「わら天神」敷地神社【中】本殿、綾杉明神、大山祇神社。高耐久性ブス建築は魅力的か?「言い方にもよる」ということを理解できない一条浜松流本舗。勝ちは静岡県愛知県の者の勝ち・負けは東京都神奈川県の者の負けとしたがる一条オリジナル遠州人。木質系建築業の不良経営者を懲らしめる神・大山祇神-北野天満宮3【10/11】

[第2041回]
  「わら天神」敷地神社 (京都市北区)の御本社の拝殿
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社殿の横や後ろに行くことができる神社と行けない神社がありますが、ここは行けます。左右に摂社末社がありますが、左側に綾杉明神と大山祇神社があり、右側に六勝神社と八幡社がありますが、左側の方に行って見ると、↓
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↑ 本殿の建物が見えます。 左側は大山祇神社の屋根です。

  後ろ側は ↓
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  御本社の左側に ↓
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↑ 末社 綾杉明神(あやすぎみょうじん)。 右は大山祇神社
《 末社 綾杉明神(あやすぎみょうじん)
由緒 樹齢千数百年に及ぶ神木綾杉の霊を祀るもので、綾杉のあやとは、黒いという意味とも木目のこととも葉に綾があるからだとも言われています。
 三十六歌仙の一人、清原元輔(きよはらのもとすけ)(「枕草子」の著者である清少納言の父親)の次の和歌が「拾遺和歌集(しゅういわかしゅう)」に撰録されており、平安時代当時すでに著名であったことが分かります。
 「生ひ繁れ平野の原の綾杉よ、
 濃き紫に立ちかさぬべく」

【現代語訳】赤子よ、綾杉の枝葉が大きく繁るように立派に成長しなさい。濃い紫の袍(ほう)を着られる、三位の位を得られるように。(友人源遠古〔みなもとのとおふる〕の子の誕生に際し、その子が六位の色である杉の緑から、三位の色「濃き紫」へと昇進できるように祈った歌。)

 応仁の乱の兵火を免れましたが、明治29(1896)年8月の暴風により惜しくも倒壊し、僅かに地上二メートルほどの幹を残すのみとなりました。しかしながら、当時既に樹齢千数百年とも言われたことから神木として崇敬する者が多いため、残った幹に素屋根をかけ、「綾杉明神」として祀るようになりました。》
「一躍、清を(1894)を攻撃す」日清戦争の1894年の2年後の1896年に暴風により綾杉は倒壊したが、地上2mほどの幹が残り、それを「綾杉明神」として祀るようになった、ということらしい。


  右の方に見えるのが 大山祇神社 で、大山祇神 を祀ります。
大山祇神とは、『古事記』(倉野憲司校注。 岩波文庫)には、
《 ここに天津日高日子(あまつひこひこ)番能(ほの)邇邇芸能(ににぎの)命、笠沙(かささ)の三前に、麗しき美人(をとめ)に遇(あ)ひたまひき。 ここに「誰(た)が女(むすめ)ぞ。」と問ひたまへば、答へ白ししく、「大山津見(おおやまつみの)神の女、名は神阿多都比売(かむあたつひめ)、亦の名は木花の佐久夜毘売(このはなのさくやびめ)と謂ふ。」とまをしき。 また「何時(いまし)の兄弟(はらから)ありや。」と問ひたまへば、「我が姉、石長比売(いわながひめ)あり。」と答へ白しき。
  ここに詔りたまひしく、「吾汝(あれいまし)に目合(まぐわひ)せむと欲(おも)ふは奈何(いか)に。」とのりたまへば、「僕(あ)は得白(えまを)さじ。僕(あ)が父 大山津見の神ぞ白さむ。」と答へ白しき。 故、その父 大山津見の神に、「乞ひに遣はしたまひし時、大く(いたく)歓喜(よろこ)びて、その姉 石長比売を副え、百取(ももとり)の机代(つくゑしろ)の物を持たしめて、奉り出しき。故ここにその姉は甚凶醜き(いとみにくき)によりて、見畏み(みかしこみ)て返し送りて、ただその弟(おと) 木花の佐久夜毘売を留めて、一宿(ひとよ) 婚(まぐはひ)したまひき。
  ここに大山津見の神、石長比売を返したまひしによりて、大く(いたく)恥ぢて、白し送りて言ひしく、「我が女 二(ふ)たり並べて立奉り(たてまつり)し由(ゆえ)は、石長比売を使はさば、天つ神の御子の命(いのち)は、雪降り風吹くとも、恒に(つねに)石(いは)の如くに、常(とき)はに堅(かき)はに動かずまさむ。また木花の佐久夜毘売を使はさば、木の花の栄ゆるが如(ごと)栄えまさむと誓ひ(うけひ)て貢進(たてまつ)りき。
  かくて石長比売を返さしめて、ひとり木花の佐久夜毘売を留めたまひき。故、天つ神の御子の御命(みいのち)は、木の花(このはな)のあまひのみまさむ。」といひき。故、ここをもちて今に至るまで天皇命(すめらみこと)等(たち)の御命(みいのち)長くまさざるなり。》
と出ている。
  ウィキペディアー大山祇神 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%82%AA%E3%83%A4%E3%83%9E%E3%83%84%E3%83%9F を見ると、
《 大山津見神(おおやまつみのかみ)は、日本神話に登場する神。》
《 『古事記』では大山津見神、『日本書紀』では大山祇神、他に大山積神、大山罪神とも表記される。 別名 和多志大神、酒解神。》
と出ており、「美人薄命」の木花咲夜比売(このはなさくやひめ)と一条オリジナル「スーパー高耐久性ブス」みたいな概念の石長比売 (いわながひめ)の父親 として登場する神かと思っていたら、
《  八俣遠呂智退治において、須佐之男命(すさのを)の妻となる櫛名田比売(くしなだひめ)の父母、足名椎・手名椎(あしなづち・てなづち)はオオヤマツミの子と名乗っている。》
と出ている。『古事記』(倉野憲司校注。 岩波文庫)には、
《 故(かれ)、避追(やら)はえて、出雲の肥の河上、名は鳥髪(とりかみ)といふ地(ところ)に降りたまひき。この時 箸その河より流れ下りき。ここに須佐之男の命(すさのをのみこと)、人その河上にありと以為(おも)ほして、尋(たづ)ね覔(もと)めて上り(のぼり)往きたまへば、老夫(おきな)と老女(おみな)と二人ありて、童女(をとめ)を中に置きて泣けり。
 ここに「汝等(なれども)は誰ぞ」と問ひたまひき。故(かれ)、その老夫(おきな)答へ言(まを)ししく、「僕(あれ)は国つ神、大山津見(おおやまつみ)の神の子ぞ。僕(あ)が名は足名椎(あしなづち)と謂ひ、妻(め)の名は手名椎(てなづち)と謂ひ、女(むすめ)の名は櫛名田比売(くしなだひめ)と謂ふ。」とまをしき。また「汝(な)が哭く(なく)由(ゆえ)は何ぞ。」と問ひたまへば、答へ白し(まを)ししく、「我が女(むすめ)は、本(もと)より八稚女(やをとめ)ありしを、この高志(こし)の八俣(やまた)の大蛇(おろち)、年毎(としごと)に来て喫(くら)へり。今そが来(く)べき時なり。故(かれ)、泣く。」とまをしき。・・・・・ 》
とあり、大山津見の神・大山祇の神は、木花佐久夜毘売・木花咲夜比売(このはなさくやひめ)と石長比売(いわながひめ)の父親であるとともに、八俣の大蛇(やまたのおろち)に食われそうになった櫛名田比売(くしなだひめ)を須佐之男・素戔嗚(すさのお)が助けたお話の櫛名田比売(くしなだひめ)の父親の足名椎(あしなづち)も大山津見神(おおやまつみのかみ)・大山祇神の子らしい。

  大山祇神を祀る神社としては、戸部民夫『日本の神様がわかる本』(2005.1.5.PHP研究所)によると、
大山祇神(おおやまつみのかみ)を祀る「代表的神社」として、「三島さま  大山祇神社  愛媛県越智郡大三島町宮浦3327」があり、「神社ガイド」には筆頭に 「三島大社 静岡県三島市大宮町」があげられている。ウィキペディアー大三島町https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%B8%89%E5%B3%B6%E7%94%BA#%E4%BA%A4%E9%80%9A によると、愛媛県越智郡大三島町 は2005年、12市町村による合併で今治市の一部になったらしい。
《  オオヤマヅミ神は、日本の山の神の総元締といわれる有力神で、娘がイワナガヒメ命(みこと)(岩の神)と浅間神社の祭神のコノハナサクヤヒメ命(のみこと)(富士山の神)の姉妹である。 三島さまとしての信仰は、愛媛県 大三島町の大山祇神社を総本社として全国に広がっていて、その数は一万余にのぼる。
  また、オオヤマヅミ神は別名をワタシ大神(のおおかみ)といい、海の神としての性格もある。
  ワタは海神(ワタツミのかみ)と使われる海(わた)で、シはつかさどるという意味を表し、海を支配する偉大な神ということである。
  つまり、この神は山と海をつかさどる機能を兼ね備えた神であり、古くから両方に関わる神徳を発揮してきたのである。》
《 山の神の総元締としてのオオヤマヅミ神は、農業・林業・鉱業・商工業などの諸産業から酒造などの文化的な領域まで、幅広く霊威を発揮している。
  一方、とりわけこの神の霊威を全国的に浸透させたのは、海の神としての顔だった。
  大山祇神社のある大三島のあたりの芸予海峡(広島県と愛媛県の間)は、古くから西日本と近畿を結ぶ水運交通の要衝であった。そのため海の神としての信仰が集まり、戦国時代から近世にかけて瀬戸内水軍や武門の守護神として篤い崇敬を受けた。
  武門の祈願はもちろん戦勝、家門繁栄である。その意味でオオヤマヅミ神は、勝負事成就の神徳も備えているということである。》
《 オオヤマヅミ神は、酒解神(さけとけのかみ)とも呼ばれ、娘のコノハナサクヤヒメ命(酒解子神〔さけとけのこかみ〕)とともに京都の梅宮大社に祀られ、酒造業の守護神として全国の酒造関係者の崇敬を集めている。山の神は豊作の神であり、その穀物からつくられる酒の精霊は、山の神の分身なのである。
  全国の三島神社は、愛媛県の大山祇神社の神霊を勧請したもので、「三島」は大山祇神社の所在地の大三島にちなんで大三島神社、三島明神と呼ばれたことによる。
  山の神、海の神、そして武の神という顔をもつ三島さまの神徳は、農業・林業・漁業・商業・鉱業などの諸産業守護、勝負事必勝、試験合格、家庭平安、安産、厄除けなどである。》
と書かれている。
※ 大山祇神社(愛媛県今治市大三島町)HP https://oomishimagu.jp/
三島大社(静岡県三島市)HP https://www.mishimataisha.or.jp/
梅宮大社(京都市右京区)HP http://www.umenomiya.or.jp/
  『夏子の酒』では、酒の神様は松尾大社とされているが、梅宮大社の最寄り駅は阪急嵐山線「松尾大社」駅で、阪急嵐山線「松尾大社」駅の西側に松尾大社があり、東側、桂川を渡った所に梅宮大社と、「松尾大社」駅の両側に酒の神様がおられる。

  三橋 健(みつはし たけし)『図説 あらすじでわかる! 日本の神々と神社』(2010.5.15.青春出版社 青春新書)には、
《 三嶋大社(みしまたいしゃ)――源頼朝が平氏打倒を祈願した「三嶋大明神」
● 火山神としての神格も備える大山祇命
  伊豆の三島市に鎮座する三嶋神社は、古くより「三嶋大明神」と称えられ、伊豆国の一宮である。この三嶋大社の祭神は、大山祇命(おおやまつみのみこと)と事代主神(ことしろぬしのかみ)の二神で、これらを「三嶋大神」と総称している。 『古事記』によると、大山祇命は伊耶那岐神(いざなぎのかみ)と伊耶那美神(いざなみのかみ)が神生みをさあれたときに生まれた山の神とされ、林業、農業はじめ殖産の神、衣食住の守護神として信仰を集めている。また、岩の神の石長比売命(いわながひめのみこと)と、富士山の神の木花之佐久夜毘売命(このはなのさくやびめのみこと)の父神である。山の神であり、同時に海の神の性格もあわせもっている。なお、「三島(みしま)」は「御島(みしま)」で、火山により、伊豆の島々を造成・開発した火山神でもある。
  事代主神は、『古事記』によると、大国主神の御子で、国譲り神話では父神の大国主神に任せられて、国譲りを決めたという。
  俗に「恵比須さま」ともいわれ、航海、漁業の守護神として沿岸の漁民たちの信仰を集め、商売繁盛の神としても信仰されている。
  なお、大山祇神をまつる神社は、三嶋大社のほかに愛媛県大三島町の大山祇神社があり、当社も三嶋信仰の総本社として全国に分社が広がっている。
  中世以降は武士の崇敬があつく、伊豆に流された源頼朝がこの三嶋神に平氏打倒の祈願をした。頼朝は三嶋神の加護によって平家を倒し、鎌倉幕府を開くことができたと伝えられる。》
《 伊豆の三嶋大社の大山祇命も、伊予国の大山祇神社から勧請したとの説もあるが創祀は未詳である。》
  井上靖『夏草冬濤(なつぐさふゆなみ)』に静岡県三島市の 三島大社は登場する。三島大社には一度、行ってみたいと思いながら今日まで行けずにいるが、三島系神社としては、私にとっては井上靖『夏草冬濤(なつぐさふゆなみ)』の話に出る三島大社が一番に思い浮かぶ。
図説 あらすじでわかる! 日本の神々と神社 (青春新書INTELLIGENCE) (青春新書INTELLIGENCE 275) - 三橋 健
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夏草冬濤 (上) (新潮文庫) - 靖, 井上
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夏草冬濤 (下) (新潮文庫) - 靖, 井上
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  愛媛県の大三島の大山衹神社 の「三島」は元は「御島(みしま)」で瀬戸内海のこの付近の島の中でも大きい大三島のことを「大きい御島(みしま)」と言い、他方で静岡県三島市の三嶋大社は火山の神でもあり、火山からできた伊豆諸島の「御島(みしま)」から「御島(みしま)神社」⇒「三嶋大社」と、それぞれ、「御島(みしま)」⇒「三嶋(みしま)」「三島(みしま)」と変化したが別々に同様の変化をした、という可能性がありそうに思える。瀬戸内海の大三島にも伊豆にも山と海の両方があり、「御島(みしま)」も両方にあることから、両方が別々に同系統の神社になった・・というのはありそうに思えるが・・・。

  現地の説明書きには、
《 末社  大山衹神社 おおやまつみじんじゃ
御祭神 大山衹神
御神徳 海上守護、農業守護、鉱山守護
  由緒
大山衹神は、当わら天神宮の御祭神、木花開耶姫命の父神です。木花開耶姫命に、一目惚れした天孫 瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)に対し、大山衹神は、木花開耶姫命とともにその姉、磐長姫命(いわながひめのみこと)を貢ぎました。しかし瓊瓊杵尊は、磐長姫命があまりに醜かったので、大山衹神に返してしまいます。 大山衹神は天子の命が石(=磐長姫命)のように恒久であれと契約して貢いでいましたが、磐長姫命が返されたことで、瓊瓊杵尊の子孫である天皇及び人間は長寿ではなくなったとされています。
 瀬戸内海の大三島に鎮座する大山衹神社は、全国の山衹神社、三島神社の総本社であり、源氏、平家をはじめ多くの武将が武具を奉納し、武運長久を祈りました。当 大山衹神社もそのような神社の一つです。 》
と書かれています。

  「わら天神宮」・敷地神社 の御本社のルーツは2つあって、かつてはここより北にあって「京都の北山の神」で特に天候について祈願したことがあり、「わら天神」の「天神」は天候について祈願した神社ということから「天神」とつけられたようで、もうひとつのルーツは加賀地方からこの付近に移住した人たちがかつてあって、故郷の石川県加賀市大聖寺町敷地 の菅生石部神社(すごういそべじんじゃ)から「分室を勧請し、その御母、木花開耶姫命を御祭神として北山の神とともに祀り、代々崇敬してきました」ということで、菅生磯部神社の祭神は《菅生石部神(日子穂穂出見命・豊玉毘賣命・鵜葺草葺不含命)》で『古事記』によると木花開耶姫(このはなさくやひめ) は穂穂出見命(ほほでみのみこと)の母という縁で木花開耶姫(このはなさくやひめ)を祀るようになり、菅生石部神社のある場所の地名である「敷地」を神社名として「敷地神社」とした・・ということだったが、穂穂出見命(ほほでみのみこと)の母の木花開耶姫(このはなさくやひめ)の父が大山衹神 ・・ということで、ここに大山衹神を祀る大山衹神社が配置されたということか・・・と思ったが、《 瀬戸内海の大三島に鎮座する大山衹神社は、全国の山衹神社、三島神社の総本社であり、源氏、平家をはじめ多くの武将が武具を奉納し、武運長久を祈りました。当 大山衹神社もそのような神社の一つです》と書かれており、そのような大山衹神社が「わら天神」・敷地神社の御本社の西側に末社として移されたということでしょうか。

  それで、「美人薄命」の神 木花開耶姫(このはなさくやひめ)と一条オリジナル「スーパー高耐久性ブス」の神様 石長比売 について。
前回、[第2040回]《「わら天神」(敷地神社)(京都市北区)【上】鳥居から西進し北に曲がった正面に社殿。北山の神と穂穂手見命の母の木花佐久夜毘売。ブス建築は耐久性があると奇妙なことを教える営業本部長ー北野天満宮3【9/ 】》https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/502384324.html でも述べたが、
《 1990年代、(株)一条工務店https://www.ichijo.co.jp/ は「耐久性」を「売り」にしていたのだが、1993年、千葉県松戸市の展示場で、新人の営業が来場客を接客したところ、どこそこのデザインがいいと言われたといった話を展示場の事務所でしたところ、営業本部長で松戸営業所長を兼任していた天野隆夫が「デザインがいい・・ということは耐久性がないということだ。その点、うちは耐久性があるんだ」などと言うので、な~んか、変なこと教えとるなあ・・と思ったことがあった。「美人・・てことは耐久性がないてことだ。結婚するにしても美人だけれども体が弱くて美人薄命な人は困りますよね。その点、うちの娘は耐久性がある。なんと言っても、スーパー高耐久性ブス! もう、ブスもブスもブス、ブス、ブスですからね。結婚するなら美人薄命の人ではなくて、スーパー高耐久性ブスに限りますよね」・・なんて言われて、「そうだな♪ 結婚するならブスが一番だな」なんて、思うかあ~あ? ・・・と思ったものだったが、(株)一条工務店の営業本部長の天野隆夫は、時々、そういうことを言う男だった。実際、これから家を建てようという人が「スーパー高耐久性ブス」を勧められたとして、「そうだ、そうだ。家を建てるなら何と言ってもスーパー高耐久性ブスに限る♪」なんて、そんなこと思うかあ~あ? 》
という問題だ。
(1)構造の強度を実現する過程で美しいデザインを実現してこそ「建築の美しさ」
  「デザインがいい・・ということは構造が悪いということだ」という(株)一条工務店https://www.ichijo.co.jp/ の営業本部長の天野隆夫の発言は正しいか? 違うだろ。そうではなくて、構造が良くてデザインもいいというものを実現することこそ、建築屋の仕事だろうが。何をあほなこと言うとんねん。
  法隆寺宮大工棟梁だった西岡常一さんは法隆寺など飛鳥建築というものは、身体を鍛えた運動選手の身体の美しさのようなもので、それに対して、時代が下るとともに、構造を軽視した建物が出てきたが、構造を軽視して外観をよくしようとしても、それは舞妓さんがこっぽりはいて押したら転ぶようなそんな状態で衣装と化粧と装飾で着飾ったようなそんな美しさであり、「建築の美しさ」というものはそうではなく、構造を実現する過程で美しさを発揮するというものであるべきだ、というのであり、「デザインがいい・・ということは構造が悪いということだ」という(株)一条工務店の営業本部長の天野隆夫の発言はそれはおかしい。こういうことを言うと、天野隆夫からエスバイエル(株)なんか何の関係もないのに「エスバイエルに行け」と言われることになるのだが、天野隆夫こそ(株)一条工務店をやめて「エスバイエルに行」った方が良かったのではないか。

(2)「 耐久性があるブサイクな建物」に魅力を感じるか?
 「デザインがいい・・ということは構造が悪いということだ。その点、うちは耐久性がある」という天野隆夫の発言というのは、いわば、「木花佐久耶比売(このはなさくやひめ)は美人だ・・ということはひ弱・病弱だということだ。その点、うちの石長比売(いわながひめ)はブス! ・・てことは耐久性があるということだ。結婚するなら美人薄命の木花佐久比売ではなく一条オリジナル『スーパー高耐久性ブス』の石長比売(いわながひめ)が最高♪ てことだ」と言っているようなもので、そんな「セールストーク」(?)を聞いて、「そうだな♪ やっぱり結婚するならスーパー高耐久性ブスが最高だな♪」なんて、そんなこと思うか? ・・というと『古事記』の中での邇邇芸命(ににぎのみこと)でも、「スーパー高耐久性ブス」は要らんわと返品して「美人薄命」だけを受け取ったわけだ。「スーパー高耐久性ブス」が「売り」になるという天野隆夫の思想はおかしい!
デザイナーのための木構造 - 杉山 英男
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木に学べ 法隆寺・薬師寺の美(小学館文庫) - 西岡常一
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(3)「長くもつ建物」なのか「長くもたせたい建物」なのかという視点。
   もうひとつ、「長く持つ建物」と「長く持たせたい建物」という視点があります。坂本功『木造建築を見直す』(岩波新書)に書かれているのですが、法隆寺は再建されたものか最初に建てられたものが今も存在するのかというと、火災の後が付近にあるらしく、再建されたものである可能性が高いが、再建された年代もまた相当古い時代であり、それが今日においても無事に存在しているというのはたいしたものではあるのですが、しかし、今日に至るまで、相当の修理がされてきているのであって、何ら修理しないで今日まで保たれているわけではない。東大寺の南大門は実は明治の時代に梁を鉄骨梁の周囲を木で覆ったものを使って修理されたものであるとか、薬師寺の東塔は明治の時代の写真を見ると、つっかい棒が何本も建って支えられているとか、そういった補強がされ・補修工事がされて、それで何とか今日までもたせてきた建物だそうで、それらは「千年もつ建物」であったのではなく「千年もたせたい建物」「千年もたせる価値がある建物」だった法隆寺を建てた大工は「千年もつ建物」を建てたのではなく「千年もたせる価値がある建物」を建てたのだ・・と、坂本功『木造建築を見直す』(岩波新書)では述べられている。
  建築の場合、構造と機能(使い勝手)とデザイン・意匠と経済性という4つの面を満たしてこそ建築であるのですが、構造について、「長くもつ建物」であるかという視点とともに「長くもたせたい建物」かという視点もあるはずであり、(株)一条工務店の営業本部長の天野隆夫が発言したような「デザインがいいということは耐久性がないということだ」と決めつけて「その点、うちの娘はブスでしょお~お。ブス・・てことは耐久性があるということなんです。結婚するにしても美人薄命の女性よりもスーパー高耐久性ブスがいいでしょお~お。スーパー高耐久性ブスというと、なんと言っても一条工務店ですよ♪」などと言われて、「そうだな、やっぱり、結婚するならスーパー高耐久性ブスが最高だな♪」なんて思うか・・というと思わんと思うし、たとえ、病弱な女性でも結婚相手の男性がこの女性がいいんだと心から愛して大事にするならば、大事にされた女性はその分だけ長く生きることは考えられるし、どんなに「耐久性がある」女性でも夫から「こんな女、嫌だ」と思われたならば、その分だけ寿命も縮まったとしておかしくない。 だから、デザインが良く魅力的で、使い勝手がいい家というのは入居者は長くもたせたいと考える可能性がその分だけ大きく、ぶっさいく・じじむさい・いなかもんくさいし、使い勝手が悪くて、特に地方で住むなら良くても東京などで住むには使いにくい・・という「一条オリジナル」の家というのは、「もう、嫌だ。こんな家、嫌だ」という気持ちになり、結果として寿命が短くなる・・ということは考えられるはずだったのだ。
  「デザインがいいということは耐久性がないということ」で「その点、(株)一条工務店ははスーパー高耐久性ブスだから耐久性がある」という天野隆夫の主張はおかしい。「デザインがいいということ」は施主の気持ちとして長くもたせたいという気持ちになる要素がそこにひとつあるということであり、ぶさいく・じじむさい・いなかもんくさい・その場所で住むのに適さないという家が「耐久性がある」としても、耐久性という点ではまだもつ家でも建て替えたいという気持ちになって、結果として寿命は短くなるということが考えられる。邇邇芸命でも、魅力を感じた女性 木花咲夜姫を妻にしたいとその父親の大山祇神(おおやまつみのかみ)に申し入れたが、おまけみたいに「スーパー高耐久性ブス」の石長姫をつけられても、この人は要りません・・とお返ししたように、自分が大事にしたいという気持ちになれないようなものを「耐久性がある」というのを売りにされても、見込客はそういう家を建てたいという気持ちになれないと思うのだ。これは(株)一条工務店の家がいいか悪いかという問題よりも、天野隆夫の思考の方の問題である要素が大きいと思われる。
木造建築を見直す (岩波新書 新赤版 672) - 坂本 功
木造建築を見直す (岩波新書 新赤版 672) - 坂本 功

(4)「耐久性がある」「耐震性がある」「きっちりとした造りの構造で建てている」の共通点と相違点。
  1992~1993年頃、東京圏で「耐久性がある」というのをあまりにも強調して来場客・見込客に話すと、「耐久性、耐久性と言うあたり、やっぱり、お宅はイナカね~え」とか「やっぱり、お宅は浜松ねえ」とか言われるものだった。しかし、本来、「耐久性がある」というのは悪いわけではない。クルマならば10年乗ったら「まあ、よく乗ったかな」という感じか。ただし、20代・30代の10年と40代・50代の10年では、40代・50代の10年は短く感じられるということはあるし、又、仕事で毎日毎日、乗りまくった場合と「日常・レジャー」での使用とでも異なるが、ともかく、クルマなら20年乗ったら「まあ、よく乗ったかな」という感じだけれども、家の場合はそうではない。家の場合は20年やそこらでだめになってもらっては困る。30年の住宅ローンを組んで購入したならば、30年、払って借金がなくなってから、それからある程度以上住めないと困るし、又、修理のリフォームをしょっちゅうやらないといけない家というのは、実際問題として、疲れる。グレードアップのリフォームならば、やりたかったらやればいいし、やりたくなければやらなくていいのだけれども、修理のリフォームはやりたくなくてもやらなきゃならなくなるので、費用がなくてもやらなきゃならないし、リフォーム屋が来る時に家にいないといけないという場合でも、仕事の関係でなかなか家におれないという場合でもいなければならなくなる。だから、たとえ、東京圏で建てる場合・関西圏で建てる場合でも「耐久性がある」「構造がしっかりしている」というのは住宅において必要なものであり、日本全国、地震がない所はないので、「耐震性がある」というのも必要なものだ。
  「話し方の問題」というものがあると思うのだ。
《1》「うちは外観その他のデザインはブサイクだけれども耐久性がある」とか(株)一条工務店の営業本部長の天野隆夫みたいに言われたのでは、なんか、いい印象を受けない。その「デザインがいいということは耐久性がないということだ。その点、うちは耐久性があるんだ」などという言い方をすると、「うち」というのは「スーパー高耐久性ブス」てことなのか。「やっぱり、結婚するならブスが最高♪」なんて言われても、なんか、いややなあ・・・て気持ちになられてしまう。それを言わそうとするのが(株)一条工務店の営業本部長の天野隆夫だったのだ( 一一)
ちなみに、今は昔、1980年に「週刊読売」にでていた「面白英会話」
Bus Stop. 「ブス乗るな」⇒バス停留所。
《2》 又、東京圏においては、矢鱈と「耐久性、耐久性・・」と言いまくられると、「やっぱり、イナカの会社ねえ~え」「やっぱり、お宅は浜松ねえ」と思われる。だから、そういう場合は「耐久性」と言わずに「家はきっちりとした構造で造るべきものなのです」という言い方をするならば、誰もそれは否定しないはずなのだが、ところが「一条オリジナル遠州人」は「うちは耐久性がある」と言いたがる・言わせたがるのだったが、その表現は東京圏では無警戒にしない方がよかったはずで、無警戒にそれを言うと「やっぱりお宅はイナカの会社ねえ」「やっぱり、お宅は浜松ねえ」と言われることになるのだった。しかし、東京圏の住人においても、家と言うものはしっかりと頑丈に造るべきものだという認識と地震に強い造りにすべきだという認識については否定する人は少ないわけであるということを考えると、東京圏においては「耐震性がある」「きっちりとした造りの構造で建てている」という話はしても、「耐久性がある」という方は控えめにしておいた方が無難だった・・・・が、それでも営業本部長の天野隆夫は「うちは耐久性があるんだ」と言って、それを言うと「やっぱりお宅は浜松ねえ」と言われるであろうと思われることを言わそうとするのだった( 一一)
《3》 「耐震性がある」というのも、これも実際には日本全国どこでも必要なことなのだけれども、地震に関心が強い地域とそれほど強くない地域とがあるのだ。地震に関心が強くない地域とか「ここは地震はないから」と思っている人が多い地域では「耐震性がある」というのを「売り」にしようとしても、なかなか受け入れられない。1990年代、福島県浜通り地区においては地震に対しての関心は薄かった。特に、(株)一条工務店の 福島県いわき市の展示場に来場された双葉郡大熊町だったか双葉町だったかの福島第一原発のすぐそばという方、たしか大熊町だったと思ったのだがは私に「あんた、地震、地震て言うということは地元の人じゃないでしょ。ここは地震はない所だから。なんでだか、知ってる? だって原発あるもん♪ 原発は地震がある所には作らないんだよ。だから、原発があるということは大きな地震はないということなんだ。地元の人間なら誰でも知ってることだよ。あんた、知らないてことは、よそから来た人でしょ。地元の人間なら誰でもわかってることだよ。特に、うちなんか、福島第一原発のすぐそばなんだよ。ほんと、すぐそば、すぐそこなんだ♪ だから、うちはどんな地震が来たって絶対に大丈夫なんだよ」とそう言われたことがあった。それを聞いた時の私の感想はというと・・・→「おっさん、あほか」というものだった・・・が、一般に原発がある地域の人とそうでない地域の人とでは原発がある地域の人というのは地震や原発事故に対しての危険性についての認識が甘い場合が多く、又、原発に勤めている人とそうでない人とでは原発に勤めている人というのは原発の危険性についての認識が甘い場合が多い。それだけ、「原発はあ~んぜ~んで~す♪」という宣伝がおこなわれ洗脳されてきているということか・・・。 で、その福島第一原発のすぐそばの住人というおっさんの認識はあまりにも甘かった・・ということが2011年3月の東日本大震災と福島第一原発事故によって証明されたのだった。さすがに、その人も今はその時のようなことは言わないと思う。〔もしも、今でも「うちなんか福島第一原発のすぐそばだから、どんな地震が来たって絶対に大丈夫なんだよ。ほんと、すぐそこなんだ」などと言っているようなら、ほんまにアホやで・・〕
  さすがに2011年3月の東日本大震災と福島第一原発事故の後、福島県浜通り地区や茨城県北部の人の地震と原発事故に対しての意識は変わったのではないかと思うが。1990年代においては地震に対しての関心は私が(株)一条工務店に入社した1992年頃より前から「地震と言えば静岡県、静岡県と言えば地震」と(株)一条工務店が言いまくってきたわりに、今日に至るまで、釧路(北海道東方沖地震)・八戸(三陸はるか沖地震)・奥尻島(北海道南西沖地震だったか)・阪神淡路・東北地方太平洋側など(東日本大震災)・中越・熊本、そして能登半島と、静岡県以外の地域で大地震が発生して、「浜松と言えば地震ですね」とかオオカミ少年みたいに(株)一条工務店が叫びまくってきたわりに浜松にはたいした地震が起こっていないのだが、そもそも、「東海大地震が来るぞお~お」と(株)一条工務店が「狼が来た~あ」と叫ぶみたいに言いまくってきたネタ元は東大系の地震学者が「東海地震、東海地震」と言いまくっていたのが原因らしいが、これも「東大系の地震学者」と「京大系の地震学者」では東海地震の発生予想確率というものが「東大系の地震学者」の方が高いらしいし、なぜ、静岡県なのか、なぜ東海なのか・・というと、実際には地震は日本全国において起る可能性があるものだが、どこと言った方がインパクトがあるということで、東京からすぐそばでもなく遠くもなく・・という所として東海地方・静岡県がとりあげられた・・・とかいう話があり、それに乗っかって「地震が来るぞお、浜松に地震が来るぞお」と叫びまくって契約とって利益を上げたのが(株)一条工務店だった( 一一)  てことみたい・・( 一一)  ただ、だからといって、今後も浜松や静岡県地域、東海地方に大きな地震が来ないということでもないし、地震が来るかこないかにかかわらず、家は頑丈に建てておいた方がいいというのは間違いではないのだけれども、「地震が来るぞお、浜松に大地震が来るぞお~お」と(株)一条工務店が叫びまくってはや30年を超えたが、その間、大地震の被害を受けたのは釧路・八戸・奥尻島に阪神淡路・東北地方太平洋側など・中越・熊本、そして能登半島と浜松や静岡県とちゃうやんけ・・・てものだったのだ。まったくつくづく、とんだ「狼少年」だった( 一一)
  実際には釧路・八戸・奥尻島・阪神淡路・東北地方太平洋側・中越・熊本・能登半島といった所で大地震が発生して浜松や静岡県・愛知県東部には大地震は起こっていないのだけれども、世論操作の結果なのか「原発がある所」の住人には「ここは地震は来ないし、来たって原発あるから絶対に大丈夫」とかアホなこと思ってる人が多いのに対して、「東大系の地震学者」が「東海地震が来るぞお」と実際の予想確率以上に今にも来るような話として広めたという説があるのだけれども、それに乗っかった(株)一条工務店が「東海地震が来るぞお、東海地震が今にも来るぞお」と叫びまくってはや30年を過ぎて、「なんかもう聞き飽きた」て感じだけれども静岡県から愛知県東部にかけての地域においては地震に対しての関心が強い。その「原発のすぐそばなんだよ、うちは。だから、うちには地震は来ないし、たとえ地震が来たって原発あるからうちは絶対に大丈夫」とか心の底から信じているらしいおっさんに、その認識を改めてもらおうとしてもそう簡単ではなかったのだ・・けども、その人にしても福島県人だけあって「家というものは見た目なんかばっかり考えていいかげんに作ってはだめで、きっちりと構造を考えて頑丈に造らないとだめなものなんだ」という認識については否定する考えはないわけであり、2011年の東日本大震災と福島第一原発事故より前においても、「家というものは、建てる時だけ良くてもだめで、その後、何十年経ってからも丈夫で使える耐久性がある家でないとだめなんだ」という認識についても、そうだ、そうだ・・という認識の人であるわけだったのだから、そういう人にはもう「耐震性」の話は「ほどほど」にしておいて、「家というものは見た目なんかばっかり考えていいかげんに作ってはだめで、きっちりと構造を考えて頑丈に造らないとだめなものなんだ」という認識と「家というものは、建てる時だけ良くてもだめで、その後、何十年経ってからも丈夫で使える耐久性がある家でないとだめなんだ」というそちらの方を中心に話すようにすれば良かったのです。ところが、それでも「一条オリジナル遠州人」と営業本部長の天野隆夫は「一条浜松流総本舗」のやり方を強制・強要したがるのでした( 一一)  アホや( 一一)
  伊吹卓『販売のQC』(1983.6.25.日刊工業新聞社)に出ていた話だが、ある洗剤メーカーが洗濯をする際の目的は衣類をきれいにすることであり、洗剤の泡は余計であるから泡がでない洗剤を売り出せば売れるだろうと考えたがだめだったらしい。消費者の意識として、洗剤は多少なりとも泡が出てほしかったらしい。(株)一条工務店の「一条オリジナル浜松流」は「間違いのない頑丈な構造」「耐震性がある」「耐久性がある」というのはどこでも必要なものであるから、どこでもそれを「売り」にすれば評価されるはずだと勝手に思い込んでいたらしいが、実はそうではなくて、東京圏・関西圏など都市圏において「浜松の工務店」が「耐久性」をあまりにも執拗にアピールすると相手に「やっぱり、イナカの会社だねえ」「おたくはやっぱり浜松ねえ」という気持ちにならせるので「耐久性がある」という話は控えめにして、又、話す時は話し方に注意するべきで、又、2011年3月の東日本大震災より前においては福島県浜通り地方や茨城県北部においては地震についての関心はそれほどなかったので、あまりに「耐震性がある」という話をすると「地元の会社じゃない」と思われてプラスにならないが「きっちりとした構造で頑丈に建てるべきだ」という認識と「耐久性がある家にするべきだ」という認識については強い地域なので、そちらに重点を置いて話し「耐震性がある」という話は控えめにした方が良かった。洗剤において相手が洗剤の泡を欲しがっているならば多少は泡が出るように洗剤は作った方が売れたのと同じく、「きっちりと頑丈な造りで建てています」という話と「耐震性がある建物です」という話と「耐久性がある」という話は、本来はどこでも間違いでない話なのだけれども、地域によって関心の度合いは異なるので、その地域の住人に合わせた話し方をするべきであり、入社後、浜松の本社での「研修」で「浜松流」を教えられて、入社した最初は自分の考えでやるのではなく会社がこのようにやれと指示した通りにやってみるべきものだと考えて「浜松流」を実行したら、それではうまくいかないということに気づいた人が、そこでなんとか売るためにはとこういったことを考え、そして「浜松流はここには合わない」と口にするようになることがあったようだった。ところが、(株)一条工務店の「一条オリジナル浜松流」はそれが面白くないらしく、1994年だったか「売れない営業のグチ10箇条」なるものをけっこう高そうな用紙に印刷して全国の営業所(展示場)に送りつけてそれを営業所に貼れと命令してきた。「浜松流はここには合わない」というのは「浜松流」では売れないから、その地域で売れる方法で売らなきゃだめだと気づいた比較的良心的で比較的有能な営業社員が思い至ったものであり、非難されるべきは「浜松流」を非浜松に押しつけないとおれない「ほとんどビョーキ」症候群の遠州人の方であったはずだが、(株)一条工務店の「遠州人」独善主義は非浜松の人間の言うことに耳を貸さないだけでなく、けっこう費用をかけて「売れない営業のグチ10箇条」「一、浜松流はここには合わない」・・なんてものをカネかけて作って全国の営業所に送りつけたりしていた( 一一)  年間契約棟数全国1位の成績を残したこともある福島県いわき市の営業所にいた福島県浜通り地区の所長だったK野T男さんなんかは「浜松流はここには合わない」と口に出して言わなかったけれども最初から「浜松流」でやってなかったけどね(^^)/  ・・だから、「浜松流」というのは静岡県中西部・愛知県にいた営業が静岡県中西部・愛知県ではこういうやり方でやれば売れると思い込んでいた妄想でしかなく、そんなものを正直に聞いていたのでは売れなくなるとK野T男さんなんかは思ってるからハナからそんな話を聞くつもりはなかったみたいで、その点でK野T男さんの方がまともだった(^^)/  で、私もそのうち「浜松流はここには合わない」のだけれども、「『浜松流はここには合わない』と口に出して言うと『遠州人』から『売れない営業のグチ10箇条』とか言われる」から、「逆らうとうるさいから」””浜松流はここには合わない”” とは思っても口に出して言わない方がいいらしい、特に「浜松流」を非浜松に押しつけないとおれないシンドロームの「ほとんどビョーキ」の「遠州人」や「一条オリジナル従業員」には言わない方がいいらしい・・と気づいたので、言うてはいかん、言うてはいかん、本当にそうであっても言うてはいかん・・と「王様の耳はロバの耳」みたいに思うようになった。それにしても「遠州人」(この場合、「(株)一条工務店の遠州人」のことで、「遠州人一般」がどうかという話ではない)というのは、ほんま難儀な民族やった( 一一)
※ YouTube-超豪華キャスト 王様の耳はロバの耳 山口祐一郎 保坂知寿ほか https://www.youtube.com/watch?v=YiL5TX8f3Mw
そこに原発があったから-被災者は語る‐
そこに原発があったから-被災者は語る‐
販売のQC - 伊吹 卓
販売のQC - 伊吹 卓

(5)「構造がすべてだ」というアプローチを自分たちがしていると事実に反する妄想をもっている静岡県中西部・愛知県の営業と、「構造がすべて」というアプローチでは通じないと事実・現状を認識している非「静岡県・愛知県」地域の「浜松流はここには合わない」と認識している人たち。
  1990年代、(株)一条工務店の浜松での「研修」においては「構造がすべてだ」とか教えられたものだった。しかし、その割に、浜松でどうだったかはわからないが東京圏においては(株)一条工務店の工事現場を見に行くと施工内容はあまり良くなかった。(株)一条工務店が住宅展示場にアルバム帳をおいて、こういう施工ミスがあっては困りますね・・と写真入りで指摘していたそういう施工ミスが他社の工事現場で探してもなかなかなくて、(株)一条工務店の工事現場ではあった。たとえば、換気扇の穴をあけるために筋交いを切断した工事現場なんてのは同業他社の工事現場を見てまわって一生懸命探しても見つからなかったが、ところが、1993年前半、千葉県松戸市の(株)一条工務店柏 の工事現場でそれが見事にあったのだ。又、高田秀三編『これだけは知っておきたい住宅の設計と施工の知識』(鹿島出版会)には、土台の上に柱が載る所の真下には床下換気口は開けないように、床下換気口は真上に柱が載らない所に設けるべきであると指摘しているが、ところがその土台の上に柱が載っているその真下に床下換気口が開いているという工事現場が他社の工事現場ではなかなかなくて、川崎市の久地だったか津田山だったかのあたりの(株)一条工務店の工事現場にあったのだ。その上に柱が立っている土台の真下には床下換気口は開けてはならないというのは、これは高田秀三編『これだけは知っておきたい住宅の設計と施工の知識』(鹿島出版会)が指摘しているから、それはやってはならない ということではなく、誰が指摘していようが指摘していまいが、その上に柱が立っている土台の真下には床下換気口は開けてはならないものだから高田秀三編『住宅の設計と施工の知識』(鹿島出版会)が指摘していたのである。決して逆ではない。もしも、高田秀三編『これだけは知っておきたい住宅の設計と施工の知識』(鹿島出版会)が指摘していなくても、その上に柱が立っている土台の真下には床下換気口は開けてはならないものなのだ。川崎市のその久地だったか津田山だったかの工事現場では土台の下に基礎がきていない所の上に柱が立っていたりもした。私はそれを見た直後に東京事務所の工事課の主任の高須(男。当時、20代)にすぐにそれを報告したのだが、ところが高須は「それがどうしたんですか」などと言うのだった( 一一)  「それがどうしたんですか」などと言うので、「もう、知っていたのですか?」と尋ねると、高須は「いえ、知りませんけれども、だから、どうしたんですか」などと言うのだった( 一一) なに、その反応?
これだけは知っておきたい住宅の設計と施工の知識 - 高田 秀三
これだけは知っておきたい住宅の設計と施工の知識 - 高田 秀三
  住宅建築業の会社において、どの会社においてもあてはまるものもあれば、その会社によってあてはまったりあてはまらなかったりするものもある。1980年代後半、小堀住研(株)に入社した時、新卒社員研修において「小堀住研(株)の工事現場に行って施工ミスがあった場合には即座に工事課に連絡する」と教えられたものだったが、これはどこの会社においても共通するものであると私は考えていた。ところが、小堀住研(株)では工事現場に見に行って施工ミスか? と思われるものがあった時に工事課に報告すると、すでに認識している場合には「あれは・・・という方法で引き渡しまでに対処しますから大丈夫です」と説明してくれて、その時までに認知していなかった場合には「すぐ、見に行きます」と言ってくれたものだった。ところが、(株)一条工務店では東京事務所の工事課の主任の高須に連絡すると、高須は「それがどうしたんですか」などと言うのだった。「もう、知っていたのですか」と言っても「いえ、知りませんけれども、それがどうしたんですか」などと言うのだった。要するに、(株)一条工務店はそういう会社だったのだ。「間違いのない家づくり」などと言いまくり、住宅展示場には「間違いのない家づくり」とタイトルが書かれたアルバム帳を置いていたけれども、実際には他社の工事現場にはなかなか見られない施工ミスが(株)一条工務店の工事現場にはちょくちょくあって、なおかつ、工事課の主任にそれを報告すれば、それをどう処置したものか考えてくれるであろう、少しでも早くに把握しておいた方が対処もしやすいのだから報告すれば喜んでくれるであろうと思ったらそうではなくて、「それがいったいどうしたんですか」などと迷惑そうに言われてしまったのだった( 一一)  又、(株)一条工務店の工事現場の床下は無茶苦茶汚くて木くずが散乱しており、又、その頃、1990年代初めの(株)一条工務店の工事現場では床下に必ずタバコの吸い殻が落ちていた。そういう状態を「間違いのない家づくり」などと言っていた。
  やっぱり、こういうものは「改善すべきもの」であって認めてはならないものであろうとその時の私は考えたのだった・・が、ところが、1993年5月、浜松の本社に「研修」に行った時、名古屋南営業所の所長だという近藤路夫という男がこう言ったのだった。「一条工務店の工事現場に行って問題点があったなら、見なかったことにする」と。「同業他社の工事現場に言ったら悪い所ばっかり見る。一条の工事現場に言ったらいい所ばっかり見る。悪い所があったら『なかったこと』にする」とそう言ったのだ。曲がりなりにも「所長」にならせてもらっている男がそういうことを言ったのだ。しかし、「なかったこと」にしてもあるのだ。営業社員が「見なかったこと」にしても客は見るのであり、むしろ、現実に(株)一条工務店の工事現場に施工ミスがいっぱいあるのに営業社員がそれを対処しようとせずに「見なかったこと」にしたならば、客の側では「信用できない人間」「信用できない会社」と判断する可能性が大きくなる。近藤路夫という男はそういうことをやっていた男だったのだ。
  この部分において、小堀住研(株)では「小堀の工事現場に行って問題点があったら即座に工事担当者に連絡する」と研修で教えられたのに対して、(株)一条工務店においては「研修」において「一条の工事現場に行って問題点があったら『見なかったこと』にする」と教えられたのだ( 一一)  異なる構法で建てている会社の建物をどちらがいいといったことは言いにくいが、この点については小堀住研(株)の方が(株)一条工務店よりも良心的で信頼できる姿勢であった・・・と言えるはずだが、ところがこういうことを(株)一条工務店で口にすると営業本部長の天野隆夫から「エスバイエルに行け、おまえはあ。一条には一条のやり方があるんだから」と言われることになるのだったが、天野隆夫の発言からすると、その会社の工事現場に行って問題点・施工ミスがあったなら「見なかったことにする」というのが「一条のやり方」ということになってしまう( 一一)  なんとも情けない会社だなあ・・と思った。又、小堀住研(株)の松戸営業課長だった I 井さん(男。1980年代終わり当時、30代なかば)が「下の会社に行くと心を責められるような営業をしなければならなくなる」と話したことがあったのだが、実際、(株)一条工務店に入社してすぐの頃、(株)一条工務店の営業というのは「一条工務店の工事現場に行って問題点や施工ミスがあったら『見なかったこと』にする。他社の工事現場に言ったら悪い所ばっかり見る。そういうようにすれば『一条工務店の建物は最高だ』といううことになる」などと「研修」で教えていたのだった( 一一)  程度の低い会社だなあ( 一一) ・・と思った。そういう会社の建物が「間違いのない家づくり」であるわけなかったのだ。
  「いったい何、この会社は?」と思ったのは、1993年5月に浜松での「研修」で名古屋南営業所の所長だという近藤路夫が「一条工務店の工事現場で問題点・施工ミスがあったら『なかったこと』にする。他社の工事現場では悪い所ばっかり見る。そうすれば一条の建物は他社と比べて最高だということになる」などと言ったのを聞いて、いったい何、このおっさん( 一一)  ・・とあきれたのだったが、さらに追い打ちをかけるようにその直後、1993年2月に私が担当で契約してもらった千葉県市原市で建てるYさん宅では、兼業農家であったので薪が手に入ることから実際に薪を燃やす暖炉をリビングルームに設けたいが一条工務店では実際に薪を燃やす暖炉を設けることはできますかと契約前に質問され、それで私は(株)一条工務店の設計から工事課から本社の担当部署から尋ねて確認した上で「できます」と答えて契約してもらったのだが、ところが小堀住研(株)なら「実際に薪を燃やす暖炉」くらいは営業担当者がどういうものをつけるか提案しなくても、設計課・工務課でこういうものはどうでしょうかと提案してくれたのだったが、ところが(株)一条工務店はそうではなくて営業担当者が暖炉のメーカーからカタログをとりよせて、これを設置してくださいと設計担当に言わないといけないらしかったのだ。なんともめんどうな会社だと思ったが、そういうシステムならしかたがないと思って暖炉のメーカー何社かからカタログを取り寄せていたところ、営業本部長で松戸営業所長を兼任していた天野隆夫から「おい、おまえ、何やってんだ」と言われたので、「Yさんがリビングルームに実際に薪を燃やすだんろをとりつけたいと言われるので暖炉のカタログを取り寄せているんです」と話したところ、天野隆夫が「なんで、そんなものつけるんだ。つけなきゃいいだろ」と言うのです。「Yさんがつけたいと言われるのです」と言ったところ、天野隆夫が「だから、つけなきゃいいだろって言ってるんだ。わからんのか」と言うのです。「ですから、契約前に、実際に薪を燃やす暖炉をリビングルームに取り付けたいのだけれども一条工務店ではつけられますかときかれて、それで私は一条工務店の各部署に確認してできるという返事をもらって、それをYさんに話して契約してもらったんです」と話すと、営業本部長の天野隆夫は「だから、契約前に暖炉はつけられますかときかれてつけられますと答えて契約してもらったんだろ。それはいいじゃないか。今はもう契約してもらったんだから、契約してもらったからには『うちでは暖炉はつけられません』と言って適当に建ててしまえ! 何考えてるんだ、おまえはあ~あ」と怒鳴りつけられたのだった。「何考えてるんだ、おまえはあ」と言われなければならないのは私だろうか。そうではあるまい。「そんなわけにはいかないでしょう」と私は言ったが、「なんで、いかんのじゃ。なんで、そんなわけにいかんのじゃ。もう、契約して契約金として百万円振り込んでもらったんだから、うちでは暖炉はできませんと言ったら解約すると言うのならそれなら百万円もらっておけばいいことだろうが。契約前に『暖炉はできますか』ときかれたなら『できます』と答えて契約してもらえばいいが、契約したからないは『うちでは暖炉はできませんから』と言って適当に建ててしまえばいいだろうが。やってまええ~え!」と天野隆夫から言われ「何、考えてんだあ、おまえはあ!」と怒鳴りつけられたのだが、「何考えてんだあ、おまえはあ」と言われなければならないのは、それは私ではなくて(株)一条工務店の営業本部長の天野隆夫の方であろう。なんだか、とんでもない会社に入ってしまったものだと思い、恐ろしい会社に入ってしまったものだとも思った。その直後、見込客宅にアポなし訪問に出かけたものの、天野隆夫のその態度・発言を思い出し、とても訪問する気持ちになれず、その家の前まで行って引き返してきたということがあった。・・但し、これは営業本部長の天野隆夫がそういう態度・そういう姿勢の人間だったということで、(株)一条工務店の営業社員が誰もが天野隆夫のような態度・姿勢かというとそういうことではなくて、たとえば、その後、福島県いわき市の営業所に赴任した際に、いわき市の営業所にいた某さんにこの話をしたところ、「それでは詐欺だっぺえ」と言われたのだが、実際、天野隆夫がやれと言ったことは「詐欺」である。市原市のYさんが入居後、訪ねたことがあったが「おかげさまでいい家ができました」と言って喜んでもらったが、私が身体を張って営業本部長からYさんの家を守ったということはYさんははっきりと知っていたかどうかはわからないが、もしかすると、そういったこともあったかもしれないと感じられていたか、どうか・・・。
  そういう「他社の工事現場を見たら、悪い所ばっかり見る。一条工務店の工事現場で問題点や施工ミスがあったら『見ないこと』にする、『なかったこと』にする」と「研修」で教える営業所長、「契約前に暖炉はできますかときかれたら『できます』と答えて契約してもらえばいいだろうが。今はもう契約してもらって契約金百万円を振り込んでもらってるんだから『うちでは暖炉はできませんから』と言って適当に建ててしまえばいいだろうが。何、考えてんだ、おまあえはあ」と言う営業本部長の会社の建物が「間違いのない家づくり」とはチャンチャラおかしい( 一一)  その会社の建物こそ「間違い」の建物であり、「間違いのある家づくり」であろう。
  (株)一条工務店は1990年代、浜松での研修において「構造がすべてだ」とか教えていたが、しかし、実際に(株)一条工務店の建物が同業他社と比べてこの上もなく構造が良かったかというと、そうではなくて、むしろ、「他社の工事現場を見たら、悪い所ばっかり見る。一条工務店の工事現場で問題点や施工ミスがあったら『見ないこと』にする、『なかったこと』にする」と営業所長が教える建物であり、「契約前に暖炉はできますかときかれたら『できます』と答えて契約してもらえばいいだろうが。今はもう契約してもらって契約金百万円を振り込んでもらってるんだから『うちでは暖炉はできませんから』と言って適当に建ててしまえばいいだろうが。何、考えてんだ、おまあえはあ。やってまええ~え!」と営業本部長が言う建物だったのだ( 一一)
  かつ、「地方」においては「家は在来木造で建てるもの」という観念の人が多く、浜松流一条工務店が本社の「研修」で教える「構造アプローチ」も対在来木造の話ばっかりだった。しかし、浜松など「地方」においては対在来木造だけで良かったとしても、東京圏においてはそうではない。「家というものはきっちりとしたものを作らないといけない」としても、だから、鉄筋コンクリート造で建てようと考える人もいるし、ツーバイフォー工法は「地震に強い工法」と「売り」にしていたし、1992年8月に浜松の営業所から東京営業所に転勤してきた小野田くん(男。当時、20代前半)は「エスバイエルは安もんですよ、安もん」と言いまくる男だったが、小堀住研(株)〔⇒エスバイエル(株)〕が建てた建築費2億とか3億とかの家というのが「安もん」かというと違うと私は思ったのだが、それでも小野田くんは「安もんに決まってますよ、安もん、安もん」と建築費2億とか3億とかの家を「安もん、安もん」と言いまくっていたのだったが、そういう建物を建てた方がいいと思う人だっていたのだ。当然、建築費2億とか3億とかの家は「安もん」ではない・・( 一一)
  それはそれとして・・だ。(株)一条工務店の住宅展示場には「間違いのない家づくり」とタイトルが書かれたアルバム帳が置かれていて、「間違いのない家づくり」をしている会社だとアピールしていたのだった。実際には1992~1993年にかけての東京圏での(株)一条工務店の家というのは、柱が上に載っている土台の下に床下換気口が開いているわ、換気扇の穴の所で筋交いが切断しているわの家だったけれども。又、その頃の(株)一条工務店の建築現場には床下にタバコの吸い殻がいっぱい落ちていて、引き渡し時においても床下は木くずだらけで、又、1993年9月には福島県いわき市草木台 のK様艇において屋根屋が墜落して頭部を打撲して死亡した例もあったように安全対策不備で「工事現場で怪我するなんて当たり前じゃ~ん」などと言っている会社だったけれども( 一一)

  住宅に限らず建築は構造、機能(使い勝手)、デザイン・意匠と経済性の4つを満たして建築であり、どれかひとつというわけにはいかないはずのものです。(株)一条工務店に1992年に新卒入社して浜松の営業所に配属されて8月半ばに東京展示場に転勤してきた小野田くん(男。当時、20代)は「構造アプローチをやっているのは一条工務店だけで、他の会社は間取りとか値引きとかの話だけで契約とってる」などと事実に反することを言いまくるので、「そんなことないよお」と教えてあげたところ、「〇〇さん、そんなこと言うならエス・バイ・エルに行けばいいでしょう。エスバイエルは値引きだけで契約取る会社でしょう」などと言うので、「違うよ。エスバイエル〔←小堀住研(株)〕は値引きはそれほどしない方の会社だよ」と教えてあげたところ、「そんなこと言うなら〇〇さん、エスバイエルに行けばいいでしょう。エスバイエルは一条工務店と違って値引きしか取り柄のない会社ですよ。ドカンと値引きして契約とる会社じゃないですか」と言うので「そういう会社もあるかもしれないけれども、エスバイエルはそういうやり方はやってないよ」と教えてあげたのだが、小野田くんは「エスバイエルは値引きで契約とる値引きしか取り柄のない会社ですよ」と言ってきかなかった( 一一)  いったい誰なんだ、新卒入社の小野田くんにそんなアホなことを教えた人間は?  まず、戸建住宅建築業の会社には最初に高めの金額を提示して、そこからドカンと値引きをして「お得感」を与えて契約書にサインしてもらうというのを作戦としている会社があるようだが、小堀住研(株)⇒エスバイエル(株)はそういう方法はとっていなかった。1990年頃、小堀住研(株)⇒エスバイエル(株)は木質パネル構法における自由設計の高級志向タイプの「新桂」および「小堀の木造」と、「高品質低価格」タイプの企画住宅の「ハウス55」シリーズの2本立てになっていたが、「新桂」および「小堀の木造」については、これは他社との提案競技の上で選んでもらうということになり、他社との提案競技で勝つためには使うものもいいものを使った方が魅力的なものを提案できることになり、そこで提示する金額より安い物を使用したもので提案したのでは他社との提案競技に負けてしまうことになるので「ふかした」値段を提示することはできず、その結果、提示した見積書の金額より値引きをするとしても、端数分とか「気持ちだけでも」とかそれほど大きな金額にはできない。又、企画住宅の「ハウス55」シリーズは「建設省・通産省による国家企画として、高品質な住宅を低価格で」という趣旨での「ハウス55計画」がもとになっていて、「高品質低価格」、この品質にしては低価格、この金額にしては高品質というのを「売り」にするものなので、最初の時点で利益率は低く、その結果、値引き交渉をされてもそれほど大きな金額を引くことは無理で、あくまで「気持ちだけ」とか「端数分」とかそういったものだったのだ。戸建住宅建築業の会社では最初に高めの金額を提示して、その金額の商品なのだと思わせて、そこからドカンと値引きをすることで「お得感」を持たせて契約にもっていくという作戦をとっていた会社もあったようだが、小堀住研(株)⇒エスバイエル(株)はそういう方法はとっておらず、「新桂」および「小堀の木造」も「ハウス55」シリーズもドカンと値引きをして契約に結びつけるというやり方はおこなっておらず、ドカンと値引きをしようとしても、最初の提示の金額がそれほど利益率を高く設定したものではなかったのでドカンと値引きをして契約をとるということはできなかった。小野田くんはそういう会社もあるという話をどこかで耳にして、その話をそういう手法をとっていない会社にあてはめただけでなく、「それは違うよ」と親切で教えてあげても頑固にきかなかったのだった。小野田くんはその時点でまだ20代の前半だったが、若くても思考が硬い人というのはいたのであり、こんな思考の硬い頑固な・科学的思考ができない人間が今は「大卒」を名乗っているのかとあきれた( 一一)
  (株)一条工務店の1992年8月に浜松の営業所から東京営業所(江東区潮見)に転勤で来た小野田くん(男。新卒入社1年目)が展示場の事務所で元から東京営業所に在籍した従業員に言いまくっていた、又、来場客にも話していた「住宅建築業の会社で構造についての話をするのは一条工務店だけで、他の会社は間取りやデザインの話ばかりして値引きで契約とってる」という話は正しいか? ・・というと、正しいわけないのだった。小堀住研(株)⇒エスバイエル(株)について言えば、元々は在来木造の会社だったが、ある時から木質パネル構法での建築が中心にシフトしたのだが、なぜ、そうしたかというと、ひとつは(株)一条工務店が最初は手加工で在来木造の家を建てていたが、そのうち、手加工のものではできのよくないものができると判断して機械プレカットで建てる方法(本によっては「プレカット工法」と書いているものもある)に切り替えたのと同じ理由があったのではないかと思われるのだが、木質パネル構法での施工にシフトした。(株)一条工務店が手加工での在来木造から機械プレカットでの在来木造に移行した時、その時点では機械プレカットで加工しての在来木造は建売住宅が多く、請負で建てていた(株)一条工務店がその時点では建売で多く取り入れられていた機械プレカットでの在来木造施工というものが、はたしてやっていけるものかと不安もあったが実行して軌道に乗ったというのと同様、在来木造でやってきた小堀住研(株)が木質パネル構法に重心を移した時、それまでに木質パネル構法で建てていた会社というと、木質パネル構法でも内容は異なる部分があるけれどもミサワホームが木質パネル構法で建てていたが、ミサワホームは規格住宅が多かったのに対して小堀住研(株)は自由設計・注文住宅の会社だったことから、規格住宅でならミサワホームが建てていたが自由設計・注文住宅では実績がない木質パネル構法を自由設計・注文住宅の小堀住研(株)が取り入れてうまくいくかどうかという不安があったがそれを取り入れて実績を残した・・ということだったらしい。(株)一条工務店のオリジナル営業や小野田くんのような「浜松育ち」(新卒入社してから浜松で怪しいことを吹きこまれてきた男)にはエスバイエル(株)←小堀住研(株)にはエスバイエル(株)に非論理的・非科学的な悪口雑言中傷を加えたがる人間が多かったのですが、実は(株)一条工務店とエスバイエル(株)←小堀住研(株)にはこれらの共通点があったのです。ほかにも、(株)一条工務店の営業本部長の天野隆夫は1993年、千葉県松戸市の展示場で新人営業に「『エスバイエルのハウス55なんか建てたら地震の時にひっくり返りますよ』と言ってやれ」と言うので、そんなことうかつに言ったらカウンターパンチを食らうぞ・・と思ったものでした。小堀住研(株)⇒エスバイエル(株)の木質パネル構法は「新しい構法」であることから、特に在来木造に対しては「在来木造より何倍強い」といった理論があり、「その理由は・・・」といったものを営業担当者は身につけており、同業他社から、特に在来木造の会社からおかしな攻撃をしてくれたなら、むしろ、ボクシングにたとえればカウンターパンチを打つチャンスをもらったみたいなものであり、いわば「どうぞ、カウンターパンチを打ってください」というような無計画な攻撃をやるように(株)一条工務店の営業本部長の天野隆夫は新人営業に教えていたのでした。そもそも、(株)一条工務店の営業本部長の天野隆夫は「ハウス55」という建設省・通産省が共同でおこなったプロジェクトを非理論的にけなしたがるのでしたが、建設省・通産省が共同でおこなった「ハウス55計画」の後、建設省が単独でおこなったプロジェクトとして「ハウス55計画」の在来木造版として「家づくり85プロジェクト」というものがあり、(株)一条工務店は「信頼大きく六冠王」というカタログを作って、その「家づくり85プロジェクト」に(株)一条工務店が入選しました・・というのを「売り」にしていたのでしたが、「ハウス55計画」と「家づくり85プロジェクト」は姉妹版のプロジェクトであり、自分の所が「売り」にしているものの姉妹版をけなしたのでは、巡り巡っては自分で自分の所のものをけなしていることになってしまいます。だから、そういう変なことは言わない方がいいと私は思ったのでしたが、ところがそれを言おうとすると天野隆夫は「おまえはエスバイエルに行けえ!」などと言うので言えず、その結果、(株)一条工務店が「入選しましたあ♪」と「売り」にしていた「家づくり85プロジェクト」の姉妹版である「ハウス55計画」を非論理的・非科学的に一生懸命けなすように新人営業に天野隆夫は吹き込み命令するのでした。なんか、程度低いなあ・・・とその点についてうんざりしました。又、私は(株)一条工務店のためを思って、又、天野隆夫のためを思って天野隆夫に言ったのに、「おまえはエスバイエルに行けえ」だのそういうことを言う天野隆夫という男というのも人間としていかがなものか・・とも思えました。 小堀住研(株)は元々は在来木造の会社でしたが、1990年代の初めまでは東京都と関西圏のみ、坪80万円くらいから上の価格帯のみ在来木造は残して、クルマにたとえるならば「センチュリー」か「クラウン」の上の方くらいのみ在来木造は残して、ほかは木質パネル構法で建てていたのですが、木質パネル構法は「新しい構法」であることから、もしも、在来木造で建てていたならば「そんなもの」みたいな気持ちで在来木造で建てる会社に依頼してくれる施主もあるかもしれないけれども、木質パネル構法はそうではないので、木質パネル構法というのは決していいかげんに建てている安物構法ではなく在来木造より優れた構法なのだといった構造についての話を必ず見込客に対しておこなっていたのです。在来木造で建てている会社ならばそういった「構造アプローチ」をしなくても契約してもらえるケースがあるでしょうけれども、木質パネル構法の場合は木質パネル構法は在来木造よりもツーバイフォー工法よりも優れた構法で、又、ミサワホームの木質パネル構法よりも小堀住研(株)⇒エスバイエル(株)の木質パネル構法はこういう点で優れているのですといった構造についての話を必ずおこなっていたのであり、それをやらなければ契約してもらえなかったのです。(株)一条工務店の小野田くんが叫びまくっていたような「エスバイエルは間取りや値引きの話ばっかりで構造についての話はまったくしない」というデタラメをもしも本当にエスバイエル(株)←小堀住研(株)の営業がやったなら、まず売れないことになったでしょう。もしかして、エスバイエル(株)←小堀住研(株)の営業の中にそんなことやっている「売れない営業」が全国に1人か2人いたとしても、そういう人は希少な人であり、大部分の営業は構造についての話を間違いなくしていました。(株)一条工務店の営業本部長の天野隆夫は小野田くんのようにデタラメ・デマカセ・思いつきで同業他社に対して悪口雑言中傷を言いまくる人間が大好きだったのですが、あんまりいい性格してませんね( 一一) ・・そんなもので、小堀住研(株)⇒エスバイエル(株)は1990年代初めにおいては、在来木造の場合は「小堀の木造」というものに対しての信頼から設計力での勝負に重心を置いていたが、木質パネル構法の方については「新しい構法」であるということから、構造についての話をしないでは契約してもらえず、逆に「新しい構法」であることから「在来」の構法より優れているのだと構造についてのアピールができて、その「新しい構法が」高く評価されたなら契約につながる可能性が大きくなることから、構造についての話は重視していたはずでした。小野田くんは「浜松の営業所で平松所長の隣の席に座っていた」というのを「ちょっと自慢」みたいに何度も話していたのでしたが、「通算契約棟数全国2位の人の隣の席に座っていた」としても小野田くん自身は入社して4か月半経って通算契約棟数ゼロ棟であったわけで、「通算契約棟数全国2位の人」の隣に座っていた「通算契約棟数ゼロ棟の人」というのが何か自慢になるか・・というと、あんまりならないように思えたのだけれども、さかんに「平松所長の隣の席に座ってましたあ」と言いまくっていたが、平松さんはおのれは「通算契約棟数全国2位」であったとしても、それなら「隣の席に座っていた」男にも、もうちょっと、まともなことを教えてやったらどうだったのか・・と思いました。〔まず、「通算契約棟数全国2位の人」と「通算契約棟数全国2位の人の隣の席に座っていた通算契約棟数ゼロ棟の人」は違うんだ、ということをまず第一にきっちりと教えてあげるべきだったのではないか。〕私は同業他社の展示場に見学に行ったこともあり、又、(株)一条工務店には同業他社から転職で来て営業の職種についていた人もあり工事課に勤務した人もあり、私はそういった人たちに「一条工務店以外の戸建住宅建築業の会社では間取りや値引きの話ばっかりして構造についての話はまったくしないなんてそんなことないですよね」と尋ねてみたのだが、誰もが「そんなことありませんよ。構造についての話をしていますよ」と言うのだった。小野田くんは「嘘でも百回言えば真実」みたいに「構造についての話をお客さんにするのは一条工務店だけで、他の会社はどこも、間取りや値引きの話ばっかりしていて構造の話はまったくしない」と叫びまくっていたのだったが、「嘘でも百回言えば真実」と思っていたかもしれないが、嘘は何回言っても嘘です( 一一)
・・で、1990年代なかば、私が(株)一条工務店に入社した時点では神奈川県の営業所にいて、私と同時期に福島県いわき市の営業所に転勤したベテランの木南さん(仮名)にこの小野田くんなどが言いまくる「構造についての話をしているのは一条工務店だけ」という嘘っぱちについて話したところ、木南さん(仮名)が言ったのは「違いますよ、よその会社も構造についての話をしていますよ」と言い、「だから、それは違うんですよ。『構造についての話をしているのは一条工務店だけ』ではなくて『構造についての話しかしないのは一条工務店だけ』なんです。『構造についての話をしているのは一条工務店だけ』とは違いますよ。ほかの会社も構造についての話をしていますよ」と言うので、あ、そうか・・・とわかった。小野田くんは浜松の先輩営業から「構造についての話しかしないのは一条工務店だけ」を「同業他社は間取りや値引きの話ばっかりして構造についての話はまったくしない。構造についての話をするのは一条工務店だけ」と似ているといえば似ているけれども実際は相当違うことを教えられて、それを実際にそうか自分自身で確かめようとすることなく信仰していたのであり、その信仰をもとに入社4か月半の通算契約棟数ゼロ棟の男が東京展示場に転勤してきた「営業のやり方を教えてやる」などと傲慢な口をきいて、「構造についての話をしているのは一条工務店だけで、他の会社は構造についての話はまったくしていませんから」と事実に反する話を一生懸命広めていたのだった( 一一) かつ、そういうことをする男が営業本部長の天野隆夫は好きだったのだ( 一一)
   それで、浜松の営業所に4月から8月なかばまで在籍して(株)一条工務店の浜松の営業所のアホどもからおかしなことを教えられてきた小野田くんがそれを信じて変なことを得意がって言いまくるのは相手にするのもあほくさい。フリードリヒ=ニーチェは『ツァラトゥストラはこう語った』において「汝らの使命は蠅叩きとなることにあるのではない」と述べている。だから、(株)一条工務店の程度の低い浜松営業から変なことを吹きこまれてそれを信仰している男が何を言おうがいちいち相手にする方があほくさいので、そういう男のあほくさいデマカセ・デタラメ発言は放っておくとして・・・・・
※ YouTube-ツァラトゥストラはかく語りき/《2001年宇宙の旅》テーマ https://www.youtube.com/watch?v=91173MqgohI

  [第2005回]《住宅建築契約時の親戚の対応の間違いを間違った相手にあたる者と、施主側もまた契約には責任があると理解できない施主とその甥の話。》https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/500893566.html で述べた 1992年に(株)一条工務店の東京営業所(展示場)(江東区潮見)にいた橋本薫(男。当時、20代)の叔父でエスバイエル(株)の「ハウス55」を建てたという人の担当営業は、どうも、エスバイエル(株)の営業担当者として優秀とは思えなかった、又、「弱気の営業」という印象を受けた。 橋本薫の叔父のようなあまり客質が良くない見込客に対して、営業があまり弱気の態度で出ると、いくらでも増長させてしまうことになる。そういう相手には弱気に出てはいけないのだが、どうも、橋本薫の叔父の家を担当したエスバイエル(株)の担当営業は「弱気の営業」だったのではないかという印象を受けた。
  1980年代後半に私が小堀住研(株)に入社した時、最初の新卒社員向け営業系研修において、「『ハウス55』と『ハウス55 システムフリー』は完全に別の商品だから、それを絶対に忘れてはいかんで。『ハウス55』は『プラン売り』の商品で、使用する部材が標準仕様のものとオーダーエントリーのものとに決まっていて、そこから選ぶということと、それとプランが何百種類決められていて、そこから選んで建ててもらうという方法をとることで「高品質低価格」のものを実現したというものだけれども、《その『ハウス55』のシステムを利用して間取りはフリー》というのが『ハウス55システムフリー』であって、『ハウス55』は企画プランの中から選んで建てるということで設計の手間を省けるということから、その分、割安というものだけれども、『ハウス55システムフリー』は『間取りはフリー』であって一から設計するものだから『設計の手間を省く』ということで割安にはならない商品だから、同じものだと思われてしまうとだめで、『ハウス55』で進めたなら最後まで『ハウス55』で行くようにして、『ハウス55システムフリー』でいくなら最初から『ハウス55システムフリー』でいくようにしないと、途中で『ハウス55』から『ハウス55システムフリー』に変更すると、ずいぶんと高くなったみたいな印象を与えてしまうから、途中で『ハウス55』から『ハウス55システムフリー』への変更は極力やったらいかんで」と教えられたものだった。ところが、橋本薫の叔父の家の担当営業はそれをやったらしかった。しかも、「ハウス55」から「ハウス55システムフリー」への変更をあえてやる場合には、これは別の商品ですからねということを念を押すくらいに説明しておくべきであったはずだが、それをできていなかったようだ。又、たとえ、ある部分において「なんだか、ずいぶんと高くなったな」と思われたとしても、「人間関係の中で売る」という小堀住研(株)のTQC推進本部営業部会課長だったMさんが研修の際に話していたことをやってそれがある程度以上成功していたならば、たとえ「(『ハウス55』から『ハウス55システムフリー』へ変更したことで)ずいぶんと高くなったな」と思われても「何々さんを困らせてもしかたがないから、もういいよ」と考えてもらえる場合があるのだが、それもできていなかった。そのあたりを見ると、橋本薫の叔父の家の担当をしたエスバイエル(株)の担当営業というのは、どうも「弱気の営業」であるとともに、どう考えてもあまり優秀な営業とは思えなかった。
  それとともに、小堀住研(株)⇒エスバイエル(株)は「あまり値引きはしてくれない会社」と見込客の間で認識されていた会社で、その点で(株)一条工務店の営業の小野田くんは見込客が理解・認識していることをその業界に勤めていながら認識できていなかったのだが、小堀住研(株)⇒エスバイエル(株)は「あまり値引きはしてくれない会社」であったのは、高級志向の「新 桂(しん かつら)」の方は他社との提案競技に勝つことで契約してもらうという性質の商品であることから、他社との提案競技に勝つためには使用する物も比較的いいものを使用した方が魅力的なものを提案できることになり、なおかつ、私自身が担当であったり周囲の営業が担当であったりしたケースでも和風で競合になることが多かったのは住友林業・杉坂建築事務所・佐藤秀工務店・菊池建設・中央住宅・・といったところがあり、洋風では三井ホーム・三井ハウス・野村ホーム・東急ホーム・三菱地所ホーム・大成パルウッド・スウェーデンハウスといったところが競合になることが多かったが、提案競技になってプランと見積もりを提出すると、プランは小堀住研(株)のものがいいが金額では他社のものの方が施主が考えていたものに近い・・となることがあり、営業は施主の予算をききだそうとするけれども、はっきりと正直にすべての人が教えてくれるわけでもなく、営業担当はこの内容で見込客の気持ちをつかんだとしてこの金額でついてきてくれるか・・と内心、びくびくしながら提案・提出しているのであり、「高めの見積もり」を出してそこから値引きをすることで契約してもらおうなどとすると、その「高めの見積もり」が仇になって断念されてしまう危険があり、「高めの見積もり」を出すわけにいかなかったため、契約までの間に最初に出した見積もりから値引きをしようとしても、もともと高めの金額を出していないので、大きな値引きはできないということになったし、又、「高品質低価格」の「ハウス55」の方はというと、これは「高品質で低価格」、その内容から考えると低価格、その金額から考えると高品質というのが「売り」のものであり、最初の時点で安めの金額を提示することで「この内容のものがこの金額で建てられるなら」と思ってもらって商談を進めるというものなので、最初の時点で高めの金額を提示して折衝しているうちにドカンと値引きをすることで「お得感」を持たせて契約してもらおうという作戦をとっているハウスメーカーの商品とは違うので、大きな値引きはできなかったのだ。この点で(株)一条工務店で1992年に浜松から東京営業所に転勤してきた小野田くんがデタラメ・デマカセで言いまくっていたことは事実・実状に反する、事実・実業とは正反対のものだったのだ。
  しかし、「小堀は(他のハウスメーカーと違って)なかなか値引きしてくれない」と〔(株)一条工務店の小野田くんとは違って〕見込客は知っていたのだけれども、まったく値引きをしないというわけではなかった。(株)一条工務店は1990年代、「値引きは一切しない」ということにしていたが、その理由として「値引きをして契約をすると、値引きを要求したお客さんが得をして、値引きを要求しない人は損をする結果になる。それではいけない」とか「値引きを要求したお客さんに値引きをして、値引きを要求しなかった人には値引きをしないで契約すると、結果として値引きを要求した人は値引きを要求しなかったお客さんが払ってくれたお金で家を建てたことになる」とかいった理由・理屈を口にしていたが、それは””「あとづけ」の言い訳トーク”” であり、実際は(株)一条工務店は「セゾン275S1」という商品を「施工面積」という延べ床面積よりも広めになるように設定した(株)一条工務店独自の面積、「坪単価」にすると延べ床面積の坪単価よりも施工面積の坪単価の方が安くなり、安めに見えるように設定された「施工面積」において、東京都・神奈川県においては坪55万円で販売させられていたのに対して、八百長横綱の古橋が勤務していた静岡県浜松市とか、やはり、八百長横綱で通算契約棟数全国1位と称していた近藤正夫がいた静岡県掛川市とかでは東京都・神奈川県では坪55万円のものを坪48万円でウルトラのダンピング販売をおこなっていて、「同業他社の工事現場に言ったら、悪い所ばっかり見る。一条工務店の工事現場に言ったらいい所だけ見る。一条工務店の工事現場で問題点があったら『なかったこと』にする。こういう見方をしないといけない」と「研修」で教えていた近藤路夫が営業所中になっていた名古屋南営業所では坪49万5千円とこれもウルトラのダンピング販売をおこなっていて、なおかつ「通達」ではそういう連中が高い金額で売らされている地域の従業員に対して「ダンピングは認めません」などと書いて送りつけてきていたのだったが、そういう古橋や近藤正夫・近藤路夫のダブル近藤が勤務していた営業所、浜松・掛川・名古屋で(株)一条工務店で契約して建てたお客さんというのは、東京都・神奈川県などで契約して建ててくれたお客さんが払ってくれたお金で家を建てたようなものだった。だから、一条オリジナルが言いまくっていた「『値引きを要求したお客さんに値引きをして、値引きを要求しなかった人には値引きをしないで契約すると、結果として値引きを要求した人は値引きを要求しなかったお客さんが払ってくれたお金で家を建てたことになる』から値引きはしない」という理屈はあまり適切なものではなかった。(株)一条工務店は1990年代は「坪いくら」で契約して、契約後に設計をして図面を決めて建てるということにしていて、契約時はあくまで「坪いくら」であって契約書の契約金額の欄は空欄で、これは建設業法違反のはずだったが、それをやっていたのは「地方」においては在来木造で・構造材はムク材を使って・できるだけ国産材をつかって・・という在来木造で建てたい人という需要が一定以上あり、そういう人に契約してもらおうとした場合、たとえば、在来木造でも集成材を構造材に使っていて・輸入材を構造材に使っていた住友林業(株)との競合においては、そのあたりを評価してもらって契約してもらおうとした方が(株)一条工務店は強く、どういうプランで建てるかというプランニングをおこなって比較されることになると(株)一条工務店は弱かったので、弱い所で勝負するのではなく強い所で勝負するようにした方がいい、ということから「坪いくら」での契約にしていて、そういう契約である以上、値引きというものをやろうとしてもやりようがなかったということがあったが、それとともに「地方」中心の会社であったからということもあったのではないか。 小堀住研(株)⇒エスバイエル(株)の場合は、「大幅な値引きをしてしまうと、値引きを要求した方には安い値段で、値引きを要求しなかった人には高い値段で売ることになり不公平になってしまう」といった(株)一条工務店とよく似た「値引き防止トーク」というものはあったけれども、大阪市に本社を置く会社で創業者は滋賀県出身で「近江商人の土地」の出身の人が「大阪商人の土地」で始めた会社であったことから、「ビジネスである以上は値引き交渉が入るのは当たり前」という認識・意識があったということもあったのではないか、とも思う。(株)一条工務店のオリジナル営業は「値引きをする営業にろくな人間いませんから」などと言う者がいたが、たとえば、滋賀県出身の作家 花登筺の小説に登場する大阪の店の者が誰もが不誠実な人間だったかというとそうではないはずだが、「(株)一条工務店の遠州人」にこういうことを言っても通じない。
※ YouTube-NHK連続テレビ小説第24作「鮎のうた」テーマ音楽https://www.youtube.com/watch?v=3vgbbaVFcUw
YouTube-銭の花 細うで繁盛記 旅館山水館 https://www.youtube.com/watch?v=jlipoy1IH4U
  だから、小堀住研(株)⇒エスバイエル(株) では「住宅メーカーの中では値引きはしない方の会社」だったようで、その点、(株)一条工務店の1992年8月に浜松から東京営業所に転勤してきた小野田くんの妄想とは正反対だったのだけれども、「ビジネスである以上、値引き交渉が入るのは当たり前のこと」という認識が「大阪商人」「近江商人」の意識にはあったからか、金額の幅は大きくはないけれども、いくらかの値引きはおこなったりしていたし、もしも、相当の値引きを要求されそうだと予想された時には「オンする」と言って、あらかじめ普段の見積もり金額より値引きするための金額を「載せる」金額で見積書を作成して、「載せた」分を値引きするということもしていた。だから、橋本薫の叔父のように、おのれがその金額で納得して契約して建てて入居したはずでありながら、入居してから、なんたらかんたら、ぐっちゃらぐっちゃら、最初に進めていた「ハウス55」の金額に比べて最終的に契約して建てた「ハウス55システムフリー」のものはずいぶんと高くなったと、担当営業に言うのではなく他に言いまくる男が相手の場合には、その対策のひとつとして、「『ハウス55』から『ハウス55システムフリー』に変更することで金額が少々高くなってしまいましたけれども、『ハウス55』と『ハウス55システムフリー』は別のものなので、これはどうしようもないことなんですよ。しかし、そうであっても何何さんにとっては当初より高くなったお気持ちになられるというのもわからないことはありませんので、私どもも相当頑張らせていただきまして、これだけ引かせていただきます」ということにして、いくらか値引きをしてあげれば、今一つ賢いと思えない「橋本薫の叔父」はそれで喜びよったかもしれん・・。それを、なぜ、エスバイエル(株)の「橋本薫の叔父」の家の担当営業はできなかったのか・・・というと、営業としてあまり優秀でなかったということが考えられるが、もうひとつ、「弱気の営業」であったから、最後の最後、どうしようもない時に使えるように用意されている値引き幅を比較的早い時期に出してしまっていたのではないか。だから、「『ハウス55』から『ハウス55システムフリー』に変更することで金額が少々高くなってしまいましたけれども、『ハウス55』と『ハウス55システムフリー』は別のものなので、これはどうしようもないことなんですよ。しかし、そうであっても何何さんにとっては当初より高くなったお気持ちになられるというのもわからないことはありませんので、私どもも相当頑張らせていただきまして、これだけ引かせていただきます」というように最後に出そうとしても、もうすでに先に出してしまっているので出せなかったのではないか・・ということが可能性として考えられる。「橋本薫の叔父」についいては、担当営業も今一つ、優秀な営業という印象がしないのだが、同時に施主(「橋本薫の叔父」)の方も、客の側の立場としてあんまり・・・というところがあるのは間違いないことだった。

  それで、自分が勝手な妄想もって事実・実状に反することを「営業を教えてや~る」とか言って嘘を広めていた男のことは、この際、どうでもいいとして、(株)一条工務店のオリジナル営業、静岡県中西部・愛知県地域の営業というのは、機能(使い勝手)やデザイン・意匠や経済性についての話はしないで、構造についての話だけで契約に結びつけていたのか?  実際には住宅を建てるにおいては構造は大事であるとしても、デザイン・意匠も機能(使い勝手)も大事であり、経済性についても大事であるはずで、もしも、構造についての話しかしないならば、それは「片肺飛行」のようなものではないのか。私は2014年に埼玉県の川口土木建築工業(株)の工事現場で右足の甲を骨折して3か月余り、松葉づえでの生活をしたが、たとえ、片方の足が丈夫であっても他方の足が不自由だと歩行は大変だった。構造と機能(使い勝手)とデザイン・意匠と経済性の4つについて、ほかの3つが並みであっても特定の1つがずばぬけてすばらしいということなら、それは「売り」になるだろうけれども、ほかの3つが「まるでだめ」である場合、あるいは「まるでだめ」とまでいかなくても、機能(使い勝手)とデザイン・意匠と経済性についての話を避けるならば、特定の1つだけで契約しようという気持ちになってもらおうとするならば、その特定の1つについて、通常以上にものすごいものがないと契約してもらうのは難しいのではないのか。それを、箱根の関より西、鈴鹿の関・不和の関より東の営業は軽々とやっていたのか?
  ・・・答えは否だ。浜松の研修において、彼らは非浜松の地域の従業員、箱根の関より東、鈴鹿の関・不和の関より西の地域の従業員に「一条工務店は構造だけで契約をとってきた」と教えていたが、それは嘘だった。(株)一条工務店の静岡県・愛知県の営業、オリジナル営業が箱根の関より東、鈴鹿の関・不和の関より西の従業員に「研修」で教えてきたものは、それをやったら売れなくなるというものだったのだ。その上で、新入社員向けの「通達」には「入社してしばらくは、すべて指示の通りに従うこと」などと書いていたのだった。
  1992~1993年頃、東京圏において(株)一条工務店が建てた家を見ると「今ひとつぱっとしない」だったり、「じじむさい」「いなかくさい」「あかぬけない」というものが多く魅力に乏しいものが多かった。 だから、そういうものを見た上で「一条オリジナル遠州人」から「家は構造が大事であって外観デザインとかはどうにでもなりますから」とか教えられると、「一条オリジナル遠州人」は「間違いのない家づくり」という構造についての話だけで契約してもらっているのか? ・・と思いそうになります・・・が違います。
  まず、戸建住宅の外観デザインについての好み、内装についての好みというのは、それはその地域によって相当違うのです。1992~1993年の(株)一条工務店の建物というのは洋風でも和風でも「遠州好み」だったのです。この場合、「遠州好み」というのは「千利休が好んだ」という意味での「利休好み」、「古田織部が好んだ」という意味での「織部好み」と同じく「小堀遠州が好んだ」という意味での「遠州好み」という意味ではなくて、「遠州人の好み、遠州地方に合うデザインを日本全国に押しつけないとおれないほとんどビョーキ症候群」という意味です。「『空の一部分の広さは浜松の広さと同じだ』と言うならそれは正しいが、『空の広さは浜松の広さと同じだ』と言うなら、それは間違っている」と言うと「一条オリジナル遠州人」は激怒するのです。1993年5月、「浜松でいいものは日本全国、東京でも大阪でもいいに決まってるんだ。東京の街中でも八寸角の大黒柱は絶対にいいんだ。20坪の土地に建てる人でも30坪の延べ床面積の家でも二間続きの和室は絶対に必要なんだ。おまえはこんな常識すらもわからんのかあ~あ!」と私は「一条オリジナル遠州人」のひとり、名古屋南営業所の所長だったらしい近藤路夫から怒鳴りつけられたのです。私はこの話を東京圏在住の友人知人何人かに話したのですが、話した相手全員から「その人(近藤路夫)、アタマおかしいのと違うのお~お?」「その人(近藤路夫)、酔っ払いか何かなのお~お?」と言われました。そういうのが(株)一条工務店の「所長」なのです、そういうのが( 一一)
  1993年9月に福島県いわき市の営業所に勤務し、双葉郡広野町のJR常磐線「広野」駅の近くの(株)一条工務店が建てた入居者宅で「セゾン275S1」のもの、「(株)一条工務店の外観デザイン」は「タイル貼りのセゾン」と「タイルを貼らないセゾン」と「いなかくさい農家風の寄棟の和風」と「いなかくさい切妻の和風」の4種類しかないと言われていたのですが、そのうちの「タイル貼りのセゾン」のけっこう大きな家が建っていたのですが、「これは悪くないな」と思ったのです。どこが「悪くない」かというと、「その場に合っていた」のです。
  1998年に栃木県佐野市の営業所に行った時、栃木県地域の所長だった五十嵐さんに「私は東京で入社して福島県に行って栃木県に来ましたけれども、住友林業と競合になった場合、今は多少違うかもしれませんが1992年に私が入社した頃は東京では住友林業が相手だと、まるで序の口か序二段の力士が横綱か大関に立ち向かうみたいでしたが、福島県に行くと浜通りでも中通り・会津地方でも一条工務店と住友林業なら営業の能力・努力が五分と五分なら一条工務店の方が間違いなく有利で、栃木県は東京都と福島県の間なので、もしも営業の能力と努力が五分と五分ならば6対4くらいで一条工務店の方が有利かと思ったら、そうではないですね。そうではなくて、むしろ、4対6くらいで住友林業の方が強いですね」と話したことがあったのだが、五十嵐さんはけっこう古くから(株)一条工務店に在籍している人で「通算契約棟数100棟以上」の一人として「年誌」の「一条工務店の土台を支えてきた人たち」という所に顔写真も出ていた人でしたが、箱根の関より西、鈴鹿の関・不和の関より東の地域でしか営業やったことがない「東海地域の中のカエル」「静岡県・愛知県の中のカエル」の人とは違って自分自身で栃木県地域で営業をやってきた人だけに、又、福島県中通り地区の所長で「大澄社長の腰巾着」と従業員の間で言われていた片山が五十嵐さんのことを「天野常務(営業本部長)の腰巾着」と言いまくっていたらしいが、実際には五十嵐さんはそんなに「腰巾着」という感じの人でもなく、もしも、「一条オリジナル遠州人」に多い「根っからの腰巾着」タイプの人間ならば、私が「私は東京で入社して福島県に行って栃木県に来ましたけれども、住友林業と競合になった場合、今は多少違うかもしれませんが1992年に私が入社した頃は東京では住友林業が相手だと、まるで序の口か序二段の力士が横綱か大関に立ち向かうみたいでしたが、福島県に行くと浜通りでも中通り・会津地方でも一条工務店と住友林業なら営業の能力・努力が五分と五分なら一条工務店の方が間違いなく有利で、栃木県は東京都と福島県の間なので、もしも営業の能力と努力が五分と五分ならば6対4くらいで一条工務店の方が有利かと思ったら、そうではないですね。そうではなくて、むしろ、4対6くらいで住友林業の方が強いですね」と言ったならば、「一条オリジナル遠州人」ならば・「根っからの腰巾着」タイプならば「いや、そんなことない。どこでも一条工務店の方が圧倒的に強いはずだ」とかなんとかかんとか、もう自分自身は一線の営業はしないと思うと勝手なことを言いまくるところでしたが、五十嵐さんはそうではなく、「いやあ、4対6じゃなくて3対7くらいで住林の方が有利じゃないかあ」と言ったのでした。「根っからの腰巾着」タイプの人ならばそんなことは言いません。「大澄社長の腰巾着」と従業員の間で言われていた福島県中通り地区の所長だった片山が「天野常務の腰巾着」とか何とか悪口雑言を言いまくろうが、そんなに「腰巾着」タイプの人ではないので、かつ自分自身で努力して栃木県地域で営業活動をやり契約を取ってきた人でしたので、正直に思った通り「いやあ、4対6ではなくて3対7くらいで住林の方が有利じゃないかあ」と発言したのでした。私は五十嵐さんのそのあたりの正直なところを評価しています。実際には「3対7までいかないとしても4対6より住友林業の方が有利」というくらいだったのではないでしょうか。それで、最初からずっと栃木県で勤務していた人は気づいていない人が多かったのではないかと思うのですが、「地方」に行くと「家というものは在来木造で建てるものだ」「家は構造材はムク材で建てるものだ」「家の構造材はできるだけ国産材で建てるものだ」という観念が強いところがあり、東京圏など都市圏においてはそれが弱い。栃木県は関東地方とはいえ、東北に近い関東地方なので福島県にそのあたりの感覚は近いかと思ったらそれほどではなく、この点において福島県においての場合と比べて住友林業と(株)一条工務店なら住友林業はけっこう強かった。もうひとつ、佐野市近辺は「読売新聞の購読者が多い地域」であったということがあり、これが住宅建築業とどう関係あるのかというと、「権威主義的性格」が強い人が多い地域は読売の購読者の占める割合が大きく、権威主義的性格が強い人が多い地域は住友林業が強い・・という傾向があるのですが、佐野市出身の有名人というと義人・田中正造翁がいますが、田中正造は現在の佐野市の小中村の「中より下の庄屋」だった人らしいのですが、『人と思想 田中正造』(清水書院 センチュリーブックス)によると、田中正造は佐野市の小中村の「中より下の庄屋」の息子、栃木県南西部の生まれの人で地元のために尽力した人だったけれども、その地域の住人の性格などについては必ずしも肯定的に考えていなかったというのだが、田中正造がどういう点を高く評価できないと考えたかはわからないけれども、そこに3年半住んだ者としては、権威主義的傾向が強い人はけっこう多い地域で、その点で「読売新聞の購読者が多い」という所と「住友林業がけっこう強い」という点とは互いに関連があるものであり、その点で対住友林業は必ずしも有利ではなかった。
現代社会学大系〈12〉権威主義的パーソナリティ (1980年)
現代社会学大系〈12〉権威主義的パーソナリティ (1980年)
  栃木県南西部においては、在来木造志向はあったのですが、福島県に比べると「構造材はムク材で」「構造材はできるだけ国産材で」という志向は強くなかったのです。しかし、「構造がすべてだあ」とか事実に反することをひとに教えてひとの営業活動を妨害してやろうとする「一条オリジナル遠州人」は永遠に理解しないでしょうけれども、一条工務店対住友林業で違いがあるのは、構造材について(株)一条工務店は柱材はすべて国産材のムク材であるのに対して住友林業は通し柱は集成材を使用して管柱(くだばしら)はアメリカ合衆国からの輸入材のべいつが(ヘムファー)を使用していた・・というあたりだけと思っていた人がいるのですが、それとは別に、外観デザインが一条工務店の方が重厚なデザインで住友林業の方が軽快なデザインであることが多かったのです。これは、その商品を作った人が意図的にそうしたのか無意識のうちにそうなったのかわかりませんが、一般に「地方」では重厚な外観デザインが好まれる傾向があり、都市圏においては軽快な外観デザインの方が好まれる傾向があり、「一条オリジナル」が好む重厚なデザインというのは東京展示場の来場客とかからは「どてええっとした、いかにもイナカて感じ」とか言われたのでした。こういう「好みの問題」というのがあるのです。『らーめん発見伝』では「らーめんおたくキング」の藤本さんが台湾に行って台湾の人気ラーメン店で食べてみたらおいしくなかったらしく、店主から「どうですか、うちのラーメンは。おいしくないでしょ」と言われ、「らーめんおたくキング」の藤本さんが「え?」と思うと、「それが味覚の違いなんです。日本人と台湾人とでは味覚が違うので、日本人がおいしいと思っても台湾の人間はおいしいと思わないし、台湾の人間がおいしいと思っても日本人はおいしいと感じないという場合が少なくないのです」と話す場面があったが、それと似ていると言えるかもしれない。外観デザインとかは「好みの問題」というものがあり、それをいいとか悪いとか言ってもしかたがないのです。
  それで、一条工務店 対 住友林業 では、構造について「構造材はムク材で」「構造材はできるだけ国産材で」という志向が強い地域では(株)一条工務店は有利なのですが、福島県ではその傾向が強くて東京都ではそういうものはなかったのですが、栃木県は福島県の方に近いかと思ったらそうではなかったのです・・が、他方で「外観デザインの好みの問題」については栃木県では佐野市・足利市・栃木市など栃木県南西部においても「重厚なデザイン」と「軽快なデザイン」なら「重厚なデザイン」の方を好む人が多く、こちらの部分においては(株)一条工務店は対住友林業において有利な部分だったのです。元から栃木県にずっといる人はこのあたりについて気づいていない人が大部分だったのではないかと思うし、又、「構造がすべてだ」とか言わなきゃおれないシンドロームの「遠州人」はわかってたまるかと思っていますから永延にわかることはないでしょう。そのように、外観デザインについては「好みの問題」というものがあり、栃木県地域で営業するなら、そのあたりを認識しておいた方がいいと私は思うようになったのですが、わかってない人が多かったのではないか。
  在来木造の構造において、「構造材はムク材で」「構造材はできるだけ国産材で」という志向が強いかそれほどではないか、むしろ「集成材やMDF(Medium Density Fiberboard)(中密度繊維板)など新しい木質建材を好む傾向があるか」という境目と外観デザインにおいて重厚な外観デザインを好む傾向が強いか軽快な外観デザインを好む傾向が強いかの境目は必ずしも一致していない。栃木県においては外観デザインの好みの境目の方が南に位置していたのだが、(株)一条工務店の従業員でそれに気づいたのはおそらく私くらいではないか。2001年から佐野展示場に転勤してきた「高木のおっさん」(男。当時、50代)なんぞはわかるわけがないし、わかることを期待しても期待する方が間違っている。
  一般に都市圏と「地方」では外観デザインも内装デザインも好みは相当違う。「地方」にはかなり共通点があり、それゆえ、(株)一条工務店〔(株)一条工務店浜松〕は日本全国、けっこう広い範囲の「地方」で受け入れられた。しかし、けっこう広い範囲の「地方」で受け入れられたから東京圏など都市圏でもそのまま受け入れられるかというとそれは別問題だった・・・が、それを理解してなるものかあ~あ・・というのが「浜松流」「一条オリジナル遠州人」だった( 一一)
  (株)一条工務店にいると都市圏と「地方」の違いということに気づきやすく、気づかない「浜松流総本舗」「一条オリジナル遠州人」はおかしいのだが、小堀住研(株)とか都市圏中心の会社にいると、関西圏と東京圏の違いというものを感じる時もある。1980年代後半、小堀住研(株)の新卒入社営業系社員向け合宿研修では、お客様がどう思っているかということについては、口に出してどう言うかだけではなく、表情やしぐさ、口調などすべてから考えるといったことを言われたもので、又、訪問して上がり込んで話している時においても、そろそろ、帰ってもらいたいと思っているというような場合には人間は表情やしぐさでシグナルを出すものだと最初に配属された松戸営業課の課長のUさん(男。当時、30代後半)から教えられた。Uさんは静岡県出身だったが他県の大学に行き東京圏で小堀住研(株)に勤めた人だったが、それが営業だと思ってそういう認識を身につけていたようだった・・が、これはどちらかというと「東京型」ではなく「関西型」の思考だったかもしれない。「ぶぶづけでもどないだすう」と京都の人間からしきりに勧められるので、それならその「ぶぶづけ」をごちそうになろうかとすると「厚かましい」と思われるというあたりが京都人の難しいところだというお話があるが、これは実際に京都人が言ったことではなくて元々は落語のネタだったとも言われるらしいが、大阪人はそういう話を聞いても「そういえば、京都の人間てそんなところあるよなあ」というくらいでおしまいなのだが、ところが「東京もん」はそうではなくて、たとえば、1980年代前半、慶應大学のステューデントカウンセラーズにいた日野高校卒の西だったか西高校卒の日野だったかいう男は「『ぶぶづけでもどないだすう』と勧められるから、それならその『ぶぶづけ』をごちそうになろうかと思うと『厚かましい』と言われるという、そういう所が大阪とか関西は嫌いなんだ」と特に相手が私など大阪出身の人間だと思うと意図的に言うのだったが、私はそれを聞いて、日野高校卒の西だか西高校卒の日野だかを「こいつ、程度の低い男だな」とあきれ、軽蔑して、そして、「なんで、こんな程度の低い人間が大学に行くんだ。こんな程度の低い人間、大学に行くことないだろ。義務教育は小学校と中学校であって高校は義務教育ではないのだから、こんな程度の低い人間は高校行くことないはずなのに、なんでこの男はクソど厚かましくもふてぶてしくも思いあがって思いあがって甘ったれて甘ったれて西高校だか日野高校だかに行ったんだ。絶対にこいつは『高校行ったのは余計』のはずであり、ましてや大学には行ってはならない人間のはずなのに、なんで、こんな人間がクソどあつかましくも甘ったれて甘ったれてのぼせあがって思いあがって大学に行っているんだ」と思ったものだったが、そもそも、私は大阪で生まれて大阪で育って京都にはしばしば行ったことがある人間で親戚や知人に京都に住んでいる人も何軒かあったのだが、京都人から「ぶぶづけでもどないだすう」なんて言ってもらったことなんて一度としてないのに、それに対して東京で生まれ育った日野高校卒の西だか西高校卒の日野だかは京都人から「ぶぶづけでもどないだすう」なんて言ってもらったことなんてないはずだし、そもそも、京都にも大阪にも行ったことは何回あるのか、もしかして一度もないのか・・という男なのに、なんら論拠もなく、かつ、関西でも京都と大阪は違うのにそれを一緒くたにしてしまって「大阪とか関西は『ぶぶづけでもどないだすう』と勧められるからそれをごちそうになろうかと思ったら『厚かましい』と言われるという、そういうところが大阪とか関西は嫌いなんだ」と言いまくる・・というそういうあたりが科学的ではない・論理的ではない・教養人の態度ではない・知識人の態度ではない・程度低い・大学行く資格がないそいういう人間だった。こんな程度の低い人間を卒業させて「高卒」の資格を付与していたという点で日野高校だか西高校だかの教諭は反省する必要があったはずである・・のだが、大阪の人間ならば「そういえば、京都の人間てちょっとそういうところあるかもしれんな」で終わりのところを、「東京もん」の日野だか西だかは「大阪とか関西の人間は『ぶぶづけでもどないだすう』と勧められるからごちそうになろうかと思ったら『厚かましい』と言われるという、そういうところが大阪とか関西は嫌いなんだ」と京都も大阪も一緒くたにして「嫌い」にしてしまい、それを特に相手が関西人・大阪人だと思うと言わなきゃおれない症候群になるという、そういうところに、大阪と東京の違いのようなものがひとつあるように思える。大阪の人間は「そういえば、京都の人間てそんなところあるかもしれんなあ」と思っても、それでおしまい・・というのは、「京都の人間」にはそういうところがあるとしても、京都と大阪は一続きの地域であり、大阪の人間にも根底においてはそういうところがあるので、あくまで「程度の問題」であって、もしかすると「京都の人間」はそういう傾向が強いかもしれない・・という程度のものであるのに対して、日野だか西だかのような「東京もん」には大阪人のような感覚がないから「ぶぶづけでもどないだすう」と言われるから「ぶぶづけ」をごちそうになろうかとすると「厚かましい」と思われるというのが「許せん!」と心の底から怒りの気持ちを持つようだったのだ。 大阪人など関西人からすると、そもそも、なんで「ぶぶづけ」なんだ?・・と思うところだ。大阪人からすると、もしも、何か食べていってもらおうと考えたなら、「ぶぶづけ」というのは要するに「お茶漬け」のことであり、何も「お茶漬け」なんてわざわざ食べていってもらわなくても、もうちょっといいものを出せばいいのではないのか? なぜ「ぶぶづけ」なんだ? と思うところなのだが、ところが「東京もん」の日野だか西だかは理解できないし、日野高校だか西高校だかではこの程度のことすらも理解できない生徒を卒業させていたのだった。結論として、「ぶぶづけでもどないだすう」というのは、うちで食事していってくださいと勧めている言葉ではなく、「もう、いくらなんでもお帰りになっていいのと違いますかあ。それとも、うちの貧相なぶぶづけでも食べていかれますかあ。いくらなんでも、そこまで厚かましいことはありませんでしょ」という意味、もういくらなんでも今日は帰ってくれよという意味であり、だからこそ「ぶぶづけ」なのだ。なぜ、「ぶぶづけ」なのだろう? と考えるアタマがあったら「『ぶぶづけでもどないだすう』と勧められるから、それならその『ぶぶづけ』をごちそうになろうかと思うと『厚かましい』と言われるという、そういう所が大阪とか関西は嫌いなんだ」などという言葉は口にでないはず、そういう思考はしないはずだったのだが、そういう口をきくというあたりは日野だか西だかの類の「東京もん」には、なぜ「ぶぶづけ」なのだろうか? と気づくアタマは持ち合わせていない、ということだったようだ。下品で程度が低い男である・・と京都人や大阪人など関西人は思うところであるが、そういうところが日野だか西だかのような「東京もん」は関西人が嫌いということになるようだ。・・この「ぶぶづけでもどないだすう」という「京のぶぶづけ」の話は、あくまで落語でのネタとして創作されたものであって実際の京都人がしばしば口にするわけではないという話もあるようだが、ともかくも、はっきりともろに口に出して言うのではなく、婉曲話法として言ったり、又、なんらかのしぐさ・表情などで表したりということは東京圏人よりも関西人の方が多い、東京型か京都・大阪型かというと京都・大阪型だったかもしれないように思う。もっとも、それなら京都・大阪、関西以外の地域ではこういうことはないのかというとそうではないはずで、東京圏であろうが「地方」であろうが、はっきりともろに発言していない発言や表情・しぐさ・口調などからも相手の気持ちを推測する・・というのは営業の職種の人間であれば当然考えるべきものであるはずだと思うが、幾分なりとも関西の方が関東よりも、京都・大阪の方が東京圏よりもそういう傾向は強いのではないか、と思える。小堀住研(株)の経営者は気づいていなかったかもしれないが、小堀住研(株)は大阪発祥の会社、創業者は「近江商人の地」の滋賀県出身で「大阪商人の地」の大阪発祥の会社であったから、こういったことを特に研修などで教えていたという面もあったかもしれない。
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   外観デザインについても「都市圏」ならば東京圏でも関西圏でも一緒かというと、そうではないと思うのだ。関西人は「関西の方が文化的には東京よりも上だ」と思っている人間が多いが、たとえば、三井ホームというのは東京発祥であり、最近は関西でも三井ホームで建てる人はあるのだけれども、東京圏で三井ホームが建てた家を見ても違和感はそう感じないのだけれども、関西で三井ホームが建てた家を見ると、「あれ」と思うことがあったのだ。 「あれっ」とはどういう意味かというと、東京圏においては感じない違和感を関西で三井ホームの家を見ると感じたのだった。「大阪とか関西」で三井ホームの家を見ると、「何、すかしとんねん」て感じ、「東京もん」が東京圏においてなら感じないであろう感覚がそこにあったのだ。関西で関西人が見ると「何、すかしとんねん」と感じるようなものが三井ホームの家にはあったのだ。もしかすると、三井ホームの経営者はそのあたりを承知の上で東京圏中心で「三井ホームの家」を広めようとして承知の上でそういう商品にしたのかもしれない・・が、わからずにやっていたのか承知の上でやったのか、それは何とも言えない・・が、都市圏なら東京圏でも関西圏でも一緒というわけでもなく、とりあえず、そのあたりの違いがある。〔東京人にはこの関西人が「三井ホームの家」などに対して感じる「何、すかしとんねん」という感覚がなかなか理解できないのではないかと思う。特に日野だか西だかのような人間は未来永劫に渡って理解できないであろう。〕

  都市圏でも東京圏と関西圏はまったく同じではなく違うところはある。しかし、都市圏と「地方」との違いはそれよりはるかに大きい。「遠州人」(「(株)一条工務店の遠州人」)は片方で「浜松はホンダ・スズキ・ヤマハ・カワイ、それに何ちゃらエレクトロニクスがあり、新幹線『ひかり』号が停車する政令指定都市で、静岡市より人口も多い大都市だ」と主張するが、他方において坪単価を設定する時になると日本一のどいなかで、故に日本一物価が安い街だということにして他地域の営業よりもずっと有利な条件で営業やっており、遠州地方は日本で一番坪単価が安いのは当然だ・・・と勝手な主張をするが、この「二刀流」「ふたなり」はどう考えてもズッコイずっこいズッコイのだけれども、実際には行ってみると浜松はそんなに無茶苦茶クソどいなかではなく、少なくとも「中核市」に指定されている福島県のいわき市とか郡山市とかよりも、1960年代は六大都市と言って政令指定都市は6つだけだったのが今では日本の人口は横ばいなのに政令指定都市だけ20もできた、いわば、幕内の枚数を増やしたことで幕内になったみたいな政令都市だけれども、それでも「政令都市」だけあって「中核市」より間違いなく街は大きいしするけれども、それでも、都市圏か「地方」かといえば「地方」の方になる。
  非浜松の営業で浜松の本社に行く用事があると、浜松駅からタクシーで倉松町まで行って、帰りもタクシーで倉松町の本社から浜松駅まで行ってそのまま帰る人が多かったのだが、私は、一人で浜松の本社まで行く用事があると、できるだけ浜松の街を歩くようにしたし、2000年頃から、浜松市(南区)倉松町の本社に来る用事がある場合は、新幹線で浜松駅まで来たら浜松駅からタクシーに乗るのではなく、西となりの高塚駅まで1駅各停に乗って、高塚駅からタクシーに乗った方がタクシー代が安いので高塚駅から乗ってくださいと通達に書かれてきたけれども、それでも「いいがな、そんなもの」と言って浜松駅からタクシーに乗る人が多かったが、私は律儀に1駅乗って高塚駅まで行ったし、その際には高塚駅の周囲を自分の足で歩いてみたりもした。その結果、わかったというものもあったのだ。結論として、(株)一条工務店の「一条オリジナル遠州人」「オリジナル営業」「浜松営業」どもは、非浜松地域、箱根の関より東の地域の営業、鈴鹿の関・不破の関より西の地域の営業には「一条工務店は間取りやデザインの話はしないで、構造が大事だということで構造の話だけをして契約していただいている」と教えていたのだったが、それは間違いなく嘘だった。大嘘だった。めっちゃ嘘、むちゃむちゃ嘘、徹底的に嘘だった。そんなものは嘘だということが浜松の街を自分の足で歩くとよくわかる。
  実は、1990年代初めの時点から、(株)一条工務店の外観デザインは東京圏で見ると「いなかくさい」「じじむさい」「ぱっとしない」「あかぬけない」外観で、江東区潮見にあった東京展示場の来場客からは来る人、来る人から「うわっ、イナカくさっ( 一一) 」と言われ、「ほお~お、浜松の家というのはこういう家なんですかあ」と登呂遺跡でも見学に来た人みたいなことを言われたし、「田舎の家みた~い」と言われ「田舎のおばあちゃんち、こんな感じだったね♪」とか言われ、「浜松ではこういう家がいいのかもしれないけれども、うちは東京で建てるのであって浜松で建てるのではないから」と言われまくったのであり、又、外観デザインだけでなく内装についても「あんな暗い(感じの)家は嫌だ」とか「ムクのいいものを使っていると言うわりにかっこよくない」「何かとムクだムクだと言うわりに、かっこよくない」「何かとムクだ、ムクだと言わなきゃおれないというあたりがイナカの会社て感じがする」と言われまくったのだったが、そして、1993年5月には名古屋南営業所の「一条オリジナル遠州人」近藤路夫から「そういうことをおまえが言うからいかんのだあ~あ!」と怒鳴りつけられたのだったが、そもそも、「そういうことをおまえが言うからいかんのだあ~あ!」とひとに怒鳴りつけたいのならば、言われた私に怒鳴りつけるのではなく、東京展示場・松戸展示場で私に言った来場客に怒鳴りつけてもらいたいものだった。私は「言われた」のであって私が言ったのではないのだから私に怒鳴りつけられてもしかたがない。近藤路夫は住宅展示場から出ていこうとする来場客の後を追いかけて「待て、こらあ。おまえがそういうことを言うからいかんのだあ~あ!」と怒鳴りつければよかったのかもしれない。「なんか、一条工務店て浜松の工務店、おかしな人いるわ、精神異常者じゃない。相手にしない方がいいわ、相手にしない方が」と言って逃げられるのではないか。近藤路夫の性格を考えると、それでも「待てええ。おまえがそういうことを言うのがいかんのだあ~あ」と叫んで追いかけそうだが、110番通報されるかもしれない。されても近藤路夫としては本望・・というのか、一条オリジナル近藤路夫としては「うわっ、イナカくさっ( 一一) 」「ほお~お、浜松の家というのはこういう家なんですかあ」「浜松ではこういう家がいいのかもしれないけれども、うちは東京で建てるのであって浜松で建てるのではないから」「あんな暗い(色合いの)家は嫌だ」「ムクのいいものを使っていると言うわりにかっこよくない」「何かとムクだムクだと言うわりに、かっこよくない」「何かとムクだ、ムクだと言わなきゃおれないというあたりがイナカの会社て感じがする」と言って帰った来場客の方がけしからんのであって、一条浜松流オリジナルは悪くないのだから、110番通報されても通報した方が悪いという意識だろう・・、おそらく( 一一) 
〔 「あんな暗い(感じの)家は嫌だ」と言われることがあったのは、これは「地方」においては内装についても軽快なイメージより重厚なイメージが喜ばれることが多く、(株)一条工務店浜松 の「浜松の家」においては重厚さを出すために、内装も黒茶色・黒に近い焦げ茶色のものを巾木・廻り縁やドアに使用していたことから言われたのだったが、「一条オリジナル遠州人」「浜松流一条オリジナル」は「そういうことを言うのがいかんのだあ~あ!」と叫ぶのだったが、叫ぶのならば「言われた者」に向かって怒鳴ったり叫んだりするのではなく、「言った人」即ち、東京圏の来場客・見込客に向かって怒鳴りつけてもらいたいものだったのだが、「一条オリジナル遠州人」「浜松流総本舗一条オリジナル」は決して「言った人」に怒鳴りつけず、必ず「言われた人」に怒鳴りつけるのだった。 〕
  しかし、それは東京圏においてなのだ。東京圏において、東京展示場(江東区潮見)とか松戸展示場(松戸市岩瀬)とかにおいては「うわっ、イナカくさっ( 一一) 」「ほお~お、浜松の家というのはこういう家なんですかあ」「田舎の家みた~い」「田舎のおばあちゃんち、こんな感じだったね♪」「浜松ではこういう家がいいのかもしれないけれども、うちは東京で建てるのであって浜松で建てるのではないから」「あんな暗い(感じの)家は嫌だ」「ムクのいいものを使っていると言うわりにかっこよくない」「何かとムクだムクだと言うわりに、かっこよくない」「何かとムクだ、ムクだと言わなきゃおれないというあたりがイナカの会社て感じがする」と言われまくる「いなかくさい」「じじむさい」「ぱっとしない」「あかぬけない」外観のものだったが、しかし、浜松の街を歩いてみると、それがその場所には「ちょうどいい」ものだったりするのだった。むしろ、「大手ハウスメーカー」というのは「大手」と言っていても実際にはその多くは都市圏中心住宅建築業会社だったので、「地方」には「今一つ合わない」ところがあったりしたのだった。

  (株)一条工務店の浜松営業は嘘つきだった。彼らは東京都の営業には「静岡県愛知県の営業は構造アプローチのみで契約をあげている」と嘘を吹きまくっていたが、実際は自分たちは「構造アプローチのみで契約をあげて」なんかしていなかった。そうではなくて、東京圏においては「うわっ、イナカくさっ( 一一) 」「ほお~お、浜松の家というのはこういう家なんですかあ」「田舎の家みた~い」「田舎のおばあちゃんち、こんな感じだったね♪」「浜松ではこういう家がいいのかもしれないけれども、うちは東京で建てるのであって浜松で建てるのではないから」「あんな暗い(感じの)家は嫌だ」「ムクのいいものを使っていると言うわりにかっこよくない」「何かとムクだムクだと言うわりに、かっこよくない」「何かとムクだ、ムクだと言わなきゃおれないというあたりがイナカの会社て感じがする」と言われまくる「いなかくさい」「じじむさい」「ぱっとしない」「あかぬけない」ものが浜松・掛川などにおいては「ちょうどいい」ものであって、その「ちょうどいい」ものを見て、そして「地元の会社」として評価されている(株)一条工務店で建てることを検討して来場した人に対して、その人が魅力を感じた(株)一条工務店の建物の外観や来場して見られた内装や設備、「地方」向けの展示場の「地方」に合った間取りなどよりも、より大事なものが構造なんですよ・・・と言って売っていたのであり、それは「地方」向けの外観・内装や「地方」向けの間取りや「地方」向けの設備などに魅力を感じてくれた人だからこそ、「構造が何より大事なんです」と言われると、「そうだな」と思われたのであり、そういう状況の人を相手としての「構造アプローチ」は楽であり、そういう相手に対しての「構造アプローチ」はそれほど高いレベルのものでなくても契約に進んだのだった。それに対して、東京圏においては「地方向け」「浜松向け」の外観・内装・間取り・設備の(株)一条工務店は魅力に乏しく、魅力に乏しい外観・内装・間取り・設備の会社でありながら浜松・掛川などに比べてドカンと高い。「経済性」という点でも(株)一条工務店は浜松・掛川・名古屋においては割安感があったのに対して、東京都・神奈川県ではそうではなかった。そもそも、東京都で坪55万円のものが浜松・掛川では坪48万円、名古屋では坪49万5千円だったのだから、浜松・掛川・名古屋の営業は同業他社と競合した場合でも、東京都・神奈川県の営業が競合する商品よりも一回りではなく二回りくらい安い価格帯の商品との競合で契約していた
《1》  (株)一条工務店のオリジナル営業・「一条オリジナル遠州人」の「構造アプローチ」が優秀だったのかというと、実はちっとも優秀ではなかった。例としてあげると、1993年5月、忙しいのに「研修」だとして浜松まで行かされて、そこに来たのは名古屋南営業所の所長だという近藤路夫だったのだが、「何か質問したいことはあるか」と言うので、「『住友林業との競合なんて楽なもんだ』と言われましたが、東京で仕事をすると、住友林業が相手となると大変な強敵なのですが、住友林業との競合において、どのようにやれば『楽なもんだ』というように契約とれるのでしょうか」と私が言ったところ、近藤路夫はこう言ったのだ。「そんなもん、住友林業との競合だと『住友林業は一条工務店みたいにプレカットやってますか。やってませんでしょ』と、これだけで契約とれる。チョチョイノチョイてもんだ」と、そう言ったのだ。はあ? ・・・その時点において、住友林業(株)は機械プレカットをおこなって建てていた。近藤路夫が言った「住友林業はプレカットやってませんでしょ」などという発言は事実に反する。そもそも、東京圏において、「住友林業の家」の機械プレカットをおこなっていたのは千葉県の(株)ひらい という会社で、この会社は浜松の(株)一条工務店と共同出資会社として(株)一条工務店千葉 という会社を作ってやっていた会社であり、(株)一条工務店の「グループ会社」と言うこともできる会社だったが、そこが東京圏においては住友林業(株)の「指定工場」になり「住友林業の家」の機械プレカットをおこなっていたのだった。それを「『住友林業はプレカットやってますか。やってませんでしょ』と言うだけで契約とれる。チョチョイノチョイてもんだ」て、何を無茶苦茶言うとるんだ、近藤路夫というこの男は( 一一)  要するに、近藤路夫は住友林業(株)との競合に勝って契約に持っていくノウハウを持っていたのではなく、(株)一条工務店が住友林業(株)との競合になった場合に有利な場所でばっかり営業させてもらってきたという、極めて恵まれた男だったのだった( 一一) そういう男が「チョチョイノチョイ」だの何だのと勝手なことを言っていたのであり、「一条オリジナル」「一条工務店の遠州人」の営業の「構造アプローチ」というものは「その程度のもの」だったのだ。
《2》   さらに、1993年3月頃だったか、千葉県市原市で建てていただいたYさんを浜松の工場に案内した時、工場見学の後、浜松市のJR「天竜川」駅の南側の浜松の展示場に案内した際だったと思うのだが、浜松の営業が展示場で構造についての「間違いのない家づくり」と題したアルバム帳で客に説明をしていたのが聞こえた・見えたのだが、軽量鉄骨造の建築現場の仮設小屋が錆びていたんだ写真を指差して「こういうものをプレハブと言うんですね」などと言っていたので、こいつ、無茶苦茶言うなあ・・・とあきれた( 一一) ・・ことがあった。「プレハブ」という言葉は2通りの意味で使われている。「東京メトロ」は何年か前まで「帝都高速度交通営団」で、「大阪メトロ」は大阪市交通局が運営する「地下鉄」だったのだが、「メトロ」という言葉には「地下」という意味はないのだけれども、少し前まで「地下鉄」と言っていて、実際、地下を走っている区間が相当長いことから「メトロ」と聞いて「地下鉄」と思い浮かぶ人がけっこうあると思うのだが、それと似たもので、「プレハブ」は本来は「プリファブリケイテッド ハウス(prefabricated house)」の略であり、prefabricated(プリファブリケイテッド) の「pre(プレ)」はprecut(プレカット)の「pre」と同じく「あらかじめ・前もって」の意味、fabricate(ファブリケイト)は「形作る」という意味で、本来の「プリファブリケイテッド ハウス」は「工事現場より以前に前もって造られる部分が多い住宅」という意味であって、「メトロ」に「地下」という意味はないのと同じく「プリファブリケイテッドハウス(prefabricated house)」に「仮設小屋」とか「安もの」とかいう意味はない。英語の意味としては(株)一条工務店がおこなっていた「機械プレカット(precut)」も「プリファブリケイション(prefabrication)」の一種であり、杉山英男『地震と木造住宅』(丸善)では、今後の木質住宅の流れとして、「プレハブ化」が進むのではないかと述べられているが、その場合の「プレハブ化」とは「仮設小屋」とか「安もの」が広まるという意味ではなく「工事現場より前に工場で形作られたものの使用が増えるのではないか」という意味である。新聞社がいいかげんな意味あいで「プレハブ」という言葉を使っていることにも問題があり、湾岸戦争の際に「多国籍軍のプレハブ造りくらいなら自衛隊がおこなってもいいのではないか」とか書いた記事があったが、この場合の「プレハブ」というのは仮設の建築物という意味であり、東日本大震災の際にも「プレハブ住宅」という言葉が被災者が仮に住む仮設の住宅という意味で使用されていたが、これは「工場生産の度合いが大きい住宅」という意味での「プレハブ」とは意味がまったく異なる。そして、「工場生産の度合いが多い住宅」という意味での「プリファブリケイテッドハウス」の場合、木質系のものもあれば、鉄骨系のものもあり、鉄筋コンクリート造のものもあるわけで、「プリファブリケイテッドハウス」という言葉には木質系か鉄骨系か鉄筋コンクリート造かという意味はそこにはない。それを軽量鉄骨造の建築現場の仮設小屋が錆びていたんだ写真を見せて「こういうもののことを『プレハブ』と言うのですね」などと客に話していたのだったが、無茶苦茶言う営業だな・・・とあきれたものだった・・・が、ところが、それを聞いて浜松の見込客は「そうなんですかあ」などと言って感心して聞いていたのだ( 一一)  もしも、東京圏か関西圏で同じことを話したならば、「何、言ってんだよ。違うだろ。無茶苦茶言うな」と客から怒られるところだ。怒られて信用をなくし、契約から遠ざかることになる。ところが、浜松においてはそんな無茶苦茶な「構造アプローチ」やっていても、それが通じてしまうらしかったのだ( 一一)  だから、「一条オリジナル営業」「一条オリジナル遠州人」が静岡県・愛知県でおこなっていた「構造アプローチ」は決して東京などの営業がおこなっていたものよりもレベルが上などということはなく、むしろ、いいかげんなものだったのだ。それを近藤路夫は「おまえが、まともに構造アプローチやってないんだろ」などと暴言をはいたのだったが、「まともに構造アプローチをやってない」のは近藤路夫や浜松営業の方だったのだ
《3》  さらには、近藤路夫は「一条工務店の工事現場に行って、もし、施工ミスとか問題点があったら『なかったことにする』『見なかったことにする』、他社の工事現場に行ったら悪い所ばっかり見る、一条の工事現場に行ったらいい部分だけ見る。そうすれば、一条工務店の構造は最高だということになる」などと「研修」で得意がっていうのだった。要するに、近藤路夫という男は自分が勤めている(株)一条工務店の建物について、どういう所がいいか、まったく理解していない理解できていない男だったから、だから、そういうことを言うという男だったのだ( 一一) 私は(株)一条工務店に入社して1か月目くらいの頃に、浜松の営業所長をしていた平松さんから平松さんの「構造アプローチ」というものを見せてもらい、平松さんが「一条の建物はどこと比べても、決して劣ったものではないから」と言われ、私が「それは、建売とかそういう所のものと比較してではなくて、大手有名会社の建物と比較してでもですか」と言ったところ、「おう、住林でも東日本(現 日本ハウスホールディングス)でもどこと比較しても一条の構造は決して劣るものではない」と平松さんは言い、「今、あんた、俺に質問しただろ。俺に質問して悪いということはないけれども、それよりも、自分自身で一条の工事現場を見にいって、他社の工事現場も見に行って確認するんだよ。その方がいい。自分自身で見に行って、たしかに一条の構造は他社と比べて決して劣らないものだと自分で思って話すのがいいんだ」と言われ、それで私は一条工務店の工事現場と他社の工事現場をせっせと見て回った。その結果、たしかに(株)一条工務店の構造にはいいところはあるのだけれども、問題点も施工ミスもあることを知った。他社の工事現場を見て、これはなあ・・というものもあったけれども、他社のものもそう悪くないものもあった。実際に見て回ったところ、すべての場所において(株)一条工務店の工事は近藤路夫が言うような「完璧にすばらしい」などというものではなかった。これについて、1993年9月に福島県いわき市の営業所に転勤した後、いわき市の営業所にいたKさんと話したところ、Kさんは「だから、俺なんか、そんな『完璧にすばらしい』なんて絶対にお客さんに言わないよ」と言うのだった。「『完璧にすばらしい』なんてお客さんに話してしまうと、お客さんは『完璧にすばらしいか?』という目で一条の建物を見るようになる。そういう基準で見られてしまうと問題点が見えてくる。そうじゃなくて『悪くないですよ』くらいに言っておけば、『悪くないか?』という目で見るようになって、その基準で見てもらえば、たしかに一条の建物というのは『悪くない』ように見えてくる建物なんだ。だから、『完璧にすばらしい』なんて言っちゃだめだよ」と言うのだったが、その通りだと思う。これは、私やKさんは実際に(株)一条工務店の構造段階の工事現場や他社の構造段階の工事現場を見て、一条の工事現場の問題点も見て、その上で「悪くないですよ」くらいの言い方をして「悪くないか?」というくらいの基準で見てもらえばそう見えてくるものを「完璧にすばらしい」なんて言ってしまったら「完璧にすばらしいか?」という基準で見られることになり、「完璧にすばらしい」と言うくせして問題点がいっぱいあるじゃないか・・ということになってしまうということを実感したのに対して、一条オリジナル近藤路夫は私などがやった努力をしておらず、「一条工務店の工事現場に行って施工ミスとか問題点があったら『見なかったことにする』『なかったことにする』、見なかったことにして、なかったことにして、いい所ばっかり見る。他社の工事現場に行っていい所があったら『なかったことにする』、それで、悪い所ばっかり見る。そうすれば『一条工務店の構造は完璧にすばらしい』ということになる」などとアホなこと言っていたのだった( 一一) 営業社員が「なかったことにする」だの「見なかったことにする」だのやっても、客は見るし、なかったことにならないし、むしろ、営業担当者のそのような態度に対して不信感を持つようになって契約の妨げになることが考えられる。こいつ、いったい何を教えてるんだ と思ったが、それが(株)一条工務店の「研修」であり、そういうことを得意になって言いまくる男が(株)一条工務店では営業所長になっていた( 一一) 「一条オリジナル遠州人」「一条浜松流」の「構造アプローチ」など「そんなもの」だったのだ( 一一)
  それなら、なぜ浜松営業・一条オリジナルはそんないいかげんな「構造アプローチ」でも売れたのか・・というと、それは「ハードルが低いから」という理由がある。

<1> 静岡県中西部・愛知県においての場合。
(株)一条工務店の建物は外観デザイン・内装デザイン・展示場の間取りなどがその地域に「ちょうどいい」建物である。その地域の展示場は間取りはその地域の人の要望に沿ったもので、新しくてきれい♪
こういう場合には、展示場に来場される見込客は、来場された時点において(株)一条工務店が建てた家を何軒か外から見ていたり、親戚・友人・知人などで(株)一条工務店で建てた人があって中に入らせてもらって見た経験があって、こういう家を建てられればいいな・・と思って展示場に来場されているという場合が多い。
  そういう人に対して、「家づくりにおいては、間取りをどうするかとか外観デザインをどうするかとか、内装のデザインをどうするかとか、そういったことよりも、間違いのない構造・間違いのない施工であるかどうかということがずっと大事なものなんです」と営業担当者が言ったならば、「そうだよなあ」と思うであろうし、「間違いのない構造・間違いのない施工であるかどうかということがずっと大事なものなんです」と言った営業担当者に対しても、良心的な人という印象を持つ可能性が考えられる。

  それに対して、
<2> 東京都・神奈川県東部・千葉県南西部などにおいては。
(株)一条工務店で建てて住んでいる親戚・友人・知人なんて、ない! 近所で(株)一条工務店が建てた家を見たことも、ない! (株)一条工務店の展示場はというと、「うわっ、イナカくさっ( 一一) 」「ほお~お、浜松の家というのはこういう家なんですかあ」「田舎の家みた~い」「田舎のおばあちゃんち、こんな感じだったね♪」「浜松ではこういう家がいいのかもしれないけれども、うちは東京で建てるのであって浜松で建てるのではないから」「あんな暗い(感じの)家は嫌だ」「ムクのいいものを使っていると言うわりにかっこよくない」「何かとムクだムクだと言うわりに、かっこよくない」「何かとムクだ、ムクだと言わなきゃおれないというあたりがイナカの会社て感じがする」と言われまくる「いなかくさい」「じじむさい」「ぱっとしない」「あかぬけない」もので、古くて汚い♪  外壁には黒い筋がいっている。「一条工務店は他社よりも根太の幅が狭くて根太の厚みが厚いので床鳴りしにくい」と「構造アプローチ」で言っているにもかかわらず、2階のホールは端から端まで床鳴りがしまくっている。「これ、何の音かしら。一条さんは根太の間隔が狭くて根太の厚みが厚いから床鳴りはしないはずなのに、この音、いったい何の音かしら? ほら、ここも音がする。ほら、ここも♪」て、床が鳴ってるからには床鳴りの音に決まっとるだろうが・・・という展示場。
  そういう展示場に来場された、「一条工務店なんて聞いたことない」という人に対して「構造アプローチ」をした場合、まず、「一条工務店は他社より根太の間隔が狭くて、根太の厚みが厚いですから床鳴りがしにくいんです」なんて言っても、他社の展示場では床鳴りはしないのに(株)一条工務店の東京展示場だけ床鳴りがしまくっている( 一一) 
  ぶ~っさいくな家ばっかり建ててる会社が「間取りや外観はどうにでもなりますから」なんて言っても、どうもならんやんけ! どうも、なっとらんやんけ!・・てものだ。
  何より、トヨタ自動車と関係ないのに「豊田商事」とか名乗ってる会社みたいに、西武と関係ないのに「セゾン」なんて商品名をなのっている怪しい浜松の工務店・・の言うことなんて信じてはいかんのではないか・・と思われる。東京圏に住んでいて東京圏で建てるのに、何がうれしゅうて、「西武と関係ないのにセゾンなんて商品名をなのってる怪しい浜松の工務店」になんか頼まにゃならんのだ・・・てことになる。
  「浜松・掛川・名古屋の営業」は「構造アプローチだけで契約とれるはずだ」とか勝手なことを言いまくるが、浜松・掛川・名古屋の営業は決して「構造アプローチだけで契約とってる」などということはないのだ。 浜松・掛川・名古屋においては、その地域の住人・その地域で建てる施主の要望に合った建物で、要望にあった外観デザイン・要望にあった内装デザイン・要望にあった間取りの展示場がそこにあり、すでに外観デザインや内装デザイン・間取りなどにおいて十分にアピールできた状態から「構造アプローチ」をおこなっていたのに対して、東京圏においてはその地域の住人・その地域で建てる施主のニーズからかけはなれた建物で、要望には程遠い外観デザイン・要望からへだたりがある内装デザイン・要望からはるかに離れた間取りの展示場がそこにあり、「やっぱり、お宅は浜松ねえ」という気持ちになられてしまう・・・、そういう気持ちになられた相手に「構造アプローチ」だけで挽回しようと必死になっていたのであり、この場合には「構造アプローチ」は静岡県愛知県における場合よりもはるかに高い基準のものが求められることになり、構造以外においてマイナスである状態から「構造アプローチ」で挽回してトップに躍り出ようというのは、これは決して簡単ではない。

  すでに外観デザイン・内装デザイン・間取りなどにおいて、(株)一条工務店の家のようなものを建てたいという気持ちになった人に対して「それよりも、むしろ、家づくりにおいては構造が大事なんですよ」と言われたなら、それを否定する人はあまりないし、その場合、すでにそれを取得したいという気持ちになっている人におこなう「構造アプローチ」というものは、相手が一生懸命肯定しようとしているのであるから、楽である。特別にハイレベルなものをやらなくても通じる。又、「耐久性がある」というトークもまた、実際に耐久性があるかどうかにかかわらず、「耐久性がある」と言われると、「少し高いもの」を出費して建てていいのだろうかと思っているような人に対しては、その「耐久性がある」は「長くもち、長く使用できるので1年ごとの費用として考えると高くない」という「少し高いもの」を購入する際における「言い訳要素」となる。
  「言い訳要素」というのは、『らーめん才遊記』で「ハイソな奥様」が多い地域でおしゃれなカフェ風だがボリュームに欠けるパスタ風らーめん を夏川が提案したが、ちっとも流行らず、それについて汐見ゆとり は「実は、奥さまというのはとっても食いしん坊なんです」「夏川さんは奥様というものを見誤っていると思います。独身の女性はダイエットに励んだり食べ過ぎないように気をつけたりするのですが、それが奥様になると違うんです」と言う話があった。夏川は「たしかに、そうかもしれないけれども、このあたりはハイソな奥様が多く、奥様でもダイエットにはげんだりしてそうじゃない」と言うが、それに対して汐見は「きっちりとダイエットにはげんでそうなそのハイソな奥様というのが、実は食べる時は相当食べるんですよ」と言う。「私は母が料理研究家をやってましたから、身近に見ていたのですが、奥様というのは本当によく食べるんです。それも、『食材を残しちゃもったいないから』とか『デザートは別腹』とか、何らかの『言い訳要素』を作って本当によく食べるんです。ダイエットとかきっちりやってそうなハイソな奥様でも、むしろ、ダイエットとかきっちりやってそうなハイソな奥様こそ、『普段、ダイエットとかきっちりやってるんだから』というのを『言い訳要素』としてよく食べるんです。だから、『ハイソな奥様』だからボリュームのないものを少量提供した方がいいというのは間違いなんです。奥様に受けようとしたならば、たとえ『ハイソな奥様』でもそれではだめなんです」と語る。その「言い訳要素」というやつだ。すでに「一条工務店の家」というものについて、外観デザインや内装デザイン・間取りその他について魅力を感じて、これを手に入れたいという気持ちになってくれた人というのは、次に自分がそれに出費して取得することを正当化してほしいことになる。その時に「構造が優れているんだ」とか、さらに「耐久性があるから、入居してから1年ごとの費用として考えるならそう高くはないんだ」と自分で自分を納得させる理由が欲しくなるのです。それに応えるのが静岡県愛知県の営業がやっていた「構造アプローチ」であり、「一条工務店の建物は構造がいいんだ」「一条工務店の建物は耐久性があるから長く住めて1年ごとで見ると高くないんだ」と思いたい思いたいという気持ちになっている人を相手におこなうものですから、楽です。それほど無茶苦茶ハイレベルなものでなくてもいいのです。
  それに対して、東京都・神奈川県東部・千葉県南西部など、「うわっ、イナカくさっ( 一一) 」「ほお~お、浜松の家というのはこういう家なんですかあ」「田舎の家みた~い」「田舎のおばあちゃんち、こんな感じだったね♪」「浜松ではこういう家がいいのかもしれないけれども、うちは東京で建てるのであって浜松で建てるのではないから」「あんな暗い(感じの)家は嫌だ」「ムクのいいものを使っていると言うわりにかっこよくない」「何かとムクだムクだと言うわりに、かっこよくない」「何かとムクだ、ムクだと言わなきゃおれないというあたりがイナカの会社て感じがする」と言われまくる「いなかくさい」「じじむさい」「ぱっとしない」「あかぬけない」もので、古くて汚い♪  比較的古めの展示場とはいえ築5年くらいなのに外壁には黒い筋がいっている展示場という、そういう所で、「何、これえ~え」と思われている見込客に一発逆転を狙っておこなう「構造アプローチ」というのは、これはそれを取得したいという気持ちになっている人に購入することに対しての「言い訳要素」「正統性」を提供する「構造アプローチ」とは違って相当ハイレベルなものが求められるし、相当ハイレベルな「構造アプローチ」をおこなっても、それでも、東京都・神奈川県東部・千葉県南西部など、「西武でもないのにセゾンなんて商品名をつけてる怪しい浜松の工務店」が契約してもらえるように持っていくのは簡単ではありません。最初から、静岡県愛知県における「構造アプローチ」と東京都・神奈川県東部・千葉県南西部における「構造アプローチ」は位置づけ・性格が全然違ったのです。

<3> 「うわっ、イナカくさっ( 一一) 」「ほお~お、浜松の家というのはこういう家なんですかあ」「田舎の家みた~い」「田舎のおばあちゃんち、こんな感じだったね♪」「浜松ではこういう家がいいのかもしれないけれども、うちは東京で建てるのであって浜松で建てるのではないから」「あんな暗い(感じの)家は嫌だ」「ムクのいいものを使っていると言うわりにかっこよくない」「何かとムクだムクだと言うわりに、かっこよくない」「何かとムクだ、ムクだと言わなきゃおれないというあたりがイナカの会社て感じがする」と言われまくる「いなかくさい」「じじむさい」「ぱっとしない」「あかぬけない」と思われている相手に追い打ちをかけるトーク、「よそはデザインがいい。デザインがいいということは耐久性がないということだ。その点、うちはデザインは良くなくても耐久性がある」という天野隆夫が松戸展示場において新人営業に言えと言った文句( 一一)  「結婚するなら美人でも体が弱い女の人は困りますよね。その点、うちの娘はブス! ブスってことは耐久性がある。特にうちの娘はもう、ブスもブスもブス、ブス、ブス。スーパー高耐久性ブスですからね。結婚するならブスが最高♪」と言ってやれ・・と言っているようなものです。 そんなこと言われて「そうだな、結婚するならやっぱりスーパー高耐久性ブスだな」なんて思うか? 思わんだろ。邇邇芸命でも醜いが「耐久性がある」という石長姫は要りませんと父親の大山祇神に返品したくらいである。
   1990年代初めにおいて、東京圏での(株)一条工務店の営業は静岡県愛知県などに比べてきつかったのは間違いない。しかし、それでも、そこで営業やるなら何とか工夫をして売らなきゃいけない・・のだが、そこで「よそはデザインがいい。デザインがいいということは耐久性がないということだ。その点、うちはデザインは良くなくても耐久性がある」なんて、「結婚するなら美人でも体が弱い女の人は困りますよね。その点、うちの娘はブス! ブスってことは耐久性がある。特にうちの娘はもう、ブスもブスもブス、ブス、ブス。スーパー高耐久性ブスですからね。結婚するならブスが最高♪」なんてヤケクソみたいなこと言ってはだめです。そんなこと言って、誰が「ブスは最高でんな♪」なんて思うもんか。思いません、そんなこと。

  それ以前に、(株)一条工務店の営業本部長の天野隆夫という男は、必要がない相手に必要がない悪口を言わせたがる男でしたが、品がないなあ・・・と思いました。
  1980年代後半、小堀住研(株)に入社した直後の営業系新卒社員合宿研修において、「他社の悪口を言ってはならない」と教えられたのですが、これは他社の悪口を言うと、言った相手についてではなく言った者と言った者の所属する会社の方が「品がない」「程度が低い」といったようにマイナスの印象を与えることになるからということでした。そして、「それでも言う場合には、論拠をあげて論理的に述べないといけない」とも言われたのです。私はこれはどこの会社にはあてはまるが、他のどこにおいてはあてはまらないというものではなく、基本的にはどこでもあてはまるものと思っていたのです。
  しかし、(株)一条工務店では他社の悪口を言う営業というのがいて、特に営業本部長の天野隆夫は、1993年、千葉県松戸市の松戸展示場の所長を兼任していたのだけれども、中途入社1年目のMが接客した来場客が「エスバイエルのハウス55というの、あれでいいのじゃないかと思っている」と言われたらしかったのですが、それを聞くと天野隆夫は「ハウス55なんか建てたら地震が来た時にひっくり返りますよ、とこう言ってやれ」などと言うのでした。なんとも程度の低い男です( 一一)  小堀住研(株)⇒エスバイエル(株) の「ハウス55」は 小堀住研(株)⇒エスバイエル(株) の高級志向の「新 桂」と構造は共通していて、「安物仕様」の構造ではなく、小堀住研(株)⇒エスバイエル(株)の木質パネル構法というのは高級志向の「新 桂」も「高品質低価格」タイプの「ハウス55」も共通したものであり、何より「在来木造より何倍強い」といった理屈・理論があり、その頃の(株)一条工務店にはなかった「構造カタログ」といったものも用意されていたのです。だから、相手は在来木造の会社から理論的・科学的でない攻撃を受けたなら、ボクシングにたとえればこれはカウンターパンチを打つチャンスであり、これほどうれしいことはないのであり、それをやれと天野隆夫は指示していたのでした( 一一) 『あしたのジョー』の矢吹丈は相手が撃ってきた左ストレートに右ストレートをクロスさせて相手の顔面を撃つクロスカウンターを得意としていたが、いわば、クロスカウンターを狙っている相手におあつらえ向きに左ストレートを撃つみたいなものです。「カウンターのパンチは通常のパンチの倍の威力があると言われている。それがクロスカウンターになると3倍、いや、それ以上の効果を発揮する」と丹下段平のおっさんが言っていたように、同業他社から非理論的・非科学的な攻撃を受けた時に、それに対してのカウンターパンチとしての「構造アプローチ」は単なる「構造アプローチ」の倍の効果を発揮する。私は見かねて「そんなこと言っちゃだめですよ」と言いかけたところ、天野隆夫から「おまえは口きくな!」「おまえはエスバイエルに行け」などと暴言を受けたのでした( 一一) (株)一条工務店の営業本部長の天野隆夫という人はそこまでして、他社に論理的でない科学的でない悪口雑言を言いたい言いたい症候群の重症患者だったようです。
  1990年代前半の松戸展示場においては、(株)一条工務店は小堀住研(株)⇒エスバイエル(株)の「ハウス55」について、特に攻撃なんてしても意味はなかったはずです。なぜかというと、(株)一条工務店の「セゾン」「百年」とは「ハウス55」は価格帯が異なるものであって、東京圏においては「ほとんど競合にならない」ものだったから、競合にならないものに悪口雑言を必死で浴びせても、その悪口雑言を浴びせる者の方が「卑しい営業」「品がない営業」と見られてマイナスの印象を与えるだけのことで、プラスになるものはないからです。小堀住研(株)⇒エスバイエル(株)と(株)一条工務店 はどちらも木質系の戸建住宅建築業の会社でしたから、私は(株)一条工務店に入社する時点ではもっと競合になることが多いかと思ったのでしたが、入社してみると東京圏においては競合になることはほとんどなかった。小堀住研(株)⇒エスバイエル(株)はクルマにたとえればカローラからクラウン・センチュリーまで広い価格帯で建てていた会社でしたが、(株)一条工務店はクルマにたとえれば、東京圏においてはクラウンの価格帯しかない会社であり、「小堀ハウス55」⇒「エスバイエル ハウス55」というのはクルマにたとえればカローラの価格帯の商品であり、その頃においては「比較的よくできたカローラ」だったのですが、東京圏においてはクラウンの価格帯だった(株)一条工務店とは「ガチガチの競合」にはならない商品であり、(株)一条工務店の松戸展示場に来場された来場客が「(自分なんかは特別に金持ちでもないし、予算から考えてもクルマにたとえればカローラくらいでいいと思うので、)エスバイエルのハウス55というのが、あれなんかでいいのじゃないかと思う」と話された・・ということで、その価格帯の商品がない会社の営業本部長が必死になって「『ハウス55なんか建てたら地震の時にひっくり返りますよ』と言ってやれえ」だのと、な~んか程度低いなあ~あ・・とうんざりした( 一一)  う〇こまみれのザリガニ・・でうんざり( 一一)
  小堀住研(株)⇒エスバイエル(株)のものなら、(株)一条工務店の「セゾン」「百年」は小堀住研(株)⇒エスバイエル(株)の「新 桂」の比較的安めのものあたりが価格帯としては近いものだったと思われるが、それは競合になることはほとんどなかったのは、それは「どちらも木質系であるが、タイプが違う」ことによるものだったと思われる。20代の若い頃に浜松で社長の義理の弟としての特別扱いの営業しか営業はやったことがない天野隆夫が小堀住研(株)⇒エスバイエル(株)の「ハウス55」という松戸展示場など東京都・千葉県においては「ガチガチの競合」にはならない商品を必死になって攻撃したがるというのは、それは東京圏では「ハウス55」とは競合にならないけれども、浜松においては競合になることがあった・・ということからではないかと思われる。なぜ、東京圏ではクラウンとカローラと別の価格帯のものが浜松においては競合になったかというと、それは小堀住研(株)⇒エスバイエル(株)は東京でも名古屋でも大阪でも浜松・掛川でも同じ値段で販売していたのに対して、(株)一条工務店は「セゾン275S1」という商品を「施工面積」という(株)一条工務店が独自に考えた計算単位、延べ床面積より広い面積になるようになっていて結果として「坪単価」として見ると延べ床面積での坪単価より安めの額になるようにできている「施工面積」における坪単価で東京都・神奈川県では坪55万円、千葉県では坪52万円で販売させられていたのに対して、浜松・掛川では坪48万円、名古屋南営業所・名古屋八事(やごと)営業所では坪49万5千円でウルトラのダンピング販売やっていたことから、そこまでダンピングして売るとクラウンの値段がカローラに近づいたのでした。「カローラに価格が近づいたクラウン」を(株)一条工務店の浜松・掛川・名古屋南営業所・名古屋八事(やごと)営業所の人間は「カローラに近い値段でクラウンを売っていた」のです。だから、「カローラに値段が近づいたクラウン」はカローラと価格帯が近づいたことから浜松では競合になったのです。 1993年に新卒入社して浜松の営業所に配属されて1993年8月まで通算契約棟数ゼロ棟だった小野田くんが東京展示場に転勤で来たが、小野田くんは「エスバイエルは安もんですよ、安もん」と言いまくってしかたがなかったが、「比較的安い価格帯のもの」と「安もん」は意味が違うのであり、東京圏においては「エスバイエル ハウス55」は「比較的よくできたカローラ」であってクラウンと比較すれば内装材に使用しているものが安いものであってもおかしなことではなく、(株)一条工務店と価格帯で近い「新 桂」と比較すれば「新 桂」は(株)一条工務店の「セゾン」「百年」と同程度のものを使用している場合もあれば、もっと高いものを使用しているものもあったわけで、クラウンの価格帯のものしかない会社の営業の小野田くんが、カローラもあればクラウンもあればセンチュリーもある会社について小野田くんがカローラしか知らず、なおかつ、カローラを自社のクラウンと比べて「安もん、安もん」と言いまくるというあたりは、この男も程度低いなあ( 一一)・・と思い、こんなのが「大卒」なのか、今ではこんな程度の低いのでも「大卒」になるのか、こういうのが旧帝大系国立大学卒の人間に向かって「同じ大卒なのに差別されるのはおかしい」とかふんぞり返って言いよるんだ・・と思うとうんざりした・・が、(株)一条工務店の浜松地区の営業所(展示場)にいると、なおかつ、小野田くんのように自分で学習するということをしない男の場合は、浜松においては(株)一条工務店は「セゾン」「百年」をウルトラのダンピング販売していたことから、東京圏においてはクラウンの価格帯のものであるのに浜松においては「カローラに近い価格」になり、小堀住研(株)⇒エスバイエル(株)の商品でもクラウンではなくカローラの方の「ハウス55」と競合になることがあったから、だから、(株)一条工務店の「浜松・掛川・名古屋ではカローラの値段で売ってるクラウン」と比べて「カローラ」は内装で使用している物など安い物であることがあり、そこから「安もん、安もん、エスバイエルは安もん」と叫びまくりょうになったらしく、営業本部長の天野隆夫もまた、小野田くんと知能程度が似ていることから同じようなことを言い、松戸展示場に中途入社した新人にもその類のことを言わせようとしたようだったが、東京圏においては(株)一条工務店の「セゾン」「百年」はクラウンの価格帯であってカローラの価格帯ではなかったので、カローラの価格帯の「ハウス55」と競合することはほとんどなく、競合することがない他社の建物に非論理的・非科学的な悪口雑言を浴びせなければおれないほとんどビョーキ症候群の天野隆夫は下品に見えたし、程度低いなあとも思えたし、こんなこと言う人が営業本部長なのかと思うとうんざりしたが、その人が私を採用しようと決めて採用してくれたのだから、私を採用してくれた人のために役立ちたいとも思ったが、それから10年ほど経ってみると、どんなにこちらが努力してもアホはどうしようもないみたいだった( 一一)
  さらに、Mだったか他の新人だったか、中途入社1年目の新人が松戸展示場で接客した人が「どこそこの展示場の外観が、あれがなかなかいいと思ったんだ」と話されたようでしたが、そうすると、またもや天野隆夫は「デザインがいい、ということは耐久性がないということだ。その点、うちは耐久性があるんだ」などと、いわば「美人ということは健康状態が悪いということだ。その点、うちの娘はブスだから耐久性があるんだ」と言っているようなことを言い出したのだった( 一一)  その「結婚するなら美人薄命の女性よりもスーパー高耐久性ブスの女がいいに決まってるでしょお~お♪」と言えというの・・、違うと思うがな~あ・・と思ったのだが、言うと怒るので言えなかったが、違うと思うぞお・・( 一一)  むしろ、言うのなら「どこの展示場ですかあ」とでも言って、「ああ、あれはなかなかいいですね」とか言って他社のものでもいいと認める度量を示した上で「うちもなかなかいいですよ」とでも言った方がまだいいのではないか・・・と思うが、それよりも、その話はそれほど真剣な話ではなく、「どこそこの展示場の外観はなかなかかっこいいと思った」という世間話にちょっと毛が生えた程度の話であり、そこまで真剣になって悪口雑言を浴びせなければならないような話でもなかったはず・・・なのだが、それを言わなきゃおれないのが(株)一条工務店の営業本部長の天野隆夫だったのだ( 一一)
  又、これは企画室課長⇒総務部長だった天野雅弘にも思ったことだが、相当前に「『一族として特別扱いでの営業』を経験したことがある」というのは、それは意味があるのか? むしろ、害があるのではないか。オーナー企業の経営者が息子が大学卒業した後、すぐに自分の会社に勤めさせるのではなく、他の会社に一時勤務させて、その後に自分の会社に入れるということをする人がいるが、一族の会社での経験というのはそうでない会社での経験とは同じではなく、住宅建築の営業においては「苦労して努力して売った」のと「一族として売らせてもらった」は同じではないはずなのだが、それを理解できていないだけでなく、天野雅弘などは何十年と営業から離れていたにもかかわらず、「ぼく、売れるもん」などと言っていたが厚かましい限りであり、むしろ、「一族としての特別扱いの営業」経験というのは害があると考えるべきではないか。「一族や縁故入社としての特別扱いの営業」の経験は営業経験のうちに入らない、と考えるべきではないか。

<4>  「営業の努力でカバーする」と「『地方』と何らかのつながりがある人 に契約してもらう」
  私は1992年に(株)一条工務店に入社して1年目、東京圏にそぐわない部分が多い(株)一条工務店の家を売るために、営業の努力でカバーしようと努力した。・・そういう努力をして悪いということはないが、しかし、「営業の努力でカバーする」というのは、それはそう簡単ではないし、「営業の努力」でカバーできる範囲とそうでない範囲がある。東京圏には東京圏を対象とした大手ハウスメーカーは何社もあり、「営業の努力で」と言っても他社の営業だって努力していないわけではなく、実際のところ、1992年、東京圏で(株)一条工務店の家を売ろうとして「売れん商品やなあ」とも思ったし、その「売れん商品」を何とか売ろうと苦労して努力している人間を、私と同じだけの努力をしていない苦労をしていない「浜松・掛川あたりにはフィットしている商品」を売らせてもらっている浜松・掛川あたりの人間が勝手な口をきくのには何ともむかついた。

<5> 「地方向けの家」を東京圏で契約してもらうには、「地方」と何らかのつながりがある人に契約してもらう・・。
  私が入社した1992年の前年まで東京都江東区潮見の東京展示場にいて、その後、浜松の本社にいた西尾と2001年に話をした時、西尾が「私も東京の展示場にいた時は、何らかの形で『地方』とつながりがある人でなかったら契約できなかったですね」と言うので、「おい~い、今頃、それを言うのではなく、私が入社した1年目にも何回か会ったことがあるのだから、その時にそれを教えてくれよお~お」と思ったものだった。西尾は私より年下で、住宅建築業の業界に入ったのは私より後だったが(株)一条工務店に入社したのは私より先で私より先に東京営業所に勤務していた。「入社して10年も勤務して私がそういったことを理解していて人に教えてもいい立場の私」に言うのではなく、「入社して1年目の私」にそれを言ってくれよお、なんで、私が入社してすぐの時に言ってくれないんだよお・・と思ったものだった。
   <「地方」と何らかの形でつながりがある人>とはどういう人のことかというと、
《1》 「地方」出身で東京圏に出て働いていた人が定年退職した後、出身地の「地方」で家を建てて住むか東京圏で建てるか思案した末で東京圏で建てようということになった場合。
《2》「地方」出身で東京圏に出て働いていた人が定年退職した後、出身地の「地方」で家を建てて住もうと考えた際に、定年退職までの間は東京圏で勤めているので、東京圏の営業所に行って東京圏の営業に担当してもらって契約して進めようと判断された場合。
《3》東京圏でも、おおむね、千葉県なら千葉市より東・千葉市より南、埼玉県なら大宮より北、神奈川県ならJR相模線より西あたり。 そのあたりまで行くと、東京圏でも「地方」の要素も入ってくる地域であり、<「地方」の要素も入ってくる地域>ということは、「(株)一条工務店が契約してもらえる可能性がある地域」ということになる。
  私は1992年に(株)一条工務店に入社した後、(株)一条工務店がどこで建てたか調べて、どこかに行く場合には近くに過去に(株)一条工務店が建てた家がないか調べて、過去に(株)一条工務店が建てた家がある場合にはその前まで行って外観を見てまわったが、《1》の人は、東京圏で建てる場合でも、東京圏の家と「地方」の家の中間、もしくは折衷様のようなものを建てることが多い。
《3》の場合だと、特に兼業農家とかだと(株)一条工務店で建ててくれるお客さんになってもらえる可能性があった。
私はこういうことを1992年に必死で走り回って、おのれの血と汗と引き換えに・・と言っても血は別に流してないが、汗と涙と引き換えに学んだのだが、前年まで東京営業所にいた西尾は「私も東京の展示場にいた時は、何らかの形で『地方』とつながりがある人でなかったら契約できなかったですね」なんて、「入社して10年目の私」に言うのではなくて、「入社1年目の私」に言ってくれよお~お・・と思ったものだった。
《1》のケースとしては、1992年、後半、東京展示場に来場された人で江戸川区だったか江東区だったかに住まれていて、東京で勤務しているけれども、3年後に定年になるからその時には故郷の浜松に家を建てて住みたいと言われた方があり、さすがに浜松出身だけに「根っからの東京人」とはまったく違って(株)一条工務店という会社に対しての評価が高く、建てる時にも(株)一条工務店かそれに似た所で建てられる可能性が大きいと思われた。その方は「まだ、3年あるけど、その時はよろしくね」と言われたのだったが、3年後は私は東京営業所にはいなかった。
  その方から、「一条工務店は東京ではテレビ広告やってないけど、浜松では相当テレビ広告やってるじゃないの。テレビ広告などは一切やらない会社だなんて嘘言っちゃだめだよ」と言われて、浜松の研修で講師役の従業員から「一条工務店は昔から、いいものは売れるという考え方で、テレビ広告などは一切やらないできた会社です」と教えられた、その研修の内容は嘘だったと知った。(株)一条工務店の研修は嘘つきだ( 一一)
※ [第809回]《(株)一条工務店は創業以来、TVコマーシャルをやってきた。「借入金0」の論拠を示せ。中田島砂丘がやせる対策は防潮堤でいいのか?~インターネット上の嘘もしくは誤解を指摘する。》https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/202012article_5.html
  又、1992年秋、東京都江東区潮見の東京展示場に来場された方で、東京展示場が出展していたウッディランド東京を運営している林野庁・東京営林局に勤めていた方で浜松出身の方が来場され、もうすぐ定年になるので浜松に戻って家を建てたいと言われ、東京に住んでいるので東京営業所で話を進めてと考えられたようだった。こういうケースは(株)一条工務店で契約してもらえる可能性がある。
  この方だが、私が説明をして話を進めかけたところ、土浦営業所の所長の田中(男。当時、40代後半くらい?)が全然、何の関係もないのに、過去に林野庁・東京営林局に勤めていた人に田中が担当で建ててもらったことがあるということから、林野庁・東京営林局に勤めている人はすべて土浦営業所が担当すると言い出して、東京展示場の「リーダー」で主任の宮崎さんに「土浦営業所は何の関係もないでしょ。東京に住んでいて土浦で建てる人とか、土浦に住んでいて東京で建てる人とかならまだしも、東京に住んでいて東京展示場に来場された人で浜松で建てる人ですよ。土浦といえば東京をはさんで浜松とは逆側じゃないですか。このお客さんは田中さんの知り合いでも何でもないですよ。一条工務店には『紹介客』になる場合、その営業が担当したお客さんが担当営業に見込客を紹介してくれたという場合で『紹介客』として書面に書いてもらい、それを会社に提出していたという場合には『紹介客』として、先に契約して建てていただいた方の担当営業が担当になるということになっていますが、田中さんは何ら紹介してもらっていないし、田中さんは会社に『紹介状』を提出していないし、建てようというお客さんからは田中の『た』の字も口に出ていないし、なんで、それが田中さんの担当になるんですか。東京展示場があるウッディランド東京は林野庁・東京営林局が運営する施設ですが、林野庁・東京営林局に勤めている人は過去に林野庁・東京営林局に勤めている人を1人、田中さんが担当して建ててもらったことがあるからという理由ですべて土浦営業所が担当ということにされるなら、そういうことをされるなら、過去に何軒か契約した営業は何もしなくても自分の営業成績ということになるお客さんが出てくることになり、そういう契約客がない営業はどんなに努力しても、すべて田中に奪われることになってしまうじゃないですか」と言ったのだが、それでも《「リーダー」で主任の宮崎さん》は「それはわかるけど、気持ちはよくわかるし、悔しいと思うのもわかるけど、それでも田中さんにあげなきゃだめだ。会社のルールでは田中さんの紹介客にならなくても、それでも田中さんのルールでは田中さんの見込客なんだから。会社のルールより田中さんのルールの方が優先なんだ、この会社では」と言うのだ。「なんで、会社のルールより田中さんのルールの方が優先なんですか。それなら、会社のルールというのはいったい何なんですか。会社のルールを破る者が所長なんてなっていていいのですか。会社のルールを破るような者が所長になることないし、所長なら会社のルールを守らなきゃいかんでしょう。部下に会社のルールを守るように言うのが所長と違うのですか、所長が会社のルールを破ってはいかんでしょう」とも言った。小堀住研(株)でも「ひとの見込客を横取りする営業」と言われる男がいたが、私も小堀住研(株)の松戸展示場にいた時、柏展示場にいた犀川(さいかわ)という30代後半の男に盗られた可能性が大きいというケースがあったが、土浦営業所の田中ほどのことをする人間の話は聞いたことがなかった。イェーリング『Recht(権利=法)のための闘争』では「自ら虫けらとなる者は後で踏みつけられても文句は言えない」というカントの文句を引用して、どこで闘うべきか、どこは譲歩してもよいかといったことが述べられているが、これは譲歩してはならないケースのはずで、このようなものを譲ってしまったのでは今後、どんな契約も取れなくなってしまうことになってしまう。「リーダー」の宮崎さんは「気持ちはわかるし、理屈では田中さんの客じゃないけども、たとえ田中さんの客でなくても田中さんが俺の客だと一言でも言い出したら田中さんの客なんだ。会社のルールなんか田中さんにとっては何の関係もないんだよ。あの男に会社のルールは通じないんだ。あの男は普通の人間じゃないんだから。もしも、これを田中さんに渡さなかったらもう、ねちねちにょりにょり、ねちねちにゃりにゅり、にぃりにょりねちにゃち、にょりにゃちにゅりにゃち、にょりにょりねちにゃち、ねりねりにゃちにょり・・もう、し~つこいしつこいしつこいしつこい、あの男はもう人間じゃないんだから、人間じゃない相手なんだから、どんなに悔しくても我慢して譲ってあげて」と言うのだった。・・しかし、もしも、ねちにゃちにょりにゃり、にょりにょりねちにょり、にゃちにゃちねりにゃち、にょりにょりにょりにゃち・・とし~つこいしつこいしつこいしつこい・・という態度を取れば、おのれは何の関係もない見込客を強奪して「田中の契約」にできるということならば、田中は会社に害をなす人間であり、それがまかり通るのならば、それなら私だって、ねちにゃちにょりにゃち、にょりにょりねちにょり、にゃちにゃちねりにゃち、ねいにょりねりにゃち・・とし~つこいしつこいしつこいしつこい・・とやってやればいいということだ。そもそも、曲がりなりにも所長ならば、(株)一条工務店に入社1年目の営業に協力していいのではないのか、それが所長の仕事と違うのか・・と思えるのだが、ねりにょりにゃちにょり、にゃちにゃちねりにゃち・・で会社のルールを破って人の見込み客を強奪する男を許すというのは、それは自分を雇ってくれた会社のためにならないはずだった。
  そして、その「普通の人間じゃない田中」は、有望見込客を私から会社のルールを破って強奪した上で、〇日に・・を調べて連絡しますと私がその見込客と約束していたにもかかわらず、「普通の人間じゃない田中」は私から有望見込客を強奪しただけ強奪して放置して、そして、その見込客から私に苦情・抗議の電話がかかってきて、私が田中のかわりに怒鳴りつけられた。私は《「リーダー」の宮崎さん》に「なんで、田中さんは私から有望見込客を奪うだけ奪って連絡もしないんですか」と言ったが、「あの人はそういう人だから、しかたがない」と宮崎さんは言うのだったが、「しかたがないですまされてたまりますか」と言ったのだが、「だから、我慢してって。あの人は普通の人間じゃないんだから、お願いだから我慢して」と言うのだった。「しかし、お客さんから『その田中さんという人には連絡してこないでくださいと言っておいてください』と言われているんだから、田中さんにそれを言わないといけませんでしょ」と言ったのだが、宮崎さんは「言わなくていい、言わなくていい。もう、田中さんは連絡しないと思うから、言わなくていい。お願いだから言わないで」と言うのだった。「それなら、浜松の営業所に連絡しておく必要がありますでしょ。『田中のルール』によれば林野庁・東京営林局に勤めている人は田中さんと何の関係もない人でも、東京に住んでいる人でも浜松で建てる人でも東京から浜松と逆側の茨城県の土浦営業所が担当だという『田中のルール』によって他の営業所の営業は折衝してはならないのですから、お客さんは『東京営業所で対応しないなら、浜松に行って浜松の営業所と話をします』と言われているのですから、『浜松の営業所にこういう方が行かれますけれども、土浦営業所の田中さんは『会社のルール』で定められている『紹介状』などは一切書いてもらっていませんし、田中さんとこの見込客は会ったこともなく見込客は田中の『た』も知らなかった人ですけれども、その方が浜松の展示場に行かれるようですが、『田中のルール』として土浦営業所が担当であって土浦営業所以外の営業所の営業は折衝してはならないことに『田中のルール』でなっていますから契約しないようにしてください、と浜松の営業所に通知しておく必要がありますでしょ」と言ったのだが、ところがそれにも「リーダーの宮崎さん」は「言うことない。言わなくていい。浜松で契約してもらえばいい。浜松の営業に契約してもらえばいい」と言うのだった。「だから、なんで、浜松の営業は契約していい見込客を東京営業所の私は契約してはいかんのですか。これでは私たち東京営業所の営業は仕事にならないじゃないですか」と言ったのだが、「腹立つ気持ちはよくわかるけど、しかたがない、しかたがない。それが一条工務店なんだから、しかたがない」と言うのだった。「しかたがないなんて言っていたら仕事にならないでしょう。ただでさえ、東京営業所は他の営業所に比べて不利なんですよ。やっと、有望な見込客と出会えたと思ったら、『会社のルール』より『田中のルール』が優先で、なおかつ、『田中のルール』は東京営業所には適用されるけれども浜松の営業所には適用されないて、そんなおかしな話はないでしょう」と言ったのだが、「だから、お願いだから、お願いだから、我慢して。悔しいのはわかるけども、それが田中さんであってそれが一条工務店なんだから」と言うのだった
  この話はこれで終わりではない。(株)一条工務店の展示場はその時の東京展示場のように宮崎さんのような「主任」が「リーダー」で「所長」は「所長 <天野隆夫>」とグラフには書かれている営業本部長の天野隆夫が所長を兼任という展示場と、「課長」が「所長」でその「所長」が展示場にいる、田中義一が土浦営業所にいた土浦営業所のような展示場があり、どうも、「所長 <天野隆夫>」で「主任」が「リーダー」の展示場と「所長 課長 田中義一」となっているような「所長」がその展示場にいる展示場とでは、展示場間の問題が発生した時に「主任」でしかない「リーダー」の展示場は不利で損だったようなのだ。相手の展示場の「リーダー」は主任だと思うと、特に土浦営業所の所長の田中はかつては東京営業所の所長で宮崎さんの上役だったらしく、そうなると、田中は俺様は東京営業所の人間には何をやっても通じると思うらしかった  かつ、浜松の営業所は平松さんが「所長 課長」として所長になっており、「所長」になっている人が展示場にいる営業所であり、東京営業所のような「所長 <天野隆夫>」の展示場ではなかったので、それで浜松の営業所には「田中のルール」は押しつけることはなかったようだった。ふざけんな! つうんだよ。私は「リーダー」の宮崎さんは(株)一条工務店のことについて親切に何でも教えてくれた人であり、そういう人だからと思って宮崎さんの言うことはきいてきたけれども、これはそういう人が言うことでもきくできではなかったと今は思っている。譲っていいことと悪いことがあった。田中のやっていることは会社にあだなす行為であり、宮崎さんが言ったようにそこでへこへこして田中の横暴に従えば、それに対して報いてくれるなどということはない。むしろ、なめられるばかりであり、逆だった。ところが、そのうち、「所長 <天野隆夫>」の天野隆夫がやってきて、「おい、『この展示場は所長がいないから』と言ったそうじゃないか。この展示場の所長はぼくやで。ぼくが所長なのに『この展示場は所長がいないから』てなんだ」と文句言ってきた。はあ? あんた、いつでも浜松にいて、たまに思い出したように浜松ナンバーのセドリックで東京にやってきただけじゃないか。「土浦営業所の田中」が「会社のルール」を破って全然関係ないのに「その見込客は土浦営業所で担当させてもらいます」と無茶苦茶なことを言った時も何もしなかったじゃないか。所長として何もせずに「主任の宮崎さん」に「田中さんがほんのちょっとでも関係するような見込客は全部、田中さんにあげてちょうだい。田中さんと全然関係ない見込客でも田中さんが俺の見込客だと一言でも口にしたら田中さんの見込客なんだ、『会社のルール』では田中さんの見込客でなくても『田中のルール』では田中さんの見込客なんだから、逆らっても一条工務店ではどうもならないから、何でも見込客は全部、田中さんにあげて」とかそんなことをきいてしまったら我々は仕事にならないじゃないかということを私に要求した時に、「ここの所長はぼくなんだで。わからんのか」などと後からえらそうな口をきく天野隆夫は何もしてくれなかったではないか!!! 何を後から勝手なこと言ってるんだ、このボケナスあほんだら大アホ!!!
  さらに、東京展示場に来場してくださった浜松で建てようというという方を土浦営業所の田中が奪い取るだけ奪い取ってそのまま長期間放置したその直後、「所長はぼくなんだで」とか言いながら何もしなかった「所長 <天野隆夫>」が東京展示場にやってきて、私に「おい、契約あがらんのか」と言うから、「はあ、まあ、運が悪かったというのもありますから」と、別に「運が悪かった」のではなく「田中義一が悪かった」のだがそう言ってもしかたがないと思って「運が悪かったというのもありますから」と言ったところ、「<所長> 天野隆夫」はこう言ったのだ。「運みたいなもの、誰にでもあるだろ。何、言ってるんだ、おまえは」と。はあ? 「『誰にでもある』なんてことあるかい! 田中義一に何の関係もないのに有望見込客を強奪されて、それを放置されて見込客から怒鳴りつけられたのは私だけだ。田中は強奪するばかりであって、田中の有望見込客を私が強奪したことなんて一回もないわい。「この展示場の所長はぼくなんだで」などと言いながら、何を無茶苦茶言うとるんじゃ、このボケナスあほんだら大アホ!!!
普通、曲がりなりにも「所長」ならば、田中のようなことはしないはずで、してはならないはずだったが、今に至るまで田中義一から謝罪の言葉はない。所長ならば社歴の浅い営業に協力しても良さそうなものだったがそうではなく、「おんどれ、しまいに血い見るどお!」ということをして社歴の浅い営業の妨害をするのがそれが(株)一条工務店の所長であり、(株)一条工務店の所長の田中義一だった。その時、田中義一から有望見込客を理由もなく強奪されたのは私だけであり、決して「誰でもある」などということはない。「ぼくがこの展示場の所長なんだで」などと言いながら「所長 <天野隆夫>」は何を無茶苦茶言うとんねん!!!
  この話はまだ終わりではない。そのうち、1993年前半、私が千葉県松戸市岩瀬の松戸展示場に勤務していた時、東京都葛飾区水元で建て替えを検討されていた方と折衝していた時のことだ。建て替えを検討されていた場所の近くで少し前に(株)一条工務店が1軒建てており、その担当が東京営業所に在籍した時の土浦営業所の所長の田中義一だった。それを「所長 <天野隆夫>」が「そのお客さん、近くで田中所長が担当で建てているのだから、田中所長に話したらどうだ」などと言ってきたので、「けっこうです」と話した。要するに、近くで田中義一が営業担当で建てた家が1軒あるからその見込客も土浦営業所の田中にくれてやれと「所長 <天野隆夫>」は私に言ってきたのである。「会社のルール」に反して。ふざけんな! おんどれ、しまいに血い見るどお~お! てものだ。「自ら虫けらになる者は後で踏みつけられても文句は言えない」、「所長 <天野隆夫>」は所長としての役割を果たさず、土浦営業所・松戸営業所の「所長」だと言いながら土浦営業所のパシリなのだから、そういう人の言うことをきいて見込客(メシの種)をよその営業所に奪われるわけにはいかない。
  普通ならば、「◇◇所長が担当で近くで建てたのなら、◇◇所長から入居者に話してもらって、入居者から見込客の人に『一条工務店の家はなかなかいいですよ』と一言でも話してもらうようにお願いしたらどうか」というものだが、田中義一という男がそんなことするわけがない。うかつにそんなこと頼もうものなら「その見込客は土浦営業所の見込客とさせてもらいます」という「田中のルール」を言い出すであろう。言い出しても、もう、やられない。同じことを何度もやられているようではアホである。東京営業所の「リーダー」の宮崎さんは東京営業所に残っていて松戸展示場には来ていない。松戸展示場に勤務していた営業で最も古いのは2年目に入った私であって私より古い者はいなかったのだから、もしも、土浦営業所の田中が何か言ってきたならば、「会社のルール」を主張するのは私の役目である。だ~れが田中みたいなものに、そんなもの言うんじゃ。 ふさけるな!!!
  何よりも、その見込客はその時点ですでに近くで(株)一条工務店が1軒建てていたことは知っており、その見込客の方から「あそこの家、建てる時、近所は迷惑したんですよ」と言われていたのだった。近所に迷惑をかけないように、近所の人から嫌われないように配慮するのは工事課とともにその家の営業担当の仕事だったはずだが、「自分が担当で契約した人と同じ会社に勤めている人は全然関係なくても俺の担当客」という無茶苦茶な主張をして契約盗ってきたねずみ講かマルチ商法みたいなことを主張してきた田中義一は、田中が担当で建てていただいた葛飾区水元のお客様宅について営業担当として十分に配慮をしなかったことから、近所に迷惑をかけていて近所の人から苦情が来ていて、そして、私が追客中だった見込客からも「あそこの家、建てる時、近所は迷惑したんですよ」と苦情を言われていたのであり、それを「あそこの家、田中所長に言ったらどうだ」などと松戸営業所の「所長 <天野隆夫>」は無茶苦茶言うのだった。それが「この展示場の所長はぼくなんだで」と言う男だった( 一一)

  さくらと一郎 の「昭和枯れすすき」という歌があり、その替え歌として、
「す~み~りん(住林、住友林業)に~、取られた~」
「いいえ、田中所長に、盗られた~あ」
「こ~の~家も、盗られた~あ」
「いっそ、きれいに、ぶっ殺したろか、こん畜生め!」
「ち~か~ら~の限り、は~たらいたから、み~れ~んな~どいっぱいあるわ~あ♪」
と忘年会ででも歌ってやろうか・・と思って11年勤めたが、とうとう、一度も歌うことなくやめてしまった
※ 昭和枯れすゝき - さくらと一郎https://www.youtube.com/watch?v=iHpdxhwgJpA
  田中義一はそんなことやって契約とっていたわりに、グラフを見ると田中義一の契約棟数は多くなかった( 一一)

(6)知名度・認知度があり、坪単価がバカ安で、テレビ広告やりまくり、地元の会社という売りがあり、その地域に商品があっている・・という静岡県中西部・愛知県の営業は、いわば「外野フライがホームラン」になる打者の営業と、その逆、「ホームランが風に引き戻されての外野フライ」になる営業。「外野フライ」を打つ方法を「研修」で教える「一条浜松流」営業の講師。
  それで、1992~1993年頃の(株)一条工務店においては、
浜松・掛川などでは(株)一条工務店の外観や内装のデザインはその場所に「ちょうどいい」ものであったのに対して、
東京都・神奈川県東部・千葉県北西部などにおいては(株)一条工務店の外観・内装のデザインは「うわっ、イナカくさっ( 一一) 」「ほお~お、浜松の家というのはこういう家なんですかあ」「田舎の家みた~い」「田舎のおばあちゃんち、こんな感じだったね♪」「浜松ではこういう家がいいのかもしれないけれども、うちは東京で建てるのであって浜松で建てるのではないから」「あんな暗い(感じの)家は嫌だ」「ムクのいいものを使っていると言うわりにかっこよくない」「何かとムクだムクだと言うわりに、かっこよくない」「何かとムクだ、ムクだと言わなきゃおれないというあたりがイナカの会社て感じがする」と言われまくる「いなかくさい」「じじむさい」「ぱっとしない」「あかぬけない」ものだったわけだ。
 「デザイン・意匠がどうかよりも、きっちりとした構造で造られているかどうかの方がよっぽど大事なことなんですよ」という同じ文句を言ったとしても、その前の段階で「ちょうどいい」外観・内装のデザインの家の会社の営業が言う場合と、「うわっ、イナカくさっ( 一一)」と思われている会社、「うちは浜松で建てるのじゃないですよお」と言われる会社、「じじむさい」「やぼったい」「あかぬけない」会社の営業から言われる場合とで客の感じ方は大きく違うし、営業としてやりやすいかやりにくいかは大きく違った。それを理解してたまるかというのが(株)一条工務店の静岡県愛知県のオリジナル営業どもだった。
  それだけではなく、もうひとつある。 YouTube に元プロ野球選手何人かが出て、「この選手の記録はもっと高く評価されていいと思う選手」を一人あげてもらおう・・というのがあって、元阪神の桧山が「これは半分、冗談として書いたのですけれども」と言って自分自身の名前、「桧山(阪神)」と書いて出していたのがあった。その理由として「左打者の僕としては、ライト方向に打った打球が阪神の本拠地の甲子園球場は他の球場と比べて広いだけじゃなくて、浜風がライトからレフト方向に吹くために風で打球が引き戻されるんですよ。その結果、他の球場ならホームランになったと思われる打球がライトフライになってしまうんです。ホームランになっていい球がホームランじゃなくてヒットになったというならまだいいのですが、ライトフライでアウトになってしまいますから、ホームランの数が少なくなるだけじゃなくて打率も下がってしまいますから、このあたりを少しはわかってほしいと思った書きました」と話していた。そういうこともあるのだろう。続いて、元楽天の山崎武司が「僕も、同じように僕自身の名前を書かせてもらいました」と言って「山崎(楽天)」と書いたものを出したが、これは、プロ野球の試合で使われるボールはNPBでいくつか決めていて、どんな球を使ってもいいというわけではないが1種類ではなくいくつかのメーカーのものがあり、その球場ごとに使うメーカーが違い、メーカーによってよく飛ぶボールとそうでないボールがあるらしく、山崎武司は選手としては晩年の2007年に43本、ホームランを打って本塁打王のタイトルをとったが、その年、楽天の本拠地の宮城球場では、NPBが定めていた球のうち、あまり飛ばない方の球を使っていて、山崎は球団の人に「よく飛ぶ◇社のボールを使うように変えてもらえませんか。そうすれば俺はもっと多くホームランを打てますよ」と話したけれども変えてもらえなかったらしく、もしも、比較的よく飛ぶボールだった◇社の球を本拠地の宮城球場で使っていたなら、その年の本塁打数はもっと多かったはずだと言い、「ちょっとはそういうこともわかってほしいと思って書きました」と話していた。これと似たことが住宅建築業の営業においてもある。
  1992~1993年頃、(株)一条工務店では「セゾン275S1」というタイプを「施工面積」という(株)一条工務店が独自で考案した面積、延べ床面積より広めの数字になり、結果として「坪単価」として算出した数字は延べ床面積の坪単価より低め・安めの金額になるように設定されている単位で、東京都・神奈川県では坪55万円、千葉県では坪52万円と設定されていたのに対して、浜松・掛川では坪48万円とウルトラのダンピング販売をおこなっていて、名古屋南営業所・名古屋市八事(やごと)営業所では坪49万5千円でウルトラのダンピング販売をおこなっていた。・・ということは「構造アプローチ」についても浜松・掛川では坪48万円の「構造アプローチ」、名古屋南営業所・名古屋市八事(やごと)営業所では坪49万5千円の「構造アプローチ」で契約してもらえるということであり、東京都・神奈川県では坪55万円のものに対応する「構造アプローチ」が必要、千葉県では坪52万円に匹敵する「構造アプローチ」が必要とされたのに対して、浜松・掛川や名古屋南営業所・名古屋市八事営業所ではそれよりも程度の低い「構造アプローチ」でも通じた、レベルの低い「構造アプローチ」でも契約してもらえた、野球にたとえるならば東京都・神奈川県・千葉県でならば外野手の守備範囲で外野フライになるような打球でも浜松・掛川や名古屋南営業所・名古屋市八事営業所ではホームランとなってスタンドに入ったということだったのだ。
  1990年代、(株)一条工務店の非遠州地域の営業からは「浜松流はここには合わない」という不満の声があがっていて、それを封じ込めるために(株)一条工務店の経営者は「浜松流」のどの部分が非浜松地域でも通じるもので、どの部分は地域によって通じないものかといったことを分析して指導するのではなく、「売れない営業の10箇条」などというものをけっこう高そうな生地の用紙に印刷して全国の展示場に送りつけて展示場の事務所に貼るように命令したのだった( 一一) 「浜松流はここには合わない」という言葉は努力しない者の口から出たものではなく、「浜松流」を言われたように非浜松の地域でやってみて、「浜松流」は少なくともそのままは通じないから、そこではその場所に合うやり方を考えないといけないと気づいた者、努力した結果、「浜松流」の問題点に気づいた者が口にした文句だったにもかかわらず、「売れない営業のグチ10箇条」などと印刷して送りつけることで「浜松流」独善主義を正当化することをはかったが、「浜松流」が静岡県愛知県以外の地域で通じなかった理由としては、ひとつには「浜松流」というのは野球にたとえるならば、箱根の関より東、不破の関・鈴鹿の関より西の地域よりも球場が狭い、静岡県愛知県の営業のようにホームから外野に向かって風が吹いている、飛びやすいボールを使用している球場でならホームランになるが、箱根の関より東、不破の関・鈴鹿の関より西の外野からホームに向かって風が吹いている・広い球場で・飛びにくいボールを使用している所でなら外野フライにしかならない方法を静岡県愛知県でしか営業したことがない「浜松流」オリジナルが得意がって講釈していたから・・ということがあった。 彼ら一条浜松流総本舗は、私がせっかく事実に基づいてこういうことを述べても、それを認める謙虚さに欠ける。彼らが頑固に認めなかったとしても、彼らが研修で得意がって教えていた「浜松流」は、箱根の関より東、不破の関・鈴鹿の関より西の地域においては、しょせんは「外野フライを打つ方法」でしかなかったのだ( 一一)

(7)非「静岡県・愛知県」地域においては「名簿」(見込客)が少ない。
  1990年代、「(株)一条工務店の遠州人」がけっこう高そうな用紙に印刷して全国に送りつけた「売れない営業のグチ10箇条」なるものには「浜松流はここには合わない」というものとともに、「名簿の数が少ない」というものがあった。「名簿の数」とは住宅展示場で営業担当者が持てる有望見込客の数のことだ。1992年に私が(株)一条工務店に応募して入社した際に見た(株)一条工務店の「ビーイング」の求人広告には「一条工務店の展示場では売れて売れて困ったいます。あなたがいればもっと売れます」だの「研修制度が充実していますから、売れなくて困るということは絶対にありません」だの「一条工務店の営業の名簿の数(有望見込客の数)は他社と比べても群を抜いています」だの何だのかんだのと「事実と違う」「まぎらわしい」といったものだらけだった。「ジャロに言うたろか」と私は長年にわたって思ったが自分が勤めている会社のことを言ってもしかたがないと思って我慢してきたが、2002年、とうとう、ジャロに電話して言ってやったのだが、ところが、ジャロは「求人広告でも広告ですけれども、求人広告の場合は採用までの間に面接があり、そこで労働条件についての話がされるはずですから、たとえ、求人広告に書かれている内容と実状が違ってもジャロが対応するものではない」と言うのです。「なんジャロ、それは?」。私はこれを(株)一条工務店の従業員、何人かに話したが「それなら、求人広告にはどんな嘘を書いてもいいということか!」と言われた。だいたい、労働条件とか職種とかは面接の場で求人広告と別の話がされるという場合もあるとしても、「関連会社:(株)一条ヨーロッパ、(株)一条U.S.A.」なんて書いてあったが、(株)一条U.S.A.はアメリカ合衆国オレゴン州ポートランドにあるエビソンランバー社というアメリカ合衆国で第2位の材木会社から梁桁材のべいまつ(ダグラスファー)を購入していたことを言っていて、「現地法人」として形式上、(株)一条U.S.Aなんて会社があってもなくても特に関係なかったし、何よりも、(株)一条ヨーロッパ という会社はスペインのバルセロナに駐在所を設けて、ヨーロッパの家具を直輸入していて、スペインやイタリア製のタイルを輸入している・・と言っていたが、そのわりに誰が(株)一条ヨーロッパのバルセロナの駐在所に行ったとか帰ってきたとかいう話は聞かないなと思っていたら、実は(株)一条ヨーロッパなんて会社は最初からなかった。つきあいがあるフランスの家具屋のおっさんがメッセと言われるヨーロッパの見本市で購入する際に(株)一条工務店用にも購入していただけであって、「バルセロナの駐在所」も「(株)一条ヨーロッパ」という会社も最初から存在していなかったらしい。それなら、バルセロナという地名はどこから出てきたのか? ・・というと、「ヨーロッパに駐在所があるということにするのにどこがいいか?」となって、「バルセロナでオリンピックがあったからバルセロナがいいのじゃないか」でバルセロナと決まった・・・( 一一)  て、普通、そんなことするかあ? いくらなんでもそんな嘘をつくかあ~あ? てものだったが、「普通じゃないでしょ、この会社は」ということだった。それもジャロの対象にならないのか。「嘘・大げさ・紛らわしいなどなど、何でもジャロにお寄せください」と言うわりには、ジャロは腰がひけているようにも思えた。
※ ダメダメ三匹のトークまぎらワシ編15秒https://www.youtube.com/watch?v=4CB_HifusRU
JARO コダイ 面白いキャラCM ウサギ ワシ ダメダメ3匹の歌https://www.youtube.com/watch?v=l0d0kjzSpu4
  「一条工務店の営業の名簿の数(有望見込客の数)は他社と比べても群を抜いています」などと入社前に見た求人広告には書いてあったのですが、実際に入社してみるとそうではなかった。同業他社と比べて(株)一条工務店は1展示場あたりの営業の数が多かったが、特に「所長 <天野隆夫>」とグラフに記載されている営業所においては、「所長 課長 近藤正夫」「所長 課長 近藤路夫」「所長 課長 田中義一」とか書いてある営業所と比べて、その営業所に所属する営業の数が多く、その結果、営業担当者ひとりあたりが持てる有望見込客が少なくなったのだった。それを「話が違うじゃないか!」と憤り、「名簿の数が少ない」と不平を言う人があった。それを(株)一条工務店の経営者は自分たちが求人広告に嘘を書いたにもかかわらず、それについて反省することなく「売れない営業のグチ10箇条」のひとつだとして印刷したものを全国の営業所におくりつけたのだった( 一一) なぜ、「所長 課長 近藤正夫」「所長 課長 近藤路夫」「所長 課長 田中義一」とか書いてある営業所と比べて「所長 <天野隆夫>」となっていた展示場は営業の数が多かったかというと、「所長 課長 近藤正夫」「所長 課長 近藤路夫」「所長 課長 田中義一」の営業所ではその所長は自分自身でも営業をやっていたから、だから、あまり営業社員の数を多くしてしまうと自分が契約取れなくなってしまうから、だから、あまりにも多人数にはならないように抑止したのに対して、「「所長 <天野隆夫>」の営業所では<天野隆夫>は自分では営業やっていなかったから、だから、「「所長 <天野隆夫>」の営業所においては営業の数を多めに入れて労働集約型経営をおこなったのであり、その結果、営業担当者からすれば「名簿の数が少ない」という不満・不平が出たのであり、入社前に見た求人広告に書かれていたことと事実は逆ではないか・・ということになったのであり、そういう不満・不平の声が出たのを知って「売れない営業のグチ10箇条」などというものを作成して全国に送りつけたのだった( 一一)
  「「所長 <天野隆夫>」の営業所の営業は自分が持てる有望見込客が少なく、その結果、客質がいいとは言えない見込客でも追わなければならないことになり、「所長 課長 近藤正夫」「所長 課長 近藤路夫」「所長 課長 田中義一」とか書いてある営業所と比べて客質が悪い見込客でも追わざるを得ないことになり、その分だけ、「構造アプローチ」の難易度も高くなったはずだ。(株)一条工務店の「所長 課長 近藤正夫」「所長 課長 近藤路夫」「所長 課長 田中義一」の営業所の営業はこういったことがわかっていないはずである。

  「浜松流はここには合わない」地区において「浜松流」では契約につながらない、というのを(株)一条工務店の一族経営者とその取り巻きは何としても認めたくないようで、そのために「売れない営業のグチ10箇条」などというものをけっこう費用をかけて作って全国の展示場に送りつけたが、そんなものを作るカネと労力があるなら、なぜ、静岡県愛知県以外の地域では「浜松流はここには合わない」のか、考えてみるべきだったはずだが、彼らは考えてたまるものかという信念を持っていた。
  1990年代、私が福島県いわき市の営業所に在籍した時に、浜松の所長で「通算契約棟数全国2位」だった平松さん(男。当時、40代)が《神奈川県の相模原市の展示場だかに行って、相模原市の営業が追客中だった見込客の「構造現場案内」をやって2軒、契約を取った》という話を(株)一条工務店の一族経営者とその取り巻き・「(株)一条工務店の遠州人」・一条オリジナル営業は一生懸命広めていたらしかったが、相模原市の展示場にいた人から聞いたことだがその話は神奈川県地域の営業には評判悪かったらしい。
  どう評判悪かったかというと、事実と違うからだったようだ。どう違ったかというと、「相模原市の営業が追客中の見込客に浜松の営業所長の平松さんが来て『構造現場案内』を2軒やった」というのが事実・実状で、「その見込客を相模原市の営業が努力して契約に結びつけた」のであって、平松さんの「構造現場案内」が悪かったわけではないが、あくまでも「平松さんが相模原市の営業の追客中の見込客に構造現場案内を2軒やった」であって「平松さんが2軒、契約に結びつけた」わけではなく、なんとも「勝ちは静岡県愛知県の営業の勝ち、負けは東京都・神奈川県の営業の負け」みたいに持っていこうとする浜松営業・「(株)一条工務店の遠州人」・一条オリジナル営業の態度・姿勢・言いぐさに対して、神奈川県の営業はあまりいい気はしなかった・・らしい。平松さんは悪気ではなかったかもしれないが、「(株)一条工務店の遠州人」・一条オリジナル営業・一条浜松流総本舗・(株)一条工務店の一族経営者とその取り巻きの態度・姿勢はいつでもその調子であり、それに対して不快感を持つ者に対しては「売れない営業のグチ10箇条」だのなんだのと悪口雑言を浴びせないとおれない症候群だったのだ( 一一)  (株)一条工務店の浜松独善主義・遠州人独善主義はこのビョーキはそう簡単には治りそうにないみたいだ( 一一) 「(株)一条工務店の遠州人」はつくづく卑怯である。ただし、これはあくまでも「(株)一条工務店の遠州人」についてであって「遠州人一般」がどうかということとは別のことである。

  私がここで述べたようなことを理解し認識しているかどうかで売れるかどうかは大きく変わるはずだ。こういったことをおのれの汗と涙と引き換えに学んだ者は会社にとって大事な人間であるはずで、又、研修の講師役にはそういう人間を呼べば役に立つ話をできるはずだった・・が、私が入社した1992年頃は浜松の本社での研修に講師役で来る人間は静岡県愛知県の「得してる営業所」の人間ばっかりだった( 一一)
その後、2000年・2001年頃になると、静岡県愛知県以外の地域の営業を講師役に浜松に呼んだりもするようになったようだが、それでも、どんな人間を呼んでいたかというと、たとえば、1998~2001年には栃木県小山市の営業所(展示場)にいて2003年には佐野市の展示場に移った鈴木(男。当時、30代)だのなんて研修の講師役に呼んでいたようだったので、あんなのを講師役に呼ぶようではあかんな・・と思ったし、あんなのを呼んで私を呼ばないというのはどういうことなんだ? まあ、毎日毎日、夜遅くまでかけまわり、おのれの汗と涙と引き換えで学んだようなことを、「聖なるものをイヌにやるな」「真珠をブタに投げてやるな」てもので、こちらからお願いしてまで講師役に行ってあげなきゃならないものでもなかっただろうけれども、私に頼まないで1998~2001年には小山市の展示場にいて2003年には佐野市の展示場(佐野展示場)に移った鈴木みたいな程度の低いのをわざわざ呼ぶというあたりからして、(株)一条工務店の一族経営者とその取り巻きは程度低いと言わざるをえない。
  鈴木は2000年前後、小山展示場にいた時、「(見込客を)誘導する」とか言っていたことがあったが、嫌な営業だな・・とそれを聞いて私は思ったものだった。同様に「嫌な営業だな」と私が思ったのは1992年、(株)一条工務店に入社した1年目、新卒入社1年目で浜松の営業所に配属されて4月から8月途中まで浜松にいた小野田くん(男。当時、20代)が1992年から東京展示場に転勤してきて、そして、「平松所長が言われたのですが、お客さんの家族の決定権が誰かを見抜くということが大事なんですよ」などと言うので、かつ、それを「平松所長の教え」として得意がっていたので、こいつ、嫌な人間だな・・と思ったものだった。ただし、私は入社直後に平松さんから平松さんの「構造アプローチ」を実演して見せてもらったことがあり、その点で平松さんは(株)一条工務店の営業において私の師匠の一人だったのだが、実は私も入社2年目の1993年、松戸展示場に中途入社した秋山(男。当時、20代後半)から私が一言として言っていないことを私から教えられたなどと営業本部長の天野隆夫に言われて迷惑したことがあったが、「平松所長がこう言っていた」と入社1年目の小野田くんが得意がって言っていても、はたして本当に言ったのかどうかはわからないので、「平松所長が言った」のかどうかは断定はしないことにするとして、その「決定権者を見抜く」という主張については私は「いやなやつだな」「いやな営業だな」とその時、思ったし今も思っている。
  嫌いなんだよ、私は小野田くんのようなその「決定権者を見抜く」とかいうことをする営業とか人間が。又、嫌いなんだよ、小山展示場⇒佐野展示場の鈴木みたいな「〔お客さんを(株)一条工務店とその営業にいいように〕誘導する」という営業が。 私が大学に進学する時、私が小学生・中学生だった時には「親というものは息子が大学に行く時に、行きたいと思う大学の行きたいと思う学部に行ってやりたい勉強をやってつきたい仕事につけるようにと思えばこそ、無理にでも勉強させようとするものなんや」とうちの母親は言っていて、私はそんな話を信じて同級生が遊んでいる時も勉強して成績をあげたが、ところが大学に行く時になると、うちの父親は「すべてをすべてをわしのために、わしのために」と言い出し、結局、私が日本で一番嫌いな大学の首をもがれても行かされたくないと思っていた学部に暴力と強制と脅迫で行かされてしまった。「わしが良かったらええねんぞお、すべてをすべてをわしのために」とうちの父親は言っていた。「本人が嫌やというものを無理矢理させようとしても、うまいこといくわけないねん」とうちの父親は言うのだった。「そやから、おまえはどんなに納得いかんことでも納得せえ。これが一番大事なことなんや。納得いかん、納得でけへん言うたらいかんねんぞ。どんなに納得いかんことでもおまえは納得せんといかんのや。これが一番大事やちゅうことや」と言うのだった。それが「本人が嫌やというものを無理矢理させようとしても、うまいこといくわけないねん」という意味だった。その結果、努力の果実はすべて、ドブに捨てさせられた。高校の教諭には目の前にいる高校生のために働くのではなく親の味方をした方が高校の教諭は評価されると考えて「親の味方」をする者が少なくなく、特に高校2年の時の担任だった旧姓S野礼子(女。1970年代後半当時、20代。担当科目「国語」)はそれが顕著だった。YMCA予備校高槻校の「京大東大文系クラス」の事務職員のF井という男(1970年代終わり当時、40代後半か50くらい?)は「ぼくらは、あくまできみらの親からカネもらっているのであって、きみらからな1円としてカネもらってないんだからな。勘違いするなよ。だから、ぼくらはきみらの親のために働く筋合いはあるけれども、きみらのために働く筋合いはまったくないんだからな」などとクラス全員を前にして発言した。私が親ならば「たとえ、予備校にカネを払っているのが親であっても、親は息子・娘のために役に立ってもらうために払っているのであって、そういう口をきくようなやつに払った覚えはない」と言いたいところだったが、うちの父親はF井がそういうのを伝え聞いて「そうや♪ その通りや。ええ~えこと言いはる♪」などと言って喜びよった( 一一)  うちの父親はそういう男だった。そして、私が小学校3年の時に商談を進めて私が小学校4年の前半に竣工した、うちの親が大阪府で小堀住研(株)で建てた在来木造の家は、私やうちの母や姉が何を言ってもそれは取り入れられず、営業担当者(後の営業部長)は「決定権者を見抜く」ということをやってうちの父親の言うことばっかり聞いていた。うちの母親はそれから何十年も経ってもその点について怒っていたのだ。(株)一条工務店の浜松の営業所の平松さんはその「決定権者を見抜く」というのが「正しい営業」だと思っていたのか、それとも、それは「平松所長の教え」と小野田くんが勝手に言っていたことであって平松さんは言っていなくて小野田くんの考えだったのか、どちらなのかは断定できかねるが、どちらにしても、その「決定権者を見抜く」ことから「決定賢者の心をつかむ」ことで契約に結びつけるという小野田くんが「平松所長の教え」と言っていた営業というのは、私は嫌いだったし、うちの母もそういうことをする営業に対して何十年間、不快感を覚えていたのだった。さらに、小山⇒佐野営業所の鈴木が言う「(お客さんを一条工務店に都合がいいように)誘導する」という考え方も私は嫌いなんだよ。「誘導」されたくないんだよ、私は。
  私は「高級料亭」というやつが大嫌いだ。1980年、私が大学生だった時、私が行きたくないと言っているにもかかわらず、うちの父親が無理矢理、大阪市の宗右衛門町の「高級料亭」Hに一緒に行かされたことがあった。そこでうちの父親は言うのだった。「ええか、わかっとるか。わかっとるか、ええか。この店はなあ、おまえみたいな人間は入ってはいかん店やねんぞ。この店はわあしい~いのような、えっらいエッライえっらいエッライ常務さんとかでないと入ってはならない店やねんぞ。おまえのようなチャンコロは入ってはいかんねんぞ。おまえのような浪商は入ってはいかんねんぞ。わかっとるかチャンコロ、わかっとるか浪商! この店はわあしい~いのようなドイツ人で慶應の人間でないと入ってはいかん店やねんぞ、この店は。わかっとるかチャンコロ浪商。おまえなんぞが、もしも、この店で食事をしようと思って入ろうとしたならば『出ていってちょうだいんか』と言われて首ねっこつかまれて叩き出されるぞお~お」とおっしゃるのだった。そんな店なんか、入りたくないよ、そんなけったくその悪い店なんぞ。だから、そんな所になんか行きたくないと言ったのに、あんたが無理矢理そんな所に行かせたのだろうが。無理矢理、行かせておいてそういうことを得意がって言いまくるのだったが、それに仲居さんが合いの手いれるのだった。なんで、私はあの仲居さんに合いの手を入れられなければならないんだ・・と思ったが、「高級料亭」というのはそういう所だったようだ。要するにその仲居さんは「決定権者を見抜く」ということをそこでやっていたのだ。「高級料亭」というのは、『味いちもんめ』とかにも登場するように、会社の接待で利用したりする店だったようで、そこでは仲居さんは「決定権者を見抜く」ように、「その日の一番大事な人」を見抜いて「その日の一番大事な人」の機嫌をとるべく合いの手いれていたようだったのだ。だから、うちの父親が私をその「高級料亭」Hに無理矢理連れて行った時、仲居さんからはうちの父親が「その日の一番大事なお客さん」で私は「その日のほうかん」と見えたのであろう。だから、「ほうかん」の私をダシにすることで「その日の一番大事なお客さん」だったうちの父親の機嫌をとった・・ということだったようだ。「決定権者を見抜く」という小野田くんが「平松所長の教え」だとして「営業のやり方を教えてやる」などと通算契約棟数ゼロ棟の小野田くんが東京営業所の従業員に得意がって言っていたのはそれだった( 一一) 「決定権者を見抜く」をその「高級料亭」の仲居さんはやっていたのだ。嫌いなんだよな、そういうことをするやつが。食べ物屋でも住宅建築業の会社でも「決定権者を見抜く」ではなく、誰が「決定権者」であるかないかにかかわらず、そこに住む人、誰もが喜べる家にしないといけないと私は考えるし私はそう思って仕事をしてきた。嫌いなんだ、「決定権者を見抜く」という営業が。そして、これは私だけではなく、そういう「決定権者を見抜く」という営業は嫌いだという人は少なからずいるはずだ。浜松の所長だった平松さんがそのあたりについて理解できていなかったのならば、その点において、たとえ「通算契約棟数全国2位」であっても、その部分については無能! と言うしかない。世の中にはいろいろな家庭があるが、1980年代、小堀住研(株)のある展示場に勤務していた時に折衝したある方は、常に奥様だけが対応され、電話にご主人が出られても「かわります」と言ってすぐに奥様にかわられた。「御主人さんには一緒に話をうかがわなくてもよろしいのですか」と言っても、「うちの人は『俺は住ませてもらえればそれでいいから』と言ってるんです。男の人ってそうみたいです」と言われるのだったが、話を聞いているうちにわかったのは、建て替えようという家と土地は奥様が奥様のお父さんから相続されたもので、ご主人は自営業で働いておられたが年収は多くなく、建て替える費用の大部分は奥様が相続されたものから出す予定だったらしく、だから、ご主人は「俺は一緒に住ませてもらえればそれでいいから」と言って「自分はこうしたい」といったことは一切言われなかったようだった。そういう人に無理にご主人に同席してもらおうとしてもかえって良くなかったであろうけれども、そういう場合でも、家族であるからには一緒に住む人は誰もが喜べる家でなければ家ではない、住まいとは言えないと私は思ってきた。「決定権者を見抜く」とか言っているやつが営業担当の家というのは、それは住まいとしては欠陥があるのではないか。うちの父親のように「わしほどエライ人間はおらんねんぞお」と言いまくり、「わしいの言うことは絶対」とかいう父親の家庭では「決定権者を見抜く」ということをすれば契約になるのかもしれないが、たとえ、契約になってもそういう契約をしようとする「貧困なる精神」の営業は長い目で見るならば張り子の虎であってやがて打倒される・・ように思ってきた。平松さんが本当にそういう主張をしていたのかどうかはわからない。私だって(株)一条工務店に入社2年目に入社1年目の秋山から私が一言として言っていないようなことを私に「教えられた」だのと言われて迷惑したことがあるように、平松さんが言っていないことを小野田くんが勝手に間違えて解釈した可能性は可能性として残るが、その「決定権者を見抜く」という考え方のやつ、そういう営業は私は嫌いであるし、小堀住研(株)の営業担当者がそれをやったとうちの母親は何十年間、怒っていたのだ。 鈴木の「誘導する」も私は嫌いなのだ。私は元から住宅建築業の業界に勤めようと考えていたわけではなく、元々、営業やる気もなかった人間で、心理学・心身医学の専門家になるつもりだった。心理療法家のカール=ロジャーズは「クライアント中心療法(クライアント センタード アプローチ、来談者中心療法)」ということを言っていて、来談者がカウンセラーに話をする過程で来談者が自ら決定する・・というものだ。「来談者中心療法」「クライアントセンタードアプローチ」「クライアント中心療法」を学んできた者としては、かつ、「来談者中心療法」「クライアントセンタードアプローチ」「クライアント中心療法」という「療法」ではなく一般の人間関係においてもこれは当てはまるものとカール=ロジャーズは考えていたわけで、カール=ロジャーズの考えを学んできた者としては、小山展示場⇒佐野展示場の鈴木の「誘導する」という傲慢な考え方というのはいいと思えないし、私が見込客ならそういう営業とは契約したくないと考える。「心理学者」「精神科医」「精神分析家」「カウンセラー」と称する者にも「人間による人間の加工」をおこなうのが「心理学者」「精神科医」「精神分析家」「カウンセラー」だと認識している者がいるが、そういう者が多いかもしれないが、私は本来の心理学・精神分析学・カウンセリングはそうではなく、「来談者が自ら決定する」のを手助けするのがカウンセラーという考え方が正しいと思っている。
ロジャーズクライエント中心療法 (有斐閣新書 古典入門) - 佐治 守夫, 飯長 喜一郎
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  ただし、「心理療法」と住宅建築業の営業はまったく同じということではなく、「心理療法」「カウンセリング」ではそれで来談者が人生を生きていくのにプラスになればいいとして、住宅建築業の営業は「来談者中心療法」で「来談者」に決めさせて、その結果、他社で契約することになってしまっては、それでは営業にならないのではないか・・と思う人もいるかもしれない。
  そんなことはない、と私は実際に営業の仕事をやって認識するようになった。そうではなくて、「自分の会社の建物を使って顧客が求める住宅を『来談者中心』で求めていく」のであり、その「『来談者中心』で求めていく」姿勢・能力は営業担当者によって異なるわけで、それこそが「営業力」ではないか
  しかし、そのやり方では自社で対応できない顧客もあるのではないかと言う人がいるかもしれない。しかし、「自分の会社の建物を使って顧客が求める住宅を『来談者中心』で求めていく」というやり方で対応できないお客さんならば、その人は自社の””ストライクゾーン””からはずれた人だったと考えていいのではないか。どうせ、展示場に来場した人、全員は契約してもらうことはできないのだから、””ストライクゾーン””のお客さんをできる限り逃さずに契約するということでいいのではないか。その考え方からいけば、「自分の会社の建物を使って顧客が求める住宅を『来談者中心』で求めていく」というやり方で対応できない人には契約してもらえなかったとしても、それは「しかたがない」と判断してもいいのではないか。落合が「『プロの一流投手が投げる会心の球』なんて、そんなもの、誰だって打てるわけないんだから、打たなくたっていいんだよ」と話していたことがあった。「そうではなくて、一流投手でも一試合に何球かは間違いなく失投があるから、それを逃さずに打つんだ」と。だから、「自分の会社の建物を使って顧客が求める住宅を『来談者中心』で求めていく」という姿勢でやって対応できないような見込客というのは、プロ野球にたとえれば「くそボール」とか「一流投手が投げる会心の球」とかに該当するようなもので、「そんな球なんか打たなくていいんだよ」てもので、「自分の会社の建物を使って顧客が求める住宅を『来談者中心』で求めていく」という姿勢でやって対応できないような見込客に契約してもらえなくても別にいいのではないか、「自分の会社の建物を使って顧客が求める住宅を『来談者中心』で求めていく」という姿勢で対応できるお客さんを逃さないようにするのがいいのではないか・・と思うように私はなった。鈴木がこういったことを考えたことがあるか・・というと、ないと思う。「誘導する」などと傲慢なことを言っているような男だから、その程度の営業なのだろう・・と思う。「その程度の営業」ばっかり講師役に呼ぶ(株)一条工務店の研修というのは、「浜松流はここには合わない」ではなくて「非浜松」の人間も講師役に呼ぶようになったようだが、それでも「役に立たない」やつを講師役に呼んでいることが少なくない以上は(株)一条工務店の研修というのは今後ともあまり役に立たないのではないかな・・・と思う。
  私がここで述べていることは決しておかしなことではないはずだが、苦労して努力してこう言った認識を身につけた者は会社にとって大事なはずであり、大事にするべきであったはずだが、粗末にする(株)一条工務店の一族経営者とその取り巻きのアホどもはどうしようもない( 一一)

  「デザインがいいということは耐久性がないということだ。その点、うちは(ブスだけれども)耐久性があるんだ」という(株)一条工務店https://www.ichijo.co.jp/ の営業本部長の天野隆夫が1993年に松戸展示場で新人営業に教えていた文句は、それは役に立たないはずだ。むしろ、営業活動にとって害があるだろう。邇邇芸命(ににぎのみこと)でも「スーパー高耐久性ブス」は要りませんと返品したのである。

  《 山の神の総元締としてのオオヤマヅミ神は、農業・林業・鉱業・商工業などの諸産業から酒造などの文化的な領域まで、幅広く霊威を発揮している》そうなので、大山祇神は林業の神であるからには木質系建築業の会社の不良経営者を懲らしめる神でもあるだろう。今後も大山祇神社・三嶋大社など、三島系神社への参拝はおこないたい。

  次回https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/502436497.html は、「わら天神」敷地神社の御本社の右側の六勝神社と八幡神社について。

  『ドクタースランプ』アラレちゃん の鳥山明が1日、急性硬膜下血腫で死亡したらしい。私より少しだけ年上の人で、私が大学生だった時に「自分とそれほど変わらない年齢の人」が漫画家としてデビューしているんだと思った人だった。そういう人が亡くなったのは寂しい気持ちがする。
※ 毎日新聞 鳥山明さん急逝 NYタイムズ「日本の国境をはるかに超え…」世界のファンも哀悼「レジェンド、安らかに」
2024/3/8 17:49(最終更新 3/8 17:49)https://mainichi.jp/articles/20240308/spp/000/006/128000c

※ 「わら天神宮」敷地神社HP http://waratenjin.com/
ウィキペディアー敷地神社 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%B7%E5%9C%B0%E7%A5%9E%E7%A4%BE

  (2024.3.8.)

☆ 北野天満宮(京都市上京区)参拝3
1.烏丸線「今出川」駅より「千本今出川」交差点、浄土院、「上七軒」交差点。わかりにくい京都市地下鉄烏丸線の駅名。京都で下宿すると安いと曲解している連中。「女性社員の尻を『次はこういう撫で方したらどないでっか』と言いなさい」と言う父親は「いいお父さん」か? そういう父親を「ものすごいすばらしいお父さん」と称賛する高校教諭は「ええ先生」か? https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/502287883.html
2.「上七軒通」交差点より、ゼロホーム展示場。「アタマが浜松」的一条工務店東京展示場は厳しかった。北野天満宮大鳥居、影向松、伴氏社、鳥居から楼門。「伴」「大伴」氏が藤原に斥けられた後に菅原道真の件が。藤原色がいくらか薄い天皇は「反藤原」ではなく「いくらか非藤原」を目指したか。藤原氏傍流は藤原北家に常に加担していなかったか。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/502306592.html
3.楼門の延長には文子天満宮。三光門。太鼓橋と紅梅殿。秀頼による北野天満宮造営は豊臣の財力を消費させるためだったのか。「学業成就・合格祈願の神様」は「あとづけ」で冤罪を晴らす神・怨念を晴らす神が本来であろう。模擬試験の「判定」に「人事を尽くして天命を待て」という文言は余計。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/502321338.html
4.三光門。大宰府にたどりついた梅に対し摂津で力尽きた松。紅梅と白梅。「闘うきみの歌を闘わないやつが笑うだろう」の中島みゆき はいいとして、自分は人生・生活において犠牲になってないのに「犠牲の精神を教えたい」とぬかす川相は許せん。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/502330050.html
5.三光門から拝殿・幣殿・本殿・西回廊・東回廊。本殿の背後の御后三柱。拝殿前の梅と松。社殿の東面には思い入れ。「京のぶぶづけ」の話を「大阪の人間は」と言うアホ慶大生。「ぶぶづけでもどないだすう」と言われても帰らないであろうバカ慶大生。管理費は入居者を管理するための費用と考えていた日吉台学生ハイツの管理者。元自衛隊は「企業からの問い合わせ」に何言いよるやらわからん。自衛隊に武器を持たせて大丈夫か? 母と一緒に巡った京都の社寺と「とってちってたあ」にされた息子の末路。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/502336739.html
6.本殿後ろの「十二社」の橘逸勢社・藤太夫社・文太夫社・淳仁天皇社。崇徳院が白峰神宮で早良親王が崇道神社。上御霊神社・下御霊神社の祭神と「十二社」の祭神で共通する人が何人か。狭山事件に関して署名を求める人は強制はしないでもらいたい。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/502348932.html
7.本殿後ろの「十二社」の太宰少弐社・櫻葉社・吉備大臣社・崇道天皇社。長屋と戸建の老松社。地主神社相殿の敦美親王・齊世親王・源英明。北門と西陣名技碑・松本伍作氏顕彰碑。自分がやったことを相手がやるだろうという思考を持つ場合はある。自分も黄色人種なのにアメリカ合衆国に行ってワスプになったつもりで「けったいなやつが多い」とか言うおっさん。「心理学」は怖い。https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/502356418.html
8.平野神社。中門・拝殿・本殿。平野通・西大路通。クスノキは舟に使え。「本当はもっと売れるのだけれど、わざと売らないようにしてるの」という営業は「本当にもっと」売ればいいじゃん https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/502364358.html
● わら天神・敷地神社 三部作
9.わら天神(敷地神社)【上】鳥居から西進し北に曲がった正面に社殿。北山の神と穂穂手見命の母の木花佐久夜毘売。ブス建築は耐久性があると奇妙なことを教える営業本部長 https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/502384324.html
10.わら天神(敷地神社)【中】本殿、綾杉明神、大山祇神社。高耐久性ブス建築は魅力的か?「言い方にもよる」ということを理解できない一条浜松流本舗。勝ちは静岡県愛知県の者の勝ち・負けは東京都神奈川県の者の負けとしたがる一条オリジナル遠州人。木質系建築業の不良経営者を懲らしめる神・大山祇神 〔今回〕
11.わら天神(敷地神社)【下】六勝神社・八幡社。他社と他社従業員との労働契約に不当な口出し介入する現 三菱UFJリサーチ&コンサルティング。後進国の外資系企業 (株)一条工務店。父親がある人間は「父親がいなかった」娘より得しているとは限らない、ということも理解できないアホ高校教諭。無駄になった京都の街を歩いた子供の頃の経験https://sinharagutoku2212.seesaa.net/article/502436497.html 

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