「わら天神」敷地神社(京都市北区)【上】鳥居から西進し北に曲がった正面に社殿。北山の神と穂穂手見命の母の木花佐久夜毘売。ブス建築は耐久性があると奇妙なことを教える営業本部長ー北野天満宮3【9/11】
[第2040回]
平野神社の裏手(西側)の南北の西大路通りを北に歩くと、東西の蘆山寺通りという通りとの信号がある交差点があって「わら天神」交差点と言うらしい。その北西に「神社の杜」が見えますが、それが「わら天神」らしい。↓
↑ 「わら天神」という名前からすると、祭神は菅原道真かと思いそうになるが、祭神はコノハナサクヤヒメで菅原道真ではなく、「わら天神」は通称で本名は敷地神社と言うらしい。
↑ 「わら天神」(敷地神社)鳥居。
鳥居の額には「わら天神宮」と書かれています。
カメラに慣れていないので、帰って見て見ると写りが良くない場合があるようですが、ご容赦いただきたい。
森谷克久 監修 京都商工会議所編『改訂版 京都・観光文化検定 公式テキストブック』(2005.4.6.淡交社)には、
《 わら天神(北区衣笠天神森町)
祭神は木華咲耶姫尊(このはなさくやひめのみこと)。 正しくは敷地神社。創祀時期は不詳。天長5年(828)に淳和(じゅんな)天皇が当社に勅使を遣わして止雨を祈願したと伝える。かつては北山の神と呼ばれて北山天神の丘にあったが、足利義満の北山殿造営の時にこの地に移転したと伝える。安産の神として有名で、藁の護符が授けられ、その藁に節があれば男の子、なければ女の子が生まれるという。「わら天神」の名はこの信仰にちなんでいる。》
と出ている。
《 天長5年(828)に淳和(じゅんな)天皇が当社に勅使を遣わして止雨を祈願したと伝える》というところから「天神」で、《安産の神として有名で、藁の護符が授けられ》るというところから「わら」なのでしょう。
新版 京都・観光文化検定試験公式テキストブック - , 森谷 尅久, 京都商工会議所
『歩く地図 京都散歩 2024』(2023.4.20.成美堂出版)には、
《 安産・小授けの社として知られる
わら天神宮 わらてんじんぐう
正しくは敷地神社といい、平安の初めには すでにあった社を、金閣寺の造営に伴い現在の地に移したと伝わる。 木花開耶姫命をまつり、安産・小授けのご利益で名高い。》
《 わら天神の通称は、授与される藁の安産のお守りから付いた。》
と書かれている。
歩く地図 京都散歩 2024
※ わら天神(敷地神社)HP http://waratenjin.com/
ウィキペディアーわら天神 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%B7%E5%9C%B0%E7%A5%9E%E7%A4%BE
鳥居をくぐると西に直進します。↓
西に直進した後、右に曲がり北に進むようになっている。
↑ 北を向くと鳥居があり、鳥居の額には「天神宮」と書かれています。
この鳥居をくぐって右側に社務所と授与所がありますが、直進した所にも祠がありますが、その左側の祠が「わら天神」(敷地神社)の御本社のようです。
↑ 手水舎です。コロナウイルスの問題以降、手水舎で水が出る寺社と手水舎はあっても水は出ない寺社がありますが、ここは出ているようです。
↑ 鳥居をくぐって北に直進した所にも祠がありますが、その左、中央部に配置される祠が一番大きく、わら天神(敷地神社)の御本社でコノハナサクヤヒメが祭神。
その右側、鳥居をくぐって北に直進した位置におられるのは、六勝神社と八幡神社で、その左の一番大きな社が「わら天神」(敷地神社)の御本社で祭神は「木花開耶姫命(このはなのさくやひめのみこと)」。もっとも、この神社が最初にこれより少し北に設けられた時は「京都の北山の神」を祀る神社で、その後、加賀国から移住した人が故郷の菅生石部神社(すごういそべじんじゃ)の「分室を勧請」して祭神の《菅生石部神(日子穂穂出見命・豊玉毘賣命・鵜葺草葺不含命)》の「穂穂出見(ほほでみ)のみこと」の『古事記』によると母親という木花開耶姫命(コノハナサクヤヒメ)を祀り、「わら天神」は通称で、後に菅生石部神社がある場所の地名で菅生石部神社の「通称」らしい「敷地神社」をこの神社の名称にしたということなので、「木花開耶姫命(このはなのさくやひめのみこと)」が祭神であっても、「京都の北山の神」を祀る神社でもあるのでしょう。その後本社の左(西)に木花開耶姫命(このはなのさくやひめのみこと)の父親という大山祇の神を祀る大山祇神社と綾杉明神。
御本社に最初に参拝するのが本来でしょうから、中央の「わら天神」(敷地神社)御本社に行きます。
↑ 「わら天神宮」と書かれた額がかかっています。
《 わら天神宮(敷地神社)
御祭神 木花開耶姫命(このはなのさくやひめのみこと)
御神徳 安産、子授け、縁結び、こどもの成長守護
わら天神宮の正式名称は敷地神社といい、その起源は北山の神という山を神格化した存在でした。 天長5(828)年の大雨、大地震の際、時の淳和天皇が北山の神に幣帛を奉られた旨が「類聚国史(るいじゅこくし)」に記載されており、その創建は平安時代以前と推定されます。
天長8(831)年、この地に氷室が設けられることとなり、加賀国の人々が夫役として指定されました。彼らは移住にあたり崇敬していた菅生石部神社(すごういそべじんじゃ)の分室を勧請し、その御母、木花開耶姫命を御祭神として北山の神とともに祀り、代々崇敬してきました。
応永4(1397)年、足利三代将軍義満による北山第(後の鹿苑寺(金閣寺))の造営にあたり参拝に不便となったことから、両者を合祀して現在地へ遷座、社号を菅生石部神社の通称である敷地神社としました。 その後は応仁の乱などで一時荒廃しましたが、仮社殿を設けて御神徳を受け継ぎ、弘化4(1847)年の大補修、昭和10(1935)年の改修をを経て現在に至ります。
現在地へ遷座後、当社は「天神宮」と称していました。また、古来より稲わらで編んだ神饌を入れて神様に捧げており、やがて抜け落ちたわらを、安産を願う妊婦さんが持ち帰るようになりました。 後にそのわらを切り取り、安産の御守として妊婦さんに授与するようになったのです。そのわらの御守の珍しさから「わら天神宮」の名称が広まり定着しました。》
と説明書きが出ていました。
菅生磯部神社 は石川県加賀市大聖寺敷地ル乙81 にあり、「(JR北陸本線の)加賀温泉駅よりタクシーで5分」(菅生磯部神社HP「アクセス」http://tenjin.or.tv/access/access.htm )という場所にあるらしい。祭神は《菅生石部神(日子穂穂出見命・豊玉毘賣命・鵜葺草葺不含命)》らしい。
※ 菅生磯部(すごういそべ)神社HPhttp://tenjin.or.tv/
ウィキペディアー菅生磯部神社 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%85%E7%94%9F%E7%9F%B3%E9%83%A8%E7%A5%9E%E7%A4%BE
元々のルーツは2つあって、京都の北山の神で主として天候の神であったものと、石川県からこの地域にやってきた人たちが故郷の菅生石部神社 の「分室を勧請」したというものらしい。今現在、菅生磯部神社の祭神は《菅生石部神(日子穂穂出見命・豊玉毘賣命・鵜葺草葺不含命)》らしいが、木花開耶姫(このはなさくやひめ)命とどう関係あるのかというと、『古事記』(倉野憲司校注 岩波文庫)を読むと、天津日高日子番能(あまつひこひこほの) 邇邇芸能命(ににぎのみこと)が、「麗しき美人(うるわしきをとめ)」と出会い、それが大山津見(おおやまつみの)神の娘で「木花の佐久夜毘売(このはなのさくやひめ)」で、邇邇芸能命(ににぎのみこと)と木花の佐久夜毘売(このはなのさくやひめ)との間に産まれた子供が、火照(ほでりの)命・火須勢理(ほすせりの)命、それに火遠理(ほをりの)命、亦の名は天津日高日子(あまつひこひこ)穂穂手見(ほほでみの)命 だそうで、菅生石部神社の祭神の《菅生石部神(日子穂穂出見命・豊玉毘賣命・鵜葺草葺不含命)》の「日子穂穂出見命」の母親が「木花の佐久夜毘売(このはなのさくやひめ)」ということから、「木花の佐久夜毘売(このはなのさくやひめ)」が「わら天神」(敷地神社)の祭神になったらしい。菅生石部神社の住所は石川県加賀市大聖寺町敷地ル乙81 であることから、この京都市北区の神社の名前が「敷地神社」になったらしい。
古事記 (岩波文庫 黄 1-1) - 倉野 憲司
足利義満が北山第(後の鹿苑寺)を造営するにあたって、現在地へ移り、「天神宮」と称したらしい。稲藁で編んだ神饌を神に捧げていたが、抜け落ちた藁を安産を願う妊婦が持ち帰るようになり、安産の御守りとして藁の御守りが授けられるようになった・・というあたりから「わら天神」と言われる・・ということか。
「わら」は稲藁で編んだ神饌を神に捧げていたが、抜け落ちた藁を安産を願う妊婦が持ち帰るようになり、安産の御守りとして藁の御守りが授けられるようになったというところかららしく、「天神」は元々、「北山の神」で天候について願う神だったところからのようで、北野天満宮の近くにあるが菅原道真とは関係ないらしく、最初に北山の神として祀られるようになったのは北野天満宮が設けられるよりも先だったようだ。
『古事記』に登場する「木花の佐久夜毘売(このはなのさくやひめ)」というと、美人の神さんということになっており、女性2人の姉妹で姉の方が””ブスの神さん”” として登場する石長比売(いはながひめ)が姉で、なんか、お姉ちゃん、かわいそう・・という話になっているが『古事記』というのは、そんな話が時々ある。
1990年代、(株)一条工務店https://www.ichijo.co.jp/ は「耐久性」を「売り」にしていたのだが、1993年、千葉県松戸市の展示場で、新人の営業が来場客を接客したところ、どこそこのデザインがいいと言われたといった話を展示場の事務所でしたところ、営業本部長で松戸営業所長を兼任していた天野隆夫が「デザインがいい・・ということは耐久性がないということだ。その点、うちは耐久性があるんだ」などと言うので、な~んか、変なこと教えとるなあ・・と思ったことがあった。「美人・・てことは耐久性がないてことだ。結婚するにしても美人だけれども体が弱くて美人薄明な人は困りますよね。その点、うちの娘は耐久性がある。なんと言っても、スーパー高耐久性ブス! もう、ブスもブスもブス、ブス、ブスですからね。結婚するなら美人薄明の人ではなくて、スーパー高耐久性ブスに限りますよね」・・なんて言われて、「そうだな♪ 結婚するならブスが一番だな」なんて、思うかあ~あ? ・・・と思ったものだったが、(株)一条工務店の営業本部長の天野隆夫は、時々、そういうことを言う男だった。実際、これから家を建てようという人が「スーパー高耐久性ブス」を勧められたとして、「そうだ、そうだ。家を建てるなら何と言ってもスーパー高耐久性ブスに限る♪」なんて、そんなこと思うかあ~あ?
こういうことを言うと、(株)一条工務店では営業本部長の天野隆夫から「エスバイエルに行け」と言われるのだった。ここではエスバイエル(株)〔その後、つぶれて、ヤマダ電機に「いぬき」で買い取られて、(株)ヤマダエスバイエルホームになり、さらに、同様にヤマダ電機に買い取られた「リフォームのナカヤマ」とともに(株)ヤマダホームズ になった〕 エスバイエル(株)がここでどう関係あるのかわからんが、その時、新人の営業の某くんが来場客からどこそこのデザインがいいと思ったと言われた「どこそこ」はエスバイエル(株)ではなくそれ以外のハウスメーカーだったし。それなのに天野隆夫という人はそういうことを言うのです。変わった人ですね( 一一) (株)一条工務店という会社では「家を建てるならスーパー高耐久性ブスに限りますよ。その点、うちの娘はもう、ブスもブスもブス、ブス、ブス、スーパー高耐久性ブスですからねえ」みたいなセールストーク(?)を言わなきゃおれないシンドローム の人がいたのですが、そういう「ほとんどビョーキ」の人には逆らわない方がいいみたいだった・・( 一一)
「世界的建築家」「有名建築家」とか称する人が設計した建物には、構造よりもデザインを重視したようなものがあるでしょうけれども、しかし、建築というものは本来は構造とデザインと使い勝手(機能)と経済性の4つを兼ね備えてこそ、それらをすべて満たしてこそ優秀な建築であり、又、ビル建築などでは「意匠設計」「構造設計」「設備設計」と分かれて、「意匠設計」を担当する人を「建築家」・「構造設計」を担当する人を「構造設計家」・「設備設計」を担当する人を「設備設計家」と呼び、「意匠設計」担当の「建築家」が全体を調整する場合が多いらしいが、その場合、「意匠設計」担当の「建築家」がこういうデザインのものにしたいと主張したものを構造上問題なく作るにはどのように作ればいいかは「構造設計家」が考えるようだが、はたして、そういう思考方法がいいのかどうか。 西岡常一さんの本など見ると、建築というものは強度の力を発揮できるような構造を実現する過程において美しさも発揮できるようにするのが建築の美しさというもので、構造において強靭なものを作れていない建築に装飾をいっぱいつけて美しくしても、それは建築の美しさではない、「体を鍛えた運動選手の身体の美しさ」というものが建築の美しさであるはずで、「舞妓さんがこっぽり履いて押したら転ぶような状態で、化粧と衣装で着飾ったような美しさ」というのは、たとえ美しかったとしてもそれは建築の美しさではない・・と言い、大いにもっともなことだと思うのだが、困ったことに、鉄筋コンクリート造という構法が出現すると、木構造などとは違って鉄筋コンクリート造の建物というのはどんな形にもなる、どんな形にもできるというところがあり、「構造の強さと使い勝手(機能性)を実現する過程で美しさを実現する」という建築の美しさではなく、先に「巨大な彫刻」のデザインを「建築家」(「意匠家」)が考えて、「意匠建築家」様のお気に召すデザインを実現するにはどうすればいいかを「構造建築家」が一生懸命考えて、それに必要は費用を施主が出さされる・・という方向に「有名建築家の設計の建物」はなっているというところがあり、はたして、そういう方向がいいのか疑問を感じるところもあります。
「意匠設計」担当の「建築家」が構造については「構造設計家」にまかせきって、おのれは構造なんか考えることなく「巨大な彫刻」のデザインばっかり考える・・というのは、そういうのはあんまりいいとは私は思えないのですが、他方でやっぱり、建築というのは構造・機能(使い勝手)・デザインと経済性の4つを兼ね備えて、この4つをともに実現してこそ建築であり、「うちの娘はブスでしょお~お。ブス・・てことは耐久性があるということなんです。見た目がいい不健康な女よりも『ブスでもええ、耐久性があれば』と思うでしょお~お」と言われても、思わんな、そうではない、構造は大事であり耐久性ということも考えるべきだけれども、だからといって「ブス建築」がええ♪・・ということでもないように思うな・・・。
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「構造設計」という言葉を、聞いたことがあるでしょうか? 建築は「設計」がすべてではない、と述べました。しかし、構造の中心は、何といっても「構造設計」にあるのです。
では、「構造設計」といわゆる「設計」はどこが違うのでしょうか? 設計は大きく分けて。
意匠設計
構造設計
設備設計
と呼ばれる3つに分かれます。この3つの「設計」については、どれも簡単に、一言で説明しうるものではありませんが、ごくごく一般的に述べてみます。
しばしば、「建築は芸術である」というようなことがいわれます。「意匠設計」はこの芸術的な面を担う設計であり、日本語でいうところの「デザイン」という概念に近いかもしれません。もちろん、「意匠設計」はこれだけではありません。建築の用途に合った機能上の要求をいかに満足させるかといった、計画・設計も含むことになります。
次の「構造設計」については、本節全体を通して説明しようとしているわけですので、ひとまず言葉だけでも覚えておいてください。
最後の「設備設計」は、室内の冷暖房などの空調設備、電気設備などの設計を指し、現代の建築に欠かせないものとなっています。
以上の3つの設計を行う人間を、順に「建築家」「構造家」(あるいは「構造設計家」)「設備設計家」と呼びます。したがって、建築家が意匠・構造・設備の3つの設計を、すべて一人で手がけるのではなく、構造家、設備設計家と協力しながら設計を進めてゆくのが一般的です。
( 西谷 章〔にしたに あきら〕『初学者のための 建築構造入門』1994.9.10.鹿島出版会)「第1章 建築の構造とは?」)
初学者のための新・建築構造入門 - 西谷 章
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ビル建築などでは「意匠設計」「構造設計」「設備設計」の3つに分かれ、それぞれを「建築家」「構造設計家」「設備設計課」が担当するようで、三井ホームは住宅展示場のバルコニーの腰壁の外側に「建築家とインテリアコーディねーいたーがつくる家」と書いた横断幕を掲げてきましたが、ビル建築などで「建築家」「構造設計家」「設備設計家」の3者が分担して設計をおこなう際の「意匠設計」をやる人という意味の「建築家」とインテリアコーディネーターがつくる家であって、構造や設備について考える人はいませんと言っているわけではなく、三井ホームが言っているのは、1970年代から1980年代の小堀住研(株)は「技術の小堀、設計の小堀、デザインの小堀」と「言われていた」というよりも「自分で言いまくっていた」のでしたが、それは「小堀ならではの設計」「小堀ならではのデザイン」をできる設計担当者がいますというのを「売り」にしていたのでしたが、三井ホームの場合はそうではなくて、設計については「外注」ですよ、「建築専門学校卒」とかで一級建築士の資格試験に通ったということから「建築家」とか「嘘でも百回言えば真実」みたいに言いまくっている「そのへんの設計事務所のおっさん」が設計しますよ・・ということを言っていたのであり、意匠設計担当の「建築家」が設計しますという意味とは違います。「建築家とインテリアコーディネーターがつくる家」とか言われると、丹下健三とか磯崎新とか槇文彦とか黒川紀章とか安藤忠雄とかそういう「有名建築家」が自分の家の設計を担当してくれるのか・・みたいに思いそうで、又、そう思わせてこましたろと思って三井ホームはそういう横断幕を掲げていたようですが、そうではなくて自社に設計担当を持たずに「そのへんの設計事務所のおっさん」に設計を依頼していますという意味です。三井ホームで契約するとフランク=ロイド=ライトとかル=コルビュジェとかヨルン=ウッソンとかそういう人が自分の家の設計を担当してくれるのか?・・と思いそうですが、違います。「建築専門学校卒」とかで一級建築士の資格試験に通ったということから「嘘でも百回言えば真実」みたいに「建築家」と名刺に書き込んで、大久保清がルパシカというロシアの民族衣装を着て真っ赤なスポーツカーに乗って「画家」を名乗っておねーちゃんを誘って強姦殺人やりよったみたいに、真っ赤な羽付のスポーツカーとかに乗ってちょっと変わった帽子とかかぶって「建築家」と名刺に書き込めばアホが崇拝しよるやろとかあさはかなこと考えてる「そのへんの設計事務所のおっさん」です。いますでしょ、そんな人がそのへんに( 一一) ベレー帽とかちょっと変わった帽子かぶって、真っ赤なスポーツカーとか乗れば「建築家」とかなんかしょーもないこと考えとるようなおっさんが( 一一) 大久保清みたいな格好すれば「建築家」とか、そんな感じのアホちゃうかみたいなおっさんが( 一一)
「そのへんの設計事務所のおっさん」が誰もがだめとかいうことはないと思いますが、「建築家」とか名刺に入れることで「建築家の先生」として扱われたがったり、ちょっと変わった帽子かぶって真っ赤な羽付のスポーツカーに乗ったら「建築家」か「芸術家」と持ち上げてもらえると考えたり・・とそういうことを考えるようになるとマイナスじゃないか・・私はそう思います。別に不良か暴走族みたいな「真っ赤な羽付のスポーツカー」なんて乗らなくても設計はできます。「バッカじゃなかろかルンバ♪」みたいな格好すれば「建築家の先生」と言ってもらえるみたいに思ってるおっさん・・て、少なくともその部分については、あんまりいいとは思えないですね。 フリーダムアーキテクツデザイン(株)におりました時、ある業者さんに電話したところ、その業者さんが「先生・・」なんて言うので、誰のこと言うとんねん・・と思ったら、え、俺のことかい? 気色悪いこと言うやっちゃな、やめてんか・・と思ったものでしたが、ところが世の中には「気色悪いこと言わんといて」「やめてんか」と思わずに「先生」と呼んで呼んで症候群( 一一) みたいな人というのもいるのです。「建築家」と呼んでほしいシンドロームてのもその類。 精神安定剤の大量投与とかすれば「ちょっとはマシになる」か? 電気ショックとかやるとか、もしくは「シベリア送り」にして「作業療法」として強制労働につかせるとかすれば、「ちょっとは良くなる」かもしれん・・か。1990年代、(株)一条工務店https://www.ichijo.co.jp/ の福島県いわき市の営業所にいた設計部の春田靖(男。1990年代当時、20代。東洋大工学部建築学科卒)は建築現場に行っても職人や工事担当・営業担当が協力して重い物・大きい物を運んでいても「設計はシャープペンシルより重い物は持ってはならない」という戒律を強固に守って横で見物していたが、又、自分より後で入社してくる者にもそれを「指導」していたようだったが( 一一) 、法隆寺宮大工棟梁の西岡常一さんの本を読むと、法隆寺宮大工口伝には「おのれの手を動かして作業せざる者、建築について語るべからず」というものがあり、自分自身の手を動かして作業をしてこそ学ぶものがあり、そういった作業をやらない者は建築について語るべきではないという教えらしかったが、春田靖の思想および(株)一条工務店の営業本部長の天野隆夫が同社の「バカでも入れる私大の建築学科」卒の「設計部」所属従業員に対しての態度・姿勢とは正反対のようだ。「建築家」とか名乗りだすと、「先生」ヅラしたがり、おのれの手を動かして作業するということを拒絶するようになり、それを得意がるようになる( 一一) 「建築家のつくる家」というのは、そんなおっさんが設計する家という意味である。
木に学べ 法隆寺・薬師寺の美(小学館文庫) - 西岡常一
「建築家」と「建築屋」はどう違うのか、私は10代くらいの頃、「東大工学部建築学科か京大工学部建築学科卒で菊川怜以外の人間」が「建築家」で「ポン大建築学科卒のおっさん」が「建築屋」かいな~あ・・みたいに思っていたのだが、どうも最近、「バカでも入れる私大の建築学科」卒とか「建築専門学校卒」とかのおっさん・にーちゃん・ねーちゃんで「建築家ぶりっこぶりっこ」したがるやつが増えてきているように思える( 一一) 東大とか京大とか出た人間がそういう大学を出た者として扱われたいというのならまだわからないこともないが、東大とか京大とか出ているわけでもなく受けても通るわけないやつが「バカでも入れる建築学科」卒とか「建築専門学校卒」とかの人間が「学校でてますから」と特権階級としての扱いを要求する・・という建築業界の現状は、これはあんまりいい状況ではないように思える。
又、女性で建築の仕事をしたがる人も増えているようだが、そういう人には男は建築現場に行くと重い物でも運ぶのは当然だが女は男性が重い物を運んでいたら部屋中に入って座ってコーヒー淹れて飲むもの、「当たり前でしょお」とか思っているようなオバハン帝国主義が多い。そういうオバハン帝国主義が建築業界に侵略の手を伸ばしてきている。「女性の社会進出」とか言う人がいるが、こういうのは「進出」ではなく「侵略」と表記うすべきではないのか・・と思う。
私は訴えたい。
「一つの妖怪が日本の会社にあらわれている、――オバハン帝国主義の妖怪が」
「全国の男性労働者、団結せよ!」
(わからない人のために説明を加えると、この表現はマルクス・エンゲルス『共産党宣言』の
「一つの妖怪がヨーロッパにあらわれている、――共産主義主義の妖怪が」
「万国の労働者、団結せよ!」という文句を一部、表現を入れ替えたものである。)
↑ この左手前は「神楽殿」かと思ったが、ウィキペディアー敷地神社https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%B7%E5%9C%B0%E7%A5%9E%E7%A4%BE を見ると「舞殿」と書かれているので、舞殿なのでしょう。
次回https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/502460487.html は、わら天神宮(敷地神社)の御本社の左側(西側)の摂社末社、綾杉明神社・大山祇神社 。(株)一条工務店 の営業本部長が主張する ブス建築至上主義 はちょっと違うのではないか・・という点についても、もう少し述べたいと思います。
(2024.2.18.)
☆ 北野天満宮(京都市上京区)参拝3
1.烏丸線「今出川」駅より「千本今出川」交差点、浄土院、「上七軒」交差点。わかりにくい京都市地下鉄烏丸線の駅名。京都で下宿すると安いと曲解している連中。「女性社員の尻を『次はこういう撫で方したらどないでっか』と言いなさい」と言う父親は「いいお父さん」か? そういう父親を「ものすごいすばらしいお父さん」と称賛する高校教諭は「ええ先生」か? https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/502287883.html
2.「上七軒通」交差点より、ゼロホーム展示場。「アタマが浜松」的一条工務店東京展示場は厳しかった。北野天満宮大鳥居、影向松、伴氏社、鳥居から楼門。「伴」「大伴」氏が藤原に斥けられた後に菅原道真の件が。藤原色がいくらか薄い天皇は「反藤原」ではなく「いくらか非藤原」を目指したか。藤原氏傍流は藤原北家に常に加担していなかったか。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/502306592.html
3.楼門の延長には文子天満宮。三光門。太鼓橋と紅梅殿。秀頼による北野天満宮造営は豊臣の財力を消費させるためだったのか。「学業成就・合格祈願の神様」は「あとづけ」で冤罪を晴らす神・怨念を晴らす神が本来であろう。模擬試験の「判定」に「人事を尽くして天命を待て」という文言は余計。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/502321338.html
4.三光門。大宰府にたどりついた梅に対し摂津で力尽きた松。紅梅と白梅。「闘うきみの歌を闘わないやつが笑うだろう」の中島みゆき はいいとして、自分は人生・生活において犠牲になってないのに「犠牲の精神を教えたい」とぬかす川相は許せん。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/502330050.html
5.三光門から拝殿・幣殿・本殿・西回廊・東回廊。本殿の背後の御后三柱。拝殿前の梅と松。社殿の東面には思い入れ。「京のぶぶづけ」の話を「大阪の人間は」と言うアホ慶大生。「ぶぶづけでもどないだすう」と言われても帰らないであろうバカ慶大生。管理費は入居者を管理するための費用と考えていた日吉台学生ハイツの管理者。元自衛隊は「企業からの問い合わせ」に何言いよるやらわからん。自衛隊に武器を持たせて大丈夫か? 母と一緒に巡った京都の社寺と「とってちってたあ」にされた息子の末路。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/502336739.html
6.本殿後ろの「十二社」の橘逸勢社・藤太夫社・文太夫社・淳仁天皇社。崇徳院が白峰神宮で早良親王が崇道神社。上御霊神社・下御霊神社の祭神と「十二社」の祭神で共通する人が何人か。狭山事件に関して署名を求める人は強制はしないでもらいたい。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/502348932.html
7.本殿後ろの「十二社」の太宰少弐社・櫻葉社・吉備大臣社・崇道天皇社。長屋と戸建の老松社。地主神社相殿の敦美親王・齊世親王・源英明。北門と西陣名技碑・松本伍作氏顕彰碑。自分がやったことを相手がやるだろうという思考を持つ場合はある。自分も黄色人種なのにアメリカ合衆国に行ってワスプになったつもりで「けったいなやつが多い」とか言うおっさん。「心理学」は怖い。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/502356418.html
8.平野神社。中門・拝殿・本殿。平野通・西大路通。クスノキは舟に使え。「本当はもっと売れるのだけれど、わざと売らないようにしてるの」という営業は「本当にもっと」売ればいいじゃん https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/502364358.html
9.わら天神・敷地神社【上】鳥居から西進し北に曲がった正面に社殿。北山の神と穂穂手見命の母の木花佐久夜毘売。ブス建築は耐久性があると奇妙なことを教える営業本部長 〔今回〕
10.わら天神・敷地神社【中】本殿、綾杉明神、大山祇神社。高耐久性ブス建築は魅力的か?「言い方にもよる」ということを理解できない一条浜松流本舗。勝ちは静岡県愛知県の者の勝ち・負けは東京都神奈川県の者の負けとしたがる一条オリジナル遠州人。木質系建築業の不良経営者を懲らしめる神・大山祇神 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/502460487.html
11.わら天神・敷地神社【下】六勝神社・八幡社。他社と他社従業員との労働契約に不当な口出し介入する現 三菱UFJリサーチ&コンサルティング。後進国の外資系企業 (株)一条工務店。父親がある人間は「父親がいなかった」娘より得しているとは限らない、ということも理解できないアホ高校教諭。無駄になった京都の街を歩いた子供の頃の経験https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/502436497.html
警察腐敗―警視庁警察官の告発 (講談社+α新書) - 黒木昭雄
「捏造」する検察 (宝島社新書) (宝島社新書 318) - 井上 薫
絶望の裁判所 (講談社現代新書) - 瀬木比呂志
モンダイの弁護士―弁護士って、ほんとうに「人権を守る正義の人」なのか (別冊宝島Real 28)
平野神社の裏手(西側)の南北の西大路通りを北に歩くと、東西の蘆山寺通りという通りとの信号がある交差点があって「わら天神」交差点と言うらしい。その北西に「神社の杜」が見えますが、それが「わら天神」らしい。↓
↑ 「わら天神」という名前からすると、祭神は菅原道真かと思いそうになるが、祭神はコノハナサクヤヒメで菅原道真ではなく、「わら天神」は通称で本名は敷地神社と言うらしい。
↑ 「わら天神」(敷地神社)鳥居。
鳥居の額には「わら天神宮」と書かれています。
カメラに慣れていないので、帰って見て見ると写りが良くない場合があるようですが、ご容赦いただきたい。
森谷克久 監修 京都商工会議所編『改訂版 京都・観光文化検定 公式テキストブック』(2005.4.6.淡交社)には、
《 わら天神(北区衣笠天神森町)
祭神は木華咲耶姫尊(このはなさくやひめのみこと)。 正しくは敷地神社。創祀時期は不詳。天長5年(828)に淳和(じゅんな)天皇が当社に勅使を遣わして止雨を祈願したと伝える。かつては北山の神と呼ばれて北山天神の丘にあったが、足利義満の北山殿造営の時にこの地に移転したと伝える。安産の神として有名で、藁の護符が授けられ、その藁に節があれば男の子、なければ女の子が生まれるという。「わら天神」の名はこの信仰にちなんでいる。》
と出ている。
《 天長5年(828)に淳和(じゅんな)天皇が当社に勅使を遣わして止雨を祈願したと伝える》というところから「天神」で、《安産の神として有名で、藁の護符が授けられ》るというところから「わら」なのでしょう。
新版 京都・観光文化検定試験公式テキストブック - , 森谷 尅久, 京都商工会議所
『歩く地図 京都散歩 2024』(2023.4.20.成美堂出版)には、
《 安産・小授けの社として知られる
わら天神宮 わらてんじんぐう
正しくは敷地神社といい、平安の初めには すでにあった社を、金閣寺の造営に伴い現在の地に移したと伝わる。 木花開耶姫命をまつり、安産・小授けのご利益で名高い。》
《 わら天神の通称は、授与される藁の安産のお守りから付いた。》
と書かれている。
歩く地図 京都散歩 2024
※ わら天神(敷地神社)HP http://waratenjin.com/
ウィキペディアーわら天神 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%B7%E5%9C%B0%E7%A5%9E%E7%A4%BE
鳥居をくぐると西に直進します。↓
西に直進した後、右に曲がり北に進むようになっている。
↑ 北を向くと鳥居があり、鳥居の額には「天神宮」と書かれています。
この鳥居をくぐって右側に社務所と授与所がありますが、直進した所にも祠がありますが、その左側の祠が「わら天神」(敷地神社)の御本社のようです。
↑ 手水舎です。コロナウイルスの問題以降、手水舎で水が出る寺社と手水舎はあっても水は出ない寺社がありますが、ここは出ているようです。
↑ 鳥居をくぐって北に直進した所にも祠がありますが、その左、中央部に配置される祠が一番大きく、わら天神(敷地神社)の御本社でコノハナサクヤヒメが祭神。
その右側、鳥居をくぐって北に直進した位置におられるのは、六勝神社と八幡神社で、その左の一番大きな社が「わら天神」(敷地神社)の御本社で祭神は「木花開耶姫命(このはなのさくやひめのみこと)」。もっとも、この神社が最初にこれより少し北に設けられた時は「京都の北山の神」を祀る神社で、その後、加賀国から移住した人が故郷の菅生石部神社(すごういそべじんじゃ)の「分室を勧請」して祭神の《菅生石部神(日子穂穂出見命・豊玉毘賣命・鵜葺草葺不含命)》の「穂穂出見(ほほでみ)のみこと」の『古事記』によると母親という木花開耶姫命(コノハナサクヤヒメ)を祀り、「わら天神」は通称で、後に菅生石部神社がある場所の地名で菅生石部神社の「通称」らしい「敷地神社」をこの神社の名称にしたということなので、「木花開耶姫命(このはなのさくやひめのみこと)」が祭神であっても、「京都の北山の神」を祀る神社でもあるのでしょう。その後本社の左(西)に木花開耶姫命(このはなのさくやひめのみこと)の父親という大山祇の神を祀る大山祇神社と綾杉明神。
御本社に最初に参拝するのが本来でしょうから、中央の「わら天神」(敷地神社)御本社に行きます。
↑ 「わら天神宮」と書かれた額がかかっています。
《 わら天神宮(敷地神社)
御祭神 木花開耶姫命(このはなのさくやひめのみこと)
御神徳 安産、子授け、縁結び、こどもの成長守護
わら天神宮の正式名称は敷地神社といい、その起源は北山の神という山を神格化した存在でした。 天長5(828)年の大雨、大地震の際、時の淳和天皇が北山の神に幣帛を奉られた旨が「類聚国史(るいじゅこくし)」に記載されており、その創建は平安時代以前と推定されます。
天長8(831)年、この地に氷室が設けられることとなり、加賀国の人々が夫役として指定されました。彼らは移住にあたり崇敬していた菅生石部神社(すごういそべじんじゃ)の分室を勧請し、その御母、木花開耶姫命を御祭神として北山の神とともに祀り、代々崇敬してきました。
応永4(1397)年、足利三代将軍義満による北山第(後の鹿苑寺(金閣寺))の造営にあたり参拝に不便となったことから、両者を合祀して現在地へ遷座、社号を菅生石部神社の通称である敷地神社としました。 その後は応仁の乱などで一時荒廃しましたが、仮社殿を設けて御神徳を受け継ぎ、弘化4(1847)年の大補修、昭和10(1935)年の改修をを経て現在に至ります。
現在地へ遷座後、当社は「天神宮」と称していました。また、古来より稲わらで編んだ神饌を入れて神様に捧げており、やがて抜け落ちたわらを、安産を願う妊婦さんが持ち帰るようになりました。 後にそのわらを切り取り、安産の御守として妊婦さんに授与するようになったのです。そのわらの御守の珍しさから「わら天神宮」の名称が広まり定着しました。》
と説明書きが出ていました。
菅生磯部神社 は石川県加賀市大聖寺敷地ル乙81 にあり、「(JR北陸本線の)加賀温泉駅よりタクシーで5分」(菅生磯部神社HP「アクセス」http://tenjin.or.tv/access/access.htm )という場所にあるらしい。祭神は《菅生石部神(日子穂穂出見命・豊玉毘賣命・鵜葺草葺不含命)》らしい。
※ 菅生磯部(すごういそべ)神社HPhttp://tenjin.or.tv/
ウィキペディアー菅生磯部神社 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%85%E7%94%9F%E7%9F%B3%E9%83%A8%E7%A5%9E%E7%A4%BE
元々のルーツは2つあって、京都の北山の神で主として天候の神であったものと、石川県からこの地域にやってきた人たちが故郷の菅生石部神社 の「分室を勧請」したというものらしい。今現在、菅生磯部神社の祭神は《菅生石部神(日子穂穂出見命・豊玉毘賣命・鵜葺草葺不含命)》らしいが、木花開耶姫(このはなさくやひめ)命とどう関係あるのかというと、『古事記』(倉野憲司校注 岩波文庫)を読むと、天津日高日子番能(あまつひこひこほの) 邇邇芸能命(ににぎのみこと)が、「麗しき美人(うるわしきをとめ)」と出会い、それが大山津見(おおやまつみの)神の娘で「木花の佐久夜毘売(このはなのさくやひめ)」で、邇邇芸能命(ににぎのみこと)と木花の佐久夜毘売(このはなのさくやひめ)との間に産まれた子供が、火照(ほでりの)命・火須勢理(ほすせりの)命、それに火遠理(ほをりの)命、亦の名は天津日高日子(あまつひこひこ)穂穂手見(ほほでみの)命 だそうで、菅生石部神社の祭神の《菅生石部神(日子穂穂出見命・豊玉毘賣命・鵜葺草葺不含命)》の「日子穂穂出見命」の母親が「木花の佐久夜毘売(このはなのさくやひめ)」ということから、「木花の佐久夜毘売(このはなのさくやひめ)」が「わら天神」(敷地神社)の祭神になったらしい。菅生石部神社の住所は石川県加賀市大聖寺町敷地ル乙81 であることから、この京都市北区の神社の名前が「敷地神社」になったらしい。
古事記 (岩波文庫 黄 1-1) - 倉野 憲司
足利義満が北山第(後の鹿苑寺)を造営するにあたって、現在地へ移り、「天神宮」と称したらしい。稲藁で編んだ神饌を神に捧げていたが、抜け落ちた藁を安産を願う妊婦が持ち帰るようになり、安産の御守りとして藁の御守りが授けられるようになった・・というあたりから「わら天神」と言われる・・ということか。
「わら」は稲藁で編んだ神饌を神に捧げていたが、抜け落ちた藁を安産を願う妊婦が持ち帰るようになり、安産の御守りとして藁の御守りが授けられるようになったというところかららしく、「天神」は元々、「北山の神」で天候について願う神だったところからのようで、北野天満宮の近くにあるが菅原道真とは関係ないらしく、最初に北山の神として祀られるようになったのは北野天満宮が設けられるよりも先だったようだ。
『古事記』に登場する「木花の佐久夜毘売(このはなのさくやひめ)」というと、美人の神さんということになっており、女性2人の姉妹で姉の方が””ブスの神さん”” として登場する石長比売(いはながひめ)が姉で、なんか、お姉ちゃん、かわいそう・・という話になっているが『古事記』というのは、そんな話が時々ある。
1990年代、(株)一条工務店https://www.ichijo.co.jp/ は「耐久性」を「売り」にしていたのだが、1993年、千葉県松戸市の展示場で、新人の営業が来場客を接客したところ、どこそこのデザインがいいと言われたといった話を展示場の事務所でしたところ、営業本部長で松戸営業所長を兼任していた天野隆夫が「デザインがいい・・ということは耐久性がないということだ。その点、うちは耐久性があるんだ」などと言うので、な~んか、変なこと教えとるなあ・・と思ったことがあった。「美人・・てことは耐久性がないてことだ。結婚するにしても美人だけれども体が弱くて美人薄明な人は困りますよね。その点、うちの娘は耐久性がある。なんと言っても、スーパー高耐久性ブス! もう、ブスもブスもブス、ブス、ブスですからね。結婚するなら美人薄明の人ではなくて、スーパー高耐久性ブスに限りますよね」・・なんて言われて、「そうだな♪ 結婚するならブスが一番だな」なんて、思うかあ~あ? ・・・と思ったものだったが、(株)一条工務店の営業本部長の天野隆夫は、時々、そういうことを言う男だった。実際、これから家を建てようという人が「スーパー高耐久性ブス」を勧められたとして、「そうだ、そうだ。家を建てるなら何と言ってもスーパー高耐久性ブスに限る♪」なんて、そんなこと思うかあ~あ?
こういうことを言うと、(株)一条工務店では営業本部長の天野隆夫から「エスバイエルに行け」と言われるのだった。ここではエスバイエル(株)〔その後、つぶれて、ヤマダ電機に「いぬき」で買い取られて、(株)ヤマダエスバイエルホームになり、さらに、同様にヤマダ電機に買い取られた「リフォームのナカヤマ」とともに(株)ヤマダホームズ になった〕 エスバイエル(株)がここでどう関係あるのかわからんが、その時、新人の営業の某くんが来場客からどこそこのデザインがいいと思ったと言われた「どこそこ」はエスバイエル(株)ではなくそれ以外のハウスメーカーだったし。それなのに天野隆夫という人はそういうことを言うのです。変わった人ですね( 一一) (株)一条工務店という会社では「家を建てるならスーパー高耐久性ブスに限りますよ。その点、うちの娘はもう、ブスもブスもブス、ブス、ブス、スーパー高耐久性ブスですからねえ」みたいなセールストーク(?)を言わなきゃおれないシンドローム の人がいたのですが、そういう「ほとんどビョーキ」の人には逆らわない方がいいみたいだった・・( 一一)
「世界的建築家」「有名建築家」とか称する人が設計した建物には、構造よりもデザインを重視したようなものがあるでしょうけれども、しかし、建築というものは本来は構造とデザインと使い勝手(機能)と経済性の4つを兼ね備えてこそ、それらをすべて満たしてこそ優秀な建築であり、又、ビル建築などでは「意匠設計」「構造設計」「設備設計」と分かれて、「意匠設計」を担当する人を「建築家」・「構造設計」を担当する人を「構造設計家」・「設備設計」を担当する人を「設備設計家」と呼び、「意匠設計」担当の「建築家」が全体を調整する場合が多いらしいが、その場合、「意匠設計」担当の「建築家」がこういうデザインのものにしたいと主張したものを構造上問題なく作るにはどのように作ればいいかは「構造設計家」が考えるようだが、はたして、そういう思考方法がいいのかどうか。 西岡常一さんの本など見ると、建築というものは強度の力を発揮できるような構造を実現する過程において美しさも発揮できるようにするのが建築の美しさというもので、構造において強靭なものを作れていない建築に装飾をいっぱいつけて美しくしても、それは建築の美しさではない、「体を鍛えた運動選手の身体の美しさ」というものが建築の美しさであるはずで、「舞妓さんがこっぽり履いて押したら転ぶような状態で、化粧と衣装で着飾ったような美しさ」というのは、たとえ美しかったとしてもそれは建築の美しさではない・・と言い、大いにもっともなことだと思うのだが、困ったことに、鉄筋コンクリート造という構法が出現すると、木構造などとは違って鉄筋コンクリート造の建物というのはどんな形にもなる、どんな形にもできるというところがあり、「構造の強さと使い勝手(機能性)を実現する過程で美しさを実現する」という建築の美しさではなく、先に「巨大な彫刻」のデザインを「建築家」(「意匠家」)が考えて、「意匠建築家」様のお気に召すデザインを実現するにはどうすればいいかを「構造建築家」が一生懸命考えて、それに必要は費用を施主が出さされる・・という方向に「有名建築家の設計の建物」はなっているというところがあり、はたして、そういう方向がいいのか疑問を感じるところもあります。
「意匠設計」担当の「建築家」が構造については「構造設計家」にまかせきって、おのれは構造なんか考えることなく「巨大な彫刻」のデザインばっかり考える・・というのは、そういうのはあんまりいいとは私は思えないのですが、他方でやっぱり、建築というのは構造・機能(使い勝手)・デザインと経済性の4つを兼ね備えて、この4つをともに実現してこそ建築であり、「うちの娘はブスでしょお~お。ブス・・てことは耐久性があるということなんです。見た目がいい不健康な女よりも『ブスでもええ、耐久性があれば』と思うでしょお~お」と言われても、思わんな、そうではない、構造は大事であり耐久性ということも考えるべきだけれども、だからといって「ブス建築」がええ♪・・ということでもないように思うな・・・。
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「構造設計」という言葉を、聞いたことがあるでしょうか? 建築は「設計」がすべてではない、と述べました。しかし、構造の中心は、何といっても「構造設計」にあるのです。
では、「構造設計」といわゆる「設計」はどこが違うのでしょうか? 設計は大きく分けて。
意匠設計
構造設計
設備設計
と呼ばれる3つに分かれます。この3つの「設計」については、どれも簡単に、一言で説明しうるものではありませんが、ごくごく一般的に述べてみます。
しばしば、「建築は芸術である」というようなことがいわれます。「意匠設計」はこの芸術的な面を担う設計であり、日本語でいうところの「デザイン」という概念に近いかもしれません。もちろん、「意匠設計」はこれだけではありません。建築の用途に合った機能上の要求をいかに満足させるかといった、計画・設計も含むことになります。
次の「構造設計」については、本節全体を通して説明しようとしているわけですので、ひとまず言葉だけでも覚えておいてください。
最後の「設備設計」は、室内の冷暖房などの空調設備、電気設備などの設計を指し、現代の建築に欠かせないものとなっています。
以上の3つの設計を行う人間を、順に「建築家」「構造家」(あるいは「構造設計家」)「設備設計家」と呼びます。したがって、建築家が意匠・構造・設備の3つの設計を、すべて一人で手がけるのではなく、構造家、設備設計家と協力しながら設計を進めてゆくのが一般的です。
( 西谷 章〔にしたに あきら〕『初学者のための 建築構造入門』1994.9.10.鹿島出版会)「第1章 建築の構造とは?」)
初学者のための新・建築構造入門 - 西谷 章
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ビル建築などでは「意匠設計」「構造設計」「設備設計」の3つに分かれ、それぞれを「建築家」「構造設計家」「設備設計課」が担当するようで、三井ホームは住宅展示場のバルコニーの腰壁の外側に「建築家とインテリアコーディねーいたーがつくる家」と書いた横断幕を掲げてきましたが、ビル建築などで「建築家」「構造設計家」「設備設計家」の3者が分担して設計をおこなう際の「意匠設計」をやる人という意味の「建築家」とインテリアコーディネーターがつくる家であって、構造や設備について考える人はいませんと言っているわけではなく、三井ホームが言っているのは、1970年代から1980年代の小堀住研(株)は「技術の小堀、設計の小堀、デザインの小堀」と「言われていた」というよりも「自分で言いまくっていた」のでしたが、それは「小堀ならではの設計」「小堀ならではのデザイン」をできる設計担当者がいますというのを「売り」にしていたのでしたが、三井ホームの場合はそうではなくて、設計については「外注」ですよ、「建築専門学校卒」とかで一級建築士の資格試験に通ったということから「建築家」とか「嘘でも百回言えば真実」みたいに言いまくっている「そのへんの設計事務所のおっさん」が設計しますよ・・ということを言っていたのであり、意匠設計担当の「建築家」が設計しますという意味とは違います。「建築家とインテリアコーディネーターがつくる家」とか言われると、丹下健三とか磯崎新とか槇文彦とか黒川紀章とか安藤忠雄とかそういう「有名建築家」が自分の家の設計を担当してくれるのか・・みたいに思いそうで、又、そう思わせてこましたろと思って三井ホームはそういう横断幕を掲げていたようですが、そうではなくて自社に設計担当を持たずに「そのへんの設計事務所のおっさん」に設計を依頼していますという意味です。三井ホームで契約するとフランク=ロイド=ライトとかル=コルビュジェとかヨルン=ウッソンとかそういう人が自分の家の設計を担当してくれるのか?・・と思いそうですが、違います。「建築専門学校卒」とかで一級建築士の資格試験に通ったということから「嘘でも百回言えば真実」みたいに「建築家」と名刺に書き込んで、大久保清がルパシカというロシアの民族衣装を着て真っ赤なスポーツカーに乗って「画家」を名乗っておねーちゃんを誘って強姦殺人やりよったみたいに、真っ赤な羽付のスポーツカーとかに乗ってちょっと変わった帽子とかかぶって「建築家」と名刺に書き込めばアホが崇拝しよるやろとかあさはかなこと考えてる「そのへんの設計事務所のおっさん」です。いますでしょ、そんな人がそのへんに( 一一) ベレー帽とかちょっと変わった帽子かぶって、真っ赤なスポーツカーとか乗れば「建築家」とかなんかしょーもないこと考えとるようなおっさんが( 一一) 大久保清みたいな格好すれば「建築家」とか、そんな感じのアホちゃうかみたいなおっさんが( 一一)
「そのへんの設計事務所のおっさん」が誰もがだめとかいうことはないと思いますが、「建築家」とか名刺に入れることで「建築家の先生」として扱われたがったり、ちょっと変わった帽子かぶって真っ赤な羽付のスポーツカーに乗ったら「建築家」か「芸術家」と持ち上げてもらえると考えたり・・とそういうことを考えるようになるとマイナスじゃないか・・私はそう思います。別に不良か暴走族みたいな「真っ赤な羽付のスポーツカー」なんて乗らなくても設計はできます。「バッカじゃなかろかルンバ♪」みたいな格好すれば「建築家の先生」と言ってもらえるみたいに思ってるおっさん・・て、少なくともその部分については、あんまりいいとは思えないですね。 フリーダムアーキテクツデザイン(株)におりました時、ある業者さんに電話したところ、その業者さんが「先生・・」なんて言うので、誰のこと言うとんねん・・と思ったら、え、俺のことかい? 気色悪いこと言うやっちゃな、やめてんか・・と思ったものでしたが、ところが世の中には「気色悪いこと言わんといて」「やめてんか」と思わずに「先生」と呼んで呼んで症候群( 一一) みたいな人というのもいるのです。「建築家」と呼んでほしいシンドロームてのもその類。 精神安定剤の大量投与とかすれば「ちょっとはマシになる」か? 電気ショックとかやるとか、もしくは「シベリア送り」にして「作業療法」として強制労働につかせるとかすれば、「ちょっとは良くなる」かもしれん・・か。1990年代、(株)一条工務店https://www.ichijo.co.jp/ の福島県いわき市の営業所にいた設計部の春田靖(男。1990年代当時、20代。東洋大工学部建築学科卒)は建築現場に行っても職人や工事担当・営業担当が協力して重い物・大きい物を運んでいても「設計はシャープペンシルより重い物は持ってはならない」という戒律を強固に守って横で見物していたが、又、自分より後で入社してくる者にもそれを「指導」していたようだったが( 一一) 、法隆寺宮大工棟梁の西岡常一さんの本を読むと、法隆寺宮大工口伝には「おのれの手を動かして作業せざる者、建築について語るべからず」というものがあり、自分自身の手を動かして作業をしてこそ学ぶものがあり、そういった作業をやらない者は建築について語るべきではないという教えらしかったが、春田靖の思想および(株)一条工務店の営業本部長の天野隆夫が同社の「バカでも入れる私大の建築学科」卒の「設計部」所属従業員に対しての態度・姿勢とは正反対のようだ。「建築家」とか名乗りだすと、「先生」ヅラしたがり、おのれの手を動かして作業するということを拒絶するようになり、それを得意がるようになる( 一一) 「建築家のつくる家」というのは、そんなおっさんが設計する家という意味である。
木に学べ 法隆寺・薬師寺の美(小学館文庫) - 西岡常一
「建築家」と「建築屋」はどう違うのか、私は10代くらいの頃、「東大工学部建築学科か京大工学部建築学科卒で菊川怜以外の人間」が「建築家」で「ポン大建築学科卒のおっさん」が「建築屋」かいな~あ・・みたいに思っていたのだが、どうも最近、「バカでも入れる私大の建築学科」卒とか「建築専門学校卒」とかのおっさん・にーちゃん・ねーちゃんで「建築家ぶりっこぶりっこ」したがるやつが増えてきているように思える( 一一) 東大とか京大とか出た人間がそういう大学を出た者として扱われたいというのならまだわからないこともないが、東大とか京大とか出ているわけでもなく受けても通るわけないやつが「バカでも入れる建築学科」卒とか「建築専門学校卒」とかの人間が「学校でてますから」と特権階級としての扱いを要求する・・という建築業界の現状は、これはあんまりいい状況ではないように思える。
又、女性で建築の仕事をしたがる人も増えているようだが、そういう人には男は建築現場に行くと重い物でも運ぶのは当然だが女は男性が重い物を運んでいたら部屋中に入って座ってコーヒー淹れて飲むもの、「当たり前でしょお」とか思っているようなオバハン帝国主義が多い。そういうオバハン帝国主義が建築業界に侵略の手を伸ばしてきている。「女性の社会進出」とか言う人がいるが、こういうのは「進出」ではなく「侵略」と表記うすべきではないのか・・と思う。
私は訴えたい。
「一つの妖怪が日本の会社にあらわれている、――オバハン帝国主義の妖怪が」
「全国の男性労働者、団結せよ!」
(わからない人のために説明を加えると、この表現はマルクス・エンゲルス『共産党宣言』の
「一つの妖怪がヨーロッパにあらわれている、――共産主義主義の妖怪が」
「万国の労働者、団結せよ!」という文句を一部、表現を入れ替えたものである。)
↑ この左手前は「神楽殿」かと思ったが、ウィキペディアー敷地神社https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%B7%E5%9C%B0%E7%A5%9E%E7%A4%BE を見ると「舞殿」と書かれているので、舞殿なのでしょう。
次回https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/502460487.html は、わら天神宮(敷地神社)の御本社の左側(西側)の摂社末社、綾杉明神社・大山祇神社 。(株)一条工務店 の営業本部長が主張する ブス建築至上主義 はちょっと違うのではないか・・という点についても、もう少し述べたいと思います。
(2024.2.18.)
☆ 北野天満宮(京都市上京区)参拝3
1.烏丸線「今出川」駅より「千本今出川」交差点、浄土院、「上七軒」交差点。わかりにくい京都市地下鉄烏丸線の駅名。京都で下宿すると安いと曲解している連中。「女性社員の尻を『次はこういう撫で方したらどないでっか』と言いなさい」と言う父親は「いいお父さん」か? そういう父親を「ものすごいすばらしいお父さん」と称賛する高校教諭は「ええ先生」か? https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/502287883.html
2.「上七軒通」交差点より、ゼロホーム展示場。「アタマが浜松」的一条工務店東京展示場は厳しかった。北野天満宮大鳥居、影向松、伴氏社、鳥居から楼門。「伴」「大伴」氏が藤原に斥けられた後に菅原道真の件が。藤原色がいくらか薄い天皇は「反藤原」ではなく「いくらか非藤原」を目指したか。藤原氏傍流は藤原北家に常に加担していなかったか。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/502306592.html
3.楼門の延長には文子天満宮。三光門。太鼓橋と紅梅殿。秀頼による北野天満宮造営は豊臣の財力を消費させるためだったのか。「学業成就・合格祈願の神様」は「あとづけ」で冤罪を晴らす神・怨念を晴らす神が本来であろう。模擬試験の「判定」に「人事を尽くして天命を待て」という文言は余計。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/502321338.html
4.三光門。大宰府にたどりついた梅に対し摂津で力尽きた松。紅梅と白梅。「闘うきみの歌を闘わないやつが笑うだろう」の中島みゆき はいいとして、自分は人生・生活において犠牲になってないのに「犠牲の精神を教えたい」とぬかす川相は許せん。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/502330050.html
5.三光門から拝殿・幣殿・本殿・西回廊・東回廊。本殿の背後の御后三柱。拝殿前の梅と松。社殿の東面には思い入れ。「京のぶぶづけ」の話を「大阪の人間は」と言うアホ慶大生。「ぶぶづけでもどないだすう」と言われても帰らないであろうバカ慶大生。管理費は入居者を管理するための費用と考えていた日吉台学生ハイツの管理者。元自衛隊は「企業からの問い合わせ」に何言いよるやらわからん。自衛隊に武器を持たせて大丈夫か? 母と一緒に巡った京都の社寺と「とってちってたあ」にされた息子の末路。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/502336739.html
6.本殿後ろの「十二社」の橘逸勢社・藤太夫社・文太夫社・淳仁天皇社。崇徳院が白峰神宮で早良親王が崇道神社。上御霊神社・下御霊神社の祭神と「十二社」の祭神で共通する人が何人か。狭山事件に関して署名を求める人は強制はしないでもらいたい。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/502348932.html
7.本殿後ろの「十二社」の太宰少弐社・櫻葉社・吉備大臣社・崇道天皇社。長屋と戸建の老松社。地主神社相殿の敦美親王・齊世親王・源英明。北門と西陣名技碑・松本伍作氏顕彰碑。自分がやったことを相手がやるだろうという思考を持つ場合はある。自分も黄色人種なのにアメリカ合衆国に行ってワスプになったつもりで「けったいなやつが多い」とか言うおっさん。「心理学」は怖い。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/502356418.html
8.平野神社。中門・拝殿・本殿。平野通・西大路通。クスノキは舟に使え。「本当はもっと売れるのだけれど、わざと売らないようにしてるの」という営業は「本当にもっと」売ればいいじゃん https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/502364358.html
9.わら天神・敷地神社【上】鳥居から西進し北に曲がった正面に社殿。北山の神と穂穂手見命の母の木花佐久夜毘売。ブス建築は耐久性があると奇妙なことを教える営業本部長 〔今回〕
10.わら天神・敷地神社【中】本殿、綾杉明神、大山祇神社。高耐久性ブス建築は魅力的か?「言い方にもよる」ということを理解できない一条浜松流本舗。勝ちは静岡県愛知県の者の勝ち・負けは東京都神奈川県の者の負けとしたがる一条オリジナル遠州人。木質系建築業の不良経営者を懲らしめる神・大山祇神 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/502460487.html
11.わら天神・敷地神社【下】六勝神社・八幡社。他社と他社従業員との労働契約に不当な口出し介入する現 三菱UFJリサーチ&コンサルティング。後進国の外資系企業 (株)一条工務店。父親がある人間は「父親がいなかった」娘より得しているとは限らない、ということも理解できないアホ高校教諭。無駄になった京都の街を歩いた子供の頃の経験https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/502436497.html
警察腐敗―警視庁警察官の告発 (講談社+α新書) - 黒木昭雄
「捏造」する検察 (宝島社新書) (宝島社新書 318) - 井上 薫
絶望の裁判所 (講談社現代新書) - 瀬木比呂志
モンダイの弁護士―弁護士って、ほんとうに「人権を守る正義の人」なのか (別冊宝島Real 28)
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