帝の愛は、仲麿から、身元もよくわからない河内国出身の僧の道鏡にうつった。落ち目になった仲麿は、764年に叛乱をおこしたが、たちまち鎮定された。先に仲麿の希望により孝謙から位をゆずられていた淳仁(じゅんにん)天皇(仲麿の親類)も、廃位されて淡路島に流され、孝謙がふたたび皇位についた(称徳天皇)。その下で道鏡は太政大臣になり、「法王」になり、さらに宇佐神宮の神託をうけたと称して、女帝から皇位を譲りうけようとした。皇族外に皇位がうつることは、天皇を軸としてつくられている貴族の秩序の根本がゆらぐことであるので、さすがの貴族たちも、結束してこれに反対し、和気清麿を正式の使者として宇佐につかわし、皇位は皇族以外の者に譲ってはならないとの神託であったとして、道鏡を失脚させた(770年)。・・ 》
( 井上清『日本の歴史 上』1963.9.25.岩波新書)
日本の歴史 上 (岩波新書 青版 500) - 井上 清
俗な言い方をすると、藤原仲麿に擁されて天皇になったが、デカ〇ン道鏡が力を持つと退けられた・・・てこと・・か・・。孝謙天皇・称徳天皇は関裕二氏の本によると、藤原氏にがんじがらめにされる天皇なんか要らないという気持ちになって天皇家でない者である道鏡に天皇を譲ろうとした・・という説が述べられているが、『日本の歴史 上』では女帝の愛が藤原仲麿にあった時に仲麿の親類の淳仁天皇が天皇を譲られて即位したが、女帝の愛がデカ〇ン道鏡に移ったことから仲麿とともにその親類の淳仁天皇も退けられて女帝が再び称徳天皇として即位した・・てこと・・か。そうなのかな・・・。
井上清『日本の歴史 上』(岩波新書)は、女帝 孝謙天皇・称徳天皇の愛が藤原仲麻呂から道鏡に移り、その道鏡が力を持って女帝はわけのわからん男の道鏡の言いなりになって天皇にまでならせようとした・・ような書き方だが、関裕二氏は、孝謙天皇・称徳天皇は天武天皇の子孫である聖武天皇の娘で、天智天皇(中大兄)と結んで乙巳の変 (いっしのへん)で蘇我入鹿を暗殺した藤原鎌足の子孫の藤原氏にがんじがらめにされ支配された天皇の状態に幻滅し、天皇家の一族でない道鏡を天皇にすることで「藤原氏に支配される天皇」というものを消してしまおうと考えたのではないか。「藤原氏に支配される天皇」というものをこの世から消してしまおうと考えた改革者・冒険家だったのではないかという見方をしていたようだが、あり得る話であろう。
孝謙天皇・称徳天皇が道鏡を天皇にしようとして和気清麻呂らに阻止された事件の後、称徳天皇が死去した後には道鏡は下野国に流された・・というが、それだけではなくて、天武天皇の子孫の聖武天皇の娘であった称徳天皇の後、天皇になったのは光仁天皇から桓武天皇と天智天皇の子孫だった。天智と天武は兄弟だったとされ、天武が弟とされてきたが実際は天武の方が年上だったという説もあるらしく、天智が他界した後、天智天皇の息子の大友皇子が跡を継ぐということになり、叔父の天武はいったん退いたにもかかわらず、追討の軍を差し向けられ、ここまでの話なら先代の息子の方が有利そうなのだが、壬申の乱は決してそうではなくて、大友皇子からすれば叔父の天武の側が圧勝したわけだった。その後、天武の嫁で天智の娘のウノノササラ・持統天皇と持統の息子の草壁皇子の嫁の元明天皇をはさんで、天武の子孫の聖武天皇が即位し、聖武天皇の娘の孝謙天皇・称徳天皇が天皇になったが、称徳天皇の死後は、天武の娘の孝謙・称徳天皇や天武の子孫が天皇になることはなく、乙巳の変 (いっしのへん)で中臣鎌足(藤原鎌足)とともに蘇我入鹿を暗殺した中大兄(天智天皇)の子孫が天皇になっていくことになるわけだが、ひとりひとりがどうだったかにかかわらず、全体として見ると、道鏡の事件というのは「藤原氏に支配される天皇」を嫌い「藤原氏に支配される天皇」なら天皇家と関係のない道鏡を天皇にすることで事実上、天皇というものを廃止してしまうことも考えた「天武天皇の子孫」の孝謙・称徳天皇を退けて「天智天皇の子孫」を天皇にして藤原氏が支配する・・という構図が実現する過程だった・・と見ることができるのかもしれない。
--・-・-・-・-・-・-
大炊王(天皇になる前の淳仁天皇の名)は天武天皇の皇子・舎人親王の七男として誕生する。3歳で父が没したこともあって天皇の孫でありながら注目されることもなかった。天平宝字(てんぴょうほうじ)元年(西暦757年)に、聖武天皇の遺言で立太子した道祖王(どうそおう)に代わって、新女帝の孝謙天皇と藤原仲麻呂の強い推挙により、大炊王が立太子した。そして翌年、孝謙天皇より譲位を受けて淳仁天皇となった。しかし政治力のほとんどを藤原仲麻呂が持ち、その仲麻呂の後見人の光明皇后(光明子)が影響力を発揮していた。
その光明皇后が亡くなった。藤原仲麻呂の後ろ盾が失われたことになる。老練な政治家、吉備真備がこの好機を逃すはずがなかった。吉備真備の外交工作が密かに行われ、藤原仲麻呂が新羅出兵をすることとなったのである。
新羅出兵が近づいたとき、藤原仲麻呂は突如クーデターを起こす。天平宝字(てんぴょうほうじ)8年(西暦764年)9月11日、孝謙帝は退位して高野上皇になっていたが、行動を起こしたのだった。しかし、それを察知していた吉備真備の準備した軍勢との激戦の内に、高野上皇から藤原仲麻呂は逆臣として指弾されてしまう。
一転して藤原仲麻呂は反乱軍となった。この鮮やかなタイミングの駆け引きの裏には当然、吉備真備の周到な読みと準備があったのだろう。漢氏(あやし)、秦氏(はたし)ら渡来豪族の国際派は、みな高野上皇の側についた。藤原仲麻呂は、宇治から近江を通り、東国へ逃れようと琵琶湖へ出たが、遂に追い詰められ湖上で妻子4人と一味郎党34人が捕らえられ、湖畔で斬られることとなった。
もはや仲麻呂の率いる軍勢もなく、淳仁天皇は母と3,4人の家来を連れて逃れようとしたが捕まってしまう。そして天皇の位も剥奪され淡路流配の身となった。「淡路廃帝」と呼ばれた淳仁天皇は、「幽憤に勝(た)えず、垣根を越えて逃げたが、明日、印中に薨(みまか)りぬ」と記されている。天平神護元年(西暦765年)10月23日、没するのである。死因は不明で、暗殺の疑いも濃い。まだ33歳の若さだった。この幽憤はやがて怨霊と化して、長らく天皇家を悩ます存在になる。
市から1105年後、明治天皇が大炊王に淳仁天皇を追号し、47代天皇に復させたのだった。
( 智的発見!探検隊 編著『本当は怖い 日本の怨霊』2012。5.10.イースト・プレス)
ー・-・-・-・-・-・-
北野天満宮の本殿の後ろの「十二社」の左側、太宰少弐社(祭神:藤原広嗣)・櫻葉社(祭神:伊予親王)・吉備大神社(祭神:吉備真備)・崇道天皇社(祭神:崇道天皇〔早良親王〕)などについても述べたいと思うのですが、字数がけっこう多くなったので、次回https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/502356418.html にまわし、今回はここまでとします。
狭山裁判〈上〉 (1977年) - 野間 宏
狭山裁判〈下〉 (1976年) (岩波新書) - 野間 宏
狭山事件の真実 (岩波現代文庫) (岩波現代文庫 社会 202) - 鎌田 慧
狭山事件は1960年代前半、私が幼稚園に入園するより前、狭山は大阪府の大阪狭山市ではなく埼玉県狭山市にて、当時、高校生だった女性が殺された事件で、「石川青年」と当時は言われたが石川さんは私より年上だから今は青年ではないが、石川さんが犯人だとされて逮捕され起訴され有罪にされた事件だったが、部落解放同盟が「石川さんは無実だ」とアピールした・・というもので、私は何冊かの本を読みました。それらを読んだ限りでは、石川さんを犯人と考えるのは難しい・・だけでなく、石川さんを犯人ではないかと疑うことも難しいと思われました。
しかし、私が何冊かの本を読んだ上では石川さんはまず犯人ではないと思われるし、石川さんを犯人と考えることに無理があるというよりも、犯人ではないかと疑うことに無理があると思われるのだが、その一方で、1970年代後半のことだが、私が阪急電鉄に乗って高校から家に帰ろうとして自宅の最寄り駅で降りたところ、駅前で「石川さんは無実だ」というビラというのかチラシというのかを配っていた人があり、何気なしに受け取ったところ、「署名してください」と言って署名板をつきつけられ、「私はこの事件についてよく知らないのです。ですから、これ(受け取ったビラ・チラシ)をまず読ませてもらってどういうことなのか考えたいのです」と言ったところ、「それなら署名してください。あなたは石川さんが無実じゃないと言うのですか」と言うので、「そんなことは言ってませんが、私はどういう事件なのかよく知らないのです。知らない者が署名するのはおかしいでしょ。どういうことなのか、私はまず理解したいので、それからにさせてください」と言うと、「だから署名してくださいと言っているのにどうして署名しないんですか。署名しないということは、あなたは無実の石川さんを有罪にしたいということですか」と言うのです。「そんなことは言ってませんが、私はこの事件についてよく知らないので、とりあえず、これを読ませてもらって考えて、署名するかしないかはそれからにさせてもらいたいんです」と言って帰ろうとすると進行方向に立ち塞がって帰らせてくれないのです。困った人だなあと思い、何度も何度も説明したのでしたが、しかし、「署名しないということは、あなたは無実の石川さんを有罪にしたいということなんですか」と言って「そうでないなら、なんで署名しないんですか」と前に立ち塞がって帰らせてくれないのです。
その時は、私がこれだけきっちりと説明しているのに、どうしてこの人はわかってくれないのかと思ったのでしたが、後から考えてみると、あれが部落解放同盟のやり方だったのではないか。大阪市淀川区の「元部落」という地域の近くの人から聞いた話では、その地域では部落解放同盟は署名を求める際には、私が阪急の駅の駅前でされたくらいのものではなく、「ゴラア、署名せんかあ~あ」と言って強制的に署名させるという話でした。
1980年代、慶應大学の教養課程の日吉キャンパス内で、学部掲示板の前でレポート課題の内容について書き写そうとしていると、原理研究会(原理研)=国際勝共連合=国際統一神霊教会 の人が寄ってきて話しかけるのでしたが、慶應大学の学生で原理研究会(原理研)=国際勝共連合=国際統一神霊教会 の人間が誘うのがいかんと言う人がいましたが、私は別に話しかけても誘ってもかまわないじゃないか、誘われても行かない加入しないだけのことで、誘うのは別に誘ったっていいじゃないかと思っていたのでしたが、ところが、学部掲示板の前でレポート課題を書き写そうとしている者に、それを妨害しようとするように話しかけてくるのです。なんで、この人たちはこちらがレポート課題を書き写そうとするのを妨害するんだ、こちらは書き写した後で話を聞いてもいいと思っているのに、それなのにどうしてレポート課題を書き写すのを妨害するんだ・・・と思ったのでしたが、そうではなくて、彼ら原理研究会(原理研)=国際勝共連合=国際統一神霊教会 の人間は、レポート課題を書き写そうとしている者にそれを妨害すれば妨害している限り、その人間はそこから帰らないので勧誘できる、書き写させてしまえば帰ってしまうと考えて、意図的に書き写せないように妨害していたのでした。 困った人たち・・というよりも、どうも、それが原理研究会(原理研)=国際勝共連合=国際統一神霊教会のやり方だったみだいです。
それと同様に、1970年代後半、阪急の駅の改札口を出てすぐの所で、「石川さんは無実だ」と書かれたビラというのかチラシというのかを配っていた人は、私の方は「私はこれを読ませてもらって、それでどういうことだったのか考えたいのです。署名はその上でするかしないか決めたいと思います」ときっちりと説明しているのだから、「わかりました。よろしくお願いします」と言って引き下がるのが当然と私は思っていたのでしたが、そうではなく、ビラ・チラシを配っているように見せて受け取らせると、その前に立ち塞がって帰れないようにした上で署名を要求し、署名するまで帰らせないようにして署名を集める・・というのが、それが部落解放同盟のやり方だったみたいです。
私は狭山事件についての本を何冊か読んだ限りでは、石川さんを犯人と考えるのは無理があるだけでなく、石川さんを犯人ではないかと疑うことに無理があると思えましたが、しかし、そうであっても、あのような署名の求め方は良くないと思いますし、そういう署名の求め方をしている部落解放同盟という団体のあり方にも疑問を感じます。その時、私は根負けして署名してしまいましたが、あれは間違っていた。断っても断っても前に立ち塞がって署名するまで帰らせないようにする人に対しては、その内容がどうかにかかわらず署名するべきではなかった。それでも署名しないと帰らせないという態度をとるならば、駅員なり交番なりに助けを求めるべきだったと思います。「石川さんは無実だ」として部落解放同盟が集めた「署名」にはそうした本人の意思を無視して強制的に書かせた署名が含まれています。ああいうのはいいとは思えません・・が、どうも、部落解放同盟の人はそういうやり方をするのはその時だけではないのではないか。
そして、部落解放同盟の人は「石川青年は無実だ」というゼッケンを小学生につけさせて登校させていたとか、そういうこともあったようですが、その小学生は狭山事件について理解した上でそのゼッケンをつけていたのか? そこが問題です。狭山事件について書かれた本を何冊か読んだ限りでは石川さんはまず犯人ではないと思われるのですが、しかし、何冊かの本を読んで自ら考えた結果として、警察・検察・裁判所の石川さんに対しての態度はひどいと判断してゼッケンなり何なりつけてアピールするのならいいのですが、ゼッケンをつけさせられていた小学生というのは、大部分は狭山事件についてよく知らないでつけていたのではありませんか。そういう活動のあり方というのはいいとは言えないのではないか。
「何何さんは無実だ」という署名を集めるという行動についても疑問を感じるのです。もしも、署名が大量に集まったら、実際に犯人である人でも無実・無罪になるのですか? 署名が集まらなかったら無実・無罪の人でも有罪になるのですか? 石川さんの場合、部落解放同盟というけっこう大きな組織・団体が署名を集めましたから、それなりの数が集まったと考えられますが、もしも、ちっとも集まらなかったら無実の人でも有罪になってしまうのか? 署名でも集めようと考える人の気持ちもわからないこともないのですが、署名が集まらなくても無実・無罪のものは無実・無罪だし、署名がいっぱい集まっても、だから無実ということになるわけでもないはずなのです。私が石川さんの立場だったら、誰も署名なんて集めてくれないでしょう。そうなると無実でも有罪になるということなら、それはおかしい。
もうひとつ、これは私が読んだ本に書かれていたのですが、石川さんは無実であったとしても、それでもどこかに犯人はいたわけで、犯罪の性質から考えて、まったく関係のない遠方から犯人がやってきてその犯罪をおこなったのではなく、やはり、その地域か周辺にいた誰かがやった可能性が大きいと考えられるわけで、石川さんは知らなかったとしても石川さんとどこかで何らかの接点があった人が犯人グループの構成員にいたということは可能性としては絶対ないとまでは言えないし、犯人がその地域のどこかにいた可能性が大きいということを考えると、その犯人が「元部落出身」ではない人間の可能性もあるけれども「元部落出身」の人にいた可能性だって絶対ないわけではないわけです。ところが、部落解放同盟は石川さんのその事件の時の行動と供述から考えて石川さんは犯人ではないと訴えるのならいいのですが、そうではなくて、これは部落差別だと「元部落出身」の人を犯人ではないかと疑ったら「部落差別」だ、けしからん、疑うなら「元部落出身」でない人間を疑えと言うのであれば、それはおかしい。たとえ、そう言っているつもりはなかったとしても、現実に石川さんの事件を「部落差別」ととらえて活動するということは、犯罪があったら犯人は「元部落出身」でない者を疑えと事実上、圧力を加えているわけで、これも適切とは言い難いのではありませんか。
又、狭山事件で石川さんが犯人でないのに犯人だとされたのは部落差別によるものと部落解放同盟の人はアピールしていたようですが、しかし、警察・検察・裁判所が不適切な対応をとるのは別に「元部落」出身の人に対してだけではない。そうでない人間に対しても警察・検察・裁判所の対応は相当ひどい。
又、私は「人相が悪い」とか「怪しい格好をしている」とかいう人は疑われやすいが、そうでない人間は疑われにくいのではないかと10代の頃は思っていたのでしたが、それも違うみたいです。かつて、カンボジアのポルポト政権では「眼鏡をかけている」という人間は逮捕されたということがあったらしいが、なんで、「眼鏡をかけている」と逮捕されるのかというと、ポルポト政権は、
眼鏡をかけている⇒インテリである⇒反体制派でポルポト政権に対して批判的な人間だ ・・という論理というのか非論理というのかによるものだったと言われるようです。 日本の警察もこれと似たところがあるように思います。見た目がゴロツキ・不良・ワル・ヤンキー・暴走族みたいな人と比べれば自分は大丈夫だろう・・なんて思ってはだめ。そうではないのです。むしろ、警察官みたいなものになる人というのは、ゴロツキ・不良・ワル・ヤンキー・暴走族の仲間なのです。むしろ、そういう相手にはラポールを感じよるみたいで、逆に、警察官は知識人・インテリだと思うと反感もちよるみたいで、知識人・インテリ⇒反体制・過激派・「アカ」・警察の敵・・・とかパブロフの犬みたいに反応しよるみたいです。だから、いくらなんでもあんな人相の悪いいかにも怪しそうな人間よりは自分は警察から目をつけられないだろう・・なんて考えるのは甘すぎる。違います。そして、警察がインネンつけるのは「元部落」の人に対してだけではないし、警察官なんて「運動バカ」みたいな人間がなってる仕事だが、検察官・裁判官は一流大学を出て司法試験という法律についての難しい試験に通ってなっているインテリだからおかしなことはしないだろう・・なんて考えるなら、あまりにも甘い! なにより、私は高校生くらいの頃、「検事」と「検察官」は同じ意味だと思っていたのですが、実はそうではなくて検察官には「検事」と「副検事」があって、私は最初、「検事」は検察官の別名で「副検事」というのはそれぞれの検察庁で上から二番目の役職の人のことか・・と思ったのでしたが違います。そうではなくて、「検察官」には司法試験に通って検察官やっている「検事」と司法試験に通っていないのになじかは知らねど検察官やってる「副検事」がいて 〔⇒《YouTube-ローレライ (歌詞つき) 鮫島有美子 Die Loreley sung by Yumiko Samejima》https://www.youtube.com/watch?v=zbJy_EuY-mE 〕、「副検事」は「一流大学」なんて出ていませんし司法試験にも通ってません! いわば、国営裏口入学みたいのが「副検事」です。なんじゃそりぁあ~あ・・と思いますが、そういうのがけっこういるのです。検察官というのは旧帝大系国立大学とかそういう一流大学を出て一般的教養学識を身につけたインテリで司法試験という法律についての難しい試験に通った人なんだ・・という先入観を持って検察庁に行くと、「ええ~え、この人があ~あ」という「私は一流大学なんて天地がひっくり返っても出てません」と顔に書いてある人がいるのですが、検察庁には書記官・事務官もいますが、「私は一流大学なんて天地がひっくり返っても出てません」と顔に書いてあるやつ、ええ~え、こんな人が検察官なの~お・・てやつが「副検事」です。なんで、そんな国営裏口入学みたいなやつを認めてるんだ、おかしいじゃないか・・と思うのですが、バカのくせして態度ばっかりでかいのを司法試験にぎりぎりも通っていないのに、なんでそんなやつに「副検事」などというややこしい名称で「検察官」させているのかと思うのですが、現実にそういう国営裏口入学みたいなやつが検察庁にはいるのです。 裁判官も簡易裁判所の判事は「かんぱん」と言われ、裁判所の書記官を長くやった人が司法試験に通っていないにもかかわらずやっているらしく、司法試験に通って裁判官やっている人からは「かんぱん」と呼ばれてバカにされているとか聞きます・・が「副検事」の仲間かもしれませんね。警察官は高卒か私立五流大学卒の運動バカみたいのがなってるのだろうけれども検察官とか裁判官は一流大学を出た一般的な教養があるインテリで司法試験という法律についての難しい試験に通った人なのだからおかしなことしないだろうなんて期待しても、「副検事」や「かんぱん」は「一流大学」なんて出ていないし司法試験にも通ってません。イカサマちゃうんかい・・て感じがしますが、それが現実の日本の司法なのです。・・で、「副検事」ではない司法試験に合格してなっている「検事」、地方裁判所以上の司法試験に合格した人が裁判官やってる裁判所ならまともか・・と期待すると期待が裏切られることは十分考えられます。小学生の頃、「物は使えば減る。しかし、頭は使えば使うほど増える」と小学校の先生だったかうちの親だったかから教えられた記憶があるのですが、小学校の先生にはこういうことを言う人が多いように思いますし、実際、基礎的な学力がある人はそれより高度なものを学ぼうとする場合に学びやすいということはあると思いますが、裁判官とか弁護士についてはこれはあてはまらない。司法試験という難しい試験に通るために頭の大部分を使ってしまって、それ以外のものについては世間一般の人間よりはるかにアホと違うか、超ド級のアホと違うか・・・みたいな人がいるように思います。又、弁護士は依頼者と約束すると必ず約束の時刻に遅刻しますが、遅刻してきた者はとりあえず「すいません」と言うものではないのかと私は思うのですが、弁護士の辞書には「すいません」という言葉はないようで、かわりに「弁護士は忙しいですから」と言うのですが、忙しいから午後2時30分から打ち合わせはできないなら午後3時から打ち合わせとすれば良かったはずで、自分が午後2時30分からでお願いしますと言って決めておいて、その時刻に遅刻して「弁護士は忙しいですから」て、それは違うのではないか。遅刻してきた弁護士が「すいません」と言うことなく「弁護士は忙しいですから」などと言いますが、その言い方では依頼者は暇人みたいですが、依頼者だって暇じゃねえんだよお!!! 何よりも裁判所の法廷に遅刻してくる弁護士というのは、いったい何に忙しいのか?
そんなもので、狭山事件については、私は狭山事件について述べられた何冊かの本を読んだ限りでは、石川さんはまず犯人ではないと思われるし、石川さんを犯人ではないかと疑うことに無理があるという印象を受けていますが、しかし、他方で無理矢理署名を求めたり、狭山事件についてほとんど知らないであろうと思われる小学生にゼッケンつけさせたりといったことについては、これは石川さんが無実であったとしても、そういうやり方はこれは良くないと思っています。
又、「石川さんが元部落出身者だから犯人にされたんだ」といったことを部落解放同盟の人は言うようですが、警察・検察・裁判所がおかしいのは「元部落出身者」に対してだけではないし、又、石川さんは大変気の毒だったとは思いますが、石川さんは「元部落の出身者」だったことから部落解放同盟が石川さんを救えという活動をしてくれたのであり、「元部落の出身者」でなかったならば、そういう協力をしてくれる人・団体なんかなかなかありません。私だったら誰もそんな協力なんかしてくれませんよ。だから、狭山市のその地域においては「元部落出身者」に対して最初から疑いの目で見る人がいたといったことがあったのかもしれないけれども、他方で「元部落出身」の人だったから部落解放同盟が応援してくれた、そうでない者なら誰も応援してくれなかった・・ということも考えられると思います。
(2024.2.15.)
☆ 北野天満宮(京都市上京区)参拝3
1.烏丸線「今出川」駅より「千本今出川」交差点、浄土院、「上七軒」交差点。わかりにくい京都市地下鉄烏丸線の駅名。京都で下宿すると安いと曲解している連中。「女性社員の尻を『次はこういう撫で方したらどないでっか』と言いなさい」と言う父親は「いいお父さん」か? そういう父親を「ものすごいすばらしいお父さん」と称賛する高校教諭は「ええ先生」か? https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/502287883.html
2.「上七軒通」交差点より、ゼロホーム展示場。「アタマが浜松」的一条工務店東京展示場は厳しかった。北野天満宮大鳥居、影向松、伴氏社、鳥居から楼門。「伴」「大伴」氏が藤原に斥けられた後に菅原道真の件が。藤原色がいくらか薄い天皇は「反藤原」ではなく「いくらか非藤原」を目指したか。藤原氏傍流は藤原北家に常に加担していなかったか。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/502306592.html
3.楼門の延長には文子天満宮。三光門。太鼓橋と紅梅殿。秀頼による北野天満宮造営は豊臣の財力を消費させるためだったのか。「学業成就・合格祈願の神様」は「あとづけ」で冤罪を晴らす神・怨念を晴らす神が本来であろう。模擬試験の「判定」に「人事を尽くして天命を待て」という文言は余計。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/502321338.html
4.三光門。大宰府にたどりついた梅に対し摂津で力尽きた松。紅梅と白梅。「闘うきみの歌を闘わないやつが笑うだろう」の中島みゆき はいいとして、自分は人生・生活において犠牲になってないのに「犠牲の精神を教えたい」とぬかす川相は許せん。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/502330050.html
5.三光門から拝殿・幣殿・本殿・西回廊・東回廊。本殿の背後の御后三柱。拝殿前の梅と松。社殿の東面には思い入れ。「京のぶぶづけ」の話を「大阪の人間は」と言うアホ慶大生。「ぶぶづけでもどないだすう」と言われても帰らないであろうバカ慶大生。管理費は入居者を管理するための費用と考えていた日吉台学生ハイツの管理者。元自衛隊は「企業からの問い合わせ」に何言いよるやらわからん。自衛隊に武器を持たせて大丈夫か? 母と一緒に巡った京都の社寺と「とってちってたあ」にされた息子の末路。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/502336739.html
6.本殿後ろの「十二社」の橘逸勢社・藤太夫社・文太夫社・淳仁天皇社。崇徳院が白峰神宮で早良親王が崇道神社。上御霊神社・下御霊神社の祭神と「十二社」の祭神で共通する人が何人か。狭山事件に関して署名を求める人は強制はしないでもらいたい。〔今回〕
7.本殿後ろの「十二社」の太宰少弐社・櫻葉社・吉備大臣社・崇道天皇社。長屋と戸建の老松社。地主神社相殿の敦美親王・齊世親王・源英明。北門と西陣名技碑・松本伍作氏顕彰碑。自分がやったことを相手がやるだろうという思考を持つ場合はある。自分も黄色人種なのにアメリカ合衆国に行ってワスプになったつもりで「けったいなやつが多い」とか言うおっさん。「心理学」は怖い。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/502356418.html
8.平野神社(京都市北区平野宮本町)参拝ー中門・拝殿・本殿。平野通・西大路通。クスノキは舟に使え。「本当はもっと売れるのだけれど、わざと売らないようにしてるの」という営業は「本当にもっと」売ればいいじゃんhttps://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/502364358.html
9.わら天神(敷地神社)【上】鳥居から西進し北に曲がった正面に社殿。北山の神と穂穂手見命の母の木花佐久夜毘売。ブス建築は耐久性があると奇妙なことを教える営業本部長 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/502384324.html
10.わら天神・敷地神社【中】本殿、綾杉明神、大山祇神社。高耐久性ブス建築は魅力的か?「言い方にもよる」ということを理解できない一条浜松流本舗。勝ちは静岡県愛知県の者の勝ち・負けは東京都神奈川県の者の負けとしたがる一条オリジナル遠州人。木質系建築業の不良経営者を懲らしめる神・大山祇神 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/502460487.html
11.わら天神・敷地神社【下】
★ 冤罪を晴らす神さま・菅原道真・怨念を晴らすお百度参り
京都府
北野天満宮(京都市上京区)
1 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201302article_2.html
2 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201302article_3.html
3 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201302article_4.html
4 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201302article_5.html
5 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201302article_6.html
北野天満宮2
1.北野天満宮への経路。阪急西院ビルhttps://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202105article_4.html
2.阪急「嵐山」・京福「嵐山」から「北野白梅町」 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202105article_5.html
3.JR「円町」から京都市営バスで「北野天満宮前」 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202105article_6.html
4.大鳥居から楼門、三光門から御本社、文子天満宮 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202105article_7.html
5.東門、北門、地主社、伴氏社。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202105article_8.html
年中「緊急事態宣言」では緊急事態ではなく、それが普通になる。「緊急事態」「蔓延防止」とGoToトラベル・イートを交互に出したら、むしろ一時期に集中することになる。「不要不急の」という表現は戦中にも使われた表現。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202105article_9.html
就業時間中に松戸新田駅から40分もハイキングやる「銀行から来た総務のおっさん」と銀行から「融資」でなく「出資」を受けると会社はつぶれる例。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202105article_10.html
北野天満宮参拝3
1.烏丸線「今出川」駅より「千本今出川」交差点、浄土院、「上七軒」交差点。わかりにくい京都市地下鉄烏丸線の駅名。京都で下宿すると安いと曲解している連中。「女性社員の尻を『次はこういう撫で方したらどないでっか』と言いなさい」と言う父親は「いいお父さん」か? そういう父親を「ものすごいすばらしいお父さん」と称賛する高校教諭は「ええ先生」か? https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/502287883.html
2.「上七軒通」交差点より、ゼロホーム展示場。「アタマが浜松」的一条工務店東京展示場は厳しかった。北野天満宮大鳥居、影向松、伴氏社、鳥居から楼門。「伴」「大伴」氏が藤原に斥けられた後に菅原道真の件が。藤原色がいくらか薄い天皇は「反藤原」ではなく「いくらか非藤原」を目指したか。藤原氏傍流は藤原北家に常に加担していなかったか。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/502306592.html
3.楼門の延長には文子天満宮。三光門。太鼓橋と紅梅殿。秀頼による北野天満宮造営は豊臣の財力を消費させるためだったのか。「学業成就・合格祈願の神様」は「あとづけ」で冤罪を晴らす神・怨念を晴らす神が本来であろう。模擬試験の「判定」に「人事を尽くして天命を待て」という文言は余計。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/502321338.html
4.三光門。大宰府にたどりついた梅に対し摂津で力尽きた松。紅梅と白梅。「闘うきみの歌を闘わないやつが笑うだろう」の中島みゆき はいいとして、自分は人生・生活において犠牲になってないのに「犠牲の精神を教えたい」とぬかす川相は許せん。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/502330050.html
5.三光門から拝殿・幣殿・本殿・西回廊・東回廊。本殿の背後の御后三柱。拝殿前の梅と松。社殿の東面には思い入れ。「京のぶぶづけ」の話を「大阪の人間は」と言うアホ慶大生。「ぶぶづけでもどないだすう」と言われても帰らないであろうバカ慶大生。管理費は入居者を管理するための費用と考えていた日吉台学生ハイツの管理者。元自衛隊は「企業からの問い合わせ」に何言いよるやらわからん。自衛隊に武器を持たせて大丈夫か? 母と一緒に巡った京都の社寺と「とってちってたあ」にされた息子の末路。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/502336739.html
6.本殿後ろの「十二社」の橘逸勢社・藤太夫社・文太夫社・淳仁天皇社。崇徳院が白峰神宮で早良親王が崇道神社。上御霊神社・下御霊神社の祭神と「十二社」の祭神で共通する人が何人か。狭山事件に関して署名を求める人は強制はしないでもらいたい。〔今回〕
7.本殿後ろの「十二社」の太宰少弐社・櫻葉社・吉備大臣社・崇道天皇社。長屋と戸建の老松社。地主神社相殿の敦美親王・齊世親王・源英明。北門と西陣名技碑・松本伍作氏顕彰碑。自分がやったことを相手がやるだろうという思考を持つ場合はある。自分も黄色人種なのにアメリカ合衆国に行ってワスプになったつもりで「けったいなやつが多い」とか言うおっさん。「心理学」は怖い。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/502356418.html
8.平野神社(京都市北区平野宮本町)参拝ー中門・拝殿・本殿。平野通・西大路通。クスノキは舟に使え。「本当はもっと売れるのだけれど、わざと売らないようにしてるの」という営業は「本当にもっと」売ればいいじゃんhttps://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/502364358.html
9.わら天神(敷地神社)【上】鳥居から西進し北に曲がった正面に社殿。北山の神と穂穂手見命の母の木花佐久夜毘売。ブス建築は耐久性があると奇妙なことを教える営業本部長 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/502384324.html
10.わら天神・敷地神社【中】本殿、綾杉明神、大山祇神社。高耐久性ブス建築は魅力的か?「言い方にもよる」ということを理解できない一条浜松流本舗。勝ちは静岡県愛知県の者の勝ち・負けは東京都神奈川県の者の負けとしたがる一条オリジナル遠州人。木質系建築業の不良経営者を懲らしめる神・大山祇神 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/502460487.html
11.わら天神・敷地神社【下】六勝神社・八幡社。他社と他社従業員との労働契約に不当な口出し介入する現 三菱UFJリサーチ&コンサルティング。後進国の外資系企業 (株)一条工務店。父親がある人間は「父親がいなかった」娘より得しているとは限らない、ということも理解できないアホ高校教諭。無駄になった京都の街を歩いた子供の頃の経験https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/502436497.html
高台寺天満宮(京都市東山区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201511article_7.html
曼殊院天満宮(京都市上京区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201608article_4.html
長岡天満宮(長岡京市)
1.八条ヶ池 他 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201703article_10.html
2.拝殿・祝詞舎・本殿・手水舎他 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201703article_11.html
3.春日社八幡宮社・紅梅殿・白梅殿・社務所(連歌所) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201703article_12.html
4.梅園、長岡稲荷、錦景園 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201704article_1.html
赤根天満宮(長岡京市)
1.光明寺道から南、大峯山禊所、天神社鳥居へ。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/500055705.html
2.鳥居から北に歩み、覆い屋と社殿へ。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/500082490.html
埼玉県
さいたま市岩槻区本宿の「天神宮」「北野天満神社」
1.本宿の天神宮まで。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202110article_7.html
2.鳥居から拝殿、本殿。摂社、本殿。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202110article_8.html
3.「幟竿」と記念碑https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202110article_9.html
千葉県
葛飾天満宮(市川市) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201301article_4.html
白幡天神社(市川市)
1.https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201511article_1.html
2.https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201511article_2.html
3.https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201511article_3.html
市川市北方町4丁目の天神社 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201608article_2.html
意富比神社 末社天神社(船橋市) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201302article_10.html
船橋市東船橋の「天神社」 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201311article_1.html
下飯山満神明神社 摂社天神社(船橋市) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201503article_4.html
白井市河原子の天満宮 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201303article_5.html
子守神社 摂社天神社(千葉市花見川区)https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201605article_3.html
千葉神社 摂社千葉天神 と 鵜の森町の「神札」(千葉市中央区)
(上)https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201305article_2.html
(下)https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201305article_3.html
北總天満宮(千葉市中央区)https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201308article_1.html
新町天満宮(千葉市中央区)
【上】 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201703article_6.html
【下】 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201703article_7.html
大網白里市駒込の天満宮 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202012article_1.html
大網白里市大竹の天満宮 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202012article_2.html
平群天神社(南房総市 平久里中)
1.富楽里、道の駅おおつの里。平群天神社への道。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202101article_2.html
2.伊予ヶ岳・夫婦クスノキ・天神縁起絵巻・鳥居から拝殿へ。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202101article_3.html
3.天神社社殿、木製打上花火筒、朝日山神照寺、民俗資料館跡? https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202101article_4.html
岩井市部天満神社(南房総市市部)。拝殿・幣殿・本殿https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202101article_5.html
東京都
亀戸天神社(江東区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201301article_7.html
亀戸天神社 2回目 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201505article_1.html
湯島天神社(文京区)
上 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201602article_10.html
中 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201602article_11.html
下 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201602article_12.html
北野神社(文京区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201303article_2.html
平河天満宮(千代田区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201210article_3.html
西向天神社(新宿区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201502article_1.html
根津美術館 庭園内 渡唐天神祠(「飛梅祠」)(港区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201603article_3.html
若林天満宮・若林北野神社(世田谷区)https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201312article_5.html
平塚神社 摂社菅原神社〔平塚天神社〕(北区)https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201807article_10.html
谷保天満宮(国立市)
1.谷保駅から鳥居。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201903article_1.html
2.鳥居から坂を下り、拝殿・本殿と鶏https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201903article_2.html
3.五社、三郎殿、厳島神社、左右に2体ずついる狛犬、座牛 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201903article_3.html
4.神楽殿・筆塚https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201903article_4.html
5.梅林、稲荷社、第六天神社 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201903article_5.html
本町田 菅原神社(町田市本町田)
上 赤い鳥居・井手の澤の谷地・弁天社・御本社・牛の絵。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202102article_2.html
中 御本社・参集殿・神楽殿。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202102article_4.html
下 愛宕社・藤木稲荷・井手の澤古戦場碑。枝が垂れ下がる梅の木。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202102article_5.html
町田天満宮(町田市原町田)https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202102article_1.html
神奈川県
下平間天満天神社(川崎市幸区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202003article_14.html
幸区東古市場の天満天神社(川崎市幸区)と御幸公園
1.下平間交差点・古市場交差点を経て天満天神社https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202003article_15.html
2.二度の移転で現在地に来た天満天神社と入口脇の梅https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202003article_16.html
3.御幸公園。植樹された梅林。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202003article_17.html
三渓園天満宮(横浜市中区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201303article_8.html
岡村天満宮(横浜市磯子区)
1.蒔田駅付近から岡村天満宮前交差点 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202202article_5.html
2.鳥居から石段を登り「壁画」前まで。梅の花 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202202article_6.html
3.牛の像。梅の花。社殿。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202202article_7.html
4.拝殿・幣殿・本殿。本殿裏の梅、本殿東側の道。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202203article_1.html
5.神輿庫・神楽殿・幼稚園・幻の新社殿計画地。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202203article_2.html
6.白笹稲荷社・針塚 他 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202203article_3.html
7.岡村公園梅園 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202203article_4.html
永谷天満宮(横浜市港南区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201309article_1.html
荏柄天神社(鎌倉市) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201401article_7.html
北野神社(鎌倉市山崎)https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201504article_2.html
静岡県
(旧駿河地域)
富士市岩淵の天満天神宮 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202110article_6.html
(旧遠江地域)
谷崎天神社(静岡県周智郡森町)
1.遠州森町スマートインターチェンジから谷崎公民館。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202112article_1.html
2.鳥居・手水・牛の像・拝殿・幣殿・本殿。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202112article_2.html
3.拝殿内の牛の像。鷽、亀石。梅園。三末社https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202112article_3.html
4.天竜浜名湖鉄道「遠江一宮」駅https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202112article_4.html
深奥山 方広寺 七尊堂(浜松市北区) https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201707article_13.html
浜松市西区雄踏町宇布見 の 中村家住宅北側の天神社 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202104article_7.html
この記事へのコメント