わら天神・敷地神社【下】六勝神社・八幡社。他社と他社従業員との労働契約に不当な口出し介入する現 三菱UFJリサーチ&コンサルティング。後進国の外資系企業 (株)一条工務店。父親がある人間は「父親がいなかった」娘より得しているとは限らない、ということも理解できないアホ高校教諭。無駄になった京都の街を歩いた子供の頃の経験ー北野天満宮参拝3【11/11】

[第2042回]
  京都市北区の「わら天神」(敷地神社)参拝の後半です。
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 ↑ この「わら天神」(敷地神社)の御本社の右側(東側)におられるのが、↓
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↑ 六勝神社(ろくしょうじんじゃ)
《 御祭神  倉稲魂命(うかのみたまのみこと) ほか五柱神
御神徳 開運必勝、試験合格、商売繁盛
  由緒 六勝神社は、伊勢、石清水、賀茂、松尾、稲荷、春日の六柱神(二十二社、上七社のうち平野以外)をお祀りした神社で、平安京遷都の際、平野神社の地主神として勧請され、当初は六所神社六請明神社等と称されていました。貞観(じょうがん)元(859)年に初めて祭祀を行い、その後 西園寺家の鎮守として崇敬されてきました。
西園寺家に伝来した「管見記(かんけんき)」からは、永享(えいきょう)・嘉吉(かきつ)年間(1429~1441)に当社で猿楽が催されていたことが窺えます。 また、江戸時代の文豪 近松門左衛門の作品「女殺油地獄(おんなころしあぶらじごく)」に登場する白稲荷法印(しろいなりほういん)の台詞に「胴取の祈りは、四三五六社大明神」(勝負師、博奕打は六社大明神に祈願する)とあるように、古くから、必勝、成功、開運及び商売繁盛の守護神として崇敬を集めていました。 明治六(1873)年、敷地神社内に遷座される際に、社号を「必勝」の意によって六勝神社と改めました。その後、大正八(1919)年と昭和十(1935)年に改修が行われ、現在に至ります。》
と現地の説明書きに書かれています。


  六勝神社 の右側(東側)に ↓
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↑ 八幡神社
《 末社  八幡神社(はちまんじんじゃ)
御祭神 応神天皇、神功皇后、比売大神(ひめおおかみ)
御神徳 開運厄除、必勝
  由緒
八幡神社は、大分の宇佐八幡宮を発祥の地とし、平安初期に男山の地に石清水八幡宮、平安末期に鎌倉に鶴岡八幡宮が勧請され、その後日本全国に勧請されるようになり、その数は約二万五千社にのぼるといわれています。
皇室の崇敬はもとより、源氏の氏神として篤い信仰を集め、石清水八幡宮の御神前で元服した源義家が「八幡太郎」と称したことは有名です。源頼朝が鎌倉に幕府を開くとともに鶴岡八幡宮を関東総鎮守として崇敬するようになった後は、武家の守護神として御家人の移住に伴い全国に分祀されていきました。
当八幡神社もそのような神社の一つであり、明治40(1907)年、衣笠氷室町よりこの地に遷座されました。》
と、現地の説明書きに書かれています。
  『これだけは知っておきたい 神社入門』(2007.7.27.洋泉社MOOK)の「人気別・分布別で見る神さまの事情」には、「信仰別の全国神社数」の表が記載されているが、それを見ると、1位が八幡で7817、2位が伊勢で4425、3位が天神で3953、4位が稲荷で2693、5位が熊野で2693、6位が諏訪で2616、7位が祇園で2299、ここまでが2000社以上。その後、白山、日吉、山神、春日と続く。
  しかし、村上重良『日本の宗教』( 岩波ジュニア新書)によると、八幡神は元々は鉱山・冶金の神であったものが、いつしか源氏の氏神になり、源氏に限らず武家の神になったというが、神社の数では八幡社はダントツ1位なのだが、《御家人の移住に伴い全国に分祀されて》いったとしても、それにしても、他の神社と比べて八幡社は多い。「売れ筋商品」として見ると、3位の天神は「人事を尽くして天命を待て」という合格祈願の神さん+天候の神さん として人気がありそうだし、4位のお稲荷さんも農業の神であるとともに商売繁盛の神でもあり、これも「売れ筋商品」て感じがするし、屋敷神・氏神として稲荷を祀る家があったはずで、そこから稲荷が多いということもありそうだ。
  それに対して、八幡社はなぜここまで多いのか。武家の神なんて言われても、もう、武家は存在しないのであり、合格祈願の神としての天神や農業と商売繁盛の神としての稲荷、あるいは恋愛成就の神としての出雲のような「売れ筋商品」とは違うので、これからは人気薄になる可能性もありそうにも思えるのだが、実際にはそうでもないようで、数としてはダントツ1位らしい。 なぜ、八幡社はこんなに多いのか・・というのを内田康夫も『はちまん』で述べていたが、なぜなのか、よくわからないみたい。
これだけは知っておきたい神社入門: ”神社・神さまの系譜・ご利益・参拝の常識”丸わかり! (洋泉社MOOK)
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はちまん(上) (角川文庫) - 内田 康夫, 杉野 宣雄
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はちまん(下) (角川文庫 う 1-55) - 内田 康夫, 杉野 宣雄
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  わら天神・敷地神社の東側、西大路通りをい少し南に行ったあたりに「わら天神前」というバス停があります。↓
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↑ 「わら天神前」バス停。
  かつてはもっと「健脚」だったのに、年齢とともに疲れてきました。・・あんまりいい人生ではなかったな・・。
今回は、帰りは京福電鉄「北野白梅町」駅から京福電鉄北野線に乗って「撮影所前」駅で降りて、JR山陰本線「太秦(うずまさ)」駅から山陰線に乗って「京都」駅まで行き、「京都」駅から新快速に乗ることを考えていたのですが、わら天神・敷地神社までけっこう歩いてきましたので、今日はもう歩くのはいいかな・・と思い、「わら天神前」バス停から市バスに乗って西大路通りを南下して「西大路四条」バス停で降り、阪急京都線「西院(さいいん)」駅から阪急に乗ることにしました。
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↑ 「わら天神前」から「西大路四条」まで乗った市バス。「西大路四条」バス停付近にて。

  北野天満宮というと、京福電鉄「北野白梅町」駅の近く・・と思い浮かぶのですが、金閣(鹿苑寺)というと京都の北西のあたりとは思っても、どう行くのかというと鉄道の駅は近くにないし、なかなかわかりにくい・・ように思ってきたのですが、『歩く地図 京都散歩 2024』(2023.4.20.成美堂出版)に掲載の地図を見ると、北野天満宮の北門を出てすぐ西に平野神社があって、平野神社の裏の西大路通りを少し北に行くと西側に わら天神・敷地神社があり、わら天神・敷地神社の前の西大路通りを走るバスで、「わら天神前」バス停のひとつ北が「金閣寺道」バス停で、その付近に「金閣寺前」交差点があり、そこを北西の方に入ると金閣(鹿苑寺)があるようです。平野神社の裏から わら天神・敷地神社までと同じくらいの距離を北に西大路通りを歩くと「金閣寺道」バス停、「金閣寺前」交差点にたどりつくようですから、北野天満宮~平野神社~わら天神・敷地神社~金閣(鹿苑寺) はそう遠くないみたいです。
歩く地図 京都散歩 2024 (SEIBIDO MOOK) - 成美堂出版編集部
歩く地図 京都散歩 2024 (SEIBIDO MOOK) - 成美堂出版編集部
  金閣(鹿苑寺)には2度行ったことがあります。1960年代後半、小学生だった時に、うちの母と一緒に京阪の観光バスで行ったのが一度目。1980年代、小堀住研(株)の新卒入社後の研修が大阪駅の南側の本社であって、途中の日曜日に「遠足」だということで「仕事ではないので強制ではありませんが出てください」という””微妙”” な表現のもので、大阪駅前の本社からバスに乗って金閣(鹿苑寺)に行き、その後、太秦(うずまさ)の映画村に行きました。 ふと気づくと、それから35年も経ったのですね。
金閣寺 (新潮文庫) - 三島 由紀夫
金閣寺 (新潮文庫) - 三島 由紀夫
  小学生の時、うちの母と一緒に京阪の観光バスで金閣に行った時、その後、銀閣(慈照寺)にも行ったのですが、金閣を見た後、銀閣に行くと、「なんだ、銀箔、貼ってないじゃん」というのが小学生の時の私の第一の感想でしたが、銀閣(慈照寺)には1990年代、30代の時に、この時は書院造の代表格とされる東求堂の方を主として見たいと思って行ったのですが、その際、拝観入口から入ってすぐ右に「なんか、きたならしい掘っ立て小屋みたいの」があって、見るとそれが銀閣だったのですが、その「汚らしい掘っ立て小屋みたいの」がよく見ると、なんとも味があるのでした。それが銀閣の良さで、その時、これは銀箔なんか貼らない方がいい建物だとわかったのでした。金閣と銀閣とセットみたいに言われていますが、セットみたいに言うのが間違っているのではないか。金閣は金箔と貼っているという点が大きな特徴ですが、銀閣は銀箔なんか貼らない方がいい、そんなもの貼らない方が味があっていい建物で、さらに西本願寺の飛雲閣を金閣・銀閣と合わせて「京都の三閣」と言うらしいのですが、なんか、その3つをセットにしない方がいいような感じが私はしています。

  小学生の頃、うちの母と一緒に京都の寺社などに足を運びました。うちの母の家系は学校の先生が多い家系で、母の兄は大阪府立の高校の教諭をしていて、母の叔母のだんなは大阪市立の小学校の教諭で、母の弟は私立大学のラグビーの監督で体育の先生をしていました。母自身も高等女学校を卒業して裁縫の先生、今で言うところの家庭科の教員の資格を持っていたようでした。『旧約聖書』の「箴言」には「智慧を売ってはならない。むしろ、智慧と教訓と悟りを買え」という文句があったと思いますが、学校の先生が多い家系だけに「学問は買うものであって売るものではない」「学問は学問そのものとして価値がある」という意識・思想があったように思います。又、母の家系は特別に金持ちということはないとしても特別に貧乏ということでもなかったらしいが、戦前は学校の先生を養成する師範学校は学費が要らなかったらしく、それゆえ、お勉強はできるけれども金持ちではないという人が師範学校に行くことが多かったらしく、だから、「学校の先生」というのは戦後も特に金持ちでなくてもなれる仕事と考えていいと私は理解していた。私もそういった影響を受けて育ったのでしたが、うちの父親は逆で「学校の先生は全員、アカや! アカ、あか、アカ」とか言っている男でした( 一一)
  母親と一緒に育った息子は「学問は学問そのものとして価値がある」「学問は買うものであって売るものではない」という意識を持つようになりましたが、「撃ちてしやまん、一億火の玉、欲しがりません、勝つまでは。わしに孝に、わしに孝に、わしにわしにわしにわしに。戸締り用心、火の用心、マッチ一本、火事の元、とってちってたあ~あ♪」の父親からすれば、「学問は学問そのものとして価値がある」「学問は買うものであって売るものではない」という思想というのは、””アカ”” であるとともに「『モラトリアム人間』病にかかっておるからそういうことを言うんです、慶應大学の小此木啓吾先生というエライえらいエライえら~いという先生がそうおっしゃってる」と言っていたように、そういう評価になるようでした( 一一)
  母親と一緒に育った息子は小学生の低学年の頃から『フランダースの犬』とか『世界の偉人伝 ベートーベン』とかを読まされて、そういうものになったらうちの親は喜んでくれるのだろうと思い込んでしまった。しかし、「撃ちてしやまん、一億火の玉、欲しがりません、勝つまでは。いらいらいらいら、いらいらいらいら」の父親は違ったらしかった。
  私の名前は京大の教授だった哲学者の名前がつけられており、そういう名前を息子につけるということは、うちの親は私がそういうものになったなら、なろうとしたなら喜んでくれるのだろうと思い込んでいたが、ところが「撃ちてしやまん。会社のために、わしのために、会社のために、わしのために。すべてをすべてをわしのために」の父親は、そういう名前を私につけたというのは、たまたま、そんな名前をつけようと思っただけのことで、うちの父親には「学問は学問そのものとして価値がある」とか「学問は買うものであって売るものではない」とか「智慧を売ってはならない。むしろ、智慧と教訓と悟りを買え」などという考え方は「モラトリアム人間病」という「病気」であり、「ロボトミーやって治療してやらんといかん、ロボトミー、ロボトミー♪ そうでなかったら電気ショックやったるべきや、電気ショック、電気ショック♪」ということになるようでした。又、戦前は学校の先生を養成する師範学校は学費が要らなかったことからお勉強はできるけれども金持ちではない人の息子が行くことが多かったと聞いていたし、うちの母親の兄も母親の叔母のだんなも学校の先生だったから、私が学校の先生になっても悪いことはないだろうと思っていたのだったが、私が大学に進学する頃になると、うちの父親は「うちは学校の先生みたいなもんにならすような金持ちとは違います。甘ったれなさんな」と言うようになった。
  北野高校の2年の時の担任だった旧姓作野礼子(女。1970年代後半当時、20代。担当科目「国語」。北野高校卒⇒神戸大文学部卒)は「私は両親が離婚したんだからねえ」「私は父親がいなかったんだからねえ」というのを自慢にしている女でしたが・・そんなもの、自慢するもんかなあ・・とも思いますし、又、「私は両親が離婚したんだからねえ」などと言われてもその両親が離婚する原因を私が作ったとでもいうなら「どうも、えらいすんませんでしたなあ」の一言くらい言った方がいいかもしれないけれども、私が最初に旧姓作野礼子さんと会った時、すでに旧姓作野礼子さんの両親は離婚していたのであり、私が離婚する原因を作ったわけでもないのに、そんなこと言われても知りまへんがな。・・旧姓作野礼子さんは「私は両親が離婚したんだからねえ」「私は父親がいなかったんだからねえ」と言いまくると、誰もが「作野さんは両親が離婚されて苦労されただけあって、しっかりしてられるわ~あ」「作野先生は両親が離婚されて苦労なさって大変でしたね~え」と言ってほめてくれたり気遣ってくれたりするもので、そうしてもらう権利というものが自分にはある! と思っていたらしかったが・・そんな””権利””なんぞないと思うし、そもそも、「両親が離婚した」だの「父親がいなかった」だのというのは自慢することとは違うと思うぞ。むしろ、そんなものを自慢するように教育した母親は娘にあんまりいい教育してまへんなあ・・・と感じられる。又、私はうちの父親から「うちは文学部になんか行かすような金持ちとは違います。甘ったれなさんな」「うちは学校の先生にならすような金持ちとは違います。甘ったれなさんな」と毎日毎日、耳鳴りがするくらいに言われまくったものだったが、旧姓作野礼子は「私は家が貧乏だったんだからねえ」と自慢されるのだったが、なにゆえにその「家が貧乏だった」娘が私なら「うちは文学部になんか行かすような金持ちとは違います。甘ったれなさんな」となる文学部に行き、なにゆえに「うちは学校の先生になんかならすような金持ちとは違います。甘ったれなさんな」と言われまくる「学校の先生」になんぞなっているんだあ? おかしいだろ、どう考えても。
  父親というものがいるとものすごく得していると旧姓作野礼子さんは勝手に思い込んでいらっしゃったらしかったが、そうでもない。むしろ、親が1人なら、その1人と対しておけばいいものが、親が2人いるからややこしいということもある。 我が家の場合、私は母親と一緒に育った息子であって、父親とはあまり接触なく育った息子であった・・にもかかわらず、うちの父親は「息子には父親に所有権がありますねんで。心得違いを起こしてはいけまへんで」と言うのだった。「女は単なる畑じゃ」とおっさんはおっしゃるのだあった。うちの父親の親友の医者屋の女川(めがわ)という男がそう言ってくださったらしかった。「女は単なる畑であって、種を植えてくださったお方のおかげで種が畑から芽を出すことができたんや。種を植えてくださった方に感謝せんとバチあたるぞお~お。畑に感謝するのとは違うねんぞ、畑に。種を植えてくださっていただいてやってやってもらってくださっていただいたお方に感謝すんねんぞお」とおっしゃるのだった。「女は単なる畑であって、種を畑に植えてくださったお方のおかげで種が畑から芽を出したんや」と言うのだった。「女川先生のおっしゃること」だそうだった。「そんで、畑から種が芽を出したら、育てるのは畑の役目じゃ。甘ったれとってはいかんぞ、甘ったれとっては。育てるのは畑の役目なんやぞ。心得違いを起こしてはならんぞ」とおっしゃるのだった。「そんで、畑が育てて芽が伸びて育って実がなるようになったら、種を植えた者に権利があるんじゃ。茄子でも胡瓜でもそうやろ。畑に権利があるのとは違うんじゃ。ましてや茄子や胡瓜に権利があるのとは違うねんぞ。甘ったれておってはいかんぞ、茄子! わかっとんのか胡瓜! このチャンコロ!」とおっしゃるのだった。「わしの権利じゃ、わしの権利じゃ、わしの権利じゃ、権利じゃ、権利じゃ♪」とのたまわれ、そして、こう言われたのだった。「最近の若いもんは、権利ばっかり主張してからに、けしから~ん!」と、そう自民党のおっさんみたいなことをのたまわれたのだった・・が、さっきから「権利じゃ、権利じゃ、わしの権利じゃ」と「権利ばっかり主張しておる」のは「最近の若い者」ではなくてあんたと違うんかい? ・・と思ったものだった。
  そうやって、母親と共に育った息子は亀井勝一郎『大和古寺風物詩』とか和辻哲郎『古寺巡礼』とかを読み、そういうものとともに育ち、そういう人間になったが、そういう人間を待っていたのは「すべてをすべてを会社のために、すべてをすべてをわしのために、わしのために、わしのっために、ためにために」というおっさんだった。
大和古寺風物誌 (新潮文庫) - 勝一郎, 亀井
大和古寺風物誌 (新潮文庫) - 勝一郎, 亀井
古寺巡礼 (岩波文庫 青 144-1) - 和辻 哲郎
古寺巡礼 (岩波文庫 青 144-1) - 和辻 哲郎
  1980年代、慶應大学のステューデントカウンセラーズにいた時、来談者で「医学部に行けば医者になることができる。薬学部に行けば薬剤師になることができる。文学部や理学部に行って教員の資格を取れば学校の先生になることができる。工学部に行けば企業の研究室で採用してもらえる可能性がある。法学部に行って司法試験に通れば裁判官・検事・弁護士になることができる。それに対して経済学部とか商学部とかに行ってしまうと、卒業すると『高卒と一緒』になってしまう。だから、経済学部や商学部には行きたくなかったが、経済学部に入学してしまった」と言った人がいたのだが、私と同じようなことを考える人がいたようだった。そして、うちの父親は、うちの母親が小学生・中学生の頃の私に「親というものは息子が大学に行く時に行きたいと思う大学の行きたいと思う学部に行ってやりたいと思う勉強をしてつきたいと思う仕事につけるようにと思えばこそ、無理にでも勉強させようとするものなんや」と言っていて、私はその言葉を本気にしてしまって、それで同級生が遊んでいる時も只管勉強をしたが、大学に進学する時になると「権利じゃ、権利じゃ、わしの権利じゃ」というおっさんのために、日本で一番嫌いな大学の首をもがれても行かされたくない学部に行かされてしまった。「医学部に行けば医者になることができる。薬学部に行けば薬剤師になることができる。文学部や理学部に行って教員の資格を取れば学校の先生になることができる。工学部に行けば企業の研究室で採用してもらえることができる可能性がある。法学部に行って司法試験に通れば裁判官・検事・弁護士になることができる。それに対して経済学部とか商学部とかに行ってしまうと、卒業すると『高卒と一緒』になってしまう。だから、経済学部や商学部には行きたくなかったが、経済学部に入学してしまった」と私と同じようなことを思う人がやぱりいるんだな・・と思った。そして、うちの父親は私が「大学」を卒業する時になると、「おまえはなあ、おまえは北野高校を卒業したと思うておるかもしれんけれどもなあ。おまえは慶應大学を卒業と思うておるかもしれんけれどもなあ。もう、これでおまえは亜細亜大と一緒やぞ、もうこれで。おまえはもう、これで拓殖と一緒やぞ、拓殖と。わかっとんのか拓殖! わかっとんのか亜細亜大♪ 亜細亜大、亜細亜大、おまえはおまえは亜細亜大♪」とうれしそうに言うのだった。私は小学校の5年の時から近視になってしまったが、亜細亜大みたいなものに行くようなやつと同じような生活をしておれば近視になることもなかったであろう。結局、眼だけ奪われた。
  『新約聖書』の翻訳者で『聖書』やキリスト教の研究者であった前田護郎さんは、高校を卒業して大学を受ける時、東大の文学部に行きたいと思ったが家族に反対され、大学の入試では白紙で答案を出してきたそうで、自分と同年代の人間で行きたいと思う学部に進学する者がうらやましかった・・らしかったが、1年後、行きたいと思った東大の文学部を受けさせてもらって進学して『聖書』とキリスト教の研究者になったらしいが、私も似たことをしたことがあるのだけれども、私の場合は行きたいと思う大学にも学部にも行かせてもらうことはできなかった。キルケゴールの研究をしたいと思って、白水社から出ていた『デンマーク語入門』という本を買って持っていたところ、うちの父親がそれを見て「なんや、それは」と言い、「デンマーク語みたいなもん、勉強してもしゃあないやろ。甘ったれるなあ~あ!」と言って、取り上げられはしなかったけれども、取り上げられそうな感じだった。「父親がいる」ということはそういう人がいるということだ。旧姓作野礼子は神戸大しか行けないくせしてうちなら行かせてもらえない文学部に行かせてもらい、うちならならせてもらえない高校の先生にならせてもらった。うらやましい限りである。「ええなあ、うらやましいなあ、ほんまにええなあ、(旧姓)作野礼子は」と思ったものだった。
  「父親がいなかった」人より父親がいた人間は常に得していたなどということはない。たとえば、私がハタチ過ぎの時だが、うちの父親が「贅沢してはならんぞ、贅沢しては。贅沢してはおらんだろうなあ」と言うので、私は冬でも綿の服を着てくらしていた。ロバート=ペイン『毛沢東』(角川文庫)・大森実『人物現代史 毛沢東』(講談社)などによると、長征や日中戦争の際に、毛沢東は八路軍・新四軍の多くの兵士に乗る馬がなければ、何頭かの馬もしくはロバがいても毛沢東も歩いた、多くの兵士に冬でも綿の服しかなければ毛沢東も綿の服しか着なかった・・と書かれていたので、私も冬でも綿の服を着ていた。しかし、毛沢東の話は、あくまでも、貧乏だった時代の中国において、多くの国民が冬でも綿の服しかなければ毛沢東も冬でも綿の服を着ていたということであって、それよりは貧乏な状況を解消できたならば、それでも冬でも綿の服を着なければならないという話ではなく、かつて、中国では人民服というものを中国人は来ていて主席の毛沢東も人民服を着ていたが、それはうちの父親などは「アカやから画一化して同じもんを着せられてるんや」などと言っていたがそういう意味ではなくて、国民が着る服がなくて困っているという状況においては、ともかく服を国民に供給するということが必要で、そのためには同じ物を供給した方が早く供給できるということから人民服というものが用意されたのであって、一通り、国民が服を着れるようになったならば、それでも人民服を着なければならないという話ではなかったはずだ。うちの父親が私に「贅沢すんなよ、贅沢。贅沢してはならんぞ、贅沢」と言い、「贅沢は敵だあ! 欲しがりません、勝つまでは。とってちってたあ~あ!」と毎日言うので、それで、私は冬でも綿の服を着ていたところ、うちの父親は私に「こらあ! おまえは冬でも綿の服なんぞ、着てはいかんだろうが。おまえは冬でも綿の服なんぞ、着るな! おまえは冬ならもっと薄い服を着ろお! 甘ったれるなあ! とってちってたあ~あ!」というので、それで、冬に夏でも寒いような服を着るようにしたところ、うちの母親から、「こいつ、冬やのにからに、夏でも寒いようなうっすいうっすい服をきよってからに、そんで鼻水たらしてからに。情けないやっちゃ、こいつは!」と言って怒られたのだった。いったい、どないしたらええねん・・てものだったが、これは親が2人いることによる弊害だった。親が父親か母親かどちらか片方だったら、こういうことにはならなかったのだ。その点、「父親がいなかったから」という北野高校の旧姓作野礼子先生さまはずいぶんと恵まれていた、ずいぶんと有利だったはずだ。「私は父親がいなかったんだからねえ」「私は両親が離婚したんだからねえ」と自慢されるのだったが、この例などにおいては、親は1人だった方が、その1人の言うことをきいておればいいのだから、その方が助かる。
毛沢東 (1967年) (角川文庫) - ロバート・ペイン, 宇野 輝雄
毛沢東 (1967年) (角川文庫) - ロバート・ペイン, 宇野 輝雄
  法隆寺宮大工棟梁だった西岡常一さんは、子供の頃から祖父に祖父が働く建築現場に連れていかれて、そこで見ておれと言われて、同年代の他の子供がやっているような遊びはさせてもらえず、ずっと祖父が働く建築現場で祖父らが働くのを見せられたらしい。父からではなく祖父からというのは、西岡常一さんのお父さんは養子である程度の年齢になってから大工になった人だったらしく、西岡常一さんの大工としての師匠は父ではなく祖父で、お父さんとは大工としては兄弟弟子の関係だったらしい。子供の頃から、よその子がやっているような遊びなんかさせてもらえず、ずっと大工の仕事を建築現場で見せられてきたが、そうやって育ち、高校は工業高校の建築学科ではなく農業高校に行かされたが、大工の仕事をするには農業高校の方がいいと言われて農業高校に行かされたらしく、その後、宮大工の道を歩んだらしい。それが良かったのかどうかわからないと本人も思っているらしいが、子供の頃から宮大工の仕事を見てきて宮大工になったらしい。それに対して、私の場合は母とともに歩んできた、京都の寺社も母とともに歩いた。小学校4年の時にうちの父親と広島県の宮島と山口県の秋吉台に1泊2日で行ったことがあったが、うちの父親は子供と一緒に長距離電車に乗ると、必ず自分が窓側の関に座ろうとするのだった。周囲で親子で一緒に旅行をしている人を見ると、たいてい、親は子供に窓側の関に座らせて親は通路側の関に座って一緒に窓から外を見ていたのだったが、うちの父親は常に自分がなんとしても窓側の関に座ろうとして、小学生の子供を通路側の関に座らせるのだった。最初、うちの父親も外を見たいのだろうと思ったのだが、うちの父親は自分が窓側の関に断固として座ろうとするけれども窓から外は見ないで売店で買った週刊誌を窓側の席に座って見るのだった。それなら私に窓側に座らせてくれればいいのにと思ったのだが、断固として自分が窓側の関に座って、それで週刊誌を窓側の席で見るのだった。裸のおねーちゃんの写真入りの週刊誌を。北野高校の1年の時、「地理A(系統地理)」の授業でH先生が「日本のサラリーマンは出張とかで遠くに行った時、電車の中で何をやっとる? 週刊誌読んどるやろ。情けない。せっかく、普段、いる所とは違う所に行ったのなら、電車の窓から外を見るべきや。窓から外を見ておれば『あそこに何々がある』『あれは何だろう』というものが見えて、そこで発見があり、学ぶものがあって面白いのに。週刊誌なんて見たければ家に帰ってからでも読めるやろ。まったく、日本のサラリーマンは」と話されたことがあった。「地理の勉強というのは、地理の教科書とか読むというのも悪いことはないけれども、まず、こういう姿勢を学ぶということが地理の勉強というものや」と話されたのだが、まさに、うちの父親というのが「せっかく、普段と違う所へ行ったのに電車の中で窓から外を見ないで週刊誌読みよる」という男だった。それも、会社の用事での出張でではなく、わざわざ、身銭切って旅行してその電車の中で週刊誌を読みよるのだ。小学生の子供を通路側の席に座らせて。そして、宮島とかに行くと「それ、時間ない、時間ない。急げ、急げ。それ」と言って速足で歩かされて帰ってくる。そして、「連れて行ってやってやってやってやったったで」と言う、というそれがうちの父親だった。そういうおっさんやった。だから、そういう父親を見て「サラリーマンは嫌だな」「会社員は嫌だな」と思うようになった。普段、行かない所に電車で行ったなら、電車の窓から外を見て「あ、あそこにあんなものがある」「あれはなんだろうか」と気づき発見することに楽しみがある・・という「地理の先生」と普段と違う所に行くのに長距離電車に乗ったら小学生の子供を通路側の席に座らせて自分が断固として窓側の席に座って週刊誌を読むおっさんとでは「地理の先生」とかの方がいいと思うようになったのだ。2000年にロシア連邦のイルクーツクからバイカル湖にかけて旅行をした時、イルクーツクで宿泊したアンガラホテルで、最終日にチェックインしてくる日本人の男性と会ったのだが、その人は私より少し年上で、飛行機でモスクワまで行って、モスクワからシベリア鉄道に少しずつ乗って、その日はイルクーツクで宿泊して、翌日はまたシベリア鉄道にのって最後はウラジオストクまで行って日本に帰ろうというシベリア鉄道全線乗車をめざしていたという人だった。その後、イルクーツクで見かけた日本人のおっさんは、なんか卑しそうな顔をしていて「もしかして、女、買いにきよったかな」という雰囲気だった。実際にそのおっさんが「女、買いに来た」のかどうかはわからないがそんな顔をしていた。不思議なもので人間はそういうものが顔に出る。シベリア鉄道全線乗車を試みる人と「女、買いに来た」おっさんとはどちらも日本人でも別の顔をしていたのだった。その時の「女、買いにきよったかな」という感じのおっさんの顔を見て、あんな顔にはなりたくないなあ・・と思ったものだ。高校を卒業して大学に進学する際にも「慶應タイプ」のやつというのは卑しい顔をしている人間が多い印象があったし、経済学部・商学部・経営学部に行きたがる男というのも卑しい顔をしている人間が多く、そういう人間の仲間にはなりたくないと思ったのだった・・がそういう大学のそういう学部に暴力と強制で行かされてしまった。西岡常一さんは子供の頃から祖父から宮大工になるように宮大工の作業現場で宮大工の仕事を見せられたが、宮大工になることが認められた。それに対して、私は母とともに京都の街を歩いたが、大学に進学する時には普段と違う所に行くのに長距離電車に乗ったら小学生の子供を通路側に座らせて自分が窓側の席に座って週刊誌を読むおっさん、裸のおねーちゃんの写真の載ってる週刊誌を読むおっさんから「甘ったれるなチャンコロろすけ! うちは文学部になんか行かすような金持ちとは違います。うちは学校の先生にならすような金持ちとは違います」と言われ「すべてをすべてを会社のために、すべてをすべてをわしのために、わしのために、わしのためにためにために」と言われ「朕思うに我が皇祖こ~そ~はあ、わしに孝に、わしに孝に、わしに孝に、わしにわしにわしにわしに。戸締り用心、火の用心、マッチ一本、火事の元。とってちってたあ~あ!」と言われて、日本で一番嫌いな大学の一番嫌いな学部に暴力と強制と脅迫で行かされた。西岡常一さんはええなあ、うらやましいなあ、ほんまにええなあ・・と思う。母とともに京都の街を歩いた経験は、住宅建築の会社に勤めれば、そういう業種の会社なら活かしてくれるのではないかとも思ったが、アホの経営する会社では、むしろ、経営者一族はそういいった素養は「腹立つ」みたいだった( 一一)
子供の頃、母とともに歩いた京都の街。そこを歩いた頃は努力すれば努力は報いられると夢を見ていた。小学校の同級生が遊んでいる時も努力して勉強すれば、行きたい大学の行きたい学部に行かせてもらえて、やりたい勉強をさせてもらってつきたい仕事につけるであろう・・・と、ない夢を追っていた・・・。

  北野高校の2年の時の担任だった旧姓作野礼子〔女。1970年代後半当時、20代。担当科目「国語」(古文もしくは現代国語)〕は「私は両親が離婚したんだからねえ」「私は父親がいなかったんだからねえ」と毎度自慢しまくる女だったが、「あなたのお父さんのような、ものすごい立派なお父さんがいたら、私だったらもんのすごいうれしいわよ」などと言ってうちの父親をヨイショし、そう言ってもらってうちの父親は「北野高校のえらいえらいえらいえらい先生であられる作野先生もおっしゃっておるように、わしいほどエライえらいエライ立派な立派なお父さんはおれしませんねんでえ~え。わかってますのんかあ、チャンコロ~お!」とおっしゃるのだった・・が、小学校4年の時の私にとっては「常に自分が窓側の席に断固として座って小学生の子供を通路側に座らせ、窓側の席で週刊誌(裸のおねーちゃんの写真いり)見るおっさん」と「子供と一緒に旅行したら子供を窓側の席に座らせて親は通路側の席に座って、子供と一緒に窓から外を見る親」とでは、小学校4年の私にとっては「子供と一緒に旅行したら子供を窓側の席に座らせて親は通路側の席に座って、子供と一緒に窓から外を見る親」がうらやましかった。そういう親子連れを見て「いいなあ」と何度も思ったものだった・・が、うちの父親は「常に自分が窓側の席に断固として座って小学生の子供を通路側に座らせ、窓側の席で週刊誌(裸のおねーちゃんの写真いり)見るおっさん」を「北野高校のえらいえらいえらいえらい先生であられる作野先生」は「あなたのお父さんのような、ものすごい立派なお父さんがいたら、私だったらもんのすごいうれしいわよ」とおっしゃるのだった・・が、北野高校は行きたいと思って行った学校だったので合格発表の時はうれしかったのだが、卒業して何年か経ってみると、そんなにいい学校じゃなかったなと思うようになったし、北野高校の教諭についても「あいつら、ろくなものじゃなかったな」と思うようになった。自分に父親がなかったことから、よその親子関係に余計な口出しをして生徒を困らせるバカ女症候群が教諭になっていた高校というのは、あんまりいい高校ではないと今も私は思う。旧姓作野礼子は私が卒業して何年も経ってからも、私が知らない間に私を飛ばしてうちの親と交友を持っていたというのか連絡をとっていたようで、その生徒が卒業後も生徒を通して生徒だけでなく親とも「家族ぐるみ」で親しくするというのなら悪いことはないが、生徒・卒業生がその教諭を嫌がっていたにもかかわらず、卒業生を飛ばして、その卒業生が知らないうちにストーカーのように親と連絡をとっていた( 一一)・・というのは、それは高校の教諭としてやってはならないことではないのか・・と思うが、そのやってはならないことではないかということをやっていたのが旧姓作野礼子(寺地礼子)だった( 一一) 北野高校は私は行きたいと思って行った学校だったということから私は北野高校とそこの教諭を買いかぶっていた・・という点が10代から20代にかけての私の間違いのひとつだった。
  ついでに、旧姓作野礼子の授業は「古文」はまだしも、「現代国語」についてはデマカセでしかない。これは単なる悪口ではなく論拠があって言っていることだが、それについては別稿できっちりと述べたいと思っている。「古文」についても中間考査・期末考査に出題される問題が適切かどうかといったことを考えると必ずしもそうではない。その理由として「あの女は、自分自身が大学入試において苦労してないな」ということがある。それらについては、決して「単なる悪口」ではなく論拠があってのものであり、別稿できっちりと述べたいと思っている。述べるまでに私が死んでしもうたら、その時はしゃあないけども・・、とりあえず、今はきっちりと別稿で述べたいと思っている。

  高校生くらいの頃は売春・買春というのは絶対に悪いことだと思っていた。しかし、それから何十年か経ってみると、まず、売春は売る者が悪いのか買う者が悪いのかと言っても、売る者がいて買う者がいる以上は両者に責任があることであって、その両者がいいと言ってやっているのなら他人がいいだ悪いだ言ってもしかたがないことではないのかとも思うようにもなり、又、一生かけてその相手と暮らすことができない人が一度だけに対して報酬を払って一時を過ごすとしても、あるいは気が進まない相手と結婚させられた者がその相手よりはましな相手とカネをはらってひと時を過ごしたとしても特に責められるものでもないのではないかとも思えるようにもなった。しかし、その一方で「外国に女、買いに行くおっさん」の顔を見ると、その卑しい顔を考えると、あんな顔になりたくないな~あ・・という気がする。
  1999年、(株)一条工務店の栃木県佐野市の営業所(展示場)にいたSさん(男。当時、30代なかば)が私に「〇〇さんて、外国に旅行したら教会とかお城とかそういうものを見学に行くんですか。変わってますねえ」と言うので、「なんで、変わってるんですか」と言うと、「変わってますよ。普通、そんな所になんて行かないですよ」と言うので、「それなら、どういう所に行くんですか」と言うと、「そりぁ、外国に旅行に行ったら目的は、女、買うことしかないでしょ。普通は教会とかお城とか見学になんて行かないでしょ。外国に旅行に行く目的といったら、女、買うこと以外に何もないでしょ」と何割か、冗談みたいな言い方で言うのだったが、Sさんがどうかはともかく、売春がいいか悪いかと別の問題として、日本のサラリーマンが会社の出張で遠くに行くのに遠距離列車に乗った際に窓から外を見て「あそこにあんなものがある」「あれは何だろうか」「ここはきれいな所だな」とかそういったことを思いながら車窓を見て過ごすのではなく、読む必要があったら家に帰ってからでも読むことができる週刊誌を読んどるというのと同様に、外国に行っても教会とかお城とかそういった所に足を運ぶのではなく「女、買うこと以外に何の目的がありますの」て、Sさんの場合は何割か冗談を含んで言っていたのだろうけれども、そういう精神構造というのはちょっとどうかなあ~あ・・と思ったものだった。(株)一条工務店の経営者は私を「外国に旅行に行ったら、女、買う以外に何やることありますの」というおっさんと同じ扱いにしたのだった( 一一) 「ベンチがアホやから野球ができん」と江本はその相手(監督の中西)に面と向かっては言っていなかったらしいが、「ベンチがアホやから野球ができん」と言いたくなる、たとえ口に出さなくてもそういう気持ちにならされる会社というのが日本にはあるようだ( 一一)

  慶應大学の商学部の教授で「東大・京大や慶応・早稲田といった大学の出身者ばかりという会社に勤めるよりも、慶應大くらいの大学の出身者をなかなか採用できないというくらいの会社に勤めた方が、経験を積む機会もあり実力を発揮する機会もあっていいところがある」といったことを言う人が複数あった。小堀住研(株)に入社した時も(株)一条工務店に入社した時も、その「慶應大あたりの出身の人間をなかなか採用できない会社」に該当する会社だったので、その点でその教授先生が言われる条件に該当するかと思い、悪くないかと思ったのだったが、(株)一条工務店の場合は、むしろ、一族経営者が「一流大学」卒の人間に敵意を持っているような会社であり、中卒高卒優先主義が強固であり、一族の周囲に一族の縁故、「一族の縁故」の周囲に中卒高卒、中卒高卒の周囲に「中卒高卒と変わらない大卒」を配置することで自分たち一族を守る・・というような会社であり、又、遠州人中心主義・遠州人優先主義の「後進国の外資系企業」であり、そんな所に行って、中卒高卒優先主義の圧力と闘って苦労するくらいなら、「東大・京大や慶応・早稲田といった大学の出身者ばかりの会社」に勤めて「東大・京大や慶応・早稲田といった大学の出身者」と競争して勝ったり負けたりする方がよっぽどいい・・と思うようになった。
  うちの父親も「まがりなりにも慶應大学の商学部の出身者を採用しておいて、5年も10年も一線の営業をさせておくような、そんなおかしな会社がこの日本にあるわけがない、そんなおかしな経営者がこの日本にいるわけがない」と言っていたのだが、実は「そんなおかしな会社」は「この日本に」あったんだわ。「そんなおかしな経営者」は「この日本に」いたんだわ。浜松の(株)一条工務店という会社とその一族経営者が( 一一)  「バカでも入れる私大の建築学科」卒業しましたあ・・というので「学校でてますから」というあつかましい主張をする者が住宅建築業の業界に多いのだが、私はそういうヤカラを見て、「そら、俺は宅地建物取引主任者(⇒宅地建物取引士)に通ったぞ。おまえら、通らんだろ」「そら、俺はインテリアコーディネーターに通ったぞ。おまえら、通らんだろうが」「そら、俺はキッチンスペシャリストにも通ったぞ。おまえら通らんだろうが」としたが、それでも(株)一条工務店の一族経営者は宅建主任もインテリアコーディネーターもキッチンスペシャリストも通らん「バカでも入れる私大の建築学科」が大好きだったのだ( 一一) 又、社会科学系学部卒の者には「学歴で人を差別してはいかんだろうが」などと(株)一条工務店の一族経営者は言うのだが、しかし、建築学科でやっていることに価値はあるとして、法学部・経済学部・商学部でやっていることに価値はないと言うのか? そうではあるまい。あるいは「高卒と変わらん経済学部卒」「高卒と変わらん法学部卒」は「高卒と変わらん」扱いでいいのかもしれないが、学んできたものがあるという者にはそういう扱いにしないといけないはずだが、中卒高卒中心主義の(株)一条工務店の一族経営者にとっては「目の仇」だったようだ。 2005年に千葉県などのリフォーム会社の(株)ウッディホーム に入社した時、どこが作成したのかわからん「研修用ビデオ」なるものを見せられたのだが、滋賀県の大店(おおだな)の息子(小学生)に叔父が「おまえは大店(おおだな)の跡を継ぐということを、自分だけ楽してええ思いをする立場を継ぐことやとか思うておらんか。そうじゃないんだぞ。そうではなくて、大店の跡を継ぐということは、ほかの者はやらん努力をして、ほかの者はやらん苦労をして、ほかの者はやらん我慢をするということなんやぞ」と語る場面があった。「それなら、ええこと何もないやんか」と息子(小学生)は言うのだったが、「ええこと何もない」わけではないはずだが他方で「ほかの者がやらん努力をして、ほかの者がやらん苦労をして、ほかの者はやらん我慢をする」ということもあるのではないか。私は(株)一条工務店にともかくも慶應大学商学部卒の履歴書を提出して入社した者として「ほかの者がやらん努力をして、ほかの者がやらん苦労をして、ほかの者がやらん我慢をしてきた」はずだったが、「ほかの者がやらん努力をして、ほかの者がやらん苦労をして、ほかの者がやらん我慢をしてきた」者がそれに応じて報いられて何が悪いか・・と思ったし、「ほかの者がやらん努力をして、ほかの者がやらん苦労をして、ほかの者がやらん我慢をしてきた」者に報いてもそれは「学歴偏重」だの何だのではないはずなのだが、結果として私は(株)一条工務店の中卒高卒の一族経営者に「やらずぶったくり」にされた( 一一)  むしろ、私は(株)一条工務店の中卒高卒の経営者から、こいつはどんな無茶な苦労でもどんな無茶な努力でもどんな無茶な我慢でもする人間だからさせて大丈夫となめられてしまったようだった

  又、小堀住研(株)の場合は、《「メカケの子」と言われる2代目社長とその一族》と「銀行から来た人たち」とがいて、従業員は「社長派」と「副社長派」があって大多数は「副社長派」だと言われていたが、別に副社長のKさんが特別に優秀とか特別に人格者とかいうことではなく「普通」であって、要するに一般入社した従業員にとって一般入社して役員になっている人というと副社長くらいであり、「メカケの子」の派になろうとしても一般入社の者は「メカケの子」一族ではないし、「銀行系」の派になろうとしても銀行から出向で来た者でなければ「銀行系」になれないし、結果として「副社長の派」になるということらしかった。1989年に相談役だった初代社長の小堀林衛が他界した翌年、「メカケの子」と言われる2代目社長の中島昭午が会社名から初代の苗字である「小堀」を削り取った「エスバイエル」というよくわからんツーバイフォー工法で建てているわけでもないのにツーバイフォー工法みたいな名前に会社名を改めたが、その後、私が同社を離れてすぐ後、副社長のKさんの名前が役員の名簿から消えた。残ったのは「メカケ一族」と「銀行系」ばかりとなった。副社長のKさんは「自分が社長になろうとは思ってない」と常々言っていたといい、「役職を重視する人」で「社長を立てる人」と従業員の間で言われていたが、これは菅原道真が宇多天皇に取り立てられて右大臣になったのであって自分自身に強力な力があったわけではなく、田沼意次は9代将軍 徳川家重と10代将軍 徳川家治に取り立てられて側用人・老中となったのであって、父から家督を継いだ時点では6千石くらいの旗本でしかなく、それが最大で6万石の大名にならせてもらったとはいえ、6万石でも徳川の家臣の中では小大名でしかなく、徳川家重・徳川家治の支持によって老中の地位を保てていたのであったのと同じく〔かつて、徳川家重・徳川家治暗君説なるものがあったらしいが、それは田沼意次悪人説に連動したもので、最近は田沼意次はむしろ江戸時代において最も有能で良心的な政治家だったのではないかという見方が有力になってきたことから、徳川家重・徳川家治も有能な部下であった田沼意次を取り立てて側用人・老中にした将軍と評価も変わってきたらしい〕、小堀住研(株)の副社長のKさんは一般入社の従業員からは支持されていた・・というより頼られていたけれども、持っている株は「メカケの子」一族や銀行に比べればずっと少ない株数であり、初代社長の小堀林衛が「この人間は副社長に置いておけ」と言った・・のかどうかわからんが、初代社長に指示されて副社長になっていたのか、1989年においては相談役だった初代社長が他界すると、2代目社長の「メカケの子」とその一族にとっては邪魔だと思われたのか「けむたい」と思われたのか、すぐに退けられたようで、その後は一般入社して努力して昇進した人間ではなく「メカケの子」一族か「銀行系」かその仲間しか役員はいない・・という状態になり、そういう会社はどうなったかというと⇒すぐにつぶれた( 一一)  実際、小堀住研(株)⇒エスバイエル(株)では「銀行から来た人」があまりにも多く、そういう人は無能でありながら高い役職についていた、どう考えてもその人の身の程より上の役職についていたし、最初から小堀住研(株)に入社した人の役職より「銀行から来た人」は一回りか二回り上の役職についていた。それら「銀行系」従業員というのは出向元の銀行においては従業員・労働者であったかもしれないが出向先の小堀住研(株)に来ると「資本家のボンボン」「資本家のバカ息子」の立場になった。「メカケの子」一族と「資本家のバカ息子」とが大きな顔するようになった会社、一般入社で役員になった人の最後の砦みたいな立場だった副社長のKさんも追い出した会社は、もはや、「おまえは、もう死んでいる」状態だったか・・。野村じいさんが書いていたが、1974年に長嶋が巨人の監督になる時、前任の監督の川上は次の監督が困らないようにと「ヘッドコーチ:牧野」「投手コーチ:藤田」は有能だから残せ、森は役に立つからコーチで使え、長嶋が引退した後の三塁手は「1番 サード 富田」と南海の若手中心選手だった富田をあらかじめトレードで獲得した・・が、長嶋はその4人をことごとく辞めさせてしまい、そして最下位になった・・というのだが、後任の監督からすれば、そこまで前任の監督に決められたくない・・ということも、もしかするとあったのかもしれない・・が、小堀住研(株)の場合は「メカケの子」と「銀行系」がその会社を運営していく能力もないのに支配して会社をだめにした・・ような感じだった。小堀住研(株)も「東大・京大や慶応・早稲田といった大学卒の人間をなかなか採用できない会社」だったので慶應大の商学部の先生が言われるようにそういう会社に勤めた方が経験を積む機会もあり実力を発揮する機会もあるかとも思ったが、むしろ、小堀住研(株)に勤めるならどこかの銀行にいったん勤めて、そこから出向で行った方が得・・みたいなものであり、実力もないのに銀行から来た無能なオヤジどもと「メカケの子」一族が支配するそんなあほくさい会社に勤めるくらいなら、「東大・京大や慶応・早稲田といった大学の出身者ばかりという会社」に勤めて東大・京大や慶応・早稲田といった大学の出身者と競争して、その競争に勝ったり負けたりという方がよっぽど良かったのではないか・・とも思うようになった。
  小堀住研(株)の2代目社長の中島昭午は「長嶋みたいや」「長嶋と一緒や」「長嶋とたいして変わらん」「長嶋そっくりや」という男だったのか・・。まあ、普通に考えて「中島昭午が歌う演歌集」などというアホなCDみたいなものを会社のカネで作るくらいだから、あんまり賢いとは言えんわな・・というのか、「中島昭午が歌う演歌集」とかいうやつを見た時に私は思った。「私は今までからこの人のことを『特別にに賢い』とかいうようには思ってなかったけれども、ここまでアホとは思わんかった」と( 一一)
※ 「おまえは、もう死んでいる」⇒YouTube-お前はもう死んでいるhttps://www.youtube.com/watch?v=5kLbIgC-RnQ
※ 「中島昭午が歌う演歌集」CD⇒[第540回]《 小堀住研(エスバイエル)社長中島昭午が作ったお笑いCD-「バッカじゃなかろかルンバ」+「私バカよね」 2017年》https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/201704article_6.html
[第787回]《「社長が歌う演歌集」を会社のカネで出す会社・「バカでも入れる私大の建築学科」卒を清原化させたい症候群の経営者の会社・子供の頃から音楽の勉強させて「歌え、チャンコロ、黒田節!」は残酷と私は思うが・・・。2020年》https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202005article_3.html

  私は住宅建築業の会社で最初に勤めた小堀住研(株)に応募した時には、人事総務関係の仕事に応募したつもりだった。もともと、心理学・心身医学などの関心があった者であり、会社という所に勤めた場合にはそれを活かせる部署としては人事総務関係と思っていたが、小堀住研(株)では「うちは営業は給与はいいですよ」と言われたことと、研修の際にこういう営業なら自分にもできるかと思って営業の方を希望して、そこから住宅建築業の営業の職種についたが、住宅建築業の業界に勤めてみると「バカでも入れる私大の建築学科」卒の人間がえらそうにする業界であり、「社会科学系学部卒で勤めると損な業界」であり、何より、小学校の時の算数も理科も社会科も国語も図画工作も私よりずっと成績が悪かったやつ、中学校の時の数学も理科も歴史も美術も技術家庭も私よりずっと成績が悪かったやつ、高校の時の数学も物理も化学も生物も日本史も世界史も私よりずっと成績が悪かったやつが、私なら「うちは工学部になんか行かすような金持ちとは違います。甘ったれなさんな」と言われて行かせてもらえなかった工学部の建築学科に、くそど厚かましくも「バカでも入れる私大の建築学科」に行って、それで「学校でてますから」だのと主張して特権階級になっている。なんか、あほくさいなあ・・( 一一)  さらには入学試験なんてない「建築専門学校」などというもの卒だという者が、「建築専門学校卒」を高く評価してもらおうと思うと「建築専門学校卒」は4年制大学の建築学科卒と同等だと主張し、他方で責任ある対応を求められると「ぼくは高卒なんだから、そんなもの、できるわ~けがない」「ぼくは高卒なんだから、そんなもの、わかるわ~けがない」などと勝手なことを言い、「建築専門学校卒」というのは学歴なのか学歴でないのか、学歴だということにした方が都合がいい時は4年制大学の建築学科卒と同等だと主張し、学歴ではないことにした方が都合がいい時は「ぼくは高卒なんだから、そんなものわかるわ~けがない♪」などと主張するという、極めて卑怯な二刀流を主張する・・( 一一)  何の因果かそういう業界に入ってしまったが、小学生の頃からうちの母と一緒に北野天満宮に行ったり金閣に行ったり仁和寺に行ったり広隆寺に行ったりしてきた者としては、私がそういったことをしていた時に、およそそんな生活なんかしないでいた者どもが「バカでも入れる私大の建築学科」とかに厚かましくも言って「学校でてるんだから」とか勝手な主張をするというのは、どうも納得いかんなあ・・・・。(株)一条工務店は特に「バカでも入れる私大の建築学科」卒の人間は新卒入社したその日からお殿様! という扱いにする会社であり、特に営業本部長の天野隆夫は「バカでも入れる私大の建築学科」卒の人間を増長させるのが趣味!だった( 一一) 
  1970年代後半、北野高校の3年の時、「世界史」のK教諭が「日本でねえ、庭園といったら四畳半くらいのせま~い所に石灯籠とかあったり、筧の音がコトコト・・とかそんなものでしょう。ヴェルサイユ宮殿の庭園なんて、そういうのとは全然違いますよお。ど~んと広くてねえ、もう、ああいう所に行くと、それこそ、人間変わりますよ、ほんとに。ぜひ、行ってみてください、ぜひ」と授業中に話されたことがあった。そのヴェルサイユ庭園に2000年1月に行ったのだが、たしかにヴェルサイユ庭園は「ど~んと広くてもう、それこそ、人間変わりますよ、ほんとに」という感じだった。(株)一条工務店はそういった勉強をしてきた者をそうでない者と同じ扱い・・というよりも、中卒高卒優先主義の(株)一条工務店は中卒高卒以下の扱いにした 逆に「バカでも入れる私大の建築学科」などという所にくそど厚かましくも行って卒業したようなヤカラは増長させるのが趣味だった( 一一) 私は東大の理科一類に通ったか、京大の工学部建築学科に通ったかということならそれはわからないし、そもそも、ある程度以上の難易度の所を受けるからには「絶対に」などというものはないが、私は「ともかく国公立の大学で」というくらいならば国公立の大学の建築学科でどこか行ける所は間違いなくあったはずだった・・が、うちの親は「うちは工学部になんか行かすような金持ちとは違います。甘ったれなさんな」と言い、私が「国立大学なら何学部でも学費は一緒のはずや」と言っても、「甘ったれなさんな。間違いなく百パーセント、国立大学に通るとは限らんでしょ。たとえ、0.1%でも落ちる可能性があったら工学部なんか受けてはいかんでしょうが」と言われたものだった。かつ、北野高校の2年の時の担任だった旧姓作野礼子(女。1970年代後半当時、20代。担当科目「国語」。北野高校卒⇒神戸大文学部卒)が「あなたはブンケー(経済学部)よ」と言って私が一番行きたくないと小学校の1年からずうう~っと思い続けてきた学部に行かそうとした。その結果、日本で一番嫌いな大学の首をもがれても行かされたくない学部に暴力と強制と脅迫で行かされてしまった。それに対して、たとえば、(株)一条工務店の福島県いわき市の営業所に設計としていた春田靖(男。1993年代当時、20代前半。新卒入社2年目だったか3年目だったか)などは、くそど厚かましくも静岡県の人間なのに東洋大学の工学部建築学科みたいなものに東京で下宿までして行って卒業した。よっぽど金持ちなんだな・・親は何やってる人間なんだ? 社長か? ・・と思うと春田靖の親は「中学校の校長先生」だというので驚いた。「中学校の校長先生」て金持ちなんだな。「中学校の校長先生」て給料高すぎなんだな。春田靖は仕事用ではない、遊び用のけっこう高そうなオフロードカーなんぞに乗っていたが、普通に考えて新卒入社して1年目・2年目の給料で買えるようなクルマに見えなかったが、「中学校の校長先生」というのはそんなものまで買うことができたということなのだろう。「中学校の校長先生」というのは給料高すぎと違うか。学歴はカネで買える。東洋大の工学部みたいなものしか行けないような人間でもカネで「建築学科卒」の学歴・肩書を買うことができたのだ( 一一) 「ええなあ、うらやましいなあ、ほんまにええなあ」・・と言っても東洋大の工学部建築学科みたいなもの、行かせてあげると言われても行きたくなかったけれども、東大の理科一類とかに合格できたかというとわからないが、「ともかく国立大学で」というくらいならば、どこか建築学科で合格できる所はまちがいなくあったはずだが、我が家は「うちは工学部みたいなもんに行かすような金持ちとは違います。甘ったれなさんな」という家庭で、又、「何でもカネ出す者に決める権利があるはずや」とうちの親は言い、「それなら大学の学費は出していりません。自分で働いて学費を稼いで大学に行きます」と言っても、「何を甘ったれた口をきいてますのや。産まれてこなかったらよかったのにおまえが産まれてきおったおかげで、おまえをここまで育てるのにカネかかっとんのや。それをまどてもらわんといかんのじゃ、このチャンコロろすけイタコめが、産まれてこなかったらよかったのに産まれおってからに。『産まれてきて申し訳ございません』と言いなさい」とうちの父親は言うので、それで言ったのだ。「産まれてこなかったらよかったのに産まれてきて、申し訳ございませんでしたあ。産まれてこなかったらよかったのに産まれてきて申し訳ございませんでしたあ」と。だから、私にとっては工学部だの建築学科だのは行きたいと思っても行かせてもらえない所であり、ましてや、北野高校の2年の時の担任だった旧姓作野礼子が「あなたはブンケー(経済学部)よ」と言って私が「そこだけはいや!」「お願い、そこだけはやめて!」と思う所に行かそう行かそうとしたのだった。私は高校に入学した頃、同じ北野高校の出身で比較的若い教諭というのは生徒の兄弟みたいな意識があって生徒に協力してくれるのではないか、生徒に味方してくれるのではないかと期待してしまったところがあったが、旧姓作野礼子の場合は違った。そうではなく、高校教諭としては親に加担した方が高校教諭として評価されるか生徒に協力した方が高校教諭として評価されるか・・と考えて、親に加担した方が教諭の処世術としては正しいと考えたようで、常に私に敵対した。私は「なんで、この人は私がブンケー(経済学部・商学部・経営学部)だけは行かされたくない」と思っているのに「あなたは絶対にブンケー(経済学部)よ」「あなたはブンケー(経済学部)が向いてるわよ」と何度も何度も行って私が絶対に行かされたくないと思っていた所に行かそう行かそうとするのだったが、あの女は生徒に敵対して親に加担するのが高校教諭の処世術として正解の態度と考えていたようだった。ろくな教師じゃなかった( 一一)
  今も思い出す。母と一緒に北野天満宮や金閣や仁和寺や広隆寺に行った時のことを。三十三間堂や清水寺に行った時のことを。その頃の私と同年代の時にそんな教養を積むような生活なんぞしていなかった連中が「バカでも入れる私大の建築学科」にふんぞり返って行って「建築家ぶりっこぶりっこ」になって増長しまくっている( 一一)  あほくさい限りである( 一一)
  特に(株)一条工務店は、
(1)中卒高卒優先主義の会社
(2)遠州人独善主義・遠州人中心主義の会社で、静岡県・愛知県の人間が経営する「後進国の外資系企業」の性格がある会社
(3)一族とその縁故 が支配する会社
(4)「三和総合研究所(現 三菱UFJリサーチ&コンサルティング株式会社)の提案」と称して(実際にそうであったのかないのかはわからないが)、新卒入社の従業員を「プロパー」、中途入社の従業員を「キャリア」と命名して差別し、入社直後についてだけではなく入社して5年経とうが10年経とうが中途入社の従業員は新卒入社の従業員より不利な扱いにするように、ということをした。
(5)「バカでも入れる私大の建築学科」卒の人間を「新卒入社したその日から右も左もわからない人間をお殿様とする会社」
で、特に営業本部長の天野隆夫は、営業本部長ならば営業の利害を代弁しても良さそうな立場でありながらへぼ設計のパシリであり、「バカでも入れる私大の建築学科」卒の人間を増長させるのが趣味!
・・であり、あほくさいことこの上なかった。よくもまあ、あんな会社に11年余りも頑張ったな・・・と思い、よく頑張ったなあと自分をほめてあげたい気持ちがあるとともに、アホちゃうか・・と思うこともある。そういう会社だった。
 ウィキペディアー三菱UFJリサーチ&コンサルティングhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E8%8F%B1UFJ%E3%83%AA%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%83%81%26%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%82%B5%E3%83%AB%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%82%B0 によると、三和銀行と東海銀行が合併したことにより、2002年に三和総合研究所(三和総研)と東海総合研究所が合併してUFJ総合研究所 となり、さらにUFJ銀行と東京三菱銀行の合併により2006年にUFJ総合研究所、ダイヤモンドビジネスコンサルティング、東京リサーチインターナショナルの三社が合併して現在の三菱UFJリサーチ&コンサルティング となったらしい。それはそれとしてだが、私と(株)一条工務店の労働契約においては三和総合研究所も後身の三菱UFJリサーチ&コンサルティングも部外者であり、私は(株)一条工務店に新卒入社の従業員と差別される立場の職種に応募して入社したわけではないし、応募する時点において住宅建築業の会社において(株)一条工務店よりも規模が大きい会社・(株)一条工務店よりも知名度がある会社・(株)一条工務店は非上場の会社だったが上場している会社で募集を出している所というものもあったが、もちろん、応募したとして採用されたか不採用にされたかはわからないが、(株)一条工務店は全体を自社でおこなっている会社であり、営業・販売と本体が別の会社は応募を避けて、全体を自分の所でやっている会社であることから、そういう会社ならば私を採用すれば役に立つであろうし、役立つ場があるであろうと考えて応募して入社したのであって、新卒入社の従業員と差別される不利な立場の職種に応募したわけではないし、そういう立場の職種の募集であったならば応募しなかったはずであった。私と(株)一条工務店との間の労働契約は決して新卒入社の従業員から差別される立場の者としての労働契約ではなく、部外者である三和総合研究所(⇒三菱UFJリサーチ&コンサルティング株式会)に口出される筋合いはないし、三和総合研究所(⇒三菱UFJリサーチ&コンサルティング株式会)はそのようなおかしな口出しはしてはならにはずである。三和銀行・三和総合研究所は当然、そのくらいのことは理解できていないといけないし、理解できていないというのはおかしい。むしろ、よその会社にそんなおかしな「提言」なんぞしているくらいなら、もっと自分の所のことをきっちりやれ! というものだ。おのれの会社のことをまともにできずに、よその会社におかしな「提言」なんぞしているから、だから、三和銀行はつぶれるんだよお!!! てものだ。つぶれる会社に「提言」なんぞしてもらっているということからして、おかしいのだ( 一一) そう思いませんか。

  内田康夫の小説では『はちまん』で八幡神社がとりあげられているが、『箱庭』では厳島神社がとりあげられている。『箱庭』の名前は心理療法の「箱庭療法」から来ているが、「精神科医」が「精神医学」によって人を病気にさせる話が出ている。やはり、内田康夫の小説では『鏡の女』では先祖代々「精神科医」という「若先生」が妻を薬殺する話が出ている。その「精神科医」の住居は東京の田園調布であるが、田園調布というと、東急東横線より西側の放射線状に道が設けられている側の方がより「高級住宅街」とされているのだが、その西側、田園調布教会の隣に、東大医学部の「精神科」の教授でロボトミーで「患者」を殺した吉益修夫(よします しゅうふ)と1字違いの「吉益◇夫」という表札があがっている家が2軒並んでいる。もしかして、東大医学部でロボトミーで人を殺してもうけたカネで田園調布に家を建てて(「この犯罪で田園調布に家が建つ」)、その息子2人がそれを2つに分けて相続したのか? ・・て、ありそうな話であり、東大医学部「精神科」には吉益修夫より若い年代の講師で「吉益」という苗字の男がいたはずであり、田園調布教会の隣の「吉益◇夫」「吉益▽夫」のどちらかなのか? ・・と断定まではできないとしても可能性としてありそうにも思えるが。もしかして、吉益(よします)が内田康夫の『鏡の女』に登場する「精神科医」のモデル? ・・なんてことも、可能性としてはないとは言えないかも・・・。
現代の医療被害 (1978年)
現代の医療被害 (1978年)
箱庭 (講談社文庫) - 内田康夫
箱庭 (講談社文庫) - 内田康夫
鏡の女 (角川文庫) - 内田 康夫
鏡の女 (角川文庫) - 内田 康夫
浅見光彦トラベルミステリー傑作選5 (マンサンコミックス) - 内田 康夫, たのま ゆうむ, 日下部 拓海, 中西 ゆか
浅見光彦トラベルミステリー傑作選5 (マンサンコミックス) - 内田 康夫, たのま ゆうむ, 日下部 拓海, 中西 ゆか
(↑ 『浅見光彦トラベルミステリー傑作選5 隅田川殺人事件・鏡の女・崇徳伝説殺人事件』2024.4.2.実業之日本社)
  (2024.3.9.)

☆ 北野天満宮(京都市上京区)参拝3
1.烏丸線「今出川」駅より「千本今出川」交差点、浄土院、「上七軒」交差点。わかりにくい京都市地下鉄烏丸線の駅名。京都で下宿すると安いと曲解している連中。「女性社員の尻を『次はこういう撫で方したらどないでっか』と言いなさい」と言う父親は「いいお父さん」か? そういう父親を「ものすごいすばらしいお父さん」と称賛する高校教諭は「ええ先生」か? https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/502287883.html
2.「上七軒通」交差点より、ゼロホーム展示場。「アタマが浜松」的一条工務店東京展示場は厳しかった。北野天満宮大鳥居、影向松、伴氏社、鳥居から楼門。「伴」「大伴」氏が藤原に斥けられた後に菅原道真の件が。藤原色がいくらか薄い天皇は「反藤原」ではなく「いくらか非藤原」を目指したか。藤原氏傍流は藤原北家に常に加担していなかったか。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/502306592.html
3.楼門の延長には文子天満宮。三光門。太鼓橋と紅梅殿。秀頼による北野天満宮造営は豊臣の財力を消費させるためだったのか。「学業成就・合格祈願の神様」は「あとづけ」で冤罪を晴らす神・怨念を晴らす神が本来であろう。模擬試験の「判定」に「人事を尽くして天命を待て」という文言は余計。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/502321338.html
4.三光門。大宰府にたどりついた梅に対し摂津で力尽きた松。紅梅と白梅。「闘うきみの歌を闘わないやつが笑うだろう」の中島みゆき はいいとして、自分は人生・生活において犠牲になってないのに「犠牲の精神を教えたい」とぬかす川相は許せん。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/502330050.html
5.三光門から拝殿・幣殿・本殿・西回廊・東回廊。本殿の背後の御后三柱。拝殿前の梅と松。社殿の東面には思い入れ。「京のぶぶづけ」の話を「大阪の人間は」と言うアホ慶大生。「ぶぶづけでもどないだすう」と言われても帰らないであろうバカ慶大生。管理費は入居者を管理するための費用と考えていた日吉台学生ハイツの管理者。元自衛隊は「企業からの問い合わせ」に何言いよるやらわからん。自衛隊に武器を持たせて大丈夫か? 母と一緒に巡った京都の社寺と「とってちってたあ」にされた息子の末路。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/502336739.html
6.本殿後ろの「十二社」の橘逸勢社・藤太夫社・文太夫社・淳仁天皇社。崇徳院が白峰神宮で早良親王が崇道神社。上御霊神社・下御霊神社の祭神と「十二社」の祭神で共通する人が何人か。狭山事件に関して署名を求める人は強制はしないでもらいたい。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/502348932.html
7.本殿後ろの「十二社」の太宰少弐社・櫻葉社・吉備大臣社・崇道天皇社。長屋と戸建の老松社。地主神社相殿の敦美親王・齊世親王・源英明。北門と西陣名技碑・松本伍作氏顕彰碑。自分がやったことを相手がやるだろうという思考を持つ場合はある。自分も黄色人種なのにアメリカ合衆国に行ってワスプになったつもりで「けったいなやつが多い」とか言うおっさん。「心理学」は怖い。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/502356418.html
8.平野神社。中門・拝殿・本殿。平野通・西大路通。クスノキは舟に使え。「本当はもっと売れるのだけれど、わざと売らないようにしてるの」という営業は「本当にもっと」売ればいいじゃん https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/502364358.html
● わら天神・敷地神社 三部作
9.わら天神(敷地神社)【上】鳥居から西進し北に曲がった正面に社殿。北山の神と穂穂手見命の母の木花佐久夜毘売。ブス建築は耐久性があると奇妙なことを教える営業本部長 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/502384324.html
10.わら天神(敷地神社)【中】本殿、綾杉明神、大山祇神社。高耐久性ブス建築は魅力的か?「言い方にもよる」ということを理解できない一条浜松流本舗。勝ちは静岡県愛知県の者の勝ち・負けは東京都神奈川県の者の負けとしたがる一条オリジナル遠州人。木質系建築業の不良経営者を懲らしめる神・大山祇神 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/502460487.html
11.わら天神(敷地神社)【下】六勝神社・八幡社。他社と他社従業員との労働契約に不当な口出し介入する現 三菱UFJリサーチ&コンサルティング。後進国の外資系企業 (株)一条工務店。父親がある人間は「父親がいなかった」娘より得しているとは限らない、ということも理解できないアホ高校教諭。無駄になった京都の街を歩いた子供の頃の経験〔今回〕

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